映画『炎のランナー』(Chariots of Fire、1981年公開、イギリス・アメリカ合作映画、監督ヒュー・ハドソン)の主役ベン・クロスが亡くなったとの報道があった。
ただ『炎のランナー』の主役といっても誤報ではないが、違和感がある。この映画、イアン・チャールソンとベン・クロスのW主演映画であって、どちらも印象的な役柄で、いっぽうだけが主役ということはいえない映画である。ただもちろんもうひとりの主役イアン・チャールソンは1990年になくなっているのであるが。
第54回アカデミー賞作品賞を受賞した有名な作品であり、なんといっても、ヴァンゲリスの音楽(第54回アカデミー賞作曲賞受賞)はいまでも環境音楽となってよく耳にする。おそらく来年のオリンピック(開催されればだが)に向けて、もっともよく耳にする環境音楽のひとつにちがいない(なお1982年の『ブレードランナー』の音楽もヴァンゲリスだった。まあ、この頃が注目度ナンバーワンの作曲家だった)。
映画そのものは、
走ることによって栄光を勝ち取り真のイギリス人になろうとするユダヤ人のハロルド・エーブラムスと、神のために走るスコットランド人牧師エリック・リデル、実在の二人のランナーを描いている。舞台は1919年、エーブラムスが入学するケンブリッジ大学と、リデルが伝道活動をするスコットランド・エディンバラから、1924年パリオリンピックへと移ってゆく。
というWikipediaの紹介のとおりなのだが、ベン・クロス(1947年12月16日 - 2020年8月18日)演ずるハロルド・エーブラムスは、ケンブリッジの大学生で努力家のアスリートで優勝を目標として一途になるあまり周囲とも軋轢をきたすまでになるのだが、プロのコーチを雇って近代的なトレーニングを取り入れて記録を伸ばしてオリンピックに出場し優勝する。
ただオリンピックはアマチュア・スポーツの祭典であって、プロのコーチを雇うというのはアマチュア精神に反するといわれ、ともに努力してきたコーチが大会会場に入れず、近くの宿の窓から開場の外壁を見上げ、観客の歓声から競技のゆくえを推測するしかないという、悲哀に満ちた場面が印象的だったが、大会会場には、リプトン紅茶の垂れ幕が堂々と飾ってあって、心のなかでアマチュア精神はどうしたのだと突っ込みを入れたのだが(まあプロの選手はだめだが、企業から資金援助をうけたり、企業広告をだしたりするのはいいのだろう)。
さらにいえばコーチを雇って練習するというのはアマチュア・スポーツではないと非難していた大学関係者が、ベン・クロス/ハロルド・エーブラムスが優勝すると、大学関係者どうしで大喜びで祝杯を挙げるというシーンがあって(ジョン・ギルグッドらが演じているのだが)、それも感じが悪かった――とはいえ風刺的・批判的映画ではないのだが。
そういえば、そのコーチを演じていたのがイアン・ホルム(1931年9月12日 - 2020年6月19日)。今年亡くなったことも記憶に新しい。
もうひとりの主役イアン・チャールソン(1949年8月11日 - 1990年1月6日)演ずるエリック・リデルは、聖職者であり、また生まれながらの天才ランナーで、まさに神に愛された子として、あるいは神とともに走るアスリートとして、誰からも愛され、オリンピックでも難なく優勝する。 この点、嫌われ者の孤高の努力家アスリートであるベン・クロス/ハロルド・エーブラムスとの対照性が仕組まれていた。金髪のイアン・チャールソン/エリック・リデルは、まさに地上に降り立った天使、走れば、いまにも空に飛んでいきそうな俊足を誇る神々しい存在だった。
そのイアン・チャールソンは1990年にエイズで亡くなる。彼が主役を演ずる『ハムレット』の日本公演が予定されていたのだが、主役死亡によっても、日本公演は中止になることはなく、いわゆるアンダーの若い俳優がハムレットを演ずることになった。
新大久保のパナソニック・グローブ座での公演は、俳優めあてではなく、『ハムレット』という作品をみたかったので、それなりに満足をしたのだが、今思い出してみれば、アンダーの若い俳優の演技は、生彩のないものだった。
観劇当日、終演後、JR新大久保の駅に着くと、午後11時近くになっていて、しかも事故でJR山手線が止まっている。動くまで駅で待ったのだが、結局、私鉄の終電にはまにあわず、タクシーで帰ったことを思い出す。
まあ、どうでもいい思い出話だが、思い出すといえば、『炎のランナー』、やはり最初か最後にも使われていた英国の陸上選出たちが強化トレーニングのなかで、海辺を走る、まさにこの映画の代表的シーンだろう。ヴァンゲリスの音楽がかぶされ、スローモーションで画面を横切っていく大写しにされた強化選手たち、そこにはベン・クロスも、イアン・チャールソンもいた。
海辺のランナー。今になって、なぜ海辺を走るのだろうかと疑問を感ずることになった。海辺の砂浜を走ることに、合理的な理由があるのだろうか、あるいは、海辺のトレーニングが伝統と化しているのだろうか。私には判断できないし、その知識もないのだが、どちらであっても、またいずれでもなくても、海辺の、水辺の、男たちしかいない選手たちの疾走する、あるいはスローモーションの肉体は、この映画がゲイ映画であることを暗示していたのではなかったか。公開から40年近くたって、はじめて気づくことになった。
エイズで死んだイアン・チャールソンも、このゲイ映画に殉じたのである。