2020年02月29日

『1917』 2

この映画、ワンカット・ワンシーンを全体で実行した力技だが、そんぶん、物語の広がりから奥行きが奪われたという意見が多くある。実際、私もそのとおりだと思うのだが、同時にまた、単純な設定、ここでは2時間のリアルタイムのワンカット・ワンシーンであればこそ、そこにアレゴリカルな意味が付与されやすいということもいえる。

そのため、わかりきっていることで、やや恥ずかしいのであるが、最近は、案外、かえりみられていない、精神分析の初歩的読解で、この映画を読解することができる点を確認しておきたい。実際、繰り返すが、わかりきったことで、はずかしいのだが。

先の記事で木から木への移動というか回帰であると書いた。そして一つの木からもう一つの木への伝令の移動は、まさに射精された精子の運動である。伝令は精子である。そしていったん女性の身体に入った精子は、ひたすら受精をめざして目的地の子宮をめざす。

風景が女性であり、そこを移動するのは男性であること、そして風景が脅威的で移動が困難をともなえばともなうほど冒険的価値が増す。移動するアクティヴな男性と移動を妨害するパッシヴな女性としての風景というジェンダー化の古典例と同じものがこの映画にはある。

事実、塹壕、とりわけ敵が去ったあとの、ブービートラップなどが仕掛けられている危険な塹壕は、男性あるいは男性の精子を取り殺す女性の危険な内臓器官を思わせるものがある。木は勃起である。勃起した木から放たれた伝令は、使命を果たして勃起した木にもたれかかる。

この映画には基本的に女性は登場しない。戦争が男がする者であり、男の世界であること。しかし、同時に、それはまた女性を排除して成立する男だけの世界が、あるいは劇場を男性だけが独占できる場が戦争だということを示している。しかし、いや、この映画に女性が登場する場面があるではないかといわれそうだ。廃墟と化した夜の街に、女性が赤ン坊とともに隠れて暮らしている。そこに伝令が遭遇する。

しかしジュディス・バトラーがBody That Mattersで語っていたように、排除は、何を排除したのかを示さない限り、排除とはいえなくなるため、排除の爪痕あるいは痕跡のようなものを残すと語っていた。それがラカンのいう、無意味な対象aである、と。この映画のなかで夜の廃墟の街に身を隠している母子は逆に女性の排除を際立たせる仕掛けそのものである。

この映画が性行為の暗喩ならば、異性愛としては男女の関与が不可欠であるのだが、この映画いやジェンダー化されたイメージが示しているように女性は排除される。排除の痕跡を残しつつ。しかし、留意すべきは、女性は抹消されたのではなく、見えなくされたのである。いや見えているのだが、認知されなくなっている。つまりこの映画では危険な風景が女性イメージとなる。エドガー・アラン・ポウの「盗まれた手紙」ではないが、これみよがしに示されているものは、逆にみえなくなるのである。

かくして男性=精子は、この風景=女性身体のうえを、あるいは中を移動する。障害を乗り越えながら。そして男女のいとなみが、基本的に男性通しの関係になる。将軍(コリン・ファレル)から最前線の司令官(カンバーバッチ)への伝言というのは、父から息子への伝言・継承という面もあるし、ホモソーシャル/ホモセクシュアルな関係性が出来事の基盤にある暗示ともとれる。異性愛であっても、同性関係が基本となり、異性は隠される、あるいは背景化=風景化されるのである。

最終目的地の最前線司令所の周囲は、白っぽくなっている。白さは女性の身体の表象である(肌の黒い民族の文化を無視した、温暖地帯文化であるが)。伝令の移動が女性の身体の上あるいは中であることの象徴である。

また川での移動が強調される。横断したり流されたり。おびただしい死体が浮かぶその川は地獄の三途の川の象徴でもあるが、同時に、水は同性愛関係の象徴でもあろう。異性愛の性現象の暗喩が、濃厚な同性愛イメージで示されるのである。

では、この映画の無意識は、セクシュアリティというよりも性行為そのものアレゴリーを伝令のミッションというかたちで示そうとしただけなのか。いや、そうではなく、そもそも冒険物語を提示しようとしただけである(まっとうな意図である)【ナラトロジー読解】。そして冒険物語はジェンダー化すれば、男女の性行為のアレゴリーへと還元される【ジェンダー読解】。初歩的な精神分析的イメージ読解がそれを支援する【精神分析】。そしてつねに顕在化するのは異性愛が、男性中心社会や文化にいおいては同性愛をパラダイムにして語れることである(男性中心的異性愛社会では同性愛は嫌われているにもかかわらず【クィア読解】)。

しかしこれだと常にそうなるしかない。同じ物語の繰り返しではないかといわれそうだが、この映画のクィア的読解/提示は、実は第一次世界大戦において、とりわけ有効なのである。

占領戦であった第二次世界大戦に対して塹壕戦であった第一世界大戦は、塹壕を掘って、敵と対峙するという戦術は、兵士たちの濃厚接触を出現させた。その結果、スペイン風邪というパンデミックを生み、多くの犠牲者が出たし、それが戦争の終結の原動力ともなったといわれている。濃厚接触が生んだもうひとつの現象は、同性愛的感情である。この特殊歴史的現象は、同性愛文化を多様に発展させることになる。

ひとつだけ例をあげれば、『グッドライアー 偽りのゲーム 』The Good Liar (2019) 監督・製作のビル・コンドン監督が20世紀にアカデミー賞脚本賞を獲った作品に『ゴッド・アンド・モンスター』Gods and Monstersがある。イギリス出身でハリウッドで活躍した映画監督ジェイムズ・ホエイルの晩年と謎の死を扱ったこの映画は、往年の名監督が、忘れられた存在としてハリウッドの邸宅で隠居生活を送っているところ、たまたま仕事に来た庭師の男にひかれるところから物語ははじまる。

ジェイムズ・ホエイルはカミングアウトしていたゲイであった。そして彼の代表作は『フランケンシュタイン』と『フランケンシュタインの花嫁』である【それ以外にも多くの映画を撮ったのだが、この二作の名声の前にかすんでいる。映画の回想シーンでは、フランケンシュタイン映画の撮影現場が再現される】。庭師の男は、『ハムナプトラ』で人気がでたブレンダン・フレイザーだが、巨漢で美男子の彼に、ホエイル監督(イアン・マッカランが演じている、この頃から彼はビル・コンドン組の俳優ともなった)は魅かれるのだが、それはまたこの庭師にフランケンシュタインの怪物の面影があったからである。それだけではない。この庭師=フランケンシュタインの怪物へ魅かれたかれは、いつしか、もうひとつの決定的な過去の思い出に引き寄せられてゆく。第一次世界大戦の塹壕。女性を排除し男が男を造るフランケンシュタイン物語はゲイ物語でもある。そしてそれは第一次世界大戦における男どおしの絆の顕在化とも関係していた。そして死。死が、フランケンシュタイン物語と第一次世界大戦とをむすびつける。やがてこの二つはジェイムズ・ホエイル監督の最晩年と謎の死(自殺かもしれない)に結びつく。彼が引かれていく巨漢の庭師は、死の使いでもあったのだ。

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2020年02月24日

『1917』

結論をいうと、ワンカット・ワンシーンという離れ業というか力技の映画としては、たしかに最後まで目が釘付けになったし、尋常ではない緊迫感によって最後まで見切ったというという思いに酔いしれた……とはいかなかった。何か物足らないのである。

ワンカット・ワンシーンの映画は、ヒッチコックの『ロープ』とか、最近ではアカデミー4冠(2015)の『バードマン』(監督アレハンドロ・G・イニャリトゥ)とか、あるいはウトヤ島の銃乱射事件を扱ったドキュメンタリー風のノルウェー映画『ウトヤ島、7月22日』(2018、日本公開2019)などがあるのだが、いずれも、実はそうした長回しには驚きつつも、映画の魅力はそこだけではないことは、『ロープ』とか『バードマン』をみてもわかるとろこだし、『ウトヤ島』にいたっては、こんな映画よりも通常のドキュメンタリーのほうがはるかに面白いし意味ぶかいと思った(映画の方は、なぞの男の銃撃に翻弄されて死ぬだけという不条理劇でしかなかった。もしそうした映画をつくりたかったのなら、それは死者に対する冒涜だろう)。だが、もうひとつ重要なワンカット・ワンシーン映画(正確には、それは映画の一部だが)を忘れてはいけない。それを参照することによって、この『1917』の物足りなさが解明できるかもしれない――

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その前に、『1917』は、伝令のひとり、ディーン=チャールズ・チャップマンと、その兄の役のリチャード・マッデンは、『ゲーム・オブ・スローンズ』のファンにとっては、おなじみのふたりらしいのだが、『ゲーム・オブ・スローンズ』をみていない私にはなんともいえない。兄約のリチャード・マッデンは、私には『暮れ遭い』がなつかしいのだが、ケネス・ブラナー監督の『シンデレラ』では王子様役で、そのためかケネス・ブラナー演出のシェイクスピアの『ロミオとジュリエット』ではロミオ役で、これは「ブラナー劇場」という劇場録画中継でみた(映画館で)。また最近では『ロケットマン』で、エルトン・ジョンのアメリカ人マネージャーとして(ただしゲイだが、エルトン・ジョンを苦しめる悪徳マネージャーとして)の出演も記憶に新しいが、『1917』では最後に顔をだすだけである。ちなみに、リチャード・マッデンの場面が最初に撮られたらしい。ほんとにリアルタイムのワンカット・ワンシーンではない。



もう一人の伝令ジョージ・マッケイは、『わたしは生きていける』How I Live Nowで、シアーシャ・ローナンと共演していたというか、共演して以来、よく覚えている。シアーシャ・ローナンのファンである私は、彼女が主演あるいは出演している映画は必ずみる【それは事実だが、もうひとつこの映画はケヴィン・マクドナルド監督の映画だったために見たということもある】。この映画のなかで彼女はイングランドにやってきたアメリカ人の少女の役(主演)なのだが、どうしてもアイルランド系ということが頭からはなれず、映画のなかで彼女がアメリカン・ギャル的発想でものを考えるとき、それがすぐに理解できず、困った記憶がある。

『わたしは生きていける』という近未来・カタストロフSF以後、『サンシャイン/歌声が響く街』Sunshine on Leith(『ロケットマン』と同じ監督デクスター・フレッチャーによる)とか、『パレードへようこそ』Pride、さらに『はじまりへの旅』Captain Fantasticと見ているのだが、何処に出演していたのかも覚えていないか、ぼんやりと覚えているにすぎない。なさけない話だが。

したがって『私は生きていける』のあとにジョージ・マッケイに出逢ったのは『オフィーリア』Opheliaにおいてである。日本で劇場公開されなかったので、ブルーレイディスクで観た(WOWWOWでも放送されたらしいが、観ていない)。この映画ではオフィーリアはデイジー・リドレーが演じている。デイジー・リドレー? 誰だというなかれ。あなたは知っているはずだ。『スターウォーズ』のレイ。『スカイ・ウォーカーの夜明け』の一番最後に、「レイ・スカイウォーカー」と名乗る、エピソード7~9の主役のあの彼女である。

そのデイジー・リドレーがオフィーリアを演じた『オフィーリア』で、ジョージ・マッケイはハムレットを演じている。ナオミ・ワッツのガートルード、クライヴ・オーウェンのクローディアスなど、けっこう豪華な配役で、戯曲の『ハムレット』を知らなくても、じゅうぶんに楽しめる映画となっている。いろいろな出来事が起こり、また哀しい物語でもあるのだが。またこのなかでジョージ・マッケイのハムレットは、原作の改変もあるのだが、同時に、まぎれもないハムレットであって、運命に翻弄されるだけではないオフィーリアとバランスがとれる力強いプリンス役だった。



第一次世界大戦については私はごく一般的なイメージしかもっていないのだが、ヨーロッパ戦線においては、第二次世界大戦が占領戦であるのに対して第一次世界大戦【当時は大戦Great Warとだけ呼ばれた】は塹壕戦である。そしてこの塹壕の上を縦横無尽に電線が張られている。これが電話線で、有線による連絡につかわれた。このことは第一次世界大戦を扱ったフランス映画『長い休暇』をみて初めて知ったのだが、この電話線が切断されて前線部隊に連絡ができない。そこで伝令の登場となる。

ただ、あきらかに伝令とわかるような恰好をすると、敵に狙われるのだが、しかし、伝令であることの証拠である、それもみればすぐにわかるような証明書のようなものがないと、混乱している前線部隊の司令官にメッセージを伝達できないのではないかと心配する。この映画では、ただ伝令が自己申告で、力づくで指令所に行って司令官に手紙を渡すのだが、本来、警備が厳重なら、そう簡単に指令所には入れないはずである。また、伝令が途中でつかまったり、道に迷ったりする可能性もあるので、ペアの伝令を一組だけ派遣するというのも、おかしな話だし、また航空機が使えるのなら、航空機に伝言を託すこともできる。しかも平原なので航空機の着陸は容易だと思うのだが。

ある場面では、必死の思い出で、ものけのからとなったドイツ軍側の塹壕陣地を突っ切ったら、味方の一団がすぐそばにいた。だったら最初からトラックに載せてもらって前線近くまで送ってもらえばいいのにと、いろいろ、よけいないちゃもんをつけたくなってしまう。だから、こういうことはあえて考えないことにする。そもそも前線で歌われるヨルダン川を渡るというあのユダヤ人あるいはシオニストの歌は何なのだろうか。いや、それはともかく。

塹壕戦ということで、塹壕を渡り攻撃するひし形の戦車の残骸を伝令は目にするのだが、あのひし形戦車(第一次世界大戦勃発100周年記念で、日本の模型メーカー田宮が、あのひし形戦車をモデル化した――個人的には造る予定も購入予定もないのだが)、投入されたのは1917年かららしいが、この映画での出来事の後のようなので、時代錯誤ということらしい。

ヒコーキファンの私としては墜落してくるのがドイツのアルバトロスであることに、内容と関係なく感激した。第一次世界大戦でのドイツ軍の主力戦闘機アルバトロスは、第一次世界大戦の航空機とは思えない時代離れしたスマートな機体で、複葉機でなければ第二次世界大戦においても主力戦闘機になりうるような先進的デザインの飛行機である。墜落して伝令たちのところに突っ込んでくるのは、この映画のなかでもハイライトといえる一場面。



映画は、木の下にまどろむ兵士が、起こされ、伝令となって戦場を横断して前線部隊の司令官に伝言をもたらす。その間、昼間から夜に、そして朝になる。ワンショット・ワンシーンだから、当然、リアルタイムになるのだが、それだと映画の上映時間を超えないかと心配するなかれ。途中で主人公は意識を失うので、その間、時計はストップ。彼が目覚めてから、最後まではまたリアルタイム。とはいえ2時間の映画で8時間以上の出来事をワンカット・ワンシーンで撮るというのは、どこかにごまかしなりうそがあるのだろうが。

とまれ木の下にまどろんでいた兵士が、戦場という地獄をめぐる。三途の川がある。一応同じ川なのだろうが、兵士はそこを二度渡る。そしておびただしい死体が浮かぶ川から岸にあがると、そこで聖歌をうたう兵士と、それに聞き惚れる兵士たちがいる。物語はリアルからアレゴリカルへと変貌を遂げていく。そして最後に使命を果たした兵士が木のしたでまどろむ。

そうアレゴリカルな面としては、木の下にまどろむ兵士がみた伝令の夢、あるいは地獄巡りの一夜という夢ととらえることができる。と同時に、夢のなかでしか成立しない地獄を、夢ではなく現実として体験したという面もある。リアルタイムでありがながら、そのリアルタイムが、いつしかシンボリックでアレゴリカルな時間へと変貌する。ワンカット・ワンシーンなのに、そこに過剰な意味など入り込む余地がないような、物理的時間しか経過していないのに、アレゴリカルな時間が生まれる不思議がある。

もちろんリアルタイムにおける迫真性もまた片方で決して失なわれていはない。これは予告編でも使われている映像なので、ネタバレではないと思うのだが、最後のOver the topの突撃の場面を思い出すと(Over the topにはいろいろ意味があるが、ここでは塹壕を超えて最後の攻撃・突撃をするという意味)。画面の右から左へとおびただしい数の英軍の兵士が突撃してゆく。いっぽう伝令は、その流れに直角に交差するかたちで、画面奥から画面正面にむかって走ってくる。ワンショット・ワンシーンは最後までぶれないのだが、この突撃の場面で、伝令は突撃する兵士と2度ほどぶつかって、倒れ、また起き上がって走る。

まさにワンショット・ワンシーンの迫力あるいは力技はここに極まれりという観がある。突撃する兵士とぶつかるタイミングは、何度もリハーサルして調整する必要があろう。またそれでも本番で、うまくぶつかれなかったら、そこですべてを、もっとも多い人数が突撃する場面を撮りなおさねばならない。あるいは、誰もが必死になって一度で撮るかしないとなると、その緊張はいかばかりかと他人事ながら胃が痛くなってくる気がする。

だが驚きが待っていた。あの場面、全力で突撃する兵士たちと2度ほどぶつかるのだが、あの場面、ほんとうにぶつかっていたということである。つまり台本にはない。台本にはなかったのだが、ぶつかった。しかし、そこでカメラを止めないためにも、主役の伝令、もうジョージ・マッケイというべきだろう(もう一人は途中で死ぬ)、彼は、ぶつかっても起き上がり、すぐに全力疾走し、またぶつかったのだが、それでも起き上がって走り抜けた。あのシーンは、あの激突シーンは、思わず息をのむような迫力だったが、そこでカメラをとめず、また演技し続けたジョージ・マッケイの、まさに勝利である。あの場面を見るだけでも、価値がある。

そして、いま思わず書いてしまった「カメラを止めるな」。そうもうひとつの忘れてはならない、ワンカット・ワンシーンの映画は『カメラを止めるな』である。

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もうテレビなどでも放映され、内容も知られているのでネタバレではないと思うのだが、『カメラを止めるな』は、前半30分の、ワンカット・ワンシーンのゾンビ映画と、後半のというか、残り三分の二の、ゾンビ映画のネタ晴らしのような部分に分かれる。

ゾンビ映画は、ゾンビ番組専用チャンネルの開局を記念して、生放送でゾンビ・ドラマを放送するという企画から生まれたということになっている(だからリアルタイム映画でもある)。ぞのゾンビ映画は、途中、不自然なところとか、中だるみのようなところがあるが、廃工場でゾンビ映画を撮影しているクルーと演技者たちが、本物のゾンビに襲われ、最後にゾンビ映画に出演していた女性が生き残って勝利するというものだった。またこれは最後に少女が生き残るという、映画における王道的主題、すなわち少女の冒険と生き残り物語ともなっている(そういえば先ほど触れた映画『オフィーリア』も女性映画監督による女性映画だが、同時にそれは少女物映画でもあった)。

そしてこの『カメラを止めるな』が、もしこの30分のリアルタイム、ワンカット・ワンシーンのゾンビ映画だけで終わっていたら、それはそれで面白いのだが、しかし大ヒットするような興奮する映画にはならなかっただろう。

あるいは、この映画は、とにかく30分の生放送番組を最後までやりとげたという達成感だけの映画だっただろう。

実際にはこの映画には3種のエンディングがある。最初の30分の生放送のエンディング。つぎに30分の生放送番組を制作することになった経緯、ならびに放送当日に次から次に生ずる問題と、その応急処理というドタバタ、そしてそれにもめげず、番組を制作した(まさにカメラを止めることなく)ことを示す、裏事情篇【本事情かもしれないが】。そしてそのエンディング。

ゾンビ映画、その出演者と監督との衝突、さらにそこに襲い掛かる本物のゾンビ、そのゾンビの攻撃をかわして生き残る、少女。さらにその映画を撮る経緯と、撮影当日の舞台裏。映画はどんんどんと外にむかってひろがっていく。この映画では視界が同心円状に拡大してゆき、どんどん外側が見えてくる。映画には3つのエンディングがある。30分の生放送番組のエンディング、そしてその内幕を描いた部分のエンディングについては述べた。第三のエンディングは、この映画そのもののエンディング【本物のクルーが登場する】。

そう、『1917』にないのが、これなのである。べつにワンカット・ワンシーンの内幕を描く部分を付け加えろということではない。視野を広げるなんらかの外部の視界があってしかるべきであり、そうでないと時間までに目的地に到達するという駆けっこ、あるいはゲームのようなものをみせつけられるだけで、達成感はあっても、そこに別の要因による+満足感がない。

実際、木の下にまどろむ兵士のみた、つかのまの悪夢というような解釈も成立しそうなところに、この映画のもつパラドクス――ある意味、本物(リアルタイム、リアルな本物のアクション)でありながら、夢かイリュージョンにしがみえないというパラドクス――がある。私たちは、どれほど直接的に何かを経験していても、どこかしら演技しているという醒めた意識、メタ意識のようなものをもっている。自分自身に対してもそうだから、他者に対してもメタ的批評意識はつねにある。そして、それが、なぜという意味への問いかけを胚胎させる。なぜ、この兵士は、戦場を駆け抜け、メッセージを現場の司令官にとどけなければならないのか。彼だけになぜ使命が課せられるのか。そもそもなぜ戦闘をしているのか。敵とは誰なのか。生きるとは死とは何であるのか。こうした問いを誘発したり、あるいはアレゴリカルな次元を導入するような工夫はまちがいなく凝らされているのだが、残念ながら、それは、大掛かりなワンカット・ワンシーンの突撃的撮影のなかで、なんどもぶつかりたおされて最後は押し流されてしまうように思われるのだ。

いや押し流されるのは、それだけではない。伝令というのは伝統的に重要な意味を帯びていた。メッセンジャーといってもいいのだが、近くはカフカの「皇帝の伝令」(まあ、決して到着せずに、永遠に走り続けている伝令なのだが)あるいは伝令ではないが、時間までに約束通り到着するという点では「走れメロス」がある。また伝令は演劇においては、重要な役割をになってきた。そこにはたんに情報伝達にとどまらない、多様な意味(形而上的意味も)があふれている。この伝令、メッセンジャーの文化的伝統が、後景に追いやられているところがある。

ワンカット・ワンシーン撮影は、私たちのリアルな現実意識を反映していながら、同時に、夢幻的である。たとえば主人公たちを正面からとらえる映像では、歩いている風景が、どんどんかわりながら、主人公の後方へと流れていく。とぎれることなく。通常の撮影では、風景なり光景は、メリハリをもって変わっていく。あるいは断片的になり、分節化される。牧歌的な田園風景にいた主人公が、次の場面では塹壕のなかにいる。この変化を、私たちは違和感なく受け止める。人物が場所を移動したのだろうということ。設定されている場所によってシーンも変わったということ。演劇の比喩を使うと、暗転後、新しい舞台セットが組まれて次の場面がはじまるような。

ところがワンカット・ワンシーン撮影だと、場面が連続してかわる。つまり牧歌的田園風景が私たちの面前で塹壕の内部へと変ってゆくのだ。そしてそれはモーフィングを撮影を思い浮かばせる。

たとえばある人物の顔が、だんだん別人に変っていくような画像処理。ここでは風景が、べつの風景に、だんだんと、しかし中断なく変容してゆく。モーフィングは現実にはありえないのだが、実は、私たちの現実認識はモーフィングと同じようなものだということを、この映画から思い知らされるのだが、それはともかく、光景なり背景のモーフィング的変化を出現させるのがこの撮影方法なのだ。そしてそれはリアリズムの対極にある夢幻的な映像のメタモルフォーゼ体験となる。リアルの追及が夢幻を立ち上げてしまうのである。

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2020年02月23日

『ヘンリー八世』

松岡和子先生のシェイクスピア作品の翻訳も、今回の『ヘンリー八世』をふくめて残すところ3作品となった。

【もっとも、それ以外にもシェイクスピアのいわゆる外典(昔は)、いまではキャノンにふくまれる『エドワード三世』と『二人の貴公子』は、すでに河合祥一郎氏の見事な翻訳がある(白水社刊)のだが、ちくま文庫版の松岡シェイクスピアに収録されてもおかしくはない(さらにいうと、現行のアーデン版(Arden3)にはシェイクスピアの失われた劇『カルデニオ』の原稿から再現したといわれている18世紀の劇Double Falsehoodも入っているのだが、これは読んでみたが、18世紀のクソ三流作品で、これをシェイクスピアの作という18世紀のシェイクスピア学者Theobaldは、虚偽の申告をしているとしか思えないので無視していいのだが))。

松岡和子氏の主要作品は蜷川幸雄演出ですでに上演されたので、あとは、野球でいうところの、消化試合みたいなものとなる。

消化試合というのは、リーグ優勝のみならず、順位なども確定したあとも、一応試合の予定が組まれているから、おこなうもので、どちらが勝っても負けても、優勝のみならず順位にも影響しないという試合のことである。

シェイクスピア作品でも『ヘンリー八世』とか『ジョン王』は、上演されることもすくなく、そのぶん貴重なのだが、同時に、知名度の低さからして、どこまで人が集まるのか不安なところであるし、消化試合として、最初から優勝や上位入賞をあきらめた手抜きの翻訳あるいは上演……というわけにはいかないのである。

前にカクシンハンの上演のあとのアフタートークで、松岡氏が語っていたのは、シェイクスピア作品をここまで翻訳してくると、いろいろなものが見えるようになって、伝えたいこともどんどん増えてくる。そのため最初の頃に翻訳した作品よりも、最近翻訳した作品のほうが訳注が増えているということだった。『ハムレット』は、比較的早い段階で翻訳されたので、訳注はそんなに多くないが、『ハムレット』よりは知名度の点で格段に劣る『ヘンリー八世』のほうは、たくさんの訳注がつくことになったという。

実際、そのとおりで、『ヘンリー八世』は知名度の低いマイナー作品だからといって手抜きどころか、これまでのシェイクスピア翻訳の集大成とでもいうべき、松岡氏のもてる力がすべて注入されている渾身の翻訳となっている。ちくま文庫版のシェイクスピア翻訳は、翻訳者の訳者あとがきと、別の研究者の解説の二段構えなのだが、最近の翻訳作品になればなるほど、解説者泣かせというか、翻訳者である松岡氏の訳者あとがきが分量と内容ともに充実していて、数多くの洞察にあふれ、解説を凌駕しているかに思われるところがあるのだ。

そういう意味で『ヘンリー八世』の翻訳と上演は、消化試合どころではない、優勝決定戦とでもいうべき迫力を帯び、充実した内容を誇るものになっている(野球の比喩は、なにか、くそ親爺めいていて自分でも好きではないのだが、ただただ許していただくしかない)。

同じことは彩の国さいたま芸術劇場の公演についてもいえる。あるいは吉田鋼太郎演出についてもいえる。いくら知名度が低いとはいえ、手抜きでの公演などできようはずない。むしろこれまで以上の力のこもった演出にもなっている。そして同じことは、オリジナルの上演でもいえるだろうか。17世紀初頭、国王一座は、座付作者としては、すでに盛りをすぎたかもしれないシェイクスピアを、若手のジョン・フレッチャーと組ませて台本をつくらせ、興業的に成功し称賛されるパフォーマンスの提供のために全力を傾注したにちがいない。事実、力が入りすぎて、上演中の事故で、グローブ座を焼失させてしまったのだが(事故ではなく陰謀との説もないわけではない。また翌年にはグローブ座は再建された)、どこにも手を抜ける機会というのものはなかったにちがいない。

私が舞台でみた『ヘンリー八世』は、今回のもので、生涯に二度だけで、おそらくこれから死ぬまでに見るチャンスはないだろうと思うのだが、一度目は、比較的最近、文学座の稽古場(アトリエのほうではなく稽古場での上演)で観た『ヘンリー八世』で、これはヘンリー八世以外は、全員女性が演じているという、ある意味実験的な上演で、しかも時間も1時間半と短かったのだが、それはトマス・クランマーをめぐる後半のエピソードをカットしたからだった。なにもない舞台での抽象的・実験的パフォーマンスは、まさに小劇場上演で、それはそれで興味深いものだったが、『ヘンリー八世』は、華やかな行列シーンが二度も出てきたり、当時のマスク(仮面劇と訳せるのだが、仮面はつけていない)の流行にのっかったようなマスク的場面など、スペクタクル性に配慮した劇づくりをしていて、大劇場ので華やかな上演が、おそらく本来的な上演形態なのだろうと思われる(今回、最後の行進場面で、客席からふられる紙製の小旗が、観客全員にあたえられたのだが、小さな旗とはいえ満席の客席でふられると、まさに劇場に花が咲くような観がある。そのスペクタクル志向は、シェイクスピア/フレッチャーのオリジナルの脚本に組み込まれていることはまちがいない。

もちろん今回の本格的な『ヘンリー八世』の舞台は、昔BBCが製作したテレビ版シェイクスピア作品全集のなかで見た『ヘンリー八世』とともに、貴重な機会を私たちに提供してくれることはいうまでもない。そして、私自身、もともとシェイクスピアの後期から晩年の作品の読解からシェイクスピアへと入ったこともあり、『ヘンリー八世』そのものは、舞台でみることはなくても、昔から何度も読んできたことは事実なのだが、また今回も昔からのとまどいを感ずることになった。

つまりこの作品、エピソードの連続で、ヘンリー八世その人のポジションも、ゆるがないがゆえの、へんな不安定感があり、芯になるような主題というか軸というものが、なかなかみえない作品なのである。そして政治性、文化性からみても、シェイクスピアの歴史劇とは、同じ歴史劇とはいえ、大きく異なる。

またこのことはジョン・フレッチャーとの共作ということも影響している。ジョン・フレッチャーは若手の劇作家というにとどまらない。叔父は、それなりに有名な詩人だったし、父親は高位の聖職者だった(スコットランドのメアリー女王処刑に関する記述には、たいていこの父親が登場する)。プロテスタントの。そうなると隠れカトリックのシェイクスピア(当時の演劇業界にはカトリックは多かった)とプロテスタントの若手劇作家ジョン・フレッチャーとのペアは、ヘンリー八世という、ある意味、微妙な題材をとりあげるときに、シェイクスピアの暴走を止める目付け役としてフレッチャーが組まされたといえなくもない。

実際、プロテスタントのフレッチャー、さらにはピューリタンに人気があった劇作家・詩人のジョン・ミドルトンの台頭によって、カトリック色の強い旧世代の劇作家に属するシェイクスピアは引退を早められたという陰謀説もある。もちろん、証拠はないが、そうではないという証拠もなく、なんともいえないのだが、『ヘンリー八世』にかぎっては、カトリック的要素とプロテスタント的要素のせめぎ合い、あるいは旧制代(カトリック/シェイクスピア)と新世代(プロテスタント/フレッチャー)との世代交代のドラマをからませているということもできる。

これをひとつの仮説とすると、『ヘンリー八世』にみられるエピソード的作劇法は、もういっぽうにみられる明確な主題――栄枯盛衰――の安定性と激しくせめぎ合い、このせめぎあいが、この作品のなんともいえぬ不安定さ、そして全体性が欠如しながらも個々の場面によって達成される圧倒的な強度の共存を説明することになるかもしれない。

たとえばこの劇のなかで栄光の座から転落して処刑されたり失意のうちに死ぬ人物が三人いる。バッキンガム、枢機卿ウルジー、キャサリンの三人であり、今回の舞台で、三人は最後にヘンリー八世らの行列を見送っている。まるで亡霊のようにというか亡霊という設定なのだろう(もちろん原作にはない)。またこの栄枯盛衰のパターンは、たとえば王妃となりエリザベスを産み栄光の頂点にあるようなアン・ブーリンも、この劇では提示されていないが、やがてヘンリー八世に処刑される。ウルジーの側近(原作にはないが、今回の舞台では、ウルジーと同性愛関係にある(この設定は、じゅうぶんにありうるのだが))トマス・クロムウェルも国王の秘書長官になるのだが、この劇では提示されていないものの、やがてヘンリー八世の結婚問題で失脚する――英国の作家ヒラリー・マンテルの『ウルフ・ホール』『罪人を召し出せ』で描かれている世界だ(この三部作はまだ完結していない)。

こうみるとヘンリー八世をめぐる人間模様においては栄枯盛衰、まさに奢れるものは久しからず的世界観は通奏低音としての基本的主題となっているといえよう。ウルジーのあと大法官になったトマス・モアが国王によって処刑されることはいうまでもない。トマス・クランマーはどうか。彼はむしろ軽視されうとまれながら、国王の寵愛を得て、指導的立場にのぼりつめる人格者であって没落はしないようにみえる。とはいえ今の冷静な眼からみれば、彼はヘンリー八世の忠実な番犬であって、国王から定年延長という厚遇を受けそうな唾棄すべき人物に過ぎない。実際メアリー女王時代にカトリックにもどったイングランドでは彼は処刑される。となると失脚、没落、転落しない人物、すくなくとも高位の人物で、転落しない人物はいないように思われる。

となれば、この作品は、劇中で提示されていない部分も含めて、転落のパターンはつづくようにみえる。あるは歴史的恒常性など虚構に過ぎないという姿勢。もしそれが旧制代のカトリックの期待でもあったなら(イングランドがプロテスタントからカトリックにもどるという期待、ただしこの期待の中心であったジェイムズ一世は、この劇が上演される頃にはもはや期待を裏切ったことは確実になるのだが)、この歴史的変動に歯止めをかけて永久平和と繁栄を希求するのがプロテスタントであった。それはこの劇ではヘンリー八世の後継者としてエリザベスが誕生し、彼女の世にイングランドは繁栄を誇るという予言によって歴史的有為転変は終了するということになる。シェイクスピア/カトリック的期待からフレッチャー/プロテスタント的期待への推移が認められる。

とはいえ劇をみたときの印象は、こうした図式的な変化ではとらえられないものがある。ウルジーは私腹を肥やしたがゆえに、その傲慢さと職権乱用によって失脚するのは当然とはいえ、ではキャサリンは、気位が高く傲慢で私利私欲で動いた王妃だったのだろうか。実際、キャサリンはイングランドでは国民に愛されていた王妃だったらしく、その死は没落とか失脚とは異なる悲哀に彩られているように思われる。実際、彼女はプロテスタントの地で死んでゆくカトリックの女王であって、天上に帰還できなくなった天使あるいは天女のような存在となる。彼女の死とウルジーの失意による死とは性格が異なる。

またウルジーにしても失脚してはじめて自分をとりもどせたたという自己認識の覚醒がある。前半は、ヘンリー八世のドラマというよりウルジーの悲劇でもあって、ウルジー役の吉田鋼太郎の熱演もあって、ウルジーの悲劇は強く印象に残る。ヘンリー八世からエリザベス女王の時代において国政を担ったのは、伝統的な大貴族というよりも、身分こそ、それほど高くないか、あるいは庶民出の、有能な人間たちだった。ウルジーしかり。側近のトマス・クロムウェルしかり。本作に出てこないがトマス・モアもそうである。エリサベス女王政権をささえたウィリアム・セシル、あるいはウォルシンガムらは小貴族かそれ以下の身分の出身者だった。身分にかかわらず有能な人材を積極的に登用したことが、国家の繁栄につながったところがある。

この劇のなかで、トマス・クランマーは小貴族出身だったようだが、枢密院メンバーからのバカにされようからして、庶民の出であるかのように描かれる。そして能力を認められて、重用された、もうひとりのエリザベス朝的典型人物こそ、いうまでもなくシェイクスピアであった。地方の田舎市長の息子で、大学を出ていないシェイクスピアが首都ロンドンでナンバーワンの劇団の座付作者となる。そう考えると、ウルジーの失脚、トマス・クランマーへの国王の寵愛というのは、宗教的差異を超えて、シェイクスピア本人にもはねかえってくるような宿命的な、あるいは運命の皮肉を濃厚に漂わせている。つまり身分の低いクランマーに対する冷遇は、彼がプロテスタントしてキャサリンとヘンリーとの離婚を承認し(トマス・モアとは正反対である)、ヘンリーの忠実な番犬であったとしても、それでもなお、階級対立のなかで敗者側に一時的にでもいたことは、それを舞台化しているシェイクスピアにとっても、決して他人ごとではなかったはずである。

もちろん、こうした前半の没落劇において、ヘンリー八世の立ち位置はどうなのかは考察に値する重要な問題である。前半におけるバッキンガム、ウルジー、キャサリンの死は、ヘンリー八世がしっかりしていればふせげた悲劇ではある。ところが、その責任なり王権の不安定さには触れないようにして劇は、すりかえをおこなう。

キャサリンとの離婚問題においてヘンリー八世は、キャサリンの不貞を疑うというオセローじみた存在に変貌する。キャサリンもデズデモーナ的になり、国王夫妻の仲を裂こうとしたウルジーは、まさにイアーゴそのものだ。こうして一時的に舞台は『オセロー』の世界を出現させる。いやそれだけではない。そのすべてとはいわないが、『ヘンリー八世』は随所に、過去のシェイクスピア作品を彷彿とさせる部分的効果をもたせている。ヘンリー八世は、オセローでもあるとともに、ヘンリー五世でもある(同じ彩の国さいたま芸術劇場で『ヘンリー五世』をみたのは昨年の一月だったか)。民衆や庶民のこともよく知り、人の能力を鋭敏に見ててることができる王でもある。ヘンリー五世の場合、まだ若い故に、それだけで十分だったが、ヘンリー八世は、ヘンリー五世の中高年版というところもあり、それだけでは魅力に乏しいと考えたのか、今回の演出では、6人の女性と結婚したヘンリー八世のセクシュアリティを強調する工夫が、随所にみられた。それが、阿部寛のセクシーさを発現させることに貢献したのかもしれないと思う。

だが、こうした部分効果は、それだけでは物足らないくて、たとえそれで全体性をゆがめたり攪乱したりはしないが、かといって全体と緊密で豊饒な関係は絶たれてしまう。いいかえれば、全体をまとめる主題のようなものがあるが、にもかかわらず独立したエピソードの連続という趣もある。その両者がせめぎあっているのである。

最終的にヘンリー八世の全能性が印象づけられて終わることになるが、ヘンリー八世の優のぶりは後半に出現するのであって、前半は無能ではないが、よくわからない国王にすぎない。阿部寛のヘンリー八世はオーラが出ているかのような存在感で観る者を圧倒するが、しかし、それでも、原作にある二次元性は、振り払うことができないようにも思われる--もちろんそれは阿部寛の責任ではなく、あくまでも原作の不安定な、安定化した二次元性に起因するのだが。

せめぎあいがある。統一されているようで、どこかしっくりおさまらないところがある。首尾一貫性は失われている。あまりに明確な主題がただこれみよがしにそこにある。しかし、シェイクスピア円熟期の傑作は望めない、また観客の嗜好は多様化して、もはや演劇性一本ではたちゆかないところにきているとき、劇団にとっての限られた選択、それが『ヘンリー八世』ではなかったかと思う。

そしてここに、新旧世代の齟齬も影を落とす。正確にいえば旧世代カトリック、新世代プロテスタントではない、カトリックかプロテスタントかで争っていたのが旧世代、いまや対立を軽視し安定志向を基軸に据える新世代、そしてそうした新世代に反発する旧世代と、対立も複雑になっている。

こうした複雑さを処理する天才はもういないかのようだ。とすればできるのは部分効果。部分、部分に徹底してこだわり、切り取られたその部分に最大限の効果をもたせること。全体をめざさない。全体を生きない。部分を生きる。それがこの『ヘンリー八世』という作品ではないだろうか。もちろん私個人の妄想ではあるのだが。

とまれ、私の妄想にも一定の評価があたえられてもおかしくない今回の舞台だったと思う。部分部分を全力全霊をあげて上演し、また受けとめることができる今回の上演は吉田演出にとっても記念的なものとなるだろう。そうであるがゆえに『ヘンリー八世』を強度の芝居として認識させてくれた、今回の上演は、私にとって、いや多くの観客にとって、貴重な機会となったといわざるをえない。

もし私が、今回の上演を宣伝をするのなら、今述べたことを総合し、かみ砕いて、たぶん、こんなふうになるだろう――これはシェイクスピア作品と考えると敷居が高くなるのだが、ヘンリー八世を扱った面白い芝居であり、そこにシェイクスピアもからんでいるくらいの軽い気持ちでみればよく、全体像を把握するというよりも、その場その場の迫力なり魅力を堪能するのがもっとも望ましい観劇法だし、今回の上演は、この期待に、絶対に応えてくれる、と。
posted by ohashi at 21:42| 演劇 | 更新情報をチェックする

2020年02月22日

マスクせずに咳をする麗しの日本人

2月18日20時ごろ 福岡市営地下鉄七隈線で他の乗客がマスクを着用せずに咳をしていたという理由から非常通報ボタンが押され、乗客間でトラブルが発生していた。


という事件が報じられた。まあ新型コロナ・ウィルス感染に過敏に反応していることの一例として報じられたのだと思う。

非常停止ボタンを押すのはいきすぎだと思うが、気持ちはわからぬわけではない。またここでわかるのは、マスクをせず、咳き込んで周囲に飛沫をひろげている日本人が多いということである。

つい先日も、スーパーで買い物をしていたとき、マスクもせず、何度もくしゃみをしている老婦人がいた。食料品を扱う店舗で、発作的に何度もくしゃみや咳をしている。その時は非常停止ボタンを押そうかと思ったが、みあたらないので、あきらめて買い物を中止してスーパーを出た。

もちろん、いまマスクが品薄か品切れになっていて、マスクをつけようにもマスクがないということはあるだろう。しかし、マスクがなくても、咳やくしゃみが出る場合、ハンカチで口を覆うとか、あるいは手で口を覆ってもいい(手で覆っても、手についたウィルスが感染源なるともいわれているが、ではなにもしないほうがいいとは言えないだろう。マスクがないときにはティシューで口を覆って咳をするのがベストのようだが)。

ところが世界に冠たる劣等民族たる日本人は、マスクがないとき、手で口を覆うとか、マスク代わりハンカチかティシューで口を覆うこととせずに、堂々と、気持ちよく、周囲に、飛沫をまき散らすのである。ああ、なんて快感とばかりに。自分の家でなら、勝手だが、公共の場で、食料を扱う店舗のなかでも、堂々と。劣等国民性がよくわかる。

その点、アメリカ人はしつけがよくて、咳やくしゃみが出たら、自分の、曲げたひじ(上腕)で口を覆う。曲げたひじ(上腕)のなかに咳やくしゃみを飛ばしているようにみえる。べつに片手、あるいは両手で口を覆ってもいいような気がするのだが、この咳のしかたを子供の頃からしつけられているのだろう。あるいはこの動作は子どもから若者に特有なのかもしれないが。それはともかく、この点ではアメリカ人は日本人より数段優れている(もちろん風邪などにかかりやすい子供あるいは貧乏人が富裕層に病気をうつさないために、そうしつけられたのかもしれないが、たとえそうであれ、なにもしないで平気で咳をする美しい日本人は多い。国民性だろう。バカ民族の。

あるアメリカ映画で家出をした少年が、帰る場所もなく街をさまよい、疲労し風邪もひいたらしいのだが、夜の街を歩いているとき、咳が出て、そのとき曲げたひじの内側に顔をつけて咳をしていた。ただ、夜の街で周囲に誰もいない。だから思いっきり、咳やくしゃみをしても、誰も迷惑しないのに、反射的に(たぶん疲労で頭も朦朧としているにちがいないのに)曲げたひじの内側にむかって咳をしていた。アメリカ人の少年だが、りっぱなものだと感心した。

そういえばメリッサ・ブノワ主演のテレビドラマ・シリーズ『スーパーガール』でも、スーパーガールが風邪をひいたとき、曲げたひじで口を覆って咳をしていた。スーパーガールも異星人とはいえ、アメリカで育ったので、完全にアメリカ人になっていた。ちなみにスーパーガールが風邪をひく? 嘘だろうというなかれ。そういうエピソードがシーズン1にはあるので。
posted by ohashi at 19:04| コメント | 更新情報をチェックする

2020年02月21日

空気感染

先日、彩の国さいたま芸術劇場で『ヘンリー八世』の舞台を観劇した際に、劇中で、登場人物が葉巻(たぶん、ふつうのタバコではなかった)を吸う場面があった(一応、19世紀から20世紀に初頭の時代というように舞台を設定しているため、シェイクスピア時代にはなかった葉巻も登場する)。短い時間であり、延々と葉巻を吸っているわけではないのだが、そのとき臭いというか葉巻の残り香が客席につたわってきて驚いた。

劇場で、舞台直前というか、最前列に座っているわけではない。私の席は、前から10列以上離れた席である。しかも、私はマスクをしていた。にもかかわらず、瞬時に葉巻のにおいは伝わってきた。しかもマスクをとおして。これが私の思い過ごしではないのは、休憩時間、私の右隣の中高年男女のペアも葉巻の匂いがつたわってくることを話していた(たぶん夫婦で、ふたりもともマスクを着用。しかもすぐ私のすぐ右隣りの男性は、上演中に何度も咳をしていた。当人も、また私も、マスクをしていなかったら、私は劇場内で非常停止ボタンを押していたかもしれない(注記参照)。またもし私が、今後、新型コロナ・ウィリスに感染していることがわかったら、感染源は、このクソジジイである)。

この、たぶん老夫婦(そのうち夫のほうは、新型コロナ・ウィルスの私にとっての感染源)は、舞台で葉巻を吸うのはどうかと思う、アレルギーの人がいるかもしれないからと話していたが、タバコや葉巻のアレルギーの人がいるのかどうか、私は知らないのだが(まあ老バカップルなのでどうでもいいのだが)、そんなことよりも、もっと別なことに私は驚き、怖れた。

ふつうの煙草だったら、臭いもきつくないから、わからなかったのだろうが、幸い葉巻なので、臭いが強い、そのため前から10列以上離れている座席でも瞬時にして、葉巻の煙というか、葉巻を吸ったときの呼気が伝わることがわかったのだ。もしこれが、空気感染だったら。つまりかなり離れていてるところにいる人物が病原菌に冒され、しかも空気感染する病原菌だったら、すこしばかり離れていようが、かなり離れていようが、マスクをつけていようが関係ないことがわかった。それほど、伝わり方が速い。

いまのところ新型コロナ・ウィルスは空気感染しないといわれているが、感染力の強さ、また感染の速さからして、空気感染の可能性も指摘されはじめている。もしそうなら劇場ののような閉じられた空間(さいたま芸術劇の大ホールなので、かなり大きな劇場空間なのだが)でも、大きさというか広さは関係なく、瞬時にして空気感染すること、マスクもまったく役に立たないことがわかった。

『アウトブレイク』Outbreakという映画がある(1995年制作アメリカ映画。監督ウォルフガング・ペーターゼン、キャスト : ダスティン・ホフマン、 レネ・ルッソ、 モーガン・フリーマン、 ケヴィン・スペイシーら)。エボラ出血熱がはやった頃の映画(現時点では、アマゾン・プライム・ビデオなどで見ることができるはず)。この映画は、映画館でみたのか、テレビで見たのか、VHSビデオか、DVDでみたのか、忘れてしまっているのだが、たぶん映画館でみた。映画館でみたからこそ、このなかで、あるシーンに驚愕した。それは映画館の場面である。

感染している男性が上映中の映画館の座席で咳をする。するとその飛沫が、金色に輝きながら、映画館の座席フロアのうえを、飛翔する。もちろん、そんな飛沫など目にみえるはずもないし、もしそれがウィルスなら、ますます目に見えるはずはないのだが、映画上の演出として、金色に輝く飛沫がゆっくりときらきら輝きながら感染者の口から飛び散ってゆく。幻想的シーンといってよい。と、次の瞬間、場面がきりかわる。そこは映画館のフロアー。観客が折り重なって倒れ、担架か運び込まれ、救急隊員や医師や看護師らが倒れた観客たちを手当てしている。完全に修羅場と化した映画館のロビー……。

映画館で上映する映画のなかで、映画館での感染エピソードをつくるとはと思ったが、ただ、そのときは、空気感染も含め、エボラ出血熱が日本で感染するとは誰も思っていなかったので、まだ他人ごとだったのが、いまは、ひとごとではなくなった。

注 2月18日20時ごろ 福岡市営地下鉄七隈線で他の乗客がマスクを着用せずに咳をしていたという理由から非常通報ボタンが押され、乗客間でトラブルが発生していた。
 後年、もしこの感染を生き延びて、この記事をふりかえったとき、なんのことかわからなくなるかもしれないので、一応注記しておく。パンデミックで全滅したら、読み返すこともないだろうが。

posted by ohashi at 18:09| コメント | 更新情報をチェックする

2020年02月20日

存在するのか、存在しないのか

19日に彩の国さいたま芸術劇場に足を運んだのだが、新型コロナ・ウィリス感染が話題になっているので、マスクをしている人が多い。劇場で、私はKo氏から声をかけられた。Ko氏はマスクをしていたので、最初誰だかわからなかったが、声とか目でわかった。しかもその時、私もマスクをしていた。どうして私だとわかったのだろうか。というかKo氏は、マスクをしている相手だから確かめるというようなことはせず、ただ、ふつうに話かけてきた。ご自身も、マスクはしていなかのような話しぶりだった。

あと当日には松岡和子先生も観客席におみかけした。あとでご挨拶をしておこうと考えてはいたが、休憩時間、自分の席から通路に出ようとしていた私のほうに、通路の先を歩かれていた(と私は気づかなかったのだが)松岡先生が、ふりむかれ、声をかけられた。私のほうから先に声をおかけすべきところ、ほんとうに恥ずかというか申し訳ない気持ちでいっぱいになったが、ただ、そのとき私はマスクをしていた。マスクをしていても、まったくアイデンティティを隠せない私はどういう人間なのだろう。

まあ、19日にしていたマスクが、スモールサイズで顔がかくれなかったのか。あるいは私の顔でかいからか。あるいはいつもの挙動不審で、すぐに私だとわかったのか。マスクをしても顔が隠せない私だった。


とはいっても、私が、そんなに存在感のある人間かというと、むしろその逆で、存在感はない、むしろ幽霊のような存在である。たとえば以前、エレベーターに乗ってドア閉めようとしたら、男性が一人駆け込んできた。私は後ろに下がったら、その男性は肩で息をしていて、一息ついている。早くドアを閉めろよと思ったら、ドアが自動でしまった。そして目指す階で、その男性が降りたので、私はその上の階にいくので、エレベーターのドアを閉めた。すると降りた男がびっくりするかのようにふりむいた。つまりエレベーターに私が乗っていると思っていなかったのだ。その男は、まるで幽霊が乗っているかのように上昇していくエレベータをフロアからいぶかしげに見上げていた。私は存在を感知されていなかったのだ。

私は存在感のない人間である。自分自身もまた気配を隠すことを心がけているので、人前で、自己主張は必要ではないときには、たいていおとなしくしている。マスクをしていれば、顔がわからないから、さらに安全で、たまたま知り合いがいて、気付かなくとも、むこうもマスクをしている私に気づくことはないだろうから、安心できると思っていた。やはり私の顔がでかい(物理的・身体的に)からだろうか。
posted by ohashi at 17:08| コメント | 更新情報をチェックする

2020年02月13日

『9人の翻訳家』

事情通の人間が、人身の得ている情報に基づいてコメントすることは、文学作品であれ映画作品であれ、作品理解に貢献することも多いが、同時にまた、その情報なり知識が作品理解を阻むことも多い。

ロラン・バルトがどこかで紹介していた有名なエピソードがあって、それはアフリカの原住民に公衆衛生に関する啓蒙的なビデオ映像をみせて、それをどう受け取ったかと質問したところ、「鶏が隅っこにいた」と答えたという(ただしうろ覚えなので、こんなようなエピソードと思っていただければいい、調べて追記する)。これは原住民がバカだからということではなくて、いくらメッセージを相手に送っても、それを解読する手段なり方法を相手がもっていないと、メッセージは伝わらないということである。

これと同じことが先に触れた映画『ザ・ピーナッツバター・ファルコン』のコメントで起こっていた。プロレスは障害者にもフレンドリーであり、障害者プロレスもあるし、障害者をプロレスラーとしてデビューさせたこともあるというコメントを紹介したが、この場合、そうした事情通なり知識(とはいえプロレスファンでもない私でも知っているくらいだからたいした知識ではないとしても)が映画の理解をさまたげている。なるほど『ザ・ピーナッツバター・ファルコン』には往年のスター・プロレスラーを登場させたり、地方のプロレス興行を物語に組み込んだりして、プロレスに対するオマージュが見られる。そもそも映画のタイトル自体が、ダウン症の青年のリングネームなのだから。

しかし、だからといって映画の物語のなかでプロレスラーがフレンドリーであるのは、すでに消滅しているプロレス学校への入学を夢見たダウン症の青年に、けいこをつけてやるという心温まるエピソードまでで、その青年をリングに上げてなぶりものにするレスラーたちは人間のクズである。ダウン症の青年は、この敵と戦うことになる。結末は曖昧である。

そもそも彼は突破者である。老人専用の施設に入れられた青年は、そこから逃げ出そうと何度も試みる。一応首尾よく逃げ出せたのだが、すべては、この青年のファンタジーかもしれなくて、彼は施設にとじこめられたままかもしれない。読み書きができないらしい彼は、仲間の老人に絵で逃亡の意志を伝え協力を求める。自分で書いた一枚の絵(絵文字)だけで監視の目をくぐりぬける逃亡手段を伝えられたのだ。そしてこの映画、動く絵が、彼の脳内の妄想の実現となって長い物語を展開することになる。最初から最後まで彼のファンタジーだったという可能性は残されている。

そんなときプロレスは障害者にフレンドリーだなどというのは、それが真か偽かなど問題ではなく、ただただ関連性がまったくないコメントなのである。それは、鶏が歩いていたと答えた原住民以下の、頭があさっての方角を向いている人間のなせるわざである。

とはいえ、ここでアフリカ原住民なりプロレス好きの人間をバカにするつもりはまったくない。というのも、これから語ろうとすることによって、私もまた、そうした勝手な知識なり事情通ぶって、映画の物語をそっちのけで、というか映画の物語に対する無理解を露呈することになるかもしれなくて、他人ごとではないからである。

また、鶏云々のアフリカ原住民もまた、愚かさの象徴ではなく、バルトにとっては文化英雄的側面をもっていたことも言い添えておかねばならない。文学作品なり映画に現前していない、あるいは現前していても周辺化されている対象に目を凝らすことが、バルトにとっては、作品のイデオロギーに染まらない脱イデオロギー的読解だったのだから。バルトにとって映画は、映写を止めたり、部分的に拡大したりして観るものであり、まさにそれは洗練されたアフリカ原住民の眼をもつことだった。



『9人の翻訳家』という映画をみて、その設定の際立った荒唐無稽さにネットであまり文句が出てこないことに私は驚いている。べつに翻訳家とか出版関係者でなくてもいい。私も翻訳はしているが、翻訳家ではないので(つまり翻訳で生計はたてられないので)、翻訳作業の実際とか出版事情などまったく無知だが、かりに私以上に無知であっても、一般的常識があれば、こんなことはありえないと頭をかかえてしかるべきである。スリラーの面白さ以前の問題である。

Wikipediaの記述をすこし引用する。

『ダ・ヴィンチ・コード』をはじめとするダン・ブラウン原作の小説『ロバート・ラングドン』シリーズの4作目『インフェルノ』出版の際、海賊行為と違法流出を恐れた出版元が著者ブラウンの同意のもと、各国の翻訳家を地下室に隔離して翻訳を行なったとの実話をベースにしたスリラー映画[。


とある。そして内容は以下のとおり

フランスの人里離れた村にある洋館に、9カ国から翻訳家が集められた。全世界待望のミステリー小説『デダリュス』の完結編の各国語への翻訳のためだ。しかし9人は、洋館の地下に隠された要塞のような密室に隔離されてしまう。海賊行為と違法流出を恐れた出版元が著者の同意のもと、彼らを隔離して極秘に翻訳を行わせることにしたのだ。
9人は外出はおろか、電話やSNSなどの通信も禁止され、毎日20ページずつ渡される原稿をひたすら翻訳していく。そんなある夜、出版社社長の元に「冒頭10ページをネットに公開した。24時間以内に500万ユーロを支払わなければ、次の100ページも公開する。要求を拒めば、全ページを流出させる」という脅迫メールが届く。

とある。

いったいどこの国の話だとあきれるほかない。

たとえば村上春樹の新作長編小説が出るとしよう(ダン・ブラウンなどという子供だましのベストセラー作家と村上氏を比べる非礼を許していただきたい。あくまでも発見の道具としてのたとえ話にすぎない)。いま村上作品を出版しているのは新潮社だとする。9か国の出版社が新作の翻訳権を取得したとする。

さて日本の新潮社は、9か国で単独訳で出すよう勝手に条件をつけ、その9人の翻訳者を日本に呼ぶ(どこが旅費や滞在費を出すのだろう)。そして一つの場所に、翻訳が完成するまで監禁する。1日20枚の原稿を翻訳させる。そして9か国語の翻訳原稿を新潮社の社長みずからが回収する。まるで新潮社が各国語の翻訳版の出版を一挙に引き受けているかのように。もうそれだけでもおかしい。

またダン・ブラウンのようなベストセラー作家なら多額の前金が支払われている可能性があるが、それを翻訳出版する場合、各国の出版社は、作品を読んでからでないと出版に踏み切れないのではないか。また本国でベストセラーになっても翻訳が同じように売れるとは限らない。逆の場合もある。本国で売れなくても翻訳がバカ売れすることもある。だから原書と翻訳同時出版など意味がない。リスクが大きすぎる。映画などでは日米同時公開という例がある。スターウォーズシリーズの『スカイウォーカーの夜明け』がそうである。しかし三部作の小説の完結編であるとすれば、なにも各国語版を同時出版しなくとも、二部までの作品の固定読者がいるだろうし、三部まとめで売ることもできるし、販売方法は多様になる。また結末如何によって売れるか売れないかが左右されることはないだろう――完結版なので、終わったことがありがたいのであって、よほどの駄作か失敗作ではないかぎり、固定読者に売れる。また、その場合、早々と結末がわかったら、本が売れなくなるということがあるのだろうか。

ポンジュノ監督の『パラサイト』を昨年の暮れにTOHOシネマズ日比谷の先行上映でみたたとき、映画の最初に監督や出演者たちが、映画の内容をどうかばらさないようにしてくくださいとお願いする映像が入っていた。一般公開された今も、その映像が最初に流れているのかどうか知らないのだが、ネタバレは仁義にもとる行為であり非難されるべきだが、同時に、それは止められないことでもあろう。さらにいうと結末を前もって知りたくない観客はネタバレを知らないようにする。

そう、この映画の設定は、ベストセラー本の出版あるいは翻訳に関する話ではないようなのだ。なにか映画の結末とか映画の公開にまつわる話のようであって、内容をぎりぎりまで秘匿される映画の全世界にむけての公開に関する物語を、むりやり出版業界の話に置き換えているようでもあり、そのぶん、話に無理が生じている。

くりかえすが、村上春樹氏の新作長編に対して日本の新潮社が同じようなことをするとはまったく考えられない。村上作品は、ダン・ブラウンごときが足元にも及ばないような優れた作品だが、ただ全世界的ベストセラーではないので(エンターテインメント作品ではないので)一概に比較できないとしても、村上氏も新潮社も絶対にこんなバカなことはしない。映画の9か国のなかに日本が入っていないのはおかしいとか残念だという意見がネット上にあるが、こんな珍奇な荒唐無稽な話に日本が巻き込まれなかっただけでもよかったとほっとすべきである。日本は高速コピー機を作り出せる国であるだけでじゅうぶんである。バカ話にまきこまれなくてほんとうによかった。

なお、ここまで書いてふと思い出した。英米のセル版のブルーレイ・ディスクには、それこそ発売元が、9つの外国語の字幕を入れている。けっこうたいへんな作業だと思うが、日本版が出るまえに、その各国語字幕が入っている海外版を安く入手している人もいるようだ。そう、まさにブルーレイには9か国語あるいはそれ以上の外国語の字幕が入る。それを大部の小説の翻訳と同じに考えているのだ。ところがブルーレイ・ディスクと書籍とは違う。ブルーレイ・ディスクには各国語ヴァージョンが前もって入っているが、本には9か国語ヴァージョンが一冊のなかに入っているわけではないのだ。

   *

たとえ翻訳をしたことがない人でも、監禁されて長編小説を翻訳することの荒唐無稽さはわかると思う。翻訳は調べながらするのが基本。辞書で言葉の意味を調べたり確認するだけではない。たとえば地名が出てきたら、それがどこの地名か、実在する場所だったら、それがどのように表記されているか、調べることはつぎつぎに出てくる。いまは大部の辞書群を収めている電子辞書があるので、それがひとつあれば、かなり助かることはわかる。しかしそれでも、確認すべきことはでてくる。ただこれもネットで調べることができるので、コンピュータ一台あればなんとかなるだろう。しかし、この映画では、秘密漏えいをふせぐためにネットに接続できないのである。そうなると翻訳家たちは電子辞書以外に書籍による情報に頼るほかはない。そしてこの映画では彼らが監禁される地下室には、図書室も設置されているのだが、そこの図書室に9か国語の文献が全部そろっているのだろうか。これをつくったのが富豪ということだが、9か国語の文献を、しかも翻訳家が利用できるような参考図書を集めるのはむつかしいだろう。そんなことは新潮社に、いや新潮社にかぎらず、どこの出版社にも、できるはずがない。またできなくてもかまわない、というか、この映画における翻訳作業の非現実性は、翻訳をしたことがない人でもわかるだろう、ただの絵空事にすぎない、いや、最初から翻訳作業などしていないのである。

いや出来上がった翻訳の確認は、校閲係とか編集者がするだろうといわれるかもしれない。少し前、石原さとみ主演の『地味にすごい 校閲ガール』(2016)という連続テレビドラマがあったが、出版社には校閲係がいて、原稿をチェックする。翻訳の場合は誤訳などあってはいけないので、また誤訳がなくても翻訳文はどうしても不自然な表現となるので表記や表現のチェックが入る。ましてや高い前払い金あるいは原稿料を払っているベストセラー本の原稿チェックである。校閲係や編集者が厳密にチェックして万全の準備をすることはいうまでもない。そうなると9か国語版の出版には最低でも9人の校閲者が必要となる。校閲者を監禁しなくていいのか。あるいは校閲者はそれぞれの国にいて、そこで原稿をチェックするのか。生原稿をスキャンもしくはファックスして送るのか。そうなるとハッキングされる可能性が生まれる、ファックスの場合、ハッキングされなくても送信にお金がかかる。校閲、編集、校正作業――翻訳にかぎらず、本は、ただ原稿があればそれで印刷してすぐに出せるというようなものでない。というか、この映画の翻訳者監禁は、翻訳が翻訳者だけでできるという、子供じみた幻想でしかない。

  *

少し内容に立ち入るが、翻訳者のひとりが、翻訳作業以外の時間に小説を書いている。パソコンが使えないので手書きで。それをみつけた出版社の社長が、契約以外の仕事をするのは契約違反であるとして、その原稿を没収する。さらにはそこで書かられている小説はくだらなくて紙くず同然だとして、手書き原稿をすべて焼いてしまうのである。ショックをうけたその女性の翻訳家は自殺する。馬鹿馬鹿しい展開。これはネタバレかもしれないが、この女性の翻訳家は途中で死んでしまうから、犯人ではないことがわかるだけである。

ところで翻訳作業の時間外に彼女が小説を書いていることが契約違反にはなるはずがない。出版したいと望んでいるのだろうが、出版社が決まっているわけではないので、休み時間に趣味で書いているようなものだ。気晴らしに落書きをしているのとかわらない。またベストセラー小説の翻訳をしているときに、自分でも何か小説を書くことは、ウォーミングアップあるいは表現の試みとして役に立つかもしれない。繰り返すが、出版のあてはないので二重契約のような契約違反にはならない。そして当人が心を込めて書いている小説を他者が、駄作と評するのは勝手だが、それを焼くというのはパワハラを超えた人権無視、著作権無視の犯罪であり、さらに彼女が自殺した時点で、もうこの社長も、出版社もアウトでしょう。それでも物語は続いていくのだから、ミステリーではなくホラー、それも発狂したホラーである。

  *

現在では小説を書く側も、翻訳する側もパソコンを使う。したがって作品も翻訳も、すべて電子化されている。ところが、この映画では、作家はタイプライターで書いているようで、原稿も一部しかないタイプ原稿。電子化されていたら、ふつうありえないような扱いをうける。たとえば、日本製の高性能高速コピー機があるにもかかわらず、原稿をすりかえたあとも、原稿を複数コピーすることなく、原稿の内容は、ひとりが朗読して知ることになる。セルバンテスの時代か**。

また毎日翻訳作業の最後に、各翻訳者の翻訳原稿を回収するのだが、彼らはパソコンで原稿をつくっている。ところが回収されるのはプリントアウトした原稿である。どこでプリントしているのか。むしろ電子化されたテクストのメモリーを回収すべきではないか。ここでも設定が破綻している。原稿を手書きかタイプしている時代の発想しかないのはあきれかえる。

【**  セルバンテスの『ドン・キホーテ』では、ドン・キホーテらが泊まった宿に、ある客が、物語の原稿を入れたカバンを忘れていく。宿の主人と客たちは、その原稿の内容を知りたがり、宿の主人が朗読するのを皆で聞く。そしてその部分が独立した作品として、『ドン・キホーテ』の一部――作中作――となる。】

さらにいえば、先ほど翻訳原稿は校閲係がチェックすると述べたが、作家の原稿もまた、校閲者や編集者がチェックする。作家自身、どれほど細心の注意を払って原稿を完成させたとしても、校正作業はしたいだろう。この映画のなで作家の原稿は校正作業を経ていない(理由がないわけではないが)。

さらにいうと、この映画のなかで出版社の社長は、翻訳家など本の表紙に名前が載ることのない、評価の低い仕事であると語っている。ギリシア語の翻訳者は、それでもお金が入ればいいといって、この奴隷仕事を引き受ける。しかし、いつの話だ。たしかに昔は、欧米圏の翻訳書は、翻訳者の名前が明記されていなかった。しかし、いまは、翻訳者の名前が表紙にも載っている。ましてはベストセラー候補の作品の翻訳は、それなりに知名度の高い翻訳者が担当する。無名あるいは匿名の翻訳者、あるいは最初から名前が公開されない翻訳者が翻訳することは現在ではない。名前がでないのは、下訳者の場合だろう。下訳者には翻訳料は支払われるだろうが、版権は発生しない。そう、この映画の9人の翻訳者は、下訳者並みの扱いなのだ。

有名な翻訳者が、複数の下訳者の訳稿に手を加える(あるいは何も手を加えず、そのまま)出版することはありうることであり、この映画の翻訳者のイメージは、それなのだろうか。ただし、映画のなかでは、あの訳者の英語訳はひどいというようなことがいわれているから、名前が出てこない下訳者の話ではないようだが、それにしては、映画における翻訳者たちの扱いは、下訳者以下である。そして先にブルーレイ・ディスクに収録されている各国語の字幕をつくった、名もなき翻訳家が、この映画の翻訳者のモデルになっているとしかいいようがない。

 *

あと以前、ダン・ブラウン原作の『ダ・ヴィンチ・コード』の映画をみたとき、イアン・、マッカラン扮する学者が15世紀の魔女狩り本『魔女の鉄槌』をもっていたのだが、それが、まるで『グレート・ギャツビー』の原書ペーパーバック版くらいの大きさと厚さしかなくて驚いたことがある(私はその英訳のコピーをもっているので、それがどれだけ大部なのかを知っている)。この映画でもプルーストの『失われた時を求めて』は、厚めの一巻本でしかない。フランスのプレイヤード版の『失われた時を求めて』というのは現物を観たことがないが、それでも一巻には収まらないだろうし、もしかりに収めたとしても、あの厚さではない。

またこの映画で触れられている三部作は、登場人物のレベッカが死んだ、それを悲しむ主人公ということだけしかわからないし、なぜ、そんな薄っぺらな悲劇がベストセラー小説に、それもエンターテイメントではなく、日本風にいうと純文学風の作品になっているといえるのか。開いた口がふさがらない。荒唐無稽を通り越している。荒唐無稽ならそれはそれで楽しめる。だか、この映画は、はっきりいって不快なバカ映画である。

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『AI崩壊』という映画にかんして、こんなコンピューター・プログラマーにしてハッキングもできる人など存在しないのであり、設定のあまりの非現実性に、映画を楽しめなかったというようなコメントを残しているレヴューアーがネット上にいた。こういうレヴューアーは、よくいるし、ある意味、それは偽らざる感想なのだろう。そしていま私は、この『9人の翻訳者』について、あまりに非現実的でミステリーの部分もふくめて楽しめなかったと書くことで、同じ部類の人間になってしまうのか。ちなみに『AI崩壊』は、私がコンピューター業界とかAIについて無知なるがゆえに、じゅうぶんに楽しめたのだが、なまじ翻訳をしていたり、出版業界に細い絆があるがゆえに、楽しめないとすれば、私の感想は、無視してよい少数意見にすぎない。

しかし、翻訳とか出版業界に詳しくなくとも、ふつうに考えると、この映画の設定はおかしすぎる。出版社の社長が殺し屋めいた人間をやとったり、みずから拳銃を発砲したりと、もうめちゃくちゃではいか。すくなくとも、こういう荒唐無稽な面に不快感すら抱くレヴューアーが皆無ではないことは、せめてもの救いではあるのだが。

posted by ohashi at 23:09| 映画 | 更新情報をチェックする

2020年02月09日

『グッド・ライアー』


2009年という設定に、どんな意味があるのかわからないというコメントがネットにあった。実録物ではないので2009年にこだわる必要もないと思われるかもしれないが、映画ではイアン・マッカランの年齢は、本人の実年齢に近い80歳くらいだろう。もし設定を現在(2019年か2020年)にしたら、この人物は90歳になる。90歳になると、よほど元気でないかぎり、映画の主人公になるような行動力はもてないだろう(88歳になっても車を運転し死傷事故を起こす元気な老人もいるとしても)。だから2009年という設定は必然的だった。

また2019年で80歳という設定が意味がないのは、映画の物語とも関係する。実際、もう少し軽いドラマ、おそらく二人が詐欺師で、詐欺師どうしの騙し合いという、味はあっても、軽いドラマを期待したのだが、そうではなかった。2009年に80歳でなければならない理由があった。そしてこのことは映画を観るまで予想できなかった。

最後には日本のテレビドラマ・映画の『コンフィデンスマン』にあるような、種明かしもあるし、騙しに加わった一同がガーデンパーティに集まるところで終わるのだが、そういう結末は予想どおりだが、まさか、かくも長き復讐だったのかと、そこは全く予想できなかった。

逆にいうと、この長い復讐のためには70代から80代の人物および俳優が必要になるため、
原作がある映画だが、イアン・マッカランとヘレン・ミレンのために、脚本を造ったのではという印象を受ける。そうであるがゆえに、あのような展開になった。そしてこのことは、たんなる騙しの映画ではないということになった。

しかし同時に、また高齢の二人のベテラン俳優を活かすために、むりやりつくられた物語という面があって、そうかんがえると、むりな、あるいはとってつけたような物語というほかはなく、その点に、こだわって、あまり高く評価しない観客がいてもおかしくない。

しかし、ビル・コンドン監督の映画である。どうしてゲイ的要素に着目しないのか。たとえばラッセル・トーヴィが出演しているのだ。彼は『キャッツ』ではミストフェレーズ(この名前はメフィストフェレス(英語ではメフィストフェレーズ)のもじりなのだが)という重要な役を演じていた。残念ながら『キャッツ』では、その扮装ゆえに顔はよくわからなかったが。実生活でもゲイの彼は、この映画のなかでもゲイという設定である。

また『ゴッド・アンド・モンスター』以来、ビル・コンドン監督と仕事をしているイアン・マッカランもカミングアウトしている、というかゲイ解放運動を昔からしている俳優である。『ゴッド・アンド・モンスター』では、ボリス・カーロフのモンスターで有名な映画『フランケンシュタイン』の監督ジェイムズ・ホエールをイアン・マッカランが演じていた。ホエイルもマッカランもともにゲイ。

そしてこの映画でもイアン・マッカラン扮する詐欺師の男は、ヘレン・ミレン扮する元大学教授を騙そうとするのだが、本人には女っ気がまったくない。おそらくこの詐欺師はゲイである。そしてゲイ的人物にとって、性的嗜好の隠蔽からくる、仮面性、演技性は、きわめて親しいものとなる。詐欺師であることは、ゲイ的人間の高度な演技性とも関係する(なおゲイの人間は犯罪者だと言っているのではないので、誤解のないように)。そういう意味で、なりすまし、パッシング、演技、パフォーマンスといったテーマが横溢するこの映画は、ゲイ文化のまぎれもなき産物である。

posted by ohashi at 11:25| 映画 | 更新情報をチェックする

2020年02月08日

『ピーナッツバター・ファルコン』

監督 : タイラー・ニルソン、マイケル・シュワルツ 2019年アメリカ映画
キャスト : シャイア・ラブーフ、 ダコタ・ジョンソン、 ザック・ゴッツァーゲン、 トーマス・ヘイデン・チャーチ

悲しい話だった。心温まるというような映画評があるが、そういうところがないわけではないが、大枠は悲しい話である。出口はない。救いもない。はっきりいってみんな死ぬ。

最後のプロレス・シーン。プロレスで儲かっているのは大手のWWEくらいで、弱小団体は地方のドサ周りで、開催場所も、地元の体育館とか公民館のホールならいいほうで、この映画では、地元住人の裏庭にしつらえたリングである。日本風にいえば、町内のお祭りのアトラクションのようなものである。

そのリングにダウン症の青年をあげる。彼はプロレスラーにあこがれていて、施設を脱走したあとは、往年の悪役プロレスラーが開催する養成学校で指導をうけることを考えている。とはいえそのことを決意するのはVHSの古いビデオをみてのことで、どうして今もその養成学校があるのかどうか、ネットで調べるということを誰もしないのは、どうしたわけか。予想通り、もう養成学校は存在しない。そのプロレスラーも引退していた。ダウン症の青年をサポートする大人たちが、その青年以下のポンコツぶりを発揮するというのはどういうことか。むしろ健常者の優位を誇示しないという措置なのかもしれないが、この映画ではダウン症の青年がいちばんしっかりしているように思われる。

映画の最初にこのダウン症の青年ザックが施設を逃げ出すところがある。基本的に老人施設であり、そこに仮処置としてザックが収容されているのだが、ボランティアで入所者の世話する女性が、ブリー・ラーソンにみえた。ダコタ・ジョンソンが演じているにもかかわらず。それは施設を走って逃げだす男とそれを追いかける女性、そう映画『ショートカット』を思い出したのだが、実際同じようなカットだった。ただし類似はそこまでで、あとはロードムービーとなる。ただ、この冒頭のエピソードは、映画全体を暗示している。

ザック自体が、逃走計画をつくり、周囲を巻き込んで、逃走する。あやうく成功しそうになるところもすごい。ここには逃亡と夢のシナリオがある。このダウン症の青年がシナリオをつくり、シナリオどおりにことがすすむ。だが、べつにダウン症だからということではないが、所詮は、夢物語であり、冷酷な現実の前に失敗と挫折の結末にない。これが映画全体を暗示しているのだ。逃亡と挫折。挫折と逃亡。夢と現実。

漁師のタイラー/シャイア・ラブーフは、居眠り運転で、同乗していた愛する兄を失ったトラウマから逃れられないでいるのだが、ライセンスを持たない漁師として違法の漁をつづけるだけでなく、違法行為に制裁をあたえた漁師に復讐して大損害を与える。彼は弁償するというのだが、そんなお金がどこにあるのか。結局、一時的に制裁を逃れても、最後には復讐されるだろう。それまでに猶予の時間、それがこの映画の旅の時間となる。そしてまた南部の神がかり世界である。罪びとは罰せられる。彼に未来はないのである。

彼にとって唯一の救いは、ザックという弟ができ、自分が兄貴分になったことである。それは死んだ兄に自分がなることを意味する。だか、それはやがて彼も死ぬことを暗示する。

映画. COMには、以下のようなコメントがあった。長いコメントの一部だけを取り出しているので、誤解を生じさせる可能性があるので、コメンテイターを批判するつもりはない。

そして何よりも、あらすじのキーポイントにプロレスを据えているのが重要。何でもありな虚構の世界で輝くプロレスラーが、ダウン症の青年をリングに導く。
WWEが片足のレスラーをデビューさせたように、日本にも「ドッグレッグス」という障がい者プロレス団体があるように、全ての人間がプロレスラーになれる。そこにはハンディキャップなど存在しない。
『ザ・レスラー』、『ファイティング・ファミリー』同様に、本作に登場するレスラーもイイ人。


この映画に出ているレスラーのなかでも、ザックの対戦相手となるベテラン・レスラーは、リング上で、とてもいい人とは思えない。むしろザックを相手に本気になっているようで、素人相手に徹底的にいためつけることしか念頭にないみたいだ(レフリーだって、手加減せよと言っている)。

上記コメントにあるようなWWEの片足のレスラーの試合をみたことがあるが、容赦なく徹底的にいためつけられていた。これはレスラー側が、手加減することこそ障害者への侮辱とみなし、敬意を示すために手加減しないのか、あるいは障害者に対する差別とヘイトが爆発してただ痛めつけることに快感を得ていたのか、わからないところがあった。この映画でもリング上のザックは、いいように痛めつけられる。エレノア/ダコタ・ジョンソンがいうように、レスラーたちはザックのことを何とも思っていないし、ただ見世物にしようとしているというのは、この映画のなかでは正しいだろう。そもそもすでに触れたように、このプロレス試合は、ドサ回りの、町内の夏祭りの余興のような、興業ともいえないような興業である。そこに思いやりとか正義とか敬意とか全力などを問うことは意味がない。

ザックが最後に出す大技も、あれを火事場の馬鹿力と思う観客、なんとも思わない観客、いろいろいるだろうが、そもそもレッドネック・ソルトウォーターが言っているように、あの技は存在しない。テレビ放送時における合成で、実在しない技なのだとソルトウォーター自身が認めている。となればザックにその技がつかえたのは、火事場の馬鹿力というよりも、奇跡に近い。あるいはこちらのほうが真相だと思うのだが、ただの幻想である。

最後のプロレス試合の場面は、緊張が走る。追い詰められたザックが、この苦戦を切り抜けられるのか。そしてライアンに迫る復讐の魔の手。おそらくハッピーエンディングは、それもわざとらしいハッピーエンディングは、追い詰められたザックが火事場の馬鹿力で大技をだし、相手のレスラーを場外にほうりなげる。と、投げられたレスラーは、ライアンに制裁を加えようとやってきた二人組の上に落下する。そこでライアンも襲われずにすむ。ザックは試合に勝って、レスラーなる夢を、たとえ1回でも、実現する……。

以下 ネタバレ注意 Warning:Spoiler

だが映画をみた人ならわかるように、タイラーは襲われ、レンチのようなもので頭を殴られ、病院に運ばれる。ザックの大技は、あきらかに特撮であって、リアリティがまったくない。しかもザックも病院にいる。本人は怪我はしていないようだが、タイラーのことを気遣って、廊下のベンチに座っているように思われる。エレノアもいる。彼女も病院で、タイラーのことを気遣っている。しかしザックとエレノアは、壁やガラスの仕切りに隔てられていて、顔もみあわすことも、言葉もかわすこともない。これはいったいなんなのか。

最後の場面、エレノアとザックが、車のフロントシートに座っていて、あこがれのフロリダにやってきたところを車内から道路の標識をみて確認するところで終わる。そのときバックシートに寝ているタイラーを起こそうとエレノアだったかザックだったが手を伸ばす。そのとき、車には二人だけではなく、タイラーも乗っていて、彼は横たわっていたことがわかる。タイラーは頭に包帯を巻いているが、起き上がろうとする。そこで終わる。

タイラーは一命を取り留めたらしい。

だが最初の結末では、タイラーは車に乗っていなかったという。タイラーを起こそうとしてバックシートに手を伸ばすも、そこには誰もいない。つまり彼は死んだのである。だが映画会社の重役は、これに納得しなかった。そこでバックシートに寝ているタイラーの姿が付け加えられた(顔は定かではないので、シャイアー・バルーフでなくてもいい)。

映画を観たときには、そうした事情は知らなかったが、それでもタイラーは死んだとしか思われなかった。もちろん映画の最後で生きていたことがわかっても、これは夢だろうと思った。なぜならタイラーの死、そして病院での不思議な場面から、ひょっとしてザックも死んだのではないかと思うのだが、死の悲劇によるエンディングに、むりやりハッピーエンディングが重ねられたようとしたら、そのハッピーエンディングは、夢である。

つまり悲しい現実から目をそらす、あるいは悲しい現実を受け入れられない者の夢である。とすれば具体的に誰の夢だろうか。

おそらくザックの夢だろう。襲われたタイラーは助かり、ザックもプロレスの試合を乗り切り、しかもその後も施設に連れ戻されもせず、三人で旅をつづけ、フロリダにやってくる。結局、最初から最後まで、ダウン症のザックの夢だった。彼の想像のシナリオが映画の物語となった。これはダウン症の青年にやさしくする、敬意を表するということではない。ダウン症の青年の夢に私たちがとりこまれたのである。あるいは映画の冒頭に戻ろう。彼は施設を逃れることに成功する。そしてどこへ行ったのか。夢のなかに逃亡したのである。

また、もうひとつ解釈もできる。この映画の物語の結末は、どうみてもハッピーエンディングになりそうもない。エレノアは死ぬことがないとしても、ザックを死なせた責任をとって辞職するだろうし、たとえザックが生きていても、彼は、前にいた老人施設よりもひどいところに入れられることが決定しているし、それを止められなかった彼女は辞職するだろう。ザックはプロレスの試合を生き延びても、待っているのは煉獄である。もちろんタイラーは死ぬしかない。となるとみんな死ぬ。みんな破滅する。だが、そこに救いはないのか。冒頭の施設に入れられている老人たち。彼らにとって死は間近である。すべて死にゆく者たち。私もまた死ぬ。みんな死ぬ。どうせ死んでしまうのだから、人生の意味などない。だが、そこに救いはないのか。

おそらくこの映画のタイラーとザック、そして施設の老人たちは、あるいは私たちは、死ぬ間際に、楽しかった出来事を思い出すことができれば、それが唯一の救いとなるだろう。人生が、生活が、輝いていた一瞬。この映画のザックやタイラーにはそれがあった(だが、おそらく誰にもそれはある)。フロリダへの向かう旅路のなかでの二人のふれあい。疑似兄弟関係、友愛。人生の休暇。あるいは人生の誕生パーティ。それを満喫できたときに、死は乗り越えられる。実際、この映画のふたりの道中、そして途中からスリーサム状態になるいかだでの道中の、その風景の美しいこと。その輝きと喜び。それがあれば、悲惨な死を迎えても、救われるのである。死を前にして人生の輝きのなかに逃れることができるのである。悲しい話ではあるのだが。

posted by ohashi at 23:02| 映画 | 更新情報をチェックする

2020年02月04日

『キャッツ』5

前回で終わるはずだったが、今度は原作ではなく映画について考えてみたい。そのエロスについて。

その際、否定的な意見を述べる観客について、前回では、無批判の批判と述べた。無批判的にほめちぎるというのはよく言うことだが、無批判の批判というは同着語法であると同時に、ある意味、むき出しの暴力そのものであって、無批判の絶賛も、無批判の批判も、どちらも武器として使われると、これほど危険なものはない。

ただし批判の性格を、じっくり考えてみるとき、たとえば、批判するものは、いっぽうですでにある否定的意見にのっかることで、脆弱な自己を隠蔽して自己主張する快感に酔いしれているのかもしれない――批判は上から目線のことが多いので、それだけで自分が偉くなったように感ずる(批判者が少数派の場合、彼らは逆に批判され抑圧されたり、ただ嫌われたりするのだが、批判者が多数派になれば、すくなくとも仲間が多いとわかれば、潰されたり攻撃されたりすることも少ないので、やりたい放題になる)。

と同時にバカだから、同時に、わけもわからず感じているものがあるはずだ。バカだから(基本的にこの映画をけなすのは、バカだと私は思っている)、逆に、感じ取れるものもある。バカの特権である。それは何か【バカを連発しすぎた私はバカであるが】。

気持ち悪いという感想。たぶんそれは、ゴキブリダンスのことではなく、人間が、一糸まとわずとまではいわないが、ほぼ裸体で(猫は裸なのかどうかは、デリダ的問題でもあるのだが【デリダ『動物を追う、ゆえに私は(動物で)ある』を参照】)動き回ることは、そこに当然あるエロスに対して、気持ち悪いと抵抗し、上品ぶっているのだ。ほんとに何を気取って、上品ぶっているのだ。いつから日本人の一部は、クソ・ピューリタンになったのだ、クソ・タリバンになったのだ。とにかく、正しくそこにエロスがあるのを認めればいい。エロい人間と思われたくないために、気持ち悪いという上品ぶった姿勢こそ、下品のきわみである。

しかし、気持ち悪いという感想は、エロスへの抵抗であると同時に、ここにあるエロスの本質をいいあてている。原作であるエリオットの詩はエロティクでは全くない。猫もセクシーではない。それにつけられた挿画をみても(エドワード・ゴーリーの挿話がけっこう有名だが)、エロスはない。というかエリオットの詩は(隠れた宗教性は別にして)、いくら猫に名前をつけ擬人化していても、猫のことである。猫の行動を、人間の行動になぞらえているだけで、読者が頭に思い浮かべるのは、猫そのものか、エドワード・ゴーリーの絵である。【小山太一氏の翻訳『キャッツ―― ポッサムおじさんの実用猫百科』(河出書房新社 2015)参照。サブタイトル、翻訳ともにこちらのほうが優れている】

ところがこれをミュージカルにして、歌と踊りのレヴュー形式にしたときに、事態が一変した。人間がタイツやレオタードを身につけて歌い踊るその姿は、もう猫ではなく、ネコ化した人間であって、舞台上の人間たち=猫たちは、エロチックなセクシーな存在となった。

そして映画版では猫と人間との一体化がさらにすすみ、ネコでもない人間でもない、奇妙な動物たちが歌い踊るようになった。人間と猫のハイブリッド。ただの猫を変身させて人間にした。擬人化という言葉が、これほどの驚異をもたらすとは思ってもみなかった。しかも驚異は脅威にもつながる。

同性愛嫌悪・恐怖(ホモフォビア)的ヘイト発言をする人間は、自分は、正常だ、宗教的・道徳的立場から、変態を告発非難しているのだと思っているかもしれないが、だいたい人口の10パーセントといわれる同性愛者が、社会に大きな影響を及ぼして同性愛者を過半数、あるいは大多数にふやすというのは、およそ起こりえない妄想にすぎない。それよりもむしろ、たとえ同性愛的欲望がなくても、欲望の多様さを認め、異なる欲望との共存が、社会をどれだけ豊かにするか、面白くするかということを思い至らない、とにかく寛容ではない同性愛嫌悪者は、同性愛研究においては、実は、隠れ同性愛者である。

かつては同性愛が禁忌であった頃、自分のなかに同性愛的傾向があることを自覚する者は、パニックに陥るか(ホモセクシュアル・パニック)あるいは同性愛嫌悪(ホモフォビア)に走った。ホモフォビアとは、自分でオナラをしていながら、気取られないために、誰がオナラをしたのかと自分から犯人探しをするようなことか。禁忌が弱まった現代において、それでもなおホモフォビックな言動を吐くのは、その人物が自分の中にある強い同性愛的欲望を怖れ、隠蔽しようとしているからにほかならない。そう同性愛研究では考える。同性愛者の水脈は同性愛嫌悪者のなかにある。

『キャッツ』の登場人物・ネコが気持ち悪いという者たちに対して、私は彼らが思ってもみないこと、それだけは自分と関係ないと思っている言葉をなげかけてやりたい、それは、おまえたちこそ気持ち悪い変態だということである。

なぜなら舞台版でも映画版でもあり、人間が猫のふりをするようになってから、ネコそのものがエロくなった。そしてそれはネコあるいは動物一般に対して人間が抱いている愛ではなくて性愛的欲望を浮上させることになった。この映画を、気持ち悪いと非難している連中は、ある意味、感受性が豊かである。それは動物性愛(「獣姦」は差別的なので使用禁止にすべきだろう)の存在を嗅ぎ取っているからである。

ただ、彼らが鈍感なのは、気持ち悪いということが、即、非難とか差別にむすびついていることである。私はそこに危険なものを嗅ぎ取ったのだ。なぜ気持ち悪いと思われるものが、排除と差別の対象となるのか。この多様性の時代に、多様性の敵はなくならないのである。

私が動物性愛についてはじめて知ったのは、リチャード・バートン(オリエンタリストにして探険家)の英訳版『千夜一夜物語』の日本語訳を読んでいたときである。バートンは翻訳に膨大な注をつけたのだが、そのなかで言語に関する注は、さすがに専門家でもない読者には理解しがたいので、日本語訳では訳していないのだが、バートンの文化や風習、とりわけ性風俗に関する注は、どこまで信じていいのかわからない虚実相半ばするものだったが、面白いのは確かで読みふけったことがある。そのなかで動物性愛の歴史とか習慣について書かれていて(当然、物語にもそれがあるのだが)、中学生だった私の知らない世界がそこにあった(なおバートンの巻末論文も有名で、バートンは、その論文で、同性愛ベルト地帯というのを設定していた。日本は、そのベルト地帯のなかにあった――中学生の私はその論文というか論文の翻訳に、教科書以上に丁寧に赤い傍線をいっぱい引いていた)。

動物性愛については、その後、あまり読んだり聞いたりしたことはなかったが、21世紀に入ってたまたま読んだ、テッド・ムーニイ『ほかの惑星への気楽な旅』中村融訳(河出書房新社2013)が、そうで、本のカバーのイラストとか帯の惹句などから、なんとなく匂わされているのだが、読んでみるまで動物性愛の話とは思わなかった(カバーのイラストには、読んだあとだと、ストレートに描かれていることがわかるのだが、読む前はまったくわからなかった)。

映画では『ワイルド――わたしの中の獣』(ニコレット・クレビッツが監督2016年ドイツ映画)が動物性愛の映画だった。動物とのセックスは、メタファーとらえることもできるのが、むしろメタファーではないとみるほうが、というかみるべきなのだが、そのほうが衝撃的で面白い。

そして2019年。濱野ちひろ『聖なるズー』 (集英社学芸単行本) (2019年第17回開高健ノンフィクション賞受賞作)がある。この著書の衝撃性は、私を一挙に中学生の頃に引き戻したし、いままた、エリオットの『キャッツ』も、その神聖さ、神学的構造を、ミュージカルや映画版の『キャッツ』経由の、動物性愛からのアプローチで解き明かすことができるかもしれないと、私をやや興奮させているところでもある。『キャッツ』は、『聖なるキャッツ』だったかもしれないのだから。

posted by ohashi at 21:57| 映画 | 更新情報をチェックする

2020年02月03日

『キャッツ』4

1月24日の夕刊に柳下毅一郎氏が『キャッツ』を映画の歴史に残る映画と絶賛する映画評を寄稿されていた。21世紀に訪れた未知との遭遇だ、とも述べている。この映画をとりまいている、無批判な批判というのは、嘆かわしさを通り越してなにか危険なものを感じ取れるので、このような、たとえ、はったりめいていても(ただし、ほんとうにはったりとは思わないが)映画『キャッツ』を褒めておくことは絶対に必要だと思う。もっとも柳下氏にしてもゴキブリの件では悪ノリのところがあって、そこはすこし残念だが――エリオットの原作にもあるこのゴキブリは、映像化しても、そんなに変ではない。『テラフォーマー』(コミック+映画)のゴキブリ人間のほうが、ずっと気色悪い。

そのため原作との兼ね合いで、もう少し『キャッツ』について。

前回、同一化と所有の欲望を軸に、猫の第三の名前について考えてみた。まあキリスト教的な世界観だが、もし神が人間を所有するとしたら、それは独裁者が国民を奴隷化するようなものではなく(それは悪魔の支配だ)、むしろ万人に同一化するようなものだと考えた。つまり人間のなかに神がいるのであり、神のなかに人間がいる。そのようなかたちの所有はまた同一化でもある、と。

ネコ科の動物は、ある種の怖さがある。私たちは自分がネコだと、ネコに同一化することはあまりないと思うことはないが、ネコ科の動物に食べられる恐怖はある。人食いライオンに、人食いトラ。信仰とは神に食べられることである(進撃の巨人の世界じゃないとしても)。神に食べられる恐怖を経た者だけが、あるいは近代的自我の自発的放棄をする勇気(自我を犠牲にする勇気)がある者こそ、神とともにある。あるいは神に所有され、神でもある。可愛らしい猫は、あるいはつんとすました猫はまた、恐怖の人食い動物である。だが猫は、ライオンは悪魔ではない。ライオンに食べられたあとは、輝かしい歓喜が待っている。ライオンに食べられたらしいジェリクルキャッツ(原作での話だが)は、ただ踊っているだけである。まるで猫のように。

人間は悪魔を神と考えがちだが、悪魔が支配する世界で人間は隷属化し生ける屍であろう。神の支配する世界で、人間は歓喜の踊りを踊る。なにも考えずに、まるで猫のように、まるで動物のように。

アガンベンの『開かれ』(平凡社ライブラリー)の冒頭で紹介される中世の写本の挿画では、賢者あるいは善人が最後には幸福な宴会で動物になっている。正確にいうと首から上が動物になっている。人間の救済は、人間の動物化である。動物になることで人間は煩悩から欲望から解放される。もちろんそれは動物化というよりも植物人間化に近いかもしれない。悲しみもなく、苦しみもなく、喜びもなく、笑いもなく、恐れもなく……。そんな廃人こそが、救済された人間のヴィジョンであることも『開かれ』は教えてくれる。動物化、人間からの解放は、いっぽうで植物人間化かもしれないが、いっぽうでは晴れやかで喜ばしい歓喜の踊り手となることでもある。そのマイナスのヴィジョンとプラスのヴィジョン。負性は、ライオンに食べられることだろう。食べられて死ぬ。自分がなくなる。その明るい未来は、踊る猫となる。これのどこが素晴らしいのかと言うなかれ。宗教の本質は他力本願。自己滅却であるから、踊る廃人になることが救いなのである。

【なお、選抜されて新たな命をもらって生まれ変わるというのは、原作にはない設定。最後に、ジェニファー・ハドソン猫が気球に乗っていくのは、「島流しか」とネットでコメントしている人がいて、笑ったのだが(たしかに島流しだ)、まあ天国に召されるということだろう。猫は9つの命をもつといわれていることから、落ちぶれた彼女が新たな生をもらって地上で生まれ変わるともとれるが、天に昇って行くところをみると、死んで天国に召されて、そこで永遠の命をもらうということだろう――第二の生を地上で生きるのではない。ただし、これは原作にはない設定であり、原作は、そこまで宗教臭くはないことだけは、ことわっておかねばならない。】

なお、私はエリオットの猫と違って、洗礼名のような第二の名前もないし、いわんや第三の名前すらなく、名前は一つしかない(せめてペンネームでもあればよかったと今では少し後悔しているが)。だからキリスト教的というか宗教的世界観を本気で信じているわけではないが、ただ、同じことを、違った角度からも言えそうな気がしてきた。

たとえば神としてのAI。いま私たちはコンピュータがどのように人間を支配するのかわかってきた。もしAIが人間を支配するとすれば、人間を常に監視し、社会秩序の維持を目指して不良分子あるいは反乱分子を極力排除して平均化された人間社会をつくるというのは、あまたのディストピア小説や映画が提示してきた世界である。

フーコー経由で私たちに伝えられてきたベンサムの一望監視システムは、囚人にとって、監視者がみえないがゆえに、囚人は、監視者を自分の内面に住まわせてしまい、自己規制するというメカニズムであった。ポイントは監視者がいることはわかっても、みえないこと。そうすることで監視者は、本来、一人の人間が多くの人間を監視することなど不可能なのだが、一人で多くの人間を監視できる(実際には監視していなくとも、監視されているようにみんなが思うということである)。一人で、マンツーマン式の監視は不可能であるというのが、この一望監視システムの前提としてあった。しかしコンピューター時代、AIは万人をもれなく監視することが可能となった。

もはや人間はビッグデータの微細な情報単位でしかないかもしれないが、同時に、どんなに多くなっても、監視の網から漏れることはない。ひとりひとりが徹底的に監視される分析される。誰ももれることはない。そしてそれは監視カメラなどなくとも、たとえば電子マネーの使い道によって、性格、嗜好、心的傾向、行動原理など、すべて丸裸になる――私は現金払いをするのは、少しでも監視の目から逃れるためである、もう手遅れなのだが。そしていいかえれば、これはAIの人間の所有の仕方は、なるほど外部からの働きかけもあるかもしれないが、その前に、完全に内側から、全人格のデータ化という方法をとる。いずれ、あるいはすでにAIが私の中に入っている(私のPCやスマホは完全に私の個人のものというよりも、どこかに接続され一体化されている)。AIは万人の人格をそのうちにとりこむことになる。いいかえれば万人と同一化することになる。AIにとって所有と同一化は同じなのである。

『her/世界でひとつの彼女』(スパイク・ジョーンズ監督2013年のアメリカ映画)は、奇しくも『ジョーカー』のホアキン・フェニックス主演なのだが、コンピュータに恋した主人公に大きな落胆が襲うところ――観客にとっても衝撃が大きい瞬間--がある。現実の女性とは異なり、事細かに、繊細に主人公の男性の気持ちを汲み、慰撫し、そして愛する女性の性格を付与されたコンピュータが、所詮、コンピュータにすぎないと思い知らされるのは、自分一人を相手にしてくれていると思っていた、その女性コンピュータ(スカーレット・ヨハンセンが声を担当している)が、実は、一度に数百人か千人もの男性を相手にしていたとわかるときである(正確な数字は忘れたが三ケタか四ケタであった)。

自分一人だけの女性コンピュータと思っていたら、千人近い男性顧客を一度に処理していたとわかるときの落胆。浮気どころではない。自分一人だけを相手にしてくれるのなら恋人であるが、不特定多数を相手にしていたら娼婦と同じである。いや、病院で、やさしく接してくれる女性看護師が、実は、ほかの多くの患者にもやさしく接していた(あたらいまえのことだが)ことを知ったときの、うぶな、あるいは孤独な勘違い男の落胆と同じというべきか。しかし一人を相手にしているのなら恋人でも、不特定多数ならよくて女性看護師、悪くて娼婦、まさに天使と悪魔という関係だが、しかし、この映画で、もし、その女性コンピュータが全人類を相手にしているとするならば、その男性は、落胆などしないのではないかと思う。数字が中途半端なのだ。万人を相手にしている、万人にそれぞれやさしくしているコンピュータ、あるいはAIというべきか、それはまぎれもなく神である。その男性も、落胆したときは、その女性コンピュータに、ある意味、自分が、所有されていたことがわかるのだが、もしそのコンピュータが全人類を相手にしているとわかれば、その女性は、恋人でもなく、娼婦でもなく、神として崇拝される存在である。

よく神に祈っても、神は、そんなひとりひとりの願いに耳を傾け、処理することなどあろうはずがない。私ひとりのささやかな小声の願望なりが神にとどくことはないというあきらめがふつうある。しかし、神はひとりひとりの声に耳をかたむけているはずである――人間なら無理だが、神ならばそれができる。個別性をまったく損なうことなく、全体を把握することができる。個か全体かの葛藤はない。すくなくとも神のうちにおいては。そして、神と同じように、個別性をどこまでも尊重し、個別性を捨象することなく、同時に、全体を把握できる存在、それがAIである。人間はいよいよ神を造りだそうとしている。

もちろん、そのときなにが起こるかは定かではない。エリオットの原作詩『キャッツ』の猫が、自分の第三の名前をめぐって瞑想にふけるのと同じように、私たちは神ならぬAIを心にすまわせ、全人類と接続されるとき、何が起こるのか、エリオットの猫たち以上に、何も知らないのである。

追記
ほぼ1年前に刊行された文庫本を今頃読んでいるのだが、そのなかにこんな発言があった。

ユダヤ人を特徴づける関係とは、彼らが《名》と呼んでいたもの、すなわち《神》との無媒介的関係だ。


訳注があって、「《名》は、ヘブライ語で啓示された性格や本質という意味で用いられることが多い」。(サルトル×レヴィ『いまこそ希望を』海老坂武訳(光文社文庫2019)114-115.

エリオットの原作における猫の第三の名のもつ神学的含意も、ぼんやりとはわかる。

posted by ohashi at 21:04| 映画 | 更新情報をチェックする

2020年02月02日

2月1日以降に追加した記事一覧

1月29日付で、『リチャード・ジュエル』
1月30日付で、『キャッツ』
1月31日付で、『キャッツ』2
2月1日付で 、 『キャッツ』3
2月3日付で、 『キャッツ』4
2月4日付で、『キャッツ』5
1月30日付で、『キャッツ』に追記
1月23日付で、ハプスブルク展
2月8日付で、『ピーナッツバター・ファルコン』
2月9日付で、『グッドライアー』
2月13日付で、『9人の翻訳家』
2月20日付で、存在しているのか、存在していないのか
2月23日付で、『ヘンリー八世』
2月21日付で、空気感染
2月22日付で、マスクせずに咳をする麗しの日本人
2月24日付で、『1917』

posted by ohashi at 23:11| 記事リスト | 更新情報をチェックする

2020年02月01日

『キャッツ』3

これまで何度もBeingの欲望とHavingの欲望について語ってきた。

男女の恋愛模様あるいは同性愛と異性愛の関係などに、この二つの欲望が関係していることを執拗に語ってきたが、ここではその究極型を考えてみる。

これも以前、『舞子はん』という映画のなかで、どちらが舞子はんにもてるかを競い合う男性二人が、最後には舞子の姿で舞台にたって踊るという予想外の展開をするのだが、これは所有の欲望と同一化の欲望との混淆が起こっていると考えた。本来ならこれはあってはならないことである。しかし同時に、自分の愛するもの、自分が所有したいものと一体化したいという欲望はふつうに存在することである。たとえどんなに異様にみえても。

たとえば男性である私が、女性を愛するとしよう。女性をパートナーとして所有しようとする。ここまではいい。Havingの欲望がはたらいている。しかし、男性である私が、女性を愛するあまり、女性と一体化(同一化)しようとしたらどうなるのか。私は女性を愛するあまり女性用の下着を身に着け、さらに女性の化粧をして、さらに女装までして、最後には女性的な話し方や立ち居振る舞いまで身に着けて、完全に女性化するとしよう。これは所有の欲望から離れて同一化の欲望の暴走を許してしまったかのようであり、この場合、私は、一般的基準では、変態である。

しかしたとえば私が中国という国と文化が好きで、中国人のような物の見方、考え方、立ち居振る舞い、また中国語の言語運用能力を身につけ中国人になろうとすることは、つまり愛する外国の、その外国人になろうとすることは、そんなに変態的なことではないだろう。むしろふつうのことではないか。

ただし愛を所有の欲望で語ることには抵抗もある。もしあなたが女性を拉致して性奴隷にするような犯罪者ではないかぎり、またもしあなたが男性の顔をヒールのかかとで踏みつけて喜んでいる女王様タイプの女性ではないかぎり、そのような所有だけが愛のかたちとは思いたくない。

むしろそれは支配・隷属化である。

あるいは外国人になりたい欲望というのは(崇拝したいという欲望でもいいが)、外国文化を所有というよりも外国文化に所有されている感じがする(崇拝は、対象を所有ではなく、対象に所有されることである)。同一化と所有は組み合わせることができる。所有が主体の同一化は隷属化であり、主体が所有されるといえる同一化もある。Possessedは、憑りつかれているという意味である。

では神は、人間をどのように所有するのだろうか。

全能の神だから万人を所有する。万人が神の奴隷になる? もし神が愛する神ならば、神の愛し方は人間の隷属なのか。詩人のブレイクは、私たちが神と思っているものは、たいていは悪魔だと語っていたらしい。たしかに人間を支配し服従させる神は、独裁者、悪魔に近いというか、悪魔そのものである。それは愛する者を拉致監禁する犯罪者と同じである。となると神の所有の仕方は、極限の所有、つまり同一化である。神は、私たちのことをすみずみまで所有する、とはいえ命令したり支配したりするのではない。それは私たち自身になることである。そう神は万人の所有を実現できるが、それは万人になるということである。私たち一人一人が神なのである。

鏡を見れば、自分の顔がイエス・キリストにみえてくる。周りの人間の顔がイエス・キリストにみえてくる(これはジェンダーを問わない)。また神と人の子であるイエスは、人間の顔をもっているから、私たちにも見やすいものとなっている。イエスの顔は神と人間のまさにインターフェイスである。

神は私たちの眼をとおして世界をみているし、私たちの耳を通して世界の音を聞いているし、私たちの声を通して語っている。逆ではない。私たちは神の眼で世界をみているのではない。もし私たちが神の「上から目線」でみているとすれば、私たちは悪魔に憑依されていることになる。神はすべての人間と同一化する。神は下から見ている。下からの目線のほうが、すばらしく、意味があり、また美しいのである。

私たち一人一人が神である。全能の神ではない。全能の神となって世界を支配する? それは悪魔である。私たち一人一人が同じ神の名前をもっている。猫も同じである。猫も自分の三番目の名前が、すべての猫が共通してもっている神の名前であることを知っている。

そしてそれはこの映画『キャッツ』のなかでは、イエス・キリスト/ジーザス・クライストと同じイニシャルの名前のことではないだろうか。そう、ジェリクル・キャッツ。
posted by ohashi at 17:01| 映画 | 更新情報をチェックする