岩淵達治訳の岩波文庫版の翻訳に問題があるわけではない。
岩淵先生は、もうご存命ではないのだが、もしご存命中であれば、まぎがらわしいことをするなと本気で怒られそうで、冷や汗をかきながら書いている。
ビューヒナーの作品が全部、日本語で読めるのも、また岩波文庫版で代表作の戯曲『ダントンの死』と未完の断片『ヴォイツェク』を読むことができるのも、岩淵達治氏の功績であり、私たちはどんなに感謝してもしきれない。河出書房版の『ビューヒナー全集』と、岩淵達治個人訳の『ブレヒト戯曲集』(未来社)は、演劇に関心がある者ならいつも手元においておくべき文献であろう。私の場合もそうである(といいながら、河出書房の全集は、研究室から本を引き取るときに、どこかにまぎれてしまい、いまだ発見していないのだが)。
最近『ヴォイツェク』を岩波文庫で読み直す機会があって、一カ所だけ気になるところがあった。
第14場。兵営の一室で、幻聴と幻覚に苦しめられているヴォイツェクに同僚のアンドレースにこう助言する。
ヴォイツェク まだ言っているぞ、殺せ殺せって。そしてナイフが目の前にちらつくんだ。
アンドレース 焼酎に粉薬を入れたのを飲むといい、熱がたちまち下がるぞ。(p.103)
妻(正式に結婚をしていないが)の不貞に悩むヴォイツェクは、オセローとマクベスを合体したかのような人格崩壊におちいっていく。幻聴に悩まされ、幻覚におびえているのである。そのとき同僚のアンドレースが「焼酎に粉薬を入れて飲むといい」と助言している。たぶん薬の鎮痛効果で悩みが消えるということだろう。
ちなみに、この部分に翻訳者の岩淵達治先生は訳注をつけていて
驚いたことに、この部分はベントリー(ブレヒトの訳者として有名)の訳したロバート・ウィルソンの台本では、粉薬(ドイツ語Pulver、英語Powder)が、火薬(gunpowder)と訳されている。心臓病ならニトログリセリンということもあるだろうが、ウィルソンの『ヴォイツェク』がいか|に出鱈目(でたらめとルビ)であるかの例証としてここに付言しておく。(pp.305-306)
とある。
岩淵先生、ロバート・ウィルソンの翻案にはほんとうに怒っていて、文庫版の随所で、本気の批判が展開する。
しかし、こんなことを書くと岩淵先生の怒りを倍増させるかもしれないが、ロバート・ウィルソンは演出家というよりもアーティストであって、そのパフォーマンスは原作の味わいなり良さを再現するというよりも、独自の世界を造型するものであって、だからこそ、ウィルソン版の『ヴォイツェク』は上演というよりも翻案なのであり、ロバート・ウィルソンにとってビューヒナーの作品は独自の芸術創造の契機にすぎない。原作に対する忠実度が少ないからと目くじらをたててもしょうがないのではないか。
またロバート・ウィルソンがドイツ語を理解していないのにビューヒナー作品の演出に手を染めることはけしからんと岩淵先生は考えているようだが、そういう見解はあっていいとしても、英語訳はベントレーの翻訳であって、ロバート・ウィルソンが翻訳しているわけではない。ベントレーの不適切な翻訳あるいは誤訳に気づかず、そのまま使っているウィルソンはけしからんということなのだろうが、その場合も、問題はベントレーの英訳であって、ウィルソンは関係ないのではないか――などと書くと、おまえの考えはまちがっていると、二倍、三倍返し、いや十倍返しとなって岩淵先生から叱られそうなので、この件は、これ以上深入りしないが、ひとつだけ。ベントレーの英訳は、そんなにへんなのだろうか。
ドイツ語のPulverも英語のPowderも、特殊な意味として火薬の意味がある。Pulverをそのままpowderと訳したら、わかりにくいか、違和感があると英訳者は考えた。そこで火薬gunpowderと訳した。
私には、なんとも言えないのだが、火薬が薬代わりに用いられたことがあるようだ。たとえば以下のサイト(Early Modern Medicine「初期近代医療/医薬」と題された英語のサイト)には、火薬が薬として使われた、あるいは火薬に薬効があると考えられていたことが関連資料とともに示されている。https://earlymodernmedicine.com/gunpowder/参照。
私にはこの史実について判定できる能力も資料ももちあわせていないが、考えられないことはない。
そもそもpowderを薬剤として考えるのは、違和感がある。というのもヴォイツェクは一兵卒で貧乏人である。妻と子どもを養うために隊長の髭を剃ったり、いかがわしい医者の人体実験に志願している。そんなヴォイツェクに同僚が、酒に粉薬をいれて飲めば、ふさぎの虫あるいは幻覚や幻聴など直ると助言するのはおかしい。つまり、そんなちょっとした気のふさぎに効くような薬を、貧乏な一兵卒が常時もっているのだろうか(人体実験をおこなっている医者から処方してもらったという可能性がないわけではないが、今風にいうと糖質ダイエットみたいな人体実験をしている医者が、被験者のヴォイツェクに実験の効果を打ち消すかもしれないような薬剤を処方するだろうか)。
粉末の薬など貧乏な一兵卒がもつことはないのに対し、軍隊で火薬は手に入りやすい。「焼酎」と訳されているものが、ドイツ語原文がわからないので、なんであるかはわからないが、火薬を酒に入れて飲めば、いろいろな効果があるという、まあ、一種の迷信みたいなことが軍隊で拡がっていたことは想像にかたくない。
英訳者は、確信があったのか、カンめいたもの、推測でそうしたのか、あるいは、強引に、実在しない迷信じみた慣習をでっちあげたのか、私にはわからないが、酒に火薬をまぜて飲めば体調不良が直せるという、軍隊のみで通用するような迷信じみた慣習という細部は、原作に対する裏切りでも無視でも、またドイツ語に対する理解力のなさでもないように思われる。
だからgunpowderという訳語は、むしろ適切ではなかっただろうか。まあ、言いたいのは、岩淵先生、そんなに怒らないでくださいということだが、このことを天国で知った岩淵先生は、絶対に私を糾弾しにやってくるだろうから、本日はここまで。