塚本晋也監督の映画『斬、』(2018)を、映画館で見そびれていて(2018年11月に公開の映画だったが、あの頃は、ほんとうに忙しいというか慌ただしくて、見そびれている重要な映画はけっこう多い)、AmazonPrimeビデオに入っていたので、自宅で視聴した。80分くらいの比較的短い映画だったが、すごい映画で圧倒された。
テントウ虫のサンバ
ややオフビートな時代劇かと思いつつも、途中までは、展開の予想と映画の流れが同じで、少なくとも、この田舎の農村において、なにか大きなドラマあるいは血なまぐさいことは起こりそうもないだろう。クライマックスは村を去り江戸に赴いてからだろう(とはいえ、大都会江戸を舞台にした大がかりな時代劇ともみえなかったのだが)、確かに途中から登場する野武士的な浪人の群れが村人たちを怖がらせているが、村はずれで野宿しているらしい彼らが村人たちに凶行に及ぶことはないだろうと、観る側も、たかをくくり、いよいよ江戸へ出発というときに、転機が訪れる。
村人たちの農作業を手伝って金を稼ぎ、武士に憧れる少年に剣術の稽古をつけてやっている若き浪人、都築杢之進/池松壮亮は、幕末、京都の事変に幕府方としてはせ参じるため、江戸行きを、剣豪の浪人、澤村次郎左衛門/塚本晋也(そう、監督自身が演じている)に誘われ、武士に憧れている農家の少年、市助/前田隆成をともなって、江戸にむけ出発するという朝、浪人都築/池松壮亮は、急に熱病に冒され足腰がたたなくなる。
これはかなり驚きで、それまで病気の気配はないのに、若き浪人が、一夜にして熱病に冒され、歩けなくなり寝込むのである。出発の朝、カメラは一人称となって池松の視点になるため、彼がどんな顔、どんな表情と、仕草で、急病で歩くこともままならぬのか、その映像はなく、観客の想像に任される。特に病弱とも思われない彼が、突然病に倒れる、衝撃的な、あるいは違和感のある展開が、転機となって、映画は予想外の方向へと向かう。
剣豪の浪人からもお墨付きをもらっている剣術の腕前の、この若き浪人は、農作業も厭わず、村人から感謝されているし、たちの悪い流れの盗賊的浪人たちに偵察かたがた会いにいって、仲間になってうちとける、けっこう肝っ玉の据わった男というイメージがあったのだが、江戸に行く朝、結局、真剣で人を「斬る」闘いに赴くことになるかと思うと、臆病風に吹かれたのだということが、観客にもわかってくる――意外なことではあったのだが。
農家の若者相手に剣術の稽古をつけてやる師匠クラスの腕前の都築/池松ではあったが、それは木刀を振り回してのことで、剣を抜いての真剣勝負ではないし、生死を分かつ闘いでもない。しかし、時代が、彼を、農民たちの農作業を手伝い、一度も剣を抜くことのない、平穏な暮らしを許してくれない。
と同時に、都築/池松は、大人になるための、決定的な変身を経ていないことがわかる。農家の娘、ゆう/蒼井優と相思相愛なのだが、しかし、肉体的に結ばれるところまではふみこめず、マスターベーション(映画は、これを、はっきりとは示さないが、同時に、まぎれもないかたちで暗示している)で悶々とするしかない。剣を抜いて人を斬ることは、彼が決定的に大人へと変身することを意味する。問題は、それができないこと、そしてたとえ、それができたとしても、その先がないことである。
彼が仮病ではないものの、半ば仮病の熱病で寝込んでいる一日に、村では大きな異変が起こる。浪人澤村が、流れの浪人たちを成敗したことから、報復がはじまり、都築を慕っていた農家の少年とその家族が浪人たちに殺され、その報復に、澤村は、都築を連れて浪人たちのアジトに出向いて、賊徒と化した浪人たちを皆殺しにする。しかし、その決闘のさなかですら、都築は剣を抜いて斬ることができない。しかも、澤村、都築のあとをつけてきたゆうが、浪人たちに見つかり、レイプされるにもかかわらず。それを目撃していても都築は、そのとき自身も殺されそうになって助けることもできず、しかもみずから剣を抜くことができないことははっきりわかる――映像は、何が起こっているかわからないほど、激しく動揺し、暴力と狂気の残酷な本流が観客を圧倒するとしても。
なお、この賊徒と化した殺人集団たる浪人の群れは、大義のために命を捧げようとする武士である都築や澤村の対極にあるように思われるのだが、しかし、この映画の展開からすれば、この薄汚い浪人たちの群れは、実は、澤村や都築のなれのはての姿、ある種の鏡像ではないかという疑念を、観客は拭い去ることができないだろう。
そして野武士たちを皆殺しにしたあと、無傷ではあっても深い心の傷を負った都築/池松を、澤村は江戸につれていくという。だが、いよいよ再度、出発することになる朝、都築は森に逃げ込んで、江戸への出発をかたくなに拒む。澤村は、江戸に行かないのなら、無用な都築を斬るといい、もし都築が逆に澤村を斬れば、それで都築は一人前の人斬りの武士になり、自分の遺志を継いでくれると考えているらしいことがわかる。
こうして二人の森のなかでの対決となる。それを止めようと、ゆう/蒼井優も森に入る。演劇的強度がマックスとなる。もちろん池松、塚本、蒼井の三人の言動が切り結ぶ空間は、農村と里山あるいは森で展開するため、舞台空間には収まらない広がりを見せるが、心理的対決なり葛藤は、狭い舞台のなかではじめて達成されるような濃密さをにじませるのである。
主人公、都築杢乃進/池松壮亮の「変身」が鍵となる。それは塚本監督が『鉄男』の頃から追究してきたテーマでもある。剣を抜き、人を斬れない都築に、一種のショック療法的な暴力を加える澤村を、この作品の監督でもある塚本晋也が演じているというのも象徴的であろう。都築の変身の儀式を用意し、たとえ自身は倒れるとしても、その変身を見届けること、これが映画の究極的な到達点として設定される。
だが、同時に、この映画は、それが無意味なことも知悉している。江戸へいってどうするのか。京にのぼってどうするのか。武士になりたがっている農家の少年が、誰と誰が、どことどことが戦っているのか、答えられなかったのは、たんに彼の無知とか無教養のせいだけではないだろう。ふたりの浪人が江戸におもむくことに、明確な理由も大義があるわけでもない。むしろふたりは、やむにやまれる義務感から、あるいは自己目的化した使命達成のために、動かざるをえないところがある。
テントウ虫のエピソードが、それを裏付ける。都築は、ゆうや少年と森のなかで、木の幹にとまっているテントウ虫をみつける。都築の解説によると、テントウ虫というのは、へばりついて植物の側面を上に昇っていく、そして頂点まで達したら、もう昇ることができないので、羽を広げて飛び立つという。そんなテントウ虫は、ふつう平原にいるのだが、森のなかにいるのは珍しいという。その珍しいテントウ虫と等価なのが、農民の間にまじって農作業をしている浪人の都築だろう。
そしてさらにいえば、平原のテントウ虫は草花にとりついている。背の低い草花だったら、その頂点に到達するのはたやすいし、自由に野の草花のうえを飛び回れる。しかし、森の巨木にとりついているテントウ虫は、昇って昇っても羽ばたき飛び立つことを可能にする頂点にいたることはない。これは戦国の世から、泰平の世となり、それが長く続いた江戸時代において、もはや、剣を抜いて戦ったり、剣術の腕前が立身出世の契機となったりする時代が終わったこと、武士にとっては、剣による人斬りが成長の証しとなる時代は終わっていたことを暗示している。いや、幕末において、再び、武装集団としての武士が必要とされ、剣による暴力が必要とされる時代が、束の間でも現われた、このチャンスを逃すまいと、浪人の澤村は考える。そのため、都築を道ずれにするか、あるいは都築に遺志を託そうとしている。
しかし、都築にしてみれば、まだ若く、女も知らない自分が、命もなげうって、闘いに身を投じ、人を斬ることに、意味は見出せないのである。そう、こうなると、彼は、悩めるハムレットである。その優柔不断ぶりからしても、懐疑的な姿勢からしれも、彼は、どこにだしても恥ずかしくないハムレットである。とにかく彼は武士道、サムライ道の、現実離れした、あるいは現実に害をなす実践を嫌っている。人を斬ることが、成長の証し、大人であることの証明となることに、彼は、激しく、それこそ熱を出すほどに疑問を感じているとしか思えない。
澤村が、都築を、一人前の武士、人斬りの武士にするためのショック療法的暴力が、レイプのかたちをとっていることに注目すべきである。ゆう/蒼井優が野武士たちにレイプされるシーンは、都築の運命を予示していた(なお蒼井優演ずる、この「ゆう」という女性は、都築、そして澤村の心の中にだけいるアニマ的存在で、実在していないという解釈もなりたつだろう)。いまやうつぶせになっている都築は、澤村に尻をむけているのだ。しかも都築のこの格好は、ある意味、テントウ虫に似ている。その都築を澤村は、後ろから斬りつける。都築は斬りつけられ出血する――処女の血、血の婚礼――が、次の瞬間、澤村を斬り殺す。こうして最後にレイプされるのとひきかえに、都築は、人を斬ることができた。
この記事のタイトルは、テントウ虫のサンバだが、都築も澤村もともに、テントウ虫のようなところがある。二匹のテントウ虫のサンバというよりも(サンバは集団の群舞)、二匹のテントウ虫のランバダといったほうがいいのかもしれないが。
とまれ、剣を抜いて人を斬ることができた都築だが、そこに満足感も、達成感もない。
最後のシーン、エンドクレジットまでつづくシーンは、一人称カメラとなって、都築/池松の視点と一体化する。もはや彼の目で世界をみているため、彼がどうなったのか、傷はどの程度のものなのか、一切わからない。この一人称のカメラは、江戸への最初の出発の朝、都築が熱病で倒れるときの一人称カメラと響きあっている。エンドクレジットの映像は、浮遊と揺動で、ずっと不安定なままである。これは、傷ついたテントウ虫が、いまにも墜落しそうでいながら、それでも必死で飛んでいることを暗示しないか。
この都築=テントウ虫の視点で捉えられた世界は、樹海のような森の中であり、この森は、とうてい抜け出せそうにない、いつはてるともない死の森、死の樹海なのだ。初体験の処女の血なのか、レイプの傷なのかわからないまま、血を流しながら、そこに迷いながら、かぼそく傷ついたテントウ虫の飛翔――それを暗示させる映像。人を斬ったことは、なんの成長の証しでもなく、さらなる迷いと未完結のはじまりにすぎない。
これは映画のタイトルが明確に語っていることである。『斬、』と。刀で斬ったことは、なにかの完成でもなければ完結でもない、つまり「。」ではないのだ。完結しない、永続する迷い。それが「、」で終わるしかない、世界、なのだ、
2020年12月22日
待たされて 2
原稿を印刷してもらえない
カフカのこの小説にみられる、官僚組織あるいは司法組織の煩雑な手続きに翻弄されるというか無為に待たされる一庶民の不条理な苦しみは、これはメタファーであると同時に、まさに現代そのもの、メタファー性あるいは形而上性の希薄な、現実のありようそのものといえるのかもしれない。召喚する庶民を延々と待たせること、進展しない裁判で権力を維持する不条理の過程、そうしたものの指摘もカフカ(その前は『荒涼館』のディケンズ)の功績といってよいかもしれない。
さしずめ今なら、コロナ感染しても自宅治療という名の自宅放置によって、検査が受けられない、治療が受けられないまま感染者が死んでいく世界は、まさにカフカの『審判』の世界が、悪夢物語ではなくて、いよいよ現実に出現したかのようである。今なら保健所が国民の選別をおこなう最悪の公的機関となっている。保健所が、カフカの掟の門みたいに、訪れるものを死ぬまで待たせ、訪れる者を選別しているからである。
こんなことを書くと、入院中あるいは入院前に病院で待たされたのかと勘ぐられるかもしれないが、私が入院した病院の名誉のためにも、待たされることはなかった。むしろ紹介状をもって(私のかかりつけの病院には外科がないので)赴いた病院では、迅速に、検査、手術、入院の計画を作成してもらい(そのなかには手術前のPCR検査もふくむ)、予定通り、なんのとどこおりなく治療を受けることができた。待たされたということはまったくない。
では何に待たされているのか。『審判』の世界のように、プロセスがどの程度まですすんでいるのか、まったく不明で、ただ自宅で待たされている、あるいは放置されているのである。何が。私は皇帝の使者の到来を待っている。だが、当分、使者は来そうにない。というかたぶん私のことは忘れ去られているのだろう。なにが? 私の書いた原稿のことである。いつまでたっても印刷にまわしてくれない。
いや、自分で書いた文章なら、それこそこのブログであるいはウェブ上のサイトで全文を公開してもいいのだが、原稿は、翻訳原稿だからたちがわるい。
すでに2冊の本を翻訳し、その索引(原著の頁が入っている)までも作り上げたのに、印刷にまわしてくれないし、いつ本ができるのか、その完成までのプロセスがまったくわからない。
理由のひとつは、私が迫害とか嫌がらせを受けていて、原稿を完成させても印刷にまわしてもらえないのかもしれない。これは私のパラノイアではなく現実という感じがするが。
もうひとつのもっともな理由とは、この自粛生活で自宅での作業がはかどり、原稿がどんどん完成して、予想外に多くの完成原稿が、執筆者たちから提出されも、出版社自体、リモートワークなどで、原稿処理がうまくはかどらない。印刷にもなかなかまわせないのかもしれない。渋滞状態で、前がつまっていて、原稿が印刷にまわせないということは十分にありうる。しかし、いつまで待ったらよりのか。
そしてこれまで、原稿の完成が常に遅れ、出版社に迷惑をかけてつづけたことのやましさもあって、原稿を早く印刷にまわしてくれとは要求できないところがある。これまでの悪行がたたって、早く原稿を完成させても、印刷してくれない。ずっと待たされている。
実際のところ、この3月で、三冊目の翻訳が終わりそうなのだが、それも待たされるのかもしれない。
すでにゲラになっている原稿はある(ただし出版予定はたっていない)。しかし、ゲラにもなっていない原稿もあるので、頭にきている私としては、印刷出版してくれる出版社があるのなら、原稿を提供したい。しかも無償で。
あるいはこのブログか、自分でウェブ上にサイトを作って、そこで全文公開してもいい。版権なんか知ったことか。原稿料が目当てではないので、ネット上で公開できれば、それに越したことはない。これは本気で考えている。
早ければ明日からも、そうしていいのだが、まだ皇帝の使者が、ドアをノックするのではないかと待っていたい気持ちも少しはあるので、あと少しだけ待っていたい。
カフカのこの小説にみられる、官僚組織あるいは司法組織の煩雑な手続きに翻弄されるというか無為に待たされる一庶民の不条理な苦しみは、これはメタファーであると同時に、まさに現代そのもの、メタファー性あるいは形而上性の希薄な、現実のありようそのものといえるのかもしれない。召喚する庶民を延々と待たせること、進展しない裁判で権力を維持する不条理の過程、そうしたものの指摘もカフカ(その前は『荒涼館』のディケンズ)の功績といってよいかもしれない。
さしずめ今なら、コロナ感染しても自宅治療という名の自宅放置によって、検査が受けられない、治療が受けられないまま感染者が死んでいく世界は、まさにカフカの『審判』の世界が、悪夢物語ではなくて、いよいよ現実に出現したかのようである。今なら保健所が国民の選別をおこなう最悪の公的機関となっている。保健所が、カフカの掟の門みたいに、訪れるものを死ぬまで待たせ、訪れる者を選別しているからである。
こんなことを書くと、入院中あるいは入院前に病院で待たされたのかと勘ぐられるかもしれないが、私が入院した病院の名誉のためにも、待たされることはなかった。むしろ紹介状をもって(私のかかりつけの病院には外科がないので)赴いた病院では、迅速に、検査、手術、入院の計画を作成してもらい(そのなかには手術前のPCR検査もふくむ)、予定通り、なんのとどこおりなく治療を受けることができた。待たされたということはまったくない。
では何に待たされているのか。『審判』の世界のように、プロセスがどの程度まですすんでいるのか、まったく不明で、ただ自宅で待たされている、あるいは放置されているのである。何が。私は皇帝の使者の到来を待っている。だが、当分、使者は来そうにない。というかたぶん私のことは忘れ去られているのだろう。なにが? 私の書いた原稿のことである。いつまでたっても印刷にまわしてくれない。
いや、自分で書いた文章なら、それこそこのブログであるいはウェブ上のサイトで全文を公開してもいいのだが、原稿は、翻訳原稿だからたちがわるい。
すでに2冊の本を翻訳し、その索引(原著の頁が入っている)までも作り上げたのに、印刷にまわしてくれないし、いつ本ができるのか、その完成までのプロセスがまったくわからない。
理由のひとつは、私が迫害とか嫌がらせを受けていて、原稿を完成させても印刷にまわしてもらえないのかもしれない。これは私のパラノイアではなく現実という感じがするが。
もうひとつのもっともな理由とは、この自粛生活で自宅での作業がはかどり、原稿がどんどん完成して、予想外に多くの完成原稿が、執筆者たちから提出されも、出版社自体、リモートワークなどで、原稿処理がうまくはかどらない。印刷にもなかなかまわせないのかもしれない。渋滞状態で、前がつまっていて、原稿が印刷にまわせないということは十分にありうる。しかし、いつまで待ったらよりのか。
そしてこれまで、原稿の完成が常に遅れ、出版社に迷惑をかけてつづけたことのやましさもあって、原稿を早く印刷にまわしてくれとは要求できないところがある。これまでの悪行がたたって、早く原稿を完成させても、印刷してくれない。ずっと待たされている。
実際のところ、この3月で、三冊目の翻訳が終わりそうなのだが、それも待たされるのかもしれない。
すでにゲラになっている原稿はある(ただし出版予定はたっていない)。しかし、ゲラにもなっていない原稿もあるので、頭にきている私としては、印刷出版してくれる出版社があるのなら、原稿を提供したい。しかも無償で。
あるいはこのブログか、自分でウェブ上にサイトを作って、そこで全文公開してもいい。版権なんか知ったことか。原稿料が目当てではないので、ネット上で公開できれば、それに越したことはない。これは本気で考えている。
早ければ明日からも、そうしていいのだが、まだ皇帝の使者が、ドアをノックするのではないかと待っていたい気持ちも少しはあるので、あと少しだけ待っていたい。
posted by ohashi at 21:02| コメント
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2020年12月19日
ある専門家
12月18日、白鴎大学教育学部の岡田晴恵教授、TBS「ぴったんこカン・カン」(金曜後8・00)との合同2時間スペシャルとして放送された「中居正広の金曜日のスマイルたちへ」(金曜後8・57)に出演していた。そこでは、知られざる素顔を明かすというふれこみだった。
手元に、藤原書店が出しているPR小冊子『機』の2007年10月号がある。実はこれがどの本に入っていたのか、わからなくなったのだが、その最後のページに、藤原書店主催の「後藤新平フェスティバル」の案内があって、2007年11月2日の開催と講演者やパネリストの紹介が記されている。
第一部はアニメ上演と、「後藤新平」の「全仕事」というリレー講演がある。第二部は、映画上演とシンポジウム。講演者、パネリストの名前が写真とともに掲載されている。講演者、パネリスト、いずれも、いまもよく知られていた人たちで、私には詳しくは知らなくても名前ぐらいは知っている人もふくめ、みんな有名人だった――ただし、一人を除いていては。
たぶん、2007年の時点で、私には聞いたこともない専門家がそこにいた。写真をみても、はじめて知る人だった――当時は。それは、「公衆衛生と医療」という題目で講演をする岡田晴恵という専門家であった。
今からみれば、たぶんパネリストや講演者のなかで、岡田氏が一番有名かもしれないのだが、コロナ禍でテレビにポット出てきた人ではなく、けっこう昔から活躍していたのだと認識を新たにした。
手元に、藤原書店が出しているPR小冊子『機』の2007年10月号がある。実はこれがどの本に入っていたのか、わからなくなったのだが、その最後のページに、藤原書店主催の「後藤新平フェスティバル」の案内があって、2007年11月2日の開催と講演者やパネリストの紹介が記されている。
第一部はアニメ上演と、「後藤新平」の「全仕事」というリレー講演がある。第二部は、映画上演とシンポジウム。講演者、パネリストの名前が写真とともに掲載されている。講演者、パネリスト、いずれも、いまもよく知られていた人たちで、私には詳しくは知らなくても名前ぐらいは知っている人もふくめ、みんな有名人だった――ただし、一人を除いていては。
たぶん、2007年の時点で、私には聞いたこともない専門家がそこにいた。写真をみても、はじめて知る人だった――当時は。それは、「公衆衛生と医療」という題目で講演をする岡田晴恵という専門家であった。
今からみれば、たぶんパネリストや講演者のなかで、岡田氏が一番有名かもしれないのだが、コロナ禍でテレビにポット出てきた人ではなく、けっこう昔から活躍していたのだと認識を新たにした。
posted by ohashi at 01:21| コメント
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ガンダム動く
12月18日午後11時から、翌日、0時45分にかけてNHKBS1で、横浜山下ふ頭での実物体ガンダムの起動式を生中継した(というか生中継を観ながら書いている)。
ガンプラは、ひとつだけ作ったことがある。1/48の巨大なプラモである。購入してから時間がたってから作ったので、デカールは、ほとんど使えなかったが、もともとパーツが色分けしてあるスナップタイト(とは今はいわないのかもしれないが)のモデルで、そのまま作っても、りっぱなガンダムになった。
かなり大きなモデルで、関節各部が自在に動くようになっているので、いろいろなポーズをつけることができる。いまは絶版だろうが、おすすめのモデルである。スナップタイト(いまはスナップフィットというのか)だから接着剤不要で、塗装の必要もない。まあデカールは使えないと思うが。
このモデルはアニメのガンダムをかなり忠実に再現しているように思われる。今回の動く実物大ガンダムは、動くことが災いして、軽量化のために、アニメよりも少し細身になっている(目立って細いということはないが)。ガンダムモデルのほうが、実物大ガンダムよりも、プロポーションの点で、ガンダムに近い。
そして1/48というサイズは、ヒコーキモデルの標準サイズのひとつだから、同じスケールの航空機のプラモと比べることで、ガンダムのサイズが実感できる。
起動式の演出は、ガンダムにパイロットが乗り込んでから、起動するのだが、一時、暴走をはじめるものの、パイロットが手動にきりかえてコントロール、安定したガンダムが、これからカタパルトで射出されるような態勢で、すこし浮き上がったようなポーズになって終わる。ただし、この間の動きが、ものすごくのろい、重々しいというべきか。それでも、OSの暴走と手動に切り替えという流れは、ありがちな流れだが、一応、物語的設定があるみたいだが、のろいことはのろい。
同時に、起動シークエンスが短い。生中継中に、何度もリプレイしている。それができるほど、長くのろいように思えて、実は、あっというまに終わっている。
まあディズニーランドとかUSJのアトラクションの演出を思わせるもので、これからは、そういうアトラクション用に使われるのだろうが。
現在の技術では、この巨体は、ほとんど動かない。これでは敵が襲ってくるので急遽、白い木馬から発進するガンダムというアニメに描かれた世界は、再現不可能である――まあ、当然といえば当然だが。
なお一般公開の時は、今回の起動式セレモニーの動きとは別の動きをするようで、そのビデオも番組中で紹介していたが、実は、その動きのほうが、今回のセレモニーの動きよりも、迫力があって、面白い。
また、これもないものねだりだが、もし技術的に可能だったなら、起動式では、横たわっているガンダムに、パイロット(少年アムロ)が乗り込み、そして上半身が起き上がる。つづいて全体が起き上がり、大地に立つ。そう、ガンダムのアニメの記念すべき、40年前の第1回放送の、あの有名な場面が、再現できていたらと思う。まあ、無理な話だが。
なお21日には、ガンダムを動かすための作業というか道のりのドキュメンタリーがNHKで放送されるようだが、たぶん、起動式あるいは一般公開のガンダムをみているよりは、このドキュメンタリーをみているほうが面白いだろうという気がする。
ガンプラは、ひとつだけ作ったことがある。1/48の巨大なプラモである。購入してから時間がたってから作ったので、デカールは、ほとんど使えなかったが、もともとパーツが色分けしてあるスナップタイト(とは今はいわないのかもしれないが)のモデルで、そのまま作っても、りっぱなガンダムになった。
かなり大きなモデルで、関節各部が自在に動くようになっているので、いろいろなポーズをつけることができる。いまは絶版だろうが、おすすめのモデルである。スナップタイト(いまはスナップフィットというのか)だから接着剤不要で、塗装の必要もない。まあデカールは使えないと思うが。
このモデルはアニメのガンダムをかなり忠実に再現しているように思われる。今回の動く実物大ガンダムは、動くことが災いして、軽量化のために、アニメよりも少し細身になっている(目立って細いということはないが)。ガンダムモデルのほうが、実物大ガンダムよりも、プロポーションの点で、ガンダムに近い。
そして1/48というサイズは、ヒコーキモデルの標準サイズのひとつだから、同じスケールの航空機のプラモと比べることで、ガンダムのサイズが実感できる。
起動式の演出は、ガンダムにパイロットが乗り込んでから、起動するのだが、一時、暴走をはじめるものの、パイロットが手動にきりかえてコントロール、安定したガンダムが、これからカタパルトで射出されるような態勢で、すこし浮き上がったようなポーズになって終わる。ただし、この間の動きが、ものすごくのろい、重々しいというべきか。それでも、OSの暴走と手動に切り替えという流れは、ありがちな流れだが、一応、物語的設定があるみたいだが、のろいことはのろい。
同時に、起動シークエンスが短い。生中継中に、何度もリプレイしている。それができるほど、長くのろいように思えて、実は、あっというまに終わっている。
まあディズニーランドとかUSJのアトラクションの演出を思わせるもので、これからは、そういうアトラクション用に使われるのだろうが。
現在の技術では、この巨体は、ほとんど動かない。これでは敵が襲ってくるので急遽、白い木馬から発進するガンダムというアニメに描かれた世界は、再現不可能である――まあ、当然といえば当然だが。
なお一般公開の時は、今回の起動式セレモニーの動きとは別の動きをするようで、そのビデオも番組中で紹介していたが、実は、その動きのほうが、今回のセレモニーの動きよりも、迫力があって、面白い。
また、これもないものねだりだが、もし技術的に可能だったなら、起動式では、横たわっているガンダムに、パイロット(少年アムロ)が乗り込み、そして上半身が起き上がる。つづいて全体が起き上がり、大地に立つ。そう、ガンダムのアニメの記念すべき、40年前の第1回放送の、あの有名な場面が、再現できていたらと思う。まあ、無理な話だが。
なお21日には、ガンダムを動かすための作業というか道のりのドキュメンタリーがNHKで放送されるようだが、たぶん、起動式あるいは一般公開のガンダムをみているよりは、このドキュメンタリーをみているほうが面白いだろうという気がする。
posted by ohashi at 00:50| コメント
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2020年12月07日
隠れ感染者の若者
隠れ感染者の若者というのがいると、もっともらしく吹聴するコメンテイターがいる。
PCR検査で陽性になった若者が、若い世代は症状がでないか、軽症ですむ。また陽性であることがわかると、職を失いかねないので、黙っている。その間、通常通り仕事をして周囲に感染させていくが、本人は絶対に口を割らない。
この話のねらいはなにかというと、PCR検査をして陽性でも隠してしまう人間がいるので、陽性者の実像がわからない。PCR検査をしてもしなくても、わからないものはわからない。だから今なお続く政府のPCR検査の拡大に消極的な政府の姿勢を、肯定するということになる。
これにつづくのが、PCR検査を増やしてくれという声に対して、国民の声を聞くことは重要だが、空気に流されていけない(つまり国民の声など聞くな)という応援団・ネトウヨ・ファシストの主張である。
そしていまだに、いまPCR検査で陰性でも、10分後には、陽性になるかもしれないというずいぶん前に聞かれた主張を繰り返す馬鹿が、テレビの番組にいた。可能性としては誰もが10分後に陽性になるかもしれないし、誰もが明日、死んでいるかもしれない。しかし、それは蓋然性に乏しい。いったい10分後に陽性になるというのは、不幸にもクラスターが発生した病院のなかで働いている医療関係者なら話はべつで、通常の日常生活のなかで、いったいどういう状況になったら、どういう行動をしていたらそうなるのか? 教えてほしいものだ。
またPCR検査にしても、いまもなお検査を受けたくても受けられずに、それで死んでいく感染者がいるというときに、全国一斉ではなくても、地域、地区ごとにローテーションを組んで検査しているわけでもない。濃厚接触者となったり、医師の診断によって、やむをえず検査することを求められるというケース以外に、検査を受けるのは、きわめてまれであろう。無症状なのに検査をうけたら陽性という人間は、ほんとうにどれくらいいるのだろうか。また、さらに症状が軽いから黙っていたという若者いても、数はきわめて少ないはずである。
そもそも感染者が逃亡して行方をくらましたらべつだが、保健所が、医療機関が、陽性反応がでた感染者を把握していないということはない。感染者の数は明確にでる。ただ、その後、その感染者が逃亡したり、ふだんどおり仕事をするということになれば、感染の危険性は増すだろうが、重症化して逃亡も黙秘もできない状態になる者も多いはずだし、軽症者でも適切な治療を受けずに重症化する人は多い。
PCR検査したら隠れ感染者がふえるというのは名目上のことで、実質的にはPCR検査をしてもしなくても、隠れ感染者は存在する。だから検査をしなくてもいいということにはならない。検査することによって生ずるメリットは大きいのである。感染状況がわかり、また感染者を救える可能性が増える。
さらにいえば、たとえばGo toトラベルやGo toイートで不正をする者がでてくる。しかし、その不正をする一部のものがいるからといって、Go to イートやトラベルを辞める気配はない。ならば隠れ感染者がでるから、PCR検査をしないというのは理屈に合わない。しかもGo toトラベルはやめれば、Go to トラベルで不正を働く人間は名目上も実質的にもいなくなるのだが、PCR検査を辞めたら、隠れ感染者は実質的にいなくなるかというと、なくならない。気づかない感染者が増えるだけである。
こんなことは、数ヶ月も前に決着をしていたはずなのに、またメディアやネットでの政権応援だの雑音が大きくなったのは、政権そのものの危機意識のあらわれであろう。そして私たちとしても、政権が続こうが倒れようが知ったことではないが、私たち自身が、この感染拡大のなかで犠牲になることだけは最小限にとどめたいという思いは失いたくはない。
PCR検査で陽性になった若者が、若い世代は症状がでないか、軽症ですむ。また陽性であることがわかると、職を失いかねないので、黙っている。その間、通常通り仕事をして周囲に感染させていくが、本人は絶対に口を割らない。
この話のねらいはなにかというと、PCR検査をして陽性でも隠してしまう人間がいるので、陽性者の実像がわからない。PCR検査をしてもしなくても、わからないものはわからない。だから今なお続く政府のPCR検査の拡大に消極的な政府の姿勢を、肯定するということになる。
これにつづくのが、PCR検査を増やしてくれという声に対して、国民の声を聞くことは重要だが、空気に流されていけない(つまり国民の声など聞くな)という応援団・ネトウヨ・ファシストの主張である。
そしていまだに、いまPCR検査で陰性でも、10分後には、陽性になるかもしれないというずいぶん前に聞かれた主張を繰り返す馬鹿が、テレビの番組にいた。可能性としては誰もが10分後に陽性になるかもしれないし、誰もが明日、死んでいるかもしれない。しかし、それは蓋然性に乏しい。いったい10分後に陽性になるというのは、不幸にもクラスターが発生した病院のなかで働いている医療関係者なら話はべつで、通常の日常生活のなかで、いったいどういう状況になったら、どういう行動をしていたらそうなるのか? 教えてほしいものだ。
またPCR検査にしても、いまもなお検査を受けたくても受けられずに、それで死んでいく感染者がいるというときに、全国一斉ではなくても、地域、地区ごとにローテーションを組んで検査しているわけでもない。濃厚接触者となったり、医師の診断によって、やむをえず検査することを求められるというケース以外に、検査を受けるのは、きわめてまれであろう。無症状なのに検査をうけたら陽性という人間は、ほんとうにどれくらいいるのだろうか。また、さらに症状が軽いから黙っていたという若者いても、数はきわめて少ないはずである。
そもそも感染者が逃亡して行方をくらましたらべつだが、保健所が、医療機関が、陽性反応がでた感染者を把握していないということはない。感染者の数は明確にでる。ただ、その後、その感染者が逃亡したり、ふだんどおり仕事をするということになれば、感染の危険性は増すだろうが、重症化して逃亡も黙秘もできない状態になる者も多いはずだし、軽症者でも適切な治療を受けずに重症化する人は多い。
PCR検査したら隠れ感染者がふえるというのは名目上のことで、実質的にはPCR検査をしてもしなくても、隠れ感染者は存在する。だから検査をしなくてもいいということにはならない。検査することによって生ずるメリットは大きいのである。感染状況がわかり、また感染者を救える可能性が増える。
さらにいえば、たとえばGo toトラベルやGo toイートで不正をする者がでてくる。しかし、その不正をする一部のものがいるからといって、Go to イートやトラベルを辞める気配はない。ならば隠れ感染者がでるから、PCR検査をしないというのは理屈に合わない。しかもGo toトラベルはやめれば、Go to トラベルで不正を働く人間は名目上も実質的にもいなくなるのだが、PCR検査を辞めたら、隠れ感染者は実質的にいなくなるかというと、なくならない。気づかない感染者が増えるだけである。
こんなことは、数ヶ月も前に決着をしていたはずなのに、またメディアやネットでの政権応援だの雑音が大きくなったのは、政権そのものの危機意識のあらわれであろう。そして私たちとしても、政権が続こうが倒れようが知ったことではないが、私たち自身が、この感染拡大のなかで犠牲になることだけは最小限にとどめたいという思いは失いたくはない。
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2020年12月06日
バイロン『カイン』
実は、前日の記事は、バイロン『カイン』(岩波文庫)についての感想の前振りである。
「過去10年間で出版されたこの分野の研究書のなかでもっともすぐれたもの」というような表現が卒論のなかでなされた場合、そこには、含意として、書き手が、この分野の研究者で、多くの文献を読みこんでいる優れた人間ということがあげられる。卒論を書く一学生が、そんな研究者であるはずもなく、違和感マックスなのだが、本人としても、優秀な、あるいは有能な研究者としての自我を一瞬でも引き受けて、いい気持ちになったということが、まったくないとは言いきれまい。自分を偉く見せようという強い気持ちはなくても、自分が偉くなったと一瞬でも感じたのではないか。そこのところが気になる。
同じようなことを私は感じたの、バイロンの『カイン』の翻訳というよりも、その訳注を読んで。
バイロンの『カイン』の翻訳の「訳注」を読んで、驚いた。
たとえば最初の注
これを読んだときに、翻訳者の島田謹二の知識というか学識は、すごいものだと一瞬驚いた。いまの若い世代は知らないかもしれないが、島田謹二という人は、その威光に誰もがひれ伏しておかしくない大学者だった。Wikipediaで調べてみてもいい。そこには島田謹二(1901年3月20日 - 1993年4月20日)が比較文学者、英米文学者で、戦後、新制発足間もない東京大学教養学部の大学院比較文学比較文化専修課程の初代主任教官となり「平川祐弘、芳賀徹、小堀桂一郎、亀井俊介ら、多方面で活躍する人材を多く育てた」とある。また司馬遼太郎とも親交があり、そして女癖が悪かったという。この女癖については、いかにもWikipediaタッチで、べつになにか大事件になったわけでもないし、そんなことを書く必要があるのかとWikpediaの記述の、いつもながらのゲスぶりにあらためて憤りすら覚えたのだが、今回の『カイン』は、この人物の翻訳であり、また「注」なのだ。
翻訳については、すぐれた翻訳だと思うので、なにもいうことはない。問題は、そこにつけられた訳注である。
ただし、なにか翻訳者が不正なこととか、まちがったことをしたということではまったくない。訳注をみて、私は最初から、その学識に度肝をぬかれたが、ただ、さすがに読んでいくと、これは翻訳者当人がつけた訳注ではないことはわかってくる。実際、文庫版の解説の最後に、訳注は、バイロン全集のこの作品に着けられた原注を選んで翻訳したものであることを明記してある。
と書いてある。
ただし、解説の最後まで読まないと、わかないのだが、しかし、明記してあるので、これは盗作でもなんでもない。また原書につけられた原注も翻訳することは、まちがいではないし、また原初の原注を訳してくれると読者としてもありがたいことも事実である。
だから、まちがったことはなにひとつないのだが、しかし、「……バイロンは、劇の歴史にいくらかは親しんでいたらしいが、かれの知識がとこからきており、どのくらいものであったかは推測したがい」という趣旨の訳注は、翻訳者の学識あふれる感慨として受けとられてもおかしくない。翻訳者は、ただの無名の研究者ではなく、島田謹二大先生なのだから。しかも、このような書き方は、翻訳者の意見なのか、原著にふくまれる注釈の作者の意見なのか、すぐには、区別がしがたくなっている。ここは、しつこいぐらいに、これは原著の原注であり、そこではこういうことが書いてあると、明記すべきだろう。そうしないと訳注をつけた者、つまり翻訳者が、ものすごい学識をもっていると誤解されかねない。いや、誤解されたほうがよかったのでは?!
いやちがう、島田先生ならコールリッジなんとやら(コールリッジの孫だが)と同じ学識があってもおかしくないのだから、これは島田先生の学識が披瀝されたものとみてよく、たまたまコールリッジの孫と意見が一致したにすぎないといわれるかもしれない。
しかしだったら、次の注は、どうか。
という訳注。実は、これも原注の引き写しなのだが、それはそれでいいとしても、ヴォルテールの「聖書解釈」には、説明が欲しい(原著のフランス語のタイトルくらい出すべきだし、原書の原注はヴォルテールの全集の巻数まで明記して、詳細な出典情報を提供しているきめて学術的な注となっている)、ベイルの「批評辞典」というのはなんじゃい?
ベイルのこの本は、現物は見たことがないのだが、けっこう有名な本で、私が翻訳している本にも言及があった。日本版Wikipediaにも「ピエール・ベール」の項目に
とある。そして日本版ウィキペディアにはどういうわけか触れていないのだが、『歴史批評辞典』には、翻訳もある(法政大学出版局、絶版)。ところが、原注を訳した人間は、His. And Crit. DictionaryのHis.が何の略かわからなくて、『批評辞典』としか訳していない。本来なら、これはわかって当然で、『歴史批評辞典』と訳すべきでしょう。この注をつけた、あるいは翻訳した人間は、ベイル/ベールのこの辞典について何も知らないのだ! ならば、自分で知らないことを、日本の読者に伝えてどうするのか。ちなみに原書の原注はHist.and Crit. Dictionaryとあるのだが、岩波文庫版ではHis.and Crit.Dictionaryとあって、Hist.がHis.なっている。どういうわけか。
もうひとつの注
これには読者はきょとんするしかない。実はバイロンは、序のなかで、こう述べている――
と。この末尾の言葉に対する注がこれなのだ――「「アベーレ」と「カイン」との間には何の類似もない」。はあ? なんの類似もないのなら、なぜバイロンは、わざわざことわったのだ。この注は原書のコールリッジの孫がつけた注と同じというか、翻訳である。
There is no resemblance whatever between Byron’s Cain and Alfieri’s Abele. これが原注。
この注を訳した翻訳者は、まずアルフィエーリについて何も知らない。まあ日本でもアルフィエーリの戯曲が翻訳されたのは、Wikipediaの記述を信ずれば21世紀に入ってからである。
で、このアルフィレーリの『アベーレ』だが、なぜ、なんの類似もない作品に、バイロンは言及したのか、この訳注=原注は、頭がおかしい人間がつけたとしか思わない。なんの説明にもなっていない。そこでWikipediaの説明を一部引用すると、
とある。なるほど、「アベーレ」というのは、カインとアベルのアベルのことか。となるとアルフィレーリの『アベーレ』というのは、旧約聖書に取材した戯曲で、バイロンの『カイン』の世界とかぶる。そこでバイロンは、盗作あるいはインスピレーションを得たと誤解されないように、このアルフィレーリの作品は読んでいないと断り、コールリッジの孫も、この戯曲とバイロンの作品の類似性はないと明記した。
これならば、わかる。また英国の読者は、Abeleというタイトルから、アベルを扱った芝居だと想像がつくだろうが、日本の一般読者(私もそうだが)にとって、アベーレからアベル、カインとアベルを思いつくことは至難の業である。もちろん原注を訳した人間も、たぶんなにもわかっていない。結局、これは原注の劣化コピーに過ぎない。
なお細かなことだが、原注において、現代の日本語の一般的な表記と異なり、作品名は「失楽園」、「マンフレッド」、アウグスティヌス「神の国」と、「 」で表記し、引用は『………像ことごとくは/始の輝きを失わず、……』と二重カッコになっている。まあ、それでもシステマティックなら、それでいいのだが、バウリング編『ヴィトリオ・アルフィエリの悲劇』、『詩集』など書名も二重カッコになっている。作品名は「 」、引用は『 』、書名は『 』なら、では「ベイル辞典」(p.166)は何か?(これは『歴史的・批評的辞典』のことだろうが)。しかも「べィル辞典」(p.167)という表記もあるが、これは同じまあ不統一だろうが。
ならば
はいいとして、
は作品名が『 』に入っている。
はなぜ『ミルトンは……』
ではないのか。まあめちゃくちゃなのだ。
というか、昔はおおらかだったのだろう。本来なら、こんないい加減な注をつけた岩波文庫は永久絶版にしてもいいのだが、ただ詩の翻訳はすぐれていて、バイロンのこの傑作が読まれなくなるのはつらい。だから有能な研究者が注のところだけでもつけなおしてくれるとありがたいのだが……。
ただいえるのは、昔はおおらかだったということである。また、翻訳に関しては、昔の大先生の翻訳には、言い訳があった。これは、大先生が翻訳したのではなく、弟子とか学生がしたのだという。今の政治家の、全部秘書がしたのだという、あからさまな嘘を思い出すかもしれないが、実は、翻訳の場合、嘘ではないことも多くて、本人が翻訳していないことも多い。また原注の部分については、昔はおおらかだったのか、あるいは学生か弟子が書いたのか、そのいずれかだろうとあきらめるしかないのだが。
ただし、一言、私は、前日の記事の、卒論を書いた学生と同じものを、感じるのだ。意地悪な感想だろうか。
「過去10年間で出版されたこの分野の研究書のなかでもっともすぐれたもの」というような表現が卒論のなかでなされた場合、そこには、含意として、書き手が、この分野の研究者で、多くの文献を読みこんでいる優れた人間ということがあげられる。卒論を書く一学生が、そんな研究者であるはずもなく、違和感マックスなのだが、本人としても、優秀な、あるいは有能な研究者としての自我を一瞬でも引き受けて、いい気持ちになったということが、まったくないとは言いきれまい。自分を偉く見せようという強い気持ちはなくても、自分が偉くなったと一瞬でも感じたのではないか。そこのところが気になる。
同じようなことを私は感じたの、バイロンの『カイン』の翻訳というよりも、その訳注を読んで。
バイロンの『カイン』の翻訳の「訳注」を読んで、驚いた。
たとえば最初の注
……バイロンは、劇の歴史にいっくらかはしたしんでいたらしいが、かれの知識がとこからきており、どのくらいものであったかは推測したがい。一八一八年に公にされた「チェスター戯曲集」の再刊本はよんでいたろう。ウォートンの「詩史」のなかの奇蹟劇の部分をよんでいたのことはたしかである。あるいはLudus Coventrieaeの版本もみていたかもしれない。Le mistere duy Viel Testamentの十六世紀版は、一八七八年にロスチャイルド伯爵が再刊したが、はたしてバイロンがそれを見ていたかどうかはわかない。奇蹟劇の神聖冒涜についての例は、Towneley Plays(一八三六初刊)参照。(p.163)
これを読んだときに、翻訳者の島田謹二の知識というか学識は、すごいものだと一瞬驚いた。いまの若い世代は知らないかもしれないが、島田謹二という人は、その威光に誰もがひれ伏しておかしくない大学者だった。Wikipediaで調べてみてもいい。そこには島田謹二(1901年3月20日 - 1993年4月20日)が比較文学者、英米文学者で、戦後、新制発足間もない東京大学教養学部の大学院比較文学比較文化専修課程の初代主任教官となり「平川祐弘、芳賀徹、小堀桂一郎、亀井俊介ら、多方面で活躍する人材を多く育てた」とある。また司馬遼太郎とも親交があり、そして女癖が悪かったという。この女癖については、いかにもWikipediaタッチで、べつになにか大事件になったわけでもないし、そんなことを書く必要があるのかとWikpediaの記述の、いつもながらのゲスぶりにあらためて憤りすら覚えたのだが、今回の『カイン』は、この人物の翻訳であり、また「注」なのだ。
翻訳については、すぐれた翻訳だと思うので、なにもいうことはない。問題は、そこにつけられた訳注である。
ただし、なにか翻訳者が不正なこととか、まちがったことをしたということではまったくない。訳注をみて、私は最初から、その学識に度肝をぬかれたが、ただ、さすがに読んでいくと、これは翻訳者当人がつけた訳注ではないことはわかってくる。実際、文庫版の解説の最後に、訳注は、バイロン全集のこの作品に着けられた原注を選んで翻訳したものであることを明記してある。
……アーネスト・ハートレー・コールリッジが標準的なマレー版「バイロン全集」第五巻についけた注をもとにして、簡単なノート(注)を前に出しておいた。初心の読者のために多少のお役にたてばありがたいとおもっている。(p.185)
と書いてある。
ただし、解説の最後まで読まないと、わかないのだが、しかし、明記してあるので、これは盗作でもなんでもない。また原書につけられた原注も翻訳することは、まちがいではないし、また原初の原注を訳してくれると読者としてもありがたいことも事実である。
だから、まちがったことはなにひとつないのだが、しかし、「……バイロンは、劇の歴史にいくらかは親しんでいたらしいが、かれの知識がとこからきており、どのくらいものであったかは推測したがい」という趣旨の訳注は、翻訳者の学識あふれる感慨として受けとられてもおかしくない。翻訳者は、ただの無名の研究者ではなく、島田謹二大先生なのだから。しかも、このような書き方は、翻訳者の意見なのか、原著にふくまれる注釈の作者の意見なのか、すぐには、区別がしがたくなっている。ここは、しつこいぐらいに、これは原著の原注であり、そこではこういうことが書いてあると、明記すべきだろう。そうしないと訳注をつけた者、つまり翻訳者が、ものすごい学識をもっていると誤解されかねない。いや、誤解されたほうがよかったのでは?!
いやちがう、島田先生ならコールリッジなんとやら(コールリッジの孫だが)と同じ学識があってもおかしくないのだから、これは島田先生の学識が披瀝されたものとみてよく、たまたまコールリッジの孫と意見が一致したにすぎないといわれるかもしれない。
しかしだったら、次の注は、どうか。
蛇――「蛇は蛇であった」という主張については、ヴォルテールの「聖書解釈」、ベイル(「エヴァを誘惑したのは現実の蛇であった」)の「批評辞典」(His. And Crit. Dictionary (1735)ii, 851)参照。
という訳注。実は、これも原注の引き写しなのだが、それはそれでいいとしても、ヴォルテールの「聖書解釈」には、説明が欲しい(原著のフランス語のタイトルくらい出すべきだし、原書の原注はヴォルテールの全集の巻数まで明記して、詳細な出典情報を提供しているきめて学術的な注となっている)、ベイルの「批評辞典」というのはなんじゃい?
ベイルのこの本は、現物は見たことがないのだが、けっこう有名な本で、私が翻訳している本にも言及があった。日本版Wikipediaにも「ピエール・ベール」の項目に
ピエール・ベール(Pierre Bayle, 1647年11月18日 - 1706年12月28日)は、フランスの哲学者、辞書学者、思想家。『歴史批評辞典』などを著して神学的な歴史観を懐疑的に分析し、啓蒙思想の先駆けとなった。
とある。そして日本版ウィキペディアにはどういうわけか触れていないのだが、『歴史批評辞典』には、翻訳もある(法政大学出版局、絶版)。ところが、原注を訳した人間は、His. And Crit. DictionaryのHis.が何の略かわからなくて、『批評辞典』としか訳していない。本来なら、これはわかって当然で、『歴史批評辞典』と訳すべきでしょう。この注をつけた、あるいは翻訳した人間は、ベイル/ベールのこの辞典について何も知らないのだ! ならば、自分で知らないことを、日本の読者に伝えてどうするのか。ちなみに原書の原注はHist.and Crit. Dictionaryとあるのだが、岩波文庫版ではHis.and Crit.Dictionaryとあって、Hist.がHis.なっている。どういうわけか。
もうひとつの注
アルフィエリの「アベーレ」とバイロンの「カイン」との間には何の類似もない。
これには読者はきょとんするしかない。実はバイロンは、序のなかで、こう述べている――
最後に一言つけ足したいことがある。アルフィエリに「アベーレ」という「非歌劇」があるが、著者はまだ読んだことがない。伝記をのぞいては、この作家の遺著は一冊も読んでいない。
と。この末尾の言葉に対する注がこれなのだ――「「アベーレ」と「カイン」との間には何の類似もない」。はあ? なんの類似もないのなら、なぜバイロンは、わざわざことわったのだ。この注は原書のコールリッジの孫がつけた注と同じというか、翻訳である。
There is no resemblance whatever between Byron’s Cain and Alfieri’s Abele. これが原注。
この注を訳した翻訳者は、まずアルフィエーリについて何も知らない。まあ日本でもアルフィエーリの戯曲が翻訳されたのは、Wikipediaの記述を信ずれば21世紀に入ってからである。
翻訳リスト
『アルフィエーリ自伝』 Vita scritta da esso(上西明子・大崎さやの訳、人文書院、2001年)【これがバイロンが読んだ唯一の著作。絶対に面白い本だと思うが、私は読んでいない。バイロンがLifeといっているこの書物は、日本語では意味を汲んで『自伝』と訳すべきものだろう。原注を訳した人間は気づいていない。】
『アントニウスとクレオパトラ (悲劇)』(谷口伊兵衛・C.ピアッザ訳、文化書房博文社、2013年)【たぶんシェイクスピアの『アントニーとクレオパトラ』の翻案だろう。読んでいないのでちがっていたらすみません。】
『アルフィエーリ悲劇選 フィリッポ サウル』(菅野類訳、幻戯書房、2020年)【今年出た本。できるなら、もうひとつの代表作『ミルラ』も訳してほしかった。私のイタリア語力では『ミルラ』を原書で読むのはむりだろうし、英訳もちょっと探しにくいので。】
で、このアルフィレーリの『アベーレ』だが、なぜ、なんの類似もない作品に、バイロンは言及したのか、この訳注=原注は、頭がおかしい人間がつけたとしか思わない。なんの説明にもなっていない。そこでWikipediaの説明を一部引用すると、
Abele is an Italian play inspired on the first Bible's chapters by Vittorio Alfieri (1749–1803) which he described as a tramelogedia. It was written in 1786 and first published after Alfieri's death in 1804 in London.
とある。なるほど、「アベーレ」というのは、カインとアベルのアベルのことか。となるとアルフィレーリの『アベーレ』というのは、旧約聖書に取材した戯曲で、バイロンの『カイン』の世界とかぶる。そこでバイロンは、盗作あるいはインスピレーションを得たと誤解されないように、このアルフィレーリの作品は読んでいないと断り、コールリッジの孫も、この戯曲とバイロンの作品の類似性はないと明記した。
これならば、わかる。また英国の読者は、Abeleというタイトルから、アベルを扱った芝居だと想像がつくだろうが、日本の一般読者(私もそうだが)にとって、アベーレからアベル、カインとアベルを思いつくことは至難の業である。もちろん原注を訳した人間も、たぶんなにもわかっていない。結局、これは原注の劣化コピーに過ぎない。
なお細かなことだが、原注において、現代の日本語の一般的な表記と異なり、作品名は「失楽園」、「マンフレッド」、アウグスティヌス「神の国」と、「 」で表記し、引用は『………像ことごとくは/始の輝きを失わず、……』と二重カッコになっている。まあ、それでもシステマティックなら、それでいいのだが、バウリング編『ヴィトリオ・アルフィエリの悲劇』、『詩集』など書名も二重カッコになっている。作品名は「 」、引用は『 』、書名は『 』なら、では「ベイル辞典」(p.166)は何か?(これは『歴史的・批評的辞典』のことだろうが)。しかも「べィル辞典」(p.167)という表記もあるが、これは同じまあ不統一だろうが。
ならば
『婦人たちは……』(「コリント人への第一の手紙」……)(p.170)
はいいとして、
ゲスナーの『アベルの死』参照(p.170)
は作品名が『 』に入っている。
主の天使――「ミルトンは……」
はなぜ『ミルトンは……』
ではないのか。まあめちゃくちゃなのだ。
というか、昔はおおらかだったのだろう。本来なら、こんないい加減な注をつけた岩波文庫は永久絶版にしてもいいのだが、ただ詩の翻訳はすぐれていて、バイロンのこの傑作が読まれなくなるのはつらい。だから有能な研究者が注のところだけでもつけなおしてくれるとありがたいのだが……。
ただいえるのは、昔はおおらかだったということである。また、翻訳に関しては、昔の大先生の翻訳には、言い訳があった。これは、大先生が翻訳したのではなく、弟子とか学生がしたのだという。今の政治家の、全部秘書がしたのだという、あからさまな嘘を思い出すかもしれないが、実は、翻訳の場合、嘘ではないことも多くて、本人が翻訳していないことも多い。また原注の部分については、昔はおおらかだったのか、あるいは学生か弟子が書いたのか、そのいずれかだろうとあきらめるしかないのだが。
ただし、一言、私は、前日の記事の、卒論を書いた学生と同じものを、感じるのだ。意地悪な感想だろうか。
posted by ohashi at 20:10| 翻訳
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2020年12月05日
卒論の季節
卒論の季節(早い大学では12月に提出なので)となって思い出すことがある。ただし、こんなことを書くと、英文科の学生がそんなに程度が低いのかと思われてしまうと困るので、これは10年、いや30年に一度くらいの事例で、しかも究極的な責任は、学生というよりも指導教員の側にあるので、恥ずかしいかぎりだが、ほかの学生がこうだということは絶対になりことをまず、お断りしたい――これまでの卒業生、ならびに在校生の名誉のためにも。
卒論で重要なのは、自分の意見と他人の意見を区別すること。他人の意見なのに、それを自分の意見であるかのように書くのは端的にいって盗作である。もちろん、つきつめると、私たちの意見は全部他人の意見であるともいえるのだが、実際の手続き上の問題としては、この区分は有効である。
卒論の口頭試問のなかで、私は、学生に対して、「あなたは、この研究書について、『過去十年間で出版されたなかでもっともすぐれた本である』と書いているが、その本の出版年を確認してみると、いまから20年以上も前であって、ここ10年間とは言えないですよね」と問い詰めた。
すると学生は、そういうふうに、ある研究書に書いてあったという。
だったら、なぜ、「これこれこういう本とか論文によると、その本が過去10年間で出版されたなかでもっとも優れた本である」と書いてあったと書かないのか。そういうふうに書かないと、これがあなたの意見ということになってしまう。そうすると、こういうことを言うあなたは、この分野の研究論文をたくさん読み漁ってきていて、しかも、10年と20年の区別がついていない、専門家・研究者で、変な人ということになります。あるいは、ただのうそつきです。しかし、こういうことを書いてある論文があったということであれば、あなたはよくリサーチしていると、ほめられることこそあれ、批判されることはありません。天国と地獄の分かれ目は、まさにここにあるのです。
まあ短い口頭試問の時間に、ここまで説いて聞かせることはしなかったが、これはたんに学生をディスっているのではなく、本来ならこういうやりとりは卒論指導の際の一対一のやりとりのなかで出てくる問題で、口頭試問の場で出現するような問題ではない。つまり、こういう、自分の意見とも他人の意見ともわからないような雑な書き方は最終的に卒論を提出するまでには直っているはずのことなのだ。それができなかったのは、卒論指導がなされていなかったことだ。それは教員の側の責任でもある。ただ相談に来ないし、声をかけようにも授業にも出てこない学生で、動向が全く把握できなかったのである(言い訳になるが)。
20年以上も前に出版された本を「過去10年間で出版されたこの分野の研究所のなかでもっと優れた本」と卒論で書くのは、いっぽうでは、高校生が書くレポートのようなのもので、事典、辞書、参考書の類を引き写しただけというだけで、情報源なり出展を明示し、他人の意見と自分の意見を区別するという手続きについてはただ無知なだけの、高校生のような大学生なのか(ただし、現在、高校では、情報源や出展の扱いをきちんと指導しているかもしれないので、その場合は、私の無知をお詫びするしかないが)、あるいは、ほんとうにこの卒論は本人が書いたのかどうかわからない、他人が書いたから、あるいは最初から最後まで何かを引き写した盗作卒論なのか、この両極端のなかで、意図的盗作も十分に考えられるものの、英語が下手なのと、内容がおかしいところから、盗作ではないと考えた。
なぜならシェイクスピア劇を扱っているときに、「イタリア政府」と書いてあるからである。現在の話ではない。シェイクスピアの時代の話である。当時のイタリアは、まだ近代的な「国民国家」誕生以前であって、イタリア政府などというものは存在していなかったのですよと、説明せねばならなかった――卒論指導の場ならいいのだが、口頭試問の場で。
もちろん「過去10年……」は厳密にいえば盗作である。ただすぐにわかる盗作だし、巧妙にごまかそうとしたわけではないので、書き方を知らなかったということなので、書き直しとか卒論を認定しないということはしなかった。
なお、ここまでは、バイロン『カイン』についての前振りである。
卒論で重要なのは、自分の意見と他人の意見を区別すること。他人の意見なのに、それを自分の意見であるかのように書くのは端的にいって盗作である。もちろん、つきつめると、私たちの意見は全部他人の意見であるともいえるのだが、実際の手続き上の問題としては、この区分は有効である。
卒論の口頭試問のなかで、私は、学生に対して、「あなたは、この研究書について、『過去十年間で出版されたなかでもっともすぐれた本である』と書いているが、その本の出版年を確認してみると、いまから20年以上も前であって、ここ10年間とは言えないですよね」と問い詰めた。
すると学生は、そういうふうに、ある研究書に書いてあったという。
だったら、なぜ、「これこれこういう本とか論文によると、その本が過去10年間で出版されたなかでもっとも優れた本である」と書いてあったと書かないのか。そういうふうに書かないと、これがあなたの意見ということになってしまう。そうすると、こういうことを言うあなたは、この分野の研究論文をたくさん読み漁ってきていて、しかも、10年と20年の区別がついていない、専門家・研究者で、変な人ということになります。あるいは、ただのうそつきです。しかし、こういうことを書いてある論文があったということであれば、あなたはよくリサーチしていると、ほめられることこそあれ、批判されることはありません。天国と地獄の分かれ目は、まさにここにあるのです。
まあ短い口頭試問の時間に、ここまで説いて聞かせることはしなかったが、これはたんに学生をディスっているのではなく、本来ならこういうやりとりは卒論指導の際の一対一のやりとりのなかで出てくる問題で、口頭試問の場で出現するような問題ではない。つまり、こういう、自分の意見とも他人の意見ともわからないような雑な書き方は最終的に卒論を提出するまでには直っているはずのことなのだ。それができなかったのは、卒論指導がなされていなかったことだ。それは教員の側の責任でもある。ただ相談に来ないし、声をかけようにも授業にも出てこない学生で、動向が全く把握できなかったのである(言い訳になるが)。
20年以上も前に出版された本を「過去10年間で出版されたこの分野の研究所のなかでもっと優れた本」と卒論で書くのは、いっぽうでは、高校生が書くレポートのようなのもので、事典、辞書、参考書の類を引き写しただけというだけで、情報源なり出展を明示し、他人の意見と自分の意見を区別するという手続きについてはただ無知なだけの、高校生のような大学生なのか(ただし、現在、高校では、情報源や出展の扱いをきちんと指導しているかもしれないので、その場合は、私の無知をお詫びするしかないが)、あるいは、ほんとうにこの卒論は本人が書いたのかどうかわからない、他人が書いたから、あるいは最初から最後まで何かを引き写した盗作卒論なのか、この両極端のなかで、意図的盗作も十分に考えられるものの、英語が下手なのと、内容がおかしいところから、盗作ではないと考えた。
なぜならシェイクスピア劇を扱っているときに、「イタリア政府」と書いてあるからである。現在の話ではない。シェイクスピアの時代の話である。当時のイタリアは、まだ近代的な「国民国家」誕生以前であって、イタリア政府などというものは存在していなかったのですよと、説明せねばならなかった――卒論指導の場ならいいのだが、口頭試問の場で。
もちろん「過去10年……」は厳密にいえば盗作である。ただすぐにわかる盗作だし、巧妙にごまかそうとしたわけではないので、書き方を知らなかったということなので、書き直しとか卒論を認定しないということはしなかった。
なお、ここまでは、バイロン『カイン』についての前振りである。
posted by ohashi at 14:04| エッセイ
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2020年12月04日
the name of the game
「ゲームの名前」? いえいえ、これも訳しにくい英語のフレーズ。
ちなみに11月に菅首相(Go to hell)がコロナ感染者増大の折に、記者会見で、マスクをしながら食事をするようにと国民に呼びかけて顰蹙をかったのだが、その会見をみながら私は、会見内容を、自分なりに通訳してみた。
新型コロナ感染者がふえているが、国民は、積極的に旅行に行き、積極的に外食しなさい。そうしないと旅行業界、外食産業から俺様に金が入ってこない。ただし、くれぐれも旅行と外食で、感染して、俺様と二階様に迷惑をかけないよう、しっかりマスクして感染を防げよ。と、そうとしか聞こえなかった。
いま新型コロナウィルス感染で各国が直面している問題は、生死の問題というか、昔からある「金か命か」という二者択一問題である。
もし命を重視すれば、金が限りなく失われてゆくだろう、そのままいけばお金がなくなる。みんなが飢えて死ぬことになる。では、金をとれば、命がかぎりなく失われていくだろう。国民がいなくなったら、あるいは国民なき独裁者になったら、どうお金を使うというのだろう。
ジレンマ? いや、今の日本では、「金か命か」の問題は、「金」しか選択肢はないように思われる。
「ゲームの名前」とは、主にアメリカ英語の口語表現で、「肝心なこと、目的、ねらい」という意味。アメリカのテレビドラマ(1968~71)のタイトルからきているとのこと。日本でも放送されたこのドラマを、私は見ていないのだが。
用例としては
というように使う。
Money is the name of the game.
ああ腐りきった薄汚い日本の政権、万歳。
ちなみに11月に菅首相(Go to hell)がコロナ感染者増大の折に、記者会見で、マスクをしながら食事をするようにと国民に呼びかけて顰蹙をかったのだが、その会見をみながら私は、会見内容を、自分なりに通訳してみた。
新型コロナ感染者がふえているが、国民は、積極的に旅行に行き、積極的に外食しなさい。そうしないと旅行業界、外食産業から俺様に金が入ってこない。ただし、くれぐれも旅行と外食で、感染して、俺様と二階様に迷惑をかけないよう、しっかりマスクして感染を防げよ。と、そうとしか聞こえなかった。
いま新型コロナウィルス感染で各国が直面している問題は、生死の問題というか、昔からある「金か命か」という二者択一問題である。
もし命を重視すれば、金が限りなく失われてゆくだろう、そのままいけばお金がなくなる。みんなが飢えて死ぬことになる。では、金をとれば、命がかぎりなく失われていくだろう。国民がいなくなったら、あるいは国民なき独裁者になったら、どうお金を使うというのだろう。
ジレンマ? いや、今の日本では、「金か命か」の問題は、「金」しか選択肢はないように思われる。
「ゲームの名前」とは、主にアメリカ英語の口語表現で、「肝心なこと、目的、ねらい」という意味。アメリカのテレビドラマ(1968~71)のタイトルからきているとのこと。日本でも放送されたこのドラマを、私は見ていないのだが。
用例としては
Profit is the name of the game in Japanese politics.
「日本の政治では利益が本来の目的だ、利益さえあれば、それでいいのだ」
Money is the name of the game.
「お金さえあればということさ」(英和辞典の訳文)
というように使う。
Money is the name of the game.
ああ腐りきった薄汚い日本の政権、万歳。
posted by ohashi at 23:12| コメント
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2020年12月03日
hope against hope
“hope against hope”は、英語の慣用句というか成句で、名詞句にも動詞句としても使う。意味は、「希望や見込みがないのに希望する(こと)」「せめてもの希望をつなぐ(こと)」というようなこと。
この成句には典拠がある。それは新約聖書。
『ローマ人への手紙』(4:18)『新約聖書IV パウロ書簡』青野大潮訳(岩波書店、一九九六)p.17
新共同訳では、『ローマの信徒への手紙』(4:18)
『文語訳新約聖書』では『ロマ書』4:18
希望など持てないときに、それでも希望するとか、希望なきときに抱く希望というような意味だが、いま翻訳をしている本の章題にこの成句が使われていて、うまい訳がみつからない。
英和辞典では「せめてもの希望とつなぐ」「万が一の望みを託す」「見込みがないのに希望を捨てない」などの訳語をあてているが、それで意味は通ずるのだが、翻訳書の章題としてのすわりがよくない。
この困惑は、実は、現実世界と対位法的関係にあって、12月1日にコロナ感染者の一日の死者が過去最多を更新したというのに、Go Toを辞めない管首相(Go to hell首相)のもとで、明るい希望などもてそうもない。
いや、これ以上の地獄はないという逼迫した状況には、まだないのだが、同時に、このまま事態が好転するという見込みなく、この悪辣な首相と政権のもとでは、事態好転は望むべくもないという、苦しい宙づり状態がつづいている。
この中途半端で生半可な状態だから、英語の成句の訳文を探す私の試みも、フルスロットル状態ではまだない。しかし、事態が本当に取り返しのつかない状態、まさに地獄にまっしぐらというときになって、ようやく、うまい訳語を思いついても、そのとき、私は感染して重症化して、自分の翻訳の出版を見届けることができないかもしれない(実際、その可能性は大きい)し、そもそも出版もされないかもしれないのだ。
サミュエル・ベケットの作品名に、こんなものがあった。けっこう有名な言葉でモットーにもなっていると思う。
Hope against hopeの意味は、このimagination dead imagineの精神に通ずるところがある。
だが私のモットーは、ちがう。
ただのヘタレのペシミストだ。
この成句には典拠がある。それは新約聖書。
『ローマ人への手紙』(4:18)『新約聖書IV パウロ書簡』青野大潮訳(岩波書店、一九九六)p.17
アブラハムは、希望(きぼう)に抗(あらが)いつつ、〔しかもなお〕希望に基づいて信じた。
新共同訳では、『ローマの信徒への手紙』(4:18)
彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ……
『文語訳新約聖書』では『ロマ書』4:18
彼は望むべくもあらぬ時になほ望みて信じたり。
希望など持てないときに、それでも希望するとか、希望なきときに抱く希望というような意味だが、いま翻訳をしている本の章題にこの成句が使われていて、うまい訳がみつからない。
英和辞典では「せめてもの希望とつなぐ」「万が一の望みを託す」「見込みがないのに希望を捨てない」などの訳語をあてているが、それで意味は通ずるのだが、翻訳書の章題としてのすわりがよくない。
この困惑は、実は、現実世界と対位法的関係にあって、12月1日にコロナ感染者の一日の死者が過去最多を更新したというのに、Go Toを辞めない管首相(Go to hell首相)のもとで、明るい希望などもてそうもない。
いや、これ以上の地獄はないという逼迫した状況には、まだないのだが、同時に、このまま事態が好転するという見込みなく、この悪辣な首相と政権のもとでは、事態好転は望むべくもないという、苦しい宙づり状態がつづいている。
この中途半端で生半可な状態だから、英語の成句の訳文を探す私の試みも、フルスロットル状態ではまだない。しかし、事態が本当に取り返しのつかない状態、まさに地獄にまっしぐらというときになって、ようやく、うまい訳語を思いついても、そのとき、私は感染して重症化して、自分の翻訳の出版を見届けることができないかもしれない(実際、その可能性は大きい)し、そもそも出版もされないかもしれないのだ。
サミュエル・ベケットの作品名に、こんなものがあった。けっこう有名な言葉でモットーにもなっていると思う。
Imagination dead imagine.
【「想像力は死んだ、想像せよ」Imagination is dead, Imagineと考える】
Hope against hopeの意味は、このimagination dead imagineの精神に通ずるところがある。
だが私のモットーは、ちがう。
Imagination dead, Alas!
Hope is lost, Alas!
ただのヘタレのペシミストだ。
posted by ohashi at 23:17| コメント
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2020年12月02日
When I get a little money
Amazonで本を買ったらついてきた紙の栞(しおり)をたまたまみつけた。しおりには、日本語がいっさい印字されていないので、外国の、たぶんアメリカかイギリスのAmazonで洋書を買ったときについてきた栞なのかもしれない。それにどの本についてきたのかわからないが、かなり前のことかもしれない。
その栞にはエラスムスの言葉が英語で印刷されていた。
まあ、いまの私は定年退職後の年金暮らしなので、お金などなく、収入も、教職に就いていた頃に比べれば半分どころか、半分以下に減っている。だから本を買うお金すらないのだが、それでも少しでもお金が入れば、それで本を買う。残ったお金で食べ物を買う。着る物はめったに買わない。
エラスムスほどの偉人ではないが、生活態度はエラスムスと変わりない。エラスムスの真の経済状態は知るよしもないとしても。
ただエラスムスのこの言葉があてはまるのは、私のような貧乏暮らしをしている人間だけであって、現代人には、これはまったくあてはまらないだろう。
現代人なら、こう述べるに違いない。
現代人の辞書には、「本」という言葉はない。いや、そもそも本をもっていないから辞書などももっていないだろうが。
その栞にはエラスムスの言葉が英語で印刷されていた。
When I get a little money I buy books; and if any is left I buy food and clothes. Erasmus
お金が少し手には入ったら、私は本を買う。そしてお金が残ったら、私は食べ物と着る物を買う。エラスムス
まあ、いまの私は定年退職後の年金暮らしなので、お金などなく、収入も、教職に就いていた頃に比べれば半分どころか、半分以下に減っている。だから本を買うお金すらないのだが、それでも少しでもお金が入れば、それで本を買う。残ったお金で食べ物を買う。着る物はめったに買わない。
エラスムスほどの偉人ではないが、生活態度はエラスムスと変わりない。エラスムスの真の経済状態は知るよしもないとしても。
ただエラスムスのこの言葉があてはまるのは、私のような貧乏暮らしをしている人間だけであって、現代人には、これはまったくあてはまらないだろう。
現代人なら、こう述べるに違いない。
When I get a little money I buy food and clothes; and if any is left I buy food and clothes.
現代人の辞書には、「本」という言葉はない。いや、そもそも本をもっていないから辞書などももっていないだろうが。
posted by ohashi at 23:13| コメント
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2020年12月01日
Go to ....
地獄に落ちろ/地獄が待っている
新型コロナウィルス感染者数が、毎日、過去最多を更新している現在、もはや最初の緊急事態宣言の頃の緊張感が、遠い昔のなつかしい出来事のような気がしてきて、あの頃は、感染者数も少なくてよかったという思いにすらとらわれてしまう。
しかも、それでもなおGo ToトラベルだのGo Toイートだの、馬鹿馬鹿しいネーミングのキャンペーンを続けようとする政府の狂気を、私たちはどう捉えたらいいのだろう。緊急事態宣言の頃よりも重症者が少ないというのも、キャンペーンを続ける理由のひとつになっているのだが、感染者がどんどん増えていけば、一定の比率で生ずる重症者の数も、ふえていくのは当然で、いまや、重症者数は、緊急事態宣言の頃の重症者を超えるいきおいである。それでもGo To キャンペーンを辞めることはない。
東京の街は、まるでコロナ禍が過ぎ去って、もとの生活がもどったかのように、人があふれている。感染者が過去最多を更新しているのに、この人混み。狂気。このままでは地獄にまっしぐらである。
ああ、この狂気から私たちが生き延びるすべはあるのだろうか。
もちろん管や二階といった政権を握っている2人が、観光業界の利害を代表しているので、Go Toをやめる気配はないし、おそらく全都道府県がGo To キャンペーンを辞めても、政府だけは最後までやめないだろう。たとえ国民が全滅しても。また、もはや取り返しのつかない事態になったら、管や二階は、ほんとうに万死に値しよう。あるいは、「こんな首相に耐える」。
以前、述べたようにGo toという英語は、シェイクスピアの時代では、“Go to”という二語だけで、「やめろ、いいかげんにしろ」という意味の強い命令と呪いの言葉であった。シェイクスピア劇の台詞には”Go to”がいっぱいでてくる。
そしてGo toから一番連想されるフレーズというとGo to Hellである。地獄に落ちろ。このままでは、いくら菅に、おまえなど地獄に落ちろといっても、管だけが地獄に落ちるだけでなく、菅の無策あるいは利益誘導政治と名主・庄屋ファシズムで、国民全体が地獄に落ちることになるのだろう。救いはない。
そう、Go to HellだろうがGo to HeavenだろうがGo to Paradiseだろうが、どれもみんな死ぬことを意味する。死を強く、暗示するキャンペーン名を考案したのは、どこのバカか知らないが、無意識のうちに国民全体を馬鹿にして呪っていたのだろう。
新型コロナウィルス感染者数が、毎日、過去最多を更新している現在、もはや最初の緊急事態宣言の頃の緊張感が、遠い昔のなつかしい出来事のような気がしてきて、あの頃は、感染者数も少なくてよかったという思いにすらとらわれてしまう。
しかも、それでもなおGo ToトラベルだのGo Toイートだの、馬鹿馬鹿しいネーミングのキャンペーンを続けようとする政府の狂気を、私たちはどう捉えたらいいのだろう。緊急事態宣言の頃よりも重症者が少ないというのも、キャンペーンを続ける理由のひとつになっているのだが、感染者がどんどん増えていけば、一定の比率で生ずる重症者の数も、ふえていくのは当然で、いまや、重症者数は、緊急事態宣言の頃の重症者を超えるいきおいである。それでもGo To キャンペーンを辞めることはない。
東京の街は、まるでコロナ禍が過ぎ去って、もとの生活がもどったかのように、人があふれている。感染者が過去最多を更新しているのに、この人混み。狂気。このままでは地獄にまっしぐらである。
ああ、この狂気から私たちが生き延びるすべはあるのだろうか。
もちろん管や二階といった政権を握っている2人が、観光業界の利害を代表しているので、Go Toをやめる気配はないし、おそらく全都道府県がGo To キャンペーンを辞めても、政府だけは最後までやめないだろう。たとえ国民が全滅しても。また、もはや取り返しのつかない事態になったら、管や二階は、ほんとうに万死に値しよう。あるいは、「こんな首相に耐える」。
以前、述べたようにGo toという英語は、シェイクスピアの時代では、“Go to”という二語だけで、「やめろ、いいかげんにしろ」という意味の強い命令と呪いの言葉であった。シェイクスピア劇の台詞には”Go to”がいっぱいでてくる。
そしてGo toから一番連想されるフレーズというとGo to Hellである。地獄に落ちろ。このままでは、いくら菅に、おまえなど地獄に落ちろといっても、管だけが地獄に落ちるだけでなく、菅の無策あるいは利益誘導政治と名主・庄屋ファシズムで、国民全体が地獄に落ちることになるのだろう。救いはない。
そう、Go to HellだろうがGo to HeavenだろうがGo to Paradiseだろうが、どれもみんな死ぬことを意味する。死を強く、暗示するキャンペーン名を考案したのは、どこのバカか知らないが、無意識のうちに国民全体を馬鹿にして呪っていたのだろう。
posted by ohashi at 22:03| コメント
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