2020年05月29日

翻訳の闇 5 

ビューヒナー『ヴォイツェク』

岩淵達治訳の岩波文庫版の翻訳に問題があるわけではない。

岩淵先生は、もうご存命ではないのだが、もしご存命中であれば、まぎがらわしいことをするなと本気で怒られそうで、冷や汗をかきながら書いている。

ビューヒナーの作品が全部、日本語で読めるのも、また岩波文庫版で代表作の戯曲『ダントンの死』と未完の断片『ヴォイツェク』を読むことができるのも、岩淵達治氏の功績であり、私たちはどんなに感謝してもしきれない。河出書房版の『ビューヒナー全集』と、岩淵達治個人訳の『ブレヒト戯曲集』(未来社)は、演劇に関心がある者ならいつも手元においておくべき文献であろう。私の場合もそうである(といいながら、河出書房の全集は、研究室から本を引き取るときに、どこかにまぎれてしまい、いまだ発見していないのだが)。

最近『ヴォイツェク』を岩波文庫で読み直す機会があって、一カ所だけ気になるところがあった。

第14場。兵営の一室で、幻聴と幻覚に苦しめられているヴォイツェクに同僚のアンドレースにこう助言する。

ヴォイツェク まだ言っているぞ、殺せ殺せって。そしてナイフが目の前にちらつくんだ。
アンドレース 焼酎に粉薬を入れたのを飲むといい、熱がたちまち下がるぞ。(p.103)


妻(正式に結婚をしていないが)の不貞に悩むヴォイツェクは、オセローとマクベスを合体したかのような人格崩壊におちいっていく。幻聴に悩まされ、幻覚におびえているのである。そのとき同僚のアンドレースが「焼酎に粉薬を入れて飲むといい」と助言している。たぶん薬の鎮痛効果で悩みが消えるということだろう。

ちなみに、この部分に翻訳者の岩淵達治先生は訳注をつけていて

驚いたことに、この部分はベントリー(ブレヒトの訳者として有名)の訳したロバート・ウィルソンの台本では、粉薬(ドイツ語Pulver、英語Powder)が、火薬(gunpowder)と訳されている。心臓病ならニトログリセリンということもあるだろうが、ウィルソンの『ヴォイツェク』がいか|に出鱈目(でたらめとルビ)であるかの例証としてここに付言しておく。(pp.305-306)

とある。

岩淵先生、ロバート・ウィルソンの翻案にはほんとうに怒っていて、文庫版の随所で、本気の批判が展開する。

しかし、こんなことを書くと岩淵先生の怒りを倍増させるかもしれないが、ロバート・ウィルソンは演出家というよりもアーティストであって、そのパフォーマンスは原作の味わいなり良さを再現するというよりも、独自の世界を造型するものであって、だからこそ、ウィルソン版の『ヴォイツェク』は上演というよりも翻案なのであり、ロバート・ウィルソンにとってビューヒナーの作品は独自の芸術創造の契機にすぎない。原作に対する忠実度が少ないからと目くじらをたててもしょうがないのではないか。

またロバート・ウィルソンがドイツ語を理解していないのにビューヒナー作品の演出に手を染めることはけしからんと岩淵先生は考えているようだが、そういう見解はあっていいとしても、英語訳はベントレーの翻訳であって、ロバート・ウィルソンが翻訳しているわけではない。ベントレーの不適切な翻訳あるいは誤訳に気づかず、そのまま使っているウィルソンはけしからんということなのだろうが、その場合も、問題はベントレーの英訳であって、ウィルソンは関係ないのではないか――などと書くと、おまえの考えはまちがっていると、二倍、三倍返し、いや十倍返しとなって岩淵先生から叱られそうなので、この件は、これ以上深入りしないが、ひとつだけ。ベントレーの英訳は、そんなにへんなのだろうか。

ドイツ語のPulverも英語のPowderも、特殊な意味として火薬の意味がある。Pulverをそのままpowderと訳したら、わかりにくいか、違和感があると英訳者は考えた。そこで火薬gunpowderと訳した。

私には、なんとも言えないのだが、火薬が薬代わりに用いられたことがあるようだ。たとえば以下のサイト(Early Modern Medicine「初期近代医療/医薬」と題された英語のサイト)には、火薬が薬として使われた、あるいは火薬に薬効があると考えられていたことが関連資料とともに示されている。https://earlymodernmedicine.com/gunpowder/参照。

私にはこの史実について判定できる能力も資料ももちあわせていないが、考えられないことはない。

そもそもpowderを薬剤として考えるのは、違和感がある。というのもヴォイツェクは一兵卒で貧乏人である。妻と子どもを養うために隊長の髭を剃ったり、いかがわしい医者の人体実験に志願している。そんなヴォイツェクに同僚が、酒に粉薬をいれて飲めば、ふさぎの虫あるいは幻覚や幻聴など直ると助言するのはおかしい。つまり、そんなちょっとした気のふさぎに効くような薬を、貧乏な一兵卒が常時もっているのだろうか(人体実験をおこなっている医者から処方してもらったという可能性がないわけではないが、今風にいうと糖質ダイエットみたいな人体実験をしている医者が、被験者のヴォイツェクに実験の効果を打ち消すかもしれないような薬剤を処方するだろうか)。

粉末の薬など貧乏な一兵卒がもつことはないのに対し、軍隊で火薬は手に入りやすい。「焼酎」と訳されているものが、ドイツ語原文がわからないので、なんであるかはわからないが、火薬を酒に入れて飲めば、いろいろな効果があるという、まあ、一種の迷信みたいなことが軍隊で拡がっていたことは想像にかたくない。

英訳者は、確信があったのか、カンめいたもの、推測でそうしたのか、あるいは、強引に、実在しない迷信じみた慣習をでっちあげたのか、私にはわからないが、酒に火薬をまぜて飲めば体調不良が直せるという、軍隊のみで通用するような迷信じみた慣習という細部は、原作に対する裏切りでも無視でも、またドイツ語に対する理解力のなさでもないように思われる。

だからgunpowderという訳語は、むしろ適切ではなかっただろうか。まあ、言いたいのは、岩淵先生、そんなに怒らないでくださいということだが、このことを天国で知った岩淵先生は、絶対に私を糾弾しにやってくるだろうから、本日はここまで。

posted by ohashi at 02:10| 翻訳論 | 更新情報をチェックする

2020年05月24日

安倍晋三 aka ルイ16世

2020年5月22日の国会質疑で、

【宮本徹】元検事総長らが出した意見書。検察官にも国家公務員法の適用をすると従来の解釈を変更したことについて、「フランスの絶対王制を確立し君臨したルイ14世の言葉として伝えられる『朕は国家である』との中世の亡霊のような言葉を彷彿(ほうふつ)とさせる姿勢だ」と批判。真摯(しんし)に耳を傾けるべきではないか。

【安倍晋三】あの、ルイ16世(正しくは14世)と同じとまで言われると、多くの方々はそれは違うのではないかと思うのではないか。私がここに立っているのも、民主的な選挙を経て選ばれた国会議員によって選出された。根本的なところをよく見ていただかなければならない。共産党はどのように党首を決められるか承知をしていないが、我が党で選挙によって総裁を選んでいる。


安倍首相は、ルイ14世というべきところ、堂々とルイ16世とまちがえたことについて、そこからいろいろなことがわかる。

まず安倍首相が馬鹿だということは、いまさらいうまでもない。

ただ、これは官僚が作った原稿を読んだのだとしたら、官僚が、ふつう、こんなまちがいをするわけはないから、意図的に、この馬鹿宰相に恥をかかせてやろうとしたのだろう、ならば拍手喝采したいのだが、そうではないとしたら、また、こうした言い間違いは、誰でもすることだから、その言い間違い一つだけをとって、馬鹿呼ばわりするのは大人げないことは事実だろう。

つまり太陽王・「朕は国家なり」のルイ14世と、ルイ16世との区別もつかない安倍が、無教養な人間である可能性は99パーセントだが、しかし、区別はついていた可能性はある。

となると、言い間違いということだが、フロイトも指摘しているように、言い間違いというのは嘘ではない。建前だけの答弁は嘘のかたまりである。言い間違いのなかに本音がでる。だから言い間違いは、実は、真実が開示され、真のコミュニケーションが達成された稀有の瞬間である。

では今回の言い間違いというのは、反安倍勢力が指摘しているように、フランス革命で断頭台の露と消えたルイ16世を、まちがって自分になぞらえた首相は、「ギロチンを恐れている」のだろう。国民の反発によって、首相の座から引きずり下ろされることへの恐怖が、あるいいは、確かな予感が、首相に無意識のうちに、自身をルイ16世になぞらえさせたのだろう。

そしていうまでもない。ルイ16世の王妃マリー・アントワネット。実際、フランス革命では、ルイ16世への憎悪というよりも、バカ王妃マリー・アントワネットに対する嫌悪が国王夫妻の処刑をうながしたところがある。

私たちは安倍首相夫妻の姿に、いま、ルイ16世とマリー・アントワネットの姿を重ねている。
posted by ohashi at 18:54| コメント | 更新情報をチェックする

2020年05月09日

Stay Home and Watch

◎2020年5月9日 
終着駅 牛尾刑事VS事件記者・冴子「ラストファミリー」』午後1:30~午後4:00 テレビ朝日

をぼんやり見ていたら、警察が、電話での通報者を特定するために、通報の内容を紙に印字して、関係者に音読させて、通報者が誰かをつきとめようとする場面があった。

一見、よいアイデアのように思えるのだが、関係者に真の通報者がふくまれていなかったら、犯人を突き止めるというポジティヴな意味ではなく、誰が無関係かを確定する消極的な意味しかないし、もし、ほんとうの通報者が音読予定者にふくまれていていたら、まともに音読するわけがなく、あの手この手を使ってごまかそうとするだろう。もちろん機械的分析のまえにはごまかしは通用しないのだろうが、しかし、これが捜査方法だったら、恐い。

というのも クリント・イーストウッド監督の映画『リチャード・ジュエル』(Richard Jewell)(2019年、日本公開2020年)のなかでリチャード・ジュエルが、FBIの捜査官たちからテロリストの電話の内容と同じ言葉を音読させられるところがあったが、それを思い出したからだ。

今年1月に公開されたばかり映画だが、またそのころ新型コロナウィルスの話はもちあがっていたが、まさかパンデミックになるとは思わなかった頃で、遠い昔のような気がする。そのため記憶が曖昧になっているのだが、たしかジュエルは、その方法の危険性を見抜き、踏みとどまったように思った。サム・ロックウェル扮する弁護士も、あわやというところでかけつけた。

見ている側は、ジュエルが犯人でないことを知っているので、FBIの言いなりになると犯人に仕立て上げられるのではないかと、はらはらしながら見ているが(予告編でも録音に応じたか応じないかは、示されていなかった)、あそこで踏みとどまったジュエルの洞察と勇気には感服する。実際、同じ立場になったら、私は、自分が犯人ではないことは自分でわかっているから、へんに容疑をかけられないために、すすんで協力する。そして録音に応じて、その録音を犯人の声として使われ、私が有罪になる。

これは麻薬捜査官が、容疑者の家に踏み込んでから、麻薬をその家において、それを証拠として(まさに証拠のでっちあげ)犯人を逮捕するようなものである。

私たちは自分が無罪であれば、真犯人逮捕に協力する。そして捜査に協力することで自分が真犯人に仕立て上げられる。なんとうい不条理。録音の場合、自分の無実の証明となるものが有罪の証拠になる。へたに協力しないほうがいい。しかし協力しないと逆に疑われる。協力しないことが真犯人の証となる。協力してもしなくても真犯人になる。見込まれたら逃れることはできない。

そしてこの苦境は、なにかのアレゴリーにもなるが、それについてはじっくり考える。

いま思い出したが、FBIによる録音要請を一度は断ったジュエルだったが、家宅捜索に入られたとき、あれほど、何も協力するなしゃべるなと弁護士に言われていたジュエルが、自宅で録音に応じてしまう(実は予告編の映像は、このときの映像で、結局、録音されてしまうのだが)。弁護士からは軽率さを非難されるのだが、協力したことが最終的にジュエルにとって、その無実の証拠のひとつとなるところがあって、なにが起こるのか、なにが吉とでるのか、ほんとうによくわからない。

◎2020年5月10日
エヴァンゲリオン
2020年に公開予定の(さていつになることか)映画版『エヴァンゲリオン』にあわせて、テレビ(地上波やBS)で過去のテレビシーズの再放送や、昨日/本日は、NHKBSでは映画版第一部(内容はテレビシリーズ前半の総集編)を放送していて、まさにときどき拾い見しているのだが、映画版第一部「序」は、テレビシリーズとかわりない総集編でしかなく、がっかりした観があったが、いまみると、そのテレビシリーズが、やはりすごすぎて、シリーズ前半の総集編でも、見応えがある。

そもそもテレビシリーズ自体、いまみても、あるいは、いまみるからこそ、驚くべきレベルの高さに到達していて、驚愕と震撼におそわれる。映像も、日常と非日常とが混在というか共存する点、シモン・ストーレンハーグの『ザ・ループ TALES FROM THE LOOP』にはじまる「絵物語」の光景よりも強度が上がっていることは誰もが実感するだろう。

近未来の、しかも「使徒」が意味もなく襲ってくる不条理な物語が、箱根湯本の周辺で起こっている(以前、箱根湯本を訪れたとき、これはエヴァンゲリオンの街だと驚いたのだが)のだから。

ちなみにテレビシリーズの再放送で葛城ミサトが、コンビニで「宇部ラーメン」というのを購入し(どんなものか不明)、しかも彼女の家には、放送当時、読み方すらわからなかった日本酒「獺祭」の空き瓶がころがっている。この人は、山口県出身の人なのかと、そういう設定だったのかと思い至った。もっとも出身ではなく、たんに山口県のグッズとか食品・酒が好きなだけかとも思ったのだが。

posted by ohashi at 21:58| コメント | 更新情報をチェックする

2020年05月08日

マスクがある

本日、突然、マスク五〇枚が送られてきた。ラベルを見ると中国から。なにかのいたずらかと思いつつ、念のため、AMAZONの注文履歴を調べてみたら、あった3月8日にマスクを注文していた。割高だが、3000円前後。

当時、自分用のマスクがなくなる日が目前に迫っていたので、だめでもともとでAMAZONに3月8日に注文した。その後、なんの連絡もなく、配送の遅れとか、あるいはキャンセルの通知もなく、こちらもすっかり忘れていた。どうせ、マスクは届かないとほんとうに諦めていた。それが2ヶ月後に突然、送られてきた。

すでに東京では、私は外出自粛中で目撃していないのだが、使い捨てマスクが大量に売られているということらしい。AMAONでも調べてみたら(マスク品薄は解消しないだろうと思い、調べようともしなかったが)、いまやマスクは大量に売られていて、注文したら早ければ翌日に届くようだ。

これでますますアベノマスクの価値がなくなった。そもそもアベノマスクの単価は、いま大量に市場に出始めたマスクよりも高い。洗える?2,3回洗えて使えなくなる。使え捨てマスクでも、2,3回は洗える。しかもアベノマスクは不良品あるいは医療品ですらないような出来損ないなのだし、配付も滞っているのだから。アベノミクスではじまり、アベノマスクでほんとうに終わってほしいものだ。

posted by ohashi at 23:16| コメント | 更新情報をチェックする

2020年05月02日

5月1日以降に追加した記事

5月1日付け 疫病と戦争
5月8日付け マスクがある
5月9日付け Stay Home and Watch 5月9日 『終着駅」
5月10日付け Sray Home and Watch 5月10日 『エヴァンゲリオン』 
5月24日付け 安倍晋三 aka ルイ16世
5月29日付け 翻訳の闇 5
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2020年05月01日

疫病と戦争

新型コロナウィルス感染との戦いを、まさに戦いであるからには戦争あるいは戦争状態ととらえる見方がある。感染との戦いを戦争にたとえることで、みえなくなること、ごまかされることもあるが、同時に、みえてくることもある。利益相反というのと同じかどうかもわからないが、パンデミックを戦争状態とたとえることで、なにがみえてくるかを探ることは、無益なことではないと思う。

サーズとかマーズとか新型インフルエンザ蔓延といった過去の事例において、それがパンデミック化しなかったこともあって、今回の新型コロナウィルス感染もすぐに終息するだろうという予想が、なんとなく拡がっていた。

ところがパンデミック化し、先がまったく見通せない状態になっている。中国ではまっさきに感染がひろがり、まっさきに終わったようになっているが、中国人もバカではない。いまなお感染に対しては神経をとがらせていることはわかる。ほんとうに終わったわけではなし、ほんとうに終わることもなく、疫病と人間は共存するしかないともいわれている。

思い起こすのは、第一次世界大戦当初の英国である(当時は、大戦The Great Warとだけ呼ばれた。二番目の大戦が生じて、逆行して第一次の名称が生まれた)。その当時についての歴史的知識はないし、そもそも私は歴史家ではないが、第一次世界大戦を扱った劇映画とかドキュメンタリー映画などを見ると、開戦当初、戦争はすぐに終わるとみんな考えていたふしがある。誰もが、小さな紛争程度に考えていて、数ヶ月で、あるいは長くて半年で終わるとみていた。だから、すぐに終わりそうだから、男なら、さっさと志願して出征して、武勲をたてて帰国すべきだ、いまがチャンスだとほんとうに楽観視していたようだ。

数ヶ月で終わるはずの戦争は4,5年かかった。まさに地獄のような世界大戦がつづき、終わった原因も、スペイン風邪のパンデミックだったようで、悲惨さはたとえようがない。

今回の新型コロナウィルス感染のパンデミックも、いまもなお、数ヶ月で終わると、長くても年内で終わると考えている人間が多いのではないだろうか。オリンピックも1年延期すればなんとかなるというのも、同様の考え方だろう。

早く終息することは、誰もが願っていることと思うが、同時に、甘い考えがもたらす驚きや落胆は、パンデミック以上に害があるかもしれない。あと数ヶ月ではおさまらならいような気がする。
posted by ohashi at 19:00| エッセイ | 更新情報をチェックする