2020年09月19日

雨宿り2

先に、雨宿りの場合、雨が完全に止んでから出歩くのはいいとしても、傘をもっていても、豪雨で雨宿りをしている場合、小降りになった、雨がやみそうだというときには、傘をさして歩きだす。ただタイミングがいつもむつかしくて、すぐに豪雨がもどってきて、傘をさしていてもずぶぬれになったり、あるいは様子をみすぎていうるちに、再び豪雨となって出かけるタイミングを逸したりすることを書いた。

政権のすることは、どうしてこうタイミングが悪いのか、あきれる。あるいは、意図的なのだろう。

デジタル庁をつくるとかうちあげて、スマホの使用料が安くなりそうだという期待をいだかせているのが、むしろその目的は、マイナンバーによる国民支配であろう――国民を支配して何が面白いのか、つまりそれは国民選別だろう。国民のことなど考えていない国家統制主義者、ファシストの統制思想なのかもしれない。

折しも、運悪く、ドコモ口座による被害があきらなかになった。ドコモ口座をもっていない人間も被害にあうのだから、たまったものではない。そしてこれがマイナンバーと個人の口座とがむすびつけられたら、給付金などは早くもらえるかわりに(実際、これが今回のコロナ騒ぎで、まったくの幻想であったことは、正直いって驚いたが【私はマイナンバーカードを作っていないのだが、マイナンバーカードで手続きをおこなったほうが、能率的に処理ができるのに申し訳ないと常々思っていたのだが――昨年まで――、今回、マイナンバーカードで申請すると迷惑がられたというのだからほんとうに驚いた】)、詐欺にあって一瞬にして預金口座を失う可能性がでてきた。

というか、その危険性は、今後も、消えることがないことが、ドコモ口座詐欺によって明確になった。

しかも、デジタル化社会とは関係ないかもしれないが、ジャパンライフ詐欺からもわかるように、詐欺の元締めが、安倍元首相とお友達であることからも、詐欺師に甘い政権というか、政権と詐欺師は、実は同じであることが、判明しつつある。国民はいいカモなのである。つぎはマイナンバーカードである。

デジタル庁はジャパニーズライフ詐欺の元締めとなるだろう。

よりにもよって、豪雨がまた激しくなってきたときに、ずぶぬれになりに行く、いや正確にいえば、国民をずぶぬれにしてもいいと思っているのだろう。ハメルンの笛吹きには瞞されないぞ――自信はないけれども。

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2020年09月18日

実名を出してのディスりは

実名を出してのディスリは名誉毀損

いろいろと筆禍事件を起こしてきた私が、こんなことを書くのもなんだが、深夜のテレビで実名を出してディスるのが許されるのかと唖然としてことをひとつ。

テレビ東京の番組「じっくり聞いタロウ~スター近況(秘)報告~」(毎週、木曜深夜0時12分~【正確には金曜0時12分~】の9月17日木曜深夜【正確には9月18日金曜日0時代】のゲストのひとりは、女性芸人(それ以外にも活動しているが)の たかまつなな。

「今日NHKを辞めてきました」お嬢様芸人からNHKに就職したたかまつななの現在は?

と題して話を聞くコーナーがあったのだが、そのなかで、ある大学を実名でディスる話をしていて、恐くなった。

まあ、そういうような特定の大学を馬鹿にして悪口をいうようなことは、日常生活から居酒屋談義にいたるまで、よくあるとしても、公共の電波で、実名を挙げて話したら、それは明らかに名誉毀損であり、完全にコンプライアンス違反ではないだろうか。

実際、その大学には、在校生もいるし、卒業生もいるし、その保護者もいるのだから、彼らからクレームがきたらどうするのだろう。もちろん、大学当局は、この明確な名誉毀損に対して抗議すべきであろう。

たとえ在校生として、あるいは卒業生としての【たかまつななは、そのいずれでもない】、謙遜、あるいは自虐的な悪口だとしても、クレームがついておかしくないレベルのひどい悪口だし、質の悪さからして、ネット上の悪質な書き込みとかわらない。

そして実名を出したことに対して、MCたちは、全部が全部そうではないでしょうとか、人それぞれ感じ方は違うでしょうとか、あるいは、にもかかわらず人気の学校ですとか、いろいろ、この暴言を緩和するようなフォローがあればまだしも、放送された内容から判断するかぎりに、なんのフォローもない。まあ誰も観てない深夜の番組だから、無法状態なのかもしれないが。

もともとアウトスポークンの芸風とはいえ、また批判やパロディは抑圧してはならないとはいえ、繰り返すが、大学の実名をだしてのディスりは名誉毀損であることを自覚すべきである。

反省がないかぎり、一刻早く、芸能界を去って欲しいものである、この**芸人には。
posted by ohashi at 22:49| コメント | 更新情報をチェックする

2020年09月12日

オンデマンド出版

ジャック・ラカンのセミネール『精神分析の倫理』の翻訳を購入しようと思った。『アンティゴネー』の話が出てくるセミネール。しかし岩波書店の本は絶版か品切れ状態なので、古書で買うと高額の値段がついている。とはいえ、ありがたいことに岩波書店ではオンデマンドブックスとして販売してくれていることがわかった。

紙の本が品切れになることはよくおこる。増刷するまでもないときに、そのまま消えてしまうことがあり、需要があれば高額の古書となる。そうでなければオンデマンド出版、あるいは電子書籍という道がある。

それはともかくラカンのセミネール『精神分析の倫理』のオンデマンドブックス、絶版だった。品切れというのか、取り扱っていない。

紙の本が品切れになったり絶版になることはわかるが、電子書籍ではないオンデマンドブックスも絶版になるとは!

素人考えでは、オンデマンドブックスとは、注文のたびに、一部だけ刷って製本するのだから、絶版にはならないと思っていたのだが、というか、オンデマンドブックスの場合、品切れとか絶版の判断を何をもってするのだろうか。

ラカンのセミナーは『精神分析の四基本概念』が岩波文庫で刊行されはじめたので、いずれ、『精神分析の倫理』も岩波文庫に入るのかもしれず、そのため、高額のオンデマンドブックスを売っていながら、廉価な文庫版も平行して売るというのは、文句がでるかもしれないということで、絶版にしたのかもしれないが。

オンデマンドブックスが絶版になることは知らなかったので、ショックではある。繰り返す、オンデマンドブックスの場合、品切れとか絶版の判断は何をもってするのだろうか。

posted by ohashi at 14:18| コメント | 更新情報をチェックする

2020年09月10日

雨宿り

最近はそういう機会がないのだが、以前は、職場から帰るとき自宅のある駅の改札口を出ると大雨になっていることがあって、そんなとき、たとえ傘はもっていても、ゲリラ豪雨のようなので、収まるまで駅構内で待つことが何度もあった。

ゲリラ豪雨というか、あるいは夕立の場合、待っていれば、おさまるし、晴れるかもしれない。だからあせらずに待つのだが、それでも、普通に歩けば10分以内に自宅なので、駅に足止めされるのはいやだと,焦る気持ちが募ることもある。傘がないわけではない。そんなとき、雨が完全にやんでいるのではないが、小降りになったから、このあたりで、帰ろうという駅をあとにすることがある。

タイミングがむつかしい。

というのも以前、小降りになったからと傘を差して自宅に向かったら、にわかに雨脚が速くなり、傘をさしていながら、びしょ濡れになって帰ったことがある。こんなことなら、あと少し駅で待っていればよかったと後悔した。

あるいは雨が小降りになったから、このあたりで、歩き出そうかと思ったが、雨は断続的に強くなった弱くなったりするので、あせらず雨がやむまで待つことにしたら、雨は、いよいよやみそうになった。もし小雨になった時点で、駅をあとにしたら、今頃帰宅している時間である。と、思ったやさき、雨がまた強く降り始め、どしゃぶりなった。そしてそれから1時間くらい待つことになった。あのとき、小雨になたっとき、家にむかっていたら、そんなにぬれずに、また駅で長時間待つこともなく、帰ることができたのにと後悔した。

タイミングの問題である。

新型コロナ感染も、すこし感染が弱まったかと思われるときがある。そこで思い切って規制をといて通常の営業に可能なかぎり戻るようにつきすすむか、まだ感染拡大の可能性はあるので、もうすこし様子をみるのかというむつかしい判断を迫られるときがある。

だいじょうぶと思って出かけたら雨脚が前よりもつよくなってずぶ濡れになったという事態は避けたいが、用心ししすぎて、必要以上に長く待ち続けることも避けたい。

コロナ禍において、悩ましいことのひとつである。

しかも、私たちは、収まりそうだから、みんなで、でかけようとしているさなか、感染が急速に広がり、危険だから、引き返そうと思っても、政府は、そんな国民の声など聞くことなく、突き進んでいる(だが二階堂とか菅は観光業界の声だけは聞いているのだが)。悲劇と言うべきか地獄と言うべきか。

posted by ohashi at 22:43| コメント | 更新情報をチェックする

2020年09月09日

ホモフォビアの効用

編集される映画、編集する映画 5 追記

先の4回連続の記事については、長すぎる、そもそも最後のヒッチコックの『ロープ』にたどり着く前に、空母プリンストンだの、レイテ沖海戦だのの話が長すぎて、読んでいる側は、そこで撃沈されて先にすすめない。早く『ロープ』まで行って欲しかったというお叱りの言葉をいただいた、というか間接的な批判の言葉だが。

その批判はあたっているが、最初は、映画『第七機動部隊』の話であって、最終段階で、『ロープ』について思いついた。そこで『ロープ』の話で締めくくることになった。落としどころが変わったので、ぎくしゃくした展開になったことはお詫びしなければならない。

あとヒッチコック映画あるいは『ロープ』に限って言えば、それがゲイにフレンドリーかというと、そういうことはない。ヒッチコック映画全体をみても、同性愛は、悪魔化されているのであって、同性愛映画というよりもホモフォビア映画であることは、ことわっておかねばならない。

ただし人種とか民族ヘイトと異なるのは、ホモフォビア(同性愛ヘイト)の場合、それはまぎれもなく差別でありフォビアでありヘイトなのだが、同性愛を認知しているという点で、同性愛を救出しているのである。

つまり歴史から隠されているHidden from History、同性愛の場合、同性愛あるいは同性愛者というのは無視されるか、オープンシークレット状態(カムフラージュ状態)になっているからである。

同性愛問題に対しては、客観的な認知、ヘイトによる認知、ヘイトによる完全無視の三つの対応があるが、ヘイトによる完全無視が圧倒的に多いがゆえに、たとえヘイトによるものであっても認知されることは、貴重な機会なのである。

たとえば英国作家Saki(ペンネーム、本名H.H.Munro 1870-1916)は、短編小説作家として有名だが、日本版ウィキペディアには、あるいは翻訳のあとがきや解説などでは、彼が同性愛者であったこと記載していない。もちろん重要人物の経歴や私生活のなかで、どこを記載するかはむつかしい問題かもしれない。しかし大坂なおみの場合、父親がハイチ系アメリカ人であることは、彼女がみずからを「黒人」としてアイデンティファイする重要な要因となっているために省略はできないのと同じように、サキが同性愛者であることは、その特異で独特な作風の要因かもしれない点で無視できないことである。サキが同性愛者であることは、妻とホットケーキを食べることが好きだという特異な、またどうでもいい、無視しても性向とは違うのである。

英語版Wikipediaにはこうある

Sexuality
Munro was homosexual at a time when in Britain sexual activity between men was a crime. The Cleveland Street scandal (1889), followed by the downfall of Oscar Wilde (1895), meant "that side of [Munro's] life had to be secret".


しかもSakiというのはペルシア語でいう酒酌み少年のことで、トロイの王子からゼウスにオリンポス山に拉致され、そこで酒酌みになった美少年ガニュメデスのペルシア版である。つまりSakiは自分が「うつけ坂49」だとカミングアウトしているのであるが、誰も認知しないという屈辱的仕打ちにあう。その屈辱の最たるものが、日本のクソ翻訳者とクソ出版者と、日本版クソウィキペディアから「同性愛者」ということの無視である。

【ちなみに今はどうなっているのか知らないが、英国ペンギン版の一巻本のサキ全集の表紙に使われていた写真をみるだけでいい。ギャニミードだと思わないほうがどうかしている。私のサキに対するイメージは、この写真で決定づけられた。】

ゲーテの『西東詩集』はゲーテ晩年の詩集で、絵に描いたようなオリエンタリズム全開となっている作品で、のちにマルクスが、インドにおける大英帝国植民地主義についてのエッセイを書いたとき最後に、この『西東詩集』から4行を引用したため、サイードから、インドの植民地問題を考えるのに、なぜ『西東詩集』に頼るのかと批判もされたのだが(この批判については考えるところがあり、いずれ記事にしたい)、とはいえ、サイードは、1999年にユダヤ系指揮者ダニエル・バレンボイムと設立したオーケストラにウェスト=イースタン・ディヴァン管弦楽団(West-Eastern Divan Orchestra)と命名するが、これは『西東詩集』(West-östlicher Divan)からとったもの【Divanというのはなぜ「詩集」なのかは、辞書で調べてください】。

この『西東詩集』には「酌童」書があり、「酌童」はサキ(Sake)と呼ばれている。そしてこの「酌童」との、同性愛・少年愛をうかがわせる詩篇もある(すべてではないが)。作家サキのペンネームはオマルカイヤームの『ルバイヤート』からとられているといわれているが、またサキがゲーテの『西東詩集』を読んだか知っていたかとは関係なく、「サキ」という語は、19世紀以降、ヨーロッパでは、ペルシアや「酌童」や少年愛/同性愛のイメージとともにあったことはまちがいない――たとえ知る人ぞ知るということであっても。

同性愛者であることを知らせると、恥ずかしい、破廉恥、不道徳、タブーに触れることになるのだろうか。同性愛者が書いた文学を翻訳するのは同性愛者でなくてはいけないという法則はない。また同性愛は嫌いだという人がいてもおかしくない。ただ、同性愛が嫌いだとか、同性愛者と誤解されるのはいやだとう思う者は、絶対に同性愛者が書いたものを翻訳すべきではないだろう。同性愛者にあこがれるのはいいが、同性愛者を軽蔑したり、恥ずかしいと思っている者は、絶対にサキの作品は翻訳すべきではない。
posted by ohashi at 20:11| エッセイ | 更新情報をチェックする

2020年09月07日

アメリカ軍の台風予報

9月7日、台風10号は九州には上陸しなかったものの、その強風が各地に爪跡を残して、たとえば街路樹などがなぎ倒されているさまは、それこそ、私が子供の頃に経験した、伊勢湾台風通過後の市街風景を彷彿とさせるものがあった……

と妹にメールを送ったら、待て、その前に、台風の特別警報はどうして途中で消えたのか、また九州地方に上陸するはずではなかったのか、振り返ってそこを考えてほしいとつっこまれた。

台風の特別警報は、暴風、高潮、波浪の3つの現象について、数十年に一度しかないような大型台風、中心気圧が930ヘクトパスカル以下、または、最大風速が50メートル以上に達すると予想される台風が接近されるときに出されるという。

9月2日段階の予想では、台風10号は6日日曜日には中心気圧が930ヘクトパスカル、中心付近の最大風速が50メートル、最大瞬間風速は80メートルとなり特別警報級のものになるということだった。ただ、特別警報は消えた。

9月7日の朝のニュースでは、九州各地の台風被害の生々しい映像を放送していたが、強風であったようだが、前もって住民の避難が完了していたこともあって、被害は軽微なもののようだった。

台風が来る前には、伊勢湾台風級だとか、2018年の関空が水没したときの台風被害の映像がたくさん流されていたが、妹がいうには、昨年、大型台風が関東地方にやってきたことを思い出せ、と。

たしかに、昨年の台風は、超大型と言われて、風で物が飛ばないように、バルコニーにあるもの全部、屋内にしまって、恐怖の一夜を過ごすはずだった……。だが台風は、東京に来てから消えた。消えた? そう、いよいよ強風域に入るかと思った矢先、消えた。

あれを思い出せという。伊勢湾台風級だの、特別警戒だのと騒いでおいて、一夜明けたら、豪雨による水害などとはくらべものにならない穏やかな景色が広がっている。風の被害が目見えるところだけを必死に探して報道しているようにみえる。

気象庁の台風予報などあてにならないという。アメリカ軍の台風予報のほうが正確だと。昨年の幻の大型台風も、今回の台風10号も、アメリカ軍の予報のほうが正確で的確だった……。

恥ずかしながら、アメリカ軍の天気予報・台風予報があることをこれまで知らなかった。いまでは、衛星放送とかネット上で、まあスマホで簡単に知ることができる。昨年の幻の台風も、台風10号も、たしかめたわけでないが、アメリカ軍の予報のほうが最大風速は下回っていたらしい。昨年の幻の大型台風は、アメリカ軍は的確に把握していて、そもそも大型でもなかったらしい。

気象庁の予報などあてになるか、アメリカ軍の台風予報を信じたほうがいいという、妹からのメールだった。

まあ、実際の規模よりも、少なく見積もって、それで大きな被害になるよりは、大きく見積もって、結局、なんでもなかったというほうが、人間の安全保障という面では、正しいことだと思うので、気象庁も、その方針だとしたら責められるどころが、褒められるべきだろう。

ただ日本の気象予報は、自由化されて気象庁以外でも天気予報を行うことができるといっても、テレビとか報道関係では、昔の共産圏のニュースと同じで、天気予報は完全に統制されていて(テレビ各局、どこも同じ天気予報である)、気象予報士とは名ばかりで、気象庁の予報にけちをつけることは許されず、ただ、解説をするだけになっている。

そのため現政権のポストトゥルース戦略と同じで、気象庁は、まちがうことがないことを、ひたすら強調して、虚偽と欺瞞を蔓延させることになっているのが怖い。

私の嫌いなテレビ・コメンテイターの男性は、医師としての立場から、今回の台風は、コロナ感染を怖がるよりも、まず避難してくださいと呼びかけていた。私は、こういうやつらを通販番組芸人的コメンテイターと呼んでいる(人の命を守る医師として多少大げさでも万全の安全策を呼び掛けたというのなら、このくそ報道通販番組コメンテイターは、コロナ感染は収束していて安全圏に入ってGoToトラベルも推奨できるとほざいているのだ、まったく許しがたい!)。

そしてテレビ局は9月7日の朝、台風が去ったあと倒壊寸前の民家を映し出していたが、数年前から無人の民家で、台風がきたら壊れるという心配があって、建物全体にネットをかけていたが、今回の台風で倒れる寸前まで傾いたという。たしかに大きく傾いて、倒れておかしくないボロ屋だったが、周囲の民家をみると、どこも被害を受けていない。

気象庁が特別警報を出したので、それを撤回したあとも、また台風が大きな被害を出さずに通り過ぎた後も、最初の気象庁の発表にあわせるように、報道機関が後追いをする。大型大風であったかのようなふりをする――現政権を見習ったような、公文書偽造、事実の捏造という茶番はやめてほしい。
posted by ohashi at 14:56| コメント | 更新情報をチェックする

2020年09月05日

台風

いま経験したことのない大きな台風10号が、沖縄から九州地方に接近中だが、その大きさは1959年の伊勢湾台風に匹敵するか、優にそれ以上だという紹介がテレビでなされていた。

当時、日本を大きく震撼させ、また大きな傷跡を残した伊勢湾台風は、私にとっても思い出の台風であり、その恐ろしさはいまも記憶に残っている。

私の母は山口県防府市(海岸沿いの中浦漁港の近くで、母の実家は農家)だった。以前、広島大学で集中講義を担当したとき、たまたま院生に、私の母は山口県防府市の出身だという話をすることがあったのだが、それを聞いた院生は、ああ、コンクリートで有名なところですねという答えを返してきた。それは山口県宇部市のことじゃん。まあ、誰もが隣県だからといって、その県について詳しいわけではない。むしろ詳しくないことのほうが多いだろう。

また以前、福岡市に行ったとき、福岡のテレビでは、山口県の天気予報も伝えていた。え、それって関東の天気予報に、福島県とか新潟県あるいは長野県の天気予報を加えるようなものでしょう。どうして山口県の天気予報を、福岡でもしているのかと不思議に思ったが、まあ、存在感がないというか、山口県、完全に福岡、あるいは九州の一部と思われているのではないだろうか。

【山口県防府市は、高樹のぶ子の自伝的小説『マイマイ新子』を原作とする長編アニメ映画『マイマイ新子と千年の魔法』(2009年)の舞台。ただし防府市の北部が中心の物語で、母が生まれた南部(現在、航空自衛隊の基地がある地域)ではない。『マイマイ新子と千年の魔法』の監督は片渕須直、いうまでもなく『この世界の片隅に』(2016年)の監督だが、『この世界の片隅に』は広島の呉が舞台だが、瀬戸内海の海沿い町や集落は、母の実家のある中浦港周辺を髣髴とさせるものがあった。】

それはともかく、母は、サラリーマンの夫と結婚して名古屋市で暮らすことになるとわかった瞬間、名古屋という大都会での生活を思うと、知らず知らずのうちに笑みがこぼれるのを自分でも強く感じたと言っていた。だが、その笑みも、実際に名古屋での生活がはじまると、凍りつくしかなかった。なぜなら、結婚当初、暮らしていた名古屋市南区の一角は、名古屋市の郊外ではなく、名古屋市中でありながら、見渡す限り、360度、田んぼが広がっていた。名古屋市でありながら、山口県の瀬戸内の中浦漁港近辺,、この世界の小さな片隅よりも、もっと田舎だとは、なんとう運命のいたずらか。田舎から都会にやってきたはずが、田舎からもっと田舎に移住することになるとは。

結婚初日から、母の目標は、一日も早く、引っ越すことだった。借家住まいであったこともある。子供が生まれてからは、その思いは、いっそう強くなり、子供(私のことだが)が小学校入学前に、持ち家を購入し南区から昭和区にひっこすことができた。

いまなら、結婚して5年以内に一戸建ての持ち家を購入するのは(ローンを組むとはいえ)、かなりむつかしい。まあ私の父親に貯金があったのかもしれないが、母によれば、貯金などなく、結婚前は、給料は全額、その月に使い果たしているということだった。したがって母が必死の思いで貯金をしたことと、当時は、土地とか家屋が安かったということもあったのだろう、私が小学校に入学する前に、引っ越すことになった。

昔話と伊勢湾台風がどういう関係にあるのかと不思議に思われるかもしれないが、実は、私の家族が引っ越してから数年後、伊勢湾台風がやってきた。そして引っ越す前に私たちが暮らしていた名古屋市の南区の一角は、伊勢湾台風でほぼ全滅したのである。

以前、何の用件だったが忘れたが、以前暮らしていた名古屋市南区の近くに母といっしょに行くことがあったので、せっかくだから、あるいは面白そうだから、子供のころ暮らしていた家が残っているかどうかみにいくことにした。JRの線路、小さな神社、かかりつけの医師の家など、限られた場所を手掛かりに(私はあまり覚えていなかったが、母は当然、よく覚えていたので)、住んでいた家を探したが、近くに流れていた小川は、あとかたもなく、どこに住んでいたか正確につきとめることもできなくなっていた。

推測で、私が子供のころ暮らしていたのは、いまでは小学校の校庭の一角らしいということがわかった。もちろん周囲の風景もまったく様変わりしていたのだが、それは時とともに変化したというよりも、伊勢湾台風による浸水被害によって地形がかわったのである。

もし引っ越さずにその地で暮らしていたら、水害で、住む家を失っていたばかりではなく、命をも失っていた可能性が高く(おまえなんか台風で死ねばよかったという声も聞こえるのだが、それは無視することにして)、多くの犠牲者たちに対して、私は親近感をいまもおぼえている。私と同年代の子供たちが多く犠牲になったこともあり、別に悪いことをしたわけではないが、私だけが助かったというほど大げさなものでもないのだが、しかし罪の意識のようなものをどうしても感じるのである。

ちなみに引っ越し先で迎えた伊勢湾台風は、水害こそないものの、それは恐ろしいものであった。というのも、当時は、雨戸のある家に暮らしていたのだが、雨戸を閉めていても、風が吹き込んできて、ガラス戸が、たわむのである。

ガラスがたわむ? そう、夜、家のなかは電気をつけていて、閉めた雨戸のこちら側のガラス戸を、室内からみていると、鏡効果でガラス戸にうつる電球とか人の姿がゆがむのである。ガラスがたわんでいるのだ。

私は、このことを鮮明に覚えているが、しかし、ガラスがたわむというのは信じられないので、夢でもみているのか、偽りの記憶だろうと思っていたが、実際に、ガラスがたわむことはありうるということを知って、夢ではなかったとあらためて思い知ったのである。

たしかにその時両親から、ガラスに手を触れたら割れるから、絶対に手を触れずに、窓枠だけを押さえるようにといわれたことを覚えている。そしてもし雨戸が吹きとばされ、窓が割られたら、すぐに反対側の窓なり戸口を開け放って、風の通り道をつくらないと、入ってきた風が、家のなかで閉じ込められ暴れて、屋根が吹き飛ばされるとか、家具などがめちゃくちゃになるからと言われた。そして風の通り道を考えると、もし南側のガラス戸が壊れたら、北の玄関のドアを開け放つということを確認したことまで覚えている。幸い、そこまでのことにはならなかったのだが。

【窓ガラスは、しなったり、たわんだりすることは、事実としてある。強い台風を経験したことのある地域では、これはよくあることのようだ。私自身は、子供のころ、経験しただけで、いまにいたるまで、ガラスのたわみは経験していない。ただし、今後どうなるかはわからないが。ガラスのたわみやしなりは、確かに、みていて、いまにも割れそうでこわいのだが、窓ガラスは、風圧では割れなくて、何か物が飛んできてぶつかって割れるとのこと。】

幸い窓ガラスがしなるような大きな台風は、伊勢湾台風以外には一度か二度くらい経験しように記憶しているが、すべて子供のころの話で、それ以後、今日に至るまで。そこまでの強風は経験していない。

ちなみに伊勢湾台風が去った翌朝、父親といっしょに近所を散歩して被害をみてまわった。家屋が壊れたりしているところはないので、人の不幸をみて喜ぶというような気持ちはまったくなく、ただ電柱でも倒れていないかと散歩がてらみてまわったにすぎない。台風一過の空は晴れ渡り、空気も澄みきって快適だったことも散歩に出かけた理由のひとつだった。そして、当時は、まだ市街電車が走っていた大通りに出て驚いた。銀杏の街路樹が、目につくかぎりなぎ倒されていたのである。太い幹が折れた街路樹の前に、父親といっしょにしばしたたずんでいたことを記憶している。

その後の人生で、こうした大きな台風を経験することがなくて、正直いってほっとしていた。台風が来るとしても、そんなに怖いとも思わなくなった。気候が変動していることはわかったが、むしろ気候変動によって台風は大型化しないようになったのかと、勝手に思い込んでいた。

完全な勝手な思い込みで、むしろ、気候変動によって、台風は大型化しているのが、近年の傾向である。台風の悪夢は子供のころに終わりを告げたと思っていたが、いままた、子供のころの悪夢が蘇ってくる。不運は一度目はやりすごせても、二度目はないだろうとしたら、なんとも皮肉な人生である。
posted by ohashi at 23:07| エッセイ | 更新情報をチェックする

2020年09月04日

編集される映画、編集する映画 4

映画芸術のもつ外延extensionのひとつが同性愛であることは、映画界あるいは演劇界において同性愛者が多いこと、むしろ同性愛者が映画や演劇のパフォーマンス芸術の創造者であり牽引者であること、そして映画や演劇において異性愛体制においてはみられないジェンダー境界の横断やジェンダーの撹乱は、伝統と化していることとあいまって、周知の事実である。

同性愛問題を嫌う者が映画のファンだけにはなってほしくない。同性愛問題を積極的に語らなくともいいが、語ることを嫌う批評家や研究者は映画に触れるべきではないだろう。

映画と同じく、海軍というのも、いまでこそ女性を乗組員としてふつうに乗艦させ、女性艦長もいるくらいだから、同性愛のイメージはないかもしれないが、昔は、男しかいない洋上の閉じられた世界は同性愛的要素を濃厚に漂わせていた。映画『フィラデルフィア』で主役のトム・ハンクスが映画のなかでゲイのパートーナーであるアントニオ・バンデラスと、仮装パーティーの席上で、海軍士官のコスプレをしていたのを思い出す。

もちろん、つねに、すでにそうだということはないが、海軍といえばゲイであり、映画といえばゲイであって、どちらにとっても、ゲイ的要素はサイレント・パートナーのようなものである。

しかし、だからとってヒッチコックの『ロープ』の冒頭で共通の知人を殺す二人の男性を同性愛者というのは、映画のなかで、そのような説明はされていないし、仲のいい男二人がいたら同性愛者だというのは、あまりにも乱暴な決めつけであるし、そもそも当時の映画における検閲(国家検閲のような厳密、厳格なものではないとしても)では同性愛をエクスプリシットなかたちでテーマ化することはありえなかった(この点は映画にもなったドキュメンタリー『セルロイド・クローゼット』の原作というか、いや、映画のほうでも全然問題ないが、それを参照のこと)。

『ロープ』では犯人二人が同性愛者なら、同性愛者の悪魔化がおこなわれているのであって、同性愛をプロモートするものではないとしても、いきなり「ふたりの若い同性愛者が」と、あらすじに書かれてしまうような設定はありえなかったはずである。もちろん『ロープ』においても、観客はいきなり若い二人の同性愛者が人を殺したとは思わない。犯人はあくまでも若い二人の男性でしかない。

また最初に示されすぐに隠されるのは同性愛ではなく殺人の事実である。あるいは死体といってもいい。この死体は、チェストという大きな蓋付きの木箱であって、そこに死体がほうりこまれる。そしてパーティーの間、いや映画の最後まで、このチェストはパーティー出席者の目に、そして観客の目にさらされるのである。

ところが犯罪者ふたりのうち、主導権を握る一人は、死体を厳重に秘匿するどころか、死体を白日の下にさらすと比喩的にいえるような大胆な行動に出る。死体の男の親とか婚約者を、そして知人たちをパーティーに招くのである。そしてその死体が露見してもおかしくないような可能性あるいはヒントを自分からばらまくのである。死体を入れたチェストを急遽、料理を置くテーブルがわりにして、そこに燭台までのせる--まるで棺桶のように。招待客たちは、そのチェストの上から料理をとり、チェストのそばで歓談する。それを犯人は面白がっているのである。

この準みせびらかしの犯罪は、たとえばエドガー・アラン・ポウの「盗まれた手紙」におけるD大臣のみせびらかし戦略を思い起こさせる。大臣は、盗んだ手紙を、くしゃくしゃにしてレターケースのなかに入れておいたのである。重要ではない、とるにたらぬ手紙であるかのようにして。そのため警察は、徹底的に大臣の居室を捜索しても盗まれた手紙を見つけられなかった。目の前に堂々と置かれたものが、重要なものだとは誰も思わないからである。

この秘匿方法(正確には秘匿ではなく、さらけだしであるが)は、抑圧とか隠匿ではなく、カムフラージュ戦略である。つまり隠して人目につかないようにするのではなく、前面にさらけだして逆に人目につかないようにする。周囲になじませて、わからなくする。裏ではなく、片隅ではなく、堂々と表に出しても、みつからない、それがカムフラージュである。

抑圧されたものがみつかるか、みつからないか。抑圧されたものが語れるか、語られないかは、ポストコロニアル批評においては、サバルタン(従属民)問題として、ふたつの主張をみることになった。

ひとつはガヤトリ・スピヴァクのサバルタンは絶対に語ることができないテーゼ(スピヴァク著『サバルタンは語ることができるか』参照)。抑圧手段は、政治的、制度的なものだけでなく、文化や言語にもおよび、語ること自体も抑圧者が主導権を握る文化のなかで抑圧者の言語で語ることでしかなく、真実は絶対に明かすことはできないという考え方。

これに対し、ホミ・バーバは、こういう言葉を使っているわけではないが、「サバルタンはいつも、すでに語っている」という主張をする(ホミ・バーバ『文化の場所』所収の論文参照)。サバルタンあるいは不都合な真実は、何重にも蓋をされ鍵をかけられ、気づかれぬ片隅にほこりをかぶって放置されるというのではなく、真実は、抑圧者の目をかいくぐって、私たちの前に出現している、それもつねに、いつも。ただ周囲となじんでしまい、周囲にとけこんでいるために、私たちがよほど目をこらさないと、そこにあることがわからない、そんなカムフラージュとして存在しているという。私たちに必要なのは、何重もの鍵をこじ開けることでもなければ、厚い容器を壊すことでも、暗闇のなかを徹底的に照らして発掘することではなく、目の前にあって、周囲にまぎれているものを見つけ出す細心の洞察力なのである。

カムフラージュ戦略は、さらにいいかえれば、コノテーション問題となる。論理学でいう内包と外延という概念があるが、これと似ているものとして記号学でいう、記号のデノテーションdenotationとコノテーションconnotation概念がある。

「桜」という単語/記号のデノテーションは、〈桜という植物、樹木、そこに咲く花といって、植物学的属性〉のことであり、これは論理学で言う内包に近いのだが、コノテーションというのは、「桜」という単語/記号のもつ、含意、暗黙の意味である、たとえば「春」とか「卒業式」「入学式」「花見」「あでやかさ」「はかなさ」その他、さまざまな文化的意味なりイメージが「桜」という言葉に付随するが、これがコノテーションであり、これは論理学でいう外延という意味に近い。

『ロープ』における犯人たちの劇行為は、犯罪行為を押さえるのではなく、その存在感を確認し、そのひろがりを意図的に仕組む方向に展開する。もしこれが実在の犯人だったら、彼らは実際には無意識のうちに逮捕されたがっている、あるいは、おのが犯罪を世間に知らしめて、自慢しようとしているということすらできるだろう。

『ロープ』における犯人たちの行為のベクトルは、隠匿と開示の両方向をめざし、ある意味、パラドクシカルな性格をもつが、どちらかといえば開示する、開く方向性をもつ。そして犯人たちの犯罪の動機とか理由とか原因とは関係なく(そもそも動機なき殺人なのだが)、その行為の内容ではなく形式そのものが、開かれ、コノテーション的次元を志向しているのである。

では、彼らの行為の、あるいはその形式のコノテーションはなにか。ただしコノテーションといえば理屈上、無限に生ずるはずであって、ひとつの単語のもつコノテーションは、その単語を発する者の制御をすり抜けて無限の意味を生成するかにみえるのだが、理屈上そうであっても、実際には、二次産物として生ずるコノテーションは限られる(この点、外延といったほうがしっくりするかもしれない)。

『ロープ』の場合、あるいはこの時期の映画、それも犯罪映画の場合、そしてもしかすると映画全般において、それは何か?

留意すべきは、検閲の存在である。この検閲があるがゆえに、コノテーションは、反社会的なもの、タブー、といったものとして想起されるのである(逆に、検閲に沿うようなものが想起されることはない。それはすでにコノテーションではないのだから)。

また伝統とか文化といった要因によって、コノテーションは、無限の可能性があっても、ドミナントな少数のものに限られる。検閲があることによって、それがさらに検閲をすりぬけるもの、つまりは反社会的、不道徳なもの、タブーというようなものに限定されるのである。

となると、この『ロープ』における限られたコノテーション、言外の意味、暗黙の意味とは、同性愛ということになる。そしてこのことは内容とは関係なく言えることなのである。

『ロープ』における若い二人の男性が同性愛者かもしれないという想定は、台詞の内容とかステレオタイプ化した同性愛者の挙措とかファッションとか、さらにはニーチェの哲学とかナチスとのつながりとか、そして最終的に同性愛者がもっていたステレオタイプ的な悪魔的イメージなどによって、かなり明確にあぶり出すことができる。

しかし、それとはべつに、この継ぎ目のないリアルタイムの犯罪映画の形式が、また、ことによれば物語・劇映画の映画の形式一般が、同性愛のコノテーションをもつということである。

トリュフォーが、いきなり「若い二人の同性愛者」と内容を紹介したのは、物語内容の本質を伝えたのではない、むしろ映画形式のありようから生まれるしかない、副次的に生産されるしかない、同性愛性を、やや早とちりに、やや普遍的に特定したにすぎない。実際、私たちは、トリュフォーから霊感を得て、犯罪映画、あるいは映画全般が、そうほとんどすべての映画が、二人の同性愛者による事件という同一のコノテーションを有していると語ることができるかもしれないのだ。

『ロープ』において、収納箱に死体があるのではないかとにらんだジェイムズ・スチュアートは、いよいよ収納箱の蓋をあける。その大きな蓋が画面の側に立ち上がって、画面全体が真っ黒になる。おそらくここでフィルム交換。ノーカット・ワンシーンのリアルタイム映画における、ここがじつは切れ目のひとつだと観客にわかる。そして次の瞬間、収納箱のなかを見たジェイムズ・スチュアートは、死体をみたのであろう、愕然として立ち尽くす。

だが、死体そのものは映し出されることはない。そしてジェイムズ・スチュアートの、自身の推理が的中したことの、密かな喜びというようなものは示されずに、彼は、名状しがたい恐怖に打ちひしがれたようにもみえる。カメラは収納箱のなかを覗き込まない。死体が示されることはない。示されないことによって、この見えない死体は、コノテーションを招き寄せる。ジェイムズ・スチュアートは、殺人という犯罪発覚以上のなにかを恐れているように思われる。その口にできない何かとは、何なのだろうか。

おわり

まだおわらないで追記

『ロープ』の最後で、ジェイムズ・スチュアートがチェストのなかの死体を発見し、茫然とすることの理由は、たんに殺人が推理どおり行われていたことの発見だけではないことは、映画を見た者、誰がも抱く思いだろう。

それはスチュアート自身が、これまで何度も学生の前で、あるいは、いままたカクテルパーティーの場で披露した、殺人哲学――ニーチェの超人論に影響を受けた、殺人を肯定する世界観――が、たんに思弁的な思考実験にとどまらず、実践されてしまったことを発見し、立ち直れないくらい衝撃を受けたことによる。いうなればブーメランみたいなもので、自分が日ごろ話していた理論が、あろうことか実践されて、恐るべき犯罪を実現してしまったことの恐怖と、その責任が間接的に、いや、ある意味、殺人の実行犯以上に、自分にかかってくることの罪の重さに、おののいている。それが最後のジェイムズ・スチュアートの反応の由来なのである。犯行を暴いたら、真犯人は実は自分だったというような、オイディプス的結末が映画において生じている。

ただし、これはコノテーションではない。暗示的かもしれないが、物語の流れから当然推測されることであって、コノテーションではない。それは、たとえばパーティー会場を去る時に、ジェイムズ・スチュアートが間違って渡された帽子、つまり自分のものではない帽子に、パーティーに欠席した人物の名前のイニシャルが記されていることを発見し、欠席した人物が実は、パーティ―以前にこの場所に来ていたこと(そして殺されたこと)を推測したようなもので、映画ではイニシャルが示され、それをジェイムズ・スチュアートが認めるだけで、それ以外のことは何も示されていたなくとも、これは確実に理解できることである。

気づけば、ほぼ同じ反応が生まれるのが、物語の論理である。

これに対しコノテーションは、気づかないこともあるし、気づいても、同じ反応が生まれるかどうかわからない、まさに言外の暗黙の意味であって、それがとどくのは、意識(物語の論理が訴えるもの)ではなくて、無意識(社会的・政治的・文化的無意識)である。

posted by ohashi at 23:39| 映画 | 更新情報をチェックする

2020年09月03日

編集される映画、編集する映画 3

編集のもうひとつの面がある。それは、前回の記事で述べた、編集とは軍隊組織におけるチームワーク作り、そして組織の継承ということが、映画製作そのもののメタファーにもなるという面を超えたもうひとつの面が編集にはある。

ヒッチコックの映画『ロープ』(1948)は、ワンカット・ワンシーンのアクロバティックな撮影をおこなった記念的作品である。ヒッチコックは、トリュフォーに、自分は「映画のスタントをした」と語っているのだが、ここでいう「スタント」というのは、「アクロバット、アクロバティク」というような意味だろう。

このワンカット・ワンシーンという映画作りは、リアルタイムで進行するがゆえに、映画というよりも演劇的であって、観客は、映画館で映画をみているというよりも劇場で一幕物の芝居をみている感じがある(実際、『ロープ』の原作は演劇作品であり、そのアダプテーションである)。演劇的映画を嫌う映画ファンも多いが、私は演劇的映画は大歓迎で、映画によって演劇の魅力が倍増することはふつうにおこるからである。

と同時に、このリアルタイム映画、ワンカット・ワンシーンという映画ほど、編集とは無縁のものはないだろう。『ロープ』は80分くらいの映画だが、俳優がとちったりしなければ、ただ80分間カメラをまわしていれば、それですむ。もちろんミスがあれば、最初から撮り直しという危険もあるが、とにかく編集の必要はない。

ただし、ヒッチコックの時代の、80分間、フィルム交換することなく撮影することは不可能で、観客にはわからないかたちで切れ目がある。この映画には、ワンカット・ワンシーン、とはつまりノーカット映画ということだが、技術上の問題で、カットはある。編集作業も行なわれているし、実際、そのほうが、現実的ではあろう。ミスがあっても最初からとりなおさなくてもいい。継ぎ目がわからなければ、部分的に何度も撮り直しができる。実際には通常の映画と同じように撮影して、それが一続きの継ぎ目のない連続体としてみられるような作品になっているということか。まあ、そんなに簡単なものではないとしても、この連続的80分には編集やカットがないというのが大前提である。(10分間しか連続撮影できなかった当時の技術で、80分間連続撮影したかにみせることが最大の挑戦だったのかもしれない)。

ところがこの映画は、カットなき映像、つるんとしたつぎめのない時空間に、切れ目をいれ、隠された真実を暴露しようとする物語を展開させる。

映画ではパーティー会場に、あろうことか死体が隠されている。またその死体の人物の身内なり関係者を、あろうことかパーティーに招いている。そして、その誰が誰を殺したのかということを、80分足らずのあいだ解明・開示してしまう人物があらわれる。絶対にありえないことである。現実問題としてフィルムはカットされ編集されつながれているとしても、観客にはわからないようにされているのだから、つなぎめのない80分の時間のなかで、どうして真実を暴くことができるのか。

せっかく、当時の技術では不可能な80分の時空連続体を創造しえたのに、そこに亀裂を入れて隠された真実を暴露するような物語を展開するというのは、つるっとした表面に切り傷を入れる自傷行為に似たマゾヒスティックな倒錯性がある。

ただし、この物語は倒叙物でもあって、最初に犯人がわかる。あとは犯人と犯罪がどう暴露されるかに興味の焦点がしぼられる、いわゆる〈刑事コロンボ物〉である。ここからいえるのは犯罪は隠蔽されるとはいえ、それは不可視の存在として視界から消されるのではなく、むしろ人目につきながら、周囲に溶け込んでいて、気がつかれないようなカムフラージュの戦略となっている。

実際、死体をいれた棺のような収納箱はパーティー会場に置かれ、料理を置くテーブル代わりとなっている。またすでに述べたように被害者の家族や婚約者などをパーティーに呼び、殺人に気づかない関係者を犯人があざわらうところもあるが、これなどはまさにカムフラージュのアイロニックな効果そのものだろう。極端なことをいえば、目の前に死体があるのに犯行に気づかない関係者――それをあざ笑う犯人。現代の犯罪映画に取り上げられそうな凶悪犯罪者の鼻祖ともいえる人物が、この映画には登場している。

ただ、下手をすると自滅しかねないカムフラージュの戦略に犯人が訴えるのは、絶対に犯罪に気づかれないという自信の証拠でもある。カメラでつくられる継ぎ目のない、つるつるの時空間、リアルタイム映画時間は、ガラスの城のように明るく透明で闇を宿す余地はない。しかし物語における探偵役のほうは、そこにおびただしい「カット」をいれて真実を暴くようにつきすすむ。あたかもシャワーを浴びている女性に斬りかかる殺人鬼のように、監督は、自分でつくったつるんとした肉体を,何度も突き刺すような暴行をおこなっている。この『ロープ』のなかで探偵としての人物(ジェイムズ・スチュアート)あるいは監督(ヒッチコック)その人もまた、残酷な殺人あるかのようだ。

この『ロープ』における二重の挙措が、最小限の新規撮影映像と既存のくず記録映像の編集によってかろうじて成立した『第七機動部隊』と、この『ロープ』とを結びつける。

リアルタイム進行の見かけ上編集なしの、編集のゼロ度の映画と、記録映像の粗雑な恥知らずなら編集によって成立した映画とが、本来は対極にあるはずなのだが、どちらも真実をカムフラージュ的に隠しているという点で、パッチワーク的編集と、編集のあとをみせない編集とが相まみえることになる。

実際には部分撮影の集積と編集作業の成果であるところのリアルタイム映画は、ある意味、継ぎ目と作業痕跡を消し去りたい映画の理想的なありかただろう。それがリアルタイム映画になるというのは副次的なことにすぎない。継ぎ目を消すことが究極の映画のありかただとすれば、そのやや欺瞞的達成が『ロープ』という観念的映画であるとすれば、『第七』のほうは、その映画技術のずさんさと低予算ゆえの限定使用しかできない材料による、つぎはぎだらけのB級映画となっているのだが、まさにその下手さゆえに、映画の縫合という編集的仕掛けを露呈するという、巧まざる異化的映画ということにもなっている。

『第七』が仕掛けを露呈する異化的映画とはいっても、自意識的ではない。パイロットたちの成長過程と訓練の要諦は、映画作りそのものメタファーにもなりうることを、この映画は、とくに告知しているわけでもないし、また編集によって、プリンストンが戦中と戦後では、艦名が同じでも異なる空母であることを、まったく知らん顔をして、ふたつの空母を縫合してしまっているのだから。

いっぽう『ロープ』のほうは継ぎ目を消し去る離れ業をしながらも、そこに真実が隠蔽されること、正確にいえば、秘密など隠れていそうにないところに、カムフラージュ的に真実は隠蔽されることを、つなぎ目をほどくことによって映画は開示しようとしている。つなぎめ消去の妙技を披露しながら、つなぎめ消去の危険性、もっと正確にいえばどのようにつなぎめを消去しても、秘密は宿ることの可能性を自意識的に開示しているのである。

映画編集によって何かが消去されたり排除されたり抑圧されたりする。そのことをつなぎめは、見る者に暗示的に伝えてくれる。編集は、犯罪の証左なのである。そして、つなぎめを消すアクロバティクな、奇跡的な技術は、排除と抑圧の痕跡を消去するものだらか、排除の排除、抑圧の抑圧、編集の編集的消去にほかならない。編集の痕跡としてのつなぎ目や傷跡が残っていれば当然のこととして、また編集の痕跡などなく傷跡も残っていない場合でも、のっぺりしていればいるほど、つるつるであればあるほど、逆に縫合と編集を暗示させるのである。

そしてその縫合と編集は、何のためか。『第七機動部隊』は、空母と空母航空隊のパイロットたちの男たちだけのドラマであり、舞台は、戦域は、海のうえであるとき(そしてヒコーキも稲垣足穂の例からわかるように、暗示性があるのだが)、映画の編集によって隠されているのは、実際の空母航空隊のありようでだけでなく、またプリンストンが一度沈没していることだけでなく、男たちの同性愛的関係であると、なぜ、同性愛と水とのテーマを、なんとかの一つ覚えでつねに語っている私が、ここで出してこないのかといぶかる向きもあるかと思うが、大丈夫です、そのことをこれから語るので。

ヒッチコックは同性愛をテーマとすることが多くて、『見知らぬ乗客』について同性愛の観点から論じた研究書があってもおかしくないし(実際ある)、『レベッカ』について同性愛的観点から私は論じたことがある(この観点はすでに指摘されていて、そこに私の独創性はないのだが)、また『サイコ』の犯人は同性愛者だったし……というわけで、ヒッチコックと同性愛(良い意味でも悪い意味でも)は切り離せないのだが、この『ロープ』もヒッチコックの同性愛映画として語られることが多い。

もちろん『ロープ』における同性愛は、あからさまに語られることはないし、その映像もない。むしろ、この映画をみて、男性ふたりが、ひとりの男の首を絞めるのだが、犯人のふたりはそれでそく同性愛と、どうして言えるのかと疑問をもつ人も多いだろう。

ネットのこの映画に関するコメントでも、『ロープ』について同性愛について触れているものはほとんどない。それはネトウヨのホモフォビアのせいだけではなく、ふつうにこの映画をみて、同性愛性を第一印象で認知してしまう観客はまずいないと思われるからである。

ところがトリュフォーは違っている。この記事の冒頭で、トリュフォーのヒッチコックへのインタヴューについて触れたが、トリュフォーは、そのなかで、一般読者のためにも『ロープ』の概要について述べると、以下のように書いているのだ――

あらゆるアクションは、夏の宵、ニューヨークのマンションのなかで起こる。ふたりの若い同性愛者が、学友のひとりを、ただ殺人のスリルを味わいたいために絞殺し、その死体を…… (翻訳が手元になかったので、私の訳文)

え、あの二人、同性愛者だったのか、そんなこと映画のどこにもでてこなかったのに……

つづく
posted by ohashi at 23:17| 映画 | 更新情報をチェックする

2020年09月02日

編集される映画、編集する映画 2

『第七機動部隊』は、記録映像を使った戦争映画なのだが、ただ、その使い方は、限界があったか制約があったかのいずれかで、一貫性がない場合が多い。

たとえば中心となる空母戦闘機部隊はF4U(ヴォート、コルセア)を使用する部隊であることは最初わかる。ぶかっこうなグラマン系の戦闘機(ワイルドキャット、ヘルキャット)に比べると逆ガル翼のスマートなコルセアは存在感がある、一言でいえばかっこいいのである。

そのコルセア部隊が、空母から攻撃のために発艦するときの映像は、F6F(グラマン、ヘルキャット)の発艦シーンにかわっている。攻撃しているときの映像も、コルセアとヘルキャットが入り交じっているようなところがある。パイロットが負傷して帰還するも着艦失敗し横転したりするシーンもヘルキャットであったりする。あるいは、コルセア部隊の飛行シーンが、急降下爆撃機のヘルダイヴァーとかアヴェンジャーによる攻撃シーンになったりする。まあ、飛行機に詳しくない観客にとっては、どんな飛行機も同じにみえるのだから、残っている記録映像を適当につなぎあわせておけばいいという、そうした安易なというか安上がりの発想でつくられたのではないだろうか。

ことは航空機だけの話ではない。Yahoo映画Japanの映画評サイトに、こんなもののがあった。

shinononome4 さん 2009年6月6日 12時16分 総合評価 ★★★★★
 スターリング・ヘイドン主演の戦争映画。内容はスポ根映画にありがちな、何でこんな厳しい訓練が必要なんだよ→この為だったのか、流石隊長だぜ!ってヒネリも何もありません【これは全く同感で、「この為だったのか」と隊員たちが悟る場面すらどこにもない――引用者注】。

 ふんだんに盛り込まれた資料画像も、航空機の機種が錯綜したり、発艦シーンがインディペンデンス級軽空母だったり、地上へ向けて砲撃している巡洋艦がフィリピン戦に参加していないウースター級軽巡洋艦だったり、フィリピンに上陸している筈が硫黄島にあがろうとしているんだけども

 総天然色で、米軍兵器どっかんどっかん

 これだけで、価値があります。

 流石にゼロ戦や一式陸攻や二式大艇が落とされるカラー映像(あの一式陸攻は確か、野中五郎率いる桜花特攻隊の時のだったと思うのだけれど…… は、ちょっとぐっと来るのだけれど、それはそれ。

 メジャー32,33迷彩を施されたフレッチャー級駆逐艦やらノースカロライナ級戦艦やらが画面を駆け抜け、エセックス級空母の標準装備の38口径5インチ連装砲やら、ボフォース40ミリ4連装機銃がどっかんどっかんいっているだけで、面白かったです・w・

艦船については、私はまったく何も知らないので、ここに書かれていることを疑う理由もなく、正しい情報であることを前提として考えれば、どうもこの映画、飛行機のみならず、軍用艦の映像も、記録映像の寄せ集めでつくられている(なおこの軍事オタク的な、上から目線の人間の文章は、不快感をもたらすものでもあって、私のこの文章も、そんなふうになっていないことを祈るが)。

もちろん、これはドキュメンタリー映画ではないから、記録映像に、無関係な、あるいは状況と矛盾する映像が挟まっていても、虚構の物語としては問題ないといえばいえるのだが、しかしいくらフィクションとはいえ、主人公の性別が途中で変わったり、名前も変わったり、死んでいた人物が、生きていたことになったりしたら、物語として失敗作もしくは重大な欠陥があるといわねばならない。

いくら観客はヒコーキであればどれも同じにみえて区別がつかないだろうといっても、使っている機種がころころ変わるような映像はやめてほしい。小説で政府の高官であった主人公が、翌日、造船会社の社長になっているような小説を、読者はどう読むだろうか、というよりも、そういう小説は出版されることはないだろが。

思い出されるのは、『チャーリー・ウィルソンズ・ウォー』(Charlie Wilson's War)という2007年のアメリカ映画(マイク・ニコルズ監督、トム・ハンクス製作・主演)。テキサス州選出の下院議員チャールズ・ウィルソンがCIAの諜報員と共にソビエト連邦によるアフガニスタン侵攻に抵抗するムジャーヒディーンを援助する模様を描く映画なのだが、そのなかでソ連の軍用機に関する情報が入手できて以降、ムジャーヒディーンもソ連軍用機を撃ち落すことができるようになったということで、攻撃され炎上したり爆発したり墜落するソ連機の映像が連続して流されるのだが、そのなかにアメリカ軍戦闘機なども燃えている映像が混じっていた――どういうわけかほんとうに燃やされている実写映像なのである。

アメリカの観客もバカではない。これはおかしいという批判と同時に、アメリカの戦争映画はいつもこうだ、関係のない映像、まちがった映像を使い回している、これはむしろ、そうした映画の慣習を自嘲的に誇示しているメタ映画的なものだという意見まであったのは驚いたが、いつの頃からは同じ記録映像の文脈無視の使い回しはアメリカ映画のお約束になったところがある。

ここまできて編集の意味がわかってくる。そう、この映画は、人間ドラマの部分はスタジオなり空母プリンストンで撮影したのだろうが、それ以外の飛行機の発着艦、攻撃シーン、格闘シーン、撃墜シーン、あるいは訓練シーン、すべて記録映像をつないだもの、記録映像のパッチワークなのである。

おそらくこの映画のために、実際に飛行した軍用機は(コルセアなどは、いまもまだ残っているくらいだから、同時も数多く残存していたと思うのだが)一機もないのだろう。この映画のために動いた軍用艦は、一艦もないのだろう。すべて記録映像をつないで物語を構成している。

よく言えば、事実の記録に対して物語が忠実たらんとしたのではなく、つまり芸術が自然を模倣したのではなく、物語のために事実の記録映像を収集して、それを、挿絵というよりも、物語の出来事の一部に組み込んだのである、つまり自然が芸術を模倣した。

悪く言えば、これはフランケンシュタインの怪物である。フランケンシュタイン博士が創造した人造人間は、人間の死体から使える部位を寄せ集めて、縫い合わせて、結合して、ひとつの人間に仕上げたものである。それと同じで、文脈から切り離された記録映像は、死体の一部のようなものである。それらを集めて、物語に組み込んだ。この映画は、そうした記録映像の寄せ集めによって、一編の映画を作った。これが編集賞ノミネートの理由であろう。

この映画は、みずから新たに撮影したのは人間ドラマの部分であって、それ以外は、既存の記録映像のつぎはぎですませたのである。これはある意味、前代未聞の暴挙だろう。快挙とみれば、編集賞にノミネートされるに値するだろう。

しかも、そのつなぎ方がものすごくずさんであって、無関係であったり、無意味であったり、文脈の異なりを調整できずに違和感を生ずるものとなったりした、醜いつぎはぎ細工ができあがった。まさにフランケンシュタインの怪物のように。

しかも映画は、これを確信犯的におこなった形跡がある。

というのも最初何も感じなかったのだが、映画は朝鮮戦争時代の空母プリンストンではじまる。プリンストンという実際の艦名は、実際の海戦を思い出さずにはいられない。そしてレイテ沖海戦という名前こそ出てこないが、マッカーサーがフィリピンに再上陸する作戦であり、その支援だと告げられる。

だんだん思い出してきた。プリンストンの戦闘機隊はコルセアではなくヘルキャットである。プリンストン所属のヘルキャット部隊は、機体前部のエンジン吸気口の下の部分に派手なシャークマウスを描いてたことでも名高い(実際、私はこのプラモデル(チェコのメーカー、エデュアルド製)をもっている。シャークマウスのデカールも入っているのだが、デカールにせよ、塗装するにせよ、このマーキングは、私の技量を超えているので、プリンストン所属の戦闘機部隊として作っていない、というかまだ完成していない)。このマーキングは、戦闘機隊が他の艦に移ったときには、採用されなかったという(米海軍機は、米陸軍機と異なり、派手なノーズアートは使用しないので、このシャークマウスは、趣味が悪いと判断されたのではないか)。では、どうして他艦に移ることになったのか。

そう、この空母プリストンは、レイテ沖海戦で撃沈された米空母三隻のうちのひとつなのである。え、そうなると映画冒頭で太平洋、おそらく日本海か東シナ海を航行しているこのプリンストンは幽霊船なのか。映画はそこまで仕掛けているのか?

レイテ沖海戦で沈没した日本軍艦船

戦艦:武蔵、扶桑、山城
航空母艦:瑞鶴、瑞鳳、千歳、千代田
重巡洋艦:愛宕、摩耶、鳥海、最上、鈴谷、筑摩
軽巡洋艦:能代、多摩、阿武隈、鬼怒
駆逐艦:野分、藤波、早霜、朝雲、山雲、満潮、初月、秋月、若葉、不知火、浦波
潜水艦:伊26、伊45、伊54

レイテ沖海戦で沈没した米軍艦船

軽空母:プリンストン(10/24航空攻撃による)
護衛空母:ガンビア・ベイ(10/25艦隊との砲戦による)、セント・ロー(10/25航空特攻による)
駆逐艦:ホーエル(10/25艦隊との砲戦による)、ジョンストン(10/25艦隊との砲戦による)
護衛駆逐艦:サミュエル・B・ロバーツ(10/25艦隊との砲戦による)
潜水艦:ダーター(10/23座礁による放棄)

米軍の損失空母は、戦艦大和の砲撃で沈んだのではないかといわれているガンビア・ベイが有名だが、これは、上陸を支援するための小型の護衛空母である。護衛空母以外には、よりにもよって軽空母のプリンストンが、日本の艦爆彗星による爆撃によって沈没している(これはカミカゼ攻撃ではない)。

そもそもプリンストンは、軽巡洋艦(CL61)として起工されたが、戦時に急遽、航空母艦に改造されたものである。もとが軽巡洋艦だから全体的に小さな空母であり、大型の正規空母よりも小型の護衛空母に近いのだが、正規空母と同じように無理な運用をされたとのこと(こうしたことは映画のなかで全く触れられていない)。

そして日本軍の艦爆の攻撃をうけたあと、救援に駆けつけた軽巡洋艦バーミンガム(USS Birmingham, CL-62)は、艦番号からもわかるように、改名前のプリンストン(CL61)と造船ドッグで隣り合って肩を並べていた。そしていままた救援にかけつけたバーミンガムは、プリンストンとの大爆破に巻き込まれることになった。

プリンストンの大爆発によって、併走していた軽巡洋艦バーミンガム(USS Birmingham, CL-62)は、驚くべき、また恐ろしいともいえる、死者233名、負傷者426名を出している(ちなみにプリンストンの死者は士官10名兵員98名)。

プリンストンのほうも、火災がおさまらず、夜になると日本軍の夜間攻撃の標的にされるおそれがあるということで、自軍の魚雷によって沈没させられる。

そう、プリンストンは沈没していた。ところが映画は、そんなことなど、まるでなかったかのように、戦後も、太平洋上か、日本海か、東シナ海にプリンストンを浮かべ着艦訓練をしている。

もちろん悲劇を臭わせていないわけではない。ちなみに2013年の映画『アメリカン・ハッスル』は実際の収賄スキャンダルを映画化したものだが、そのなかでジェニファー・ローレンス演ずる女性のモデルとなった女性は、現実には、自殺しているが、映画のなかでは最後まで生き残っている、ただし、自殺もしくは自殺の方法を暗示するかのように、ジェニファー・ローレンスは最後に登場するとき怪我をしたという理由で首に包帯を巻いていた。

この『第七機動部隊』では、攻撃隊が出払ったあと、日本軍機の攻撃にさらされる空母では、残っていたパイロット3人が多数の日本軍機に立ち向かい戦果をあげ空母を守るが、2名が戦死するという悲劇も生まれている。うがったみかたをすれば、実際には、この日本軍の攻撃で、プリンストンは撃沈されていた。戦後も、幽霊船となってどこかの海を航空部隊をのせてさまよっているのである。映画は、最後に、最初のプリンストンが幽霊船であることを明かす……

妄想はそこまでにして、実際にはプリンストンは縫い合わさせる。この映画のプリンストンは、一隻の艦にみえて(実際、艦橋の様子は、戦中も戦後もまったく同じであって、べつの艦という暗示はまったくないが)、実は二つの艦をつないでいる、あるいはべつの艦に名前が継承されたのである。

まとめると太平洋戦争時のプリンストン は、USS Princeton, CVL-23で、 インディペンデンス級航空母艦の2番艦。1944年10月24日にレイテ沖海戦で沈没。

いっぽう1943年9月14日、ペンシルヴェニア州フィラデルフィアのフィラデルフィア海軍造船所で「ヴァリー・フォージ」の艦名で起工したエセックス級航空母艦があった。1944年10月24日のプリンストン沈没後、1944年11月21日に「プリンストン」と改名され、1945年7月8日進水。こちらは二代目かと思うなかれ。レイテ沖海戦で沈んだ軽空母プリンストンの名前をつけた軍艦としては、第4代。この大型空母プリンストンは第5代にあたる。

ここで編集のひとつの意味があきらかになる。司令官あるいは指導者というのは、ばらばらなものを縫い合わせ、結合させて、ひとつのまとまりをつくる編集者である。パッチワークメイカーともいえるのだが。自分で何かを新たに作り出すわけではない。既存の材料をつかって、多少無理があっても、多少矛盾していても、多少不調和があっても、強引といわれようともひとつのまとまりをつくりあげる。軍隊でなら、多種多様な性向と出自をもった隊員たちを、スタンドプレーに走らせず、指揮官の命令に服従させ、チームとして行動できるようにつくりあげる。

さらにいえば、軍隊とか軍事における重要なメタファーとして補充があげられるのだが、まさに編集と補充とは関係する。部隊は、犠牲者、戦死者がでても、補充される。そして補充をうまくおこなって、継ぎ目を目立たせなくしたり、損失がなかったかのようにみせるのも指揮官、指導者の編集の技である。

また損失はすみやかに補充されねばならない。軽空母プリンストンは、不運にも撃沈されたかもしれないが、すぐに次のプリンストンが補充される。プリンストンという名前のもとに、新旧の空母が縫い合わされる、死んだ空母と生きた空母が縫い合わされる、そして過去は未来へと継承される。

軍隊とは、こうして編集作業によって支えられる。多種多様な人材がひとつにまとめられる。ひとつのチームを、ひとつのファミリーを形成する。そして損失があっても、すぐに補填される。その補填は、ファミリーとしての全体性を維持すると同時に、生と死とを、未来と過去を、明と暗を、動と静を、ひとつに編集するのである。

だが、編集のもうひとつの面がある。

つづく

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2020年09月01日

編集される映画、編集する映画

『第七機動部隊』(原題Flat Top 1952年アメリカ映画)。よほど暇なのかとあきれられるかもしれないのだが、アマゾン・プライムで、過去の映画を見た。あえて記事のタイトルにしなかったのは、推薦された映画と思って見る人がいるかもしれないことを心配してのこと。

見ても時間の無駄だと思うので、絶対に推薦しない。まあ、飛行機ファンとして、太平洋戦争時代の米海軍機の記録映像をふんだんに使ったカラー映画ということに興味を持った。

冒頭は、航行中の米海軍空母プリンストンに着艦するF9F(グラマン、パンサー戦闘機)だが、空母の真後ろから長い侵入路をへてどすとん着艦するという近年、トムキャットとかホーネットの着艦シーンを見慣れている私たちにとっては、小さな機体のF9Fが着艦直前に90度進路を変えて、甲板の後部にまるでヘリコプターが着艦するように、どすんではなく、ちょこんと着艦するのは面白かった。

冒頭は戦争後の平和な海での着艦訓練というように紹介している映画解説もあるが、嘘でしょう。まだ朝鮮戦争の真っ最中で、F9Fは空母を拠点として北朝鮮共産軍への爆撃任務についていたはずだ。映画の冒頭の空母はまだ戦時にいる。そして映画は太平洋戦争を回想する。そこでもF4U(ヴォート、コルセア戦闘機)が、パンサーと同様の着艦をみせる。パンサーはジェット戦闘機なのに、プロペラ機のコルセアと同様の動きをすることは興味ぶかかった。

そう、興味深いのは、そこまでで、あとは、はっきりいって面白くない。80分ほどの映画だが、これ以上の長かったら見るのを辞めていたかもしれない。

映画.comの解説と内容紹介を引用する。

第二次大戦のレイテ沖海空戦に基づいたスティーヴ・フィッシャーの「向う見ず海兵隊」を、彼自身とイロナ・バスが共同で脚色、レスリー・セランダーが演出した戦争映画。撮影は「カンサス大平原」のハリー・ニューマン、音楽はマーリン・スカイルズが担当。特別技術顧問として、ダイカーズ少将が撮影に参加、劇中には未公開の記録カラーフィルムが多数使用されている。出演者は「カンザス大平原」のスターリング・ヘイドン、リチャード・カールソン、キース・ラーセンなど。ウォルター・ミリッシュ製作。

そのストーリーはというと(ちなみに原題のFlat Topは航空母艦のこと、その飛行甲板は平たい板状であるから)以下のとおり(ただし、適当で嘘が多い)

平和な南太平洋の波を蹴立てて進む精鋭空母プリンストン。その艦橋にたたずむ歴戦の勇士ダン・コリアー副長(スターリング・ヘイドン)は、激しかったかつての戦闘の日々を思い浮かべるのだった注1。日本海軍の真珠湾奇襲は米軍に大打撃を与えた。広大な太平洋の制海権は日本のものとなり、米海軍は必死になって再建に狂奔した。そして1943年、アメリカの大型空母を中心とする機動部隊は未曽有の充実ぶりを示し、史上最強の艦隊を誇った。その頃、空母プリンストンの戦闘機隊長に任命された青年将校ダンは、副隊長ジョー・ロジャース(リチャード・カールソン)と共に激しい実戦の演習を開始した。やがて、1944年の大反攻の時が来た。マッカーサーの大軍は、いよいよフィリピンのレイテ島を目標に進撃を始めた。空母プリンストンもハルゼー堤督の率いる大機動部隊の1艦として、フィリッピン東方海上に出動した注2。戦闘機隊にも、ついに攻撃命令が下った。マニラ湾周辺に群がっていた大小の日本艦船は、急降下の銃爆撃に次々と爆破された。戦闘機隊は初の手柄をたてて母艦へ引き揚げた。その頃、母艦のレーダーに敵機の大編隊が写し出された。やがて、南海の大空を染めて激しい空中戦が展開された。決死のカミカゼ機は空母に迫った。そのうちの1機がついに母艦に命中、だが必死の消火作業でどうにか艦は危機を逃れた。カミカゼとの死闘は続いたが、やがて戦場はルソン島へ移り、さらに硫黄島、沖縄、日本本土と激しい空中戦は果てしもなかった。そして終戦。平和の戻ったこの太平洋上に浮かぶプリンストン号には今また最新鋭ジェット機が、ずらりと威勢を誇って、ダン副長の目前に並んでいるのである注3。【なお軍用艦には「号」をつけない。戦艦大和号とか、駆逐艦雪風号と、空母赤城号とは,絶対に言わない 引用者注】

注1と注3の紹介にあるように平和の戻ったこの太平洋上は、実際には朝鮮戦争の真っ最中である。1952年製作・公開というのは朝鮮戦争の末期である。

注2では、実際の作戦、あるいは海戦に忠実に物語が進行するように思うかもしれないが、一空母の、それも単独行動をとっているような空母の戦闘機部隊のメンバーが中心の物語で、ハルゼー提督はむろんのこと、艦隊の指揮官も出てこないし。パイロットたちは、ただ言われたままに乗艦し作戦を遂行する。ある意味、鋼鉄の戦闘艦に乗せられて死地に運ばれていくという(フロイトによれば乗り物の夢は死を意味する)無気味さもあるのだが、そこは強調されない。

さて注3の一文だが、これよりももっと場面に即して丁寧に内容を紹介しているとTMA(That’s Movie Talk 日本語のサイト)のストーリー紹介の最後の部分だけを引用すると、

……コリアーらが戻り、スミスは敵機を撃墜して編隊に合流し作戦に参加する。
その後、上陸作戦は開始されて成功する。
帰艦したロジャースは、自分の考えが間違っていたことをコリアーに伝え、隊員たちが慕っていると伝える。
上からの指示で第一線を退くことになったと話すコリアーは、指揮官を任せるとロジャースに伝える。
コリアーに感謝し喜ぶロジャースは、隊員たちに知らせるようにと言われる。
__________〔ここで場面は過去から現在に戻る――引用者注)
コリアーは、交代要員のパイロットが着艦することをロジャースから知らされる。
着艦の様子を見守るスミスは、着艦復行を無視したパイロットを謹慎処分にするよう部下に命ずる。〔この紹介記事は、映画のおわりを正しく紹介している。スミスは以前着艦復行の命令を無視して謹慎処分にされたが、彼が司令官となったいま、同じ処分を部下に下すというのはオチとなる――引用者注〕


ということで映画.COMの紹介は映画を見ていない人間が勝手にでっちあげたものだといる。

なお、このTMTによる映画紹介を引用すると

西部劇や冒険映画を多数てがけてキャリアを積んできた、レスリー・セランダーが監督した戦争映画。

太平洋戦争下での、アメリカ海軍飛行連隊の戦いを描く作品であり、新人パイロットたちに戦闘の厳しさを教え込む指揮官を主人公に、戦果を挙げる隊員たちの成長を描く作品。

アメリカ国防総省及び海軍全面協力による、実際の戦闘フィルムを多様した空中戦の迫力映像は見応えがある。

撮影は、第二次大戦後の1945年11月に就役した、航空母艦”プリンストン(CV-37)”で行われた。

第25回アカデミー賞では、編集賞にノミネートされた。


とある。

以下、アマゾン・プライムにある視聴者からのコメント。【 】は引用者による注釈。

☆5つ 2020年8月14日
……この壮絶な戦いの中、米軍も多くのパイロットが命を落とすことになるのだが、作戦司令官のコリアーは隊員たちに厳しい態度で接し、スタンドプレーでチームワークを乱す人間を極度に嫌い、違反した者は処分の対象にまでされた。
それは実は優秀なパイロットを無駄に失わないためのもので【という説明は映画のなかではなされていない 引用者注】、一方の日本はそれまでに優秀なパイロットの大半が戦死していて、不慣れな若い乗員ばかりで空中戦では米軍機の後塵を拝し【これも映画のなかでは説明されていない事態 引用者注】、日本機は次々と撃墜されていった。

そんな日米の今後の勝敗を占う決戦を描いた戦争の物語です。【閉じる】


☆4つ 2020年4月18日
コルセア戦闘機、ヘルキャット戦闘機、ドーントレス急降下爆撃機なども見れて、航空機ファンにはたまらない映像がふんだんに出てくる。実録映画の分野に近いと思う。【全文】


☆2つ 2020年8月29日
実戦の映像も多用されていますが、機種メチャメチャな感じ【まったく同感。引用者注】。部隊もコルセア【戦闘機の愛称】なのかグラマン【戦闘機のメーカー名】なのか?はたまたドーントレス【急降下爆撃機の愛称】なのかいろりいろ混ざった映像ですが、設定はコルセアの戦闘機部隊です。 そして日本機のコックピットはどう見てもグラマン。飛行機の映像についてはいただけない。ストーリーはそれなりにアメリカ娯楽映画として楽しめました。


この最後の評価が、おそらく一般的評価ではないかと思う。

ただ,その前に、二人の評者が「コルセア、ヘルキャット、ドーントレス」という3機種しかあげていないが(どちらもアマゾンに投稿者に特有の知ったぶりだろうが)、それ以外に、ヘルダイヴァー、アヴェンジャーの記録映像もある。また戦後に配備されたA1スカイレーダーの姿も見える(戦後のプロペラ機の記録映像も使うという点で、実に、やっつけ仕事である)。

あと日本側の航空機の記録映像もあって、たいていは撃ち落されるゼロ戦なのだが、一式陸攻と銀河らしき爆撃機もみえる。らしきというのは、じっくり判読できる暇もない、一瞬の映像だからである。ただし一瞬でも,絶対に見間違いようのないの二式大艇の映像もあって(攻撃されているのだが)、これは思わず驚きの声が出た。

けっこう面白がっていたのではと批判されそうだが、全体的に面白くない。ピクニック気分の隊員たち、その彼らをやさしく見守ってきた温情あふれる副隊長と、そして隊員をきびしく鍛え、副官のやさしさを指揮官に向いていないと批判する鬼隊長。これって、グレコリー・ペックが爆撃隊の司令官を演じた『頭上の敵機』と同じではないか。

頭上の敵機は、爆撃場面をほとんどなくして、基地での司令官と部下たちとの人間模様に終始して、鬼司令官の薫陶よろしく飛行隊が勇猛果敢な爆撃隊となったものの司令官にストレスがたまり彼自身最後におかしくなってしまうという結末は、かなり印象的だったが、そのようなひねりは何もない。また頭上の敵機は記録映像の使用は最小限におさめ、地上、それも基地内での人間ドラマに終始していて、それはそれで見応えがあったのだが、この『第七機動部隊』は、未熟な隊員たちが、司令官と対立しながらも、戦闘を経て、成長してゆき、最後には大作戦を高い抜き、そして現在の朝鮮戦争にいたるという物語をつむぐときに、実際の記録映像をふんだんに使用した。そして一編の娯楽映画に完成させた。

とはいえ記録映像には、面白いところもあるが、総じて、迫力にかける。つまり事実としての重みはあっても、交戦中の記録映像(ガンカメラかなにかの)であるため、たとえばそれが特撮とかCG、あるいは実際に機体を飛ばして撮影していれば、迫力のある戦闘シーンが撮れたと思うのだが(たとえば『633爆撃隊』という、第二次大戦中の英国の戦闘爆撃機モスキートを実際に飛ばして撮影した戦争映画の航空攻撃シーンの迫力に比べると、『第七機動部隊』の記録映像を使ったシーンは、いくら本物の戦争シーンといっても、はっきりいってカスで、クソみたいなものとしかいいようがないし、また『633爆撃隊』は任務に成功はしても全滅するという悲劇性もあるが、『第七』のほうには、たとえ犠牲者は出ても、悲劇性は皆無である。あるいは『第7』と同じ空母搭載の攻撃隊を扱った、ただし朝鮮戦争の『トコリの橋』も実際にF9Fパンサーを飛ばしていて、迫力があった――変な日本が出てくるのはいただけなかったが)。

ただ、『第七機動部隊』は、当時、編集賞にノミネートされていた。受賞にはいたらなかったようだが、ノミネート? 編集技術について私は何も知らないのだが、また素人にはわからない卓越した編集技術は使われているのかもしれないが、しかし、それが賞をもらうというか、ノミネートされるのであれば、作品そのものも、たとえ素人目にみても、優れているはずである。ところが、この映画のどこが、なにか賞に値するほど優れているといえるのだろうか。そういったものはみじんもない。

では、なぜ編集賞(のノミネート)なのだ?

つづく
posted by ohashi at 18:06| 映画 | 更新情報をチェックする

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