私はエリオットの専門家でもないし、また下手なことを書けば、エリオット研究の最近の文献を読んでいないとバッシングされるかもしれないが、素人であるがゆえの言いたい放題は許されるだろう。
『キャッツ』2 映画と原作
猫の三番目の名前
猫には三つの名前があるというのは原作のとおり。ミュージカルでも原作の詩をそのまま歌詞として曲を付けている。
で、三番目の名前は何か? それは神の名前である。神の名前は、おそれおおくて口にできない。この口にできないことを、英語ではunamableという。そしてこのunnamableの同義語で、もう少し由緒正しい言葉、それがineffableである。
実際、この『キャッツ』には、ineffableをはじめとして、いわゆる宗教がかった言葉が随所にある。
一番めにつくのがOld Deutolonomy 「デュートロノミー」というのは辞書で調べると分かるのだが旧約聖書の「申命記」と訳されている章こと。旧約聖書の中心をなすモーセ5書のひとつでもある重要な章。もちろん「デュートロノミー」という音の面白さで、この人物名が選ばれたのはわかる。ただ、なんとなく男性の名前であり、原作では老いた雄猫のことだが、映画ではジュディ・デンチ演ずるところの高齢の女性の猫となっていた。そして旧約聖書、あるいはユダヤ=キリスト教の伝統につらなるイメージがここにある。
そうなるとジェリクル・キャッツが何であるかも見えてくる。この世の中でJCの頭文字をもつ有名人は誰だろうか。そうジーザス・クライスト。JC。原作では、いろいろ癖が強い猫、悪党の猫、落ちぶれた猫などが登場するが、ジェリクル・キャッツたちだけは、なんの苦しみもなく、ただ無邪気に踊っているだけである。彼らはJCの猫、イエス・キリストに祝福され歓喜の踊りを踊る猫たちなのである。
ジェリクル・キャッツは、ミュージカル、映画の解釈とは異なるかもしれないが、JC=ジーザス・クライストだけは常に念頭においたほうがいい。
またそもそも動物とは、基本的に神様のことである。動物を神として扱う文化は、世界中にある。とりわけネコ科の動物は、ユダヤ=キリスト教文化圏では神扱いされてきた。たとえば英国の詩人ブレイクの有名な詩Tigerは、Tiger, Tiger, Burning Brightではじまるのだが、この虎は、ある意味、恐るべき神のことである。そしてこの映画の最後に登場するトラファルガー広場のライオンの像もまた神を暗示する。あるいは、ナルニア国物語ではずばりライオンが神ではなかったか。私は以前、『ボアズ・ヤキンのライオン』という不思議な小説(翻訳あり)を授業で読んだこともある。ネコ科の動物は、基本的神である。
こんなふうに考えれば、エリオットの『キャッツ』は、そのナンセンス詩、あるいはレヴュー形式の猫紹介詩(ときに諷刺的、ときにバラード的)は、そのむしろ表層的なめらかさ、翳りのなさのなかに、思わぬ深淵を、あるいは精神性をのぞかせているのである。もちろんそれは気づかずにやりすごすほうが、正統的な読み方かもしれないが、同時に、気付くこともまた、気付かぬふりをするためにも不可欠であることはおさえておこう。
猫列伝形式の詩が描くのは、相対的にみて、ペット猫の世界ではなく野良猫・ホームレス猫の世界、貧困層の半地下・地下世界である。実際、この世界は、18世紀のジョン・ゲイの『乞食オペラ』あるいは、それを20世紀版にしたブレヒトの『三文オペラ』の世界で、犯罪猫の歌は、メッキ―・メッサーの歌とかわりはない。
まさに裏社会、暗黒社会、地下世界で、下手に足を踏み入れたら、生きては帰れない世界である。だが、しかしイエスが山上の垂訓で述べたように、貧しい者こそ幸いである。都市の暗闇、迷宮のような闇世界こそ、天国へと開かれている世界である。呪われた悪党猫たちと祝福された猫(ジェリクルキャッツ)が共存する世界。エリオットが『荒地』で描いた現代の荒廃した世界の、猫版は、同じく荒地でありながら救済へと開かれている。そう『ジョーカー』の世界がそこにある。マキャヴィティ・キャットが、イドリス・アルバではなくジョーカーだったらよかったのだが。保守派のエリオットは革命の闘士、道化的人物はお気に召さなかったのかもしれないが。
*
第3の名前が神の生であることについて。つづく
2020年01月30日
『キャッツ』
最悪の映画だというような評価がアメリカから入ってきて、日本の観客もそれに無批判に同調するような映画評を発しているが、実際にみてきて、ベストかどうか意見がわかられるだろうが、少なくとも最悪な映画ではぜったいない。気持ち悪いとかいわれているのだが(べつに気持ち悪くないのだが)、かりに気持ちが悪くても、だからワーストの映画にするのかということ。ほとんど理屈にあわない。
これはネタバレでもないと思うが、以下のコメントに私は全面的に賛成である。
このコメントにも書いてあるように、また私は舞台版は見ていないのだが、『キャッツ』は、いわゆるレヴュー形式なので、複雑な筋があるわけではない。コンセプトはある。それは夜人間が寝静まったあと、都市【ロンドン】の路地裏で繰り広げられる猫の集会なのだが、この日は一匹の猫が選ばれて新しい命を授けられ天に上るという特別の日という設定。そしてこの集会に出席する猫たちがつぎつぎと紹介される。その猫たちの歌と踊りによって、レヴューが構成される。
もしこれが舞台のレヴューだったら、ソロで歌って踊る猫がいたり、デュエットで歌って踊る、さらには群舞と歌などが入り、たぶん一つの歌や踊りが終わると、その都度、拍手喝さいを浴びる。また演目にも、変化をもたせ、ときには観客に手拍子を要求したりして観客参加型のパフォーマンスをしたりと、ある意味、一瞬たりとも飽きさせない工夫が舞台にはみられるだろう。だが、それを映画館で再現できるかというと、そこはむつかしいだろう。
ナショナル・シアター・ライブのように劇場の中継録画だったら、舞台版の雰囲気を味わうことができたかもしれないが、映画版は、物語やドラマを求めにきた観客に、実際には物語もドラマもあるのだが、レヴュー形式ということで肩透かしをくらわせたのかもしれなれない。だからといって駄作でもワースト作品でもない。
原作はT.S.エリオットの『キャッツ』だが、エリオットは20世紀を代表する詩人・批評家・劇作家で、ノーベル文学賞受賞。しかし、こんなエリオットも、自分をポッサム爺さんと名乗り、『キャッツ』という童話詩というのよりも、どちらかというとリメリックのようなナンセンス詩を書いた(エリオット自身、猫顔なのだが)。そしてこの前衛詩人にして代表的知識人たるエリオットは、ミュージックホール好き。この本の『キャッツ』も、つぎつぎといろいろな猫が出てきて、ミュージックホールのステージでのレヴュー形式を彷彿とさせるようなところがある。というか映画でコンテストがおこなわれるようなところは、営業を終えた夜のミュージックホールでしょう。また、おそらく、こうしたレヴュー形式によるミュージカル化は、まさにエリオット自身望むところではなかったかと思う。
もちろんこのミュージカル版『キャッツ』のよいところとわるいところは、ある意味、映画化によって裏返るところがあって、映画化によってよいところが、消えるか、わるいところになった観がある。登場人物は猫の扮装するのだが、そのとき体の線がはっきりでるような形態になるので、見方によっては、エロチックになることがある。舞台版では猫たちが舞台だけでなく客席でも踊ったりするとき、近くにパフォーマーの身体を感じて、へんに興奮もしたりするという感想があったのだが、映画の場合、それがない。猫たちの姿が気持ち悪いというようなことを書いている日本人観客がいるが、むしろ、そのエロさに感激しろよと言ってやりたい。
そもそも映画に登場する猫たちはレオタードとか毛皮の全身タイツのようなものを身につけているのではなく、皮膚や毛をCGでつけている。だから皮膚と同じで、表面に皺ができない。猫耳も尻尾も常に動いているのだが、それもCGであることはわかる。
ただ、そこにちょっと妥協があって、実は、裸体のうえに毛皮をつけたCGによる造型が、性器をみせなくしていて、そのため人間の性器ではないが、かといって猫の性器でもないという中途半端になったのは、いたしかたないところか。
また猫の軽やかな動きをつくるためもあってか、踊りに、人間の身体の重さが感じられない。いやそもそもバレーなどはいかにして重力に逆らうかを課題にするのだから無重力こそ踊りの到達点かもしれないが、しかし舞踏は重力にさからいつつ重力を感じさせるという相反する要素を共存させると思う。
だが、ここでは猫のダンスということで、むしろしなやかさ、柔軟さ、軽さ、スピードなどを重視するために、舞踏の重さというか存在感が希薄なように思われる。それは、いっぽうで猫らしさを示す超絶ダンスかもしれないが、もういっぽうではCG処理による(実際はそうでなくても)虚構的ゼログラヴィティになるのが違和感となって観客に残る。もちろん感じ方には個人差があるだろう。また、違和感マックスでもワースト映画ではない。
あと『キャッツ』のなかで歌われる曲が、有名な「メモリー」以外にあまり耳に残らない。というか『キャッツ』の売りは、この「メモリー」だけで、それ以外の曲は、みんな同じに聞こえるのが残念。そこに不満が残るといえば残るのだが、だからといってワースト映画では絶対にない。
あとネットでこの映画を酷評している***どもの偏差値の低いコメントみていると、それだけでBook of 何とかができるのではないかとも思った。
たとえば
三つ目の名前については、次の記事で触れるのだが、この発想の貧困さ。あなたはこの映画を観に来なくていい人です。
またたとえば
なんだこの偉そうなアドヴァイスは。確かに、カメラワークで酔う人がいることは知っている。で、重要なことは、そういう人は映画を観なくてもいい。別にこの映画に限らず、他の映画もしかり。カメラをずっと固定して長回しをする監督がいるかと思うと、カメラを動かし、ぶれさせて何かを表現しよとする監督がいる。それは映画を観る前にはわからない。ただ、カメラの動きで酔う人は映画館に来てはいけません。世の中、楽しい娯楽はほかにもたくさんあります。わざわざ文句を言うために映画を観る人は、はっきり言ってクソです。人格を疑われ、知能を疑われ、品位を疑われるクソです。
そしてこの同じ人物が、次のようにコメントしている、
これを読むと本当にゴキブリのシーンがグロテスクで怖い、だから酷評されるのもやむなしと思うかもしれないが、べつにネタバレにでもないのに、このゴキブリ・シーンをネタにしている映画評は少ないことからも、ここでグロテスクなまでに誇張しているのは、この映画評者だけであって、実際に見てみれば、ゴキブリたちは小さくて、大きな画面でももっとよくみせてくれと思うほどの扱いで、しかもけっこうエロい。
ちなみにゴキブリはエリオットの原作どおりで、面白い場面。私はアラクロフォビア【アラクノフォビアフォビアの誤記。また意味も「クモ恐怖症」で「昆虫恐怖症」の意味はない。なお追記参照】で、映画『キングコング』【追記参照】に、人間と同じくらいのサイズの昆虫がいる谷に人間がおちてゆき、そこで昆虫と戦う場面があるのだが、私はそれをみていて本当に失神しそうなった。しかしこの『キャッツ』のゴキブリはまったく怖くないし、グロテスクでもない。
まあ、こういう輩が、気持ち悪いどころか、むしろ可愛らしい場面をグロテスクに誇張して、あおる。あおり運転するバカと同類だといってやりたい。日本もいつから、こんな愚劣なプロパガンダ社会になったのかとほんとうになさけなくなる。
ただ冷静に考えれば、多くの観客を見込んでいる映画というのは、ふだんは映画など見たこともない観客というか、観客の何も値しない*****がゴキブリのように湧いて出て映画館にやってきて、行儀の悪さで周囲に迷惑をかけ、偉そうに好き勝手なことをほざいていくことで映画ファンを不快にさせるのだろう。しかも、だいたい低俗な人間であるにもかかわらず、お上品ぶって、びっくりするほどのピューリタンで、ただただむかつく。
アメリカの映画評論家という偏差値の低い人種が酷評しているからといって、ふだんは映画館など行かない、ミュージカル映画など見たこともない人間が映画館に足を運んで、本来なら、彼らの知性にも感性にもおよそそぐわない作品を、わかったふりというか、批判することで通ぶっている。ゴキブリがグロテスクだといっているお前がゴキブリだぞ。
また猫がごみ箱をあさるのは気持ち悪いとか、けなすコメンテイターが、完全に、発想が富裕層なのも気になる。ここに出てくる猫は、映画の冒頭で白猫のヴィクトリアが飼い主から捨てられるところからもわかるように、飼い猫もいるが、ほとんどは捨てられた野良猫である。さらに原作を読むとわかるのだが、出てくるのは犯罪者猫が圧倒的に多い。マキャヴィティが総元締めなのだが、とにかく夜の闇に蠢く犯罪者とホームレスたちの裏社会の話である。ロンドン市民生活が猫に置き換えられているのではなく、ロンドンの半地下あるいは地下生活の世界が猫に置き換えられている。ある意味、ユーモアの仮面のなかに、パラサイトたちの生態が透けて見えるのである。
そういう意味で、ミュージカルとしてはロイド・ウェーバーのミュージカルというよりもスティーヴン・ソンドハイムのミュージカルに近いような気がする。実際、この野良猫、ホームレス猫、泥棒猫たちの世界は、あと一歩で、ジョーカーの世界へと変貌をとげてもおかしくないからだ(すでに『パラサイト』の世界である)。それができなかったのは、原作のせいである。つづく
追記
この記事のなかで、昆虫恐怖症をアラクノフォビアと書いたが、正確にはというか、そもそもアラクノフォビアarachnophobiaは、クモ恐怖症で、昆虫恐怖症はエントモフォビアentomophobiaであった。『アラクノフォビア』という映画があった、このクモ恐怖症というむつかしい英単語は、「あら・くも(蜘蛛)フォビア」と記憶できると思いついた、だたそれだとまちがって「アラクノ」というべきところ「アラクモ」と思わず言ってしまいそうで、要注意と思っていたら、いつのまにか「昆虫恐怖症」の意味に頭のなかでなってしまった。またもボケが。
等身大の昆虫が出てきて、見ていて失神しそうになった映画は、ピーター・ジャクソン監督の『キングコング』(2005)。トム・ヒドルストン、ブリー・ラーソン、Miyaviらが出演していた『キングコング 髑髏島の巨神』(2017)にも巨大昆虫は登場するが、見上げるような大きさで、大きすぎて、昆虫恐怖症的な怯えはなかった。
これはネタバレでもないと思うが、以下のコメントに私は全面的に賛成である。
4.0われわれの知らない生き物たちの生態と哲学を観察
バッハ。さん 2020年1月30日 PCから投稿
海外の評がさんざんで、尻馬に乗るように日本公開前から冷笑ムードが広がってネタにされた感のある『キャッツ』だが、これまで誰も観たこともないような異様なビジュアルを貫きながら、王道のミュージカルを描ききっただけであり、珍奇ではあっても決して駄作などではないと思う。
ぶっちゃけ『トイ・ストーリー』の一作目だって「気持ち悪い」という声はあったが、今ではCGアニメに違和感を抱く人はほとんどいなくなった。この『キャッツ』の猫人間たちのビジュアルも、確かに観客を戸惑わせる部分はある。が、それは単に「知らない物を見た時の戸惑い」でしかなく、映画の世界観はちゃんと成立していると思う。
オリジナルの舞台版を踏襲しているからか、レビューショーのような構成で、筋の通ったストーリーはあまりない。それを退屈と捉えるか否かは、観客側の先入観次第。自分としては、ミュージカルらしさを充分に楽しんだし、ジェニファー・ハドソンの演技込みの歌声は『ドリームガールズ』の時をはるかに超えていたように思う。いや、総じていい映画だと思いますよ。ヘンだけど。
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このコメントにも書いてあるように、また私は舞台版は見ていないのだが、『キャッツ』は、いわゆるレヴュー形式なので、複雑な筋があるわけではない。コンセプトはある。それは夜人間が寝静まったあと、都市【ロンドン】の路地裏で繰り広げられる猫の集会なのだが、この日は一匹の猫が選ばれて新しい命を授けられ天に上るという特別の日という設定。そしてこの集会に出席する猫たちがつぎつぎと紹介される。その猫たちの歌と踊りによって、レヴューが構成される。
もしこれが舞台のレヴューだったら、ソロで歌って踊る猫がいたり、デュエットで歌って踊る、さらには群舞と歌などが入り、たぶん一つの歌や踊りが終わると、その都度、拍手喝さいを浴びる。また演目にも、変化をもたせ、ときには観客に手拍子を要求したりして観客参加型のパフォーマンスをしたりと、ある意味、一瞬たりとも飽きさせない工夫が舞台にはみられるだろう。だが、それを映画館で再現できるかというと、そこはむつかしいだろう。
ナショナル・シアター・ライブのように劇場の中継録画だったら、舞台版の雰囲気を味わうことができたかもしれないが、映画版は、物語やドラマを求めにきた観客に、実際には物語もドラマもあるのだが、レヴュー形式ということで肩透かしをくらわせたのかもしれなれない。だからといって駄作でもワースト作品でもない。
原作はT.S.エリオットの『キャッツ』だが、エリオットは20世紀を代表する詩人・批評家・劇作家で、ノーベル文学賞受賞。しかし、こんなエリオットも、自分をポッサム爺さんと名乗り、『キャッツ』という童話詩というのよりも、どちらかというとリメリックのようなナンセンス詩を書いた(エリオット自身、猫顔なのだが)。そしてこの前衛詩人にして代表的知識人たるエリオットは、ミュージックホール好き。この本の『キャッツ』も、つぎつぎといろいろな猫が出てきて、ミュージックホールのステージでのレヴュー形式を彷彿とさせるようなところがある。というか映画でコンテストがおこなわれるようなところは、営業を終えた夜のミュージックホールでしょう。また、おそらく、こうしたレヴュー形式によるミュージカル化は、まさにエリオット自身望むところではなかったかと思う。
もちろんこのミュージカル版『キャッツ』のよいところとわるいところは、ある意味、映画化によって裏返るところがあって、映画化によってよいところが、消えるか、わるいところになった観がある。登場人物は猫の扮装するのだが、そのとき体の線がはっきりでるような形態になるので、見方によっては、エロチックになることがある。舞台版では猫たちが舞台だけでなく客席でも踊ったりするとき、近くにパフォーマーの身体を感じて、へんに興奮もしたりするという感想があったのだが、映画の場合、それがない。猫たちの姿が気持ち悪いというようなことを書いている日本人観客がいるが、むしろ、そのエロさに感激しろよと言ってやりたい。
そもそも映画に登場する猫たちはレオタードとか毛皮の全身タイツのようなものを身につけているのではなく、皮膚や毛をCGでつけている。だから皮膚と同じで、表面に皺ができない。猫耳も尻尾も常に動いているのだが、それもCGであることはわかる。
ただ、そこにちょっと妥協があって、実は、裸体のうえに毛皮をつけたCGによる造型が、性器をみせなくしていて、そのため人間の性器ではないが、かといって猫の性器でもないという中途半端になったのは、いたしかたないところか。
また猫の軽やかな動きをつくるためもあってか、踊りに、人間の身体の重さが感じられない。いやそもそもバレーなどはいかにして重力に逆らうかを課題にするのだから無重力こそ踊りの到達点かもしれないが、しかし舞踏は重力にさからいつつ重力を感じさせるという相反する要素を共存させると思う。
だが、ここでは猫のダンスということで、むしろしなやかさ、柔軟さ、軽さ、スピードなどを重視するために、舞踏の重さというか存在感が希薄なように思われる。それは、いっぽうで猫らしさを示す超絶ダンスかもしれないが、もういっぽうではCG処理による(実際はそうでなくても)虚構的ゼログラヴィティになるのが違和感となって観客に残る。もちろん感じ方には個人差があるだろう。また、違和感マックスでもワースト映画ではない。
あと『キャッツ』のなかで歌われる曲が、有名な「メモリー」以外にあまり耳に残らない。というか『キャッツ』の売りは、この「メモリー」だけで、それ以外の曲は、みんな同じに聞こえるのが残念。そこに不満が残るといえば残るのだが、だからといってワースト映画では絶対にない。
あとネットでこの映画を酷評している***どもの偏差値の低いコメントみていると、それだけでBook of 何とかができるのではないかとも思った。
たとえば
あ、三つ目の名前ってのがわからなくてモヤモヤしてしまったのですが、血統書のようなものなのでしょうか?最後の猫の扱い方って説明に騙されて、結局わかんなかったです。ちなみにガンダルフは灰色のガンダルフ、白のガンダルフ、ミスランディア、サルクーンと、いっぱい名前があります。
三つ目の名前については、次の記事で触れるのだが、この発想の貧困さ。あなたはこの映画を観に来なくていい人です。
またたとえば
猫を猫視点で見ている感じを出したかったのか、カメラがずっと揺れっぱなしなので、乗り物酔いとかひどい人は気をつけてください。戦争ドキュメンタリー以来の画面酔いをしました。
私は乗り物酔いが酷い方なのですが、序盤から揺れまくりでそこが本当にキツかったです。4Dより全然気持ち悪くなりました。
字幕版で観たので、もしかしたら字幕を目で追う視線の移動も悪影響だったかもしれません。
吹き替え版なら少しマシかもしれませんが、なんにせよ観るならば体調は整えて行ってください。
なんだこの偉そうなアドヴァイスは。確かに、カメラワークで酔う人がいることは知っている。で、重要なことは、そういう人は映画を観なくてもいい。別にこの映画に限らず、他の映画もしかり。カメラをずっと固定して長回しをする監督がいるかと思うと、カメラを動かし、ぶれさせて何かを表現しよとする監督がいる。それは映画を観る前にはわからない。ただ、カメラの動きで酔う人は映画館に来てはいけません。世の中、楽しい娯楽はほかにもたくさんあります。わざわざ文句を言うために映画を観る人は、はっきり言ってクソです。人格を疑われ、知能を疑われ、品位を疑われるクソです。
そしてこの同じ人物が、次のようにコメントしている、
うわーーうわうわうわうわうわうわうわ思い出したくない思い出したくない思い出したくない思い出したくない!!!!
もうね、「擬人化したゴキブリが乗ってるケーキ」なんて誰が観たいですか!!?
この映画は猫だけじゃなくてネズミやゴキブリも擬人化していてその生物に合わせて大きさが設定されています。
ネズミはまだ許せるんですよ!
でもゴキブリまで擬人化して、そいつらを踊らせるのは見るに耐えない!
ゴキブリが全生物の中で最も嫌いな自分としては最悪な場面でございます(笑)
これを読むと本当にゴキブリのシーンがグロテスクで怖い、だから酷評されるのもやむなしと思うかもしれないが、べつにネタバレにでもないのに、このゴキブリ・シーンをネタにしている映画評は少ないことからも、ここでグロテスクなまでに誇張しているのは、この映画評者だけであって、実際に見てみれば、ゴキブリたちは小さくて、大きな画面でももっとよくみせてくれと思うほどの扱いで、しかもけっこうエロい。
ちなみにゴキブリはエリオットの原作どおりで、面白い場面。私はアラクロフォビア【アラクノフォビアフォビアの誤記。また意味も「クモ恐怖症」で「昆虫恐怖症」の意味はない。なお追記参照】で、映画『キングコング』【追記参照】に、人間と同じくらいのサイズの昆虫がいる谷に人間がおちてゆき、そこで昆虫と戦う場面があるのだが、私はそれをみていて本当に失神しそうなった。しかしこの『キャッツ』のゴキブリはまったく怖くないし、グロテスクでもない。
まあ、こういう輩が、気持ち悪いどころか、むしろ可愛らしい場面をグロテスクに誇張して、あおる。あおり運転するバカと同類だといってやりたい。日本もいつから、こんな愚劣なプロパガンダ社会になったのかとほんとうになさけなくなる。
ただ冷静に考えれば、多くの観客を見込んでいる映画というのは、ふだんは映画など見たこともない観客というか、観客の何も値しない*****がゴキブリのように湧いて出て映画館にやってきて、行儀の悪さで周囲に迷惑をかけ、偉そうに好き勝手なことをほざいていくことで映画ファンを不快にさせるのだろう。しかも、だいたい低俗な人間であるにもかかわらず、お上品ぶって、びっくりするほどのピューリタンで、ただただむかつく。
アメリカの映画評論家という偏差値の低い人種が酷評しているからといって、ふだんは映画館など行かない、ミュージカル映画など見たこともない人間が映画館に足を運んで、本来なら、彼らの知性にも感性にもおよそそぐわない作品を、わかったふりというか、批判することで通ぶっている。ゴキブリがグロテスクだといっているお前がゴキブリだぞ。
また猫がごみ箱をあさるのは気持ち悪いとか、けなすコメンテイターが、完全に、発想が富裕層なのも気になる。ここに出てくる猫は、映画の冒頭で白猫のヴィクトリアが飼い主から捨てられるところからもわかるように、飼い猫もいるが、ほとんどは捨てられた野良猫である。さらに原作を読むとわかるのだが、出てくるのは犯罪者猫が圧倒的に多い。マキャヴィティが総元締めなのだが、とにかく夜の闇に蠢く犯罪者とホームレスたちの裏社会の話である。ロンドン市民生活が猫に置き換えられているのではなく、ロンドンの半地下あるいは地下生活の世界が猫に置き換えられている。ある意味、ユーモアの仮面のなかに、パラサイトたちの生態が透けて見えるのである。
そういう意味で、ミュージカルとしてはロイド・ウェーバーのミュージカルというよりもスティーヴン・ソンドハイムのミュージカルに近いような気がする。実際、この野良猫、ホームレス猫、泥棒猫たちの世界は、あと一歩で、ジョーカーの世界へと変貌をとげてもおかしくないからだ(すでに『パラサイト』の世界である)。それができなかったのは、原作のせいである。つづく
追記
この記事のなかで、昆虫恐怖症をアラクノフォビアと書いたが、正確にはというか、そもそもアラクノフォビアarachnophobiaは、クモ恐怖症で、昆虫恐怖症はエントモフォビアentomophobiaであった。『アラクノフォビア』という映画があった、このクモ恐怖症というむつかしい英単語は、「あら・くも(蜘蛛)フォビア」と記憶できると思いついた、だたそれだとまちがって「アラクノ」というべきところ「アラクモ」と思わず言ってしまいそうで、要注意と思っていたら、いつのまにか「昆虫恐怖症」の意味に頭のなかでなってしまった。またもボケが。
等身大の昆虫が出てきて、見ていて失神しそうになった映画は、ピーター・ジャクソン監督の『キングコング』(2005)。トム・ヒドルストン、ブリー・ラーソン、Miyaviらが出演していた『キングコング 髑髏島の巨神』(2017)にも巨大昆虫は登場するが、見上げるような大きさで、大きすぎて、昆虫恐怖症的な怯えはなかった。
posted by ohashi at 23:12| 映画
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2020年01月29日
『リチャード・ジュエル』
クリント・イーストウッド監督の実録物、英雄から犯人へと仕立て上げられそうになった冤罪物。実際の事件とその経過を、単純化しすぎているきらいはあるが、うまくまとめた映画という評価があったが、まあ単純化はどんな映画の場合にもあるとしても、むしろ単純化せずに丁寧に作られたという印象のほうが強い。
仕掛けられた爆月物をいち早く見つけ、多くの群集を退避するように誘導したからこそ死傷者が最小限にくいとめた、まさに英雄的人物が、一夜にして(正確には3日後くらいだが)犯人扱いされ(第一容疑者扱いされ)、あやうくめ逮捕されそうになって、映画でサム・ロックウェル扮する、やさぐれ敏腕弁護士に助けられるという話だが、リチャード・ジュエルが最後に無罪を勝ち取ることは最初からわかっているから意外性はないというコメント(べつにけなしているコメントではない)もあったが、それはそうだが、この人物、いくら無実であっても、あるいは絶対に爆弾テロリストではないとわかるのだが、しかし、その趣味とか、境遇とかで、弁護するのは、相当たいへんだと思うし、もし目をつけられたら、無実でも犯人に仕立て上げられそうな人物である(かくいう私も一時期、ジュエルと同様に、母親と暮らしている独身のデブだったことがあって、ほんと、ひとごとではなかった)。
それに爆弾テロリスト、凶悪犯扱いしているFBI捜査陣に対して、みずから警官にあこがれているリチャードは、あろうことか協力してしまうのである。予告編にもあった電話で爆発予告した犯人と同じ文言を言って録音されそうになる場面など、驚きあきれるしかない。しかしポイントは、どんなに疑われても警察やFBI権力を正義のエージェントとして信じている実直さであって、そのような庶民を情け容赦なく悪人に仕立て上げる権力のメディアの悪意がきわだつことになる。
おそらく事件は、たんに現場にいたFBIの捜査官の怒りと焦りと功名心による見込み捜査、そしてメディアへの意図的な情報漏えいというのではなく(実際、映画のなかのFBIのショー捜査官は架空の人物)、テロ事件の犯人をあげるための国の威信をかけての捜査で、冤罪覚悟の見込み捜査ではなかったかと思う。メディアへの情報漏えいも、女性記者の色仕掛けにあったからではなく、最初から承知のうえでの意図的なものであっただろうし、メディアもそれをスクープとして垂れ流しただけであろう。
映画のなかで犯人をでっちあげようとしたFBI捜査官と英雄を犯人扱いした女性記者がどうなったのか、なにも示されていないことへの不満を述べるコメントがあったが、今述べたようにFBI捜査官は架空の人物なので、その後、どうなったかどうかも関係ない。たとえジュエルが捜査対象からはずされ実質無罪であることが確定しても、それでもワルだと決めつけているこの捜査官の推定有罪姿勢は、ある意味、FBI捜査官の姿勢のメタファーでもあるのだろう。
いっぽう女性記者のその後も、描かれていない。リチャード・ジュエルの母親のスピーチを聞いて涙ぐんでいた女性記者キャシー・スクラッグス。彼女が、その後、ジュエル母子になにか手を差し伸べるようなことをするのではないかとも思ったが、そうなると彼女を演じているオリヴィア・ワイルド、すごいもうけ役をもらったことにはならないかと思ったが、そうではなく、涙ぐんだあとの彼女は、それで映画からは消えた(オリヴィア・ワイルドの近作は、このブログでも取り上げている『ライフ・イットセルフ』)
彼女が色仕掛けでFBI捜査官から情報をもらったところがあるということで物議をかもしだしたようだ。現時点で亡くなっている彼女からの反論なり弁解なりができないので、一方的な決めつけという非難もあるようだが、本来明かしてはならない捜査情報なので、不正な手段で情報をとったか、あるいは情報・印象操作しようとしたFBIと共謀関係にあることはまちがいなく、色仕掛けは、そのメタファーでもあろうが、同時に、FBIの陰謀から注意をそらしているともいえないことはない。そうした女性の色仕掛けという、紋切り型の女性差別的なイメージによって女性ジャーナリストを誹謗中傷しつつ、映画は別の可能性を隠蔽したかもしれない――隠蔽されたのは、FBIが組織ぐるみで情報漏えいしたのではないかという可能性だが。
実際の女性記者は、最初、英雄を犯人へ転落させるスクープをものにしたことで、ある意味「英雄」(「ヒーロー」という英語は女性にも使うようだが)視された。しかし結局、冤罪の片棒を担いだということで非難されたのであろうと想像はつく。彼女もまた現実のジュエルと同じく、英雄から悪役へと転落した。詳しいことは何もわからないが、ただ、おそらくそこから立なおれなかったのではないかと思う。彼女は薬物過剰摂取ですでに死んでいる。
ネットなどの映画評では、警察権力とメディアという二つの権力による暴走あるいは暴力は1996年時点の過去のものとみなしているものもあったが、むしろ、この映画で描かれたような問題は、少しも改善されていない。
ある映画評では、この映画を高く評価して(その内容は説得力のある、りっぱなものだったが)最後に、年表を出してこうまとめていた。この年表はこの映画で扱われた事件の年表だけではなく、アトランタの事件のすぐ前に日本でも起きた「1994年6月27日、長野県で松本サリン事件で容疑者扱いされた河野義行氏について」も触れていた。実際、松本サリン事件では、あるい意味、このリチャード・ジュエル事件と共通するところがあり、鋭い対置だと思った。
ところが最後にこの年表は、カルロス・ゴーンのことを予告もなく出してくる
これには唖然とした。カルロス・ゴーンを推定無罪ではなく推定有罪として人権無視の拘束をつづけた日本の検察の流した情報をうのみにしている、というか、検察の発表をうのみにしていいのだろうかと、この映画をみて思わないのだろうか。
ゴーンの話をもってくるのは、もうひとつのアナロジーとして、面白いとは思った。しかし「カルロス・ゴーン容疑者は逃亡し、捜査協力せず、英雄ではありません」と書いてあって、こいつは*****だと思った。ゴーンは、リチャード・ジュエルと同様、まぎれもなく日産を立て直した英雄だった(ジェイルは3日で英雄の座から転落させられたが、ゴーンは相当長い間英雄視されていた)。
捜査協力というのは、自分が当事者ではないとき、目撃者とかいうような場合、協力するのは市民の義務だが、警察当局が、自分を犯人に仕立て上げようとしているときには、何もしていないのなら、絶対に「捜査協力」してはいけない。「捜査協力」するとは、自分が犯人でごさいますと、警察なり検察の意向を忖度して、無実でも罪をかぶることでしかない。実際、冤罪事件での偽りの「自供」というのは、取り調べられる側が、警察に「捜査協力」して、警察が望むような自供をした結果にほかならない。この映画でも弁護士は、捜査協力をするなとアドヴァイスしている。捜査協力するとは、おまえはFBIに怒っていいないのか、と。
リチャード・ジュエルの場合も、カルロス・ゴーンの場合も、検察の情報をメディアも検証もせずに、垂れ流しているだけである。検察とメディアの共謀である可能性を少しは考えろよと言ってやりたい。完全に検察目線ではないか。完全に冤罪まっしぐらのクソ野郎ではないか。
さらにいうとカルロス・ゴーンは、リチャード・ジュエルと異なりテロ容疑・殺人容疑で逮捕されたわけではない。カルロス・ゴーンの罪がどのようなものであれ、推定有罪の原則にたって弁護士もつけられない非人道的な取り調べは、この映画でみるアメリカの取り調べよりも劣っている。
実際そうなのだ。アメリカの捜査当局や司法は、リチャード・ジュエルの事件のようなことがあっても、厳正かつ公平なものというイメージがあるが、これに対して日本の司法は国際的にみればクソであり、中国並みと思われている。私は、日本の司法についてそうは思わないが、国際的にはアジアの独裁国家のそれと同じという悪いイメージがついていることは確かであり、今回のゴーン逮捕・拘留、弁護士も付かない取り調べということで、悪いイメージをしっかり定着させた。
この映画では、リチャード・ジュエルがFBIの捜査官たちに言い放った言葉が胸に響くが、実は同じことをカルロス・ゴーンもレバノンで日本の検察にむけて発信したではないか。ゴーンは逃げて当然である。そしてかつて告発されたフジモリ大統領をチリに返さなかった日本の司法当局が、結局、何をいっても無駄である。というか、せっかくこの映画をほめていながら、完全に警察・検察目線で、告発され迫害される被害者の側に立っていないこの****コメンテイターは、冤罪製造マシーンそのものである。
もうひとつ、これもこの映画を褒めていて、最後に一言こう書いてある
とあるのだが、これは報道関係一般にむけて語っているのだろうか。そうともとれる。メディアと警察批判のこの映画の試写会をメディア主宰していることの違和感ということだろうか。たとえば『新聞記者』という映画があったが、その試写会を、内閣府や内閣調査室が主催して行なっていたら、たしかに違和感がある。内閣府の陰謀(それも実際に暴露されている陰謀)を批判する映画を内閣府が主催して試写会を開催することは、もしそんなことがあったらおかしい。
しかし、このコメントはメディア、報道関係者一般にむけてのものであるとも、テレ朝に向けたものでもあるともとれる。テレ朝の社長は安倍のお友達だから現場の報道関係者がどんなに頑張っても、上からの圧力でつぶされる可能性は高い。しかし、ではテレ朝以外のテレビ局は偏向報道ではないというのなら、あなた、自分の頭のなかをよく掃除したほうがいい。ただでさえ少ない理性の欠片をどうか失わないでほしい。
今現在、東出昌大と唐田えりの不倫バッシングが続いている。不倫は犯罪ではない。当事者間の問題で、姦通罪というようなものはない。不倫を刑事事件の犯罪者のごとく非難する日本の道徳ファシズムは、日本が、それこそタリバンに支配されたのではないかと疑わせる。
本人たちが認めていることをいいことに、決定的証拠のようなものはなくても、勝手な推測で言いたい放題である。結局、リチャード・ジュエルが犯人扱いされた1996年のアトランタあるいは米国の状況となんら変化がない。映画館を出れば、映画のなかと同じ光景がひろがっているのだ。
ちなみにテレビ朝日は、自局で東出出演のドラマを放送中でもあって、この件に関して、犯罪的な愚劣な不倫報道というメディア暴力に加担していない。もしそれをもって報道姿勢が偏っている、人材教育がなっていないと批判するなら、あなた自身の人材教育をした人間の顔がみたいものだ。唯一の救いは、こうした不倫報道に、批判も出てきていることである。映画『リチャード・ジュエル』が、不倫報道をふくめメディア暴力――もちろん検察のフェイク――への批判的視座をもたらしてくれたらすばらしいだろう。とはいえいま引用したコメンテイターのコメント見る限り、学習障害者はけっこいるのだとわかるのだが。
なお結末が最初からわかっている映画とはいえ、事実は小説/映画よりも奇なり。リチャード・ジュエルも、もともと心臓疾患があったのかもしれないし、日ごろの不摂生がたったのかもしれないが、40代の若さで死んでいるし、記者のキャシー・スクラッグも薬物過剰摂取で、真犯人が現れる前に、20世紀に死んでいる。誰も、長く英雄あるいは勝者にとどまらなかった。おそらく諸悪の根源たるFBIの関係者だけが責任を追及されることなく出世したのではないかと思われる。どこの国でも同じかもしれないが。
仕掛けられた爆月物をいち早く見つけ、多くの群集を退避するように誘導したからこそ死傷者が最小限にくいとめた、まさに英雄的人物が、一夜にして(正確には3日後くらいだが)犯人扱いされ(第一容疑者扱いされ)、あやうくめ逮捕されそうになって、映画でサム・ロックウェル扮する、やさぐれ敏腕弁護士に助けられるという話だが、リチャード・ジュエルが最後に無罪を勝ち取ることは最初からわかっているから意外性はないというコメント(べつにけなしているコメントではない)もあったが、それはそうだが、この人物、いくら無実であっても、あるいは絶対に爆弾テロリストではないとわかるのだが、しかし、その趣味とか、境遇とかで、弁護するのは、相当たいへんだと思うし、もし目をつけられたら、無実でも犯人に仕立て上げられそうな人物である(かくいう私も一時期、ジュエルと同様に、母親と暮らしている独身のデブだったことがあって、ほんと、ひとごとではなかった)。
それに爆弾テロリスト、凶悪犯扱いしているFBI捜査陣に対して、みずから警官にあこがれているリチャードは、あろうことか協力してしまうのである。予告編にもあった電話で爆発予告した犯人と同じ文言を言って録音されそうになる場面など、驚きあきれるしかない。しかしポイントは、どんなに疑われても警察やFBI権力を正義のエージェントとして信じている実直さであって、そのような庶民を情け容赦なく悪人に仕立て上げる権力のメディアの悪意がきわだつことになる。
おそらく事件は、たんに現場にいたFBIの捜査官の怒りと焦りと功名心による見込み捜査、そしてメディアへの意図的な情報漏えいというのではなく(実際、映画のなかのFBIのショー捜査官は架空の人物)、テロ事件の犯人をあげるための国の威信をかけての捜査で、冤罪覚悟の見込み捜査ではなかったかと思う。メディアへの情報漏えいも、女性記者の色仕掛けにあったからではなく、最初から承知のうえでの意図的なものであっただろうし、メディアもそれをスクープとして垂れ流しただけであろう。
映画のなかで犯人をでっちあげようとしたFBI捜査官と英雄を犯人扱いした女性記者がどうなったのか、なにも示されていないことへの不満を述べるコメントがあったが、今述べたようにFBI捜査官は架空の人物なので、その後、どうなったかどうかも関係ない。たとえジュエルが捜査対象からはずされ実質無罪であることが確定しても、それでもワルだと決めつけているこの捜査官の推定有罪姿勢は、ある意味、FBI捜査官の姿勢のメタファーでもあるのだろう。
いっぽう女性記者のその後も、描かれていない。リチャード・ジュエルの母親のスピーチを聞いて涙ぐんでいた女性記者キャシー・スクラッグス。彼女が、その後、ジュエル母子になにか手を差し伸べるようなことをするのではないかとも思ったが、そうなると彼女を演じているオリヴィア・ワイルド、すごいもうけ役をもらったことにはならないかと思ったが、そうではなく、涙ぐんだあとの彼女は、それで映画からは消えた(オリヴィア・ワイルドの近作は、このブログでも取り上げている『ライフ・イットセルフ』)
彼女が色仕掛けでFBI捜査官から情報をもらったところがあるということで物議をかもしだしたようだ。現時点で亡くなっている彼女からの反論なり弁解なりができないので、一方的な決めつけという非難もあるようだが、本来明かしてはならない捜査情報なので、不正な手段で情報をとったか、あるいは情報・印象操作しようとしたFBIと共謀関係にあることはまちがいなく、色仕掛けは、そのメタファーでもあろうが、同時に、FBIの陰謀から注意をそらしているともいえないことはない。そうした女性の色仕掛けという、紋切り型の女性差別的なイメージによって女性ジャーナリストを誹謗中傷しつつ、映画は別の可能性を隠蔽したかもしれない――隠蔽されたのは、FBIが組織ぐるみで情報漏えいしたのではないかという可能性だが。
実際の女性記者は、最初、英雄を犯人へ転落させるスクープをものにしたことで、ある意味「英雄」(「ヒーロー」という英語は女性にも使うようだが)視された。しかし結局、冤罪の片棒を担いだということで非難されたのであろうと想像はつく。彼女もまた現実のジュエルと同じく、英雄から悪役へと転落した。詳しいことは何もわからないが、ただ、おそらくそこから立なおれなかったのではないかと思う。彼女は薬物過剰摂取ですでに死んでいる。
ネットなどの映画評では、警察権力とメディアという二つの権力による暴走あるいは暴力は1996年時点の過去のものとみなしているものもあったが、むしろ、この映画で描かれたような問題は、少しも改善されていない。
ある映画評では、この映画を高く評価して(その内容は説得力のある、りっぱなものだったが)最後に、年表を出してこうまとめていた。この年表はこの映画で扱われた事件の年表だけではなく、アトランタの事件のすぐ前に日本でも起きた「1994年6月27日、長野県で松本サリン事件で容疑者扱いされた河野義行氏について」も触れていた。実際、松本サリン事件では、あるい意味、このリチャード・ジュエル事件と共通するところがあり、鋭い対置だと思った。
ところが最後にこの年表は、カルロス・ゴーンのことを予告もなく出してくる
……
1996年10月26日、FBIがリチャード・ジュエルは捜査対象から外れたことを発表
しました。
2003年5月31日、元米陸軍兵士で爆弾に詳しいエリック・ルドルフが犯人として
逮捕されました。
カルロス・ゴーン容疑者は逃亡し、捜査協力せず、英雄ではありません。
カルロス・ゴーンが逃亡を計画し、逃亡を実行し、カルロス・ゴーンの弁護士である弘中惇一郎弁護士と高野隆弁護士は、初公判の前に「ノー・コメント」と言い残して、辞任しました。カルロス・ゴーンが、「弘中惇一郎弁護士と高野隆弁護士のことを、ウスノロで、間抜けの、アホ野郎」とでも言ってくれれば納得しますが、何も言わないなら、共犯ではないかと思います。日本には、弘中惇一郎弁護士と高野隆弁護士のような弁護士がいるから、日本では取り調べ中に弁護士を同席することすら権利として認めるわけにはいきません。
パンフレットは、よくできているので、映画を理解したい人にはお勧めできます。
これには唖然とした。カルロス・ゴーンを推定無罪ではなく推定有罪として人権無視の拘束をつづけた日本の検察の流した情報をうのみにしている、というか、検察の発表をうのみにしていいのだろうかと、この映画をみて思わないのだろうか。
ゴーンの話をもってくるのは、もうひとつのアナロジーとして、面白いとは思った。しかし「カルロス・ゴーン容疑者は逃亡し、捜査協力せず、英雄ではありません」と書いてあって、こいつは*****だと思った。ゴーンは、リチャード・ジュエルと同様、まぎれもなく日産を立て直した英雄だった(ジェイルは3日で英雄の座から転落させられたが、ゴーンは相当長い間英雄視されていた)。
捜査協力というのは、自分が当事者ではないとき、目撃者とかいうような場合、協力するのは市民の義務だが、警察当局が、自分を犯人に仕立て上げようとしているときには、何もしていないのなら、絶対に「捜査協力」してはいけない。「捜査協力」するとは、自分が犯人でごさいますと、警察なり検察の意向を忖度して、無実でも罪をかぶることでしかない。実際、冤罪事件での偽りの「自供」というのは、取り調べられる側が、警察に「捜査協力」して、警察が望むような自供をした結果にほかならない。この映画でも弁護士は、捜査協力をするなとアドヴァイスしている。捜査協力するとは、おまえはFBIに怒っていいないのか、と。
リチャード・ジュエルの場合も、カルロス・ゴーンの場合も、検察の情報をメディアも検証もせずに、垂れ流しているだけである。検察とメディアの共謀である可能性を少しは考えろよと言ってやりたい。完全に検察目線ではないか。完全に冤罪まっしぐらのクソ野郎ではないか。
さらにいうとカルロス・ゴーンは、リチャード・ジュエルと異なりテロ容疑・殺人容疑で逮捕されたわけではない。カルロス・ゴーンの罪がどのようなものであれ、推定有罪の原則にたって弁護士もつけられない非人道的な取り調べは、この映画でみるアメリカの取り調べよりも劣っている。
実際そうなのだ。アメリカの捜査当局や司法は、リチャード・ジュエルの事件のようなことがあっても、厳正かつ公平なものというイメージがあるが、これに対して日本の司法は国際的にみればクソであり、中国並みと思われている。私は、日本の司法についてそうは思わないが、国際的にはアジアの独裁国家のそれと同じという悪いイメージがついていることは確かであり、今回のゴーン逮捕・拘留、弁護士も付かない取り調べということで、悪いイメージをしっかり定着させた。
この映画では、リチャード・ジュエルがFBIの捜査官たちに言い放った言葉が胸に響くが、実は同じことをカルロス・ゴーンもレバノンで日本の検察にむけて発信したではないか。ゴーンは逃げて当然である。そしてかつて告発されたフジモリ大統領をチリに返さなかった日本の司法当局が、結局、何をいっても無駄である。というか、せっかくこの映画をほめていながら、完全に警察・検察目線で、告発され迫害される被害者の側に立っていないこの****コメンテイターは、冤罪製造マシーンそのものである。
もうひとつ、これもこの映画を褒めていて、最後に一言こう書いてある
あと余談として、今回の試写の主催がテレビ朝日だった。テレ朝関係者、特に報道部は、本作をちゃんと人材育成の教材にしてほしいもの。
とあるのだが、これは報道関係一般にむけて語っているのだろうか。そうともとれる。メディアと警察批判のこの映画の試写会をメディア主宰していることの違和感ということだろうか。たとえば『新聞記者』という映画があったが、その試写会を、内閣府や内閣調査室が主催して行なっていたら、たしかに違和感がある。内閣府の陰謀(それも実際に暴露されている陰謀)を批判する映画を内閣府が主催して試写会を開催することは、もしそんなことがあったらおかしい。
しかし、このコメントはメディア、報道関係者一般にむけてのものであるとも、テレ朝に向けたものでもあるともとれる。テレ朝の社長は安倍のお友達だから現場の報道関係者がどんなに頑張っても、上からの圧力でつぶされる可能性は高い。しかし、ではテレ朝以外のテレビ局は偏向報道ではないというのなら、あなた、自分の頭のなかをよく掃除したほうがいい。ただでさえ少ない理性の欠片をどうか失わないでほしい。
今現在、東出昌大と唐田えりの不倫バッシングが続いている。不倫は犯罪ではない。当事者間の問題で、姦通罪というようなものはない。不倫を刑事事件の犯罪者のごとく非難する日本の道徳ファシズムは、日本が、それこそタリバンに支配されたのではないかと疑わせる。
本人たちが認めていることをいいことに、決定的証拠のようなものはなくても、勝手な推測で言いたい放題である。結局、リチャード・ジュエルが犯人扱いされた1996年のアトランタあるいは米国の状況となんら変化がない。映画館を出れば、映画のなかと同じ光景がひろがっているのだ。
ちなみにテレビ朝日は、自局で東出出演のドラマを放送中でもあって、この件に関して、犯罪的な愚劣な不倫報道というメディア暴力に加担していない。もしそれをもって報道姿勢が偏っている、人材教育がなっていないと批判するなら、あなた自身の人材教育をした人間の顔がみたいものだ。唯一の救いは、こうした不倫報道に、批判も出てきていることである。映画『リチャード・ジュエル』が、不倫報道をふくめメディア暴力――もちろん検察のフェイク――への批判的視座をもたらしてくれたらすばらしいだろう。とはいえいま引用したコメンテイターのコメント見る限り、学習障害者はけっこいるのだとわかるのだが。
なお結末が最初からわかっている映画とはいえ、事実は小説/映画よりも奇なり。リチャード・ジュエルも、もともと心臓疾患があったのかもしれないし、日ごろの不摂生がたったのかもしれないが、40代の若さで死んでいるし、記者のキャシー・スクラッグも薬物過剰摂取で、真犯人が現れる前に、20世紀に死んでいる。誰も、長く英雄あるいは勝者にとどまらなかった。おそらく諸悪の根源たるFBIの関係者だけが責任を追及されることなく出世したのではないかと思われる。どこの国でも同じかもしれないが。
posted by ohashi at 19:09| 映画
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2020年01月28日
『西洋演劇論アンソロジー』訂正とお詫び
『西洋演劇論アンソロジー』
山下純照・西洋比較演劇研究会編
月曜社2019
訂正
先に、このアンソロジーを紹介した際(2020年1月17日の記事)、類書がなく、すぐれた編集をおこなわれたりっぱなアンソロジーであることを称賛した。推薦図書であることに訂正はない。
その際に私がかつて翻訳(共訳)した著作からも一部抜粋が引用されていたことについて、収録されるのはありがたいし名誉なことだが、掲載許可をとったと書いてあることについては解せない。私に対して掲載許可の伺いは来ていなかったと述べた。私としてはもし許可願いがきていたら、すんなり許可していたと思うので、結果についてはなんら問題はないのだが、残念ながら、翻訳者のひとりである私が蚊帳の外に置かれたようなかたちになったのは不快であると述べた。
この内容をお詫びとともに訂正する。
というのも最近、編者の山下純照先生よりメールがあり、この件について説明していただいたのだが、2017年に私のところに掲載許可は来ていた。私はそのとき掲載許可書に署名捺印して返送していたことがわかった。
私の完全に記憶喪失である。いまでも記憶はもどらないのだが、とにかく今も以前も掲載許可はだしていたと思うので、私の記憶喪失であることはまちがいないだろう。
また、このことで、山下先生からは、このぼけ老人のドアホウがと罵られても、ほんとうにおかしくない。それほど弁解の余地なきミスをしてしまった。お詫びの言葉もない。山下先生には丁寧な説明をしていただき、私の記憶喪失を気づかせていただいたこと、恐縮しつつ感謝していると同時に、御迷惑をおかけしたことに対して深くお詫びする次第である。
先の記事で私は、掲載許可をとるのなら、これこれうしたことをすべきだということを述べたが、編者の山下先生は、私が指摘したこと以上に慎重な手続きで、出版社、高橋康也先生のご遺族、そして私に連絡をとり、掲載許可をとられていた。その時は、余計な手間とならないよう私としても迅速に許可したのに、それがいまとなって、ぼけ老人となって、記憶を失い、そのうえ自分が蚊帳の外に置かれているという被害妄想に襲われ、結果として、山下先生に、丁寧に説明していただくという、お手を煩わせることになった。ほんとうに申しわけなく深くお詫びしたい。
くりかえすが、このぼけ老人の大ばか者とののしられてもおかしくないミスをしたこと、にもかかわらず、丁寧な説明をいただいたこと、山下先生にはお詫びと感謝をしたい。
山下純照先生、そして月曜社にも、私の記憶違いによって、御迷惑をおかけしたこと心より陳謝する。また該当記事も書き換えることをお約束する。
追記
以下は、1月28日に山下純照先生にお送りしたメールである。
山下純照 先生
メールありがとうございます。丁寧がご説明をいただき、ほんとうにありがとうございます。
と同時に、すでに掲載許可書を返送していたことを知り、自分の記憶喪失に愕然としました。
このぼけ老人のド阿呆がと罵られても文句の言えない過ちをしたこと、心よりお詫び申し上げます。
さらに私は、自分が蚊帳の外に置かれているなどと、完全に事実とは違う、愚かな被害妄想に陥っていて、
むしろ山下先生のほうが、はるかに不快な思いをされたちがいなく、このことも深くお詫び申し上げます。
掲載許可のために慎重にまた遺漏がないよう尽力されたことについては、深く感銘を受けました。
この件はブログの記事で報告し、先の記事を訂正いたします。
また山下純照先生、西洋比較演劇研究会の皆様、月曜社にご迷惑をおかけしたこと心よりお詫び申し上げます。
大橋洋一
山下純照・西洋比較演劇研究会編
月曜社2019
訂正
先に、このアンソロジーを紹介した際(2020年1月17日の記事)、類書がなく、すぐれた編集をおこなわれたりっぱなアンソロジーであることを称賛した。推薦図書であることに訂正はない。
その際に私がかつて翻訳(共訳)した著作からも一部抜粋が引用されていたことについて、収録されるのはありがたいし名誉なことだが、掲載許可をとったと書いてあることについては解せない。私に対して掲載許可の伺いは来ていなかったと述べた。私としてはもし許可願いがきていたら、すんなり許可していたと思うので、結果についてはなんら問題はないのだが、残念ながら、翻訳者のひとりである私が蚊帳の外に置かれたようなかたちになったのは不快であると述べた。
この内容をお詫びとともに訂正する。
というのも最近、編者の山下純照先生よりメールがあり、この件について説明していただいたのだが、2017年に私のところに掲載許可は来ていた。私はそのとき掲載許可書に署名捺印して返送していたことがわかった。
私の完全に記憶喪失である。いまでも記憶はもどらないのだが、とにかく今も以前も掲載許可はだしていたと思うので、私の記憶喪失であることはまちがいないだろう。
また、このことで、山下先生からは、このぼけ老人のドアホウがと罵られても、ほんとうにおかしくない。それほど弁解の余地なきミスをしてしまった。お詫びの言葉もない。山下先生には丁寧な説明をしていただき、私の記憶喪失を気づかせていただいたこと、恐縮しつつ感謝していると同時に、御迷惑をおかけしたことに対して深くお詫びする次第である。
先の記事で私は、掲載許可をとるのなら、これこれうしたことをすべきだということを述べたが、編者の山下先生は、私が指摘したこと以上に慎重な手続きで、出版社、高橋康也先生のご遺族、そして私に連絡をとり、掲載許可をとられていた。その時は、余計な手間とならないよう私としても迅速に許可したのに、それがいまとなって、ぼけ老人となって、記憶を失い、そのうえ自分が蚊帳の外に置かれているという被害妄想に襲われ、結果として、山下先生に、丁寧に説明していただくという、お手を煩わせることになった。ほんとうに申しわけなく深くお詫びしたい。
くりかえすが、このぼけ老人の大ばか者とののしられてもおかしくないミスをしたこと、にもかかわらず、丁寧な説明をいただいたこと、山下先生にはお詫びと感謝をしたい。
山下純照先生、そして月曜社にも、私の記憶違いによって、御迷惑をおかけしたこと心より陳謝する。また該当記事も書き換えることをお約束する。
追記
以下は、1月28日に山下純照先生にお送りしたメールである。
山下純照 先生
メールありがとうございます。丁寧がご説明をいただき、ほんとうにありがとうございます。
と同時に、すでに掲載許可書を返送していたことを知り、自分の記憶喪失に愕然としました。
このぼけ老人のド阿呆がと罵られても文句の言えない過ちをしたこと、心よりお詫び申し上げます。
さらに私は、自分が蚊帳の外に置かれているなどと、完全に事実とは違う、愚かな被害妄想に陥っていて、
むしろ山下先生のほうが、はるかに不快な思いをされたちがいなく、このことも深くお詫び申し上げます。
掲載許可のために慎重にまた遺漏がないよう尽力されたことについては、深く感銘を受けました。
この件はブログの記事で報告し、先の記事を訂正いたします。
また山下純照先生、西洋比較演劇研究会の皆様、月曜社にご迷惑をおかけしたこと心よりお詫び申し上げます。
大橋洋一
posted by ohashi at 23:11| 推薦図書
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2020年01月26日
翻訳の闇
Tomato Tomato 2
良い翻訳の基準はいろいろあると思うが、正しい翻訳あるいは適切な翻訳というのはどういうものなのだろうか。私がたまたま目にした、そして私自身、そうした経験がある、ひとつの事例がここにある【私自身の経験は後日】。
ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン『哲学探究』丘澤静也訳(岩波書店2013)である。この翻訳は良い翻訳だと思うので、誰にも推奨できるし、私自身、ヴィトゲンシュタインタインの『哲学探究』が言及されたり引用されたりする翻訳をするときには、もっぱらこの版を参照する。また従来第二部とされてきたもの、あの「犬が怒るところは想像できても、どうして犬が希望をもつところは想像できないのか」という考察で始まる部分(ちなみにヴィトゲンシュタインの動物に関する言及はいつも物議を醸しだすのだが)も、排除することなく翻訳されていてありがたい。現時点における翻訳の決定版だと自信をもっていうことができる。460ページで3400円[税抜]というのもありがたい。
訳者あとがきには、この翻訳を野家啓一氏にみてもらったとある。野家啓一氏は、この翻訳の冒頭に「『哲学探究』への道案内」pp.vii―xxivという優れた解説を寄せられている。どういう経緯で、野家氏が「道案内」を書き、翻訳をチェックすることになったのか、何も知らないし、また興味もない。ただ問題というか、驚くべきことは、その野家啓一氏が、丘澤静也氏に渡したのが「A4で34枚の校閲メモ」だとあとがきに書かれていることだ(p.466)。
34枚というのがどれくらいの分量なのかわからないのだが、たとえば1枚に収まるものを34枚に水増ししたということはふつう考えられないので、あまり多すぎないように34枚に収めたということが真相だろう。とすれば、これは分量的に多い方だと判断できる。
問題は、丘澤氏の翻訳、たぶん最終稿ではなかったとしても、かりに下書き、草稿程度の翻訳文を対象とした校閲であっても、翻訳者として定評のある丘澤氏が、そんなにたくさんの校閲メモをもらうような翻訳をしたとはとても考えられないことだ。
もちろんいくらドイツ語翻訳者として優れていても、その翻訳は定評があっても、ヴィトゲンシュタインの哲学分野の著作の翻訳は専門家からみたら不備があるということは考えられないでもない。しかし丘澤氏は、すでにヴィトゲンシュタインの文章を翻訳されているし、それ以外にも哲学書、思想書の翻訳もあって、ずぶの素人の翻訳者とはまちがってもいえない。なるほどドイツ語を学習し始めたばかりの学生だったら、34ページにも及ぶ校閲メモをもらうような翻訳しかできなくても当然なのだが、ベテランの丘澤氏が、たとえ誤訳ではなくとも不適切な訳語や訳文を使って翻訳したとは、どうしても考えられないのである。
もちろん、どんな翻訳者も完璧ではない。また翻訳者は自分が誤訳しているとか、不適切な翻訳をしていると考えて翻訳しているわけではないから、他者によって不備を指摘してもらう必要がある。私も昨年の10月にジュディス・バトラーの『分かれ道』というけっこう大部の翻訳を共訳で出版したが、共訳者の岸まどかさんは、信頼できるとても頭のいい人で、私の分担部分に対しても、もし校閲メモとして文書化したら、それこそ34ページどころか100ページに及んでもおかしくない分量の指摘をいただいた。誤訳の指摘もあるし、私がニュアンスをとりそこねている部分とか、その他、不適切な訳語や不統一のところなどに対して多くの指摘をいただいた。若手の共訳者から、そんなふうにダメ出しをされて恥ずかしくないのかと言われれば、それは恥ずかしいのだが、誰もが自分の翻訳の不備はわからない。だから他者の眼がどうしても必要で、またありがたい。私の場合、共訳者や編集者からの指摘がなければ、これまでも翻訳を出版できなかったことは事実である。
だから丘澤静也氏も同じだと言うつもりは毛頭ない。野家氏の指摘は、それは語訳の指摘もあったかもしれないが、基本的に丘澤氏が誤訳するとは思えないこと、あってもごく少数であると思われるから、なにか不適切なところがあったのだろう。とはいえヴィトゲンシュタインの文章である。ドイツ語で読んだわけではないが、日本語と英語で読む限りのヴィトゲンシュタインは平易な文章で思考している。いわゆる英国の日常言語学派ならではの発想と表現というべきものだろうが、専門用語やジャーゴンを使うことのない思考なり文章に対して、適切な訳語、専門家的な訳語などあろうはずもない。だから何がそんなに問題だったのか不思議なのである。
しかし、さらに驚くべきは、丘澤静也氏が、野家啓一氏の指摘・提案に従わなかったことである。訳者あとがきにこう書いてある――「野家さんからA4で34枚の校閲メモをもらいながら、原稿の手直しは私の判断でやった。つまり、野家さんの指摘・提案どおり直した個所もあるが、それ以外に、つぎのような3種類の箇所がある。(1)本来なら、野家さんの指摘・提案に連動させて手直しすべきところなのに、手直ししなかった箇所。(2)逆に、手直しすべきではないところなのに、指摘・提案に連動させて手直ししてしまった箇所。(3)指摘・提案にもかかわらず、手直ししなかった箇所。というわけで、この『哲学探究』の翻訳で具合が悪いところは、私のせいである」(p.466)。
上記の(2)はよくあることである。指摘された問題について、自分でも発見して、さらに手直しすることはある。これは珍しくない。(1)の場合、さらに連動して手直ししてもよかったところを放置、また(3)では、提案・指摘そのものを無視ということである。これでお二人の関係が険悪なものにならなかったら、むしろお二人の寛容さにはほんとうに頭が下がる。というのも丘澤氏の訳者あとがきの、いま引用した部分は、怒っているのだと思うからである――丘澤氏の人柄を知っているわけではなく、怒ることのない温厚な性格の方だとしても、この文章は怒っていると思われるのだ。たぶん、指摘が多すぎるし、それは、定着した訳語なり翻訳をしないことへの、専門家の上から目線での指摘であったり、翻訳者の創造性を素人っぽい訳と認めなかったりと……、いや、これ以上、勝手な推測を書いていたら、丘澤氏から、ほんとうに怒りをかうかもしれないのでやめるが、たとえ、たんなる翻訳者のプライドの問題だったとしても、私は個人的には丘澤氏の、この姿勢というか潔さには拍手喝采を送りたいし、私もたぶん同じことをすると思う。
というのも、この丘澤静也訳『哲学探究』は、そういうわけで、提案・指摘を忠実にすべて反映していないのだが、読んでみて、なにか違和感を感ずるところはない。すぐれたりっぱな翻訳である。そう思うのは私だけではないと思う。となると、この翻訳を、哲学の専門家なりヴィトゲンシュタインの専門家が手に取って、この翻訳はだめですね、おかしなところがいっぱいあると、30枚くらいの校閲メモを翻訳者か出版社に渡したとしたら、私たちは、その専門家なるものがいったいどういう頭の構造をしているのかといぶかるのではないだろうか。私は専門家というのは誰でありバカで半分発狂していると思うのだが、同時に、その狂気にも論理があって、その正解・不正解、適切・不適切の判断基準なり根拠は知りたいと思う。
とはいえ34枚の校閲メモをよこしてきたという野家啓一氏は、そんな変な人ではないどころか優れた哲学者であり専門家であって、変人扱いなどできる人では決していない。野家氏には、一度、私の翻訳を新聞(一般紙)で書評していただいたことがあったのだが、限られた字数の新聞の書評なので誰が書評しても、たいしたことは言えないどころか、書評者の勝手な思い込みが書かれて終わるような場合が多いのだが、野家氏の書評は、ほんとうに的確に本の内容を短くまとめその長所も的確に指摘されていて、この人は、私よりもまちがいなく頭がいいと認めざるを得なかった。その野家氏の校閲メモは、専門家の硬直化した思考なり判断なりの提示と片づけられないものがある。そして専門家の前では、なぜ、どんなにベテランの優れた翻訳者でも、外国語の初学者なみの能力しかない者にうつるのか、そして翻訳者にとってみれば、なぜこんなにずぶの素人扱いされなければいけないのか。そのメカニズムは、ほんとうに謎であり、また知りたいものである。
これについて私は答えをもっていないが、さらに考えてみたいとは思っている。
良い翻訳の基準はいろいろあると思うが、正しい翻訳あるいは適切な翻訳というのはどういうものなのだろうか。私がたまたま目にした、そして私自身、そうした経験がある、ひとつの事例がここにある【私自身の経験は後日】。
ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン『哲学探究』丘澤静也訳(岩波書店2013)である。この翻訳は良い翻訳だと思うので、誰にも推奨できるし、私自身、ヴィトゲンシュタインタインの『哲学探究』が言及されたり引用されたりする翻訳をするときには、もっぱらこの版を参照する。また従来第二部とされてきたもの、あの「犬が怒るところは想像できても、どうして犬が希望をもつところは想像できないのか」という考察で始まる部分(ちなみにヴィトゲンシュタインの動物に関する言及はいつも物議を醸しだすのだが)も、排除することなく翻訳されていてありがたい。現時点における翻訳の決定版だと自信をもっていうことができる。460ページで3400円[税抜]というのもありがたい。
訳者あとがきには、この翻訳を野家啓一氏にみてもらったとある。野家啓一氏は、この翻訳の冒頭に「『哲学探究』への道案内」pp.vii―xxivという優れた解説を寄せられている。どういう経緯で、野家氏が「道案内」を書き、翻訳をチェックすることになったのか、何も知らないし、また興味もない。ただ問題というか、驚くべきことは、その野家啓一氏が、丘澤静也氏に渡したのが「A4で34枚の校閲メモ」だとあとがきに書かれていることだ(p.466)。
34枚というのがどれくらいの分量なのかわからないのだが、たとえば1枚に収まるものを34枚に水増ししたということはふつう考えられないので、あまり多すぎないように34枚に収めたということが真相だろう。とすれば、これは分量的に多い方だと判断できる。
問題は、丘澤氏の翻訳、たぶん最終稿ではなかったとしても、かりに下書き、草稿程度の翻訳文を対象とした校閲であっても、翻訳者として定評のある丘澤氏が、そんなにたくさんの校閲メモをもらうような翻訳をしたとはとても考えられないことだ。
もちろんいくらドイツ語翻訳者として優れていても、その翻訳は定評があっても、ヴィトゲンシュタインの哲学分野の著作の翻訳は専門家からみたら不備があるということは考えられないでもない。しかし丘澤氏は、すでにヴィトゲンシュタインの文章を翻訳されているし、それ以外にも哲学書、思想書の翻訳もあって、ずぶの素人の翻訳者とはまちがってもいえない。なるほどドイツ語を学習し始めたばかりの学生だったら、34ページにも及ぶ校閲メモをもらうような翻訳しかできなくても当然なのだが、ベテランの丘澤氏が、たとえ誤訳ではなくとも不適切な訳語や訳文を使って翻訳したとは、どうしても考えられないのである。
もちろん、どんな翻訳者も完璧ではない。また翻訳者は自分が誤訳しているとか、不適切な翻訳をしていると考えて翻訳しているわけではないから、他者によって不備を指摘してもらう必要がある。私も昨年の10月にジュディス・バトラーの『分かれ道』というけっこう大部の翻訳を共訳で出版したが、共訳者の岸まどかさんは、信頼できるとても頭のいい人で、私の分担部分に対しても、もし校閲メモとして文書化したら、それこそ34ページどころか100ページに及んでもおかしくない分量の指摘をいただいた。誤訳の指摘もあるし、私がニュアンスをとりそこねている部分とか、その他、不適切な訳語や不統一のところなどに対して多くの指摘をいただいた。若手の共訳者から、そんなふうにダメ出しをされて恥ずかしくないのかと言われれば、それは恥ずかしいのだが、誰もが自分の翻訳の不備はわからない。だから他者の眼がどうしても必要で、またありがたい。私の場合、共訳者や編集者からの指摘がなければ、これまでも翻訳を出版できなかったことは事実である。
だから丘澤静也氏も同じだと言うつもりは毛頭ない。野家氏の指摘は、それは語訳の指摘もあったかもしれないが、基本的に丘澤氏が誤訳するとは思えないこと、あってもごく少数であると思われるから、なにか不適切なところがあったのだろう。とはいえヴィトゲンシュタインの文章である。ドイツ語で読んだわけではないが、日本語と英語で読む限りのヴィトゲンシュタインは平易な文章で思考している。いわゆる英国の日常言語学派ならではの発想と表現というべきものだろうが、専門用語やジャーゴンを使うことのない思考なり文章に対して、適切な訳語、専門家的な訳語などあろうはずもない。だから何がそんなに問題だったのか不思議なのである。
しかし、さらに驚くべきは、丘澤静也氏が、野家啓一氏の指摘・提案に従わなかったことである。訳者あとがきにこう書いてある――「野家さんからA4で34枚の校閲メモをもらいながら、原稿の手直しは私の判断でやった。つまり、野家さんの指摘・提案どおり直した個所もあるが、それ以外に、つぎのような3種類の箇所がある。(1)本来なら、野家さんの指摘・提案に連動させて手直しすべきところなのに、手直ししなかった箇所。(2)逆に、手直しすべきではないところなのに、指摘・提案に連動させて手直ししてしまった箇所。(3)指摘・提案にもかかわらず、手直ししなかった箇所。というわけで、この『哲学探究』の翻訳で具合が悪いところは、私のせいである」(p.466)。
上記の(2)はよくあることである。指摘された問題について、自分でも発見して、さらに手直しすることはある。これは珍しくない。(1)の場合、さらに連動して手直ししてもよかったところを放置、また(3)では、提案・指摘そのものを無視ということである。これでお二人の関係が険悪なものにならなかったら、むしろお二人の寛容さにはほんとうに頭が下がる。というのも丘澤氏の訳者あとがきの、いま引用した部分は、怒っているのだと思うからである――丘澤氏の人柄を知っているわけではなく、怒ることのない温厚な性格の方だとしても、この文章は怒っていると思われるのだ。たぶん、指摘が多すぎるし、それは、定着した訳語なり翻訳をしないことへの、専門家の上から目線での指摘であったり、翻訳者の創造性を素人っぽい訳と認めなかったりと……、いや、これ以上、勝手な推測を書いていたら、丘澤氏から、ほんとうに怒りをかうかもしれないのでやめるが、たとえ、たんなる翻訳者のプライドの問題だったとしても、私は個人的には丘澤氏の、この姿勢というか潔さには拍手喝采を送りたいし、私もたぶん同じことをすると思う。
というのも、この丘澤静也訳『哲学探究』は、そういうわけで、提案・指摘を忠実にすべて反映していないのだが、読んでみて、なにか違和感を感ずるところはない。すぐれたりっぱな翻訳である。そう思うのは私だけではないと思う。となると、この翻訳を、哲学の専門家なりヴィトゲンシュタインの専門家が手に取って、この翻訳はだめですね、おかしなところがいっぱいあると、30枚くらいの校閲メモを翻訳者か出版社に渡したとしたら、私たちは、その専門家なるものがいったいどういう頭の構造をしているのかといぶかるのではないだろうか。私は専門家というのは誰でありバカで半分発狂していると思うのだが、同時に、その狂気にも論理があって、その正解・不正解、適切・不適切の判断基準なり根拠は知りたいと思う。
とはいえ34枚の校閲メモをよこしてきたという野家啓一氏は、そんな変な人ではないどころか優れた哲学者であり専門家であって、変人扱いなどできる人では決していない。野家氏には、一度、私の翻訳を新聞(一般紙)で書評していただいたことがあったのだが、限られた字数の新聞の書評なので誰が書評しても、たいしたことは言えないどころか、書評者の勝手な思い込みが書かれて終わるような場合が多いのだが、野家氏の書評は、ほんとうに的確に本の内容を短くまとめその長所も的確に指摘されていて、この人は、私よりもまちがいなく頭がいいと認めざるを得なかった。その野家氏の校閲メモは、専門家の硬直化した思考なり判断なりの提示と片づけられないものがある。そして専門家の前では、なぜ、どんなにベテランの優れた翻訳者でも、外国語の初学者なみの能力しかない者にうつるのか、そして翻訳者にとってみれば、なぜこんなにずぶの素人扱いされなければいけないのか。そのメカニズムは、ほんとうに謎であり、また知りたいものである。
これについて私は答えをもっていないが、さらに考えてみたいとは思っている。
posted by ohashi at 20:07| 翻訳論
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2020年01月23日
ハプスブルグ展
閉会まじかになったハプスブルク展を西洋美術館に観に行く。雨といっても小雨だが、とにかく雨が降っているから人も少ないと思ったが、雨の中をチケット販売窓口に人が並んでいる。最初、あきらめて都立美術館の「ハマスホイとデンマーク絵画」展に行った。その帰りにちらっと西洋美術館を見たら、窓口に長蛇の列はできていない。そのため一応覗いてみることにした。
以前といっても、かなり前だが、中学生か高校生の頃の姪と、ある美術展に行ったところ、口が悪い姪は、混みあっている会場で、これでは絵を見に来たのか、人を見に来たのかわからないと、けっこう大きな声でいうので、やめなさいと、その口をふさごうとしたことがあるが、まあ、人気があって混んでいる絵画展は、人が多くて、ゆっくり見て回ることができない。
演劇では人気の舞台は、チケットがすぐに売り切れて見ることができないことが多いが、チケットが手に入れば満席でもしっかり舞台をみることができる。しかし展覧会の場合、チケットが手に入っても、混雑した会場で、ゆっくり見ることができない。チケットが入手できなければあきらめがつくが、チケットが入手できても悪条件のもとで不満が残る鑑賞というのはどうかと思う。時間を区切って入場制限をする展示会もあるが、西洋美術館では、それもむつかしいのかもしれない。
ハプスブルク展というのは、日本でこれまでことあるごとに行われていて、人気もあったのだと思う。関連する書籍なども出版されることが多く、ある一時期、さほど関心がなかった私も、あるハプスブルク家関連の展覧会を機に、書籍なども買い集め、ハプスブルク家というか神聖ローマ帝国の歴史を勉強したことがある。シェイクスピア時代あたりまでの神聖ローマ帝国の歴史は、それなりに背景知識としてあったが、それ以降の、たとえばゲーテに、神聖ローマ帝国といっても、神聖でもなければ、ローマ的でもなく、帝国ですらないと酷評された時代から第一世界大戦の頃までの歴史はほとんど何も知らないので、それを学んだ。
そのため、たとえばヴィクトル・ユゴーの戯曲『エルナニ』は、当時、大論争を巻き起こしたロマン派の戯曲だが、今読むと、何が問題だったのか全くわからない作品なのだが、その『エルナニ』にはカルロス五世が登場する。もちろんカルロス五世は、ヘンリー八世の一時期は盟友でもあったのだから、シェイクスピア研究者なら知っていて当然なのだが、それでもハプスブル家の歴史の全体をぼんやりとでも把握できるようになると、カルロス五世の位置づけや意義など理解しやすくなる。
ハプスブルク家の女性としてはマリー・アントワネットと、シシーことエリザベート(フランツ=ヨーゼフの皇后)のふたりが有名だが、今回、ふたりの大きな肖像画が来ていた。ヴィジュ・ルブランの有名なマリー・アントワネットの肖像画と、エリザベートの異様に腹部が細い肖像画が来ていた。ハプスブルク家の血が入っているマリー・アントワネットはヴィルジュ・ルブランの美化する筆をもってしても、そのしゃくれあごは隠しようもないのだが、エリザベートはハプスブルク家の血が入っていないぶん美人である。まあ、どちらも非業の死をとげた悲劇のヒロインであることでも人気が高いのかもしれない。
ミュージカル『エリザベート』の日本版(宝塚版も含む)を観ている私にとってはエリザベートの物語はなじみ深いものだが、実は、ミュージカル以前に、ロミー・シュナイダーがシシーを演じた三部作の映画をとおして、ある程度のことは知っていた。とはいえ、ハプスブルク家の話だとは、その頃は、思っていなかった――そもそもハプスブルク家とは何か知らなかったのだから。
なお展覧会ではハプスブルク家が収集した美術品の多くも展示されていて、フランス・ハルツの手になる肖像画もあって(どうしてもフランツ・ハルスと書きそうになる。ファン・ゴッホではなくヴァン・ゴッホのほうがなじみがある私はクソ老人なのだ)、しかもそれははじめてみる肖像画で、私にとっては収穫だったのだが。
あとシシーが死んだあとのフランツ・ヨーゼフの息子夫妻がセルビアで暗殺される。それが第一次世界大戦の引き金になったといわれるが、実は、よくわからない。セルビアは当時のオーストリア=ハンガリー帝国の植民地ではなくとも属国のような関係で、たとえていえば、伊藤博文が植民地支配下の朝鮮で暗殺されたとき、大日本帝国がいきなりロシアや中国に宣戦布告をするようなもので、わけがわからない。実際、大日本帝国は、そこまでのことをしなかったのだが。セルビアでの事件がなぜ世界大戦に発展したのか、専門家ではないので、ほんとうによくわからない。イランとアメリカの緊張関係に際して、第三次世界大戦が起こるのではないかとヨーロッパのほうで言われたとき、なにを馬鹿なと思ったのだが、しかしなにが原因で世界大戦が起こるかわからないという、第一次世界大戦にまつわる記憶が、ヨーロッパのほうでは、まだ生きているのかもしれない。
ちなみにフランツ・ヨーゼフ時代のオーストリア、あるいはウィーンについては、私は以前、池内紀氏の『カール・クラウス――闇にひとつの炬火あり』(現在、講談社文庫版あり)を読んだときに、その一端を知ることができた。もちろんカール・クラウスについて知りたくて読んだのだが、またクラウスの引用がけっこう多くて満足したとも、引用が多すぎて驚いたともいえるのだが、ともかく、その記述をとおしてハプスブルク家のウィーンの惨状なども垣間見えてきて、麗しの都ウィーンではなくなっていることを痛感した。
もちろん池内紀氏といえば、『ヒトラーの時代――ドイツ国民はなぜ独裁者に熱狂したのか』 (中公新書)が、遺作となって、しかも、あれこれいわれていて、私が気づいた頃には、アマゾンなどで購入できなくなっていた。もしデータなどの修正・訂正版がでるのだったら、その時に購入してもよいかなとあきらめたが――いまアマゾンで調べたら購入可能ではあったが、古書か転売商品として、定価以上の値段がついていた、だから購入はためらわれるのだが。ただ池内氏の著作は、専門のドイツ文学者を扱うときにも、社会的政治的背景を正面切って扱わなくても、丁寧に、また生々しく垣間見えるかたちで伝えてくれていて、私などは教えられることが多かった。たしかに池内氏の語るドイツ文学者は、みんな暗い時代の人びとであることもまた訴えるところが大きかったのだが。
追記
美術展に行くときには図録が重要な記録としてのちのちまでも重宝されるのだが、理想をいえば、展覧会会場に入る前に図録を購入して、図録の図版と展示品とを見比べながら、図版の横にメモ書きするといいと、美術史の専門家に以前言われたことがある。
実際、図録の場合、大きさの異なる作品が、ほぼ同じサイズで収録されることが多く、縦が身長を超える大作と、B5版にも満たない小品が図録のなかでは同じサイズになると、もちろん図録には作品のサイズが記載されるとはいえ、大きいとか、小さい、小品とメモ書きしておくと図録をとおしてまちがった記憶が定着することを避けられる。あと図録の図版の色と、作品の色との違いがあれば、チェックしておくこと。図版よりも現物のほうが色鮮やかであったり、その逆だったりと、いまは、ちょっとみただけでは、図版とオリジナルとの差はわからないことが多いが、時折、大きく違うことがある。それもメモを書いておけば、図録の図版からまちがった記憶が定着することが避けられる。
実際、以前、そうやって図録をもって展示をみてまわったことがあるが、ただ、そんなことをしているのは私くらいしかない。まるで専門家か関係者か業者みたいなので、気持ちがいいような、気持ちが悪いような。また、素人が専門家のふりをするのはみっともないというようなことを言う嫌なやつが必ずいる――ハイ、私が、その嫌な奴です(2020年1月 日の記事参照)。そのため一回でやめてしまったが、ただ、そもそも最初に図録が買えないことが多い。
西洋美術館は、先に図録を買って展示会場に入ることができるのだが、当日は、レジの前に長蛇の列ができていて、図録を買うのに時間がかかりすぎて、展示会場に入るのが遅くなるか、入れなくなったら意味がないし、そもそも図録と展示品をみて鑑賞するという専門家っぽいことはやめたのだが、なんとなく気になる。とはいえ、今回のハプスブルク展、図録売り切れていた(追加の予約はとっていたようだが)。あと都立美術館の「ハマスホイとデンマーク絵画展」は、中に入って出口近くで図録が売られているので、図録を先に購入することはできないのであった。
以前といっても、かなり前だが、中学生か高校生の頃の姪と、ある美術展に行ったところ、口が悪い姪は、混みあっている会場で、これでは絵を見に来たのか、人を見に来たのかわからないと、けっこう大きな声でいうので、やめなさいと、その口をふさごうとしたことがあるが、まあ、人気があって混んでいる絵画展は、人が多くて、ゆっくり見て回ることができない。
演劇では人気の舞台は、チケットがすぐに売り切れて見ることができないことが多いが、チケットが手に入れば満席でもしっかり舞台をみることができる。しかし展覧会の場合、チケットが手に入っても、混雑した会場で、ゆっくり見ることができない。チケットが入手できなければあきらめがつくが、チケットが入手できても悪条件のもとで不満が残る鑑賞というのはどうかと思う。時間を区切って入場制限をする展示会もあるが、西洋美術館では、それもむつかしいのかもしれない。
ハプスブルク展というのは、日本でこれまでことあるごとに行われていて、人気もあったのだと思う。関連する書籍なども出版されることが多く、ある一時期、さほど関心がなかった私も、あるハプスブルク家関連の展覧会を機に、書籍なども買い集め、ハプスブルク家というか神聖ローマ帝国の歴史を勉強したことがある。シェイクスピア時代あたりまでの神聖ローマ帝国の歴史は、それなりに背景知識としてあったが、それ以降の、たとえばゲーテに、神聖ローマ帝国といっても、神聖でもなければ、ローマ的でもなく、帝国ですらないと酷評された時代から第一世界大戦の頃までの歴史はほとんど何も知らないので、それを学んだ。
そのため、たとえばヴィクトル・ユゴーの戯曲『エルナニ』は、当時、大論争を巻き起こしたロマン派の戯曲だが、今読むと、何が問題だったのか全くわからない作品なのだが、その『エルナニ』にはカルロス五世が登場する。もちろんカルロス五世は、ヘンリー八世の一時期は盟友でもあったのだから、シェイクスピア研究者なら知っていて当然なのだが、それでもハプスブル家の歴史の全体をぼんやりとでも把握できるようになると、カルロス五世の位置づけや意義など理解しやすくなる。
ハプスブルク家の女性としてはマリー・アントワネットと、シシーことエリザベート(フランツ=ヨーゼフの皇后)のふたりが有名だが、今回、ふたりの大きな肖像画が来ていた。ヴィジュ・ルブランの有名なマリー・アントワネットの肖像画と、エリザベートの異様に腹部が細い肖像画が来ていた。ハプスブルク家の血が入っているマリー・アントワネットはヴィルジュ・ルブランの美化する筆をもってしても、そのしゃくれあごは隠しようもないのだが、エリザベートはハプスブルク家の血が入っていないぶん美人である。まあ、どちらも非業の死をとげた悲劇のヒロインであることでも人気が高いのかもしれない。
ミュージカル『エリザベート』の日本版(宝塚版も含む)を観ている私にとってはエリザベートの物語はなじみ深いものだが、実は、ミュージカル以前に、ロミー・シュナイダーがシシーを演じた三部作の映画をとおして、ある程度のことは知っていた。とはいえ、ハプスブルク家の話だとは、その頃は、思っていなかった――そもそもハプスブルク家とは何か知らなかったのだから。
なお展覧会ではハプスブルク家が収集した美術品の多くも展示されていて、フランス・ハルツの手になる肖像画もあって(どうしてもフランツ・ハルスと書きそうになる。ファン・ゴッホではなくヴァン・ゴッホのほうがなじみがある私はクソ老人なのだ)、しかもそれははじめてみる肖像画で、私にとっては収穫だったのだが。
あとシシーが死んだあとのフランツ・ヨーゼフの息子夫妻がセルビアで暗殺される。それが第一次世界大戦の引き金になったといわれるが、実は、よくわからない。セルビアは当時のオーストリア=ハンガリー帝国の植民地ではなくとも属国のような関係で、たとえていえば、伊藤博文が植民地支配下の朝鮮で暗殺されたとき、大日本帝国がいきなりロシアや中国に宣戦布告をするようなもので、わけがわからない。実際、大日本帝国は、そこまでのことをしなかったのだが。セルビアでの事件がなぜ世界大戦に発展したのか、専門家ではないので、ほんとうによくわからない。イランとアメリカの緊張関係に際して、第三次世界大戦が起こるのではないかとヨーロッパのほうで言われたとき、なにを馬鹿なと思ったのだが、しかしなにが原因で世界大戦が起こるかわからないという、第一次世界大戦にまつわる記憶が、ヨーロッパのほうでは、まだ生きているのかもしれない。
ちなみにフランツ・ヨーゼフ時代のオーストリア、あるいはウィーンについては、私は以前、池内紀氏の『カール・クラウス――闇にひとつの炬火あり』(現在、講談社文庫版あり)を読んだときに、その一端を知ることができた。もちろんカール・クラウスについて知りたくて読んだのだが、またクラウスの引用がけっこう多くて満足したとも、引用が多すぎて驚いたともいえるのだが、ともかく、その記述をとおしてハプスブルク家のウィーンの惨状なども垣間見えてきて、麗しの都ウィーンではなくなっていることを痛感した。
もちろん池内紀氏といえば、『ヒトラーの時代――ドイツ国民はなぜ独裁者に熱狂したのか』 (中公新書)が、遺作となって、しかも、あれこれいわれていて、私が気づいた頃には、アマゾンなどで購入できなくなっていた。もしデータなどの修正・訂正版がでるのだったら、その時に購入してもよいかなとあきらめたが――いまアマゾンで調べたら購入可能ではあったが、古書か転売商品として、定価以上の値段がついていた、だから購入はためらわれるのだが。ただ池内氏の著作は、専門のドイツ文学者を扱うときにも、社会的政治的背景を正面切って扱わなくても、丁寧に、また生々しく垣間見えるかたちで伝えてくれていて、私などは教えられることが多かった。たしかに池内氏の語るドイツ文学者は、みんな暗い時代の人びとであることもまた訴えるところが大きかったのだが。
追記
美術展に行くときには図録が重要な記録としてのちのちまでも重宝されるのだが、理想をいえば、展覧会会場に入る前に図録を購入して、図録の図版と展示品とを見比べながら、図版の横にメモ書きするといいと、美術史の専門家に以前言われたことがある。
実際、図録の場合、大きさの異なる作品が、ほぼ同じサイズで収録されることが多く、縦が身長を超える大作と、B5版にも満たない小品が図録のなかでは同じサイズになると、もちろん図録には作品のサイズが記載されるとはいえ、大きいとか、小さい、小品とメモ書きしておくと図録をとおしてまちがった記憶が定着することを避けられる。あと図録の図版の色と、作品の色との違いがあれば、チェックしておくこと。図版よりも現物のほうが色鮮やかであったり、その逆だったりと、いまは、ちょっとみただけでは、図版とオリジナルとの差はわからないことが多いが、時折、大きく違うことがある。それもメモを書いておけば、図録の図版からまちがった記憶が定着することが避けられる。
実際、以前、そうやって図録をもって展示をみてまわったことがあるが、ただ、そんなことをしているのは私くらいしかない。まるで専門家か関係者か業者みたいなので、気持ちがいいような、気持ちが悪いような。また、素人が専門家のふりをするのはみっともないというようなことを言う嫌なやつが必ずいる――ハイ、私が、その嫌な奴です(2020年1月 日の記事参照)。そのため一回でやめてしまったが、ただ、そもそも最初に図録が買えないことが多い。
西洋美術館は、先に図録を買って展示会場に入ることができるのだが、当日は、レジの前に長蛇の列ができていて、図録を買うのに時間がかかりすぎて、展示会場に入るのが遅くなるか、入れなくなったら意味がないし、そもそも図録と展示品をみて鑑賞するという専門家っぽいことはやめたのだが、なんとなく気になる。とはいえ、今回のハプスブルク展、図録売り切れていた(追加の予約はとっていたようだが)。あと都立美術館の「ハマスホイとデンマーク絵画展」は、中に入って出口近くで図録が売られているので、図録を先に購入することはできないのであった。
posted by ohashi at 22:10| 美術
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2020年01月20日
『屍人荘の殺人』
三つのサッカーパンチ
原作をしっかり読んでから映画をみたのだが、原作を読んだとき、え、これを映画化するのかと驚いた。
原作を読んで初めて知ったのだが、予想外の展開をする。それは映画の予告編をみても、予想だにできない展開だった。最初のサッカーパンチ。いま、もう一度、予告編を見直す機会があれば(まあ、それはないと思うのだが)、意外な展開が予想できるようなヒントがあったかもしれないが、ただ、ほんとうにこの意外な展開は、異論はあるかもしれないが、これはこれで面白いと思った。ジャンルのハイブリッド性は歓迎すべきことだと思うし、ハイブリッド性によって事件の謎は深まるからである。
以前、あるアメリカ映画を見ていたとき、もしこれで宇宙人が登場して、その超能力で、現実を改変したというような展開になれば、あまりにご都合主義的すぎて怒るぞと思いつつ見ていたら、ほんとうに宇宙人の現実改変という話になって、怒るに怒れなかったことを覚えている。今回、ジャンルのハイブリッド性は、事件の謎を深めることになり、原作者の才能が如実にわかるすぐれた変更だと思う。だから映画の観客も、この変更は歓迎するのではないか。怒っている観客もいることはいるが。
またさらにこのジャンルのハイブリッド性は、文章を読んでいるよりは映画で見ていたほうが、迫力があるともいえる。映画向きのハイブリッド性とでもいえようか。
しかし、もうひとつの予想外の展開については、これは残念の一言に尽きる。二番目のサッカーパンチ。原作でも、この展開はないだろうと思った。映画でも、原作を踏襲している。こちらの予想外の展開については、映画のなかで、驚きあるいは落胆を少しでも緩和しようという工夫がみられる。やはりスリーサムの話のほうが絶対に面白かったのではないかと思う。原作者に対してだが。
あと原作で気になったこと。映画化ではそこはうまく処理していたのだが、原作では、語り手がこんな述懐をする。復讐のために殺された男たちは、殺されて当然の人間のクズである。最後に犯人がわかるのだが、語り手は、犯人に対して、こんな思いをぶつける
と、あとは読むに耐えないクソみたいな犯人擁護の弁がつづく。
つまり殺された男たちは、殺されて当然のクソ野郎たちだったが、その彼らにしても女性を愛する気持ちはあって、最後には恋人の女性を守って死んでいった。そんな彼らを殺してどこがうれしいのかというような述懐である。
通常のドラマなりシナリオでは、こんなクソ野郎に復讐するために手を汚すのは愚かだと復讐者を諭すことが多い。あるいは映画のなかでは復讐を終えて、もはや放心状態にあって生きる意欲さえ失ったかにみえる犯人に対して生きろという檄が飛ぶ。それもありな展開である。
しかし、たとえば『ジョーカー』のなかで殺されるクソ証券マンたちだって、家族があって愛する妻や子供がいるかもしれない。だからといって証券マンがクソであることはかわりはないし、どんなに非道な独裁者も、孫のまえでは善良な祖父であるにちがいないのだが、だからといって、独裁者を許せとなどと、犠牲になったおびただしい人々には、口が裂けてもいえない。映画『パラサイト』で殺された富裕層には愛すべき家族があった。だからといってクソ富裕層を心優しい人たちで擁護すべきなどと、口が裂けてもいえない。
まあ、結論としては『屍人荘の殺人』の作者が、口が裂けてもいえないことを、ほんとうに言っているという、正真正銘のクソ野郎だったということである。これが三番目のサッカーパンチである。
原作をしっかり読んでから映画をみたのだが、原作を読んだとき、え、これを映画化するのかと驚いた。
原作を読んで初めて知ったのだが、予想外の展開をする。それは映画の予告編をみても、予想だにできない展開だった。最初のサッカーパンチ。いま、もう一度、予告編を見直す機会があれば(まあ、それはないと思うのだが)、意外な展開が予想できるようなヒントがあったかもしれないが、ただ、ほんとうにこの意外な展開は、異論はあるかもしれないが、これはこれで面白いと思った。ジャンルのハイブリッド性は歓迎すべきことだと思うし、ハイブリッド性によって事件の謎は深まるからである。
以前、あるアメリカ映画を見ていたとき、もしこれで宇宙人が登場して、その超能力で、現実を改変したというような展開になれば、あまりにご都合主義的すぎて怒るぞと思いつつ見ていたら、ほんとうに宇宙人の現実改変という話になって、怒るに怒れなかったことを覚えている。今回、ジャンルのハイブリッド性は、事件の謎を深めることになり、原作者の才能が如実にわかるすぐれた変更だと思う。だから映画の観客も、この変更は歓迎するのではないか。怒っている観客もいることはいるが。
またさらにこのジャンルのハイブリッド性は、文章を読んでいるよりは映画で見ていたほうが、迫力があるともいえる。映画向きのハイブリッド性とでもいえようか。
しかし、もうひとつの予想外の展開については、これは残念の一言に尽きる。二番目のサッカーパンチ。原作でも、この展開はないだろうと思った。映画でも、原作を踏襲している。こちらの予想外の展開については、映画のなかで、驚きあるいは落胆を少しでも緩和しようという工夫がみられる。やはりスリーサムの話のほうが絶対に面白かったのではないかと思う。原作者に対してだが。
あと原作で気になったこと。映画化ではそこはうまく処理していたのだが、原作では、語り手がこんな述懐をする。復讐のために殺された男たちは、殺されて当然の人間のクズである。最後に犯人がわかるのだが、語り手は、犯人に対して、こんな思いをぶつける
だから今お前〔犯人に対して〕は一切後悔していないだろう。
けどな、***〔←犯人の名前が入る〕。
お前は見たんだろう? たった一人で……恋人を匿って、最後の最後まで粘って、終には口づけで一生を終えた***〔←犯人に復讐で殺された男の名前が入る〕の姿を。
彼は臆病で身勝手で女性たちにとってははた迷惑な最低野郎だったけれど、あいつの一番大切なものにだけは命をかけたんだ。以下略(文庫版p.361)
と、あとは読むに耐えないクソみたいな犯人擁護の弁がつづく。
つまり殺された男たちは、殺されて当然のクソ野郎たちだったが、その彼らにしても女性を愛する気持ちはあって、最後には恋人の女性を守って死んでいった。そんな彼らを殺してどこがうれしいのかというような述懐である。
通常のドラマなりシナリオでは、こんなクソ野郎に復讐するために手を汚すのは愚かだと復讐者を諭すことが多い。あるいは映画のなかでは復讐を終えて、もはや放心状態にあって生きる意欲さえ失ったかにみえる犯人に対して生きろという檄が飛ぶ。それもありな展開である。
しかし、たとえば『ジョーカー』のなかで殺されるクソ証券マンたちだって、家族があって愛する妻や子供がいるかもしれない。だからといって証券マンがクソであることはかわりはないし、どんなに非道な独裁者も、孫のまえでは善良な祖父であるにちがいないのだが、だからといって、独裁者を許せとなどと、犠牲になったおびただしい人々には、口が裂けてもいえない。映画『パラサイト』で殺された富裕層には愛すべき家族があった。だからといってクソ富裕層を心優しい人たちで擁護すべきなどと、口が裂けてもいえない。
まあ、結論としては『屍人荘の殺人』の作者が、口が裂けてもいえないことを、ほんとうに言っているという、正真正銘のクソ野郎だったということである。これが三番目のサッカーパンチである。
posted by ohashi at 19:02| 映画
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2020年01月19日
『イントゥ・ザ・スカイ』
『イントゥ・ザ・スカイ 気球で未来を変えたふたり』(The Aeronauts監督はトム・ハーパー)2019年はに公開された米英合作の冒険映画。
この映画、一般公開初日に観たところ面白すぎると、やや興奮して知り合いに伝えた。しかも新宿ピカデリーで公開前にポスターを見たのだが、新宿まで行かなくても近くの映画館で見ることができた。そのことも自慢がてらに話したら、その知り合いは公開前に見たという。どこで見たのか? 試写会でも行ったのかと尋ねたら、いやすでにアマゾン・プライム・ビデオで、しかも無料でという。
まあ映画館の大きな画面で見た方が絶対に迫力があっておもしろいはずだと自分を慰めたのだが、基本的に気球で上がって降りてくるだけの映画で、しかも、リアルタイム。
2時間以内に最高高度記録を達成して下降、墜落寸前でなんとか着陸して偉業を達成するまでの話だが、『ゼログラビティ』と同じリアルタイム。2時間足らずの時間に、ほんとうにいろいろなことができるものだとあらためて時間の貴重さを思い知ることになったが、そんなことよりも、気球での男女二人(『博士と彼女のセオリー』のフェリシティ・ジョーンズとエディ・レドメイン)のドラマがメインとなるという舞台をみているようなシンプルさ――とはいえさすがにいくらリアルタイムとはいえ、周囲の景色のスペクタキュラ―なサブライムな壮大さから演劇的舞台は連想しないのだが。そして2時間以内に上昇して降りるというシンプルな運動のなかに過去と未来が交錯し命がけの大冒険が展開する。しかも時代設定は19世紀半ばのロンドン。気球での飛行は、科学探査実験というよりも見世物小屋的な脅威と神秘、安っぽいスペクタクルのサーカス小屋的祝祭性をともない、映画が誕生以前の、映画を産むことになる19世紀スペクタクルという、まさに映画の生まれ故郷、そこへの里帰りといった趣がある。その里帰りが、現在の最新技術によって大冒険スぺクルになったという面白さがある。
主役のフェリシティ・ジョーンズは、けっこう昔から文芸映画などに出演していたのだが、あまりぱっとした役でもなく、シェイクスピア原作の『テンペスト』にもミランダ役で出演していたが、ミランダというには違和感があって、映画をみながら、なにがフェリシティ―だと心のなかで文句を言っていた記憶がある。
ただ彼女も歳をとるにしたがって好印象にかわっていき、それは『博士と彼女のセオリー』(原題は『万物理論』)あたりからかもしれないが、『インフェルノ』を経て、『ローグ・ワン』では悲劇の主人公を、また『ビリーブ 未来への大逆転』では実在の弁護士・最高裁判事で主役を演ずるにあたって、その地位も確立したといっていい。今回も、トラウマをかかえつつも、気球パイロットとして探査飛行を全面的に支え、アクション満載の役どころは、彼女の魅力がいかんなく発揮されているというべきだろう。
映画の最初は、突然、厚化粧の彼女が登場し、着ている衣裳も頭がおかしいのではないかと思われるいかがわしさを出しているのだが、すぐにそれが一種のステージ衣装であることがわかり、さらに気球の上昇までの、そして上昇してからもペットの犬を気球から放り投げて落とすという、けれんみ味たっぷりな演出と興業もはや科学探査冒険とはほど遠く見ている者を呆れさせるのだが、上昇をつづけ積乱雲のなかで嵐に襲われるところから、本気の冒険モードになっていく。
また大気のようすがまだよくわかっていない時代の探査飛行なので、サンダルや下駄で、夏服で富士山に登るような無謀な気軽さがあり、そこに違和感がある。実際、軽装で富士山に登って死んだ人間が昨年いたが、この映画のなかでエディ・レドメイン扮する実際にいた科学者は、もしほんとうにあの恰好で上昇していたったなら低酸素症と寒さで死ななかったほうがおかしい。また、だからこそ冒険の醍醐味がある。繰り返すが、この映画の冒険は、サンダルと夏服で冬の富士山に登るような無謀きわまりない冒険である。
雲の上の、まさに宇宙に近い、アドアストラの光景は圧巻だが、それにもましてフェリシティ・ジョーンズの気球を運行のための身体を張った対処にも圧倒される。彼女は経歴の初期では深窓の令嬢(だいたい印象の悪い)を演じていて、コレット原作の映画『シェリ』でも、そうした役で出ていたのだが、『ローグ・ワン』で一皮むけたというか、アクションもこなせる女優に変貌をとげた。さらに映画のなかで彼女は夫の死の影にとりつかれている(ヴァンサン・ペレーズが夫を演じているのだが、あの髭面では、ペレーズかどうかわからない、ペレーズじゃなくてもいいようなところがあって残念)、トラウマに苦しむ難しい役どころでもある。その心理ドラマ、そして未亡人でもあるがゆえに、エディ・レドメインとのロマンスに発展するかしないかの常に瀬戸際にあるところが、この映画のペアの魅力ともなっている――このアクション担当の未亡人とプラトニックな関係にあるような男性とのペアの原型は英国のテレビドラマ『アヴェンジャーズ』であるというのは、自分でも少々うがち過ぎだと反省しつつ、指摘したい。
最後に、この映画について指摘されている、実際に気球で上昇飛行したのは男女のペアではなくて男性二人だったこと。
ガス気球飛行はジェームズ・グレーシャーとヘンリー・コックスウェルの二人が1862年9月5日に行ったもので、そのフライトでガス気球は高度1万1887mに達し、当時の最高高度到達記録を更新したのだが、ヘンリー・コックスウェルの偉業が映画では消されてしまっている。もし実際に男女二人で上昇していたら、すでにもっと前に映画化されていたかもしれない。史実は男性二人で上昇した。科学者グレーシャー/エディ・レドメインの偉業はこの映画で示されたが、同行した男性パイロットが女性パイロット(架空のアメリア・レン/フェリシティ・ジョーンズ)になったため彼女が偉業をもっていくことになった。
結局、男性二人のペアを男女のペアに変えることで映画化が可能になったともいえるのだが、ただ、女性の気球乗りというもの19世紀にいて人気を博したというから、それは女性の活動領域の拡大という19世紀西欧における文化的ジェンダー的趨勢のなかで、自転車に乗る女性以上に耳目を集め派手さでは群を抜く振舞いではなかっただろうか。そう考えれば、これは史実ではないが、史実以上に19世紀西欧のジェンダー天気図のアレゴリーになっていることを評価したい――もちろん、この男女のペアを、ホモソーシャル・ペアにおきかえ、そこにゲイの影があるとみることもできるのだが。
追記:これは私が知る限り、この映画に関連して指摘されていないのだが、同時に、ヒコーキ・ファンなら誰もが気づくことだと思うが、フェリシティ・ジョーンズ扮する架空の気球乗りアメリア・レンは、20世紀前半に実在したアメリカの女性飛行家アメリア・メアリー・イアハート(Amelia Mary Earhart 1897- 1937)から名前がとられていることはまちがいない。イアハートについては有名なのでネット上でも簡単に調べることができると思うが、彼女は、世界一周飛行中、太平洋戦争直前の南太平洋で飛行中に消息を絶った(日本軍の捕虜になって殺されたという話もあるが、たとえそうだとしても、やばい記録や名簿は焼却するという日本のお家芸もあって、いまとなっては真相は確かめられない)。たまたまファンタジー映画『ナイトミュージアム2』で、エイミー・アダムズがイアハートを演じていた(エイミー・アダムズはイアハートに似ていないのだが)。『ナイト・ミュージアム2』では最後に魔法が解けて、蘇ったというか活性化したイアハートもまた展示物へともどってしまうのだが、そのとき彼女の死に、それも二度目の死に立ち会うような悲しい感じがして、ほんとうに胸がいたんだことを覚えている――そんなふうに思う観客は私だけだったかもしれないのだが。
この映画、一般公開初日に観たところ面白すぎると、やや興奮して知り合いに伝えた。しかも新宿ピカデリーで公開前にポスターを見たのだが、新宿まで行かなくても近くの映画館で見ることができた。そのことも自慢がてらに話したら、その知り合いは公開前に見たという。どこで見たのか? 試写会でも行ったのかと尋ねたら、いやすでにアマゾン・プライム・ビデオで、しかも無料でという。
まあ映画館の大きな画面で見た方が絶対に迫力があっておもしろいはずだと自分を慰めたのだが、基本的に気球で上がって降りてくるだけの映画で、しかも、リアルタイム。
2時間以内に最高高度記録を達成して下降、墜落寸前でなんとか着陸して偉業を達成するまでの話だが、『ゼログラビティ』と同じリアルタイム。2時間足らずの時間に、ほんとうにいろいろなことができるものだとあらためて時間の貴重さを思い知ることになったが、そんなことよりも、気球での男女二人(『博士と彼女のセオリー』のフェリシティ・ジョーンズとエディ・レドメイン)のドラマがメインとなるという舞台をみているようなシンプルさ――とはいえさすがにいくらリアルタイムとはいえ、周囲の景色のスペクタキュラ―なサブライムな壮大さから演劇的舞台は連想しないのだが。そして2時間以内に上昇して降りるというシンプルな運動のなかに過去と未来が交錯し命がけの大冒険が展開する。しかも時代設定は19世紀半ばのロンドン。気球での飛行は、科学探査実験というよりも見世物小屋的な脅威と神秘、安っぽいスペクタクルのサーカス小屋的祝祭性をともない、映画が誕生以前の、映画を産むことになる19世紀スペクタクルという、まさに映画の生まれ故郷、そこへの里帰りといった趣がある。その里帰りが、現在の最新技術によって大冒険スぺクルになったという面白さがある。
主役のフェリシティ・ジョーンズは、けっこう昔から文芸映画などに出演していたのだが、あまりぱっとした役でもなく、シェイクスピア原作の『テンペスト』にもミランダ役で出演していたが、ミランダというには違和感があって、映画をみながら、なにがフェリシティ―だと心のなかで文句を言っていた記憶がある。
ただ彼女も歳をとるにしたがって好印象にかわっていき、それは『博士と彼女のセオリー』(原題は『万物理論』)あたりからかもしれないが、『インフェルノ』を経て、『ローグ・ワン』では悲劇の主人公を、また『ビリーブ 未来への大逆転』では実在の弁護士・最高裁判事で主役を演ずるにあたって、その地位も確立したといっていい。今回も、トラウマをかかえつつも、気球パイロットとして探査飛行を全面的に支え、アクション満載の役どころは、彼女の魅力がいかんなく発揮されているというべきだろう。
映画の最初は、突然、厚化粧の彼女が登場し、着ている衣裳も頭がおかしいのではないかと思われるいかがわしさを出しているのだが、すぐにそれが一種のステージ衣装であることがわかり、さらに気球の上昇までの、そして上昇してからもペットの犬を気球から放り投げて落とすという、けれんみ味たっぷりな演出と興業もはや科学探査冒険とはほど遠く見ている者を呆れさせるのだが、上昇をつづけ積乱雲のなかで嵐に襲われるところから、本気の冒険モードになっていく。
また大気のようすがまだよくわかっていない時代の探査飛行なので、サンダルや下駄で、夏服で富士山に登るような無謀な気軽さがあり、そこに違和感がある。実際、軽装で富士山に登って死んだ人間が昨年いたが、この映画のなかでエディ・レドメイン扮する実際にいた科学者は、もしほんとうにあの恰好で上昇していたったなら低酸素症と寒さで死ななかったほうがおかしい。また、だからこそ冒険の醍醐味がある。繰り返すが、この映画の冒険は、サンダルと夏服で冬の富士山に登るような無謀きわまりない冒険である。
雲の上の、まさに宇宙に近い、アドアストラの光景は圧巻だが、それにもましてフェリシティ・ジョーンズの気球を運行のための身体を張った対処にも圧倒される。彼女は経歴の初期では深窓の令嬢(だいたい印象の悪い)を演じていて、コレット原作の映画『シェリ』でも、そうした役で出ていたのだが、『ローグ・ワン』で一皮むけたというか、アクションもこなせる女優に変貌をとげた。さらに映画のなかで彼女は夫の死の影にとりつかれている(ヴァンサン・ペレーズが夫を演じているのだが、あの髭面では、ペレーズかどうかわからない、ペレーズじゃなくてもいいようなところがあって残念)、トラウマに苦しむ難しい役どころでもある。その心理ドラマ、そして未亡人でもあるがゆえに、エディ・レドメインとのロマンスに発展するかしないかの常に瀬戸際にあるところが、この映画のペアの魅力ともなっている――このアクション担当の未亡人とプラトニックな関係にあるような男性とのペアの原型は英国のテレビドラマ『アヴェンジャーズ』であるというのは、自分でも少々うがち過ぎだと反省しつつ、指摘したい。
最後に、この映画について指摘されている、実際に気球で上昇飛行したのは男女のペアではなくて男性二人だったこと。
ガス気球飛行はジェームズ・グレーシャーとヘンリー・コックスウェルの二人が1862年9月5日に行ったもので、そのフライトでガス気球は高度1万1887mに達し、当時の最高高度到達記録を更新したのだが、ヘンリー・コックスウェルの偉業が映画では消されてしまっている。もし実際に男女二人で上昇していたら、すでにもっと前に映画化されていたかもしれない。史実は男性二人で上昇した。科学者グレーシャー/エディ・レドメインの偉業はこの映画で示されたが、同行した男性パイロットが女性パイロット(架空のアメリア・レン/フェリシティ・ジョーンズ)になったため彼女が偉業をもっていくことになった。
結局、男性二人のペアを男女のペアに変えることで映画化が可能になったともいえるのだが、ただ、女性の気球乗りというもの19世紀にいて人気を博したというから、それは女性の活動領域の拡大という19世紀西欧における文化的ジェンダー的趨勢のなかで、自転車に乗る女性以上に耳目を集め派手さでは群を抜く振舞いではなかっただろうか。そう考えれば、これは史実ではないが、史実以上に19世紀西欧のジェンダー天気図のアレゴリーになっていることを評価したい――もちろん、この男女のペアを、ホモソーシャル・ペアにおきかえ、そこにゲイの影があるとみることもできるのだが。
追記:これは私が知る限り、この映画に関連して指摘されていないのだが、同時に、ヒコーキ・ファンなら誰もが気づくことだと思うが、フェリシティ・ジョーンズ扮する架空の気球乗りアメリア・レンは、20世紀前半に実在したアメリカの女性飛行家アメリア・メアリー・イアハート(Amelia Mary Earhart 1897- 1937)から名前がとられていることはまちがいない。イアハートについては有名なのでネット上でも簡単に調べることができると思うが、彼女は、世界一周飛行中、太平洋戦争直前の南太平洋で飛行中に消息を絶った(日本軍の捕虜になって殺されたという話もあるが、たとえそうだとしても、やばい記録や名簿は焼却するという日本のお家芸もあって、いまとなっては真相は確かめられない)。たまたまファンタジー映画『ナイトミュージアム2』で、エイミー・アダムズがイアハートを演じていた(エイミー・アダムズはイアハートに似ていないのだが)。『ナイト・ミュージアム2』では最後に魔法が解けて、蘇ったというか活性化したイアハートもまた展示物へともどってしまうのだが、そのとき彼女の死に、それも二度目の死に立ち会うような悲しい感じがして、ほんとうに胸がいたんだことを覚えている――そんなふうに思う観客は私だけだったかもしれないのだが。
posted by ohashi at 01:21| 映画
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2020年01月18日
『ジョジョ・ラビット』
監督タイカ・ワイティティ(Taika David Waititi1975 - )は、どこの人かと思ったが、ニュージーランドの映画監督・脚本家・俳優とのことで、ニュージーランドネイティブの人であると同時にユダヤ人の血も交じっているとのこと。ニュージーランドのみならずオーストラリアでも、時折ホロコーストやナチスを扱った映画が生まれるが、これもその一つかもしれない。
ヒトラー・ユーゲントに参加した10歳の、気弱な少年の眼からみたナチス政権下でのドイツの日常が諷刺的に描かれる。冒頭はビートルズの曲が流れ、そこに流される熱狂する人びとの映像は、ロックアイドルに熱狂する観客かと思いきや、ヒトラーに熱狂する当時のドイツ人の記録映像なのである。つぎに少年少女を集めた軍事教練のキャンプ。最近はあちこちの映画に出ている、サム・ロックウェルが、やさぐれた将校の教官役で登場。ロックウェルは戦場で片目を失明して、この教練場での教官になったという設定。正月にやっていたドラマ『教場』の木村拓哉かとよけいなことを思いつつみてゆくと、ユダヤ人の少女をかくまう話、母親/スカーレット・ヨハンセンがナチス政権批判の抵抗運動をしているという話に発展、さらに最初から少年の心の友としてヒトラーが登場する(監督自身が、ヒトラーを演じている)……。と、こうした要素やモチーフは、面白くないはずがないのだが、これは映画のせいではなく、99パーセント私のせいなのだが、途中で意識を失った……。
……
こんなに面白い映画なのに眠る方がおかしく、恥じ入るほかはないのだが、残り1パーセントは映画のせいでもないわけではない。実際、意識を失ったのだが、物語はすべて理解できた。予想がつく展開だし、と、理由をあげるのは、99パーセント私の体調と乏しい精神力が原因であることは明白なのに、それでも他に責任をなすりつけるような愚はさしひかえるべきで、だからやめておくが、映画のコンセプトは理解できたように思う。
これは子供の眼から見た戦時下の大人たちの愚行を描くのではなく、大人たちが、まったく子どもであると思い知らされる映画なのである。
子どもなら、ユダヤ人の頭には角が生えていて、人間を食べるなどという妄想を育んでも、おかしくない。問題なのは、大人もこれを信じている、あるいは信ずるような愚かな子どもなのである――大人が。それはドイツだけのことではない。
日本も第二次世界大戦中は、「鬼畜米英」というスローガンを掲げていた。いまからみれば、これは敵国への憎しみを鼓舞するメタファーである。英国人が米国人が「鬼」などという架空の怪物であるはずはない。彼らもまた人間なのだから。しかし戦時中は、これはメタファーではなく、リアルな妄想だった。いくらなんでも日本人がそこまでバカではないと思うかもしれない。しかし、この映画のように日本人の子どもたちにとって、これはメタファーではなかった。そして、たしかに大人たちは、これをメタファーだとらえていても、あえて反対しなかったのなら、メタファーはリアルになる。
さらにいえば、日本は「神の国」というのは、いまでも、これをメタファーではないととらえている精神異常者はいる――彼らはこれを真実・事実とらえているし、彼らのなかには政治家や公務員になる者がいて、その給料が税金で支払われている。繰り返すが、日本を「神の国」とメタファーで語るのは勝手だが、ほんとうに「神の国」だと思ったり、天皇制度が途切れることなく現在まで続いていると信じているのは大問題で、ユダヤ人が人を食べ、夜はコウモリのように天井からぶらさがって眠るなどと信じているこの少年と変わらないのだ。
戦争とは大人が子どもになる病である。
実際、私の世代の親というのは、日本では戦争中に子ども時代あるいは青春時代を過ごした世代で、親たちは子どもの眼を通して戦争をみていた。また戦争末期には、この映画のように子供が戦争に駆り立てられた(これも20世紀の戦争映画における特異なシーンにひとつで、ソ連兵に女性の兵士がいることと、ドイツに少年兵がいることが戦争映画における特殊な事態であった)。
【昨年末だったかNHKで第二次大戦中に日本が建造した航空母艦「信濃」のドキュメンタリーを放送していたが、横須賀から呉に航行中、米潜水艦に沈められた信濃の生存者が当時の思い出を語っていたが、ほとんどが90歳を超えていた。驚くべきことは、当時彼らは10代の少年水兵であったことだ。当時、海軍の最新鋭艦である空母「信濃」(大和型巨大戦艦の三番艦を空母に改造したもの)に少年兵を乗せていたとは? もう人がいなかったのではないだろうか。もちろん当時20代以上の生存者もいただろうが、いかんせん、そうした人たちは現時点では寿命で死んでいるので、生存者は、当時、少年水兵だった人たちばかりとなる。
そう、こんなふうに考えてみれば、第二次世界大戦は子どもをパラダイムとして語れるし、子どもこそが第二次世界大戦の文化表象である。子どもは戦争のメタファーである――実際、幼児化した国民たちによる妄想による憎悪が戦争遂行のエネルギーとなった。
そして子どもは戦争のメトニミーでもあった。実際、子どものような大人たちによって、子どもたちが戦争に駆り立てられた。第二次世界大戦以後、現在にいたるまで、子どもが戦争に動員されたりテロリストになる恐怖は終わることがない。
そして戦争のメタファーでもありメトニミーでもあるという子どもと戦争との関係が、現在、生存者が当時子供でしかなかったことから、子供目線でしか戦争の記憶が語られなくなってきている。戦争の子ども化は、いまや加速している。
ただし戦争を子ども目線でとらえることにも限界がある。というのも戦時中の思い出を語る私たちの世代の親たちは、天皇は神だ、日本は神の国だ、敵は鬼畜だと教えられ、そう信ずるしかなかったと弁解する。その弁解は一部で正しいとしても、しかし、全面的真実ではない。なぜなら、たとえばドイツでは、ユダヤ人をかくまい、ヒトラーの政権打倒を叫ぶ反対運動、抵抗運動が起こっていた。そして彼らはそのために命を落とし、この映画のようにナチスによって絞首刑になって街角にぶら下げられたのである。食肉処理場の牛の肉のようにつるされていたという記録もある。彼らの犠牲を前にして、自分たちは子ども同然で、政権の流す情報と思想をそのまま信ずることしかできなかったと、よく、そんな恥さらしなことが言えるものだと思う。
自分たちは子ども同然で、政権の嘘、メディアが流す大本営発表に騙されたに過ぎないというのは、一部は真実であっても、全面的な真実ではない。もちろん抵抗することは死を伴うために、誰もが簡単にできるわけではない。誰もが簡単に自分の命は捨てられない。しかし勇気をもって政権の愚を正そうとして自らの命を差し出した人びとが、ドイツにはいた。彼らに対して満腔の敬意を表さなくていいのか。ドイツ国内にナチスに抵抗した人々がいたことは、戦争を子どもとむすびつけるときの嘘と弁解を阻む雄弁な反証であろう。
いうまでもなく子どもと戦争のドイツ文学はギュンター・グラスの『ブリキの太鼓』である。まあ、いまとなればギュンター・グラス自身、ヒットラー・ユーゲントだったことがわかってきたので、その思想性・イデオロギー性には、問題があるような気がするが、この映画でも『ブリキの太鼓』の映画版へのオマージュであるようなシーンがあって、この映画は、『ブリキの太鼓』の小説あるいは映画版を意識していたように思う。そして物語性や仕掛けでは、この映画は『ブリキの太鼓』に負けると思うが、ヒトラーに抵抗して犠牲になった人びとの姿を明示した点で、『ブリキの太鼓』よりも一歩すすんでいると思う。
レイモンド・ウィリアムズが『現代/近代の悲劇』(未訳。ウィリアムズ・ファンの人たちは、早くこれを訳せ)で述べているように、ナチスの収容所で死んだ人びとがいるとすれば、そのいっぽうで、そうした収容所をこの世界からなくそうとして命を捧げた人びともいたのであり、そのことが未来に希望を託せる根拠なのだから。
posted by ohashi at 07:58| 映画
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2020年01月17日
『西洋演劇論アンソロジー』
山下純照・西洋比較演劇研究会編
月曜社2019
昨年の9月に刊行された本だが、推薦すべき本だが、ある意味地味な本かもしれないので、2020年になっても推薦することにした。現時点(2020年1月16日)で、たまたまみたAMAZONのサイトでもレヴューがないのは、なんとも残念なので(なお、私は個人的にはAMAZONにレヴューを載せる趣味はないので)。
と帯にあるが、まさに、この通りで、日本語で類書がないこともあって、貴重なことこのうえのない演劇関連書として長く使われるべき基本的参考図書であろう。
原典から翻訳された演劇論の抜粋が貴重なのだが、抜粋の前に解説文(抜粋よりも分量があることも多い)がつけられ、これが思想家、哲学者、劇作家ならびに抜粋文の解説が、要を得ていて、どれを読んでも教えられることが多い――内容のレベルは、まちがいなく高い。また各抜粋に多くの参考文献リストも付され、それがまた貴重な情報源として、ある意味、索引などを除いて560ページの本の価値を高めている。ほぼ600頁の本が3600円(税抜)というのも、お値打ちといえばいえる。
英文学研究者として、私が最も影響をうけた演劇論は、ジョージ・スタイナーの『悲劇の死』とヤン・コットの『シェイクスピアはわれらの同時代人』だが、この二冊からの抜粋は収録されていない。1980年代半ばまでの演劇論と断ってあるが、その範囲に入るものの、版権などの問題もあったかもしれないが、しかし、本文中に明示されていない編集方針があるのかもしれない。たとえばスタイナーは著名な批評家あるいは思想家といってもいいのだが、演劇製作とは無縁の場にいたかとか(スタイナーには『アンティゴネー』に関する著作もあるのだが)、あるいはヤン・コットの本はシェイクスピア論に特化されていると思われたのかもしれない(抜粋なら、演劇一般論として読めるところが数多くあるし、またスタニスラフスキー・システムがいかにくだらないかを説得力あるかたちで教えてくれたのもヤン・コットで、スタニラフスキー・システムをありがたがっている人たちをみると、私の顔にはジョーカーのように笑みが浮かぶ)。
あるいは私の専門のシェイクスピア時代に特化するなら、ガリーニの悲喜劇論は、演劇史上においても、演劇論史においても重要なのだが、西洋ルネサンス演劇論アンソロジーではないので、選択されなくてもしかたがないかもしれない。というわけで誰だって、これがない、あれがないと偉そうなことは言えるのだが、むしろ、限られたスペースにこれだけのことを選択した、あるいは削る決断をしたことを無条件に讃えるべきだと思う。偉業といってもいい。
実は、この本は月曜社から私のもとに送られきた。献本である。とはいえ、月曜社と私との関係は最悪なので、まずふうつに月曜社から本が送られてくることはぜったいにない。関係悪化の原因は、ひとえに私にあり、責められるべきは私であるため、出版社には全く問題はない。
【以下の記述は私の記憶違いによるものであり、全面的に訂正するが、こういう愚か者がいたという記録として残してい置く。詳しいことは202年1月28日の記事を参照 2020年1月29日記す。】
ならば執筆者に知り合いがいて、その人からの献本かもしれないと思ったが、残念ながら執筆者方々のお名前は知っているが、個人的な付き合いのある方はひとりもいないので、特定の誰から贈られたわけではない。
となると、理由は? たぶん、それはライオネル・エイベルの『メタシアター』の翻訳(高橋康也・大橋洋一訳)の抜粋が、このアンソロジーに収録されているからだろうと思う。エイベルのこの本からの抜粋を載せるのは、私、大橋が、自分でいうのもなんだが、優れた選択だと思うし、収録されたのは名誉なことだと思う。
そして抜粋の最後に「……より許可を得て抜粋・転載」とある。
誰が許可したのだ? 誤解のないように言っておけば、もし私に許可を求められたら、絶対に許可するので、ここに掲載されていることは問題ないのだが、「より許可を得て」と明記してある以上、誰が許可したのかと気になるのだ。
じつは「……より許可を」という「……」の部分には書名や出版社、出版年があるので、「より許可を得て抜粋・転載」というのは、「【記載されていないが許可する人名あるいは団体】より許可を得て、【書名情報】より抜粋・転載」という意味だととれる。
では、どこから許可を得たのかというと、この本は、私と高橋康也先生との共訳であり、もし筆頭共訳者の高橋先生に許可願いがあり、高橋先生が私に相談なく、あるいは事後承諾というかたちで許可された、またそのとき私に連絡する必要はないと考えたか、連絡し忘れたということが考えられるが、その場合、どんな場合でも(高橋先生が私を無視して許可されたとしても)私としては問題はない――そもそも私としても喜んで許可するのだから。
問題は、高橋康也先生は、もう亡くなられていて、残る共訳者は私しかいないということである。亡くなられた高橋先生が許可されることはない。となると誰が許可したのか。
常識的に考えると許可するのは、共訳者のふたりのうち、生存している人間、つまり私である。高橋先生の著作権をもっているかもしれない遺族の方が許可したとも考えられるが、その時は、私にも連絡があるはずである(もし遺族の方に許可願いがあり、その遺族の方が私に連絡しなかったら、これは許し難いことであるが、まずまちがいなく遺族の方にも連絡はいっていないと思う)。もし私に許可願いがきていたら、私から高橋先生のご遺族に連絡をして掲載を許可していいかを確認する。だが私に許可願いはきてない。
こうしたときの業界の常識あるいは慣習、あるいは法的手続きについて全くなにも知らないのだが、この翻訳は、出版社が版権をもっていて、翻訳は出版社が許可すれば、それでいいのかもしれない。とはいえその場合にも、出版社から連絡くらいあってもしかるべきではないか。とはいえ、これはもとの出版社の責任であって、そこが責任あるいは責めを負うものかもしれないので、略式、あるいは形式的・儀礼的でもいいので、手続きをせよと、言いたい。もし出版社が許可したとすればの場合だが。また、繰り返すが、私としては許可するので、掲載されたことについて文句をいうつもりはまったくない。
あるいはこのアンソロジーの責任者(編者かどうかはわからないし、それはアンソロジーの出版社かもしれない)が、たぶん作業の多さから許可願いをするときに見落としなどがあったのかということだろうか。
アンソロジーの編者、アンソロジーの出版社が許可願いをしたか、しなかったか。また『メタシアター』翻訳の出版社が許可したことを翻訳者(私)に報告しなかったのか。いずれにしても、私は、無名の人間だか、連絡がとれないほど無名な人間でもない。Wikipediaに載ってもいるのだし。大学のメールアドレスはいまも維持しているので。
くりかえすが、このアンソロジーに抜粋が掲載されたことは、名誉なことであり、喜ばしいことだが、許可に関してなんら申請あるいは報告がなかったことは、不愉快なことであり、きわめて残念である。
【ここでは、たとえ正当な手続きを踏まれたとはいえ、翻訳者である私が蚊帳の外に置かれているのは、不愉快で残念だと書いてあるが、実際には、私にも掲載許可の問い合わせがあり、掲載許可を出していた。蚊帳の外などに置かれていなかったということであり、すべては私の愚かな被害妄想であり、こういう愚か者であることの記録として、また反省の材料として、この記事を残すことにした。不愉快な思い、残念な思いをされたのは、ほんとうは私ではなくこのアンソロジーの編者である山下純照先生であり、また西洋比較演劇研究会編の皆様、そして月曜社であり、ご迷惑をおかけしたことお詫び申し上げます。2020年1月29日 記す。】
月曜社2019
昨年の9月に刊行された本だが、推薦すべき本だが、ある意味地味な本かもしれないので、2020年になっても推薦することにした。現時点(2020年1月16日)で、たまたまみたAMAZONのサイトでもレヴューがないのは、なんとも残念なので(なお、私は個人的にはAMAZONにレヴューを載せる趣味はないので)。
ギリシア演劇から20世紀のパフォーマンス・スタディーズまで、西洋演劇の歴史をかたちづくる70人の思想家、劇作家、演出家たちの演劇論のエッセンスを、解説と原典訳でコレクション!
と帯にあるが、まさに、この通りで、日本語で類書がないこともあって、貴重なことこのうえのない演劇関連書として長く使われるべき基本的参考図書であろう。
原典から翻訳された演劇論の抜粋が貴重なのだが、抜粋の前に解説文(抜粋よりも分量があることも多い)がつけられ、これが思想家、哲学者、劇作家ならびに抜粋文の解説が、要を得ていて、どれを読んでも教えられることが多い――内容のレベルは、まちがいなく高い。また各抜粋に多くの参考文献リストも付され、それがまた貴重な情報源として、ある意味、索引などを除いて560ページの本の価値を高めている。ほぼ600頁の本が3600円(税抜)というのも、お値打ちといえばいえる。
英文学研究者として、私が最も影響をうけた演劇論は、ジョージ・スタイナーの『悲劇の死』とヤン・コットの『シェイクスピアはわれらの同時代人』だが、この二冊からの抜粋は収録されていない。1980年代半ばまでの演劇論と断ってあるが、その範囲に入るものの、版権などの問題もあったかもしれないが、しかし、本文中に明示されていない編集方針があるのかもしれない。たとえばスタイナーは著名な批評家あるいは思想家といってもいいのだが、演劇製作とは無縁の場にいたかとか(スタイナーには『アンティゴネー』に関する著作もあるのだが)、あるいはヤン・コットの本はシェイクスピア論に特化されていると思われたのかもしれない(抜粋なら、演劇一般論として読めるところが数多くあるし、またスタニスラフスキー・システムがいかにくだらないかを説得力あるかたちで教えてくれたのもヤン・コットで、スタニラフスキー・システムをありがたがっている人たちをみると、私の顔にはジョーカーのように笑みが浮かぶ)。
あるいは私の専門のシェイクスピア時代に特化するなら、ガリーニの悲喜劇論は、演劇史上においても、演劇論史においても重要なのだが、西洋ルネサンス演劇論アンソロジーではないので、選択されなくてもしかたがないかもしれない。というわけで誰だって、これがない、あれがないと偉そうなことは言えるのだが、むしろ、限られたスペースにこれだけのことを選択した、あるいは削る決断をしたことを無条件に讃えるべきだと思う。偉業といってもいい。
実は、この本は月曜社から私のもとに送られきた。献本である。とはいえ、月曜社と私との関係は最悪なので、まずふうつに月曜社から本が送られてくることはぜったいにない。関係悪化の原因は、ひとえに私にあり、責められるべきは私であるため、出版社には全く問題はない。
【以下の記述は私の記憶違いによるものであり、全面的に訂正するが、こういう愚か者がいたという記録として残してい置く。詳しいことは202年1月28日の記事を参照 2020年1月29日記す。】
ならば執筆者に知り合いがいて、その人からの献本かもしれないと思ったが、残念ながら執筆者方々のお名前は知っているが、個人的な付き合いのある方はひとりもいないので、特定の誰から贈られたわけではない。
となると、理由は? たぶん、それはライオネル・エイベルの『メタシアター』の翻訳(高橋康也・大橋洋一訳)の抜粋が、このアンソロジーに収録されているからだろうと思う。エイベルのこの本からの抜粋を載せるのは、私、大橋が、自分でいうのもなんだが、優れた選択だと思うし、収録されたのは名誉なことだと思う。
そして抜粋の最後に「……より許可を得て抜粋・転載」とある。
誰が許可したのだ? 誤解のないように言っておけば、もし私に許可を求められたら、絶対に許可するので、ここに掲載されていることは問題ないのだが、「より許可を得て」と明記してある以上、誰が許可したのかと気になるのだ。
じつは「……より許可を」という「……」の部分には書名や出版社、出版年があるので、「より許可を得て抜粋・転載」というのは、「【記載されていないが許可する人名あるいは団体】より許可を得て、【書名情報】より抜粋・転載」という意味だととれる。
では、どこから許可を得たのかというと、この本は、私と高橋康也先生との共訳であり、もし筆頭共訳者の高橋先生に許可願いがあり、高橋先生が私に相談なく、あるいは事後承諾というかたちで許可された、またそのとき私に連絡する必要はないと考えたか、連絡し忘れたということが考えられるが、その場合、どんな場合でも(高橋先生が私を無視して許可されたとしても)私としては問題はない――そもそも私としても喜んで許可するのだから。
問題は、高橋康也先生は、もう亡くなられていて、残る共訳者は私しかいないということである。亡くなられた高橋先生が許可されることはない。となると誰が許可したのか。
常識的に考えると許可するのは、共訳者のふたりのうち、生存している人間、つまり私である。高橋先生の著作権をもっているかもしれない遺族の方が許可したとも考えられるが、その時は、私にも連絡があるはずである(もし遺族の方に許可願いがあり、その遺族の方が私に連絡しなかったら、これは許し難いことであるが、まずまちがいなく遺族の方にも連絡はいっていないと思う)。もし私に許可願いがきていたら、私から高橋先生のご遺族に連絡をして掲載を許可していいかを確認する。だが私に許可願いはきてない。
こうしたときの業界の常識あるいは慣習、あるいは法的手続きについて全くなにも知らないのだが、この翻訳は、出版社が版権をもっていて、翻訳は出版社が許可すれば、それでいいのかもしれない。とはいえその場合にも、出版社から連絡くらいあってもしかるべきではないか。とはいえ、これはもとの出版社の責任であって、そこが責任あるいは責めを負うものかもしれないので、略式、あるいは形式的・儀礼的でもいいので、手続きをせよと、言いたい。もし出版社が許可したとすればの場合だが。また、繰り返すが、私としては許可するので、掲載されたことについて文句をいうつもりはまったくない。
あるいはこのアンソロジーの責任者(編者かどうかはわからないし、それはアンソロジーの出版社かもしれない)が、たぶん作業の多さから許可願いをするときに見落としなどがあったのかということだろうか。
アンソロジーの編者、アンソロジーの出版社が許可願いをしたか、しなかったか。また『メタシアター』翻訳の出版社が許可したことを翻訳者(私)に報告しなかったのか。いずれにしても、私は、無名の人間だか、連絡がとれないほど無名な人間でもない。Wikipediaに載ってもいるのだし。大学のメールアドレスはいまも維持しているので。
くりかえすが、このアンソロジーに抜粋が掲載されたことは、名誉なことであり、喜ばしいことだが、許可に関してなんら申請あるいは報告がなかったことは、不愉快なことであり、きわめて残念である。
【ここでは、たとえ正当な手続きを踏まれたとはいえ、翻訳者である私が蚊帳の外に置かれているのは、不愉快で残念だと書いてあるが、実際には、私にも掲載許可の問い合わせがあり、掲載許可を出していた。蚊帳の外などに置かれていなかったということであり、すべては私の愚かな被害妄想であり、こういう愚か者であることの記録として、また反省の材料として、この記事を残すことにした。不愉快な思い、残念な思いをされたのは、ほんとうは私ではなくこのアンソロジーの編者である山下純照先生であり、また西洋比較演劇研究会編の皆様、そして月曜社であり、ご迷惑をおかけしたことお詫び申し上げます。2020年1月29日 記す。】
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2020年01月14日
『マザーレス・ブルックリン』
映画のタイトルは原題のままだが、これは主人公のライオネル/エドワード・ノートンのことを彼を施設から引き取ったフランク・ミナ/ブルース・ウィリスが付けたあだ名で、マザーレスは孤児だから。とはいえもちろん母亡き、あるいは父亡き、根無し草的な存在としてのニューヨーク・ブルックリン地区のことを掛けてもいるのだろう。
ハードボイルド・ノワール映画の雰囲気を、主人公のナレーション、全編ジャズ音楽を使うなどして濃厚に漂わせているところは、原作はジョナサン・レサムの同名の小説(未読)の雰囲気を引き継いでいるのかもしれないが、1999年という原作の設定を、1957年に変えたことで、ノワール性は強まったが、犯罪そのものの性質は原作と異なるのではないかと思う。おそらく原作との共通点は、オフビートな探偵ということだろうか(レサム自身、Offbeatな作家と言われているのは確か)。ひょっとしたらそれ以外に共通点がないのかもしれない。
私の母親はチック症というのがどういうものか知っていたが、私はテレビでビートたけしを見てはじめて知った(21世紀にはビートたけしのチック症は消滅したように思うのだが)。この映画でエドワード・ノートン演ずる「マザーレス・ブルックリン」ことライオネルは、これまた私が知らなかった「トゥレット症候群」(Tourette syndrome)を患っている。これはチック症が身体的にあらわれるのではなく、言語・音声であらわれるものということだが、個人的に私は、それを実際に目撃したことはない。
Wikipediaの記述を引用すると:
ここで触れられている汚言症というのが、映画のなかで主人公が患っているもの。Wikipediaの記述によると:
さらに音声チックの一種とあるので、音声チックをWikipediaで
とあって、これには見ていて戸惑いを隠せなかった。実際に日常的に遭遇する症候群ではなかったので、最初、何が起こっているのいぶかった。しかもライオネル/エドワード・ノートンは、しゃっくりをするように、「if」ということばを突発的に出すため、一体何が「もし」なのかと最初のうちはほんとうに不思議でしかたなかったが、しゃっくりのようなもの、それにifという音がついているだけで、意味がないということがわかるまでに時
間がかかった。
この設定は、うっとうしいことこのうえないので、こんなに突然、汚い言葉を吐いたり、「いふ」と発作的に叫んだるする人間に探偵ができるのか、まともな捜査ができるのか、そもそも、みていてうっとうしいし、そうした症状の人間に対する差別的な感情をいだかせてしまうのではないかと心配になるし(全米トゥレット症候群協会は、この映画を好意的にとらえているようなのだが (Edward Norton met and consulted many members of the Tourette's Association of America to prepare for the role. The film has received approval from the organization as well.IMDb))、当然、この設定は、たとえ原作にあっても、映画でははずしたほうがよかったのではないかという感想も生まれてきておかしくない。
まあ、最終的には慣れてくるし、また汚言症というのは、コミュニケーション的みれば、ディスコミュニケーションどころか真のコミュニケーションの達成なので、うっとうしいが、すがすがしさもある。精神分析では、言い間違いとかジョークというものを、ふつうなら抑圧されて口にされることのない本音が噴出する機会と考える(冗談とか言い間違いという口実のもとに本音がいえる)。したがって言い間違いは、本音が言えたといことで真のコミュニケーションが達成されたものともいえる。汚言症となると、これはもっと顕著で本音が言い間違いとかジョークというかたちで加工されることのない、抑圧なきストレートな噴出となる。強いて言えば、病気だからという口実のもとに本音がいえるのだが。
この音声チック、汚言症が、映画全体の主題ともなっているとみることができる。
たとえばこの映画での黒幕といっても公的な人物なのだが、アレック・ボールドウィン扮するモーゼズ・ランドルフは、ロバート・モーゼスをモデルにしている(実在したロバート・モーゼスの兄はポールだったが、映画でもウィレム・デフォー扮する、モーゼス・ランドルフの兄の名前はポール)。フランク・モーゼスとは誰か。またもWikipediaをみると、
ニューヨークの都市計画について関心がなくとも、またアメリカの社会文化史、建築史などについて知らなくとも、このロバート・モーゼスは、もう一人の宿敵の名前ともに日本でも記憶されている。すなわちジェーン・ジェイコブズ。
ジェイコブズの著作は『都市の原理』『アメリカ大都市の死と生』(ともに鹿島出版会)、『市場の倫理 統治の倫理』(ちくま学芸文庫)をはじめてして、いくつか翻訳されていて、日本の読者にもなじみがぶかい――図式的にいえばポストモダン都市論の旗手的存在でもあるのだが、その彼女が計画を凍結させた相手こそロバート・モーゼスだった。『ジェイン・ジェイコブズ ニューヨーク都市計画革命』(マット・ティルナー監督)というドキュメンタリー映画が2018年に日本でも公開されたが、ロバート・モーゼスとの対決がメインとなっていた。
『マザーレス・ブルックリン』でもモーゼス・フランク/アレック・ボールドウィンの都市計画には反対運動が起こっており、またそのモーゼス・フランクの人種差別的言動は、実際のロバート・モーゼスを踏まえているところもある。また映画のなかでモーゼスは、敗退しないが、しかし、実在のロバート・モーゼスの神通力も50年代がピークで、60年代に入ると、その影響力を着実に失っていくことから、映画は、敗北しそうになくても、実は敗北するしかないモーゼスの姿を暗示的に提示しているといえるかもしれない。
そういう意味では、まさに1950年代後半のニューヨークの状況と見事にシンクロしているところがあり、面白い。ノワール映画の結末としても、私などは、もうひとつのオフビートなノワール映画『ブレード・ランナー』を思い出した。結末はおなじではないか。また『ブレード・ランナー』のレプリカンとは、アフリカ系アメリカ人のアレゴリーともいえるので、両作品はシンクロしている。
そしてふたたびチック症に戻れば、モーゼス・フランクの強権的都市開発、再開発プロジェクトは、利権がらみで私腹を肥やしたいかというと、そうでもなく、たんに権力が欲しいという、権力亡者であると語られる。そうなると、ある意味、彼の強引なプロジェクト遂行は、ある意味、やむにやまれる権力衝動のようなもので、それはライオネル/エドワード・ノートンのチック症と選ぶところがないのではないかともいえる。ある意味、映画のなかの全員がチック症ではなかと、主題論的にまとめることもできないことはないのだが、モーゼス・フランク/アレック・ボールドウィンの権力の病理は、ロバート・モーゼスの伝記『パワー・ブローカー』のなかでも指摘されていることで、それを踏襲しているだけかもしれない。
しかし、主人公のチック症は、いまひとつの偉大な映画を思い浮かべないだろうか。私にとっては2019年最高の映画『ジョーカー』である。
あの映画のなかで最初にジョーカーが冒す殺人は、地下鉄の車内において、女性客に嫌がらせをする、クソ証券マンたちに対してであった。証券マン全員がクソではないが、彼らは、日本の裁判の有罪率と同じで99.9パーセント、殺されても当然のクソだと私は思っているのだが、そのクソ、エリート証券マンたちの怒りをかったのはジョーカーが笑っていることだった。ジョーカーの、いわゆるピエロの笑い顔というのは、意図的なものか、それこそ無意識のチック症のようなものかはっきりしないのだが、映画のなかでは、何を笑っているのだと問いただされて、ジョーカーは、これは病気で笑ってしまう、笑い病だから許してほしいというようなことをいうのだが、女性への嫌がらせ、さらには彼らのビジネスを、意図的に笑われたと思う証券マンたちは、ジョーカーを袋叩きにする。そしてそこでたまたま拳銃を所持していたジョーカーが射殺する。映画のなかでのジョーカー誕生へ向けての最初の一撃のシーンだった。
映画『ジョーカー』における笑いは、強烈で、奢れるもの、皇帝を王座からひきずりおろすほどの破壊力をもつ。しかも、この強烈な武器は、無償のもの、弱き者、貧民の最終兵器である。その強烈さは、いくら病気で意図的なものではないと弁明しても、許されないことである。『マザーレス・ブルックリン』のライオネルのチック症は、病気だからということで周囲から許されてしまうので、そこに人間関係の温かさも感じ取れるのだが、破壊性や攻撃性が乏しいということはいえるだろう。しかし、発作的にあらわれる抑制できない雄叫びは、あるいは「イフ」は、いまこそ求められるひとつの好機ではないだろうか。もう怒りや下品な言葉を抑える必要なはい。それを解放すべきではないか。これがこの映画に付与しているのではないか――1957年という、ある意味、現代から隔絶しているノスタルジックな過去物語を『ジョーカー』経由で私たちの、いまとここに接続することにある有意味性を。
追記 原作者Jonatahn Lethemは、「レセム」ではなく「リーセム」ではないかと思うのだが、これは映画会社に責任はない。早川書房の翻訳では、どれも「レセム」になっているし、早川書房の人名表記はつねに正確だと思うので、根拠のある発音表記かもしれない(作家本人がそういっているのかもしれない)。また万が一、早川書房の表記がまちがっていたとしても、すでに「レサム」というサーネイムというかファミリーネイムで登録されている以上、映画会社も、登録名を使うほかなかったかもしれないので。
ハードボイルド・ノワール映画の雰囲気を、主人公のナレーション、全編ジャズ音楽を使うなどして濃厚に漂わせているところは、原作はジョナサン・レサムの同名の小説(未読)の雰囲気を引き継いでいるのかもしれないが、1999年という原作の設定を、1957年に変えたことで、ノワール性は強まったが、犯罪そのものの性質は原作と異なるのではないかと思う。おそらく原作との共通点は、オフビートな探偵ということだろうか(レサム自身、Offbeatな作家と言われているのは確か)。ひょっとしたらそれ以外に共通点がないのかもしれない。
私の母親はチック症というのがどういうものか知っていたが、私はテレビでビートたけしを見てはじめて知った(21世紀にはビートたけしのチック症は消滅したように思うのだが)。この映画でエドワード・ノートン演ずる「マザーレス・ブルックリン」ことライオネルは、これまた私が知らなかった「トゥレット症候群」(Tourette syndrome)を患っている。これはチック症が身体的にあらわれるのではなく、言語・音声であらわれるものということだが、個人的に私は、それを実際に目撃したことはない。
Wikipediaの記述を引用すると:
トゥレット障害(トゥレットしょうがい、英語: Tourette syndrome)またはトゥレット症候群とは、チックという一群の神経精神疾患のうち、音声や行動の症状を主体とし慢性の経過をたどるものを指す。小児期に発症し、軽快・増悪を繰り返しながら慢性に経過する。トゥレット症候群の約半数は18歳までにチックが消失、または予後は良いとされている。
チックの症状のひとつに汚言症があり、意図せずに卑猥なまたは冒涜的な言葉を発する事から社会的に受け入れられず二次的に自己評価が低下したり抑うつ的になったりすることがある。ただし、この症状が発症することは稀で子供や軽症例では殆ど見られない。
ここで触れられている汚言症というのが、映画のなかで主人公が患っているもの。Wikipediaの記述によると:
汚言症(おげんしょう、英:Coprolalia)とは、卑猥語や罵倒語(汚言、醜語、糞語、猥言、猥語)を不随意的に発する症状。猥褻語多用癖。複雑音声チックの一種であり、チック症の身体症状と同じく、突発的かつ急なリズムで繰り返される。その内容は人によって個人差がある。
トゥレット症候群の重篤な多発性チックの症状として最も特徴的と考えられていたが、今日では決定的な診断基準ではない。むしろトゥレット症候群の中でも少数派だがあまりにも特徴的なので目に付きやすいという側面の方が強い。また、僅かながら他の疾患にもみられる。
さらに音声チックの一種とあるので、音声チックをWikipediaで
音声チックもある。そのため、例えば学校等の公共の場ではチックを我慢し、家などに帰ると安心し、抑えていたチックを起こす場合もある。以下略。
咳払い、短い叫び声、汚言症(罵りや卑猥な内容)、うなり声、ため息をつくなど
一見チックに意味があるようにみえることがあり、これが更なる誤解を生むことがある。またチックはある程度抑制することができる場合
とあって、これには見ていて戸惑いを隠せなかった。実際に日常的に遭遇する症候群ではなかったので、最初、何が起こっているのいぶかった。しかもライオネル/エドワード・ノートンは、しゃっくりをするように、「if」ということばを突発的に出すため、一体何が「もし」なのかと最初のうちはほんとうに不思議でしかたなかったが、しゃっくりのようなもの、それにifという音がついているだけで、意味がないということがわかるまでに時
間がかかった。
この設定は、うっとうしいことこのうえないので、こんなに突然、汚い言葉を吐いたり、「いふ」と発作的に叫んだるする人間に探偵ができるのか、まともな捜査ができるのか、そもそも、みていてうっとうしいし、そうした症状の人間に対する差別的な感情をいだかせてしまうのではないかと心配になるし(全米トゥレット症候群協会は、この映画を好意的にとらえているようなのだが (Edward Norton met and consulted many members of the Tourette's Association of America to prepare for the role. The film has received approval from the organization as well.IMDb))、当然、この設定は、たとえ原作にあっても、映画でははずしたほうがよかったのではないかという感想も生まれてきておかしくない。
まあ、最終的には慣れてくるし、また汚言症というのは、コミュニケーション的みれば、ディスコミュニケーションどころか真のコミュニケーションの達成なので、うっとうしいが、すがすがしさもある。精神分析では、言い間違いとかジョークというものを、ふつうなら抑圧されて口にされることのない本音が噴出する機会と考える(冗談とか言い間違いという口実のもとに本音がいえる)。したがって言い間違いは、本音が言えたといことで真のコミュニケーションが達成されたものともいえる。汚言症となると、これはもっと顕著で本音が言い間違いとかジョークというかたちで加工されることのない、抑圧なきストレートな噴出となる。強いて言えば、病気だからという口実のもとに本音がいえるのだが。
この音声チック、汚言症が、映画全体の主題ともなっているとみることができる。
たとえばこの映画での黒幕といっても公的な人物なのだが、アレック・ボールドウィン扮するモーゼズ・ランドルフは、ロバート・モーゼスをモデルにしている(実在したロバート・モーゼスの兄はポールだったが、映画でもウィレム・デフォー扮する、モーゼス・ランドルフの兄の名前はポール)。フランク・モーゼスとは誰か。またもWikipediaをみると、
ロバート・モーゼス(1888年12月18日 – 1981年7月29日、英語: Robert Moses)はアメリカの都市建設者・政治家で、特に20世紀中葉にニューヨーク市の大改造を行ない、「マスター・ビルダー」(Master Builder)との異名を取り、19世紀後半皇帝ナポレオン3世治下でパリ改造を推進したジョルジュ・オスマンに比肩される。1981年7月29日、92歳の高齢でニューヨークに逝った……
ニューヨークの都市計画について関心がなくとも、またアメリカの社会文化史、建築史などについて知らなくとも、このロバート・モーゼスは、もう一人の宿敵の名前ともに日本でも記憶されている。すなわちジェーン・ジェイコブズ。
ジェイコブズの著作は『都市の原理』『アメリカ大都市の死と生』(ともに鹿島出版会)、『市場の倫理 統治の倫理』(ちくま学芸文庫)をはじめてして、いくつか翻訳されていて、日本の読者にもなじみがぶかい――図式的にいえばポストモダン都市論の旗手的存在でもあるのだが、その彼女が計画を凍結させた相手こそロバート・モーゼスだった。『ジェイン・ジェイコブズ ニューヨーク都市計画革命』(マット・ティルナー監督)というドキュメンタリー映画が2018年に日本でも公開されたが、ロバート・モーゼスとの対決がメインとなっていた。
『マザーレス・ブルックリン』でもモーゼス・フランク/アレック・ボールドウィンの都市計画には反対運動が起こっており、またそのモーゼス・フランクの人種差別的言動は、実際のロバート・モーゼスを踏まえているところもある。また映画のなかでモーゼスは、敗退しないが、しかし、実在のロバート・モーゼスの神通力も50年代がピークで、60年代に入ると、その影響力を着実に失っていくことから、映画は、敗北しそうになくても、実は敗北するしかないモーゼスの姿を暗示的に提示しているといえるかもしれない。
そういう意味では、まさに1950年代後半のニューヨークの状況と見事にシンクロしているところがあり、面白い。ノワール映画の結末としても、私などは、もうひとつのオフビートなノワール映画『ブレード・ランナー』を思い出した。結末はおなじではないか。また『ブレード・ランナー』のレプリカンとは、アフリカ系アメリカ人のアレゴリーともいえるので、両作品はシンクロしている。
そしてふたたびチック症に戻れば、モーゼス・フランクの強権的都市開発、再開発プロジェクトは、利権がらみで私腹を肥やしたいかというと、そうでもなく、たんに権力が欲しいという、権力亡者であると語られる。そうなると、ある意味、彼の強引なプロジェクト遂行は、ある意味、やむにやまれる権力衝動のようなもので、それはライオネル/エドワード・ノートンのチック症と選ぶところがないのではないかともいえる。ある意味、映画のなかの全員がチック症ではなかと、主題論的にまとめることもできないことはないのだが、モーゼス・フランク/アレック・ボールドウィンの権力の病理は、ロバート・モーゼスの伝記『パワー・ブローカー』のなかでも指摘されていることで、それを踏襲しているだけかもしれない。
しかし、主人公のチック症は、いまひとつの偉大な映画を思い浮かべないだろうか。私にとっては2019年最高の映画『ジョーカー』である。
あの映画のなかで最初にジョーカーが冒す殺人は、地下鉄の車内において、女性客に嫌がらせをする、クソ証券マンたちに対してであった。証券マン全員がクソではないが、彼らは、日本の裁判の有罪率と同じで99.9パーセント、殺されても当然のクソだと私は思っているのだが、そのクソ、エリート証券マンたちの怒りをかったのはジョーカーが笑っていることだった。ジョーカーの、いわゆるピエロの笑い顔というのは、意図的なものか、それこそ無意識のチック症のようなものかはっきりしないのだが、映画のなかでは、何を笑っているのだと問いただされて、ジョーカーは、これは病気で笑ってしまう、笑い病だから許してほしいというようなことをいうのだが、女性への嫌がらせ、さらには彼らのビジネスを、意図的に笑われたと思う証券マンたちは、ジョーカーを袋叩きにする。そしてそこでたまたま拳銃を所持していたジョーカーが射殺する。映画のなかでのジョーカー誕生へ向けての最初の一撃のシーンだった。
映画『ジョーカー』における笑いは、強烈で、奢れるもの、皇帝を王座からひきずりおろすほどの破壊力をもつ。しかも、この強烈な武器は、無償のもの、弱き者、貧民の最終兵器である。その強烈さは、いくら病気で意図的なものではないと弁明しても、許されないことである。『マザーレス・ブルックリン』のライオネルのチック症は、病気だからということで周囲から許されてしまうので、そこに人間関係の温かさも感じ取れるのだが、破壊性や攻撃性が乏しいということはいえるだろう。しかし、発作的にあらわれる抑制できない雄叫びは、あるいは「イフ」は、いまこそ求められるひとつの好機ではないだろうか。もう怒りや下品な言葉を抑える必要なはい。それを解放すべきではないか。これがこの映画に付与しているのではないか――1957年という、ある意味、現代から隔絶しているノスタルジックな過去物語を『ジョーカー』経由で私たちの、いまとここに接続することにある有意味性を。
追記 原作者Jonatahn Lethemは、「レセム」ではなく「リーセム」ではないかと思うのだが、これは映画会社に責任はない。早川書房の翻訳では、どれも「レセム」になっているし、早川書房の人名表記はつねに正確だと思うので、根拠のある発音表記かもしれない(作家本人がそういっているのかもしれない)。また万が一、早川書房の表記がまちがっていたとしても、すでに「レサム」というサーネイムというかファミリーネイムで登録されている以上、映画会社も、登録名を使うほかなかったかもしれないので。
posted by ohashi at 15:05| 映画
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2020年01月11日
『パラサイト』2
一般上映がはじまったばかりだが、先行上映でみてしまったとはいえ、まだネタバレはしないので、パラサイトについての一般論を。
トリクルダウン理論というのがある。トリクルダウン理論(trickle-down effect )とは、「富める者が富めば、貧しい者にも自然に富が滴り落ちる(トリクルダウンする)」とする経済理論であるが、立証されていないため「トリクルダウン仮説」とも呼ばるとWikipediaにある。
この理論では、富を蓄積するのは上層の富裕層である。そして富裕層が富めば富むほど、その富のおこぼれを貧困層は受け取ることになり、最終的に貧困層はなくなるということだが、現在、世界中で中間層が没落し、半地下生活を余儀なくされ、貧困層はふえることこそあれ、減ることのない格差社会ができあがっているときに、このトリクルダウン理論は、仮設どころか、ただのイデオロギーにすぎなくなっている。つまり大嘘だということである。
ただ留意すべきは、このトリクルダウン理論は、パラサイト理論でもあるということだ。富裕層に寄生していれば貧困層もなんとやっていける。富裕層の失敗は貧困層にもろにはねかえってくるのだが、ただ、富裕層が元気で潤っていれば、貧困層もそれに寄生して安泰であるという理論である。
パラサイトとは、自分で汗水たらし頭脳や身体を酷使して収益をあげ金銭を稼いだり資産を増やしたりせず、富をもっている者に寄生して、そこから富を吸い取る犯罪者的な卑怯者であるとすれば、ほんとうのパラサイトは誰かということになる。
お金を持っている人間から金をしぼりとればいいというのは古典的な社会システム論である。現代の社会では、富裕層が貧困層からお金を吸い取っている。かつて『マトリックス』という映画があって、未来の地球では人間は人間乾電池として体内の微弱電流を利用されるために、容器に入れら眠らされている。眠りのなかで地球上で通常の生活を送っているという夢をみせられる。未来の地球上の暮らしは幻で、ほんとうの現実は、人間乾電池として水槽に浮かんでいる人間たちの群れとなる。
確かに人間の体内には微弱電流があるのだが、それをいくらあつめたところで巨大コンピューターを動かせるほどの電気が生まれるわけはないという、映画に大差いる批判があったが、たぶんその批判は正しいのだろう。しかし、これはコンピュータを動かす話ではなくて、現代の経済システムの話である。現在は、世界中にたくさんいる貧困層から、さらにお金を搾り取るシステムである。貧民ひとりひとりから搾り取れるお金はたかがしれている。しかしそれでもたくさんの貧民から少額でもしぼりとれれば、巨万の富になる。貧しい者は骨の髄まで搾り取られる。なにもしない富裕層から、苦しむこともなく、必死で働くこともないひとにぎりの富裕層が、貧困層からしぼりとれるだけしぼりとる。貧困層がふえればふえるほど収益はあがる。富裕層は肥え太る。そう、富裕層こそ、唾棄すべきパラサイトなのだ。このパラサイトを社会が一掃しない限り、人類に未来はないだろう。
庶民(中間層、貧困層)が自分はパラサイトだと卑下しているうちには、搾取されるだけである。真のパラサイトは富裕層である。庶民は、自分たちがパラサイトではなく、パラサイトの犠牲者であることを自覚することが必要であろう。一歩踏み出すためにも。
トリクルダウン理論というのがある。トリクルダウン理論(trickle-down effect )とは、「富める者が富めば、貧しい者にも自然に富が滴り落ちる(トリクルダウンする)」とする経済理論であるが、立証されていないため「トリクルダウン仮説」とも呼ばるとWikipediaにある。
この理論では、富を蓄積するのは上層の富裕層である。そして富裕層が富めば富むほど、その富のおこぼれを貧困層は受け取ることになり、最終的に貧困層はなくなるということだが、現在、世界中で中間層が没落し、半地下生活を余儀なくされ、貧困層はふえることこそあれ、減ることのない格差社会ができあがっているときに、このトリクルダウン理論は、仮設どころか、ただのイデオロギーにすぎなくなっている。つまり大嘘だということである。
ただ留意すべきは、このトリクルダウン理論は、パラサイト理論でもあるということだ。富裕層に寄生していれば貧困層もなんとやっていける。富裕層の失敗は貧困層にもろにはねかえってくるのだが、ただ、富裕層が元気で潤っていれば、貧困層もそれに寄生して安泰であるという理論である。
パラサイトとは、自分で汗水たらし頭脳や身体を酷使して収益をあげ金銭を稼いだり資産を増やしたりせず、富をもっている者に寄生して、そこから富を吸い取る犯罪者的な卑怯者であるとすれば、ほんとうのパラサイトは誰かということになる。
お金を持っている人間から金をしぼりとればいいというのは古典的な社会システム論である。現代の社会では、富裕層が貧困層からお金を吸い取っている。かつて『マトリックス』という映画があって、未来の地球では人間は人間乾電池として体内の微弱電流を利用されるために、容器に入れら眠らされている。眠りのなかで地球上で通常の生活を送っているという夢をみせられる。未来の地球上の暮らしは幻で、ほんとうの現実は、人間乾電池として水槽に浮かんでいる人間たちの群れとなる。
確かに人間の体内には微弱電流があるのだが、それをいくらあつめたところで巨大コンピューターを動かせるほどの電気が生まれるわけはないという、映画に大差いる批判があったが、たぶんその批判は正しいのだろう。しかし、これはコンピュータを動かす話ではなくて、現代の経済システムの話である。現在は、世界中にたくさんいる貧困層から、さらにお金を搾り取るシステムである。貧民ひとりひとりから搾り取れるお金はたかがしれている。しかしそれでもたくさんの貧民から少額でもしぼりとれれば、巨万の富になる。貧しい者は骨の髄まで搾り取られる。なにもしない富裕層から、苦しむこともなく、必死で働くこともないひとにぎりの富裕層が、貧困層からしぼりとれるだけしぼりとる。貧困層がふえればふえるほど収益はあがる。富裕層は肥え太る。そう、富裕層こそ、唾棄すべきパラサイトなのだ。このパラサイトを社会が一掃しない限り、人類に未来はないだろう。
庶民(中間層、貧困層)が自分はパラサイトだと卑下しているうちには、搾取されるだけである。真のパラサイトは富裕層である。庶民は、自分たちがパラサイトではなく、パラサイトの犠牲者であることを自覚することが必要であろう。一歩踏み出すためにも。
posted by ohashi at 19:07| 映画・コメント
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2020年01月09日
『家族を想うとき』
原題のSorry we have missed you.というのはどんな意味なのかと思っていたら、宅配便の不在票に最初からかかれている言葉だとわかった。「本日、残念ながら、私たちは、あなたにお会いできませんでした」という意味だと映画の途中でわかった。たぶん、これは決まり文句なのだろうから、それ以外の意味は考えられない、あるいは考えてはいけないのかもしれないが、「私たちは、あなたがいなくてさびしい、あなたにあいたい」という意味にもなろう。おそらく、この不在票の決まり文句と、もうひとつの意味、そして宅配便、それだけで、この映画が語り尽くせるのかもしれない。
ケン・ローチ監督の作品は、いつも深い感銘を受けるのだが、この作品は、これまでのベストのひとつといっても過言ではない。あそこで終わるとは思わなかった、まさにカタルシスなしの映画に、私は打ちのめされた。怒りと悲しみ、絶望と閉塞感が、頭のなかに渦巻いて、自分の生き様の不定形性に圧倒された。つまり、ぼーとして生きてきた自分を痛感した。今が非常事態で、警報が鳴っているのにまったく気づかなかった。
比較的最近、日本でも、フードデリバリーの大手Uber Eatsと配達員とのトラブルがあって、労働組合「ウーバーイーツユニオン」を発足したというニュースがあったが、同社の配達員は、雇用契約ではなく業務委託契約で勤務しているため労働法が適用されないという。この映画でも主人公は配達会社の社員になるのではなく、個人事業主として業務委託契約をする。個人事業主と、自営業あるいはフリーランスとどう違うのは、私には定かでないが、個人事業主というと、なにか聞こえがいいが、要は、社員ではないから、会社が社員を守ったり、その要求に耳を貸すことはない。固定給もないし、社員でないから労働者としての基本的権利なり人権など完全に無視される。保険も年金も関係がない。会社が面倒見てくれない。ようは、そういうかたちで安い賃金で労働者をやとって企業収益をあげる。
Uber Eatsの配達員も、この映画の配達員も、いや労働者の多くが、ただただ搾取されて、同じであることがわかった。労働者の人権も権利も福祉もなく、ただただ搾取されるだけの貧困層になっている。ケン・ローチ監督の映画に登場する労働者階層の人びとは、みな立派な人たちである。実際、それは誇張でもなんでもなく、真実の反映であろう。ところが、こうした階層の人々がほんとうに没落してゆく。なんらかの解決案を示そうとする人たちもいない。いや、示すことができない。
『パラサイト』の感想のときに、それを『万引き家族』と『ジョーカー』に肩を並べる作品であると述べたが、この『家族を想う時』も、この三作品にさらにくわわる四番目の映画となるだろう。それはまた『パラサイト』と同じ、父親が迷って消える話である。父親をふたたび帰還させることができるのはいつなのだろうか。『パラサイト』も『家族も』安易な希望は拒否している。別に父親だから、男性だから、家族や社会をささえるべきだとうことはないので、ジェンダーを特定しないが、社会の柱、あるいは家族の柱となる人間が、いまは没落し排除されていない状態である。
Sorry we have missed you.
追記
この映画のなかで主人公が宅配業務をつづけるとき、娘といっしょに配達する場面がある。元気な娘が父親を先導して建物の廊下を走る場面は活力にあふれ、見ていても幸せな気分にさせられる。
もちろん、このとき不在票に娘が書いたコメントが後から客からのクレームを呼ぶことになるのだが、さらに娘といっしょに配達したことに対して会社側から注意される。
ただし会社の社員ではなく、個人事業主として会社と契約をむすんでいるのであって,車も会社のものではなく、自分のものなので家族を乗せても問題ないはずである。
事実、そうなのだ。ずいぶん昔のことになるが、私がイギリスに住んでいたころ、日本から到着してまもなくのころでもあったのだが、日本からの荷物をフラットが入っている建物の玄関で受け取った。重い荷物であることはわかっていたから、運送業者に運んでもらおうと思っていた。と、そこで玄関のドアを開けたら、宅配業者の男性と、たぶんその男性の息子だと思われる小さな男の子が、そこにいた。私は運送業者が子供といっしょに荷物を配送するさまを想像もできなかったので、驚いた。また私は背が高いほうではなく、日本人男性の平均身長よりも背が低いのだが、その私よりも、そのイギリス人の男性は細く小柄で、そんな男性の息子の前で、荷物を階上まで運んでくれとも言えず玄関で受け取るにとどめたのだが、それはともかく、子供と一緒に荷物を持ってくることには日本ではないことなので驚いた。
そしてこの映画をみて、もうあれから何年たったのだろうか、はじめて私はあのときどうすればよかったのわかった。あのとき私は、その子供にチップをあげればよかったのだ。もちろんそのとき財布をもって玄関を開けたわけではないので、すぐにチップを渡せる態勢になかったし、日本にそういう習慣がなかったので、そのときはなんとも思わなかったのだが、とにかく、子供にチップをあげるべきだったと、この映画をみて後悔することになった。
で、勝手な推測だが、運送業者や宅配業者が子供と一緒に宅配する(子供へのチップめあてもあるだろうが)のは英国の伝統のようなものと化していたのだ。それが労働者から搾取するしかない企業側から文句をいわれ家族の交流が阻害される。個人事業主としての契約にもかかわらず。映画のなかで妻である女性が、運送業者の上司に「私たち家族を馬鹿にしないで」と怒鳴っていたが、あれは英語を直訳すると「私たち家族をめちゃくちゃにしないで」というような意味だった。この格差社会において破壊される家族。それがこの映画のテーマだった。『パラサイト』と同じなのだが。
ケン・ローチ監督の作品は、いつも深い感銘を受けるのだが、この作品は、これまでのベストのひとつといっても過言ではない。あそこで終わるとは思わなかった、まさにカタルシスなしの映画に、私は打ちのめされた。怒りと悲しみ、絶望と閉塞感が、頭のなかに渦巻いて、自分の生き様の不定形性に圧倒された。つまり、ぼーとして生きてきた自分を痛感した。今が非常事態で、警報が鳴っているのにまったく気づかなかった。
比較的最近、日本でも、フードデリバリーの大手Uber Eatsと配達員とのトラブルがあって、労働組合「ウーバーイーツユニオン」を発足したというニュースがあったが、同社の配達員は、雇用契約ではなく業務委託契約で勤務しているため労働法が適用されないという。この映画でも主人公は配達会社の社員になるのではなく、個人事業主として業務委託契約をする。個人事業主と、自営業あるいはフリーランスとどう違うのは、私には定かでないが、個人事業主というと、なにか聞こえがいいが、要は、社員ではないから、会社が社員を守ったり、その要求に耳を貸すことはない。固定給もないし、社員でないから労働者としての基本的権利なり人権など完全に無視される。保険も年金も関係がない。会社が面倒見てくれない。ようは、そういうかたちで安い賃金で労働者をやとって企業収益をあげる。
Uber Eatsの配達員も、この映画の配達員も、いや労働者の多くが、ただただ搾取されて、同じであることがわかった。労働者の人権も権利も福祉もなく、ただただ搾取されるだけの貧困層になっている。ケン・ローチ監督の映画に登場する労働者階層の人びとは、みな立派な人たちである。実際、それは誇張でもなんでもなく、真実の反映であろう。ところが、こうした階層の人々がほんとうに没落してゆく。なんらかの解決案を示そうとする人たちもいない。いや、示すことができない。
『パラサイト』の感想のときに、それを『万引き家族』と『ジョーカー』に肩を並べる作品であると述べたが、この『家族を想う時』も、この三作品にさらにくわわる四番目の映画となるだろう。それはまた『パラサイト』と同じ、父親が迷って消える話である。父親をふたたび帰還させることができるのはいつなのだろうか。『パラサイト』も『家族も』安易な希望は拒否している。別に父親だから、男性だから、家族や社会をささえるべきだとうことはないので、ジェンダーを特定しないが、社会の柱、あるいは家族の柱となる人間が、いまは没落し排除されていない状態である。
Sorry we have missed you.
追記
この映画のなかで主人公が宅配業務をつづけるとき、娘といっしょに配達する場面がある。元気な娘が父親を先導して建物の廊下を走る場面は活力にあふれ、見ていても幸せな気分にさせられる。
もちろん、このとき不在票に娘が書いたコメントが後から客からのクレームを呼ぶことになるのだが、さらに娘といっしょに配達したことに対して会社側から注意される。
ただし会社の社員ではなく、個人事業主として会社と契約をむすんでいるのであって,車も会社のものではなく、自分のものなので家族を乗せても問題ないはずである。
事実、そうなのだ。ずいぶん昔のことになるが、私がイギリスに住んでいたころ、日本から到着してまもなくのころでもあったのだが、日本からの荷物をフラットが入っている建物の玄関で受け取った。重い荷物であることはわかっていたから、運送業者に運んでもらおうと思っていた。と、そこで玄関のドアを開けたら、宅配業者の男性と、たぶんその男性の息子だと思われる小さな男の子が、そこにいた。私は運送業者が子供といっしょに荷物を配送するさまを想像もできなかったので、驚いた。また私は背が高いほうではなく、日本人男性の平均身長よりも背が低いのだが、その私よりも、そのイギリス人の男性は細く小柄で、そんな男性の息子の前で、荷物を階上まで運んでくれとも言えず玄関で受け取るにとどめたのだが、それはともかく、子供と一緒に荷物を持ってくることには日本ではないことなので驚いた。
そしてこの映画をみて、もうあれから何年たったのだろうか、はじめて私はあのときどうすればよかったのわかった。あのとき私は、その子供にチップをあげればよかったのだ。もちろんそのとき財布をもって玄関を開けたわけではないので、すぐにチップを渡せる態勢になかったし、日本にそういう習慣がなかったので、そのときはなんとも思わなかったのだが、とにかく、子供にチップをあげるべきだったと、この映画をみて後悔することになった。
で、勝手な推測だが、運送業者や宅配業者が子供と一緒に宅配する(子供へのチップめあてもあるだろうが)のは英国の伝統のようなものと化していたのだ。それが労働者から搾取するしかない企業側から文句をいわれ家族の交流が阻害される。個人事業主としての契約にもかかわらず。映画のなかで妻である女性が、運送業者の上司に「私たち家族を馬鹿にしないで」と怒鳴っていたが、あれは英語を直訳すると「私たち家族をめちゃくちゃにしないで」というような意味だった。この格差社会において破壊される家族。それがこの映画のテーマだった。『パラサイト』と同じなのだが。
posted by ohashi at 17:07| 映画
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2020年01月06日
『カツベン!』
周防正行監督の作品は、予想どおりの映画であったが、同時に、予想をうわまわるゆるさで、面白いのだが、そのゆるさに苛立ちを感じるところもあった。
映画あるいは映画製作を扱うメタ映画の場合、お約束となるのは、映画の内容そのものが、当時の映画の内容じみてくるということである。
いくらサイレント映画の製作や興業を扱う内容だからといって、その映画自体が、サイレント映画のドタバタ喜劇になる必要はないのだが、こういう映画のつねとして、サイレント映画にまつわることを扱う映画そのものが、サイレント映画じみてくるのである。しかし、それで面白くなるかというと、そうでもない。おそらく誰もが感じるだろうが、最後のほうの自転車での追いかけっこは、自転車を降りて走ったほうがずっと早いと思わせるくらいに、ゆるゆるのドタバタ劇なのだが、これには反発を感ずる観客もいるだろう。また異論もあろう。というのも当時のサイレント映画におけるドタバタは、今では考えられなほど危険なもので、スタントマンのなかには怪我人や死者がたくさん出たし、まさにドタバタシーンは命がけであった(俳優がスタントマンなしでも演じていたこともよくあった)。それは当時のサイレント映画をみてみればわかる。ところが、この映画は何を勘違いしたのか、ゆるい追いかけっこを展開する。そして映画もクライマックスになろうかというとき、このゆるさは、苛立たしい。そのあたりに脚本のまずさがどうしても際立ってしまう。
ちなみにサイレント映画を私は子供の頃、毎日みていた。もちろん映画館ではサイレント映画は上映されていない。ではどこでかといと、それこそ光線式リモコンでチャンネルを動かしたテレビ(1月1日の記事参照)で、毎日、見ていたのだ。アメリカのサイレント映画中心だが、それをテレビで放送していた。映像と映像との間に文字が入るというサイレント映画そのままに、テレビ局でナレーションを付け、また音楽もつけていた。さながら茶の間がサイレント映画劇場と化したのだが、映画館ではなくテレビでサイレント映画をみていた私たちの中高年世代にとって、すくなくともサイレント映画のアクションシーンは、たとえどんなに動きがぎくしゃくしていてリアル感がないとしても、そのすごさには圧倒されまくっていた。もちろんそれを再現することは不可能だし、再現する必要もないが、まちがった再現法は避けてもらいたかった。
またサイレント映画の内容も起伏あり波乱万丈の展開ありで、決して単調なものではないのだが、解像度の悪さとぎくしゃくした動きなどから、どのサイレント映画をとってみても、同じにみえるような、画一性が際立つきらいがある――いまからみればの話だが。
この映画では登場人物を全員フラットにして、そこから映画ならびに映画の製作と受容そのものの魅力を立ち上げようとしたのかもしれない。たしかに成田をはじめ活弁師の語りの魅力についてこの映画はあらためて再認識させてくれるのだが、そうだとしても、ここでの映画の製作と受容の魅力と言うのは、活弁を除けば、ある意味、フラットで変化とか深みとか起伏にとむものではないし、サイレント映画がそもそも今の眼からみると、すでに指摘したようにフラットな印象しかあたえたないため、フラットによってフラットなものを救出しようとしてもむりがある。
さらにいうとこの映画でフラットな登場人物はみんな役立たずである。フラットにシンプルに役立たず。これは周防正行監督の喜劇作品の場合、興味深い喜劇的効果をうむし、シリアスドラマの場合には深みのある陰影を与えることにもなるのだが、全員役立たずの場合、そこにあるのは、いらだたしい単調さのみである。つまり人物の性格にみられる意外性というのが全くない。意外性などなくてもいいのだが、ただ、全体のバランスとして、ここでそれがないとつまらなくなる。
また映画では映画館のなかのようすがみえるし、それを私たち観客は映画館でみているという、二重三重の入れ子構造になっているのだが、映画の観客と映画館の観客との間にある種の緊張関係が生まれてもおかしくないのだが、二種類の観客との間に相互作用あるいは化学反応がおこったかどうか定かではない。
★
ここまでは素朴な印象というか感想だが、この映画から教えてもらったことは多い。そもそもサイレント映画といいながら、サイレントではなかったことは、この映画のなかで字幕で示される稲垣浩監督の言葉からも、またこの映画そのものからもわかる――弁士がいて、楽隊がいて、言葉・朗誦と楽器に演奏による、およそ沈黙とは無縁の世界が映画館に立ち上げられていた。
つまりフィルムに定着された映像は、完成体というよりも、さらに加工される素材でしかなく、そこに言葉や音楽が容赦なく浴びせかけられた。映画とは、まさにそうした加工されたものを鑑賞するのであって、生の素材としてのフィルム映像は、おそらく今でも鑑賞の対象ではないのだ。もちろん活弁師はいなくなり、映画にはサウンドトラックによって音声や音楽が入るようになった。映画の自己完結性は高まったとはいえ、映画は紹介、レヴュー、評論、解釈と、さまざまな言説に囲繞され、その内容なり手法なり評価を確定されてきた、というか未完のまま送り出され、受け継がれることになった。現代においても映画の素材性はいささかなりとも減じていないのだ。
どんなアクシデント、失敗、事故でも弁士の手にかかれば、有意味なシークエンスなりシーンへと変貌を遂げる(この映画のエピソード参照)。弁士なくして、また弁士なきあとも言説なくして映画は完成あるいは完成体へと到達しない。
これはみかたによれば、オリジナルへの敬意を欠いた加工・変形である、いたずらであり落書きでもある。
また弁士時代には、弁士間の競争があり、弁士のナレーションは、つぎつぎと上書きされ、新たな解釈あるいは新たな情感が生み出された。それはよく言えばパリンプセスト(重ね書き)であり、悪く言えば落書き的よごしであるが、たとえどちらを主軸にするにせよ、映画はその誕生当初から独立し自己完結することなく、さまざまに利用されてきた。
いや、利用というと、利用されないオリジナルがあり、それに対する利用(それも一次だけでなく、二次、三次とつづくような)があるかのようだが、それはない。オリジナルそのものが利用であり、利用なくして存在し完結する映画はなかった。
もちろん映画館に住民を集め、上映中、空き家になった家から貴重品から家具調度までを盗むというのは最低の映画興行利用だが、そこまで悪辣なものでなくても、映画は常にいつも利用されてきた(いや映画館で没入している観客から財布を掏ることもよくおこなわれたにちがいない――映画と掏りとの関係は『カサブランカ』参照)。お金儲けの手段、あるいは強盗の手段、さらには人身売買からプロパガンダ的利用にいたるまで。こう考えると、映画製作や興業は、サイレント映画のドタバタであり尽きせぬ犯罪の連鎖にもみえてくる。ドタバタ喜劇映画は、映画そのものが抜け出せなくなる陥穽のアレゴリーであったかもしれない。
こんなふうに考えると、この映画『カツベン!』は、映画史のまさにアレゴリーそのものともなっているのではないかと思えてくる。ここにあるのは映画に対する愛とかリスペクトというよりも(いや、それはあるのだろうが)、同時に映画の黎明期を起点とした映画史の総体への冷徹なまなざしであるように思えてならない。
映画あるいは映画製作を扱うメタ映画の場合、お約束となるのは、映画の内容そのものが、当時の映画の内容じみてくるということである。
いくらサイレント映画の製作や興業を扱う内容だからといって、その映画自体が、サイレント映画のドタバタ喜劇になる必要はないのだが、こういう映画のつねとして、サイレント映画にまつわることを扱う映画そのものが、サイレント映画じみてくるのである。しかし、それで面白くなるかというと、そうでもない。おそらく誰もが感じるだろうが、最後のほうの自転車での追いかけっこは、自転車を降りて走ったほうがずっと早いと思わせるくらいに、ゆるゆるのドタバタ劇なのだが、これには反発を感ずる観客もいるだろう。また異論もあろう。というのも当時のサイレント映画におけるドタバタは、今では考えられなほど危険なもので、スタントマンのなかには怪我人や死者がたくさん出たし、まさにドタバタシーンは命がけであった(俳優がスタントマンなしでも演じていたこともよくあった)。それは当時のサイレント映画をみてみればわかる。ところが、この映画は何を勘違いしたのか、ゆるい追いかけっこを展開する。そして映画もクライマックスになろうかというとき、このゆるさは、苛立たしい。そのあたりに脚本のまずさがどうしても際立ってしまう。
ちなみにサイレント映画を私は子供の頃、毎日みていた。もちろん映画館ではサイレント映画は上映されていない。ではどこでかといと、それこそ光線式リモコンでチャンネルを動かしたテレビ(1月1日の記事参照)で、毎日、見ていたのだ。アメリカのサイレント映画中心だが、それをテレビで放送していた。映像と映像との間に文字が入るというサイレント映画そのままに、テレビ局でナレーションを付け、また音楽もつけていた。さながら茶の間がサイレント映画劇場と化したのだが、映画館ではなくテレビでサイレント映画をみていた私たちの中高年世代にとって、すくなくともサイレント映画のアクションシーンは、たとえどんなに動きがぎくしゃくしていてリアル感がないとしても、そのすごさには圧倒されまくっていた。もちろんそれを再現することは不可能だし、再現する必要もないが、まちがった再現法は避けてもらいたかった。
またサイレント映画の内容も起伏あり波乱万丈の展開ありで、決して単調なものではないのだが、解像度の悪さとぎくしゃくした動きなどから、どのサイレント映画をとってみても、同じにみえるような、画一性が際立つきらいがある――いまからみればの話だが。
この映画では登場人物を全員フラットにして、そこから映画ならびに映画の製作と受容そのものの魅力を立ち上げようとしたのかもしれない。たしかに成田をはじめ活弁師の語りの魅力についてこの映画はあらためて再認識させてくれるのだが、そうだとしても、ここでの映画の製作と受容の魅力と言うのは、活弁を除けば、ある意味、フラットで変化とか深みとか起伏にとむものではないし、サイレント映画がそもそも今の眼からみると、すでに指摘したようにフラットな印象しかあたえたないため、フラットによってフラットなものを救出しようとしてもむりがある。
さらにいうとこの映画でフラットな登場人物はみんな役立たずである。フラットにシンプルに役立たず。これは周防正行監督の喜劇作品の場合、興味深い喜劇的効果をうむし、シリアスドラマの場合には深みのある陰影を与えることにもなるのだが、全員役立たずの場合、そこにあるのは、いらだたしい単調さのみである。つまり人物の性格にみられる意外性というのが全くない。意外性などなくてもいいのだが、ただ、全体のバランスとして、ここでそれがないとつまらなくなる。
また映画では映画館のなかのようすがみえるし、それを私たち観客は映画館でみているという、二重三重の入れ子構造になっているのだが、映画の観客と映画館の観客との間にある種の緊張関係が生まれてもおかしくないのだが、二種類の観客との間に相互作用あるいは化学反応がおこったかどうか定かではない。
★
ここまでは素朴な印象というか感想だが、この映画から教えてもらったことは多い。そもそもサイレント映画といいながら、サイレントではなかったことは、この映画のなかで字幕で示される稲垣浩監督の言葉からも、またこの映画そのものからもわかる――弁士がいて、楽隊がいて、言葉・朗誦と楽器に演奏による、およそ沈黙とは無縁の世界が映画館に立ち上げられていた。
つまりフィルムに定着された映像は、完成体というよりも、さらに加工される素材でしかなく、そこに言葉や音楽が容赦なく浴びせかけられた。映画とは、まさにそうした加工されたものを鑑賞するのであって、生の素材としてのフィルム映像は、おそらく今でも鑑賞の対象ではないのだ。もちろん活弁師はいなくなり、映画にはサウンドトラックによって音声や音楽が入るようになった。映画の自己完結性は高まったとはいえ、映画は紹介、レヴュー、評論、解釈と、さまざまな言説に囲繞され、その内容なり手法なり評価を確定されてきた、というか未完のまま送り出され、受け継がれることになった。現代においても映画の素材性はいささかなりとも減じていないのだ。
どんなアクシデント、失敗、事故でも弁士の手にかかれば、有意味なシークエンスなりシーンへと変貌を遂げる(この映画のエピソード参照)。弁士なくして、また弁士なきあとも言説なくして映画は完成あるいは完成体へと到達しない。
これはみかたによれば、オリジナルへの敬意を欠いた加工・変形である、いたずらであり落書きでもある。
また弁士時代には、弁士間の競争があり、弁士のナレーションは、つぎつぎと上書きされ、新たな解釈あるいは新たな情感が生み出された。それはよく言えばパリンプセスト(重ね書き)であり、悪く言えば落書き的よごしであるが、たとえどちらを主軸にするにせよ、映画はその誕生当初から独立し自己完結することなく、さまざまに利用されてきた。
いや、利用というと、利用されないオリジナルがあり、それに対する利用(それも一次だけでなく、二次、三次とつづくような)があるかのようだが、それはない。オリジナルそのものが利用であり、利用なくして存在し完結する映画はなかった。
もちろん映画館に住民を集め、上映中、空き家になった家から貴重品から家具調度までを盗むというのは最低の映画興行利用だが、そこまで悪辣なものでなくても、映画は常にいつも利用されてきた(いや映画館で没入している観客から財布を掏ることもよくおこなわれたにちがいない――映画と掏りとの関係は『カサブランカ』参照)。お金儲けの手段、あるいは強盗の手段、さらには人身売買からプロパガンダ的利用にいたるまで。こう考えると、映画製作や興業は、サイレント映画のドタバタであり尽きせぬ犯罪の連鎖にもみえてくる。ドタバタ喜劇映画は、映画そのものが抜け出せなくなる陥穽のアレゴリーであったかもしれない。
こんなふうに考えると、この映画『カツベン!』は、映画史のまさにアレゴリーそのものともなっているのではないかと思えてくる。ここにあるのは映画に対する愛とかリスペクトというよりも(いや、それはあるのだろうが)、同時に映画の黎明期を起点とした映画史の総体への冷徹なまなざしであるように思えてならない。
posted by ohashi at 18:13| 映画
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2020年01月05日
『マニカルニカ』
『マニカルニカ――ジャーンシーの女王』Manikarnika: The Queen of Jhansi 2019年
監督:ラーダ・クリシュナ・ジャガルラームディ
主演:カンガナー・ラーナーウトほか
2020年1月3日(金)より新宿ピカデリーにて2週間限定ロードショー
昨年は気づけばインド映画をほとんどみなかったので、心を入れ替えたということではないが、新春早々、インド映画をみることにした。歴史上実在した人物を主人公にした歴史スペクタクル巨編である。上映時間2時間30分。インド映画としては短いほうかもしれないが、2時間越えの長編映画である。
いわゆる「セポイの乱」(いまでは、この名称は使われないのだが)時代を扱ったもので、この大反乱の余波のなかジャーンシー国の独立をめざして大英帝国とたたかった女王の物語。「セポイの乱」くらいのことしか知らない無知な私としては「ジャーンシー国」といっても、どこにあるのか、そもそもそれは架空の藩国ではないかと半信半疑だったが、実在していた。叛乱を指導した女王はインドのジャンヌダルクと呼ばれている実在した人物。一時は英国軍を撃退したが、最後には城を明け渡し、隣国で挙兵したが、その地の戦いで戦死する。伝説に彩られているので、どこまでが真実でどこまでが虚構かは誰にもわからない。おまけに、いくら歴史巨編とはいえ、インド映画のフォーマットに落とし込まねばならないため、史実なのか伝説なのか虚構なのか判然としなくなる。
たとえば最初のほうで、中高年の父親と育ての親の宰相が歌いはじめるので、あ、ミュージカル映画かと思う。そしてやがて、歌って踊って、群舞がはじまると、まるでインド映画だという思いがわいてくるが、そもそもインド映画なのだと、そこで気づく。ただ、このままインド映画のパターンでいくと、歴史再現ドラマあるいは英国軍との熾烈な戦いをめぐっては表象の限界に到達するのではないかと心配になるが、後半は、歌や踊りはなく、群舞も、女性を含む義勇兵の訓練風景という程度にとどめている。とはいえ、インドのミュージカル映画とナショナリズムのパトス全開の悲劇の女王のドラマとは齟齬をきたすところ、かろうじて、衝突を回避して作られたといえなくもない。
逆にいうと、二つのジャンルの衝突が、この映画を多彩なスペクタクルにしている。ミュージカルとスペクタクルの戦争場面の対置、豪華な歴史的建造物の再現と荒涼たる戦場の対置、そして前半の喜劇的場面から後半の悲劇的展開、恋愛ロマンスと反植民地闘争との対置。実は衝突はこれだけではない。日本側の紹介では監督はラーダ・クリシュナ・ジャガルラームディひとりとなっているが、詳しいことは知らないが、この監督は途中で降板している。そして主役の女優カンガナー・ラーナーウトが監督をつとめているのだ。海外のサイトでは、二人が監督として名を連ねている。なにがあったのかわからないが、ただ対立と反目があり、中心が二つあるような楕円構造をもつ映画となったことは事実である。
そしてだからこそ、この映画は、いろいろな要素やジャンル的特性が盛り合わせとなった、多様性を誇示するようなエンターテインメント作品となった。そもそも映像が絢爛豪華なのだが、それにくわえてこのハイブリッド性なので、2時間30分飽きることがなかった。
反英植民地闘争――あの英軍の赤い軍服というのは、ほんとに憎たらしいというか怒りを掻き立てる。ローランド・エメリッヒ監督メル・ギブソン主演の映画『パトリオット』はアメリカ独立戦争を扱っているのだが、そこでも英国軍の赤揃えの軍服は嫌悪感しか抱かせない(当時の英国は今のアメリカと同じ帝国主義で世界の覇者だった)。そして英国憎しということで盛り上がるナショナリズムの気概というのは、右翼民族主義には警戒をしたくなる人たちにとっては(私もその一人がだが)、危険なものを感ずるのだが、しかし、こうした強大な敵に対して戦う、反帝国主義、反体制的な闘争を扱うこの映画は、ただの帝国主義ファシストでしかないネトウヨから反発を買っているみたいだから、ネトウヨの敵は味方ということで、この映画の反帝国主義・反植民地闘争のエートスというかパトスは全面的に支持してもいいのではないかと思う。
反帝国主義・反植民地主義闘争は、子孫に明るい未来を残すためにするのだと、映画のなかでは登場人物たちが語るのだが、またそういう考えはふつうに存在しているのだが、闘争は、むしろ死んでいった非業の死をとげた、なぶり殺しにされた、志半ばで倒れた、無念の涙をのんで死んでいった私たちの父や母のためにするのだとも言える。子孫のためではなく、先祖のためにこそ、負けることがわかっている強大な敵に立ち向かうのである。その意味でこの映画は、過去に大英帝国とたたかい壮絶な死をとげた女王を記憶の淵から救い上げている。たとえ様式化され粉飾化され虚構化されても過去に英国と戦った女王そして女性たち、また彼女に従い死んでいった数限りない兵士や民衆や女性たちを、この映画は記録しながら記憶の淵から目覚めさせる闘争の実践だということもいえる。
インドのジャンヌダルク。もっとも、マニカルニカは、ジャンヌのような少女ではなく、結婚をし子供も産み、夫を亡くした未亡人であって少女とは程遠いのだが、虎を狩る少女としてのイメージを映画の冒頭にもってくることで、映画そのものは、主人公を戦闘少女のイメージで染め上げる。歴史上の女王は、映画においては少女であることがふさわしい――少女が女王に変身しているのである。
最後に、いまなぜこの映画かという問いに対しては、ひとつは植民地主義支配はいまなお厳然と世界に君臨しているというのが、答えのひとつとなろう。かつては大英帝国、いまは米帝国。イランと米帝国の衝突はその一端にすぎない。と同時に、植民地主義が、外ではなく内向きにもはたらいていることもいまひとつの理由となろう。格差社会はひとにぎりの富裕層が貧困層を植民地的に支配しているともいえる。いま世界では、民族や人種を超えた、富裕層vs貧困層の植民地的対立が激化している。そしてさらにひとつの理由。それはジェンダーに関係する。インドのナショナリズムに貢献した女性の闘士、戦う女王と、女王に付き従った女性の義勇兵たちの記憶をたちあげることによって、この映画は、インド文化における女性差別の愚を宣言しているような気がする。
監督:ラーダ・クリシュナ・ジャガルラームディ
主演:カンガナー・ラーナーウトほか
2020年1月3日(金)より新宿ピカデリーにて2週間限定ロードショー
昨年は気づけばインド映画をほとんどみなかったので、心を入れ替えたということではないが、新春早々、インド映画をみることにした。歴史上実在した人物を主人公にした歴史スペクタクル巨編である。上映時間2時間30分。インド映画としては短いほうかもしれないが、2時間越えの長編映画である。
いわゆる「セポイの乱」(いまでは、この名称は使われないのだが)時代を扱ったもので、この大反乱の余波のなかジャーンシー国の独立をめざして大英帝国とたたかった女王の物語。「セポイの乱」くらいのことしか知らない無知な私としては「ジャーンシー国」といっても、どこにあるのか、そもそもそれは架空の藩国ではないかと半信半疑だったが、実在していた。叛乱を指導した女王はインドのジャンヌダルクと呼ばれている実在した人物。一時は英国軍を撃退したが、最後には城を明け渡し、隣国で挙兵したが、その地の戦いで戦死する。伝説に彩られているので、どこまでが真実でどこまでが虚構かは誰にもわからない。おまけに、いくら歴史巨編とはいえ、インド映画のフォーマットに落とし込まねばならないため、史実なのか伝説なのか虚構なのか判然としなくなる。
たとえば最初のほうで、中高年の父親と育ての親の宰相が歌いはじめるので、あ、ミュージカル映画かと思う。そしてやがて、歌って踊って、群舞がはじまると、まるでインド映画だという思いがわいてくるが、そもそもインド映画なのだと、そこで気づく。ただ、このままインド映画のパターンでいくと、歴史再現ドラマあるいは英国軍との熾烈な戦いをめぐっては表象の限界に到達するのではないかと心配になるが、後半は、歌や踊りはなく、群舞も、女性を含む義勇兵の訓練風景という程度にとどめている。とはいえ、インドのミュージカル映画とナショナリズムのパトス全開の悲劇の女王のドラマとは齟齬をきたすところ、かろうじて、衝突を回避して作られたといえなくもない。
逆にいうと、二つのジャンルの衝突が、この映画を多彩なスペクタクルにしている。ミュージカルとスペクタクルの戦争場面の対置、豪華な歴史的建造物の再現と荒涼たる戦場の対置、そして前半の喜劇的場面から後半の悲劇的展開、恋愛ロマンスと反植民地闘争との対置。実は衝突はこれだけではない。日本側の紹介では監督はラーダ・クリシュナ・ジャガルラームディひとりとなっているが、詳しいことは知らないが、この監督は途中で降板している。そして主役の女優カンガナー・ラーナーウトが監督をつとめているのだ。海外のサイトでは、二人が監督として名を連ねている。なにがあったのかわからないが、ただ対立と反目があり、中心が二つあるような楕円構造をもつ映画となったことは事実である。
そしてだからこそ、この映画は、いろいろな要素やジャンル的特性が盛り合わせとなった、多様性を誇示するようなエンターテインメント作品となった。そもそも映像が絢爛豪華なのだが、それにくわえてこのハイブリッド性なので、2時間30分飽きることがなかった。
反英植民地闘争――あの英軍の赤い軍服というのは、ほんとに憎たらしいというか怒りを掻き立てる。ローランド・エメリッヒ監督メル・ギブソン主演の映画『パトリオット』はアメリカ独立戦争を扱っているのだが、そこでも英国軍の赤揃えの軍服は嫌悪感しか抱かせない(当時の英国は今のアメリカと同じ帝国主義で世界の覇者だった)。そして英国憎しということで盛り上がるナショナリズムの気概というのは、右翼民族主義には警戒をしたくなる人たちにとっては(私もその一人がだが)、危険なものを感ずるのだが、しかし、こうした強大な敵に対して戦う、反帝国主義、反体制的な闘争を扱うこの映画は、ただの帝国主義ファシストでしかないネトウヨから反発を買っているみたいだから、ネトウヨの敵は味方ということで、この映画の反帝国主義・反植民地闘争のエートスというかパトスは全面的に支持してもいいのではないかと思う。
反帝国主義・反植民地主義闘争は、子孫に明るい未来を残すためにするのだと、映画のなかでは登場人物たちが語るのだが、またそういう考えはふつうに存在しているのだが、闘争は、むしろ死んでいった非業の死をとげた、なぶり殺しにされた、志半ばで倒れた、無念の涙をのんで死んでいった私たちの父や母のためにするのだとも言える。子孫のためではなく、先祖のためにこそ、負けることがわかっている強大な敵に立ち向かうのである。その意味でこの映画は、過去に大英帝国とたたかい壮絶な死をとげた女王を記憶の淵から救い上げている。たとえ様式化され粉飾化され虚構化されても過去に英国と戦った女王そして女性たち、また彼女に従い死んでいった数限りない兵士や民衆や女性たちを、この映画は記録しながら記憶の淵から目覚めさせる闘争の実践だということもいえる。
インドのジャンヌダルク。もっとも、マニカルニカは、ジャンヌのような少女ではなく、結婚をし子供も産み、夫を亡くした未亡人であって少女とは程遠いのだが、虎を狩る少女としてのイメージを映画の冒頭にもってくることで、映画そのものは、主人公を戦闘少女のイメージで染め上げる。歴史上の女王は、映画においては少女であることがふさわしい――少女が女王に変身しているのである。
最後に、いまなぜこの映画かという問いに対しては、ひとつは植民地主義支配はいまなお厳然と世界に君臨しているというのが、答えのひとつとなろう。かつては大英帝国、いまは米帝国。イランと米帝国の衝突はその一端にすぎない。と同時に、植民地主義が、外ではなく内向きにもはたらいていることもいまひとつの理由となろう。格差社会はひとにぎりの富裕層が貧困層を植民地的に支配しているともいえる。いま世界では、民族や人種を超えた、富裕層vs貧困層の植民地的対立が激化している。そしてさらにひとつの理由。それはジェンダーに関係する。インドのナショナリズムに貢献した女性の闘士、戦う女王と、女王に付き従った女性の義勇兵たちの記憶をたちあげることによって、この映画は、インド文化における女性差別の愚を宣言しているような気がする。
posted by ohashi at 18:51| 映画
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2020年01月03日
Tomato Tomato 1
私がもっとも嫌いなのは、素人を馬鹿にするプロである。またプロのふりをする素人も大嫌いだ。両方の立場に共通するのは、素人・アマチュアに対する蔑視である。前者の姿勢が、専門家の上から目線での素人蔑視――素人だからこそ専門家にはいえない鋭い洞察がきることは、もっと私たちの共通認識になっていい。後者は、素人であることを嫌って、専門家ぶることである。どちらも素人・アマチュアというのは負のイメージを帯びている。だからこそ、平気で、「ド素人が」とか、「素人じゃないのだから」とか、「素人と思われますよ」といった、素人を侮蔑の対象とした表現がまかりとおっている。
いいかえると、素人かとか、素人と思われますよと、素人を蔑視する人間を私は100パーセント以上軽蔑する。同じく、素人であることを恥じるかのように専門家ぶる人間も私は100パーセント以上軽蔑する。これは専門家とかプロがひどいということでない。素人やアマチュアを馬鹿にする専門家とかプロ、そして素人やアマチュアを軽蔑する素人やアマチュアがひどいということである。
ただし、このことは、さらに掘り下げる前に、今回は翻訳にまつわる表記について。
なおこの記事のタイトルはれっきとした英語表現で、「トメイト・トマート」と発音する。
英語の綴りに反映させて言うとTo-may-to, To-mah-toである。映画『ライフ・イットセルフ』(1月2日の記事参照)の中に出てきて、思い出した。いつごろからある表現なのか詳しいことは知らない。
さて、AMAZONのサイトで、サルスティウス『ユグルタ戦争 カティリーナの陰謀』栗田伸子訳(岩波文庫2019/7/18)に対する読者からのブックレビューにこんなものがあった。
ちなみにこの古典的歴史書でも扱われている古代ローマ史の紀元前1世紀における反乱の1世紀について、私はシェイクスピア研究者として常々興味をもっていて、この翻訳の岩波文庫版は、ほうとうに歓迎したい。いや、シェイクスピアが扱っているのはジュリアス・シーザー登場以後だから、反乱の1世紀は関係がないのではとつっこまれるかもしれない。それはそうなのだが、シェイクスピアの時代、たとえばベン・ジョンソンには、それこそ『カティリーナ』と題されたローマ史劇があるし、トマス・ロッジの戯曲の『内乱の傷跡』で扱われている内乱は、ローマ史における反乱の一世紀における事件であって、まったく縁がないわけではない。
Tomato Tomato. もし岩波文庫が文庫本だからといって、カタカナ表記を曖昧なままに済ませず、長母音の発音を反映していたら、それこそうっとうしい日本語本文になっていたかもしれず、むしろ今回の処置こそが正しいとしてか思えない。そもそもこのレヴューワーが認めているように、「大阪大学出版」も「京大出版の「西洋古典叢書」も同様の長母音無視の方針」である以上、読みやすさを考慮しての処置は前例がある。
また「岩波書店の「キケロー選集」は全巻通して(もちろん第3巻の「法廷・政治弁論Ⅲ」所収の『カティリーナ弾劾』を含めて)、ラテン語の重子音や母音の長短を訳者の判断で明確にカナ表記がなされています」とあるが、それは勝手であり、またそれはひとつの見識として選集の編集方針に反映されていることもまったく問題ではない【ただし幸いなことに、大阪大学出版も京大出版も、岩波文庫の訳者あるいは編集者も、その編集方針をとらなかった。】
どちらでもいいのである。それを一方にあわせよという、こういうはねっかえりの専門家もどきが出てくるのがもっともおぞましいのだ。
たとえば『戦史』の作者トゥキディデスは、「トゥキュディデス、ツキジデス」などの表記があるが、古典ギリシア語の母音の長短を考慮すると「トゥーキューディデース」となるとWikipediaに書いてある。ちなみにトゥーキューディデースの『戦史』とは、ぺロポンネソス戦争をあつかっているのだが、これもトゥキディデスの『戦史(ぺロポンネソス戦記)』ではなく、トゥーキューディデースのペロポンネーソス戦争を扱った『戦史』と表記すべきだとしたらどうなるのか。
たとえ私がペロポンネーソス戦争を扱った『戦史』をいくら高く評価しているとしても、そのことを声を大にしてトゥーキューディデースは、いいね、そして素人であることを隠そうとして、やはりトゥーキューディデースはトゥーキューディデースだ、トゥーキューディデースほど優れた著述家はいない、まさにトゥーキューディデースの前にも後にもトゥーキューディデースしかいないと述べたら、うっとうしいことこのうえもない。
先ほどのレヴューアーは、一般読者・素人を軽んずることなく、長母音を反映した表記にすべきだとのたまっている。しかし、これは素人をたてているようで、素人蔑視である。「キケローの『カティリーナ弾劾演説』と本書の『カティリーナの陰謀』を比較しつつ書見する読者も少なくないに相違ありません」とあるが、両者を比較する読者は、長母音の反映の有無によって混乱するとでもいうのだろうか。あるいはべつに、その言語読解能力がなくても長母音の存在くらい知っている素人はふつうにいるだろうから混乱することはないだろう。そこで混乱する人間は、そもそも最初から読むことはないだろう。
また長母音を反映した表記で読めと言うのは、専門家のように読めということである。どうして専門家のように読まなければいけないのか。たとえば素人が寝っ転がって好き勝手に読んでいながら、専門家のバカには思いも及ばぬ深い洞察をするかもしれない。そのとき、その素人が「ツキデテス」と表記している本を読んでいるとしたら、その専門家のバカは気にいらないのである。トゥーキューディデースはトゥーキューディデースだ、トゥーキューディデースほど優れた著述家はいない、まさにトゥーキューディデースの前にも後にもトゥーキューディデースしかいない。すぐれた洞察は、やはりトゥーキューディデースと表記してある本を通してしかなされない……。これこそ素人蔑視である。
誤解のないように言っておくが、あなたが専門家としてトゥーキューディデースと表記するのはかまわないし、その表記で統一された翻訳をされるのもかまわない。問題は、そうではないツキデテスのような表記を、素人っぼいと蔑視し、表記をかえることがさもりっぱで見識があるかのような顔をして素人に強制することであり、また素人のほうでも、気おされて、専門家ぶって、よくわかりもしない長母音システムにそった表記をする――ああ、スノビズムの極致。それが愚かなのである。そして専門家には、‘Tomato Tomato’という考え方もあることを知っておいてほしい。
日本語の「トマト」の英語Tomatoには、発音が二種類ある。「トメイトー」と「トマート」。日本での英語教育はアメリカ英語中心だから私は子供の頃「トメイトー」という発音を習った。また「トマートー」という発音は、どちらかという英国式であるが、アメリカでもイギリスでも両者が混在しているようだ。そしてどっちの発音でも指す対象は同じなのだから、細かいことにこだわるな、逆にいうと、この発音しかだめだというのは、大ばか者だ、というのが基本的意味である(もちろん派生的な含意もあるとしても)。
ちなみに、トゥーキューディデースの『戦史』の翻訳を私は久保正彰訳、岩波文庫版で読んだ。岩波文庫版では「トゥーキュディデース」と表記。またトゥーキュディデースであれトゥーキューディデースであれ、トゥーキュディデース/トゥーキューディデースという表記は本文には出てこない――作者名なのであたりまえだが。
いいかえると、素人かとか、素人と思われますよと、素人を蔑視する人間を私は100パーセント以上軽蔑する。同じく、素人であることを恥じるかのように専門家ぶる人間も私は100パーセント以上軽蔑する。これは専門家とかプロがひどいということでない。素人やアマチュアを馬鹿にする専門家とかプロ、そして素人やアマチュアを軽蔑する素人やアマチュアがひどいということである。
ただし、このことは、さらに掘り下げる前に、今回は翻訳にまつわる表記について。
なおこの記事のタイトルはれっきとした英語表現で、「トメイト・トマート」と発音する。
英語の綴りに反映させて言うとTo-may-to, To-mah-toである。映画『ライフ・イットセルフ』(1月2日の記事参照)の中に出てきて、思い出した。いつごろからある表現なのか詳しいことは知らない。
さて、AMAZONのサイトで、サルスティウス『ユグルタ戦争 カティリーナの陰謀』栗田伸子訳(岩波文庫2019/7/18)に対する読者からのブックレビューにこんなものがあった。
ちなみにこの古典的歴史書でも扱われている古代ローマ史の紀元前1世紀における反乱の1世紀について、私はシェイクスピア研究者として常々興味をもっていて、この翻訳の岩波文庫版は、ほうとうに歓迎したい。いや、シェイクスピアが扱っているのはジュリアス・シーザー登場以後だから、反乱の1世紀は関係がないのではとつっこまれるかもしれない。それはそうなのだが、シェイクスピアの時代、たとえばベン・ジョンソンには、それこそ『カティリーナ』と題されたローマ史劇があるし、トマス・ロッジの戯曲の『内乱の傷跡』で扱われている内乱は、ローマ史における反乱の一世紀における事件であって、まったく縁がないわけではない。
サッルスティウスの二作品が日本語で読めます
2019年8月20日
これまでにもサッルスティウスの史書の邦訳が無かったわけではないが、今回は文庫という廉価な袖珍本で読めるようになりました。
まことに喜ばしいことであり、また本書は岩波文庫のなかでも推奨に値する貴重な一冊です。
しかしながら敢えて苦言を呈するならば、人名・地名などの固有名詞の表記が、なぜか不統一であるという瑕瑾も見受けられます。凡例に「長音の表記は必ずしもラテン語原音によらず、省略した場合も多い」と書かれてはいるものの、その理由が明記されていません。さらに重子音の表記も恣意的で区々な状態です。
これはルネサンス期以降「古典期ラテン語散文の範として繰り返し」読み継がれてきた両作品に対して、あまりにも配慮と敬意を欠いた翻訳作業法と批判されても仕方がないのではないでしょうか?
確かに古典ラテン語のカナ表記には難しいところがありますが、京都大学学術出版会・刊行の名著『西洋古典学事典』を参照すれば、大半の問題は解決できたに相違ありません。
かつて大阪大学出版から上梓された『カティリーナの陰謀』は、著者名を「ガイウス・サッルスティウス・クリスプス」と母音の長音を無視して表記しています。京大出版の「西洋古典叢書」も同様の長母音無視の方針ですね。
されど岩波書店の「キケロー選集」は全巻通して(もちろん第3巻の「法廷・政治弁論Ⅲ」所収の『カティリーナ弾劾』を含めて)、ラテン語の重子音や母音の長短を訳者の判断で明確にカナ表記がなされています(キケローの『カティリーナ弾劾演説』と本書の『カティリーナの陰謀』を比較しつつ書見する読者も少なくないに相違ありません)。
その岩波書店が「しょせん文庫本だから」という事由でカタカナ表記を曖昧なままで済ませたとしたら、一般読者を蔑(なみ)する所為と看做されても已むを得ないことでありまでしょう(文庫は高価な書籍を容易に購入できぬ若人、学生らが買う場合が多いので、なおさら気を付けて頂きたいものです)。
本書を愛するが故に忌憚なく申し上げました。
妄言多謝。
Tomato Tomato. もし岩波文庫が文庫本だからといって、カタカナ表記を曖昧なままに済ませず、長母音の発音を反映していたら、それこそうっとうしい日本語本文になっていたかもしれず、むしろ今回の処置こそが正しいとしてか思えない。そもそもこのレヴューワーが認めているように、「大阪大学出版」も「京大出版の「西洋古典叢書」も同様の長母音無視の方針」である以上、読みやすさを考慮しての処置は前例がある。
また「岩波書店の「キケロー選集」は全巻通して(もちろん第3巻の「法廷・政治弁論Ⅲ」所収の『カティリーナ弾劾』を含めて)、ラテン語の重子音や母音の長短を訳者の判断で明確にカナ表記がなされています」とあるが、それは勝手であり、またそれはひとつの見識として選集の編集方針に反映されていることもまったく問題ではない【ただし幸いなことに、大阪大学出版も京大出版も、岩波文庫の訳者あるいは編集者も、その編集方針をとらなかった。】
どちらでもいいのである。それを一方にあわせよという、こういうはねっかえりの専門家もどきが出てくるのがもっともおぞましいのだ。
たとえば『戦史』の作者トゥキディデスは、「トゥキュディデス、ツキジデス」などの表記があるが、古典ギリシア語の母音の長短を考慮すると「トゥーキューディデース」となるとWikipediaに書いてある。ちなみにトゥーキューディデースの『戦史』とは、ぺロポンネソス戦争をあつかっているのだが、これもトゥキディデスの『戦史(ぺロポンネソス戦記)』ではなく、トゥーキューディデースのペロポンネーソス戦争を扱った『戦史』と表記すべきだとしたらどうなるのか。
たとえ私がペロポンネーソス戦争を扱った『戦史』をいくら高く評価しているとしても、そのことを声を大にしてトゥーキューディデースは、いいね、そして素人であることを隠そうとして、やはりトゥーキューディデースはトゥーキューディデースだ、トゥーキューディデースほど優れた著述家はいない、まさにトゥーキューディデースの前にも後にもトゥーキューディデースしかいないと述べたら、うっとうしいことこのうえもない。
先ほどのレヴューアーは、一般読者・素人を軽んずることなく、長母音を反映した表記にすべきだとのたまっている。しかし、これは素人をたてているようで、素人蔑視である。「キケローの『カティリーナ弾劾演説』と本書の『カティリーナの陰謀』を比較しつつ書見する読者も少なくないに相違ありません」とあるが、両者を比較する読者は、長母音の反映の有無によって混乱するとでもいうのだろうか。あるいはべつに、その言語読解能力がなくても長母音の存在くらい知っている素人はふつうにいるだろうから混乱することはないだろう。そこで混乱する人間は、そもそも最初から読むことはないだろう。
また長母音を反映した表記で読めと言うのは、専門家のように読めということである。どうして専門家のように読まなければいけないのか。たとえば素人が寝っ転がって好き勝手に読んでいながら、専門家のバカには思いも及ばぬ深い洞察をするかもしれない。そのとき、その素人が「ツキデテス」と表記している本を読んでいるとしたら、その専門家のバカは気にいらないのである。トゥーキューディデースはトゥーキューディデースだ、トゥーキューディデースほど優れた著述家はいない、まさにトゥーキューディデースの前にも後にもトゥーキューディデースしかいない。すぐれた洞察は、やはりトゥーキューディデースと表記してある本を通してしかなされない……。これこそ素人蔑視である。
誤解のないように言っておくが、あなたが専門家としてトゥーキューディデースと表記するのはかまわないし、その表記で統一された翻訳をされるのもかまわない。問題は、そうではないツキデテスのような表記を、素人っぼいと蔑視し、表記をかえることがさもりっぱで見識があるかのような顔をして素人に強制することであり、また素人のほうでも、気おされて、専門家ぶって、よくわかりもしない長母音システムにそった表記をする――ああ、スノビズムの極致。それが愚かなのである。そして専門家には、‘Tomato Tomato’という考え方もあることを知っておいてほしい。
日本語の「トマト」の英語Tomatoには、発音が二種類ある。「トメイトー」と「トマート」。日本での英語教育はアメリカ英語中心だから私は子供の頃「トメイトー」という発音を習った。また「トマートー」という発音は、どちらかという英国式であるが、アメリカでもイギリスでも両者が混在しているようだ。そしてどっちの発音でも指す対象は同じなのだから、細かいことにこだわるな、逆にいうと、この発音しかだめだというのは、大ばか者だ、というのが基本的意味である(もちろん派生的な含意もあるとしても)。
ちなみに、トゥーキューディデースの『戦史』の翻訳を私は久保正彰訳、岩波文庫版で読んだ。岩波文庫版では「トゥーキュディデース」と表記。またトゥーキュディデースであれトゥーキューディデースであれ、トゥーキュディデース/トゥーキューディデースという表記は本文には出てこない――作者名なのであたりまえだが。
posted by ohashi at 18:07| 翻訳論
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2020年01月02日
『ライフ・イットセルフ』
『ライフ・イットセルフ 未来に続く物語』(Life Itself2018年ダン・フォーゲルマン監督)出演はオスカー・アイザックとオリヴィア・ワイルドら。
ウィキペディアには「ある事故を通して世代も国籍も異なる2つの家族の運命が交差し、過酷な試練にさらされる人々の物語をボブ・ディランの曲に乗せて描いている」という簡単な紹介があるのだが、今回、この映画をみて、新春早々、最大の謎に直面した。なんとかしてほしい。
この映画、アメリカでは批評家たちから酷評されて2018年最悪(ワースト)の映画と言われている。しかし一般観客のひとりとして言わせてもらえれば、まあ、好き嫌いはあるだろうし、当然、評価もわかれるだろうが、ワーストでは絶対にない。なぜワーストなのか、ほんとうに理由を知りたい。
というのもたとえばIMdBの一般観客レヴューでは、批評家のいうことを信ずるな、この映画は感動的な映画だという映画評が最近は多くなっている。
日本のサイト、KINENOTE(キネマ旬報映画データベース)の『ライフ・イットセルフ』の観客評は、平均評点77.0点(レビューの数13(1月2日時点))とあって、ワーストの点数ではない。実は77点というのは低いと思うのは、レヴューには100点満点をつけている人もけっこういて、そこから考えると、極端に低い点数をつけたレヴューアーが足を引っ張っているとしか思えない。
まあアメリカの映画評論家というのは、全部とはいわないが、99,9パーセントがクズみたいなものだから、あまり期待しても意味がないのだが、しかし彼らにも良識のかけらはあるだろうから、ワースト評価はなにか理由があってのことかもしれない。
もちろん、違和感のあるところはないわけではないが、それがワースト評価につながるとはどうしも思えない。
たとえば最初のほうでオリヴィエ・ワイルド扮する大学生が「信頼できない語り手」をテーマとするような卒論を書くと言っている。その卒論は、語り手によって真実や人生が誤って伝えられるというテーゼから出発するのである。しかしそれは「事実は存在しない、あるのは解釈だけだ」というような考え方につながるかというとそうでもない。真実をどのように伝えるかという話にもならない。実は人生そのものが信頼できない語り手であるという方向にすすむ。しかし、それは語り手が人生を誤ったり都合の良いように伝えるという話ではなく、人生何が起こるかわからない、あてにならないということにシフトする。実際、これが映画のテーマでもあるのだが、このずれと言うかずらしは問題かもしれないが、だからといってこれがワーストの理由になろうはずもない。
あるいは冒頭のサミュエル・ジャクソンの、その機能と意味が不明な語りとか、農園主のアントニオ・バンデラスと作業員が対面して語るときの単調な切り替えしショットの連続というのは、意図的で攻めた撮り方をしているともいえるのだが、それがワーストの理由となろうはずもない。スペイン人が、いくらまじめ人間とはいえ、エイプリルフールを知らないとは考えられないが、それがワーストの理由となろうはずもない。
ひとつ考えられるのは、とはいえありえないとは思うのだが、映画の最初のほうは(第1章とされている。なぜ章立てになっているかは、最後でわかる)、サミュエル・ジャクソンの「信頼できない語り手」としてナレーションがけっこううっとうしく、しかも出来事も病んだオスカー・アイザックの妄想か現実が判然としないし(というかその病んだ心象風景がそのまま映像化されているのだが)――彼が書いている小説という暗示もある――、カウンセラーとのやりとりも最初のゲイの男性は誰だったのかという疑問も残る(まあ試行錯誤の小説の書き出しということなのだろうが)。そのため映画評論家が、これは青臭い映画素人のつくった、ひねった、だが、いかにも青臭い映画だと判断し(ただし、青臭さが新鮮かつ斬新だとは、この古臭い映画評論家は考えなかったのだろう)、あとは試写室で眠ってしまい、酷評したところ、他の評論家も、たとえそこまでひどいとは思わないにしても、下手に褒めたりしたらバカと思われるかもしれないので(「裸の王様」パターン)、右に倣えの酷評オンパレードになったのだろうか。しかし、映画をみた観客のなかで、評論家や、評論家もどきの見解に惑わされない観客が、こう語ることになる。評論家は馬鹿だ。評論家を信ずるな、映画を自分でみて判断してほしい、すばらしい映画なのだか、と。
ただし、おそらくそうではなく、もっと深い理由あるいはもっと明白な理由があるのだろう。ことわっておきたいが、私の見る限り、PCに違反するような内容のところはなかった。ジェンダー的にも、人種的にも、民族的にも。また悲劇性とかいたましさというのであれば、それこそサミュエル・ジャクソンと、この映画に出演しているアネット・ベニングが共演している『愛する人』(ロドリゴ・ガルシア監督)のほうが、ずっと痛ましいといえるかもしれない。ちなみに両作品は、人生の悲劇と幸福との共存、信頼のおけなさ=予測のつきがたさにおいて、似ているところがある。そして、プレディクタブルだからひどいという評価がよくある中、この映画ではアンプレディクタブルだからひどいという評価もあって、言いがかりはなんとでもつけられるのだと実感した次第。
もちろん、なにもわからないのだが、真相は、映画の内容や作り方にではなく、たとえば監督がトランプ支持で、映画界から総スカンを食らっているというようなことではないのかと思う。ふつうにみて素晴らしい、よくできた映画で、印象的な場面も、人によっては涙してもおかしくない場面があるのに、ワースト言うのは想像を絶した評価である。この評価がくつがえることを願うと同時に、なぜ酷評されたのか、誰か、その闇の原因にも光を当ててほしいのだが。
追記1 後忘れずに書いておけば、最後は、少女の語りのなかに、すべてが収斂していくのであって、映画と少女、まさに王道映画でもある。
追記2 最近では英語の発音をカタカナで表記する(とりわけ初学者むけに)という習慣がなくなってしまったのか、itselfを日本の映画会社は驚くことに「イットセルフ」と表記している。ところが一昔前まではitselfは伝統的に「イッツセルフ」と表記していた。カタカナ表記だから、どちらも原音とは違うというなかれ。Itselfの発音をカタカナ表記すれば「イッツェルフ」であって、「イッツセルフ」は次善の策だが、ぜったいに「イットセルフ」ではない。もっと原音に近づけるならselfのlはダーク・エルなので極端に表記すれば「イッツェォフ」(フはF音)となるだろう。「イットセルフ」などという面妖な表記は原音からは倍以上離れているのであって、この表記を考えた日本の映画会社の発案者・責任者、まちがいなく絶対にワーストである。
ウィキペディアには「ある事故を通して世代も国籍も異なる2つの家族の運命が交差し、過酷な試練にさらされる人々の物語をボブ・ディランの曲に乗せて描いている」という簡単な紹介があるのだが、今回、この映画をみて、新春早々、最大の謎に直面した。なんとかしてほしい。
この映画、アメリカでは批評家たちから酷評されて2018年最悪(ワースト)の映画と言われている。しかし一般観客のひとりとして言わせてもらえれば、まあ、好き嫌いはあるだろうし、当然、評価もわかれるだろうが、ワーストでは絶対にない。なぜワーストなのか、ほんとうに理由を知りたい。
というのもたとえばIMdBの一般観客レヴューでは、批評家のいうことを信ずるな、この映画は感動的な映画だという映画評が最近は多くなっている。
日本のサイト、KINENOTE(キネマ旬報映画データベース)の『ライフ・イットセルフ』の観客評は、平均評点77.0点(レビューの数13(1月2日時点))とあって、ワーストの点数ではない。実は77点というのは低いと思うのは、レヴューには100点満点をつけている人もけっこういて、そこから考えると、極端に低い点数をつけたレヴューアーが足を引っ張っているとしか思えない。
まあアメリカの映画評論家というのは、全部とはいわないが、99,9パーセントがクズみたいなものだから、あまり期待しても意味がないのだが、しかし彼らにも良識のかけらはあるだろうから、ワースト評価はなにか理由があってのことかもしれない。
もちろん、違和感のあるところはないわけではないが、それがワースト評価につながるとはどうしも思えない。
たとえば最初のほうでオリヴィエ・ワイルド扮する大学生が「信頼できない語り手」をテーマとするような卒論を書くと言っている。その卒論は、語り手によって真実や人生が誤って伝えられるというテーゼから出発するのである。しかしそれは「事実は存在しない、あるのは解釈だけだ」というような考え方につながるかというとそうでもない。真実をどのように伝えるかという話にもならない。実は人生そのものが信頼できない語り手であるという方向にすすむ。しかし、それは語り手が人生を誤ったり都合の良いように伝えるという話ではなく、人生何が起こるかわからない、あてにならないということにシフトする。実際、これが映画のテーマでもあるのだが、このずれと言うかずらしは問題かもしれないが、だからといってこれがワーストの理由になろうはずもない。
あるいは冒頭のサミュエル・ジャクソンの、その機能と意味が不明な語りとか、農園主のアントニオ・バンデラスと作業員が対面して語るときの単調な切り替えしショットの連続というのは、意図的で攻めた撮り方をしているともいえるのだが、それがワーストの理由となろうはずもない。スペイン人が、いくらまじめ人間とはいえ、エイプリルフールを知らないとは考えられないが、それがワーストの理由となろうはずもない。
ひとつ考えられるのは、とはいえありえないとは思うのだが、映画の最初のほうは(第1章とされている。なぜ章立てになっているかは、最後でわかる)、サミュエル・ジャクソンの「信頼できない語り手」としてナレーションがけっこううっとうしく、しかも出来事も病んだオスカー・アイザックの妄想か現実が判然としないし(というかその病んだ心象風景がそのまま映像化されているのだが)――彼が書いている小説という暗示もある――、カウンセラーとのやりとりも最初のゲイの男性は誰だったのかという疑問も残る(まあ試行錯誤の小説の書き出しということなのだろうが)。そのため映画評論家が、これは青臭い映画素人のつくった、ひねった、だが、いかにも青臭い映画だと判断し(ただし、青臭さが新鮮かつ斬新だとは、この古臭い映画評論家は考えなかったのだろう)、あとは試写室で眠ってしまい、酷評したところ、他の評論家も、たとえそこまでひどいとは思わないにしても、下手に褒めたりしたらバカと思われるかもしれないので(「裸の王様」パターン)、右に倣えの酷評オンパレードになったのだろうか。しかし、映画をみた観客のなかで、評論家や、評論家もどきの見解に惑わされない観客が、こう語ることになる。評論家は馬鹿だ。評論家を信ずるな、映画を自分でみて判断してほしい、すばらしい映画なのだか、と。
ただし、おそらくそうではなく、もっと深い理由あるいはもっと明白な理由があるのだろう。ことわっておきたいが、私の見る限り、PCに違反するような内容のところはなかった。ジェンダー的にも、人種的にも、民族的にも。また悲劇性とかいたましさというのであれば、それこそサミュエル・ジャクソンと、この映画に出演しているアネット・ベニングが共演している『愛する人』(ロドリゴ・ガルシア監督)のほうが、ずっと痛ましいといえるかもしれない。ちなみに両作品は、人生の悲劇と幸福との共存、信頼のおけなさ=予測のつきがたさにおいて、似ているところがある。そして、プレディクタブルだからひどいという評価がよくある中、この映画ではアンプレディクタブルだからひどいという評価もあって、言いがかりはなんとでもつけられるのだと実感した次第。
もちろん、なにもわからないのだが、真相は、映画の内容や作り方にではなく、たとえば監督がトランプ支持で、映画界から総スカンを食らっているというようなことではないのかと思う。ふつうにみて素晴らしい、よくできた映画で、印象的な場面も、人によっては涙してもおかしくない場面があるのに、ワースト言うのは想像を絶した評価である。この評価がくつがえることを願うと同時に、なぜ酷評されたのか、誰か、その闇の原因にも光を当ててほしいのだが。
追記1 後忘れずに書いておけば、最後は、少女の語りのなかに、すべてが収斂していくのであって、映画と少女、まさに王道映画でもある。
追記2 最近では英語の発音をカタカナで表記する(とりわけ初学者むけに)という習慣がなくなってしまったのか、itselfを日本の映画会社は驚くことに「イットセルフ」と表記している。ところが一昔前まではitselfは伝統的に「イッツセルフ」と表記していた。カタカナ表記だから、どちらも原音とは違うというなかれ。Itselfの発音をカタカナ表記すれば「イッツェルフ」であって、「イッツセルフ」は次善の策だが、ぜったいに「イットセルフ」ではない。もっと原音に近づけるならselfのlはダーク・エルなので極端に表記すれば「イッツェォフ」(フはF音)となるだろう。「イットセルフ」などという面妖な表記は原音からは倍以上離れているのであって、この表記を考えた日本の映画会社の発案者・責任者、まちがいなく絶対にワーストである。
posted by ohashi at 23:18| 映画
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1月1日以降に追加した記事
1月2日 2020年1月1日以降に追加した記事一覧
随時追加
〇12月28日付で『I am From Austria』月組公演 (演劇)
〇1月2日付で『ライフ イットセルフ 未来へと続く物語』
〇1月3日付けで Tomato Tomato 1
〇1月5日付で 『マルカルニカ』
〇1月6日付で 『カツベン!』
〇12月20日付で『マクベス』
〇1月8日付で 『家族を想うとき』
〇1月11日付で 『パラサイト』2
〇1月14日付で 『マザーレス・ブルックリン』
〇1月17日付で 『西洋演劇論アンソロジー』推薦図書
〇1月18日付で 『ジョジョ・ラビット』
〇1月19日付で 『イントゥーザスカイ』
○1月26日付で 翻訳の闇 Tomato Tomato 2
○1月28日付で 『西洋演劇論アンソロジー』訂正とお詫び
○1月28日付で 『西洋演劇論アンソロジー』訂正とお詫び に 追記
○1月20日付で 『屍人荘の殺人』
○1月8日付で 『家族を想うとき』 に 追記
○1月17日付で 『西洋演劇論アンソロジー』推薦図書 訂正とお詫びの追記
随時追加
〇12月28日付で『I am From Austria』月組公演 (演劇)
〇1月2日付で『ライフ イットセルフ 未来へと続く物語』
〇1月3日付けで Tomato Tomato 1
〇1月5日付で 『マルカルニカ』
〇1月6日付で 『カツベン!』
〇12月20日付で『マクベス』
〇1月8日付で 『家族を想うとき』
〇1月11日付で 『パラサイト』2
〇1月14日付で 『マザーレス・ブルックリン』
〇1月17日付で 『西洋演劇論アンソロジー』推薦図書
〇1月18日付で 『ジョジョ・ラビット』
〇1月19日付で 『イントゥーザスカイ』
○1月26日付で 翻訳の闇 Tomato Tomato 2
○1月28日付で 『西洋演劇論アンソロジー』訂正とお詫び
○1月28日付で 『西洋演劇論アンソロジー』訂正とお詫び に 追記
○1月20日付で 『屍人荘の殺人』
○1月8日付で 『家族を想うとき』 に 追記
○1月17日付で 『西洋演劇論アンソロジー』推薦図書 訂正とお詫びの追記
posted by ohashi at 08:00| 記事リスト
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2020年01月01日
日本初の無線リモコン・テレビ
テレビ番組「志村&所の戦うお正月2020 ★ニッポンいつの間にか消えたもの大捜索SP」 (午後0:00~午後4:30 テレビ朝日)をみていたら、昭和時代の消えた家電を紹介するコーナーで、1959年ビクターから発売された日本で最初の無線リモコンテレビを紹介してた。
私は子供のころ、我が家にはそのリモコンテレビがあった。光線式というのは、子供向け特撮SFドラマに出てくるような、大きな光線銃(銃といっても片手で扱うハンドガン形式)で、リモコン装置というよりも、まさに玩具(今調べたら、ネット上にも、この光線銃方式のリモコン装置を紹介しているサイトがあったので、画像はそこで確認してもらえればと思う)。
ビクターの製品だったとは覚えていなかったが、ただ、東芝関連の製品を扱う会社(東芝とか東芝の下請けではない)に父親が勤めていたので、家には東芝の電化製品が多かったのだが、テレビやオーディオ製品はビクターのものがいいと父親が言っていたことの記憶はあって、ビクターの製品だったと知って納得はした。
あと当時は自宅にテレビを持つ人は少なかったから話題にならなかったというようなことを書いているネット上の記事もあったのだ、それは嘘。私の家はテレビを買うのは遅かった。お金がなかったから(それまでは、近所のお金持ちや裕福な友人の家にテレビを見せてもらいに行っていた)。だから光線式リモコン・テレビを父親が買ったとき、テレビはかなり普及していた。1964年の東京オリンピックでテレビが普及したのではないかと言われたりするのだが、それはちがう。1964年に普及したのはカラーテレビ。テレビそのものはもっと前から普及していた。
ちなみに、このテレビ番組でも紹介されていたが、この光線式リモコンは、誤作動も多かった。光線を受光器にあてると、それで手動で回転するチャンネル・スイッチ部が自動的に動く仕組みなのだが、回転しても狙ったチャンネルで止まってくれなかったことも多かったように記憶する。広い家に住んでいたわけでないので、すぐに光線式リモコンを使うのはやめ、それまでどおり手動でチャンネルをまわしていた。なんの不自由も感ずることなく。ただテレビの本体は、それこそ東京オリンピックの頃、カラーテレビに買い替えるまで使っていた。なつかしい思いである。正月早々。
私は子供のころ、我が家にはそのリモコンテレビがあった。光線式というのは、子供向け特撮SFドラマに出てくるような、大きな光線銃(銃といっても片手で扱うハンドガン形式)で、リモコン装置というよりも、まさに玩具(今調べたら、ネット上にも、この光線銃方式のリモコン装置を紹介しているサイトがあったので、画像はそこで確認してもらえればと思う)。
ビクターの製品だったとは覚えていなかったが、ただ、東芝関連の製品を扱う会社(東芝とか東芝の下請けではない)に父親が勤めていたので、家には東芝の電化製品が多かったのだが、テレビやオーディオ製品はビクターのものがいいと父親が言っていたことの記憶はあって、ビクターの製品だったと知って納得はした。
あと当時は自宅にテレビを持つ人は少なかったから話題にならなかったというようなことを書いているネット上の記事もあったのだ、それは嘘。私の家はテレビを買うのは遅かった。お金がなかったから(それまでは、近所のお金持ちや裕福な友人の家にテレビを見せてもらいに行っていた)。だから光線式リモコン・テレビを父親が買ったとき、テレビはかなり普及していた。1964年の東京オリンピックでテレビが普及したのではないかと言われたりするのだが、それはちがう。1964年に普及したのはカラーテレビ。テレビそのものはもっと前から普及していた。
ちなみに、このテレビ番組でも紹介されていたが、この光線式リモコンは、誤作動も多かった。光線を受光器にあてると、それで手動で回転するチャンネル・スイッチ部が自動的に動く仕組みなのだが、回転しても狙ったチャンネルで止まってくれなかったことも多かったように記憶する。広い家に住んでいたわけでないので、すぐに光線式リモコンを使うのはやめ、それまでどおり手動でチャンネルをまわしていた。なんの不自由も感ずることなく。ただテレビの本体は、それこそ東京オリンピックの頃、カラーテレビに買い替えるまで使っていた。なつかしい思いである。正月早々。
posted by ohashi at 13:35| コメント
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