今、進行中の翻訳にヴェルギリウスの『アエネーイス』からの引用があった。
One salvation remains to the defeated – to hope for none.
【試訳 敗者たちにも救いがひとつ残っている――希望がないという救いが】
該当箇所を『アエネーイス』の英語訳からみつけた(ペンギン版である)
One hope saves the defeated: they know they can’t be saved.
【試訳 ひとつの希望が敗者たちを救う。彼らは自分たちが救われないことを知っているのだ】
私の訳している本の著者は、このペンギン版を使っているのではないし、どの版を使ったのかわからない、あるいは自分で英語に訳したのかもしらないが、意味は同じで、私が正しい出典箇所にたどりついてる(なお引用の意味については、このあと考える)。
念のために日本語訳にもあたってみた。岩波文庫版である。すると、こうある、
これに対し王宮の、/救護にむかいわが軍の、加勢に走つけ敗色の、/味方につよく力づけ、したい心地にわれわれは、/はやりにはやっておりました。
え? これは英語訳と全然違う。出典箇所をまちがえたのかと前後を探したが、それらしい箇所はない。これが英語訳と同じ箇所の日本語訳なのか?
そこで手元にあった古いペンギン版の英語訳にあたってみた。
We felt a new surge of courage and determined to aid the palace, bring relief to the defenders and lend fresh vigour to the vanquished.
これは岩波文庫版と同じである。となると同じラテン語の詩行の訳が、古いペンギン版と新しいペンギン版で違うのか。
まるでパラレルワールドである。同じ箇所の解釈が二つにわかれている。両者に共通性があるようなないような。本来なら出会うことのないパラレルワールドが互いに遭遇したかのようだ。
もし同じラテン語の詩行の解釈が、このように分かれるのなら、私のラテン語理解力ではとうてい歯が立たない事態であって、ラテン語原文にあたってみても意味がないのだが、しかし、このままにしておくわけにもいかないので、何か起こっているのか、いま調べているところである。
なお上記の新しいペンギン版の英語訳の意味。気になるかもしれないので一言。
なぜ希望がないのが救いなのか。なぜ救われないことがわかっているのが救いなのか。
それは希望があると、助かるかもしれないと苦しむからである。希望がない、助からないとわかったら、あきらめもつくし、心の安らぎにもなる。希望があるから、悲しむ、苦しむ、あがく、もだえる、泣き叫ぶ。希望が消えたら、あとは平安のみである。それが救いということだ。
しがって、この希望のなさは、絶望とはちがう。絶望すると、人間、自暴自棄になって、あばれたり、なきわめいたり、いかりまくったりする。この場合、絶望と希望は紙一重である。いや、同じものかもしれない。
希望がないとき、人間は、あきらめおちつくしかない。穏やかな気持ち、笑いさえもれるかもしれない。そこに救いがあるということである。
このことは、さらに考えてみるにあたいする。