2020年03月28日

翻訳の闇 4

今回も翻訳の予期せぬむつかしさについて、他山の石というか、自戒もこめて、考えたい。

以下は、ハンナ・アレントの『暗い時代の人々』のなかの、第一章ローザ・ルクセンブルクの冒頭から。この『暗い時代の人々』は、森まゆみ著『暗い時代の人々』のインスピレーション源になったくらいに、よく読まれている本だが、暗い時代になったいままた、新たに読者を獲得してゆくのではないかと思われる。

以下、ちくま学芸文庫版から引用

イギリス式の決定的な伝記は、史料編修にとって最も賞賛に値するジャンルに属している。相当な長さと完璧な典拠を持ち、十分な注釈がくわえられ、さらに引用文でゆたかに飾られており、通常二巻の大著として刊行され、最も傑出した歴史書を別とすれば、問題となっている歴史上の時代について何ものにもまして多くを、より生き生きと語ってくれる。他の伝記類とは異なり、ここで歴史はある著名な人物の生涯にとって不可避な背景として論じられるのではなく、歴史上の時代という無色の光線が偉大な人格というプリズムを通過し、それによって屈折させられ、その結果生じたスペクトルの中に人生と世界との完全な結合が達成されるからであろう。おそらくこうしたことが、イギリス式の伝記が偉大な政治家を扱う古典的ジャンルとなりながら、その生活史に主要な関心がもたれる人々、あるいは世界と一定の距離を保たせるような資質を備え、しかも世界の中で演じた役割ではなくそこに付与した芸術作品のようなその作品に主要な意味がある芸術家、作家、そして一般男女には不適当である理由であろう。


私は最初これを読んだとき、「イギリス式の決定的な伝記」によってつまずいた。なにが「決定的」なのか、わからなかったのである。

またアレンとの文章は、翻訳のせいかどうかわからないが、深い洞察にあふれつつも、やや読みにくいことは事実なのだが、その洞察の部分は注目に値する。なお翻訳問題のみに関心があれば、以下の7つの数段落は読み飛ばしてもらってかまわない。

アレント(アーレントという表記も一般的だが、ここはちくま学芸文庫版の表記に従う)は、時代と人物(偉人など)との関係を従来とは異なる観点から捉えている。

たとえば芸術家の場合、時代と当人との関係を語る場合、時代をただの背景あるいは飾りのようなもの(舞台の書き割りのようなもの)として考え、芸術家の活動には本質的に関与しないという考え方がけっこう支配的である。しかし、歴史的、政治的、社会的批評や研究が盛り返してからは、時代はただの背景ではなく、芸術家の深いところに影響を及ぼしていると、両者の関係を再考するようになった。アドルノのようにたとえ芸術家が社会に背を向けているとしても、そ」のこと自体が社会との深い関係を表象しているとみることもある。

芸術家は社会から超越した存在ではなく、芸術家といえども社会や歴史の申し子であり、また芸術家こそ、社会や歴史の真実を伝えていることに比重が置かれるようにもなった。

私たち一般人は時代の影響をもろうけるだけだが、芸術家は、時代の影響をうけつつ、時代に超越しているという二面性があるということもできるが、それよりも、時代の影響を常人よりも深く受けるが故に、時代の真実を見抜いたり、それとは知らなくともみずから体現してしまうというふうに考える。芸術家が時代に超越しているようにみえるのは、時代を排除するのではなく、時代の影響をとことん受けた結果なのである。

そんな面倒なことを考えなくともアレントのように芸術家は時代の影響を受けないことが多いと考えてはどうか、「世界と一定の距離を保たせるような資質を備え、しかも世界の中で演じた役割ではなくそこに付与した芸術作品のようなその作品に主要な意味がある芸術家、作家」とみればよいのでは。さらにいうとアレンとは、芸術家や作家のみならず、一般の男女も世界(時代といっても同じだろうが)と一定の距離を保っているという。「そして一般男女」と付け加えているのだから。

そうなると芸術家vs一般男女という区分はなくなる。となると、アレンとは何と対比しているのかというと、浩瀚な伝記が書かれるような偉人である(政治家とか君主という必要はなく、そこには一世を風靡した、あるいは新たな時代を切り開いた芸術家もふくまれる)。この偉人というのは、時代に影響を受けるとか受けないとう次元を超越している。つまり、その偉人が時代を作ったのであり、その偉人そのものが時代なのである。時代と一体化している以上、時代と偉人の関係など考えることはできない。時代こそが、偉人であるとき、両者の関係は問えない。いっぽう芸術家であれ一般男女であれ、時代を作っているわけではないから時代との関係が問える。時代と芸術家や一般男女の間には距離がある。一般男女にとってはその距離は歴史をつくったり変えたりできない無力感の淵源ともなるが、芸術家にとってはその距離は、批判的距離あるいは美的距離となって、時代を対象化した言説や芸術創造を可能にするのである。

しかし偉人と時代との一体感というのは、ほんとうにそうなのか。むしろ偉人の生涯を細大漏らさず語った包括的伝記がつくりあげる虚像ではないか。偉人もまた時代の申し子であって、それは包括的伝記なり本格的伝記ではなくとも、むしろ通常の伝記のほうが正確かつ鋭く提示しているというのが、アレントの論点である。

そこで最初に戻る

「イギリス式の決定的な伝記」のいう「決定的な」というのは何か。

これを考えているときに「決定版」とか「決定稿」という言葉浮かんだ。「決定稿」といういのは、たとえば修正や推敲を重ね、あとはこれで印刷に回してもよいというような最終稿と同じようなものである。最終的にこれでOKというのが決定稿である。もしこれを「決定的な原稿」とか「決定的な版」という「的な」を入れると、何が、どういう理由で「決定的な」のかが問題となる。「決定的な原稿」と「決定稿」とは違う。前者は、なんらかの理由で決定的なもの――たとえば作者が複数の原稿を書いて、そのうちこれが良いと作者あるいは他者が選定した原稿とか、なんらかの大きな影響を後世にあたえることになった原稿とか、いろいろな意味になる。後者は、最終稿と同じ意味となる。

決定的な伝記と、決定版伝記というのはだから、2文字のあるなしで意味に違いがでる。決定版伝記あるいは伝記の決定版というのは、アレントが説明しているとおり、網羅的な史料調査によって、あますところなく事実を精査して、もはや、これ以上に事実的になにも付け加える必要のない、最後の伝記という意味である。いっぽう「決定的な」というと、すぐに「決定版」伝記を思い浮かべる人はいるだろうが、多くの場合、「決定版」とは異なる、複数のニュアンスを生み出すことになる。ごくわずかの違いである。それが意味把握を困難にさせたり、読者に過大な負担をかけることになる。そういう意味で翻訳は(あるいは文字表現全般の話かもしれないが)は恐い。
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2020年03月27日

マスクがない 2

コロナ・ウィルスの猛威はおさまることがなく、大きくなるばかりで、パンデミック状態となり不安がつのるばかりだが、しかし、そんなか、日本はすごいと思わざるを得ない。というか最近、現政権の底力をみたようで、全面的に応援したくなった。

というのもコロナ・ウィリスは、現段階では制圧しにくく、いまのところなすすべがないようにみえるが、しかし、日本の現政権は、コロナ・ウィルスの爆発的感染拡大「オーバーシュート」を不可避と認識しつつ、コロナ・ウィルス側と交渉して、感染拡大を待ってもらったところがある。この交渉力はすごい。すごいぞ。おそらくそのためにコロナ・ウィルス側にも莫大なお金を投入したと思われるのだが、日本にいなくてもいい弱者国民の救済のために税金を使うような無駄遣いをせずに、こういうことに税金を使ってもらいたいものだ。

実際、この、言うことを聞かないコロナ・ウィルスに待ってもらうというのは神業としかいいようない快挙であり、日本でもオリンピック開催が中止ではなく延期であると決まった、その翌日、開催都市東京で爆発的感染がはじまった。なんという政権寄りの行動をしてくれるコロナ・ウィルスなのだろう。実際、ここまでコロナ・ウィルスを手なづけた現政権の快挙に国民は喜び、現政権に感謝すべきである。

というのも、オリンピックを開催するためには、コロナ・ウィルス感染者をできるかぎり少なく見積もるために、検査数を少なくしていた。検査数を増やせという声には、医療崩壊を起こす危険な暴言として圧力をくわが声を圧殺したまではよかったが、ただ、全世界的パンデミックとなると、いくら日本での感染者数が少なくても、他の国々での感染者が多くなれば、オリンピックを中止せざるをえない。日本は感染は広がっていない、安全だ、だから今年オリンピックができるというアピールは、この状況では、意味がなくなった。そこでパンデミックがおさまってから開催するという延期の可能性を現政権は模索するようになった。

実際のところオリンピックは中止してもよい。アスリートの安全のことを考えれば、現段階ではそれがベスト。しかし、そうなればアスリートや日本国民の多くが落胆するからという理由をもちだして、なんとか完全なかたちでオリンピックを開催したいという考え方を現政権は打ち出した。オリンピックは、企業と利権で甘い汁をすおうとする実業家や政治家たちのものである。アスリートはファーストどころかラストである。そもそもオリンピックは経済的行事以外の何物でもない。一度決めたら、絶対に挙行しなければならない。あとは、開催延期の約束をとりつけねばならない。延期と決まれば、日本で爆発的感染を起こしてもいい。そもそも検査数が少ないという批判を国際的にも浴びているし、また、欧州のコロナ・ウィルスは中国からのコロナ・ウィルスと異なるという嘘か本当かわからない説もまきちらしたが、それでも、ここで有効な政策をとらないと、国民からの信頼を失う。そこで、今度は、コロナ・ウィルス側に、オリンピック延期が決まったから、あとは思う存分暴れてくださいと、連絡した。まさに、しめしあわせたかのように、延期決定の翌日から感染者が爆発的に増え始めた。

コロナ・ウィルス側にももう少し思慮があってもよかったのだが、さいわい『100日後に死ぬワニ』というTwitterで連載された4コマ漫画で3月20日で主人公が予告どおり死んだあと、すぐに直後の相次ぐメディア展開に対して批判の声が寄せられたが、そのぶん、開催延期直後のコロナ・ウィルス爆発的展開に対しては、そのあざとさが批判されずにすんだのはよかった。批判などは、くそ野党に任せて、むしろ、コロナ・ウィルスを待たせた現政権の交渉力こそ、褒め称えるべきである。

(またコロナ・ウィルス側と交渉できたのも、「新たな時代を切り開く先端ライフサイエンス研究や感染症対策に強い獣医師を重点的に育成する」ために加計学園の獣医学部を新設したことも大きい。加計学園の感染症対策研究があってこそ、現政権もコロナ・ウィルス側と交渉ができ、成功したのだから)

最近、世界保健機関(WHO)のテドロス事務局長の辞任を求める署名活動が活発化しているとのニュースがあった。カナダの発起人はテドロス事務局長が1月23日、中国の新型コロナ・ウイルスに関する緊急事態宣言をいったん見送る判断をしたことなどについて批判しているとのこと。またWHOが事態をあまりにも過少評価していたため感染拡大を防げなかったという非難のようだが、中国からお金をもらっているのかどうかわからないが、日本からもWHOにお金は渡っているはずで、だからこそ日本の麗しい政権に都合のよい情報なり判断をWHOは示してくれた。ただ基本的にWHOは金まみれであることは、全世界で知られることとなっていて、それで批判されているのだろう。日本のためにWHOとりわけ事務局長が尽くしてくれたのに、辞任要求が出ているのは残念であるが、しかし、それによって日本の現政権の交渉力と判断力への評価が下がるものではない。

あと現政権に期待するのは、これまでは感染者数が多くなるとオリンピック開催があやぶまれたので、低く抑えていたのだが、延期が決定されたので、感染者がふえようが問題なくなったので、むしろ多くの感染者を直して、日本すごい、現政権すごいの声を大きく集めることが重要だろう。また、それにあわせて、国民生活の統制も、じっくり気の済むようにやってほしい。国民も感謝しこそすれ、批判することはないだろう。万が一、来年になってもパンデミックが収まっていないのなら、そこはそれ、現政権お得意の情報操作で、感染者数など、書類やコンピュータ上で、またメディアに対しても、いくらでも低くすることができるので、私はあまり心配していない。日本すごい、日本すごい、安倍政権万歳。
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2020年03月25日

『男同士の絆―イギリス文学とホモソーシャルな欲望―』

ALL REVIEWSのほうから、以前、書いた書評を再録させてほしいという連絡がはいったので、許可。

ALL REVIEWSは、インターネット書評無料閲覧サイトで、活字メディア(新聞、週刊誌、月刊誌)に発表された書評を再録するサイト。

『論座』2001年5月号に掲載された書評で、対象となった書籍は、

『男同士の絆―イギリス文学とホモソーシャルな欲望―』
著者:イヴ・K・セジウィック  翻訳:上原 早苗,亀澤 美由紀
出版社:名古屋大学出版会  単行本(394ページ)
発売日:2001-02-20
ISBN-10:4815804001  ISBN-13:978-4815804008


私の書評は、以下のサイトで2020年3月16日から読むことができる。

https://allreviews.jp/review/4320

古い書評なので、何を書いたのか忘れていたが、今からおよそ20年前の私は、けっこう発想がさえているというか、発想がちょっといやらしくて、最初のつかみの部分で、こんなことを書いていた。

版権の問題もあって、ここに転載できないのだが、書評の冒頭の内容を伝えると、

大学院入試の用語解説問題で、「ホモソーシャル」を選択肢のひとつに加えた。もっとも多くの受験生が選んだ設問は「モダニズム」。「ホモソーシャル」を選んだ受験生はゼロだった、と

これは私が協力教員として関わっていた現代文芸論研究室の大学院の入試問題である。いまもこの形式の問題を出題しているかどうは不明。また、その書評には書いていないが、モダニズムを選択した受験生が、多く合格したわけではないと思う。

「モダニズム」というのはけっこう難問だが、紋切り型の文学史的記述が定着しているのかもしれず、予想可能な問題だったようだ。これに対して「ホモソーシャル」というのは、そんなにむつかしい問題ではない。同性愛を描く作品ではなくても、多くの文学作品では、異性のみならず、同性どうしの関係を描いているので、それをとりあげて、主題など簡単にコメントしつつ、あらすじを書くだけでも、まとまった論述になる。だから、ある意味、楽勝問題なのだが、いかんせん、当時は、「ホモソーシャル」という言葉を知らない受験生が多かった。それにしても、この設問を選択した受験生がゼロだったとは。

まあ、このセジウィックの翻訳書も2001年に出版されたことだし、いま、同じ問題を出せば、様相は異なるかもしれない。

そして、その書評のつかみの部分の癖の強さは、いまとなっては、それが自分自身から失われてしまったことを痛感している。Imagination Dead, Imagineというのはサミュエル・ベケットのフレーズなのだが、私のフレーズは、Imagination Dead, Alas!である。
posted by ohashi at 18:51| 推薦図書 | 更新情報をチェックする

2020年03月23日

『白い病』

コロナウィルスのパンデミック状態となって、巷では、カミュの『ペスト』がよく売れているらしいのだが、しかし、その本は、かつてアメリカが、反共政策に利用すべく各国に翻訳を勧めていたことは事実で、そのとき、ジョージ・オーウェルの『一九八四年』と抱き合わせで翻訳をプロモートした。

カミュにとってもオーウェルにとっても、反共政策のために自身の作品が利用されることに対しては憤ったかどうか、むしろ歓迎したかもしれないのだが、『ペスト』にせよ『一九八四年』にせよ、全体主義との戦い、あるいは全体主義の恐怖を描くものであり、その全体主義とは、反共政策のなかで、ナチズムとスターリニズムであった。カミュは、サルトルとは異なり、共産主義とは一線を画していたたし、オーウェルは左翼から転向組である。エリック・ブレアという非英国的な本名を隠して、こてこての英国名ジョージ・オーウェルに変えた転向者、それがオーウェルで、かつて日本でも、あるいはいまでも、オーウェルが、一部の左翼やリベラルから支持をえているのはほんとうに信じられないのである。

(ただし『一九八四年』も『ペスト』も、作者の思惑はどうであれ、実は、現代の日本もふくむ21世紀の世界についての批判の書としても何の違和感もなく読めることもまた事実で、ふたつの作品の価値は、いまなおいささかたりとも減じてはいないことは、強く、主張しておかねばならない)

で、『ペスト』だが、この小説を読むくらいだったら、カレル・チャペックの戯曲『白い病』を読むべきである。残念ながら、日本語訳は、簡単に手に入るかどうかわからないし、また手に入っても、文庫本の『ペスト』をはるかにしのぐ値段なので、万人向けの容易に手に入る本ではないのだが。

図書館にあれば一番いいのだが――ちなみに私は英語訳で読んだ。

この作品、これまでも日本で翻訳上演されたのではないかと思うのだが、一番新しい上演は今から2年前の2018年の2月と3月。私は神奈川芸術劇場(KAAT)で見た。実はこの年の2月、宝塚でもチャペックの作品『マクロプロス事件』をミュージカル化し、それを見たばかりの私は翌月、『白い病』をみた(どちらの作品もこのブログで報告しているはずである)。

『白い病』の舞台は見事な舞台で深い簡明をうけた。まだ残っているネット上のホーム@エージから引用すると、

概要
大戦間のチェコスロバキアを代表する作家、カレル・チャペック(1890年~1938年)は、戯曲『RUR』において使用したロボットという言葉を作ったことでも知られている。『白い病気』は迫り来るナチの弾圧の中、死亡した翌年に初演。隣国ドイツの軍事圧力を風刺したこの劇は、幕が下りたときには、チェコ愛国者の喝采を浴びるが、時代は、作品が暗示するように、悲劇的な状況に向かって行った。80年前に書かれたこの作品は、まさに今、現代を照射しているといえるだろう。

あらすじ
若者は罹らないのに50歳を超えた者から罹りはじめる「白い病気」。初期症状は身体の表面に押しても痛さを感じない無痛の白い点ができる。この症状が現れると、すみやかに身体は悪臭を放って崩壊していき、死に至る。突然蔓延した伝染病のため世界はパニックに陥るが、とある軍事国家の町医者が偶然この病気の治療薬を発見し、その新薬と引き換えに軍事国家の独裁者にある要求をする・・・

原作:カレル・チャペック
潤色+演出+美術:串田和美
音楽:寺嶋陸也
出演:串田和美、藤木孝、大森博史、千葉雅子、横田栄司
西尾友樹、坂本慶介、大鶴美仁音、飯塚直
近藤隼、武居卓、細川貴司、深沢豊、草光純太、下地尚子(TCアルプ) 合唱隊 他

公演場所
まつもと市民芸術館  実験劇場  2018年2月23日~28日
KAAT神奈川芸術劇場 中スタジオ 2018年3月7日~11日


まあ、いま見返すと、五〇歳以上の人間がかかりやすいという設定は、2年前には、そんな荒唐無稽な病気があるのかとか、むしろ寓意性を優先させてリアリティを犠牲にしたのではないかと、その設定だけには違和感があったのだが、今から見ると、まさにコロナウィルス感染の特徴そのものであって、きわめて不気味である。

宝塚の『マクロプロス事件』は主人公を女性から男性にかえ(そうしないと宝塚のシステムにおさまらない)、ミュージカル仕立てにしているのだが、私がみた『白い病』も音楽劇仕立てだったのが、見事な舞台で、大きな感銘をうけた。チャペックの戯曲のなかでも、チェコでもっともよく上演されているというのは、納得できる気がした。

ただし「白い病」が何の寓意かについては、よくわからないところもあった。ふつう、それはナチズムの寓意だとされるのだが、『山椒魚戦争』の山椒魚はナチスの党員や兵士たちの寓意であることはわかるし、そこに違和感はないのだが、白い病は、それだけではないような気がした。

こまかなあらすじを省くし、実際、いまわすれてしまっているのだが、印象に残っていることだけを簡単に記せば……

この戯曲のなかで疫病感染は、最初のうちは差別を生む。感染者は、汚物扱いされ、さらには感染者の処遇をめぐって、国民の選別が起こる。感染病はこうして政治的に利用され、国民の選別と統制に利用されることは、いまの日本をみても、また世界を見ても、まさにそのとおりであって、チャペックの戯曲の先見性がうかがわれる。というより、人類の歴史はパンデミックに際して、同じことを繰り返してきたのかもしれないが。

しかし病気は猛威をふるい、もはや権力者が強権政治を発動して独裁制を強化するだけではすまなくなる。病気は水平化する。独裁制は国民を選別するが、病気は選別しない。やがて権力者や独裁者もこの白い病に感染していく。彼らの権力欲と独裁制は砕かれていくのである。そう、これが白い病のもたらす、暗い希望なのだ。

いま検査数を減らして感染者を少なくしている、日本の最低の脱法政権も、いずれ、彼らのもとにもまるで天罰かのように感染がひろがっていく。そのとき、もちろん私だって感染しているだろう。そうなれば肺が溶けて呼吸困難になってすぐに死ぬだろうが、その死に際に、オリンピックが中止か延期され、現在の脱法政権の中枢が崩壊するのをみることができれば、満足して死ぬことができる、もしそうなら、ぎりぎりのところで救われる気がするのだが……

チャペックの『白い病』は、水平化する疫病の脅威を、またそれによる壊滅的打撃を描いて、まさに21世紀の今を予見している。その病は、たんにナチズムの寓意というにとどまらないだろう。むしろそれは「病気」そのものの、リアルな力であるような気がする。白い病の寓意は、病気である、ということはもはや寓意は自分自身を寓意にすることはできないから、寓意のゼロ度というほかはない。『白い病』はナチズムの怖さというよりも、疫病の怖さそのものをまぎれもなくみせつけてくれている。

この記事続く
posted by ohashi at 05:12| コメント | 更新情報をチェックする

2020年03月22日

翻訳の闇 3

トロッコ問題とかトロッコのジレンマという問題がある。

第一の場面
線路上を誰も乗っていないトロッコが暴走というか走ってくる。その線路の先では作業員が複数(たとえば5人から10人くらい)、線路工事をしている。このままいくと何も気づいていない作業員のところにトロッコが突っこんでくる。大惨事になる。ちなみに、あなたは転轍機のそばにいる。転轍機のレバーを動かして線路を切り替え、トロッコが作業員たちのところにいかず、支線に入るようにする。ところが、その支線にも、作業員が一人作業している。さてあなたはどうするか。

作業員1人を犠牲にして作業員10名を救うのか。この場合、1人を犠牲にするか、10人を犠牲にするかという数の問題になる。数の問題なら、おそらく10人を救うという選択を多くの人がするだろう。

第2の場面
しかし本線上の10人か、支線上の1人かという問題を別の設定で考えてみる。トロッコの方向を変える転轍機はない。トロッコを止める可能性というは、あなたの前に立っている1人の男である。彼を走ってくるトロッコの前に突き飛ばせば、トロッコは止まるだろう。ただし、このとき、私が突き飛ばし男は、死ぬだろうが、線路の先で作業している10人は助かるだろう。

同じ問題を二つの状況によって提起している。後者は、前者の問題でははっきりみえなくなっている倫理性あるいは情動問題を浮き彫りにする。10人を救うか1人を救うかという問題は、数の問題に還元されると、誰もが10人を救う方を選ぶ。そのときでも1人は犠牲になる。この1人の犠牲を、強調するために、第2の場面では、あなたが殺人を犯すことになる。あなたは人を殺せるのか。数の問題ではなく倫理の問題である。あるいは情動の問題となる。

私はこのジレンマこそ、文学の枢要な特徴のひとつだと考えている。問題を数字の問題に還元するのではなく、具体的な場面、それも情動とか倫理とかが問われる状況をこしらえることによって、問題を提起する。もはや算術や論理ではなく、感情の問題となる。そして感情であれ情動であれ、それこそが、問題の装飾ではなく、問題の本質を浮かび上がらせる仕掛けとなる。

文学とは第2の場面である。あるいは第1の場面を、第2の場面へと変換するのが文学の機能だといっていい。またそこに情動と文学とを考える重要なヒントがあるように思われる。

と、ここでそのヒントを深掘りするまえに、トロッコ問題の名称を考えたい。そこに翻訳の闇があるからだ。

デイヴィッド・イーグルマン『あなたの脳のはなし――神経科学が解き明かす意識の謎』太田直子訳(ハヤカワ・ノンフィクション文庫2019)は、面白い本で、この分野で素人の私にもよくわかる、おすすめの本である【最近は私の専門と直接関係ない本(間接的にいうならば、実は、どんな本でも関係はあるが)ばかり言及しているのだが、これは重要な本であることはまちがいない】。

この本の中で「トロッコのジレンマ」に触れている箇所がある。p.151からp.156までなのだが、とりわけp.152とp.153は見開きのページになっていて、そこに二つのイラストがある。右側には本線と支線と転轍機、ならびに本線には4人の作業員、支線には1人の作業員がいて、転轍機のレバーを握っている人物が描かれているイラスト。左側には、支線はなく線路はひとつだけ、転轍機はなく、給水塔の上にいる人物と、その人物を線路の上に突き落とそうとしている人物が描かれている。給水塔の上から突き落とすというのは、トロッコを止めるためである……

トロッコ? この翻訳のイラスト(たぶん原書のイラストそのままなのだろうが――原書の図版はすべて収録したと、この本のあとがきにある)には、トロッコは描かれていない。デフォルメされているが路面電車のようなものが描かれている。これがトロッコ。あきらかにトロッコではない。路面電車である。翻訳の本文にはトロッコとあるのだが。

トロッコ問題(トロッコもんだい、英: trolley problem)あるいはトロリー問題とは、「ある人を助けるために他の人を犠牲にするのは許されるか?」という形で功利主義と義務論の対立を扱った倫理学上の問題・課題。
フィリッパ・フットが1967年に提起し、ジュディス・ジャーヴィス・トムソン(英語版) 、フランセス・キャム(英語版)、ピーター・アンガー(英語版)などが考察を行った。人間は一体どのように倫理・道徳的なジレンマを解決するかについて知りたい場合は、この問題は有用な手がかりとなると考えられており、道徳心理学、神経倫理学では重要な論題として扱われている。また(人工知能による自動運転が実現しつつある現在)自動運転車(公共交通の自動運転車両も含む)のAIは衝突が避けられない状況にも遭遇するであろうし、そうなれば何らかの判断もしなければなくなるわけだが、このトロッコ問題は、そうした自動運転車のAIを設計する際に、どのような判断基準を持つように我々は設計すべきなのか、ということの(かなり現実的、実際的な)議論も提起している、と公共政策の研究者は言う。
なお、以下で登場する「トロッコ」は路面電車を指しており、人力によって走らせる手押し車と混同しないように注意されたい。


そう、このトロッコ問題というのは英語ではTrolley Problem、つまりトロリー問題、つまり路面電車問題である。Trolleyには「トロッコ」という意味もあるが、基本は、路面電車。日本では聞き慣れない言葉かもしれないが、私が子供の頃には、路面電車以外にトロリー・バスというのが市街地を走っていた。Wikipediaによれば、

トロリーバス (英: trolleybus、米: trolley bus)とは、道路上空に張られた架線(架空電車線)から取った電気を動力として走るバスを指す。


私の育った名古屋市にはトロリーバスが走っていて私は目撃している(路面電車はよく利用したが、トロリーバスに乗ったかどうかは記憶にない)。だから「トロリー」と聞けば、路面電車、トロリーバスをイメージし、トロッコはイメージしない。

真相はわからないが、このトロリー問題を日本に紹介したり翻訳したりするとき、どこかのバカが、「トロッコ問題」と訳した。だから、その後、「トロッコ問題」とするしかなくて、先の翻訳『あなたの脳のはなし』では、イラストは、トロッコではなく、あきらかに路面電車なのに、本文では「トロッコ」と表記するしかなくて、多くの読者を混乱させたのではないかと思う。

実際、出版社には質問が来なかったのだろうか。本文で「トロッコ」とありますが、イラストはどうみても路面電車か電車です。同説明するのですかというような質問が。もっとも多くの読者はイラストが変だ(デフォルメされているので)とくらいにしか思わなかったかもしれないが。

また、これはけっこうやっかいな問題と化していて、Wikipediaでも「なお、以下で登場する「トロッコ」は路面電車を指しており、人力によって走らせる手押し車と混同しないように注意されたい」と、へんな但し書きをつけずにはいられない事情があるのは、なんとも面倒くさい。

トロッコか路面電車か?これもまたTomato, Tomato問題の一変種かと思われるかもしれないが、実は、Trolley Problemは、本来「トロッコ問題」ではなかったか、あるいは「トロッコ問題」のほうがよいのではないかと思う。たとえば先の翻訳『あなたの脳のはなし』では原書のイラストがTrolleyを路面電車と誤解した可能性もなくはない。またTrolleyは路面電車ではなく「トロッコ」のほうがいいと意図的に誤訳した可能性もある。トロッコのほうがなじみやすいということではない。この問題というか、倫理的ジレンマを考えるときに、路面電車では考慮する要因が多すぎて、思考実験にはならないからだ。

つまり路面電車なら、運転手がいる。運転手が線路の先の作業員を見つけて、事故になる前に、警笛を鳴らすか、電車を停止させることもできる。運転手の行動によって事故はかんたんに防げるし、給水塔から人を突き落とす必要もない、つまり問題にもならないと思う。となると多数を救うか1人を救うか、1人を犠牲にして多数を救うかという問題を考える前に、路面電車の運転手がぼんやりして上の空状態とか、突然、心臓発作に襲われて意識を失うとか、考えなくてもいいことを考え想定することになり、問題の焦点がぼやけてしまう。それなら無人のトロッコが事故で急加速してつっこんできたという設定のほうが、問題をすっきり整理できる。

だから路面電車問題ではなくトロッコ問題。走ってくるのは、あくまでもトロッコだとしたほうが、すっきりする、また設定としてもすぐれている。だから、あえてトロッコ問題としたのかもしれない。とはいえ、それはそんなに昔ではないだろうが。

さて、あなたはトロッコ問題にしますか、路面電車問題にしますか。
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2020年03月21日

マスクがない

1月の時点で、マスク不足が報じられていたし、実際、スーパーやドラッグストアーではマスクが品切れ状態になった。これまでの自然災害で一時的になくなる品物があったが、その状態はすぐに回復した。3月になれば、その頃、マスクとともになくなっていたトイレットペーパーなども手に入るようになるだろうと考えていたが、まったく読みが浅かった。現時点で、マスクは入手できそうにない。トイレットペーパーも、通常、品切れ状態だが、時折スーパーなどに出回るので、せっぱつまった状態ではないのだが、マスクは手元にあるのがなくなれば、どうしていいかわからない。

現在、医療機関に優先的にマスクを配るということになっていて、それはそれでいいのだが、一般家庭にも早く、マスクがいきわたるようにしてほしい。

もちろんマスクでコロナ・ウィルスが防げるわけではないだろうが、ウィルスを媒介する飛沫はふせげるということだし、もし感染者がマスクがないがゆえに、街中でマスクなして咳やくしゃみで飛沫をまき散らしていたら、感染が広がることはまちがいなからである。このままマスクなし状態がすすめば、暴動が起きてもおかしくないところにくるかもしれない。

政府も洗えば再使用できるガーゼマスクの配布を試みているようだが、配布先はよくわからないし、せっかく使い捨てマスクの時代が長くつづいてたのに、原始時代に逆戻りなのか。

第二次世界大戦中、物資や食料が不足したとき、軍部や政府は、国民に、ネズミを料理して食べる方法を計画したか、実際に宣伝していた。もし本当に食料がなくなって追い詰められていたなら、それも仕方がないかもしれないが、実際には、食料はあった。本土決戦に備えてというだけではなく、それ以外にもいろいろな理由で、食料は秘匿されていた。それと同じで、政府がなすべきは、マスクの買い占めをやめさせ、使い捨てマスクを配給制にしてもいいから国民ひとりひとり、一般家庭にも配布するべきである(適正な価格であれば、ただでとはいわない)。

さらにいえばマスクがなくなる心配することなく着用できれば、外出の機会も増えるし、移動する人間も多くなれば、経済活動にも支障がでることがすくなくなる。

私個人的にいえば、あと一ヶ月くらいしかマスクはもたない(一日一枚と計算して)。外出をできるだけ避け、再利用するなどしても、5月までもつかどうかわからないので、心配でしかたがない。

せめて6月か7月くらいまでマスクがもてば、オリンピックが中止か延期になるところを生きて目撃できる可能性が増えるのだが。いや、ほんとうにオリンピックはやめてほしい。もともと今回の東京オリンピックなどどうでもよかったのだが、いまでは声を大にして中止を訴えたい。延期でもいい。私の好みだけではない。アスリート・ファーストといっていながら、開催派は、ただの利権がらみで強行しようとしているにすぎない。恥を知れといってやりたい。アスリートのためにも、中止か延期しかないだろう。まあ、日本国民が中止を声高に求めなくても、海外からアスリートが日本に来ることはないだろうから、開催しても茶番のようなオリンピックになるだろう(いや、日本人アスリートだって、そんなオリンピックは、身体的にも、気分的にもいやだろう)。
posted by ohashi at 23:04| コメント | 更新情報をチェックする

2020年03月20日

翻訳の闇 2

翻訳について考えているのだが、その前に、私の立場を述べておけば、私は素人が嫌いである。しかし、素人以上に専門家というのは大嫌いである。もちろん素人と専門家との境など曖昧なものであって、両者を峻別はできないということは確かである。にもかかわらず、この曖昧さを無視して、明確な境界があるかのように考えたり発言したりするのは、愚の骨頂であることを忘れないようにすること。そしてどちらに権威があるかという発想にとらわれないことが肝要であると考える――往々にして専門家が偉いという幻想が大手をふってまかりとおるのは、ほんとうに嘆かわしいと考えている。

で、翻訳の話に。

Amazonのレヴューに面白いコメントをみつけた。

グレアム・ハーマン『四方対象――オブジェクト指向存在論入門』岡嶋隆佑・山下智弘・鈴木優花・石井 雅巳訳(人文書院2017)のレヴュー


☆☆☆☆☆2019年8月21日に日本でレビュー済み Amazonで購入
4回読み直すことで、なんとなく哲学の領域とはどういう意味を持つのかが、まだ判りませんがこの本の訳者に感謝です。
本書を読破するためには下記の項目をお薦めします。
①睡眠を充分に取ってから読むこと。
②空腹時に読むこと
③眠気を感じたら直ちに読書を中止し、深呼吸及び軽い体操をすること。
④意味が多少判らなくても、そのまま読み続けること。
⑤眠たくなったら、音読すること。
⑥人生はチャレンジ精神だと思うこと
以上です。 (3人のお客様がこれが役に立ったと考えています)


ハーモンのこの本がどういう本なのかについては、ここでは触れない。思弁的リアリズム(Speculative Realism)の本だが、カンタン・メイヤスー(私が読んだのは『限定性のあとで』の一冊しかないのだが)の研究書。ハーモンは思弁的リアリズムの入門書も書いていて英米圏でこの分野の第一人者である。

で、レヴューアーのこのコメント。AMAZONではたくさんの本をレヴューしているようで、ずぶの素人とはいえないだろうし、なにかの専門家なのかもしれないが、このおバカコメントはどうだろう。意図的に道化を演じているのだろうか。そうだとすれば相当な曲者かもしれないのだが、話を簡単にするために、このコメントを額面通りとることにする。

短い本は別として、本を読むのには時間がかかるから、だれでも、ほとんどの本は1回読めばじゅうぶんである。まあ推理小説などは読了したあとすぐにもう一度読むと、いろいろなことがみえてきて面白いのだが、哲学書とか思想書とか、あるいは専門的なむつかしい本は、一度読んでもわからないことが多いが、すぐに読み返しても、基本的にわからないものはわからない。4回読もうが、100回読もうが、すぐに読み返したら、絶対にわからない。怖いのは、4回くらい読みかえすと、内容の展開とか文言を記憶してしまう。そこで何か親しみがわいて理解した気持ちになってしまうことである――ほんとうは何も理解していないのに。

だから難解な本を読了後すぐに読み返すのは時間と人生の無駄使いである。ある一定期間をおいて読むと理解できるようになるし、得るところも大きい。子供のころ、若いころ、読んで、難解すぎてよくわからない本も、歳とってから読み返すと、わかりすぎるくらいわかる。これは読み手に知識とか洞察が蓄積されて思考方法が変化したからであり、その変化あるいは成長が実現していない時点で、何度読み返しても、わからないものはわからない。

しかし、この人(男性か女性かもわからないが)のコメント。おかしすぎる。はっきりいってハーモンのこの本、ここまでしなくとも私には理解できると思う(読んでいないのだが)――哲学が専門ではないけれども、長年、大学で教えてきたらから、この程度の本は読みこなせる。べつに自慢でもなんでもない。これが読めなかったら、私はとっくの昔に廃業している。

ただし、このアドヴァイス、①睡眠を充分に取れ、②空腹時に読め、③眠気を感じたら直ちに読書を中止し、④意味が多少判らなくても、そのまま読み続ける、⑤眠たくなったら、音読する、⑥人生はチャレンジ精神だと思うことというのは、外国語の本を読むときには、あてはまる。

外国語の本を読むときに脳にかかる負担は大きい。脳が披露して眠たくなることも多い。そんなとき音読すると注意力がもどったり、脳の疲労がとれたりする。また空腹によって眠たくならないようにして注意を集中することも、重要である。

また裏をかえすと、このレヴューアーにとって、この本は、外国語の本なのである。なにか外国語の本を読んで外国語の勉強をしているような、そんなところがある。

またここでのアドヴァイスは読書過程と身体状態とのシンクロに注意を喚起してくれる点でも、ありきたりだが同時に興味深い。

通常、読書過程と身体状態のシンクロは表にあらわれない。しかし外国語の翻訳作業の場合には、シンクロが明確に表にでる。簡単にいえば、疲れて眠たくなると、翻訳ができなくなる。あたりまえといわれれば、そうだが、たんに意識がもうろうとするのではない。原文の意味がとれなくなるのである。これにはいろいろなケースがあるのだが、構文がどうしてもわからないとか、話の流れ、論理的つながりがみえなくなると、いろいろな理解不能状態が生ずる。こうなったら休憩するか、あるいは時間が時間なら眠るしかない。

実際、翻訳をしていると、訳している直前の原文は、なにも見なくても復唱できる。残念ながらすぐに忘れてしまうのだが。わからない原文があると、それが頭にこびりついて離れない。何度も頭のなかで復唱しても、わからない。そして就寝前、あれほど何度考えてもわからなかった原文が、翌朝になるとすんなりとわかって驚くことがある。

原文の理解、そして翻訳の出来不出来は、身体的条件に左右される。

このレヴューアーのコメントは、ばかばかしいと思ったのだが、翻訳作業にはあてはまる。あてはまりすぎる。翻訳はチャレンジだ。

注記:個人的なことだが、翻訳作業に際して、私は、論理を見失ったり、ニュアンスをとりちがえたり、適切な日本語を思いつかなかったり、ミスリードするような表現にしてしまったりと、過ちや不適切なことを、もちろん自覚のないうちにやまのようにしているが、原文の構文はすべて理解している。すくなくとも20世紀以降の通常の英語なら(方言とか俗語などはむりだが)。ところが疲れてくると、構文が理解できなくなる。構文をとりちがえることはあっても、理解できない場合は深刻である。そしてどうあがいても理解できないことがある。翌朝あるいは睡眠後を待つしかない。

posted by ohashi at 04:39| 翻訳論 | 更新情報をチェックする

2020年03月18日

翻訳の闇

エリク・H. エリクソン『洞察と責任――精神分析の臨床と倫理[改訳版]』鑪幹八郎訳(誠信書房2016)について調べる必要があり、アマゾンで確認してみた。レヴューが2件あり、そのうち一件は、この翻訳がよくないと批判している。

翻訳書に関するアマゾンの読者からのレヴューは、手厳しいものもあって、自分が批判されているわけではないのに、我が身のことのように思えてきて、深く反省したりすることもあるし、心をひきしめて翻訳をせねばならないと決意をあらたにすることもある。

もうひとつは、怖いものみたさであるが、そんなにひどいのなら、どれくらいひどいのか、のぞいてみたい、笑ってみたいというあさましい願望を刺激されることもある。

この本の場合、以下のレヴューが気になった。

5つ星のうち星1つ
この訳では,「エリクソンの真髄」は判らな(2017年6月27日に日本でレビュー済み)

 旧訳書も,同じ訳者が,同じタイトルで,同じ出版社から出しています。45年ぶりの改訳になるとのことです。
 訳語が,再検討されて,改善しているところも確かにあります。
 しかし,残念ながら,この翻訳では,エリクソンの真髄は,翻訳者のあとがきに書いてあることとは異なり,伝わらないと,私は考えます。
 この翻訳は,初歩的な文法上の間違いが多いうえに,単語を別の言葉に読み違えている箇所さえ散見されます。わたくしの翻訳評価の分類(最悪,悪い,まあまあ,良い,最高)で申し上げれば,自閉症のドナ・ウィリアムズさんの本を「翻訳」した本と同レベルの「最悪」のレベルです。
 このエリクソンの本で,一番訳しづらいのは,第5章一節 原文では,Ego and actuality です。なぜならば,一見同じような言葉が,全く異なる意味でつかわれているからです。それは,reality と actualityです。とても日常的な言葉です。
 旧訳では,realityが「現実性」,actualityが「事実性」となっていましたから,これは非常にひどい訳でした。中身がほとんど分かっていないことを物語っていました。改訳版では,realityは「現実」に「リアリティ」のルビを振り,actualityは「かかわり関与」に「アクチュアリティ」のルビがついて,前よりも良くなってはいます。しかし,残念ながら,この訳語変更を含めて,この翻訳では,エリクソンの真髄は,ついぞ,この翻訳者は,掴みきれずにいることがハッキリとわかりました。
 少しだけ付け加えるとすれば,このactualityは,「やり取りのある関係を始めること」であり,「陽気で楽しい,やり取りのある関係性を自ら始めること」のだということです。エリクソンは,すべての著作を通して,この「陽気で楽しい,やり取りのある関係を始めること」を推奨し,いかにしたらこの関係が可能になるのかを,臨床をしながら,明らかしてくれたのです。この「陽気で楽しい,やり取りのある関係性をはじめること」にハッキリとした形を与えたものが「日常生活を礼拝にすること(ritualization)」(「儀式化」と訳すのも誤訳です むしろ,大江健三郎さん(あるいは,フラナリー・オコーナー)がいう,「人生のハビット」に極めて近い,あるいは,同じことに別の表見を与えている)なんです。
 エリクソンのライフサイクルの心理学は,『新約聖書』に示されたパウロ神学をベースにしているのですが,この翻訳者は,その「エリクソン心理学の真髄」が皆目お分かりでないのです。
 関心のある方は,当方のブログ「エリクソンの小部屋」をご参照ください。
 September 02, 2017 書き換える


まず、「この翻訳は,初歩的な文法上の間違いが多いうえに,単語を別の言葉に読み違えている箇所さえ散見されます。わたくしの翻訳評価の分類(最悪,悪い,まあまあ,良い,最高)で申し上げれば,自閉症のドナ・ウィリアムズさんの本を「翻訳」した本と同レベルの「最悪」のレベルです。」とあるのだが具体例が示されていないので、これだけで翻訳の質を判断することはできない。実は、この実例が一番面白いところだったのだが、しかし実例はない。と同時に、誰でも、初歩的なミスや読み違えはする。その数はけっこう多いこともある。私の場合においても。

またrealityとactualityの訳語は、誰もうまく訳せないと思うのだが、改訳版では、改善がみられ、さらにいうと、この評者が考えているactualityの意味に、改訳版も近づいているか、あるいは、評者と同じ考えであるように思われる。また、この評者が説明しているactualityの意味について、私には判断は下せないが、それが正しいとしても(ただしうまい説明表現ではない)、それは読者がつかみとればいいだけで、翻訳者は、その手助けとなるような訳語を提供しているように思う。

またこのあたりから評者のいっていることがわからなくなり、さらに言葉の厳密な使用を提唱しているかにみえる評者が、パウロ神学などとわけのわからないことを言っている。パウロは神学者によって論じられることはあっても、本人は神学者ではない。そして詳しくは自分のブログを見よとある。結局、評者は専門家か、エリクソンのファン(信者か使徒)かどちらかわからないが(あるいは、そのどちらでもないのかもしれないが)、いずれにせよ、自分の気に入らないものにいちゃもんをつけているだけの問題児なのかもしれない。

もちろん、この翻訳書を読んでいないので、なんともいえないのだが、アマゾンに注文した。入手して読んでから、私の考えが変わったときに限り、また記事にさせてもらう。

ちなみに、この評者のコメントに、私はカチンときたのだが、それは私だけではなかったことは、次のレヴューからもわかる。

5つ星のうち星5つ
解釈の違い (2018年8月7日に日本でレビュー済み)

さきの方が「真髄を分かっていない」と仰るならば、むしろ、その前提でもって読んでみてください。
当然ながら、読むとすれば、それはエリクソンの著作(まずは『幼児期と社会』)を原文で読んだことがある方に限ります。
様々な解釈の有り得る古典思想研究においては、原文を読み、その上で訳本に対する違和感を述べること、れは【←ママ、おそらく「それは」か「これは」のミスであろう】なにを差し置いても必須であります。
先の方と逆にぜひオススメしたいのです。
読んでみてください。


要するに、この翻訳は、先のレヴューアーがいういようにわけのわからない本ではなく、よい本だと推薦しているのである。ただ、いかんせん、もう少し、きちんと説明してほしい。趣旨はべつにして、説明文が舌足らずで、なんとかしてほしい。

では私は何がいいたいのか。ひとりよがりで、自分の考え方とは違う相手にいちゃもんをつけている人間と、その姿勢にカチンときて反論しているのだが、反論の内実が舌足らずでよくわからないというだけのことを、ただ面白がっているのかと思われるかもしれないが、面白がっている。

しかし、なにか変なところ、面白ところ、ばかばかしいところ、不条理がないものに、なにか発見するという希望はもてないのである。アインシュタインが述べているように、一見して馬鹿げていないアイデアは、見込みがない。それをもじって、一見馬鹿げてているとしか思えないこの事態から、これまでにない何かを見いだせるかもしれないのだ。
posted by ohashi at 19:06| 翻訳論 | 更新情報をチェックする

2020年03月02日

『AI崩壊』2

この映画では2030年には医療用のAIが実用化されて、個々の患者のケアに使われてているという設定である。おそらくAIの能力をもってすれば、個々の患者についてのケアは、24時間休みなく、徹底して患者によりそった観察と診断が可能になるということができる。と同時に、AIが扱う患者が多くなればなるほど、個々の患者の情報が集積されビッグデータとなって利用可能になる。個と全体。個別性と全体構造との対立は、このようなAIの実用化によって解消される。

古代から中世にかけての実在論Realismから唯名論Nominalismの対立という普遍論争が有名だが、これは個々の事物に共通する性質とか本質、あるいは普遍的構造があるという実在論と、あるのは個別性だけであるという唯名論との対立において、両者は統合不可能な立場となる。現在において、圧倒的に強いのは個別性を重視する唯名論である。しかしこの対立は、同時に影で支え合っているという面もある。

たとえば私たちは高いところを飛行機で飛ぶと、地上にいるときにはわからなかった地形のパタンのようなものがみてとれる。しかし、このとき個々の人間とか個々の事物は、まさに点としかみえなくて、個別性は失われる、個別性をみることはできない。これに対して地上を離れることなく、個々の人間を観察探究することはある。むしろ密着して観察することによって一人一人を掘り下げてみることができる。ただ、この方法の欠点は、全体像がみえないということである。

しかしこの個別性と全体像との対立関係は、同時に、支えあっていなければどちらの立場も進化しない。全体像をまったく知ることなく個別性を追究することはできないし、また個別性を完璧に無視して全体像を構築することはできない。個なくして全体はなく、全体なくして個はないのである。とはいえ人間の能力には限りがあって、両方を同時にはできない。オーウェルの『1984年』で描かれる全体主義監視国家において国民ひとりひとりに監視カメラが割り当てられるが、しかし、マン・ツー・マンの観察が理想的だが人手の能力に限りがあるので、それは不可能である。ベンサム/フーコーのいうパノプティコンは囚人が自分がみられているのではないかと不安になることによって、自分の心のなかに監視人を住まわせるという自主規制をもたらす装置だった。そうすれば一人の監視人で多くの主人を監視できる(正確には監視していなくても、統制できる)。しかし、このような自主規制装置はAI時代には用がない。人類ひとりひとりを観察し、その人物に適合した治療方法を決定することはAIにとってはたやすいことだろう。しかもAIは、それこそ全人類ひとりひとりを相手にすることもできる。と同時に、個々の患者の観察・分析によって得たデータをビッグデータとして集積できることによって、平均値の制度を限りなくあげることができる。そして一定の信頼できる平均値を得ることができれば、それを個々の患者の治療にフィードバックして治療の有効性を増すこともできる。どちらも人間の医師の数をいまよりも何百倍も増やしても不可能だが、AIならば、たった一台でも可能である。個別性か全体性かという対立は、AIの時代において解消するはずである。

ただしもしAIがハッキングされたりウィルスにおかされたりして故障したりするという可能性というか危険性以外にも、本来的にこのシステムに危険性があるようにも思う。ビッグデータの集積と活用は、平均値と安全度の制度を挙げることなのだろうが、そうなると平均値や安全圏内に人間の行動とか情緒とか思索を抑え込むようなはたらきがAIに生まれてこないだろうか。もし医療用のAIが実現したとして、病気になれば、こうすることが平均的で安全な治療法となると、治療法は画一的になり、柔軟性を失いかねない。そしてそれは人間の平均化と安全化につながるだろう。

いいかえるとそれは記述descriptionが規範prescriptionになるような変化、あるいは潜在的可能性が顕在化するということでもある。存在(「である」)が当為(「であるべき」)に変るといってもいい。いや、そもそも「存在」は最初から「当為」でもあるのだが、「存在」のなかにある「当為」という無意識をプログラマーが浮上させないとは、またAIが調整しないとは、誰にもいいきれないのである。

このことは映画『アド・アストラ』に描かれた近未来の人間社会と人間像の慄然とする状況から予測できる。人間は平均的な、つまり一定範囲の穏やかな感情の起伏しか認められず、激しい感情をもてば異常者・病人として隔離されるので、人間は隔離と排除に怯えて精神的に安定した個性のない安全な市民となるほかない。つまりロボット化されるのである。

したがってあくまでもデータの集積と平均値化というAIのパッシヴな活動が、人間を型にはめるアクティヴな活動に転換する可能性は最初からある、つまりこのパッシヴ面とアクティヴ面は表裏一体化していると思うので、医療用AIの実現によって、故障しなくとも、あるいはウィリスにおかされなくとも、人間の平均化あるいは選別が起こるということになる。人間の幸福をめざす道具であったものが、人間を隷属化するのである。この危険性と恐怖をこの映画は描いているのかもしれない。

【AIに医療をまかせられない、いや、AIに隠れている人間に医療をまかせられないというのは、病に関する観点が、単純すぎる可能性が高いからだ。医学の専門家、さらには人文系社会学系の観点を参照しないかぎり、病原菌を移民かテロリストとしかみず、それを排除すれば社会の健康は保たれるという単純な世界観しかプログラマー(プロのプログラマーという意味ではなく、プログラミングする人という意味だが)がもっていないなら、人類に明日はない。病気は人類と共存していたかもしれず、治療が病気を悪性化・重症化する可能性もないわけではない。たとえば癌治療では、早期発見で細胞を発見し逮捕、発見が遅れたら、犯人あるいはテロリストが潜んでいる地域を空爆【その際、近隣住民は皆殺し】、そしてその後、ほかにも仲間がひそんでいないかどうか監視網を強化、ときに再度爆撃というのが、現代のがん治療であり、これをAIが踏襲することで、病と人間との関係が解明されることなく、放置される、だが、その放置の結果、病原菌は兇悪化し、人間は、ひたすら殺されまくるということになる。ただし、この件は、また別の機会に】

しかし、いま新型コロナ・ウィルスの感染と、日本政府の無策ぶりをみるにつけも、この映画は、むしろ、図らずも、いまここにある危機を描いていたのではないかという思いにとらわれてしまう。この映画で描かれるAIが国民の生き死にを決定することは、映画のなかでは2030年という近未来の出来事なのだが、いまや、2020年の日本でも実現しかかっている。

豪華クルーズ船ダイアモンド・プリンス号を係留して乗客・乗員を閉じ込め、ウィルス培養器にする、あるいはウィルス感染のホットスポットにする政府の決定は、結果的にそうなったというよりも、最初からそれを狙っていた、国民の選別ではないだろうか。実際、国民の選別は、今の政権のお家芸みたいなもので、コロナ・ウィルス感染で亡くなった方も政府の無策というよりは選別政策の犠牲になったとしかいいようがないし、次の犠牲者は私たちかもしれないという当然の恐怖と憤りはつのる。

というのもコロナウィルスによる新型肺炎は、感染しても軽症だという説もある。逆に感染したら、肺が溶けはじめて、助からないことのほうが多いという説もある(中国における医療関係者の死をみるにつけ、相当強力なウィルスであることがわかる)。ただ、どちらにしても、高齢者や基礎疾患をもっている者は重症化するともいわれていて、私のように糖尿病の持病がある高齢者は、軽症といわれても、なんら気休めにもならないのだが、かりに軽症であっても、現時点では、政府は検査体制を整えようとはせず、よほど重症化しないと入院どころか検査も受けさせてもらえない状況であって、これは厚生労働省の無策というよりも、内閣官房主導による国民の選別がおこなわれているとしか思えない。つまりこれを機会に国民を減らそうとしているのとしか思えない。まあオリンピック中止という事態になれば経済的ダメージが大きく、オリンピック後の景気後退が早まることへの危惧かもしれないが、経済優先は、人間を殺すいっぽうである。

いますすめられている国民の選別は、コロナ・ウィルス感染に対する無策ぶりと手をとりあっているわけで、国民をひとりでも多く救おうなどという気持ちはいまの安倍政権にはこれっぽっちもないということである。

実際、これまでと同様、都合の悪いこと、いや犯罪を犯したり加担しても、追究されれば、適切であり犯罪ではないと強弁し、それでも追及されれば、記録を破棄したり事実を隠蔽したら事実を捏造したり、印象操作とフェイクニュースで、徹底して真実を崩壊させて、なかったことにしようとする手法、まさにポストトゥルースの時代にふさわしい手法は、政治や社会を限りなく劣化させる。失敗があっても認めなければそれですむのなら、あるいは犯罪をおかしても記録を書き換えたり隠蔽すればすむのなら、なにをしようが勝手であり、何もしなくても利権さえあさっていればそれですむということになる。実際、今回のコロナ・ウィルス感染における政府の危機管理のなさは、政権の腐敗が原因である。なにをやってもごまかせるとたかをくくっている政権が、危機管理などするわけがない。そもそも危機などなかったといえばすむのだと考えているのだから。

思い出していただきたい。福島原発事故以前に、日本中で稼働していた原発ではミスや事故がいっぱい起こっていた。なにがあっても原発行政は揺るがないという状況のもとでは、緊張感などなく危機管理意識もなく、ただたるんだ原発管理しかなされていなくて、ミスや軽い事故は頻発していた。事故情報に関する政府の当時の発表も、どこまで信じてよいのかわからないものだった。今回のコロナ・ウィルス感染についても感染者の数をできるかぎり抑えようとするために、検査をおこなわなければ感染者は出ないという子供だましの恥さらしな、そして国民ひとりひとりの命を危険にさらしてもなんとも思わない政権の悪魔的政策だろうが、コロナ・ウィルスは、いくら検査を送らせても、みてみぬふりをしても、抑えられることなく存続、蔓延している。いまや日本は、中国についで世界第二の感染国である。いくらお人好しの、あるいは全体主義国家に生きる無力で愚かな国民も政府の無策と失態とに気づき始めている。

いま政権の国民選別は、検査を遅らせ、感染者数をふやさないとともに、感染者の放置と遺棄にまでおよんでいるが、同時にまた選別したいという欲望は、国民の統制にもつながることは念頭にたえず置いておかねばならない。いま政権は、春休み前に、小中高の休校をもとめている。無策な政権が、国民の統制に対しては元気にはげむというのは、第二次世界大戦における日本の戦争指導で無策ぶりを露呈した日本の軍部の
やり口――戦争には弱く、国民統制には強い――と、まったくかわりはないのである。

結論
『AI崩壊』は、映画の最後ではすでに起こっている「国家崩壊」とつながっているという認識が生まれたが、この映画は、いま崩壊しつつある日本と、無策無能なくせに悪辣さにかけては史上最悪の政権の現実を、10年後の未来という口実のもとに、物の見事に提示していた――公開前は予言的なはずの内容が、いま現実的となった。
posted by ohashi at 08:08| 映画 | 更新情報をチェックする

2020年03月01日

3月1日以降に追加した記事

3月1日付け 『A!崩壊』映画とAI問題
3月2日付け 『AI崩壊』映画とAI問題
2月29日付け  『1917』2 映画の精神分析的読解と第一次世界大戦
3月18日付け 翻訳の闇
3月20日付け 翻訳の闇 2
3月23日付け 『白い病』
3月21日付け マスクがない
3月22日付け 翻訳の闇 3
3月25日付け 『男同士の絆』
posted by ohashi at 22:59| 記事リスト | 更新情報をチェックする

『AI崩壊』1

入江悠監督は、いっぽうで『サイタマのラッパー』とか『ヴィジランティ』といった埼玉ノワール(『ギャングース』も、その設定が定かではないが、撮影場所は、たぶん埼玉県)があるいっぽうで『22年目の告白 --私が殺人犯です』やこの『AI崩壊』といった電子メディア系エンターテインメントがあるという二つの面があって、それは社会派ドラマと、ぶっとんだSFファンタジー映画を撮っているポン・ジュノ監督と似たようなところがあるのだが、それはともかく、いずれまた『ヴィジランティ』のような埼玉ノワールをつくってもらえると期待できるためにも、『AI崩壊』のような作品が成功することを祈っている。

実際、コンピューターのこともAIのことも何もわからない私だが、素人にもわかりやすく説明してくれる丁寧な作り方をしていて(というか理解するのに負担のかからない提示のされかたをしてくれていて)、大沢たかおの熱演、三浦友和の、いいところ全部もっていきの定年間際の刑事役、そして岩田剛典の、いまや圧倒的ともいえる存在感など、演技やドラマの部分でも十分に楽しむことができた。もちろん陰謀にまきこまれ、四面楚歌状態からの突破という、まさに伝統的かつ王道の敵中突破劇であることもすぐれたエンターテインメント性を保証していて、2時間越えの映画だが、長さを感じさせない。

ただしAIの独走というか暴走というよくあるテーマについていえば、実際、この映画でも示されているように、背後に人間の謀略がある。ところがもういっぽうで、この映画のなかには、AIは人間にとってよいものかどうかという問いかけがある。AIが人間から独立した存在であるかのようにも考えられている。そこにAI暴走が、人間暴走にすぎないことを隠すイデオロギー性がある。今回、これを考えてみたい。

ふたつの未来がある。いっぽうでAIが人間から独立した自律的存在になるとき、そこにユートピアが実現するかもしれないという希望もある。もちろんAIが人間を抹消するという恐怖もある。いまひとつの未来は、AIがひらく新たな可能性など、じつはみかけだおしで、すべて人間がどこかで操っていて、未来は、いまとかわらない、あるいはいま以上にひどくなっていく世界かもしれないという、今のような未来の到来。このふたつの未来。いっぽうはAIが完全に独立して人間を滅ぼすかもしれない未来(機械が人間を迫害する『ターミネイター』の世界)。もういっぽうは、人間のいいなりになってAIが最強兵器となって人間を滅ぼす世界。どちらの世界も、あってほしくない。

また現段階では、後者の可能性、つまりAIが人間によって操られて支配と征服の道具となる悪夢が、実現しそうではある。

たとえばもしAIが不要な日本国民を排除する権限をもつとすれば、またそのとき犯罪者、法律を犯したものは、日本国民にとって有害であるがゆえに排除するということを決めれば(「慎重に決定する」という条件は不要であろう。なにしろAIはどんなに慎重に考察しても、思考速度は人間のはるかうえをいくので、一瞬後の判断となるから。またそれゆえにAIの「速断」は、決して速断ではなく、つねに慎重な考慮のうえの結果であるのだから)。

そんなのとき国民の税金を自分の支援者のために使うという公職選挙法違反、あるいは国家制度や国家機関や国家的催し物の私物化、公私混同、都合がわるくなると官僚に証拠破棄と公文書捏造を命じ、立法、行政、司法の区別がつかないために(バカだから)、司法に介入し検察官の人事に介入し、任期中に二度も消費税をあげ、景気後退を招くも、それをみとめることなく経済政策の成功という虚構的汚物をふりまき、いまや新型コロナ・ウィルス対策では世界に冠たる無能ぶりを示していながら、責任感覚の全く麻痺した、そして下品な野次をとばすだけしか能のない安倍首相など、もしAIに不要な国民選別をまかせたら、瞬殺されることは目に見えている。またそうでなければ何のためのAIかということになる。

だが、まさに何のためのAIかといえるくらい、上記のような、誰が見ても極悪人にちがない人間を、残念ながらAIは瞬時にして消去はしないだろうという予想がつく。なぜか。それはいま現在のところAIの中には人間がいるからである。AIはもはや人間がいなくてもやっていけるのかもしれないが、いまなお人間が中にいる。もちろん中に人間がいることは決して知られてはならない。そして人間の恣意的な判断にすぎないものを、機械の合理的・科学的判断であるかのようにみせかけるために、なかに人間が入っていることは、絶対に明かしてはならない。

「機械の中の幽霊」という言葉が浮かんでくるが、この、本のタイトルにもなっているフレーズは、ここでいわんとしていることとは異なるので、「機械の中の人間」とする。いっそのこと「機械の中の小人」とすればどうかと言われそうだ。ちなみにベンヤミンの「歴史の概念について」の冒頭には。チェスをする自動人形への言及がある。以下、冒頭の一節を引用する――

 周知のようにチェスの名手でもある自動人形が存在したと言われる。……トルコ風の衣装を身にまとい、水煙管(みずぎせる)を口に加えた人形が、大きなテーブルに置かれた盤を前にして席に着いていた。……本当は、テーブルのなかにチェスの名人である……小人が潜んでいて、その小人が紐で人形の手を操っていた。ところで、この装置に対応するものを、哲学において思い描くことができる。〈歴史的唯物論〉と呼ばれるこの人形は、いつでも勝つことになっている。浅井健二郎訳、『ベンヤミンン・コレクション1 近代の意味』(ちくま学芸文庫)所収


ああ、あれかと思い出す人もいようが、「小人」という表現が現代では問題であることと、そもそも「小人」は入っていなかった、入っていたのは大人だったらしいということから、「機械の中の」「亡霊」ではなく「人間」と表記しておこう。

自動人形に「小人」は入っていなかったというのは、この自動人形は、19世紀に見世物としてアメリカを巡業したのだが、一座のなかに極端に背が低い座員がまじっていたら、いやがうえでも目に付くし、すぐに仕掛けが推測できてしまう。かといって、その「小人」を人目に触れないようにして旅をするのは、本人にとっても一座にとっても負担が大きいだろう。この見世物は、エドガー・アラン・ポウが見ていて、人形の仕掛けをみせるときに一定の手順をふむので、中に入っている人間が、外から見えないよう、位置をかえ身をかくすのだと推測した。いまでは、ポウの推測が正しいとされている。小人説は無理がある。しかしだからといってベンヤミンのアレゴリーが意味を失うわけではないのだが。

こんなことを考えたのは、実は、トム・スタンデージ『謎のチェス指し人形「ターク」』服部桂訳(NTT出版2011)という本があって、この翻訳が出版されたとき、私はむさぼり読んだ(タイトルにある「ターク」とは英語でトルコ人のこと)。つまりこのベンヤミンが触れているチェスをする自動人形は、ほんとうにあったのであり(この本には来歴など詳しく書かれている)、からくりの真相は、なかに人が入っていた、それも「小人」ではなく、「大人」だったと推測している。最後にこの本は、現代の、コンピューターによるチェスの対局について触れ、人間がAIとチェスをしているようにみえるが、究極的にはAIは人間によるプログラミングによって動くので、事情は、19世紀のチェス自動人形とかわりない。チェスに詳しく、名人級の実力をもったプログラマーがチェスをするAIの中に入っているのだとしている。

こんな単純なことだが、私たちは忘れてはならないだろう。この映画でもAIが国民の選別を始めるのだが、医療に特化されたAIのプログラムが、なぜ、そんなことをしはじめるのか、その謎を解明し、AIの暴走をとめ、真犯人をつきとめる、それも敵中突破しながら、というのが映画の展開となるが、AIは暴走しているようにみえて、ほんとうは人間によって間接的にあやつられていたということになる。

単純なことを念を押すなと叱られそうだが、これは何度も念を押したほうがいい。最近もAIが手塚治虫になりかわって新しい手塚漫画を創作したというニュースが報じられたが、人間がプログラムをつくっていることを隠すのはどうしてだろう。ただ人間がコンピュータを筆記用具として使っているにすぎないのだが。

AIが人間を凌駕するなどという考え方が理不尽なまでに横行しているのだが、こうした考え方の問題は、AIがすることが、合理的・科学的根拠がある合法的なことだという幻想を育んでしまうことである。かつては問題のある社会慣習や政治的実践を、自然なものであるかのようにみせかける、自然化こそが、問題を隠蔽するイデオロギーの狡知と策略だったが、いまや自然化しなくとも、AIのすることだからという理由で、問題が解決されてしまう(まさにユルゲン・ハーバマスが『イデオロギーとしての技術と科学』長谷川宏訳(平凡社ライブラリー2000)のなかで語っていた問題圏の延長線上にある事例であろう)。しかし、機械の中には人間がいる。だがその人間をみることなく、あたかも機会が自意識をもっていて、自分で合理的科学的判断をしてことを行なうかのように考えること、それこそがが、権力をもつ体制側のねらいであるし、その罠にまんまとはまることなのだ。機械が決める政策などない。機械の中には人間がいること。それをひとときたりとも忘れてはならない。

そう、機械の中に人間がいることを念頭にたえず置いておくことで、たとえどんなに機械の自律的判断として特定の人間だけに利益となるようなことをおこなうようにみえても、それは決して偶然ではなく人為的なことであるという理解に導かれるはずである。と同時に、私たちは、いくら人間が私利私欲から機会を操作しても、機械はそれを凌駕して、人間の思うようには動かないとき、そのときはじめてAIは人間を超えたというべきだろう。そしてそのときこそ、腐敗した政治家がこの世界から一掃されるときである。

要は、AIは現段階では道具にすぎず、独創的判断はできないし、暴走するとすれば、それはAIが自己制御力がない、そもそもAIですらないという証拠でもあろう。AIがなんらかのウィルスに感染して壊れることはあるだろう、しかし、理由なく暴走するということは、つまり故障することは、AIがまだ原始的道具的段階にあることの証左であろう。つい先日も、私の電話で、ファックス用紙をセットしてくださいという音声ガイドが間歇的に流れて止まらなくなった。故障したのである。しかしこれは電話機が単純な道具であるためであって、暴走しているのではなく、故障しただけである。さっそく買い替えたが。(なおAIも高度になればなるほど暴走しやすくなるという考え方もあろう。人間の脳も高度になればなるほど、異常な状態になる可能性が高くなるということであるが、AIはそこまで高度になっているのだろうか、だとすればAIが人間を凌駕することなどありえない、なぜなら人間と同様に発狂する以上、人間と同等か、人間以下である)。

とはいえAIに関しては素人の私でもいろいろ考えさせられることは多いので、思うところを全部の述べていたらきりがないので、この映画に即して考えてみる。
posted by ohashi at 16:46| 映画 | 更新情報をチェックする