2020年08月21日

感染症と文化

正義のゆくえ 2

自費でPCR検査をして陰性であることを確認したうえで帰省した人と、そうした事情をなんら考慮せず、帰省するなと匿名の誹謗文書を貼り付ける偽善家の報道は、もしこのようなことがつづくと、危険な状態を招きかねないため、あえていうと……

この出来事の教訓は、過ちがわかったら、謝罪する勇気をもとうではなく(それもあるのだが)、無差別に一律に攻撃していたら、良心的な人間はいなくなるのではないかということである。

つまりPCR検査を自費で二度もおこない、陰性を確認したうえで帰省しても、感染者は帰ってくるなとひどい言われかたをしたら、検査してもしなくても同じであって、良心的に検査を受ける気持ちがなくなってしまうのである。

こんなことが繰り返されると、結局、誰も、検査をして自分の陰性を証明しようという気持ちがなくなる。検査してもしなくても陽性=感染者とみなされるのだとしたら。

思い出されるのは、パンデミックの初期段階のアメリカで、マスクをしていたアジア系の市民が感染者として暴行を受けたという事件が頻発したことである。

冷静に考えれば、マスクをしている人間は、自分が病気にならないための防衛か、もしくは自分が感染している(かもしれない)病気を周囲の人間にうつさないための予防措置であって、それ自体で、なにか周囲に迷惑をかけるわけではない。

本人は健康でも用心してマスクをしていることもある。

しかし当人が病気であろうがなかろうが、マスクをしていれば保菌者と思われてボコボコにされるようでは、恐くて、マスクをしていられない。これは都会から帰省してくる奴は、みんな感染者だというのと同じ発想である。非感染者であることを立証する用意があっても、そんなものは最初から無視されるとしたら、誰が他人のためにPCR検査を受けるか。

同じ事はマスクをしている場合にもあてはまる。マスクをしていればすぐに感染者、保菌者だとみられるのなら、マスクは危険であって、しないほうがいい。しかしそうすることによって、ノーマスクによって感染リスクは高まる。

マスクをしている人間に暴行するような愚行録を実践するアメリカ社会は、パンデミックに襲われて感染者や死亡者があっというまにふえるのではと思ったのは、私だけではなかっただろう。

個別性の承認は重要である。どんなに勉強して、よい成績をとっても、誰もほめてくれなかったら、あるいは、努力する前と同じようにバカ扱いされたら、子どもは誰も勉強する意欲をなくすだろう。一律に判断する道徳的ファシストは、ある意味、新型コロナウィルスよりも恐い感染症に罹っていて、その被害は、新型コロナウィルスによってもたらされるものより、遙かに大きいかもしれないのだから。

posted by ohashi at 19:47| エッセイ | 更新情報をチェックする