デュマ『黒いチューリップ』宗左近訳(創元推理文庫、1971、2009)を持っていた。なぜ購入して読んだのか、ただの趣味で読むわけがないので、理由があったのだろうと思うものの、いまとなっては忘れてしまった。今回、あらためて大急ぎで読むことにしたが、これまでに読んだ形跡がない。記憶もない。たとえ途中まで読んだにしても、最後まで読んでいないことはまちがいない。そして今回、読んでみて、なかなか興味深い作品であることがわかったし、文学研究者の血が騒ぐというか、この作品をめぐって、批評的文章が書けるような気がした。ただしフランス語で読んだわけではないので、本にするということはない。たんに趣味で、ここで覚書きを記すことしかないが。
最初に確認すべきは、アラン・ドロン主演の映画『黒意チューリップ』とはまったく関係ない話であること。
『黒いチューリップ』(くろいチューリップ、フランス語原題:La Tulipe Noire)は1964年のフランス、イタリア、スペインのアクション映画。70ミリフィルム(スーパーパノラマ70)として撮影されている。アレクサンドル・デュマ・ペールによる1850年の同名小説を原作としているが、監督のクリスチャン=ジャックやポール・アンドレオータ、アンリ・ジャンソンによって大幅に脚色されている。出演はアラン・ドロンなど。フランスでは公開されると、300万人以上の観客を動員した。
とWikipediaにある。クリスチャン=ジャック監督の映画で、映画作品としては評価が高い。アラン・ドロンの人気もあって、ヒットした映画。ただしデュマを原作としているのは驚きで、小説のほうは、17世紀後半のフランスとオランダの戦争前夜の話だが、映画のほうは18世紀末のフランス革命時代。革命を逃れてゆく卑劣な貴族から金銀を巻き上げる義賊が主人公。なぜ「黒いチューリップ」という花の名前が義賊についているのかといえば、アラン・ドロンが黒装束なのと(この装束は、のちに怪傑ゾロをアラン・ドロンが演じたときにも引き継がれた)、もうひとつフランス革命期における義賊、紅はこべとの連想だろう。ある意味、黒いチューリップ(もしくは黒チューリップ)は、「紅はこべ」の二番煎じであろう。
「紅はこべ」というのは、私より上の世代の人間にとっては、なつかしすぎる名前で、こちらはフランス革命期に貴族の英国への亡命を助ける義賊団。私が子どもの頃、連続テレビ・ドラマ(制作:英国)で『紅はこべ』を放送していた(東海地方だけかどうか不明)。「紅はこべ」というのが、どういう花なのかわからないまま、毎回、コスチューム・ドラマでの主人公の活躍をテレビでみていた。主人公の名前が「紅はこべ」だと思っていた。また子ども向けに書き換えられた小説を読んだかもしれない。
小説『紅はこべ』は、ディケンズの『二都物語』の影響を受けているとのことだが、私にとっては逆で、子どもの頃、ラルフ・トーマス監督、ダーク・ボガード主演の『二都物語』をテレビではじめて見たとき、ああ、『紅はこべ』の世界だ、つまり『紅はこべ』をまねていると思ったことはいまでも記憶している(ちみに『二都物語』の双子設定は、映画『黒いチューリップ』に影響をあたえているかもしれない)。
いまの若い人というよりも中年の人にとって、宝塚でもミュージカル化した「スカーレット・ピンパーネル」のほうがなじみ深いかもしれないが、私にとっては、「紅はこべ」は「紅はこべ」で、「スカーレット・ピンパーネル」ではないのだが。
閑話休題、いや、もうひとつ。
最近の映画で『チューリップ・フィーバー』
『チューリップ・フィーバー 肖像画に秘めた愛』(原題:Tulip Fever)は、2017年のアメリカ合衆国・イギリス合作の歴史・恋愛映画。17世紀のチューリップ・バブル時代のアムステルダムを舞台に、既婚女性と恋に落ちる画家の物語を描く。監督はジャスティン・チャドウィック、脚本はデボラ・モガー(英語版)とトム・ストッパードで、モガーの小説『チューリップ熱』(原題:Tulip Fever)を脚色している。モガーはフェルメールの絵画から着想を得ており、絵画の世界を小説にしようと執筆した。アリシア・ヴィキャンデル、デイン・デハーン、ジャック・オコンネル、ザック・ガリフィアナキス、ジュディ・デンチ、クリストフ・ヴァルツ、ホリデイ・グレインジャー、マシュー・モリソン、カーラ・デルヴィーニュらが出演。
とWikipediaにある。『ブーリン家の姉妹』のジャスティン・チャドウィク監督の映画で、けっこう面白い映画だった。チューリップの球根が投機の対象となったことは、この映画で初めて知ったし、オランダのアムステルダムのなんとも猥雑でせせこましい屋内空間が、なにやら不穏なまでのリアル感を醸成していて、また予想がつきそうで予想がつかないプロット(たぶんここが興行成績がふるわなかった原因だろうが)など、決して見る者を飽きさせなかったはずだが。
『ブーリン家の姉妹』は、知っている話なのだが、最後のほうは不覚にも泣いてしまったという予想外の展開に自分でも驚いたが(泣いたのは私だけではないはずだ――日本では映画公開前ではなく公開後に、泣ける映画として宣伝しはじめたのだから)、そのような感銘は、『チューリップ・フィーバー』にはなかった。
あと画家役のデイン・デハーンも、無名画家ではなくて、それこそフェルメールにしておけば、映画も多くの観客を魅了したかもしれないのだが、このデハーン、既視感はあっても、どの映画なのか思い出せず、あとで調べたら、リュク・ベッソンのSF映画『ヴァレリアン』の主役だった。しかし、それ以上に驚いたのは、デイン・デハーンの出演映画を、私はこれまで7本見ていて、にもかかわらず、『チューリップ・フィーヴァー』では、既視感があるものの、はじめてみる新人俳優かと思っていた。まあ、私がばかなのだが。
閑話休題。
デュマの『黒いチューリップ』は、フランス革命よりも100年以上も前のオランダを舞台としているのだが、ある意味、フランス革命が影を落としているところもある。もちろん、作品が発表されたのは19世紀の二月革命とルイ・ボナパルトのクーデターの間の時期でもあって、ある意味、激動の時代を、オランダ史における激動の時代というかたちで作品が反映しているともいえる。
また先に触れた映画『提督の艦隊』のなかで、その時代に生きていたスピノザとかフェルメールが登場しないことを(べつに登場しなくてもいいのだが)指摘し、この二人こそ、この映画の不在の原因としてみることはできないかというようなことを示唆したが、この小説でも、フェルメールやスピノザは登場しないが、19世紀には、スピノザは知識人、専門家しか知らず、フェルメールは、誰も知らなかった可能性がある。ただフェルメールと同郷の、オランダの法学者、フーゴー・グローティウス(Hugo de Groot, Huig de Groot、英: Hugo Grotius、1583- 1645)についての言及がある。グローティウスはフェルメールと同じデルフト出身であり、アルミニウス派の支持者でもあったため、異端扱いされ一時期レーヴェシュタイン城の監獄に収容されたが、のちに脱獄する。このレーヴェンシュタイン城に、この小説では、チューリップ作りの天才、コルネリウスが投獄されるという設定になっている。
冒険小説として分類されることの多い『黒いチューリップ』だが、むしろ主人公はチューリップ作りに専念するわけで、激しいアクションとか逃亡劇、あるいは復讐劇などがあるわけではない――つまり『三銃士』や『モンテクリスト伯』の世界とは違う。そもそもチューリップ栽培家なので、いかにして黒いチューリップを作るか、あれこれ腐心していると、デ・ウィッテ兄弟の処刑にまきこまれて、処刑寸前のところで赦され投獄されてしまう。とにかく収容されて身動きがとれない状態にある。
動というよりも静が強調される作品であって、ある意味、冒険活劇作家にとって、書きにくい題材だろうし、それでもなおかつ最後まで一気に読ませる工夫には、ただただ驚くほかはない。強いて言えば、全体にきれい事に終わってしまって、『チューリップ・フィーバー』にあるような猥雑さが欲しいということもあるが、しかし、主人公を動かない状態にする冒険小説は、一読に値する。
作品の最初のほうは、デ・ウィッテ兄弟の処刑にまつわる出来事の詳細が語られる。ある意味、オランダ救国の士でもあったデ・ウィッテ兄弟を、フランスとの戦争による政情不安と王党派の策謀もあって、兄弟の処刑を求める狂乱の群衆が、監獄の守備隊とにらみあうところなどは、議事堂で警官隊とにらみあうトランプ支持者たちの姿を彷彿とさせる(あの支持者たちは、それこそ『マッド・マックス』に出てくるならず者たちそっくりで、驚き、笑ってしまったが、さすがにアメリカは映画の国である)。そして処刑までけっこう詳しく描かれ、このオルギアが前半というか物語初期のクライマックスとなる。
私は以前は写真のネガとポジとか、写真の陰画の比喩をよく使ったのだが、デジタル写真の時代となると、ネガとかポジといっても意味が通らなくなったので、写真よりも、もっと古い絨毯の裏と表という比喩を使うようになった。絨毯の表と裏は、同じ模様とか絵柄を共有していても、その印象は、大きく異なる。裏からみると、地味でくすんだ感じにみえる絨毯も面からみると絢爛豪華な絵模様が展開していることがある。逆に派手な表面も、裏から見ると予想もできなかった暗黒世界が広がっていることがある。
もちろん写真のポジとネガほどの正反対の印象は与えないとしても(写真の場合、曇り空のもとで雪の積もった情景のモノクロ写真のネガでは、雪は黒くなり、真っ黒な大地に、白っぽい空という異世界が広がることになる)、絨毯の両面では異世界あるいは反世界の関係になっていることがある。暗い裏面も反対側から見ると華やかな表という逆転あるいは変容を目の当たりにできる。
『黒いチューリップ』の全体の構成は、初期の暴徒による残酷な処刑は、物語の最後にいたって、黒いチューリップの誕生を祝うことを中心とする花祭りの祝祭へと変容することである。絨毯の裏面から表面への変容と同じように、物語はじめの地獄絵図が、最後の花をめでる祝祭へと変容を遂げるのである。なおネタバレというなかれ。黒いチューリップは、いま存在しているので、黒いチューリップの誕生は読者としての完全に想定内であるのだから。
なお付け加えるのなら、暗黒の血塗られた狂乱の暴動から花祭りの祝祭への転換点に位置しているが、フランス革命時にロベスピエールの最高理性の祭典である。
ロベスピエールが《最高理性の祭典》に際して持っていたのに似ているような花束だった。p.342
血塗られたフランス革命恐怖政治時代の記憶には、花が寄り添っている。そして流血から花への転換は、花束をもっていたロベスピエールという、流血と平和、醜悪な政治と美徳の政治、過去と未来との結節点としてのイメージを刻んでいるのである。
負(ネガティブ)の祝祭から正(ポジティヴ)の祝祭への変容とならんで、もうひとつの変容もこの物語は用意している。
黒いチューリップめぐる物語は、まさに正統的物語たるゆえんであるところの、「物」(この場合はチューリップ)をめぐる語り、すなわち「物」語となっていることはいうまでもない。このチューリップあるいはその球根の争奪のゆくえをめぐるサスペンス、最終的に所有権は誰のもとに落ち着くのかをめぐるサスペンスが物語を支配する。この場合、球根と所有者との関係は、メトニミー的関係である。事実、新種の黒いチューリップは栽培者あるいは発見所有者の名前がつくことになるからである。チューリップは所有者・栽培者の所有物、あるいはその一部であり、メトノミ-的関係となる。
しかし球根は成長して開花するように、このメトニミー的関係も変化をとげる。すなわち新種のチューリップに所有者のなまえがつくのだが、それはまた新種のチューリップそのものが所有者のメタファーとなっていることの暗示ともなる。
事実、黒いチューリップを栽培者であるコルネリウス・ファン・ド・ベルルは、投獄中に看取の娘ローザとドア越しの密会を重ねるのだが、ローザは、その期間中に、コルネリウスから読み書きを習い、最後には、自分で手紙を書けるまでになり、盗まれた球根をとりもどすべく旅に出て、臨機応変の才を遺憾なく発揮して、基本的に動けぬ主人公を大いに助けるのである。彼女は、まさに栽培され開花し、最後には主人公を助ける黒いチューリップそのものであろう。
同じことはコルネリウスについてもいえる。彼もまた、ある意味、球根とは一身同体であり、球根は彼にとってたんたる持ち物・栽培対象(つまりメトニミー)ではなくて、彼自身そのものとなる(メタファー)。黒いチューリップを生み出した彼もまた、奇跡の花と同様、奇跡の人でもあったし、その能力と、その無実とが、最後の最後になって判明する、あるいはその真価が白日のもとにさらされる、つまり球根状態からやがて開花する、黒いチューリップそのものである。
物語そのものもそうであろう。最初の暗黒の祝祭から花の祝祭への変容は、球根から開花へのプロセスそのものとなる。それはまた奇跡を到来させる物語構成のメタ的メタファーともなっている。祝祭の裏と表は、輝かしくも「黒い」花、華やかな「黒い」暗黒の花という両義的メタファーともなっているのかもしれない。
そして最後に、オレンジ公ウィリアム。創元推理文庫の訳者あとがきでは、この作品が「まさにオランダ戦争が勃発しようとして風雲急を告げているオランダの、嵐の前の一瞬の無気味な静けさの中に展開される、恋と花のロマンです」としたうえで、
この小説の巻末で、ウィリアム殿下が、幸福な恋人たちをあとにして立ち去っていく彼方が、オランダ戦争の戦雲の下であります。ちょうど読者が巻を掩って、立ち去っていく彼方が、実生活の戦雲の下であるのと同じであります。〔「掩って」は「おおって」と読み、覆い隠す,包み隠すことだが、ここで本などを閉じるという意味。念のために〕
……このオレンジ公は、一六七七年ジェームズ二世の長女と結婚し、一六八八年議会に招かれてロンドンに入ってジェームズ王をフランスに走らせ、王権主義と議会主義とを調和させた「名誉革命」の立役者となり、翌八九年英国王となり、それとともに、オランダ戦争は、舞台を世界という広い檜舞台に移して、英仏両国間の大戦争に進展していきます。この間に、オランダは世界の歴史の片隅に追いやられ、やばげ眇たる小国の位置に止まることとなります。だが、これはもう、この『黒いチューリップ』とは関係のないことです。〔「眇たる」は小さいこと〕
と書かれている。
まさに世界史的にはその通りなのだが、この物語においては、オレンジ公ウィリアムは、先の映画『提督の艦隊』のように、悪辣な小心者の為政者として描かれているわけではない。むしろ、これからいよいよ大国を相手にわたりあい、英国王にまでなって開花する英雄の卵、いや英雄の球根として描かれているように思われる。彼もまた黒いチューリップなのである。
逆に、そのようにみない訳者のほうが、世界史的偏見にとらわれているように思われる。そもそも「ちょうど読者が巻を掩って、立ち去っていく彼方が、実生活の戦雲の下であるのと同じであります」と書く訳者は、いったいいつの時代を生きているのかと、問いたくなった。戦時中なのか。実生活を戦争とみるのは、どこまで実生活がおぞましいのだろか、あるいは波瀾万丈の実生活を謳歌している読者はどこにいるのだろうか。とはいえコロナ禍のいまの実生活は戦雲の下にあるといってもいいのだが。
さらに、この小説の中心をなすのは、チューリップの栽培家のコルネリウスと、彼が投獄された監獄の看守の娘ローザとの恋愛だが、看守の娘が囚人に恋をするというのは、なにか原型的なイメージを喚起する。
たとえばシェイクスピアの『二人の血縁の貴公子』The Two Noble Kinsmen(『二人の貴公子』のタイトルで河合翔一郎氏のすぐれた翻訳がある)では看守の娘が、とらわれた若者に恋をし、彼を逃げる手助けをしつつ、みずから犯した罪に恐れおののき最後には発狂する。看守の娘との恋。しかし、この作品は、ジェフリー・チョーサー『カンタベリー物語』のなかにある「騎士の話」の翻案であって、チョーサーの昔からある話でもあるから、元ネタはずいぶん古いものかもしれない。
しかし『二人の貴公子』を思い出したのは、もちろん、シェイクスピアの晩年の劇『テンペスト』にも似ているからである。『テンペスト』には、看守は出てこないが、魔法使い(元ミラノ大公)プロスペロは、その支配する孤島に漂着したファーディナンドを得たいの知れないよそ者(実はミラノ王の王子、プロスペロは、そのことを知っている)として扱い囚人扱いする。ところが彼に一目惚れしたプロスペロの娘ミランダは、父親の目を盗んで、ファーディナンドに会いに来て、いろいろ世話をするのである。
『黒いチューリップ』の看守の娘ローザには、この『テンペスト』のミランダの面影がある。それはかなり確信している。勝手に思い込んでいろと思われるかもしれない。ただ、この小説に随所にペダンティックな意匠というか知識をちりばめたところがある。
たとえば
ああ、ローザがチューリップのことを話してくれさえしたらなら、コルネリウスは、セミラミス女王、クレオパトラ女王、エリザベス女王、アンヌ・ド・アウトリッシュ女王、つまり、世の中でももっとも偉大でもっとも美しい女王よりもローザをえらんでいたことであろう。(p.237)
これなどは、かろうじて私はわかったが、アンヌ・ド・アウトリッシュは「王妃」だが「女王」ではないと思う。この王妃、『三銃士』に出てくる。英国のバッキンガム公と関係があったかなかったかという王妃。それに表記もアンヌ・ドートリッシュだと思うが。それはもとかく当時の読者は、これでわかったのだろうか。この程度ならわかったのかもしれないが。
あるいは
近隣を捜したあげく、彼は娘が馬を借りて、フラダマントかクロリンデのように行先も告げず、女冒険家として行ってしまったのを知った。(p.276)
この喩えは、よくできた喩えだと思うのだが、恥ずかしながら、一つはわからなかった。ただし「ブラダマント」だと思うが、そうでないと「フラダマント」というのは不明。結局、どちらがわからなかったのかは、ほんとうに恥ずかしいので言えないが、またさらにいうのなら、この二人の女性が登場する作品の翻訳は、私は持っていた。なおのこと恥ずかしい。
ただしこれも当時の読者で、ある程度教養のある読者にはわかったかもしれないのだが、このほかにもわかなかった喩えがあり、省くものの、ただ、もちろん、わからなくても作品理解に支障はないし、充分に楽しめるものだが、同時に、当時の読者のどれくらいが、デュマの繰り出すこうした喩えを理解できたかどうかわからない。大衆娯楽小説ではなくて、ある程度の教養のある読者向けということで作品に箔をつけようとしたのか、これはわかっても当然、あるいはわからなくてもかまわないのか、その辺の作品のスタンスが、専門家ではないのでよくわからない。
たとえば
バンコの幽霊が、あのマクベスの饗宴を混乱におとし入れたように、p.346
とあるとき、当時、ああ『マクベス』のあの場面と多くの読者はわかったのだろうか。シェイクスピアのファンでもなければ、イギリス人でもないのに。
とまれシェイクスピアの作品も喩えに引き出される。そのため『黒いチューリップ』は、『テンペスト』のある種の翻案でもあることを指摘したい。つまり
意地悪な獄吏、その娘ローザ、チューリップ栽培家コルネイユは、
『テンペスト』の
プロスペロ、 ミランダ、ファーディナンドと重なるのである。
ではキャリバンは?
しかも、この人間ときたら、いやしい精神の持ち主であり、最下層階級の出である。その人間は獄吏であり、そのおろす錠よりも愚鈍であり、そのかける閂よりも頑迷である。彼は「テンペスト」のカリバン/キャリバンのような、人と野獣の中間の者であった。p.181
ああ、カリバン、テンペスト。フランス人はルナンの作品を思い出すまでもなく、カリバン/キャリバンが大好きで、近年見たルオーの展覧会でも、ルオーは夢見るカリバン/キャリバンのパステル画を描いていた。ただし、この喩えでは悪辣な獄吏をカリバン/キャリバンだとしている。しかし私の解釈では、娘がいるこの意地悪な獄吏には、プロスペロの面影があるし、階級差別的にキャリバンと呼ばれているのだが、この作品には、もうひとりの主要な人物イザーク・ボクステルというチューリップ栽培家がいて、彼は、コルネリウスから球根を奪おうとする悪人ある。彼こそがキャリバンであり、獄吏の娘=ミランダとも対立する。そしてイザークという名前からしてユダヤ人である。デュマの階級差別・民族差別(ユダヤ人差別)は、ここに極まれりというべきか。
プロスペロ、ミランダ、ファーディナンド、キャリバンは、こうして『黒いチューリップ』のなかで、獄吏、その娘ローザ、コルネリウス、イザークという配役として演じられることになったのである。