2021年04月28日

洗たくマグちゃん

〈洗たくマグちゃん〉どないなっとるねん。と、おいでやす小田のように叫びたくなった。

以下は、共同通信にユースからの抜粋。

「洗たくマグちゃん」根拠なし 消費者庁が再発防止命令 4/27(火) 17:01共同通信配信

 消費者庁は27日、洗濯補助用品「洗たくマグちゃん」を洗濯機に入れると、マグネシウムの効果で洗剤や柔軟剤を使わずに洗濯できると表示したのは根拠がなく、景品表示法違反に当たるとして、販売する「宮本製作所」(茨城県)に再発防止などを命じた。対象は布製の袋に粒状のマグネシウムが入っている商品で、他に「ベビーマグちゃん」と「ランドリーマグちゃん」も含まれる


え、ええ! 私は洗たくマグちゃんを購入してもっている。まだ未開封の袋を目の前にしてこの記事を書いている。

宮本製作所は包装や自社ウェブサイト上で、商品を洗濯機に入れると「水道水がアルカリイオン水に変わる」「洗浄力は洗剤と同等」「除菌効果は99%以上」などのほか、部屋干し臭も防ぐとうたっていた。

袋にある売り文句は「消臭+洗浄+除菌」とか「部屋干しのイヤな臭いをスッキリ解消!」とか「洗濯物と一緒に入れるだけで選択力アップ」とか、「大腸菌の抑制」「皮膚汚れの分解力アップ」そして「300回以上(約一年間)のご使用後は不燃物として処理していただくか、肥料と同じようにお庭の鉢の植物などにマグネシウムの粒を与えて下さい」とある。いいことづくめの「洗たくマグちゃん」。偽物だったとは!

ネット上では、以前から、「洗たくマグちゃん」効果なしという使用者からの声もあがっていたが、同時に、効果ありという報告も多く寄せられていたのだが、こちらのほうはフジテレビの女子アナみたいな投稿者だったのだろうか。

Amazonで調べたら、べらぼうに高いわけではないが、けっこう高い。ただし私はAmazonで購入したわけではないのだが。手持ちの洗剤がなくなったら(けっこう多くて、当分なくなりそうもないのだが)、洗たくマグちゃんに変えようと本気で思っていたのだが。

完全に詐欺だったのか、あるいは効果については科学的根拠はまったくなかったのだろうか。さらなる検証があることを望みたい。
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2021年04月26日

七転び八起き

英語で「七転び八起き」というのはどういうのだろうという疑問は愚問である。実際には、そういう質問に答えているサイトがあって、笑ってしまうのだが、同じ表現が英語にあるかどうかということなら、そういう表現はない、と答えるしかない。類似の内容の表現はあるかといえば、まあ、どの言語や文化にも同様の表現はあるだろう。英語には、類似の表現なり諺なり成句があると紹介しているサイトがある。しかし、同様の表現なら、とくに英語に詳しくなくても、たとえば“Never give up”という表現くらい思いつくだろう。「七転び八起き」というのは命令文ではないが、“Never give up”と同じ意味だといっても、まちがいはないだろう。

ところが「七転び八起き」が、英語表現に取り入れられ初めて、将来、類似表現ではなく、それの直訳が使われるかもしれない、いやひょっとしてもう直訳が使われているのかもしれない。「七転び八起き」を英語でいうと、こうだと類似表現を掲載しているサイトは修正すべきである。「七転び八起き」の直訳はあるのだ。

『私立探偵マグナム』というと、私のような老人にとって、アメリカでは1980年から放送され、日本でも1984年から放送された、トム・セレック主演のシリーズを思い浮かべてしまう。いまトム・セレックは『ブルー・ブラッド』で大御所感をこれみよがしに発散しているが、トム・セレックのマグナムは、たとえ髭をはやしていてもスマートな軽妙さを存分に発散していて、当時、人気の絶頂にあったのもうなずけた。

当時、日本にいていわからなかったのは、『マグナム』が『ハワイ5-0』の後釜として放送されたことだが、『ハワイ5-0』は日本では私が子どもの頃みただけで、その後は放送されていなかったので、その存在をすっかり忘れていた。『マグナム』もハワイが舞台だったので、関連に気づいてもよかったのが、1984年当時『ハワイ5-0』はヴェンチャーズの音楽とともに、子どもの頃に消え失せた存在だった。

『私立探偵マグナム』のリブート版が2018年からアメリカで放送されていて、日本でもBSかCSで放送さたのだが、そのシーズン2(現在アメリカではシーズン3まで放送)がAXNジャパンで放送されることになり、最近、シーズン2開始前に、シーズン1を一挙再放送した。熱心なファンではないので、ときどきぼんやりと見ていたのだが、シーズン1の終りのほうのエピソードで、ジェイ・ヘルナンデス演ずるマグナムの(正式ではないが、実質的な)パートナーともいえるジュリエット・ヒギンズ(パーディタ・ウィークスが演じている)が「七転び八起き」の話をするので驚いた。

【余談だが、イギリスの女優パーディタ・ウィークスの出演映画を私はみたことがあるはずだが、彼女の存在は認知していない。ただ「パーディタ」という名前があることにすくなからず驚いた。ハーマイオニーといい、パーディタといい、一般的な名前というよりも、シェイクスピア劇にしか出てこない名前だが、彼女たちが現実にいると思うと不思議な感じがする】

べつのことをしながら字幕版をみていたので、英語表現ははっきり聞いていない。たぶん“Fall down seven times, get up eight”ではなかったか。WikipediaのJapanese proverbsという項目にも、調べてみると、この「七転び八起き」が紹介されていて、そこでは“Fall seven times, stand up eight”と表記されている。たぶんこうした英語で紹介されているのだろう。これがわかったのも『マグナム』のリブート版のおかげなのだが、驚きはそれだけではなかった。

ジュリエット/パーディタ・ウィークスから「七転び八起き」の話を聞かされたマグナム/ジェイ・ヘルナンデスは、七回倒れたら、七回起き上がるのであって、なぜ八回なのだと問いかける。倒れた回数と、起き上がった回数は同じではないか。なぜ八回なのだ、と。

たしかにマグナムのいうように、転んだ回数と起き上がる回数は同じはずで、なぜ起き上がる回数が一回多いのだ。「二泊三日」という表現があるが、これは移動する日数は泊まる回数よりも自動的にひとつ多くなる。こういう必然的というか機械的法則が「転ぶ」と「起きる」の関係にあるのだろうか。マグナムはエピソードの最後まで、この数字にこだわっていて、やっぱり八回はおかしいとジュリエットに伝えている。

ひとつの有力な考え方、それもあまり合理的ではない考え方というのは、七回倒れたり、転んでも、一回余分に起き上がるくらいに、resilienceが強いというか、resilienceの意欲に満ち満ちているというような、意味としてはナンセンスだが、そのナンセンスぶりがnever-give-up精神の強調表現になっているということもいえる。

シェイクスピアの『お気に召すまま』にあるフレーズに「永遠と一日Eternity and a day」というのがある。永遠は有限なものではないので、そこに何かを加えたり削ることなどできないのだが、それでも永遠に一日を足すことで、永遠よりもさらに長い期間という、ナンセンスだが、なんとなくわからないわけではないことをいわんとしているのではないか。この七回倒れて七回起きるだけなく、よぶんに八回起きてしまうというところに、ナンセンスだが、復元力・回復力のすごさの強調とみなすことができる。

英語のサイトでは、これを日本の諺だとしているのが、もちろん、こういう諺の例にもれず、これは中国から入ってきたものである。ただ、その正確な出典がわからないみたいなのだが、中国では「八」というのは縁起の良い数であって(「七」もそうだという説もある)、「八回起きる」という表現で、縁起のよさ、神聖なもの、奇跡的なものという意味を付与して、起き上がることの意義なり重要性なりを強調しているともいえる。まあ、そんなところのなのかもしれないが、もちろん合理的な説明もできる。

そもそも転んだり倒れたりするには、立っていなければならない。寝転んでいたり、横になっていては(つまり立っていないのなら)、転んだり倒れたりできない。だから最初は立っている。あるいは立ち上がる。英語でもrise and fallというように、先ず立ち上がる。人間はほかの哺乳類とちがって生まれてすぐに直立歩行できない。成長して立ち上がる。人間には、立ち上がること、一人前になるとか成人になることが、大きな目標となる。あるいは成功すると考えてもいい。問題は、せっかく一人前になって立ち上がったとしても、あるいは努力とか運によって成功に恵まれたとしても、次の瞬間、倒れたり転んだりする不幸がまちかまえている。あるいは立ちあがることによって、それまでなかった、転んだり倒れたりする可能性が同時に発生するということもできる。こうして、立ち上がる人間は、必ず倒れる。しかし、倒れてもまた起き上がるという気概を失ってはならない。

こう考えれば、rise and fall――「起き上がる」というと「転んだ」が前提となっているようだが、「起」は成長して立ち上がるという意味も含まれるのだから、物語は、あるいは悲劇は、立ち上がった(成長した、成功した)ところから始まる。つぎに襲ってくる、怒濤の転び。だが何度転んでも立ち上がる。このとき立っている回数と転んだ回数では、最初に立っているのだから、立っている回数が転んだ回数よりもひとつ多い。七回転んでも、それで立ち上がったら、最初に立ち上がった/成長した過程を数えれば八回立っていることになる。

と、まあ私はそんなふうに考えている。
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2021年04月14日

『やけたトタン屋根の猫』

4月12日の記事で触れた、ある学会のパネルディスカッションで、私以外のすべてのパネラーが、既婚者であることを、聞かれもしないのに語ったことに、同性愛を話題としたり研究したりしても、自分は同性愛者ではないことを示唆するという、姑息なホモフォビア言説の存在を私は指摘した。

そのパネラーは、自分たち夫婦のように、子どものいない夫婦は、資本主義社会では、再生産の手段とならないために、無意味な存在だと語ったのである。まあ、それはそうだが、子どものいない夫婦でも、資本主義に貢献することはじゅうぶんにあると思うのだが、それはさておき、子どものいない夫婦のもつimplicationというのはある。テネシー・ウィリアムズの『やけたトタン屋根の猫』のように――と指摘しようと思ったが、テネシー・ウィリアムズの作品としては『欲望という名の電車』にならぶ人気と評価を誇るものの、日本での知名度はないので、混乱を招くだけだろうから、やめた。

『やけたトタン屋根の猫』は映画化もされたのだから知名度は高いかもしれないものの、この映画からは同性愛のテーマは削りとられている。また『欲望という名の電車』のスターがヴィヴィアン・リーとマーロン・ブランドのコンビなら、『熱いトタン屋根の猫』(←日本での映画タイトル)のスターは第二のヴィヴィアン・リーかもしれないエリザベス・テイラーと、第二のマーロン・ブランドであったポール・ニューマンのコンビで、「第二」感が否めないのも事実。そして同性愛問題の扱い。

では私が、『やけたトタン屋根の猫』を例にあげて、何を言わんとして言わなかったのかというと、そこに登場するブリックとマギーの夫婦は、子どもがいないだけではなく、性交渉もないことが周囲にも知られており、また妻のマギーも、そのことを気にしているのだが、子どもがいないだけならばまだしも、性交渉もないとなると、そして妻の方は夫の親密な関係をたえず模索していることなると、この場合、夫はゲイである可能性が高い。

現実の、そうした夫婦がすべてそうだということではなく、あくまでも文化的・文学的表象のレヴェルの話である。また現実においても、ゲイであることを隠蔽するために結婚することは多く、そうした偽装結婚夫婦は、異性との性交渉には関心がないばかりか嫌悪感をも抱いていることもある。そのため当然、子どももいない。子どものいない夫婦とは、文化的文学的表象レヴェルにおいて、夫はゲイである。

みずから子どもがいない夫婦であることを、聞かれもしないのに告白したパネラーの男は、実は、たとえヘテロでもゲイ男性と誤解されるかもしれない可能性に気づきもしなかったのである。

あるいは、ゲイ男性と誤解されて同性愛者と連帯する可能性をみずから排除した――「私たち夫婦には子どもはいません、そのため私などゲイ男性と誤解されることがなきにしもあらずです、この同性愛者とみられる可能性をもつことで、自分のなかに同性愛的欲望があるかのように思えてくることもあります、たとえ私は妻を愛しているとしても、同時に、同性愛者、あるいは両性愛者になったような気持ちにもなるのです……」というくらいのことは話してもいい。

だか、おそらくこの馬鹿男は、こうしたことだけは絶対に口にしたくなかったのだろう。こうしてゲイ男性を、この馬鹿男は二度殺したのである。一度目は、みずからが結婚していることを、聞かれもないことで話し、同性愛者への嫌悪感/恐怖感を暗示的ににおわせることで。そして二度目は、子どものいない夫婦であるがゆえにゲイ男性と誤解されるかもしれない可能性を考慮せず、その誤解から生ずるゲイ男性との連帯の可能性を排除したがゆえに。

『やけたトタン屋根の猫』は、映画版でもオリジナルの劇場版でも、ブリックとマギー夫妻の性交渉のなさが前半の関心事となる。だが、その原因が、映画版では、妻のマギーが夫を裏切り、夫の友人スキッパーと寝たと夫ブリックが思い込んでいて、不貞の妻を許せないからセックスもしないという設定になっている。だがオリジナルの劇場版では、夫が妻とセックスしないのは、妻の裏切り(と誤解していたもの)を許せなかった事もあるが、それ以上に、同性愛的欲望が強かったということになっている。

つまり劇場版でのホモセクシュアル関係を、映画版ではホモソーシャル関係に変えたのである。

映画版では、マギーは、ブリックとスキッパーの友情にひびを入れる悪女である。あるいはマギーという女性を求めてブリックとスキッパーという男性が争う三角関係が成立する。いっぽう劇場版では、ブリックの愛をもとめてマギーとスキッパーが争いあうという三角関係が成立する。前者がホモソーシャル関係、後者がホモセクシュアル関係。スキッパーの自殺は、ブリックがマギーと結婚したことに起因するのかもしれない。ほんとうの裏切り者は、スキッパーへの愛(同性愛)に気づくことなく、異性との結婚を選んだブリックなのである。

これは夏目漱石の『こころ』における、「先生」が東大生であった頃の惨劇と同じ構造をしている。東大生だった頃の「先生」とその友人は、下宿屋のお嬢さんをめぐってライバル関係にある(ホモソーシャルの三角関係)にみえるが、実は、その友人は同性愛者で、東大生だった「先生」への愛をめぐって下宿屋のお嬢さんとライバル関係にあったとも考えられる。ホモソーシャルの三角関係にぴったり重なり合いながら、その関係性を異性愛から同性愛へと変えてしまうホモセクシュアルの三角関係。その帰結を、『猫』は、当事者の同性愛パニックというかたちでさらに追求している。つまりブリックは、スキッパーとの関係をあくまでも友情ととらえ、同性愛とはみてない。同性愛の存在をかたくなに拒むのである。そしてスキッパーの自殺と、妻が不貞をはたらいていなかったことを知るに及んで、いよいよ自分の同性愛的性格に直面することになり、もはや立ち直れなくなる。

映画版にある印象的な場面は、ブリックの父親(ビッグダディと呼ばれている)が、メンダシティmendacity(虚偽とか偽りを意味するこのmendacityという単語は、この劇を見たり読んだりする者が確実時に覚えるようなり、また絶対に忘れることのない単語でもある)に耐えられないと語る息子ブリックに対して、お前はメンダシティに耐えられないのではない、お前自身がメンダシティそのものなのだと語るところである――とはいえ、この台詞は劇場版のほうにこそふさわしいのだが。

つまり劇場版ではブリックは自身の同性愛に気づいていないか、目を閉ざしているのであって、そんな人間は、よく「メンダシティ」に耐えられないとほざくかと観客は思う。おのれが歩く「メンダシティ」ではないか、と。

劇場版では、このビッグダディは、若い頃、下働きから努力の末に、大農場と大邸宅を受け継ぎ、いまの地位に上り詰めたのだが、大農場は、もとは二人の男性によって共同運営されており、この二人はゲイだったといわれているのだ。ふたりのうち一人が死んだとき、若き日のビッグダディはその後釜に座る。彼自身もまたゲイあるいはバイセクシュアルだった可能性もある。また、ビッグダディが、早々と結婚して子どもを五人ももうけている長男ではなく、子どものいないゲイの次男のほうを偏愛するのも、ビッグダディその人がゲイであったという可能性がある。ゲイの父親がゲイの次男を愛する(アン・リー監督の『ウェディング・バンケット』(1993)も同様な関係を扱っていた)。

映画版では、こうした要素はきれいさっぱりと拭いさられ、ビッグダディは、ゲイのカップルが運営してた大農場の後を継ぐのではなく、裸一貫でいまの企業帝国をこしらえたとされる。自らの人生を振り返って、虚飾と迷妄から醒めたかのようなビッグダディと、妻のことを誤解したいたことを悟ったブリックとが、強欲な長男夫妻の詐欺的な遺産相続手続きを退ける。しかし強欲ぶりを非難された長男も、また父親への愛に目覚めるというかたちで、この一家は絆をあらためて強めることになる。メグは自分の子どもができたと嘘をつくが、メグへの誤解がとけたブリックは、おそらく妻とベッドをともにし、遠からず、ほんとうに子どもをつくるだろう、そして末期がんで死にゆく父親を安心させるだろうと思わせて映画は終わる。

ビッグダディの誕生日を祝って集まった家族という、ある意味、カジュアルで明るく悩み事などない裕福な家族という設定が、つねにとんでもない緊張関係をはらみ、映画は最初から最後まで劇的緊張と衝突でつらぬかれているが、それでいて、芝居臭さを感じさせないところはみごとというほかはない。さらにいえば劇場版における同性愛と同時に大きなテーマである虚偽と真実の対立も、映画ではきちんと提示されて、演劇性や思想性ともに、高いレヴェルを維持している。だから劇場版に劣らず優れた作品である。

もちろん映画をみた感想としては、オリジナルの劇場版にあった同性愛問題は、どうなっとるんじゃ~と、おいでやす小田みたいに大声で毒づきたくもなることも事実。

だが『セルロイド・クローゼット』が示しているように、ハリウッド映画は、同性愛的要素を隠して消去してしまうのではなく、気づかせないようにしつつも、わかる人にはわかるように、温存している。カムフラージュしているといってもいい。この映画は、劇場版にあるような同性愛問題ではなく、家族問題にテーマを振り切ったかにみえて、同性愛性を随所ににおわせている――同性愛は抑圧されているのではなく、すぐにはわからないように表に堂々と出ている。

いいかたを変えると、さすがに劇場版におけるエクスプリシットなゲイ関係は映画では表象しにくい。そのため陽動作戦というか目眩ましというか安全弁というべきものを用意した。同性愛関係から、妻の不倫とか妻への嫉妬という異性愛関係への移行。さらにテーマも異性愛か同性愛かという緊迫した選択問題ではなく、失われた、あるいは危機的状態にある家族の絆の復活へと変わったのである。

たとえば、劇場版でも映画版でも同じだが、読んでいると印象に残らないのがブリックの足の悪さである。怪我をして松葉杖で移動している彼の姿が視覚的に強烈である。そのためブリックの存在感をいやが上にも高めているのだが、同時に、足が悪いことは、現実に足に障害をかかえている人がそうであるということではなく、文学・演劇表象においてはという保留がつくが、一般的に同性愛者を意味する。ゲイ作家であったサマセット・モームの自伝的小説『人間の絆』の主人公は足に先天的な障害を負っていた。足が悪いことは、この小説における隠れた同性愛的要素となっていた。

先に映画版ではブリックとスキッパーの関係は男性どうしの友情関係となっていると述べたが、これもまた、同性愛的関係の暗号であって、ホモソーシャル関係は、ホモセクシュアル関係を排除するのではく、ホモセクシュアル関係をまぎれこませることもできる。ホモソーシャルは、ホモセクシュアルのカムフラージュともなるのだ。

つづく
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2021年04月12日

『パティ・ディプーサ』 2

ドラッグ・クイーン言説と呼吸と同じホモフォビア

前回の『パティ・ディプーサ』の記事で、翻訳者が、ペドロ・アルモドバルがゲイで、腹話術的に女性の主人公に憑依して語っていることをまったく理解しないまま、自然な女性の語り口を翻訳で再現しようとして、翻訳者の「女房」に助けを借りたことをふれ、腹話術的な、あるいがドラッグ・クイーン的な語り口は、むしろ不自然なところがあったほうがいいということを述べた。これについて補足を。

またもう一つ、「女房」に関連して、翻訳者は、たぶんアルモドバルがゲイであることを知っているか、噂にでも聞いている。そのくらいは、翻訳者として知っていておかしくない。アルモドバルは積極的にカミングアウトしているから、知っていておかしくない..。となると「女房」話もホモフォビアとの関係から見るべきである。このことを指摘しおきたい。

作者アルモドバルがゲイ男性として、女性の主人公の一人称の語りで作品を構成しているということは、男性が女性の衣裳を着ている、つまり女装なのだが、ただ、ドラッグ・クイーンと異性装の違いは(ほんとうは違いなどないのかもしれないが、あるとして)、異性装が限りなく異性に近づこうとするのに対して、ドラッグ・クイーンの場合は、異性よりも変装とパフォーマンス性を重視することだろう。そしてそれは越境性を重視するというか、ジェンダーの壁と戯れることを意味する。

ジュディス・バトラーが『ジェンダー・トラブル』で触れていたように、ドラッグ・クイーンのパフォーマンスのなかでのぞまくしくないのは、女性とみまごうばかりのというか完全な女性化か、さもなけれrば、女装・女性化の無惨な失敗を喜劇的に誇張することである。後者は、たとえば喜劇などで、むくつけき男性オヤジが、どうみても女性にはみえない、ばればれの変装で笑いをとるようなことである。この場合、ジェンダーの壁は越えられないことが思い知らされるのであって、男女の違いは、強調されるばかりである。

これに対して、完全に、どうみても女性にしかみえないような変装は、男性も、やれば完璧に女性になれることになって、ジェンダーの壁などないことが証明されることになる。しかし、一見、これは斬新な、あるいは前衛的な視点であるかにみえて、男女の二極化を前提とする保守的な観点にすぎない。男女の二極化しかないところでは、いずれのジェンダーも、異性になることに失敗するか成功するかのいずれかでしかなく、その中間がない。

越境性というのは、境界の両側に位置するのではなく、境界の上を、中間地帯を歩くことである。また、どちからか一方の側にとらわれてしまうのではなく、両側を往復することである。そのためにも、完全に女性になりきることは、往復の可能性を消去することになり、望ましくない。

したがってドラッグ・クイーンは、どうみても男だけれども、また男であることはまちがえようがないが、しかし、ときとして女性以上に女性的にみえることもあるという二重性を実現することになる。二重性を生きると言ってもいい。

ジェンダーの壁は守られているが、同時に、破られてもいる。このことによって、ジェンダーの絶対性ではなくて、パフォーマンス性ということが異化的に強調されることになるのである。

アルモドバルの『パティ・ディプーサ』は語りあるいは言説レベルでこれを行なっている。主人公は女性である。決してゲイの男性ではない。ここが重要で、両性具有的ではない(たが描写の解釈にもよるが、彼女が男性的な特質をもっているのかもしれないと疑わせるところはあるし、性格的に男勝りの姉御でもあるのだが)、ジェンダー的に曖昧さがない純然たる女性であるがゆえに、ゲイ男性の語り手が、そこに自分を潜り込ませることのできる記号あるいは衣裳として機能が生まれるのである。

だから、むしろ男性の翻訳者の、ぎこちなくなるかもしれない語り口を残したほうが、ドラッグ・クイーン・ディスコースとしてのありようを意識させるという、通常の翻訳では望めない効果を生むことになったかもしれないのであって、この好機を、翻訳者は逃したということがいえるかもしれない。「女房」に、小説の一人称の女性の語り口を、女性の自然な語り口になおしてもらうことによって。

だが、翻訳者は、おそらく、これがゲイ男性の作者による腹話術的語りであることを知っているのだろうと思う。そのことを明言しないのは、作者がゲイであることを、マイナス情報とみなしているとしか思えない。私だったら、プラス情報として公言する。

もちろんゲイであることを隠している作者もいるだろうし、その場合、本人の意向に反して、その情報を公にすることは、むしろ犯罪に近いのだが、アルモドバルの場合、おおっぴらにカミングアウトしているのだから、その意向こそ尊重すべきであって、それをしないのはホモフォビアでしかない。

作者がゲイであることを隠す代わりに翻訳者が何をしたのかというと、「女房」との弓道作業の話を記したのである。これがホモフォビアでなくして何か。

その箇所をもう一度引用していおく――

ぼくが一気に一章分を訳すと、女房は、パティ・ディプーサの語り口が、女のことばとして不自然なところがないように、どんどん語尾を直し、リズムを整えてくれた。そしてそのあとで、声に出して読みながら、ふたりで腹をかかえて笑ったものだ。翻訳がいつもあんなふうに楽しければいいのになあ、といま思うのだが、これはたぶん一生のうちでもそうめったにないことだろうと思う。なにしろ、こんな楽しい小説が〔sic〕 めったにないのだから。


ちなみに、昔、ある文学関係の学会(私が所属している学会ではない)のパネルディスカッションに招かれて、パネラーとして参加したことがあった。そのとき、驚くべきことに、私以外のパネラーは、全員、自分が結婚していることを明言するかほのめかしたのである。私は、結婚しているとも結婚していないとも、なにも語らなかったし、べつにそのことを語らなくても、発表になんら支障も生じなかったからである。そもそも1名のパネラー(私のことだが)を除いた、残りのパネラー全員が、聞かれもしないのに、自分が結婚していることを発表のなかに盛り込むようなパネルディスカッションは、空前絶後である。

その学会のパネルディスカッションは、同性愛や同性愛文学に関係するテーマを議論する場であったので(学会そのものは、同性愛関連の学会ではなかった)、パネラーは、自分は同性愛文学や文化に関心があり研究しているが、同性愛者ではないことを、それとなく強調したのである。「私はヘテロであって、ホモではない」と、自分の結婚話とか結婚生活にふれて、それとなくほのめかしたのである――私は、そのホモフォビアに唖然とした。

似たような例として、たとえば日本の被差別部落の研究をしている人間が、自分のことをそうした被差別部落の出身と誤解されるのがいやで、「私は被差別部落の研究をしているが、被差別部落の出身ではない」ことをほのめかしたとしたら、あるいは明言したら、まちがわれるのが嫌だという差別意識があることの証左にほかならない。たしかにそうした研究をしていれば、被差別部落の出身者か関係者だと誤解されることはあろう。しかし誤解されてもいいのではないか。自分自身に差別意識がなく、また差別する側の人間を軽蔑しているのなら。

そして同性愛関連のパネルディスカッションで、聞かれもしないのに(ここが重要なのだが)、自分が結婚していることをそれとなく、しかし、まぎれもないようにほのめかすパネラーも、結局、同じような差別意識にとらわれているのではないか。

いや、被差別部落の差別と、同性愛差別は、異なるという議論はある。たとえば被差別部落を研究し、差別には徹底的に反対するが、自分は被差別部落出身ではないと公言する場合、差別との戦いに、関係者でなくとも参加しているという姿勢を明確にし、たんに関係者・身内の問題ではなく、それこそ人類全般に関わる普遍的な戦いとして差別と対決するのだという連帯の意思表明ということもあろう――もちろん、その場合、こうしたことを裏声やささやき越えではなく、大声ではっきりいうという場合にかぎるが。

これと同じで、結婚している異性愛者であっても同性愛には関心があること、異性愛者でも同性愛の問題に対して反発や嫌悪感をいだくどころか、強く惹かれることを明確に表明する場合もある――もちろん当時の私以外のパネラーは、自身の結婚のことを、ごくさりげなく、自然に、言及したのであって、そこになんらかのマニフェストなどこめられていようもなく、あるのは、「ホモを研究しているが私はホモではない、れっきとした異性愛者で結婚しているのだ、まちがえるな」、というホモフォビア以外しかなかったのだが。

被差別部落出身という話をもちだしたのは偶然ではない。部落出身か出身ではないかは、ユダヤ人かユダヤ人でないかと同様に、明確に線引きできる。非出身者、非ユダヤ人であることを明確にすることは、コンテクストにもよるが、差別意識か連帯意識かのいずれかであって、これは容易に判定できる。

ところが同性愛者と異性愛者の線引きはできない。つまり誰もが、異性愛者でも、同性愛的欲望をもっている。100パーセントの同性愛者、異性愛者というのはいない。そのため自分が「異性愛者」であることを明言することは、同性愛者を遠ざけることになる。自分のなかにある同性愛的欲望、あるいは同性愛者を否定することになる。これがホモフォビアでなくして何か? 連帯意識などではない。差別意識そのものにほかならない。誰もがユダヤ人ではないが、誰もが同性愛者なのである。

【なおラシーヌの悲劇『アタリー』を例に、ユダヤ人であることをカミングアウトすることと、同性愛者であることをカミングアウトすることとの似ているが異なることを議論したのがセジウィックの『クローゼットの認識論』である】

ただ、その時の私以外のパネラーが強い信念と意図をもって、姑息な異性愛宣言を行なったとは思わない。同性愛者とみられるのが嫌で(そうみられたっていいではないか。むしろそのほうが誇りではないか。A型の私がAB型の人間に見られたらうれしくはないか。そのとき私はA型ですとはっきりいうとすればAB型とみられるのを嫌っていることになる……)、自然と結婚話がでてしまったということだろう。もちろん、真相はどうであれ、愚劣な隠れ差別主義者であることはいうまでもない。

『パティ・ディプーサ』の翻訳者は、アルモドバルがゲイであることを知っていたと思うのだが、知らなかったかもしれない。しかし、たとえ知らなかったとしても、この翻訳作業に不穏なもの(同性愛的なもの)を察知して、「女房」話を訳者あとがきに挿入することになったとのだろう。

すべての翻訳家がそうしているわけではないだろうが、多くの翻訳者が、パートナーに訳したものをみてもらって助言をもらうようなことをおこなっているはずである(今回のように女性らしい言葉遣いになっているか確認してもらうことなど、日常茶飯事的におこなわれていることだろう)。だから、わざわざ訳者あとがきのなかで触れるまでもないことなのだ。しかし、あえて「女房」の存在にふれた。私は、こんなゲイっぽい作品を翻訳しているが、ホモじゃないぞ、あるいは女性の語り口を、とてもうまく訳していて読者は、私のことをオカマかと思うかもしれないが、これは「女房」にみてもらったからであって、オカマとまちがえるな、というメッセージがこめられているのである。

私が例にあげたパネラーも、この翻訳者も、(「息をするように嘘をつく」という表現をまねれば)、息をするようにホモフォビックな差別的言説を発信し、異性愛者としての自分を無意識のうちに強調していたのである。


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2021年04月08日

『パティ・ディプーサ』

このところメタフィクションを読むことになって、まだ読んでいなかったペドロ・アルモドバルの『パティ・ディプーサ』(1991)(水声社1992)を読んだ。

まあ、話は面白かったのだが、メタフィクションとしてみるとき、というかメタフィクションという観点に限れば、終りのほうで、作者(アルモドバル)が、主人公パティ・ディプーサと対話するところがあり、これがメタフィクション性ということになるのだろうか。

翻訳には、『パティ・ディプーサ』のほかに「世界的な映画監督になるためのアドバイス」が収録されていて、どちらも作者の自伝的要素がつよいと解説で述べられているのだが、デフォルメがきつすぎて、映画監督としてのこれまでの経歴あるいは日常をこれで推し量ることはできない(自伝的といえば日本でもコロナ禍のもとで公開された『ペイン・アンド・グローリー』をまだ見ていないのだが)。

ただ、この翻訳で気になったのは、翻訳出版が、アルモドバルの映画が紹介されはじめた時期のことで、『オール・アバウト・マイ・マザー』とか『トーク・トゥ・ハー』などの代表作はまだあらわれておらず、彼が「世界的な映画監督」になる前のことである。そのため訳者あとがきにおける、監督に対する情報が薄い。もちろん、どう訳者あとがきを書くかの規則などないので、これはこれでいいのだが、ただ、アルモドバルがゲイであることに一言も触れていない。

以前、このブログにも書いたように、英国の短編作家サキについて、ゲイであることに触れていない翻訳者の姿勢は、同性愛者差別にほかならない(「サキ」という語そのものが同性愛者を示唆していて、作家がカミングアウトをしていても、周囲が無視する典型例のひとつである)。ただ『パティ・ディプーサ』の翻訳者の場合、アルモドバルがゲイであることを知らなかったのかもしれない(もし知っていたら、それにふれない差別的姿勢は批判されてしかるべきなのだが)。日本版ウィキペディアにはアルモドバルが同性愛者であることを公言していると書かれている。そう公言しているものを無視するのは差別だが、翻訳出版の時点では、作者がゲイであることは知られていなかったのだろう。

ちなみにアルモドバルがゲイであることを私が知ったのは、アイルランドの作家コルム・トイビーンのエッセイ集Love in a Dark Age: Gay Lives from Wilde to Almodóvar(Picador,2001)だったのだが。

もちろん監督・作家がゲイであることと作品とは関係がないという場合がある。しかし、この『パティ・ディプーサ』の場合、それはあてはまらない。この小説のなかで、プロミスキュアスな性生活と性遍歴の日常を一人称で語るセクシー女優が、作者アルモドバルの分身、それもゲイ的欲望を体現した分身であることは随所からうかがえる。彼女は、アルモドバル自身と同化してアルモドバル自身の欲望の体現者になるといったほうがいいだろうか。

物語の中に、きわめて示唆的な出来事がある。パティがつきあっている年下の男性の母親が、その交際を嫌い、パティにむかい、あなたのようなゲイの男性と息子はつきあってほしくないというのである。パティは、これを聞いて激怒する。自分はれっきとした女性で、ゲイではない、と。実はこれはパティの年下の男性が母親にパティのことをゲイだと嘘をついたことからはじまる誤解なのだが、女優がゲイと思われてしまう設定は、彼女の存在あるいは容姿を決定的に男性、それも両性具有的なゲイ男性に近づけてしまうことだろう。

小説の最後の主人公と作者との対話のなかで、彼女は、アルモドバルに、自分は男か女かゲイかと問うている。アルモドバルは、彼女に、女であると答えている。この問答のなかにさりげなくすべりこまされた「ゲイ」という単語は、物語の主題を男女の異性愛に収斂しない主題群へと開いている。否認されるためとはいえ、同性愛的要素を出現させる。だが否認こそが、フロイト的観点からすれば、肯定なのである(「ぼくは悪いことなどしてない」と聞かれもしないのに言い出す子どもは悪いことをしているに決まっているし、「これはゲイ小説ではない」と語る小説は「ゲイ小説」なのである)。否定、あるいは否認によって存在が肯定されるのである。

「ゲイ」という言葉によって、ゲイ的欲望への回路が閉ざされつつ開かれる。そして読者もまた、この作品という絨毯の裏あるいは表の模様を想像することになる。主人公の女性の一人称の語りを男性作家が書いているという、とくに珍しくもない小説の約束事が、ここではにわかにゲイ的欲望の世界を出現させることになる。作家が同性の語り手と一体化するとき、たとえば男性作家が男性の主人公と一体化するとき、主人公の女性に対する異性愛的欲望を作家は共有することになる。これに対し男性作家が女性の主人公と一体化することは、女性の男性に対する欲望を、男性作家もまた共有することになる。女性の主人公が男性に魅力を感ずるとき、その欲望は、男性作家の男性に対する欲望と一体化している。つまり同性愛の実現である。

男性作家と女性の語り手との関係は、この小説では、主人公である女性=語り手のプロミスキュアスな性生活は、作家のそれのメタファーあるいは文字通りのものだろう。この意味で男性作家と女性人物は同一化している。彼女は、男性作家のドラッグ・クイーン的コスプレであるといえて、まさに男が女に変装する異性装のゲイである。

ところがまた男性作家は、女性の主人公の目をとおして男性みている。彼女の男性に対するヘテロな欲望が、男性作家にとっては同性である男性への欲望の基盤となる。その意味で、彼女はヘテロな女性でなくてはならない。パティ・ディプーサは、女性であり、断じてゲイデはないが、同時に、ゲイあるいはドラッグ・クイーンでもあるのだ。

その意味で、小品ながら、この小説は女性の一人称語りのなかに、ゲイ的欲望をすべりこませた、ゲイ文学の佳作といえるだろう。

ちなみに翻訳者は、訳者あとがきで、こう書いている

ぼくが一気に一章分を訳すと、女房は、パティ・ディプーサの語り口が、女のことばとして不自然なところがないように、どんどん語尾を直し、リズムを整えてくれた。そしてそのあとで、声に出して読みながら、ふたりで腹をかかえて笑ったものだ。翻訳がいつもあんなふうに楽しければいいのになあ、といま思うのだが、これはたぶん一生のうちでもそうめったにないことだろうと思う。なにしろ、こんな楽しい小説が〔sic〕 めったにないのだから。


と。そんなに楽しい小説でもないし、そんなに笑える小説でもない。ただ、翻訳者は、この小説のゲイ的要素あるいはクィア的要素を感づいてはいるのかもしれない。

ただ、それにしても一度訳したものを、「女房」(いまから30年前には、こういう表現がふつうだったとは思わないでほしい。1992年の時点でも、「女房」という表現は文章語としては違和感があった)にみてもらい、女性の自然な語り口になおしてもらったということだが、ふつうの小説なら、それでいいと思う【付記参照】。だが、よりにもよって、このゲイ小説にそうするとは。

スペイン語についてまったく無知な私なのだが、ただ他のヨーロッパの言語と同様、男言葉と女言葉の違いは、あっても、日本語ほど顕著ではないと思う。そしてイメージとして、あくまでもイメージとしだが、この小説の女性の主人公の語り口は、女になりすましている男の語りである(「お**言葉」である)。したがって、男性の翻訳者が女性の言葉づかいをむりに再現したような、どこか不自然なところを残しておいたほうが、この小説の語りの構造に合致する。それを、女性(ああ「女房」!)にみてもらって、自然な口調になおすとは!

翻訳者にはっきりいっておこう、あんたには、この小説を訳す資格も感性もないぞ、と。

付記
  私が中学生か高校生の頃に読んだ中央公論社版『世界の文学54――ドイツ名作集』(1967)には、ドイツ文学の古典から現代までの中編・   短編を収録したもので(一部抄訳があるが、ほとんどが全訳)、どの作品も、驚くほど面白くて、ほんとうに感銘を受けたという表現ぴったりの作品集だった(古書になるが、いまでも自信をもって進めることができる一巻である)。なかでもハインリヒ・マンの「ブランツィルラ」は、女優だったか娼婦だったかの一人称の語り手で、その語り口(全編、独白的な語り)が驚異的であった。いまにして思えば、『パティ・ディプーサ』の原型のような作品であり、こうした作品なら女性の語りを不自然でないかたちに練り上げる作業は必要かもしれない。とはいえハインリヒ・マンについては全く無知なのだが、弟のトーマス・マンと同様、ゲイ的欲望にも片足を突っ込んでいた可能性があるので、この作品は、『パティ・ディプーサ』に,思った以上に接近していて、語りの異性装の実現かもしれないが。

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2021年04月07日

西洋世界のプレイボーイ

シングの『西の国の伊達男』のなかにソポクレスの『オイディプス王』をみるという、とくに自慢にもならない、ありふれた知見が、偶然の、あるいは意図せざる類似性に対する過剰なまでの歪曲というふうに、アイルランドの文芸文化とはまったく無縁の者は思うとすれば、それは、あくまでも無知(少なくとも基本的に無知な私以上の無知)のなせるわざであって、むりからぬことであるが、もしアイルランドの文芸文化の専門家も同様な思いを抱いたとしたら、あなはた、その専門家という資格を放棄すべきである。

演劇でいえばブライアン・フリールの『トランスレーションズ』という有名な芝居がある。アイルランドの歴史的過去という設定だが、そこで衝撃的なのは、パラス・アテナ(古代ギリシアの女神)と結婚するという宣言だろう。詳しい事情は、その劇を参照して理解していただくほかはないが、それ以外にも、この劇が学校(私学校、日本風にいうと私塾)を舞台にしていることもあって、劇中にはギリシア語、ラテン語が頻出する。またアイルランド語を話す人物たちの多くが、英語をまったく理解しない(ただし舞台上の台詞は英語だが、それが一応、アイルランド語であるという設定になっているが)。19世紀のグレートハンガー以前のアイルランドでは、古代ギリシア・ローマのほうに親近感がもたれている。

あるいは20世紀の初めのダブリンでの1日(1904年6月16日)を、ホメロスの『オデュセイア』の世界になぞらえて描いた長編作品を、知っているだろうか。タイトルも『オデュセイア』の主人公オデュセウスのラテン語における同等語ウリッセスの英語形ユリシーズが使われている。この長編小説の出来事は、多様な語られ方をするのだが、当時のダブリンのどこで起こっているかを、きちんとたどれるほど、きわめてローカルな、あるいはローカル色の強い作品である。そのローカルな世界がギリシア・ローマ神話に直結している。

またシェイマス・ヒーニーに『トロイの癒やし』という作品があるのを専門家なら知っているはずである。ソポクレス(!)の『ピロクテテス』の翻案。ヒーニーのこうした作品は、詩人の個人的嗜好というよりも、アイルランド文化に根ざした試みであるということは歴然としているのではないか。アイルランドはイングランドよりも古代古典のギリシア・ローマに近いのである。

ところが、『オデュセイア』の現代アイルランド版であるといえば済むところ、現在の混沌たる世界を秩序づけるために神話的枠組みを必要としたというエリオットのたわごとは影響が強すぎたがゆえに及ぼすことになったのだ、かぎりない害を、かぎりない害をだ。ヨーロッパ辺境のアイルランドの首都であるダブリンが、ギリシア・ローマの世界と接続するアイルランドの文化伝統を見えなくさせたのであるから。

もちろん、アイルランドと古代ギリシアのつながり自体が特殊ローカル的な文化伝統でしかないのかもしれないが、しかし、見方をかえれば特殊と普遍の、本来相対立する両者の、めざましい通底ぶりと融合であるともいえる。ダブリンという特殊が、ギリシア・ローマの古代古典文化、ひいてはヨーロッパ文化という普遍の、ただの寓意とかメタファー以上の、等価性を、同じものの表裏関係を形成することになる(絨毯の表と裏の関係のような)。

ジョイスの長編小説、あるいはシングのこの劇ほど、グローバルにみれば、くそローカル、あるいはどローカルなものはないともいえるが、同時に、これほど時空間的にギリシア・ローマを中心とするヨーロッパ的普遍性を帯びているものはないのである。まあ、アイルランドの専門家は、こんなことは承知していると思うので、あくまでも私のような無知な人間に対する語りかけでもあるのだが。

つづけるとシングの『西の国の伊達男』の「西の国」は特殊アイルアンド的用法であるとともにそのまま「西洋世界」と訳せるような主題を展開しているのである。特殊と普遍の表裏一体関係。

この劇のタイトルは、「西の国」の「伊達男」ではなく、「西洋世界」のドン・フアン的プレイボーイとも読めるほどの劇的思考を展開していることに気づいたほうがいいだろう。

プレイボーイの典型であるところのドン・フアンは、父親との関係が悪い。ドン・フアン神話では、このプレイボーイは最後には死んだ父親の彫像に押しつぶされる――これは父親との関係の悪さ、あるいは彼が父親を殺し、その父親の亡霊に復讐されるというふうにとることもできる。『西の国の伊達男』の世界との通底ぶりは歴然としている。

精神分析的知見では、ドン・フアンあるいはドン・フアン的プレイボーイにとって理想の女性は母親である。だが、この母親は聖なる存在でもあって、母親との性的な結びつきは禁じられる。そのため母親の代理となる女性を求めることになるが、しかし、女性は母親の代理になりえず、ドン・フアンは、つぎつぎと女性を求め、つぎつぎと女性を棄てることになる。ドン・フアンが結ばれる女性には、すべてドン・フアンの母親の面影があるが、同時に、また、それは母親に到達することの不可能性を痛感させることになる。母親の代理は二方向にはたらく。母親を思い出させるとともに、母親を消去し忘却しかねない方向に。母親への近親相姦的接近と、その回避。ドン・フアンは母親に近づこうとしているのか、母親から逃れようとしているのか、どちらかわからないというよりも、そのふたつを同時におこなっている。ドン・フアンのこの矛盾に満ちた行為の痕跡として、棄てられて嘆き悲しむか、怒りにふるえる女性たちのおびただしい象徴的屍体が残ることになる。

ハムレットには、こうしたドン・フアン的なところがあると、昔、私は、ある学会での講演で話したことがあって、すべりまくった(反響を得られず、冷たく無視されたのだが)。もちろん、自分でもよくわかっていないことを疑問というかたちでぶつけたせいもある。未消化の話は誰も感銘をうけない。

どんな疑問をぶつけたかというと、たんに父親を憎み、父親を殺し/父親に殺される男、それも母親を理想化し、母親のような女性を賛美してやまない、そして母親の面影も求めてやまない男が、そのまま女性にもてる男とはならないだろう。むしろ、その逆で、これは典型的なマザコン男であって、そんな男に女性がひかれるとも思わない。とりわけ現在なら、むしろ女性からは積極的に嫌われるだろう。

にもかかわらずプレイボーイであるのは、容姿端麗であったり、なにか名状しがたい人間的魅力が備わっているとしか考えられないし、また、そのような設定にしないと、物語は進行しない。

ハムレットは、その躁鬱的性格にもかかわらず、女性にだらしない貴公子とみられたり、あるいは民衆には先王と同じくらい、あるいはそれ以上、人気があったりする。オイディプスも、ただの流れ者にすぎないのだが、自分の母親ほども年の離れた女性(実際、母親なのだが)に惚れられ結ばれ子どもができるまでに、男性としても魅力があるようだ。『西の国の伊達男』のクリスティは、女性をひきつけるオーラのようなものを発散しているところがある。オイディプスやハムレットではまだ潜在的であった要素を、シングのこの劇は顕在化させたともいえる、すなわち「プレイボーイ」と。

ちなみに先ほどふれたダブリンでの一日を描いた長編小説のなかに、海辺で、足の悪い若い女性が、自分の方をじろじろみているベンチの中年男をみて、妄想にふける場面があることを覚えておいでだろうか。

実は、その中年の男レオポルド・ブルームは海辺のベンチで、その女の子をみながら、オナニーにふけっているのだが(もう最低じゃん!)、女の子の方も、へんなロマンスを空想している。その空想のなかで、レオポルド・ブルームは、魅力的な中年男性となり、当時、実在した男性俳優にその容姿がなぞらえられる。もちろん彼女の空想・妄想の世界でのことで、ブルームが、そんなに魅力的な容姿の男性かどうかは不明(むしろ、朝、うんこをしてから、その時点にいたるまでの彼の言動からみるかぎり、スケベな中年オヤジにすぎないのだが)。ただ、なぞらえられている当時の俳優には写真が残っていて、それを見るかぎり容姿端麗なやさ男なのだが、彼はまた、ハムレット俳優でもあって、ハムレット役でかなり人気があった。彼女の妄想のなかで、レオポルド・ブルームはまた、プレイボーイのハムレットにかわるのである。

ハムレット=プレイボーイ説を語ったときの私には、この場面が念頭にあったのだが、ただ、そこから生まれるさまざまな可能性をまだくみ取ってはいない……。

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2021年04月06日

『西の国の伊達男』嘘から出た実(まこと)2

JMシング(Synge)のThe Playboy of the Western Worldのタイトルはいろいろな訳しかたができるのだが、シング『海に騎りゆく者たち ほか』(恒文社2002)に収録されたこの作品の翻訳のタイトル『西の国の伊達男』(大場健治訳、ただし訳者は解説を書いてはいない)を使わせてもらうことにする。

ちなみにこの翻訳『海に騎りゆく者たち ほか』というシング演劇集は、これ以上は望めないといえる翻訳によるきわめて価値の高い選集であって、自信をもって推奨できるものである。

なお私は、アイルランド文学とりわけアイルランド演劇を本格的に学ぼうとして、結局、いまに至るまで実行できていない愚か者だが、ただ、学ぼうとしたことは確かである。アイルランド訛りの英語を学ぼうと、シングについていえば、市河三喜編注の研究社英米文學叢書47のシング作品集とか、あるいはThe Playboy of the Western Worldの英語の教科書(『英文シング』(山本修二注)英宝社)で学んでいるのだが、アイルランド演劇の研究者というほどの知識もないし論文もない。だからアイルランド文学文化の研究の現在について何も知らないので、別に意図的ではないとしても、好き勝手で無責任なことを述べることを赦していただくことにして……。

ローカルとグローバルとは、相互に関係づけられバランスを保ってこそ意味があるのであって、この配分なり力点の置き方が異なると誤解や意味不明なもの、あるいはイデオロギー的隠蔽が生まれることになる。

たとえばThe Playboy of the Western Worldというタイトルについて、ローカルな知識が必要になるのはWestern Worldというフレーズで、これは西欧とか西洋という意味ではない。アイルランドにおいてイングランドの方向にむいているダブリンを中心とする地域が東方地域であるのに対し、大西洋に面している側が西方地域つまりWestern Worldである。これはたいていの注釈書に書いてあるのだが、ローカルな知識がないと戸惑ってしまう表現ではある。

しかし、この場合、ローカルノリッジがグローバルノリッジを妨害してはいないか?ローカルノリッジに安住するのは、たんに普遍的全体的帝国主義的思考を拒否する倫理的姿勢だけでなく、むしろローカルに封印する偏狭なイデオロギー的抑圧行為である可能性もある――なお付け加えれば、ここでの「グローバル」とは、国際性、あるいはもうすこし狭くとってヨーロッパ文化圏のことである。作品をアイルランドのローカルな文化に押し込めてしまうのは、ある意味、アイルランド差別そのものである。

Playboyのほうは、アイルランド的な意味について、どの注釈書も説明しているが、これは、そんな知識がなくてもというか、そんな知識がないほうが、タイトルのもつ含意を正しく受け取ることができる。Playboyは「伊達男」「遊び人」、いわゆる「プレイボーイ」「女たらし」であり、さらにはプレイする人(一応男性に特化されているが)であり、この場合、プレイを競技ととれば、アスリートでもあり、プレイを演劇ととれば、演者、パフォーマー、そこから詐欺師、嘘つきというような意味にもなる。そしてこうした意味すべてが、この作品の内容と関係をすることを観客/読者は知ることになる。またそのためにはとくにローカルな知識を必要としない。

ところが選集『海に騎りゆく者たち ほか』の個々の作品についての解説(ああ、個々の作品の翻訳者が解説を書いてくれたらよかったと思うのだが、専門家が一人で書いている)では、作品のアイルランド性(時代・社会的背景)や作品の意義について、丁寧かつ博識な説明と議論が展開するのだが、ローカル性を重視するあまり、普遍性が軽視されている、いや無視されているといってもいい。

たとえばこの選集にある『谷の陰』(木下順二訳、ただし訳者は解説は書いていない)という作品。これはどうみたって、イプセンの『人形の家』のアイルランド版だろう。そう思うのは、プロットそのものが妻の家出であり、また女性の主人公の名前がともにノーラであるからだ。こんなわかりきったことは指摘するまでもないが(『人形の家』は観たり読んだりしたことがなくても誰もが知っている)、しかし選集の解説者は、何も触れていない。アイルランドの片田舎の作家シングはイプセンのことなど知っているはずはないとでもいわんばかりに。

だが、いくらシングがアラン島の旅行記を書いたからといって、ローカルなものにしか興味を抱いている人ではなく、その目はヨーロッパ全体に向いていた。たとえば、この選集には訳出されていないが、『西の国の伊達男』にはシングによる序文があり、そのなかでシングは、イプセン、ゾラ、ユイスマンについて言及しているのである。シングがそのくらいのことを知っているのは驚きでもなんでもないが、選集の解説者だけはシングがヨーロッパから見捨てられた片田舎の劇作家としてしかみていない。

『西の国の伊達男』にしてもそうである。父親殺しのテーマは、この作品がソポクレスの『オイディプス王』のパロディかどうははわからないが、パスティーシュであることはまちがいない。しかも父親殺しの若者は、途中で、逃げていかないように足首を焼かれそうになるのだから、『オイディプス』への示唆あるいは言及は明白である。ところが選集の解説には、このことにはいっさい触れていない。

べつにここで私は自分の知識あるいは洞察をひけらかそうとするのではない。『人形の家』あるいは『オイディプス王』、どちらもべつに演劇研究者でなくても、誰もが知っている作品である。その解説者だって知らないはずがない。にもかかわらず、言及しないのは、なぜか。

そんなわかりきったことは、あえて言及するまでもないと、また『オイディプス王』とか『人形の家』と類似の要素(おそらく偶然かもしれない)があるからといって、作品の解釈が影響をうけることはない、だから沈黙していたいのだと、その解説者はいうかもしれない。

だが、そんなことはない。『西の国の伊達男』は、『オイディプス王』と結びつけるとき、さらにいまひとつの作品とのむすびつきから、さらに大きな意味の振幅を獲得することになるからだ。そのいまひとつの作品とは、『ハムレット』である。

『ハムレット』を『オイディプス』と結びつけるのはフロイト以降のことかもしれない(実際にハムレットは父親を殺されるのであって、自分で父親を殺していないのだが、フロイト的精神分析では、ハムレットが憎んでいるのは父親である)が、『オイディプス』と『ハムレット』の両者を『西の国の伊達男』は吸収し融合させているところがある。

ネタバレ注意:なにしろ『西の国の伊達男』の最後では、父親を殺したと思われた若者は、実は生きていた父親を自分のパートナーにする、あるいは自分の支配下において、旅役者みたいに、これまでの事件を語り聞かせる巡業の旅にでるのである。実際に若者が父親を殺したかどうかわからないところがある(オイディプス王も、ほんとうに父親を殺したかどうかわからないところもある)。そして劇の後半に、死んだはずの父親が登場するのだが、あの父親はハムレットの実の父親のように、一昔前の芝居だったら、亡霊だったのかもしれないのだ――シングのリアリズムがそれを避けたとしても。

あるいは嘘から出た実(まこと)がテーマのこの芝居では、父親を殺したという嘘が、本物の父親を呼び寄せたということもできるし、もとのハムレット的世界では、死んだ父親が煉獄から召喚されたともいえる。

しかもオイディプスもハムレットも国民に人気がありまた伊達男である。実際、ハムレットは劇中でプレイボーイとして非難されているのだ。

こうしたことを考えると、『西の国の伊達男』を、『ハムレット』や『オイディプス』が形成する文化圏、テーマ圏に連動させることになり、そこに意味とテーマの共鳴と輻輳を認めることができ、作品の世界が一挙に広がることになる。

また逆に『西の国の伊達男』から、『ハムレット』や『オイディプス』を逆照射しているとみることもできる。パロディ的なものとしてとらえるわけだが、ハムレットもオイディプスも、嘘つきであり、演劇人、詐欺師、パフォーマーであり、アスリートであるとみると、『ハムレット』や『オイディプス』がちがった見え方をするかも知れない。それほどまでにシングのこの劇は問題劇でもある。

【なおシングの今ひとつの劇『聖者の泉』(喜志哲雄訳、喜志氏はアイルランド演劇について簡潔で優れた解説(「アイルランド演劇の流れ」)をこの選集に寄稿されているが、個別作品の解説は書いていない)では、ふたりの盲人の乞食が登場し、目が見えるようになったり、逆にふたたび目を閉ざそうとすることになるのだが、それは『リア王』の世界を彷彿とさせる(アナクロにスティックにいえばベケット劇をも彷彿とさせる)、と同時に、『オイディプス王』『コロノスのオイディプ』と主題を共有しているともいえる】

こうしたことを見ようともしない解説者は、無知とか怠慢というのではなく、シングとその作品をアイルランドの社会と歴史の一時期に囲い込もうとする、きわめてイデオロギー的な身振りを示しているのだ。それはまたシングとその作品から、普遍性を奪い、ローカル性のみを強調するような、観光客向けのお土産じみたもの、あるいは骨董品じみたものにシングの作品を変容させようとしている悪辣な身振りであることはいうまでもない。

実際のところ、この作品は、『西洋のプレイボーイ』と訳しても語訳ではないような、意味と主題のひろがりをみせているのだから。そう、シングのこの劇を『西洋のプレイボーイ』と誤解しても、実は、誤解どころか正解である可能性すらあるのだ。

とはいえアイルランド文学研究者ではない私としては、アイルランド研究の今を知らないので、こうした身振りが、この博学博識で,同時に偏狭すぎる解説者だけのものであって、一般のアイルランド文学研究者とは無関係であろうと信じているのだが。

posted by ohashi at 14:59| 演劇 | 更新情報をチェックする

2021年04月05日

『エイプリルフールズ』嘘から出た実(まこと)

4月1日にCSで映画『エイプリルフールズ』(2015)を放送していることに気づき、途中から見ることになった。映画館で見た映画だが、最後に複雑にからまりあっていることがわかるオムニバス形式の筋は、その内容をほとんど忘れていたが、映画の進行につれて記憶がよみがえってきた。

この映画には戸田恵梨香と松坂桃李が出演している。七つの筋が平行して展開する内容だが、最後には、この二人が結ばれることで映画は終わるのだが、今から見ると、二人が結婚にいたる原点は、この映画にあったことがわかる。

【この結末には、それなりに意味があって、嘘から出た実(まこと)が主題に映画にとって、すべて嘘が実現するのであって、この二人も映画の物語のなかで、出発点に嘘があったがゆえに、最後に嘘がほんとうになるということである(実生活でも、映画という虚構によって、結婚が実現したのは、意味深い)。

と同時に、この映画、それぞれのエピソードで、関係者がたちがみんなヒステリックに切れる。劇的な強度を上げる効果は、同時に、テレビで見ていると、うるさくてしかたがない。漫才コンビの「おいでやすこが」の「おいでやす小田」の切れ芸かと、思わず心のなかでつっこんだ。だが、このうるささも、最後には沈黙が支配する、絶叫を沈黙が駆逐するとき、物語の発作もおさまるのである。】


最近、有吉弘行・夏目三久の結婚が発表されたが、電撃結婚ともいわれ、どうしてふたりがと最初は不思議に思ったが、かつて『マツコ&有吉の怒り新党』(2011-2017)にふたりが出演していたことがネット上でも指摘されていて、ふたりの接点というか原点は、この番組にあったことをあらためて思い出させられた。それと同じで、『エイプリルフールズ』も戸田・松坂夫妻の接点にして原点だった。

映画館でみたときには、ほとんどの出演者を知っていたが(ある意味、オールスター映画であるが)、そのときは、私の知らない、また知らなくてもかまわない子役の女の子(映画の中では、寺島進の実の娘役にして、滝藤賢一の義理の娘役)がいたが、いま見直してみると、驚いた。この子役の女の子は、どことなく誰かに似ている。そう、浜辺美波に。ただし浜辺美波が子役として活動していたことを知らないと、この小学生の女の子が浜辺美波だとは誰もわからないほどに、いまの彼女と、この映画の浜辺美波とは違っている。ほんとうにまだ子どもだった。

古沢良太の脚本は、伏線の張り方と回収法、またマルチプルなプロットの絡まり合いなど、最近の『コンフィデンスマン』シリーズにも活かされてる超絶技巧で、ただただ圧倒されるが、個人的には古沢良太の脚本では古い映画だが『キサラギ』(2007)が衝撃的だった。というのも舞台劇の映画化と思ったのだが、原作はなく、最初から舞台劇のような映画をめざしたもので(映画のあとで舞台版も上演されたと記憶する)、演劇的映画の優れた実例として記憶に残っている。

『エイプリルフールズ』の監督石川淳一は、テレビの演出が多くて、映画としては『ミックス』(2017)が最新作のようだが、映画『ミックス』の結末は、基本的に素人の二人がそこまでいったのだから、上出来というよりも奇跡に近い達成であるし、それ以上になるとおとぎ話になってリアリティを欠いてしまうことは充分にわかるが、おとぎ話的なハッピーエンディングでもよかったような気がする(好き勝手な感想だが)。

それはともかく『エイプリルフールズ』のテーマは、いうまでもなく「嘘から出たまこと」であって、誰もが嘘つきなのだが、その嘘から良い結果が生まれる(愛の成就――家族愛、夫婦愛、恋人同士の愛など)。

そしてこれについてはたまたま最近、読み返すことになった戯曲について、思うことがあった。その戯曲とはシングの『西の国の伊達男』である。
posted by ohashi at 20:05| 映画 | 更新情報をチェックする

2021年04月03日

コロナ禍での送別会

厚生労働省の職員が、1都3県の緊急事態宣言が解除された3日後の3月24日、都内の飲食店で開かれた同僚の送別会に参加した。店ではマスクを外して会話をしており、しかも一部の職員は深夜近くまで店に残っていた。政府の分科会は、感染リスクの高い「5つの場面」として、「飲酒を伴う懇親会」や「大人数や長時間に及ぶ飲食」などを挙げているだけでなく厚生労働省も、こうした場面を避けるよう職員に指示していたということで、大勢での送別会というのは、常識では考えられないことである。

なぜ、厚生労働賞の職員が、こんなことをしたのか、わからない。理性的に考えても、常識で考えても、たんに発覚したら非難されるということだけでなく、自分が感染症にかかるリスクが増えるがわからないのだろうか。自分たちの命にかかわることでもあることを理解していないのか。

官僚は優秀な人でないとなれないし、優秀な官僚組織が国家の礎であると私は信じているが(そう信じているのは、もちろん私だけではないが)、いくら安倍長期政権が、現在の菅首相とともに官僚組織を、政権のいいなりになるような忖度専門家ばかりの腐敗組織にしてきたとはいえ、これはひどすぎる。

メディアでは、霞ヶ関には送別会文化がというのがあって、新年度を迎える直前の3月には各省庁・各部署で送別会が必ずおこなわれる。厚生労働省のその課も、例年通りの送別会を挙行することを当然視していたのではないかという解説もあった――例年通り?しかし、コロナ渦の非常事態だというのに。

この理解に苦しむ件をじっくり掘り下げて考えると、現在の官僚組織から政権あるいは日本の社会のありようまでみえてきそうだが、理解に苦しむことだけあって、分析と理解は容易なことではないだろう。ここでは簡単に疑問だけを呈しておきたい。のちの考察の契機として。

1 別格

「飲酒をともなう長時間の懇親会」は避けるように指示されているが、すこしぐらいならいいだろうという安易な気持ちだったのか。飲酒運転は違法だが、つきあいもあって、ビールをコップ一、二杯くらいいいだろうと判断するのと同じようなことか。もちろん飲酒運転は違法で容認することはできないが、同時に、もしこういう判断だったら、ゆるせないことはない。ただし周囲の状況がちがう。

感染症という非常事態である。最大限、感染防止の努力をしても、感染してしまうほど、強い感染力を持ったコロナウィルスの蔓延をまえに、こんな安易な判断ができるのだろうか。このくらいならいいだろうというのは、小中学生の悪ガキ・レベルである。優秀な霞ヶ関官僚も、こうした少年の心(少女ではない――どうせ女性はいないだろし、送別会にも呼ばれていないだろう)を失わないのだろうか。

あるいはこうである。パニック映画などで、大災害が起きて住民を避難させようと、行政機関や警察がやっきになっている。ところが住民は、溶岩なんか流れてこない、津波なんかかんたんに回避できると、お祭り騒ぎをやめないという状況はよくある。愚かで楽天的な住民と、そのコントロールに苦慮する行政・警察組織という構図に対し、住民のほうが危機意識を抱いているのに、行政・警察のほうが動こうとしないという構図、あるいは設定もある。ところが今回の場合、住民を避難させたり住民の行動を規制している行政側が、安易に考えすぎていて、何事もなかったように自由にふるまっている。これでは物語にならない。このような行政組織は狂っているのである。

もちろん狂っているだけで片付けるのはよくない。いや、今回の厚生労働省の職員の一部が本来なら官僚になるべきではない精神異常者とみることはできないわけではないが、むしろ小中学生の悪ガキ程度に愚かだとみるべきだろう。問題は、どう狂っているか、愚かなのかである。

自分たちだけは別格でコロナに感染しないと思っているのだろうか。国民を統制し、命の選別までやっていると、自分が偉くなったようか気がしてくるのだろうか。公務員であれば、どのような仕事であっても、国民の生活と命にかかわる事業に従事することになる。当然、コントロールする側に立つ以上、超越的立場となる。本来、公務員とは公僕、つまり国民のために奉仕する側の人間だが、そんなことはギリシア神話みたいなもので、おもしろい設定だが、誰も真剣に信じてはいない。むしろ公務員にとって国民のほうが下僕なのである。となると下僕には、コロナ禍を悪化させないよう、規制を守ってもらわねばならないが、ご主人様(霞ヶ関官僚)のほうは、自由にふるまっていいいし、またそうする資格も権利もあるということだろう。

もし、これはそういう思い違いをする愚かな人間がいるということではなく、システム自体が、そういう思い違いをさせるようにできているということになる。「飲食をともなう長時間の懇親会」である「送別会」を挙行しても赦されるというのは、参加した官僚の思い上がりではなくて、みずからを別格あるいは不死身に思わせるようなシステムが存在しているということだろう。

以前、新型コロナウィルスについて、誰よりもよく知っているはずの医師たちが宴会などをしていて感染したことがよく報じられたが、優秀な医師である彼らが、自分たちは医者というエリートだからコロナに感染しないと思い込んだというわけではなく、システムが、医療従事者を超越的な別格扱いするがゆえに、そういう思い上がりが生じたということだろう。

2 権力に対して真実を語る

ほかにも解釈できる。厚労省職員が大人数で宴会をしたというのは、新型コロナウィルス感染が怖くなかったということだろう。おそらく彼らは、新型コロナウィルスが、トランプ元大統領のならず者の支持者のように、インフルエンザ程度のものと思い込んでいたのだろう、いや、彼らは、確かな証拠とともに、コロナウィルスがインフルエンザと同等かそれ以下だと知っていたのかもしれない。

国民の行動を規制する。だが、コロナウィルスは、危険なものではないということを彼ら厚労省の職員たちは知っている。だから、例年のように送別会を開いたのである。コロナは危険ではないと承知している。けれども国民には、コロナは危険だとあおったほうが、国民の命の選別までふみこむ国家統制ができるからよい。今回の送別会は、気が緩んで、ついつい宴会をしてしまったのだが、あやうく、コロナが危険ではないことを国民に知らせてしまうところだった。このようなドジをふまないためにも、課長は処分された。

エドワード・サイードは、「権力に対して真実を語る」ことが知識人の本来の使命だと語ったのだが、これはそうする必要などないという議論もある。つまり、権力は真実を知っているからである。

政権は、新型コロナウィルスが恐くないことを知っている。ワクチン接種が効果のないことも知っている。それどころかコロナウィルスよりもワクチン接種のほうが危険であることも知っている。ただ、国民から真実は隠しておく。

あるいは、その逆かもしれない。新型コロナウィルスから国民をとことん殺してゆき、助かる方法はもうない。~年以内に国民は全滅する。規制や予防措置はすべて意味がないが、国民が不安になって暴動を起こさないためにも、コロナ対策を、無策だと批判されつつも続けなければいけない。ワクチンなど水と同じで全く効果がない。ただ気休めにしかならない*【付記参照】。政府は真実を知っているが、そのことをひた隠しにしているのかもしれない。

今回の厚労省職員の送別会事件は、こうした真実を垣間みさせてくれる。エドワード・サイードのいう「権力に対して真実を語る」使命は、決して、無効になったわけではない。「政府は真実を把握していながら、国民に、それを隠している」という真実は、まだ政府につきつける余地と意義があるからである。

さて、今回の厚労省職員の送別会は、1と2のどれにあてはまるのだろうか。あるいはもちろん、それ以外の可能性を考えるべきだろうか。


付記

キャスリン・ビグロー監督の映画『K-19』(2002)は事故を起こしたロシアの原子力潜水艦の話だが(演じているのはハリソン・フォードをはじめとする英米の俳優)、そのなかで放射能漏れを起こしている原子炉を修理するために、若い乗組員に危険な作業をさせるのだが、そのときビニールのレインコートを放射能から身を守るための、原潜に備え付けの装具としてまとわせるのである。そんなレインコートに放射能を防ぐ効果などないが、それを承知の上で、原潜の幹部士官たちは、安全性を強調し、危険な致死的な作業へと若い乗組員たちをかりたてる。乗組員たちは、時間制限のある作業を終えて原子炉から出てくるが、彼らは全員、重度の被爆とやけどで瀕死状態となる(見ていて胸がつまる場面なのだが、メイキング映像をみると監督自身、この場面の撮影では涙を流していた)。

アメリカ映画『オンリー・ザ・ブレイブ』(2017 ジョセフ・コシンスキー監督)は、巨大な森林火災と戦う消防部隊の物語である。もし万が一、火災に包囲されて逃げ場がなくなっても、携帯している防火シートをかぶるというか、防火シートの下に潜り込んで耐えていれば、火をやりすごせると彼らは教えられ、彼らにとって、その防火シートが最後の防御手段となる。そのため映画の終り近く、実際に山火事に包囲された部隊は、やむなくそれぞれの防火シートの下に身を潜らせる。そして火事が収まった頃に救助隊がかけつけると、衝撃的なことに、部隊全員が防火シートの下で死んでいるのである。この予想もしなかった展開ならびに残された家族の物語に涙なくしては見れなくなった私は、ふと思い出した。この防火シートは、ロシアの原潜のビニールのレインコートだったのだと。山火事の業火に巻き込まれたら、こんな防火シートで助かるわけがないのだ。しかし、助かると信じて隊員たちは危険な任務に向かう。最後には防火シートが守ってくれると信じて。

ワクチンがビニールのレインコートでないことを祈るばかりある。
posted by ohashi at 10:08| コメント | 更新情報をチェックする

2021年04月01日

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