これは私自身、感染して死ぬかもしれないという恐怖とあきらめとが入り交じった気持ちで、この医療崩壊のなか、もし感染したら、処置してもらえずに肺炎で窒息して死ぬしかないからである。埼玉県の住人なので、感染したらもう終わりである。
私だけが特別扱いされることはないだろう(私は在職中、東京大学の近くで酒を飲んでいたら、気分が悪くなり気を失って救急車を呼ぶ事態になったのだが、そのとき私の身分(東京大学文学部教授)であることを救急隊員に告げて、東京大学病院に連絡をとってもらったが、病床がないということで断られた。幸いにも近くの東京医科歯科大学病院で受け入れてもらえた。東京医科歯科大学病院の適切な処置で、数時間後には歩いて帰ることができるようになったので、どんなに感謝しても感謝しきれないが、東京大学病院には特別扱いしてもらえなかった)。それどころかむしろ老人で治療しても意味がないからと放置されることは確実だからである。
そこで死を待ちながら、なにかわかったような気がしてきたのは、疫病神のことである。
私の家は、仏教(曹同宗)の檀家だが、母方の祖母の実家は、山口県防府天満宮の関係者らしい。防府天満宮は、京都の北野天満宮、太宰府天満宮とならんで三大天満宮のひとつで、学問の神様であり、牛に関係する。牛には縁があるようだ。いっぽう、父方の祖母の実家も、神社の宮司の家らしく、その神社がまつっているのが牛頭天王である。京都の八坂神社の祭神は午頭天皇だが、八坂神社とは関係がない。
午頭天皇については、山本ひろ子著『異神――中世日本の秘教的世界〈下〉』 (ちくま学芸文庫 2003)に書かれていたのだが、いまはこの本は絶版みたいで、AMAZONではとんでもない高値がついているのだが、この本を読んだとき、私は、疫病神というのは、比喩ではなく、ほんとうにいたのだということを知って驚いた。
午頭天皇は疫病の神である。新型コロナ・ウィルスの神だというと、そのおぞましさが強く印象づけられる。
問題は、なぜ、こんなほんとうの疫病神を昔の人は崇拝したのだろうかということだ。
午頭天王は信長、秀吉、家康といった戦国武将に崇拝されたらしいのだが、これはわからぬことはない。天王というのは、日本神話のスサノウから来ている。荒ぶる神、怒れる神、いくさの神でもあろう。いつ殺されるかもしれない戦国の世に、慈愛に満ちた神は祈りの対象ではない。むしろ、この荒ぶる神こそ、下手をすると、いくさに勝たしてくれるどころか、近づきすぎると、その荒々しいエネルギーに巻き込まれて殺されかねないこの神こそ、戦国武将に似つかわしいだろう。
一説によると信長は安土城の内部にこの牛頭天王をまつっていた。そこに宣教師をまねいて、信長が信仰している神をみせた。牛の頭をした神である。
これはミノタウロスなのだが(実際、牛頭天王のルーツは、かたやスサノウ、もうひとつはインド(さらにその向こうの中近東からヨーロッパ)であって、ミノタウロスという連想は、あながちまちがいではない)、ただしミノタウロスはあくまで牛の頭をした怪物であって神性はないのだが、聖書で語られる邪神モロクも牛の頭をしている。邪神、あるいは悪魔である。信長が悪魔崇拝者であることを知った(あるいは誤解した)宣教師たちは、ひそかに光秀をそそのかして信長を殺させることになった。本能寺事件=宣教師説を私は信じている。
とまれ牛頭天王は、戦国武将だけでなく、広く庶民によって信仰の対象となったし、その祭りもある。それはなぜか。疫病神は、たしかに疫病をもたらし社会や文化を破壊するのだが、同時に古代から中世にかけての宇宙観あるいは自然観では、死は、決してそれで終わるのではなく再生とむすびつく。死や破壊のあとには再生がくる。破壊の神は、再生の神でもある。したがって疫病神信仰は、再生信仰でもある。冬が来れば必ず春が来る。疫病神信仰は死を望むのではなく、再生を望むものなのだ。まあ、そんなふうに考えていた。
しかし、この新型コロナ・ウィルス感染の非常事態となってみると、そんな再生信仰といった、なまやさしい問題ではないような気がしてきた。
スラヴォイ・ジジェクがどこかの本で紹介していた劇作家ブレヒトの体験がある(思い出したら、ここに情報を補完するつもりだが)。うろおぼえで恐縮だが、戦後の東ドイツで、動乱を鎮圧するために侵攻するソ連軍(あるいはワルシャワ条約軍)の戦車をみて(ハンガリー動乱のことだったのかもしれないが)、そのときブレヒトは感極まって、ほんとに共産党員になろうとしたということである。
ジジェクによれば、このブレヒトの反応は、リアル(ラカン的な意味で)をみたときの反応であるという。つまり一切の解釈や希望的観測をも拒む、名状しがたいまがまがしい暴力の現前に圧倒されて、共産党に帰依あるいは帰属しようとしたのである。ジジェクによれば、二〇世紀は、まさにこうしたリアルを模索し、そしてリアルに圧倒されることを望んでいたのである。
逃げることも、隠れることもできない、目を閉ざすことも、目をそらすこともできない、まがまがしいリアル、その崇高性の力に接するとき、かぎりないオルガスムがもたらされるか、あるいは無惨に殺されるか。愛と死は、同じである。
それはまたいいかえれば、真実に帰依することである。疫病神信仰というのは、なにか御利益をもとめるとか、希望にすがるためのものではなく、死ぬためのものである。せめて死ぬときには世界の真実とむかいあいたい。あるいは世界の真実とむきあう代償として私の命を差し出すということになれば、これほどすばらしいことはない。
裸のむき出しの死との直面。これこそ人間が求めてやまないものであり、また求めても簡単には手に入らないものであるが、いまのような疫病の時代、パンデミックの時代には、それが荒唐無稽な、あるいは病んだ夢ではなくなりつつある。
これは私が昔翻訳した本のなかで紹介されていた事例なのだが(ただしこの本は私の業績には入っていない、また原書も、翻訳もなくしてしまったので、これもうろおぼえなのでお詫びするしかないが)、第二次世界大戦末期の沖縄に上陸したアメリカ軍のなかで起きた事件。ジープが砲撃か地雷かなにかで転覆して乗っていた兵士がジープの下敷きになった。時間がかかった救出作業のさなか、下敷きになっている兵士に、救助隊員が声をかけた。だいじょうぶか、苦しくないか、痛くないか、と。すると下敷きになって、おそらく内臓が潰れたり、骨折したりしている兵士は、平気だ、苦しくも痛くもないと快活に返事をしつづけた。そうして快活に苦しむことなく、やがて死んでいった。
人間は、このように耐えがたい苦痛のなかで死ぬときには脳内になにか物質がでて、痛みをまったく感ずることがなくなるのではないか。これは無益な仮説ではない。死すべき運命にある動物にとって、苦痛なき死が最後には約束されているというのだ。たしかに、たとえば捕食動物に襲われて食べられるしかない動物は、死の瞬間、なにも感じていないようにみえる。また、それは、私が死ぬときにも、苦痛なき死が約束されているようで、すこし安心もする。
とはいえ、この死は他人事である。死ぬときは、死ぬほどの恐怖と苦痛をあじあわなければ死んだ意味がないのではないか。
暗い時代に、楽観的になるほど愚かなことはない。たとえ被害妄想であっても絶望し希望をいだかないことのほうが賢明である。
いま、日本は、政府の愚策のせいで、ウィルス感染の真の姿が隠蔽されて、国民の多くは、簡単に感染が収束するというおろかな期待をいだかされてきた。日本、だいじょうぶだ。日本、すごいという低次元のスローガンが跋扈していて、いつから日本人は、こんなに低脳になったかと驚きあきれるほかはないが、オリンピックを開催するために(だが、このオリンピック・ファーストは、アスリート・ファーストではなく経済ファーストなのだが)PCR検査数をおさえて感染者数を少なくし、日本安全という虚像をつくろうとし、その間、陽性と認知されないまま感染者が増えていき、死者もふえた(感染して死亡した者も多いはずなのに、死者にはPCR検査をさせないとう、どこまで虚像にしがみつくのかと、あきれるほかない政府の愚策には怒りしか覚えない)。
虚構の日本の安全をアピールする、あるいは日本安全の印象操作をするために、医療崩壊がおこるという口実のもとに、感染者を出さないのようにしてきた――つまり検査しなければ感染者の存在が浮かび上がらないからだ。裏を返せば、これは国民の選別であり、なにがなんでも国民を助けるというのではなく、なにがなんでも経済を優先して、国民を見捨てるという政策は、人道への犯罪であり、そして疫病など、目配せひとつで、忖度してくれるし、収束後の就職先を約束してやれば、すぐにも収まるか、日本を回避してくれるという、思い上がった、あるいはあまりにも愚かな全能感に支えられた幻想でしかない。その幻想の犠牲者に国民ひとりひとりがいまにもなろうとしている。
ふたつの死がある。安倍に殺される死と、新型コロナ・ウィルスに殺される死である。安倍による国民選別の犠牲になって殺されるのだけは絶対にいやである。あるいは日本すごい、日本だいじょうぶだという幻想のもとに、なんの痛みも感ずることなく、感染もおさまり、またいつもの日常がもどると信じて、つぎの瞬間死んでゆくことになるというのも、つまり、この自覚なき、幻想に呪縛された死はいやである。
安倍に殺されるくらいなら、新型コロナ・ウィルスに殺されるほうがずっといい。絶対にいい。安倍一味による国民選別によって私が見捨てられ死ぬしかないときにも、やはり新型コロナ・ウィルスに殺されたいと思うし、実際、そうなることを望むしかない。新型コロナ・ウィルスは忖度しない。誰もが等しく感染する可能性がある。ならば、もはや逃げることもできないというのなら、この疫病神の前に、身を投げ出して踏み潰されることを願うしかない。
そう、ジャガーノートJuggernaut。辞書の説明によれば
インド神話のクリシュナの神像で、毎年の例祭に、その巨大な山車にひかれると極楽往生できるという迷信から、信者たちが車輪の下に身を投げ出したという。
御利益を求めてひき殺される信者もいたかもしれないが、むしろひき殺されること自体が御利益なのである。そしてひき殺される瞬間、死ぬ者は、まがまがしい神の顔を、リアルを目前にしているのである。その神の顔は、進撃の巨人に登場する巨人のように無表情であろう。それがリアル。そしてその瞬間、死にゆくものは、まさにその刹那、残酷な神に全身全霊をあげて帰依しているのである。
疫病神信仰は、死ぬことで完成する信仰行為である。御利益など世俗に生きる人間の低脳な妄想であろう。あるいは死ぬことが御利益であること。
新型コロナ・ウィルス感染におびえる日々をおくるなかで、疫病神信仰のプロセスが少しわかったような気がしている。