原稿を印刷してもらえない
カフカのこの小説にみられる、官僚組織あるいは司法組織の煩雑な手続きに翻弄されるというか無為に待たされる一庶民の不条理な苦しみは、これはメタファーであると同時に、まさに現代そのもの、メタファー性あるいは形而上性の希薄な、現実のありようそのものといえるのかもしれない。召喚する庶民を延々と待たせること、進展しない裁判で権力を維持する不条理の過程、そうしたものの指摘もカフカ(その前は『荒涼館』のディケンズ)の功績といってよいかもしれない。
さしずめ今なら、コロナ感染しても自宅治療という名の自宅放置によって、検査が受けられない、治療が受けられないまま感染者が死んでいく世界は、まさにカフカの『審判』の世界が、悪夢物語ではなくて、いよいよ現実に出現したかのようである。今なら保健所が国民の選別をおこなう最悪の公的機関となっている。保健所が、カフカの掟の門みたいに、訪れるものを死ぬまで待たせ、訪れる者を選別しているからである。
こんなことを書くと、入院中あるいは入院前に病院で待たされたのかと勘ぐられるかもしれないが、私が入院した病院の名誉のためにも、待たされることはなかった。むしろ紹介状をもって(私のかかりつけの病院には外科がないので)赴いた病院では、迅速に、検査、手術、入院の計画を作成してもらい(そのなかには手術前のPCR検査もふくむ)、予定通り、なんのとどこおりなく治療を受けることができた。待たされたということはまったくない。
では何に待たされているのか。『審判』の世界のように、プロセスがどの程度まですすんでいるのか、まったく不明で、ただ自宅で待たされている、あるいは放置されているのである。何が。私は皇帝の使者の到来を待っている。だが、当分、使者は来そうにない。というかたぶん私のことは忘れ去られているのだろう。なにが? 私の書いた原稿のことである。いつまでたっても印刷にまわしてくれない。
いや、自分で書いた文章なら、それこそこのブログであるいはウェブ上のサイトで全文を公開してもいいのだが、原稿は、翻訳原稿だからたちがわるい。
すでに2冊の本を翻訳し、その索引(原著の頁が入っている)までも作り上げたのに、印刷にまわしてくれないし、いつ本ができるのか、その完成までのプロセスがまったくわからない。
理由のひとつは、私が迫害とか嫌がらせを受けていて、原稿を完成させても印刷にまわしてもらえないのかもしれない。これは私のパラノイアではなく現実という感じがするが。
もうひとつのもっともな理由とは、この自粛生活で自宅での作業がはかどり、原稿がどんどん完成して、予想外に多くの完成原稿が、執筆者たちから提出されも、出版社自体、リモートワークなどで、原稿処理がうまくはかどらない。印刷にもなかなかまわせないのかもしれない。渋滞状態で、前がつまっていて、原稿が印刷にまわせないということは十分にありうる。しかし、いつまで待ったらよりのか。
そしてこれまで、原稿の完成が常に遅れ、出版社に迷惑をかけてつづけたことのやましさもあって、原稿を早く印刷にまわしてくれとは要求できないところがある。これまでの悪行がたたって、早く原稿を完成させても、印刷してくれない。ずっと待たされている。
実際のところ、この3月で、三冊目の翻訳が終わりそうなのだが、それも待たされるのかもしれない。
すでにゲラになっている原稿はある(ただし出版予定はたっていない)。しかし、ゲラにもなっていない原稿もあるので、頭にきている私としては、印刷出版してくれる出版社があるのなら、原稿を提供したい。しかも無償で。
あるいはこのブログか、自分でウェブ上にサイトを作って、そこで全文公開してもいい。版権なんか知ったことか。原稿料が目当てではないので、ネット上で公開できれば、それに越したことはない。これは本気で考えている。
早ければ明日からも、そうしていいのだが、まだ皇帝の使者が、ドアをノックするのではないかと待っていたい気持ちも少しはあるので、あと少しだけ待っていたい。
2021年02月21日
待たされて 1
カフカ『審判』
入院中にカフカの『審判』を読んだ。入院中に読む物としてKindleを持参したので、そこに入っている『カフカ大全』(原田義人訳、古典教養文庫)で。無料じゃなかったとしても数百円でダウンロードしたのだと思う。
Kindle版の解説などを読んでみると、これは筑摩世界文學大系(朱色系の装丁)を電子化したもののようだ。退院後、長らく書棚の奥に眠っていた、この筑摩世界文学大系版を手に取ってみた(正確にいうと、地震で、床に散乱した本のなかに、これがあったのである)。箱には650円と値段が印刷してあった。いまでいうと6500円くらいか、いや、それほど高いものではなくて、3000円くらいだろうか。作品のラインアップをみると、Kindle版と筑摩版は同じである。かつて『審判』は、その筑摩版で読んだ。退院後、なつかしさのあまり、その筑摩版を手に取った。収録作品ならびに解説は、同じなのだが、『審判』は、原田義人訳ではなく、辻瑆訳である。もちろん二つの訳に大きな違いなどないのだが、Kindle版の翻訳にやや違和感(昔読んだのとすこし違う)を抱いたのは、そのせいだったのかと納得した。
なお書籍として手に取ってみると『審判』、けっこうな分量のある小説である。それを病院で手術後にベッドでKindleで全部読み切ったというのは、実際には、他にもKindleで読んだ本があったので、やはり入院中は、集中して本が読めたのではとあらためて思った。
『審判』は、最初に翻訳で読んだときにも衝撃を受けたのだが、たとえば画家の狭苦しい屋根裏部屋を裏口から出て階段を降りると、そこは裁判所事務局が広がっているとか、銀行内の使われていない倉庫のような部屋をあけると、そこで腐敗した裁判所職員に対するむち打ちの刑が行われているという、予想もしなかった展開あるいは忘れていたことが急に回帰することは、本当に衝撃的だったが、今回、読み進むうちに、その、今まで忘れていた衝撃が蘇った。衝撃が、かつて衝撃をうけたことの想起をともってさらに倍加されたかのようだった。英語でいうとwith a vengeanceというやつである。
前から思っていたのだが、この訴訟は、ヨーゼフ・Kひとりだけを中心として動いているようにみえる。強いて言えば、彼の頭のなかだけに、あるいは彼一人のためだけに裁判所組織が動いているというところがある。有名な、掟の門の挿話もそうである。
と同時に、裁判所あるいは世界はヨーゼフ・Kにはまったく無関心で冷淡で、彼のために便宜をはかろうという気などまったくないように思われる。掟の門の寓話も、Kを中心にすべてが樹立され動くということもできるのだが、その解釈をあの手、この手で否定しにかかっていることからも、世界は注意を払っているのか全く無関心なのかよくわからないところがある。あるいはその二重性に意味があるともいえるのだろう。
いやまったく不思議な世界なのだ。カフカ的世界では、世界は、私と無関係に存在してはいない。私がいなければ世界も存在しない。しかし、その世界は、私と親密な世界ではない。私が歩くと、暗闇の中からそれまで気づかなかった世界が立ち上がる。だが、その世界は、私が入り込むのを拒むか、あるいは私が入り込んだら抜け出せなくなる、迷宮としての世界であり、私の動きにあわせて私の周囲にどんどん増殖してゆくのである。ふつうなら私が歩きまわればまわるほど、世界の様相がみえてくる。しかしカフカ的世界は、私の動きによって増殖し、やがて私を置き去りにして暴走する謎めいた迷宮都市なのである。
経験からは学ぶものがない。ふつうなら経験を積むことは知や智慧の蓄積をもたらす。しかしカフカ的世界では、経験は、解けない謎に直面するだけであり、もしかしたら経験が謎を解くのではなく謎を生み出しているところがある。
なにもしなければいいのか。動かず、経験もせず、ただ不動の一点としてのみ存在する。ケノーシス、自己放棄と自立性の棄却が、世界を謎化から救うことになるように思われる。だがそこに行動的意味、目的のある行為が生ずると世界は増殖しはじめる。
たとえば待つこと。ただひたすら待つこと、じっとしていることによって変化は生じないように思われる。だが、何かを待つという目的行為によって、世界は、そこに侵入できない厚みを帯びることになる(『審判』にある「掟の門」の寓話)。あるいはいままさに皇帝の使者が到着するのを待つという意識が生まれると、私のところに向かう皇帝の使者が出現することになるが、私がなにもせずただ待っているだけで、私と使者との距離が縮まるのではなく開きはじめるようになる。私が待つ間に、使者が越えねばならなる山々が、踏破せねばならぬ原野が、通過せねばならぬ街路が、増殖しはじめる。待てば待つほど、使者の到着は遠のくのである。私が待っているかぎり、使者は到着しないというパラドクス。
訴えられたヨーゼフ・Kは、自己の無実の証をたてるべく、自己正当化の文書を作成することになる。だが、どういう点で訴えられているのか定かではないために、自己弁明は、あらゆる可能性を想定して広範囲に及ぶものになるほかはない。そのため自己正当化は、無意味なまでに、全方位的な広がりをもつがゆえに、かえって無効化へとむかうほかはない。いやそもそも自己正当化行為そのものが、Kの有罪性の立証となる。自己の無実を論証する行為そのものが、自己の有罪の証左となる(なおヨーゼフ・Kが訴えられた原因というのが最後までわからないのだが、ただ、Kと女性たちとの関係をみるに、この銀行員は、変質者のイメージが強い。そもそもこの変態は、訴えられてしかるべきではないかという気もした)。
さらにいえば、私にたいする訴訟は、私が生まれたときからはじまっているのかもしれない。この私にたいする訴訟は、私が死ぬまで終わらないことになる。そのなかで私が自己弁明をすればするほど悪あがきとなって、訴訟過程から逃れられなくなる。
こういう世界は、そもそも、何のメタファーなのか。現代社会において人間が蒙る宿命と、その帰結のメタファーあるいは客観的相関物なのだろうか。
入院中にカフカの『審判』を読んだ。入院中に読む物としてKindleを持参したので、そこに入っている『カフカ大全』(原田義人訳、古典教養文庫)で。無料じゃなかったとしても数百円でダウンロードしたのだと思う。
Kindle版の解説などを読んでみると、これは筑摩世界文學大系(朱色系の装丁)を電子化したもののようだ。退院後、長らく書棚の奥に眠っていた、この筑摩世界文学大系版を手に取ってみた(正確にいうと、地震で、床に散乱した本のなかに、これがあったのである)。箱には650円と値段が印刷してあった。いまでいうと6500円くらいか、いや、それほど高いものではなくて、3000円くらいだろうか。作品のラインアップをみると、Kindle版と筑摩版は同じである。かつて『審判』は、その筑摩版で読んだ。退院後、なつかしさのあまり、その筑摩版を手に取った。収録作品ならびに解説は、同じなのだが、『審判』は、原田義人訳ではなく、辻瑆訳である。もちろん二つの訳に大きな違いなどないのだが、Kindle版の翻訳にやや違和感(昔読んだのとすこし違う)を抱いたのは、そのせいだったのかと納得した。
なお書籍として手に取ってみると『審判』、けっこうな分量のある小説である。それを病院で手術後にベッドでKindleで全部読み切ったというのは、実際には、他にもKindleで読んだ本があったので、やはり入院中は、集中して本が読めたのではとあらためて思った。
『審判』は、最初に翻訳で読んだときにも衝撃を受けたのだが、たとえば画家の狭苦しい屋根裏部屋を裏口から出て階段を降りると、そこは裁判所事務局が広がっているとか、銀行内の使われていない倉庫のような部屋をあけると、そこで腐敗した裁判所職員に対するむち打ちの刑が行われているという、予想もしなかった展開あるいは忘れていたことが急に回帰することは、本当に衝撃的だったが、今回、読み進むうちに、その、今まで忘れていた衝撃が蘇った。衝撃が、かつて衝撃をうけたことの想起をともってさらに倍加されたかのようだった。英語でいうとwith a vengeanceというやつである。
前から思っていたのだが、この訴訟は、ヨーゼフ・Kひとりだけを中心として動いているようにみえる。強いて言えば、彼の頭のなかだけに、あるいは彼一人のためだけに裁判所組織が動いているというところがある。有名な、掟の門の挿話もそうである。
と同時に、裁判所あるいは世界はヨーゼフ・Kにはまったく無関心で冷淡で、彼のために便宜をはかろうという気などまったくないように思われる。掟の門の寓話も、Kを中心にすべてが樹立され動くということもできるのだが、その解釈をあの手、この手で否定しにかかっていることからも、世界は注意を払っているのか全く無関心なのかよくわからないところがある。あるいはその二重性に意味があるともいえるのだろう。
いやまったく不思議な世界なのだ。カフカ的世界では、世界は、私と無関係に存在してはいない。私がいなければ世界も存在しない。しかし、その世界は、私と親密な世界ではない。私が歩くと、暗闇の中からそれまで気づかなかった世界が立ち上がる。だが、その世界は、私が入り込むのを拒むか、あるいは私が入り込んだら抜け出せなくなる、迷宮としての世界であり、私の動きにあわせて私の周囲にどんどん増殖してゆくのである。ふつうなら私が歩きまわればまわるほど、世界の様相がみえてくる。しかしカフカ的世界は、私の動きによって増殖し、やがて私を置き去りにして暴走する謎めいた迷宮都市なのである。
経験からは学ぶものがない。ふつうなら経験を積むことは知や智慧の蓄積をもたらす。しかしカフカ的世界では、経験は、解けない謎に直面するだけであり、もしかしたら経験が謎を解くのではなく謎を生み出しているところがある。
なにもしなければいいのか。動かず、経験もせず、ただ不動の一点としてのみ存在する。ケノーシス、自己放棄と自立性の棄却が、世界を謎化から救うことになるように思われる。だがそこに行動的意味、目的のある行為が生ずると世界は増殖しはじめる。
たとえば待つこと。ただひたすら待つこと、じっとしていることによって変化は生じないように思われる。だが、何かを待つという目的行為によって、世界は、そこに侵入できない厚みを帯びることになる(『審判』にある「掟の門」の寓話)。あるいはいままさに皇帝の使者が到着するのを待つという意識が生まれると、私のところに向かう皇帝の使者が出現することになるが、私がなにもせずただ待っているだけで、私と使者との距離が縮まるのではなく開きはじめるようになる。私が待つ間に、使者が越えねばならなる山々が、踏破せねばならぬ原野が、通過せねばならぬ街路が、増殖しはじめる。待てば待つほど、使者の到着は遠のくのである。私が待っているかぎり、使者は到着しないというパラドクス。
訴えられたヨーゼフ・Kは、自己の無実の証をたてるべく、自己正当化の文書を作成することになる。だが、どういう点で訴えられているのか定かではないために、自己弁明は、あらゆる可能性を想定して広範囲に及ぶものになるほかはない。そのため自己正当化は、無意味なまでに、全方位的な広がりをもつがゆえに、かえって無効化へとむかうほかはない。いやそもそも自己正当化行為そのものが、Kの有罪性の立証となる。自己の無実を論証する行為そのものが、自己の有罪の証左となる(なおヨーゼフ・Kが訴えられた原因というのが最後までわからないのだが、ただ、Kと女性たちとの関係をみるに、この銀行員は、変質者のイメージが強い。そもそもこの変態は、訴えられてしかるべきではないかという気もした)。
さらにいえば、私にたいする訴訟は、私が生まれたときからはじまっているのかもしれない。この私にたいする訴訟は、私が死ぬまで終わらないことになる。そのなかで私が自己弁明をすればするほど悪あがきとなって、訴訟過程から逃れられなくなる。
こういう世界は、そもそも、何のメタファーなのか。現代社会において人間が蒙る宿命と、その帰結のメタファーあるいは客観的相関物なのだろうか。
posted by ohashi at 18:02| コメント
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2021年02月20日
猿の尻笑い
私の入院した病院は、感染症対策設備のない病院なので、コロナ感染者で重症の患者はいない。抗原検査やPCR検査を病院内で受けたが、入院患者はいなかった。だから病床不足でひっ迫しているこの時期、重症患者の病床を、感染症とは関係のない病気で入院した私がひとつ占めてしまうということはなかったので、ほんとうにほっとした。
逆にいうと、病床不足で私の手術・治療ができないのではないかと心配していたが、そういうことはまったくなかった。そして入院・手術費も予想していたよりも安かった。ありがたいことに。
前回入院したときには、個室を希望したが、入院したら個室がつまっていて、4人部屋にまわされたが、ただ、そもそも個室希望であることが伝わっておらず、手術後どうしたものかと思っているうちに、退院許可が下りたため、個室に入る機会を完全に逸してしまったが、今回は、むりに個室に入る必要もないと思い、最初から4人部屋にした。カーテンで患者の区画が区切られていて顔はわからない。またみんなマスクをしているために、たとえ町で出会っても、たがいに相手が誰だかわからない。
そんななか私よりも早く退院する同室患者が病院の職員から入院費や退院手続きなどについて説明を受けていた。カーテン越しに聞こえてくる会話から、入院費がいくらかを気にしていて職員に概算を聞いていることがわかった。職員はメモを渡したようだが、患者本人が、金額を声に出していうので全部わかってしまう。最初に保証金を病院に渡しているので、入院費には、保証金プラス追加金ということになるが、漏れ聞く限り、たいした額ではない。
それを妻が現金でもってくるというのだが、まるで銀行から1億円おろして、その札束をもってくるような大仕事のような口調で話している。そのバカ・クソ・ジジイが。
実際には数万円のようだ。病院の職員も、クレジット・カードで支払えますよと伝えている。すると、そのクソジジイが驚いて、え、あの、データ・カードで?と職員に確認している。
クレジット・カードで入院費が払えることは入院案内の冊子にも書いてあった。高額の現金をもって入院するのは嫌なので、私は最初からクレジット・カードで払うつもりだった。しかし、その老人は、クレジット・カードと聞いて驚いている。いやそもそもクレジット・カードを知らないのか、「データ・カード」と言っている。今の日本で、クレジット・カードのことをデータ・カードという人間がいるのか。というか「データ・カード」と「クレジット・カード」は別の物でしょう。包含関係もない。パラレル・ワールドからやってきたのかと、心のなかで、つっこみを入れまくっていた、このバカ・クソ・ジジイに。
移転して新しくなったこの病院で、退院手続きをするのは初めてだが、入院費はクレジット・カードで払うことにした。そこまではよかったのだが、使われるクレジット・カードの暗証番号を入れてくださいと器具を渡されて、気づいた。クレジット・カードの暗証番号がわからない。通販で買うときには、暗証番号は必要ない。キャッシュレス時代に、外出先でクレジット・カードを使ったことはなかった(自粛生活ならなおさらである)。通販には暗証番号は必要ないので、なんの不自由もしなかったし、いまもしていないのだが。
暗証番号を知らなくても、クレジット・カードによる支払いはできたので、よかったのだが、このことを妹に話したら、クレジット・カードの暗証番号を知らないか、忘れるなんて、おまえはクソ・バカ・ジジイだといわれた。
いや、最初から知らないのだから強盗に襲われて拷問されても、クレジット・カードの暗証番号を伝えることはないと、妹に言ったら、暗証番号を伝えたら、金は失うかもしれないが、命は助かるかもしれない。しかし、暗証番号を最後まで伝えなかったら、隠していると思われてぼこぼこにされる。それでも伝えなかったら、腹いせに殺されるかもしれない。やはりおまえは、クソ・バカ・ジジイだといわれた。
逆にいうと、病床不足で私の手術・治療ができないのではないかと心配していたが、そういうことはまったくなかった。そして入院・手術費も予想していたよりも安かった。ありがたいことに。
前回入院したときには、個室を希望したが、入院したら個室がつまっていて、4人部屋にまわされたが、ただ、そもそも個室希望であることが伝わっておらず、手術後どうしたものかと思っているうちに、退院許可が下りたため、個室に入る機会を完全に逸してしまったが、今回は、むりに個室に入る必要もないと思い、最初から4人部屋にした。カーテンで患者の区画が区切られていて顔はわからない。またみんなマスクをしているために、たとえ町で出会っても、たがいに相手が誰だかわからない。
そんななか私よりも早く退院する同室患者が病院の職員から入院費や退院手続きなどについて説明を受けていた。カーテン越しに聞こえてくる会話から、入院費がいくらかを気にしていて職員に概算を聞いていることがわかった。職員はメモを渡したようだが、患者本人が、金額を声に出していうので全部わかってしまう。最初に保証金を病院に渡しているので、入院費には、保証金プラス追加金ということになるが、漏れ聞く限り、たいした額ではない。
それを妻が現金でもってくるというのだが、まるで銀行から1億円おろして、その札束をもってくるような大仕事のような口調で話している。そのバカ・クソ・ジジイが。
実際には数万円のようだ。病院の職員も、クレジット・カードで支払えますよと伝えている。すると、そのクソジジイが驚いて、え、あの、データ・カードで?と職員に確認している。
クレジット・カードで入院費が払えることは入院案内の冊子にも書いてあった。高額の現金をもって入院するのは嫌なので、私は最初からクレジット・カードで払うつもりだった。しかし、その老人は、クレジット・カードと聞いて驚いている。いやそもそもクレジット・カードを知らないのか、「データ・カード」と言っている。今の日本で、クレジット・カードのことをデータ・カードという人間がいるのか。というか「データ・カード」と「クレジット・カード」は別の物でしょう。包含関係もない。パラレル・ワールドからやってきたのかと、心のなかで、つっこみを入れまくっていた、このバカ・クソ・ジジイに。
移転して新しくなったこの病院で、退院手続きをするのは初めてだが、入院費はクレジット・カードで払うことにした。そこまではよかったのだが、使われるクレジット・カードの暗証番号を入れてくださいと器具を渡されて、気づいた。クレジット・カードの暗証番号がわからない。通販で買うときには、暗証番号は必要ない。キャッシュレス時代に、外出先でクレジット・カードを使ったことはなかった(自粛生活ならなおさらである)。通販には暗証番号は必要ないので、なんの不自由もしなかったし、いまもしていないのだが。
暗証番号を知らなくても、クレジット・カードによる支払いはできたので、よかったのだが、このことを妹に話したら、クレジット・カードの暗証番号を知らないか、忘れるなんて、おまえはクソ・バカ・ジジイだといわれた。
いや、最初から知らないのだから強盗に襲われて拷問されても、クレジット・カードの暗証番号を伝えることはないと、妹に言ったら、暗証番号を伝えたら、金は失うかもしれないが、命は助かるかもしれない。しかし、暗証番号を最後まで伝えなかったら、隠していると思われてぼこぼこにされる。それでも伝えなかったら、腹いせに殺されるかもしれない。やはりおまえは、クソ・バカ・ジジイだといわれた。
posted by ohashi at 19:07| コメント
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2021年02月19日
親父にもみせたことがないのに
親父にもみせたことがないのは、私のチンポコである。もちろん母にも見せたことはない--大人になってからは。しかし、今回の入院で、多くの医療関係者に手術中だけでなく、その前後も、また退院まで、ふつうなら絶対に見せないものを、毎日みられてきた。まあ、病気だからしかたがないのだが。*
今から4年前も、ほぼ同時期、正確には3月だったが、入院手術をして退院した。その時も、退院した日は、快晴だったが、入院中に、あまり眠ることができず、帰宅後、すぐに床について、久しぶりに至福の熟睡を享受したことを覚えている。
今回は、帰宅後、寝ることもせず、眠たくもなく、日常を取り戻した。
ただ地震で、本が床に散乱していて、その後片付けに時間をとられた。ちなみに山積みしているDVDのケースが、二枚、エアコンの上に着地している。エアコンと天井との隙間にどうやってDVDが飛んでいったのか。いったいどういう揺れ方をしたか不明である。
追記
実は、*をつけたところに、「べつにテレビ・アニメ『はたらく細胞BLACK』に登場する淋病のような性病で入院したのではない」と書こうとしたことを告白せねばならない。淋病ではないのは確かだが、淋病あるいは性病であるなしに関係なく、ここで病気あるいは患者に対する差別意識が私のなかにあったことを深く反省した。病気になるのは、本人の意志ではないし、たとえ日ごろの不養生あるいは不注意であっても、病気になるのは、本人の責任ではない。ましてやコロナウィルス感染者や医療感染者に対する理不尽な差別が問題化している現在、罹患するしない、あるいは病気の質に関する差別は絶対にあってはならないことである。犠牲者をたたくようなことBlaming for the Victimは、ほんとうにあってはならないのである。
今から4年前も、ほぼ同時期、正確には3月だったが、入院手術をして退院した。その時も、退院した日は、快晴だったが、入院中に、あまり眠ることができず、帰宅後、すぐに床について、久しぶりに至福の熟睡を享受したことを覚えている。
今回は、帰宅後、寝ることもせず、眠たくもなく、日常を取り戻した。
ただ地震で、本が床に散乱していて、その後片付けに時間をとられた。ちなみに山積みしているDVDのケースが、二枚、エアコンの上に着地している。エアコンと天井との隙間にどうやってDVDが飛んでいったのか。いったいどういう揺れ方をしたか不明である。
追記
実は、*をつけたところに、「べつにテレビ・アニメ『はたらく細胞BLACK』に登場する淋病のような性病で入院したのではない」と書こうとしたことを告白せねばならない。淋病ではないのは確かだが、淋病あるいは性病であるなしに関係なく、ここで病気あるいは患者に対する差別意識が私のなかにあったことを深く反省した。病気になるのは、本人の意志ではないし、たとえ日ごろの不養生あるいは不注意であっても、病気になるのは、本人の責任ではない。ましてやコロナウィルス感染者や医療感染者に対する理不尽な差別が問題化している現在、罹患するしない、あるいは病気の質に関する差別は絶対にあってはならないことである。犠牲者をたたくようなことBlaming for the Victimは、ほんとうにあってはならないのである。
posted by ohashi at 07:12| 日記
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2021年02月03日
合意
私には友人がいないと学生に話したことがあったが、そうすると驚く学生がいた。人間たる者、友人がいるのがあたりまえで、友人がいないというのは、理由はなんであれ、最低限の人間の暮らしをしいないかのように思われてしまう。
友人がいないというと、みんなからいじめられたり、うとまれたり、避けられたりして、誰もかばったり、まもったりしない。全世界を敵にまわしているような人間に思われてしまうのだが、もちろん、そんなことはない。前は同僚ともふつうに挨拶をしたし、私を見かけたら、誰もが逃げ出すというか、忌避するということもない。一応、ふつうの社会生活を送っているし、周囲とも良好な関係を保っていたと思う。最近は自粛生活がつづいているので、あまり社交の場がないのだが。
だから、友人がいないというのは、たとえば,自分の子どもがいないとか、兄弟姉妹がいないとかいうのと、同じで、とくに私自身に深い原因があるわけではない、一種の境遇のようなものである。
おそらくこのことを掘り下げれば、人間には二種類あって、気持ちを分かち合うことによって救われ安心できると思う人と、自分のなかに気持ちをしまっておくことで安心できる人がいるからということになろうか。親密さを求める人間と、親密さから逃れる人間という二種類。
前者の人の場合、なぐさめてもらったり、同情してもらったりすると、気持ちが休まるのに対して、後者の人の場合、なぐさめはうっとうしく、同情などしてもらいなくない、ただ、そっとしておいてほしいということになる。人間は社会的動物だとすれば、前者が圧倒的に多いのかもしれないが、後者もいることいるだろう。
だから友人がいないというのは、私が嫌われているせいでもないし、逆に、私が人間嫌いで、周囲を憎んでいるわけでもなんでもない。一人にしておいて欲しいというのにすぎない。もちろん、私にも、親しい人、親しくなりたいと思っている人はけっこういる。ただ、どんなに親しくても、私のなかでは、そうした人たちは友人ではないだけである。
いや、親しくしていても、相手の心のなかに土足で入り込まないように、一定の距離をたもってつきあうというのが、実は、真の友人なのだということもいえないこともないのだが、それはともかく、私にも、定期的ではないが、時折、メールのやりとりをする友人というよりも知人がいる。
もちろん表面的な付き合いで、たがいに胸の内をさらけだすような付き合いはしてないし、もしそんなことをすれば大げんかになることはまちがいないと思っている。
その知人は、今回のコロナ禍については、つねに楽観的で、つねに悲観的な私とは、発想が正反対である。聞いたことはないのだが、なにか情報源(ネット上で)をもっていて、そこで得た知識の受け売りではないかと思うのだが。またその情報源は、おそらくネトウヨが信じているような、ろくでもない、フェイクニュースに近いもので、政権のすることを追認して否定しないような、クソ保守的な姿勢に染まったクズ情報だと私は確信しているが、ただ、そのことを私は追求しない。黙って相手の説を聞くということになる(心の中では、それはちがうぞと思いつつ)。その知人がこのブログを読んだらと思うかもしれないが、その心配は、まったくない。だから、ここで本音が書けるのだが。
その知人の繰り出す、トンでも情報をここで披露してもいいのだが、やめる。ただ、最近、特筆すべきは、コロナ感染者減少について、意見が一致したことである。
たがいに異なる情報源から得た知見なのだが、このところ急激に感染者が減っているのは、べつにほんとうに減っているいるわけではない。PCR検査を減らしているからということだ。
これには、私の、私の知人も意見が一致した。まったくその通りだと思う。厚労省の統計調査のいい加減さは、あるいは操作性は、いまに始まったことではないし、今回には、感染者数を減らそうと必死になっているだけである。
友人がいないというと、みんなからいじめられたり、うとまれたり、避けられたりして、誰もかばったり、まもったりしない。全世界を敵にまわしているような人間に思われてしまうのだが、もちろん、そんなことはない。前は同僚ともふつうに挨拶をしたし、私を見かけたら、誰もが逃げ出すというか、忌避するということもない。一応、ふつうの社会生活を送っているし、周囲とも良好な関係を保っていたと思う。最近は自粛生活がつづいているので、あまり社交の場がないのだが。
だから、友人がいないというのは、たとえば,自分の子どもがいないとか、兄弟姉妹がいないとかいうのと、同じで、とくに私自身に深い原因があるわけではない、一種の境遇のようなものである。
おそらくこのことを掘り下げれば、人間には二種類あって、気持ちを分かち合うことによって救われ安心できると思う人と、自分のなかに気持ちをしまっておくことで安心できる人がいるからということになろうか。親密さを求める人間と、親密さから逃れる人間という二種類。
前者の人の場合、なぐさめてもらったり、同情してもらったりすると、気持ちが休まるのに対して、後者の人の場合、なぐさめはうっとうしく、同情などしてもらいなくない、ただ、そっとしておいてほしいということになる。人間は社会的動物だとすれば、前者が圧倒的に多いのかもしれないが、後者もいることいるだろう。
だから友人がいないというのは、私が嫌われているせいでもないし、逆に、私が人間嫌いで、周囲を憎んでいるわけでもなんでもない。一人にしておいて欲しいというのにすぎない。もちろん、私にも、親しい人、親しくなりたいと思っている人はけっこういる。ただ、どんなに親しくても、私のなかでは、そうした人たちは友人ではないだけである。
いや、親しくしていても、相手の心のなかに土足で入り込まないように、一定の距離をたもってつきあうというのが、実は、真の友人なのだということもいえないこともないのだが、それはともかく、私にも、定期的ではないが、時折、メールのやりとりをする友人というよりも知人がいる。
もちろん表面的な付き合いで、たがいに胸の内をさらけだすような付き合いはしてないし、もしそんなことをすれば大げんかになることはまちがいないと思っている。
その知人は、今回のコロナ禍については、つねに楽観的で、つねに悲観的な私とは、発想が正反対である。聞いたことはないのだが、なにか情報源(ネット上で)をもっていて、そこで得た知識の受け売りではないかと思うのだが。またその情報源は、おそらくネトウヨが信じているような、ろくでもない、フェイクニュースに近いもので、政権のすることを追認して否定しないような、クソ保守的な姿勢に染まったクズ情報だと私は確信しているが、ただ、そのことを私は追求しない。黙って相手の説を聞くということになる(心の中では、それはちがうぞと思いつつ)。その知人がこのブログを読んだらと思うかもしれないが、その心配は、まったくない。だから、ここで本音が書けるのだが。
その知人の繰り出す、トンでも情報をここで披露してもいいのだが、やめる。ただ、最近、特筆すべきは、コロナ感染者減少について、意見が一致したことである。
たがいに異なる情報源から得た知見なのだが、このところ急激に感染者が減っているのは、べつにほんとうに減っているいるわけではない。PCR検査を減らしているからということだ。
これには、私の、私の知人も意見が一致した。まったくその通りだと思う。厚労省の統計調査のいい加減さは、あるいは操作性は、いまに始まったことではないし、今回には、感染者数を減らそうと必死になっているだけである。
posted by ohashi at 23:51| コメント
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2021年02月01日
劇場に行けないわけ
昨年のこの時期には、まだ映画や演劇をみていたので、映画館や劇場に足を運ばなくなってからまだ正確には一年たっていない。
映画館や劇場から遠のいてしまったのは、もちろんコロナ禍のせいだが、私は、演劇ファンあり、演劇研究者でありながら、神様に疎まれていて、劇場に行くと、いつもではないにしても、観劇を妨害されることが多かった。そのせいで、いまも、劇場に足を運べないでいる。
年寄りで基礎疾患があるから感染すると恐いから自粛をつづけているのだが、コロナ禍以前でも劇場に行くと、妨害されるというのは、私の近く、また多くの場合、私の隣に、病気の人間が座るからである。
よく何かを記憶するとき、べつの何かといっしょに記憶するとよいと言われている。たとえば食べ物とか。カレーライスを食べたレストランで、誰々と偶然、出会ったとか、ラーメンを食べたあとで、これを買ったとか、そういうふうにすると記憶に定着しやすくなる。私の場合には、隣に座った病気の男女によって、演劇の内容を覚えている(妨害されつつも)。
実際、あの劇場のあの芝居では、私の隣にずっと大きな咳をしている、くそオヤジがいて、マスクをしようとしたが、そうなると、マスクをしている私が咳をして、観劇の邪魔になっているのではと誤解されるのもいやなので、がまんした。
また、べつの劇場のべつの芝居では、隣に、あきらかに風邪をひいて咳をしたり鼻をすすっている、マスクなしのバカ女がいたので、私はマスクをした(この頃になると、自営用にマスクを持ち歩いていた)。
あるいは、ある小劇場の芝居では、私のとなりにひどい風邪の若者がいて、彼はマスクをしているのだが、劇の途中で咳き込み、くしゃみを頻繁にしはじめて、そのとき、あろうことかマスクをつまんで、口とマスクのあいだに空間をつくって、そこにむかって咳をするようになった。なんのためにマスクをしているのだ。マスクをずらして飛沫を周囲にまきちらすというのは、なんという非常識なくそ*****だ。地獄に落ちろ狂人めと思ったし、こんな馬鹿な若者の隣にいたら、絶対に感染すると思い、面白い芝居だったが、幕間にもう帰ろうと思った。ところがその芝居というのが、シェイクスピアの『間違いの喜劇』で、比較的短い芝居で幕間がなく、最後まで、わざわざマスクをずらして咳をする狂人の隣で、死ぬ思い出で、観劇した。幸い、感染はしなかったが、あれは地獄だった。
あるいは、さらにべつの劇場の、べつの芝居では、演技者の声が小さかったのだが、それでも、劇場の隅々にまで声は伝わっていたのだが、それが咳をするバカが私の近くにいて、咳のたびに、台詞が聞こえなくなるということがあった。
世田谷パブリックシアターにはじめて行ったとき(完成してすぐの90年代の終わり頃だと思うが)、私の隣にサラリーマン風の男がすわった。ひどい風邪をひいている。なぜ、大きな劇場の、たくさんの座席があるなかで、私の隣に、よりにもよって病気の男が座るのだと、はじめて訪れた新しい劇場で、気が散ってしょうがなかった。
思い返せば、こんなことばかりで、神様に妬まれて、私の観劇は病気に感染してもおかしくない命がけの冒険だった。まあ感染拡大以前のことなので、ある意味、その冒険を楽しむ余裕もあったし、妨害する神様の鼻を明かしてやろうと挑戦的な気持ちにもなったのだが、コロナ禍のなかでは、そうもいっていられない。私に、感染者を引き寄せる可能性があるみたいで、それゆえに劇場に行くのは恐ろしい。
つい、2,3日前、エレベーターを待っていると、私の後ろで、ひどい咳をしている男がいた。咳のしかたで男だとわかった。待っていた私は先にエレベーターの中に入ると、その男、くそジジイも入ってきた。ふと、みると、このクソジジイ、マスクをしていない。
ふだんなら、ちょっと家の周りに出るとき(たとえばゴミ出しとか)、わざわざマスクをしなくてもいいとはいえる。しかし、咳をしているのだぞ。咳払いのようなものではなく、あきらかに病気の咳である。だったら、マスクをするのが正しい大人のマナーだろう。あるいは、エレベーターに乗っている人がいるなら、自分はエレベーターを見送るというのが筋だろう。私も、マスクをしていない咳ジジイがエレベーター内にいたら、そのエレベーターには乗らない。
入ってきた老人が、それまで咳き込んでいたのに、マスクをしていないことに気づいた私は、たぶん、思わず、顔色が変わったのだと思う。そのクソジジイも、私の変化を察知したのだろう、なにかバツが悪そうに、こちらを、ずるそうに、ちらちらみている。
それで怒りがわいてきたが、マスク警察のようなまねはしたくないし、またそれをしたら、トラブルになって、狭いエレベーター内で、あるいはエレベーターから降りたあとで、濃厚接触になるような口論になったり、つかみあいにでもなれば、感染する可能性が格段に増すので、恐いので、なにもしなかったというか、怒りが沸点にまで到達する前に、エレベーターは1階に到着した。
私は、コロナかどうかは別として、咳をするような病気の人間を磁石のようにひきつける特性をもっているようなので、当分、劇場には行けないかもしれない――最近は劇場では密にならないように座席も考慮しているのかもしれないので、それほど怖がらなくてもいのかもしれないが。
映画館や劇場から遠のいてしまったのは、もちろんコロナ禍のせいだが、私は、演劇ファンあり、演劇研究者でありながら、神様に疎まれていて、劇場に行くと、いつもではないにしても、観劇を妨害されることが多かった。そのせいで、いまも、劇場に足を運べないでいる。
年寄りで基礎疾患があるから感染すると恐いから自粛をつづけているのだが、コロナ禍以前でも劇場に行くと、妨害されるというのは、私の近く、また多くの場合、私の隣に、病気の人間が座るからである。
よく何かを記憶するとき、べつの何かといっしょに記憶するとよいと言われている。たとえば食べ物とか。カレーライスを食べたレストランで、誰々と偶然、出会ったとか、ラーメンを食べたあとで、これを買ったとか、そういうふうにすると記憶に定着しやすくなる。私の場合には、隣に座った病気の男女によって、演劇の内容を覚えている(妨害されつつも)。
実際、あの劇場のあの芝居では、私の隣にずっと大きな咳をしている、くそオヤジがいて、マスクをしようとしたが、そうなると、マスクをしている私が咳をして、観劇の邪魔になっているのではと誤解されるのもいやなので、がまんした。
また、べつの劇場のべつの芝居では、隣に、あきらかに風邪をひいて咳をしたり鼻をすすっている、マスクなしのバカ女がいたので、私はマスクをした(この頃になると、自営用にマスクを持ち歩いていた)。
あるいは、ある小劇場の芝居では、私のとなりにひどい風邪の若者がいて、彼はマスクをしているのだが、劇の途中で咳き込み、くしゃみを頻繁にしはじめて、そのとき、あろうことかマスクをつまんで、口とマスクのあいだに空間をつくって、そこにむかって咳をするようになった。なんのためにマスクをしているのだ。マスクをずらして飛沫を周囲にまきちらすというのは、なんという非常識なくそ*****だ。地獄に落ちろ狂人めと思ったし、こんな馬鹿な若者の隣にいたら、絶対に感染すると思い、面白い芝居だったが、幕間にもう帰ろうと思った。ところがその芝居というのが、シェイクスピアの『間違いの喜劇』で、比較的短い芝居で幕間がなく、最後まで、わざわざマスクをずらして咳をする狂人の隣で、死ぬ思い出で、観劇した。幸い、感染はしなかったが、あれは地獄だった。
あるいは、さらにべつの劇場の、べつの芝居では、演技者の声が小さかったのだが、それでも、劇場の隅々にまで声は伝わっていたのだが、それが咳をするバカが私の近くにいて、咳のたびに、台詞が聞こえなくなるということがあった。
世田谷パブリックシアターにはじめて行ったとき(完成してすぐの90年代の終わり頃だと思うが)、私の隣にサラリーマン風の男がすわった。ひどい風邪をひいている。なぜ、大きな劇場の、たくさんの座席があるなかで、私の隣に、よりにもよって病気の男が座るのだと、はじめて訪れた新しい劇場で、気が散ってしょうがなかった。
思い返せば、こんなことばかりで、神様に妬まれて、私の観劇は病気に感染してもおかしくない命がけの冒険だった。まあ感染拡大以前のことなので、ある意味、その冒険を楽しむ余裕もあったし、妨害する神様の鼻を明かしてやろうと挑戦的な気持ちにもなったのだが、コロナ禍のなかでは、そうもいっていられない。私に、感染者を引き寄せる可能性があるみたいで、それゆえに劇場に行くのは恐ろしい。
つい、2,3日前、エレベーターを待っていると、私の後ろで、ひどい咳をしている男がいた。咳のしかたで男だとわかった。待っていた私は先にエレベーターの中に入ると、その男、くそジジイも入ってきた。ふと、みると、このクソジジイ、マスクをしていない。
ふだんなら、ちょっと家の周りに出るとき(たとえばゴミ出しとか)、わざわざマスクをしなくてもいいとはいえる。しかし、咳をしているのだぞ。咳払いのようなものではなく、あきらかに病気の咳である。だったら、マスクをするのが正しい大人のマナーだろう。あるいは、エレベーターに乗っている人がいるなら、自分はエレベーターを見送るというのが筋だろう。私も、マスクをしていない咳ジジイがエレベーター内にいたら、そのエレベーターには乗らない。
入ってきた老人が、それまで咳き込んでいたのに、マスクをしていないことに気づいた私は、たぶん、思わず、顔色が変わったのだと思う。そのクソジジイも、私の変化を察知したのだろう、なにかバツが悪そうに、こちらを、ずるそうに、ちらちらみている。
それで怒りがわいてきたが、マスク警察のようなまねはしたくないし、またそれをしたら、トラブルになって、狭いエレベーター内で、あるいはエレベーターから降りたあとで、濃厚接触になるような口論になったり、つかみあいにでもなれば、感染する可能性が格段に増すので、恐いので、なにもしなかったというか、怒りが沸点にまで到達する前に、エレベーターは1階に到着した。
私は、コロナかどうかは別として、咳をするような病気の人間を磁石のようにひきつける特性をもっているようなので、当分、劇場には行けないかもしれない――最近は劇場では密にならないように座席も考慮しているのかもしれないので、それほど怖がらなくてもいのかもしれないが。
posted by ohashi at 19:07| コメント
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