都心で上映中の映画だが、このところ時間的余裕がなく見る機会を逸していたのだが、ありがたいことに地元というか、正確にいえば地元ではないし、24区内なのだが、近くの映画館でも29日から公開されはじめたので、見ることができた。
ネットでの照会記事ではこうある。
監督森達也 映画「新聞記者」の原案者としても話題を集めた東京新聞社会部記者・望月衣塑子を追った社会派ドキュメンタリー。オウム真理教を題材にした「A」「A2」、佐村河内守を題材にした「FAKE」などを手がけた森達也監督が、新聞記者としての取材活動を展開する望月の姿を通して、日本の報道の問題点、日本の社会全体が抱えている同調圧力や忖度の実態に肉迫していく。2019年・第32回東京国際映画祭「日本映画スプラッシュ」部門に出品され、同部門の作品賞を受賞した。
たしかに映画『新聞記者』も面白かったが、こちらはそれを上回る面白さがある。もちろん腐敗した政権下の日本の実情に対する不満と紙一重の面白さが。
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映画『新聞記者』を見ると、もちろんフィクションなのだが、かりに外国人が、あるいは未来の日本人が、つまり日本の実情をよく知らない人間がみるとすれば、政権はこういうあくどい手をつかってメディアや国民の知る権利を抑圧したり、あるいはフェイクを垂れ流しにして国民を欺くことを平気でするだろうなと思うかもしれないし、あるいは、フィクションだから許されるので、実際にはそこまではしないだろうという感想をもつかもしれない。しかし彼らが驚くのは、この映画でフィクションとして描かれている内閣府の陰謀なり姑息な戦略なりは、すべて事実に基づいていることである。むしろドキュメンタリーの再現映像、それが『新聞記者』だった。このことに、驚くだろう。この驚きを失ってはいけない。事実はフィクションよりも悪質なのである。それが今の政権なのである。
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香港の状況をみていると、私などは警察と敵対するのではなく、警察を味方にすればいいのではと思ってしまう。香港の警察は、みんな本土、中国の出身者というかよそ者が香港当局というよりも中国当局のために香港市民を弾圧あるいは殺害しているのではないだろう。香港警察の実情を知らないが、香港出身の警察官は数多くいるだろうから、彼らの本来の目的である市民の安全を守るという使命に立ち返らせ、なにが正義かを彼ら警察官の良心に訴えれば、必ずや市民の側につく警察官も出てくるのではないか。警察官は、市民の味方である。決して敵ではないのではないか。あるいは警察官を目の敵にするのではなく、本来の姿に立ち返えるよう促してはどうか。フランス革命でも軍隊を味方につけたから成功したのではなかったか--ただし警察ではなく、軍隊はどこの国でもそうだが、市民の味方になってくれないことも重要なことであって、自衛隊は災害救助活動以外には市民を全員工作員とみて監視していることはいうまでもない。
私の素朴な感想は、しかし、この映画を見る限り、一理あるとはいえない。むしろ香港のデモ隊の警察敵視のほうが、はるかに正しいのではないかと思えてきている。たとえばこの映画のなかで、記者証のようなものがなければ官邸に入ることができないと、カメラを持っている森達也監督を警備の警察官が止めるのは、これはしかたがない。彼らは当然のことをしているのだから。また逆に、融通を効かせて、記者証のない人間を入れたりしたら、その警察官は非難されてしかるべきだろう。しかし、そこでなんとかならないかとごねる。これもまた、だめとわかっていても、ごねてみせるのは撮影側として当然のことだろう。すると警備の警察官はどうするか。身柄を拘束するのである。周りを取り囲んで、移動できなくさせる。その場から離れて帰ろうとしても、横断歩道を渡ろうとしても、囲んで移動させないようにする。くそ笑顔で、お待ちくださいといって。しかし、カメラをもって取材で入れないかとごねたとはいえ、大声を上げたり、恫喝したり、暴力をふるっているわけではない。それを警備や政府・政権にたてつく不届きものとして移動をできなくさせる。江戸時代じゃないのだ。これを脅迫や恫喝でなくて、なんというのだろうか。実際、彼らは笑顔で対応する。決して指一本触れることはない。そこでこちらが強く出て力づくで移動しようものなら公務執行妨害で逮捕である。こちらを犯罪者扱いする。おそらくマニュアルでもあるのだろう。そのマニュアルは不満のある市民を怖がらせ、いじめるということである。こうした警官を相手にしたら香港のデモ隊による敵視は、むしろ説得力のあるものにみえてくる。
『ガーンジー島の読書会の秘密』(The Guernsey Literary and Potato Peel Pie Society)は2018年に公開された英仏合作の映画だが、ガーンジー島(Bailiwick of Guernsey)は、イギリス海峡のチャンネル諸島に位置するイギリス王室属領だが、1940年7月から1945年5月9日まではナチス・ドイツによって占領された(植民地を除くと、ドイツ軍に占領された唯一の英国領土)なのだ。島は完全にドイツ軍の支配下に置かれたのだが、そのドイツ軍の手先としてイギリスの警察官が奉仕させられた。イギリスの制服警官(その制服は第二次世界大戦中も今も変わってないのだが)がドイツ軍の指示に従って、島民(英国市民)を取り締まるときの、強烈な違和感は、今も記憶に新しい。英国の警察官がナチス・ドイツの手先となって島民/市民と敵対するのである。もちろん第二次世界大戦中に起こった例外的な事例だろうが、しかし、警察官は権力の番犬として、英国政府だろうがナチスだろうか、それに尻尾をふるということを垣間見せてくれた貴重な事例でもある。
恥さらしに、国境はない。
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官邸警備の警察官に、ソフトな弾圧と脅迫を受けたからといって、こちらに原因がないのならひどい話だが、こちらにも原因があり、たとえ危険な存在ではなくとも、あやしい動きをしたから、拘束されたのは許されるのではないと思うかもしれないが、しかし政権政党の政治家の関係者だったら、彼らは拘束したのだろうか。池袋で死傷事故を起こした元院長は、ようやく書類送検されたとはいえ、それまで逮捕もされていない。証拠隠滅の可能性もなく本人も怪我をした高齢者だからという理由で逮捕されず、メディアの識者も逮捕されないケースのほうが多いなどとすっとぼけた理由で、警察の対応を擁護していたのだが、無罪を主張している人間について放置するということ、また容疑者ではなく、元院長とメディアでも呼び続けていることについては圧力がかかったか、エリート官僚を守るという忖度めいたものが働いたとしかいいようがない。
まあ現場の警察官なり捜査官は公正に捜査をしているのだろうが、腐敗した上層部から圧力がかかるという構図は、むやみに信ずるべきではない。池袋の事件についてはどうかわからないが、この映画を見るかぎり、現場の警備の警察官の対応も相当ひどい。
ただ上からの命令でしかたがないから逆に同情すべきだという考え方もあらためるべきだろう。桜を見る会をめぐる安倍首相の私物化、公選法違反の有権者への利益供与について連日報道されているが、推薦者名簿についての野党側からの質問に子供でもおかしいとわかるいいわけを繰り返す内閣府長官にはあきれるが、これも上からの命令だからしかたがない、こんなバカ馬鹿馬鹿しい答弁をするために官僚になったのではないはずで、長官に同情する意見もあった。しかしどんなに愚劣な答弁でもしらをきりつづけていれば、籠池問題における佐川宣寿財務省理財局長(当時)のように、しらを切り嘘をつき続けたことで、国税庁の長官に抜擢され、退職後の再就職先も約束されるというバラ色の老後が待っている。だから、テレビで、どんなに恥をかこうが、同情の余地などまったくない。彼らは糞である。
この映画でも内閣府広報室長が記者会見における記者からの質問に、質問は簡潔に、余計なことを話すなという注意をマイクで25秒おきくぐらいに繰り返す。完全に質問妨害である。もちろん長くて要点がわからない質問とか、質問しているのか自分の意見を言っているのかわからないような質問者は、いろいろな場にいる。会議室でも、あるいは教室にもいる。私自身、会議室で取り仕切るような経験はほとんどなかったが、教室では教員として学生からの質問を受けた経験は豊富にあるので、質問者に対してこちらから警告注意することはあるが、それでも質問がはじまってからすぐに警告注意したら、大問題で、学生だって黙っていない。これが悪質なのは質問を受ける側が質問をさえぎったら、そこで質問者とのバトルが生ずるかもしれないが、あくまでも司会者・進行役からの注意なので、また記者もあえてうるさいとは言わないので、進行役のもうやりたい放題であるということだ。この質問妨害は、ある程度、マニュアル化されているようで、政府関係でなくとも、けっこういろいろな記者会見で見聞きする光景でもある。
もちろんこの質問妨害が卑劣なのは、政府をよいしょするような提灯コメントなら止めないし妨害もしない。また真摯に質問に答えようとするのなら、官房長官も、室長に、質問がよく聞こえないから静かにするようにと逆に注意するはずだ。そんな心ある官房長官の姿を菅官房長官には1ミリも期待できないのだが。
この映画が貴重なのは、この質問妨害のなまなましい姿を、すでに報道されている映像から切り出して、あらためてみせてくれたことである。実際、この質問妨害が国会で話題になったとき、室長は、そんなつもりはございませんと、この映画のカメラのまえでにこやかに答えている。そして記者会見の場で、望月記者が、国会でも問題視された質問妨害を官房長官はどう思うのかと質問する時に、クソ室長からの質問妨害が入る。その質問妨害が問題になったというのに、それを質問妨害する。悪辣さも、バカバカしさも極まれりということだろうか。あきれて笑うしかない場面がある。これもすでに報道されている映像のなかにある。
もちろんこんな小物をいじめてもしょうがないかもしれないが、内閣府長官であれ広報室室長であれ、佐川国税局長であれ、ただ言われたままに政権を擁護するような恥さらしな行為をつづけても、バラ色の老後が待っているために同情の余地はない。いや、もし、おまえなら老後の安定した暮らしを棒にふってまで、正義を貫き通すかと問われるかもしれないが、問いかけがまちがっている。国民全員が官僚になるのではないし、国民全体が官邸警備につくわけではない。そうした恥さらしなことをしなければいけないようだとわかれば、それを最初から避ける。だから恥を恥とも思わないような恥知らずが、そうした任務なり職務につくのではあり、恥をさらしても我慢していれば、高い地位と裕福な暮らしが約束しされているという腐りきった根性の人間だけが、選ばれるのだし、それを選ぶ側も、恥さらしの道を通って、その地位にあるのだから、同類が同類を任命しているのである。
問題は、そうした権力の番犬以下のポチになる人間が、高い地位についき、たとえば再就職し、老後を約束され家族にも楽な暮らしをもたらして感謝されるとしても、天下った職場では、正義感も矜持もひとかけらもない人間として、部下からはひそかに軽蔑されるだろうし、また自分の周りには批判的な部下なり自律的な部下は排除し、恥知らずのイエスマンだけをはべらせて満足するしかないだろう。こうして天下り先の組織は骨抜きになる。そしてそれは、日本の国や社会全体の弱体化につながるだろう。もし私が日本を敵視して、その政治社会文化を破壊してやろうと思うなら、記者会見で質問妨害をするのような人間を、またそれを許容するような人間を工作員として送り込むだろう。
いやそれでもいい。高い地位と富と老後の安定と家族の安心が伴うなら、何を言われてもいいというかもしれない。恥さらしに知らぬ存ぜぬを貫き通し(たいへんな努力と根性である、私にはまねができない)、ほとぼりが冷めたら高い地位と再就職先を確保されるのであって、批判などへでもないと思うかもしれない。だが、それはもうひとつの可能性を忘れている。政権のポチとなって政権の不正に加担し続ければ、たとえば政権がかわれば、あっというまに周囲からの攻撃にさらされるだろう。正義感などなく、ただ利益になるからというあさましい理由でポチになっている人間だと、周囲にもわかっているから、ひとたび政権がかわれば、忠誠心などすぐになくし、転向しようとするだろうが、周囲も、そのあさまさしさを承知しているから、もう誰からも相手にされないだろう。それは第二次世界大戦後に……。
いや政権が変わらなくてもいい。不正に加担しているかぎり、それが大きく問題になった場合、結局、トカゲの尻尾切ではないが、ただ命じられたままにしたことに対して責任を取らされる。はっきりいって殺されるぞ。近畿財務局のエリートは、安倍の********て、国税局の長官になったが、もうひとり自殺した人間がいる。たとえ政権が殺し屋を雇わなくとも、自殺に追い込まれたら、それは殺人とかわりない。待っているのは老後の安泰だけではない。殺される破滅の道かもしれないのだ。
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籠池夫妻へのインタヴューは、この映画でもハイライトのひとつなのだが、なるほどその教育方針や教育方法には問題があったかもしれないが、いまや安倍政権の犠牲者でもあって、その存在自体が、歩く政権批判そのものとなっている。払下げなどが問題化したとき、最初はマスコミにバッシングされた。フェイク・ニュースを流されたし、問題が安倍政権を揺るがすとなると、今度は政権側からもバッシングされ、読売とか産経といった政権側のメディにフェイク・ニュースを流されたという。
その籠池氏は、もちろんいまもその信条を変えていない、つまり真正右翼だということだが、日本会議も安倍政権も、エセ右翼だという批判は、私は右翼には批判的だが、あたっていると思う。実際のところ、いまもかわらぬ籠池氏の信条を聞いて、インタヴュアーというか森監督は、それはリベラルの主張と同じではないですかと問うと、同じだという。まあ右翼が、よく使う切り札的な文句として「日本への愛はあるのか」という問いかけがあるが、愛を軸として考えれば、真正右翼もリベラルも基本的な考え方は同じになる。いっぽう安倍やそこに群がるエセ右翼こそ、日本をつぶしているのではないか。事実、右翼の側からの安倍政権批判は強い。もちろん街宣車は、つねに政権の批判をしていて、警察に移動を拘束されることはしょっつちゅうあるのだが、しかし街宣車の演説を聞くと、安倍を強く批判している右翼勢力もあることがわかる。
映画では元文部次官の前川喜平氏も登場し現在の活動が紹介され、また本人も文書問題で、官邸と癒着している読売新聞によるバッシングを受けたことなど語っていたのだが、政権に正論をぶつけて排除されることで、より強く政権批判へと傾いたし、その現在の発言は、誰がみても正統かつ正統的な意見として説得力がある。この前田氏もかかわり、その祖父前川喜平が創設した和敬塾(東京都文京区目白台にある男子大学生・大学院生向けの学生寮。1955年(昭和30年)、前川製作所の創業者である前川喜作によって創設されたとWikipediaにある)は、知る人ぞ知るエリート右翼塾で、村上春樹もそこの塾生でもあった。私自身、そうした右翼塾のありようには批判的だが、また前川氏と和敬塾との関係はわからないのだが、基本的には右派エリートといっていい前川氏をして、まっとうな政権批判を語らしめる安倍政権は結局どれだけ腐敗していのかといいたい。
実際、参議院選挙の街頭演説において安倍支持者に守られた演説のさなか、「安倍辞めろ」の怒号を響かせた反安倍勢力をカメラとマイクは捉えていたのだが、もちろんざっと見た印象だが、安倍辞めろを叫んでいた人々は、左翼・リベラルもいたと思うのだが、同時に、右翼もいたような気がする。まったく勝手な印象なので真実性には責任をとらないのだが、選挙演説での反対派だけでなく、安倍政権に批判的な右翼勢力も多いことが、なんとなくわかる。
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史上最低の安倍政権の罪は、官僚組織の私物化によって、優秀な人間を官僚組織から遠ざけていることである。
あんなポチ以下の質問妨害をさせられるくらいなら、国民の怒りと侮蔑にさらされながらも嘘の答弁、愚かな答弁を繰り返すしかなく、それで老後の安心を手に入れても、失うものはあまりにも大きい時、あるいは下手をするとトカゲの尻尾切で殺されかねないときに、誰が官僚になろうとするのだろうか。
以前公務員の給料が安くなるというニュースがでたときに東大生にインタヴューしていた、そのとき給料が安いなら公務員になる価値はないですねというようなことを話していたバカ東大生がいたが(ただしこういうインタヴューはそうだが、本当に東大生かどうかわからないし、その学生が公務員を目指しているかどうかもわからない)、そんな学生は最初から公務員になるな。また金のためではなく公務員をめざす優秀な東大生は多くいたのだが、彼が、クソみたいな首相のために、卑劣で愚劣な仕事をさせられているのかと思うとほんとに心が痛む。
また安倍政権のポチとならずに、矜持をもって、政権に諫言したら、首をきられた文部次官もいる。優秀で正しいことをする官僚を切り捨て、ポチだけをはべらせながら、自分でもトランプのポチにすぎない首相に仕えなければならいない彼らにいっぽうで同情を禁じ得ないが、もういっぽうでは、おまえたちが日本をダメにする工作者に他ならないと強く非難したい。
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映画『ヴェノム』は、ある新聞の映画評には、エンターテインメントに徹した面白さといったどうでもよいことが書いてあったが、しかし、よりにもよって新聞の映画評がエンターテインメント性しか指摘しないことに、うすら寒さをおぼえたことがある。
DCコミックの超人ヴェノムは、地球侵略に訪れた異星の怪物が、人間に憑依して人間を食べまくるという恐ろしい話なのだが、多くの地球人たちが乗っ取られ怪物化するなかで、ジャーナリストに乗り移った異世の怪物があった、これがヴェノムとなる。この異性の怪物は、同じ異星生物のなかでは変わり種で、仲間を裏切って地球人の側につこうとする。またそれは乗り移ったジャーナリストの性格にも影響されている。ヴェノムはついつい地球人を食べたくなるのだが、それはジャーナリストがコントロールする。と同時に地球人に害をなす仲間の異星怪物を、ジャーナリストには望めない超能力を発揮して退治するのである。
ここにはジャーナリストの本質をつく性格付けが見て取れる。そもそもジャーナリストには不偏不党であるべきで、いうなれば外国人いや異星人でもあるのだ。異星人であるからこそ、地球の現実を正視し、批判できる。彼らこそ、ある意味、異星からの救世主である。
ただし彼らは、同時に、怖い存在でもある。ならず者であり、悪党であり、外見とはべつに、その存在はヴェノム以上に怖い。しかし、そうでなければジャーナリストはつとまらない。お行儀よく、政権の垂れ流す嘘をありがたく拝聴しているだけではジャーナリストとしては失格で、不正をすればするほど、その反動で、自分こそ正義であると思い込むような官僚や政治家と対等に渡り合うためには、物わかりの良い人ではだめで、ヴェノムのように内なる野獣を秘めていなければ仕事はできないのである。
その意味でジャーナリストとは空気を読まない無礼者でありならず者であって、会見では相手を怒らせて本音を引き出すようにする度胸も必要であることが、今回の映画のなかだ望月記者の活動と記者会見を通してよくわかった。
国会内での志位 共産党書記長のインタヴューでは、とんちんかんな質問をしていたように思うのだが、実際、この部分は記者としての力がないのではという批判もネット上で書かれていたのだが(ネトウヨのコメントではなく)、たしかに質問内容が変だったのだが、しかし、天然なのか意図的なのかよくわからない。そもそも行きも帰りも国会内を会見室をみつけるまでに迷いに迷って遅れて到着し、帰りもまた道が分からなくなる方向音痴である望月記者だが、だからこそ、逆に、空気を読まず流れを断ち切り、そこから本質を引き出すことが可能だということがわかる。天然なのか意図的なのかわからない、空気の読めなさは、天然であろうと意図的であろうと関係なく、嘆かわしい日本のメディア(言論・表現の自由のなさでは先進国とは思えず、北朝鮮といい勝負なのだから)をみるにつけても、今後もさらに舌鋒を鋭くしてほしいと願うしかない。
映画の最後のほうは、前回の参院選挙における宿敵というか天敵というかモータル・エネミーの菅官房長官の自民党候補の応援選挙演説を無表情にじっとみつめる望月記者の姿が映しだされていた。ふたりが銀座の街頭でニアミスするところなどけっこうおもしろかったのだが、そのなかで二人が変身してバトルを繰り広げるとうアニメ映像が挿入されるのだが、あれは何を伝えたいのか無意味だとか、ただのお遊びだとか、余計な映像ではないかと批判も多い。たしかに突然のアニメには違和感MAXなのだが、ある意味、あれはヴェノムの戦いである。映画『ヴェノム』では地球征服をたくらむ、異星怪物と、地球人ジャーナリストにとりついたヴェノムとの闘いが最後のクライマックスとなるのだが、ふたつは見た目は同じである。どちらもヴェノム型のモンスターで、みていて怖い。壮絶な戦いは、映画では、ぱらぱら動画のようなアニメで貧相なのだが、アメリカのCG+実写のヴィランvsヒーローの戦いでもあり、さらにいえば、そこに異星からの使者であり、異星からの怪物が人間にとりついたというジャーナリストのアレゴリーがかいまみえる。ジャーナリストがたたかうのは、菅官房長官のような地球征服をたくらむ異星人がとりついたスーパーヴィランのような怪物なのだから(ちなみに『記憶にございません』でもスーパーヴィランンは草刈正雄演ずる官房長官だったが)。
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ポストモダンのドキュメンタリーは(とはいえ私はドキュメンタリー映画については何も知らないに等しいので好き勝手な感想ではあるのだが)、ロバート・ワイズマンの映画のように、編集の妙でみせるものもあるが、よくあるのが撮影者とか編集者が、透明な窓として観客と対象とをつなぐというか、両者の間に割り込まないようにするのではなく、むしら観客の前に、その姿をさらす、あるいは撮影者の立場なり考え方を明示することで、偽りの透明性を回避することに努めているように思われることだ。もはや映画は透明な窓ではなく、歪んだ色ガラスである。しかし、逆に透明な窓としての映画などないことを前提として、そこにいかに客観性や真実性を追究しようとすれば、歪んだ色ガラスを透明と偽ることではなく、認めることのなかに真実はある。
これは現象学でいう、偏見(先行了解)なくして現実は把握できないという考え方と同じだろうし、利害が真実の把握をゆがめる、あるいは利害があるがゆえに真実はありえないという考え方に対して利害こそが真実への契機だとする考え方とも通ずるだろう。この場合、利害の反対語は、中立性とか無利害、公正無私ではなくて、ぼーと生きているということである。
森達也監督のこのドキュメンタリーは、望月記者を除くと、監督自身も姿を見せていて、望月記者のみならず、監督を扱うドキュメンタリーともなっているのだが、むしろそこにポストモダン・ドキュメンタリーの真骨頂があって、映画製作者も撮影者も、対象と同じ空気を吸い同じ社会や時代に生きていることから、すべてが発想されるのである。もちろん先に偏見なくして真実の把握はないといったが、これは偏見を大事にするということではなく、偏見を自覚し抵抗することのなかに真実把握が生起するのであって、偏見とともにあったり、インサイダーでありつづけることのなかに真実はない。そしてインサイダーでありながらアウトサイダーであることをめざすことのなかに、真実があるとすれば、この映画では望月記者の官邸での闘争は、官邸に入れなくて警備の警官に移動を拘束される森監督によっても、別の手段で継承されているということはできる。この映画は、望月記者と森監督の並行する闘争の記録なのである。
こう考えると、最後のほうで、望月記者が、菅官房長官の推薦演説を遠くから、あるいは聴衆の一人として、じっと無言でみつめているのに対して、森監督がナレーションで、自分の立場はリベラルだけれども、意見が違う、イデオロギーが違うからといって相手を排除することはないし、むしろ、異なるイデオロギーを排斥し攻撃することのなかにきわめて危険な兆候が認められるというような警鐘を鳴らす(集団の暴力ではなく個としての冷静で透徹した眼差しと立ち位置を求めるのであって、それが映画のタイトルの「i」つまり小文字の一人称の意味するところだろうが――もちろん、このiには「目eye」もかけられているとしても)。
これは同じ姿勢の両面を意味しているのだろう。望月記者は、エイリアンあるいはエグザイルとしての立場で選挙の狂騒を冷徹な目でみつめている。いっぽう森監督は寛容を説く。正視と寛容。このふたつが、まさに対位法のように同じ旋律を異なる演奏法によって奏でているといえそうである。
ただし安倍首相の選挙演説のときに「安倍辞めろ」の怒号を記録した映像のすぐあとに監督のナレーションが入るために、警鐘を鳴らす相手が違うのではないか。これでは反安倍勢力を批判しているのでなはいか。真に批判されるべきは記者会見の回数を減らし、記者の質問妨害をし、さらには真実を語った人間を排除する安倍政権の排除的政策であり、史上最低の安倍政権による、批判を抑圧するための政権の暴走であって、なぜ反安倍勢力がまるでテロリストであるかのように冷静な寛容さを求められねばならないのか。安倍の手先ではないか、あるいはそこまででなくとも取り組みが弱いのではないかという批判はネット上にある。
ただし監督の真意はわからないが、ただ、いくら安倍政権が犯罪的な違法行為を繰り返しているとはいえ、それを批判する側も違法行為に走ったら批判が意味をなさなくなるということを警告したものだろう。殺人者を憎むあまり、その殺人者を殺せば、犯罪者になる。そのことを警告したのであろうか。現在、日本の社会全体が、制度や官僚や税金を私物化している不道徳な政権下で、道徳ファシズムの嵐が吹き荒れている(ネット社会に特有な現象ともいえるのだが)。反社会勢力の人間と知らずにつきあっただけで芸人が干されてしまう日本の社会にあって、政治家は「反社の皆様」とつきあってもお咎めもない。いびつで、不寛容な道徳ファシズムが広がっている。そうした社会全体の傾向に警鐘をならしたということもできる。批判は、けち臭い史上最低の安倍政権ではなく、日本の社会全体の暴走する危険な傾向に対する警鐘なのである。
あと、それはドキュメンタリー映画に対する、あるいは監督の立場に対するメタコメンタリーというべきものだろうか。どんなに批判を鋭くしても、相手を排除するような、排他的姿勢は避けるべきであり、それはまたポストモダン的ドキュメンタリー映画の理念でもあり実践であることの宣言でもある。決して反対勢力を、暴力の原因として非難するようなありがちの保守的姿勢ではないだろう(そうかもしれないのだが)。
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プラモデル好きの私は(とはいっても老後になっても作っている暇はないのだが)、今では絶版か品切れか店頭在庫のみになった、あるフィギュア・モデルを思いだす。それは1/35のミリタリーモデルで、戦車のモデルに組み合わせてジオラマを作るための兵士とか民間人だけをつくるためのフィギュア・モデルである。縮尺1/35の人間のモデルだからそんなに大きなものではない。胴体と手足などをくっつければあっという間に形になり、あとは継ぎ目を消して色を塗って兵士のフィギュアができあがる――フィギュアへの彩色はけっこう難しいのだが。それを、戦車のモデルに載せたり、そばに立たせたりする(戦車のモデルはついていないので、自分で戦車のモデルだけ購入し組み立てることになる)。情景は1944年フランスとある。大戦末期の光景である。
今は絶版だし、カタログをみただけで購入もしなかったのだが、そのプラモデルが作り出そうとする情景に私は唖然となった。アメリカ製の戦車にイギリス兵が載って運転している。そして、その戦車の上には複数のアメリカ兵が載っている。連合軍がナチスドイツからフランスを解放したときの情景である。戦車を出迎えるように、道端に民間人のフランス人女性が赤ん坊を抱えて立っている。アメリカ軍兵士の一人が戦車からおりて、にこやかな笑顔で、その女性に近づき、食べ物(パンかなにか)を差し出そうとしている。女性も差し出されたパンをありがたく受け取るようである。小さなフィギュアである。しかし造型はしっかりしていて兵士たちや女性の表情までも緻密に彫刻されている。そして私は驚いた。またこれは造れないと思った。なぜなら、その女性の頭部には髪がない。赤ん坊をかかえたその女性のフィギュアの頭部は、丸刈りというか坊主頭なのである。
もう入手できないのだが、商品の情報を記しておく。
商品タイトル The 101st light company. US paratroopers $ British Tankman, France, 1944.
日本語商品タイトル 英戦車兵+米降下兵7体+子供を抱いた女性・フランス1944
メーカー : マスターボックスMaster Box スケール : 1/35
発売 2016年 商品コード : MB35164
ああ、これは映画『マレーナ』『(Malèna 2000年公開 監督ジュゼッペ・トルナトーレ)。の世界だと思った。先に韓国映画『アシュラ』について語った時、美形の俳優は汚れ役をしたがるものだと書いたが、その時念頭にあったのが、この『マレーナ』のモニカ・ベルッチの役どころであった。大戦中、夫を亡くしてから、ドイツ軍の将校の愛人となったモニカ・ベルッチは、大戦が終わると、それまでドイツ軍にひどい目にあってきた町の市民の女性たちから、リンチされる。着ているものを剥ぎ取られ、すっぱだかにさせられ、頭を坊主頭にさせられる。一般市民のそのすさまじい憎しみの発露は映画のなかでも強烈な印象を残した。
プラモデルといい戦後のリンチの話といい、いった何の話をしているのかと思われるかもしれないが、映画『マレーナ』でも描かれ、あろうことかプラモデルのジオラマの題材ともなった丸坊主の女性(ドイツ軍に協力したかどで戦後リンチされた女性)は、映画『i新聞記者』の最後でも不寛容が生み出した悲劇を語る史実として丸坊主の女性の写真とともに紹介されるのだ。
もし私が第二次大戦の終結に居合わせたとしたら、ドイツ軍将校の愛人となって甘い汁を吸った女性たちを、抑圧された一般市民の女性たちがとりおさえて丸坊主にしていたら、私自身、そのような暴力行為に加担はしないが、ただ、見て見ぬふりをしたかもしれない。なぜならナチスの占領下にある民間人への暴力は残虐きわまりないものであり、大虐殺はおこり、犠牲になった市民は数知れない。そんなときドイツ軍に協力して安穏と生きていた女性たちは非国民、売国奴として私も許せなかったかもしれない、心情的に、丸坊主にされて当然と思うかもしれない。
なぜ『ガーンジー島の読書会の秘密』に触れたのかも語っておかねばならない。ドイツ軍に占領されたガーンジー島では、ドイツ軍将校と島民の女性との間に愛が芽生えてもおかしくない。読書会の創設者でもあった一人の女性は、ドイツ軍人のなかでも友好的で島民のためを思い英国文化にも敬意をはらっている軍医と恋におちる。やがてその軍医の子供を宿すことになる。最終的に彼女はドイツ本土に連行され、その収容所で死ぬことになるのだが、島民たちは、戦後になっても、この女性のことを裏切り者の尻軽女・売春婦として、蛇蝎の如く嫌っている。だが詳しい事情を知れば、その女性が卑劣な裏切り者でもなく、聡明な女性であり、打算抜きでドイツ軍の軍医と恋に落ちたのであり、また不幸な偶然がかさなり、ドイツ軍連行され、島民からも誤解されていることことがわかる。
『i新聞記者』では、ドイツ軍に協力した女性たちは、正当な裁判にかけられもせず、ただ殺されたケースも実に多かったことを伝え、集団的な不寛容の狂気の恐ろしさを印象付けている。だが、なぜ戦後の坊主頭の女性たち、ある意味、痛ましい悲惨な目にあった女性たちの史実が、なぜここに、映画の最後に登場するのか、違和感は残る。
ただ、そこからポジティヴなメッセージも受け取ることができる。ナチスのような、あるいはナチスとは違ってソフトな、ファシズム政権である安倍政権の占領支配も、もうすぐに終わる。そのときに積年の恨みをはらすべく、安倍に忖度し、安倍に尻尾をふってきた人間たち、官僚たちを、リンチしたい気持ちになるかもしれないが、彼らにも事情があったのかもしれず、無差別なリンチは慎むべできあるという、安倍以後の世界の混乱を危惧してのメッセージである。史上最長の安倍政権も、もうすぐ確実に悲惨な恥知らずな終わり方をするだろう。それがこの映画の隠れたメッセージであると思う。