2021年05月03日

沈黙野よ語れ 1

最近、4月にCSで小津安二郎監督『東京物語』(1953)と山田洋次監督『東京家族』(2013)を2週にわたって放送していたので、これを契機に、あるいは刺激を受けて、また考えているとかしっかり調べていないのだが、中間報告をすることにした。



いまから一年くらい前に出版された村上春樹『猫を棄てる』(文藝春秋2020)について、父親の戦争体験を軸に思うことがあって、昨年、このブログにも書いた。私自身の世代の父親が戦争でどういう体験をしたかではなく、体験そのものを沈黙して語らぬことが問題ではないか。この問題意識を私、あるいは多くの日本人は、村上春樹と共有しているのではないだろうか。村上氏の父親は戦争体験を語らなかったか、語ってもごくわずかであった。

もちろん一般論として出征した兵士たちは、戦争体験を語りたがらない。おそらく想像を絶する過酷な体験であっただろうし、楽しい経験もあったかもしれないが、それよりも思い出したくないことのほうが多くて、それに圧倒されて、たとえ聞かれても口をつぐむのは、よくわかる。どの国でも、戦争に勝ったとか負けたということに関係なく、戦争から生還した者たちは、戦争体験を語りたがらないようだ。

そのため出征した父親が戦争体験について沈黙をつらぬくのは理解できないわけではないが、しかし、ことは、日本軍が中国で行なった残虐行為に関係することである。過去の一定期間が空白あるいは虚偽の情報で埋められているとき、現在そのものが希薄になりかねない。沈黙あるいは虚偽によって支えられて虚妄の現在を、私たちは押しつけられたくない。

もっと言えば、黙っていれば、それで話題になることもなく、人びとの記憶からも消えてなくなり、真実も闇の中に葬られ、誰も責任をとわれることなく、安泰の日々が訪れるとでも思っているのだろうか。またもっとたちのわるいことに、なにもなかったと封印するだけでなく、ありもしない作り話をでっていあげて、過去を修正し美化することすらおこなわれている以上、これは放置できないゆゆしき問題である。

もちろん戦争の思い出は語られてはいる。中国における日本軍の残虐行為が強調されるが、実際には、中国人民とは友好な関係を築いていたと語る出征兵士たちはいる。自分の祖父からは、出征した時の思い出として、中国人と仲良くしていたことを聞かされたという学生もいた(その学生は、私がこれまで専任教員としてつとめていた大学の学生ではなかった)。【ちなみに私の祖父は、戦争には行っていない。母方の祖父は江戸時代生まれで昭和のはじめに亡くなっていた。父方の祖父も、戦前に亡くなっていたと思う。】

学生が語ったような話は、実は、よく聞く。それが意図的に捏造された回想だったら許しがたいが、おそらく嘘偽りのない体験なのだろう。そうした話を日本軍の残虐行為を隠蔽すべく右翼勢力は、よく引き合いにだすが、しかし、植民地化する日本軍の暴力支配を前に、友好的に接しなければ命がないときに、出迎える庶民の笑顔を本心からのものと信ずるのは愚劣な人間だろう。「鬼が来る」と恐れられていた日本軍に対しては、命がけで抵抗するのがむつかしい場合に、友好的に接するしかなかったはずだ。

もちろん日本軍の残虐行為を赤裸々に語る勇気ある証言も残っている。しかし、貴重なこうした証言は数が少ないのも事実。悲惨な残虐行為の被害者であっても加害者であっても、それは語りたくないことだろう。ましてや加害者の側だったら、なおのこと語りたくないだろう。

友好的な中国人とのふれあいを満喫した日本軍兵士。そして中国人を虫けらのように惨殺したか、惨殺されてゆく中国人を見ていた日本人兵士。バラ色の記録と暗黒の記憶。その両極端のあいだに広がる沈黙野。

米山公哲著『沈黙野』という小説を読んで、病巣があっても症状が出ない脳の部分を沈黙野と呼ぶことを初めて知ったが、それとは意味は違うし、またメタファーとしても、意味がずれるとは思うのだが、記憶として残っているのはわかっていても、語ろうとしない大部分の戦争体験者たちの群れを、私は「沈黙野」と呼びたい。そしてこの「沈黙野」を抱えているかぎり、私たちの現在は希薄なままだし、ことによると、この「沈黙野」現象は、現在の日本人をむしばむ病巣かもしれないとすら思えてくる。もちろん沈黙しているのだから、病気とは認定されることはないのだが、それを脳外科医さながら、病巣であると特定することも私たちの責務ではないかと思っている。

父よ語れ、記憶よ語れ。

【ちなみに、私の父親、出生してもおかしくない年齢だったが、戦争に行っていないので、父から戦争体験を聞いたことはない。戦争に行かなかった理由は、私としては納得できるものだった。前にも書いたが、父がトリックスター的に徴兵を免れ逃げ回っていた非国民だったら、息子としてはほんとうに父のことを誇らしく思ったのだが(悪と不正の体制に忠誠を誓うのは悪と不正の徒になりさがることだから、たとえ非国民といわれてようと徹底して抵抗していたら、私は父をほんとうに尊敬していただろうが)、そうしたことはなかった。むしろ父にとっては、戦後の混乱期のほうがつらかったようで、その頃のことについて父は饒舌だった。】

村上春樹の『猫を棄てる』以外に、父親が戦争体験を語らなかったことをめぐる悲哀あるいは怒りにも似た感情を語る本として思い出すのは、辺見庸『完全版1★9★3★7』(上・下、角川文庫2016)である。

中国に出征した父親が語りたがらない戦争体験を契機に、戦前というか、すでに戦争状態にあった日本の文化と現在にも通ずる日本人の心性を、身を切るような思いで徹底的に腑分けする歴史評論でありカルチュラル・スタディーズであり批評であり自伝(父親との関係をめぐる)でもあり、現在の日本に対するこれ以上はないと思われる鋭い警世の書でもある本書は、何度読み直しても得るところは多く、悲しみと絶望そして怒りがこみあげてくるのを禁じ得ない。そのなかに著者が小津安二郎の映画について語っているところがある。

実は村上春樹『猫を棄てる』でも映画好きの父親と息子は戦後、ともに映画館で過ごすことが多く、それが父と息子の精神的交流を実現していたのだが(実際、村上父子は、一時的に不和状態を経験したようだが、基本的に仲のよい父と子であるように思われる)、いっぽう辺見庸も戦後父と映画館ですごすことが多かったものの、父親が好きだった小津映画を辺見庸少年は、うんざりしながら見ていたようだ。もちろん小津映画が人気を博していた当時、それは万人向けのホームドラマの娯楽映画であって辺見少年にとっては、唾棄すべきものであっただろうし、また中国での自分の行為を正当化もせず弁解もせず、ただ沈黙して忘れ去ろうとするだけの父親が、熱心に楽しんでいるという理由からも、小津映画など唾棄すべきものであった。

もちろん辺見庸は「ゴダールやアッバス・キアロスタミやヴィム・ヴェンダース、候孝賢らの外国映画も小津作品をたかく評価し敬愛している」(上229)ことは承知している。しかし著者は、小津映画の静謐さあるいは芸術性そのものに、戦前から戦後にかけての日本人の心性――真実から眼をそむけるだけでなく真実をねじ曲げながら、あるいは何ごともなかったようにとりすまして泰然自若とする卑怯な下劣さ――を見ている。日本人の静謐な仮面の下にある、残酷さと傲慢さと狂気。それと同じものが小津映画にはあると著者は、考えている。

中国での残虐行為の対極に位置するような小津映画のなかに、残虐行為と同じものを見抜く著者の筆鋒は、まさに開けてはならない「パンドラ」の箱をこじあける(文庫版の帯の惹句)鋭さをもっている。当然のことながら著者は小津映画のファンではないし、そのほとんどを見ていないときちんと断っている。

ただ、注目すべきは、著者が小津映画と戦中の中国とのつながりを見出したことである。著者は、小津が中国の戦場で書いた映画用の覚書きのなかから次の記述を発見する――

▲志那の老婆が部隊長のところに来て云ふ〈自分の娘が日本のあなたの部下に姦された〉部隊長〈何か証拠でもあるのか〉老婆 布を差し出す。
〈全員集合〉部隊長は一同を集めて布を出し〈この布に見覚えはあるか〉〈ありません〉〈次〉〈ありません〉一人づゝ聞いてまわる。最後の一人まで聞きおわると静(ママ)に老婆に歩みより〈この部隊には御覧の通りいない〉老婆 頷く。
抜き打ちに老婆を切り捨てる。おもむろに刀を拭ひ鞘に納める。全員に分れ。
(上・229)


これは小津が中国で書いた「撮影に就いての《ノオト》」の一部で、田中眞澄『小津安二郎と戦争』(みすず書房)のII「小津八頭次郎陣中日誌」に収録されているとのこと。

当時の皇軍の得体の知れなさ、歴然たる狂気と不条理を鋭く分析したあと、著者はこうつづける

『小津安二郎と戦争』の著者、田中眞澄氏の解説によれば、「撮影に就いての《ノオト》」は「将来の映画づくりの参考にすべきネタ帳である。一兵士としての小津が戦線で採集したエピソードの数々で、実際の見聞を書きとめたのだろう」とし、部隊長が老婆を斬りすてる一場面は「このネタ帳の性質からいってフィクションではありえず、当時の日本兵の行状の一端が、ここで否応なしの事実として記録されてしまった」と指摘している。そのことにわたしはおどろかない。きっとそうなのだろうとおもう。もんだいはこのとき、小津の位置がどこにあったか、である。上・231


ただ小津が実際に目にしたから聞いたかはわからないにしても、このメモは、当時は、絶対に知られてはならなかっただろうし(「皇軍は、中国の娘を凌辱することはなかったし、また訴えてきた母親を切り捨てることもしなかった、そもそも皇軍は中国を侵略などしていなかったし、戦争などなかった、兵士もいなかった……」という、ユダヤ人のヤカンの論理と同じものは、昔も今も日本にははびこっている)、戦後になって、いくら戦中の軍国主義批判が盛んになっても、さすがにこのメモにのっとった映画なり映画的断片をつくることは人気監督であるだけに、絶対にできなかっただろう。

もちろん著者の批判は、残虐行為を前にしても、道徳的な憤りをおぼえたり、残虐と狂気に恐怖したりするのではなく、美的に(ただし倫理性なき美は世紀末的頽廃美なのだが)に刺激的であれば、その面白さに酔いしれる映画監督の腐った(現代の日本人にも通じる)心性を批判しているのだが、それはまた現代のメディア批判ともなっている。政権や電通やジャニーズや吉本への批判は、なさけないほどのメディアの弱腰(あるいは無視をきめこむ姿勢)と、美的・映像的・ドラマ的な強度に敏感で倫理的政治性をすべて捨象するメディアの姿勢とが同じものの両面であることを小津の映画的メモと映画監督的心性から洞察しているのである。

しかし、せっかくの映画メモである。監督小津安二郎は、これをヒントに映画をつくらなかったのだろうか。もちろん、そのままでは、前衛的な不条理映画あるいは左翼的軍人批判となって、おそらく左右どちらからも批判されていたと思うので、そのままではもちろんなく、変形と翻案がなされるのだが、この小津メモを読んで、何か思い浮かべないだろうか。

著者の辺見庸氏が小津映画を嫌いなのは(その理由は理解できるし、はからずも、その理由こそが、小津映画の特質をどんな批評家よりも鋭くつくものとなっているのだが)、かえすがえすも残念ではある。もし小津映画をよく知っていれば、おそらく私よりも、はるかに鋭い分析を実践されていたと思うのだが、それはともかく、引用されたメモを読むと、おぼろげながら映画の輪郭がみえてくる。

しかも、おぼろげだった輪郭が、だんだんはっきりしてくる。私にあはそれがみえてきた。そして少し震えた。これは――『東京物語』ではないか。

つづく
posted by ohashi at 20:02| エッセイ | 更新情報をチェックする