2020年10月28日

父親について語るとき

やや古くなったが今年2020年4月に出版された村上春樹の短い本『猫を捨てる』(文藝春秋)について、深い感銘を受けたので語りたくなった。

まずはアトランダムに思いつくままに感想を記したいのだが、当然、「父親について語るとき」がサブタイトルになっている本なので、父親との関係がメインとなるだろうが、最初は、ほんとうにアトランダムに。



自分が小説家になったことで、父親の期待を裏切って、父親を落胆させた、一時期憎まれたかもしれないと述べられているが、それが不思議だった。

たしかに親の期待を裏切って憎まれることはあるだろう。しかし村上氏の場合、親は息子を警察官にしたかったが、息子はテロリストになったというような話ではなく、医者になってほしかったが、弁護士になったというような話で、そんなに悪い話ではない。親の期待がどのようなものか、はっきりとは書かれていないが、人文系の学問に専念するような、そうした人間を期待されていたのに、おちゃらけた小説家になったので、親の期待を裏切ったということなのだろうか。しかし小説家といっても世界的な小説家なので、親としては、誇らしいのではないか。しかも文系から理系にかわるというようなことでもなく、同じ文系内でのシフトなので、親が憎むほど期待を裏切ったとも思えないのだが。

たとえば私には子どもいないが、大学教員だった頃は、こんな私でも指導学生や院生がいた。私が担当した指導学生・院生のなかで、私の期待にそった人間になった者はひとりもいない。こんなことを書くと、私の指導生はみんなろくでもない人間ばかりだと思われるかもしれないが、そういうことはなく、彼らはみんな、大学の期待値を遙かに上回る実績なり業績をあげている優れた人物であって、堕落したとか、やさぐれたとかいうことではまったくない。

だから、私の期待を裏切っているのだけれども、全然、憎んだりしていないし、嫌いになってもいないどころか、むしろ尊敬すらしているのだが、ただ、私の期待した人間にはなっていない。

あるいは、これは逆で、私のほうが、教師として指導生の期待を裏切ったということかもしれない。かもしれないどころか、これは事実といえようか。そしてこの場合、期待を裏切ったからといって憎まれることはないというのは、私の甘い期待で、しっかり憎まれていると思う。

とはいえ私自身、親の期待を裏切ってきた人間だったので、因果が巡るというか、疑似子どもである指導生たちが、私の期待を裏切るのは当然であるともいえる――つまり私は無意識のうちに指導生たちが私の期待を裏切ることを望んでいたかもしれない。そして私は親の期待を裏切ったとしても、親から憎まれていないと思うので、村上氏の例にたちかえると、冷静にみて、どうみても親なら誇らしく思う、そしてその職業の内容についても親が理解できるような(文系の親が理解できる文系の職業)、そういう人物になっているのに、なぜ憎まれるのだろうか――たとえ一時的であっても(村上氏も終生父親から憎まれたとは書いていない)。

ここから先は無責任な推測にすぎないが、期待を裏切られたので憎むということは、悪い方向に裏切ったならありうることだが、良い方向に裏切ったら、がっかりさせても、憎まれることはないだろう。先の極端な例でいえば、警察官の親が子どもも警察官になって欲しいと望んだのに、子どもは警察を憎む暴走族とかテロリストになったとしたら、これは親からにくまれてもしかたがない。もちろんこんなふうに村上氏が父親の期待を裏切ったとは思えないのだが、おそらく一時的でも憎まれたとすれば、そこにあるのは、政治的な対立であろう。私はそう推測する。

具体的な政治姿勢については、なにもわからないが、父親にとって、敵対・対立側に息子がまわったとしたら、たとえ息子がどれほどの名声を博していようとも、憎むしかないだろう。ここに書かれてない、政治的姿勢なり理念上の対立があったのではないかと思う。もちろん、まったくそうではないこともありうるのだが。



もうひとつの疑問は、村上氏が両親の結婚の経緯について知らないというか、知らされていないことである。どちらも高校教員であったご両親は仲が悪かったとも思えないし、なぜ、結婚の経緯を子どもに話していなかったのか不思議ではある。よほど人に言えない事情でもあったのだろうか。駆け落ちしたわけでもないとすれば、略奪婚のようななにかやましいところがあったのだろうか。まさに小説的興味がわくのだが、それは掘り下げようもない問題なので、これはここでやめる。


それよりももっと重要なのは、戦争との関わりである。村上氏は私よりも年上だが、私ならびに私より上の世代は、親が、戦争と関わっている。私たちの世代の父親の場合、出征し、軍務についていることが多い。村上氏の父親も徴兵されて軍務についている。私の年齢の前後の世代では、親について語ることは、戦争について語ることでもある。

私の父親は徴兵されていない。兵役についていない。その理由は明確なので、私も納得している。だからちょっと残念である。当時は兵役を逃れるために、徴兵検査の前に醤油をがぶ飲みして体調不良になって検査を逃れたというような、嘘か本当かわからない話が残っているのだが、徴兵を免れた私の父親も、卑劣な手段を使って、あるいは驚くほどの荒唐無稽な手段を使って、トリックスター的に徴兵から逃げ回って、兵役を逃れていてくれたらと思う。なにしろ、その結果、私が生まれたわけだから、私としても、父親のなりふりかまわぬ兵役逃れ行為を、誇りにすら思い、その痛快さ、卑劣さ、大胆さ、挑発性を、受け継いでいけたらと真剣に思うのだが、父親が兵役についていないことについて、そんな武勇伝もなにもない。徴兵されなかったのは、ごくありきたりな理由しかないので、残念である。卑怯者、臆病者として父親が生きていたら、その遺志を私もついで、世間をあざ笑う大いなるトリックスターとして生きることもできたのだが。

ここで私は父親と負の絆をもつことができなかったことを嘆いているのだが、これは決しておふざけでも、挑発的行為でもない。実は、私の父親は、自分の父親に半ば捨てられたところがある。一応、戸籍上長男なのだが、名前に「二郎」とあるので、もともと長男がいたのだろう。ところが何らかの事情で長男がいなくなり、長男扱いになった。意図的なものではなかったかもしれないが、捨てられていて、拾われたのである。もちろん、それ以外にも私の父は、自分の父親(東大の工学部を卒業しているのだが)を憎んでいたところがある(詳しく聞いたことはないのだが)。自分が父親を憎んでいた男性は、自分が父親になって息子ができると、自分も、息子から憎まれるのではないかという不安にとりつかれるものかもしれない。私はたぶん父親から怖がられていた、もちろん私は父親をしっかり憎んでいるので、当然のことだったのかもしれないが。また子供を怖がる気持ちは私にも転移して、子どもはいないが、疑似子ども(指導生)との関係にそれが反映したかもしれない。

それはともかく、徴兵されず、軍務にもつかず、戦地にも行っていない父からは、戦地や軍隊生活については語ってもらわなかった。ただ戦争は、戦地で敵と交戦するだけではなく、あるいはそのような交戦は全体的戦争状態からみるとごく一部で、とりわけ世界的レベルでは第二次世界大戦は占領戦ということもあって、戦時生活こそが戦争であったことを考慮すれば、私の父も、私の母(戦争中は未成年)と同様に、戦時生活について語ってくれてもよかったのだが、何も語らずに死んでいった。母は山口県の田舎での戦時生活については、よく語ってくれたが、父からは、名古屋市での戦時生活は、なにも聞かずじまいである。


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2020年10月10日

『ドリームハウス』

ちょっと古い映画だが、思うところがあって、ネタバレ的コメントをしつつ、書いておきたい。

Foxテレビか何かで最近映画『ドリームハウス』を放送していた。2011年(日本公開2012年)の古い映画なのでが、ジム・シェリダン監督の興味深い映画であり、またこの映画、アマゾン・プライムでも見ることができる、つまり、この映画についての一般観客のコメントが豊富に蓄積されているので、いい意味でも悪い意味でも参考になる。もちろん、多くのコメントに対して私が違和感を覚えたことで、ここにコメントしたいと思ったということもあるが。

ただしネタバレあり。

ジム・シェリダン監督、出演ダニエル・クレイグ、レイチェル・ワイズ、ナオミ・ワッツらのサイコ・サスペンス・ミステリーともいうべき作品で、この映画の大きなポイントは、90分の映画の中盤に犯人がわかることである。というか、そこで最初の種明かしがされる。

しかし、この種明かし、最後にもってきてもよい、大きなどんでん返しなのだが、同時に、中盤での解決へもっていくために、さまざまなヒントがちりばめられていて、観客のなかにある種の期待あるいは予測が醸成されるのだが、それが中盤で的中するのである。

しかし、いうまでもなく、たとえばテレビの1時間の刑事ドラマで、開始30分後に捕まる犯人はほんとうの犯人ではない、真犯人はドラマの最後に捕まるのだから、という、ありきたりな英知は、この映画にもあてはまる。

つまり、この中盤で明かされる犯人は真犯人ではない。では、誰が犯人なのか。その余韻的疑問こそがこの映画の特徴ともなっている。中盤であかされる犯人は、無実ということになる。そして後半は、真犯人をめぐる謎解きということになる。

映画のあらすじは、出版社の編集者が、仕事を辞めて、作家業に専念すべく、別れるて暮らしていた家族のもとに戻り、そこで家族水入らずの幸福な、また夢のような生活をはじめるというのが最初の設定。ところが、新たに購入した家が、以前、悲惨な殺人事件の起こった事故物件の家であり、主人公の男性が家族と生活しはじめると、不思議なこと不気味なことが家や周辺で起こり始める。ここまでくると、ホラー映画の展開を予想する。

実際、この映画は夫婦と二人の幼い姉妹という4人家族なのだが、この家で過去に父親が家族全員を皆殺しにする事件が起こっている。映画のなかでは一瞬だが、キューブリックの映画『シャイニング』を思わせる画像がある(意図的に仕組まれたものだろう)。狂気の父親の一家惨殺事件。そんな事故物件で暮らすことになった家族――ここでかつて何が起こったのか、隣の謎めいた家族とはどういう関係にあるのか、殺害犯の父親はいまどこにいるのかを主人公は調べ始める。

ところが不思議なこともある。たとえば主人公の名前。字幕では「ウィル・エイテンテン」となっている、実際、耳で聞いても、そう聞こえる。「ウィル」はいいとしても、「エイテンテン」という珍奇な名前はあるのか。これは8-10-10(エイト・テン・テン)と数字を組み合わせた名前ではないか。数字の意味はわからないとしても、数字的な名前自体があやしい。

実はこれは日本語字幕のほうが、観客に疑惑をもたせることになった、あるいは字幕が図らずもネタバラシをしてしまっている一例なのだが、ウィル・エイテンテンは英語ではWill Atentonという。Atentonという名前も珍しいが、Eight-ten-tenと聞こえる名前に比べらたら違和感がすくない。これも含めて、主人公自身に疑惑の目がゆくように映画は展開する。

まさに『オイディプス王』である。主人公は、犯人が誰かつきとめる、あるいは犯人が何をしたのか、この事故物件の家で何があったのか究明するなかで、観客が徐々に予感しはじめること、映画の最後までひきずっていてもおかしくない設定があきらかになる。犯人を究明ようとしていた主人公は自分自身が犯人だったのである。

精神病院に収容された主人公は、自分が妻と娘を惨殺したという事実から目をそらすために、自分のなかに別人格をつくりはじめ、自分は事件とは関係のないという妄想に支配されはじめた。その主人公が、自分の家、かつての殺害現場にもどって、真実に直面するようになる……。

ここで終わってもよかったのだが、映画のこれが中盤なのである。

災厄の原因を追究しようとする国王が、原因は、先代の国王を殺した人間であることがわかり、その犯人を追及するうちに、自分がその犯人だったとわかるのが『オイディプス王』である。あるいは『オイディプス王』なら、映画のここでおわっているはずである。ところが、映画はつづく。つまり犯人とされた主人公は、実は犯人ではなかった、では誰が、何がおこったのか。その余韻こそがこの映画の特質となる。

アマゾン・プライムの映画なので、コメントも多い。そのなかで主人公が出会う妻というのは、彼の頭のなかの妄想なのか、幽霊なのか、わからないというか、両方がまざっているとう指摘があった。

たとえば最後の場面、主人公が真犯人に追い詰められ殺されそうになるとき、死んだ妻も、主人公にだけは目に見えるかたちで存在している。彼女は主人公にだけ見える妄想であるはずだが、窮地におちいった主人公をたすけるべく、犯人の注意をそらすような行動にでる(三谷幸喜監督『素敵な金縛り』で問題になったように、幽霊は現実世界に影響を及ぼすことができるのかどうか、たとえ及ぼすとしても影響は限定的であり、風というか空気のゆらぎくらいを引き起こすことしかできないということだった、それを髣髴とさせるかのように)、幽霊は、空気をゆらして、そよ風みたいなものを引き起こして金属に音を出させる――それくらいのことしかできないのだが、しかし、そもそも、幽霊ではなく妄想のなかの存在でしかなかったのでは? 

また主人公にだけみえるので妄想だが、しかし幽霊でもある、あるいは幽霊が、主人公にだけ姿をみせるというのは、『ハムレット』の亡霊がそうである。さらにいうと幽霊については、映画や小説では、見える人と、見えない人がいることになっている(現実でもそうか?)。この映画では、主人公は幽霊が見えるのかもしれない――しかし、その幽霊は、主人公の妄想の産物でもあったので話がややこしくなる。

この映画は、幽霊の側に、見せる/見せないの主体性がない。そもそも主人公の妄想の住人である妻には、そのように主体的にうごけないし、妄想の存在であればこそ、現実の世界に、物理的な影響をおよぼせるはずはない。だが、この矛盾は、はたして映画のいい加減なところだろうか。

ちなみにもうひとつの興味深いコメントがあって、それは、最後に、燃えさかる自分の家から外に脱出した主人公が、消防隊員に助け起こされ、中には誰もいないかと問われ、誰もいないと答えるところに、主人公の精神の決定的な転機をみるというものだった。

主人公は、自分の家族が、とりわけ自分の妻が、家のなかにいるという妄想をずっと抱いている。しかし最後になって、真犯人がわかり、事件の全容があきらかになったとき、主人公も妄想から解放され、家の中には誰もいないと認めることになった。妄想か、幽霊か、わからないのだが、それが成仏できたのである。主人公も、罪の意識(たとえみずから手を下さなくても、家族を死なせてしまった)からくる妄想から解放されることになる。そんなふうに観客は解釈する。その意味で、印象的なやりとりであり、言葉である――中には誰もいない。

しかし観客は知っている、なかには真犯人と、その真犯人にやとわれた殺し屋がいること、を。彼ら二人は、猛火のなかで焼け死んだと思われるのだが、まだ生きているかもしれない。それにしても、焼け跡から二体の死体が発見されたら、どう説明するのか――もちろん知らなかったでとおすこともできるのだが。あるいは、もう死んでしまったにちがいなく、中には誰もいないと答えたのか。主人公の妻が亡霊か妄想かわからないという矛盾を指摘するのなら、真犯人と殺し屋が死んだかどうか主人公は目撃していないにもかかわらず、彼らがいなかったかのように答える主人公は、なにかおかしくないか――中には人がいたのか。

このように「なかには誰もいない」という言葉もそうだが、いろいろな台詞に、裏の意味が隠されている。それが中盤以降、明確になる。どのセリフにも、余韻がある、あるいは裏の意味がある、そのため、もはや懐疑を終わらせ、思考を停止する機会は失われてしまうのである。

映画の最後というかエピローグには不満があるというコメントが多い。主人公は、家族を殺した悪魔的殺人鬼ではなく被害者だったのだから、真相がわかり、無実であったと判明した時点で、せめて死んだ家族の墓参りくらいしたら、切なくも感銘深い終わりになったのではという類のコメントがあった。

実際の映画の終わりは、主人公が都会の街角を歩いていると書店の前で足をとめる。書店のショーウィンドーには『ドリームハウス』という本がベストセラーとして陳列されている。作者はピーター・バーグ(エイテンテンの本名である)で、ドキュメンタリーとか告白本ではなく、純然たる小説して売られている。

この終わり方への不満は、家族を失った主人公が、それをネタに小説を書いて儲けたことへの不快感でもあるかもしれない。また、それだけではなく、主人公の墓参りという、一定のクロージャーとは異なり、この終わり方は、余韻のくせが強すぎる。いろいろな解釈に開かれすぎている。

もっとも身もふたもないことをいえば、映画のそこまでの内容は、すべて主人公の経験でもなんでもなく、ただの面白おかしい作り話、フィクション、小説にすぎないのである。まあ、これは実事件を反映した映画でもないので、まさに映画そのものと一致する。

もう少し和解的な結末を考えれば、このように、おそらくみずからの経験をもとに小説を書いてベストセラーになったということは、映画『シャイニング』のジャック・ニコルソンのような狂気の父親として断罪された過去、冤罪の犠牲者となった過去を清算して、社会に復帰し、新しい人生をはじめることになったということだろう。それを簡潔に映像だけで表現した。また彼には、隣人の離婚した夫人(ナオミ・ワッツ)と第二の人生を送る可能性もでてきているわけだから。

主人公が隣家の女性と結婚するという第二の人生――その女性の娘とも仲がよさそうだった。ここまでの事件はすべて、隣の女性と再婚するために、主人公が仕組んだ完全犯罪ではないだろうか。彼はじゃまなものをすべて消去した。隣の女性の離婚した強権的な元夫、そして自分の妻と二人の娘。

あるいは最初から隣の女性はいなかったか、関係なかったのかもしれない。彼は理由もなく、自分の家族をほんとうに殺していたジャック・ニコルソンだったのかもしれない。しかし、自分を無実の人間とするために、真犯人と、その殺し屋をでっちあげたのかもしれない。燃えさかる自分の家のなかには、誰もいなかったというのは、一周回って真実だったのだ。彼は自分で放火した。妄想の妻もいなければ、真犯人も殺し屋も最初からいなかった……(実際、殺し屋は、空き家を管理している警察関係者でもあったし、帰りの列車に乗り合わせた乗客でもあった――たまたま見た人間から即興的に物語をでっちあげるというのは『ユージャル・サスぺクツ』の手法である。殺し屋は主人公のでっちあげなのかもしれない)。

そして妻が妄想なのか、幽霊なのか、どちらかわからないというか、あいまいなのは、すべてが彼のでっちあげだからである。事実、隣の女性との関係や、主人公自身の家族との関係の描き方が薄っぺらいというか、情報不足で、リアリティがないというコメントもアマゾンにはあったが、実は、それこそがこの映画がはらんでいる可能性のひとつだろう。つまり、すべてリアリティがない、主人公の妄想、自己弁護のためのでっちあげだったのかもしれないのだ。

そもそも主人公は『ドリームハウス』とタイトルをつけた創作ノートのようなものをもっていて、それに書き込みながら、家族と暮らしていた。あたかも彼の家族が、そのノートから生まれた妄想の存在であるかのように。あるいはそのノートは家族を殺害にいたらしめる彼の邪悪な妄想の掃きだめであるかのように。

事実、最後に燃え盛る家から彼は、そのノートを持ち出すのである。おそらくそれがもとになって小説『ドリームハウス』が出来上がったのだろうと推測できるが、同時に、そこには、人から見られてはまずい犯罪計画が書かれていたのかもしれない。

アマゾン・プライムのコメントには、主人公が最初、同僚に見送られつつ退社する出版社が、実は精神病院であったのだが、それが中盤になるまでわからなかった自分は歳をとったというようなコメントがあったが、実際、中盤になってはじめてわかるのだから、そんなものはわからなくて当たり前で、歳とは関係ない、むしろ、歳をとったからわからなかったと考えるほうが歳をとった証拠なのだ。

そして出版社が精神病院だったのなら、では、主人公が最後に小説を書いたのはどういうことだろう。もちろんどちらの場合でも、小説は書ける。作家だった主人公が精神病院を出てから小説を書いても、出版社勤務の編集者であった主人公が作家になって小説を書いたとしても。問題なのは、どちらでも可能だということは、決定不能なのである。

主人公が犯人か犯人ではないのか。すべて真実なのかでっち上げなのか。どこまでいっても余韻しか残らない。裏があるとしか思われない。しかも裏ではなく表と思われるものが、実は裏だったりするのだ。

最初、どこまでが現実で、どこまでが妄想だったのか、わからなくなる作り方をしていたのだが、いつしか、どこが終わりなのかもわからなくなってくる。

それはまたこの映画そのものにもあてはまる。コメントでは、なんとかの一つ覚えみたいに、主人公を演じたダニエル・クレイグが、この映画を機に、妻役だったレイチェル・ワイズと結婚したことが頻繁に触れられている。確かにそうだとしても、この映画には、さらに余韻がある。

というのも監督のジム・シェリダンは、映画製作会社モーガン・クリークとトラブっている。途中から映画の編集を制作会社が行なったため、監督は、映画のクレジットから自分の名前を外すように訴えたらしいし、またそれによって、監督、ダニエル・クレイグ、レイチェル・ワイズは、この映画のプロモーションにいっさい協力しなかったようだ。

ウィキペディアによると、製作費$50,000,000に対して興行収入$38,502,340と(2012年段階で)、この映画は、もとをとれていない失敗作である。もちろんその後、テレビの放映権とかDVD化などによって、もとは取れるのだろうけれど、有名監督とスター俳優を起用したわりにはヒットしなかったことは事実だろう――面白い映画であることは私の個人的見解だが保証するとしても。しかも出来上がった映画には、監督の以外の制作会社の手がはいってしまっていて、監督が意図した映像あるいは編集かどうかも疑わしい。私たちがみているのは、もっと長い映画の幽霊版みたいなものかもしれない(もちろん短くなって、余韻が出てきたのという可能性も否めないが)。

これで終わってはいないのだ、あるいは、どこで終わっていいのかわからない。いつまでたっても終わらない。それが、映画の内容と、映画そのものに呪いのようにとりついているかのようである。
posted by ohashi at 18:06| 映画 | 更新情報をチェックする

2020年10月05日

庄屋ファシズム

吉田修一『犯罪小説集』を原作とした映画『楽園』(瀬々敬久監督)は、原作の短編を組み合わせてひとつの物語にしたものだが(この作り方は同監督の4時間38分の映画『ヘヴンズストーリー』の圧縮版みたいなところがあって、私には興味深いものだったが)、ただ、いずれに場合も、個人と共同体との関係とりわけ軋轢が主題になっていた。

原作の「万屋善次郎」は、山口連続殺人放火事件(2013年7月21日山口県周南市大字金峰での連続殺人・放火事件)をモデルにしているとのことだが、63歳の老人が隣人を殺したという事件は、映画では、陰湿な村八分の標的となった中年男が精神に異常をきたして村人を皆殺しにするという内容となった。大量殺人を犯すのだから精神に異常をきたしたことは確かだろうが、佐藤浩市演ずる、この事件の主人公は、理由もよくわからないまま村八分となり、仕事や生活、信頼や人格までも奪われ、最後には記憶すらも踏みにじられることになって、復讐に走る。

虐殺場面は映画には登場しないが、救急車両や警察車両が村の全戸に横づけとなり、犠牲者を運びだしたり現場検証をはじめたりする場面によって、事件が起こったことがわかるようになっている。これはもっとも同情をひく犯罪者復讐劇である。映画をみながら、主人公が復讐をとげたことで、ざまあみろと、心の中で快哉を叫んだことを記憶している。

この映画の陰湿きわまりない村八分行為をみて、現代の社会が、情報化、ネットワーク化によって緊密につながることによって、狭くなる、あるいは狭い世界となって、かつての村社会の悪弊である村八分が、回帰・復活してしまったという思いを強くした。

ネット社会におけるバッシングや炎上は、まさに、狭小な村社会の倫理や行動原理に私たちが支配されてしまった証左ではないだろうか。

もちろん村八分が、ほんとうなどのようなものか私は知らないし、この映画での村八分が、現実の村八分をどこまで反映しているのかもわからないのだが、ただ、言えることは、村八分となる人間は、共同体の秩序や調和を壊す者として嫌われたり、いじめられるというのは、あくまでも建前であって、実際には、村長とか村を支配する上層部や幹部連中にとって気にくわない者たちを、村のためという偽りの名目でもってバッシングするだけのことである。村長に面と向かって反対しなくとも、すこしでも村長の気に入らないことをしたら、あるいは村長の意向を無視して勝手にことを運んだら、アウトである。村長あるいは村長の意向を忖度した側近が、強権によってバッシングと排除にはしる。村八分のはじまりである。

と同時に、留意すべきは、村八分になる場合、加害者・犯罪者側は、周到な用意と正当な理由をもってするのだろうが、被害者・犠牲者には、なんの説明もおこなわれないことである。これは被害者に弁明の余地を与えないどころか、非合法なバッシングとみなされかねないよう、建前としては何も起こっていないのである。ただ、理由もわからぬまま、不条理なバッシングを被害者は受けることになる。その意味で、ネット社会の炎上とも異なる面がある。そして被害者にとって理由なきバッシングの集中攻撃というのは恐怖以外のなにものでもない。

しかし、これは村社会の独特の風習であろう。都会では、共同体とか特定の集団のリーダーは、気に入らない者がいたら、挨拶もしなければ、言葉をかわしたりもしないとしても、また時には間接的に嫌がらせをするとしても、自分の手で、あるいは自分の手下を使って、相手を排除しようとはしない。職場でバッシングをうけても、生活圏ではバッシングは受けない、あるいはその逆ということもある。ところが村では職場と生活圏が同じなために、バッシングを受け始めたら逃げ場がないというか、最終的に別の地へ逃げるしかなくなる。

また変わり者は、都会では放っておかれるのだが、村ではそうならない。田舎生活を私はしたくないのは、私のような変わり者は、すぐに村人の間に反感を生み、いろいろな面でバッシングされるからである。都会生活では、変わり者は、嫌われるかもしれないが、生活や生き様まで干渉されることはない。

村八分は、あくまでも村の悪習で、都会では通用しないのである。とはいえ、この差異は、年々なくなりつつあるように思うのだが。

安倍前総理は、極右の独裁者ファシストであっても、都会派ファシストであって、たとえ気に入らない連中に対して村八分にしてやりたいと思っても、そもそも「村八分」というのはカッコ悪すぎることで、自分の立場のもろさを逆に露呈するようなもので、おそらく「村八分」的排除やバッシングには躊躇したことだろう--といえれば面白いのだが、政権の陰湿な性格を思うと、実際、村八分的なことは絶えず行われてきた。

その典型が森友問題で、政権にとって気に入らない、つまりは政権の正当性と権威をそこないかねない対象は、公権力をつかって収監までするのである。森友問題に対する政権の措置と、映画『楽園』における村八分の陰湿さは共通点がある(映画はべつに政権を批判しているのではないが)。

もし、安倍前総理は、時代劇では悪徳商人の越後屋の悪賢く貪欲な**息子みたいなもので、最後に、桃太郎侍にぶった切られるか、暴れん坊将軍に成敗されるか、必殺仕置き人の仕置にあって吊るされるといった役どころであり、いっぽう、村出身の菅総理は、少しでもたてつく者は自分の庄屋=総理としての権威が傷つけられたと本気で思い、村八分を発動することを当然のことと思っている。それを共同体の利益と思っているようだが、真実は、庄屋様の権威の問題であり、庄屋さまが体現する正義が傷つけられると、たぶん本気で思っているのである――と、対照的にとらえられれば面白いのだが。とはいえ安倍政権における村八分的処理は、常に庄屋の菅が行っていたということはできるかもしれない。

いま日本は、学術会議問題もふくめて、総理の庄屋ファシズムに席巻されようとしている。私には、総理の顔が、ほんとうに悪辣な庄屋にしかみえないのである。しかし、庄屋ファシストが考えていないことがある。それは村八分されたものが都会では、黙っていないということである。村だから村八分にされて泣き寝入りするか逃げ出すしかなかったのだが、都会では、支援者も出てくるかもしれないし、果敢に不正と戦う者たちも出てくるかもしれない。庄屋ごときに、簡単に押さえつけられたりはしないかもしれないのだ。たぶん。
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2020年10月04日

神田神保町での思い出

2020年10月3日(土)のテレビ東京『出没!アド街ック天国』で、東京の神田神保町を特集していたので、私もというのは、あまり理由はないが、ひとつのきっかけとして、個人的な思い出話を。

書泉グランテが、いまのように趣味の館と化す前の、各階を専門分野別に分けていた頃のことだが、グランテの一階の雑誌コーナーで展示してある新刊雑誌をぼんやりみていて、ふと眼をあげると雑誌のラックの向こうに、アイリス・マードックがいた。

アイリス・マードック!? マードックの作品は、大学の英語の授業で読んでいて、当時の私は、卒論で何を書くか決まっていなかったので、英文学のいろいろな分野の作品をつまみ食い的に読んでいた。授業で読んでいるマードックについても、いろいろ調べたというよりも、調べなくても情報が自然に入ってくるような文化状況に当時の日本はあった。翻訳がどんどん出され、また論じられたり、新刊が話題になったりした作家のひとりがマードックだったのだ。日本風にいうと「純文学」の作家だったが、小説は、とりわけロマネスクな作風のものが人気があって、よく読まれていたと記憶する。当然、顔も写真を通して、知っていた。そのマードックが、どうして神田神保町の書泉グランテの一階のフロアで、私の目の前にいるのか。

私の幻覚かもしれない、そのマードックは、同じくらいの年配の白人男性とともにいて、フロアのレジにいた店員に何か質問をしていて、その後、書店を出た。

私の幻覚なのか、人違いなのか、そもそも誰なのか、好奇心にかられて、私もあとをつけた。まるでストーカーのように。そのカップルは、御茶ノ水駅に行く坂を登って、明治大学の校舎に消えていった。

まさに狐につままれたような経験だったが、あとで調べたら、私の幻覚ではなかった。当時、マードックは、夫のジョン・ベイリーと来日していて、滞在中、明治大学で講演をしていた。夫妻は、書店で、明治大学への道筋を尋ねていたのかもしれない。

私は、大学学部生だった頃のこと記憶しているが、大学院生の頃かもしれない。1999年につくられた日本アイリス・マードック学会のホームページに以前あったマードック年譜で、来日した年を確認しようにも、ずっと準備中で、それも、いつのまにか消えてしまった。もっとも学会の活動は現在もつづいているようだが。

とまれ、私が目撃した頃には予想もできなかったことがあった。それは、彼女が,その後、認知症になったことであり、そのことが映画にもなったことだった。夫ジョン・ベイリーによる回顧録の映画化だった(『アイリス』)。

私とマードックの出会いは、その一瞬で終わった。実際、私はいまもマードックの熱心な読者ではない。だからマードックについて、なにか語ることはないのだが、ただ、彼女は、その評論での発言から明白なのだが、典型的なリベラル・ヒューマニストで、私が翻訳しているテリー・イーグルトンにとっては天敵みたいな存在である。個人的な因縁ではなくて、リベラル・ヒューマニズムそのものが中産階級のブルジョワイデオロギーだからである。

とはいえ実は個人的な因縁がないわけではない。イーグルトンはオックフォード大学の教授だったが、その前任者は制度的にジョン・ベイリーなのである。そして実際、前任者だったジョン・ベイリーのリベラル・ヒューマニズムを批判する論文をイーグルトンは書いている(『批評の政治学』(平凡社)所収)。この論文はベイリー教授批判というよりもリベラル・ヒューマニズム批判の古典的論文ともいえるのだが、リベラル、リベラリティという英語の訳語をどうするか、リベラルとカタカナで通すか、訳語を考案するかで、翻訳者は迷っているところがあって、それがときに意味をわかりにくくしているのだが、いまもなお文学研究の場を支配してるリベラル・ヒューマニズムへの透徹した眼差しから得るところは多い論文である。

ちなみにベイリーには海老根宏先生が訳された『トルストイと小説』(研究社出版 1973)という著作がある。英文科の教員で、ロシア文学に詳しいというのは、まさに古き良きオックスフォード大学の伝統を代表していたともいえる(オックスフォード大学のEnglish(英文学コース)では、昔は、ロシア文学も教えていた――いまはどうなっているのか知らないが)。

リベラル・ヒューマニズムというと、何が悪いのかと思われるかもしれない。リベラルで、ヒューマニズムのどこが悪いのか、と。しかしリベラル・ヒューマニズムは、いまでいうリベラルとは異なる。いまでいうリベラルを政治的であると批判するのがリベラル・ヒューマニズムなのだ【もっとも最近の日本では、この保守が中立の皮をかぶっているだけのリベラレル・ヒューマニズムを、左派のリベラルといっしょくたにして、抑圧しようとしているのだから、リベラル・ヒューマニズムにとっても受難の時代は始まっている】

マードックについても最近までイーグルトンはその著作で、折に触れて言及している――批判するために。しかし、それがまたマードック作品をよく読んでいることの証しともなっていて、案外、愛読者のひとりではないかと思わせるところがある――まあ、こういう和解的発想自体が、リベラル・ヒューマニズム的といって批判されるのかもしれないが。

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2020年10月03日

『白い病』 大統領感染 3

私がチャペックの『白い病』を舞台でみたのは2018年3月のKAATの公演だったが、その年の1月には、チャペックの『マクロプロス事件』をミュージカルにした宝塚(宙組)の舞台を、日本青年館ホールで観ている。【宙組 1月23日(火) - 1月29日(月) 日本青年館ホール『不滅の棘』(原作:カレル・チャペック、翻訳:田才益夫(八月舎刊「マクロプロス事件」より)、脚本・演出:木村信司)。

この作品、すでに翻訳もあるのだが手に入りにくかったこともあって、Kindleで英語版を入手した。シェイクスピアの『テンペスト』に登場するプロスペロのような科学者/魔術師の娘(シェイクスピアでいればミランダにあたる)が、父から術を施されて長寿あるいは不老不死となり、400年くらい生き続け、その間、いろいろな男と関係するという、ファムファタール的な女性を主人公としているのだが、宝塚版では、女性が主人公だと座りが悪いので、設定をかえて男性にした。それはそれで面白い舞台になっていたという記憶にある。

【あとこれはミュージカル版なので原作のいろいろな議論は反映できないので、それはそれでいいのだが、原作では、人間の寿命について、100年あるかないかというのは寿命が短すぎる、人間は400年くらい生きるとりっぱな業績を残せるのだが、100年足らずでは、すべてが中途半端に終わるという議論に対して、人間の寿命は30年でも長すぎるという議論があって、この二つの議論を併置するチャペックは天才だと驚いたことも記憶に新しい。】

それはともかく、KAATでの串田和美演出の舞台は、その時点での原作の日本語訳のタイトルのまま『白い病気』であったが、見事な舞台で、感銘を覚えたのだが、このコロナ禍のいまになって、思い返すと、当初感じなかった、複雑な思いと深い感銘をおぼえることになった。

『白い病気』KAAT公演記録、2018年03月07日(水)~2018年03月11日(日) 
【原作】カレル・チャペック  【翻訳】小宮山智津子  【潤色+演出+美術】串田和美
【音楽】寺嶋陸也
【出演】 串田和美、藤木孝、大森博史、千葉雅子、横田栄司
西尾友樹 、坂本慶介、大鶴美仁音、飯塚直
近藤隼、武居卓、細川貴司、深沢豊、草光純太、下地尚子(TCアルプ)他


原作の翻訳が入手しづらかったので、英語訳で読んだのだが、また、今この時期に、この『白い病気』こそ、復刊でもいいし、新訳でもいいので、どこかで出版してくれないかなと思っていたら、阿部賢一先生の翻訳で岩波文庫から『白い病』として9月に出版されたので、驚いた。待望の翻訳であり、阿部先生の丁寧な解説にも教えられることが多く、長く読みつづけられることを願うまでもなく、読み続けられると思う。

舞台を観て、また英語訳で読んだ限り、この白い病という不思議な疫病は、なにかのアレゴリーなのか、もしそうなら何のアレゴリーなのかと考えた。書かれた時代から考えると、ナチスとかファシズムという解答が得られそうだが、しかし、ナチスと考えても、しっくりこない。山椒魚がナチスのアレゴリーであることはまぎれもないことなのだが、この白い病は、たとえば五〇歳以上の高齢者が罹患するという設定からしても、ナチズム的なものが感じられない。

そう、そうなのだ。高齢者がかかる疫病なのである。この劇をみたときは、変な設定だとしか思わなかったのだが、いまからすれば、コロナがまさにそうである。コロナを予見していたのか。ただ、それはともかく、これは何かのアレゴリーではない、強いていえば、白い病は疫病のアレゴリーであって、病気あるいは疫病の政治的利用(国民の選別)という残酷な政治的現実に対する痛烈な批判の劇なのだと思いいたった。

ただ、この独自の見解は、しかし、阿部先生の解説で触れられているように、スーザン・ソンタグの本ですでに述べられていたので、独自でもなんでもなかったことが判明した。ソンタグのその本は、読んだことがあるし、また、それを読んだ時には、チャペックの、まだ読んだことも観たこともなかった作品についてのコメントが印象的で、以後、頭の片隅に残っていたのかもしれない。

しかし先取りということになれば、病気の文化的政治的機能にかんする考察に先鞭をつけた観のあるソンタグの『病とそのメタファー』、またその続編の『エイズとそのメタファー』だが、それら以前に、チャペックのこの劇こそ、明確に提示していたのだ――病気あるいは疫病が、多様な、あるいは冷酷なイメージ戦略あるいは政治的使用の資源となること、を。

もしあなたが病気に、あるいは疫病に罹患すれば、たとえ日頃の不養生あるいは不摂生がたたったものであれ、純然たる偶発事としてであれ(つまり運が悪かったとしても)、いずれであってもそれは関係なく、ただ、病によって組織される文化的社会的政治システムのなかにとりこまれ、あなたの意志とは関係なく既存のイメージ戦略に利用されるだけである。しかもこのシステムは、病人のあなたを既存のステレオタイプに分類利用するだけではない。既知の病気であれ未知の病気であれ、病気と患者とをつねに創造的に関係づけ、あなたを有罪化したり無罪化し、最終的に、あなた自身の救済可能性を決定する、それもそのつど創造的に。

もはや病気になることは、またとりわけ疫病に罹患することは、ただ病人になるだけではなく、二重三重の意味づけを施され、社会的文化的経済的に利用される対象へと、あなたの存在を変貌させることである。しかもこのシステムは、たんに病人だけではない、疫病のときは、まさにそうなのだが、未罹患者もまた、意味づけられる利用される。もはや、このシステムから逃れるすべはないのである。

そう、このシステムは、運営者が不在である。たとえ、このシステムを制御していると思い込んでいる者もまた安全ではいられない。なにしろ、水平化する(つまり無差別の)疫病のまえに人間は誰も罹患を避けられないのである。このシステムに真の支配者はいない、いや、システムそのものが支配者なのである。

いいかたをかえれば、疫病というのは、自然現象である以上に、文化現象、政治現象なのである。

チャペックの『白い病』とトランプ大統領のコロナ感染との接点は、白い病の罹患者を弱者あるいは劣等者として差別・選別することで独裁体制を構築する為政者もまた、白い病に罹患するという物語の展開にある(KAATの舞台では、横田栄司の力演が印象的だった)。

コロナウィルスを軽視し、マスクを無用とさげすみ、気力とマラリアの予防薬で乗り切れると豪語した精神異常者の大統領(はっきりいって精神異常者であることはまちがないない)もまた、コロナウィルス感染から免れることはなかった。みずから操作してきた、コロナウィルス軽視と、感染者への蔑視が、みずからに跳ね返ってくることになる。

このアイロニーは、古くをさかのぼれば、疫病の原因を探し出し、原因となるものを徹底的に排除すると豪語し、捜査/探索のあげく、みずからが原因であることを発見するにいたって、国を追われるこことになった為政者オイディプス王の事例(架空の神話的事例だが)に行き当たる(古代ギリシアの悲劇の崇高なる典型例ソポクレスの『オイディプス王』参照)。

だがこれに対しては、忘れずに、こう付け加えておこう。歴史は繰り返す、最初は悲劇として、二番目は茶番としてと。
posted by ohashi at 23:10| コメント | 更新情報をチェックする

「赤死病の仮面」大統領感染 2

では、どんな物語があるのだろうか。

一番有名なのはエドガー・アラン・ポウの「赤死病の仮面」。

赤死病というのは架空の病であるが、ペストのことを「黒死病」ということから、「黒死病」のような恐ろしい疫病、感染症という意味と思えばいい。

「赤死病」が猛威をふるうなか、外部の社会から完全に隔離され、外部からの侵入者を完全に排除した城砦に一族郎党、貴族たちとこもった国王プロスペロ(どういうわけかシェイクスピアの『テンペスト』の主人公と同じ名前の人物)は、夜ごと、みずからの館で宴会を繰り広げていたが、数ヶ月後、仮面舞踏会を開催すると、そこに仮面をつけた謎の人物が入り込む。この人物こそ、赤死病の化身であり、死の感染が拡がってゆく……。

結局、疫病の侵入はふせぐことができなかった、みずからは不死身だと疫病を軽視し、為政者でありながら苦しむ民衆に救いの手を差し伸べるどころか、民衆を見捨て逃避して耽美的生活にふける腐敗した傲慢な君主が疫病によって復讐されるという物語だが、ポウの作品には、現実の事件を予言しているものがあり、『アーサー・ゴードン・ピム』は、もっとも有名な例だが、この「赤死病の仮面」もまた、今回のトランプ大統領感染によって、現実予言性を帯びることになった。

Wikipediaには次の記述がある――

「赤死病の仮面」は1842年に『グレアムズ・レディース・アンド・ジェントルマンズマガジン』5月号に掲載された。初出時のタイトルは「The Mask of the Red Death」であり、「ある幻想」という副題が付けられていた[1]。その後1845年の『ブロードウェイ・ジャーナル』7月号に改訂版が掲載されており、このときにタイトルの「Mask」が「Masque」に変更され、「仮面舞踏会」が強調される形となった[2]。作品の下敷きの一つは、主人公と同名の魔術師プロスペローが登場するシェイクスピアの仮面劇『テンペスト』であり、この作品には「赤い疫病」への言及もある[3]。


この記述に驚く前に、ますはあきれておこう――シェイクスピアの『テンペスト』は仮面劇ではない。仮面劇の要素というか趣向を取り入れているが、また拡大解釈すれば仮面劇といえなくもないが、仮面劇では絶対にない(そもそも誰も仮面をつけない)。またシェイクスピアの時代、宮廷で流行ったMasqueというのは、歌と踊りをともなったり、あるいは無言劇であったりする、仮装劇、コスプレ劇であって、仮面は扮装の一部であって必須のものではなかった。

また『テンペスト』における「赤い疫病」は‘Red Plague’のことで、キャリバンがプロスペロに投げかける呪いの言葉のなかにある。シェイクスピアの作品群には、Plagueというのろいの言葉を発する人物は数多く登場するが、また、あまりに常套化しているので、これまであまり気にもとめなかったのだが、これはいま考えてみれば、「お前などコロナウィルスに感染して死んでしまえ」という呪いの言葉であって、その強烈さがはじめて実感できたことを、ここに付け加えておかねばならない。

で、「赤死病の仮面」は、最初、「赤死病のマスク」だったのだ。このマスク、仮面の意味にもなるが、同時に、トランプ大統領が嫌いな、感染予防・医療用の「マスク」と綴り字は同じ。そう「赤死病の仮面」は、「新型コロナウィルスのマスク」という含意をもっているのであり、コロナウィルスを軽視して、多くの犠牲者を出していながら、夜ごと宴会を繰り広げているホワイトハウスに、コロナウィルスが侵入し、ホワイトハウスでクラスターが発生し大統領も犠牲になる。それはコロナウィルスの復讐ともいえるし、またマスクを無用論を展開していたトランプ大統領に対するマスクの復讐ともいえるものとなっている。

ポウの作品は、みごとに、いまの状況を予言していたことが、ついに2020年10月2日に判明したのである。

posted by ohashi at 15:57| コメント | 更新情報をチェックする

大統領感染

いやあ、トランプ政治のこれは最大のヒットではないだろうか。なんともドラマティックな展開である。トランプ大統領が新型コロナウィルスに感染するとは。

ある意味、新型コロナ感染を軽視し、世界で最多の感染者と犠牲者を出している合衆国の大統領が、ブラジルの大統領と同様に,感染するのではないかというは、予想されることではあっても、神様がいれば天罰が下るだろうが、この世に、神も仏もないと思うので、よもやそのようなことがあるとは思っていなかったことも事実である。

これは神様がいたのではないかということは、さておき、こんなことは物語のなかでしか起こらないと思っていたので驚きは大きい。物語は現実をそのままではなく、ある程度、美化したり、ときには過度に醜悪化したりして、現実そのままではなく、一定の理念に基づいて加工された世界を提示するものだと思われるのだが、ただ、そうした場合にも、根底にあるのは現実の姿であり、物語は現実あるいは自然を模倣する。

物語の場合なら、新型コロナ感染を軽視し、対策をとらないような為政者に警鐘をならすために、コロナを軽視した架空の大統領がコロナに感染するという事件を創造するかもしれない。まさか、ほんとうに/現実に、大統領が感染するとは……。はっきりいって私は拍手喝采した。ざまあみろと。

これこそオスカー・ワイルドが述べたように、現実が物語(虚構/芸術)を模倣したかのような事態の展開となった――正確には自然が芸術を模倣すると述べたのだが。あるいは、ここでは政治的正義Political Justiceではなく、詩的正義Poetic Justiceが勝利したということもできる。

【ちなみに、トランプ大統領、最側近の女性が感染したとき、彼女はマスクをつけていたが感染したと、マスクの無効性を強調する発言をしていたが(実際には、彼女がマスクをしている姿は目撃されていない)、今度は、マスクを無用視していた自分が感染してしまっては、マスク無用論も展開できないというぶざまな結果になった。】

ただし、大喜びしてばかりはいられない。実は、トランプ大統領の感染はフェイクであり、これでテレビ討論会で醜態をさらさずにすむといったことを、トランプ支持者が述べたらしいのだが、おそらくその通りであろう。なにもフェイクである必要もない。真実であっても、これでトランプ大統領は、討論会に臨まなくてよくなる。テレビ討論会をみれば、トランプ支持者という精神異常者以外のまともなアメリカ人なら、トランプの無法ぶりにはあきれかえるだろうし、これ以上、醜態をさらさないためにもテレビ討論会はやめたほうがいい。

そして日本の選挙戦略でいれば(世界共通かどうかわからないが)、こうして病に倒れたことで、逆に、同情票が生まれる。たぶん、これでトランプ大統領の再選は、確定したと思われる。たとえトランプ大統領の容態が重症化して死亡したとしとしても、それでもトランプは大統領に選出されることはまちがない。トランプ死すとも、トランプ死せず。

posted by ohashi at 07:57| コメント | 更新情報をチェックする

2020年10月02日

自殺報道

最近は有名な芸能人の自殺が相次いでいる観があって、その報道については常々疑問をいただいている。

もちろんWHOの自殺報道ガイドラインというのがあって、伝えすぎたり、センセーショナルな報道をつつしむようになっていて、しかも、後追い自殺などをふせぐために、報道は、必ず相談先を明示するように指示されているらしい。

そのことについて批判はないのだが、同時に、そうした報道姿勢のほかに、自殺の真相を追及するような姿勢も加えるくべきだと思う。そうしないと、自殺は減ることがないし、自殺について誤ったイメージを定着させるだけである。

WHOの自殺報道ガイドラインで推奨されているのが、相談先を明示することである。たとえば「こころの健康相談統一ダイヤル」が電話番号とともに、有名俳優の自殺報道のあとに、付け加えられる。とはいえ厚労省のこのダイヤルのタイトルがひどすぎる。自殺する人間は「こころが不健康なのか」。他の自治体の相談ダイヤルは「よりそいホットライン」「いのちの電話」「こころといのちのホットライン」など、「健康」裏を返すと「不健康」を暗示する言葉は使っていない。「こころの健康相談統一ダイヤル」をでかでかとテレビ画面にうつす報道がガイドラインを遵守していて褒められるというのは、なんとういう不健康なことだろう。

くりかえすが相談先を明示して、後追い自殺のようなことを防ぐことには意義がある(ちなみに「後追い自殺」という言葉自体、報道で使うこともよくないらしい。そこまで報道規制していいものかどうかは疑問の余地がある)。

しかし、それがすべてではない。なぜなら自殺する人間は、たんに世をはかなんで死ぬというだけのことではないからだ。それを気質上のだけの問題とすることには意義がある。

そもそもどのような自殺も、他殺である。これは警察の発表を疑えということではまったくない。たとえ誰がどうみても自分で自分を傷つけ死に追いやったことが明白であっても、自殺には原因があって、他者によって追い詰められた、あるいは引き起こされた可能性があるからだ。そのとき自殺へと追いやった他者の責任が問われないならば、自殺者は最終的に減ることはない。

もちろん自殺者を追い詰めた他者の範囲は見極めがたく、家族や友人、恋人から借金の取り立て屋、共同体、社会全体、新型コロナウィルス、あるいは宇宙の創造主まで広がる可能性がある。そして漠然とした他者となればなるほど、気質的な原因による自殺と区別がつかなくなる。しかも、逆に範囲が狭まる場合には、プライヴァシーの問題がかかわってくるため、原因が特定されても公表がむつかしい。そのため気質的な原因による自殺としてぼかすしかなくなることになる。

だが、そうした措置は自殺者を守るというよりも、生き残った人間を守るためであり、生き残った人間は無垢の人間というよりは、その逆のほうが多い。悪人が世にはばかることを助けることになる。だから、自殺者に敬意を表するためにも(自殺を賛美することではない)、原因となるものを、気質以外の原因となるものを、詳細に示すあるいは暴露しなくとも、示唆くらいはすべきである。

さらにいえば自殺者は、世をはかなんで死ぬだけではない。たとえば何かを守るために自らを犠牲にすることはある。自分の名誉とか名声というだけでなく、家族を友人を、悪徳政治家を組織を守るために、さらには社会を宇宙を守るために自らを犠牲に差し出すことはよくある。これは自殺を美化することではなく、たとえまちがった目的であっても、自己犠牲という人間に可能な行為の尊厳を認めるべきだということである。この可能性に向き合わないと、悪徳政治家が、全体主義国家が、国民に、この自己犠牲というものを美徳として実践させようとするとき、それに対する抵抗力がつかなくなる。

たとえば自己犠牲によって悪徳政治家の政治生命を守った者がいたとしよう。そのとき悪徳政治家の責任と罪を追及するのではなく、「ここの健康相談統一ダイヤル」はこれですと報道することも、時として起こっているのである。

さらにいえば、自殺はメッセージである。自爆テロで死ぬ若者は、気質的なもので世をはかなんで死んだわけではないだろう。たとえテロリストに洗脳されたとはいえ、そこには怒りと抗議が、思想的理由もあるはずである。またヴェトナム戦争の時代に、戦争に抗議して僧侶が焼身自殺を遂げこともあった。そんなとき、僧侶の焼身自殺を報道するニュースが、「こころの健康相談統一ダイヤル」はこれですと伝えたら、なんたる不条理な茶番だろうか。

もちろん現在の自殺報道は、またWHOの自殺報道ガイドラインは、戦争に反対して焼身自殺する仏教徒に関する報道において「こころの健康相談統一ダイヤル」はこれです伝えるような愚はおかしてはいないだろう。しかし、それと同じ愚を、このままでは犯しかねないのではないか。そしてそれが自殺の真実を捻じ曲げることになりはしないかと、それを真剣に危惧するのである。
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2020年10月01日

回復期

新型コロナ禍についての対処法について、せっかく雨宿りをしていても、風雨の勢いを見誤って、雨が止んだと思って歩き始めたら、大雨に見舞われることになったという、バッド・タイミングこそ、ひとつの発見のための比喩ではないかと、すでに考えた。

しかし東京都の感染者数は減るどころが、徐々にふえてきているのに、10月1日から、東京都もGo Toキャンペーンの対象に含めるという矛盾にみちた施策について、べつの比喩が思い浮かぶことになった。

私は、親兄弟姉妹のなかで、ひとりだけ病院に入院したことのない、病弱だが大病をしたことのない人間だったが、残念ながら21世紀になってから2回、入院し、手術をすることになって、この分では家族(すでに両親は死んでいるが)のなかで最多入院回数を誇ることになりそうなのだ。

それはともかく手術後は、ただ安静にして回復を待つということではなく、積極的に動き回り、回復を早めて早期退院をうながすような体制になっていることが、二度の手術体験でわかった。

たとえば男性患者の病室は東病棟にあり、女性患者の病室は西病棟にあるとすると、トイレの位置は逆になっていて、男性用トイレは西病棟、女性用トイレは東病棟という配置になる。つまりもし私(男性)がトイレに行こうと思えば、自分のいる西病棟ではなく、隣の東病棟まで、点滴を吊した器具を押して行かねばならないのである。

おそらくそれは手術の傷口が開くことよりも、臓器の癒着とか、体力や筋力の衰えを防ぐために運動をしたほうが回復が早まるという考えのことだろう。

同じことはコロナ禍についてもいえて、新型コロナウィルス感染が完全に終息してから、経済活動を活発化するというのでは、もはや手遅れで、経済回復は当分望めないかもしれない。それよりも感染が下火になりつつある段階で、早々に経済活動を活発化して経済の停滞を防ぎ回復を早めるという考えかたいまや支配的である。

もちろん、この場合、バッドタイミングでダメージを広げるという可能性もある。

そうなのだ。実際、私が子どもの頃、病気に関して、親からあるいは周囲からいわれたことは、病気がすこしよくなった、回復期に入ったらといって、すぐに健康のときと同じように動き回ったりしたら、病気がぶり返して、治る病気も治らなくなるということだった――大人は、こういうことはわかっているのだろうが、子どもは、すぐに動きたがるものだから。

同じく、病気がすこしよくなって食欲も戻ったからといって、食べ過ぎたりしたら、これもまた病気がぶりかえす原因になる。回復期は、慎重を期して、どこまでもがまんして安静にしておかねばならないし、そのほうが回復も早いということになる。さもないと少しよくなったからといって平常時と同様に動いたら、病気がぶり返し、無限ループ状態となり、いつまでもたっても病気はなおらない。

これが私の子どもの頃の教えであったが、いまのコロナ対策は、感染が少し下火になったからといってコロナ禍以前の経済活動に戻そうとして、逆に感染がぶりかえしてダメージをくらうような、そんな子どもじみた愚行を繰り返しているように思えてならない。

なにしろ観光業界の代弁者である二階堂と管のふたりは、GoToによって感染が拡がっても、およそ責任などとりそうもないからであって、そのいっぽうで犠牲になるのは、私のような高齢者だからである。まあ、神様がほんとうにいたら、そして感染の終息が遅れたら、この2人に天罰が下ることはまちがいないだろうが、残念ながら、この世に、神も仏もないと私はあきらめている。
posted by ohashi at 22:03| コメント | 更新情報をチェックする