2020年07月28日

パラレルワールドか

翻訳の闇

今、進行中の翻訳にヴェルギリウスの『アエネーイス』からの引用があった。

One salvation remains to the defeated – to hope for none.
【試訳 敗者たちにも救いがひとつ残っている――希望がないという救いが】


該当箇所を『アエネーイス』の英語訳からみつけた(ペンギン版である)

One hope saves the defeated: they know they can’t be saved.
【試訳 ひとつの希望が敗者たちを救う。彼らは自分たちが救われないことを知っているのだ】


私の訳している本の著者は、このペンギン版を使っているのではないし、どの版を使ったのかわからない、あるいは自分で英語に訳したのかもしらないが、意味は同じで、私が正しい出典箇所にたどりついてる(なお引用の意味については、このあと考える)。

念のために日本語訳にもあたってみた。岩波文庫版である。すると、こうある、

これに対し王宮の、/救護にむかいわが軍の、加勢に走つけ敗色の、/味方につよく力づけ、したい心地にわれわれは、/はやりにはやっておりました。


え? これは英語訳と全然違う。出典箇所をまちがえたのかと前後を探したが、それらしい箇所はない。これが英語訳と同じ箇所の日本語訳なのか?

そこで手元にあった古いペンギン版の英語訳にあたってみた。

We felt a new surge of courage and determined to aid the palace, bring relief to the defenders and lend fresh vigour to the vanquished.


これは岩波文庫版と同じである。となると同じラテン語の詩行の訳が、古いペンギン版と新しいペンギン版で違うのか。

まるでパラレルワールドである。同じ箇所の解釈が二つにわかれている。両者に共通性があるようなないような。本来なら出会うことのないパラレルワールドが互いに遭遇したかのようだ。

もし同じラテン語の詩行の解釈が、このように分かれるのなら、私のラテン語理解力ではとうてい歯が立たない事態であって、ラテン語原文にあたってみても意味がないのだが、しかし、このままにしておくわけにもいかないので、何か起こっているのか、いま調べているところである。

なお上記の新しいペンギン版の英語訳の意味。気になるかもしれないので一言。

なぜ希望がないのが救いなのか。なぜ救われないことがわかっているのが救いなのか。

それは希望があると、助かるかもしれないと苦しむからである。希望がない、助からないとわかったら、あきらめもつくし、心の安らぎにもなる。希望があるから、悲しむ、苦しむ、あがく、もだえる、泣き叫ぶ。希望が消えたら、あとは平安のみである。それが救いということだ。

しがって、この希望のなさは、絶望とはちがう。絶望すると、人間、自暴自棄になって、あばれたり、なきわめいたり、いかりまくったりする。この場合、絶望と希望は紙一重である。いや、同じものかもしれない。

希望がないとき、人間は、あきらめおちつくしかない。穏やかな気持ち、笑いさえもれるかもしれない。そこに救いがあるということである。

このことは、さらに考えてみるにあたいする。
posted by ohashi at 22:03| 翻訳論 | 更新情報をチェックする

2020年07月15日

劇場での濃厚接触

新宿の劇場公演で感染が起こったというので、どこの劇場かと思ったら、シアター・モリエール。

最近は行っていないのだが、そこで観劇したことはある。また個人的で、どうでもいいことをいえば、シアター・モリエール、いつも行く度に道に迷う。新宿三丁目の地下鉄駅から地上に出て、どういけばいいのか、いまも頭のなかに入っていない。この辺だったはずだがと、ぶらぶら歩いているとみつかる。次に来るときは、しっかり場所を頭にたたきこんでおこうと思うのだが、その次が来る頃には、また場所を忘れ、迷って偶然みつけることの繰り返しになっている。決してわかりにくいところにある劇場ではないのだが。

以前、このブログにも書いたのだが、彩の国さいたま芸術劇場で観劇したとき、舞台で数分間たばこを吸うシーンがあった。ふつのタバコではなく、葉巻かパイプタバコだったので、その強い匂いが瞬時に客席に伝わることが確認できた。最前列から10列以上後方の席にいて、しかもマスクをしていた私にも、匂いが伝わってきた。私の妄想でない証拠に、すぐ隣に座っていた夫婦も、タバコのにおいがすることを小声で話していたのだから。

いうまでもなく、彩の国さいたま芸術劇場は、シアター・モリエールの十倍とまではいかなくとも、何倍もある大きな劇場で、天井も高い。その大きな劇場でも、遠くの舞台のタバコの匂いが瞬時に伝われるのである。シアター・モリエールは小劇場(ただし地下に降りていくとある小劇場ではなく、階段を上がっていくと受付がある劇場で、観客席も階段席に設けられていて、どこに座っても舞台がよくみえる、大きめの小劇場であるが)ではあるので、なおさら、煙とか飛沫は伝わりやすいと思う。

劇場での感染は、今回のシアター・モリエールでの主催者側の不手際というよりも、劇場構造が、感染をまねきやすいため、むしろ感染が起こらないほうが異例の事態というべきもののような気がする。

とはいえ自粛明けの公演であるので、観客は全員マスクをしていただろうし、舞台に感染者がいても、強力な空気感染ではないので、感染は、パフォーマンス中におこったというよりも、アフター・パフィーマンスに起こった可能性が高い。

メディアでは、握手したりハグしていた観客もいたということを伝えているので(とはいえ誰とハグしていたのかわからないのだが)、そこで感染した可能性が高いことが臭わされていた。

たぶん、そうなのだろう。そしてそれは演劇の宿命のようなところもある。とりわけ小劇場での公演は、公演そのものもさることながら、公演後の演者との交流(これを濃厚接触といってよいか躊躇はあるが、感染下では、濃厚接触の一例ということはできる)こそ、観劇の醍醐味というところがある。

まあ、大劇場などでは、公演主催者側が仕切って楽屋訪問などをおこなっていることもあるが、小劇場の場合、公演が終わったら、出口で待っている演者たちとのふれあいがあるし、ときには、劇場の客席で、演者との交流がおこなわれることもある。

とはいえ、私はそういう交流は苦手で、公演が終わったら、さっさと帰ってしまうので、客席に残っている観客と演者との間にどんな交流がおこなわれるのかよくわからないのだが。

演劇ファンにとってみれば、公演後の交流もまた重要なイヴェントであって、それをスルーしてしまう私のような存在は、キルジョイとまではいかなくとも、真正のファンではないということになる。

また映画やテレビと、演劇が異なるのは、演劇の同時性・直接性であって、公演後の交流も直接性を確認する重要な儀式でもある(映画のあとで出演者と映画館のあとで交流できるのは初日の挨拶とか映画祭くらいで、映画には出演者たちとの直接交流はないが、それは映画そのものが観客との間に距離があることからも当然なのである)。

大劇場というよりも小劇場の公演のほうこそ、演者とのふれあいのチャンスは大きく、それを目当てに観劇する観客も多いことが予想される。私のようの公演だけみれば満足する観客は、すくなくとも小劇場では少数派かもしれないし、演者との交流がなければ、映画館での鑑賞となんらかわりはないと言われそうである。

しかし、演者との交流を楽しむ人たちは、悪くいうと、公演中は眠っていて、公演が終わると目覚めて本番へ、濃厚接触へと走るのである。実際、小劇場での公演へ行くと、ほんとうに寝ている観客はいなくても、何が面白くてこの公演を見に来たのか、目を開けたまま眠っているのではないと思われる観客はけっこう多い……。

もちろん、これは悪口であって、演者と交流するときも、公演そのものをしっかりみて、自分なり意見をもたないと、また理解力のあるところを示さないと、演者との実りある交流はできない、公演中は寝ていて、公演後に目が覚めるというのは、悪意ある中傷、あるいは観劇と交流の実際をなにも知らない愚か者の戯言であるといわれそうだが、もちろん、悪意ある戯言であってほしいし、これが本当のことであったら困るのだが、ただ、演者との交流は、濃厚接触そのものであって、これが演劇あるいは観劇構造に組み込まれている以上、感染は避けられない。

演者との交流をリモートでするような工夫がされないと、感染下での小劇場公演の未来はないように思われる。
posted by ohashi at 01:42| コメント | 更新情報をチェックする

2020年07月12日

ドストエフスキーの翻訳

現在している翻訳の関係から、ドストエフスキーの『悪霊』に目を通しておかねばならなくなり、せっかくだから、部分的につまみ食い的に読むのではなく、あらためて全部読み直そうと思った。

いまなら亀山郁夫訳『悪霊』(全三冊+1)が、読みやすことはまちがいなく、私自身、光文社古典新訳文庫版をもっている(まちがえて重複して購入したので、2セットも)。ただし、内容のほとんどを忘れてしまったのだが、一度読んだことがあり、その翻訳でもう一度、読み直そうと思った。

私が初めて読んだドストエフスキーの作品(『罪と罰』だったが)は、米川正夫訳だった。以後私は米川正夫訳でドストエフスキーを読んだ。

米川正夫個人訳の全集は、Wikipediaで調べてみると、第3次河出書房版全集が、私が生まれる前に完結していたらしいのだが、その後、私が中学生か高校生の頃に、Wikipediaでは触れられていないのだが、通算、第4次のドストエフスキー全集が刊行された。

その第4次全集は、箱に入った豪華本の全集で、私は個人的に全部購入したかったのだが、中学生か高校生の私は、親から金を出してもらうこともできずに、時々、小遣いのなかでバラで重要な作品を買っていた。だから、その全集で『悪霊』を読んだのだが、問題は、その本が、どこにあるのかわからなくなったことだ。

なんとなく心当たりはあるのだが、それを発掘するには、とんでもない時間がかかりそうなので、あきらめて、Kindle版に米川訳のドストエフスキーが入っていることを知ったので、それで読むことにした。

そして驚くことになるのだが……。

米川正夫訳のドストエフスキーはどうだったかというと、中学生の私にはむつかしすぎた。そのため漢和辞典片手にドストエフスキーの小説を読んだ。なぜ漢和辞典なのか。そもそも、翻訳で使われている漢字の読み方すらわからなくて、漢字の読み方がわからないと、国語辞典もひけないからである。

もちろん中学生の国語力、漢字能力には限界があって、いまからみれば、難読漢字のみならず、基本的漢字もわからなかったことも多く、恥ずかしくなるのだが、とにかく漢和辞典片手にドストエフスキーを読んだ。それは、まるで外国語の辞書を片手に原書を読むようなもので、私にとって、米川正夫訳のドストエフスキーを読むことは、外国文学を読むのとかわらぬ緊張感と労力を強いるものであった。ところが、それがのちに外国語の本を読むときに役立った。辞書で言葉の意味を調べることが苦にならなかったからである。

ただ中学生でなくとも、米川正夫訳のドストエフスキーは、言葉遣いが難しかった。それでも漢和辞典で漢字の読みと意味を調べつつ、読み続けることができたのは、作品のもつ迫力のせいであった。

そんなこともあり、米川訳はなつかしく、私の研究者人生の原点でもあったので、もう一度米川訳でドストエフスキーを読もうとして、驚いた。Kindle版は、むつかしい表現や難読漢字などをやさしく書き換えてたものだった。固有名詞の表記なども変えてある。固有名詞の変更の理由は、まあ納得できるものだったが、難しい言葉や表現をやさしくしたというのは、いかがなものかと、ほんとうに絶句した。

実際のところ、もとの翻訳がみつからないので、どういうふうに書き換えたのかわからないので、その成果がどうなのかは、なにも言えないのだが、それにしても、難読漢字とか難語などについて注釈をつけるだけでいけなかったのだろうか。

版権上問題ないのかもしれないが、しかし、これが許されるのかどうかわからないし、それをするくらいなら、自分で、わかりやすい、新しい訳をつくればいいのではと思ってしまう。

私も少しは漢字が読めるようになったのではという思いは、みたされぬまま、宙に浮いたままである。もちろん、米川訳『悪霊』をみつけられない私が悪いのだが(なお米川版『悪霊』は岩波文庫版もあったようだが、私が購入して読んだのはハードカバー、箱入りの、全集版であった)。

posted by ohashi at 22:06| 翻訳論 | 更新情報をチェックする