2020年04月28日

疫病〈神)

パンデミックの今日この頃、私としては退職後の自宅でのこれまでの生活と、外出自粛後の生活は、ほとんど大差ないので(強いて言えば映画・演劇鑑賞のための外出がなくなったことぐらい)、とくに精神的に不満がたまっているわけではないが、新型コロナウィルス感染の増加を前にして、先が見えない成り行きに、暗い気持ちでいるというのは、これまでになかったことだ。

これは私自身、感染して死ぬかもしれないという恐怖とあきらめとが入り交じった気持ちで、この医療崩壊のなか、もし感染したら、処置してもらえずに肺炎で窒息して死ぬしかないからである。埼玉県の住人なので、感染したらもう終わりである。

私だけが特別扱いされることはないだろう(私は在職中、東京大学の近くで酒を飲んでいたら、気分が悪くなり気を失って救急車を呼ぶ事態になったのだが、そのとき私の身分(東京大学文学部教授)であることを救急隊員に告げて、東京大学病院に連絡をとってもらったが、病床がないということで断られた。幸いにも近くの東京医科歯科大学病院で受け入れてもらえた。東京医科歯科大学病院の適切な処置で、数時間後には歩いて帰ることができるようになったので、どんなに感謝しても感謝しきれないが、東京大学病院には特別扱いしてもらえなかった)。それどころかむしろ老人で治療しても意味がないからと放置されることは確実だからである。

そこで死を待ちながら、なにかわかったような気がしてきたのは、疫病神のことである。

私の家は、仏教(曹同宗)の檀家だが、母方の祖母の実家は、山口県防府天満宮の関係者らしい。防府天満宮は、京都の北野天満宮、太宰府天満宮とならんで三大天満宮のひとつで、学問の神様であり、牛に関係する。牛には縁があるようだ。いっぽう、父方の祖母の実家も、神社の宮司の家らしく、その神社がまつっているのが牛頭天王である。京都の八坂神社の祭神は午頭天皇だが、八坂神社とは関係がない。

午頭天皇については、山本ひろ子著『異神――中世日本の秘教的世界〈下〉』 (ちくま学芸文庫 2003)に書かれていたのだが、いまはこの本は絶版みたいで、AMAZONではとんでもない高値がついているのだが、この本を読んだとき、私は、疫病神というのは、比喩ではなく、ほんとうにいたのだということを知って驚いた。

午頭天皇は疫病の神である。新型コロナ・ウィルスの神だというと、そのおぞましさが強く印象づけられる。

問題は、なぜ、こんなほんとうの疫病神を昔の人は崇拝したのだろうかということだ。

午頭天王は信長、秀吉、家康といった戦国武将に崇拝されたらしいのだが、これはわからぬことはない。天王というのは、日本神話のスサノウから来ている。荒ぶる神、怒れる神、いくさの神でもあろう。いつ殺されるかもしれない戦国の世に、慈愛に満ちた神は祈りの対象ではない。むしろ、この荒ぶる神こそ、下手をすると、いくさに勝たしてくれるどころか、近づきすぎると、その荒々しいエネルギーに巻き込まれて殺されかねないこの神こそ、戦国武将に似つかわしいだろう。

一説によると信長は安土城の内部にこの牛頭天王をまつっていた。そこに宣教師をまねいて、信長が信仰している神をみせた。牛の頭をした神である。

これはミノタウロスなのだが(実際、牛頭天王のルーツは、かたやスサノウ、もうひとつはインド(さらにその向こうの中近東からヨーロッパ)であって、ミノタウロスという連想は、あながちまちがいではない)、ただしミノタウロスはあくまで牛の頭をした怪物であって神性はないのだが、聖書で語られる邪神モロクも牛の頭をしている。邪神、あるいは悪魔である。信長が悪魔崇拝者であることを知った(あるいは誤解した)宣教師たちは、ひそかに光秀をそそのかして信長を殺させることになった。本能寺事件=宣教師説を私は信じている。

とまれ牛頭天王は、戦国武将だけでなく、広く庶民によって信仰の対象となったし、その祭りもある。それはなぜか。疫病神は、たしかに疫病をもたらし社会や文化を破壊するのだが、同時に古代から中世にかけての宇宙観あるいは自然観では、死は、決してそれで終わるのではなく再生とむすびつく。死や破壊のあとには再生がくる。破壊の神は、再生の神でもある。したがって疫病神信仰は、再生信仰でもある。冬が来れば必ず春が来る。疫病神信仰は死を望むのではなく、再生を望むものなのだ。まあ、そんなふうに考えていた。

しかし、この新型コロナ・ウィルス感染の非常事態となってみると、そんな再生信仰といった、なまやさしい問題ではないような気がしてきた。

スラヴォイ・ジジェクがどこかの本で紹介していた劇作家ブレヒトの体験がある(思い出したら、ここに情報を補完するつもりだが)。うろおぼえで恐縮だが、戦後の東ドイツで、動乱を鎮圧するために侵攻するソ連軍(あるいはワルシャワ条約軍)の戦車をみて(ハンガリー動乱のことだったのかもしれないが)、そのときブレヒトは感極まって、ほんとに共産党員になろうとしたということである。

ジジェクによれば、このブレヒトの反応は、リアル(ラカン的な意味で)をみたときの反応であるという。つまり一切の解釈や希望的観測をも拒む、名状しがたいまがまがしい暴力の現前に圧倒されて、共産党に帰依あるいは帰属しようとしたのである。ジジェクによれば、二〇世紀は、まさにこうしたリアルを模索し、そしてリアルに圧倒されることを望んでいたのである。

逃げることも、隠れることもできない、目を閉ざすことも、目をそらすこともできない、まがまがしいリアル、その崇高性の力に接するとき、かぎりないオルガスムがもたらされるか、あるいは無惨に殺されるか。愛と死は、同じである。

それはまたいいかえれば、真実に帰依することである。疫病神信仰というのは、なにか御利益をもとめるとか、希望にすがるためのものではなく、死ぬためのものである。せめて死ぬときには世界の真実とむかいあいたい。あるいは世界の真実とむきあう代償として私の命を差し出すということになれば、これほどすばらしいことはない。

裸のむき出しの死との直面。これこそ人間が求めてやまないものであり、また求めても簡単には手に入らないものであるが、いまのような疫病の時代、パンデミックの時代には、それが荒唐無稽な、あるいは病んだ夢ではなくなりつつある。

これは私が昔翻訳した本のなかで紹介されていた事例なのだが(ただしこの本は私の業績には入っていない、また原書も、翻訳もなくしてしまったので、これもうろおぼえなのでお詫びするしかないが)、第二次世界大戦末期の沖縄に上陸したアメリカ軍のなかで起きた事件。ジープが砲撃か地雷かなにかで転覆して乗っていた兵士がジープの下敷きになった。時間がかかった救出作業のさなか、下敷きになっている兵士に、救助隊員が声をかけた。だいじょうぶか、苦しくないか、痛くないか、と。すると下敷きになって、おそらく内臓が潰れたり、骨折したりしている兵士は、平気だ、苦しくも痛くもないと快活に返事をしつづけた。そうして快活に苦しむことなく、やがて死んでいった。

人間は、このように耐えがたい苦痛のなかで死ぬときには脳内になにか物質がでて、痛みをまったく感ずることがなくなるのではないか。これは無益な仮説ではない。死すべき運命にある動物にとって、苦痛なき死が最後には約束されているというのだ。たしかに、たとえば捕食動物に襲われて食べられるしかない動物は、死の瞬間、なにも感じていないようにみえる。また、それは、私が死ぬときにも、苦痛なき死が約束されているようで、すこし安心もする。

とはいえ、この死は他人事である。死ぬときは、死ぬほどの恐怖と苦痛をあじあわなければ死んだ意味がないのではないか。

暗い時代に、楽観的になるほど愚かなことはない。たとえ被害妄想であっても絶望し希望をいだかないことのほうが賢明である。

いま、日本は、政府の愚策のせいで、ウィルス感染の真の姿が隠蔽されて、国民の多くは、簡単に感染が収束するというおろかな期待をいだかされてきた。日本、だいじょうぶだ。日本、すごいという低次元のスローガンが跋扈していて、いつから日本人は、こんなに低脳になったかと驚きあきれるほかはないが、オリンピックを開催するために(だが、このオリンピック・ファーストは、アスリート・ファーストではなく経済ファーストなのだが)PCR検査数をおさえて感染者数を少なくし、日本安全という虚像をつくろうとし、その間、陽性と認知されないまま感染者が増えていき、死者もふえた(感染して死亡した者も多いはずなのに、死者にはPCR検査をさせないとう、どこまで虚像にしがみつくのかと、あきれるほかない政府の愚策には怒りしか覚えない)。

虚構の日本の安全をアピールする、あるいは日本安全の印象操作をするために、医療崩壊がおこるという口実のもとに、感染者を出さないのようにしてきた――つまり検査しなければ感染者の存在が浮かび上がらないからだ。裏を返せば、これは国民の選別であり、なにがなんでも国民を助けるというのではなく、なにがなんでも経済を優先して、国民を見捨てるという政策は、人道への犯罪であり、そして疫病など、目配せひとつで、忖度してくれるし、収束後の就職先を約束してやれば、すぐにも収まるか、日本を回避してくれるという、思い上がった、あるいはあまりにも愚かな全能感に支えられた幻想でしかない。その幻想の犠牲者に国民ひとりひとりがいまにもなろうとしている。

ふたつの死がある。安倍に殺される死と、新型コロナ・ウィルスに殺される死である。安倍による国民選別の犠牲になって殺されるのだけは絶対にいやである。あるいは日本すごい、日本だいじょうぶだという幻想のもとに、なんの痛みも感ずることなく、感染もおさまり、またいつもの日常がもどると信じて、つぎの瞬間死んでゆくことになるというのも、つまり、この自覚なき、幻想に呪縛された死はいやである。

安倍に殺されるくらいなら、新型コロナ・ウィルスに殺されるほうがずっといい。絶対にいい。安倍一味による国民選別によって私が見捨てられ死ぬしかないときにも、やはり新型コロナ・ウィルスに殺されたいと思うし、実際、そうなることを望むしかない。新型コロナ・ウィルスは忖度しない。誰もが等しく感染する可能性がある。ならば、もはや逃げることもできないというのなら、この疫病神の前に、身を投げ出して踏み潰されることを願うしかない。

そう、ジャガーノートJuggernaut。辞書の説明によれば

インド神話のクリシュナの神像で、毎年の例祭に、その巨大な山車にひかれると極楽往生できるという迷信から、信者たちが車輪の下に身を投げ出したという。


御利益を求めてひき殺される信者もいたかもしれないが、むしろひき殺されること自体が御利益なのである。そしてひき殺される瞬間、死ぬ者は、まがまがしい神の顔を、リアルを目前にしているのである。その神の顔は、進撃の巨人に登場する巨人のように無表情であろう。それがリアル。そしてその瞬間、死にゆくものは、まさにその刹那、残酷な神に全身全霊をあげて帰依しているのである。

疫病神信仰は、死ぬことで完成する信仰行為である。御利益など世俗に生きる人間の低脳な妄想であろう。あるいは死ぬことが御利益であること。

新型コロナ・ウィルス感染におびえる日々をおくるなかで、疫病神信仰のプロセスが少しわかったような気がしている。
posted by ohashi at 04:22| エッセイ | 更新情報をチェックする

2020年04月15日

翻訳の闇 始動篇

私が大学の英文科に入学したとき、一学年25名の英文科生に担任の教員が二人つくことになった。一年生の頃から専門の授業が、数は少ないがあって、英文科の一般英語の授業と担任によるクラスの授業がありと、それなりに1年生から充実した授業内容であった。実際、一年生のときに『セールスマンの死』と『ダブリナーズ』を英語でよみ、さらに担任の授業で、英国現代小説を英語で読み、生成文法を学んだ。

一年生のとき、担任からクラス全員に課せられた宿題のようなものがあった。当時に、英文学とか英語・英語教育の関連の雑誌にはたいてい毎号、読者に対して、英文和訳と和文英訳の問題を出すコーナーがあって、出題とあわせて前号の問題に対して読者から寄せられた解答を講評することもおこなわれた。投稿者全員にはAからDまでの評価がつく。

担任から、毎月、毎号、そこに投稿せよという指示がでた。本名で投稿してもいいが、投稿者のほとんどがペンネームで投稿しているので、これからクラス全員に、ランダムに投稿するときのペンネームをあたえると言われた。一応、シェイクスピアの芝居に登場する善男善女の名前ということだった。

とはいえロミオとかジュリエットというような名前ならいいのだが、マクベスというペンネームをもらっても、マクベスは悪人ではないのかとか、あるいはクレオパトラというペンネームをもらっても、彼女は悪女ではなかったかと、まあ問題はあった。

ちなみに私がもらったペンネームは、ハムレットかオセローとかいう有名どころの名前ではなく聞いたことのない名前だった。私は、この人物が誰だか知っているかと、まわりのクラスメイトに聞いたところ、誰も知らなかった。最終的に調べて、どの作品に登場する人物であるかをつきとめたのだが、ここでそれを書いても、シェイクスピアのファンとか研究者でないかぎり、聞いたことのない名前だと思う――だからというわけではないが、秘密にしておく。

閑話休題。で、雑誌そのものは自分で購入しなくても、図書館などにおいてあるし、課題の英文と日本文のところだけコピーすればよいので、とくにお金がかかるということもなかったが、課題でもあるので、とにかく、おそるおそる投稿してみた。

最初の投稿の結果、英文和訳も和文英訳も、ともにBの評価だったと思う。まあ、平均の評価である。投稿者全員の名前と評価が毎号発表されるのだが、それをみるとB評価がいちばん数が多い。だから平均値。そしてそれに満足した。

考えてみてもいい。その雑誌に投稿するのは、英語に自信がある研究者・専門家とか、学校で教えている教員といった人たちであろうと予想できた。そんななかに、つい数ヶ月前にはまだ高校生だった若造が、投稿して、良い成績がもらえるはずはない。また、それは受験英語の英文和訳や和文英訳とは異なり、正確さのみならず、うまさも求められる。毎号、講評を読んでみると、高い評価をもらうのはかなりむつかしいということがわかる。だからBならば、問題ないだろうと安心した。

ところが安心して油断したのがいけなかった。あるとき投稿した英文和訳が、一つの単語についての誤解が全体に波及して、文意というか英文解釈が正解とは逆の内容になってしまったのである。それは講評においても、この投稿者は、この単語を誤訳したため全体の文意がおかしくなっているとコメントされていた。そして評価D。

要するに落第点である。これにはあせった。担任は、毎回、クラスの学生の投稿とその評価をチェックしていると言っていた。評価Bなら問題なく、また大学での成績に悪い影響がでるとも思えなかったが、Dは落第点である。これはまずい。私に英文解釈力がないと担任から評価されたらこれは大問題である。いくら私の早とちりの勘違いのせいだとはいえ。英文科の学生が英文和訳で落第点をとるなどというのはスキャンダル以外のなにものでもない。

そこで気をひきしめて次号から、細心の注意をはらって英文和訳をすることにした。英語を知っている単語もふくめて徹底して辞書で調べ、解釈に誤りながないか、何度も読み返し、そして当時はワープロもパソコンもなく、手書きの原稿による投稿だったのだが、下書きと清書を何度も繰り返した。そして、どうころんでも、Dではないだろうという解答を作成して投稿した。

ちなみに和文英訳は、ずっとBだったが、とくにDになることもなかったので、一念発起することもなく、最後まで(ほぼ一年後まで)Bどまりだった。

一念発起して投稿した英文和訳の課題のほうは、Aの評価をもらったので驚いた。これでDの評価は帳消しになると思い安心した。その後も、大きなミスもないように注意を払いながら、投稿をつづけ、コンスタントにA評価をもらうことになった。

とはいえAもA+、A-と、三段階に分かれていて、およそ一年間の投稿期間中、最後まで最高ランクのA+にはならなかった。ただ、高校生にちょっと毛の生えた程度の大学一年生である。また翻訳の天才ではない私としては、A+をねらっていたが、そこに到達できなくても、それほど悔いはなかった。

この投稿は、クラス全員に求められた課題ではあったのだが、毎月の投稿は、けっこうめんどうで、一人また一人と脱落してゆき、担任も脱落者を責めたりはしなかったので、1年をまたずに全員が、このめんどうな投稿をやめたのだが、英語教員とか英語英文学の専門家にまじって大学一年生がAランクの英文和訳ができたことは誇りに思っているが、ただ、同時に、私のその後の人生において、いまもなおおこなっている翻訳は、やはり自分の翻訳はAどまりでA+ではないという思いは強い。

とはいえAどまりでも、読者には迷惑をかけることはないし、読者にへんな負担をかけないような翻訳を心がけているので、問題はないと思うが、それでも、いまもなおA+の翻訳者になれなかった、いまもなっていないことに対しては忸怩たる思いがある。


posted by ohashi at 23:04| 翻訳論 | 更新情報をチェックする

2020年04月07日

トロッコ問題 番外編

トロッコ/路面電車/トロリー問題について、重要な補足を。むしろデリダ的代補みたいなもので、こちらのほうが重要なのだが。

線路をトロッコ/路面電車がやってくる。線路の向こうには線路工事をしている5人の作業員がいる。彼らは近づくトロッコに気づかない。このままだと彼らは全員死ぬか大けがをする。それに気づいた、あなたは、転轍機を動かして、トロッコの進路を変えようとする。しかし、その路線の先にも作業員が1人で仕事中で、彼が暴走トロッコの犠牲になる可能性がある。どうするか。

5人・対・1人→これが5:1となると、数の問題になる。どちらを救うか。数の多いほうを救うことになる。1人いや1を見殺しにする。しかし、ただの数字のなかには価値もふくまれている。5は1よりも価値が大きいということである。誰が決めたのだろうか。ただ、ここでは5は1よりも価値が大きいことを絶対的なものとして受け止める。そうなると、5人・対・1人に対して5対1に還元できない場合がでてくる。

たとえば1人で作業している作業員は、有能で、1人で、5人分、あるいは10人分の働きをするため会社にとってなくてはならぬ人である。いっぽう5人で働いている作業員たちは、無能で怠け者で5人でやっと一人前という、ほんとうに厄介者のクソみたいな作業員たちである。実際、ひとつの路線に5人がかりで作業しているのと、ひとつの路線をたった1人で作業しているという、この非対称な事例そのものが、作用員の勤勉度・練度を反映しているとみることもできる。

さてどうするか。あなたは、暴走トロッコを無能で怠惰な5人の作業員のいる線路にむかわせ、有能な1人の作業員を救おうとするのではないか。しかし、その場合、あなたは1人ではなく5人の死の責任をとることになる。

ただし、このトロッコ問題には先があった。あなたは転轍機を操作するという機械操作で決断を迫られる。しかし、つぎの問題では、転轍機がないため、暴走トロッコを止めるためには、あなたの同僚の男を給水塔のうえから、線路の上に突き落とすしかないというとき、数の、それも価値の大小の選択決定の問題が倫理的問題になってくる。あなたは、5人を殺すか、1人を殺すか決断する前に同僚を殺す決断を迫られるのである。

実は、これは禅問答と同じで、どれを選んでも、自己正当化はできない、つまり答えがない問題である。しかし、禅問答には、答えがないという答えも含めて、答えはある。

実際、このトロッコのジレンマ問題を知って、あなたは語られていない可能性があることに気づくだろう。

Wikipediaに、このトロッコ問題についての記事があって、その図示によれば、あきらかにトロッコではなく、パンタグラフのある路面電車なので、トロリー問題は、やはり路面電車問題かもしれないと思うのだが、そこではこの問題の発展形がいくつか示されている。そしてそのどこにも示されていない、しかし誰もが気づく自明の可能性がある。

それはその暴走トロッコあるいは路面電車を止めるために、あなた自身が線路に飛び込むことである。たぶんあなたは轢かれて即死だろう。またそれでトロッコ/路面電車が止まればいいのだが、止まらなければ、作業員たちが死ぬだろう。しかし、あなた自身の選択が責められることはないだろう。

自己犠牲の可能性を、このトロッコ問題はどうして考慮に入れないのだろうか。あきらめずに最善を尽くすという選択肢は、ほぼないという設定での問題なので、あとは自死しかないのだが、それが考慮に入れられていない。

しかし、自分で身を挺して暴走路トロッコ/路面電車止めようとし決断しても、家族の顔がうかぶ、愛する者たちの顔がうかぶ、知人たち友人たちの顔が浮かぶ。彼らともうあえなくて、トロッコの下敷きになってミンチ状態になるのは、あまりにもつらいと、そんなことを一瞬考えた隙に、トロッコは、あなたの目の前を通り過ぎて、大惨事へとまっしくぐらに暴走してゆく。自死の選択肢が失われたとき、あたなはどうするのか。

残された選択肢は二つ。

ひとつは安倍大喜利解決

書類を改ざんする。事故はなかったし、あなたはそこにいなかったし。作業員たちはコロナウィルスに感染したと記録をねつ造する。さらに、現場をよく知るあなたは、状況を問われてても、作業員たちがもともと無能で怠惰で、トロッコが近づいているのにまったく気づかず、雑談していたと答える。そもそも彼ら無能な作業員が死んだのは、当然のむくいで、それで会社も社会も救われたのだと言い張る。え、作業員たちはコロナウィルスに感染して死んだのでは? そう、彼らは作業中にトロッコでコロナウィルスに感染したのであり、トロッコによる大けがが彼らに重症化をもたらし、死に至らしめたのだと、携帯電話を耳にあてながら、質問をかわし、将来、会社重役の地位を約束される。また、あなたの責任を問うワイドショーやCNNには会社から圧力をかけてもらい、ワイドショーやアメリカのテレビ局は、視聴率めあてにセンセーショナルな報道で視聴者を混乱させると非難すればいい。このままでは医療崩壊が起こるぞ、と。

これが最低の解決のひとつ。

もうひとつ答え。なすすべもなく大事故を起こしてしまった私だが、1人が死ぬか、5人が死ぬか、同僚が死ぬか、私が死ぬか、この死活問題に対して、私はどう考えていいかわからない。むしろ答えがないことを、それに耐えるべきなのか。あるいは、いくら答えがなくても私の躊躇で最悪の結果を生んだのではないか。いや、ならば、私を除いて、1人だけ死ねばよかったのか。つまり私が自己犠牲を拒み、最小の犠牲者を出す行動に徹したとしても、それでよかったのか、わからない。

私には答えがない。どう考えていいかわからない。だから、私は神にすがる。神に答えなき答えをだしてもらう(神といっても、聖なる存在であって、仏様でも同じである)。

この問題は、偽装された信仰問題ではないだろうか。


posted by ohashi at 20:05| エッセイ | 更新情報をチェックする

2020年04月04日

和光市に来るな

国税庁の税務大学校(埼玉県和光市)が、全国から新任の税務職員約1100人を集めた研修を4月6日から6月22日まで実施する予定。和光市は学校に中止や延期などを強く求めたらしいが、大学校は予定どおり研修を行うらしい。

もうひとつ、裁判所職員総合研究所も6日から、全国から約300人を集めて書記官の養成研修を実施する予定。参加者は1年か2年のコースを受ける。

東京都では、不要不急の集会や外出などの自粛が呼び掛けられ、在宅勤務やテレビ会議、リモート学習などが模索されているため、中止を求める声や批判があるというのに、税務大学校と裁判所職員総合研究所は予定を変更しないらしい。

何を考えているのかといいたいのだが、考えていることはわかっている。コロナ・ウィルス感染を大事(おおごと)にしない。日本は感染がひろがっていない、感染をコントロールしている。だから問題ないふりをする。これがいまのところ政府の方針だからだ。だがもうオリンピックも延期されたことだから、感染が拡がっていないふりをする必要はない。

もうひとつ和光市は埼玉県だけれども、東京都に隣接している。板橋区と練馬区に。だから埼玉県だが、埼玉県の奥地、山奥にある市ではなく、実質的には東京の一部。もし東京がロックダウンされたら、和光市だって、その影響をもろにうける。また東京での感染状態は和光市でも連続している可能性はある。つまり東京都同様に危険地帯である。そんなところで研修をしようものなら、感染が起こるのは時間の問題ではないだろうか。

しかも、ふたつの場所で研修を受ける1500人は、もし感染がはじまったら、このまま和光市のみならず、全国に感染を波及させる恐れがある。クラスター源となったときに、どう責任をとるのか。税務大学校も、裁判所職員総合研究所も、感染者を低くおさえるという国の方針によって、平常通りの研修を行うようだが、もし感染が起こっても、国は、隠蔽するだろうから責任を問われないと思っているのではないか。彼らは研修生は検査を受けられないだろう。しかし、それでいいのだろか。さらにいえば和光市民も感染者が多くでれば、国の方針に批判が集まるだろうから、和光市民も検査を受けられない可能性がある。ただでさえ、検査数がいまもなお少ないのに、和光市民は例外的に検査をうけられなくなるかもしれない。

とにかくやめろとはいわなないが、一刻も早く延期してほしい。

もし私が感染したら、絶対に安倍を許さない。


弁護士100人を船に乗せて海で沈めたらどうなるのか。答え:社会がよくなる。まあ雑なブラックジョークだが、弁護士のかわりにいろいろな職種の人間を代入できる。国会議員100人を船に乗せて、海で沈めたら → 社会がよくなる。厚労省職員100人を船に乗せて、海で沈めたら → 社会がよくなる。大学教授100人を船に乗せて、海で沈めたら → 社会がよくなる。もちろん差別的内容の職種、人種、集団をいくらでも代入できるのだから、これ以上はやめておくが、ただ、

税務職員1100人を研修のため集めて全員感染し死亡したら、どうなるのか → 社会がよくなる。りっぱなブラックジョークだし、真実味がある。

裁判所書記官300人を研修のため集めて全員感染したら、どうなるのか。→ 社会がよくなるかどうかわからないが、彼らが裁判官や弁護士や検事にさらに感染させたら、→ 社会がよくなる。

ああ、これ以上、日本をよくしないでほしい。


posted by ohashi at 00:10| コメント | 更新情報をチェックする

2020年04月02日

『文学理論』(フィルムアート社)

三原芳秋・渡邊英理・鵜戸聡(編)『[クリティカル・ワード]文学理論――読み方を学び文学と出会いなおす』(フィルムアート社2020年3月25日)が刊行された。

比較的コンパクトな本だが、それは外見だけで、中身は、250ページあまりの本の後半は2段組となっていて、分量的にも思いのほか多いし、もちろん内容は、コンパクトな入門書ということだが、これも思いのほか重厚で、なおかつ入門書として必要な文献を多く紹介しているし、資料的価値も高い。読みやすさと情報量の多さをねらった入門書として21世紀における現時点で最高の本といっても過言ではない。べつに不必要なお世辞でもなければ、褒め殺しでもなんでもない。手に取って数ページ読んだだけでも誰もが思い抱く評価だと思う。

本書でも紹介されている『現代批評理論のすべて』大橋洋一編(新書館2006)は、この種の入門書としてはいまなお有効な本だと自負しているが、本書『文学理論』は、これを凌駕している、まさに21世紀版ともいえるだろう。ただし、『現代批評理論のすべて』が、いまなお有効であることについては、このあとすぐに述べるが、たとえば『文学理論』における後半トピック編では

第6章ネーション/帝国/グローバル化と文学
第7章ポストヒューマン/ニズム
第8章環境と文学
第9章精神分析と文学
第10章ジェンダー・セクシュアリティと文学


において、第7章と第8章は、まさに今ならではの内容で、これは『現代批評理論のすべて』を編集していた頃には、なかった主題というかアプローチでもあり、この二つの章だけでも、読むに値する。

では第6章と第9章と第10章は、これまでのトピックと同じかというと、題目は同じだが、これらもまさに現在の視点から書かれていて、入門者を過去の時点に置き去りにするのではなく、しっかり現在へと導いてくれる。そういう意味で、後半のトピック編も、前半の基礎講義編も、どれも入門したあとの出門も考えられていて、そこはただ教科書的な記述で終わっているものではない。

また資料編として「Book Guide――文学理論の入門書ガイド」は、まさにこれまでの入門書を、的確なコメント付きで網羅的に紹介しており、さらなる読書案内と同時に、これまでこんなに文学理論関係の入門書が書かれたのかと(私も、それにささやかながら貢献しているのだが)一望でき、記録的価値も高い。すくなくとも、興味がある読者は、これまで、こんなに出ているのだということで感銘を受けてほしいと思う。またそれぞれの入門書については、どれも、特徴とその良さを指摘していて、執筆者の個人的評価を押さえているのは、きわめて好感がもてる。

そしてこの入門書ガイド編の前に「世界の文学(裏)道案内」が欧米系の翻訳文学のみならず、というかそれ以上にいわゆる「第三世界」(こういう表記はもう消滅しているのかもしれないが)の翻訳文学が読めるシリーズなどを紹介してくれて、資料的価値はきわめて高い。

さらに、この二つの資料編(「文学入門書案内」「世界の文学(裏)道案内」)は、『現代批評理論のすべて』にはない、望めないもので価値が高いのだが、それは『現代批評理論』の時代には、まだ紹介できる入門書がほんとうに限れられていたし、また世界文学の意識がなかったこともあげられる。むしろ批評理論において、たとえばポストコロニアル理論などが活発に論じされていたにもかかわらず、世界文学との遭遇が十分ではなかなかったことが悔やまれる。また世界文学と文学批評理論の有意義な遭遇として、東京大学文学部に「現代文芸論」専修課程・専門分野が誕生したことは、まさに時代の趨勢を反映しつつ、時代を先導するものであったと感銘深いのであるが。

ただし『現代批評理論のすべて』が時代遅れになったとは思わない。『現代批評理論のすべて』は、語られていない話題や問題はあるとしても、語られていることのなかに不要になったものはひとつもない。そしてまた執筆者が、当時は、まだ無名の若い執筆者であったのだが、いまや誰もが有名人になってしまって、いまなら、これだけのメンバーを集めて、本をつくることは不可能である。実際、再版の際に、執筆者の今現在の肩書きを入れようとして、完全を期するのがむつかしいこと、過ちがあったら大きな問題になることから、初版のときのままである。はじめて『現代批評理論』を手にとる人は、若い講師や助教授が多いと思うかもしれないが、彼らは現在は著名人となって、編者の私をしのぐ業績をものしている人たちは多い――ほとんどすべてがそうかもしれない、そういう意味で、あの人が、ここにいる、そしてこんなにシャープなことを書いているという驚きも詰まった本であるので、年を経るにしたがって、むしろ価値が高まっている本ではないかと思う。

『文学理論』にもどると、現在、多様に展開している文学研究や批評について、それをまとめるのは至難の業である。どのようなまとめ方も、とりこぼしがでる。だから、批判するのはたやすいのだが、

第1章テクスト
第2章読む
第3章言葉
第4章欲望
第5章世界


という基礎講義編は、これ以外にもまとめかたはあるだろし、まさに編者の苦渋の選択かもしれないのだが、また個々の章が、鋭い洞察、圧倒される知見があるために、そのぶん、もう終わりかという物足りなさが残ることも事実だが、しかし、編集の妙は、この第一部と、トピック編の第二部もそうなのだが、個々の章が短くて、もう少し書いてくれたらという物足りなさがあるのだが、相対としてみると、現在の文学理論が確かな手応えとなってみえてくる。

これはすばらしいことで、どの章から読んでもいいのだが、全体を読むと、全くの初心者であっても、これから先に進めるような自信がわいてくるのではないかと思う。また、初心者でない場合でも、ここには驚くような洞察がちりばめられていて、読んでいて飽きない、いや、圧倒されるところも多い。

また、さらにいえば自分の勉強不足が恥ずかしくなるところもある。そういう意味で初心者から専門家にまで、本書は開かれている。いや、初心者や専門家にも、手ぶらで帰さない刺激に満ちている。



あとは個人的な感想を。

編者の三原芳秋氏が「はじめに」に書かれていることだが、

1990年代なかば、(中略)わたしが通う大学に新たに赴任なさった先生が、「現代批評/文学理論」の講義を開講なさいました(当時、「文学理論」の名を冠する講義は、日本ではまだめずらしかったと思います)。なにかを期待するでもなく講堂のうしろの方で聴講していた生意気な学生だったわたしでしたが、講義の冒頭でその若い先生がおっしゃったあることばに強い知的興奮を覚えたのを、いまだもありありと思い出すことができますーー「文学理論を学べば、さまざまな境界をどんどん越えていくことできる」。P.4

以下、この若い講師の言葉について、三原氏の注解、敷衍、解説とともに、鋭い洞察が述べられるのだが、それは本書を読んでいただくことにして、「その若い先生」というのは、たぶん私である。たぶんというのは、もし私なら、その頃の私は「若くない」。そのころ東京大学の英文研究室で四〇代の先生方は平石、高橋、今西という、いまは名誉教授の先生方だったが、その最年長の平石先生と私は五,六歳の差しかない。私は四三歳で赴任している。これは三原氏が、思い出話を語るときに演出して私を若くしたということではなくて、当時、私は、年寄りともいえないが、若いともいえず、中年だったが、当時の文学部英文研究室では最年少だったという、なんとも微妙な年齢で、三原氏としても、年寄りとか中年というよりも若いとしたほうが、印象がなくよいと判断されたのだろう(最年少という意味で「若い」だったかもしれないが――いずれにせよ、もし私が三原氏だったら、同じことをする。

問題は、私がそんなことを言ったのかどうか覚えていないことだ。たとえば毎年同じことを言っているのだったら覚えているだろうが、その場でとっさに思いついて言ったことだろう。ただ、おもしろいことを、なるほどと思えることを言っていると思った。もし私が学生として、その言葉を聞いたらな、そういうものかと感銘を覚えたかもしれない。あいにく、いまの私は老人ぼけで覚えてないどころか、そういう発想もできなくて、なさけないばかりだが、三原氏のねつ造とも思えないので(というか三原氏のすぐれた洞察からねつ造されていてもおかしくないのだが)、昔の私は頭がさえていたと思うしかない。

文学理論の授業は私が先鞭をきったのではない。三原氏の世代は、文学理論を教える、何世代かわからないが、ある意味、第五世代か第七世代くらいだと思う。その第七世代の誕生にもし私が一役買っているのなら、これは名誉なことで、勲章として墓場までもっていってもいい功績なのだが、文学理論は、これまでも、いくつか山があった。ただそれは長くなるのでここでは語らないが、九〇年代の半ばから世紀末にかけて、あらたな文学理論の世代が生まれ、それが大学などで文学理論の講座として定着したという三原氏の語りは、実際、多くの入門書が出ていることからも正しいのだが、同時にまた、私の感想では、また私が身を置いていた場(べつに大学だけにかぎらないのだが)では保守派がいまのなお主流で、文学理論などバカがするものという偏見が根強いことも確かである。

これは『現代批評理論のすべて』のそれこそまえがきで書いているのだが、文学理論というのは、頭が良すぎるか、頭が悪すぎる人間がやるものであって、まともな人間が、あるいはするものではない。文学などこれっぽっちもわからない者がやるのだという偏見が根強いのである。

いっぽうで文学理論の人気が右肩上がりに上昇しているといえるのだが、同時に、文学理論の人気が下落傾向にもあるとみることもできる。理論の時代は終わった、ポスト理論がいまの趨勢だということもできる。その意味で、今回の『文学理論』がヘーゲルのいうミネルヴァのフクロウとならなければいいのにと思うのだが、あとは文学理論を考察しまた実践する私たちの試みひとつにかかっているといえようか。

とはいえ、この不吉な予感は、現実化しそうなところがある。新型コロナ・ウィルスの感染によって、文化的事業は大打撃を受けるだろうし、アカデミズムでの活動もどうなるかわからない。私自身も感染するかもしれなくて、まさに本書が終焉の時に飛ぶミネルヴァのフクロウとなることが冗談ではなくなりつつある。そのようなことがないことを祈るばかりだが。
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2020年04月01日

アベノマスク

4月1日に、安倍首相が、一世帯に、布マスク1枚を配るという政策を打ち出して、エイプリルフールかといわれたが、一番傑作なのは「アベノマスク」という表現ができたこと。言葉のセンスの良さ、強烈さに、深い感銘すら覚えたのだが、まあ、布マスクでも、飛沫はふせげるとか、感染者が感染を広げることをふせぐのには役に立つ、あげくのはては、布マスクだと何度の洗えて使えるということを誇らしげに安倍首相自身が語るのだが、では布マスクを、毎日洗ったら、どのくらいもつのか、考えたことがあるのだろうか。一家に2枚といっても、何人家族を想定しているのだろうか。

布マスクは、何度も洗えて使えますというのは安倍大喜利大会では、何枚座布団がもらえるのだろうか。

ちなみに安倍首相は、自身で提案したこともあって、布マスクをつけ続けているが、まわりの閣僚、ガードマン、事務員たちは、もっと性能のよいサージカルマスクをつけているので、安倍首相もいいかげんやめたらどうか。

安倍首相が、新型コロナウィルスに感染して、退陣したら、日本はどうなるのか。日本はよくなる。多くの感染者が救われる。このことはまちがいないのだが、ただ、安倍首相には絶対感染してほしくない。

あの小さめの布マスクでは、たとえ感染の原因が布マスクではないとしても、布マスクではふせげなかったという評価が生まれ、国民全体がパニックになりかねない。ましてや、あの布マスクは感染リスクが高いことも事実だろう。また、もし安倍首相が感染して、重症化して、下手をすれば、退陣というようなことになれば、これは無差別テロリストの攻撃のとばっちりをくったようなもの、あるいは自然災害の犠牲者になったようなもので、安倍首相の評価と責任とはまったく関係ないかたちでの退陣となるのは、よくないことである。安倍首相がいなくなれば、日本はよくなることはまちがいないが、安倍首相がそのようなかたちで退陣したら、日本はよくならないのだから。

*なおアメノマスクの評判があまりにも悪いので、あれは経済官僚あるいは補佐官が、国民にマスクを配るといえば一気に人気があがるというアイデアをだしたところ、それをまにうけた安倍首相が恥をかいたというような報道もあるのだが、あれは最初から、安倍首相のアイデアだろう。
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