2020年11月04日

『みんな我が子』

とP-40

アーサー・ミラーの『橋からのながめ』の内容を確認すべく、急いで翻訳で読んだ。早川書房の『アーサー・ミラー全集』はもっているのだが、発掘中で、そのため今回はハヤカワ演劇文庫で読むことにした。早川演劇文庫版には、『橋からのながめ』と『みんな我が子』の二作品が一冊になっているが、『橋からのながめ』を翻訳で読み返して、これが近親相姦なら、日本の父親と娘の関係など救いようのない重度の近親相姦関係そのもので、『橋からのながめ』の近親相姦など児戯に等しいものにしているのに、どうして日本の近親相姦的情念が変態視されないのか、おかしいという昔から抱いていた感想を確認した。

と同時に、2020年10月にシアタートラムで『みんな我が子』を上演していたこともあって、『みんな我が子』も読み返してみた――残念ながら、私は個人的に自粛中(高齢者で糖尿病)なので、シアタートラムの公演はみていない。

ハヤカワ演劇文庫では、『橋からのながめ』も『みんな我が子』も、ともに倉橋健訳だが、どちらも実にみごとな翻訳で、実際、研究・教育と舞台上の現場にもかかわってきた倉橋氏のまったく古びていない、それこそ永遠に残るような翻訳だと思う。そのことが確認できたこともうれしかったのだが、ひとつだけ『みんな我が子』のなかに変な訳注があった。

『みんな我が子』のなかでは戦争中にアメリカの戦闘機P-40の部品製造業者が、不良部品を納入したために、それで事故が起こり、多くのパイロットの命が失われたという事件(実在した類似の事件にもとづく)が劇の中心をなす過去のエピソードとして語られる。そのときこのP-40について簡単な訳注がつく。一行だけ、こうある。

第二次世界戦争間のアメリカの戦闘機
                (『アーサー・ミラー III  みんな我が子 橋からのながめ』倉橋健訳(ハヤカワ演劇文庫2017)p.167.)


りっぱな翻訳なので、あくまでもこれは瑕疵に属するものにすぎないのだが、「第二次世界戦争」という表現も、いまでは「第二次世界大戦」あるいは「第二次大戦」というのがふつうなので、ちょっとおかしい。「世界戦争」となると,アルマゲドンなのかという気もする。そして「第二次世界戦争間の戦闘機」とあるが、千歩譲って「世界戦争」でもいいとしても(World Warの直訳なのだから)、「第二次世界戦争中」でしょう、ふつうは。「戦争の間、贅沢は禁止された」というような表現はあるとしても「戦争間、贅沢は禁止された」はおかしく、ふつう「戦争中、贅沢は禁止された」である。

おそらくこれは「第二次世界戦争の間、アメリカの戦闘機」という、表現としては、やや舌足らずなことを書こうとしたのではなく、「両大戦間の戦闘機」とでも書こうとしたのではないだろうか。実際、P-40の初飛行は第二次世界大戦前、両大戦間期間の1940年なのだから。そうとでも考えないと理解できないが、同時に、P-40はれっきとした第二次世界大戦のアメリカ陸軍の戦闘機で、これを両大戦間の戦闘機とみるのはまちがいなのだが。

第二次世界大戦に参加したアメリカの戦闘機の生産機数は第一位がP-47(いわゆる「サンダーボルト」)の15,660機、第二位がP-51(いわゆる「ムスタング/マスタング」)の14,819機、そして第三位が、わがP-40(いわゆる「ホーク」)の13,738機であり、P-40は大戦中最後まで使われた。性能的にはドイツのメッサーシュミットとか日本の零戦にはかなわなかったようだが、量産性にすぐれ、安定した操縦性、頑丈な機体、整備性の良さ、故障の少なさ、低空での空戦性能のよさなど、よいところは多くあって、試作機の初飛行が1937年、量産機の初飛行が1940年、そして1944年11月まで生産が続けられた。ある意味、アメリカを代表する戦闘機のひとつである。欧州、アフリカ、アジア、太平洋と広範囲の戦域で活動した。

アーサー・ヒラー監督、ロック・ロックハドソン、ジョージ・ペパード主演の古い戦争映画『トブルク戦線』(Tobruk、1967)は、第二次世界大戦中、北アフリカのドイツ軍燃料貯蔵施設をドイツ軍に偽装して攻撃に向かう英軍の物語だが、途中で、英軍だったか米軍だったかのP-40が一機、移動中の部隊をドイツ軍部隊と認識して襲いかかってくる。友軍だが、ドイツ軍に偽装している部隊は、やむなく、このP-40を撃墜することになる。まあ、こんなシーンを記憶しているのは私くらいだろうが、印象的な場面だったし、飛んでいるP-40は本物だった。

真珠湾攻撃の戦争映画ではP-40は必ず登場する。1941年12月の真珠湾攻撃の時点で、ハワイにはおよそ100機のP-40が配備されていた。ほとんどが地上で撃破されたのだが、それでも飛び立った数機が日本軍機を5機撃墜したという記録がのこっている。映画でも、劣勢であっても、勇猛果敢に日本軍機にたちむかうのが、P-40である。

なお『みんな我が子』の翻訳では、

空軍にひびの入ったシリンダー・ヘッドを売りつけた男、オーストラリアでP-40を二十一機も墜落させた男だ。(p.59)


という台詞があるが、これは原文がおかしいのか翻訳がおかしいのか、原文が今手元にないのでわからないが、アメリカ「空軍」というのは、この作品が発表された1947年にアメリカ陸軍航空隊から空軍として独立したのであって、第二次世界大戦中は陸軍に属していたというか、それまで陸軍や海軍から独立した空軍というのはなかった。だから「空軍」ではなく「陸軍航空隊」にとすべきであるが、英語ではUnited States Army Air Forcesがアメリカ陸軍航空隊、United States Air Forceがアメリカ空軍で)、一語あるかないかの違いであって、こまかいことを言わなければ空軍でよいではないかと言われそうだが、しかし、空軍は1947年に独立したのは忘れてはいけない歴史的事実である。

フィリップ・K・ディックの『最後から二番目の真実』というSF作品では、地上で戦争が継続中という偽の情報によって架空の現実をつくりあげ、地下で暮らす人間を瞞す権力機構が登場するが、主人公は、公表されている記録映像を調査して、1947年以前の記録映像にアメリカ空軍基地(AFB)に航空機が離着陸する映像をみつける。1947年以前に空軍は存在せず、空軍基地も存在していないので、この記録映像が捏造されたもの、フェイク映像であることを発見し、そこから虚構の現実が真実としてあたえられている、フェイクの世界を発見してゆくのである。

フィリップ・K・ディックは『高い城の男』以来、ずっと偽物を見抜く方法を真剣に考え続るのだが、なかにはエキセントリックな方法もあるものの、『最後から二番目の真実』では、ファクトチェックがシミュラクラ世界の嘘を暴く王道的手段となる。歴史的事実は、いつなんどきフェイクな情報にとってかわられるかもしれない。そのためにもファクトチェックは欠かせない。そしてファクトチェックの正確を期すためにも歴史は、なんとしても確保しておかねばならない――なんとしても。

『みんな我が子に』にもどると、ここに出てくる頑固親父は、アメリカ文学とかアメリカ文化において、どのような位置づけがされているのか知らないが、アメリカ演劇では王道的人物である。それはたとえばオニールの『楡の木の下の欲望』に登場する頑固親父と、『みんな我が子』の次に書かれたミラーの『セールスマンの死』の中間的存在である。『楡の木』の開拓者魂の権化のような頑固親父が、神話的人物ともなりおおせていて(実際、作品中には旧約聖書からの引用も多い)、古き良き神話的悲劇性に適合している人物だとすれば『セールスマンの死』のウィリー・ローマンは世俗化の度合いが進み、もはや神話的な威光の乏しい頑固親父ともなっている。『みんな我が子』の頑固親父は、神話的でもなければ世俗的でもない、まさに中間的存在と言えるが、それはまた、どちらもとも異なっているともいえる。なにしろ、この男は、許しがたい犯罪者なのだから。

『みんな我が子』の父親は、何かに固執している偏執狂的人物の影はあっても、それを打ち消すような犯罪性から逃れられていない。欠陥部品を納品して、その結果、事故でパイロットが死ぬというのは、殺人に等しい暴挙である。これに類する事件が、アメリカで第二次世界大戦中に起こったこともあり、生々しさ、現実との照応は、尋常ではなく、この劇が、いくらこの老父を悲劇的崇高性へと祭り上げようとしても、この老父の犯罪性は許しがたいものがあり、悲劇性が大きく損なわれることになる。

不良部品の納入をめぐる、後処理のまずさ、軍の発注が減ることへ恐怖と利益中心のエゴイズムの悪辣さ。そして良心的な工場長と、悪辣な社長という対立(イプセンの『野鴨』の影響があるといわれている)は、しかし、時事ネタとして処理されるのではなく、戦争と平時、戦地と内地の対立、そして生き残ったものの死者に対する罪の意識へと開かれているように思う。国内が戦場とならなかったアメリカのような国では、戦場で戦い死んでいった者たちと、内地で安逸な暮らしをむさぼり戦争で利益すらあげる人間へと二分される。生き残った者は死者に対して負い目を抱く、それが戦地と内地という地政学的な分断が生じているときには、なおさら戦死者への負い目は大きい。内地にいることが、あたかも不正行為であり、それによって死者を生み出したかのように感じられるのである(ユダヤ人作家でもあったアーサー・ミラーにとって、ここにホロコーストが影をおとしていてもおかしくない)。不良部品を納品して、それで死者が出たかのように感じられるのだ。

生存者の負い目は、いままたコロナ禍において生ずる、あるいはすでに生じているかもしれない。死んだ者に罪はないのと同様、生き残った者にも罪はないのだが、生き残った者は、圧倒的に罪にまみれるのである。あるいは生き残った者は、その存在感を死者に奪われる。

posted by ohashi at 13:00| 演劇 | 更新情報をチェックする

2020年11月03日

最底辺

シェイクスピアの『リア王』のなかに、悲惨な現実に直面した人物が、最悪のものを経験したから、あとは落ちることなく上昇するしかないと甘い期待を抱いていると、予想外に、さらなる悲惨な状況に直面するという場面がある。

そしてこれが最悪だと言っていられるあいだは、最悪ではないというような台詞を口にするだが、これは下には下があるという意味と、ほんとうの最悪状態に達すれば、もはや言葉を失ってしまう、言葉で記述できる限り、まだ希望があるという二つの意味が考えられる。

私としては、下には下があるという意味がわかりやすいのだが……。実際、安倍政権が終わって、戦後最悪の腐敗政権もこれで終わる、これ以上ひどい政権はもう登場しないだろうと語ったが、なんという甘い判断だったのだろう。安倍政権以上にひどい腐敗政権が存在した。下には下があった。そして、下には下があることを忘れて、これで最悪などと軽々しく言ってはいけないことを痛感した。まるで『リア王』の登場人物ではないか(エドガーのことだが)。

そして唯一の希望は、これがいまのところ最悪の政権だと言っていられるので、まだ全体主義に私が押しつぶされていないということである。ほんとうに押しつぶされる頃には、私の寿命も尽きているだろうから、あまり心配はしていないが。

posted by ohashi at 14:51| コメント | 更新情報をチェックする

2020年11月02日

日本訳

パステルナークの『ドクトル・ジヴァゴ』の翻訳を読んでいたら、「日本訳」という表現に出会った。ボリース・パステルナーク『ドクトル・ジヴァゴ』工藤正廣訳(未知谷、2013)のp.745、訳者付記にあたるページに、「日本訳」という表記があった。

日本訳というのは、見慣れぬ表現だが、もし誤植でなければ、これは英語に翻訳したものを英訳、フランス語に翻訳したものを仏訳ということのアナロジーから、日本語に翻訳したものを「日本訳」と表記したのだろうか。

事実、上記、翻訳書の同じページには「英訳」「仏訳」の表記もみられるので、それに引きずられて「日本訳」としたのだろうか。しかし、「和訳」とか「邦訳」という表現はふつうに使われているが、「日本訳」は、いかがなものだろうか。

このあたりを、ねちねちと、からかい半分に掘り下げて、このブログに載せようと思ったのだが、ただ、この『ドクトル・ジヴァゴ』の日本語訳は、りっぱな翻訳であって、また訳者あとがきからも、この翻訳にかける翻訳者の熱い心意気などが伝わってきて、下手なことを書いて、それが翻訳者の眼にもとまったりしようものなら、倍返し、いや十倍返しとなって、こちらに跳ね返ってきそうで、何も書くことをしなかったのだが……。

この問題は解決をみた。

バイロンの劇『カイン』を最近、岩波文庫で読んだ。この作品を今回はじめて読んだのだが、昔読んだことがあると嘘でもつこうかと思ったくらいの、読んでいないことが恥ずかしいほどの瞠目すべき大傑作だとわかった。岩波文庫の翻訳そのものもすぐれていて、この作品の価値を高めている。

バイロン『カイン』島田謹二訳(岩波文庫1960)である。

そして翻訳者の「まえがき」にいわく

一、これはバイロンの劇詩「カイン」の日本訳である。
【中略】
一、このマレー版全集には、各幕各場にそれぞれ十行単位の行数がしめされている。ここではそれを五行単位に細分して、できるだけものとのラインにそくして日本訳をこころみた。
【以下略】


なんと「日本訳」とある。1960年当時は、「日本訳」という表現が使われていたのだ。誰でもそうなのだが、知らないことはいっぱいある。「日本訳」という表現を誤植かなにかのようにあげつらうような記事を書かなくてほんとうによかったと冷や汗をかいている。もっとも現在の日本では、日本訳という表現は完全に使われなくなったと思う。

あと、せっかくだからバイロンの『カイン』について一言

モダニズム文学は、永遠あるいは永遠の一瞬のような超越的瞬間にこだわりをみせているのだが――たとえばジョイスの「エピファニー」のような、あるいはベンヤミンの歴史哲学における救済の瞬間も、これに属するだろう――、これに対してロマン主義文学がこだわったのが無限であるといわれることがある。モダニズムの永遠Eternityに対してロマン主義の無限Infinity。バイロンのこの戯曲は、まさにロマン派的無限性の主題を前面に押し出した作品で、ここに、美に対する崇高の美学、そして啓蒙を経由した合理主義的悪魔主義とが加わって、みごとなまでの旧約聖書・創世記物語の翻案、そしてまた独立したひとつの悲劇作品となっている。

カインとはアダムとイヴの長男で、アベルもまだ生きているという、地上に人類が数名しかいない神話的過去を舞台に、カインによるアベル殺害にいたる(これは予想できる展開だが)までの懊悩と悲嘆、そして虚無的なカインと、悪魔的な(悪魔だが)ルシファーとのやりとりなどがメインで進行するなか、イメージ性、思想性が、リミッターをはずされたかのように、暴走し、すべてが圧倒的強度で読む者に迫ってくる。

中盤の第二幕は、誰もがファウスト伝説を思い浮かべると思うのだが、ファウストがメフィストフェレスによって地上の多くの場へと連れて行かれ、見聞を深めるのに対し、この作品ではカインがルシファーにつれられて宇宙そのものを旅し、地球を外側からもみる。虚無的懐疑的になっているカインは、まさにファウストであり、ルシファーは、このファウストを宇宙に連れ出すメフィストフェレスである(『カイン』のルシファーをメフィストフェレスだというのは格落ちで、ルシファーには失礼なことになるが)。

この宇宙旅行を指して、この戯曲が上演不可能なレーゼドラマ(英語ではクロゼット・ドラマ)といわれるゆえんだが、しかし現代の特殊効果とかプロジェクションマッピングなどを駆使しなくても、演劇にとって舞台でできないことはない。だからレーゼドラマというのは、存在しないと私は思っているが、同時に、戯曲の多くは、読まれるだけで、舞台化されるのは、ほんの一握りの作品でしかないという悲しいが不可避の現実もある。つまり演劇というジャンルは、ほとんどがレーゼドラマなのだ。

なお岩波文庫版、島田謹二訳『カイン』については、素晴らしい翻訳に感銘をうけつつも、気づいたこともあるので、日を改めて語りたい。
posted by ohashi at 18:05| 翻訳 | 更新情報をチェックする

2020年11月01日

『ブラインドスポット』

すでに、配信されていたりWOWOWでは放送済みになっているのだが、アメリカのテレビドラマ『ブラインドスポット』のシーズン4を、今度、CSでAXNジャパンが11月4日から放送するとのこと、楽しみしているのだが、CSではすでに主役のジェイミー・アレキサンダーが番宣に出ていてコメントしている。要するに日本の皆さん、見てねということなのだが、その短いコメントを聞いていて、あれ、彼女、ふつうの声じゃないかと違和感。テレビドラマでは、彼女の苦しそうなハスキーヴォイスが、私の、あくまでも私の個人的な好みなのだが、すごく魅力的で、癒されたのだが、番宣での彼女の声は、ハスキーじゃない。どうしたのだろうか。二種類の声をもっているのだろうか。そもそもシーズン4ではどうなのか。まあ、どうでもいいことかもしれないが、私にとってはどうでもよくないのだが。

posted by ohashi at 16:06| コメント | 更新情報をチェックする