アーサー・ミラーの『橋からのながめ』の内容を確認すべく、急いで翻訳で読んだ。早川書房の『アーサー・ミラー全集』はもっているのだが、発掘中で、そのため今回はハヤカワ演劇文庫で読むことにした。早川演劇文庫版には、『橋からのながめ』と『みんな我が子』の二作品が一冊になっているが、『橋からのながめ』を翻訳で読み返して、これが近親相姦なら、日本の父親と娘の関係など救いようのない重度の近親相姦関係そのもので、『橋からのながめ』の近親相姦など児戯に等しいものにしているのに、どうして日本の近親相姦的情念が変態視されないのか、おかしいという昔から抱いていた感想を確認した。
と同時に、2020年10月にシアタートラムで『みんな我が子』を上演していたこともあって、『みんな我が子』も読み返してみた――残念ながら、私は個人的に自粛中(高齢者で糖尿病)なので、シアタートラムの公演はみていない。
ハヤカワ演劇文庫では、『橋からのながめ』も『みんな我が子』も、ともに倉橋健訳だが、どちらも実にみごとな翻訳で、実際、研究・教育と舞台上の現場にもかかわってきた倉橋氏のまったく古びていない、それこそ永遠に残るような翻訳だと思う。そのことが確認できたこともうれしかったのだが、ひとつだけ『みんな我が子』のなかに変な訳注があった。
『みんな我が子』のなかでは戦争中にアメリカの戦闘機P-40の部品製造業者が、不良部品を納入したために、それで事故が起こり、多くのパイロットの命が失われたという事件(実在した類似の事件にもとづく)が劇の中心をなす過去のエピソードとして語られる。そのときこのP-40について簡単な訳注がつく。一行だけ、こうある。
第二次世界戦争間のアメリカの戦闘機
(『アーサー・ミラー III みんな我が子 橋からのながめ』倉橋健訳(ハヤカワ演劇文庫2017)p.167.)
りっぱな翻訳なので、あくまでもこれは瑕疵に属するものにすぎないのだが、「第二次世界戦争」という表現も、いまでは「第二次世界大戦」あるいは「第二次大戦」というのがふつうなので、ちょっとおかしい。「世界戦争」となると,アルマゲドンなのかという気もする。そして「第二次世界戦争間の戦闘機」とあるが、千歩譲って「世界戦争」でもいいとしても(World Warの直訳なのだから)、「第二次世界戦争中」でしょう、ふつうは。「戦争の間、贅沢は禁止された」というような表現はあるとしても「戦争間、贅沢は禁止された」はおかしく、ふつう「戦争中、贅沢は禁止された」である。
おそらくこれは「第二次世界戦争の間、アメリカの戦闘機」という、表現としては、やや舌足らずなことを書こうとしたのではなく、「両大戦間の戦闘機」とでも書こうとしたのではないだろうか。実際、P-40の初飛行は第二次世界大戦前、両大戦間期間の1940年なのだから。そうとでも考えないと理解できないが、同時に、P-40はれっきとした第二次世界大戦のアメリカ陸軍の戦闘機で、これを両大戦間の戦闘機とみるのはまちがいなのだが。
第二次世界大戦に参加したアメリカの戦闘機の生産機数は第一位がP-47(いわゆる「サンダーボルト」)の15,660機、第二位がP-51(いわゆる「ムスタング/マスタング」)の14,819機、そして第三位が、わがP-40(いわゆる「ホーク」)の13,738機であり、P-40は大戦中最後まで使われた。性能的にはドイツのメッサーシュミットとか日本の零戦にはかなわなかったようだが、量産性にすぐれ、安定した操縦性、頑丈な機体、整備性の良さ、故障の少なさ、低空での空戦性能のよさなど、よいところは多くあって、試作機の初飛行が1937年、量産機の初飛行が1940年、そして1944年11月まで生産が続けられた。ある意味、アメリカを代表する戦闘機のひとつである。欧州、アフリカ、アジア、太平洋と広範囲の戦域で活動した。
アーサー・ヒラー監督、ロック・ロックハドソン、ジョージ・ペパード主演の古い戦争映画『トブルク戦線』(Tobruk、1967)は、第二次世界大戦中、北アフリカのドイツ軍燃料貯蔵施設をドイツ軍に偽装して攻撃に向かう英軍の物語だが、途中で、英軍だったか米軍だったかのP-40が一機、移動中の部隊をドイツ軍部隊と認識して襲いかかってくる。友軍だが、ドイツ軍に偽装している部隊は、やむなく、このP-40を撃墜することになる。まあ、こんなシーンを記憶しているのは私くらいだろうが、印象的な場面だったし、飛んでいるP-40は本物だった。
真珠湾攻撃の戦争映画ではP-40は必ず登場する。1941年12月の真珠湾攻撃の時点で、ハワイにはおよそ100機のP-40が配備されていた。ほとんどが地上で撃破されたのだが、それでも飛び立った数機が日本軍機を5機撃墜したという記録がのこっている。映画でも、劣勢であっても、勇猛果敢に日本軍機にたちむかうのが、P-40である。
なお『みんな我が子』の翻訳では、
空軍にひびの入ったシリンダー・ヘッドを売りつけた男、オーストラリアでP-40を二十一機も墜落させた男だ。(p.59)
という台詞があるが、これは原文がおかしいのか翻訳がおかしいのか、原文が今手元にないのでわからないが、アメリカ「空軍」というのは、この作品が発表された1947年にアメリカ陸軍航空隊から空軍として独立したのであって、第二次世界大戦中は陸軍に属していたというか、それまで陸軍や海軍から独立した空軍というのはなかった。だから「空軍」ではなく「陸軍航空隊」にとすべきであるが、英語ではUnited States Army Air Forcesがアメリカ陸軍航空隊、United States Air Forceがアメリカ空軍で)、一語あるかないかの違いであって、こまかいことを言わなければ空軍でよいではないかと言われそうだが、しかし、空軍は1947年に独立したのは忘れてはいけない歴史的事実である。
フィリップ・K・ディックの『最後から二番目の真実』というSF作品では、地上で戦争が継続中という偽の情報によって架空の現実をつくりあげ、地下で暮らす人間を瞞す権力機構が登場するが、主人公は、公表されている記録映像を調査して、1947年以前の記録映像にアメリカ空軍基地(AFB)に航空機が離着陸する映像をみつける。1947年以前に空軍は存在せず、空軍基地も存在していないので、この記録映像が捏造されたもの、フェイク映像であることを発見し、そこから虚構の現実が真実としてあたえられている、フェイクの世界を発見してゆくのである。
フィリップ・K・ディックは『高い城の男』以来、ずっと偽物を見抜く方法を真剣に考え続るのだが、なかにはエキセントリックな方法もあるものの、『最後から二番目の真実』では、ファクトチェックがシミュラクラ世界の嘘を暴く王道的手段となる。歴史的事実は、いつなんどきフェイクな情報にとってかわられるかもしれない。そのためにもファクトチェックは欠かせない。そしてファクトチェックの正確を期すためにも歴史は、なんとしても確保しておかねばならない――なんとしても。
『みんな我が子に』にもどると、ここに出てくる頑固親父は、アメリカ文学とかアメリカ文化において、どのような位置づけがされているのか知らないが、アメリカ演劇では王道的人物である。それはたとえばオニールの『楡の木の下の欲望』に登場する頑固親父と、『みんな我が子』の次に書かれたミラーの『セールスマンの死』の中間的存在である。『楡の木』の開拓者魂の権化のような頑固親父が、神話的人物ともなりおおせていて(実際、作品中には旧約聖書からの引用も多い)、古き良き神話的悲劇性に適合している人物だとすれば『セールスマンの死』のウィリー・ローマンは世俗化の度合いが進み、もはや神話的な威光の乏しい頑固親父ともなっている。『みんな我が子』の頑固親父は、神話的でもなければ世俗的でもない、まさに中間的存在と言えるが、それはまた、どちらもとも異なっているともいえる。なにしろ、この男は、許しがたい犯罪者なのだから。
『みんな我が子』の父親は、何かに固執している偏執狂的人物の影はあっても、それを打ち消すような犯罪性から逃れられていない。欠陥部品を納品して、その結果、事故でパイロットが死ぬというのは、殺人に等しい暴挙である。これに類する事件が、アメリカで第二次世界大戦中に起こったこともあり、生々しさ、現実との照応は、尋常ではなく、この劇が、いくらこの老父を悲劇的崇高性へと祭り上げようとしても、この老父の犯罪性は許しがたいものがあり、悲劇性が大きく損なわれることになる。
不良部品の納入をめぐる、後処理のまずさ、軍の発注が減ることへ恐怖と利益中心のエゴイズムの悪辣さ。そして良心的な工場長と、悪辣な社長という対立(イプセンの『野鴨』の影響があるといわれている)は、しかし、時事ネタとして処理されるのではなく、戦争と平時、戦地と内地の対立、そして生き残ったものの死者に対する罪の意識へと開かれているように思う。国内が戦場とならなかったアメリカのような国では、戦場で戦い死んでいった者たちと、内地で安逸な暮らしをむさぼり戦争で利益すらあげる人間へと二分される。生き残った者は死者に対して負い目を抱く、それが戦地と内地という地政学的な分断が生じているときには、なおさら戦死者への負い目は大きい。内地にいることが、あたかも不正行為であり、それによって死者を生み出したかのように感じられるのである(ユダヤ人作家でもあったアーサー・ミラーにとって、ここにホロコーストが影をおとしていてもおかしくない)。不良部品を納品して、それで死者が出たかのように感じられるのだ。
生存者の負い目は、いままたコロナ禍において生ずる、あるいはすでに生じているかもしれない。死んだ者に罪はないのと同様、生き残った者にも罪はないのだが、生き残った者は、圧倒的に罪にまみれるのである。あるいは生き残った者は、その存在感を死者に奪われる。