2021年03月26日

翻訳セミナー 3

前回は2021年3月20日
つぎに

6-簡単にいえば、わたしたちが愛したり欲望したりする重要な他者が、自分自身から隔てられ、「わたしたちの支配の及ばないところに」いるとわかることに自分自身の生が依存していること、このことを精神分析ははっきりさせる。だが、こうした理解こそが、かくも多くの暴力をひきおこすのではないか。


Psychoanalysis tells us, in short, that our lives depend on our recognition that other people --- those vital others that we love and desire --- are separate from us, “beyond our control ” as we say, despite the fact that this very acknowledgment is itself productive of so much violence.


やや説明的に訳してみる。意訳もふくまれるが。

精神分析は、私たちに、こう告げているようなものである。すなわち私たちの生は、他者――私たちが愛し欲望するかけがえのない他者――が、私たちと別人格であり、よくいうように「私たちにはどうしようもない」という認識に、私たち縛られている、と。しかも、こういう認識そのものが、これまで多くの暴力を生んできたという事実があるにもかかわらず、精神分析は、今述べたようなことを告げるのである。


Psychoanalysis tells us, in short, that~は、手短に言えばとか、要約すれば、という意味だが、多くの場合(とはいえ統計をとったわけではないが)、たんに長い文章で説明してきたことを短くまとめるとか、あるいは主張を簡潔に要約するということだけでなく、すこし視点を変えてまとめる(あるいは主張を飛躍して言い換える)ことがある。

ここでもそれで、親密性について、「私が私自身に対して抱く認識が親密性の基盤にある」「親密性とはプライヴェトな私的・個人的なものと関係がある」という前の文の主張をここで、私中心の視点から他者を含む視点に切り替えて、要するに私は自分に対して親密性を抱けるが、他者に対しては抱けないということだと、言い換えている。

「自分自身の生が依存している」と翻訳では訳しているが、べつに間違いではないが、depend onという表現は、「依存する、頼る」という意味から「自立していない、主体的ではない」、つまり脆弱な立場なり関係性かと、私だけかもしれないが、そんなふうに感じていたが、依存するというのは、依存しきっているために、その関係から簡単には逃れられないことを意味する。

Dependを英和辞典で調べると、depend on itという成句がたいて掲載されているが、これは「だいじょうぶと」か、「まちがいない」という意味になって、依存とか甘えというイメージとはほど遠い。「頼っていい、信頼していい」→「まちがいない」というきわめてポジティヴな意味になる。

だから「依存する」だけでは、やや意味が弱いので、私の試訳では「私たち縛られている」としたが、「私たちは決定される、規定される、決定づけられる」とか、「~という認識が根底にある」といった訳でもよいように思う。

「わたしたちが愛したり欲望したりする重要な他者が、自分自身から隔てられ、「わたしたちの支配の及ばないところに」いるとわかることに……」という訳は、まちがいではないと思う。ただare separate fromのseparateが「別々の」という意味と、「離れている」という意味に、あえて分けて考えれば(多くの辞書がこの二つの意味を区別している――区別できないとも考えられるとしても)、ここでは「別々」のという意味になる。もちろん「隔てられている」というのは空間的ではなく心理的な場合も含まれるので、「自分自身から隔てられている」という訳はまちがいではない。「別々」感を出すために、試訳では、意訳かもしれないが、「別人格である」としたが、ベストな訳しかたではないだろう。

問題は、つぎのdespite the factだが、そこのところすこし前から原文をみてみると、

…“beyond our control ” as we say, despite the fact that this very acknowledgment is itself productive of so much violence.


となっていて、as we satのあとにカンマがあって、despiteがすぐ前にas we sayにはかからないことを示している。despiteは全体にかかる。
Psychoanalysis tells us, in short, that… にかかるわけなので、これこれこういう事実もあるにもかかわらず、精神分析は私たちにこう告げる、こう信じ込ませようとしているという精神分析の知見への批判となる。

試訳では、「しかも、こういう認識そのものが、これまで多くの暴力を生んできたという事実があるにもかかわらず、精神分析は、今述べたようなことを告げるのである。」と実にくどい訳しかたをしているが、まあ意味はわかるだろう。

翻訳のほうでは、

だが、こうした理解こそが、かくも多くの暴力をひきおこすのではないか。


と疑問形に訳していて、実に、うまいというか、こういう訳しかたもできることを私たちは学ぶことができる。この部分は、脱帽である。

そして最後の二文。

Difference is the one thing we cannot bear. The dialogue of this book is a working out of a new story about intimacy, a story that prefers the possibilities of the future to the determinations of the past.


7 【だが、こうした理解こそが、かくも多くの暴力をひきおこすのではないか。】〔他者との〕差異とは、わたしたちが耐えることのできない唯一の事柄であるのだから。〔それに対して〕本書の対話は、親密性についてのあらたな物語を生みだそうとするものである。そうした物語にとって〔精神分析のおきまりの主題である〕すでに決定された過去よりも、可能性にあふれた未来こそがふさわしい。


この部分の翻訳だが、せっかく褒めたのだが、次のところで変な訳をしている。「〔他者との〕差異とは、わたしたちが耐えることのできない唯一の事柄であるのだから。」と。

「〔他者との〕」という説明の挿入は、わかりやすくてよいと思うのだが、とはいえ説明することで、意味の可能性を狭めることにもある。ここでは親密性との関係から、他者と私が同じではないことをdifferenceということで表現している。私の個性と、他者の個性が異なるというような意味ではない。しかし、この点は深く追究しない。

問題はつぎである。

差異とは、わたしたちが耐えることのできない唯一の事柄であるのだから。


嘘だろう。私たちには耐えがたいことがいっぱいあるはずで、差異だけが耐えられないくて、あとどんなことでも耐えられるというのか。嘘も、バカも休み休み言え。

これはDifference is the one thing we cannot bear.でwe cannot bearという関係詞節が修飾しているからone thingにtheを付けただけのこと。辞書にある例文にはこんなものがある。
“I drew my chair nearer the one on which Sophie was sitting”「自分の椅子をソフィーが座っている椅子に近づけた」ということで、椅子はすくなくともふたつあるようだし、ソフィーが部屋のなかの唯一の椅子あるいはソフィー用の唯一の椅子に座っているということではない。

〔それに対して〕本書の対話は、親密性についてのあらたな物語を生みだそうとするものである。そうした物語にとって〔精神分析のおきまりの主題である〕すでに決定された過去よりも、可能性にあふれた未来こそがふさわしい。


この最後のところで、〔それに対して〕と説明を補っているが、何に対してなのかはっきりしない。The dialogue of the bookは、すでに出てきたThe contention of the bookと同様に、本書の主張と同じ意味と考えてよい。また「対話」よりも「議論」「論争」のほうがいい。もちろん、対話でもいいのだが、その場合、対話の相手は精神分析ならびにその知見である。

差異は私たちが耐えられないものである。本書における議論は、親密性についての新たな物語から案出したものとなっている。その新たな物語は、過去によるさまざまな決定よりも未来のさまざまな可能性のほうを好むのである。

あるいはすこしまとめると

差異は私たちが耐えられないもののひとつである。本書における議論は、親密性をめぐる新たな物語――過去によって決められた物事よりも、未来に生まれる可能性のほうを好む物語――から練り上げられたものである。


まあ前者のほうがいいか。もちろん、翻訳の訳しかたでまちがっているということはないし、そのほうがわかりやすかもしれないが、原文を直訳するとこういうことになる。そしてこの直訳のほうが、原文のニュアンスを汲んでいるいることはまちないないようだ。

つづく
posted by ohashi at 01:27| 翻訳セミナー | 更新情報をチェックする

2021年03月20日

翻訳セミナー 2

前回は2021年3月19日

つぎの原文は、この一文。

It is the contention of this book --- part of a conversation that began nearly twenty years ago --- that psychoanalysis has misled us into believing, in its quest of for normative life stories, that knowledge of oneself is conductive to intimacy, that intimacy is by definition personal intimacy, and that narcissism is the enemy, the saboteur , of this personal intimacy considered to be the source and medium of personal development.


長い一文なので翻訳では区切って訳している。

まず

5 この書物は、ほぼ二〇年ほど前からはじめた対話の一部からなる。そこでは、精神分析は、規範的な人生の物語を求めていくうちに、自己についての知は定義上個人的でしかない親密性に導くものだとう、誤った理解を与えるのだろうかということが争点となった。


原文は、長い一文であって、翻訳は、これをいくつかに区切っている。それはそれでいいのだが、問題は、英語で読むとわかりやすいのに、翻訳文がわかりにくくなっていることだ。そこを考える。

最初の“It is the contention of this book --- part of a conversation that began nearly twenty years ago --- that psychoanalysis has. . . .”のところ、Itはthat以下を示す仮主語だから、「that以下が本書の主張である」という意味。
contentionには論争と議論のイメージが強いので、翻訳でも「争点」と訳している。そう訳すことがまちがいではないし、それどころか許容できるものだが、ただcontentionはthat節をとることで、「主張」「論旨」という意味になる。辞書で確認していただきたい。

もちろん、背後には論争や議論があり、そこからでてきた主張であるということを、あえて強調するために、原文ではダッシュに入れて、--- part of a conversation that began nearly twenty years ago ---と挿入句を入れている。

このconversationを翻訳では「対話」と訳している。そういう意味もあるので、まちがいではないが、ただ「対話」「対談」となると、誰と話しているのだということになる。conversationは仲間とか専門家のあいだで話されてきたこと、話題になってきたこと、議論されてきたことという意味だから、「対話」というのは、なにかわかりにくくなる。

一応、訳をつけておくと、「本書の主張――ほぼ二十年前から始まった議論の一部でもあるのだが――は、以下のとおり/次のとおり」となる。「以下のとおり/次のとおり」という訳し方がベストだとは思わないが、意味をとりやすくするために、一応、こうしておく。

さて、主張の内容だが、「精神分析は、……という、誤った理解を与えるのだろうかということが争点となった」と翻訳されている。くりかえすが、そう訳してまちがいではない。論争、議論、争点であることを強調するために、「~だろうかということが争点となった」と表現している。

ただし、ばか正直に原文に忠実であっても、充分に意味はとれる。The contention of the book . . .is のあとは、whether(かどうか)ではなくthatである。本の主張を、断定しているのである。

つまり、~かどうか、などとはいっていない。論争、告発、批判、判断を示すのであるから、きちんと断定している。裁判で検察側は「X氏は犯人である」と告発するのであって、「X氏は犯人だろうか」などいう疑問を呈していたら裁判にもならない。「X氏はほんというに犯人だろうか」と疑問を呈するのは弁護側である。

ああ、やはり誤訳だ。翻訳は「~だろうか」と訳しているので、〈精神分析は、これこれこういうかたちで批判されてきたが、その批判は正しいのだろうか〉と主張することになる。精神分析への弁護である。

しかし、原文は、きちんと主張している。「精神分析は私たちをミスリードして、つぎのことを信じ込ませてきた」と。該当分野における精神分析の考え方はまちがいであるといいうのが本書の主張であり、精神分析を擁護するものではない。

【なお語訳の原因は、conversationを重視して、「そこでは」つまり「論争では」と、that節の内容をつづけたので、「かどうかが争点になった」としないと日本語として収まりがつかなくなったからだろうか。くりかえすが、contentionは「主張、主旨、論旨」の意味。】

では、精神分析が私たちに信じ込ませてきた考え方は、つぎの原文につけた①と②と③の節である。しかも①, ②, and ③となっているから、この三つで完結することになる。

It is the contention of this book --- part of a conversation that began nearly twenty years ago --- that psychoanalysis has misled us into believing, in its quest of for normative life stories, ①that knowledge of oneself is conductive to intimacy, ②that intimacy is by definition personal intimacy, and ③ that narcissism is the enemy, the saboteur , of this personal intimacy considered to be the source and medium of personal development.


翻訳は、

精神分析は、規範的な人生の物語を求めていくうちに、自己についての知は定義上個人的でしかない親密性に導くものだとう、誤った理解を与えるのだろうかということが争点となった。


となっていて、①は「自己についての知は…親密性に導くものだ」であり、②は「定義上個人的でしかない親密性」となって、①と②を合体させていることになる。③は次の一文にまわされている。

こうした訳し方がまちがいだということはない。私は,こういう訳し方はしないが、実際にはよく行なわれているし、許容範囲といえるだろう。しかし原文の順番どおりに、「自己についての知は、親密性にみびちくものであること」、「親密性は定義上個人的にかかわる親密性であること」と訳してもいい。ここで最初の「親密性にみちびく」というのは正確かまちがっているのかよくわからない表現だが、“conductive to ~”というのは「~の一助になる、~を増す、強める」という意味。そのため「自己についての知は、親密性の一助になる」というくらいの訳となる。

この場合、ではその親密性とは何かということになって、つぎに「親密性は定義上私的な親密性」であるということになるが、by definitionは、「定義によれば、定義上」というニュートラルな意味のほかに、「当然とか、明らかに」という意味なり、まとめると「自己についての知は、親密性の一助になること/親密性を強める/高めること、親密性とは定義上は/いうまでもなく、私的な親密性であること」、となって、実際のところ、ここで切らずにさらにすすめたほうがいいように思う。

さて、翻訳の「精神分析は、規範的な人生の物語を求めていくうちに、自己についての知は定義上個人的でしかない親密性に導くものだとう、誤った理解を与えるのだろうかということが争点となった」を改良・修正すると、

「精神分析は、規範的な人生の物語を模索するなかで、次のようなまちがったことを私たちに信じ込ませたしまったのだ。すなわち自分自身について知ることは親密性を高めること、ここでいう親密性とは、いうまでもなく、私的な親密性のことであり、ナルシシズムは、この私的な親密性――個人の発達の源泉でもあり媒介でもあると考えられている親密性――に対する敵対物であり妨害物でもあること」

翻訳では、区切ってしまっているが、原文では一文であるところの第3の点は、「そうであればナルシシズムは、ある個人の親密性が、当の個人の発達の源泉でもあり、媒介でもあると考えられるかぎり、〔そうした発達の〕敵対物でも妨害物でもあってしまうことになる」と訳しているが、これは区切らずに、前に続けるほうがわかりやすいので、上記のようにした。

さて、全体をまとめると、

試訳
本書の主張――ほぼ二十年前から始まった議論の一部でもあるのだが――とは、精神分析が、規範的な人生の物語を模索するなかで、次のようなまちがったことを私たちに信じ込ませたしまったということだ、すなわち自分自身について知ることは親密性を高めること、ここでいう親密性とは、いうまでもなく、私的な親密性のことであり、ナルシシズムは、この私的な親密性――個人の発達の源泉でもあり媒介でもあると考えられている親密性――に対する敵対物であり妨害物でもあること。


となる。

この主張の内容について、この段階でわからなくても問題はない。序文なので、読者の関心をこれでつかめばそれでいいのである。

また、この試訳がベストの翻訳だとは、絶対に言えないが(原文にはないダッシュを追加しているし)、構文と論理構成は透けてみえるので、内容理解には役立つかと思おう。少なくとも、ここで考察している既訳に比べれば。

つづく
posted by ohashi at 18:15| 翻訳セミナー | 更新情報をチェックする

2021年03月19日

翻訳セミナー 1 

第1回

せっかく翻訳をしても、印刷してくれない出版社に対する憤懣やるかたない日々というか、見捨てられた日々を送っている。自宅療養をさせられているコロナウィルス感染者と同様、放置されあとは死を待つばかりという状態になっているので、まあ遺言みたいいに、翻訳セミナーを何回かにわたって、ここで開講することにした。翻訳者として完全に放置され死を待つばかりなので、死にゆく翻訳者である、そして死にゆく者の言葉は、必ず重く響くものである(シェイクスピア『リチャード二世』のジョン・オヴ・ゴーントの場面を参照せよ)。

とりあげる翻訳の翻訳者には一面識もなく、またその出版社も、私とはまったく無関係な出版社なので、個人的な恨みなどまったくないのだが、思想系の英語文献を、翻訳する、あるいは翻訳しなくとも読解することをめざす方に多少なりとも参考になればと思い、これを書くことにした。

出典ならびに原著者、翻訳者は、示さないので、架空の原著、架空の翻訳と考えていただいてもいいのだが、まあ、架空のものをつくるのはけっこう手間がかかるので実在していると思っていただいてさしつかえない。

誤訳をあげつらって罵詈雑言を並べるようなことはしない。むしろ、誤訳あるいは誤訳めいた訳がなぜ生まれるのか、過ちの原因を、それこそ精神分析的に探ってみたい。誰でも他人の翻訳には目が行き届くが、自分の翻訳の不備には気づかない。明日は我が身でもあるので、みつけたわずかばかりの誤訳で、相手を罵倒するようなまねはしない。そんなことをしたら、こちらが人格を疑われるので。

第一回の翻訳文は以下のとおり。そのすぐあとに、その原文を掲載する。

精神分析は現代の人間にとってとても大切なものにみえる。精神分析がかつてもっていた影響力など、もはやないのだと考える人にとってさえ、やはりそうなのである。幼年期の及ぶ範囲、葛藤の必然性、セクシュアリティの重要性、孤立と自己充足という恐怖と衝動、人間関係における暴力の誘惑、自分自身と他者とに隠れた秘密。これらすべてが、精神分析の理論と実践の核心にある。そして精神分析は、以前にもまして、ウィリアム・ジェームズがいう「前進しつづける」にものになっている。精神分析は、役にたつ誤りや有効な(そして破壊的な)失敗、うけいれ難いが根本的でもある方法からなる学問分野になったのだ。この書物は、ほぼ二〇年ほど前からはじめた対話の一部からなる。そこでは、精神分析は、規範的な人生の物語を求めていくうちに、自己についての知は定義上個人的でしかない親密性に導くものだという、誤った理解を与えるのだろうかということが争点となった。そうであればナルシシズムは、ある個人の親密性が、当の個人の発達の源泉でもあり、媒介でもあると考えられるかぎり、〔そうした発達の〕敵対物でも妨害物でもあってしまうことになる。簡単にいえば、わたしたちが愛したり欲望したりする重要な他者が、自分自身から隔てられ、「わたしたちの支配の及ばないところに」いるとわかることに自分自身の生が依存していること、このことを精神分析ははっきりさせる。だが、こうした理解こそが、かくも多くの暴力をひきおこすのではないか。〔他者との〕差異とは、わたしたちが耐えることのできない唯一の事柄であるのだから。〔それに対して〕本書の対話は、親密性についてのあらたな物語を生みだそうとするものである。そうした物語にとって〔精神分析のおきまりの主題である〕すでに決定された過去よりも、可能性にあふれた未来こそがふさわしい。


Psychoanalysis seems to be about the things that matter to modern people, even to those people who think that psychoanalysis should matter a lot less to us than it did in the past. The reach of childhood, the necessities of frustration, the significance of sexuality, the terrors and temptations of solitude and self-sufficiency, the lure of violence in human relations, the secrets kept from oneself and from others: all this is at the heart of psychoanalytic theory and practice. And yet, perhaps now more than ever before, psychoanalysis has also become something, in William James’s words, “to be going on from.” It has become the discipline of useful errors, of instructive (and destructive) mistakes, of radical roads not taken. It is the contention of this book --- part of a conversation that began nearly twenty years ago --- that psychoanalysis has misled us into believing, in its quest of for normative life stories, that knowledge of oneself is conductive to intimacy, that intimacy is by definition personal intimacy, and that narcissism is the enemy, the saboteur , of this personal intimacy considered to be the source and medium of personal development. Psychoanalysis tells us, in short, that our lives depend on our recognition that other people --- those vital others that we love and desire --- are separate from us, “beyond our control ” as we say, despite the fact that this very acknowledgment is itself productive of so much violence. Difference is the one thing we cannot bear. The dialogue of this book is a working our of a new story about intimacy, a story that prefers the possibilities of the future to the determinations of the past.


これは短い序文の一部。序文全体はパラグラフ二つからなり。これはその最初のパラグラフである。

以下は、翻訳の授業というよりも英語の授業のようなもので、原文の内容(構文や論理)を考察し、翻訳を検討するが、代案あるいは模範的な翻訳はとくに示さない。解説から、どのような訳文を作り出すかは、読者ひとりひとりにまかせられている。

で、この翻訳なのだが、英語の原書が手に入らず、翻訳でさっと読んで短期間に内容を理解しようとした。一見、まともな翻訳のようにみえる。堅苦しい翻訳ではなく、違和感のある表現もない。しかし、どうも内容が頭に入ってこない。そんなにむつかしい本ではなさそうなのに、よくわからない。結局、原書を取り寄せて読んでみたら、違和感の正体が判明した。

順を追って、一文ずつみてみる。

1 精神分析は現代の人間にとってとても大切なものにみえる。精神分析がかつてもっていた影響力など、もはやないのだと考える人にとってさえ、やはりそうなのである。

ここはとくに問題のある翻訳ではないだろう。これはこれでいいと思うのだが、原文と比べると少しニュアンスが違う。

Psychoanalysis seems to be about the things that matter to modern people, even to those people who think that psychoanalysis should matter a lot less to us than it did in the past.


直訳すると「精神分析は現代人にとって 重要な事柄に関するもののように/重要な事柄を扱っているように 思われる」となるが翻訳文は、ここをさらっと訳している。そのほうがわかりやすいかもしれない。“matter”を「大切なもの」と訳すのが適切かどうかは、あえて問わない。ただ精神分析がたいせつなものではなく、精神分析が、現代人にとって重要な事柄を扱っているようにみえるということである。こうバカ丁寧に訳しておいたほうが、このあとの理解が容易になるとだけいっておこう。

次、これも直訳すると「精神分析は、過去においてそうであったようには重要であるべきではないと考える人びとにとっても」となる。“should”が入っているので、もっと丁寧に訳せば、「過去においては重要であった精神分析も、現代では、その重要度はかなり下がってしかるべきだ、あるいは重要度は下がっているはずだと考える人びと」となる。しかしまあ、このことは原文と比較対照しないとみえてこないし、翻訳のままでもいいかとも思う。

2 幼年期の及ぶ範囲、葛藤の必然性、セクシュアリティの重要性、孤立と自己充足という恐怖と衝動、人間関係における暴力の誘惑、自分自身と他者とに隠れた秘密。これらすべてが、精神分析の理論と実践の核心にある。


この部分の原文をもう一度示すと

The reach of childhood, the necessities of frustration, the significance of sexuality, the terrors and temptations of solitude and self-sufficiency, the lure of violence in human relations, the secrets kept from oneself and from others: all this is at the heart of psychoanalytic theory and practice.

どうして“the necessities of frustration”を「葛藤の必然性」なのだろうか。frustrationにはいろいろな訳語があるが、これを「葛藤」と訳している辞書は、私がみたかぎりない。なぜ「欲求不満の必要性」「挫折の必然性」と訳さないのだろうか。

つぎの「孤立と自己充足という恐怖と衝動」は“the terrors and temptations of solitude and self-sufficiency”なのだが、なぜ「~という」という同格表現なのだろうか。これはsolitudeとself-sufficiencyがもつterrors とtemptationsということ。同格ではなく所有関係。「孤独のもつ恐怖」と訳してもいいが、しかし、「孤独という恐怖」と訳したって、それはそれでいいのでは反論されるかもしれないが、“the terrors and temptations”でひとまとまりであるので(solitude and self-sufficiencyでひとまとまりなのだが説明の都合上、孤独だけにしておくと)、「孤独のもつ恐怖と衝動」と訳すべきところ「孤独という恐怖と衝動」では日本語としても違和感がある(「孤独の衝動」はOK。「孤独のもつ衝動」もOK。「孤独という衝動」は日本語として違和感があり、何を言っているのかよくわからない)。なおtemptationsと複数形になっているのは、この名詞を可算名詞として扱っているわけで、「誘惑するもの、誘惑的要素、誘惑的な性格」という意味になって「衝動」という意味にはならないことも付け加えておきたいのだが、可算/不可算の区別は曖昧な事が多いので、この点は、強くは主張しない)。

また、さらにつぎの“the lure of violence in human relations”は「人間関係における暴力の誘惑」は同格ではなく所有関係に(正しく)なっている。そして“the secrets kept from oneself and from others”は「自分自身と他者とに隠れた秘密」と訳しているが、これはこれでもいいのだが、原文を直訳したほうが、ずっとわかりやすい。つまり「自分自身からも、また他人からも隠されている秘密」と。ささいなことかもしれないが、こちらのほうがずっとわかりやすい。

それでも、まあ、ささいなことかもしれないと思う人もいるかもしれないが、問題は次である。これは意味をとりそこねている誤訳であり、ここにくると、この翻訳者は翻訳をする資格がないことが明らかになる。

*3 そして精神分析は、以前にもまして、ウィリアム・ジェームズがいう「前進しつづける」にものになっている。【*は見過ごせない過ちのある一文の付ける。】


And yet, perhaps now more than ever before, psychoanalysis has also become something, in William James’s words, “to be going on from.”

ウィリアム・ジェイムズの言葉の出典はどこか、恥ずかしながら、わからないのだが(わかればここでお伝えする)、ただ、わからなくても、意味はわかる。そして翻訳は、重大な過ちを犯している。“to be going on from”をgoing onとだけ理解して「前進しつづける」と訳しているけれども、fromを無視しているのはなぜか。つまり「~からfrom、going onするもの」という意味。この不定詞はsomethingにかかる形容詞句としての用法。

精神分析は、すべてがそこから発生し、そこから派生、流出、発展、進展する、起源とか源泉とか参照の基点になったということ。精神分析は、誰もが、「現代人にとって重要なことがら」を考えるうえで、参考にする基本的・基幹的・根源的・源泉的な知・出発点となる認識や知となったということ。

さて、ここまでのこの文章(原文)の流れを確認してみたい。

まず書き手は、精神分析に対しては一定の距離を置いているように思われる。

精神分析は、現代人にとって重要な事柄を扱っている「ように思われるseems」と述べているので、精神分析についての一般的イメージを述べていても、ほんとうはどうかなとアイロニックに距離を置いている。

つぎに現代人にとって重要な事柄の内容について触れている。現代人にとって重要な事柄は多岐にわたるからだ。株価の変動から感染症対策に至るまで。そこで次の文では精神分析の理論と実践の核心にあるものが列挙される。

そしてさらにつぎに精神分析が、こうした事柄を考えるうえで基点になっているということである。当然、ここにあるのは、精神分析は、みんなが参照する枢要な理論なりという、崇拝的姿勢ではなくて、むしろ、ほんとうにそれでいいのかという懐疑的あるいは精神分析を絶対視しない姿勢であるように思われる。

この流れに沿って、つぎの一文が出てくる。

*4 精神分析は、役にたつ誤りや有効な(そして破壊的な)失敗、うけいれ難いが根本的でもある方法からなる学問分野になったのだ。


It has become the discipline of useful errors, of instructive (and destructive) mistakes, of radical roads not taken.

この翻訳から判断すると、精神分析は、誤りがいっぱいあり、失敗もいっぱいあり、受け入れがたい方法に依拠した学問分野だということになる。ここまでの文章の流れからすると、慣性の法則みたいに、こんな意味を予想してしまうのだが、はたしてそれでいいのか。

繰り返すと、過ちと失敗と受け入れがたい方法の塊でもある精神分析を、誰もが参照の基点に選ぶはずはない。おかしいではないか。もちろんこの翻訳ではすぐ前の一文で、精神分析は「前進する」ものと訳しているのだから、過ちと失敗と受け入れがたい方法の塊でありながら、なおも前進をやまないということらしいのだが、精神分析とは、なんともはや恐ろしい怪物、なにかハウルの動く城(ジブリのアニメ版)みたいなもので、その異様な姿をさらして前進し続ける……。まあインドのジャガーノートみたいなもので、この怪物じみた存在のまえにひれ伏して、身を投げ出しひき殺されてしまうと御利益があるかのように崇拝されているものということだろうか。

いや、たんなる過ちや失敗や受け入れがたい方法というのではない。翻訳は原文を正しく訳していると反論されるかもしれない。It has become the discipline of useful errors, of instructive (and destructive) mistakes, of radical roads not taken.

ただの過ちではなく、有益な過ちのことである。過ちであっても、なにかそこからよい結果なり帰結がもたらされるとか、反省材料となってのちのち有益なものと判明するかもしれない、そんな過ちのことである。失敗もただの失敗ではなく。示唆的な・いろいろ教えてくれるような失敗である。実は無意識のうちに失敗したがっているということもある。成功してあたりまえなのに失敗するようなこと。あるいは成功するはずが失敗したことによって弱点とか欠陥のようなものがみえてくる、そういう失敗なのである。

翻訳では「失敗」と訳しているが、原文ではmistakeであり、mistakeを失敗と訳すのも失敗にちかいミスではないかと思うのだが、そこには触れずに、instructive (and destructive) mistakesにおいてinstructiveあるいはdestructiveではなく、instructiveで、なおかつdestructiveということに着目したい。これは、すでに述べたように、自分からすすんで破滅的・自虐的におかすミスということにもなる。

しかし、ここまでくると、ふっとわかりそうなものなのだが、「役にたつ誤りや有効な(そして破壊的な)失敗」というのは、精神分析を構成する(欠陥的)要素ではなくて、精神分析がお得意の考察対象ではなかったか。

今は昔、私は小学生高学年から中学生の頃、フロイトの理論の何に驚いたかというと、錯誤行為(たとえば言い間違い)のなかに無意識の欲望(日常生活の精神病理)が潜んでいるということだった。この驚きは、現代の人間にはないのだろうか。過ちやミス(失敗もいれておこう)は、撲滅、排除すべきゴミではなく、そこに本質が透けて見える機会や契機を提供してくれる、貴重きわまりないものである。まさにこうしたエラーやミスから、物事の本質に迫るのは、精神分析の独壇場ではないだろか。

つまり、この翻訳というか、この誤訳からは、精神分析というのは、誤りと失敗とうけいれ難い方法からなる学問分野になったということになってしまうが、それでいいのか。「精神分析は、役にたつ誤りや有効な(そして破壊的な)失敗、うけいれ難いが根本的でもある方法からなる学問分野になったのだ」ではなく、「精神分析は、役にたつ誤りや有効な(そして破壊的な)失敗、うけいれ難いが根本的でもある方法を扱う学問分野になったのだ」とすべきである。

全体の流れとして、「そして精神分析は、以前にもまして、ウィリアム・ジェームズがいう「前進しつづける」ものになっている」。

このあとをうけて「精神分析は、役にたつ誤りや有効な(そして破壊的な)失敗、うけいれ難いが根本的でもある方法からなる学問分野になったのだ」とつづく。構文も、主語が精神分析、そして動詞がhas becomeであって、構文は同じなのである。。

この2文は、この翻訳者がお得意の同格関係、同じことのくりかえしというべきものである。精神分析は、重要な基点/参照点になった。それは、~を扱う学問分野になった。この二つの文は、精神分析に対して一定の距離を置きつつも、現代における重要性を強調しているのである。

すでに精神分析はジャガーノートかと冗談めいたことを書いたが、冗談は冗談ではなくなるのかもしれない。なにしろこの翻訳者にとって精神分析は「前進しつづける」失敗の巨大な邪神(ジャガーノート――ヒンズー教にとっては邪神ではないが)というイメージなのかなと思うからだ。

さらにこの一文の誤訳は、disciplineが、「~は、an academic discipline.」というように、語のあとにofがこない構文になることがふつうなので、ofの用法について苦慮したのではないだろうか。

ネット上で調べた例文には、こんなものがあった。
a discipline of mechanical engineering of ships, called marine engineering
船舶工学という、船の工業技術に関する学問

あるいは a branch of instruction or learningという定義のもと、例文として:
[countable] the disciplines of history and economics. 
【可算名詞】歴史や経済を扱う学問分野/学科


ここで、原文にもどってみると、It has become the discipline of useful errors, of instructive (and destructive) mistakes, of radical roads not taken.とof以下が三つもので構成されているが、A, B, Cという並べ方でA, B, and Cではないことに注意。後者は構成要素が3つしかないが、前者は、構成要素が3以上、つまりAやBやCなどという意味になる。

さて、そのCにあたる部分に“radical roads not taken”とあるのだが、これは知っている人は知っている、あるいはアメリカ人ならトランプ派でも知っている有名なフレーズから来ている。アメリカの詩人ロバート・フロストの詩“The Road Not Taken”から来ている。川本皓嗣編『対訳フロスト詩集 アメリカ詩人選(4)』(岩波文庫2018)を是非読んでいただきたい――見事な訳文と解説で、もともとレヴェルの高いこのシリーズのなかでもベスト版のひとつといえる。そこでは「選ばなかった道」と訳されている。

アメリカでは学校でならう有名な詩なのだが、しかし、これは岩波文庫で編者の川本氏が述べているように、けっこう曲者の詩である。有名な最後の第四連の翻訳を引用させていただくと

いつの日か、今からずっとずっと先になってから
私はため息をつきながら、この話をすることだろう。
森の中で道が二手に分かれていて、私は――
私は人通りが少ない方の道を選んだ、そして、I took the one less traveled by
それがあとあと大きな違いを生んだのだと。


この最後の一連だけ読むと、詩人は、むかし、道が二つに分かれているところにやってきて、人があまりとおらない、人が選びたがらない道を、おそらく苦難の道、困難な道を選んで、それで人生に成功した、あるいは、いまの自分があると言わんとしているように思われる。

ところが最初からこの詩を読んでみると、実は、詩人は、もっと平坦な道、歩きやすい、行きやすい道を選んでいる。さらにいえばどちらの道も、そんなにかわりはないとまで語っている。この第4連での比喩的にいえば困難な道を、実のところ詩人は歩んでいない。のちのち、こんな嘘をいって自慢話をするかもしれないというような、ひねくれたことを言っている。実に曲者の詩であって、詳しいことは、川本氏の解説を読んでいただければと思う。

そこで今回の原文にもどる。さらに、

「精神分析は、役にたつ誤りや有効な(そして破壊的な)失敗、うけいれ難いが根本的でもある方法からなる学問分野になったのだ」。において“radical roads not taken”のroadを「方法」として意訳しているが、これは誤訳である。「からなる学問分野」と解釈したいので、roadは、道筋、プロセス、過程とみるのではなく、「方法」として解釈し、座りをよくしたにすぎない。

しかしそれでも、「ラディカルな方法」からなる学問分野なら意味が通るかも知れないが、この方法/roadsにやっかいなことに“not taken”がついている。なんだこれはということになる。「選ばれなかった方法からなる学問分野」というのは、何なのだ? これは幽霊がメンバーの集合ということになる。幽霊によって構成される学問分野ということになる。おそらく、これは、過ちや失敗よりももっとひどい、ありもしない妄想からなる学問分野なりというかたちで精神分析をこきおろそうとしたのかもしれない。

ただ、そこまではひどすぎると考えたのか「うけ入れがたいが根本的な方法」というふうに解釈した。そうして誹謗中傷のニュアンスを緩和した。「うけ入れがたい」と。しかし原文は「受け入れていない、選ばれていないNot taken」である。ここにきて、この受け入れがたい翻訳における解釈を根本的にみなおすべきであった。Not takenの方法からなるものとは何か?たちの悪い謎々か。しかしNot takenの道/道筋/過程について考える/扱う学問というのは充分に成立する。

そもそも、なぜ、もっとラディカルな(根本的/過激な)方向なり過程あるいは端的に道を選ばずに、安易な道あるいは妥協の方向を選んでしまったのか、あるいは選ばれていないが、根本的な/過激な道とは何であったのかを考えることは、学問分野の名にあたいするいとなみである。

精神分析に対する批判的な眼差しはこのパラグラフの最初からうかがえるのだが、しかし、そのために、一応、精神分析の位置づけ、あるいは功績、その特徴を、冷静に語るところもまた、品のない、ナンセンスな悪口が語られていると翻訳者は勘違いしたようだ。

これは英語力とか英語読解力の問題ではない。

とにかく、選ばれなかった解釈こそが、実は正しい根源的なものであった。それを確認したうえで、次回につづく。

posted by ohashi at 22:26| 翻訳セミナー | 更新情報をチェックする

2021年03月13日

放射能入り牛乳 2 付記

まだ映画『復讐捜査線』のブルーレイをみつけていないので、確認のためにみていないので、違っていることもあるかもしれないが、ここで一応補足を。

この映画のなかで、原子力関連の企業の社長に放射能汚染された牛乳を飲ませるというのは、私は心の中で、拍手喝采したのだが、なんちゅう話だとあきれた人も多いかと思う。そのため、ここで補足を。

ただしネタバレなので注意。Warning: Spoiler

映画のなかでは、放射能汚染された牛乳を飲ませてはいない。メル・ギブソン扮する刑事は、ただ、だまって牛乳を飲ませるのである。またその牛乳は、ふつうの牛乳である。放射能で汚染された牛乳ではない。だいいち、そんなものどうやって手に入れるのだろうか。

ところが悪徳社長のほうは、メル・ギブソンが、娘の復讐のために、娘に死をもたらした放射能汚染された牛乳を自分にむりやり飲ませたのだと思い込み、いそいで放射能を緩和する薬を飲む。しかし、ふつうなら牛乳を飲まされても、放射能を緩和する薬は飲もうとは思わない。このあわてふためく姿をみて、この社長が、放射能汚染された牛乳で殺人をおこなった首謀者であることをメル・ギブソンは確信する。

そして逮捕するかというと、その場で、射殺する。いくら極悪非道な罪人とはいえ、無抵抗の犯人を射殺することによって、この刑事(メル・ギブソン)の運命は決まる。エンターテインメント映画は、ポエティック・ジャスティスを重視する。非合法な方法で犯人を殺したメル・ギブソンは映画の最後で生き残ることはない(たとえばハムレットが生き残れないのは、劇の途中で、あやまって人を殺してしまうからである。これによってハムレットは最後には死ぬだろうと観客には予想がつく)。

実際、メル・ギブソンは、粘り強い捜査によって犯人側に恐れられ憎まれ、放射能汚染された牛乳を知らずに飲まされてしまうため、健康がむしばまれ、もう余命いくばくもなくなっている。彼は最後の力をふりしぼって復讐を遂げるのである。

映画の最後で、メル・ギブソンの病室に、すでに死んだ娘が迎えにくる。ふたりは手に手をとって病室から抜け出してゆく。メル・ギブソンは死んで、殺された娘といっしょに天国に行くということになる。

この娘を『インスティンクト』のボヤノ・ノヴァコヴィッチが演じていたのだが、顔がどうしても思い出せない。

なお「復讐捜査線」という間抜けなタイトルは、映画会社が「捜査線」好きなことからきているのかもしれない。

『夜の大捜査線』という1968年にアカデミー作品賞や主演男優賞をとった有名な映画がある。黒人の名優シドニー・ポワチエ扮する敏腕刑事が、人種差別の激しい南部の田舎町に、事件の捜査のためやってくるのだが、地元警察の協力を得られず、単身捜査をするという映画のタイトル(原題は「夜の熱気のなかで」)が、あろうことか「夜の大捜査線」――これはけっこう有名な話(笑い話)になっている。まあ、この作品の影響で、日本のテレビドラマでも『踊る大捜査線』というのがあったのだが、その影響なのかもしれない、『復讐捜査線』というタイトルが。
posted by ohashi at 22:54| 映画・コメント | 更新情報をチェックする

2021年03月12日

放射能入り牛乳

いまCSで『インスティンクト』を放送中だが、昨年の今頃、シーズン2のDVD/ブルーレイが発売/レンタル開始したので、日本でもWOWOWなどで放送されたものの再放送のようだが、今放送中のシーズン2(アメリカでは2019年に放送)で打ち切りというのは残念である。

アラン・カミング(『グッド・ワイフ』の頃よりもさらに老けた感じがする.-実年齢よりも10歳くらい上の感じがする)と、ボヤナ・ノヴァコビッチのペアは、こうしたバディ物の常套的設定で、仲がいいのだけれど性的関係はないという,つかず離れずの友情関係を成立させるために、ゲイの男性とストレートの女性捜査官という関係が実に面白かったのだが。

そのボヤナ・ノヴァコヴィッチなのだが、どこかで見たという年寄り独特のあてにならない既視感にとらわれていたが、『アイ、トーニャ-史上最大のスキャンダル-』に出演していた。トーニャのコーチを自分から買って出る役柄だったが、その間の詳しい事情は映画のなかでは語られなかったように記憶している。ボヤナ・ノヴァコヴィッチの存在が気になったのは、実際のトーニャ・ハーディングは、映画のなかでマーゴット・ロビーが演じているのだが、実際のトーニャ・ハーディングは、彼女よりも、ボヤナ・ノヴァコビッチのほうが似ているという感じがしたからである。

21世紀になって実在のトーニャ・ハーディングは、女子プロレスに参加したり、ボクシングの試合をしたりして、フィギュアスケートの選手だったとはとても思えない、たくましすぎる体型になっていたが、映画のなかでのマーゴット・ロビーもフィギュアの選手とは思えない、たくましい体つきになっていた。しかし、私はリアル・タイムでトーニャ・ハーディングをテレビで見ていたが、もちろん、当時の彼女は、いかにも、フィギュアスケートの選手のらしいスマートな体型で、女子プロレスラー/マーゴット・ロビー系統とはまったく違っていた。だからマーゴット・ロビー扮するトーニャ・ハーディングは違うぞと頭のなかで文句を言い続けていて、その分、映画に入り込めなかった記憶がある。

で、ボヤナ・ノヴァコビッチの出演映画だが地球侵略物『スカイラン』の続編『スカイラン-奪還』に出演していた。『スカイライン』は映画館でみたが、続編は公開されたのかどうか覚えてないが、映画館で上映されても出向かなかったと思う映画で、amazonプライムでみた。しかし彼女の出演作で評判がよいのは『デビル』とか『シークレット・パーティ』なのだが、それ以外の映画出演については心当たりはなかったので、調べてみたら『復讐走査線』(Edge of Darkness メル・ギブソン主演2010年、日本公開2011年)に出演していた。まったく記憶にないのだが、メル・ギブソンの娘役? それなら覚えている。どういう役回りだったのかもしっかりと。映画の最初のほうで殺されてしまうのだが、最後にも登場する。病室のメル・ギブソンのもとに訪れた娘は父親の手をとって病室から抜け出していくのである(これはメル・ギブソンが最後に死んだという暗示)。

ここまで印象的な役なのだから、顔を覚えていそうだが、どうしても思い浮かばない。もちろん映画を見直してみれば、そこにボヤナ・ノヴァコヴィッチがいるはずなのだが、しかし、いまの私の頭のなかでは、メル・ギブソンの娘役の女性の顔は、まったくの空白のままである。

今回、amazonで中古のDVDでも購入するか、どこかでレンタルして見直してみようかと思ったのだが、amazonからDVDを以前に購入していたことがわかった。結局、封を切らずに、未視聴状態になっている。捜すのに時間がかかりそうだ。

したがって見つかって見直さないとなんとも言えないところがあるのだが、この映画は、衝撃的な内容ではあった。とりわけ2011年には。

Amazonから映画の内容を引用したい――

【STORY】
娘を殺したのは誰だ! ?/今、父の怒りが巨大な陰謀を打ち砕く! !

ボストン警察殺人課のベテラン刑事トーマス・クレイブンは、最愛の娘を自宅の玄関で、それも目の前で射殺されてしまう。
事件は彼に恨みを持つものの犯行と思われた。
だが、彼は独自に捜査を開始し、事件の陰に、娘が勤務していた軍需企業の犯罪的行為と国家の安全保障にまで影響を及ぼす巨大な陰謀が潜んでおり、娘は真実を暴露しようとして謀殺されたことを知る。
復讐の鬼と化したクレイブンは、様々な罠や妨害をものともせず、事件の黒幕に迫っていく。
犯人の逮捕でも、事件の解決でもなく、ただ復讐のためだけに………。


軍需企業の犯罪的行為がなんであったのか覚えていないのだが、秘密を知られた企業側は、放射能汚染された牛乳を飲ませる(もちろん当人は、なにも知らないまま飲んでしまう)ことで命を奪うという卑劣な手段に訴える。

ちなみにamazonのレビューにつぎような記事があった。

モンテ・ヤマサキ
5つ星のうち5.0 これは相当良いですよ。

2017年11月29日に日本でレビュー済み
この邦題をつけたのは間違いなくアホで、映画をぼうとくしている非道残虐行為だと思います。こんなアホどもは、この映画内でメル・ギブソンに撃たれて死にますがね。

マッドマックス4なんざどうでもよい。あんなものはクソだよ。マックスが本当に帰ってきたぞよ。喜べ。

俺はここでメル・ギブソンに俳優の枠を超えたものを受け取ったよ。三船と同じようにな。

2019年、今日、今、この映画を見直していて、フッと気付いた。。。こんなフザけた邦題をつけてカモフラージュでもせんことには、この国でマスメディアにのせるのは不可能だということなのではないかと。。。それくらいヤバイ内容だったのだと。。。ありえるぞ


何がやばかったのか、正確に思い出せないのが、今はつらいが、たしかにヤバイ内容だったのである。この映画のなかで圧巻なのは、メル・ギブソンが企業のトップの屋敷に単身殴り込み、社長を追い詰め、これを飲めと、牛乳瓶から白い牛乳をむりやし飲ませるシーンである。

牛乳の白さ、そして放射能汚染された牛乳のまがまがしさ。そして復讐の憤怒に身を委ねて社長に汚染された牛乳を飲ませる場面。私は、映画館で立ち上がって拍手しようと思ったくらいだ。ほんとうにいいぞ、と声が出そうになった。

映画を見直してみないとなんともいえないのだが、この映画では放射能汚染牛乳を飲まさる社長は、原発もつくっていた電力会社のトップではなかったのか。ちがっているかもしれないのだが、ただ、ちがっていても、放射能で汚染された作物や、放射能による汚染は、2011年の後半、大きな問題となり、福島産の食材が買われなくなったり、あるいは諸外国からも日本の国土の放射能汚染が問題視され、日本人の誰もが、放射能汚染に敏感になり、また、その元凶ともいえる原子力発電所や原子力産業、東京電力にたいしては、怒りをくすぶらせていたような気がする。

当時、学生向けの専修課程(英語英米文学専修課程)案内の冊子に、卒業生の就職先をリストアップする頁があったのだが、その頁から「東京電力」を研究室側で削除した記憶がある。実は、すくなくとも5年以上、ひょっとしたら21世紀になってから、東京電力に就職した専修課程卒業生はいなかったのではないかと思いいたったからである。調べてみたら、たしかに東電に就職した学生は10年以上いなかった。

ずいぶん昔にはいたので、就職先のひとつに「東京電力」というのを、どちらかというと誇らしげに掲載していたのだ。しかし、2011年度になってみると、この記載は、なにか不吉な、まがまがしさを帯びるようになった。反原発派の私としては、東京電力は悪徳企業以外の何物でもないのだが、それとは別に、2011年の後半には「東京電力」というのは恥ずかしい名前となった。そして繰り返すが、卒業生がここ何年も就職していないということで、実情に即していない記載は削除するということで、「東京電力」という名前は、専修課程案内の卒業生就職先リストから消えた。

映画のなかの悪徳企業が電力会社ではなかったとしても、放射能汚染した食物(ここでは牛乳)を、凶悪な悪人の社長の喉に流し込むことは、見ている側にとっては、電力会社の社長に、放射能汚染した食物を食べさせてて責任をとらせるという、溜飲が下がる、まさにカタルシス以外の何物でもなかった。

だから、この映画は2011年を思い出して、いまこそ見直してみるべき映画である。Amazonのレヴューアーが述べているように、Edge of Darknessを「復讐走査線」とふざけたタイトルをつけた映画会社こそ、この映画のやばさを、この映画の社会的告発の鋭さと強度を把握していたのかもしれない。

そう思い出してきた。これは電力会社というよりも、また軍需企業でもなく、原子力関連企業について、その闇を暴いた映画でもあったのだ。
posted by ohashi at 00:46| 映画・コメント | 更新情報をチェックする

2021年03月11日

10年前

今日が東日本大震災から10年めということで、いろいろ思うことがある。

いまでもよく覚えているのは地震は金曜日だったことだ。2日前の水曜日に新宿の映画館にいるとき(映画館と作品名をつなげて覚えているので、というか映画館で作品を覚えるのが趣味なので作品名も覚えているが)、強めの地震があった。思えばあれが大地震の前触れだった。

木曜日は、教授会のある日で、大学に出かけるとき、当日が合格発表であることを忘れていて、赤門からキャンパスに入ろうとして、合格発表を見にきた受験生の集団に巻き込まれて引き返すことも別ルートをとることもできなくなり、赤門経由でキャンパス内まで渋滞している集団から抜け出すまでに相当な時間がかかった。教授会には、かろうじて間に合ったのだが。

この教授会は年度内最後の教授会で、あとは、卒業式まで、3月は何もない。学務から一時的にまぬがれた解放感で、運命の金曜日には、映画をみにいっていた。映画上映中に、大地震に遭遇。上映は中止になりいったん廊下に逃れたのだが、また館内にもどされ、スクリーンの脇の非常ドアから外へと案内された。そのとき3Dメガネをもったまま右往左往していて、映画館から出るとき、ふと気がついて、そのメガネを係員に返したことを記憶している。

だが、苦難は、映画館から出たときからはじまった。神奈川県の映画館だったのだが、外にでると余震が何度も襲ってきた。そのうえさらに周囲が完全に停電している。周囲の店舗から客だけでなく従業員も外にでてきている。信号機も停電でとまっている。もよりの駅にもどったら、JRと私鉄がともに止まっている。

10年前の3月11日はまだ寒かった。すぐに心配したのはトイレのことで、駅周辺の店舗は内部が真っ暗で、そのトイレを使ったり借りたりするのはむつかしいそうだ。駅のトイレの前には長蛇の列ができている。

結局駅の近くの小学校の体育館へと避難することになった。小学校のトイレが使えるので、ひとまずトイレの心配はなくなり、あとは電車の復旧を待つことになったが、余震のつづくなか、電車の復旧の目途はたっていない。

東大の文学部では避難者のために、いろいろな飲み物を用意していたらしいが(利用者はそんなにいなかったにしても)、私が避難した小学校の体育館では水しか提供しない。湯飲み茶碗も数に限りがあるから、使ったら洗って戻せというようにいわれる。幸い、ペットボトルの水をもっていたので、水をめぐんでもらうことはなかったのだが。

夜になると、この体育館は、地元の人が使うので、そうでない人は、隣の小学校の体育館に移動してくれといわれ、停電地帯で街路灯も信号も消えていて、道路を走る車のライトだけが周囲を照らしているというところを、歩いて移動した。到着した隣の小学校の体育館では、乾パンとバナナ1本と毛布が支給されここで一夜を過ごすことになった。夜の11時台になって私鉄が復旧したとの連絡があったが、それを利用して東京に戻っても、そこから先の保証がないために、結局、一夜を過ごすことになった。余震は何度も襲ってきた。

別の体育館に移動するとき気づいたのだが、停電しているのはこの地区だけで、遠くの東京方面では明かりがついていた。どうやら避難生活を余儀なくされたのは、この地区にいる人間だけだった。

東北からは遠く離れているのだが、私は偶然にも避難生活を経験することになった。それでわかったことがある。いつもは食いしん坊の私が、乾パン1個とバナナ一本で、満足してしまった。それでも空腹感がまったくない。つらいとも思わない。つまり避難生活、耐久生活を、たとえ一晩でも余儀なくされたとわかったのとき、体が急遽、省エネ・モードに移行したのである。

もしこの状態が長くつづいたら、省エネ・モードは、身体活動、精神活動に影響を及ぼし、人間を長期的に衰弱させることがわかる。たとえ身体的に問題はなくとも、精神的にダメージが大きいのではないか。省エネ・モードはじわじわと影響を及ぼしてくるのが恐い。たとえ一夜のことであっても、被災地の人たちの苦難について、その一端を感ずることができた。



2011年4月29日公開された映画『阪急電車 片道15分の奇跡』(監督 三宅喜重;脚本 岡田惠和;原作 有川浩;出演者 中谷美紀、戸田恵梨香、宮本信子、芦田愛菜ほか、
上映時間120分)を4月か5月に映画館でみた。実は、その前の年、某大学の集中講義を担当して、大学が用意してくれた宝塚ホテルに宿泊し毎日阪急電車を利用して大学まで通ったことがあるので、一週間とはいえ、阪急電車利用者であった私は懐かしい思い出とともに、この映画をみていた。「ハートフル群像映画」ということで、それになりヒットした映画だったが、見ていて、なにか涙があふれそうになった。

撮影は2010年に行なわれている。この世界、東北から遠く離れた関西の地では、大震災の影響はなかったかもしれないが、この映画のなかの阪急電車沿線の世界は、震災前の、もはや失われて二度ととりもどせない世界であるということに気づいた。

物的被害の甚大さ、犠牲者の多さ、そして原発事故、それ以前の過去の安定が根源から揺さぶられた感のある、この震災は、それ以前とそれ以後とを区切る大きな契機となった。ポスト東日本大震災は、失ったものへの悲しみと来たる惨事への不安にさいなまれる動揺の時代となった。そしてそのぶん、それ以前が、ノスタルジックな思いのなか、いや増しに甘美さを生み、哀切な意識をかき立てて止まないのだろう。

あるいは見方を変えれば、ポスト震災はポスト原発事故でもある。

東北大震災は、大きな地震と津波で、多くの犠牲者が出た大惨事であるというにとどまらない。原発事故が、東北福島の大地だけでなく、この震災そのものを汚染したことでなによりも記憶されるべきだ。

原発事故による汚染ゆえに、大震災の記憶を希薄化する、あるいはフェイク化するような、そして原発事業を再生しようとする勢力の跳梁跋扈を招くことになった。犠牲者への追悼が、原発事故を忘却してしまいたい政治的判断によって、希薄化されている。だが、そのいっぽうで、原発事故を伴うことでこの大震災は、あまたの震災被害・津波被害のなかでも、絶対に忘れることのできないものとなった。消し去ろうとする勢力がいくら悪辣な手段を用いても、この震災は原発事故の記憶とともに存在しつづけるだろう。

ポスト原発事故は、ある意味、記憶をめぐる闘争の世界となった。

posted by ohashi at 17:24| コメント | 更新情報をチェックする

2021年03月10日

『現代批評理論のすべて』

『現代批評理論のすべて』(大橋洋一編 新書館)の増刷(7刷)が3月15日に発売される。店頭にはすでに並んでいるかもしれない(とはいえこれを店頭に置いてくれる書店は、そんなにないと思うものの)。またネットでの注文も可能になっていると思う。

今回、あらためてその7刷を手に取ってみて、編者である私がいうのも、へんだが、よくできた本だと思う。2006年の初版以来、細々とではあるが版を重ねてきたのは、読者によって支持されてきたからであるが、実際、この本は、またも編者である私がいうのもなんだが、実によくできた本であることを今回、実感した。この種の入門書としては、誰にでも自信をもって薦められる。

テーマ篇、人名篇、用語篇、そしてコラムから索引に至るまで、緻密な編集作業が光っているし、この種のハンドブック的な本としては、相当、装備品が充実している。新書館のこのシリーズはどれもが有用性の高い入門書・ハンドブックとなっているが、『現代批評利理論のすべて』は、シリーズ中トップとまでは言わないが、このシリーズのベスト何位というところには入るのではないかと自負している。その証拠に――どうか現物を手に取っていただきたい。

2006年初版以来、内容はいじっていないが、扱われている人物の没年は追加している。つまり刊行当初から現在に至るまでに亡くなった思想家・批評家は多い。これは当然のこととはいえ、私個人としても、いまなお読んでいる思想家・批評家や、かつて刺激を受けた思想家・批評家たちが亡くなっていくのは、時代が終わってゆくような、あるいはジジェクの本のタイトルではないが、「終焉の時を生きる」感じが否めないのだが、しかし、この『現代批評理論のすべて』で扱われている人物が、すべて亡くなったとしても、この本は、読む価値があるという自負はある。それほど、各執筆者の書かれた内容は素晴らしいのである。

実は執筆者情報は、2006年時のままである。だから本書を初めて手にとられる読者は、若手の研究者が書いているという印象をうけると思う。これがよい印象をあたえるのか(清新気鋭の若手による鋭い論考と解説とみるか)、悪い印象をあたえるのか(大御所的な権威ある執筆者が誰もいないとみるか)、私としては判断できないが、悪い印象をもってしまった読者には、どうかこれが2006年時点の本であることに留意していただければと思う。初版から15年たっている。執筆者は当時は若手でも、今は中堅かそれ以上の、名の知れた、一目置かれる、また権威ある研究者や教育者になっている。正直いって、現時点で、同じ執筆者を集めて、このようなハンドブックはつくれない。執筆者たちが、大物すぎるのである。

繰り返すが、初版刊行当時、若手であった執筆者は、いまは、誰もが有名な研究者・教育者になった。いや一人だけ例外がいる。それは編者の私である。実際、執筆陣が、初版刊行時から、どんどん優れた仕事なり研究をして著名になっていくの比べて、私の声望だけは、どんどん下がっていることは否めない。

おそらく事情に詳しい読者は、本書を手に取って、あの有名な人が、若いころにこういうことを書いていたのかと驚いたり感慨を深めたりするかもしれないし、このことによって、本書の価値が高まることはまちがいないと思うが、一方、編者が、いまやあまりに無名であることに驚かれることだろう。どうして、こいつが編者なのか、と。どうか、誰も知らない編者の本なんか読むかと思わないでいただければと思う。執筆者は、みな優れているので、読む価値は絶対にある。

最後に、本書の装丁は新書館のほうでされたのだが、表紙に使われているのは植物の種子の大きな写真で、刊行当初、その意味なり暗示性を聞かされたような気がするが失念してしまった。ところが昨年から、この表紙についての人から言われることが多くなった。この表紙のイラストというか写真は、コロナウィルスに似ている、と。

これも何かの縁ではないかと思う。もちろん、コロナウィルスに感染されて重症化されたご本人、亡くなられた方の関係者にとって、コロナウィルスに似た変な種子の写真を表紙に使っている本など、ディスガスティングなものかもしれないが、またその気持ちはよくわかるが、そうではない私も含む多くの人たちにとって、コロナウィルスとの図像的類似は肯定的にとらられるものである。なにしろ、この表紙の図像は、コロナとともに生きる私たちの今後の生活様式を考えさせてくれる契機となるかもしれないのだから。

本書(正確にはその表紙)には、死を忘れるな、コロナを忘れるなという暗黙のメッセージが昨年に生まれたのである。

posted by ohashi at 23:30| 推薦図書 | 更新情報をチェックする