2019年の韓国映画(CJ entertainment)監督はポン・ジュノ。出演ソン・ガンホ他
2020年1月10日公開だが、TOHOシネマズ日比谷での先行上映を見てきた。評判どおりの映画。ネタバレを固く禁じている映画なので(映画の冒頭で)、ただ、韓国版『万引き家族』(家族の物語とはいえ韓国版は万引きするわけではない)、あるいは韓国版『ジョーカー』(とはいえスーパーヒーロー/ヴィランになるわけではないが)といえる面があるとだけ述べておきたい。いやもっと正確に言うと、『万引き家族』と『ジョーカー』と響きあい、また克服しあうような三角関係をつくっているというべきか。
とりあえず、ここまで。
2019年12月31日
『パラサイト 半地下の家族』
posted by ohashi at 19:52| 映画
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2019年12月30日
『男はつらいよ お帰り寅さん』
山田洋次監督、2019年映画。
過去の映像と新しく撮影したシーンを最新のデジタル技術を駆使して巧みに組み合わせ、違和感なく1本の映画に仕上げたもので名場面集となっていないところが面白い。
また物語を主人公は、「シリーズ後半で重要な登場人物となった」といわれる、寅次郎のおいの満男/吉岡秀隆であり、いまはサラリーマンを辞めて念願の小説家になり、亡き妻が残した中学生の娘と二人で暮らしているという設定。
草団子屋の「くるまや」はカフェになったが寅二郎の妹のさくら/倍賞千恵子と夫の博/前田吟は健在で、タコ社長の娘の朱美/美保純らも顔を出す。
ネット上の記事を引用すると(「時事ドットコムニュース2019年12月29日」より)
とある。満夫をふくめ、寅さんの現在の関係者は、みな、その過去の映像と対比される。過去の寅さん映画に出演している俳優・女優たちは、みな若くて、男女ともに美しく生気にあふれている。彼らの現在の年老いた姿は、過去の若き日々の面影はない。中高年である私がいうのもなんだが、見るも無残な老醜をさらしているとしかいいようがない。
そしてこの映画のなかでただ一人、歳をとらない人物がいる。寅さんである。渥美清の映像は、現在のいまとここの老いた姿と比較することはできないので、過去の一時点に閉じ込められている。永遠に若い。ひとりだけ歳をとらない寅さんと、歳をとっている関係者たち。この残酷な対比が映画に冷たい輝きをあたえている。
逆にいえば、老いた渥美清をみることができないのは、ほんとうに残念としかいいようがない。実際、映画のなかで断片的にでてくるその演技は、ほんとうに成熟しまた魅力的なのだから。
ただ、それにしても最新のデジタル技術を駆使して再現される過去の作品の場面は鮮明で色褪せていない。それにくらべて、ほんとうにどうしたのだろうと不思議に思わずにはいられなかったのは、現在の老いた浅丘ルリ子や夏木マリの登場する場面は、異様に暗い。暗いといのはメタファーではなく、ほんとうに光量がとぼしくて画面全体が認識できないほど暗いのである。新宿ピカデリーでみたのだが、映画館のせいではないと思う。かつて輝いていた女優たちのいまとここは、ただ薄暗いだけということなのか。
最後は寅さんと共演したこれまでの女優たちの映像が流れるのだが、みんな若く、はつらつとしていて魅力的で、日本映画の一時期の代表的な女優達でもあり、ぼけ老人の私でも、全員の名前が言えた。寅さんとマドンナたちの物語は、そのまま日本映画50年史といえる面がある。もちろん監督自身、そんな傲慢なメッセージを込めていないと思うのだが、見る側は、とりわけ「男はつらいよ」シリーズとともに人生50年すごしてきた人たちにとっては、日本映画のなかで「男はつらいよ」は人生によりそってきたパートナー映画かもしれない(ほんとうは逆で、観客のほうがパートナーなのだが)。
過去の映像と新しく撮影したシーンを最新のデジタル技術を駆使して巧みに組み合わせ、違和感なく1本の映画に仕上げたもので名場面集となっていないところが面白い。
また物語を主人公は、「シリーズ後半で重要な登場人物となった」といわれる、寅次郎のおいの満男/吉岡秀隆であり、いまはサラリーマンを辞めて念願の小説家になり、亡き妻が残した中学生の娘と二人で暮らしているという設定。
草団子屋の「くるまや」はカフェになったが寅二郎の妹のさくら/倍賞千恵子と夫の博/前田吟は健在で、タコ社長の娘の朱美/美保純らも顔を出す。
ネット上の記事を引用すると(「時事ドットコムニュース2019年12月29日」より)
ある日、満男はサイン会で、かつての恋人で今は海外で暮らすイズミ(後藤久美子)に再会。人生の岐路に立って葛藤し、おじの寅次郎を思い出しながら、新たな一歩を踏み出そうとする。映画は、その姿を、過去の名場面をふんだんに交えてつづっていく。
寅さんの「恋人」リリー(浅丘ルリ子)やイズミの母礼子(夏木マリ)といった過去のマドンナの登場に加え、ラストでは歴代マドンナの映像が流れるなど、ファンにはたまらない内容だ。
とある。満夫をふくめ、寅さんの現在の関係者は、みな、その過去の映像と対比される。過去の寅さん映画に出演している俳優・女優たちは、みな若くて、男女ともに美しく生気にあふれている。彼らの現在の年老いた姿は、過去の若き日々の面影はない。中高年である私がいうのもなんだが、見るも無残な老醜をさらしているとしかいいようがない。
そしてこの映画のなかでただ一人、歳をとらない人物がいる。寅さんである。渥美清の映像は、現在のいまとここの老いた姿と比較することはできないので、過去の一時点に閉じ込められている。永遠に若い。ひとりだけ歳をとらない寅さんと、歳をとっている関係者たち。この残酷な対比が映画に冷たい輝きをあたえている。
逆にいえば、老いた渥美清をみることができないのは、ほんとうに残念としかいいようがない。実際、映画のなかで断片的にでてくるその演技は、ほんとうに成熟しまた魅力的なのだから。
ただ、それにしても最新のデジタル技術を駆使して再現される過去の作品の場面は鮮明で色褪せていない。それにくらべて、ほんとうにどうしたのだろうと不思議に思わずにはいられなかったのは、現在の老いた浅丘ルリ子や夏木マリの登場する場面は、異様に暗い。暗いといのはメタファーではなく、ほんとうに光量がとぼしくて画面全体が認識できないほど暗いのである。新宿ピカデリーでみたのだが、映画館のせいではないと思う。かつて輝いていた女優たちのいまとここは、ただ薄暗いだけということなのか。
最後は寅さんと共演したこれまでの女優たちの映像が流れるのだが、みんな若く、はつらつとしていて魅力的で、日本映画の一時期の代表的な女優達でもあり、ぼけ老人の私でも、全員の名前が言えた。寅さんとマドンナたちの物語は、そのまま日本映画50年史といえる面がある。もちろん監督自身、そんな傲慢なメッセージを込めていないと思うのだが、見る側は、とりわけ「男はつらいよ」シリーズとともに人生50年すごしてきた人たちにとっては、日本映画のなかで「男はつらいよ」は人生によりそってきたパートナー映画かもしれない(ほんとうは逆で、観客のほうがパートナーなのだが)。
posted by ohashi at 05:13| 映画
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2019年12月29日
読まれなかった小説
2018年製作の映画。監督 ヌリ・ビルゲ・ジェイラン
Ahla Agaci/The Wild Pear Tree
ネット上にあった「あらすじ」を引用すると:
3時間の映画で、とくに大きな事件が起こるわけでもなく、ある意味、淡々とすすみ、唐突に時間が飛んでも大きな変化が訪れることもなく、大団円を迎えることもなく、ある意味、閉塞状況のなかで終わる映画だが、最後まで、時間を忘れてみることができた。
物語のジャンル的には『ハムレット』である。『ハムレット』では大学生のハムレットが故郷に帰ってくる。母とは仲がいいのだが、母の結婚相手(彼の叔父)とは仲が悪い。そして大学に帰りたくても帰れないまま、悶々と日々を過ごす。この映画では、大学生ではなく大学卒業生の息子が故郷に帰ってくるが、故郷の村や町にはなじめないまま、また問題ある父親との軋轢のなか、事態を打開できないでいる。
現代の文学作品、演劇作品における原型的人物のひとりはハムレットであることを思い出せば、このことはさほど驚くことではない。
ちなみに映画で気になったのが主人公が、ほとんどの場合、画面の左側から登場して、はけるときも右側か中央の奥で、めったに左側にいかないことである。これはハリウッド映画での原則からすると映画の文法に反している。主人公は画面左側から登場し、右側に移動する。反対の動きをするのは敵役か敵対あるいは対立する人物である。ところが、このトルコ映画なのだが、画面右側からの登場が圧倒的に多く、これはトルコ映画では一般的なことなのだろうか。もし一般的でなければ、主人公の青年の動きは、Against the grain逆行となって、たとえ故郷でも彼がいまひとつなじめないことを、その動きの方向性で語っていることになるが、この点は、まだ確実ではない。
もうひとつのジャンルは、メニッポス的諷刺である。「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」では、
とあるがこれではジャンルの説明として不十分である。ノースロップ・フライやバフチンなどによって注目された文学ジャンルとしてのメニッポス的諷刺とは、さまざま思想・観念・立場・姿勢を百科全書的に取り上げ、その際、優劣はつけない、というかどちらかというとすべてに欠陥があることを示す文学ジャンルである。
たとえばサミュエル・ジョンソンの『ラセラス』は、アビシニアの王子ラセラスが、究極の叡智を求めて世果中の賢者のもとも訪れ教えを乞うが、その教えはどれも欠陥があり、結局、故郷のアビシニアに戻ってくるという物語。あるいは『ガリヴァー旅行記』の第3部は、当時の学問的趨勢を逐一批判諷刺していてメニッポス的諷刺となっている。『ラセラス』と同じく有名なメニッポス的諷刺は、ヴォルテールの『カンディード』である。カンディードもまた叡智を求めて東欧のいまのブルガリアから南米まで旅をするのだが、求める答えは得られず、故郷に帰り、「自分の畑を耕す」しかないと覚醒あるいは諦念するところで終わる。
この映画で途中から驚くのは、事件らしきもの、とりわけ衝撃的な事件らしきものは夢のなかでしか起こらなくて、それを除けば、淡々とした日常がつづくだけである。しかし、その日常のなかで議論というか言い合いというか論争が絶えず生ずる。市長や会社経営者と青年との間で、青年とその母親との間で、青年とかつてのガールフレンドとの間で、友人たちの間で、著名な作家を相手に、あるいは聖職者たちと、そして最後に対立していた父と息子との和解をもたらすかもしれない語り合いにいたるまで、さまざまな思い、立場、思想が語られる。議論はつねに平行線をたどり結論は出ない。むしろそれぞれの立場は鮮明になるが、理解や和解はない。その議論に耳を傾けることが、この映画のなかの観客に要求される作業である。そして偽善者や現実を顧みない頑迷な保守派、また社会悪などが浮き彫りになるが、そこに解決はない。
トルコの小さな村と、その近くにある港町での物語だが、トルコ社会全般に、さらには日本の社会にも通ずるグローバルな広がりのなかに、現在の閉そく状況の見取り図が示されるというところか。
ヴォルテールのカンディードが最後に自分の畑を耕すしかなかったように、主人公は、父親が掘りはじめた井戸を掘り続けるしかない。それは未来への希望を失わない必死のあがきかもしれないし、あるいはハムレットの墓堀のように、自分の墓穴をほりつづけるしかないことなのかもしれない(ちなみに井戸は、生命を支える水をくみ上げる生命維持装置であると同時に死ともむすびついている。貞子の話を知っているだろうか。あるいは私の母は山口県防府市出身なのだが、私の母方の祖母は、家の庭の井戸で自殺したらしい。井戸のなかに、飛び込んで死んだのだろうと思っていたが、井戸の桶を引っ張り上げる縄で首をくくったのかもしれない。ちなみに防府市では、俳人山頭火の母親も井戸で自殺している)。
なおこの映画のなかで主人公の青年は自分で書いた小説を出版するための資金援助を各方面に求めている。しかし、ある時点で、なんの経過説明もないまま小説が出版される。売れそうもない小説としても、とにかく、あれほど出版のめどがたちそうもなかった小説が、あっけなく出版されるのである。もしそうなら青年も苦労する必要はなかったことになる。
原題は「野生の梨の木」だが、日本語のタイトルは「読まれなかった小説」と意味深である。なるほど青年の母は小説出版を祝福するが、中身は読んでいない。まあ、日本風にいうと純文学で、エンターテインメント性はゼロということになるだろうから、いたしかたないとしても。また町の書店に置いてもらっているのだが、売れてはいないようだ。
しかしまた彼が小説を書いたことが地元で評判になり地方紙に取り上げられている。そもそも誰が読まなかったのか。さらにいうのなら、この映画の内容それ自体が、実は、青年の書いた小説なのではないか。映画は原稿段階の内容かもしれず、小説がほんとうに出版されたどうかわからないともいえる。
くりかえすと、この映画は、青年が書いた小説の内容であるともとれる。出版されずに消えるかもしれないし、出版されたかもしれない。この小説のなかで、青年は、自分の書いた小説が出版されたという夢を語ったのか。けっこう手のこんだメタフィクションあるいはメタ映画かもしれないのだ。
追記:舞台になるトルコのチャナッカレには、トロイの木馬のレプリカ(?)がある。この「木馬」はブラッド・ピットがアキレウスを演じた映画『トロイ』で実際に使われたもので、それを町に設置して観光目玉に設置したという。主人公はこの木馬の中に入り込んだ。夢の中での話だが、実際に入れるようだ。
Ahla Agaci/The Wild Pear Tree
ネット上にあった「あらすじ」を引用すると:
シナンの夢は作家になること。大学を卒業し、トロイ遺跡近くの故郷へ戻り、処女小説を出版しようと奔走するが、誰にも相手にされない。シナンの父イドリスは引退間際の教師。競馬好きな父とシナンは相容れない。気が進まぬままに教員試験を受けるシナン。父と同じ教師になって、この小さな町で平凡に生きるなんて……。父子の気持ちは交わらぬように見えた。しかし、ふたりを繋いだのは意外にも誰も読まなかったシナンの書いた小説だった――。
3時間の映画で、とくに大きな事件が起こるわけでもなく、ある意味、淡々とすすみ、唐突に時間が飛んでも大きな変化が訪れることもなく、大団円を迎えることもなく、ある意味、閉塞状況のなかで終わる映画だが、最後まで、時間を忘れてみることができた。
物語のジャンル的には『ハムレット』である。『ハムレット』では大学生のハムレットが故郷に帰ってくる。母とは仲がいいのだが、母の結婚相手(彼の叔父)とは仲が悪い。そして大学に帰りたくても帰れないまま、悶々と日々を過ごす。この映画では、大学生ではなく大学卒業生の息子が故郷に帰ってくるが、故郷の村や町にはなじめないまま、また問題ある父親との軋轢のなか、事態を打開できないでいる。
現代の文学作品、演劇作品における原型的人物のひとりはハムレットであることを思い出せば、このことはさほど驚くことではない。
ちなみに映画で気になったのが主人公が、ほとんどの場合、画面の左側から登場して、はけるときも右側か中央の奥で、めったに左側にいかないことである。これはハリウッド映画での原則からすると映画の文法に反している。主人公は画面左側から登場し、右側に移動する。反対の動きをするのは敵役か敵対あるいは対立する人物である。ところが、このトルコ映画なのだが、画面右側からの登場が圧倒的に多く、これはトルコ映画では一般的なことなのだろうか。もし一般的でなければ、主人公の青年の動きは、Against the grain逆行となって、たとえ故郷でも彼がいまひとつなじめないことを、その動きの方向性で語っていることになるが、この点は、まだ確実ではない。
もうひとつのジャンルは、メニッポス的諷刺である。「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」では、
Satura Menippea ギリシアのキュニコス派哲学者メニッポスがその対話体の風刺的批評文に用いた散文と韻文の混合した文体。ローマのウァロがこれを応用して,150巻の随筆集『メニッポス風サトゥラ』を著わし有名になり,ローマのサトゥラの発展にも貢献した。ガダラのメレアグロス,ペトロニウス,ルキアノスらもこの文体を用いた。
とあるがこれではジャンルの説明として不十分である。ノースロップ・フライやバフチンなどによって注目された文学ジャンルとしてのメニッポス的諷刺とは、さまざま思想・観念・立場・姿勢を百科全書的に取り上げ、その際、優劣はつけない、というかどちらかというとすべてに欠陥があることを示す文学ジャンルである。
たとえばサミュエル・ジョンソンの『ラセラス』は、アビシニアの王子ラセラスが、究極の叡智を求めて世果中の賢者のもとも訪れ教えを乞うが、その教えはどれも欠陥があり、結局、故郷のアビシニアに戻ってくるという物語。あるいは『ガリヴァー旅行記』の第3部は、当時の学問的趨勢を逐一批判諷刺していてメニッポス的諷刺となっている。『ラセラス』と同じく有名なメニッポス的諷刺は、ヴォルテールの『カンディード』である。カンディードもまた叡智を求めて東欧のいまのブルガリアから南米まで旅をするのだが、求める答えは得られず、故郷に帰り、「自分の畑を耕す」しかないと覚醒あるいは諦念するところで終わる。
この映画で途中から驚くのは、事件らしきもの、とりわけ衝撃的な事件らしきものは夢のなかでしか起こらなくて、それを除けば、淡々とした日常がつづくだけである。しかし、その日常のなかで議論というか言い合いというか論争が絶えず生ずる。市長や会社経営者と青年との間で、青年とその母親との間で、青年とかつてのガールフレンドとの間で、友人たちの間で、著名な作家を相手に、あるいは聖職者たちと、そして最後に対立していた父と息子との和解をもたらすかもしれない語り合いにいたるまで、さまざまな思い、立場、思想が語られる。議論はつねに平行線をたどり結論は出ない。むしろそれぞれの立場は鮮明になるが、理解や和解はない。その議論に耳を傾けることが、この映画のなかの観客に要求される作業である。そして偽善者や現実を顧みない頑迷な保守派、また社会悪などが浮き彫りになるが、そこに解決はない。
トルコの小さな村と、その近くにある港町での物語だが、トルコ社会全般に、さらには日本の社会にも通ずるグローバルな広がりのなかに、現在の閉そく状況の見取り図が示されるというところか。
ヴォルテールのカンディードが最後に自分の畑を耕すしかなかったように、主人公は、父親が掘りはじめた井戸を掘り続けるしかない。それは未来への希望を失わない必死のあがきかもしれないし、あるいはハムレットの墓堀のように、自分の墓穴をほりつづけるしかないことなのかもしれない(ちなみに井戸は、生命を支える水をくみ上げる生命維持装置であると同時に死ともむすびついている。貞子の話を知っているだろうか。あるいは私の母は山口県防府市出身なのだが、私の母方の祖母は、家の庭の井戸で自殺したらしい。井戸のなかに、飛び込んで死んだのだろうと思っていたが、井戸の桶を引っ張り上げる縄で首をくくったのかもしれない。ちなみに防府市では、俳人山頭火の母親も井戸で自殺している)。
なおこの映画のなかで主人公の青年は自分で書いた小説を出版するための資金援助を各方面に求めている。しかし、ある時点で、なんの経過説明もないまま小説が出版される。売れそうもない小説としても、とにかく、あれほど出版のめどがたちそうもなかった小説が、あっけなく出版されるのである。もしそうなら青年も苦労する必要はなかったことになる。
原題は「野生の梨の木」だが、日本語のタイトルは「読まれなかった小説」と意味深である。なるほど青年の母は小説出版を祝福するが、中身は読んでいない。まあ、日本風にいうと純文学で、エンターテインメント性はゼロということになるだろうから、いたしかたないとしても。また町の書店に置いてもらっているのだが、売れてはいないようだ。
しかしまた彼が小説を書いたことが地元で評判になり地方紙に取り上げられている。そもそも誰が読まなかったのか。さらにいうのなら、この映画の内容それ自体が、実は、青年の書いた小説なのではないか。映画は原稿段階の内容かもしれず、小説がほんとうに出版されたどうかわからないともいえる。
くりかえすと、この映画は、青年が書いた小説の内容であるともとれる。出版されずに消えるかもしれないし、出版されたかもしれない。この小説のなかで、青年は、自分の書いた小説が出版されたという夢を語ったのか。けっこう手のこんだメタフィクションあるいはメタ映画かもしれないのだ。
追記:舞台になるトルコのチャナッカレには、トロイの木馬のレプリカ(?)がある。この「木馬」はブラッド・ピットがアキレウスを演じた映画『トロイ』で実際に使われたもので、それを町に設置して観光目玉に設置したという。主人公はこの木馬の中に入り込んだ。夢の中での話だが、実際に入れるようだ。
posted by ohashi at 07:59| 映画
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2019年12月28日
『I am From Austria』
東宝宝塚劇場 月組公演 日本オーストリア友好150周年記念 UCCミュージカル 『I am From Austria』を東京宝塚劇場に観に行く。千秋楽の一日前。
『エリザベート』に次ぐ、宝塚による日本初演のウィーン発のミュージカルということなのだが、ウィーンのミュージカルがどういうものなのか知らないし、また知っていたとしても、どんなミュージカルも宝塚のフォーマットに一度作り変えられると思うので、原作がどうのこうのとは全く言えないのだが、二幕物の宝塚ミュージカルとして楽しい舞台に仕上がっていたのではないだろうか。またヘリコプターでウィーン上空を飛ぶというド派手なシーンがあって、見た感じは二人乗りの遊園地のヘリコプターの乗り物なのだが、本物のヘリコプターという設定で、舞台から突き出されたクレーンのようなものの先端のヘリコプターに二人がのって客席の上を飛び回るというシーンがある。実は二階席で見ていたので、ヘリコプターの高さが二階席の前のほうと同じレベルなので、一階席から見上げた感じはどうだったのかわからないのだが、アトラクションとしては目を奪った。
内容は、アメリカのハリウッド女優が、マネージャーといっしょにお忍びでウィーンにやってくる。その地で有名なサッカープレーヤーと婚約発表をして世界中を驚かそうという計画なのだが、その計画はマネージャーの独断によるもので、女優もサッカープレーヤーも初対面。話題作りと利権めあてにマネージャーが仕組んだもので、女優のほうも乗り気ではない。舞台は、ウィーンの四つ星ホテルに女優とマネージャーがお忍びでやってくるものの、事前に情報がもれてパパラッチに囲まれるというところからはじまる。
この女優は、ホテルの御曹司と恋におち、二人はホテルを抜け出してウィーンの街(ヘリコプター遊覧飛行も含む)を散策しアルプスまでの逃避行となるが、やがてみつかり女優はウィーンの舞踏会での婚約発表の場へと赴くことに……。ホテルの御曹司を玉城りょう、悪徳マネージャーを二番手の月城かなと、女優を美園さくらというかたちなる。
最初、このホテルは四つ星ホテルとは思えないようなひどいホテルで、女優のお忍び旅行の情報はもらすは、そのお詫びにと女優にケーキを差し入れる。女優とかアスリートは体調というか体重管理が厳しいからケーキ(ホール)をプレゼントするなどというのは、もってのほかで、無神経なホテルだと思っていたら、プログラムにあるウィーンでの舞台の上演写真をみると、ホテルの形態が三段のケーキみたいになっていて、ケーキにはなにか意味が持たされているのかもしれない。なお情報漏えいは陰謀でホテル側に責任はなかったことがあとでわかる。
世界的に著名なハリウッド女優は、まさに雲の上の御姫様で、その女性が、一流ホテルの御曹司とはいえ一般人の男性と恋におち、お忍びでウィーンの街を動き回り、はてはアルプス山中まで行くというのは、どこかで見たような、聞いたような話かと思っていたら、映画『ローマの休日』を思い出した。映画ではオードリー・ヘップバーンが王女で、彼女が新聞記者のグレゴリー・ペックとローマ市内を動き回り、逃げ回る。彼女が新聞記者の住居に訪れる。またパパラッチがつねに彼女を追っている。そう、これはオーストリア版『ローマの休日』というか、まさに『ウィーンの休日』ではないか。
お姫様と一般人男性との恋というのは、たとえば日本の羽衣伝説でもそうだし、このウィーン発ミュージカルの製作陣が言及していたディズニー映画『アラジン』もそうだが、このけっこうよくあるパタンは、お姫様の方が最後に雲の上に、天上の世界に戻ることによって、恋も終わることになる――貴重な思い出とともに、あるいはジブリの『かぐや姫の物語』(高畑勲監督)のようの胸の張り裂けるような悲しさをともなって。
ところが、このミュージカルは、タイトルからもわかるように、女優はオーストリア人でありウィーン出身なのであり、彼女は最後にまた天上界にもどるのではなく、むしろ故郷への帰国を果たす。そうなるとこれは『ローマの休日』でもなければ『かぐや姫の物語』でもなくて、ヒーローが、とらわれのヒロインを救出するという、あまたある救出劇のひとつとなる。ハッピーエンディングとなり、そこにオーストリア人としての誇りのようなものが歌い上げられ、オーストリア万歳のような幕切れになるが、それを、日本人としては、ハリウッドのような地獄に帰らなくてよかったのではないかと、ナショナリズムとか愛国精神とは無縁の非政治的に受け入れることになる。まあ、それはそれでよかったのではないかと思うのだが。
『エリザベート』は、宝塚版も、それ以外のヴァージョンも何度も上演されていて、いまや有名な作品なのだが、宝塚のフォーマットには、必ずしもうまく収まらないような気がしていた。なにしろ『エリザベート』ではトップが演ずるのは死神の役であり、二番手がフランツ・ヨーゼフ、そしてトップの娘役がエリザベート(シシー)になるのだが、死神は、ヒロインを救出するというよりも冥界へと連れ去り破滅させるのであり(これも救出なのかもしれないが)、本来なら悪役であるはずの死神がトップとなるというねじれたものになっていた。
まあ、それはそれで面白いのだが、今回、ヒロインを救出するヒーローという王道に帰ったということがいえるのかもしれない。あまりに王道過ぎる(つまりありふれている)ので、オーストリア賛歌をとりいれたというところなのだろうか。
なおハリウッド女優と偽りの婚約発表するはずのサッカー選手は、そもそもゲイで女性に関心がなかったということで、婚約発表しないことに傷跡を残さないように配慮されているように思えたが、ゲイであるという設定は面白いのだが、ややとってつけたようなところがあり、ウィーンでの女優と離れ離れになっていた実母との再会という感動のシーンがあっけなく終わったことともども、惜しい気がした。
『エリザベート』に次ぐ、宝塚による日本初演のウィーン発のミュージカルということなのだが、ウィーンのミュージカルがどういうものなのか知らないし、また知っていたとしても、どんなミュージカルも宝塚のフォーマットに一度作り変えられると思うので、原作がどうのこうのとは全く言えないのだが、二幕物の宝塚ミュージカルとして楽しい舞台に仕上がっていたのではないだろうか。またヘリコプターでウィーン上空を飛ぶというド派手なシーンがあって、見た感じは二人乗りの遊園地のヘリコプターの乗り物なのだが、本物のヘリコプターという設定で、舞台から突き出されたクレーンのようなものの先端のヘリコプターに二人がのって客席の上を飛び回るというシーンがある。実は二階席で見ていたので、ヘリコプターの高さが二階席の前のほうと同じレベルなので、一階席から見上げた感じはどうだったのかわからないのだが、アトラクションとしては目を奪った。
内容は、アメリカのハリウッド女優が、マネージャーといっしょにお忍びでウィーンにやってくる。その地で有名なサッカープレーヤーと婚約発表をして世界中を驚かそうという計画なのだが、その計画はマネージャーの独断によるもので、女優もサッカープレーヤーも初対面。話題作りと利権めあてにマネージャーが仕組んだもので、女優のほうも乗り気ではない。舞台は、ウィーンの四つ星ホテルに女優とマネージャーがお忍びでやってくるものの、事前に情報がもれてパパラッチに囲まれるというところからはじまる。
この女優は、ホテルの御曹司と恋におち、二人はホテルを抜け出してウィーンの街(ヘリコプター遊覧飛行も含む)を散策しアルプスまでの逃避行となるが、やがてみつかり女優はウィーンの舞踏会での婚約発表の場へと赴くことに……。ホテルの御曹司を玉城りょう、悪徳マネージャーを二番手の月城かなと、女優を美園さくらというかたちなる。
最初、このホテルは四つ星ホテルとは思えないようなひどいホテルで、女優のお忍び旅行の情報はもらすは、そのお詫びにと女優にケーキを差し入れる。女優とかアスリートは体調というか体重管理が厳しいからケーキ(ホール)をプレゼントするなどというのは、もってのほかで、無神経なホテルだと思っていたら、プログラムにあるウィーンでの舞台の上演写真をみると、ホテルの形態が三段のケーキみたいになっていて、ケーキにはなにか意味が持たされているのかもしれない。なお情報漏えいは陰謀でホテル側に責任はなかったことがあとでわかる。
世界的に著名なハリウッド女優は、まさに雲の上の御姫様で、その女性が、一流ホテルの御曹司とはいえ一般人の男性と恋におち、お忍びでウィーンの街を動き回り、はてはアルプス山中まで行くというのは、どこかで見たような、聞いたような話かと思っていたら、映画『ローマの休日』を思い出した。映画ではオードリー・ヘップバーンが王女で、彼女が新聞記者のグレゴリー・ペックとローマ市内を動き回り、逃げ回る。彼女が新聞記者の住居に訪れる。またパパラッチがつねに彼女を追っている。そう、これはオーストリア版『ローマの休日』というか、まさに『ウィーンの休日』ではないか。
お姫様と一般人男性との恋というのは、たとえば日本の羽衣伝説でもそうだし、このウィーン発ミュージカルの製作陣が言及していたディズニー映画『アラジン』もそうだが、このけっこうよくあるパタンは、お姫様の方が最後に雲の上に、天上の世界に戻ることによって、恋も終わることになる――貴重な思い出とともに、あるいはジブリの『かぐや姫の物語』(高畑勲監督)のようの胸の張り裂けるような悲しさをともなって。
ところが、このミュージカルは、タイトルからもわかるように、女優はオーストリア人でありウィーン出身なのであり、彼女は最後にまた天上界にもどるのではなく、むしろ故郷への帰国を果たす。そうなるとこれは『ローマの休日』でもなければ『かぐや姫の物語』でもなくて、ヒーローが、とらわれのヒロインを救出するという、あまたある救出劇のひとつとなる。ハッピーエンディングとなり、そこにオーストリア人としての誇りのようなものが歌い上げられ、オーストリア万歳のような幕切れになるが、それを、日本人としては、ハリウッドのような地獄に帰らなくてよかったのではないかと、ナショナリズムとか愛国精神とは無縁の非政治的に受け入れることになる。まあ、それはそれでよかったのではないかと思うのだが。
『エリザベート』は、宝塚版も、それ以外のヴァージョンも何度も上演されていて、いまや有名な作品なのだが、宝塚のフォーマットには、必ずしもうまく収まらないような気がしていた。なにしろ『エリザベート』ではトップが演ずるのは死神の役であり、二番手がフランツ・ヨーゼフ、そしてトップの娘役がエリザベート(シシー)になるのだが、死神は、ヒロインを救出するというよりも冥界へと連れ去り破滅させるのであり(これも救出なのかもしれないが)、本来なら悪役であるはずの死神がトップとなるというねじれたものになっていた。
まあ、それはそれで面白いのだが、今回、ヒロインを救出するヒーローという王道に帰ったということがいえるのかもしれない。あまりに王道過ぎる(つまりありふれている)ので、オーストリア賛歌をとりいれたというところなのだろうか。
なおハリウッド女優と偽りの婚約発表するはずのサッカー選手は、そもそもゲイで女性に関心がなかったということで、婚約発表しないことに傷跡を残さないように配慮されているように思えたが、ゲイであるという設定は面白いのだが、ややとってつけたようなところがあり、ウィーンでの女優と離れ離れになっていた実母との再会という感動のシーンがあっけなく終わったことともども、惜しい気がした。
posted by ohashi at 12:06| 演劇
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2019年12月24日
忘年会のスピーチ
現代文芸論研究室の年内打ち上げというか忘年会の最後に締めくくりに、スピーチを急遽頼まれた(私だけではなかったのだが)。
そのときのあまりうまく話せなかったので、ここに、もしうまくいったら、こんな話になっていたということで、実際の話そのままではなく、そのありえたかもしれない理想形ということで、ここに記しておきたい。これで理想形かとつっこまれそうだが、昨日のM1の漫才でもそうだが、最近は傷つけない、やさしいつっこみが流行り、あるいは流行りになるかもしれないので、つっこみはおてやわらかに。
エピローグあるいはプロローグ(宴会の始まる前の会話)
参加者:先生、その鞄は、退職記念に、現代文芸論の有志の方たちから贈られた鞄ですか。
大橋:いえ、これは違います。いただいた鞄は、日々使わせていただいていますが、りっぱな鞄で、こんなぼろ鞄ではありません。今日、この鞄をもってきているのは、中に、差し入れの鶏の空揚げと、冷やした獺祭のボトルが入っているからです。
そのときのあまりうまく話せなかったので、ここに、もしうまくいったら、こんな話になっていたということで、実際の話そのままではなく、そのありえたかもしれない理想形ということで、ここに記しておきたい。これで理想形かとつっこまれそうだが、昨日のM1の漫才でもそうだが、最近は傷つけない、やさしいつっこみが流行り、あるいは流行りになるかもしれないので、つっこみはおてやわらかに。
この締めくくりのスピーチをお願いされるとは夢にも思っていなかったので、なにを話していいのかわからないのですが、私は、この3月まで、文学部の英語英米研究室に所属していて、停年退職した者です。退職後は、どこにも就職せず、年金生活を送る隠居状態になっています。
最近、知人と出会うことがあったのですが、そのとき、その知人から、気が抜けた炭酸水みたいな顔をしているといわれました。あの、気の抜けた炭酸水と、気の抜けない淡彩水は、見た目は、どちらも同じで区別できないと思うので、その知人は、いったい何を言っているのだろうと、いぶかったのですが、まあ、私の話し方とか雰囲気が、悪く言えば気の抜けた、ぼーとした感じか、あるいはよく言えば、緊張感のないリラックスした感じだったのかもしれません。
ただ、良い意味でも悪い意味でも緊張感の抜けた感じになっていることの原因は、やはり定年退職したからだと思いました。逆にいうと現職でいた頃は緊張していたということになりますが、これは同僚といつも喧嘩していたとか、学生諸君とも対立していてたということではありません。実際、そんなことはありませんでしたから。では、なぜ緊張をしていたかといえば、それは学生諸君から、あるいは同僚の先生方から、日々、さまざまな刺激をうけていたからです――もちろんそのなかでも知的な、あるいは学問的な刺激が最も多かったわけですが。
そしてそうした刺激を失った今、自分が昨年度まで、いかに貴重な刺激的な場にいたかを痛感することになったのですが、こればかりはとりかえしがつきません。何もしなくとも刺激をもらえた昨年までのアカデミックな生活に匹敵する刺激を受け取ることはもうなく、自分で自分を鼓舞するしかないところにきているのですが、とにかく昨年までの恵まれた貴重な環境をなつかしく思い返しつつ、本日、限られた時間で、限られた人たちだけでしたが、お話ができ、貴重な刺激をたくさんもらいました。緊張感のない日々を送っているのですが、本日、いただいた刺激で、あと一年くらいは、完全に緊張感を失うことなく、なんとかやっていけそうな気がしました。
本日は、お招きいただき、どうもありがとうございました。
エピローグあるいはプロローグ(宴会の始まる前の会話)
参加者:先生、その鞄は、退職記念に、現代文芸論の有志の方たちから贈られた鞄ですか。
大橋:いえ、これは違います。いただいた鞄は、日々使わせていただいていますが、りっぱな鞄で、こんなぼろ鞄ではありません。今日、この鞄をもってきているのは、中に、差し入れの鶏の空揚げと、冷やした獺祭のボトルが入っているからです。
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2019年12月23日
年賀状は書きません
今年も年賀状のシーズンというか正月が間近に迫っているのだが、私は数年前から、年賀状は一通も書いていない。送られてきた年賀状にも一通も返事を出していない。例外なく。
理由は、年賀状を書くのが面倒だから。そして嫌われたいから。年賀状をいただくことに対しては失礼とは思いつつも、例外なく、一通も返信していない。それでも例年、年賀状をいただく方がいて申し訳ないと思いつつ、もう死ぬまで絶対に年賀状は書かないと決めている。嫌われたいから。
そう好かれるということが、どれほどプレッシャーなのか、多少は好かれた経験のある私はよく知っている。べつにこれから犯罪者になるということではない。実際、犯罪者は被害者以外からは好かれる傾向にある。だから正確にいえば、無視されたいということだが。
とはいえ、私が偏屈なのではなく、世間一般も年賀状を書く人は少数派になっている。今年は冷和になって初めての正月なので、年賀状を書こうとする人が多いと、テレビでは宣伝しているが、私は書くつもりはない。
数年前から書かなくなって、どうなったかというと、心やすらからで、すがすがしい気分で暮れをすごし、新年をむかえることができる。こんなに気持ちが楽になるのだったら、もっと早くから年賀状とは縁を切ればよかったと思う。
ちなみにネットニュースでこんなものをみつけた。
短い見出しというか小見出しは
しかしネットニュースの見出しはいつもミスリーディングで、中身とかけ離れていることが多い。いくら気を引くためとはいえ、なんとか工夫できないものか。
「派」がついていて、引用符で囲まれているので、一般性はなく、限定的な意見ということになるが、年賀状は社会人の常識であるということをいわんとしているのは、ばかばかしいにもほどがある。今の政権は、不道徳なこときわまりないのに、道徳性を重視する教育を提唱し、ネット上の道徳ファシズムがそれに呼応している現在、なにか過剰な道徳性を無理強いする愚劣さが透けて見えるのできわめて不愉快な見出しなのだが、ニュースそのものは、次の長めのタイトルに尽きている:
まあ、これならタイトルと内容は一致していて問題はない。記事を引用すると
LINEの調査だから、LINE利用者寄りの意見となっているが、ニュースの中身、そして調査結果は面白いというか、予想通りで安心できる。まあ、冷和になろうが、年賀状は関係ない、というか年賀状は、異なる手段で継承されているようであって、私のように書かないというのもまた少数派なのだろうと思う。【なお記事中の冷和というのは意図的です。】
理由は、年賀状を書くのが面倒だから。そして嫌われたいから。年賀状をいただくことに対しては失礼とは思いつつも、例外なく、一通も返信していない。それでも例年、年賀状をいただく方がいて申し訳ないと思いつつ、もう死ぬまで絶対に年賀状は書かないと決めている。嫌われたいから。
そう好かれるということが、どれほどプレッシャーなのか、多少は好かれた経験のある私はよく知っている。べつにこれから犯罪者になるということではない。実際、犯罪者は被害者以外からは好かれる傾向にある。だから正確にいえば、無視されたいということだが。
とはいえ、私が偏屈なのではなく、世間一般も年賀状を書く人は少数派になっている。今年は冷和になって初めての正月なので、年賀状を書こうとする人が多いと、テレビでは宣伝しているが、私は書くつもりはない。
数年前から書かなくなって、どうなったかというと、心やすらからで、すがすがしい気分で暮れをすごし、新年をむかえることができる。こんなに気持ちが楽になるのだったら、もっと早くから年賀状とは縁を切ればよかったと思う。
ちなみにネットニュースでこんなものをみつけた。
短い見出しというか小見出しは
「年賀状送る派"社会人の常識"」
しかしネットニュースの見出しはいつもミスリーディングで、中身とかけ離れていることが多い。いくら気を引くためとはいえ、なんとか工夫できないものか。
「派」がついていて、引用符で囲まれているので、一般性はなく、限定的な意見ということになるが、年賀状は社会人の常識であるということをいわんとしているのは、ばかばかしいにもほどがある。今の政権は、不道徳なこときわまりないのに、道徳性を重視する教育を提唱し、ネット上の道徳ファシズムがそれに呼応している現在、なにか過剰な道徳性を無理強いする愚劣さが透けて見えるのできわめて不愉快な見出しなのだが、ニュースそのものは、次の長めのタイトルに尽きている:
LINE調査「今年年賀状を送る人」は26.9% 送る理由に「社会人として常識」「義理」
まあ、これならタイトルと内容は一致していて問題はない。記事を引用すると
2019年12月28日 15時04分 キャリコネ
年賀状離れが叫ばれているが、LINEの調査では、今年年賀状を送るという人は26.9%
年賀状離れが叫ばれる昨今。LINEの調査によると、今年年賀状を送るという人は26.9%となった。チャットツールを使えば十分に「明けましておめでとう」は伝えられるわけで、年末の忙しい時期にわざわざ年賀状を用意するのは手間という人が多いようだ。
一方、キャリコネニュース読者の40代男性は「年賀状を100枚は送る」と答えた。その理由として、
「風物詩。数年合わない人の近況がわかるので」(エンジニア/年収600万円台)
と綴っている。
送る人は「義理」「社会人として常識」
年賀状を送る派の人からは、「会社の上司にだけ送ります。 1年に1度、お世話になった方々に感謝の気持ちを伝えるいい機会。 ただ、枚数が多いとめんどくさいです」(20代女性/事務・管理職/200万円台)といった声が寄せられている。一方で、
「社会人として、常識」(40代男性/営業職/400万円台)
「義理、習慣だから」(40代男性/エンジニア/500万円台)
「来た人に送ります」(60代男性/教育・保育・公務員・農林水産・その他/230万円)
といった理由も。「ぜひ書きたい」といった前向きなものではなく、社交辞令として仕方ないと思っている様子がうかがえる。
「個人情報保護の観点から、会社が社員名簿を配布しないので、送りません」
一方、"年賀状不要論"を唱える人も少なくない。
「理屈じゃなく送る理由がない」(40代男性/ITエンジニア/600万円台)
「必要性をまったく感じないので」(50代男性/事務・管理/1000万円以上)
「個人情報保護の観点から、会社が社員名簿を配布しないので、送りません」(40代男性/事務・管理/400万円台)
事務・管理職として働く30代女性(年収700万円台)は、「書く時間がない。挨拶はLINEでよい」と言い切る。年賀状について女性は、「結婚、子どもの出産など、他人へ報告する必要がない」と冷ややかだ。
LINEの調査だから、LINE利用者寄りの意見となっているが、ニュースの中身、そして調査結果は面白いというか、予想通りで安心できる。まあ、冷和になろうが、年賀状は関係ない、というか年賀状は、異なる手段で継承されているようであって、私のように書かないというのもまた少数派なのだろうと思う。【なお記事中の冷和というのは意図的です。】
posted by ohashi at 10:55| コメント
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2019年12月21日
『スター・ウォーズ ー スカイウォーカーの夜明け』
The Rise of Skaywalker
最近のアメリカ英語でいうとシリーズとはいわずに「フランチャイズ」というので、『スター・ウォーズ』フランチャイズの第9エピソード(最終エピソード)がアメリカと同時に日本もで公開された。
映画のなかで42年に一度のお祭りがあるという惑星に行く場面があるが、この42年というのは〈スター・ウォーズ・フランチャイズ〉の第1回作品(エピソード4)が公開された、いまから42年前とシンクロさせているという。日本の公開は、アメリカ公開よりも1年後くらいだろうから日本では41年前というべきかもしれないが、まあおおざっぱにいって今から40前に公開された映画が、こうしてようやく完結した。当時生まれた子供も、いまでは40歳。当時、映画を観た10歳の小学生も、いまでは50歳。20歳代で観た私はいまでは60代で退職し年金生活者となっている。40年、『スター・ウォーズ』フランチャイズは、まさに人生の半分、いや物心ついてからなら人生の大半ともにあった。
ネットでは映画を観て、面白かった、見てよかったというような反応があるいっぽで、失敗作だ、駄作だとわめているスター・ウォーズ・ファンがいる。アメリカでは批評家の評価もかんばしくないという。
だが、彼らは、『スター・ウォーズ』映画に何を期待しているのだろうか。これまでのパターンの繰り返しで斬新なところがないという評価は、ただただ、大いなるマンネリこそ、このフランチャイズの特色であることをまったく理解していない。そもそも連作物は、同じ設定をつかったアダプテーションというよりも、同じパターンを繰り返すのである。これはシェイクスピアの時代から同じで、『ヘンリー四世・第一部』で、磊落の騎士フォルスタッフとその仲間たちとつきあって放蕩息子の汚名を着ていたハル王子は、劇の最後で反乱軍制圧に活躍して勇猛果敢な王子として名をあげるのだが、『ヘンリー八世・第二部』では、同じく放蕩生活にひたって悪い評判を拭い去れていないというか、第一部がなかったかのように、第一部と同じパターンが繰り返される。
『スター・ウォーズ』フランチャイズでも第1作のパターンは以後どの作品でもくりかえされる。また三部作で一区切りとなるから、3部作のパターンも、同じパターンを踏襲する。そしてそのため本作品は、三部作の最後のエピソード、つまり第3エピソードと第6エピソードのパターンを踏襲する。そしてさらにフランチャイズ最後の作品というかフランチャイズを締めくくるために、最初に帰る(物語を終えるために最初に帰るというのは、物語構成のうえでの鉄則である、すくなくとも西洋における物語り行為においては)。そのため第9エピソードは第4エピソード(第1作)のパターンも色濃く踏襲する。そのため第9エピソードは、もう踏襲するものばかりで、身動きがとれなくなっているというふうにみることができる。
またさらに最後の三部作独自の特徴もある。第7エピソードではハン・「ソロ」/ハリソンフォードをフューチャーし(つまり「ソロ」が死ぬ)、第8エピソードではルーク・スカイウォーカー/マーク・ハミルをフューチャーし(つまりスカウォーカーが死ぬ)、そして第9エピソードではレイア姫/キャリー・フィッシャーをフューチャーする(つまりレイア姫・将軍が死ぬ)。そして三部作の最後は、ダースヴェイダー系の人物がみずから犠牲になって死ぬ(第3エピソードでは誕生だが、ある意味これもダークサイドに落ちる死でもある)。やはりてんこ盛りか。
ただし私がいま言いたいのはこのことではない。40年かけて『スター・ウォーズ』は完結した。私の人生の風車windmill of my lifeも一回転したかのようなそんな気がする。この40年間の出来事が頭をよぎる。ノスタルジアにひたりたくもなる。だから中高年の喜びを奪うな。『スター・ウォーズ』のくそファンども。ほんとうのファンは、『スター・ウォーズ』とともに、生きてきた中高年だ。若者のスターウォーズ・ファンは、ファンを詐称しているにすぎない。じゃまするな、この*****め。
最近のアメリカ英語でいうとシリーズとはいわずに「フランチャイズ」というので、『スター・ウォーズ』フランチャイズの第9エピソード(最終エピソード)がアメリカと同時に日本もで公開された。
映画のなかで42年に一度のお祭りがあるという惑星に行く場面があるが、この42年というのは〈スター・ウォーズ・フランチャイズ〉の第1回作品(エピソード4)が公開された、いまから42年前とシンクロさせているという。日本の公開は、アメリカ公開よりも1年後くらいだろうから日本では41年前というべきかもしれないが、まあおおざっぱにいって今から40前に公開された映画が、こうしてようやく完結した。当時生まれた子供も、いまでは40歳。当時、映画を観た10歳の小学生も、いまでは50歳。20歳代で観た私はいまでは60代で退職し年金生活者となっている。40年、『スター・ウォーズ』フランチャイズは、まさに人生の半分、いや物心ついてからなら人生の大半ともにあった。
ネットでは映画を観て、面白かった、見てよかったというような反応があるいっぽで、失敗作だ、駄作だとわめているスター・ウォーズ・ファンがいる。アメリカでは批評家の評価もかんばしくないという。
だが、彼らは、『スター・ウォーズ』映画に何を期待しているのだろうか。これまでのパターンの繰り返しで斬新なところがないという評価は、ただただ、大いなるマンネリこそ、このフランチャイズの特色であることをまったく理解していない。そもそも連作物は、同じ設定をつかったアダプテーションというよりも、同じパターンを繰り返すのである。これはシェイクスピアの時代から同じで、『ヘンリー四世・第一部』で、磊落の騎士フォルスタッフとその仲間たちとつきあって放蕩息子の汚名を着ていたハル王子は、劇の最後で反乱軍制圧に活躍して勇猛果敢な王子として名をあげるのだが、『ヘンリー八世・第二部』では、同じく放蕩生活にひたって悪い評判を拭い去れていないというか、第一部がなかったかのように、第一部と同じパターンが繰り返される。
『スター・ウォーズ』フランチャイズでも第1作のパターンは以後どの作品でもくりかえされる。また三部作で一区切りとなるから、3部作のパターンも、同じパターンを踏襲する。そしてそのため本作品は、三部作の最後のエピソード、つまり第3エピソードと第6エピソードのパターンを踏襲する。そしてさらにフランチャイズ最後の作品というかフランチャイズを締めくくるために、最初に帰る(物語を終えるために最初に帰るというのは、物語構成のうえでの鉄則である、すくなくとも西洋における物語り行為においては)。そのため第9エピソードは第4エピソード(第1作)のパターンも色濃く踏襲する。そのため第9エピソードは、もう踏襲するものばかりで、身動きがとれなくなっているというふうにみることができる。
またさらに最後の三部作独自の特徴もある。第7エピソードではハン・「ソロ」/ハリソンフォードをフューチャーし(つまり「ソロ」が死ぬ)、第8エピソードではルーク・スカイウォーカー/マーク・ハミルをフューチャーし(つまりスカウォーカーが死ぬ)、そして第9エピソードではレイア姫/キャリー・フィッシャーをフューチャーする(つまりレイア姫・将軍が死ぬ)。そして三部作の最後は、ダースヴェイダー系の人物がみずから犠牲になって死ぬ(第3エピソードでは誕生だが、ある意味これもダークサイドに落ちる死でもある)。やはりてんこ盛りか。
ただし私がいま言いたいのはこのことではない。40年かけて『スター・ウォーズ』は完結した。私の人生の風車windmill of my lifeも一回転したかのようなそんな気がする。この40年間の出来事が頭をよぎる。ノスタルジアにひたりたくもなる。だから中高年の喜びを奪うな。『スター・ウォーズ』のくそファンども。ほんとうのファンは、『スター・ウォーズ』とともに、生きてきた中高年だ。若者のスターウォーズ・ファンは、ファンを詐称しているにすぎない。じゃまするな、この*****め。
posted by ohashi at 20:07| 映画
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2019年12月20日
『マクベス』
『マクベス』翻案・演出 谷賢一 翻訳 松岡和子 KAAT神奈川芸術劇場
この『マクベス』公演は年末のあわただしい時でもあるし(私は実はあわただしいのではないが、周囲があわただしく、それにまきこまれてもいたので)、見に行く予定はなかったのだが、カクシンハン公演の『海辺のロミオとジュリエット』のアフタートークで、松岡和子氏が現在上演中で、見に行くべきだと絶賛していたので、チケットを購入できたので劇場へ。
劇場の受付でもらったチケットの整理番号は91。呼ばれるのは後のほうだが、KAATの大スタジオは、どこに座ってもよく見えるので(それは前月の『グリークス』でも立証済みだった)、それほどあせることなく気長に待つことにした。直前にチケットを購入したこともあるので、よい席ではないことは覚悟のうえである。
上演30分前に開場。気長に待つはずが……。整理番号が呼ばれるのだが、番号を呼ばれてもいない人のほうが多い。指定席ではないのだから、早めにきて待っていないと、整理番号順に入れない。いくら整理番号が若いチケットをもっていても、いなかったら何の意味もないのにと考えていたら、予想外なことに、あっというまに整理番号100番までの方と言われて入場。席は、がら空きで(最終的には満席になったのだが)、こういうときには一番好きな舞台にむかって中央よりも右の最前列の席をとった。
そこまではよかったのだが、座っていると、ステージマネジャーのような男性(演出の谷賢一氏ではなかったと思う)が登場し、席の最前列の観客にむかって紙をくばり、宴会への招待状として、上演中、飲み物を配るので受け取ってほしいと書いてある(中身は清涼飲料水で飲んでもかまわないとある)。また係りのものがカップは回収するとも。これは観客参加型のパフォーマンスなのかと嫌な感じがした。たぶんマクベスが王になってからの宴会の場面だろう。そのとき招待客になれというのだろうか。まさか舞台に上がれというのではないだろうがと、あれこれ考えた。
そもそも、そうできるのも、設定が中世のスコットランドではなく、昭和の香りもする現代日本であって、観客を上演にまきこんでも違和感はないからだろう。やがて宴会の場面が始まる頃になると、透明なカップに入った飲み物が最前列の私たちに配られた。座ったままでいいので、いっしょに乾杯してくれということらしい。ただ、それだけのことだったので、安心したが拍子抜けもした。
最前列の私たちはマクベスの宴会の客になったのだが、しかし、考えてみると、こういうかたちで観客が劇の世界に巻き込まれるのは悪くはない――こういうかたちでなら。というのも観客を巻き込む演出が多いのは『ジュリアス・シーザー』の、ローマ市民を相手にしたブルータスとアントニーの演説の場面である(『リチャード三世』にもロンドン市民が集まって、リチャードに王になってくれるよう懇願する場面がある)。このとき観客はローマ市民にみたてられるのだが、不愉快なのは、そういうかたちで観客が衆愚政治の一部に組み込まれてしまうことである。なぜプロパガンダに騙されやすい無知蒙昧の徒との共犯関係を観客は要求されるのか。
しかし今回の『マクベス』における宴会の客になるのは、衆愚政治に巻き込まることではない。そこに演出家の深い配慮を感じたのだが、この宴会でマクベスは殺したはずのバンクォーの亡霊をみて取り乱す。発狂するほど怯えおののき、マクベス夫人もその場をとりつくろうことができず、宴会はお開きになる。最終的に招待客をすぐに帰されてしまうのだ。もちろん招待客に詳しい事情はわからない。ただ、亡霊をみたかのように取り乱す王の精神的不安定さ、狂気じみた言動は、王としての威厳の喪失、王としての資質を疑わせるのに十分なものがある。この国王夫妻、とりわけ国王のほうは、胡散臭いのだ。正常な精神を失っているかのような信頼のおけない国王ではないかと、招待客は冷静にみるしかなくなる。
実はこれが今回の演出にも関係していて、別に最前列の観客だけではなく、観客全体が、このマクベス夫妻の悪行を、二人が、どんなにいいつくろうおうが、二人が、どんなに同情をひこうが、二人が、どんなに清廉潔白であることをいおうが、『マクベス』の観客は、舞台の招待客と同様に、マクベス夫妻の行動を余さず逐一観察する。たとえ二人がなんといおうとも観客は真実をみている。
劇とはと大風呂敷を広げるつもりはないが、とりわけ悲劇の場合には、作品は、聖人伝か悪人伝となるし、悪人伝の場合には、それは裁きの場となる。聖人伝でなければ、犯罪者の行為を再現することによって観客が裁きを下す場こそ、『マクベス』の特徴であって、観客は、没入することになく、むしろ冷静に、嘲笑的に、舞台のアクションを観察し裁きを下す。それは衆愚政治がもたらす没入とは異なり、国王夫妻の犯罪と愚行を透徹した眼差しで見抜くという、ブレヒト的演劇が可能にする距離化なのだ。いや、もっといえば、距離化というのは正しくないかもしれない。こんなに間近にいながら、客席の最前列にいながら、舞台の演劇からは一歩引いてい見ている観客。間近にいながら距離を保つことで、どこまでもリアルで、真に迫っていながら、冷ややかなまなざしを可能にする観客。沸騰する湯の中の氷の一片。
そもそも演劇と言うのは、アリストテレスの昔から、そういうものではなかったかと言われそうだ。悲劇とは憐憫と恐怖によってカタルシスをもたらす。憐憫とは同情であり同一化であり没入だとしたら、恐怖は反発や離反、距離化となる。しかしながらシェイクスピアの場合、『マクベス』以降、『アントニーとクレオパトラ』、『コリオレイナス』など、その視線が、突き放すような冷酷さをどんどん帯びてゆくことになる。『マクベス』はある種の転機であって、マクベスを同情的に提示する演出もあるが、むしろ突き放して独裁者の誕生の冷徹な分析としてみるような演出のほうが、シェイクスピアのオリジナルな創作意図に近いだろう――もちろん、オリジナルな意図などくそくらえというのが私の立場だし、そもそもオリジナルな意図など後付にすぎないいかがわしいものだというのが私の立場なので、オリジナルの意図を絶対視するつもりはないが、ただ、この演出のほうが、オリジナルな意図と、そして現代社会の動向ともシンクロするのではないかと考えている。
というのもネタバレなのだが、もう上演は終わっているので、許されると思うのだが(この記事は2020年1月12日に書いている)、今回の『マクベス』は、マクベス夫妻が最後に死なないのである。国王を追放するはずの反乱軍が敗退し、国王マクベスの支配が盤石なものとなる。最後には、都合の悪いことは、すべて「閣議決定」(比喩ではなく、そういうセリフが発せられる)によって、なきものとし、マクベスは、自分と妻は、国王殺しにいっさい関わっていないのであり、もし国王殺害に関係していたら、国王をやめるしかないわけで、断じて国王殺害に関与していないと宣言するのである。
マクベスは、安倍首相夫妻に最後に変貌することによって、現代の日本の政治と社会の腐敗しきった光景が立ち上がるし、また為政者がなんといおうと、そこに不正があることは、国民のひとりひとりが見抜いていること。安倍政権のやっていることは、歴史に残る茶番以外の何者でもないことの怒り(同時に、それを傍観するしかない国民の諦め(この場合は、怒りは自分自身に向かうことになる怒り)とによって、シェイクスピアの『マクベス』が、わたしたちのいまとここに奇跡的ともいえるかたちでシンクロするのである。
もちろん、それだけのアイデアで観客を圧倒させるというのなら、ただの際物めいた演出あるいは翻案にすぎないということになるのだが、劇団Dull-Colored Popのメンバーの演技だ誰も水準をはるかに超えた質のもので(なぜ、こんなに上手いのかとほうとうに感銘を受けたのだが)、その迫力あるパフォーマンスがあればこそ、最後のアレンジが、ただの際物もコントめいたもので終わらずに、シェイクスピアと現代日本との感動的なシンクロ/コラボになっているともいえる。いまではあまり使われないない、寿命の短かった言葉かもしれないが、Presentism(現在主義、現在の特質なり思想なり感覚なりから、過去の作品を再解釈すること)のすぐれた一例ともいえるだろう。
マクベス夫妻が、安倍首相夫妻であることは、この作品を観た者の脳裏に永久にすりこまれることになろう――私たちのいまとここへの怒りとと絶望とともに、あるいは笑い飛ばすべきか。
追記
マクベスとかマクベス夫人、あるいはマクベス夫妻を、なにかになぞらえる試みのなかで、マクベス夫妻=安倍首相夫妻は最高傑作だと思うのだが、こうした試みのなかで、有名なのはロシアの作家ニコライ・レスコフ(1831-95)の『ムツェンスク郡のマクベス夫人』があるが、これは妻が愛人と結託して夫を殺す話で、シェイクスピアの『マクベス』とは何の関係もない。事実、シェイクスピアのマクベス夫人は、愛人とともに夫を殺すことはない――むしろ、この悪党夫婦の仲は良く、それは子供がないこととも夫婦仲の良さとも重なる(子供がいないことはどこかの国の首相夫妻と重なる)。愛人と結託して夫を殺すのは、アガメムノンを殺したクリュタイメストラーであって、マクベス夫人とは関係がないのだが、なにか悪女のイメージからか、レスコフの作品にマクベス夫人の名前が使われたのだろう(作品中には、マクベス夫人への言及はなかったと思う。またロシア文学の専門家に聞くしかないことであるが。)。
このレスコフの作品タイトルの無意味さにくらべれば今回のマクベス夫妻=安倍首相夫妻は、はるかに知的で、諷刺的で、なおかつ適切さや、政治的文化的意義において優れていることは、誰の眼にもあきらかである。
この『マクベス』公演は年末のあわただしい時でもあるし(私は実はあわただしいのではないが、周囲があわただしく、それにまきこまれてもいたので)、見に行く予定はなかったのだが、カクシンハン公演の『海辺のロミオとジュリエット』のアフタートークで、松岡和子氏が現在上演中で、見に行くべきだと絶賛していたので、チケットを購入できたので劇場へ。
劇場の受付でもらったチケットの整理番号は91。呼ばれるのは後のほうだが、KAATの大スタジオは、どこに座ってもよく見えるので(それは前月の『グリークス』でも立証済みだった)、それほどあせることなく気長に待つことにした。直前にチケットを購入したこともあるので、よい席ではないことは覚悟のうえである。
上演30分前に開場。気長に待つはずが……。整理番号が呼ばれるのだが、番号を呼ばれてもいない人のほうが多い。指定席ではないのだから、早めにきて待っていないと、整理番号順に入れない。いくら整理番号が若いチケットをもっていても、いなかったら何の意味もないのにと考えていたら、予想外なことに、あっというまに整理番号100番までの方と言われて入場。席は、がら空きで(最終的には満席になったのだが)、こういうときには一番好きな舞台にむかって中央よりも右の最前列の席をとった。
そこまではよかったのだが、座っていると、ステージマネジャーのような男性(演出の谷賢一氏ではなかったと思う)が登場し、席の最前列の観客にむかって紙をくばり、宴会への招待状として、上演中、飲み物を配るので受け取ってほしいと書いてある(中身は清涼飲料水で飲んでもかまわないとある)。また係りのものがカップは回収するとも。これは観客参加型のパフォーマンスなのかと嫌な感じがした。たぶんマクベスが王になってからの宴会の場面だろう。そのとき招待客になれというのだろうか。まさか舞台に上がれというのではないだろうがと、あれこれ考えた。
そもそも、そうできるのも、設定が中世のスコットランドではなく、昭和の香りもする現代日本であって、観客を上演にまきこんでも違和感はないからだろう。やがて宴会の場面が始まる頃になると、透明なカップに入った飲み物が最前列の私たちに配られた。座ったままでいいので、いっしょに乾杯してくれということらしい。ただ、それだけのことだったので、安心したが拍子抜けもした。
最前列の私たちはマクベスの宴会の客になったのだが、しかし、考えてみると、こういうかたちで観客が劇の世界に巻き込まれるのは悪くはない――こういうかたちでなら。というのも観客を巻き込む演出が多いのは『ジュリアス・シーザー』の、ローマ市民を相手にしたブルータスとアントニーの演説の場面である(『リチャード三世』にもロンドン市民が集まって、リチャードに王になってくれるよう懇願する場面がある)。このとき観客はローマ市民にみたてられるのだが、不愉快なのは、そういうかたちで観客が衆愚政治の一部に組み込まれてしまうことである。なぜプロパガンダに騙されやすい無知蒙昧の徒との共犯関係を観客は要求されるのか。
しかし今回の『マクベス』における宴会の客になるのは、衆愚政治に巻き込まることではない。そこに演出家の深い配慮を感じたのだが、この宴会でマクベスは殺したはずのバンクォーの亡霊をみて取り乱す。発狂するほど怯えおののき、マクベス夫人もその場をとりつくろうことができず、宴会はお開きになる。最終的に招待客をすぐに帰されてしまうのだ。もちろん招待客に詳しい事情はわからない。ただ、亡霊をみたかのように取り乱す王の精神的不安定さ、狂気じみた言動は、王としての威厳の喪失、王としての資質を疑わせるのに十分なものがある。この国王夫妻、とりわけ国王のほうは、胡散臭いのだ。正常な精神を失っているかのような信頼のおけない国王ではないかと、招待客は冷静にみるしかなくなる。
実はこれが今回の演出にも関係していて、別に最前列の観客だけではなく、観客全体が、このマクベス夫妻の悪行を、二人が、どんなにいいつくろうおうが、二人が、どんなに同情をひこうが、二人が、どんなに清廉潔白であることをいおうが、『マクベス』の観客は、舞台の招待客と同様に、マクベス夫妻の行動を余さず逐一観察する。たとえ二人がなんといおうとも観客は真実をみている。
劇とはと大風呂敷を広げるつもりはないが、とりわけ悲劇の場合には、作品は、聖人伝か悪人伝となるし、悪人伝の場合には、それは裁きの場となる。聖人伝でなければ、犯罪者の行為を再現することによって観客が裁きを下す場こそ、『マクベス』の特徴であって、観客は、没入することになく、むしろ冷静に、嘲笑的に、舞台のアクションを観察し裁きを下す。それは衆愚政治がもたらす没入とは異なり、国王夫妻の犯罪と愚行を透徹した眼差しで見抜くという、ブレヒト的演劇が可能にする距離化なのだ。いや、もっといえば、距離化というのは正しくないかもしれない。こんなに間近にいながら、客席の最前列にいながら、舞台の演劇からは一歩引いてい見ている観客。間近にいながら距離を保つことで、どこまでもリアルで、真に迫っていながら、冷ややかなまなざしを可能にする観客。沸騰する湯の中の氷の一片。
そもそも演劇と言うのは、アリストテレスの昔から、そういうものではなかったかと言われそうだ。悲劇とは憐憫と恐怖によってカタルシスをもたらす。憐憫とは同情であり同一化であり没入だとしたら、恐怖は反発や離反、距離化となる。しかしながらシェイクスピアの場合、『マクベス』以降、『アントニーとクレオパトラ』、『コリオレイナス』など、その視線が、突き放すような冷酷さをどんどん帯びてゆくことになる。『マクベス』はある種の転機であって、マクベスを同情的に提示する演出もあるが、むしろ突き放して独裁者の誕生の冷徹な分析としてみるような演出のほうが、シェイクスピアのオリジナルな創作意図に近いだろう――もちろん、オリジナルな意図などくそくらえというのが私の立場だし、そもそもオリジナルな意図など後付にすぎないいかがわしいものだというのが私の立場なので、オリジナルの意図を絶対視するつもりはないが、ただ、この演出のほうが、オリジナルな意図と、そして現代社会の動向ともシンクロするのではないかと考えている。
というのもネタバレなのだが、もう上演は終わっているので、許されると思うのだが(この記事は2020年1月12日に書いている)、今回の『マクベス』は、マクベス夫妻が最後に死なないのである。国王を追放するはずの反乱軍が敗退し、国王マクベスの支配が盤石なものとなる。最後には、都合の悪いことは、すべて「閣議決定」(比喩ではなく、そういうセリフが発せられる)によって、なきものとし、マクベスは、自分と妻は、国王殺しにいっさい関わっていないのであり、もし国王殺害に関係していたら、国王をやめるしかないわけで、断じて国王殺害に関与していないと宣言するのである。
マクベスは、安倍首相夫妻に最後に変貌することによって、現代の日本の政治と社会の腐敗しきった光景が立ち上がるし、また為政者がなんといおうと、そこに不正があることは、国民のひとりひとりが見抜いていること。安倍政権のやっていることは、歴史に残る茶番以外の何者でもないことの怒り(同時に、それを傍観するしかない国民の諦め(この場合は、怒りは自分自身に向かうことになる怒り)とによって、シェイクスピアの『マクベス』が、わたしたちのいまとここに奇跡的ともいえるかたちでシンクロするのである。
もちろん、それだけのアイデアで観客を圧倒させるというのなら、ただの際物めいた演出あるいは翻案にすぎないということになるのだが、劇団Dull-Colored Popのメンバーの演技だ誰も水準をはるかに超えた質のもので(なぜ、こんなに上手いのかとほうとうに感銘を受けたのだが)、その迫力あるパフォーマンスがあればこそ、最後のアレンジが、ただの際物もコントめいたもので終わらずに、シェイクスピアと現代日本との感動的なシンクロ/コラボになっているともいえる。いまではあまり使われないない、寿命の短かった言葉かもしれないが、Presentism(現在主義、現在の特質なり思想なり感覚なりから、過去の作品を再解釈すること)のすぐれた一例ともいえるだろう。
マクベス夫妻が、安倍首相夫妻であることは、この作品を観た者の脳裏に永久にすりこまれることになろう――私たちのいまとここへの怒りとと絶望とともに、あるいは笑い飛ばすべきか。
追記
マクベスとかマクベス夫人、あるいはマクベス夫妻を、なにかになぞらえる試みのなかで、マクベス夫妻=安倍首相夫妻は最高傑作だと思うのだが、こうした試みのなかで、有名なのはロシアの作家ニコライ・レスコフ(1831-95)の『ムツェンスク郡のマクベス夫人』があるが、これは妻が愛人と結託して夫を殺す話で、シェイクスピアの『マクベス』とは何の関係もない。事実、シェイクスピアのマクベス夫人は、愛人とともに夫を殺すことはない――むしろ、この悪党夫婦の仲は良く、それは子供がないこととも夫婦仲の良さとも重なる(子供がいないことはどこかの国の首相夫妻と重なる)。愛人と結託して夫を殺すのは、アガメムノンを殺したクリュタイメストラーであって、マクベス夫人とは関係がないのだが、なにか悪女のイメージからか、レスコフの作品にマクベス夫人の名前が使われたのだろう(作品中には、マクベス夫人への言及はなかったと思う。またロシア文学の専門家に聞くしかないことであるが。)。
このレスコフの作品タイトルの無意味さにくらべれば今回のマクベス夫妻=安倍首相夫妻は、はるかに知的で、諷刺的で、なおかつ適切さや、政治的文化的意義において優れていることは、誰の眼にもあきらかである。
posted by ohashi at 23:58| 演劇
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2019年12月19日
『スペインは呼んでいる』
絶対に見ると思っていながら、気付くと上映最終日。とはいえ実は火曜日に観に行く予定が、地下鉄が立ち往生して、先にすすめず、ある程度余裕をもって出かけたのだが、もう間に合わないことがわかって途中下車したことがあったので、最終日に2回目のチャレンジでようやくみることができた。
The Trip (2010) という英国のテレビシリーズから生まれた映画『スティーヴとロブのグルメトリップ 』The Trip (2010)(テレビシリーズを再編集)の続編『イタリアは呼んでいる 』The Trip to Italy (2014)がめちゃめちゃ面白かったので、同じ趣向の『スペインは呼んでいる』The Trip to Spain (2017)の公開は大歓迎【最終日に行ったくせにと言われそうだが】。最初のうちはイタリア篇の焼き直しかとがっかりしたが、だんだんテンションがあがってきて、イタリア篇をしのぐ出来栄えであった。
堅苦しい映画ではない。スティーヴ・クーガンとロブ・ブライドンの二人がイタリアやスペインを車で旅するのだが、各地でその土地の知られざる名物料理を味わうというグルメ旅映画なのだが、ふつうの旅番組・映画でもグルメ番組・映画ではない。たしかに二人が今回も外国(スペイン)を車で旅するのだが、完全なドキュメンタリーでない。たとえば旅の途中でスティーヴもロイも電話をかけるのだが、電話の相手の映像も出る。ドキュメンタリーなら、最初から打ち合わせをして、リアルタイムで電話のかけ手と受け手の両方を同時に撮影しなければならないが、それはないだろう。たとえばスティーヴ・クーガンは自分のエージェントに電話をするのだが、電話を受けるエージェントの男性も映像に出る。おそらくエージェントの男性は後から撮影したのだろう。いや、そもそもこの男性が本物のエージェントかどうかもわからない、たぶん俳優が演じているのだろう。と、まあ、本来のドキュメンタリーならありえないことである。そもそも映画は、スペインの荒野でガソリン切れとなって立ち往生するスティーヴ・クーガンが、侵略してきたイスラム国(IS)の連中に拉致され捕虜になるだろうと予感させるところで終わるのだから。旅グルメドキュメンタリーと思っていたら(あるいはそのように始まった)映画は、フィクションで終わるのである。
また前回よりもさらに磨きがかかってくるのは、二人のモノマネである。食事をしながら、いろいろなことを話し合うふたりだが、いつしか有名な俳優・男優のモノマネ合戦になっている。同じ人物のモノマネをふたりがする。マーロン・ブランド、ショーン・コネリー(『007』シリーズの場面のモノマネによる再現もある)、ロジャー・ムーア、イアン・マッカランらのモノマネをふたりでする。ふたりともうまい、そっくりである。ふたりが自分のほうが似ていると競い合うところは(というかいつも食事のときにはモノマネをするのだが)圧巻である。アントニー・ホプキンズのモノマネも登場するが、最近ホプキンズが出演する映画を観たばかりなのに(『二人のローマ教皇』)、ホプキンズの話し方の特徴をつかんでいないのだが、スティーヴ・クーガンによる興奮したホプキンズのしゃべりのモノマネは、まさにホプキンズそのものであり、逆にモノマネを通して教えてもらったところがある。また、シェイクスピアの芝居の再現もある。おそらく食事でのこうしたやりとりが、出てくる料理よりも魅力的で、ふたりはステージで、モノマネ漫才をしてほしいと思うくらいだ。
フィクションの部分では、あるいは現実なのかフィクションなのかわからないのだが、スティーヴ・クーガンが、最新作『僕たちのラストステージ』Stan and Ollie(2018)でスタン・ローレルを演じたことを話題にしないのは変だと思っていたが、この映画は2017年の映画で、『僕たちのラストステージ』はまだ製作されていないことがわかった。またスティーヴ・クーガンは『あなたを抱きしめる日まで』(Philomenaスティーヴン・フリアーズ監督)では出演し脚本も書いているのだが、この映画をローマ教皇に見せたと話していた。え、この映画を教皇に見せた? ローマ・カトリックによる違法な人身売買まがいの孤児の養子縁組の犠牲になった母親と生き別れになった子供の物語は、カトリック批判の映画でもあるのだが、それをローマ教皇に見せた? もしそれがほんとうなら、この映画が製作された2013年はフランシスコ教皇が選出された年でもある。フランシスコ教皇ならカトリックの過去の犯罪を暴く映画を受け入れたのかもしれない(映画『二人のローマ教皇』参照)。
とはいえ、スティーヴ・クーガンとエージェントとのトラブルはほんとうなのだろうか。この旅は、若い頃のスティーヴ・クーガンのスペイン旅行と同じ経路をたどるものだが、ロイとは途中で別れ息子と合流するはずのところ、都合で息子が来られない。恋人の女性を呼び寄せようとするがアメリカにいてすぐには来られない。遅い結婚ながら幸福な家族生活ををおくっているロイとは対照的にスティーヴには中高年の孤独と悲哀がつきまとう。最後にはやけになってスペインの荒野を車で飛ばし、先ほど述べたようなありさまになる。スティーヴ・クーガンの実人生なのか、中高年男の孤独な人生の劇化か、そこは定かではないのだが、フィクションとしてみれば、この映画には人生の悲哀のモチーフが際立っている。
映画のエンドクレジットでも歌われ、また映画のなかでも二人が歌ったりする『風のささやき』。1970年代のヒット曲で、懐メロなのだが、ミシェル・ルグラン作曲のいまでも色褪せない名曲である。原題はWindmills of Your Mind「あなたの心の風車」。この風車はドンキホーテの風車とつながるだろう。二人は旅の途上で、ドンキホーテとサンチョパンサの格好で風車の前で写真撮影される(番宣か映画の宣伝で)。歌は風車のように回りめぐる人生の倦怠と悲哀を歌う曲で、単純だが美しいメロディーの繰り返しが、なんともいえぬもの哀しさをかもしだす。もともとっこの曲は映画『華麗なる賭け』(原題とは異なる日本語タイトルだが、この頃の日本では、なんでも「華麗」とつけるのは流行っていた)のなかで人生に倦んでいるスティーヴ・マックィーンの状況とシンクロするかたちで使われていた。
また今回の映画のなかでスティーヴ・クーガンに教えられたのだが、原曲を歌っているのがNoel Harrisonで、レックス・ハリソンの息子とのこと(レックス・ハリソンというのは、オーソリー・ヘップバーン主演の『マイ・フェア・レディ』のヒギンズ教授役といえばわかるだろうか)。ノエル・ハリソンはもう亡くなっているのだが、ノエル・ハリソンを実は私は人生の一時期、毎週テレビでみていた。そう『0011ナポレオン・ソロ』のスピンオフ・シリーズ『0022アンクルの女』で、主役のステファニー・パワーズのパートナーのスパイとしてレギュラー出演していたのがノエル・ハリソンだった(ステファニー・パワーズの声を野際陽子、ノエル・ハリソンの声を広川太一郎が担当した)。本国ではさほど人気がでなくて、逆に本編の『ナポレオン・ソロ』の足をひっぱったようだが、この女スパイ物は私には面白かった。10代の少年にはエロかったということもあったかもしれないが、エイプリル・ダンサー/ステファニー・パワーズとノエル・ハリソンとの掛け合いが面白く、二人が出来ているか出来ていないか、曖昧ながらきわどい関係をずっと維持していたことも、もうひとつのイギリスのスパイ物『アヴェンジャーズ』シリーズ(当時の日本では『おしゃれ探偵……』なんとかというタイトルだったが)の男女関係を思い起こさせてもえた(燃えではなく萌えのほう)。
映画にもどれば、ふたりのかけあい、とりわけモノマネ合戦に笑っていると、いつか哀しき人生の現実に直面し、またそのいっぽうでノスタルジアへと逃げ込むしかなくなる中高年男性の姿がみえてくる。そこにイスラム世界と接していたスペインの歴史と風土への考察のようなものも語られ、思いのほか奥行きのある映画となっている。逆に、軽い旅グルメドキュメンタリーと思ってみると裏切られるのかもしれない。マイケル・ウィンターボトムの最新作としても貴重な映画である。
エピローグ
最近、姪と会ったとき、どんな文脈であるか忘れたのだが、「鳩というのは英語でFlying Ratというらしいね」と言ってきた。「ああ知っているよ、空飛ぶドブネズミというのでしょう。鳩のことを」と答えた私は、こう付け加えていた――「マイケル・ウィンターボトム監督の『24アワー・パーティー・ピープル』【24 Hour Party People (2002)】のなかでプレゼンターのスティーヴ・クーガンが鳩のことを空飛ぶドブネズミという人もいると話していたからね」。
The Trip (2010) という英国のテレビシリーズから生まれた映画『スティーヴとロブのグルメトリップ 』The Trip (2010)(テレビシリーズを再編集)の続編『イタリアは呼んでいる 』The Trip to Italy (2014)がめちゃめちゃ面白かったので、同じ趣向の『スペインは呼んでいる』The Trip to Spain (2017)の公開は大歓迎【最終日に行ったくせにと言われそうだが】。最初のうちはイタリア篇の焼き直しかとがっかりしたが、だんだんテンションがあがってきて、イタリア篇をしのぐ出来栄えであった。
堅苦しい映画ではない。スティーヴ・クーガンとロブ・ブライドンの二人がイタリアやスペインを車で旅するのだが、各地でその土地の知られざる名物料理を味わうというグルメ旅映画なのだが、ふつうの旅番組・映画でもグルメ番組・映画ではない。たしかに二人が今回も外国(スペイン)を車で旅するのだが、完全なドキュメンタリーでない。たとえば旅の途中でスティーヴもロイも電話をかけるのだが、電話の相手の映像も出る。ドキュメンタリーなら、最初から打ち合わせをして、リアルタイムで電話のかけ手と受け手の両方を同時に撮影しなければならないが、それはないだろう。たとえばスティーヴ・クーガンは自分のエージェントに電話をするのだが、電話を受けるエージェントの男性も映像に出る。おそらくエージェントの男性は後から撮影したのだろう。いや、そもそもこの男性が本物のエージェントかどうかもわからない、たぶん俳優が演じているのだろう。と、まあ、本来のドキュメンタリーならありえないことである。そもそも映画は、スペインの荒野でガソリン切れとなって立ち往生するスティーヴ・クーガンが、侵略してきたイスラム国(IS)の連中に拉致され捕虜になるだろうと予感させるところで終わるのだから。旅グルメドキュメンタリーと思っていたら(あるいはそのように始まった)映画は、フィクションで終わるのである。
また前回よりもさらに磨きがかかってくるのは、二人のモノマネである。食事をしながら、いろいろなことを話し合うふたりだが、いつしか有名な俳優・男優のモノマネ合戦になっている。同じ人物のモノマネをふたりがする。マーロン・ブランド、ショーン・コネリー(『007』シリーズの場面のモノマネによる再現もある)、ロジャー・ムーア、イアン・マッカランらのモノマネをふたりでする。ふたりともうまい、そっくりである。ふたりが自分のほうが似ていると競い合うところは(というかいつも食事のときにはモノマネをするのだが)圧巻である。アントニー・ホプキンズのモノマネも登場するが、最近ホプキンズが出演する映画を観たばかりなのに(『二人のローマ教皇』)、ホプキンズの話し方の特徴をつかんでいないのだが、スティーヴ・クーガンによる興奮したホプキンズのしゃべりのモノマネは、まさにホプキンズそのものであり、逆にモノマネを通して教えてもらったところがある。また、シェイクスピアの芝居の再現もある。おそらく食事でのこうしたやりとりが、出てくる料理よりも魅力的で、ふたりはステージで、モノマネ漫才をしてほしいと思うくらいだ。
フィクションの部分では、あるいは現実なのかフィクションなのかわからないのだが、スティーヴ・クーガンが、最新作『僕たちのラストステージ』Stan and Ollie(2018)でスタン・ローレルを演じたことを話題にしないのは変だと思っていたが、この映画は2017年の映画で、『僕たちのラストステージ』はまだ製作されていないことがわかった。またスティーヴ・クーガンは『あなたを抱きしめる日まで』(Philomenaスティーヴン・フリアーズ監督)では出演し脚本も書いているのだが、この映画をローマ教皇に見せたと話していた。え、この映画を教皇に見せた? ローマ・カトリックによる違法な人身売買まがいの孤児の養子縁組の犠牲になった母親と生き別れになった子供の物語は、カトリック批判の映画でもあるのだが、それをローマ教皇に見せた? もしそれがほんとうなら、この映画が製作された2013年はフランシスコ教皇が選出された年でもある。フランシスコ教皇ならカトリックの過去の犯罪を暴く映画を受け入れたのかもしれない(映画『二人のローマ教皇』参照)。
とはいえ、スティーヴ・クーガンとエージェントとのトラブルはほんとうなのだろうか。この旅は、若い頃のスティーヴ・クーガンのスペイン旅行と同じ経路をたどるものだが、ロイとは途中で別れ息子と合流するはずのところ、都合で息子が来られない。恋人の女性を呼び寄せようとするがアメリカにいてすぐには来られない。遅い結婚ながら幸福な家族生活ををおくっているロイとは対照的にスティーヴには中高年の孤独と悲哀がつきまとう。最後にはやけになってスペインの荒野を車で飛ばし、先ほど述べたようなありさまになる。スティーヴ・クーガンの実人生なのか、中高年男の孤独な人生の劇化か、そこは定かではないのだが、フィクションとしてみれば、この映画には人生の悲哀のモチーフが際立っている。
映画のエンドクレジットでも歌われ、また映画のなかでも二人が歌ったりする『風のささやき』。1970年代のヒット曲で、懐メロなのだが、ミシェル・ルグラン作曲のいまでも色褪せない名曲である。原題はWindmills of Your Mind「あなたの心の風車」。この風車はドンキホーテの風車とつながるだろう。二人は旅の途上で、ドンキホーテとサンチョパンサの格好で風車の前で写真撮影される(番宣か映画の宣伝で)。歌は風車のように回りめぐる人生の倦怠と悲哀を歌う曲で、単純だが美しいメロディーの繰り返しが、なんともいえぬもの哀しさをかもしだす。もともとっこの曲は映画『華麗なる賭け』(原題とは異なる日本語タイトルだが、この頃の日本では、なんでも「華麗」とつけるのは流行っていた)のなかで人生に倦んでいるスティーヴ・マックィーンの状況とシンクロするかたちで使われていた。
また今回の映画のなかでスティーヴ・クーガンに教えられたのだが、原曲を歌っているのがNoel Harrisonで、レックス・ハリソンの息子とのこと(レックス・ハリソンというのは、オーソリー・ヘップバーン主演の『マイ・フェア・レディ』のヒギンズ教授役といえばわかるだろうか)。ノエル・ハリソンはもう亡くなっているのだが、ノエル・ハリソンを実は私は人生の一時期、毎週テレビでみていた。そう『0011ナポレオン・ソロ』のスピンオフ・シリーズ『0022アンクルの女』で、主役のステファニー・パワーズのパートナーのスパイとしてレギュラー出演していたのがノエル・ハリソンだった(ステファニー・パワーズの声を野際陽子、ノエル・ハリソンの声を広川太一郎が担当した)。本国ではさほど人気がでなくて、逆に本編の『ナポレオン・ソロ』の足をひっぱったようだが、この女スパイ物は私には面白かった。10代の少年にはエロかったということもあったかもしれないが、エイプリル・ダンサー/ステファニー・パワーズとノエル・ハリソンとの掛け合いが面白く、二人が出来ているか出来ていないか、曖昧ながらきわどい関係をずっと維持していたことも、もうひとつのイギリスのスパイ物『アヴェンジャーズ』シリーズ(当時の日本では『おしゃれ探偵……』なんとかというタイトルだったが)の男女関係を思い起こさせてもえた(燃えではなく萌えのほう)。
映画にもどれば、ふたりのかけあい、とりわけモノマネ合戦に笑っていると、いつか哀しき人生の現実に直面し、またそのいっぽうでノスタルジアへと逃げ込むしかなくなる中高年男性の姿がみえてくる。そこにイスラム世界と接していたスペインの歴史と風土への考察のようなものも語られ、思いのほか奥行きのある映画となっている。逆に、軽い旅グルメドキュメンタリーと思ってみると裏切られるのかもしれない。マイケル・ウィンターボトムの最新作としても貴重な映画である。
エピローグ
最近、姪と会ったとき、どんな文脈であるか忘れたのだが、「鳩というのは英語でFlying Ratというらしいね」と言ってきた。「ああ知っているよ、空飛ぶドブネズミというのでしょう。鳩のことを」と答えた私は、こう付け加えていた――「マイケル・ウィンターボトム監督の『24アワー・パーティー・ピープル』【24 Hour Party People (2002)】のなかでプレゼンターのスティーヴ・クーガンが鳩のことを空飛ぶドブネズミという人もいると話していたからね」。
posted by ohashi at 23:10| 映画
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2019年12月17日
『二人のローマ教皇』
『二人のローマ教皇』(The Two Popes)
NETFLIX配信の映画を映画館でみている者です。これはステマではありません。
2012年にバチカンでのホルヘ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿(現教皇)と教皇ベネディクト16世(現名誉教皇)の対話を描く。2019年の英米伊合作の映画。監督はフェルナンド・メイレレス。主演はアンソニー・ホプキンス/ベネディクト16世(名誉教皇)とジョナサン・プライス/ホルヘ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿(現フランシスコ教皇)。
フェルナンド・メイレレス監督の作品は、『シティ・オブ・ゴッド』Cidade de Deus (2002)、『ナイロビの蜂』The Constant Gardener (2005)『ブラインドネス』Blindness (2008)とみていて、『360』360 (2011)はみていないのだが、最新作の『2人のローマ教皇』The Two Popes (2019)は期待にたがわぬすばらしい映画で感動した。題材が良すぎる。
またローマ教皇について、何も知らなかった無知を恥じるしかないが、ベネディクト16世のときに、終身職であるにもかかわらず、生前に退位して、ベネディクト16世は名誉教皇となったこと、そして現フランシスコ教皇がいるので、現在、世界には二人のローマ教皇がいるということになる。それが映画のタイトルでもあるのだが、どこかの国と同じで生前退位というのは異例なことだが、それが実現した。どこかの国の場合は、不名誉な退位ではないのだが、ベネディクト16世の場合は、カトリック教会への批判が高まってきた時点で、その責任をとって辞任したという色合いが強い。
ベネディクト16世が保守派で芸術家肌のエリート知識人であるのに対して最近来日したフランシスコ教皇は庶民派ということになるだろう。この二人の衝突は、それだけで、もう絵になるし劇になる。題材が良すぎて、まさに最後になるまで飽きさせない。
最初の出逢いにおける冷戦的関係から、教会批判にゆれるなか、いっぽうで退位を考えているベネディクト16世と枢機卿を持して司祭として活動するために教皇に許可をもとめてアルゼンチンからバチカンにやってきたホルヘ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿との最初の衝突、そしれ徐々に相手に対する理解が芽生え、最後には、立場は違うが、みずからの後継者としてホルヘ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿を強く考えるメネディクト16世の友情物語が展開する。
実際、これはそっくりそのまま同じというわけではないが、ベネディクト16世とフランシスコ教皇との激突は、ある意味、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』にある大審問官の物語を彷彿とさせた【私だけかもしれないが】。もちろんベネディクト教皇が大審問官、そしてフランシスコ教皇がイエスである。大審問官もまた信者のために悪役を演じてきたとしてキリストに許されるように、二人の教皇は激突しても、最後には固い友情で結ばれる、あるいはイエスは大審問官を許すのである。なおフランシスコ教皇のなかに大審問官とイエスとが共存しているとみることもできる――それが以下を参照。
映画の中心は、ホルヘ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿の庶民派で人間味あふれる人柄のなかに、過去の暗い歴史が埋め込まれている矛盾と葛藤である。ドイツ人のベネディクト16世は、ナチスと悪口を言われているが、その厳格で保守的な姿勢によって、ともすればそういわれるのだが、もちろんナチスではない。いっぽうリベラルなホルヘ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿は、アルゼンチン出身ということもあり、その「ダーティ・ウォー」を経ているという苦しい過去を背負っている。いまでもフランシスコ教皇のアルゼンチンにおける評価は二分していると、映画のなかで本人も認めている。軍事政権時代に、イエズス会の責任ある立場であったのだが、多くの犠牲者を出したり、軍事政権に寄り添って仲間を裏切ったと思われてもいた。実際、軍事政権崩壊後は、地位を追われ左遷されている。
しかし同時にこれはまた、いかにもキリスト教的というべきか、あるいは宗教的というべきか、一度過ちあるいは力不足によって敗北せざるをえなかった者こそ、その罪の償いとして、より敬虔で人道的な立場をとる聖人的人間に変りうるということである。パウロのように迫害者であったわけではないが、パウロのようにキリスト教的精神に基づく人道思想を説くことになった。つまずいた者こそ、真の信仰に目覚めるということだろう。
と同時に、アルゼンチンにおける軍事独裁政権は終わりを告げても、世界で独裁政権は次々と誕生している(日本でもそうである)。独裁政権下で苦難は、私たちを待ち受けているし、いつなんどき犠牲者となりうるかもしれない。映画のエンドクレジットのあとは、若きホルヘ・マリオ・ベルゴリオが失意と悔恨のなかで苦悶の日々を過ごすなかさまよった荒野が映し出される。嵐の来そうな風景が最期の映像となる。
ローマ教皇といえば、ローマカトリックの頂点に位置する、まさに雲の上の人、崇め奉るしかない聖人というイメージがあるのだが、この映画では、二人とも人間臭いということが実感される。そう、あまりに人間的なのである。庶民派でサッカー好きの枢機卿だけではない。保守派のエリートでもあるベネディクト16世もまた、厳格な保守主義とか孤立癖という点でも人間臭さを隠すことができないでいる。とはいえローマ教皇の人間臭さは、これまで教皇を扱った映画では常態化していて、その伝統にこの映画ものっかっているとみることもできる。
ベネディクト16世を演ずるアンソニー・ホプキンズは、熱演だが、同時に、こういう老人の役は、私たちがよく知るところである。ホルヘ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿/フランシスコ教皇役のジョンサン・プライスは、こんな良い人を演ずるというか、良い人を演じているジョナサン・プライスを見るのは初めてである。
ちなみに映画の最後のほうでは、本物のベネディクト名誉教皇とフランシスコ教皇の画像が何度も映し出されるのだが、映画で見る限り、本物の二人は映画の二人とあまり似ていない。しかしネット上の画像などでベネディクト名誉教皇をみると、アンソニー・ホプキンズに良く似ている(まあホプキンズのほうが映画のなかで名誉教皇にあわせたのだろうが)。そしてジョナサン・プライスは、フランシスコ教皇が誕生してから、よく似ているとネット上を騒がせたようで(とはいえ来日した教皇は、ジョナサン・プライスにはみえなかったが)、新教皇誕生時には、そっくりさんだったのかもしれない。
NETFLIX配信の映画を映画館でみている者です。これはステマではありません。
2012年にバチカンでのホルヘ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿(現教皇)と教皇ベネディクト16世(現名誉教皇)の対話を描く。2019年の英米伊合作の映画。監督はフェルナンド・メイレレス。主演はアンソニー・ホプキンス/ベネディクト16世(名誉教皇)とジョナサン・プライス/ホルヘ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿(現フランシスコ教皇)。
フェルナンド・メイレレス監督の作品は、『シティ・オブ・ゴッド』Cidade de Deus (2002)、『ナイロビの蜂』The Constant Gardener (2005)『ブラインドネス』Blindness (2008)とみていて、『360』360 (2011)はみていないのだが、最新作の『2人のローマ教皇』The Two Popes (2019)は期待にたがわぬすばらしい映画で感動した。題材が良すぎる。
またローマ教皇について、何も知らなかった無知を恥じるしかないが、ベネディクト16世のときに、終身職であるにもかかわらず、生前に退位して、ベネディクト16世は名誉教皇となったこと、そして現フランシスコ教皇がいるので、現在、世界には二人のローマ教皇がいるということになる。それが映画のタイトルでもあるのだが、どこかの国と同じで生前退位というのは異例なことだが、それが実現した。どこかの国の場合は、不名誉な退位ではないのだが、ベネディクト16世の場合は、カトリック教会への批判が高まってきた時点で、その責任をとって辞任したという色合いが強い。
ベネディクト16世が保守派で芸術家肌のエリート知識人であるのに対して最近来日したフランシスコ教皇は庶民派ということになるだろう。この二人の衝突は、それだけで、もう絵になるし劇になる。題材が良すぎて、まさに最後になるまで飽きさせない。
最初の出逢いにおける冷戦的関係から、教会批判にゆれるなか、いっぽうで退位を考えているベネディクト16世と枢機卿を持して司祭として活動するために教皇に許可をもとめてアルゼンチンからバチカンにやってきたホルヘ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿との最初の衝突、そしれ徐々に相手に対する理解が芽生え、最後には、立場は違うが、みずからの後継者としてホルヘ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿を強く考えるメネディクト16世の友情物語が展開する。
実際、これはそっくりそのまま同じというわけではないが、ベネディクト16世とフランシスコ教皇との激突は、ある意味、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』にある大審問官の物語を彷彿とさせた【私だけかもしれないが】。もちろんベネディクト教皇が大審問官、そしてフランシスコ教皇がイエスである。大審問官もまた信者のために悪役を演じてきたとしてキリストに許されるように、二人の教皇は激突しても、最後には固い友情で結ばれる、あるいはイエスは大審問官を許すのである。なおフランシスコ教皇のなかに大審問官とイエスとが共存しているとみることもできる――それが以下を参照。
映画の中心は、ホルヘ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿の庶民派で人間味あふれる人柄のなかに、過去の暗い歴史が埋め込まれている矛盾と葛藤である。ドイツ人のベネディクト16世は、ナチスと悪口を言われているが、その厳格で保守的な姿勢によって、ともすればそういわれるのだが、もちろんナチスではない。いっぽうリベラルなホルヘ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿は、アルゼンチン出身ということもあり、その「ダーティ・ウォー」を経ているという苦しい過去を背負っている。いまでもフランシスコ教皇のアルゼンチンにおける評価は二分していると、映画のなかで本人も認めている。軍事政権時代に、イエズス会の責任ある立場であったのだが、多くの犠牲者を出したり、軍事政権に寄り添って仲間を裏切ったと思われてもいた。実際、軍事政権崩壊後は、地位を追われ左遷されている。
しかし同時にこれはまた、いかにもキリスト教的というべきか、あるいは宗教的というべきか、一度過ちあるいは力不足によって敗北せざるをえなかった者こそ、その罪の償いとして、より敬虔で人道的な立場をとる聖人的人間に変りうるということである。パウロのように迫害者であったわけではないが、パウロのようにキリスト教的精神に基づく人道思想を説くことになった。つまずいた者こそ、真の信仰に目覚めるということだろう。
と同時に、アルゼンチンにおける軍事独裁政権は終わりを告げても、世界で独裁政権は次々と誕生している(日本でもそうである)。独裁政権下で苦難は、私たちを待ち受けているし、いつなんどき犠牲者となりうるかもしれない。映画のエンドクレジットのあとは、若きホルヘ・マリオ・ベルゴリオが失意と悔恨のなかで苦悶の日々を過ごすなかさまよった荒野が映し出される。嵐の来そうな風景が最期の映像となる。
ローマ教皇といえば、ローマカトリックの頂点に位置する、まさに雲の上の人、崇め奉るしかない聖人というイメージがあるのだが、この映画では、二人とも人間臭いということが実感される。そう、あまりに人間的なのである。庶民派でサッカー好きの枢機卿だけではない。保守派のエリートでもあるベネディクト16世もまた、厳格な保守主義とか孤立癖という点でも人間臭さを隠すことができないでいる。とはいえローマ教皇の人間臭さは、これまで教皇を扱った映画では常態化していて、その伝統にこの映画ものっかっているとみることもできる。
ベネディクト16世を演ずるアンソニー・ホプキンズは、熱演だが、同時に、こういう老人の役は、私たちがよく知るところである。ホルヘ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿/フランシスコ教皇役のジョンサン・プライスは、こんな良い人を演ずるというか、良い人を演じているジョナサン・プライスを見るのは初めてである。
ちなみに映画の最後のほうでは、本物のベネディクト名誉教皇とフランシスコ教皇の画像が何度も映し出されるのだが、映画で見る限り、本物の二人は映画の二人とあまり似ていない。しかしネット上の画像などでベネディクト名誉教皇をみると、アンソニー・ホプキンズに良く似ている(まあホプキンズのほうが映画のなかで名誉教皇にあわせたのだろうが)。そしてジョナサン・プライスは、フランシスコ教皇が誕生してから、よく似ているとネット上を騒がせたようで(とはいえ来日した教皇は、ジョナサン・プライスにはみえなかったが)、新教皇誕生時には、そっくりさんだったのかもしれない。
posted by ohashi at 18:06| 映画
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2019年12月16日
『閉鎖病棟』
『閉鎖病棟―それぞれの朝―』
*
『閉鎖病棟』というのは、この映画(あるいは原作)だけで使っている表現と思っていたが、専門用語であったことを知って、恥ずかしい思いをした。Wikipediaで「閉鎖病棟」を調べたら、映画や小説の説明ではなく、ほんとうの現実の「閉鎖病棟」の説明だった。
*
監督・脚本の平山秀幸の作品は、『OUT』(2002)『レディ・ジョーカー』(2004)『しゃべれども しゃべれども』(2007)『やじきた道中 てれすこ』(2007)『信さん・炭坑町のセレナーデ』(2010)『必死剣 鳥刺し』(2010)『太平洋の奇跡 -フォックスと呼ばれた男-』(2011)
『エヴェレスト 神々の山嶺』(2016)と見ていて、『エヴェレスト』以外は、大いに感銘を受けたし、感動した。映画としても、もちろん、その物語内容にも。実際、DVDでほとんどもっている(『エヴェレスト』以外は)。その『エヴェレスト』から6年後の待望の新作『閉鎖病棟 -それぞれの朝-』(2019)は、期待にたがわぬ素晴らしい映画で、久しぶりに平山ワールドを満喫できた。
*
ネット上では、この閉鎖病棟の管理がゆるすぎて、現実味がないという批判もあった。あるいは『カッコーの巣の上に』と較べるコメントもあったが、ただ、現在の精神病院は、それこそロボトミー手術を平気でおこなっていた過去の(アメリカの)非人道的な治療とは無縁の人道的な治療へとシフトしていると思うので、管理がゆるいとはいえないだろうが、ただ、素人目にみても、ナイフなどをどうしてもてるのかと不思議だし、水の入ったペットボトルでも凶器になりうると思ったし、施設内であんな事件が起こるというのは、管理体制に重大な欠陥があるとしかいえない。そもそも病棟が閉鎖され管理下におかれているのは、映画の最初のほうだけだ。患者も、勝手に逃げてしまうし。
ただ物語上の設定から、管理を厳重にしすぎるとドラマが起こらないということもあるかもしれないので、専門家からみれば非現実的な面もあったのかもしれない。映画がアレンジしすぎではないかという意見もあったが、原作を読んでいないが、映画は病院の管理体制については原作に忠実ではないかと思う【残念ながら原作である帚木蓬生『閉鎖病棟』(新潮文庫)は読んでいない】。
実は、管理がゆるいと批判していたコメントも、患者が外泊して、そこで死ぬことはよくあるということを書いていて、これには正直驚いた。患者が外出許可をもらい、外泊先で突然死ぬというのは、映画のなかでもっとも非現実的なエピソード(木野花のエピソード)かと思っていたが、それがよくある、現実的なことだったとは。
*
映画の最初は笑福亭鶴瓶の死刑のシーンである。私も小説とか映画などで、今の日本に13階段などないことを知っているし、死刑囚の立つ床を開けるボタンが3つあって、係官が三人で同時にそれぞれのボタンを押すことも知っている。監督者というか見届け人も3人いることを今回初めて知った。
以前、2012年のジョニー・トー監督作『ドラッグ・ウォー 毒戦』だったと思うがが、最後に犯人の男が死刑になるときに、注射をうたれていた。その注射によって死刑囚は眠るように死んでゆく。とはいえその映画をいっしょにみた中国人留学生によると、映画で薬物による死刑という人道的な方法を誇示しているのは国際社会の評価を気にしているのであって、実際の中国の死刑というのは、あんなきれいごとの死刑ではなくて、残酷な銃殺ですよと言っていた(その留学生は、私よりもりっぱな日本語を話したので、コミュニケーションに問題はなかった)。その留学生の言葉は、どこまで真実かわからないのだが、ただいえることは、死刑の方法としては絞首刑というのは銃殺と同様に残酷である。
絞首刑の場合、首が絞まるのではなく、首にかけられたロープに突然身体の全体重がかかるのだから、首の骨が折れて死ぬ。窒息死ではない。もちろん体が痩せ衰え体重も軽くなっていて、首の骨が折れないというアクシデントはあるかもしれない。その時は首が絞まって窒息死することになるが、そうなった場合にかぎり、つまりやせ細っていてロープでも首が絞まらず、窒息しないために、死なないこともあるかもしれない。あるいはロープが切れるということもあるかもしれない。しかし、それらは笑福亭鶴瓶のようにりっぱな体格をしている場合にはあてはまらないだろう。すくなくとも痩せ衰えていないのなら、首の骨が折れなかったり、窒息しなかったりすることはないので、絞首刑になって死なないという選択肢はないやろ。
*
映画冒頭での絞首刑における落下は、ヴィジュアル的にも、またメタファー的にも以後の物語を決定している。笑福亭釣瓶が絞首刑で落下してつるされてもしななかったように、小松菜奈も、病院の屋上から飛び降りても一命をとりとめる。死ぬつもりで、あるいは殺されるために落下する者たちが、死なないで生き延びる。やがて死にぞこないの二人は、これを奇貨として復活するだろう。小松菜奈が、残酷で悲惨な運命に遭遇しても、そこから立ち上がるとき、夜明けが待っている。そして笑福亭釣瓶もまた、車いすから立ち上がろうとするところで映画は終わる。
落下した者が立ち上がる。この身体運動の軌跡のなかに映画は過酷な運命を生きる者たちの人生を縮約する。綾野剛は身体的に落ちたりしないのだが、しかし精神的には急降下というか落下のはてに、この精神病院にいて、しかも、車いす生活の笑福亭釣瓶に自分の足を使って立ち上がってみればと励ますくせに、自分は病院のぬるま湯生活から脱け出そうと努力はしないことである。しかし彼にもまた再起の意志は訪れる。見ていて驚くのは、彼の妹夫婦が面会にきて母親が認知症になったから施設に入れ実家を売りたいと妹がもちかけたものの、実際に彼が退院して帰宅すると、老いた母親は認知症のように見えないことだ。庭掃除をしていて、綾野剛の姿をすぐに認知するし、認知症といのは妹夫婦の嘘であった可能性が高い。ただ、こうしてみると綾野剛は、同じく認知症の母親をもった釣瓶とねじれたかたちではあるがつながり、また家族から煙たがられ、とりわけ血のつながらない義理の家族から迫害されるという点で小松菜奈ともつながり、釣瓶と小松菜奈との媒介役になっていることもわかる。
*
小松菜奈は裁判の時の証言で、自分には家族はいないと断言する。もちろん家族がいることは映画の前半でわかっているが、映画の終わりで証言台に立つ小松菜奈が、家族と暮らしているのかどうか定かではない。だが彼女にとって血のつながった家族、あるいは義父とは縁を切りたいことはわかる。実際、この病院にいる患者は家族から見捨てられた者たちであり、彼らにとって家族はいない。だが、同時に自分にとって家族はいないと証言した小松菜奈には、家族がいる。狭くは、釣瓶と綾野剛からなる三人組という、陳のつながらない赤の他人の家族。あるいは閉鎖病棟の患者たちもまた広い意味での家族である。家族とはフィリエーションの場合にいうのだが、それでもアフィリエーションによる、まさにパラドクシカルな「家族」は存在する。フィリエーションからアフィリエーションへの移行というと、なにやらめんどうな表現となるのだが、血のつながった家族を失うが、血のつながらない家族を発見する、あるいは創造するといえばわかるだろうか。それがこの物語の大きな主題である。
*
久しぶりに銀座の丸の内TOEIで映画を見た。ここで見ることのできる映画は、他の映画館でも見ることができるので、あまり利用することはないのだが、今回、『閉鎖病棟』をみそびれていて、上映している映画館が少なくなったので、丸の内TOEIで見ることになった。一年以上前には、けっこうよくここで見ていたので、はじめて気づいて意外な感じがしたのだが、地下のスクリーンでは何か不穏な音が響くのである。それは地下鉄の線路を車両が移動するときの、ごーという音だった。最初、映画の音響効果かと思ったが、そうではないとが途中からわかった。しかし邪魔にはならなかった。淡々と病院の日常を、とくに音楽を多用するわけでもなく提示する映画に、なにか無気味な音が響く。一見、平和な日常にも危険と死の影がつきまとっていることを暗示する効果的な「音」で、映画と変にシンクロしていると思った。ちなみに、この音は銀座の丸の内TOEIの地下の映画館でないと聞こえないので、そのつもりで。
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『閉鎖病棟』というのは、この映画(あるいは原作)だけで使っている表現と思っていたが、専門用語であったことを知って、恥ずかしい思いをした。Wikipediaで「閉鎖病棟」を調べたら、映画や小説の説明ではなく、ほんとうの現実の「閉鎖病棟」の説明だった。
閉鎖病棟とは、精神科病院で、病棟の出入り口が常時施錠され、病院職員に解錠を依頼しない限り、入院患者や面会者が自由に出入りできないという構造を有する病棟である。 開放病棟でない病棟という意味では、病棟の出入り口が施錠されない時間がおおむね8時間未満、または自由に出入りできない病棟も閉鎖病棟とされることがある。
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監督・脚本の平山秀幸の作品は、『OUT』(2002)『レディ・ジョーカー』(2004)『しゃべれども しゃべれども』(2007)『やじきた道中 てれすこ』(2007)『信さん・炭坑町のセレナーデ』(2010)『必死剣 鳥刺し』(2010)『太平洋の奇跡 -フォックスと呼ばれた男-』(2011)
『エヴェレスト 神々の山嶺』(2016)と見ていて、『エヴェレスト』以外は、大いに感銘を受けたし、感動した。映画としても、もちろん、その物語内容にも。実際、DVDでほとんどもっている(『エヴェレスト』以外は)。その『エヴェレスト』から6年後の待望の新作『閉鎖病棟 -それぞれの朝-』(2019)は、期待にたがわぬ素晴らしい映画で、久しぶりに平山ワールドを満喫できた。
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ネット上では、この閉鎖病棟の管理がゆるすぎて、現実味がないという批判もあった。あるいは『カッコーの巣の上に』と較べるコメントもあったが、ただ、現在の精神病院は、それこそロボトミー手術を平気でおこなっていた過去の(アメリカの)非人道的な治療とは無縁の人道的な治療へとシフトしていると思うので、管理がゆるいとはいえないだろうが、ただ、素人目にみても、ナイフなどをどうしてもてるのかと不思議だし、水の入ったペットボトルでも凶器になりうると思ったし、施設内であんな事件が起こるというのは、管理体制に重大な欠陥があるとしかいえない。そもそも病棟が閉鎖され管理下におかれているのは、映画の最初のほうだけだ。患者も、勝手に逃げてしまうし。
ただ物語上の設定から、管理を厳重にしすぎるとドラマが起こらないということもあるかもしれないので、専門家からみれば非現実的な面もあったのかもしれない。映画がアレンジしすぎではないかという意見もあったが、原作を読んでいないが、映画は病院の管理体制については原作に忠実ではないかと思う【残念ながら原作である帚木蓬生『閉鎖病棟』(新潮文庫)は読んでいない】。
実は、管理がゆるいと批判していたコメントも、患者が外泊して、そこで死ぬことはよくあるということを書いていて、これには正直驚いた。患者が外出許可をもらい、外泊先で突然死ぬというのは、映画のなかでもっとも非現実的なエピソード(木野花のエピソード)かと思っていたが、それがよくある、現実的なことだったとは。
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映画の最初は笑福亭鶴瓶の死刑のシーンである。私も小説とか映画などで、今の日本に13階段などないことを知っているし、死刑囚の立つ床を開けるボタンが3つあって、係官が三人で同時にそれぞれのボタンを押すことも知っている。監督者というか見届け人も3人いることを今回初めて知った。
以前、2012年のジョニー・トー監督作『ドラッグ・ウォー 毒戦』だったと思うがが、最後に犯人の男が死刑になるときに、注射をうたれていた。その注射によって死刑囚は眠るように死んでゆく。とはいえその映画をいっしょにみた中国人留学生によると、映画で薬物による死刑という人道的な方法を誇示しているのは国際社会の評価を気にしているのであって、実際の中国の死刑というのは、あんなきれいごとの死刑ではなくて、残酷な銃殺ですよと言っていた(その留学生は、私よりもりっぱな日本語を話したので、コミュニケーションに問題はなかった)。その留学生の言葉は、どこまで真実かわからないのだが、ただいえることは、死刑の方法としては絞首刑というのは銃殺と同様に残酷である。
絞首刑の場合、首が絞まるのではなく、首にかけられたロープに突然身体の全体重がかかるのだから、首の骨が折れて死ぬ。窒息死ではない。もちろん体が痩せ衰え体重も軽くなっていて、首の骨が折れないというアクシデントはあるかもしれない。その時は首が絞まって窒息死することになるが、そうなった場合にかぎり、つまりやせ細っていてロープでも首が絞まらず、窒息しないために、死なないこともあるかもしれない。あるいはロープが切れるということもあるかもしれない。しかし、それらは笑福亭鶴瓶のようにりっぱな体格をしている場合にはあてはまらないだろう。すくなくとも痩せ衰えていないのなら、首の骨が折れなかったり、窒息しなかったりすることはないので、絞首刑になって死なないという選択肢はないやろ。
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映画冒頭での絞首刑における落下は、ヴィジュアル的にも、またメタファー的にも以後の物語を決定している。笑福亭釣瓶が絞首刑で落下してつるされてもしななかったように、小松菜奈も、病院の屋上から飛び降りても一命をとりとめる。死ぬつもりで、あるいは殺されるために落下する者たちが、死なないで生き延びる。やがて死にぞこないの二人は、これを奇貨として復活するだろう。小松菜奈が、残酷で悲惨な運命に遭遇しても、そこから立ち上がるとき、夜明けが待っている。そして笑福亭釣瓶もまた、車いすから立ち上がろうとするところで映画は終わる。
落下した者が立ち上がる。この身体運動の軌跡のなかに映画は過酷な運命を生きる者たちの人生を縮約する。綾野剛は身体的に落ちたりしないのだが、しかし精神的には急降下というか落下のはてに、この精神病院にいて、しかも、車いす生活の笑福亭釣瓶に自分の足を使って立ち上がってみればと励ますくせに、自分は病院のぬるま湯生活から脱け出そうと努力はしないことである。しかし彼にもまた再起の意志は訪れる。見ていて驚くのは、彼の妹夫婦が面会にきて母親が認知症になったから施設に入れ実家を売りたいと妹がもちかけたものの、実際に彼が退院して帰宅すると、老いた母親は認知症のように見えないことだ。庭掃除をしていて、綾野剛の姿をすぐに認知するし、認知症といのは妹夫婦の嘘であった可能性が高い。ただ、こうしてみると綾野剛は、同じく認知症の母親をもった釣瓶とねじれたかたちではあるがつながり、また家族から煙たがられ、とりわけ血のつながらない義理の家族から迫害されるという点で小松菜奈ともつながり、釣瓶と小松菜奈との媒介役になっていることもわかる。
*
小松菜奈は裁判の時の証言で、自分には家族はいないと断言する。もちろん家族がいることは映画の前半でわかっているが、映画の終わりで証言台に立つ小松菜奈が、家族と暮らしているのかどうか定かではない。だが彼女にとって血のつながった家族、あるいは義父とは縁を切りたいことはわかる。実際、この病院にいる患者は家族から見捨てられた者たちであり、彼らにとって家族はいない。だが、同時に自分にとって家族はいないと証言した小松菜奈には、家族がいる。狭くは、釣瓶と綾野剛からなる三人組という、陳のつながらない赤の他人の家族。あるいは閉鎖病棟の患者たちもまた広い意味での家族である。家族とはフィリエーションの場合にいうのだが、それでもアフィリエーションによる、まさにパラドクシカルな「家族」は存在する。フィリエーションからアフィリエーションへの移行というと、なにやらめんどうな表現となるのだが、血のつながった家族を失うが、血のつながらない家族を発見する、あるいは創造するといえばわかるだろうか。それがこの物語の大きな主題である。
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久しぶりに銀座の丸の内TOEIで映画を見た。ここで見ることのできる映画は、他の映画館でも見ることができるので、あまり利用することはないのだが、今回、『閉鎖病棟』をみそびれていて、上映している映画館が少なくなったので、丸の内TOEIで見ることになった。一年以上前には、けっこうよくここで見ていたので、はじめて気づいて意外な感じがしたのだが、地下のスクリーンでは何か不穏な音が響くのである。それは地下鉄の線路を車両が移動するときの、ごーという音だった。最初、映画の音響効果かと思ったが、そうではないとが途中からわかった。しかし邪魔にはならなかった。淡々と病院の日常を、とくに音楽を多用するわけでもなく提示する映画に、なにか無気味な音が響く。一見、平和な日常にも危険と死の影がつきまとっていることを暗示する効果的な「音」で、映画と変にシンクロしていると思った。ちなみに、この音は銀座の丸の内TOEIの地下の映画館でないと聞こえないので、そのつもりで。
posted by ohashi at 20:05| 映画
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2019年12月15日
『海辺のロミオとジュリエット』
2019年年末カクシンハン特別公演ロミジュリ・フェスの『POCKET ロミオとジュリエット』につづく、第二弾、脚本・演出の木村龍之介、カクシンハンの河内大和、真以美ほかによるリーディング公演で、原案シェイクスピア『ロミオとジュリエット』、マロリー・ブラックマン『コーラムとセフィーの物語』とある。
2012年に執筆された木村龍之介氏の脚本によるものだが、いわれてみれば東北大震災、原発事故、原発難民への差別、オウム真理教を思わせるテロなど、当時の状況を色濃く反映している台本なのだが、同時に、いわれなければ、いまとここの日本の状況、それも閉塞的状況への挑戦と状況打破と救済への希求を横溢させた緊急のパフォーマンスとしかみえないのも事実である。もう今から7年前に書かれた戯曲だとしても、まったく色褪せていない。それどころかこれからも繰り返し上演されておかしくない主題が凝縮されている。
緊迫感のみなぎる、今の演劇そのものである。
原案のひとつマロリー・ブラックマン『コーラムとセフィーの物語』については、著名な作家でポプラ社から翻訳も出版されているが、実際には私は読んではいないので、コメントは差し控えるが(いまAMAZONで翻訳書を調べたら古書しかなくて7,000円、再版希望)、シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』の物語枠を現代日本におきかえたアダプテーションであることはまちがいない。現代日本とシェイクスピア、それも『ロミオとジュリエット』との「衝突」(ルーフレットというかフライヤーというのか、そこにおける木村氏の言葉)を実現した作品である。公演のあとのトークにおいても松岡和子氏が「衝突」ということを感慨深く語られていたが、もちろん衝突でもあり、そしてシンクロでもあるのだろう。衝突というのは、場違いなものの侵入ということでは全くなく、まさに衝突を通してシンクロがみえてくるということである。
今年5月渋谷のギャラリーLE DECO 4で上演された『ハムレット×SHIBUYA ~ヒカリよ、俺たちの復讐は穢れたか~』と双璧をなす作品であり、『ハムレット×SHIBUYA』のほうが英訳出版されると聞いたが、この『海辺のロミオとジュリエット』も英訳出版して、なんらおかしくないだろう。現代日本の演劇のレヴェルの高さをまざまざとみせてくれる国際的発信作品ともいえよう。
今回はリーディング公演なので、演者は台本をもって朗読するのだが、ただ朗読するのではなく、演技もするので、通常のカクシンハンの舞台とかわりない。ただしト書きも朗読する。そしてト書きの情景は残念ながら小劇場のスペースでは、あるいは今回の2回限りの公演では実現できないまま朗読されるのみである(ロミオ役でもある河内大和によって)。とはいえ、朗読の上手さも貢献しているのだが、木村氏のト書きは、それ自体が、一編の詩ともいうべき高度な抒情性を備えていて、脳内に情景を想像しながら、木村氏の美しい「ト書き」にも聞き惚れるということが起こる。そしてそれが舞台における演者の台詞の斉唱とも重なりあうと、その相乗効果によって、超越的な儀礼性の強度でもって観る者を圧倒する。
リーディング公演というのは、おそらくいっぽうで急遽公演をすることになり、しかも2回だけの上演ということで、やむをえぬ処置という面があるいっぽうで、これはこれで独立したパフォーマンスであり、リーディング公演だからといって二次的あるいは予備的なものでは決してないこと、もちろんリーディング公演といってもカクシンハンの洗練された劇場性によるところが多いのだが、一個の独立したパフォーマンスであり、ことによるとこうした形式のパフォーマンスが木村氏の脚本にあっているのではないかという気がする。
今回も終演後、松岡和子氏を迎えて、木村氏の司会で、河内大和氏、真美以氏とのトークがあり、そこではこの8月に上演した「薔薇戦争」(『ヘンリー六世』三部作と『リチャード三世』)についてのトークもあった。松岡和子氏の啓発的でまた魅力的なトークは15分では短すぎたのだが、1時間半の公演なので、トークが長引いてもいけないので、しかたがないことかもしれない。そのなかで松岡氏は、あるエピソードで、「今日この場にいる」と私の名前に言及されたが、基本的に引きこもり生活をしている私に外の光をあてようとされることに対して、ただただありがたいと申し上げるしかないのだが、世間的に、あるいは演劇界的にも、私の知名度はゼロに近いというかゼロなので、ほとんど観客には、誰のことを言っているのかわからなかったと思い、自分の知名度なさをお詫びするしかないと思っている。
付記
昔、シェイクスピアの故郷、ストラットフォード・アポン・エイヴォンで暮らしていた当時、劇場は大・中・小と三つあった(いまは二つしかないが)。そのなかでThe Third Placeと呼ばれた小劇場で日本からの劇団の公演もあった。そのとき、現地で知り合った日本人の研究者と、私はその劇団の公演については意見の一致をみた。久しぶりに芝居らしい芝居をみた、ということで。もちろん褒め言葉である。芝居らしい芝居というのはどういう芝居かと言われるとうまく説明できなくて困るのだが、ただ、いえることは、まさにカクシンハンのような、熱量と情念と抒情性と創造性あふれる舞台ということである。カクシンハンの舞台をみるたびに思うのは、芝居らしい芝居をみたということである。
2012年に執筆された木村龍之介氏の脚本によるものだが、いわれてみれば東北大震災、原発事故、原発難民への差別、オウム真理教を思わせるテロなど、当時の状況を色濃く反映している台本なのだが、同時に、いわれなければ、いまとここの日本の状況、それも閉塞的状況への挑戦と状況打破と救済への希求を横溢させた緊急のパフォーマンスとしかみえないのも事実である。もう今から7年前に書かれた戯曲だとしても、まったく色褪せていない。それどころかこれからも繰り返し上演されておかしくない主題が凝縮されている。
緊迫感のみなぎる、今の演劇そのものである。
原案のひとつマロリー・ブラックマン『コーラムとセフィーの物語』については、著名な作家でポプラ社から翻訳も出版されているが、実際には私は読んではいないので、コメントは差し控えるが(いまAMAZONで翻訳書を調べたら古書しかなくて7,000円、再版希望)、シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』の物語枠を現代日本におきかえたアダプテーションであることはまちがいない。現代日本とシェイクスピア、それも『ロミオとジュリエット』との「衝突」(ルーフレットというかフライヤーというのか、そこにおける木村氏の言葉)を実現した作品である。公演のあとのトークにおいても松岡和子氏が「衝突」ということを感慨深く語られていたが、もちろん衝突でもあり、そしてシンクロでもあるのだろう。衝突というのは、場違いなものの侵入ということでは全くなく、まさに衝突を通してシンクロがみえてくるということである。
今年5月渋谷のギャラリーLE DECO 4で上演された『ハムレット×SHIBUYA ~ヒカリよ、俺たちの復讐は穢れたか~』と双璧をなす作品であり、『ハムレット×SHIBUYA』のほうが英訳出版されると聞いたが、この『海辺のロミオとジュリエット』も英訳出版して、なんらおかしくないだろう。現代日本の演劇のレヴェルの高さをまざまざとみせてくれる国際的発信作品ともいえよう。
今回はリーディング公演なので、演者は台本をもって朗読するのだが、ただ朗読するのではなく、演技もするので、通常のカクシンハンの舞台とかわりない。ただしト書きも朗読する。そしてト書きの情景は残念ながら小劇場のスペースでは、あるいは今回の2回限りの公演では実現できないまま朗読されるのみである(ロミオ役でもある河内大和によって)。とはいえ、朗読の上手さも貢献しているのだが、木村氏のト書きは、それ自体が、一編の詩ともいうべき高度な抒情性を備えていて、脳内に情景を想像しながら、木村氏の美しい「ト書き」にも聞き惚れるということが起こる。そしてそれが舞台における演者の台詞の斉唱とも重なりあうと、その相乗効果によって、超越的な儀礼性の強度でもって観る者を圧倒する。
リーディング公演というのは、おそらくいっぽうで急遽公演をすることになり、しかも2回だけの上演ということで、やむをえぬ処置という面があるいっぽうで、これはこれで独立したパフォーマンスであり、リーディング公演だからといって二次的あるいは予備的なものでは決してないこと、もちろんリーディング公演といってもカクシンハンの洗練された劇場性によるところが多いのだが、一個の独立したパフォーマンスであり、ことによるとこうした形式のパフォーマンスが木村氏の脚本にあっているのではないかという気がする。
今回も終演後、松岡和子氏を迎えて、木村氏の司会で、河内大和氏、真美以氏とのトークがあり、そこではこの8月に上演した「薔薇戦争」(『ヘンリー六世』三部作と『リチャード三世』)についてのトークもあった。松岡和子氏の啓発的でまた魅力的なトークは15分では短すぎたのだが、1時間半の公演なので、トークが長引いてもいけないので、しかたがないことかもしれない。そのなかで松岡氏は、あるエピソードで、「今日この場にいる」と私の名前に言及されたが、基本的に引きこもり生活をしている私に外の光をあてようとされることに対して、ただただありがたいと申し上げるしかないのだが、世間的に、あるいは演劇界的にも、私の知名度はゼロに近いというかゼロなので、ほとんど観客には、誰のことを言っているのかわからなかったと思い、自分の知名度なさをお詫びするしかないと思っている。
付記
昔、シェイクスピアの故郷、ストラットフォード・アポン・エイヴォンで暮らしていた当時、劇場は大・中・小と三つあった(いまは二つしかないが)。そのなかでThe Third Placeと呼ばれた小劇場で日本からの劇団の公演もあった。そのとき、現地で知り合った日本人の研究者と、私はその劇団の公演については意見の一致をみた。久しぶりに芝居らしい芝居をみた、ということで。もちろん褒め言葉である。芝居らしい芝居というのはどういう芝居かと言われるとうまく説明できなくて困るのだが、ただ、いえることは、まさにカクシンハンのような、熱量と情念と抒情性と創造性あふれる舞台ということである。カクシンハンの舞台をみるたびに思うのは、芝居らしい芝居をみたということである。
posted by ohashi at 22:53| 演劇
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2019年12月14日
『タージマハルの衛兵』
ラジヴ・ジョセフ作、小田島創志訳、小川絵梨子演出、新国立劇場
出演:成河、亀田佳明
小田島創志君が、この戯曲を翻訳しているという話は、私の退職前から聞いていた。上演されるといいねと、ただ励ますしかなかったのだが、今回、観劇することになり、あわてて原作を読んでみた。舞台でも95分くらいだし、原作もさほど長くないので、それこそ90分か120分あれば、らくに読みとおせるし、1時間で読んでしまう人もいておかしくない。そして、え、これを上演するのかと、驚き、戸惑った。
なかなかすごい芝居で、読んでいると、どういう情景かは思い描くことはできるのだが、実際に、どう舞台に載せるのかは、私の想像力を絶していた。さすがというか、当然というべきか、プロの演出家あるいは劇団と私の想像力の差をみせつけられた感じだが、この原作を、へんな省略をせず、原作に忠実なかたちでみごとに舞台に実現していた。
私の隣に座った若い男性は、劇が始まると、くすくす笑っていたが、原作を知っている私は、笑いごとではないので、深刻な面持ちでみていたのだが、ただし最初から笑うのが正しい見方かもしれない。この新国立小劇場の「ことぜん・シリーズ」では前回の『あの出来事』と同様、二人芝居なのだが、『あの出来事』が、古代ギリシア演劇的あるいは能舞台的であるとすれば、この二人芝居は、漫才である。べつに批判しているわけではない。まさに二人の衛兵がとりとめもない話をして暇をつぶしているという、現代演劇ではなじみの光景、そうベケットの『ゴドーを待ちながら』の1648年インド版なのである。ふたりの他愛もない掛け合い漫才を面白がってみる。あるいはその後に展開でもブラックな笑いというかたちで漫才的笑いは継続されるのだが、すると第2場以降、漫才のコンビのゆるい笑いは消える。
まだ上演中なので、ネタバレは避けたいので、分析は、クリスマス明けにもちこしたいと思うのだが、ただ、いえることは、これは面白い芝居だし、衝撃的なところもあるが、また同時に考えさせられるところもある。
小田島創志君の翻訳は、みごとで、わかりやすく、耳で聞いていて、理解が困難になるところはなく、見事な翻訳である。私は原作を読んでいて、これは翻訳しようとは思わない、厄介な作品だと思ったが、また慣れてくると(とはいえ二人の登場人物の名前の読み方は、原作を読んでいるかぎり最後までよくわからなかったのだが)英語もわかりやすいことに気づくのだが、これは翻訳者にとっては、むしろ悪いニュースで、わかりやすく単純な英語であればあるほど、それをこなれた美しい日本語に翻訳するのはほんとうにむつかしい。小田島君は、この困難な作業をみごとにクリアしていて、しかも、特徴ある台詞に仕上げている。つまり1648年のインドのタージマハルの衛兵の二人の会話だが、変に時代性をもたせるのではなく(実際、衛兵二人が英語で話すはずはないのだが)、また台詞を方言にしてはいけないという原作者の指定もあって、これは過ぎ去った過去の物語ではなく、現代の物語でもあるということを強調する日本語の台詞にもなっていて、そこはもう若くして名人芸に達していると気がした。
前回の『あの出来事』の谷岡健彦氏の翻訳といい、今回の『タージマハルの衛兵』の小田島創志氏の翻訳といい、みごとなもので、つくづく、私は、戯曲の翻訳あるいは翻訳家を志さなくてよかったと思う。二人の翻訳を前にしては、凌ぐことはもちろんできないし、肩をならべることもできないと痛感し、自信をなくすほかなかっただろうから。
出演:成河、亀田佳明
小田島創志君が、この戯曲を翻訳しているという話は、私の退職前から聞いていた。上演されるといいねと、ただ励ますしかなかったのだが、今回、観劇することになり、あわてて原作を読んでみた。舞台でも95分くらいだし、原作もさほど長くないので、それこそ90分か120分あれば、らくに読みとおせるし、1時間で読んでしまう人もいておかしくない。そして、え、これを上演するのかと、驚き、戸惑った。
なかなかすごい芝居で、読んでいると、どういう情景かは思い描くことはできるのだが、実際に、どう舞台に載せるのかは、私の想像力を絶していた。さすがというか、当然というべきか、プロの演出家あるいは劇団と私の想像力の差をみせつけられた感じだが、この原作を、へんな省略をせず、原作に忠実なかたちでみごとに舞台に実現していた。
私の隣に座った若い男性は、劇が始まると、くすくす笑っていたが、原作を知っている私は、笑いごとではないので、深刻な面持ちでみていたのだが、ただし最初から笑うのが正しい見方かもしれない。この新国立小劇場の「ことぜん・シリーズ」では前回の『あの出来事』と同様、二人芝居なのだが、『あの出来事』が、古代ギリシア演劇的あるいは能舞台的であるとすれば、この二人芝居は、漫才である。べつに批判しているわけではない。まさに二人の衛兵がとりとめもない話をして暇をつぶしているという、現代演劇ではなじみの光景、そうベケットの『ゴドーを待ちながら』の1648年インド版なのである。ふたりの他愛もない掛け合い漫才を面白がってみる。あるいはその後に展開でもブラックな笑いというかたちで漫才的笑いは継続されるのだが、すると第2場以降、漫才のコンビのゆるい笑いは消える。
まだ上演中なので、ネタバレは避けたいので、分析は、クリスマス明けにもちこしたいと思うのだが、ただ、いえることは、これは面白い芝居だし、衝撃的なところもあるが、また同時に考えさせられるところもある。
小田島創志君の翻訳は、みごとで、わかりやすく、耳で聞いていて、理解が困難になるところはなく、見事な翻訳である。私は原作を読んでいて、これは翻訳しようとは思わない、厄介な作品だと思ったが、また慣れてくると(とはいえ二人の登場人物の名前の読み方は、原作を読んでいるかぎり最後までよくわからなかったのだが)英語もわかりやすいことに気づくのだが、これは翻訳者にとっては、むしろ悪いニュースで、わかりやすく単純な英語であればあるほど、それをこなれた美しい日本語に翻訳するのはほんとうにむつかしい。小田島君は、この困難な作業をみごとにクリアしていて、しかも、特徴ある台詞に仕上げている。つまり1648年のインドのタージマハルの衛兵の二人の会話だが、変に時代性をもたせるのではなく(実際、衛兵二人が英語で話すはずはないのだが)、また台詞を方言にしてはいけないという原作者の指定もあって、これは過ぎ去った過去の物語ではなく、現代の物語でもあるということを強調する日本語の台詞にもなっていて、そこはもう若くして名人芸に達していると気がした。
前回の『あの出来事』の谷岡健彦氏の翻訳といい、今回の『タージマハルの衛兵』の小田島創志氏の翻訳といい、みごとなもので、つくづく、私は、戯曲の翻訳あるいは翻訳家を志さなくてよかったと思う。二人の翻訳を前にしては、凌ぐことはもちろんできないし、肩をならべることもできないと痛感し、自信をなくすほかなかっただろうから。
posted by ohashi at 22:42| 演劇
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2019年12月12日
『マリッジ・ストーリー』
NETFLIX配信の映画を映画館でみている者です。この映画は映画館でみる価値はあり。なおこれはステマではありません。
このタイトルは日本でつけたのかと思ったら原題そのままだった。もちろん結婚する話ではなく、結婚している夫婦が離婚するまでの話である、
今年の4月に2週連続のテレビドラマとして放送された『離婚なふたり』(リリー・フランキー、小林聡美&岡田将生(岡田は弁護士役だった))でもそうであったように、離婚を持ち出すのは妻のほうであって、基本的に女性が夫に三下り半をつきつけ、紆余曲折をとりながら最後には離婚するという離婚物語となる。その原型は『人形の家』であろう。つまり夫婦の不仲の原因は夫なのである。ネット上での感想をみると、夫に同情する意見を述べている男性もいるが、こういう男性がいる限り、日本でも離婚はふえるいっぽうであり、そもそも夫、男性の無理解が離婚の原因である。そして男性が自分は正しい妻は間違っているという思い上がりが、やがて暴力へと発展する。この夫の側に同情する男性はDV予備軍つまり悪質な犯罪者予備軍である。
この映画は男性監督ノア・バームバックの作品であるが、男性中心の視点を極力避けて、むしろ女性側に寄り添う姿勢をみせていること、そしてそこからさらに男女ともに理想の父親あるいは母親になるのはむつかしいことは、一般論としても、またこの夫婦の個別の問題としてもあてはまり、そうであるがゆえに夫婦は互いに助け合い、足らないところを補い合いながら子育てに努めるべきなのだが、責任を押し付け合い、たがいに非難しあい、みずからの弱さや欠点を認めようとしない。こうして夫婦仲は悪くなり離婚調停は泥縄化していく。さらに男性ではなく女性のほうに理想的な母親像を求めようとする男性中心的思想がまだ根強く残っていることをフェミニスト弁護士も映画のなかで指摘している。こうしたことを映画は冷静にあぶりだす。
なおこの映画のなかで子供の親権を巡っての法的争いが中心となって、夫婦の理解や憎悪がなおざりになっているという指摘もネット上にあったが、夫婦の愛の問題ではない。子どもとの関係を失いたくないという夫側の思いが、事態を悪化させる。父親が子供の親権を失いたくないというのは当たり前のことかもしれないが、実際のところ、仕事に忙しい父親は子供とのふれあいの場をもてても何もできないし、しないし、息子も母親のほうになついている。そしておそらく親権を審査するために夫と息子のふれあいを観察しにきた裁判所の担当者の女性に、すべて見抜かれているにもかかわらず、夫がみせる偽善的・欺瞞的醜態は、見ていておかしいし、また哀しく、物語的にも劇的に盛り上がるのだが、それによって夫の側の必死な努力はわかっても、夫の側の無責任ぶり、あるいは現実逃避が許されるわけではないだろう。
映画の展開としてみると、最初、妻のナレーションで、夫と幼い息子との幸福な生活が映像の提示とともに語られる。離婚の話という予備知識はあるのだが、最初は、こんな幸せな夫婦であり家族だったのだと観客の側は思う。ところが、それは離婚のプロセスの一部であって、もう夫婦仲は冷えていることがわかる。そして離婚調停にむけての、最初のプロセスとして、夫と妻が、たがいに相手の長所を指摘する作文を書く。いまのナレーションは、妻の側の作文であるとわかる。しかし、夫は、その妻の作文を朗読するようにいわれて拒否する。夫にとって、妻からの告発(と勝手に思い込んでいる)は耐えられないようなのだ。もしそこで妻からの、ある意味、愛にあふれるこの作文を読んでいたら離婚にいたらなかったかもしれない――そもそも夫のほうは離婚に反対だからである。皮肉なことに、この最初の作文を夫が読むのは、映画の最後、もう夫婦仲がこじれにこじれて離婚が確定してからである。涙ながらに朗読する夫にとって、すべてはもう手遅れになっている。このシナリオは、ものすごくおもしろくて、ものすごくきつい。
そもそも夫婦喧嘩と言うか夫婦の口げんかというか激突は、この映画の演劇的強度をマックスにもっていく。夫婦ふたりだけの言い合いは、アドリブではないかという指摘がネットにあったが、しかし、そこでアドリブを許したら、物語がとんでもない方向に進んでいくかもしれず、映画の結末にたどり着けないかもしれないから、そんなことはないだろうと思ったが、実際、アドリブではない。ただアドリブではないかと思った人間がいたとしたら、それは、ワンシーン・ノーカットで繰り広げられるふたりの演技が自然かつ強烈であったからで、まさに、ものすごくおもしろくて、ものすごくきつい。アドリブではないと知って私は全く驚かないが、あの場面を50テイクしたということを知って、これには驚いた。とはいえワンシーン・ワンカットだから、どちらかがとちったら、最初から取り直しとなるのだから、それは50テイクは、しかたがないのかと思い直したが。
夫を演ずるのはアダム・ドライバーである。アダム・ドライバーが出演している映画を全部みたわけではないが、『パターソン』や『ブラッククランズマン』そして『スターウォーズ』のカイロ・レンと、その程度なり性格は異なっても、いずれも動じない人物を演じてきた。『ブラッククランズマン』では彼が大柄な男性であることがわかったのだが、動かざること山の如しである彼の存在感は、この映画では崩れる。そこが衝撃でもあるのだが、この映画で彼は泣き崩れる。最初は、動じない人物であるかにみえて、最終的には耐え切れず号泣する場面がある。彼が歌う場面(ミュージカルのなかの曲を歌うのだが、これは一発撮りで成功したようだ)よりも衝撃的だったという感想がネット上にあったが、それは同感である。
いっぽう妻を演ずるスカーレット・ヨハンセンは、この映画ではじめて知ったのだが、小柄な女性だった。しかし彼女も齢を重ねたせいもあって、存在感のあるかたちで、離婚する妻という難しい役を演じきった感がある。アダム・ドライバーとスカーレット・ヨハンセンの演技こそ、この映画のエッセンスであり、アダム・ドライバーは劇団の主宰者にして演出家、そしてスカーレット・ヨハンセンが、夫の劇団の看板女優という設定は、演劇性を前面に出しているともいえる。法廷もまた演劇的な場であって、妻側の辣腕弁護士をローラ・ダーンが、それに対抗して夫が頼る辣腕弁護士をレイ・リオッタが演じているが、ローラ・ダーンとレイ・リオッタ――ふたりは怖すぎるわい。アラン・アルダも弁護士役で出ていたが、この映画、弁護士を演ずる俳優が充実している。劇団、法廷、そして夫婦喧嘩。いずれも演劇的強度をどこまでも高める装置として機能し、またこの映画での、その機能の成功は誰もが納得することだろう。
ただ、それにしてもひとつ言っておきたい。字幕製作者、Directorを監督と訳すな。この映画のなかではアダム・ドライバーは、劇団の演出家である。それを終始一貫して「監督」と訳している。バカ字幕製作者が。だからこんな感想がネット上にあらわれる――
チャーリー/アダム・ドライバーは映画監督ではなく演出家。彼が演技を付けたり演出している場面があるが、映画を撮っている場面などない。にもかかわらず、こんなチャーリー映画監督説があらわれるのは、字幕がDirectorを「監督」と訳しているからだ。これは誤訳。劇団の場合、「監督」というと、演出家ではなく「舞台監督」Stage Managerを指すことが多い。とにかくDirectorを「監督」としか訳せない字幕製作者は、相当能力が低い。
あと、この映画での舞台場面は、どんな芝居かと台詞を聞いていたのだが、ギリシア悲劇のソポクレス作『エレクトラ』かと一瞬思ったのだが、よく聞いてみて、これはソポクレスの『アンティゴネー』だと結論づけた。しかしエンドクレジットをみていたら、『エレクトラ』だった。いや、後付で勝手なことを書いていると思われるかもしれないが、11月の終わりにKAATで10時間の『グリークス』を見たが、その予習でソポクレスの『エレクトラ』は直前に読んだ。だから『エレクトラ』と思ったというのは嘘ではない。また映画のなかで垣間見せる演出は、なかなか魅力的な演出だった。
最後に一言。離婚を経験したことのある知人から、結婚するよりも、離婚するときのほうがたいへんだったという話を聞いたことがある。これは、その知人だけにあてはまることではなく、多くの離婚経験者にとって共通の叡智のようなものとなっている。大変な思いをして離婚のプロセスに耐えてまで離婚したいかというと、そうしたいのだろう。実際、大変だからといって離婚が減少する気配はない。
いまや、アメリカというか西洋社会では、またおそらくもうすぐ日本でも、離婚は異常事態ではなく常態となっている。愛の物語は別離と別居の物語である。結婚物語と離婚物語は絨毯の模様の表裏のような関係にある。
私が以前イギリスで部屋を借りていた大家夫妻は、年に一回クリスマスに息子と再会するのだが、毎年、連れてくるパートナーの女性が違っていると話してくれた。映画のなかのアダム・サンドラ―の両親は離婚したらしいし、スカーレット・ヨハンセン自身、離婚している。また監督のノア・バームバックは、自身の、離婚経験をこの映画の脚本に活かしているいるという。離婚の相手はジェニファー・ジェイソン・リー――昭和後期の日本ではなじみ深いアメリカの俳優ヴィック・モローの娘である。
このタイトルは日本でつけたのかと思ったら原題そのままだった。もちろん結婚する話ではなく、結婚している夫婦が離婚するまでの話である、
今年の4月に2週連続のテレビドラマとして放送された『離婚なふたり』(リリー・フランキー、小林聡美&岡田将生(岡田は弁護士役だった))でもそうであったように、離婚を持ち出すのは妻のほうであって、基本的に女性が夫に三下り半をつきつけ、紆余曲折をとりながら最後には離婚するという離婚物語となる。その原型は『人形の家』であろう。つまり夫婦の不仲の原因は夫なのである。ネット上での感想をみると、夫に同情する意見を述べている男性もいるが、こういう男性がいる限り、日本でも離婚はふえるいっぽうであり、そもそも夫、男性の無理解が離婚の原因である。そして男性が自分は正しい妻は間違っているという思い上がりが、やがて暴力へと発展する。この夫の側に同情する男性はDV予備軍つまり悪質な犯罪者予備軍である。
この映画は男性監督ノア・バームバックの作品であるが、男性中心の視点を極力避けて、むしろ女性側に寄り添う姿勢をみせていること、そしてそこからさらに男女ともに理想の父親あるいは母親になるのはむつかしいことは、一般論としても、またこの夫婦の個別の問題としてもあてはまり、そうであるがゆえに夫婦は互いに助け合い、足らないところを補い合いながら子育てに努めるべきなのだが、責任を押し付け合い、たがいに非難しあい、みずからの弱さや欠点を認めようとしない。こうして夫婦仲は悪くなり離婚調停は泥縄化していく。さらに男性ではなく女性のほうに理想的な母親像を求めようとする男性中心的思想がまだ根強く残っていることをフェミニスト弁護士も映画のなかで指摘している。こうしたことを映画は冷静にあぶりだす。
なおこの映画のなかで子供の親権を巡っての法的争いが中心となって、夫婦の理解や憎悪がなおざりになっているという指摘もネット上にあったが、夫婦の愛の問題ではない。子どもとの関係を失いたくないという夫側の思いが、事態を悪化させる。父親が子供の親権を失いたくないというのは当たり前のことかもしれないが、実際のところ、仕事に忙しい父親は子供とのふれあいの場をもてても何もできないし、しないし、息子も母親のほうになついている。そしておそらく親権を審査するために夫と息子のふれあいを観察しにきた裁判所の担当者の女性に、すべて見抜かれているにもかかわらず、夫がみせる偽善的・欺瞞的醜態は、見ていておかしいし、また哀しく、物語的にも劇的に盛り上がるのだが、それによって夫の側の必死な努力はわかっても、夫の側の無責任ぶり、あるいは現実逃避が許されるわけではないだろう。
映画の展開としてみると、最初、妻のナレーションで、夫と幼い息子との幸福な生活が映像の提示とともに語られる。離婚の話という予備知識はあるのだが、最初は、こんな幸せな夫婦であり家族だったのだと観客の側は思う。ところが、それは離婚のプロセスの一部であって、もう夫婦仲は冷えていることがわかる。そして離婚調停にむけての、最初のプロセスとして、夫と妻が、たがいに相手の長所を指摘する作文を書く。いまのナレーションは、妻の側の作文であるとわかる。しかし、夫は、その妻の作文を朗読するようにいわれて拒否する。夫にとって、妻からの告発(と勝手に思い込んでいる)は耐えられないようなのだ。もしそこで妻からの、ある意味、愛にあふれるこの作文を読んでいたら離婚にいたらなかったかもしれない――そもそも夫のほうは離婚に反対だからである。皮肉なことに、この最初の作文を夫が読むのは、映画の最後、もう夫婦仲がこじれにこじれて離婚が確定してからである。涙ながらに朗読する夫にとって、すべてはもう手遅れになっている。このシナリオは、ものすごくおもしろくて、ものすごくきつい。
そもそも夫婦喧嘩と言うか夫婦の口げんかというか激突は、この映画の演劇的強度をマックスにもっていく。夫婦ふたりだけの言い合いは、アドリブではないかという指摘がネットにあったが、しかし、そこでアドリブを許したら、物語がとんでもない方向に進んでいくかもしれず、映画の結末にたどり着けないかもしれないから、そんなことはないだろうと思ったが、実際、アドリブではない。ただアドリブではないかと思った人間がいたとしたら、それは、ワンシーン・ノーカットで繰り広げられるふたりの演技が自然かつ強烈であったからで、まさに、ものすごくおもしろくて、ものすごくきつい。アドリブではないと知って私は全く驚かないが、あの場面を50テイクしたということを知って、これには驚いた。とはいえワンシーン・ワンカットだから、どちらかがとちったら、最初から取り直しとなるのだから、それは50テイクは、しかたがないのかと思い直したが。
夫を演ずるのはアダム・ドライバーである。アダム・ドライバーが出演している映画を全部みたわけではないが、『パターソン』や『ブラッククランズマン』そして『スターウォーズ』のカイロ・レンと、その程度なり性格は異なっても、いずれも動じない人物を演じてきた。『ブラッククランズマン』では彼が大柄な男性であることがわかったのだが、動かざること山の如しである彼の存在感は、この映画では崩れる。そこが衝撃でもあるのだが、この映画で彼は泣き崩れる。最初は、動じない人物であるかにみえて、最終的には耐え切れず号泣する場面がある。彼が歌う場面(ミュージカルのなかの曲を歌うのだが、これは一発撮りで成功したようだ)よりも衝撃的だったという感想がネット上にあったが、それは同感である。
いっぽう妻を演ずるスカーレット・ヨハンセンは、この映画ではじめて知ったのだが、小柄な女性だった。しかし彼女も齢を重ねたせいもあって、存在感のあるかたちで、離婚する妻という難しい役を演じきった感がある。アダム・ドライバーとスカーレット・ヨハンセンの演技こそ、この映画のエッセンスであり、アダム・ドライバーは劇団の主宰者にして演出家、そしてスカーレット・ヨハンセンが、夫の劇団の看板女優という設定は、演劇性を前面に出しているともいえる。法廷もまた演劇的な場であって、妻側の辣腕弁護士をローラ・ダーンが、それに対抗して夫が頼る辣腕弁護士をレイ・リオッタが演じているが、ローラ・ダーンとレイ・リオッタ――ふたりは怖すぎるわい。アラン・アルダも弁護士役で出ていたが、この映画、弁護士を演ずる俳優が充実している。劇団、法廷、そして夫婦喧嘩。いずれも演劇的強度をどこまでも高める装置として機能し、またこの映画での、その機能の成功は誰もが納得することだろう。
ただ、それにしてもひとつ言っておきたい。字幕製作者、Directorを監督と訳すな。この映画のなかではアダム・ドライバーは、劇団の演出家である。それを終始一貫して「監督」と訳している。バカ字幕製作者が。だからこんな感想がネット上にあらわれる――
映画監督で脚本家のチャーリーは、ハリウッドでは人気女優だったニコールと恋に落ち、結婚してからはチャーリーの故郷ニューヨークで暮らしている。しかし、互いの価値観の違いから離婚を決意した2人は、当初は円満な協議離婚を目指していたが……
チャーリー/アダム・ドライバーは映画監督ではなく演出家。彼が演技を付けたり演出している場面があるが、映画を撮っている場面などない。にもかかわらず、こんなチャーリー映画監督説があらわれるのは、字幕がDirectorを「監督」と訳しているからだ。これは誤訳。劇団の場合、「監督」というと、演出家ではなく「舞台監督」Stage Managerを指すことが多い。とにかくDirectorを「監督」としか訳せない字幕製作者は、相当能力が低い。
あと、この映画での舞台場面は、どんな芝居かと台詞を聞いていたのだが、ギリシア悲劇のソポクレス作『エレクトラ』かと一瞬思ったのだが、よく聞いてみて、これはソポクレスの『アンティゴネー』だと結論づけた。しかしエンドクレジットをみていたら、『エレクトラ』だった。いや、後付で勝手なことを書いていると思われるかもしれないが、11月の終わりにKAATで10時間の『グリークス』を見たが、その予習でソポクレスの『エレクトラ』は直前に読んだ。だから『エレクトラ』と思ったというのは嘘ではない。また映画のなかで垣間見せる演出は、なかなか魅力的な演出だった。
最後に一言。離婚を経験したことのある知人から、結婚するよりも、離婚するときのほうがたいへんだったという話を聞いたことがある。これは、その知人だけにあてはまることではなく、多くの離婚経験者にとって共通の叡智のようなものとなっている。大変な思いをして離婚のプロセスに耐えてまで離婚したいかというと、そうしたいのだろう。実際、大変だからといって離婚が減少する気配はない。
いまや、アメリカというか西洋社会では、またおそらくもうすぐ日本でも、離婚は異常事態ではなく常態となっている。愛の物語は別離と別居の物語である。結婚物語と離婚物語は絨毯の模様の表裏のような関係にある。
私が以前イギリスで部屋を借りていた大家夫妻は、年に一回クリスマスに息子と再会するのだが、毎年、連れてくるパートナーの女性が違っていると話してくれた。映画のなかのアダム・サンドラ―の両親は離婚したらしいし、スカーレット・ヨハンセン自身、離婚している。また監督のノア・バームバックは、自身の、離婚経験をこの映画の脚本に活かしているいるという。離婚の相手はジェニファー・ジェイソン・リー――昭和後期の日本ではなじみ深いアメリカの俳優ヴィック・モローの娘である。
posted by ohashi at 20:08| 映画
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2019年12月11日
『殺さない彼と死なない彼女』
『殺さない彼と死なない彼女』小林啓一監督2019年映画。
私はエッチな映画あるいはエロい映画をみるのは恥ずかしいともなんとも思わないのだが、若い人それも10代の若者が見る映画を見るのはちょっと恥ずかしいし、老人には場違いではないかと緊張してしまう。
『殺さない彼と……』は、最初から見る予定にはなかったのだが、巷での評判に背中を押されたかたちで、見ることにした。映画館には高校生の男女も多かったが、高校生以上の年齢の男女の観客もいたので、高校教員が、高校生に人気のある映画はどんなものかと様子を見に来たというようなことにはならなかったのだが、しかし、私が観客のなかでは最高齢の老人であることは間違いないないように思った。
この日は、映画とはべつに、嫌なことがあったり、あるいは恥ずかしい思いをすることがあったりして、もしその日の占いを見ていたら最悪の日にちがいないと思われた。そんなときに、評価の高いこの映画を突然見たくなってネットで予約したのだが、嫌な一日を、この映画が吹き飛ばしくてくれるのではないかと、期待しつつ映画を見た。若者たちにまじって。
しかし観終わったあと、やはり今日は最悪の一日だったと納得できた。一日を閉めくくるはずのこの映画こそ、最悪の映画ではないか。若者向けのオフ・ビートな青春ラブコメかと思ったが、途中で病気で死なないだけの、ただの、ありがちな青春ドラマではないか。金を返せと憤慨しつつ、家路についた――なんて日だとぶつぶつ独り言をいう危ない老人として。
しかし一日というか深夜をすぎて翌日になると、最悪の日も終わって、運気も変わったのか、この映画、ひどい映画どころか、オフビートぶりのなかに重要な洞察を秘めているのではないかと評価が変わってきた。
以前から、なんとかの一つ覚えみたいに、繰り返していることに所有の欲望と同一化の欲望というものがある。英語でいうとto haveの欲望と、to beの欲望。西洋の哲学とか思想では、この二つは厳密に分けねばならない。たとえば私が男性として、他の男性にto beの欲望をいだいたとしよう。これは私が男性同性愛者ということではない。私は他の男性と同じようになりたいという欲望である。そしてそのなかには、他の優れた男性と同じように立派な女性のパートナーを持ちたいという欲望がある。同性と同一化する欲望を抱くものは異性愛者である。所有の欲望は、所有される欲望をもふくむのだが、同一化の欲望とともに生まれる。私は一人前の男になって、一人前の男にふさわしい異性のパートナーを持ちたいということになる。
もし私が異性に同一化する人間なら、私は同性愛者である。男性である私が、女性のようになりたいと思うとき、自分が女性になって男性に抱かれたい、男性に所有されたい、男性を所有したいと思うのである。私たちは同性と一体化する、あるいは一体化したいというとき、これをホモソーシャルの欲望といい、このとき、異性は所有の対象となる。もし私たちが異性と一体化したいと思うとき、これはホモセクシュアルな欲望であり、このとき、私たちは同性を所有の欲望の対象とするからである。
しかし、現実にはこのような図式は往々にして崩れる。以前『舞妓はん』という映画において、二人の男性が京都の舞妓にどちらがもてるか競い合うことがあった。これは舞妓に対する所有の欲望から生まれる競争関係だが、最後に、この二人の男性がどうなるかというと、二人が舞妓になって舞台で踊るのである。おかしなことがおこっている。つまり舞妓にもてたい、舞妓と仲良くなりたい、舞妓に愛されたいという所有の欲望が、最後には、舞妓になりという同一化の欲望に転換してしまってはおかしいのである。
しかし、愛する者と同一化したいという欲望はわからないわけではない。たとえば愛する者が死んだとき、その肉をあるいは骨を食べるということは原始社会とか部族社会ではおこなわれていたのではないか。つまり愛する者との同一化である。いっぽう愛が同一化を含むことを嫌う近代的文明社会は、愛する者を食べることを部族社会的な野蛮とみて否定した。そして同一化の欲望が所有の欲望を汚染しないようにしようとしたとみることもできる。
くりかえすと先にのべたように舞妓と仲良くなりたいと思う男性が、舞妓になってしまうというのは基本的にまれな事態である。たとえば男性である私が、女性を愛して、さらに独占しようとする。私は他の誰にも所有されることのない、完璧に私と同一化した女性を求めたとしよう。そうなるとこの女性は私の分身あるいは私そのものであって、それは愛ではなくなる。もし所有の欲望の極限が、このような同一化であったなら、残念ながらそれは地獄である。所有の欲望の果てに自分で自分を愛すしかなくなる。完璧な逸脱である。あるいは愛に必要かもしれない距離がなくなる。
これに対して、男性である私が、美しい女性を愛したとして、そのとき私が望んでいるのは、その女性のように化粧したい、美しく着飾りたい、優雅な身のこなしをマスターしたいということであれば、たとえ私が、そうすることで男性にもてたいと願う同性愛的欲望をもっていなくとも(もっている場合が多いのだが)、愛する対象との同一化の欲望は、所有の欲望と共存しているように思われる。
愛することのなかには、愛する対象を食べるという、一見、所有の欲望にみえて、実のところ同一化の欲望があるということだろう。愛する者を、自分のなかに住まわせることは、所有の欲望かもしれないが、同時に、それは愛する者と同一化したいという欲望でもあるのだ。ただし、この場合、愛するものを所有しすぎて暴力的に自己と同一化させるという犯罪行為にまで至ることがあるとしても。
『殺さない彼と死なない彼女』では、たとえば最後の場面、櫻井日奈子が、男性にふられて落ち込んでいる後輩だが初対面の撫子/箭内夢菜を励ますところがある。時間軸はけっこう錯綜しているのだが、この励ましによって、撫子/箭内夢菜のその後の行動が決まったことわかるのだが、このとき、櫻井は、小坂れい/間宮祥太朗と同じような口ぶりで、また間宮がしてくれたのと同じような励ましかたをする。つまり彼女は恋人の小坂れい/間宮祥太朗と同一化しているのである。あるいは小坂れい/間宮祥太朗が櫻井に憑依しているといってもいい。そしてこれが二人の愛の行き着く先だったのである。
この映画には3組のカップル、小坂れい/間宮祥太朗と鹿野なな/桜井日奈子ペア、地味子/恒松祐里ときゃぴ子/堀田真由の女性ペア、そして八千代:ゆうたろうと撫子/箭内夢菜のペアの物語が、並行してすすむのだが、実は、同一の時空間の出来事にみえて、時系列では3組のペアの物語には差ががある。またそれぞれの物語には共通性がなく、一応、接点はあるとしても、それ以外には、同じ高校に通っている三組のペアの別々の話である。つまり三組のペアは、メトノミカルな連結をしているにすぎない。しかし、同一化を軸に考えると、三組のペアは、実は、同じ同一化の欲望によって突き動かされているあるいは同一化によって救われている、そんなところがある。
たとえば地味子/恒松祐里ときゃぴ子/堀田真由の女性ペアは、男を手玉にとっているようにみえて、結局は捨てられる堀田真由の愚痴をきいている女友達の地味子/恒松祐里の物語だが、要は、二人をめぐる異性愛関係ではなく、最後まで仲の良い、そして、女性たちからも嫌われているかもしれないきゃぴ子/堀田真由への絶対的な無償の愛を貫く、地味子/恒松祐里の、ふたりの同一化の愛の物語なのである。
あるいは、なぜサイコパスが出てくるのか、よくわからないし、そのサイコパスが、なぜ恋している人間を殺そうとするのかも、よくわからないが、そのサイコパス、その彼こそ、ある意味、死の天使death angel/破壊の天使destroying angelかもしれない(ベニテングタケのことじゃないですよ――『あの出来事』1の記事参照)。所有の欲望を切り裂く、このおそるべき悪魔的サイコパスは、気付くと、同一化の欲望を発言させる天使だったことがわかる。彼のネット上の映像は、地味子/恒松祐里ときゃぴ子/堀田真由の女性ペアと、八千代:ゆうたろうと撫子/箭内夢菜のペアにも共有され、それぞれの愛のかたちをコントロールしているのである。
ネタバレをしないために、とりあえず、このくらいに。
小坂れい役の間宮祥太朗は、いくら留年しているという設定とはいえ、どうみても男子高校生にはみえないのだが、おそらく彼の疎外感あるいは一人だけ大人になってしまっている異邦人感という点では、けっこう説得力がある。鹿野なな役の桜井日奈子は、岡山の奇跡という不幸な売出し方をされたので、その反動もあって(実際、可愛らしく撮っているCM以外でみかけると、どこが奇跡じゃいとしかいいようななかったのだが)、一時人気も低迷していたようだが、最近の映画出演、あるいはこの映画で、「ブス」を演じているというか、そのままの「可愛いいブス」役なので、抵抗が少なく受け入れられやすくなって、人気ももりかえすのではないかと思った。老人の勝手な感想だが。
私はエッチな映画あるいはエロい映画をみるのは恥ずかしいともなんとも思わないのだが、若い人それも10代の若者が見る映画を見るのはちょっと恥ずかしいし、老人には場違いではないかと緊張してしまう。
『殺さない彼と……』は、最初から見る予定にはなかったのだが、巷での評判に背中を押されたかたちで、見ることにした。映画館には高校生の男女も多かったが、高校生以上の年齢の男女の観客もいたので、高校教員が、高校生に人気のある映画はどんなものかと様子を見に来たというようなことにはならなかったのだが、しかし、私が観客のなかでは最高齢の老人であることは間違いないないように思った。
この日は、映画とはべつに、嫌なことがあったり、あるいは恥ずかしい思いをすることがあったりして、もしその日の占いを見ていたら最悪の日にちがいないと思われた。そんなときに、評価の高いこの映画を突然見たくなってネットで予約したのだが、嫌な一日を、この映画が吹き飛ばしくてくれるのではないかと、期待しつつ映画を見た。若者たちにまじって。
しかし観終わったあと、やはり今日は最悪の一日だったと納得できた。一日を閉めくくるはずのこの映画こそ、最悪の映画ではないか。若者向けのオフ・ビートな青春ラブコメかと思ったが、途中で病気で死なないだけの、ただの、ありがちな青春ドラマではないか。金を返せと憤慨しつつ、家路についた――なんて日だとぶつぶつ独り言をいう危ない老人として。
しかし一日というか深夜をすぎて翌日になると、最悪の日も終わって、運気も変わったのか、この映画、ひどい映画どころか、オフビートぶりのなかに重要な洞察を秘めているのではないかと評価が変わってきた。
以前から、なんとかの一つ覚えみたいに、繰り返していることに所有の欲望と同一化の欲望というものがある。英語でいうとto haveの欲望と、to beの欲望。西洋の哲学とか思想では、この二つは厳密に分けねばならない。たとえば私が男性として、他の男性にto beの欲望をいだいたとしよう。これは私が男性同性愛者ということではない。私は他の男性と同じようになりたいという欲望である。そしてそのなかには、他の優れた男性と同じように立派な女性のパートナーを持ちたいという欲望がある。同性と同一化する欲望を抱くものは異性愛者である。所有の欲望は、所有される欲望をもふくむのだが、同一化の欲望とともに生まれる。私は一人前の男になって、一人前の男にふさわしい異性のパートナーを持ちたいということになる。
もし私が異性に同一化する人間なら、私は同性愛者である。男性である私が、女性のようになりたいと思うとき、自分が女性になって男性に抱かれたい、男性に所有されたい、男性を所有したいと思うのである。私たちは同性と一体化する、あるいは一体化したいというとき、これをホモソーシャルの欲望といい、このとき、異性は所有の対象となる。もし私たちが異性と一体化したいと思うとき、これはホモセクシュアルな欲望であり、このとき、私たちは同性を所有の欲望の対象とするからである。
しかし、現実にはこのような図式は往々にして崩れる。以前『舞妓はん』という映画において、二人の男性が京都の舞妓にどちらがもてるか競い合うことがあった。これは舞妓に対する所有の欲望から生まれる競争関係だが、最後に、この二人の男性がどうなるかというと、二人が舞妓になって舞台で踊るのである。おかしなことがおこっている。つまり舞妓にもてたい、舞妓と仲良くなりたい、舞妓に愛されたいという所有の欲望が、最後には、舞妓になりという同一化の欲望に転換してしまってはおかしいのである。
しかし、愛する者と同一化したいという欲望はわからないわけではない。たとえば愛する者が死んだとき、その肉をあるいは骨を食べるということは原始社会とか部族社会ではおこなわれていたのではないか。つまり愛する者との同一化である。いっぽう愛が同一化を含むことを嫌う近代的文明社会は、愛する者を食べることを部族社会的な野蛮とみて否定した。そして同一化の欲望が所有の欲望を汚染しないようにしようとしたとみることもできる。
くりかえすと先にのべたように舞妓と仲良くなりたいと思う男性が、舞妓になってしまうというのは基本的にまれな事態である。たとえば男性である私が、女性を愛して、さらに独占しようとする。私は他の誰にも所有されることのない、完璧に私と同一化した女性を求めたとしよう。そうなるとこの女性は私の分身あるいは私そのものであって、それは愛ではなくなる。もし所有の欲望の極限が、このような同一化であったなら、残念ながらそれは地獄である。所有の欲望の果てに自分で自分を愛すしかなくなる。完璧な逸脱である。あるいは愛に必要かもしれない距離がなくなる。
これに対して、男性である私が、美しい女性を愛したとして、そのとき私が望んでいるのは、その女性のように化粧したい、美しく着飾りたい、優雅な身のこなしをマスターしたいということであれば、たとえ私が、そうすることで男性にもてたいと願う同性愛的欲望をもっていなくとも(もっている場合が多いのだが)、愛する対象との同一化の欲望は、所有の欲望と共存しているように思われる。
愛することのなかには、愛する対象を食べるという、一見、所有の欲望にみえて、実のところ同一化の欲望があるということだろう。愛する者を、自分のなかに住まわせることは、所有の欲望かもしれないが、同時に、それは愛する者と同一化したいという欲望でもあるのだ。ただし、この場合、愛するものを所有しすぎて暴力的に自己と同一化させるという犯罪行為にまで至ることがあるとしても。
『殺さない彼と死なない彼女』では、たとえば最後の場面、櫻井日奈子が、男性にふられて落ち込んでいる後輩だが初対面の撫子/箭内夢菜を励ますところがある。時間軸はけっこう錯綜しているのだが、この励ましによって、撫子/箭内夢菜のその後の行動が決まったことわかるのだが、このとき、櫻井は、小坂れい/間宮祥太朗と同じような口ぶりで、また間宮がしてくれたのと同じような励ましかたをする。つまり彼女は恋人の小坂れい/間宮祥太朗と同一化しているのである。あるいは小坂れい/間宮祥太朗が櫻井に憑依しているといってもいい。そしてこれが二人の愛の行き着く先だったのである。
この映画には3組のカップル、小坂れい/間宮祥太朗と鹿野なな/桜井日奈子ペア、地味子/恒松祐里ときゃぴ子/堀田真由の女性ペア、そして八千代:ゆうたろうと撫子/箭内夢菜のペアの物語が、並行してすすむのだが、実は、同一の時空間の出来事にみえて、時系列では3組のペアの物語には差ががある。またそれぞれの物語には共通性がなく、一応、接点はあるとしても、それ以外には、同じ高校に通っている三組のペアの別々の話である。つまり三組のペアは、メトノミカルな連結をしているにすぎない。しかし、同一化を軸に考えると、三組のペアは、実は、同じ同一化の欲望によって突き動かされているあるいは同一化によって救われている、そんなところがある。
たとえば地味子/恒松祐里ときゃぴ子/堀田真由の女性ペアは、男を手玉にとっているようにみえて、結局は捨てられる堀田真由の愚痴をきいている女友達の地味子/恒松祐里の物語だが、要は、二人をめぐる異性愛関係ではなく、最後まで仲の良い、そして、女性たちからも嫌われているかもしれないきゃぴ子/堀田真由への絶対的な無償の愛を貫く、地味子/恒松祐里の、ふたりの同一化の愛の物語なのである。
あるいは、なぜサイコパスが出てくるのか、よくわからないし、そのサイコパスが、なぜ恋している人間を殺そうとするのかも、よくわからないが、そのサイコパス、その彼こそ、ある意味、死の天使death angel/破壊の天使destroying angelかもしれない(ベニテングタケのことじゃないですよ――『あの出来事』1の記事参照)。所有の欲望を切り裂く、このおそるべき悪魔的サイコパスは、気付くと、同一化の欲望を発言させる天使だったことがわかる。彼のネット上の映像は、地味子/恒松祐里ときゃぴ子/堀田真由の女性ペアと、八千代:ゆうたろうと撫子/箭内夢菜のペアにも共有され、それぞれの愛のかたちをコントロールしているのである。
ネタバレをしないために、とりあえず、このくらいに。
小坂れい役の間宮祥太朗は、いくら留年しているという設定とはいえ、どうみても男子高校生にはみえないのだが、おそらく彼の疎外感あるいは一人だけ大人になってしまっている異邦人感という点では、けっこう説得力がある。鹿野なな役の桜井日奈子は、岡山の奇跡という不幸な売出し方をされたので、その反動もあって(実際、可愛らしく撮っているCM以外でみかけると、どこが奇跡じゃいとしかいいようななかったのだが)、一時人気も低迷していたようだが、最近の映画出演、あるいはこの映画で、「ブス」を演じているというか、そのままの「可愛いいブス」役なので、抵抗が少なく受け入れられやすくなって、人気ももりかえすのではないかと思った。老人の勝手な感想だが。
posted by ohashi at 10:52| 映画
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『POCKET ロミオとジュリエット』
昨日12月10日にカクシンハン特別講演『POCKET ロミオとジュリエット with シェイクスピア・アフタートーク』をみる。
翻訳:松岡和子、演出:木村龍之介。
ロミオ:岩崎MARK雄大、ジュリエット:渡辺哲也、語り:大山大輔
場所アトリエ・ファンファーレ東池袋
ポケット版というのは「ノーカットで上演すると150分の『ロミオとジュリエット』を、60分に濃縮して、どこでも上演できるようにする」(木村龍之介主宰の言葉)というもので、それこそ学校演劇の場で上演するとよいように思う。男三人の『ロミジュリ』は、学校演劇としては刺激が強すぎるかもしれないが、むしろ男女のからみにかえるよりも、男三人の「おっさんずラブ」の世界にしても、中高生は受け入れてくれるかもしれない。いや受け入れるべきだろう。
短縮版だが、私のような人間が短縮版をつくるとすれば――とはつまりシナリオを作る才能も演出の才能もない凡庸な人間がつくればということだが――、省略するだけでなく、全体も薄味にするか、あるいはエッセンスが分かればいいからと、原作の複雑な要素を際立たせるのではなく溶かしてしまい、お粥のような台本と演出になってしまうと思う。
ところがカクシンハン版の『ロミオとジュリエット』短縮版は、お粥ではなくて、ご飯のままで、米がひとつひとつ粒だっている。決して薄味のどろっとしたお粥ではない、そこがすばらしいところである(変な比喩で恐縮だが、台詞の発音も粒だっていて、はっきり聞き取れる。これはあたりまえのことだが、そうでないことも多い。今年観たシェイクスピア劇のなかで池袋の東京芸術劇場・プレイハウスでみた、『お気に召すまま』は今のところ今年最低の演出とパフォーマンスだったが、あの演出をどれほど擁護しようとも、台詞が聞き取れなかったことについては、絶対に擁護できないだろう。あれはほんとうにフィアスコFiascoだろう)。
たしかに省略はある。1時間にまとめるのだがから。また三人でするのだから。しかし重要な台詞は、そのまま使うので、台詞の面白さから力強さ、そしてその台詞を通しての情念のほとばしりや掛け合いの緊張感など、演劇性は、きちんと残してある。POCKET版をみることによって全体のあらすじのようなものがわかるだけではない。演劇的強度は、要約あるいは短縮されることのなく、そのまま残されている――そこがすごいのだが。作品の演劇性そのものは確かな手ごたえとともに伝わるのである。観客は演劇としての『ロミオとジュリエット』の要約あるいは短縮版をみるのではない。『ロミオとジュリエット』そのものを見る、演劇的強度そのものに身をさらすことになる。
またアフタートークで北村紗衣氏が指摘していたが、この『ロミオとジュリエット』の原作そのものは、けっこうごちゃごちゃしていて、煩雑な展開もあり、とくに結末にいたるところは、ごちゃごちゃ感が顕著なのだが、そこをきれいに均すというか消去することによって、若い恋人たちの悲劇的運命を際立たせることにPOCKET版は成功している。短縮版であるが、まさに木村主宰の言葉通り「濃縮」版であり、そこにいっぽうで原作に大ナタをふるって削ったり、かえたりする大胆さと、いっぽうで原作を重視する繊細さとが共存している点は、どれだけ強調しても強調したりないと思う。
これは今年渋谷のギャラリーでおこなったポケット版の再演、それも2日限りの再演であったようだが、残念ながら渋谷のギャラリーでの公演はみていない(公演の時期、私は毎日、忙殺されていて、たとえ招待されても断るしかなかった)のだが、建物の3階のあるというか3階のフロア全体の白い壁と大きなガラス窓の明るいギャラリーよりも、アトリエファンファーレ東池袋の黒い壁の小劇場・スタジオのほうが、POCKET版の公演にむいいているように思う。地上三階のギャラリーの天国的浮遊感よりも小劇場の黒い地獄的地下世界あるいは霊廟のほうが、この作品にむいているように思う。北村紗衣氏が、ブログのなかで、いくら前回の公演のほうがよかったと勝手なことを書いていたとしても。
アフタートークでは木村龍之介氏も北村紗衣氏も、能舞台の世界と今回のPOCKET版の通底性のようなことを語っていたが、今年みた演劇作品のなかでは、能舞台を意識するものが多かった。まえにこのブログの記事でも書いたように、藤田貴大作『蜷の綿』は、原作では指定していないのだが、演出は能舞台あるいは能の世界を意識していた。また新国立劇場の『あの出来事』では、コーラス集団と二人の人物との芝居というのは、古代ギリシア演劇を思わせるものだったし、それはまた能舞台をも彷彿とさせるものだった。KAATの10時間の『グリークス』では、舞台奥にモノクロで見事な松の絵が描かれ、まさに能舞台だったが、しかし演出そのものは、能舞台でも、あるいは古代ギリシア演劇的でもなかった(べつに批判しているわけではない)。そして今回の『POCKET ロミオとジュリエット』は能舞台とは思えないし、またあくまでもPOCKET版でもあるので、能の世界のように物語を構成することはあえてしていないので、演出・制作側がいくら能舞台を意識していても、見る側にとって、能舞台は意識にのぼらないのではないかと思う(だからといって、それが問題であるということではない)。
もし『ロミオとジュリエット』を能の世界のように作り変えるとすれば、大人数の芝居で、とても能舞台とは思えないかもしれないが、藤田貴大演出『ロミオとジュリエット』(2016年、東京芸術劇場 プレイハウス)こそ、死んだロミオとジュリエットが、死にいたる経緯を、何度も何度も反復的に示すような構成こそ、能の世界ではないのだろうか。たとえばヴェローナを訪れた観光客が、ジュリエットの亡霊と出逢い、悲劇の顛末をジュリエットから聞くというような世界こそ、能の物語世界である。
そう考えると、能の舞台あるいは能の物語世界とはほどとおいようなPOCKET版の世界が、なにか能の舞台のように思われてきた。舞台には皺くちゃにまるめた新聞紙で床が見えないほど埋め尽くされている。舞台奥には梯子がある。その梯子から新聞紙がはじまり、床では新聞紙のごみのやまが出現する。この新聞紙が情報の廃墟のメタファーかもしれず、そこに埋め込まれ呑み込まれていくロミジュリの物語ということなのかもしれないが、奥の梯子をみると、まさにこの舞台そのものが地下の霊廟であり、この霊廟のなかで若い二人の悲劇が物語られる。それはある意味、能の世界の精神をシェイクスピア作品に憑依させたかのような趣がある。
付記 1 学校演劇化するときに、舞台装置がつねにネックとなる。なにもない舞台でもいいのだが、それが何もない舞台であることを意識させるとき、教室の前にある黒板とか教壇や教卓は想像力のじゃまになる。学校の講堂がいちばんいいというわけでもない。講堂は、階段教室のようになっていなければ、壇上のようすはフロアの後ろのほうでは見えなくて演劇作品の鑑賞には適さない。非日常感あるいは演劇的異世界感を出すには、POCKET版の新聞紙はすぐれた装置である。現地調達ができるし、使ったあとは新聞紙のごみとして捨てればいいのだから。
付記 2 木村龍之介氏の司会で、真以美氏と北村紗衣氏のアフタートークは、興味深い話が効けて15分というのが短すぎたのだが、1時間の公演に1時間のアフタートークというのは無意味かもしれず、もっと聞きたかったという物足らなさが残るくらいのほうがよかったかもしれない。
ステージでの即興的発言について、批判するのは下品で下劣なことなので、これは北村氏のブログでの発言ではなく、あくまでもその場の発言であること、また北村氏の発言は、私にはまねができないほど、終始、ほとんど的確なコメントであったことを踏まえて、あえて苦言を呈すれば、シェイクスピアの時代にイタリアとかスペインはヨーロッパの先進国で、プロテスタントのイングランドからみると、そのぶん腐敗していたイメージもあって云々と発言されていたが、それはその通りだろうが、シェイクスピアがカトリックであったことについて配慮されていないのはちょっと惜しいように思った。いまは21世紀のシェイクスピア研究の時代なのだから。
翻訳:松岡和子、演出:木村龍之介。
ロミオ:岩崎MARK雄大、ジュリエット:渡辺哲也、語り:大山大輔
場所アトリエ・ファンファーレ東池袋
ポケット版というのは「ノーカットで上演すると150分の『ロミオとジュリエット』を、60分に濃縮して、どこでも上演できるようにする」(木村龍之介主宰の言葉)というもので、それこそ学校演劇の場で上演するとよいように思う。男三人の『ロミジュリ』は、学校演劇としては刺激が強すぎるかもしれないが、むしろ男女のからみにかえるよりも、男三人の「おっさんずラブ」の世界にしても、中高生は受け入れてくれるかもしれない。いや受け入れるべきだろう。
短縮版だが、私のような人間が短縮版をつくるとすれば――とはつまりシナリオを作る才能も演出の才能もない凡庸な人間がつくればということだが――、省略するだけでなく、全体も薄味にするか、あるいはエッセンスが分かればいいからと、原作の複雑な要素を際立たせるのではなく溶かしてしまい、お粥のような台本と演出になってしまうと思う。
ところがカクシンハン版の『ロミオとジュリエット』短縮版は、お粥ではなくて、ご飯のままで、米がひとつひとつ粒だっている。決して薄味のどろっとしたお粥ではない、そこがすばらしいところである(変な比喩で恐縮だが、台詞の発音も粒だっていて、はっきり聞き取れる。これはあたりまえのことだが、そうでないことも多い。今年観たシェイクスピア劇のなかで池袋の東京芸術劇場・プレイハウスでみた、『お気に召すまま』は今のところ今年最低の演出とパフォーマンスだったが、あの演出をどれほど擁護しようとも、台詞が聞き取れなかったことについては、絶対に擁護できないだろう。あれはほんとうにフィアスコFiascoだろう)。
たしかに省略はある。1時間にまとめるのだがから。また三人でするのだから。しかし重要な台詞は、そのまま使うので、台詞の面白さから力強さ、そしてその台詞を通しての情念のほとばしりや掛け合いの緊張感など、演劇性は、きちんと残してある。POCKET版をみることによって全体のあらすじのようなものがわかるだけではない。演劇的強度は、要約あるいは短縮されることのなく、そのまま残されている――そこがすごいのだが。作品の演劇性そのものは確かな手ごたえとともに伝わるのである。観客は演劇としての『ロミオとジュリエット』の要約あるいは短縮版をみるのではない。『ロミオとジュリエット』そのものを見る、演劇的強度そのものに身をさらすことになる。
またアフタートークで北村紗衣氏が指摘していたが、この『ロミオとジュリエット』の原作そのものは、けっこうごちゃごちゃしていて、煩雑な展開もあり、とくに結末にいたるところは、ごちゃごちゃ感が顕著なのだが、そこをきれいに均すというか消去することによって、若い恋人たちの悲劇的運命を際立たせることにPOCKET版は成功している。短縮版であるが、まさに木村主宰の言葉通り「濃縮」版であり、そこにいっぽうで原作に大ナタをふるって削ったり、かえたりする大胆さと、いっぽうで原作を重視する繊細さとが共存している点は、どれだけ強調しても強調したりないと思う。
これは今年渋谷のギャラリーでおこなったポケット版の再演、それも2日限りの再演であったようだが、残念ながら渋谷のギャラリーでの公演はみていない(公演の時期、私は毎日、忙殺されていて、たとえ招待されても断るしかなかった)のだが、建物の3階のあるというか3階のフロア全体の白い壁と大きなガラス窓の明るいギャラリーよりも、アトリエファンファーレ東池袋の黒い壁の小劇場・スタジオのほうが、POCKET版の公演にむいいているように思う。地上三階のギャラリーの天国的浮遊感よりも小劇場の黒い地獄的地下世界あるいは霊廟のほうが、この作品にむいているように思う。北村紗衣氏が、ブログのなかで、いくら前回の公演のほうがよかったと勝手なことを書いていたとしても。
アフタートークでは木村龍之介氏も北村紗衣氏も、能舞台の世界と今回のPOCKET版の通底性のようなことを語っていたが、今年みた演劇作品のなかでは、能舞台を意識するものが多かった。まえにこのブログの記事でも書いたように、藤田貴大作『蜷の綿』は、原作では指定していないのだが、演出は能舞台あるいは能の世界を意識していた。また新国立劇場の『あの出来事』では、コーラス集団と二人の人物との芝居というのは、古代ギリシア演劇を思わせるものだったし、それはまた能舞台をも彷彿とさせるものだった。KAATの10時間の『グリークス』では、舞台奥にモノクロで見事な松の絵が描かれ、まさに能舞台だったが、しかし演出そのものは、能舞台でも、あるいは古代ギリシア演劇的でもなかった(べつに批判しているわけではない)。そして今回の『POCKET ロミオとジュリエット』は能舞台とは思えないし、またあくまでもPOCKET版でもあるので、能の世界のように物語を構成することはあえてしていないので、演出・制作側がいくら能舞台を意識していても、見る側にとって、能舞台は意識にのぼらないのではないかと思う(だからといって、それが問題であるということではない)。
もし『ロミオとジュリエット』を能の世界のように作り変えるとすれば、大人数の芝居で、とても能舞台とは思えないかもしれないが、藤田貴大演出『ロミオとジュリエット』(2016年、東京芸術劇場 プレイハウス)こそ、死んだロミオとジュリエットが、死にいたる経緯を、何度も何度も反復的に示すような構成こそ、能の世界ではないのだろうか。たとえばヴェローナを訪れた観光客が、ジュリエットの亡霊と出逢い、悲劇の顛末をジュリエットから聞くというような世界こそ、能の物語世界である。
そう考えると、能の舞台あるいは能の物語世界とはほどとおいようなPOCKET版の世界が、なにか能の舞台のように思われてきた。舞台には皺くちゃにまるめた新聞紙で床が見えないほど埋め尽くされている。舞台奥には梯子がある。その梯子から新聞紙がはじまり、床では新聞紙のごみのやまが出現する。この新聞紙が情報の廃墟のメタファーかもしれず、そこに埋め込まれ呑み込まれていくロミジュリの物語ということなのかもしれないが、奥の梯子をみると、まさにこの舞台そのものが地下の霊廟であり、この霊廟のなかで若い二人の悲劇が物語られる。それはある意味、能の世界の精神をシェイクスピア作品に憑依させたかのような趣がある。
付記 1 学校演劇化するときに、舞台装置がつねにネックとなる。なにもない舞台でもいいのだが、それが何もない舞台であることを意識させるとき、教室の前にある黒板とか教壇や教卓は想像力のじゃまになる。学校の講堂がいちばんいいというわけでもない。講堂は、階段教室のようになっていなければ、壇上のようすはフロアの後ろのほうでは見えなくて演劇作品の鑑賞には適さない。非日常感あるいは演劇的異世界感を出すには、POCKET版の新聞紙はすぐれた装置である。現地調達ができるし、使ったあとは新聞紙のごみとして捨てればいいのだから。
付記 2 木村龍之介氏の司会で、真以美氏と北村紗衣氏のアフタートークは、興味深い話が効けて15分というのが短すぎたのだが、1時間の公演に1時間のアフタートークというのは無意味かもしれず、もっと聞きたかったという物足らなさが残るくらいのほうがよかったかもしれない。
ステージでの即興的発言について、批判するのは下品で下劣なことなので、これは北村氏のブログでの発言ではなく、あくまでもその場の発言であること、また北村氏の発言は、私にはまねができないほど、終始、ほとんど的確なコメントであったことを踏まえて、あえて苦言を呈すれば、シェイクスピアの時代にイタリアとかスペインはヨーロッパの先進国で、プロテスタントのイングランドからみると、そのぶん腐敗していたイメージもあって云々と発言されていたが、それはその通りだろうが、シェイクスピアがカトリックであったことについて配慮されていないのはちょっと惜しいように思った。いまは21世紀のシェイクスピア研究の時代なのだから。
posted by ohashi at 08:54| 演劇
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2019年12月08日
『ドクター・スリープ』
Dotor Sleep (2019)
私は怖い映画は嫌いで、見たくない。なぜなら怖いから。
しかし今回、この映画を見なければいけないことになって、意を決して、ホラー映画に立ち向かうことになった。
良いニュースと悪いニュースがある。
途中から、この映画は怖くないということがわかった。と同時に、それはまた長いだけの凡作だと、上映途中でわかってしまった。
まあキューブリック【本来ならクーブリックなのだろうが】は天才だとあらためて分かったが、スティーヴン・キングは偏差値が低い。むかしからキングの作品は長いだけで、子供じみた設定で、ひとりよがりのおとぎ話を作っているだけだと思っていて、ほんの一部しかその作品を読んでいない。マイク・フラナガン監督も、この映画をみるかぎり、キングのばかばかしい物語というか原作に足をひっぱられなければ、おそらくキューブリックの『シャイニング』に寄り添う傑作か名作をものにすることができたのではないかと思った――キング原作の映画を撮る監督というプレスティージに目がくらんだとしか思われない。
キューブリックの『シャイニング』は原作から逸脱している部分がある。しかし映画化においては、それはよくあることで、キューブリック版のほうが原作よりも怖い。これは、たとえば松本清帳原作の『砂の器』のように映画版のほうが原作をはるかにしのいでいるのと同じである。実際、その後、つくられるテレビドラマ版『砂の器』は、どれも映画版を踏襲するか、そのアダプテーションになっている。『シャイニング』も同じで、キングが映画版を嫌いなのは映画が原作を凌いでいるからだろう――原作の下手な映画化は原作者にとっては許し難いことだろうが、原作をしのぐ映画化は、もっと許し難いことだと想像はつく。
今回の『ドクター・スリープ』の映画化においては、最後のオヴァヴュー・ホテルでの展開においてキューブリック版のホテルを使うことになった。キングが嫌うのではないかと思うのだが、しかし、これはフラナガン監督の意向が強くはたらいたということでもないだろう。なにしろ映画で続編を作ろうとするのだったら、結局、キューブリックの映画に寄せるしかないだろうし、またキューブリックの映画はポップアイコン化しているのであって、これにはキング自身も、折れるしかないだろう。
ネット上にはダニー/ユアン・マクレガーの母親が、キューブリックの『シャイニング』に出ていた母親役の女性と顔は似ていないが話し方が同じで驚いたというようなコメントがあったが、何を偉そうに寝ぼけたことを言っているのかと思った。母親の顔だって、キューブリック版の『シャイニング』の女性(ジュリー・デュヴァルだったか)に似せている。実際、『ドクター・スリープ』でユアン・マクレガーがホテルのバーで話している相手は彼の父親で、その風貌や話し方はジャック・ニコルソンに似せている。キューブリック版の登場人物は、すべてそっくりさんで代用している――黒人のディックから双子の女の子にいたるまで(これが実は安っぽい印象をあたえるのだが)。母親だけではないのだ。
映画を見る前にパンフレットを購入した。映画を見た後だったら絶対に買わなかったと思う。ただ、こんな凡作なのに、パンフレットの装丁・内容・執筆者は、名作・傑作映画であるかのように豪華なのだが、そのなかに「『シャイニング』の影響下にある映画たち――引用、オマージュ、そしてリスペクトの数々」(執筆:尾崎一男)という記事があって、多くの実例をあげていて参考になった。そこでは当然のことながらスピルバーグの『レディ・プレーヤー1』におけるキューブリックの『シャイニング』の再現が触れられていた。ゲームのなかでプレーヤーが潜り抜けねばならない試練の一つが、『シャイニング』のオヴァヴュー・ホテルの内部なのだ。これには笑ってしまったが、スピルバーグのこのオマージュあるいはお遊びのあとで、この『ドクター・スリープ』がキューブリック版『シャイニング』のホテルを再現しても、テーマパークのアトラクションのようなものとしか感じられない。つまり怖くない。しかも、どんなに再現しても、ジャック・ニコルソンのそっくりさんがそうであったように、どこかちがう。同じホテルの内部でも、キューブリックの映画にみられる無気味さはどこにもなく、テーマパークのただのアトラクションと安物感、偽物感が拭い去れないのだ。
しかも映画『シャイニング』の「引用、オマージュ、そしてリスペクト」は数多くあることから、『ドクター・スリープ』も、そうした一連のオマージュ作品あるいはパロディ・パスティーシュ作品にすぎなくなり、ますます、その意義を希薄なものにしていく。その記事はキューブリックの映画の人気を物語るが、この映画にとってはマイナス効果しかない。
そしてとどめを刺すのがスティーヴン・キングのつまらない物語。それで2時間くらいとって、残り30分がオヴァヴューでの対決となる。レベッカ・ファーガソンの出演については、まったく知らなかったが、彼女が中心の一団は、ロマの人びとのようでもあり、また移動するヒッピーのようでもあり、ゾンビのようでも、ヴァンパイアの変種のようでもあるのだが、ヴァンパイアのように血を吸うのではなく、生気を吸うというのは、ドラッグ感があって、そこは面白い。だたし面白いのはそこまでで、この旅する異形の存在たちが、生気を得て超能力が増すというとき目が光るのだが、この目の光りがわざとらしいという感想を聞いた。まあ、そういう安っぽい、センスのない、C級ホラーがこの映画なのだ。
またレベッカ・ファーガソンは、空を飛んで、長距離を一瞬にして移動できる。しかし、この飛翔はメタファーであると思うのだが、映像では彼女は大気圏外まで飛んでいくのだが、ほんとうに飛んでいないとしたら、では、それは何のメタファーか。あるいは頭の中に棺桶を設けて、狂暴で危険な亡霊を、そのなかに閉じ込めるというのは、いったい何のメタファーなのだろう。これがわかるのは5歳くらいの子供であろう。キングのファンタジーは、幼い子どもたちが空想するおとぎ話のようなところもある、いや、それでしかない。
なお三大超能力と言うのは、「能力/能力者」の形式で示すと、テレパシー/テレパス、エンパシー/エンパス、プレコニション/プレコグであり、この三種はキング自身、いろいろな作品で使っている。しかし『ドクター・スリープ』の原作はどうなのか知らないのだが、映画ではプレコグニション(未来予知能力)は登場しない。おそらくそれは、映画『シャイニング』の世界がそうであったように、未来は過去へとループする。未来予知ではなく、ノスタルジアしかないからだろう。『ドクター・スリープ』の内容ではなく映画そのものがノスタルジーの産物でもある。
あと原作であれ映画であれ『シャイニング』と『ドクター・スリープ』との関係性について最後に触れるなら、鍵となるのは少女の存在である。『シャイニング』は少年の視点であった。頭がおかしくなりホテルの亡霊たちの世界にとりこまれていく父親ではなく、息子のダニーが、最終的にはこの映画の主人公だった。『ドクター・スリープ』では、30年後のダニーが登場し、タイトルからしても彼が主人公なのだが、真の主人公、この経験をとおして成長する人物、誰にも負けることのない強いキャラクターとしてアブラという名前の少女こそが、真の主人公であることがわかる。映画における二大遺伝子、暴力と少女。この『ドクター・スリープ』はこのふたつを継承しつつ、少女物として、『シャイニング』にはじまる、あるいは未完であった物語を完結させているのである。
付記
『シャイニング』の「引用、オマージュ、そしてリスペクトの数々」のひとつとして、記事では触れられていなかった作品をあげると、ひとつは『パッセンジャー』Passengers(2016)である(クリス・ブラット、ジェニファ・ローレンス)。これは同じキューブリックでも『2001年』に対するオマージュあるいは引用が主たるものなのだが(また全体は『タイタニック』のアダプテーションでもあるが)、誰もいない宇宙船内で主人公のクリス・プラットがバーカウンターで、ロボットのバーテンダーと会話するところ。あれは、誰がみても『シャイニング』の同じような場面を思い出さずにはいられない。
そしてもうひとつはフランス映画の『ジュリアン』(Jusqu'à la garde)で、ウィキペディアの紹介によれば
ずいぶん前の映画かと思ったら、今年の1月に映画館でみていたらしい。それはともかく離婚した夫婦に夫にも親権が認められたが、これが司法当局の勝手な、そして誤った判断であり、父親は息子ジュリアンに定期的に会うことになるが、ジュリアンの母は別れた夫に絶対に会おうとしない。またこの夫のほうも暴力的で自分の実家でも親から嫌われている。また夫に問題があることを見抜けない裁判当局にも責任がある。とはいえフランスだけではない。子供を虐待している親元に、子供を返すような愚劣なことは日本の行政当局も行っていて、司法や行政の愚行に国境はないのだが、このDV夫も、別れた妻の住所をつきとめ、最後に銃をもって襲ってくる。簡単には入れないマンションに無理やり押し入り、元の妻の部屋をつきとめ、銃をもって入ってくる――まるで『シャイニング』のジャック・トランス/ジャック・ニコルソンに襲われて逃げまどう母と息子の場面と同じものがそこに展開する。母と少年はバスルームに身をひそめるのだが、この緊迫感は見ていて失禁するほどの迫力だった。
映画『ジュリアン』のラストのノーカットの10分か20分くらいの場面は、あきらかに『シャイリング』を彷彿とさせる恐怖のシークエンスなのだが、ポイントはキューブリック映画のオマージュではなく、『ジュリアン』が、こうした夫の暴力によって死亡する多くのフランス人女性を生む(フランスでは3分に一人の女性が夫のDVで殺されているというようなことが言われていた)司法・行政の無能ぶり、あるいは因習的な家族イデオロギーへの批判となっていることであり、そこからキューブリックの『シャイニング』もまた早い段階でDVの恐怖を描いていた社会派ドラマでもあったということがわかる(キューブリック映画の社会批判性は、そこにあるのだが、見ようとする人が少ない要素のひとつである)。妻と子供を養うことが作家の創作活動の妨げになるという理屈――『ドクター・スリープ』でもジャック・ニコルソンの、あまり似ていないそっくりさんが、この理屈を語っていたが――は、自分の無能ぶりを棚にあげて、妻と子供に原因を転嫁する愚か者の言い訳にすぎないのだが、たとえ愚劣な言い訳でも暴力的実害を生むこと、そしてその言い訳が古臭い(ノスタルジックな)父権的イデオロギーに由来することを、キューブリックは、明晰に提示していたのである。
私は怖い映画は嫌いで、見たくない。なぜなら怖いから。
しかし今回、この映画を見なければいけないことになって、意を決して、ホラー映画に立ち向かうことになった。
良いニュースと悪いニュースがある。
良いニュース:この映画は怖くなかった。
悪いニュース:この映画は怖くなかった。
途中から、この映画は怖くないということがわかった。と同時に、それはまた長いだけの凡作だと、上映途中でわかってしまった。
まあキューブリック【本来ならクーブリックなのだろうが】は天才だとあらためて分かったが、スティーヴン・キングは偏差値が低い。むかしからキングの作品は長いだけで、子供じみた設定で、ひとりよがりのおとぎ話を作っているだけだと思っていて、ほんの一部しかその作品を読んでいない。マイク・フラナガン監督も、この映画をみるかぎり、キングのばかばかしい物語というか原作に足をひっぱられなければ、おそらくキューブリックの『シャイニング』に寄り添う傑作か名作をものにすることができたのではないかと思った――キング原作の映画を撮る監督というプレスティージに目がくらんだとしか思われない。
キューブリックの『シャイニング』は原作から逸脱している部分がある。しかし映画化においては、それはよくあることで、キューブリック版のほうが原作よりも怖い。これは、たとえば松本清帳原作の『砂の器』のように映画版のほうが原作をはるかにしのいでいるのと同じである。実際、その後、つくられるテレビドラマ版『砂の器』は、どれも映画版を踏襲するか、そのアダプテーションになっている。『シャイニング』も同じで、キングが映画版を嫌いなのは映画が原作を凌いでいるからだろう――原作の下手な映画化は原作者にとっては許し難いことだろうが、原作をしのぐ映画化は、もっと許し難いことだと想像はつく。
今回の『ドクター・スリープ』の映画化においては、最後のオヴァヴュー・ホテルでの展開においてキューブリック版のホテルを使うことになった。キングが嫌うのではないかと思うのだが、しかし、これはフラナガン監督の意向が強くはたらいたということでもないだろう。なにしろ映画で続編を作ろうとするのだったら、結局、キューブリックの映画に寄せるしかないだろうし、またキューブリックの映画はポップアイコン化しているのであって、これにはキング自身も、折れるしかないだろう。
ネット上にはダニー/ユアン・マクレガーの母親が、キューブリックの『シャイニング』に出ていた母親役の女性と顔は似ていないが話し方が同じで驚いたというようなコメントがあったが、何を偉そうに寝ぼけたことを言っているのかと思った。母親の顔だって、キューブリック版の『シャイニング』の女性(ジュリー・デュヴァルだったか)に似せている。実際、『ドクター・スリープ』でユアン・マクレガーがホテルのバーで話している相手は彼の父親で、その風貌や話し方はジャック・ニコルソンに似せている。キューブリック版の登場人物は、すべてそっくりさんで代用している――黒人のディックから双子の女の子にいたるまで(これが実は安っぽい印象をあたえるのだが)。母親だけではないのだ。
映画を見る前にパンフレットを購入した。映画を見た後だったら絶対に買わなかったと思う。ただ、こんな凡作なのに、パンフレットの装丁・内容・執筆者は、名作・傑作映画であるかのように豪華なのだが、そのなかに「『シャイニング』の影響下にある映画たち――引用、オマージュ、そしてリスペクトの数々」(執筆:尾崎一男)という記事があって、多くの実例をあげていて参考になった。そこでは当然のことながらスピルバーグの『レディ・プレーヤー1』におけるキューブリックの『シャイニング』の再現が触れられていた。ゲームのなかでプレーヤーが潜り抜けねばならない試練の一つが、『シャイニング』のオヴァヴュー・ホテルの内部なのだ。これには笑ってしまったが、スピルバーグのこのオマージュあるいはお遊びのあとで、この『ドクター・スリープ』がキューブリック版『シャイニング』のホテルを再現しても、テーマパークのアトラクションのようなものとしか感じられない。つまり怖くない。しかも、どんなに再現しても、ジャック・ニコルソンのそっくりさんがそうであったように、どこかちがう。同じホテルの内部でも、キューブリックの映画にみられる無気味さはどこにもなく、テーマパークのただのアトラクションと安物感、偽物感が拭い去れないのだ。
しかも映画『シャイニング』の「引用、オマージュ、そしてリスペクト」は数多くあることから、『ドクター・スリープ』も、そうした一連のオマージュ作品あるいはパロディ・パスティーシュ作品にすぎなくなり、ますます、その意義を希薄なものにしていく。その記事はキューブリックの映画の人気を物語るが、この映画にとってはマイナス効果しかない。
そしてとどめを刺すのがスティーヴン・キングのつまらない物語。それで2時間くらいとって、残り30分がオヴァヴューでの対決となる。レベッカ・ファーガソンの出演については、まったく知らなかったが、彼女が中心の一団は、ロマの人びとのようでもあり、また移動するヒッピーのようでもあり、ゾンビのようでも、ヴァンパイアの変種のようでもあるのだが、ヴァンパイアのように血を吸うのではなく、生気を吸うというのは、ドラッグ感があって、そこは面白い。だたし面白いのはそこまでで、この旅する異形の存在たちが、生気を得て超能力が増すというとき目が光るのだが、この目の光りがわざとらしいという感想を聞いた。まあ、そういう安っぽい、センスのない、C級ホラーがこの映画なのだ。
またレベッカ・ファーガソンは、空を飛んで、長距離を一瞬にして移動できる。しかし、この飛翔はメタファーであると思うのだが、映像では彼女は大気圏外まで飛んでいくのだが、ほんとうに飛んでいないとしたら、では、それは何のメタファーか。あるいは頭の中に棺桶を設けて、狂暴で危険な亡霊を、そのなかに閉じ込めるというのは、いったい何のメタファーなのだろう。これがわかるのは5歳くらいの子供であろう。キングのファンタジーは、幼い子どもたちが空想するおとぎ話のようなところもある、いや、それでしかない。
なお三大超能力と言うのは、「能力/能力者」の形式で示すと、テレパシー/テレパス、エンパシー/エンパス、プレコニション/プレコグであり、この三種はキング自身、いろいろな作品で使っている。しかし『ドクター・スリープ』の原作はどうなのか知らないのだが、映画ではプレコグニション(未来予知能力)は登場しない。おそらくそれは、映画『シャイニング』の世界がそうであったように、未来は過去へとループする。未来予知ではなく、ノスタルジアしかないからだろう。『ドクター・スリープ』の内容ではなく映画そのものがノスタルジーの産物でもある。
あと原作であれ映画であれ『シャイニング』と『ドクター・スリープ』との関係性について最後に触れるなら、鍵となるのは少女の存在である。『シャイニング』は少年の視点であった。頭がおかしくなりホテルの亡霊たちの世界にとりこまれていく父親ではなく、息子のダニーが、最終的にはこの映画の主人公だった。『ドクター・スリープ』では、30年後のダニーが登場し、タイトルからしても彼が主人公なのだが、真の主人公、この経験をとおして成長する人物、誰にも負けることのない強いキャラクターとしてアブラという名前の少女こそが、真の主人公であることがわかる。映画における二大遺伝子、暴力と少女。この『ドクター・スリープ』はこのふたつを継承しつつ、少女物として、『シャイニング』にはじまる、あるいは未完であった物語を完結させているのである。
付記
『シャイニング』の「引用、オマージュ、そしてリスペクトの数々」のひとつとして、記事では触れられていなかった作品をあげると、ひとつは『パッセンジャー』Passengers(2016)である(クリス・ブラット、ジェニファ・ローレンス)。これは同じキューブリックでも『2001年』に対するオマージュあるいは引用が主たるものなのだが(また全体は『タイタニック』のアダプテーションでもあるが)、誰もいない宇宙船内で主人公のクリス・プラットがバーカウンターで、ロボットのバーテンダーと会話するところ。あれは、誰がみても『シャイニング』の同じような場面を思い出さずにはいられない。
そしてもうひとつはフランス映画の『ジュリアン』(Jusqu'à la garde)で、ウィキペディアの紹介によれば
2017年のフランスのサスペンス映画。 グザヴィエ・ルグラン初の長編映画監督作品で、出演はトマ・ジオリアとドゥニ・メノーシェなど。 ドメスティックバイオレンスを題材とし、第86回アカデミー賞の短編映画賞にノミネートされた2013年の映画『すべてを失う前に』の長編バージョンである。本国フランスで40万人動員のロングランヒットを記録した。
ずいぶん前の映画かと思ったら、今年の1月に映画館でみていたらしい。それはともかく離婚した夫婦に夫にも親権が認められたが、これが司法当局の勝手な、そして誤った判断であり、父親は息子ジュリアンに定期的に会うことになるが、ジュリアンの母は別れた夫に絶対に会おうとしない。またこの夫のほうも暴力的で自分の実家でも親から嫌われている。また夫に問題があることを見抜けない裁判当局にも責任がある。とはいえフランスだけではない。子供を虐待している親元に、子供を返すような愚劣なことは日本の行政当局も行っていて、司法や行政の愚行に国境はないのだが、このDV夫も、別れた妻の住所をつきとめ、最後に銃をもって襲ってくる。簡単には入れないマンションに無理やり押し入り、元の妻の部屋をつきとめ、銃をもって入ってくる――まるで『シャイニング』のジャック・トランス/ジャック・ニコルソンに襲われて逃げまどう母と息子の場面と同じものがそこに展開する。母と少年はバスルームに身をひそめるのだが、この緊迫感は見ていて失禁するほどの迫力だった。
映画『ジュリアン』のラストのノーカットの10分か20分くらいの場面は、あきらかに『シャイリング』を彷彿とさせる恐怖のシークエンスなのだが、ポイントはキューブリック映画のオマージュではなく、『ジュリアン』が、こうした夫の暴力によって死亡する多くのフランス人女性を生む(フランスでは3分に一人の女性が夫のDVで殺されているというようなことが言われていた)司法・行政の無能ぶり、あるいは因習的な家族イデオロギーへの批判となっていることであり、そこからキューブリックの『シャイニング』もまた早い段階でDVの恐怖を描いていた社会派ドラマでもあったということがわかる(キューブリック映画の社会批判性は、そこにあるのだが、見ようとする人が少ない要素のひとつである)。妻と子供を養うことが作家の創作活動の妨げになるという理屈――『ドクター・スリープ』でもジャック・ニコルソンの、あまり似ていないそっくりさんが、この理屈を語っていたが――は、自分の無能ぶりを棚にあげて、妻と子供に原因を転嫁する愚か者の言い訳にすぎないのだが、たとえ愚劣な言い訳でも暴力的実害を生むこと、そしてその言い訳が古臭い(ノスタルジックな)父権的イデオロギーに由来することを、キューブリックは、明晰に提示していたのである。
posted by ohashi at 13:33| 映画
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2019年12月03日
『失くした体』
NETFLIX配信の映画を映画館で見ている人間です。ステマではありません。NETFLIX配信のアニメも映画館で見ています。ステマではありません。近くの映画館で上映中だったので。夜の回であまり人は入っていなかったものの、これは絶対に見るべき、ある意味、感動的な映画。
Wikipediaでの記述
ネット上の別の紹介記事(Movie Walker)
「私は体を失った」というと、このアニメの青年が事故で左手首を失ったというふうに思うのだが、そのとき、自分の手首を体とはいわずに、そのまま手首というだろう。ということは、この「私」とは、「手首」のほうであって、事故で切り離された手首が、もともとくっついていた身体のほうをなつかしむというか、もとにもどりたい、くっつきたい、会いたいという思いがこめられているのかと思った。
もちろん手首に意識があるわけはないのだが、手首が、くっついていた体を探す過程で、この手首の持ち主(?)だった人物が誰だったのか、どうしてこうなったのかが、フラッシュバックによる断片的映像によっても徐々に説明される。それはアニメの語りの部分であるとともに、その手首に意識が記憶があるかのようにみえる。そして過去の出来事を断片的に思い出しつつ、失くした身体のいる場所へと記憶をたどりながら進むのである。
切られた手首が、もとの体(それも生きているか死んでいるわからない、どちらかといえば死んでいるだろうと予想できる)に向かって旅をするという、グロい話の映画は、そんなに見たい映画ではないかもしれない。しかし、これがすごく面白い。手首の冒険が、単純に面白い。実際、もし切られたた手首が、もといたところにむかって移動するとしたらどうするのか、そのシミュレーションとしても興味はつきない。なるほど、そう出るのか、そう移動するのか、この手首に応援したくなる。なんというシュールな。
ただ、この手首が何であるのか、そのアレゴリーについては考えたくなる。もちろん、もし片手首が意志をもってパリの市街を人目につかずに動き回ったらどうなるのか、そもそも動き回ることができるのか、それをめぐる映像的表現と解決法をみることには、無償の喜びがある。またアニメとして、ディズニーアニメが、ディスに―アニメの精度と洗練度を高めようとしているのに対し、こちらは、フランスのコミックとも日本のコミックともいえるような世界に動きをつけた趣がある。漫画が動く。あるいはパラパラ漫画のような独特の味わいがある動画ともいえよう。洗練されているが、洗練された素朴さもあるということである。これを当然のこととして、ではこの切られた手首は何であったのかと、どうしても考えたくなる。
そもそもこの手首は口がきけない。そこで5本の指と手の本体と手首の動きをとおして、その意思なり感情なりを読み取らなければならない。ノンヴァーバル・コミュニケーションが生気する事例、それはまだ言葉を覚えていない赤ん坊や幼い子供とのコミュニケーションであり、また動物、ペットのコミュニケーションでもあるだろう。そう、この手首は、子供でもあり、動物・ペットでもある。そうなるとこの手首の冒険は、離れ離れになった親を求める子供の冒険旅(母をたずねて三千里の世界だ)、あるいは離れ離れになった飼い主を求めるペットの旅(少し前まで上映していた、あるいはまだ上映中か、飼い主と遠く離れてしまった犬がもといた家に戻るために繰り広げる冒険の旅路を描く『ベラのワンダフル・ホーム』A Dog's Way Home(2019)の世界である――この映画の原題をもじると、A Hand’s Way Home何の意味だから分からないからだめか。
しかし、映画では、この手首の持ち主が誰なのかわかってくる。それは孤児になった少年あるいは青年であるとわかる。実際のところ、フラッシュバックでこの少年の不幸な過去が断片的に明かされるとともに、彼の今への行程が、ピザ配達員から、木工職人へ弟子入りするまで、また弟子入りのきっかけになった司書の女性との恋が、描かれる。幸福な過去と交通事故によって両親を失ってからの苦難、そして. まさに手首を失うことになる第二の事故までが手首の冒険と交錯しながら描かれる。手首が、ようやく元の体を発見したとき、もちろんその少年は事故を生き延びていて片腕に包帯を巻いて生きている。眠っている少年に寄り添って、包帯を巻いた腕に、すりよって結合しようとする手首。もちろん、再結合はできないし、少年は寝返りをうって、手首が、もとの腕に触れることもない。
だが、せっかく戻って帰ってきたのに、もとの体と再結合できない手首は、それでも少年の生き方を見守っている。子供でもあり、ペットでもあるこの手首は、少年の両親でもある。そう物言えぬ子供とかペットとはちがって、子供と引き離されて死んでいく親は、たいてい子供にこう伝える――「いつでもそばにいる」「いつでも見守っている」「ずっと守ってあげる」と。
幸福な家族から一転して不幸な孤児となり、生きる力を失いかけていた少年/青年が、女性との出会いをとおして、またさらに悲惨な事故にあいながらも、それを乗り越えていく、苦い成長物語としても、やや地味ながら完結することもできたこの映画は、彼の生きざまを見守っている手首の存在によって格段に深みを増したように思う。
万人受けのことをいえば、私たちは誰もが愛しいものを失っている(親を、子供を、ペットを、愛する何かを)。しかし、失くしたものとの絆は決して消えることはない。それは大事にしていたお守りのように、たとえ失くしても、つねに元の持ち主を守っている。死んだ親は子供を常に見守っている。親よりも早く死んだ子供は親のことをずっと愛し気遣っている。たとえ死んでも、ペットは、つねに飼い主に寄り添っている。失ったものは常に帰ってくる。ほんとうの喪失はない。消えることのない、死者との絆が生きている私たちを支えているのである。
付記
1. ナウフェルNaoufel(フランス語読みしなければ、ナオウフェルかもしれないが)という片手を失くした主人公の名前だが、何系の名前なのだろうか。いまのところ調査不足で、どのような民族によるある名前なのかつかめていない。
2. 最後は、もし実際に目撃していないことを、音を通して推測して再現するちということになれば、ああいう終わり方になるしかないのだが、彼が成功したことのあかしとして、生きている姿を示すべきではないか。もしそうしなかったのが意図的ならば、彼は、ほんとうは失敗していたということを暗示したのかもしれないが、これは不明。
3. 唯一のミスというは、下から飛んでいる飛行機を見守るとき、その飛行機が背面飛行をしていないかぎり、赤いライトは右翼にみえる。青いライトが左翼にみえる。大型旅客機が背面飛行することはないので、このアニメで、下から見上げたときに、左翼に赤い光がみえるのは、あきらかに間違い・
飛行機の右翼・左翼は、進行方向にむかって、上から見下ろしたときに右側の翼が右翼、左側の翼が左翼。左翼には赤い光を、右翼には青い光をつける。当然、地上から見上げれば右と左の光の色は逆になる。
Wikipediaでの記述
『失くした体』(J'ai perdu mon corps)は、ジェレミー・クラパン(フランス語版)監督による2019年のフランスのアニメ映画である。第72回カンヌ国際映画祭の国際批評家週間でワールド・プレミアが行われ、アニメ映画としては同部門では史上初めてネスプレッソ大賞を獲得した。フランス、トルコ、ベネルクス、中国を除く世界各国で、2019年11月29日よりNetflixで配信予定である。
ネット上の別の紹介記事(Movie Walker)
『アメリ』の脚本を手掛けたギョーム・ローランの小説を、これまでおもに短編を発表してきたジェレミー・クラパン監督が映像化したNetflixオリジナルの長編アニメーション映画。医療研究施設で切断された手が逃げ出し、身体の持ち主を捜してパリの街をさまよう。第72回カンヌ国際映画祭で批評家週間大賞を受賞し、第43回アヌシー国際アニメーション映画祭ではグランプリと観客賞をW受賞した。スクリーンでフランス語のタイトルをみたとき、フランス語の知識など皆無の私でもわかったのは、「私は私の体を失った」というタイトルなら「私」とは誰だ。あるいはこのタイトルの一文の主語/主体は誰だと思った。Wikipedia英語版では、この作品はI Lost MY Bodyと訳されている。私の疑念は、フランス語のmon corpsには、たとえば身体の、小さな一部も含まれるのかということだが、私の力では解決できない。
「私は体を失った」というと、このアニメの青年が事故で左手首を失ったというふうに思うのだが、そのとき、自分の手首を体とはいわずに、そのまま手首というだろう。ということは、この「私」とは、「手首」のほうであって、事故で切り離された手首が、もともとくっついていた身体のほうをなつかしむというか、もとにもどりたい、くっつきたい、会いたいという思いがこめられているのかと思った。
もちろん手首に意識があるわけはないのだが、手首が、くっついていた体を探す過程で、この手首の持ち主(?)だった人物が誰だったのか、どうしてこうなったのかが、フラッシュバックによる断片的映像によっても徐々に説明される。それはアニメの語りの部分であるとともに、その手首に意識が記憶があるかのようにみえる。そして過去の出来事を断片的に思い出しつつ、失くした身体のいる場所へと記憶をたどりながら進むのである。
切られた手首が、もとの体(それも生きているか死んでいるわからない、どちらかといえば死んでいるだろうと予想できる)に向かって旅をするという、グロい話の映画は、そんなに見たい映画ではないかもしれない。しかし、これがすごく面白い。手首の冒険が、単純に面白い。実際、もし切られたた手首が、もといたところにむかって移動するとしたらどうするのか、そのシミュレーションとしても興味はつきない。なるほど、そう出るのか、そう移動するのか、この手首に応援したくなる。なんというシュールな。
ただ、この手首が何であるのか、そのアレゴリーについては考えたくなる。もちろん、もし片手首が意志をもってパリの市街を人目につかずに動き回ったらどうなるのか、そもそも動き回ることができるのか、それをめぐる映像的表現と解決法をみることには、無償の喜びがある。またアニメとして、ディズニーアニメが、ディスに―アニメの精度と洗練度を高めようとしているのに対し、こちらは、フランスのコミックとも日本のコミックともいえるような世界に動きをつけた趣がある。漫画が動く。あるいはパラパラ漫画のような独特の味わいがある動画ともいえよう。洗練されているが、洗練された素朴さもあるということである。これを当然のこととして、ではこの切られた手首は何であったのかと、どうしても考えたくなる。
そもそもこの手首は口がきけない。そこで5本の指と手の本体と手首の動きをとおして、その意思なり感情なりを読み取らなければならない。ノンヴァーバル・コミュニケーションが生気する事例、それはまだ言葉を覚えていない赤ん坊や幼い子供とのコミュニケーションであり、また動物、ペットのコミュニケーションでもあるだろう。そう、この手首は、子供でもあり、動物・ペットでもある。そうなるとこの手首の冒険は、離れ離れになった親を求める子供の冒険旅(母をたずねて三千里の世界だ)、あるいは離れ離れになった飼い主を求めるペットの旅(少し前まで上映していた、あるいはまだ上映中か、飼い主と遠く離れてしまった犬がもといた家に戻るために繰り広げる冒険の旅路を描く『ベラのワンダフル・ホーム』A Dog's Way Home(2019)の世界である――この映画の原題をもじると、A Hand’s Way Home何の意味だから分からないからだめか。
しかし、映画では、この手首の持ち主が誰なのかわかってくる。それは孤児になった少年あるいは青年であるとわかる。実際のところ、フラッシュバックでこの少年の不幸な過去が断片的に明かされるとともに、彼の今への行程が、ピザ配達員から、木工職人へ弟子入りするまで、また弟子入りのきっかけになった司書の女性との恋が、描かれる。幸福な過去と交通事故によって両親を失ってからの苦難、そして. まさに手首を失うことになる第二の事故までが手首の冒険と交錯しながら描かれる。手首が、ようやく元の体を発見したとき、もちろんその少年は事故を生き延びていて片腕に包帯を巻いて生きている。眠っている少年に寄り添って、包帯を巻いた腕に、すりよって結合しようとする手首。もちろん、再結合はできないし、少年は寝返りをうって、手首が、もとの腕に触れることもない。
だが、せっかく戻って帰ってきたのに、もとの体と再結合できない手首は、それでも少年の生き方を見守っている。子供でもあり、ペットでもあるこの手首は、少年の両親でもある。そう物言えぬ子供とかペットとはちがって、子供と引き離されて死んでいく親は、たいてい子供にこう伝える――「いつでもそばにいる」「いつでも見守っている」「ずっと守ってあげる」と。
幸福な家族から一転して不幸な孤児となり、生きる力を失いかけていた少年/青年が、女性との出会いをとおして、またさらに悲惨な事故にあいながらも、それを乗り越えていく、苦い成長物語としても、やや地味ながら完結することもできたこの映画は、彼の生きざまを見守っている手首の存在によって格段に深みを増したように思う。
万人受けのことをいえば、私たちは誰もが愛しいものを失っている(親を、子供を、ペットを、愛する何かを)。しかし、失くしたものとの絆は決して消えることはない。それは大事にしていたお守りのように、たとえ失くしても、つねに元の持ち主を守っている。死んだ親は子供を常に見守っている。親よりも早く死んだ子供は親のことをずっと愛し気遣っている。たとえ死んでも、ペットは、つねに飼い主に寄り添っている。失ったものは常に帰ってくる。ほんとうの喪失はない。消えることのない、死者との絆が生きている私たちを支えているのである。
付記
1. ナウフェルNaoufel(フランス語読みしなければ、ナオウフェルかもしれないが)という片手を失くした主人公の名前だが、何系の名前なのだろうか。いまのところ調査不足で、どのような民族によるある名前なのかつかめていない。
2. 最後は、もし実際に目撃していないことを、音を通して推測して再現するちということになれば、ああいう終わり方になるしかないのだが、彼が成功したことのあかしとして、生きている姿を示すべきではないか。もしそうしなかったのが意図的ならば、彼は、ほんとうは失敗していたということを暗示したのかもしれないが、これは不明。
3. 唯一のミスというは、下から飛んでいる飛行機を見守るとき、その飛行機が背面飛行をしていないかぎり、赤いライトは右翼にみえる。青いライトが左翼にみえる。大型旅客機が背面飛行することはないので、このアニメで、下から見上げたときに、左翼に赤い光がみえるのは、あきらかに間違い・
飛行機の右翼・左翼は、進行方向にむかって、上から見下ろしたときに右側の翼が右翼、左側の翼が左翼。左翼には赤い光を、右翼には青い光をつける。当然、地上から見上げれば右と左の光の色は逆になる。
posted by ohashi at 23:06| 映画
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2019年12月01日
『分かれ道』1
自分で翻訳(共訳)した本を推薦するのは気が引けるのだが、また大学の専任であった頃は、自分の本や翻訳を宣伝するのはなんとなく気が引けて避けてきたのだが、今回、苦労して翻訳したこともあり、10月に出版した翻訳の宣伝をしたい。
ジュディス・バトラー『分かれ道――ユダヤ性とシオニズム批判』大橋洋一・岸まどか訳(青土社2019)
Judith Butler, Parting Way: Jewishness and the Critique of Zionism (New York: Columbia University Press, 2012)
である。翻訳出版してみると、これまで翻訳されたジュディス・バトラーのどの本よりも厚い。これには翻訳している私自身が驚いたが、たしかにバトラーのこれまでの翻訳は、こんなに分厚くない。むしろ分量は少ないが鋭利な議論をしている本というのがバトラーの翻訳のイメージだったかもしれないが、それを今回の翻訳は覆した。
とはいえ分厚い本は高価というイメージがあるかもしれないが、これはどれほど強調しても強調し足りないのだが、翻訳書でほぼ500頁ある本が、なんと38000円(税別)である。こうしたある意味堅い専門的本(専門書ではなく一般読者むけだが)は1ページ1円というのが平均的な値段で、これ以上だと高い、これ以下だと安いという判定になる。
500頁の本なので定価5000円(税別)でもいいのだが、それが38000円(税別)というのは、かなり安いと思う。これだけでもお買い得である。
ちなみに原書は250頁。手に取った感じ、そんなに厚い本ではない。バトラーのこれまでの本のなかでも特に分量が多いとは思われなかったのだが、本文の活字というか文字のフォントが小さい。原注にいたっては拡大鏡がなければ読めないほど文字が小さい。したがって、原書だけを見て翻訳するのは印字の小ささからすると至難のわざだった。今回、初めてのことだが、私は全ページ拡大コピーをとって、それを見ながら翻訳した。ほんとうに字が小さかったので、それを翻訳して、通常の印字のサイズで印刷すると500ページになったということである。つづく、
ジュディス・バトラー『分かれ道――ユダヤ性とシオニズム批判』大橋洋一・岸まどか訳(青土社2019)
Judith Butler, Parting Way: Jewishness and the Critique of Zionism (New York: Columbia University Press, 2012)
である。翻訳出版してみると、これまで翻訳されたジュディス・バトラーのどの本よりも厚い。これには翻訳している私自身が驚いたが、たしかにバトラーのこれまでの翻訳は、こんなに分厚くない。むしろ分量は少ないが鋭利な議論をしている本というのがバトラーの翻訳のイメージだったかもしれないが、それを今回の翻訳は覆した。
とはいえ分厚い本は高価というイメージがあるかもしれないが、これはどれほど強調しても強調し足りないのだが、翻訳書でほぼ500頁ある本が、なんと38000円(税別)である。こうしたある意味堅い専門的本(専門書ではなく一般読者むけだが)は1ページ1円というのが平均的な値段で、これ以上だと高い、これ以下だと安いという判定になる。
500頁の本なので定価5000円(税別)でもいいのだが、それが38000円(税別)というのは、かなり安いと思う。これだけでもお買い得である。
ちなみに原書は250頁。手に取った感じ、そんなに厚い本ではない。バトラーのこれまでの本のなかでも特に分量が多いとは思われなかったのだが、本文の活字というか文字のフォントが小さい。原注にいたっては拡大鏡がなければ読めないほど文字が小さい。したがって、原書だけを見て翻訳するのは印字の小ささからすると至難のわざだった。今回、初めてのことだが、私は全ページ拡大コピーをとって、それを見ながら翻訳した。ほんとうに字が小さかったので、それを翻訳して、通常の印字のサイズで印刷すると500ページになったということである。つづく、
posted by ohashi at 07:16| 推薦図書
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