以下は、ハンナ・アレントの『暗い時代の人々』のなかの、第一章ローザ・ルクセンブルクの冒頭から。この『暗い時代の人々』は、森まゆみ著『暗い時代の人々』のインスピレーション源になったくらいに、よく読まれている本だが、暗い時代になったいままた、新たに読者を獲得してゆくのではないかと思われる。
以下、ちくま学芸文庫版から引用
イギリス式の決定的な伝記は、史料編修にとって最も賞賛に値するジャンルに属している。相当な長さと完璧な典拠を持ち、十分な注釈がくわえられ、さらに引用文でゆたかに飾られており、通常二巻の大著として刊行され、最も傑出した歴史書を別とすれば、問題となっている歴史上の時代について何ものにもまして多くを、より生き生きと語ってくれる。他の伝記類とは異なり、ここで歴史はある著名な人物の生涯にとって不可避な背景として論じられるのではなく、歴史上の時代という無色の光線が偉大な人格というプリズムを通過し、それによって屈折させられ、その結果生じたスペクトルの中に人生と世界との完全な結合が達成されるからであろう。おそらくこうしたことが、イギリス式の伝記が偉大な政治家を扱う古典的ジャンルとなりながら、その生活史に主要な関心がもたれる人々、あるいは世界と一定の距離を保たせるような資質を備え、しかも世界の中で演じた役割ではなくそこに付与した芸術作品のようなその作品に主要な意味がある芸術家、作家、そして一般男女には不適当である理由であろう。
私は最初これを読んだとき、「イギリス式の決定的な伝記」によってつまずいた。なにが「決定的」なのか、わからなかったのである。
またアレンとの文章は、翻訳のせいかどうかわからないが、深い洞察にあふれつつも、やや読みにくいことは事実なのだが、その洞察の部分は注目に値する。なお翻訳問題のみに関心があれば、以下の7つの数段落は読み飛ばしてもらってかまわない。
アレント(アーレントという表記も一般的だが、ここはちくま学芸文庫版の表記に従う)は、時代と人物(偉人など)との関係を従来とは異なる観点から捉えている。
たとえば芸術家の場合、時代と当人との関係を語る場合、時代をただの背景あるいは飾りのようなもの(舞台の書き割りのようなもの)として考え、芸術家の活動には本質的に関与しないという考え方がけっこう支配的である。しかし、歴史的、政治的、社会的批評や研究が盛り返してからは、時代はただの背景ではなく、芸術家の深いところに影響を及ぼしていると、両者の関係を再考するようになった。アドルノのようにたとえ芸術家が社会に背を向けているとしても、そ」のこと自体が社会との深い関係を表象しているとみることもある。
芸術家は社会から超越した存在ではなく、芸術家といえども社会や歴史の申し子であり、また芸術家こそ、社会や歴史の真実を伝えていることに比重が置かれるようにもなった。
私たち一般人は時代の影響をもろうけるだけだが、芸術家は、時代の影響をうけつつ、時代に超越しているという二面性があるということもできるが、それよりも、時代の影響を常人よりも深く受けるが故に、時代の真実を見抜いたり、それとは知らなくともみずから体現してしまうというふうに考える。芸術家が時代に超越しているようにみえるのは、時代を排除するのではなく、時代の影響をとことん受けた結果なのである。
そんな面倒なことを考えなくともアレントのように芸術家は時代の影響を受けないことが多いと考えてはどうか、「世界と一定の距離を保たせるような資質を備え、しかも世界の中で演じた役割ではなくそこに付与した芸術作品のようなその作品に主要な意味がある芸術家、作家」とみればよいのでは。さらにいうとアレンとは、芸術家や作家のみならず、一般の男女も世界(時代といっても同じだろうが)と一定の距離を保っているという。「そして一般男女」と付け加えているのだから。
そうなると芸術家vs一般男女という区分はなくなる。となると、アレンとは何と対比しているのかというと、浩瀚な伝記が書かれるような偉人である(政治家とか君主という必要はなく、そこには一世を風靡した、あるいは新たな時代を切り開いた芸術家もふくまれる)。この偉人というのは、時代に影響を受けるとか受けないとう次元を超越している。つまり、その偉人が時代を作ったのであり、その偉人そのものが時代なのである。時代と一体化している以上、時代と偉人の関係など考えることはできない。時代こそが、偉人であるとき、両者の関係は問えない。いっぽう芸術家であれ一般男女であれ、時代を作っているわけではないから時代との関係が問える。時代と芸術家や一般男女の間には距離がある。一般男女にとってはその距離は歴史をつくったり変えたりできない無力感の淵源ともなるが、芸術家にとってはその距離は、批判的距離あるいは美的距離となって、時代を対象化した言説や芸術創造を可能にするのである。
しかし偉人と時代との一体感というのは、ほんとうにそうなのか。むしろ偉人の生涯を細大漏らさず語った包括的伝記がつくりあげる虚像ではないか。偉人もまた時代の申し子であって、それは包括的伝記なり本格的伝記ではなくとも、むしろ通常の伝記のほうが正確かつ鋭く提示しているというのが、アレントの論点である。
そこで最初に戻る
「イギリス式の決定的な伝記」のいう「決定的な」というのは何か。
これを考えているときに「決定版」とか「決定稿」という言葉浮かんだ。「決定稿」といういのは、たとえば修正や推敲を重ね、あとはこれで印刷に回してもよいというような最終稿と同じようなものである。最終的にこれでOKというのが決定稿である。もしこれを「決定的な原稿」とか「決定的な版」という「的な」を入れると、何が、どういう理由で「決定的な」のかが問題となる。「決定的な原稿」と「決定稿」とは違う。前者は、なんらかの理由で決定的なもの――たとえば作者が複数の原稿を書いて、そのうちこれが良いと作者あるいは他者が選定した原稿とか、なんらかの大きな影響を後世にあたえることになった原稿とか、いろいろな意味になる。後者は、最終稿と同じ意味となる。
決定的な伝記と、決定版伝記というのはだから、2文字のあるなしで意味に違いがでる。決定版伝記あるいは伝記の決定版というのは、アレントが説明しているとおり、網羅的な史料調査によって、あますところなく事実を精査して、もはや、これ以上に事実的になにも付け加える必要のない、最後の伝記という意味である。いっぽう「決定的な」というと、すぐに「決定版」伝記を思い浮かべる人はいるだろうが、多くの場合、「決定版」とは異なる、複数のニュアンスを生み出すことになる。ごくわずかの違いである。それが意味把握を困難にさせたり、読者に過大な負担をかけることになる。そういう意味で翻訳は(あるいは文字表現全般の話かもしれないが)は恐い。