2019年11月30日

『i新聞記者』

『i 新聞記者ドキュメント』

都心で上映中の映画だが、このところ時間的余裕がなく見る機会を逸していたのだが、ありがたいことに地元というか、正確にいえば地元ではないし、24区内なのだが、近くの映画館でも29日から公開されはじめたので、見ることができた。

ネットでの照会記事ではこうある。

監督森達也 映画「新聞記者」の原案者としても話題を集めた東京新聞社会部記者・望月衣塑子を追った社会派ドキュメンタリー。オウム真理教を題材にした「A」「A2」、佐村河内守を題材にした「FAKE」などを手がけた森達也監督が、新聞記者としての取材活動を展開する望月の姿を通して、日本の報道の問題点、日本の社会全体が抱えている同調圧力や忖度の実態に肉迫していく。2019年・第32回東京国際映画祭「日本映画スプラッシュ」部門に出品され、同部門の作品賞を受賞した。

たしかに映画『新聞記者』も面白かったが、こちらはそれを上回る面白さがある。もちろん腐敗した政権下の日本の実情に対する不満と紙一重の面白さが。


映画『新聞記者』を見ると、もちろんフィクションなのだが、かりに外国人が、あるいは未来の日本人が、つまり日本の実情をよく知らない人間がみるとすれば、政権はこういうあくどい手をつかってメディアや国民の知る権利を抑圧したり、あるいはフェイクを垂れ流しにして国民を欺くことを平気でするだろうなと思うかもしれないし、あるいは、フィクションだから許されるので、実際にはそこまではしないだろうという感想をもつかもしれない。しかし彼らが驚くのは、この映画でフィクションとして描かれている内閣府の陰謀なり姑息な戦略なりは、すべて事実に基づいていることである。むしろドキュメンタリーの再現映像、それが『新聞記者』だった。このことに、驚くだろう。この驚きを失ってはいけない。事実はフィクションよりも悪質なのである。それが今の政権なのである。


香港の状況をみていると、私などは警察と敵対するのではなく、警察を味方にすればいいのではと思ってしまう。香港の警察は、みんな本土、中国の出身者というかよそ者が香港当局というよりも中国当局のために香港市民を弾圧あるいは殺害しているのではないだろう。香港警察の実情を知らないが、香港出身の警察官は数多くいるだろうから、彼らの本来の目的である市民の安全を守るという使命に立ち返らせ、なにが正義かを彼ら警察官の良心に訴えれば、必ずや市民の側につく警察官も出てくるのではないか。警察官は、市民の味方である。決して敵ではないのではないか。あるいは警察官を目の敵にするのではなく、本来の姿に立ち返えるよう促してはどうか。フランス革命でも軍隊を味方につけたから成功したのではなかったか--ただし警察ではなく、軍隊はどこの国でもそうだが、市民の味方になってくれないことも重要なことであって、自衛隊は災害救助活動以外には市民を全員工作員とみて監視していることはいうまでもない。

私の素朴な感想は、しかし、この映画を見る限り、一理あるとはいえない。むしろ香港のデモ隊の警察敵視のほうが、はるかに正しいのではないかと思えてきている。たとえばこの映画のなかで、記者証のようなものがなければ官邸に入ることができないと、カメラを持っている森達也監督を警備の警察官が止めるのは、これはしかたがない。彼らは当然のことをしているのだから。また逆に、融通を効かせて、記者証のない人間を入れたりしたら、その警察官は非難されてしかるべきだろう。しかし、そこでなんとかならないかとごねる。これもまた、だめとわかっていても、ごねてみせるのは撮影側として当然のことだろう。すると警備の警察官はどうするか。身柄を拘束するのである。周りを取り囲んで、移動できなくさせる。その場から離れて帰ろうとしても、横断歩道を渡ろうとしても、囲んで移動させないようにする。くそ笑顔で、お待ちくださいといって。しかし、カメラをもって取材で入れないかとごねたとはいえ、大声を上げたり、恫喝したり、暴力をふるっているわけではない。それを警備や政府・政権にたてつく不届きものとして移動をできなくさせる。江戸時代じゃないのだ。これを脅迫や恫喝でなくて、なんというのだろうか。実際、彼らは笑顔で対応する。決して指一本触れることはない。そこでこちらが強く出て力づくで移動しようものなら公務執行妨害で逮捕である。こちらを犯罪者扱いする。おそらくマニュアルでもあるのだろう。そのマニュアルは不満のある市民を怖がらせ、いじめるということである。こうした警官を相手にしたら香港のデモ隊による敵視は、むしろ説得力のあるものにみえてくる。

『ガーンジー島の読書会の秘密』(The Guernsey Literary and Potato Peel Pie Society)は2018年に公開された英仏合作の映画だが、ガーンジー島(Bailiwick of Guernsey)は、イギリス海峡のチャンネル諸島に位置するイギリス王室属領だが、1940年7月から1945年5月9日まではナチス・ドイツによって占領された(植民地を除くと、ドイツ軍に占領された唯一の英国領土)なのだ。島は完全にドイツ軍の支配下に置かれたのだが、そのドイツ軍の手先としてイギリスの警察官が奉仕させられた。イギリスの制服警官(その制服は第二次世界大戦中も今も変わってないのだが)がドイツ軍の指示に従って、島民(英国市民)を取り締まるときの、強烈な違和感は、今も記憶に新しい。英国の警察官がナチス・ドイツの手先となって島民/市民と敵対するのである。もちろん第二次世界大戦中に起こった例外的な事例だろうが、しかし、警察官は権力の番犬として、英国政府だろうがナチスだろうか、それに尻尾をふるということを垣間見せてくれた貴重な事例でもある。

恥さらしに、国境はない。


官邸警備の警察官に、ソフトな弾圧と脅迫を受けたからといって、こちらに原因がないのならひどい話だが、こちらにも原因があり、たとえ危険な存在ではなくとも、あやしい動きをしたから、拘束されたのは許されるのではないと思うかもしれないが、しかし政権政党の政治家の関係者だったら、彼らは拘束したのだろうか。池袋で死傷事故を起こした元院長は、ようやく書類送検されたとはいえ、それまで逮捕もされていない。証拠隠滅の可能性もなく本人も怪我をした高齢者だからという理由で逮捕されず、メディアの識者も逮捕されないケースのほうが多いなどとすっとぼけた理由で、警察の対応を擁護していたのだが、無罪を主張している人間について放置するということ、また容疑者ではなく、元院長とメディアでも呼び続けていることについては圧力がかかったか、エリート官僚を守るという忖度めいたものが働いたとしかいいようがない。

まあ現場の警察官なり捜査官は公正に捜査をしているのだろうが、腐敗した上層部から圧力がかかるという構図は、むやみに信ずるべきではない。池袋の事件についてはどうかわからないが、この映画を見るかぎり、現場の警備の警察官の対応も相当ひどい。

ただ上からの命令でしかたがないから逆に同情すべきだという考え方もあらためるべきだろう。桜を見る会をめぐる安倍首相の私物化、公選法違反の有権者への利益供与について連日報道されているが、推薦者名簿についての野党側からの質問に子供でもおかしいとわかるいいわけを繰り返す内閣府長官にはあきれるが、これも上からの命令だからしかたがない、こんなバカ馬鹿馬鹿しい答弁をするために官僚になったのではないはずで、長官に同情する意見もあった。しかしどんなに愚劣な答弁でもしらをきりつづけていれば、籠池問題における佐川宣寿財務省理財局長(当時)のように、しらを切り嘘をつき続けたことで、国税庁の長官に抜擢され、退職後の再就職先も約束されるというバラ色の老後が待っている。だから、テレビで、どんなに恥をかこうが、同情の余地などまったくない。彼らは糞である。

この映画でも内閣府広報室長が記者会見における記者からの質問に、質問は簡潔に、余計なことを話すなという注意をマイクで25秒おきくぐらいに繰り返す。完全に質問妨害である。もちろん長くて要点がわからない質問とか、質問しているのか自分の意見を言っているのかわからないような質問者は、いろいろな場にいる。会議室でも、あるいは教室にもいる。私自身、会議室で取り仕切るような経験はほとんどなかったが、教室では教員として学生からの質問を受けた経験は豊富にあるので、質問者に対してこちらから警告注意することはあるが、それでも質問がはじまってからすぐに警告注意したら、大問題で、学生だって黙っていない。これが悪質なのは質問を受ける側が質問をさえぎったら、そこで質問者とのバトルが生ずるかもしれないが、あくまでも司会者・進行役からの注意なので、また記者もあえてうるさいとは言わないので、進行役のもうやりたい放題であるということだ。この質問妨害は、ある程度、マニュアル化されているようで、政府関係でなくとも、けっこういろいろな記者会見で見聞きする光景でもある。

もちろんこの質問妨害が卑劣なのは、政府をよいしょするような提灯コメントなら止めないし妨害もしない。また真摯に質問に答えようとするのなら、官房長官も、室長に、質問がよく聞こえないから静かにするようにと逆に注意するはずだ。そんな心ある官房長官の姿を菅官房長官には1ミリも期待できないのだが。

この映画が貴重なのは、この質問妨害のなまなましい姿を、すでに報道されている映像から切り出して、あらためてみせてくれたことである。実際、この質問妨害が国会で話題になったとき、室長は、そんなつもりはございませんと、この映画のカメラのまえでにこやかに答えている。そして記者会見の場で、望月記者が、国会でも問題視された質問妨害を官房長官はどう思うのかと質問する時に、クソ室長からの質問妨害が入る。その質問妨害が問題になったというのに、それを質問妨害する。悪辣さも、バカバカしさも極まれりということだろうか。あきれて笑うしかない場面がある。これもすでに報道されている映像のなかにある。

もちろんこんな小物をいじめてもしょうがないかもしれないが、内閣府長官であれ広報室室長であれ、佐川国税局長であれ、ただ言われたままに政権を擁護するような恥さらしな行為をつづけても、バラ色の老後が待っているために同情の余地はない。いや、もし、おまえなら老後の安定した暮らしを棒にふってまで、正義を貫き通すかと問われるかもしれないが、問いかけがまちがっている。国民全員が官僚になるのではないし、国民全体が官邸警備につくわけではない。そうした恥さらしなことをしなければいけないようだとわかれば、それを最初から避ける。だから恥を恥とも思わないような恥知らずが、そうした任務なり職務につくのではあり、恥をさらしても我慢していれば、高い地位と裕福な暮らしが約束しされているという腐りきった根性の人間だけが、選ばれるのだし、それを選ぶ側も、恥さらしの道を通って、その地位にあるのだから、同類が同類を任命しているのである。

問題は、そうした権力の番犬以下のポチになる人間が、高い地位についき、たとえば再就職し、老後を約束され家族にも楽な暮らしをもたらして感謝されるとしても、天下った職場では、正義感も矜持もひとかけらもない人間として、部下からはひそかに軽蔑されるだろうし、また自分の周りには批判的な部下なり自律的な部下は排除し、恥知らずのイエスマンだけをはべらせて満足するしかないだろう。こうして天下り先の組織は骨抜きになる。そしてそれは、日本の国や社会全体の弱体化につながるだろう。もし私が日本を敵視して、その政治社会文化を破壊してやろうと思うなら、記者会見で質問妨害をするのような人間を、またそれを許容するような人間を工作員として送り込むだろう。

いやそれでもいい。高い地位と富と老後の安定と家族の安心が伴うなら、何を言われてもいいというかもしれない。恥さらしに知らぬ存ぜぬを貫き通し(たいへんな努力と根性である、私にはまねができない)、ほとぼりが冷めたら高い地位と再就職先を確保されるのであって、批判などへでもないと思うかもしれない。だが、それはもうひとつの可能性を忘れている。政権のポチとなって政権の不正に加担し続ければ、たとえば政権がかわれば、あっというまに周囲からの攻撃にさらされるだろう。正義感などなく、ただ利益になるからというあさましい理由でポチになっている人間だと、周囲にもわかっているから、ひとたび政権がかわれば、忠誠心などすぐになくし、転向しようとするだろうが、周囲も、そのあさまさしさを承知しているから、もう誰からも相手にされないだろう。それは第二次世界大戦後に……。

いや政権が変わらなくてもいい。不正に加担しているかぎり、それが大きく問題になった場合、結局、トカゲの尻尾切ではないが、ただ命じられたままにしたことに対して責任を取らされる。はっきりいって殺されるぞ。近畿財務局のエリートは、安倍の********て、国税局の長官になったが、もうひとり自殺した人間がいる。たとえ政権が殺し屋を雇わなくとも、自殺に追い込まれたら、それは殺人とかわりない。待っているのは老後の安泰だけではない。殺される破滅の道かもしれないのだ。


籠池夫妻へのインタヴューは、この映画でもハイライトのひとつなのだが、なるほどその教育方針や教育方法には問題があったかもしれないが、いまや安倍政権の犠牲者でもあって、その存在自体が、歩く政権批判そのものとなっている。払下げなどが問題化したとき、最初はマスコミにバッシングされた。フェイク・ニュースを流されたし、問題が安倍政権を揺るがすとなると、今度は政権側からもバッシングされ、読売とか産経といった政権側のメディにフェイク・ニュースを流されたという。

その籠池氏は、もちろんいまもその信条を変えていない、つまり真正右翼だということだが、日本会議も安倍政権も、エセ右翼だという批判は、私は右翼には批判的だが、あたっていると思う。実際のところ、いまもかわらぬ籠池氏の信条を聞いて、インタヴュアーというか森監督は、それはリベラルの主張と同じではないですかと問うと、同じだという。まあ右翼が、よく使う切り札的な文句として「日本への愛はあるのか」という問いかけがあるが、愛を軸として考えれば、真正右翼もリベラルも基本的な考え方は同じになる。いっぽう安倍やそこに群がるエセ右翼こそ、日本をつぶしているのではないか。事実、右翼の側からの安倍政権批判は強い。もちろん街宣車は、つねに政権の批判をしていて、警察に移動を拘束されることはしょっつちゅうあるのだが、しかし街宣車の演説を聞くと、安倍を強く批判している右翼勢力もあることがわかる。

映画では元文部次官の前川喜平氏も登場し現在の活動が紹介され、また本人も文書問題で、官邸と癒着している読売新聞によるバッシングを受けたことなど語っていたのだが、政権に正論をぶつけて排除されることで、より強く政権批判へと傾いたし、その現在の発言は、誰がみても正統かつ正統的な意見として説得力がある。この前田氏もかかわり、その祖父前川喜平が創設した和敬塾(東京都文京区目白台にある男子大学生・大学院生向けの学生寮。1955年(昭和30年)、前川製作所の創業者である前川喜作によって創設されたとWikipediaにある)は、知る人ぞ知るエリート右翼塾で、村上春樹もそこの塾生でもあった。私自身、そうした右翼塾のありようには批判的だが、また前川氏と和敬塾との関係はわからないのだが、基本的には右派エリートといっていい前川氏をして、まっとうな政権批判を語らしめる安倍政権は結局どれだけ腐敗していのかといいたい。

実際、参議院選挙の街頭演説において安倍支持者に守られた演説のさなか、「安倍辞めろ」の怒号を響かせた反安倍勢力をカメラとマイクは捉えていたのだが、もちろんざっと見た印象だが、安倍辞めろを叫んでいた人々は、左翼・リベラルもいたと思うのだが、同時に、右翼もいたような気がする。まったく勝手な印象なので真実性には責任をとらないのだが、選挙演説での反対派だけでなく、安倍政権に批判的な右翼勢力も多いことが、なんとなくわかる。


史上最低の安倍政権の罪は、官僚組織の私物化によって、優秀な人間を官僚組織から遠ざけていることである。

あんなポチ以下の質問妨害をさせられるくらいなら、国民の怒りと侮蔑にさらされながらも嘘の答弁、愚かな答弁を繰り返すしかなく、それで老後の安心を手に入れても、失うものはあまりにも大きい時、あるいは下手をするとトカゲの尻尾切で殺されかねないときに、誰が官僚になろうとするのだろうか。

以前公務員の給料が安くなるというニュースがでたときに東大生にインタヴューしていた、そのとき給料が安いなら公務員になる価値はないですねというようなことを話していたバカ東大生がいたが(ただしこういうインタヴューはそうだが、本当に東大生かどうかわからないし、その学生が公務員を目指しているかどうかもわからない)、そんな学生は最初から公務員になるな。また金のためではなく公務員をめざす優秀な東大生は多くいたのだが、彼が、クソみたいな首相のために、卑劣で愚劣な仕事をさせられているのかと思うとほんとに心が痛む。

また安倍政権のポチとならずに、矜持をもって、政権に諫言したら、首をきられた文部次官もいる。優秀で正しいことをする官僚を切り捨て、ポチだけをはべらせながら、自分でもトランプのポチにすぎない首相に仕えなければならいない彼らにいっぽうで同情を禁じ得ないが、もういっぽうでは、おまえたちが日本をダメにする工作者に他ならないと強く非難したい。


映画『ヴェノム』は、ある新聞の映画評には、エンターテインメントに徹した面白さといったどうでもよいことが書いてあったが、しかし、よりにもよって新聞の映画評がエンターテインメント性しか指摘しないことに、うすら寒さをおぼえたことがある。

DCコミックの超人ヴェノムは、地球侵略に訪れた異星の怪物が、人間に憑依して人間を食べまくるという恐ろしい話なのだが、多くの地球人たちが乗っ取られ怪物化するなかで、ジャーナリストに乗り移った異世の怪物があった、これがヴェノムとなる。この異性の怪物は、同じ異星生物のなかでは変わり種で、仲間を裏切って地球人の側につこうとする。またそれは乗り移ったジャーナリストの性格にも影響されている。ヴェノムはついつい地球人を食べたくなるのだが、それはジャーナリストがコントロールする。と同時に地球人に害をなす仲間の異星怪物を、ジャーナリストには望めない超能力を発揮して退治するのである。

ここにはジャーナリストの本質をつく性格付けが見て取れる。そもそもジャーナリストには不偏不党であるべきで、いうなれば外国人いや異星人でもあるのだ。異星人であるからこそ、地球の現実を正視し、批判できる。彼らこそ、ある意味、異星からの救世主である。

ただし彼らは、同時に、怖い存在でもある。ならず者であり、悪党であり、外見とはべつに、その存在はヴェノム以上に怖い。しかし、そうでなければジャーナリストはつとまらない。お行儀よく、政権の垂れ流す嘘をありがたく拝聴しているだけではジャーナリストとしては失格で、不正をすればするほど、その反動で、自分こそ正義であると思い込むような官僚や政治家と対等に渡り合うためには、物わかりの良い人ではだめで、ヴェノムのように内なる野獣を秘めていなければ仕事はできないのである。

その意味でジャーナリストとは空気を読まない無礼者でありならず者であって、会見では相手を怒らせて本音を引き出すようにする度胸も必要であることが、今回の映画のなかだ望月記者の活動と記者会見を通してよくわかった。

国会内での志位 共産党書記長のインタヴューでは、とんちんかんな質問をしていたように思うのだが、実際、この部分は記者としての力がないのではという批判もネット上で書かれていたのだが(ネトウヨのコメントではなく)、たしかに質問内容が変だったのだが、しかし、天然なのか意図的なのかよくわからない。そもそも行きも帰りも国会内を会見室をみつけるまでに迷いに迷って遅れて到着し、帰りもまた道が分からなくなる方向音痴である望月記者だが、だからこそ、逆に、空気を読まず流れを断ち切り、そこから本質を引き出すことが可能だということがわかる。天然なのか意図的なのかわからない、空気の読めなさは、天然であろうと意図的であろうと関係なく、嘆かわしい日本のメディア(言論・表現の自由のなさでは先進国とは思えず、北朝鮮といい勝負なのだから)をみるにつけても、今後もさらに舌鋒を鋭くしてほしいと願うしかない。

映画の最後のほうは、前回の参院選挙における宿敵というか天敵というかモータル・エネミーの菅官房長官の自民党候補の応援選挙演説を無表情にじっとみつめる望月記者の姿が映しだされていた。ふたりが銀座の街頭でニアミスするところなどけっこうおもしろかったのだが、そのなかで二人が変身してバトルを繰り広げるとうアニメ映像が挿入されるのだが、あれは何を伝えたいのか無意味だとか、ただのお遊びだとか、余計な映像ではないかと批判も多い。たしかに突然のアニメには違和感MAXなのだが、ある意味、あれはヴェノムの戦いである。映画『ヴェノム』では地球征服をたくらむ、異星怪物と、地球人ジャーナリストにとりついたヴェノムとの闘いが最後のクライマックスとなるのだが、ふたつは見た目は同じである。どちらもヴェノム型のモンスターで、みていて怖い。壮絶な戦いは、映画では、ぱらぱら動画のようなアニメで貧相なのだが、アメリカのCG+実写のヴィランvsヒーローの戦いでもあり、さらにいえば、そこに異星からの使者であり、異星からの怪物が人間にとりついたというジャーナリストのアレゴリーがかいまみえる。ジャーナリストがたたかうのは、菅官房長官のような地球征服をたくらむ異星人がとりついたスーパーヴィランのような怪物なのだから(ちなみに『記憶にございません』でもスーパーヴィランンは草刈正雄演ずる官房長官だったが)。


ポストモダンのドキュメンタリーは(とはいえ私はドキュメンタリー映画については何も知らないに等しいので好き勝手な感想ではあるのだが)、ロバート・ワイズマンの映画のように、編集の妙でみせるものもあるが、よくあるのが撮影者とか編集者が、透明な窓として観客と対象とをつなぐというか、両者の間に割り込まないようにするのではなく、むしら観客の前に、その姿をさらす、あるいは撮影者の立場なり考え方を明示することで、偽りの透明性を回避することに努めているように思われることだ。もはや映画は透明な窓ではなく、歪んだ色ガラスである。しかし、逆に透明な窓としての映画などないことを前提として、そこにいかに客観性や真実性を追究しようとすれば、歪んだ色ガラスを透明と偽ることではなく、認めることのなかに真実はある。

これは現象学でいう、偏見(先行了解)なくして現実は把握できないという考え方と同じだろうし、利害が真実の把握をゆがめる、あるいは利害があるがゆえに真実はありえないという考え方に対して利害こそが真実への契機だとする考え方とも通ずるだろう。この場合、利害の反対語は、中立性とか無利害、公正無私ではなくて、ぼーと生きているということである。

森達也監督のこのドキュメンタリーは、望月記者を除くと、監督自身も姿を見せていて、望月記者のみならず、監督を扱うドキュメンタリーともなっているのだが、むしろそこにポストモダン・ドキュメンタリーの真骨頂があって、映画製作者も撮影者も、対象と同じ空気を吸い同じ社会や時代に生きていることから、すべてが発想されるのである。もちろん先に偏見なくして真実の把握はないといったが、これは偏見を大事にするということではなく、偏見を自覚し抵抗することのなかに真実把握が生起するのであって、偏見とともにあったり、インサイダーでありつづけることのなかに真実はない。そしてインサイダーでありながらアウトサイダーであることをめざすことのなかに、真実があるとすれば、この映画では望月記者の官邸での闘争は、官邸に入れなくて警備の警官に移動を拘束される森監督によっても、別の手段で継承されているということはできる。この映画は、望月記者と森監督の並行する闘争の記録なのである。

こう考えると、最後のほうで、望月記者が、菅官房長官の推薦演説を遠くから、あるいは聴衆の一人として、じっと無言でみつめているのに対して、森監督がナレーションで、自分の立場はリベラルだけれども、意見が違う、イデオロギーが違うからといって相手を排除することはないし、むしろ、異なるイデオロギーを排斥し攻撃することのなかにきわめて危険な兆候が認められるというような警鐘を鳴らす(集団の暴力ではなく個としての冷静で透徹した眼差しと立ち位置を求めるのであって、それが映画のタイトルの「i」つまり小文字の一人称の意味するところだろうが――もちろん、このiには「目eye」もかけられているとしても)。

これは同じ姿勢の両面を意味しているのだろう。望月記者は、エイリアンあるいはエグザイルとしての立場で選挙の狂騒を冷徹な目でみつめている。いっぽう森監督は寛容を説く。正視と寛容。このふたつが、まさに対位法のように同じ旋律を異なる演奏法によって奏でているといえそうである。

ただし安倍首相の選挙演説のときに「安倍辞めろ」の怒号を記録した映像のすぐあとに監督のナレーションが入るために、警鐘を鳴らす相手が違うのではないか。これでは反安倍勢力を批判しているのでなはいか。真に批判されるべきは記者会見の回数を減らし、記者の質問妨害をし、さらには真実を語った人間を排除する安倍政権の排除的政策であり、史上最低の安倍政権による、批判を抑圧するための政権の暴走であって、なぜ反安倍勢力がまるでテロリストであるかのように冷静な寛容さを求められねばならないのか。安倍の手先ではないか、あるいはそこまででなくとも取り組みが弱いのではないかという批判はネット上にある。

ただし監督の真意はわからないが、ただ、いくら安倍政権が犯罪的な違法行為を繰り返しているとはいえ、それを批判する側も違法行為に走ったら批判が意味をなさなくなるということを警告したものだろう。殺人者を憎むあまり、その殺人者を殺せば、犯罪者になる。そのことを警告したのであろうか。現在、日本の社会全体が、制度や官僚や税金を私物化している不道徳な政権下で、道徳ファシズムの嵐が吹き荒れている(ネット社会に特有な現象ともいえるのだが)。反社会勢力の人間と知らずにつきあっただけで芸人が干されてしまう日本の社会にあって、政治家は「反社の皆様」とつきあってもお咎めもない。いびつで、不寛容な道徳ファシズムが広がっている。そうした社会全体の傾向に警鐘をならしたということもできる。批判は、けち臭い史上最低の安倍政権ではなく、日本の社会全体の暴走する危険な傾向に対する警鐘なのである。

あと、それはドキュメンタリー映画に対する、あるいは監督の立場に対するメタコメンタリーというべきものだろうか。どんなに批判を鋭くしても、相手を排除するような、排他的姿勢は避けるべきであり、それはまたポストモダン的ドキュメンタリー映画の理念でもあり実践であることの宣言でもある。決して反対勢力を、暴力の原因として非難するようなありがちの保守的姿勢ではないだろう(そうかもしれないのだが)。


プラモデル好きの私は(とはいっても老後になっても作っている暇はないのだが)、今では絶版か品切れか店頭在庫のみになった、あるフィギュア・モデルを思いだす。それは1/35のミリタリーモデルで、戦車のモデルに組み合わせてジオラマを作るための兵士とか民間人だけをつくるためのフィギュア・モデルである。縮尺1/35の人間のモデルだからそんなに大きなものではない。胴体と手足などをくっつければあっという間に形になり、あとは継ぎ目を消して色を塗って兵士のフィギュアができあがる――フィギュアへの彩色はけっこう難しいのだが。それを、戦車のモデルに載せたり、そばに立たせたりする(戦車のモデルはついていないので、自分で戦車のモデルだけ購入し組み立てることになる)。情景は1944年フランスとある。大戦末期の光景である。

今は絶版だし、カタログをみただけで購入もしなかったのだが、そのプラモデルが作り出そうとする情景に私は唖然となった。アメリカ製の戦車にイギリス兵が載って運転している。そして、その戦車の上には複数のアメリカ兵が載っている。連合軍がナチスドイツからフランスを解放したときの情景である。戦車を出迎えるように、道端に民間人のフランス人女性が赤ん坊を抱えて立っている。アメリカ軍兵士の一人が戦車からおりて、にこやかな笑顔で、その女性に近づき、食べ物(パンかなにか)を差し出そうとしている。女性も差し出されたパンをありがたく受け取るようである。小さなフィギュアである。しかし造型はしっかりしていて兵士たちや女性の表情までも緻密に彫刻されている。そして私は驚いた。またこれは造れないと思った。なぜなら、その女性の頭部には髪がない。赤ん坊をかかえたその女性のフィギュアの頭部は、丸刈りというか坊主頭なのである。

もう入手できないのだが、商品の情報を記しておく。

商品タイトル The 101st light company. US paratroopers $ British Tankman, France, 1944.
日本語商品タイトル 英戦車兵+米降下兵7体+子供を抱いた女性・フランス1944
メーカー : マスターボックスMaster Box  スケール : 1/35
発売 2016年 商品コード : MB35164

ああ、これは映画『マレーナ』『(Malèna 2000年公開 監督ジュゼッペ・トルナトーレ)。の世界だと思った。先に韓国映画『アシュラ』について語った時、美形の俳優は汚れ役をしたがるものだと書いたが、その時念頭にあったのが、この『マレーナ』のモニカ・ベルッチの役どころであった。大戦中、夫を亡くしてから、ドイツ軍の将校の愛人となったモニカ・ベルッチは、大戦が終わると、それまでドイツ軍にひどい目にあってきた町の市民の女性たちから、リンチされる。着ているものを剥ぎ取られ、すっぱだかにさせられ、頭を坊主頭にさせられる。一般市民のそのすさまじい憎しみの発露は映画のなかでも強烈な印象を残した。

プラモデルといい戦後のリンチの話といい、いった何の話をしているのかと思われるかもしれないが、映画『マレーナ』でも描かれ、あろうことかプラモデルのジオラマの題材ともなった丸坊主の女性(ドイツ軍に協力したかどで戦後リンチされた女性)は、映画『i新聞記者』の最後でも不寛容が生み出した悲劇を語る史実として丸坊主の女性の写真とともに紹介されるのだ。

もし私が第二次大戦の終結に居合わせたとしたら、ドイツ軍将校の愛人となって甘い汁を吸った女性たちを、抑圧された一般市民の女性たちがとりおさえて丸坊主にしていたら、私自身、そのような暴力行為に加担はしないが、ただ、見て見ぬふりをしたかもしれない。なぜならナチスの占領下にある民間人への暴力は残虐きわまりないものであり、大虐殺はおこり、犠牲になった市民は数知れない。そんなときドイツ軍に協力して安穏と生きていた女性たちは非国民、売国奴として私も許せなかったかもしれない、心情的に、丸坊主にされて当然と思うかもしれない。

なぜ『ガーンジー島の読書会の秘密』に触れたのかも語っておかねばならない。ドイツ軍に占領されたガーンジー島では、ドイツ軍将校と島民の女性との間に愛が芽生えてもおかしくない。読書会の創設者でもあった一人の女性は、ドイツ軍人のなかでも友好的で島民のためを思い英国文化にも敬意をはらっている軍医と恋におちる。やがてその軍医の子供を宿すことになる。最終的に彼女はドイツ本土に連行され、その収容所で死ぬことになるのだが、島民たちは、戦後になっても、この女性のことを裏切り者の尻軽女・売春婦として、蛇蝎の如く嫌っている。だが詳しい事情を知れば、その女性が卑劣な裏切り者でもなく、聡明な女性であり、打算抜きでドイツ軍の軍医と恋に落ちたのであり、また不幸な偶然がかさなり、ドイツ軍連行され、島民からも誤解されていることことがわかる。

『i新聞記者』では、ドイツ軍に協力した女性たちは、正当な裁判にかけられもせず、ただ殺されたケースも実に多かったことを伝え、集団的な不寛容の狂気の恐ろしさを印象付けている。だが、なぜ戦後の坊主頭の女性たち、ある意味、痛ましい悲惨な目にあった女性たちの史実が、なぜここに、映画の最後に登場するのか、違和感は残る。

ただ、そこからポジティヴなメッセージも受け取ることができる。ナチスのような、あるいはナチスとは違ってソフトな、ファシズム政権である安倍政権の占領支配も、もうすぐに終わる。そのときに積年の恨みをはらすべく、安倍に忖度し、安倍に尻尾をふってきた人間たち、官僚たちを、リンチしたい気持ちになるかもしれないが、彼らにも事情があったのかもしれず、無差別なリンチは慎むべできあるという、安倍以後の世界の混乱を危惧してのメッセージである。史上最長の安倍政権も、もうすぐ確実に悲惨な恥知らずな終わり方をするだろう。それがこの映画の隠れたメッセージであると思う。
posted by ohashi at 23:04| 映画 | 更新情報をチェックする

2019年11月29日

『THE INFORMER/三秒間の死角』

(The Informer 2019年)イギリス映画とはいえ舞台はアメリカ。ふつうに面白かった映画だが、原作は北欧ミステリー、アンデシュ・ルースルンド, ベリエ・ヘルストレム『三秒間の死角』だが、舞台はアメリカに変えてありアダプテーションとみていいだろう。とはいえ検察上層の陰謀とか、潜入捜査とか、地元警察との確執というのは、FBIとニューヨーク市警、また麻薬捜査、潜入捜査といった設定でアメリカの刑事ドラマでもなじみのものであり、むしろアメリカ版にしたほうが違和感もなくわかりやすいともいえる。

ふうつに面白かった映画だが、わからなかった部分もある。というかよく言うとテンポよく進むのだが、悪く言うと、観客の理解にまかせて省略を多用するので、私のように鈍い観客には理解できなかったところがある。そもそも最初の潜入捜査がどうして失敗なのかわからない。何度思い返してもわからない。べつに眠っていたわけではない。なにかを聞きのがしたのだろうが。主人公がいきなり妻子をアクアショップというか水槽とか熱帯魚を売る店に深夜連れていくのかわからない(あとで、それは妻が経営している店とわかるのだが、いきなりだと違和感がありすぎる)。

そもそも日本語のタイトル「三分間の死角」がわからない。映画の原題にはない。原作本のタイトル『三秒間の死角』を映画の日本語タイトルのサブタイトルにもってきたのだろうが、それの意味するものは映画のなかにない。原作を読めば理解できるのだろうか、また主人公が紙に書いて、綿密な計画を練っているのだが、紙片上の図式と数式をみせられただけで、あとは説明がないために、何が3秒だかわからない。すべて説明は抜きで、あとからわかる仕掛けになっているのだが、原作を読んでいない私としては、3秒間の死角については、なんであったかわからないままである。

これは意図的な省略なのか雑なのかよくわからない。

ただ、ひょっとしたら北欧サスペンスあるいは刑事物のくせのある語り口とまではいかなくとも、原作のくせのある語り口を、映画のナラティヴにおいて反映しようとしたのではないかという疑念は残る。また登場人物についても、これが同一の警部を主人公とした連作のひとつであると知ると納得がいくような、おなじみ感が充溢していて、すでに長く続いている物語の終わりのほうだけを読んでいるような、そんな気持ちになるのだが、それはおそらくまちがっていない。しかし、映画は、単発であって、長いサーガの最新作ではない(『スターウォーズ』じゃないのだから)。

配役としては、有名な存在感のある俳優は、FBIの捜査官役のロザムンド・パイクとその上司役のクライヴ・オーウェンのイギリス勢しかいない。主役のピート・コズロー役のジョエル・キナマン以下の俳優は知らないのだが、ただ、コモンとアナ・デ・アルマスの出演した映画は、これまで複数見ていたことがわかったが記憶にない。アナ・デ・アルマスにいたっては『ブレードランナー2049』と『イエスタデー』にも出演していたというのに。とはいえ全2作と較べると、今回の映画の一児の母親役はミスキャストのような気がする――演技が下手というのではなくイメージの問題だが。コモン演ずるニューヨーク市警の刑事が原作の連作の主人公なのだが、この映画では、収監されるコズロー/ジョエル・キナマンが主人公のようだ。終わり方を見ると続編ができそうな感じがすると同時に、なんとなく『ジョン・ウィック』を思い出したのだが、プロデューサーが同じだった。『ジョン・ウィック』の世界、それもコミック的な荒唐無稽な~の世界ではなく、もう少しリアルな世界を出現させようとしているのだろうか。

主人公の脱出法だが、当人、頭が良すぎて、いろいろな仕掛けを講ずるのだが、それこそテレビドラマのマクガイヴァーなみの創意工夫で切り抜けるので(一応、周到な用意をしているという暗示はあるのだが)、そのぶんリアルさがないが、またそのぶん安心してみていられる。ハードボイルドにみえてハードボイルドではない。だからお約束の敵中突破物であり安心してみていられるのだが、それこそ韓国映画の『アシュラ』(11月28日の記事参照)のように(実際、板挟み状況は似ている)、体をはって殴り合い撃ちあって、相手をすべて倒し、自分も死に、敵中突破を自らの死によって達成するという、ハードボイルドな、また悲劇的な結末にすると評価があがったのかもしれない。
posted by ohashi at 20:19| 映画 | 更新情報をチェックする

2019年11月28日

『アシュラ』

[ アシュラ』キム・ソンス監督2016年

『神と共に』を見た知り合いの大学院生(女性)が、『アシュラ』を見てみたいというので、すでにブルーレイ/DVD化されているのだが、たまたまヒューマントラスト渋谷でCJエンターテインメント特集のなかで上映されていたので(週に1回)、最終日の本日、映画館で見てみた。

韓国のイケメン俳優チョン・ウソン主演のこの『アシュラ』(2016)と『神と共に』の接点はどこかと考えたときに、『神と共に』に出演していた冥界の使者役の女優キム・ヒャンギ(まだ10代らしいが)とチョン・ウソンが共演する『無垢なる証人』(2020年1月日本公開予定)の予告編をすでに別の映画館でみていたので、キム・ヒャンギ→チョン・ウソン→『アシュラ』かと思っていたが、そうではなくて、『神と共に』で、もうひとりの冥界の使者(第二部で女真族の生き残りの孤児と判明する)チュ・ジフンが『アシュラ』に出演していたことがわかった。こっちか。しかもチョン・ウソンの弟分的刑事役で、もうひとりのイケメン俳優のファンになったのかと映画をみてわかった。

「全員悪人」というコピーを掲げ、『アウトレイジ』というようなタイトルをつけてもおかしくない韓国ノワールの傑作で、先の読めない展開と見事なカメラワークで最後まで一気にみせてしまうのだが、終わってみれば、まあこうなるしかなかった(ちなみに主人公の最後のセリフがこれ)と思える映画となっている。予測不可能な斬新さと蓋然的な終わり方、未知的要素と既知的要素が共存している点、救いのない映画にみえて救いのある映画でもあるという二重性が見ていてけっこう心地いい(日本風にいえばR12かR15の映画だけれども)。

また派手なカーアクションにも目を見張るが、アクション・シーン全体も洗練され、また驚くようなシーンも多い。最近の映画は、転落シーンを、下からとか横からではなく、上から痛々しさを強調するような撮り方をするのだろか、NETFLIX配信映画『アースイクウェイク・バード』での佐久間良子の階段からの転落シーンにも驚いたが(もちろんスタントマンかスタントウーマンあるいは画像処理だとはわかっていても)、この映画でも班長の転落シーンには驚いた(もちろんスタントマンかスタントウーマンあるいは画像処理だとはわかっていても)。

そのうえ、腐敗した市長のシェイクスピアのリチャード三世的な派手な悪役ぶりと彼がしかける茶番劇といった喜劇的魅力も事欠かない。昔、イギリスで見た連続テレビドラマ『GBH』に登場した、労働党のカリスマ的人気を誇るが腐敗した市長の姿を思い浮かべたが、この映画自体、『GBH』とタイトルをつけてもおかしくない映画だろう(GBHはGrievous Bodily Harm「重障害」というむつかしいフレーズだが、イギリスの刑事ドラマではふつうに使われる。「ジービーアイチ」という発音とともに)。

主題的には、悪徳市長と検察側との板挟み状態になった悪徳刑事が、どう事態を打開するのか、どう敵中突破を果たすのかが興味の関心となり、その過程のなかで、まさに本人にとっても、周囲にとっても、地獄が、阿修羅道が、まちかえまえていることになる。それはひとつではない複雑にからまりあった板挟み状態であり、そこに持ち込まれる暴力とその連鎖によって、状況の困難さと緊張度はますばかりである。

さらに最初はうぶな弟分だが、次第に兄貴分のチョン・ウソンをしのいでいくチュ・ジフンのダークサイドに落ちた悪党ぶりもみごとで、その落差と悪の魅力(まさに悪の華というか花というか)が、この映画のもうひとつの極となるし、チョ・ジフンのダークな魅力を支えているような気がする。

そしてもうひとつの主題は、チョン・ウソンの端正な顔立ちと、その汚れとの葛藤だろう。チョン・ウソンが、こういう汚れ役を過去にも演じてきたのかはか知らないなのだが、俳優にとって美男美女であることは、うらやましい限りの特徴なのだが、俳優本人とっては、それをハンディと感ずることも多いようで、そのため汚れ役をやりたがる傾向にあるらしい(それをファンや観客が望んでいるのかどうかわからないが)。しかし、それも美形であるがゆえの贅沢な悩みなのだろうし、さらにいえば、美形なるがゆえに、どんなに汚れても美しさはそこなわれないどころか、際立ちさえする。実際、この映画でチョン・ウソンの顔は、ほぼ汚れている。出血していたり怪我をしていたりして。しかし、それによってほんとうに見苦しくなるわけでもないし、変装したかのように美形がそこなわれるわけではない。むしろその逆ともいえる。そこから、彼の生き方も汚れているのだが、それでも美しい魂は残っているのではないかと思わせる効果が生まれる。美形は何をしてもゆるされる。うらやましい限りである。

またさらにさすがに苦笑せざるをえなかったのだが、彼は、意味もなく拷問されて顔面を破壊される。それまでさんざん修羅場を潜り抜けてきた彼に、そんな拷問など何の意味もないのだが、あえて頭に布袋をかぶせてこぶしで顔面を殴る。女性ファンから悲鳴を引き出そうとするような、なんとあざとい演出なのかと思うのだが、もしほんとうにあれほどぶん殴られたら顔面は本人と見分けがつかないくらい破壊されると思うのだが、布袋をとった顔は意外なことにあまり破壊されていない。汚れ=破壊にもかかわらず残る美しさ。意味もないシーンなのだが、これが主人公の行動を中心に据えて見た場合、映画全体の主題の縮約なのだろうとわかる。

posted by ohashi at 23:48| 映画 | 更新情報をチェックする

2019年11月27日

『アイリッシュマン』

NETFLIXで配信される映画を映画館で見ている。『アイリッシュマン』(’The Irishman)は3時間30分くらいの長編映画だが、監督のマーティン・スコセッシは、テレビの画面とかコンピューターの画面で映画をみることに反対しているので、まあスコセッシ監督の作品の鑑賞法としては正統的なものであることはまちがない。

長い映画なので、ゆったりと構えて見ることにしたが、とはいえこちらの先入観と、またアメリカの政治社会史に関する先入観のなさとが、あいまって、最初、どういうことが起こっているのか戸惑った。

いや、虚心にみればわかりにくい映画ではないのだが、ロバート・デ・ニーロとジョー・ペシの共演で、もう20年以上も前の映画だが同じスコセッシ監督の『カジノ』を思い浮かべ、かなり興奮した。そしてその思い出から、ロバート・デ・ニーロも、ジョー・ペシもイタリアのマフィアにしかみえなくて、早い段階から、誰がアイリシュマン〔アイルランド人〕かわからなくなってしまった。またジミー・ホッファ役でアル・パチーノが登場するが、彼もまたイタリアのマフィアにしか見えなかった。実はジョー・ペシ、ロバート・デ・ニーロ、アル・パチーノの三人の共演で『カジノ』のトリオの再来かと思ったのだが、アル・パチーノは『カジノ』には出ていない。この『カジノ』の前に、『グッドフェローズ』でも、デ・ニーロとジョー・ペシは共演している。レイ・リオッタが主演で、そのときリオッタはユダヤ系の人間の役だったのだが、私の記憶のなかではイタリア系マフィアに変っていた。また、アル・パチーノがスコセッシ監督の映画に登場するのは今回が初めてと知って驚いた。イタリア系マフィア感は、アル・パチーノとロバート・デ・ニーロが共演した『ゴッド・ファーザー』の影響だろうか。

あとで知ったのだがロバート・デ・ニーロはイタリア系でもありまたアイルランド系でもあって、自分のことを実生活で「アイリシュマン」と呼ぶこともあるそうだが(そんなこ知るか!)、彼が主役の「アイリッシュマン」である。しかし彼は映画のなかではイタリア系という印象が拭い去れず、早い時期で物語を見失いかけて混乱した。アル・パチーノが演ずるジミー・ホッファも、ドイツ系なのだが、映画のなかではイタリア系マフィアにしかみえず、早い時期で物語を見失いかけて混乱した。

もちろん、これは私の勝手な思い込みによる混乱にすぎないのだが、ただ映画のなかの展開も、よく知らない世界のことなので、私の悪すぎる頭が混乱したのかもしれなない。

そもそも労働組合のトップが、組合員の年金事業の資金を私的流用して、さらにはマフィアまでに資金を流しているという腐敗ぶりは、アメリカではごく当たり間のことだったのかもしれないが、日本では考えられないし(とはいえ日本でも年金資金に手を付けた日本の官僚はいるわけだから、これまでも、これからも地獄は、そうした連中であふれかえっているのかもしれないとしても)、これは年金生活者の怒りを買うしかない。そのために年金生活者の私としては頭がグルグルして、映画の筋を追うどころではなくなったので混乱したのかもしれないのだが、ただ、それにしても、論理がよくわからないところがある。

たとえばフランク・シーラン/デ・ニーロが、彼のマエストロにあたるラッセル・ブッファリーノ/ジョー・ペシから、あるときヴァケーション先から、デトロイトに飛行機で行けと頼まれる。そのときラッセル/ジョー・ペシは、デ・ニーロにむかってお前とお前の家族は守ってやると言うのだが、これはこれから凶行が行なわれるので、アリバイづくりに、一時的にデトロイトに避難していろということかと理解した。しかし、実際には、デトロイトでの犯行にデ・ニーロを送り込むためのものだった。私が、そんなこともわからないとかと呆れられるかもしれないのだが、デトロイトで何をするかについては一言も語られないのである。電話でのやりとりも、誰がどこにいるのかもはっきりしないことも多く、おそらく意図的なのだろうが説明不足のところが多い。これには、アメリカの地理に関する予備知識のない私が混乱しただけだとしても。

とはいえ、一時的な混乱を克服してみれば、映画は最後まで緊迫感を維持していて、最初は駆け足の展開が、後半になるにつれて減速し、じっくり丁寧に展開を追うことになり、見ていて緊張で失禁しそうになるくらいに、迫力のある展開となって、スコセッシ監督の真骨頂ともいえる映画ともなっているとは、自信をもっていえる。

映画の構成は、老人ホーム(古い言い方をお詫びする)にいるフランク・シーラン/デ・ニーロがインタヴューを受け、過去の自分の行動を回顧する。そしてその再現フィルムのようなものが映画の本編ということになる。一種の疑似ドキュメンタリーで、実際、この時期公開されているドキュメンタリー『キューブリックに愛された男』と作り方は同じである。こちらはキューブリックの運転手/雑用係として働きつづけてイタリア人がカメラに向かって語り続ける。ただし再現映像はないのだが(まあこのドキュメンタリーのことが念頭にあって、映画のなかのデ・ニーロをアイルランド系ではなくイタリア系と思ってしまったのかもしれないが)。

問題は再現部分なのだが、回顧して語るデ・ニーロは、老けすぎているのだが、回想シーンでのデ・ニーロは、若いはずがあまり若くない。若いデ・ニーロはメイクで若くしたのではなく映像処理で若くしたということだが、だったら、もっと若くなってもおかしくない。中途半端に若いのではない。老人が若作りしているというか老人が若者のコスプレをしているとしか思えないのである。下手なメイクで若くしているとしか思えない。そしてこのことが、映画のイメージを決定づけている。

登場人物たち、フランク・シーラン/ロバート・デ・ニーロ、ラッセル・ブファリーノ/ジョー・ペシ、ジミー・ホッファ/アル・パチーノの主要三人は、高齢者であり、その彼らが若作りして、過去の中年というか壮年の自分を演じているようにしかみえないため、そこにおのずと、老人の目線、あるいは終わりある人生の晩年の目線のようなものがみえてくる。

悪く言えば、過去の、どんなにシリアスで悲劇的で残酷な出来事でも、すべて茶番にみえてくる。そこに未来の可能性とか希望のようなものはない。また良くも悪くも未来の可能性が開けることもない。『ゴッド・ファーザー』の終局において、敵対勢力がつぎつぎと倒され、ゴッド・ファーザーの支配が確立する未来がみえる、あるいは実現する。だが、この映画における多くの殺人、敵対勢力の抹殺は、終わりかかっている時代と人生からの回顧であって、虚無的な感慨に取りつかれている、つまりどうでもいいのである。

印象的なのは、フランク・シーラン/デ・ニーロが、FBIの捜査官から、ジミー・ホッファの失踪について問われても回答しないとき、捜査官から、何のために隠すのか、誰のために隠すのか、誰をかばうのかとあきれられる時である。なぜなら関係者はほぼ死んでしまい(『グッドフェローズ』でも『カジノ』でも、モデルとなった主要人物はみんな死んでいる、非業の死をとげるのだが、この映画でも一度しか登場しない人物でも、いつ死ぬかについての情報が字幕として出る――ほとんどが殺害されている)、フランク・シーラン/デ・ニーロだけが唯一の生き残りでもあって、もはや、隠しても意味がないからである。

この意味のなさは、映画のなかの出来事に真実性をあたえる(隠すことは無意味)と同時に、出来事からエモーショナルな負荷あるいは深刻さを奪う(もう過ぎ去った時代の忘れ去られた、抜け殻のような出来事にすぎないのだから)。出来事はリアルなものというよりも年寄りのコスプレによって再現された茶番的ドラマとなる。

もちろん、もうどうでもよくなった晩年におけるフランク・シーラン/デ・ニーロの告白は、どうでもよくなったがゆえに、隠し立てすることなくすべてを暴露する衝撃的なものである。労働組合の支部長までやった人物が、たとえば敵対勢力を殺し屋を使って排除するようなことがあるかもしれないのだが、それ以上に、彼自身がヒットマンだったとは信じがたいことである。もし告白が真実なら、彼は人を殺し過ぎている。アメリカの法律なら、300年くらい服役しなければいけないような、ある意味、大量殺人者である。もちろんこの映画の原作となった本におけるフランク・シーランの告白については、その信憑性が疑われているとも伝えられているのだが、真相は藪の中である。とまれもし彼が大ぼら吹きではなかったとすれば、彼の犯罪歴・暴行歴(a history of violence)は、まさにアメリカ現代史における暴力の歴史( The History of Violence)と重なるのである。

なお、彼が真相を隠そうとするのは、恩義のある人びとに、たとえ彼らが死んだとしても忠誠を尽くすということかもしれないが、おそらく別の理由がある。家族、それも、彼とは絶縁状態になった娘との関係である。この映画における、シーランの非情な暴行歴以外のもうひとつの軸、それもエモーショナルな軸となるのは、彼と娘との関係である。

子供思いの彼にとって、娘が幼い頃から彼の裏の顔について確証をもてなくてもうすうす感づいていたことは痛恨の極みでもあった。いま彼の人生が終わりにさしかかりつつあるとき、唯一の心残りは、成人してから彼とは絶縁状態にある娘との関係修復ができていないことである。彼にとっては娘には隠しおおせたい真実がある、あるいはその真実は娘にだけ語って許しを得たいと考えているのかもしれない。老人ホームで、インタヴュアーがフランク・シーランの居室を去るとき、シーランは、ドアを閉めないで少しだけ開けておいて欲しいと頼む。少しだけ開いたドア、それが、この長い映画の終わりのシーンである。

おそらく彼は待っている。神様からのお迎えがくることを? いや、決して面会に訪れることのない娘を待っているのである。娘に懺悔するためか、娘から許しを乞うためか。娘だけには真実を話すためにか。

この娘の姿をみながら、この女優は誰だったのか、思い出せなくて、これではフランク・シーラン以下の耄碌爺さんだと自分自身に腹が立ち、また深く恥じたが、それでも結局、エンドクレジットになるまで、彼女がアンナ・パキンであることを思い出せなかった。もちろん彼女は齢を重ねているし、映画で見るのは久しぶりだったので、顔は思い出せても、名前を忘れたのはいたしかたないのかもしれないのだが、同時に、アンナ・パキンであることで納得はした。

この『アイリッシュマン』に出演しているハーヴィー・カイテルと、子役の頃の彼女が共演した『ピアノ・レッスン』以来、彼女は永遠の子役ではなくて永遠の少女のイメージとして映画史に定着した観がある――たとえこの映画のなかで彼女の子供時代の愛らしい子役は、彼女と似ていはいなくとも、またこの映画のなかで彼女は結婚式を挙げたとしても。

映画のなかで父親役のデ・ニーロが代表する殺人・暴力の歴史と、この大人の男たちの血なまぐさい権力闘争の世界を一歩引いて冷静に見据えている少女としてのアンナ・パキンの眼。暴力と少女。映画のこの二大遺伝子こそ、3時間30分超えの映画を動かしてきたものであることがわかる。父親と娘。暴力と少女。このふたつは修復不可能なまま反目しているのだが、敵対関係という関係を示すことで、もはや決して交わらない交わりを通して、この映画が、映画の二大遺伝子の正統的後継者であることを示しているのである。
posted by ohashi at 16:34| 映画 | 更新情報をチェックする

2019年11月26日

『グレタGRETA』

ニール・ジョーダン監督の前作は『ビザンチウム』(2012)であり、久しぶりの監督作なのだが、いつもながら、女性を中心に据え、クィア的欲望の充満した濃厚な映画空間と物語を展開している。前作と同じく、母子関係が中心に据えられている。『ビザンチウム』ではシアーシャ・ローナンがすごく大人になっていて、その後、彼女は、いっぽうで高校生を演じつつ、もういっぽうでスコットランドのメアリ女王を、いずれも説得力あるかたちで演じていて、彼女のキャリアにとって『ビザンチウム』がある種の分岐点であったことがわかるのだが、今回の映画ではイザベル・ユペールとクロエ・グレース・モリッツが疑似母娘を演じている。

またニール・ジョーダン組でのスティーヴン・レイが探偵役で登場するのだが、予想どおりというべきか、何の役にもたっていなくて退場するという、なさけない人物となった。現時点で、大阪の小6の少女を誘拐・監禁した茨城の男は、少女を監禁中に茨城県警による立ち入り調査を受けたようだが、その時は少女を発見できなかった。茨城県警の役立たずといえるのだが、ただ、目と鼻の先にいるのに、発見できない/発見されないというもどかしさは、あるいは落胆は、物語ではよくあることだ(今回は、現実でも起こったのだが)。つまり、この映画の物語は、見覚えのある物語でもあって、そのぶん新鮮な感じというよりも、古めかしくはないとしても、なにか、なつかしい感じがしないでもない。とはいえ、具体的に、どういう作品と似ているのか名前を出せないので、これ以上のことは言えないのだが。

まあ、よくある物語とはいえ、同時に、映画の作りは、決して退屈でもなく、また浅くもない。愛する母親の死から立ち直れない若い女性(クロエ)が、若い女性と疑似母娘関係をつくって、その女性を食い物にする吸血鬼あるいは魔女のような中高年の女性(イザベル・ユベール)に監禁され餌食になるというサスペンス物なのだが、若い女性を自宅におびき寄せる手法には、説得力がある(蟻地獄的手法なのだが)。しかしこの疑似母親的人物の正体を知り、交際を絶つクロエ・グレース=モリッツだが、その後、イザベル・ユペールはストーカー化し、彼女の職場(レストラン)にまで現れ、嫌がらせをしつづける恐怖の存在となる。そしてついにクロエは、この魔女のようなイザベル・ユペールにつかまり監禁される。文字通り「箱入り娘」状態。しかもこの魔女は、他にも同様な手口で若い女性たちを監禁し、「箱入り娘」にして、おそらく殺していたことがわかる。

現時点で、小六の少女を監禁した男の事件と、類縁関係があるようだが、この映画では地下鉄が誘惑・監禁の契機となるのだが、今回の事件ではSNSが少女を誘惑する契機となる。そして、こちらのほうが重要だが、いずれの場合も、心の中の不安なり空虚感が、誘惑にのせられる原因となる。現段階で、監禁された小六の少女の場合は、学校とか家庭に不満があったようで、それでSNSを通しての男の優しい言葉に騙されたようだし、この映画では、愛する母を亡くしたことからくる悲しみと空虚感とが、主人公の女性に疑似母親を求めるさせることになる。気付くと蟻地獄に陥っている、「箱入り娘」状態になっている。

ただ、こう書くと、母親の死、その後に、疑似母親に騙されるという、天国のあとの地獄という展開を想定することになり、たしかに時間的継起としては、それで正しいのだが、同時に、天国と地獄は同時に起こっていることを見失ってはいけない。良き母から悪しき母の毒牙に陥るということではなく、両者は、裏と表、同時に存在しているとみることもできる。母との美しい幸福な思い出と、娘を征服支配する魔女のような母との恐怖の出来事は、天国から地獄へ、光から闇へと継起するのではなく、それこそ絨毯の模様の裏と表のようなもので、同じものの両面にすぎない――「箱入り娘」の比喩と文字通りの意味との関係のように。

結局、愛する母親の死のショックから立ち直れないまま、娘を思い出のなかに閉じ込めて新たな人生に立ち向かわせない死んだ母親と、若い女性を拉致・監禁して娘として束縛し征服し自分の世界に閉じ込めようとする母親とは、同じものという見方もできる。あるいは愛する母親が魔女と同じ存在であることの恐怖。

この結ぼれを切り裂くのは、役立たずの父親でも、また父親の意をうけて調査する同じく役立たずの父親の代理のようなスティーブン・レイでもなく、つまり血のつながりのフィリエーション関係ではなく、血のつながらない横の関係、アフィリエーション関係にあるところの、あろうことかマイカ・モンローなのだ。私の嫌いなマイカ・モンローが、私の好きなクロエちゃんと共演するとは。まあこの映画ではマイカ・モンローがかっこよすぎるのだが。

とにかく、愛する母親の死の衝撃から立ち直れない若い女性が、つけこまれて魔女の毒牙にかかるという物語が、主題的には、母親とは娘を死んでも支配する恐るべき魔女かもしれないという可能性、いや現実、真実をかいまみせる――この恐怖は、誰にも解決できない。

ちなみに、この映画には夢落ちの部分がある。恐るべき経験をしたのだが、目が覚めてみれば夢だったと安堵するのだが、しかし、その安堵こそ、恐るべき事件の犠牲者がみる夢であって、ふたたび気づくと恐るべき経験の渦中にあるという二段落ち。ここもまた主題と関係する。良き母親は悪しき母親に支配されているときに見る夢であると同時に、悪しき母親は良き母親の呪縛に気づかせてくれる母親の真の姿かもしれないという。

付記:
クロエ・グレース・モリッツと、マイカ・モンローの共演はこの映画が初めてではなかった。『フィフス・ウェイヴ』でも共演していた(私にはマイカ・モンローの記憶がないというか当時は彼女は無名だったが)。『フィフス・ウェイヴ』は冒頭の世界の破滅の映像(予告編でも使われた)の驚異には目を奪われたが、映像のクライマクスはそれで終わり、あとは、原作どおりのヤング・アダルトSFのゆるい展開となって凡作となった。明らかに続編があっておかしくない展開だったが、続編は製作されていない(まあ、それはそうだろうが、またもし続編を作るならクロエちゃんの身体が爆発しない前に作って欲しい)。


posted by ohashi at 10:04| 映画 | 更新情報をチェックする

2019年11月25日

『国家が破産する日』

まずはWikipediaによる紹介から。

本作品は、1997年に韓国を襲った国家破産の危機(IMF経済危機)を、立場の異なる3人の視点から描いた社会派映画である。監督は、本作品が長編映画2作目となるチェ・グクヒである。出演者は、最悪の事態を回避すべく奮闘する韓国銀行の女性のチームリーダー役にキム・ヘス、危機をチャンスと見て大きな賭けに出る金融アナリスト役にユ・アイン、何も知らずにただ政府の言うことを信じる町工場の経営者役にホ・ジュノが起用され、その他の役には、チョ・ウジン、ヴァンサン・カッセルらが配された。


その他の役というのが重要で、ここで紹介されている三人は、危機に対処するか、危機を投資のチャンスと見るか(それ自体、悪いことではない)、あるいは危機の犠牲者になるか、そのいずれかで悪人たちではない。

問題は財務局次官/チョ・ウジンと国際通貨基金(IMF)専務理事/ヴァンサン・カッセルで、財務局次長は、危機を好機として、むしろ企業倒産などを放置して混乱を助長し、韓国経済再編をもくろむのである。そのためにはIMFから支援をうける。だがIMFは、韓国の政治経済に干渉して経済構造や社会構造を根底からくつがえそうとする。そしてそれを財務局次長ら一部の人間は歓迎するのである。韓国経済を再編してどうするのか。それは金持ちはますます金持ちにになり、貧乏人はますます貧乏人になるという、格差がひらく国にとなる。貧乏人の多くは路頭に迷い自殺をするだろう。しかし金持ちが潤えばそれでいい。

ここで韓国現代史や経済にうとい私は恥じるほかなかったのだが、とにかくそのため私には映画の結果がみえなかった。起死回生、なにか奇跡的な出来事によってハッピーエンディングを迎えるのかと思ったが、ああ、無知なる人間の愚かさというべきか、当然だが、事態は、政府とIMFの思うように時代は進展する。結局、苦い終わりでしかなかった。これはネタバラシかもしれないが、知っている人にとっては、とんでもない歴史改変でもしないかぎり、わかりきっている結末なので(関が原で石田三成が勝利するわけはないので)、まあ許していただくしかない。

この映画では、金融危機を奇貨としてIMFに協力するかたちで経済再編をはかる財閥と富裕層に、韓国のもたざる一般市民が食い物にされる、犠牲になる、敗北の歴史が描かれる。国家破産の夜は、富裕層の天敵となるような「ジョーカー」は現れなかった。救世主はあらわれなかった。そして映画では、最後に、現在の韓国が描かれる。それは敗北の第一章の続編あるいはエピローグではない。まだ第一章は終わっていない。そして第二章ははじまってはいない。ただ、はじまる予感はする。敗北の第一章のあと、かならず市民の逆襲の新たな第二章がはじまる、その期待と予感をもって映画は終わるのである。

韓国の金融危機は長期にわたったようで、期限をもうけて、この日までに何もしないと国家が破産するというような単純な話ではなさそうだし、政府側の少数の人間だけが事態を動かしたり収拾しようとしたりするのではない、もっと大規模な事件なのだが(もちろん背後に大きな勢力なり運動があることは暗示されるのだが)、単純化とはいえ、無知な人間にもわかりやすいかたちで整理しドラマチックな展開を付与された点で、端的に面白い映画ではあった(もっとも飛び交う経済用語を説明せよと要求されたら私には、そのほとんど、いや全部が説明できないのだが、それでも緊張感をもってみることができた)。

あと一見無関係な人たちからなる群像劇にみえて、最後に、みんなどこかでつながっていたという、ある意味、お約束か、またはどうでもいい設定になっているのだが、親子でしっかりコミュニケーションをとっていろよといいたくなるところはある。情報の共有があれば、知恵を出し合って対策出来ていたかもしれないと思ったのだが、史実によって、ハッピーエンディングを禁じられているから、それもむりかということになる。

あと韓国における金融危機から経済体制再編の動きは、日本でも同じことで、金持ちはますます金持ちになり、貧乏人はますます貧乏人になる格差拡大社会は、アベノミクスによって、IMFの干渉もなく出来上がってしまったのではないか。他人事はでないという感慨を新たにした。
posted by ohashi at 10:42| 映画 | 更新情報をチェックする

2019年11月24日

『ひとよ』

白石和彌監督の最近の傾向は、痛すぎる厳しい状況のなかで追い詰められて逃げ場を失いつつも、最後には希望を残す展開になっていて、見る者にとって嫌な気持ちにさせないとう特徴はある。また地方都市感覚は、いつもよく出ていて、今回、最初は苫小牧が舞台化と思ったが(そう思ったのは理由がないわけでない)、茨城の大洗であったが、そこの空気を呼吸しているような感動があった。

もともとは舞台であったようだが、たしかに「ひとよ」は一夜であって、一夜の出来事として舞台化されたものであったとは予測がつく。また私自身は、演劇的な映画というのは高く評価するのだが、ドゥルーズが映画論で語っていたように、演劇が望んでもできないことを映画は実現することができるからである。とはいえ、この『ひとよ』は、舞台の映画化ということは極力見えないようにしている。実際、一夜の出来事ではないし、タクシー会社の事務所と、その奥にある住宅とで、舞台ができあがるのだが、そこで完結させることなく、シーンは外にでる。そのため最も演劇性の強度があがるのは、カーアクションという演劇性とはほどとおい、いかにも映画的シーンのあとの埠頭でのやりとりなのだから。埠頭そのものが、ひとつの舞台にみえた。しかし、それ以外のところで舞台臭さはなかった。

むしろ三人の子どもたちのやりとりと母親との対立のなかに、三人の俳優――佐藤健、鈴木亮平、松岡茉優――の迫力のある、そして説得力のある演技こそが、この映画の演劇性の強度の尺度かもしれない。松岡茉優も『万引き家族』では日本アカデミー賞の優秀助演女優賞を受賞したものの、やはりリリーフランキーと安藤サクラそして子役にもっていかれた感があるのだが、この映画では魅力を演技力を全開している(歌もうまいし)。

ただしプロットの蓋然性という面では、いくつも難がみえた。DVの夫を妻が殺害するということはよほどのことである。つまり殺害にいたる前に他にも方法を考えることができる。それでも殺すという選択肢しかなかったとしたら、考えられるのは、衝動的な殺人か、長年の暴力に耐えられなくなったときであろう。しかし映画のなかで田中裕子扮する母親は、個人タクシーだったかどうか忘れたが、タクシー運転手として働いて家族を支えている。タクシー運転手の制服・制帽にネクタイ着用で、女性的というよりも男性的容姿であるし、映画の中の性格付けというのは、けっこう豪放磊落な男勝り的性格である。こういう女性が、なぜ、ああいうアルコール依存症のDV男と結婚して3人の子供までもうけたかのかは問うまい。DVには何か原因があったのかもしれないが、それは映画のなかでは語られない。

しかし、このような女性だったら、DVに怯えてひたすら耐えているというよりも、勇気をもって大胆で時には暴力的になっても最終的に賢明な解決をめざす知恵をもっているはずである。映画のなかでは筒井真理子から度胸の良さを褒められるし、繊細で優しい母親というのよりも肝っ玉母さん的存在であることは、雑誌の万引きをめぐる2つのエピソードからもじゅうぶんにうかがえる。出所後も、家族に連絡をとらず(もちろん出所での打ち合わせをしない、家族も家族だが)日本中を働きながら旅してまわってきた、そんな肝っ玉母さんが、15年前に思い余って、酔って帰宅後に暴れそうな夫を轢き殺すことがあるのだろうか。

またDVの夫から子供たちを守るために夫を殺したということで、実刑判決で、15年も服役するのは罪が重すぎるというか考えられない。夫のDVをやめさせるために、ほかにも方法があったとはいえ、たとえば介護疲れで殺害するのと同じで、実刑になっても15年はどうなのだろうか。本人の過去に何か原因があったのかもしれないが、そこは何も伝えられていない。

さらには『影踏み』の場合と同じだが、夫を殺したということで、周囲のバッシングを受ける(犯罪者が家族にいるという点では両者は同じだが、『影踏み』の場合、教員の子供の犯罪であるがゆえに、教員の母がとらなくてもいい責任をとらされる、心なきバッシングを受けるで全く同じということではない)。しかし、これも最初は子供を守った聖母として美談で語られていたようだが、それがバッシングになるというのは、日本が男性中心社会で夫を殺す妻を許せなかったからとも考えたが、そうではなくて週刊誌の暴露記事が原因である。しかし映画を見る限り、暴露されて世間の態度が変わるような事実はどこにもない。たとえば妻が浮気をしていて、邪魔になったDV夫を殺したというような事実があれば話は別だが(原作あるいは元の舞台では、なにか語られていたのだろうか)。しかもその記事を書いたのは……、というのも、ありえない感じがする(これは世の中、何があるかわからないということではなく、あくまでも蓋然性の話である)。人物の行動の蓋然性(必然性ではない)という点では、香取慎吾主演の前作『凪待ち』のほうが説得力があった。

この映画では子供を不幸にした親がふたりいる。田中裕子と佐々木蔵之介のふたりである。しかし、田中の三人の子どもたち、佐々木の息子、それぞれ、思う通りの人生を歩めず、苦しい境遇のなか、自分たちの失敗をすべて親のせいにしているところもある。親は人生の蹉跌の中心ではなく、むしろ原因は不在の原因として親子の外側にあるのだが、親子でいがみあうしかないところに悲劇性がある。だか、もちろん、そこに救いもあるのだが。佐々木蔵乃助の登場は、筒井真理子の登場とともに意外だったが、彼の存在が、ややわざとらしい観もあるのだが(あんなふうにウィスキーを瓶でがぶ飲みしてタクシーを運転するというのは漫画かとも思ったのだが)、もう一人の親として、田中裕子の家族の物語を側面から照射する点で重要な意味をもっていた。どちらも親子の葛藤がある。そして佐々木蔵之介の息子は、結局どうなったのだ。殺した?

主題的には『母帰る』であるという指摘がネットにあった。つまり『父帰る』の女性版ということである(菊池寛の有名な戯曲『父帰る』のもじり。『父帰る』は学校演劇としてもよく上演されたことがあり、私は中学生の時、どこかの劇団による、学校の講堂=体育館での上演をみたことがある)。これは正しい指摘だが、いっぽう、『万引き家族』の白石版という指摘もあったが、これは違うのではないか。二つの映画の共通点は松尾実優だけである。この映画は、この家族は、貧乏ではない。万引きも、すぐみつかり1回あるいは2回だけである。疑似家族ではなく、あるいは、いくら疑似家族のようなと言われても、みんな血のつながった家族である――だからこそ、問題が起こっているのだが。

しかしリアルではなくアレゴリカルに見れば、先週、日曜日にKAATで10時間に及ぶ『グリークス』をみたせいもあって、こんなことを思ってしまうのかもしれないが、親族の殺人と親子の葛藤というテーマは、茨城県大洗を舞台としたこの映画からは想像しにくいかもしれないものの、たしかにギリシア悲劇的であるというか、ギリシア悲劇の世界そのものである。

田中裕子の夫殺害は、クリュタイムメストラによる夫アガメムノン殺害と同じである。子どもを守るためというよりも、娘を生贄として殺した夫への復讐でもある。しかしここから悲劇の連鎖がはじまる。母親による父親殺害によって、世間からバッシングをうける子どもたちのひとりは、母親を殺す。オレステスの場合には、父の復讐として母親を、その愛人とともに殺すのだが、映画のなかでは象徴的なかたちでの殺害である。佐藤健は、ある意味、オレステスである。そしてオレステスである以上、母親殺しのために自ら罪を償わねばならない。

母親は、夫を殺すことによって子どもたちを解放したはずだった。しかし、子供たちは解放されるどころか、世間から冷遇される憂き目にあう。ある意味で、父親から殺されずにすんだものの、世間から殺されそうになる。そして、そうなった原因として母親への潜在的憎悪が子供たちのなかに存在する。母親は救い主であるが、同時に、破壊者であった。ふたりの母親、よき母親と悪しき母親の同一人物のなかでの共存(映画『グレタ』のテーマでもある)。またすべての責任は親にあるのではない。子どもの責任もまた重い。とはいえ原因は親と子の双方が共有しているか、あるいはまったく別のところにもある。この矛盾をどう解くか。ここには家族制度(近代家族制度に限らないと思うのだが)が抱える難題がある。映画は、この難題を提起しつつ、解決の糸口をさぐる試みであるともいえる。ギリシア悲劇以来の。ギリシア悲劇的問題圏の継承として。
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2019年11月23日

『アンドレア・ボチェッリ 奇跡のテノール』

La musica del silenzio (2017)

神奈川県のMOVIX橋本で見たのだが、神奈川県ではこの映画館一館のみの公開で、このストレートに感動できる映画がほとんどの人に知られずに消えていくのは惜しい。もともと2017年の映画だが、それが2019年の終わりに近くに公開されるというのは全世界的に見ても、遅いのだが、しかし、公開されただけでもありがたく思うべきか。

映画の内容はストレートに感動できるといったのだが、ただひねくれた部分もあって、そこを整理しておきたい。まず原題は「沈黙の声」であり、アンドレア・ボチェリの伝記映画なのだが、ただし、「アンドレア・ボチェリ」という名前の人物は映画に登場しない。主人公の名前はアモス・バルディであり、アンドレア・ボチェリではない。また映画の宣伝には「自伝的小説」の映画化であり、自伝の映画化ではない。ボチェリは『沈黙の声』という小説を書いたのだが、そのなかで主人公の名前をアモス・バルディスにした。たぶん、そうすることで、完全に自分自身にまつわる事実のみを記述するのではなく、ときに虚構を交えて自分の半生を自由に語ろうとしたのだろう。

問題は映画化するとき、その自伝的「小説」の部分をカットして、を主人公とした伝記映画にしたほうが、すっきりしたかもしれないと思うのは私だけだろうか。まあひょっとしたら何かの事情があったのかもしれないが。

というのも、ラドフォード監督には、知る人ぞ知るドキュメンタリー映画『情熱のピアニズム』(2011年、日本公開:2012年)があって、こちらは重度の障害をかかえ夭逝した天才ジャズ・ピアニスト、ミシェル・ペトルチアーニを扱った傑作ドキュメンタリー映画なのだが、その高い評価から、今回も障害をかかえたテノール歌手のドキュメンタリーでもよかったのだが、たぶん、ドキュメンタリーはすでに制作されているだろうと予想されるので、ここでは自伝的小説の映画化というひねりが加わったのかもしれないのだが。

とにかくアモス・バルディス=アンドレア・ボチェリと読み替えながらみることになるが、完全に失明という境遇に耐えねばならなかった子供時代、その苦しみから逃れるために歌手コンクールに優勝しながらも、声変りを機に、親の期待にそうべく、ひねくれながら、やる気がなく落第しながら、それでも勉学に専念しつつ弁護士資格を獲得するも、歌手になる夢をあきらめきれないところ、よい指導者と出逢い、世界的な歌手として成功をおさめるまでの、テノール歌手、ボチェリ誕生物語のなかで、やはり子供時代が、その無垢性と、悲劇性によって感銘深い。もちろん、やさぐれて転落しそうになる青春時代、あるいは目が見えないことから歌手の可能性を否定され、おそらくつらい思いを絶えずしていた大学生から弁護士時代。そしてマエストロと出逢ってからのレッスンの苦労。最後に、その才能を認められつつも、デビューまでに、待たされ続け、夫婦生活の危機にまでいたるという、山あり谷ありの半生のなかで、谷の部分も描かれるが、ただ、子供時代の失明にまさる大きな苦難はないところから、物語の興味は尻すぼみになるかもしれない(まあ弁護士資格というのは日本では取得するのがものすごく困難なのだが、イタリアでは取得そのものが容易なのか、それともボチェッリが天才的頭脳の持ち主なのか(たぶん後者なのだろうが)、そのへん詳しく説明してほしかったという気がする)。

フレディー・マーキュリー(「クィーン」の)とかエルトン・ジョンといったロックスターを扱った映画の公開が続いているが、この二人はゲイであったりエイズであったりアルコール依存症であったりと、いろいろな問題をかかえていながら、それを克服するという点で、たんなるスター誕生的な物語にはないひねりが効いていたが、アンドレア・ボチェリの場合は、全盲というハンディはきわめて大きく、むしろ前二者を超えているのだが、しかし最終的にはスター誕生映画であって、たとえ本人はデビュー前の長い待機時間に苛立ったのかもしれないが、全体として見れば些細な停滞にすぎない。そのため成功物語に必然的につきまとう長く苦しい雌伏の時間が、もちろんあるにはあるのだが、深刻なものではないことになる。全盲は人生における大きなハンディであっても、歌を歌うことの障害にはなっていない。目が見えないのは、たとえ最終的に子供の頃のアクシデントはいえ、背が高い低いといった、生まれながらの身体的特徴と同様なところもあって、当人にとって改善したり悪化させたりはできないものである。むしろ喫煙のほうが歌を歌う障害になるのだが、これはあっさり克服できている。

つまりきわめて感動的な題材であり、その苦悩と努力は常人には計り知れないものがあるのだが、にもかかわらず、物語の部分で感動が薄いのは、なぜかと、いま考えているのだが、実際、こんなことなら、事実を大胆な改変してもよかったのではないか。学生時代からの二人での音楽活動の相方とのゲイ的な関係をつくってもよかったんではないかとも思う。

とはいえ、映画全体にとって感動が薄いかというと、物語上の思わぬ障害にもかかわらず、その歌声の圧倒的な迫力によって、感動を呼ぶ。まさに歌声の魔力といってもいい。それを体感してみるためにも、この映画は絶対に一見の価値がある。

あとネット上では、イタリアを舞台にしたイタリア人の物語ながら、映画では台詞が全部英語になっていて、その英語がこなれていないというような場違いな批判があった。まあ、これは原則とか理屈を説明し始めると(基本的に理屈にあわないことなので)説明がめんどうになるのだが、本人役はイギリス人の俳優だが、父親役のジョルディ・モリヤは、ハリウッド映画などにも出ている有名な俳優で、スペイン人、母親役のルイーザ・ラニエリ   は、イタリア人だが、かつてTV映画でマリア・カラスを演じたことがあり、マエストロのアントニオ・バンデラスは、いうまでもなくスペイン人。彼らの話す英語は吹き換えられているのかどうか知らないが、たとえ吹き換えであってもいい、あれは英語が下手とかこなれていないというわけではなく、ネイティヴではないイタリア人が話すような英語、ステレオタイプ化した英語なのである。ハリウッド映画にロシア人が出てくると、ロシア国内が舞台であっても、ロシア語なまりの英語を話すようなものである。

これはもちろん理屈にあわない。たとえば日本人がアメリカに行って現地の人たちと下手なカタカナ英語を話すことはふつうにあるし、また日本人観光客の話す英語を、ステレオタイプ化したカタカナ英語にするというような演出があってもおかしくはない。しかし、日本を舞台にして日本人同士が話している場面を、日本語ではなく、英語に吹きかえる、あるいは演者に英語でしゃべらせる場合に、そこで外国語訛りの日本語が話されたらおかしい。ネイティヴの日本人どうしの会話が、外国語訛りの日本語であることはない。あるいは『三国志』の物語を、日本人俳優が演ずる場合、あるいは中国人俳優の台詞を日本語で吹きかえる場合に、伝統的に揶揄的な中国人のなまった日本語が飛びかったらおかしいのと同じである。

あるいは、ある論文で紹介したことだが、イギリスのテレビ局がフランスの推理小説のメグレ刑事物(舞台はフランスにしている)を連続テレビドラマで放送したところ、視聴者から、メグレ刑事の話す言葉が、フランス語なまりの英語になっていないという不満の声が寄せられたことがあって、バカじゃないないかと思ったことがあるのだが、メグレ刑事は得るキュール・ポワロとちがってフランス人なので、フランス人どうしで話をするときになまったフランス語で話すことはない。もし、そのドラマの英語版で、外国語訛りの英語が話されていたら、メグレ刑事がフランス人ではないことになる。また外国語訛りの英語なり日本語なりを強調することは、外国人差別にもなるので、近年、そのような演出はなくなったのだが、『アンドレ』では、英語の台詞にすることで、外国語訛りの英語にして、イタリア感を出そうとしたことは、やや残念な気がする。まあ最初から、これぞイタリアという田園風景をみせつけられるので、イタリア情緒満載の映画にしようという意図はかいまみえるのだが。

あとマエストロの指導法だが、『カラテ・キッド』の日本人師匠のように、まったくナンセンスな練習法が、あとから理にかなっていた練習法だとわかるという、これもよくあるパタンかと思っていたら、もちろん私は音楽の専門家ではないし、音楽は、もっともなじみのない分野なのだが、私よりも音楽について詳しい人(ただし専門家ではない)に聞いたら、あの指導法は、一見不条理だが理にかなっているという、わざとらしい設定ではなく、実のところ、きわめてよくある指導法で、おそらく伝記的事実に基づいているとのことだった。

たとえば、リサイタル前には声を使うな、しゃべるなという指導法である。これが「沈黙の声」という原題につながる。昨年だったか、映画『人魚の家』を観たとき、長く昏睡状態にあった女の子がある日突然起き上がり、「お母さん、ありがとう」と母親にいう場面があって、長い状態から目覚めたら、声帯を使っていないので、絶対に話せない、あれは嘘だと見ながら思ったのだが、映画のなかでも実は、母親の見た夢だったという流れになっていて、まあ、安心したのだが、しゃべりすぎたりするのはよくないとしても、ウォーミングアップとして日常的にも声帯に負担がかからないぐらいに話してもいいのではないか、そうしないと本番に声が出ないのではと思ったのだが、それは私のような素人考えであって、日常会話の発声と声楽の発声は違うので、沈黙を守る、また外国語の歌を歌う場合でも、母国語と発声法が違うので、沈黙を守るということはふつうにおこなわれているらしい。そんなことを聞いたので、あのマエストロの指導法は、素人には異様に見えるが、むしろ、よくある指導法らしいとわかった。

スター誕生後の話で、この映画とは関係ないかもしれないが、アンドレアは別分野の歌手と共演して名声を博しているのだが、それは彼自身の、あるいは彼をプロデュースしている側の戦略なのだろうか。その戦略は成功して、いままさにアンドレアはロックスター並みの人気を誇っている。そう、一か所に、大量の聴衆を集めて歓喜させるのが、現代の、エンターテインメントにとどまらない一大潮流になりつつある。すでに離日したがフランシスコ教皇は、その人気からロックスター教皇と呼ばれていたが、それを裏付けるのように後楽園球場で、ミサあるいは集会を行っていた。現代を象徴する文化シーンのひとつである。

マイケル・ラドフォード監督の映画は昔から見ていて、前作は『トレヴィの泉で二度目の恋を』(Elsa & Fred (2014))だったが、『1984』とか『イル・ポスティーノ』(Il Postino (1994))で名高いのだが、それ以外にも『白い炎の女』(White Mischief (1987) )『Bモンキー』(B. Monkey (1998))、『ブルー・イグアナの夜』(Dancing at the Blue Iguana (2000))
とみていて、けっこうなファンである。シェイクスピア研究者としてはアル・パチーノ主演の『ヴェニスの商人』もまた、その圧倒的な迫力で記憶に新しい。なお『ブルー・イグアナの夜』はアメリカのストリップダンサーを扱った群像劇だが、そこに登場していたストリッパーの一人にアジア系の女性がいて名前を記憶した。最近ではテレビ・シリーズ『キリング・イヴ』で主役をつとめているサンドラ・オーである。
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2019年11月20日

『あの出来事』1

『あの出来事』

1. コロスとコーラス
デイヴィッド・グレッグ作、谷岡健彦翻訳、瀬戸山美咲演出による『あの出来事』を新国立小劇場でみる。

谷岡健彦氏の翻訳によるグレッグの作品は『黄色い月』について二作目だが、今回の作品は、読んだことがなく、そもそも本自体持っていなくて、あわてて取り寄せて読んでみた。もし私が、この作品を翻訳し、この作品を上演するとしたらという可能性の相のものに読むと、谷岡氏のようにこなれた美しい日本語に訳すのは至難の業だが、そのことは無視するとしても、私には翻訳はむりである。ましてや演出となると完全にお手上げである。谷岡氏はエディンバラ・フェスティヴァルで、この作品の舞台をみているので、翻訳とか上演について、ひとつの実現可能性を見ているわけで、それを踏襲するにせよ、新解釈で臨むにせよ、基盤があるのだが、それがないと、ほんとうにお手上げである。

そのためこの作品を翻訳し舞台化した今回の上演は、ある意味、画期的なことだと思うし、私は事前に作品を英語で読んでいったが(原書で正味50ページくらいで短い)、読んでいったからこそ、舞台で起こっていることに戸惑うことはなかったが、もし、読んでいなかったら、正直いって、何が起こっているのか把握するのに時間がかかったかもしれない。おそらく観客の多くは、異様に難解な作品と思ったかもしれないし、舞台の二人の俳優の熱演にもかかわらず、いつしか眠りに誘われたかもしれない。ということは、この上演は、攻めているということだ。最近の上演では、珍しいと言ってはなんだが、とにかく攻めた上演であって、むしろこういう企画や大歓迎という気がする。予習していたった私にとっては、攻められても、驚いたり頭をかかえることはなかったとしても。

ちなみに個人的なことだが、演劇は作品を読むことができるものであれば、たいてい予習してゆく。そのぶん驚きがないではないかと思われるかもしれないが、読むだけではわからない部分を、舞台で確かめることができる。もちろん、今回の上演では、谷岡氏の翻訳を通して、そういう意味だったのかとあらためて教えられることは多かったし(ただざっと読むだけで、文化的背景知識なども丁寧に調べているわけではないので、翻訳者から、今回は谷岡氏の翻訳から、教えられることは多かった)、そして読むだけではわからない舞台のありよう、そのパフォーマンスの迫力なども、実際に劇場に足を運ばないとみることができないために、予習をすれば、驚きはないが、それで興味がそがれることはない。

ちなみに今回、日本語を上段、英語を下段に配した字幕が舞台上に掲げられて、なぜそのようなことが試みられたのか、よく分からなかったのだが、ついつい字幕を見ていて、谷岡氏の翻訳の正確かつ自然な日本語に圧倒されたことは記しておきたい。

この作品は、2011年7月22日のウトヤ島における銃乱射テロをモチーフにしていると書かれている。あくまでもモチーフなので、その事件の再現作品ではない。比較的最近、この再現劇映画をみたし、この事件についても、予習したが、作品を思い起こせば、この事件を直接扱っているわけではない。

したがって、この作の舞台は、ノルウェーでもなければウトヤではない。イングランドのどこかの地方都市における公民館のようなところで、一般人それも人種や民族は混淆している住民からなるコーラス集団の指導者の女性(南果歩)とピアノ伴奏者、そして30人の合唱団が合唱の練習をしている。そこに少年が(小久保寿人)が入ってくる。指導者の女性と少年とのやりとりが劇の中核をなすのだが、そのやりとりを通して、少年が銃乱射犯人で、この建物に突如侵入して、銃を乱射し、練習中の合唱団を殺したか、あるいは合唱団のひとり(シン夫人)と隠れていた指導者をみつけた少年が、弾丸は1発残っている、どちらを殺したらいいか選べと隠れていた二人に語ったらしい。その後のことはよくわからないが、最後の銃弾でシン夫人が殺され、指導員の女性は生き延びたらしいということがわかる。それが彼女のトラウマとなり、彼女を事件後も苦しめているらしいことはわかる。

だが、問題は、この舞台の空間は、どういうものなのか、よくわからない。少年が合唱団のもとにやってくるのは、テロ事件における侵入を反復しているように思われる。あるいは過去の回想場面なのか、それとも事件後の少年との架空の対話をおこなっている女性指導員の脳内劇場なのか(この最後の可能性が一番蓋然性があるのだが)。

まらさらにいうと、この少年は、犯人の少年だけでなく、さまざまな人物を演ずる。また合唱団の練習場に侵入してきた少年だけではなく、最後のほうでは、逮捕され刑に服している少年にもなる。

かりに脳内劇場だとしても、少年は、彼女の知人であったり、彼女が出会った人々を表象している。この空間は、脳内空間かもしれないし、あるいは、いまだ名前のない不思議ない空間かもしれず、しかも、いま彼女は誰と話しているのか、少年はどういう人物を演じているのか、わかならいないところもある。また注意して耳を傾けていないと、女性が誰と会話しているのかも把握できなくなる。この空間は、脳内劇場で片付けていいのだろうか。名づけると、その不可思議さ、その多様な含意が消えてしまう気がする。

谷岡氏が以前翻訳され、下北沢のスズナリで上演されたデイヴィッド・グレッグの『黄色い月』では、4人の登場人物のほかにナレーターがいて、この語りが独特のものだった。つまり状況の説明をしたり、人物をとりまく境遇とか人物の性格を招待したり説明したりするだけではない、人物の内面まで入り込み、内的独白もする。言葉を話さない自傷癖のある女子高校生の心の声までもナレーターは代弁するのである(ちなみにその女子高校生役は、当時、無名の――だが名前が変わっていて、その後も私は記憶していたのだが――、ブレイクする前の門脇麦だった)。

こんなナレーションは珍しい。上演では、大人の役の人物二人が、かわりばんこにナレーターをつとめていたが、違和感マックスの演出だった。実は、この『黄色い月』というのは学校演劇でもあり、教育の場での、ありていにいって教室での上演も可能になっているのであろう。そんなときに出演者がたったの4人? いくら少数教育といっても、学校演劇で出演者が4人というは少ない。もちろん4人の人物を交替でとっかえひっかえ生徒たちが演ずることもできるのだが、それならばナレーターを、最低でも一人置く。彼もしくは彼女は、舞台のとこかにいて最初から最後までナレーションを担当してもいい。あるいは交替で人物を演ずる者以外の残り全員がナレーションを分担しておこなってもいい。あるいいは演ずる4人を除くクラス全員がギリシア演劇のコロスのようにナレーションを担当してもよい。そのほうが全員参加の学校演劇作品にふさわしくなる。

ただ繰り返すが、人物の内面まで入り込み、意識の流れ、内面の声まで語るナレーションは珍しい。いまKAATでの『グリークス』観劇のために、予習として毎日ギリシア演劇を翻訳で読んでいるのだが、ギリシア演劇のコロスとは、まったく違うナレーションである。

では、そのナレーションは何かといえば、『黄色い月』公演時には気づかなかったが、それこそ日本の演劇の浄瑠璃とか歌舞伎の謡いの部分に近い。人形浄瑠璃など、また能でもいいのだが、あれはコロスが人物の台詞を語るのである。まるで内面の声でもあるかのように。ただ、これはデイヴィッド・グレイグが、日本の演劇に影響を受けているといことではなく、おそらく日本の演劇もグレイグの演劇も、同じ影響源を共有しているということだろう。

今年の10月の台風シーズンに彩の国さいたま芸術劇場で、藤田貴大作『蜷の綿』の素晴らしいパフォーマンスを観た(ちなみに戯曲は、インタヴューと台本とを収録した『蜷川幸雄と「蜷の綿」』(河出書房新社)で読むことができるし、この戯曲が、蜷川の生涯をたどると同時に、藤田貴大ワールド全開の作品でもあって素晴らしいの一言しか思い浮かばず、さらにインタヴューを集めたこの本自体にも感激して劇場のロビーで販売中のもの(たぶん書店に並ぶ前のもの)を購入して帰宅後むさぼり読んだ)。

この公演パフォーマンスはリーディング公演と銘打たれていて、本公演ではないのかと、最初は期待しなかったのだが、朗読するのは台本をもった高齢者演技者たちだけで、彼らが、いうなればコロスとなり、彼らの前では、蜷川を演ずる俳優と、蜷川の人生に関係したさまざまな人びとを演ずる俳優たちの演技は、リハーサル的朗読劇ではまったくなく完全に本公演であったのだが、そのときの舞台のたたずまいは、まさに『あの出来事』と同じで、後ろに並んだコロス/コーラスの前で回想のなかのやり取りが展開する――もちろん藤田ワールドなので直線的展開ではなく、キーワードやキーフレイズ、さらには鍵となる出来事へと絶えず回帰する反復的展開なのだが。

これは藤田貴大作『蜷の綿』とデイヴィッド・グレイグ作『あの出来事』とが同じ劇的構造をしているといいたいのではない。そうではなくて『蜷の綿』の演出が、舞台全体を能舞台にしていたことを思い出したいのだ。藤田の台本には、能舞台的にするというような指定はない。演出家の判断なのだが、劇場には簡略化された橋掛り(歌舞伎で言う花道)が設けられていて、簡略化された能舞台的意匠も見受けられた。シテが死んだ蜷川であり、そこに彼の人生で重要な関わり方をしてくる人物たち(実在の)がワキとしてからんでくる。もちろん最初から能を意識してつくられている舞台ではないから、シテだとワキだのといっても比喩的なものでしかないのだが。また繰り返すが、原作は能舞台として表象されているわけではない。ただ、死んだ者があらわれ、おのが死にいたる人生を回顧するという設定は、演出家に自然に、能の世界を選択させたものと思われる。

そう、『あの出来事』の不思議な空間も、また、コロス/コーラスを前にした、死んだ人間の、死に至る経緯の語りではないないだろうか。あの舞台空間を、脳内劇場といったが、まさにそれは「脳」ではなく「能」の舞台と同じ演劇性を帯びているのではないか。ただシテが誰なのか? 少年なのか。ただ、少年ではなく女性指導者がシテであるようにみえる。少年は、ワキの集合体であるようにもみえる。そうなるとシテである女性は、ひょっとしたら死んでいるのかもしれない(シテが必ず死んでいるということはないが)。死んだのは彼女だったのかもしれない。彼女は夜ごとこのコーラスの練習場に来て、過去の出来事を再現しているのではないだろうか。脳内劇場で能舞台で「あの出来事」を。

とまれ『あの出来事』におけるコーラス(文字通りでもあるが)と二人の人物という舞台構成は、ギリシア演劇を踏襲している(ギリシア演劇でコロスを除くと舞台で語るのは、基本的に二人だけ、のちに三人にもなったが)。と同時に、それは日本の能舞台をも彷彿とさせる。もちろんグレイグが日本の能に影響を受けたと言うことではない。グレイグの作品も、能も、あるいは藤田貴大の『蜷の綿』も、同じ影響源を共有しているということだろうが、グレイグの舞台を考えるときには、未知の影響源Xを探るのではなく、日本の能舞台の考察がもっとも近道であるかのように思われる。能の舞台が、ある種のパラダイムとして機能してくれるのではないだろうか。

コーラスの練習をしているところに少年が入ってくる。少年を歓迎する女性指導者は、少年とのやりとりのなかで過去の出来事を想起し反復する。やがてコーラスが自発的に練習をやめて帰宅する。過去のことは忘れたほうがいいという理由で。ここまでくると、舞台は現実の出来事ではなく、彼女の想像上の出来事だと確定する。そして彼女の脳内劇場がつづくなかで、裁判にかけられ服役中の犯人に、犯人を許すと公言してメディアでも話題になった彼女が面会に行く。そして犯人の少年と向かった彼女は、「なぜ」と問う。そして面会後、彼女は、過去を清算して新たな出発をするようにみえる。解散したコーラスを復活させようと彼女は準備している。

これが全体の流れなら、それが見方をかえると、シテとワキ(どちらがどちらかは確定えきないのだが)、そして謡曲からなる能舞台に見えてくるというか、能舞台的な、この世でもあの世でもない、特定の場所のようでいて、場所ではない、劇場空間としか呼びようのない特殊な空間での、女性の意識を中心とした、想像の邂逅という様相を呈してくる。あるいはさらにいうと、それは女性の脳内劇場というにとどまらない。作者の、あるいはこの社会を震撼させた事件に直面した市民社会が、苦悶のなかで想像した事件の真相を探る空間でもあったのだ。


2 キャリバンとミランダ

『あの出来事』のなかで移民としてやってきた地域住民たちを射殺したであろう少年の語りの最初のほうで、アボリジニーの思いということを語るところがある。たとえばいまのオーストラリアの地で、アボリジニーの男が、湾内に入ってくる複数の帆船をみて抱く思いである。帆船は西洋人の植民者を乗せている――これから残酷な植民地化がはじまる。あるいは時代は、すでにオーストラリアが英国の植民地となって、犯罪者の流刑地と化してからのことかもしれない。いずれにしても土着のアボリジニーの人間たちは、白人の侵入者に敵意を抱いている。彼らの郷土を汚し、収奪し、そしてあろうことか流刑地として利用するとは。アボリジニーの怒り。これこそが、移民を射殺した気持ち、移民への敵意と同じものだと少年は言わんとしているように思う。

これに対してコーラス指導員の女性は、最後のほうで反論する。6000年も変わらぬ停滞した土着世界のなかで生きてきたアボリジニーは、やってきて帆船をみて、これから、なにか思いもよらない素晴らしい出来事がはじまるのだと歓喜したかもしれないではないかと。憎しみと敵意だけではない。その可能性を示唆するのである。

ただ、移民を憎み殺すヨーロッパ人の比喩としてアボリジニーというのはおかしいのではないか。むしろ逆転している。加害者である白人に属する少年が、被害者たるアボリジニーに同化するとは? そもそもアボリジニーに同化するこの少年とはどういう人間なのか。

ウトヤ事件の犯人は、マルチカルチュラリズムを標榜し積極的に移民受け入れ政策を推進するノルウェー政府と政権与党の労働党に対して反感を抱いていたとされるのだが、実は10代には、移民の面倒をみる仕事に就いていた。移民とすすんで関わり、彼らのために便宜を測る政府関係の仕事に従事していにもかかわらず、なぜ移民憎悪の犯罪に至ったのか。そのへんの複雑な事情は、しかし、この演劇における、少年の過去の掘り下げを通しての人物造形にも関与している。アボリジニーに寄り添いながら、アボリジニーでもあった移民を憎むようになる少年のパラドクシカルな心的メカニズムについて語るべきことが多くあるかもしれないが、それにしても彼はなぜイングランドの白人でありながら、アボリジニーにも寄り添うのか(さらにいうと、この少年は部族社会の戦士(バーサーカー/狂戦士)にも自分をなぞらえるのだが)。

こう考え、そして全体を読んだり、見終わったあとで、この少年は、キャリバンだという思いを強くした。シェイクスピアの『テンペスト』に登場するキャリバン。そんなふうに思ったのも、私自身がシェイクスピアの『テンペスト』に常に関心があること、またポストコロニアリズムにおいて、『テンペスト』とかキャリバンは特権的なテクストであり人物であるから、突然、そんなふうに思ったというだけではない。少年はキャリバンだという思いは、強く私のなかで響いてきた。なにかものすごいリアリティとともに……。

と、この瞬間、私は『あの出来事』の原書を探していた。思い出した気がした。劇のタイトル、登場人物表と本編のはじまりとの間にタイトルとエピグラフを書いた頁(原書でいうとp.9)がある、そこにはこうあった

THE ENENTS

‘This thing of darkness I acknowledge mine’
The Tempest

と。「この暗黒の物を私は自分のものと認めよう」という『テンペスト』のなかの有名な台詞であり、語っているのはプロスペロ、この「暗黒の物」とはキャリバンのことなのである。そしてこれは、今回の公演では明示されないエピグラフであった(明示する必要もないとしても)。

つづく
posted by ohashi at 11:15| 演劇 | 更新情報をチェックする

2019年11月17日

『影踏み』

ネット上では、予告編で予想したのは、違った映画だったという感想がみうけられたが、それは同感である。予告編できたされたような展開もあってよかったと思うが、予想外の展開も面白かった。しかも、ひねってあるところ(原作どおりのようだが)もよくて、難解になりすぎずなっていところもよい。

ネット上の紹介によると

「64 ロクヨン」「クライマーズ・ハイ」などで知られる作家・横山秀夫の小説を、歌手の山崎まさよしが「8月のクリスマス」以来14年ぶりの主演を務めて映画化。住人が寝静まった深夜の民家に侵入して盗みを働く、通称「ノビ師」と呼ばれる泥棒の真壁修一は、忍び込みの技術の巧みさから、警察から「ノビカベ」とあだ名されるほどの凄腕ノビ師だった。そんな真壁は、ある日の深夜、県議会議員の自宅に忍び込むが、そこで偶然、未遂となる放火殺人現場を目撃。これをきっかけに、真壁がずっと心の底に押し込めていた20年前の事件の記憶が呼び覚まされ……。監督は、山崎の映画俳優デビュー作「月とキャベツ」も手がけた篠原哲雄。篠崎監督と山崎が、監督と俳優としては同作以来23年ぶりにタッグを組んだ。
2019年製作/112分/G/日本 配給:東京テアトル

とある。当然ながら、予告編よりも、かなり踏み込んだ内容紹介だが、ここから想定されるのも、実は予告編と同じで、盗みに入った家から巨悪につながるような何かが起こると同時に、主人公も過去の事件でトラウマをかかえていて、それがたぶん、最後に伏線として回収されるというような内容を予想した。一部しかあたっていない。だが、あらたなくてよかったという展開となる。

主役の山崎まさよは、滋賀県大津市生まれだが8歳の頃、山口県防府市に引っ越し、防府市で育ったという。防府市では関西弁がみんなから笑われたと、TBSの番組『Aスタジオ』で語っていたが、私の母の郷里は防府市で、母から、関東から移り住んできた子供の話す鼻濁音(関東の発音で、「が」を「んが」というように発音すること。標準語の発音だが、いまではあまり守られていない)をみんなで笑っていたということを聞いたことがある。関西弁も関東弁も防府では笑われていたらしい。

それはともかく番組では私も知っている防府天満宮を中心にというか、ほぼ天満宮だけの紹介で終わっていたが、京都の北野天満宮、太宰府天満宮と並んで防府天満宮は三大天満宮のひとつ。あと番組では瓦蕎麦の紹介をしていたが、写真でみるかぎり、茶蕎麦ではなく、ふつうの蕎麦を使っていて驚いた。まあ、そば粉が半分以下の茶蕎麦よりも、ふうつの蕎麦のほうがそば粉含有量は多くて健康にもよいかもしれない。私もホットプレートで瓦蕎麦は作ることがある。

そうしたこともあって、防府出身といってもいい山崎まさよしに対しては親近感をいただいているのだが、以前、その高音の甘い歌声を最初に聞いた私は、山崎の容貌が、声とギャップがありすぎて、違和感を覚えたことがある。

まあ、あの『檸檬』の作者梶井基次郎が、作品から連想するような繊細な文学青年とは似ても似つかないゴリラ顔で驚いたときほどの違和感というかギャップはなかったのだけれども、山崎まさよしは、その抒情的な歌とは違和感のあるガテン系のちょっとこわもての顔立ちだが、今回の映画の役どころは、本人の容貌と合致していて違和感に苦しむことはなかった。しかも泥棒だが、司法試験を目指していた優等生でもあったという二重性は、山崎の歌と容貌の二重性とシンクロしているようで、この設定というか性格付けもよかった。

山崎マサヨシは、主演の映画やテレビドラマがすでにあるのだが、残念ながら、それを見たことがなかったので、今回の映画でどんな演技をするのか興味津々だった。

映画は冒頭、ナレーションというか語り掛けで始まる。誰が話しているのかわからないのだが、映像の流れからすると顔はみえていないが山崎マサヨシらしいと想定すると、その語りの、あまりの下手さにのけぞる思いだった。棒読みを通り越して丸太読みである。え、この演技はだめでしょう。この演技で主演する映画を最後まで見ていられるかと思ったのだが、声の主がわかって安心した。竹原ピストルの語りだった。警察の取調室で、山崎の幼なじみの刑事が逮捕された山崎に語り掛けているのであった。山崎以上にガテン系アーティストの竹原ピストル出演の映画は4本くらいみていて、顔はわかるのだが、また顔を見ながら、その語りを聞いていても何の違和感もないのだが、声だけ聴いていると失神しそうになるくらい下手すぎのはどうしてなのか不思議でたまらない。

それはともかく山崎まさよしの演技は、ペアを組む北村匠海と比べれば、北村のほうがはるかに上手いが、山崎の下手な部分は、主人公の朴訥さとか不器用さに容易に変換されて、違和感がないどころか、それがある種の味にもなっていて、山崎と主人公の両方を強烈に印象付けることになる。と同時にこうした下手な部分が味になるのは主役か、主役に匹敵する重要な役どころであるからこそであって、これからも山崎をキャストに加えたい監督はあらわれるように思うが、そのときは主役か準主役の起用でないと、演技の素人っぽさが化学変化を起こさないだろう。

素人っぽいというのはセリフ回しであって、この点は竹原ピストルと同じなのだが、見た目に山崎に素人っぽさはないし、これは多くの観客が指摘しているところだが、北村匠海との自転車の二人乗りのシーン、あのみごとなまでの快適なたたずまい(それは肉体的な絆だけでなく、精神的な絆も暗示するのだが)には感動するしかない。

で、映画のなかでの北村と山崎との関係だが、こんなわけのわからない投稿があった。

投稿日2019年10月31日 投稿者 投稿:くう子
3月にスニークプレビューで観賞。
原作では謎になっていないらしい主人公と北村匠海の関係がミステリーになっている。そこに早い段階で気づいてしまうと、後のストーリー自体にはあまりのめり込めない。山崎まさよしと北村匠海はとても良かった。

ふたりの関係は映画でも謎になっていない。最初は、この男は誰だと思うのだが、ほどなく、この男は、『ブルーアワーでぶっ飛ばせ』と同じ趣向かと思えてくるし、しかも、すぐに、どういう相手かもわかってくるし、映画の半ば以前に、北村が誰であるか、ちゃんと映像で説明している。

またミステリーがあると、ふつう、その解決を求めて、プロットにのめりこむ。この*****は、犯人が最初からわかっている推理小説しか読まないか、そうした小説にしか面白さを感じないのだろう。かなりの*******である。

これではせっかくスニークプレヴューで見せても逆効果ではないだろうか。あるいはスニークプレヴュー時と映画公開時では内容に変更が施される場合もあるだろうから、最終ヴァージョンを確認してからでないと、意味不明の、営業妨害的コメントとなるので、注意すべきだろう。また、上記投稿者がもし劇場公開版を見てから投稿したのではないとしたら(どうもそうらしいが)、これはルール違反だから、よく眠れるか確認してコンサルティングを受けさせたほうがいい。

以下ネタバレ Warning:Spoiler


端的にいうと、これは双子物。これは予想外だった。

私は双子ではないが、しかし、人間は誰でも双子であると思う。つまり人間に自己意識があるのなら、自分の言動をかならず監視したり追跡したり傍観しているもう一人の自分がいる。私のなかには、必ず、もうひとりの私がいる。どんなに悲しくて号泣しても、あるいは怒りが頂点に達して怒鳴りまくっても、泣いている自分を観察している自分、理性を失って怒っている自分を冷静に理性的にみている自分が、いる。自分の行動は、たとえ本心からでも、演技でもあるという意識は、私たちの心から消えることはない。あなたはインスタグラムの写真を誰にみせているのですか。知り合い、あるいは全世界の人たち?いえ、それはもう一人の自分でしょう。あなたはつねに二人いるのだから。

そしてこれは双子問題と関係するのだが、恋愛は、二人の場合もつねに三人関係(スリーサムThreesom)であると私は考える。これはジラールの欲望の三角形の延長にある考え方だが、ジラールは恋愛は三角関係が基本であると考えた。

私はさらに、この三角関係のなかで、ひとりをふたりが奪い合うだけでなく、ふたりも愛し合っているのではないかと考える。

三人が同性ならば同性愛だが、男一人に女二人、あるいは女一人に男二人、いずれの場合にも、二人の競争相手の間には、実は愛もまたあるということである。異性からなる三人組の場合、異性愛と同性愛が同居する。この同居は最後まで解消されることはない。たとえこの映画のなかで、あるいは、一般にも同性愛的部分は消去されるとしても、それは異性愛中心主義への譲歩であって、真に同性愛的関係が消えるわけではない。

双子と三人組。これついて、考えされてくれた、またそれがもたらすサスペンスとミステリー、かなり興味深い、感動的な映画だった。
posted by ohashi at 07:56| 映画 | 更新情報をチェックする

2019年11月16日

『CLIMAX クライマックス』

『CLIMAX クライマックス』(Climax)(キャスパー・ノエ監督)の映画は体調不良のときは見ないほうがいいと思う。事実、最悪の体調不良状態で見た私は、夕方の回を見たのだが、その夜の予定をすべてキャンセルして帰宅した。

映画の内容が不快であったのは確かだが、なにしろ私の嫌いなキャスバー・ノエ監督作品だから不快であるのは当然なのだが、不快な内容だから体調不良が悪化したのではない。そうではなくて、映画のなかで、知らぬうちにLSDを盛られ、全員、体調がおかしくなり、なかには危険な状態になる者もでてくる。LSDは、身体的というよりも精神的認識状態に悪影響が出て幻覚などをみるものだと思っていたが、基本的に長回しのワンテイクで、舞台的空間での展開となるので、演劇的であり、身体的次元での映像にとどまるため、精神錯乱をともなう身体的不快感が前面にでる。そのため、見ている側も、それに、つまり身体的に同調してしまうのである。

謎の体調不良で苦しんでいる人物たちをみていると、体調不良の私は、さらに気分が悪くなってきた。映画館は終始大音量の音楽で包まれる。内容も人間のむき出しの獣性あるいは暴力性をこれでもかと畳みかける。本来なら、それを面白いとみることもできたかもしれないが、体調不良の私は、悪化する体調不良のなかで、ひたすら終わるのを待った。終わりの頃には画面が上下逆転する。字幕も逆転してさかさに画面上部に示される。めまいとか吐き気がするようになってきた。

Wikipediaには、詳細なあらすじが掲載してあって、ネタバレもなにもないのだが、ただ、内容は冒頭から予想されるので、ネタバレが起きるというようなものではなく、意外性も少ないのだが、とまれ簡単な紹介だけをみておきたい――

『CLIMAX クライマックス』は、2018年の仏白合作のミュージカル・ホラー映画。監督はギャスパー・ノエ。主演はソフィア・ブテラ。誤ってLSDを摂取してしまったダンサーたちが、次第に精神が崩壊していくさまを描いている。また、本作の主要キャストにはブテラの他に、全員演技未経験のダンサーたちが起用されている。上映時間 96分

ちなみにバカペディアの記述で仏白合作とあるのだが、仏はフランスだろうが、白は何? 調べたらベルギーのこと。ベルギーを白と表記することを初めて知ったというか、こんな表記は一刻も早く廃絶すべきである。

なお誤ってLSDを摂取とあるが、それはパーティでふるまわれるサングリアのなかにLSDが混ぜ込まれて、それを飲んだ全員がLSD影響下にはいるというものだった。くだらない。

というのも、英文学者のはしくれだった者としていわせてもらうと、『オルノーコー』で有名なアフラ・ベーンの戯曲にThe Widow Ranter(1689年作者の死後上演。ベーンの戯曲では代表作)という英文学史上はじめてアメリカを舞台にした作品があるが、そのなかで、大量にアルコールが入ったフルーツ・ポンチ/パンチでぐでんぐでんに酔っぱらうという場面がある。フルーツ・ポンチは16世紀の発明品らしい。またベーンの作品が、この設定を世界文学史上最初に使ったのものかどうかはわからないのだが、ポンチに強いアルコールをいたずらで混ぜるというは、以後、多用される。

口当たりのいい飲料(非アルコール飲料も含む)に強いアルコール飲料をまぜたため、知らないうちに飲みすぎて、泥酔状態になった人物たちが大混乱を引き起こしたり、現代においては、それで車を運転して帰宅途中に交通事故を起こすといった、軽い気持ちのいたずらが大惨事に起こすという演劇的・映画的設定は、よくある。よくありすぎて、もう古臭いといってもいい。なにしろ17世紀後半のアフラ・ベーンの作品にまで登場するのだから。

そう、バナナの皮で足を滑らせるという、もう古すぎて誰も笑わないようなギャグと同様に、パーティでポンチあるいは、この映画ではサングリアにアルコールとかドラッグとかはまぜて、飲んだ者のがおかしくなるのは、笑えないギャグである。笑えないというのは、その結果が悲惨であると同時に、古すぎるということである。

もうひとつ問題なのは即興演技の長回し。これを実現した点で、映画製作者の超絶技量を褒めるべきだろうが、これが両刃の刀で、映画撮影としてはすごいが、そのぶん内容が薄くなったということである。登場するのが演技経験のないダンサーばかりだからということではない。

たとえば素人の私が、即興演技してくれと頼まれる。たとえば、そう職場に不満をもっている「私」が、銃弾100発と拳銃を偶然入手し、どうするか、即興で、演技してほしい、それを編集なしでカメラに収めるといわれるとしよう。もちろん演技するだけで、ほんとうに、ほんものの拳銃を発射するわけではない。それで職場の仲間、それも「私」に陰湿ないじめをする同僚たちに復讐をすることにしたらどうか。リアリティを出すために、俳優ではなく、私の本当の同僚にも出演してもらうことにする。そうなるとどうなるか。

最悪の結果になるだろう。私は、演技や映画や撮影現場についての素人であって、与えられた課題をただ真剣に必死にこなすしかない。そのため映画製作側を喜ばせるために、いじめの復讐というセンセーショナルな展開を自分から引き起こす。味のある、あるいはニュアンスのある展開を思い起こす能力もない私は、B級映画以下の、最悪の三文小説的プロットを即興的に構築して演ずるしかなくなる。その過程で、自分でも興奮してきて、たとえ偽の拳銃でも、本当に発砲し、復讐しているような気がするし、ほとんど話したこともない同僚に対しても、積年の恨みがあるかのように思い込んでしまって、とことんハイになって、いくところまでいってしまうのだ。最終的にセンセーショナルなC級映画を生み出すために。

失敗に終わるのは、これが本物の拳銃ではないからである。もし本物の拳銃を渡されたなら、もっと残酷なことをするか、あるいは暴力行為を自制して警察に届けるか、復讐などしなくて自殺するか、大規模テロに走るか、為政者暗殺に走るか、拳銃を分解してそのメカニックを確かめるか、予想はできないが、センセーショナルではない行為に走ることも、想定外の行為に走ることも、心温まる結果を出したり、取り返しのつかない錯乱行為に走ったり、とにかく多種多様な反応が考えられるし、そのいずれをとっても、私の人間性にとどまらず、人間性一般についても、あるいは私を取り巻く環境や教育の力などについても、多くのことを教えられるかもしれない。とするならば、三文小説的な展開にならない行動パタンをひとつ選択して、そこに至る過程やそこから生まれる効果などをじっくり解析するような映画的展開があってもいい。つまり劇映画のほうが、即興でクソみたいな三文小説的センセーショナリズムに走るよりもはるかにリアリティがある。素人が即興演技すれば、そこにリアリティが生まれるという考え方ほどリアリティのない浅はかな考え方はない。

この映画でも、もしこれが演技者にほんとうにLSDを飲ませたらのなら、それは興味深い展開となるだろう。ドキュメンタリーとして。またその場合、それでも三文小説的展開になるかもしれないが、また予想外の展開となることも多いだろう。そしてそれはもっと悲惨な展開になるかもしれないし、もっと理知的な展開になるかもしれないが、いずれにせよ、そのときにこそ、人間性に関する深い洞察が得られるはずである。三文小説的な予測可能な展開からは、いかなる洞察も得られないだろう。

いや、この映画は実話や事件に基づいていて、結果は、映画と実際の事件は同じだというのなら、ではなぜ、即興演技をさせたのかということである。5ページ足らずの台本が、どのようなものなのかわからないが、自殺するもの、凍死する者などの設定は前もって書き込まれているだろうが、それ以外は、ないと予測すれば、本来なら、このパーティに参加者は、逃げ出すかもしれないし、ドラッグを抜くための工夫を凝らすかもしれない。生存がかかっているのであって、いがみあっている場合ではない。力をあわせて、状況を打開することを画策するかもしれないのだ――それが唯一の選択肢ではないとしても。

要するにこの映画は、人間のなかにある獣性、暴力性、非合理な欲望をあばくというか、それを利用してポップな映像をつくろうとしているにすぎない。しかしに人間の獣性など誰もでも知っている。問題は、それがどうしたら表面化するかである。

たとえば『アイヒマンの後継者――ミルグラム博士の恐るべき告発』(原題Experimenter 2015年、マイケル・アルメレイダ監督)におけるミリグラム実験は、人間のなかにある残酷さ、暴力性を暴いた点に意味ががあるのではなく、事務処理、責任委譲、権威付けなどの手続きを経れば、ほとんどの場合、人間の残酷性を引き出すことができることを証明した点にある。

あんなふうに事務的に追い詰められたら人間だれしも残酷な行為をしてしまうという批判もあるそうだが、まさにその批判こそ、この実験の正当性を証明している。つまりアルコールとかドラッグという薬物によらなくとも、事務的手続きによって、残虐行為を引き出すことができる点が新たな発見なのである。また、人間から道徳的リミッターを外して残虐行為に走らせることは、アルコールとかドラッグといった薬物にたよらなくても、できるということが恐ろしい発見だったのである。

アルコールとかドラッグによって人間の獣性が引き出されるというのは新しい発見なのだろうか。むしろ、それをほんとうに発見と思う者は、まだなにも知らない小学生(とはいえ子供ほど残酷なものはないので、知的にではなくとも、情動的に実感はしているだろうが)か、センセーショナルなことを好むクソみたいない中学生くらいか、あるいはフロイトの存在をしらないまま、ボート生きてきたクソ国民くらいであって、もし映画のなかの集団で罪に問われる者がいるとすれば、秘密理にLSDをサングリアに混入させた者であって、暴力行為に走った者たち、あるいは自殺した者は、薬物による精神錯乱として免罪されるはずである。

だが、この映画は、善良な市民でも、薬物によって望まぬかたちで獣性を引き出されてしまうドラッグの怖さという主題を考慮しているのではない。ダンサーたちは、最初のインタヴューあるいはオーディション映像から、およそ善良な理知的な市民とはいえない、最初から歩く獣性のような、ただの不良であるように悪魔化されてイメージされているのではないか。善良な人間が悪魔に変貌をとげるのではなく、最初から、かろうじて人間のふりをしている悪魔が、悪魔にもどったにすぎない、人間のふりをしている動物が、ふりをやめ、動物として自立したにすぎない。そんなふうにみえる。

そんなふうにみえるというのは、私の個人的感想ではない。ダンサーではなくダンスそのものは、超人的な、人間ではない、神か、天使を演ずるのではないかぎり、動物を演ずる、あるいは動物になることである。つまりダンサーと動物とは切り離せない。

しかし、理念からしても、また外見からしても、さらにはダンスの様態からしても、だからといってダンサーが獣的であるということにはならない。ダンスは、ダンサーの驚異的な身体能力と美的センス、そして禁欲的訓練の産物であって、それは獣的な自然性の対極にある人間的営みである。表面的には欲望全開の獣的存在にみえて、内的には禁欲的な自制的な、つまり反獣的な運動体。

そのダンサーをして、感情むきだし、欲望むきだしの、獣的存在にかえて喜んでいるのが監督なのである。ダンサーに失礼、いや、ダンサーとダンスそのものへの侮辱である。コントロールされた野生としてダンスを、ノーコントロールのダンスに変えようとする監督の試みは、最終的にダンスそのものを破壊して、理性を失い文字通り右往左往するだけの動物に、あるいは欲望の権化でしかない動物にダンサーを還元する。そこにあるのはどうせダンサーなどドラッグでハイになりトランス状態で踊っているだけでのクズにすぎなという、小市民的な道徳意識しかない。

センセーショナル三文小説的展開、ドラッグによる理性破壊、人間の獣性の発露、すべてが紋切り型の保守的で偽善的道徳意識による固定した世界観の産物、あるいはそうした世界観を支える舞台装置にすぎない。そして、そこから、この山中の寄宿学校の廃校を、文字通り舞台とした、即興という名の人為的操作によるドラマが生まれた。前々から感じているかスパー・ノエの保守性が、この映画で見えてきたような気がした。

posted by ohashi at 17:10| 映画 | 更新情報をチェックする

2019年11月15日

『楽園』

o.
英文学者のはしくれとして、ジェフリー・チョーサーの『カンタベリー物語』のなかの尼僧院長の話をさせてほしい(西脇順三郎訳では「尼寺の長の話」)。これはかなり衝撃的な話である。讃美歌をうたいながらユダヤ人街を横切って学校に通う少年が、学校から帰ってくるとき、悪魔にそそのかされたユダヤ人に殺され、埋められてしまう。行方不明になった少年を母親が捜すが、ユダヤ人街で、地中から聖歌を歌う少年の声が聞こえ(死んでもなお、少年の讃美歌は聞こえてくるのだった)、ユダヤ人たちの悪事がばれ、ユダヤ人全員死刑、とくに直接手を下したユダヤ人は市中ひきまわしのうえ絞首刑となる。場所はアジアの大きな都市。ただし語り手は、この種の事件が最近にイングランドでもあったと時事ネタすら入れてきて、犯罪を嘆き、神の恩寵を讃えるのである。

この「尼僧院長の話」こそ、英文学史上、最初にあらわれた反ユダヤ主義的物語とされるのだが、犯罪者は一人であるが、同時に集団の犯罪でもあって、ユダヤ人全体を断罪しようとする意図が明白である。ただし現在の私たちは、このような反ユダヤ主義に加担しないので、物語に語られていないことを冷静に推測することはできる。

これは悪魔にそそのかされたユダヤ人の意図的な犯罪のように描かれるが、むしろ衝動的な犯罪ではないか。その際、衝動的というのは、一触即発の宗教的対立であり、高利貸しを営むユダヤ人に対する差別など、いつ犯罪へと爆発してもおかしくないような要因が常態化していることを意味している。あるいはこうもいえる。なるほど少年を殺したのはユダヤ人なのだが、同時にまたユダヤ人に対してキリスト教徒は彼らを犯罪へと駆り立てる犯罪を犯しているのではないか、と。ユダヤ人は悪魔にそそのかされたことになっている。だが、その悪魔は、ユダヤ人が受けている迫害から、キリスト教徒を免罪するために考案された架空の存在ではないか。

1.
こんなことを思うのも、『楽園』のなかの少女殺しの犯人について、思うところがあったからである。犯人として、怪しい人物が浮上する。通常のサスペンスなら、一番怪しい人物は、たいてい犯人ではない。意外な人物が犯人である。ところがこの作品では、怪しい人物が、やはり犯人だった。これはどういうことなのだろうか。まるでひねりがない。しかし、こうした物語は、ほかにもある。

リリアン・ヘルマン原作の映画『噂の二人』は、レズビアンの噂をたてられた二人が、風評と戦おうとするが、実は、片方がレズビアンであって、風評は正しかったという話である。子どもの悪意ある無責任な事実無根の発言と思われていたものが、事実であったという、ある意味、意外な展開、あるいは、風評の犠牲者のはずが、噂の暴力が、暴力ではなかったというのは、どういう肩透かしかと思うのだが、ここから先は、『噂の二人』の問題であって、ここでは踏み込まないが、ただ、怪しい人物が、実は怪しかったという展開は、よくある。では、それはどうしてなのか。

『楽園』の場合、最近も似たような事件が現実にあったのだが、小学生少女の行方不明事件。未解決の事件と同じような事件が起こると(これはある意味、同じ瀬々敬久監督の『64(ろくよん)』の世界でもあるのだが)、村でも差別されている人物が犯人と決め付けられ、追い詰められて、自殺する。彼がほんとうに殺人犯であったのかどうか、村人たちに確証はない。ただ、スケープゴートを出すことで、過去の未解決事件の決着をはかろうとした。これは村人たちが犯罪者である。この村人たちの犯罪者が、たまたまなぶり殺しにした相手が犯罪者だったからといって、彼らが免罪されるわけではない。

つまり、たとえ刑法に抵触して刑事事件として立件されなくとも、犯罪は幾重にも重ねられている。まず、この青年を少女殺しへと追いやった差別や蔑視、陰湿ないじめ行為も犯罪的なら、確証もなく、この青年を追い詰めたことも犯罪的、いや犯罪そのものなのである。ただ、殺した相手が、犯罪者だったから、卑劣な村人たちが免罪されるかもしれないということで、第二の物語、村八分の物語が原作『犯罪小説集』から選ばれて、組み合わされたということだろう。

2.
この第二の物語は、やや省略的に描いているので、何でも屋として、村人からも重宝がられ人望もある、田中善次郎/佐藤浩市が、なぜ突然、陰湿な村八分にあうのか、そこのところがよくわからない。養蜂家である彼は、養蜂によって村おこしをするという将来像を語り、村の有力者からも賛同を得るのだが、ある時点を境に、突如、村人から村八分にあう。映画を見ていると、村の有力者の娘(未亡人)と男やもめでもある佐藤浩市との再婚が、期待できないものであることがわかったときから、その未亡人を振った彼が村八分にあうような気がする。ただし、村八分の被害者は、まったく身に覚えいのない原因によって、不条理なまでに迫害されるところが怖いことかもしれない。被害者にとっては、原因不明の村八分。したがって解決とか事態の打開を模索されることなく、一方的に迫害されるままとなる。このとき、少女殺しの犯人と、善次郎/佐藤浩市とが重なってくる。

村八分というのは、ほんとうはどんなものか私にはわからないが、これほどまでに陰湿なものなのか、話を盛っているのではないかとも思われるのだが、村八分の被害者となった人たちからは、こんなものではなく、もっともっと陰湿だというコメントなどもネット上にある。ただ善次郎/佐藤浩市は、少女殺しの真犯人とは異なり、罪の意識はない。そのため一方的な迫害に耐えたあと、反撃する。まさにジョーカー。

惨劇は描かれないが、村の家々にブルーシートがかけられ、警察車両や救急車、そしてメディア関係車両などが集まっているシーンが登場する。それをみて、ついにやったかと、ジョーカーよ偉いと、心の中で拍手喝采した。あんなクソ村人なんか、皆殺しにされても当然である。真の犯罪者、極悪非道の人間は、悪辣な村人、殺されて当然の村人なのである――前半の少女殺しの嫌疑をかけられた青年を追い詰めるのも村八分の一種であることがここになってわかる。

そしてふと考えた。警察に虚偽の密告までして、相手を罰しようとし、大切にしているペットの運動を禁ずるという勝手な命令(非人道的・非動物愛護的命令)を下し、さらに自分たちに正義があると信じ、自分たちのことは棚にあげて、道徳性を過度に要求すする道徳ファシズム状況こそ、今の日本の陰画あるいは象徴ではいか、と。

いや、象徴ではない。よくよく考えると、ネット社会というのは、広い世界を狭く小さくしている。かつては地球上には未開地や秘境があった。異国は遠い地の果て、海の向こうの国であった。それがネット社会によって世界は急速に縮まった。多様な世界というのは、たとえ本来、そうあるべきであっても、ネット社会ではむしろ消滅しつつある。みな一様な世界であり、統合され統一され画一化されるのがネット社会である。世界は小さくなった。つまり「村」になったのである。

グローバル・ヴィレッジというような言葉がかつてあったが、そのときは、そのもつ意味や含意を、よく考えなかった。今ネット社会で起こっていることの特徴的なもののひとつは、村八分である。ネット社会というと都会的なものを連想するかもしれないが、実際に起こっていることを冷静に判断すれば、ネット社会とは村社会であり、村社会的感性なり行動規範なり慣習実践を考慮しないと、ネット社会に対する判断を過つかもしれない。現代の社会のパラダイムは、もはや都市ではなく、村である。村的地獄である。

そんな地獄を楽園にかえることができるのか。映画が最後に希望を託すのは杉咲花演ずる少女である。この少女的存在に、楽園の生成の希望が託される。だが村八分を発生させる村的感性を変えることができるのは、少女ではなく、ジョーカーだろう。

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2019年11月13日

『永遠の門』

この映画を見て驚いたのは、ゴッホは殺されていたということだ。

1956年の映画『炎の人ゴッホ』では、カーク・ダグラス演じるファン・ゴッホが『カラスのいる麦畑』を描くが、行き詰り、そのまま拳銃自殺を遂げるというラストシーンは、『カラスのいる麦畑』の絵の死の象徴性とあいまって、私だけでなく、多くの者たちの脳裏に強烈に焼き付いたと思うのだが、これは映画の中だけの虚構であることをはじめて知った。

ジュリアン・シュナーベルの映画では、ゴッホは自分で腹を撃ったのではなく、撃たれたのである。確かに自殺だとしても、自分の腹を撃つのは珍しい。むしろ撃たれたことのほうが理にかなっている。映画の解釈は、かなり踏み込んでいて、ゴッホは、屋外で絵を描いているとき、二人のアメリカのカーボーイの格好をした若者に襲われ、そのとき意図的かどうかわからないが、拳銃が発射され、さらにゴッホが描いていた画布が奪われ穴に埋められる。拳銃だったか、絵の具などが、川に投げ捨てられる。

これは今の日本でいうのなら若者のホームレス狩りではないか。ゴッホ自身は、自分を襲った無法な若者二人のことは二日後に死ぬまで口にしなかった。若者のたちの将来を心配して、あえて告発しなかったというこだろう。しかし、もしこれがほんとうなら、ひどすぎる。そしてこれはゴッホの強烈な死としかいいようがない。

Wikipediaには以下のような記述がある――

ファン・ゴッホは自殺を図ったとするのが定説だが、現場を目撃した者がいないこと、自らを撃ったにしては銃創や弾の入射角が不自然な位置にあるとも言えることなどから、異説もある。2011年にファン・ゴッホの伝記を刊行したスティーヴン・ネイフとグレゴリー・ホワイト・スミスは、彼と一緒にいた少年達が持っていた銃が暴発し、ファン・ゴッホを誤射してしまったが、彼らをかばうために自殺に見せかけたとする説を唱えた。ファン・ゴッホ美術館は「新説は興味深いが依然疑問が残る」とコメントしている


2011年のゴッホの伝記の説を、シュナーベルの映画は、さらに進めているのだが、むしろ映画の解釈のほうが説得力がある。ゴッホ美術館のコメントは、ぼーと生きてんじゃねーぞといいたくなるくらい、脳天気である。

映画そのものは、ゴッホの絵の世界の実写版とでもいえるような作品で、ゴッホの作品を通して知ることになったフランスの田園風景、あるいは黄色の部屋、糸杉など、ゴッホ作品の美にどっぷりつかれる映像となっているのは、みていて楽しいというか感動的である。
また、それにポール・ガシェ医師を演ずるマチュー・アマルリック、ゴッホが描いた肖像画にそっくりで驚いた。

もちろんいっぽうで、そうした美的要素の華麗な展示に対しては、ゴッホ自身の生きざまが対置される。映画のなかでゴッホが述べているようにpiligrimでありexileでもあるように、その一生は、強い倫理性と聖性に貫かれている。まさにイエスと同じように、神によってこの世界に使わされた美の使者であり、彼自身は、生前、みずからの才能の恩恵にあずかることはなかったという、悲劇的人物でもあった。そしてイエスと同じように30代で無理解な周囲の犠牲になるのである。事実、ウィレム・デフォーのゴッホは、その風貌からしてイエスに近い。現在、ゴッホの作品が、高額で取引されていることを本人が知ったら、腹をかかえて笑うことだろう。イエスが、壮麗なキリスト教の教会をみて腹をかかえて笑っている絵画をみたことがある。とまれ、本作品は聖フィンセントの聖人伝でもある。

言語面でも興味深いところがみられる。最初は英語ではじまるが、すぐにフランス語の会話になる。と同時に、また英語にもどったりして、なにか一貫性がないように思われる。ただ、そもそもゴッホはフランス人ではなく、フランス語はうまくなく、まさにフランスでは異邦人であった。そうなるとフランスを舞台にして英語を話すことが、ゴッホの異邦人性を前景化することになる。また緊張する状況のなかではゴッホ/ウィレム・デフォーはフランス語を話すことになる。学童たちに戸外で絵を描いているゴッホをじゃまするというか襲うときにゴッホはフランス語で怒り叫び、その外国人のフランス語がゴッホの異邦人としての孤立感を際立たせるということになる。

あとテオ役のルパート・フレンド、老けたなとい思ったが、老け役になっているだけのようだが。

追記 11月14日

ゴッホの名前は20世紀になってからは知らぬ人はいないほどで、私の家にもゴッホの画集はあった。裕福な家ではなかったので、カラー版の豪華な画集が何冊もあるということはなく、ほんとうに数冊しかない画集のひとつがゴッホだったので、子供の頃は、数えきれないほど何度も見ていた。だからゴッホの作品はすべてではないとしても、あらかた知っているのだが、ゴッホがスケッチ帳としていたのは、居酒屋でもらった使っていない白紙の帳簿だったのだが、そのスケッチ帳は私の記憶にはなかった。映画の最後で驚いた。2016年に、そのスケッチ帳が発見されたとのこと。奇跡の時代はまだ終わったてはいなかった。




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2019年11月12日

『アースクウェイク・バード』

Netflix配信の映画をまたも映画館でみる。またいつもながらNetflixの映画を予備知識なしでみる。最初から最後まで日本が舞台であることに驚いたが、アリシア・ヴィキャンデルの魅力と熱演、そして濃厚な心理ドラマを最後まで緊張感をもって見ることができた。

ただ直後の率直な感想としては、IMDbにあるコメントに尽きている

A solid but ultimately stolid mystery, super competent and quite engaging but with no flair and a lacklustre ending. Seen it all before, albeit in a different setting.

たしかに同感なのだが、これで終わってしまっては、せっかく日本を舞台にアリシア・ヴィキャンががんばっている映画がもったいない。とにかく舞台が日本(東京都と佐渡)であって、日本人としての目線と、外国人の目線とが交錯するなかで、日本の光景とか日本人の日常がこれまでにない特異な光輝を帯びる。だからこそ、もうすこし掘り下げて、この映画の魅力をみてみたい。

Wikipediaにはこうある――

舞台は1980年代の東京。ある日、日本に住むイギリス人女性リリーが行方不明となり、数日後に東京湾で死体となって発見された。
彼女の友人であったルーシーに容疑がかけられるが、この2人は日本人カメラマン禎司(テイジ)をめぐって三角関係になっていた。


正確には1989年。あの婦警の一時代前の制服はなんだと思ったが、まさに一時代前の1989年という設定だった。携帯もなし、スマホもない、Netflixもない、古き良き、失われた日本である。現在の日本の光景と同じなのだが、町ゆく人たちは、誰もスマホをみていない。

最初にキャストの名前がでるのだが、アリシア・ヴィキャンデルはおなじみの女優なのでいいのだが、彼女の友人役のライリー・キーオは誰かといぶかったが、エルヴィス・プレスリーの孫であることを思い出した。彼女が出演していた映画、『マジック・マイク』、『マッドマックス 怒りのデス・ロード』、『ローガン・ラッキー』、『ハウス・ジャック・ビルト』は見ているのだが、残念ながらどこに出ていたのか覚えていない。『アンダー・ザ・シルバーレイク』は、憶えているが。

同じく小林直己とは誰だと思ったのだが、本編がはじまったら、すぐに認識できた。三代目 J SOUL BROTHERSの今はリーダーか? 映画のなかでは、神秘的なアジア人男性としてキュートでもありマッチョでもあり繊細でもありまた気色悪いところもありと、監督が、小林直己の引き出しをすべて開けてくれた感じがする。またライブハウスに行くときのシーン。あんな格好の、蕎麦職人・兼・写真家はいない。つまり完全にミュージシャンというかアーティストで、さすがEXILE TRIBEというか、EXILE TRIBEのオーラに圧倒された。

そして佐久間良子の名前があって、あの大女優と同じ名前の女優がいまや映画に出演するようになったのかと思ったら、本物の佐久間良子だった。出番は少ないのだが、久しぶりに映画でみたが、健在でなによりである。

日本を舞台にしているので、日本人としての見方は辛くなるのだが、女性たちが和室で和服(振袖)で、バイオリンやチェロの弦楽四重奏をかなでるというわけのわからないシーンを除けば、また「アースクウェイク・バード」というのは何なのかわからないのだが、それらを除くと違和感のあるシーンはなかった。ただ違和感のなさは、また、映画の日本物として、外国人がみたときに違和感がないものであると思われる点、問題かもしれない。
【私が無知なのかもしれないが、地震鳥というのは、聞いたことがない。大地震の前に、鳥が大量に発生して、不吉なことの予感となることはあるようだが、地震のあとに聞こえる鳥の鳴き声というのは、たんに地震に驚いた、鳥や野鳥が鳴くだけのことではないのか。あるいは地震の余波のなんらかのかたちが鳥の鳴き声に聞こえるということか、それは私は聞いたことがない】

つまり日本に来た外国人女性が、日本の犯罪組織の餌食となって、人身売買されるというB級映画は、外国にいくと、やまのようにみることができる。日本は人身売買の国である(これはこのブログでも何度も指摘していたと思うのだが、日本人の自己イメージとして人身売買の国というのは存在しないが、海外からみると日本は群を抜いて人身売買の国なのである)。犠牲になるのは外国人女性、とりわけ白人女性である。神秘的な男性に誘惑された白人女性は、気付くと男性はヤクザであり、自分は売春婦として働かされるか海外に売り払われるというのが常套的なB級映画のプロットである。

映画の冒頭で主人公の女性はアメリカ映画の日本語字幕をする仕事をしているのだが、その映画が『ブラック・レイン』(この映画のプロデューサーであるリドリー・スコットの監督作品である)なのである。1989年頃の設定でもあるのだが。そして『ブラック・レイン』と同様に、忍者も芸者ガールもいない現代日本の日常を描いているという強い自意識に支えられていることはよくわかるが、日本で、神秘的な日本人男性によって危険な目にあう白人女性の物語は、なつかしく、また、ありきたりである。そしてそれはまさに人種差別であり帝国主義的差別へと確実につながっていく。いまは21世紀の世界。こんな昔ながらの不気味なアジア、そこに魅かれる軽薄な白人女性、神秘的男性による誘惑と死というオリエンタリズム丸出しのイデオロギー性は告発されねばならないだろう。

そしてそれを踏まえたうえで、三角関係のもつれという話が展開する。ただし、いまは21世紀の世界。三角関係は、ひとりの異性をめぐる同性間の争いという基本構造のなかにも潜んでいるのだが、それを顕在化したかたちで同性愛的なものが前面にもでる。ひとりの日本人男性をめぐる二人の白人女性の争いは、ひとりの白人女性の愛をめぐって、日本人男性と白人女性とが争う、同性愛的な三角形をも出現させる。

三角関係は二重化する。ピントのあわない写真のように、ふたつの三角関係がぶれてみえる。

どうやら一人の男性をめぐる三角関係は現実のものだが、主人公であるアリシア・ヴィキャンデルは、男性をめぐって争う相手の女性に対して同性愛的な愛情をも抱いているのだが、それは彼女の妄想のなかでしか成就しない。そうなるとどこまでが現実で、どこからが幻想なのかわからない事態、あるいは現実と幻想とのぶれが生ずるのである。

原作の小説ではきちんと結末があるようだが、映画では、あやふやなまま終わっている。行方不明になった女性は、最後までみつからない。おそらくそれはもしかしたら主人公の女性の妄想だったかもしれないという可能性もにおわせている。もちろん『ブルーアワーにぶっ飛ばす』のように、最後に、この人はほんとうはいなかったというような結末ではなく、あくまでも、ひょっとして彼女の友人は、最初からいない、まさに彼女の妄想のなかの存在だったかもしれないとにおわされている。あるいは存在し、また存在しないというブレを映画は出現させているということのである。

それならば、犯人の男性は、もしかしたら、これも彼女の妄想だったのかもしれないともいえる。いや、そうなるとすべてが夢あるいは妄想だったのかもしれない。彼女自身が、そもそも、殺されたのであって、この世には存在していない、幽霊なのかもしれない。だから彼女は幽霊に出会う。もちろん、そこまでは考えすぎかもしれないが、ブレはどこまでもつきまとう。そんな不思議な感覚を余韻として残そうとする映画でもある。

そして、あやふやな結末は、最後に主題的レベルにも侵食する。みずからの行為によって人を死なせてしまったことに対し、責任はないと周囲は許してくれても、罪責感からのがれることのできない主人公の女性が、自分と同じように罪責感で苦しんでいる女性を発見することにより、苦悩を共有することによって救われるかもしれない可能性がみえるところで映画は終わるのだが、要は、責任があるのか、責任がないのか、定かではないことが数多くあるということだろう。

責任はなくとも、責任はある。自分が原因ではないと同時に、自分以外に原因はありえないという気持ちからも逃れられない苦悩。この苦悩を語るアリシア・ヴィっキャンデルをカメラは真正面からとらえ、彼女の苦悩や心境の変化を逐一もらさず撮影しようとしている。とはつまり、これって、『万引き家族』のなかの安藤サクラじゃないか。あの時の安藤サクラの心につき刺さるような泣きの演技と同じもののを、この映画が狙っているのではないかと思うのは私だけだろうか。
posted by ohashi at 22:39| 映画 | 更新情報をチェックする

『ローマ英雄伝』

明治大学ジェイクスピアプロジェクト第16回公演を11月10日12時より観劇。『ジュリアス・シーザー』が前半。後半は『アントニーとクレオパトラ』とシェイクスピアのローマ史劇の二本立てで、一昨年が『トロイラスとクレシダ』、昨年が『ヴェニスの商人』と一作品公演だったが、関連する二作品公演がもどってきた感がある。実際、『夏の夜の夢』と『二人の血縁の貴公子』(正確なタイトルは忘れたが)の二本立ては、かなり野心的な試みだった。

いつも思うのだが、今回も、誰もが上手い。シェイクスピアの翻訳劇を上演する円熟した技量を完全に学生たちがもっていることに、ほんとうに驚く。どうしてみんなこんなに巧いのかと感嘆しつつ今回も観終わった。

ただ観劇前は、二本立、それもシェイクスピア劇の中でも決して短いほうではない大作の部類に入る二作品を、全体で3時間15分か20分の公演と言っても、一作品90分でするのは、かなりのダイジェスト版になるので、重厚なというよりも、大味な、あるいはあらすじをなぞるだけのやや粗い上演になるのではないかと心配した。当然省略しているのだが、省略を感じさせない上演台本であったのは素晴らしく、まぎれもなくシェイクスピアのローマ史劇を二本をみたという印象を受けた。ダイジェスト版では決してない。

ちなみに明治大学シェイクスピアプロジェクトは、いつもチケット(大学内のイヴェントなので無料なのだが)を手配してもらっているのだが、またいつもFグループという、講堂内の後方の二階席の自由席なのだが(「タイタニック号」でいうと、船内の奥深くの雑魚寝の三等船室集団で、沈没の時に逃げ遅れた集団のようなものだが)、明治大学の講堂の音響設計は素晴らしく、また学生たちの発声も素晴らしく、舞台の声や音は、最後列の二階であっても、実によく聞こえて満足できる。惜しむらくは表情がよく見えないのだが、オペラグラスで補うこともできる。だからFグループ(三等船室グループ)でも全然苦にならないのだが、今年は、抽選にあたったということで、オペラグラスが不要なAグループの席だった。さすがに前の席なので表情までよくわかったが、同時に、個々の学生の演技の質の高さも間近で実感できた。

二作品を並べると、発見も多い。もちろん演ずるほうは大変なだと思うが、見ている側は、いろいろな発見の連続で、知的興奮に襲われる。シェイクスピアの初期から中期にかけての悲劇『ジュリアス・シーザー』と後期の『アントニーとクレオパトラ』は、やはり異なる。たとえばジェンダー的に前者は男性たちの権力闘争の世界だが、後者では、女たちのいない前者と異なり男と女の関係性が緊張をはらみ強度をましてゆく。前者が男たちの世界なら、後者は女たちに翻弄される男たちを動かす男女混淆の世界である。前者が正統的ローマの市民と共和制の危機という重厚な歴史的テーマであるとすれば、後者は、エジプトとローマとの二元対立がジェンダー対立とも連動して、よくいえば多様性の開花、わるくいえばカオス的になっている。

こうした点も、今回の二作品並列によって、あらためて浮き彫りにされるところだが、同時に、たとえばジュリアス・シーザー暗殺に端を発して、最後にアントニーとクレオパトらの死とオクタヴィアヌスの勝利で終わる一連の歴史的事件のなかで、アントニーとオクタヴィアヌスが共通の人物なのだが、オクタヴィアヌスはともかく、アントニーは、たいへんで、二本立てとしてアントニー役を二人で分担してもよかったのだが、一人で、出ずっぱりの力演となった。ただ、二作品を並列して見ると、アントニーは同一人物として造型されていないように思われる。あの英雄的な、あるいは狡猾で知恵者のアントニーが、娼婦的クレオパトラに参ってしまうというのは、うまく結びつかないように思われる。あの謹厳実直なアントニーが女性のために身を滅ぼすというようなことなら話はわかるのだが、今回は、そういう関係でもない。二人のアントニーは別人ではないかという思いに強く捕らわれた。むろん、このことは、今回の一人のアントニーによる力演によって、際立った。それは力演あってこそのことであった。

また二つの作品に共通することとして、勝者あるいは勝ち組には魅力がない。むしろ負け組、敗者たちの、敗北の美学が、両作品で、強烈に主張されることも新たな発見であった。戦いに負けること、身を滅ぼすことのなかに、消えてゆく者、踏みにじられてゆくもののなかにこそ、人間性の輝きがあるのであって、勝者に何も残らないのである。

あと今回の上演で『ジュリアス・シーザー』におけるアントニーの演説場面において、あのシーザーの遺体は、どうなったのだろうと不思議な思いにとらわれた。私がこれまでみたなかでもっとも存在感のないシーザーの死体だったのだが、それもそのはず、死体がないのである。いや死体がないのなら、それはそれでいい、ここに血まみれの死体があると想像せよというのなら、それでもいい。しかし、今回の舞台では、中途半端に、死体にかけられたマントを、マントであるとともに死体でもあるとみせている。しかし、マントはどうやっても死体にはみえない。まるで、等身大の人形で死体を用意していたが、当日の朝、人形が壊れてしまって、マントだけで演技をするはめになったというかのようだ。最後に死体は担架で運ばれるのだが、今回の舞台ではマントを担架で運んでいた。あれは最初の意図どおりだったのだろうか。こればっかりは、何とかして欲しかった。

あとこれは作品に関する個人的感想だが『アントニーとクレオパトラ』は、たんなる中年のバカップルの愛欲物語というだけではない。ここでは、側近や家来、おつきの者たちが、実に有能で活き活きとしていて、なおかつ事態を冷静に見る目も叡智も持ち合わせている。最終的には主人たちの愚行につきあってというか、愚行の巻き添えをくって死ぬしかないのだが、イノバーバスにせよ、チャーミアンにせよ、とにかく側近、侍女、家来たちが驚異的に存在感を発揮している芝居なのだ。今回の上演でも、側近たちや侍女たちを演ずる学生たちの演技が、主役たちに負けず素晴らしかったので、時には主役たちのそれを凌いでもいたので、この劇を予想以上に魅力的なものにしていた。この点は、どんなに特筆してもしきれない。

posted by ohashi at 17:36| 演劇 | 更新情報をチェックする

2019年11月01日

『マイ・ビューティフル・デイズ』

原題は『ミス・スティーヴンズ』Miss Stevens(2015制作、2016)、強いて訳せば「スティーヴンス先生」。ティモシー・シャラメ主演と宣伝しているし、そのつもりで見に行ったのだが、主演ではない。しかしティモシー・シャラメの魅力が良くでいていて、満足できるし、そもそも、この映画、よくできている。驚きの感動映画だった。

ちなみに高校生と引率の先生が演劇コンクールDrama Competitionの会場に出かける途中の車内で聞く音楽、またエンドクレジットでも使われてる音楽、「アメリカ」(バンド名)の「金色の髪の少女(Sister Golden Hair)」(1975)には、涙がでそうになった。映画の時代設定は現在。この曲は、懐メロに分類されていて、現代の高校生たちは聞いたこともなければ「アメリカ」というバンド名も聞いたことがないというのには驚いたが、まあそれもしかたがないか(ただし29歳の女性教員と、ティモシー・シャラメ演ずる高校生だけは知っているという設定)。しかし、音楽については、まったく無知の私が知っているというか、覚えているくらいだから、「アメリカ」は、当時、高い人気を誇っていた。「名前のない馬(A Horse With No Name)」が大ヒットしたし、この「金色の髪の少女」も曲が流れてくると、すぐに認知できた。このへんは中高年の心をくすぐる曲設定となっている。また若い人たちも、知らないぶん、この曲に新鮮な驚きをもって接するかもしれない。

そしてもうひとつ、高校生が演劇コンクール(どういうものか、いまひとつよくわからなかったが、参加者一人一人が、特定の作品の中の人物とセリフを決められた時間演じ、そのパフォーマンスを審査するというものらしいが、詳しいことはわからない)に参加するが、この映画に登場する高校生たちには演劇サークルが消滅していて、コンクルールに引率して連れて行ってくれる教員がいない、そこで国語の先生であるレイチェル・スティーヴンス先生に引率を頼むと、快く引き受けてくれて、参加者の高校生3人(女子1名と男子2名(そのうちひとりがティモシー・シャラメ))とともに彼女の車で会場にでかける。コンクールは土曜日と日曜日の二日間にわたり、土曜日にリハーサル、日曜日に本選で、その場で、入賞者が決まることになってくる。金曜日に会場(ホテル)入りして、日曜日に帰ってくるまでの3日間の出来事である。

そう、スティーヴンス先生は、国語の先生だから、Englishを教えているのだが、字幕では英語を教えていると出ている。メキシコからの移民になら、英語を教えるというのならわかるが、アメリカ人の高校生に英語を教えるとは? Englishというのは「英語」という意味ではなくて、「英語文学」「英米文学」という意味。まあ「国語」とか「文学」を教えているといえば、それで済むというのに、「英語」と訳すのは、なんというレヴェルの低い字幕担当者だ(というか最近は文脈にあわせて、この意味のEnglishを正しく訳している字幕は多いので、ちょっと珍しい)。

で、私も今年の3月までは英文科の教員だったので、この映画に出てくる作品は、なじみのものばかりで、むしろ見ていて楽しい。教室ではケン・キージーの『郭公……』を教えているし、試験の課題は『グレート・ギャツビー』。また先生と高校生との会話のなかでは『ガラスの動物園』と『じゃじゃ馬ならし』が出てくるし、『高慢と偏見』や『欲望という名の電車』も言及される。どれも有名な作品ばかりであるから、英米文学への深い知識など必要としないが、日本の観客のなかで、外国文学や英米文学に興味がある人たち、あるいは英文科の学生や卒業生以外の人には、なんのことかわからないないと思う。また有名な作品なので、映画のなかでは説明はされていないし、わかる人にはわかるというスタンスである。

で、コンクールで、ティモシー・シャラメの圧巻のパフォーマンス。映画では説明がないが、「ウィリー」ではじまるセリフ――独白ではないが、一気にまくしてたてる長いセリフ。ウィリーといえば、演劇の世界では、ウィリー・ローマンしかいない。そう『セールスマンの死』のウィリー・ローマンである。そうするとティモシー・シャラメが演じているのは、長男のビフである(万が一、次男のハッピーだったらごめんさい)。これはすぐにわかったが、そのセリフを覚えていたわけではない。ちなみに私が生まれて初めて英語で最後まで読んだ戯曲は大学1年生の時に授業で読んだ『セールスマンの死』だが(今にして思えば、その作品の英語は、アメリカ人の普通の口語の英語なのだが、高校英語しか学んでこなかった私には、驚異的にむつかしかった)、そのセリフは完全に忘れている。ただ、そういうセリフがあったことは、一度、作品を読めば誰もが記憶するはずなので、英米の演劇のファンだったら、専門家でなくても、すぐにわかるのだが、そうでないと、ティモシー・シャラメが、どの戯曲の、誰を演じているのか、絶対にわからないだろう。

ちなみに『セールスマンの死』は、最初は10代の息子二人と父親ウィリーの話だが、後半は息子たちが大人になってからのことで、ティモシー・シャラメが演じている人物も、高校生ではなくて、大人の人物である。その演技は圧巻で、彼がシェイクスピアの『ヘンリー五世』もどきの『キング』を演じてもおかしくないとわかる。

映画そのものについていえば、このように演劇をテーマとしている。演劇コンクールに出る高校生たち、また母親が女優であり、舞台芸術には関心があり、高校生時代はシェイクスピア劇を演じたとう引率の教員。さらに演劇コンクールでの参加者のパフォーマンスもみることができる。その意味で、演劇を嫌う映画ファンは無視すれば、演劇好きの映画ファンにとっては、これはたまらない映画である。そしてこうした演劇を扱う映画にふつうにあることだが、この映画は、舞台にできるような構成になっている。

また内容もまた演劇的になっている。演劇コンクールでティモシー・シャラメが演ずる『セールスマンの死』のなかの、父親に反発する長男の役は、彼自身が家庭で両親との軋轢に悩んでいると同時に、そのセリフは、親の呪縛から覚めた人間のそれでもあって、死んだ母親の呪縛から逃れられないスティーヴンス先生への、親離れするように促す間接的助言ともなっている。

そしてまた演劇あるいは演技というテーマは、人生において、うわべの関係をつらぬきとおすことの不毛と同時に救いを、また、そのぶん際立つ、本心をさらけだすことの大きな意義と、大きな危険とをともに示す二重性と連動する。いや、そもそも演劇とは、二重性の意識そのものであるともいえて、この映画が描く三日間は、世界の二重性を垣間見る貴重な一瞬ということもできる。

タイトルの『ミス・スティーヴンス』は、これを主格ととれば、主人公の女性教員の、教え子の高校生との接触を通して、行き詰った人生からの脱却物語ととれるのだが、これを目的格とすれば、ティモシー・シャラメ扮する高校生の年上の女性教員への恋愛感情物語としてとることもできる(恋愛の成就にはいたらないとしても)。どちらかではなく、どちらでもということだが、この二重性によって、ある種の分身関係も生まれくるような気がしている。

レイチェス・スティーブンスを演ずるリリー・レーブは、副大統領チェイニーを扱った『ヴァイス』にも、チェイニーのレズビアンの娘役で出ていたようだが、残念ながら覚えていない。またティモシー・シャラメ以外に知っている俳優はいないのだが、そのぶん新鮮な感じがしたし、『君の名前で』以前のティモシー・シャラメなのだが、彼の存在を際立たせる、そして内容もソフィスティケイトされた優れた映画だった。

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