2019年10月31日
『108 海馬五郎の復讐と冒険』
問題は、途中からエロと下ネタにふりきることである。それは、どんなに最低でも、下ネタどまりで、よかったのではないかと思うのだが、テレビでの内容紹介にぼかしがはいったりするまでにセクシュアルな映像にこだわる必要がなかったのではないか。シアターコクーンの芸術監督になる人物に、このくだらなさすぎるエロスはふさわしくないというようなことではない。気づくと、下ネタ、エロスこそが、この映画の目指すところだと気づく。そう、気づくと、この映画、R18+だった。先の『ボーダー』と連続して見たのだが(同じ日に観たということではない)。『ボーダー』もR18だった。あとで気づいたのだが。ただ、どちらの映画も、まあ露骨なセックスシーンがあるからだろうが、R18であるとは気づかなかった。私にとってR18映画というものは、もっとハードでなければという思いが強い。また、このところ、R18の映画を連続しているみている私はR18映画大好き爺かい?
それはともかく、中山美穂に「あへ顔」をさせ、第36回紀伊國屋演劇賞個人賞受賞の秋山 菜津子(映画の中でも紀伊國屋演劇賞について語っていたが)に、あろうことか膣痙攣を起こさせるのは、松尾スズキくらいしかいないだろう。この二人は、よくやったと思う。また今、『ブラック校則』にも出演している(NHK連続ドラマ女優でもある)堀田真由を、エロスのなかに巻き込むことができるのも松尾スズキの存在ゆえであろう。ちなみに堀田真由については、最終的に、どうなったのか、伏線を回収しきれていないぞ。
そこで終わるのかと意外性が強かったが、妻の浮気に端を発した夫の復讐と冒険ではあるが、結局、誤解にもとづくものであったので、主人公の海馬は後悔している。こんなことをするんじゃなかったという思いに捕らわれていることは確かだろう。ちなみに、松尾スズキは撮影で若い裸の女性を抱きたかったのではなかったか、そのためにこの映画を撮ったのではないかと考えるのは、ゲス爺さんの妄想だが、同じように、主人公の後悔の念と同じような後悔の念に監督自身も捕らわれていると観客に勝手に妄想させてしまうところが、この映画にはないだろうか。おそらく松尾スズキ監督の本意ではないだろうが、とにかく、こんなことするのではないかったという、想定される監督(現実の監督ではない)の後悔の念が最後に痛切に迫ってくるのは、私だけならいいのだが。

2019年10月30日
『ボーダー』
ヨン・アイヴィデ・リンドクヴィス原作・脚色
注意を。予備知識もなにもなく見たら、不思議な映画で、何が起こっていたのか、最後までわからなかったかもしれないが、予告編を見ていたので、そこで想定したり期待したとおりの映画であった。実は、予告編で語られていない事件もあったし、そもそも、この奇怪な彼女が、いったい何者なのかは、予告編からはわからなくて、そこがサスペンスの鍵となるのだが、それが明かされても、あまり驚かなくて、ある意味、淡々とした、彼女の日常のなかに観ている者も埋没していしまうために、とんでもないことが明かされても、想定内のことと驚かない。結果、とんでもないことが起こっているのに、退屈な展開と思ってしまう。べつに眠ったりはしなかったが。
それではいきなり、ネタバレをします。私はネタバレとは思わないが、ネタバレと受け止めるかもしれないので、Warning:Spoiler ネタバレ注意としておきます。
ちょっと人間離れした顔の、どちらかという動物じみた彼女は、いったいどういう存在として解き明かされるかを見守った。人間と動物(犬類、猫類と人間とのハイブリッドなのか、あるいは犬類、猫類が、遺伝子操作によって、人間の言葉を話し、人間と共同生活を送れるまでに進化させられたのか、そして、おそらく当人は、自分が誰であるか気づいていないということになる。まあ、そんなSF的設定を想定していた。もっと悪魔的な想定もできたとしても。
しかし、そうではなかった。端的にいって、彼女はトロールである。北欧の伝説上の存在で、それは妖精ではないが、妖精と同じような存在形態をとる。フィンランドには多数いるという設定だから、まあムーミンみたいなものである。ムーミンも、妖精ではないが、妖精と同じような存在形態をとる。さらにいえば、彼女も、彼女が出会うことになる男のトロールも、体型的にはムーミンである。ムーミンというほど可愛らしものではないが。
つまり伝説上の生き物であるトロールが、伝説上の、あるいは空想上の、ときにはメルヘンチックな、童話的な生き物ではなく、もし人間と時空間を、歴史を、土地を共有している人間にとってのエイリアンだったら、どうなのかと想定した場合、たぶんこういう境遇の男女になるだろうという、ある種のシミュレーションである。
物語としては、人間に育てられ、人間の番犬化したメスのトロールが、放浪するオスのトロールと出逢い、彼に惹かれてゆくと同時に、自分を醜悪な外見の人間の女性と思い込んでいた、この女性が、自分がトロールであることを教えられ、トロール性に目覚めると同時に、トロールとしての本来のアイデンティティに戸惑いつつも、それを獲得することによって自信をつけてゆく。トロールとしてのプライドと美しさに目覚めるのである。
こう書くと、ただ、メルヘンチックなファンタジーと思われるかもしれないが、この映画では、トロールの動物性と異物性を前面に押し出し、身体的な他者性を、濃厚に観る者に不快なまでにつきつけてくる。たとえ雷神に嫌われているトロールは、落雷や閃光を極端に怖がるというメルヘンチックな設定があるとしても。
二人が愛し合い裸で抱き合っている姿は、ふつうの男女のからみとかわりないが、今回ノーカットでの上映なので、異様さが際立つ。つまり二人ともふだんは性器が体外にでていないが、性的に興奮すると男女ともにペニスが体から突き出てくる(勃起するのではなく)。映画では彼女のほうがペニスを突きだせて、男のトロールに挿入するかたちになる。
いや男のトロールも、膣をもち(不法な持ち込みを検査する税関職員が、むくつけき男と思って肛門のなかまで調べようと思ったら、膣をもっていたことを知って驚くというエピソード(語られるだけで、映像化されるわけではない)がある)、そしてこのむくつけき男のトロールは、なんと、子供を産む。受精しなくても、子供を産み、非受精の赤ん坊を冷蔵庫のなかに入れて育てている――ただし非受精でも生まれる幼体は、寒さに強いが、すぐに死ぬらしい。つまりこの映画ではトロールは、両性具有という設定なのだ。ペニスをもつ女性。ペニスをもっているが膣ももっていて、性行為をしなくとも幼体を定期的に産み落とす――はっきりいってみていると唖然とする。
主人公の女性トロールが、男のトロールの胎内に送り込んだ精子は、おそらく男の胎内に受精した子ども宿し、最後に、主人公のティナのもとに、男から、赤ん坊が送られてくる。それは、その男が産み落としたであろう赤ん坊であり、受精したトロールの子供なので、尻尾がついている。人間とはDNAが違うトロールは、尻尾がついているという設定なのである。
彼女には尻尾がない。それは人間に養育される段階で手術によって尾を切除されたからである。男のトロールにも同じような切除跡が臀部にあるらしい。ということはこの世界では人間は、トロールの存在に気づいている。いや、トロールたちを精神病院などに収容して搾取している。トロールの子供たちに人間の言葉を教えて、人間の養子にして、人間に役立てようとしている。家畜化ではない。ペット化とでもいうべきか。
事実、彼女は税関で嗅覚によって犯罪者なり不法入国者、そして密輸行為を摘発する。空港や港にいる麻薬犬のようなものである。また彼女は警察にも協力するのが、しかし、それは彼女の嗅覚が犯罪者を嗅ぎ分けるからである。警察犬と思じようなものだ。
この世界では、人間がトロールを家畜化したり従僕化したりして、人間に役立たせている。この意味でトロールは、番犬に近い存在となる。
彼女は人間の夫婦に養女として育てられ、いまもアルツハイマー初期症状にある人間の父親を施設に見舞ったりしている。しかし彼女はトロールの孤児ではなく、トロールの両親がいた。精神病院というトロール用の強制収容所にいたトロールの夫婦から、子供の欲しかった人間の夫婦が、女のトロールを譲り受けたというよりも強奪した。病院の裏手にトロールの墓があるのだが、墓石のかわりに、適当に小さな岩を置いただけの貧層な空き地でしかない。彼女には、トロールの両親がつけた本当の名前があった。
こうしたトロールたちは、ホロコーストで殺されたユダヤ人や、収容され虐待される先住民族や、民族紛争のなかで迫害されるマイノリティと同じような存在となる。そもそも、伝説上の妖精たちもまた、迫害される民族、人種、ジェンダーの面影をひきずっている【歴史的に見れば妖精たちは、キリスト教の到来とともに、駆逐された先住民族の神々である】。妖精たちだけではない。トロールもまたそうである。
伝説上のトロールは、狂暴で攻撃的な面が顕著である。この映画でもトロールの男女(?)は、動物のように唸り狂暴になる。しかし真の凶暴さは、人間を襲うことである。それも赤ん坊を持ち去ることによって。取り替えっ子(チェンジリング)というのは、妖精が悪さをして、人間の子供を奪い、かわりに不完全な妖精の子を置いていった子供のことである。そういうかたちで、生まれてくる人間の赤ん坊に、なにか傷害があったり、そもそも人間らしくないところがあった場合、妖精の取り替えっ子だという理由をつけた。
彼女が出会った男(男か女かわからないのだが)は、トロールとしての自覚のもとに生きており、またトロールを迫害しつづけた人間に復讐すべく、人間の赤ん坊を虐待するあるいは未受精のトロールの幼体と置き換えるという犯罪を行為に従事している。こうなるとトロールは差別の報復としてテロ行為に走る移民労働者に似てくる。
トロールとは被差別者の代名詞であり、その狂暴性と違法な報復は、不当な虐待を繰り返してきた人間側の罪の意識の裏返しである。醜いとあざけり、石を投げるだけではない。親兄弟一族の絆を切り裂き、強制的に生活環境を変え、自己卑下、自己嫌悪の意識をたたきこみ、みずからを劣等人間として意識させるべく、ある意味、洗脳してきた、人間たちのやましさゆえに、人間たちは復讐されるという恐怖を募らせるのである。そしてそのぶんトロールたちマイノリティの人間たちが狂暴に見えてくるのである。
となると物語は、自分がそれと知らずに敵に利用されて、本来、味方であった者たちを摘発している者の悲劇あるいは悲哀となる。映画『ブレードランナー』は、映画のなかで明確に説明されるわけではないが、逃亡レプリカンとを追う賞金稼ぎ(ブレードランナー)であるデッカードは、彼自身、気付いていないかもしれなくて、また偽りの記憶を植え付けられたレプリカンとであったということになっている。ほんとうはトロールなのに、人間と思い込まされ、人間のためにトロール狩りを行なうのが、この映画の主人公なのである。
こう書くと、この映画、すごく面白そうな映画であるかのようにみえるのだが、実際には、正直退屈な映画であった。とりわけヴィジュアル面で。トロールの男女(ほんとうはジェンダー的によくわからない。ゲイ・レズビアン的な要素、クィア的な要素が濃厚であることは確かだが)は、美男美女ではないが、かといって醜すぎるわけでもない。とことん醜くかったりグロテスクであったりしたのなら、私たちはそこになにか愛着を、美ではないかもしれないが、美に似たものを感じ取ることができる。醜ければ醜いほど、愛着が生まれるというパラドクスは、ここにはない。身体とりわけ裸体は、色気づいたムーミンのそれで、リアルな醜悪な身体であって、しかも、人間とはちがうととなると、なんとなく嫌悪感は抱いてしまう。顔は動物を彷彿とさせる中途半端な醜さをたたえている。動物的であって動物的ではないので、審美的にみて、動物の優美さ、仮借なき残酷さは、残念ながらない。また、いくら不細工だからとって、ふつうそれは個性的なものに変換させられるのだが、それもない。ヴィジュアル的に生彩を欠いている。だから退屈になる。べつに映画館で寝たわけではない。最後まで目を凝らしてみていた。物語の希薄さとヴィジュアル面での感情移入不可。何度も観たい映画ではなくなっている。

2019年10月29日
『駅までの道をおしえて』
出演者は、新津ちせ、有村架純、笈田ヨシ、坂井真紀、滝藤賢一、羽田美智子、マキタスポーツ、余貴美子、柄本明、市毛良枝、塩見三省 etcと豪華だが、そんなに出番があるわけではなく、有村架純にいたっては、ナレーションで姿はみせない。基本は主役の新津ちせと犬(ワンちゃんというべきか)で、その圧倒的な演技力(ワンちゃんも)で、感動する。泣ける。
むかし是枝監督の『そして父になる』を紹介・宣伝する深夜の番組(BS)があって、そのなかで主役の福山雅治がインタヴューに答えるなかで、人からこう言われたーー「子供と動物とリリー・フランキーが出る映画には絶対に出るな、[子供と動物とリリーフランキーが]全部もってゆくから」と答えていて、なるほどと思ったのだが、この『駅までの道をおしえて』には、リリー・フランキーは出ていないのだが、子供と動物で全部もっていった、もってゆかれた。人間と動物(ワンちゃん)とのふれあいを描くものだが、少女物(映画と少女は切り離せない)の極致と言っていい。『見えない目撃者』『楽園』さらには『ザ・レセプショニスト』(記事のなかでは触れなかったが少女物でもある)と続く作品のなかで、この『駅までの道をおしえて』は、少女物の頂点に位置するといってもいい。
『駅までの道をおしえて』というタイトル、また犬と抱き合っている少女の写真、そしてほとんど宣伝していないということもあって、しみったれた、暗い映画かと思い、映画館へ行くのがためらわれたが、実際、そんなに観客は入っていなかったが(地元のシネコン)、これは素晴らしい映画で、完全に圧倒された。
映像も美しく、また驚異的でもあって、リアルな光景の圧倒的存在感と美しさに見とれていると、いつしかその光景が不思議な異世界になかわってゆき、現実とも非現実ともつかぬ、心象風景へと転換してゆく。いつしか、この少女もまた、現実にいて、体に痣があって、みんなからいじめられつつも、けなげに生きるなかで、半分捨てられたような、買い手がつかない犬とペットショップで出会い、両親を説得して買うことになり、犬との交流を通して生きる喜びと現実世界へ新たな関心が芽生えるなら……という物語の少女が、特殊性をはなれ、誰の心にも住むような、ユング的なアニムスにかわっていき、物語も死と生、愛する者との別離の悲しみと苦悩そして救済へと変容をとげていくのは、見事。
愛犬ルーの突然の死と、その死を受け入れられない少女は、ルーともう一度会いたいという気持ちと、ルーとの楽しい思い出を呼び覚ましながらも喪失の苦しみに耐える日々のなかで、いつしか現実と非現実が、生と死とが交わり、また切り離される境界領域へと足を踏み入れる。それが「駅」だとわかる。生者と死者とが出会いまた別れる場所。もはやその駅は京浜急行線のどこかの駅ではなく、この世と死者の国とをつなぎつつ、切り離す、開かれなのである。
そう、いまにして思えば察しが悪すぎたが、少女がルーに導かれ壁の穴から緑の空き地にはいるところで、『不思議の国のアリス』を思い浮かべるべきだった。白兎ならぬ白い柴犬、6歳か7歳の少女(アリスと同じ年齢)。そしてこの緑の空き地に、線路が二本。ああ、もうこれは不思議の国の冒険そのものだったし、少女が、あんなに苦労した入った空き地を、老人やルースは、どこからともなく、またそこに住んでいるかのように、すっと現れる。少女と犬、少女と老人。まぎれもない現実感(そこは京浜急行の沿線の街で、海もみえる)と同居するメルヘン、ファンタジーの世界あるいは不思議な国。そして今にして思えば、この不思議な国――アリスの場合もそうだったかもしれないが――は、生者と死者が出会う、この世でもあの世でもない境界領域だったのか、と。やがて幽明境を異にすることになる時が来る。
この少女は、まぎれもなく生身の少女として、京浜急行沿線の住人としての存在感を保ちながらも、アニムスとしてのアレゴリカルな存在ともなる。彼女は、あなたや私の分身でもある(性別は関係なくなっている。アニムスだから)。そもそもあんなに夜遅くまで出歩いていたら、一人で行く先も告げずに出かけていたら、病院でひとり看病していたら、周囲や家族は大騒ぎになっていたはずなのだが、誰もさわがない。彼女の行動は少なくとも小学生低学年のそれではない、独立した少女の行動である。あるいは彼女の冒険は、この世のものではなくなっている夢の世界の出来事なのである。
もちろんトラウマとか死を乗り越える話というのは、よくある話だが、それを、ありきたりな物語にみせないのは、主役の新津ちせの超絶的な演技力と、ワンちゃんのルーの演技力である。劇団ひまわり所属の新津ちせは、天才的な子役で、すでに映画とか舞台そして声優としても活躍していて、私が観た映画『泥棒役者』(2017)に出演していたらしいが、思い出せない。 舞台ではシェイクスピアの『お気に召すまま』(2017シアタークリエ)にも出演していたらしいのだが、私は、これを見たが、当然のことながら思出せない。台詞を話した小さな子供か? とはいえ劇団ひまわりの公演を今年8月初めて見たのだが(彼女は出演していない)、子役よりも大人が多い舞台だったが、子役たちの天才ぶりもいかんなく発揮されていた舞台だった。まあ『パプリカ:』を歌って踊っているFoorinのメンバーであることと、新海誠監督のお嬢さんということでも、よく知られているが、あらためてその演技の素晴らしさに感銘を受けた。
私は動物を飼ったことはない。ペットが先に死ぬのが嫌だったからである。おそらくペットを飼う人は、その場の勢いで飼ってしまうのだろうが、そして死ぬことを考えないのだろうが、しかし、ペットは先に死ぬ。悲しい別れがある。だが、ペットを飼う意義もそこにあるのだろう。ペットの意義は死んでからである。死を忘れるな。死をどう乗り越えるのか。それを知るためにも、ペットとの悲しい別れがあるような気がした。そう、ペット(とその死)をとおして、私たちはおしえられるのである。駅までの道を!

ISの指導者をUSの指導者が殺害
ちなみにトランプ大統領というのはUSの指導者で、USの指導者がISの指導者を殺害したということだが、ISというのは、これまでいわれてきているようにイスラム国というべきで、USは現在ではキリスト教原理主義に席巻され、キリスト教原理主義を支持層にもち、みずからもキリスト教原理主義を支援しているトランプ大統領を指導者としているので、キリスト国というべきである。
イスラム教原理主義の国の指導者と、キリスト教原理主義の指導者との争いなので、どちらも共倒れになれとしかいいようがないが、悪辣なテロリスト集団の指導者の首をとれば、世界は平和になるというのがキリスト国の独善的な考え方で、また指導者の首をとっても一向に平和にはならないというのが歴史的伝統である。
一例が、オサマビン・ラディンの殺害で、もしキャスリン・ビグロー監督の『ゼロ・ダーク・サーティ』で描かれいるようなものなら、ローカルな政治集団の指導者ともいえないような、あるいは村人に匿われているギャングのボスでもレジスタンスの闘士でもない、隠居している一介の通信マニアの居場所を急襲したにすぎなくて、むしろ人違いではないかと思われるくらいである。もちろんドキュメンタリー映画ではなく、あくまでも劇映画なので、そこで描かれたことが真実だとは言えないのだが、しかしアメリカの外交政策に批判的でもなく、中東でのアメリカの戦争を肯定するような監督が、ユダヤ系の女優ジェシカ・チャスティンを使って撮っている映画が、リアリズムを貫こうとしたのか、全世界のテロリストに指令を出している悪の帝王のような人物を殺害したのではなく、なにか無実の老人をスケープゴートとして殺害したのではと思われるような映像になっているのは、おかしいのである。あるいは、それが、監督が意識していなくても、浮上した真実ではないかと疑ってしまう。
そして重要なことは、オサマ・ビン・ラディンを殺害しても、世界からテロはなくなっていないことであれ、アルカイダを名乗るテロリスト(たぶん名乗っているだけで、本来のメンバーではないだろうが、いや、メンバーなどほんとうにいるのだろうか)はいっこうになくならないし、テロもなくならない。首謀者を殺しても、世界は平和にならないのである。
前例はある。アメリカに宣戦布告もせずにだまし討ち的に真珠湾を攻撃した日本軍の指導者のことである。宣戦布告もせずに攻撃するのはテロ行為と同じである(これは今も続いている事態で、テロリストは、みずからのテロ行為を戦争行為であると主張するが、相手国は、それは戦争ではなく、ただのテロだと一蹴するのが常だが、テロ行為か戦争かは、重要な差異となる)。その卑怯な真珠湾攻撃の立案者で、帝国海軍の指導者(聯合艦隊司令長官)こそ、山本五十六であり、アメリカとしては、この山本五十六を殺害すれば戦況は好転すると考えた。
あとはこの山本五十六というテロリストの指導者みたいなやつを、待ち伏せして、殺害することがアメリカ軍の作戦となる。実際、その待ち伏せ行為は成功する。しかし、その成功は日本軍が油断していたというよりも、たいへんな労力と危険をかえりみず、わざわざ司令官だけを攻撃殺害するという無益な作戦を、アメリカ軍が実行するとは夢にも思っていなかったからではないか。
そして重要なことは、山本五十六が殺害されても、戦況に影響はなかったことである。指導者を殺せば平和になったと思い込むのは、きわめて危険なことである。まだ地雷を撤去してないのに、安全だと思い込んで地雷原に足を踏み入れるようなものである。あるいは硫黄島の有名な星条旗を立てる写真。あの写真をみれば硫黄島は完全にアメリカ軍に制圧されたと思って当然である。しかし、あれは虚構のシンボルにすぎなかった。星条旗を立てたあとも、戦闘はつづいていて、あの星条旗立ての写真に出ている兵士たちのほとんどが、その後の戦闘で戦死しているのである(クリント・イーストウッド監督の『父親たちの星条旗』で描かれていたように)。指導者を殺せば勝った、平和でもないのに平和だとうそぶく、しかも原理主義者集団イスラム国の指導者を、原理主義政権キリスト国の指導者トランプが殺害する、なんという茶番。共倒れになればいいのに心から願う。
ちなみにアメリカには卑劣なテロリスト集団の指導者として嫌われた悪魔的な山本五十六は、日本では神様扱いされ神社までできている。宗教原理主義者の愚かさに国境はない。

2019年10月28日
『スペシャル・アクターズ』
まだまだぼのぼのさん |2019年10月23日 |iPhoneアプリから投稿
最後の5分は予想外で驚きました。でもその驚きに爽快感や気持ち良さは無く…。
全編通してのっぺりしていてテンポが悪いのと、細かなギャグに全く笑えず(むしろサムい…)個人的には楽しめなかったです。カメ止めの前半パートがずっと続く感じかな…。
どんでん返しや伏線もカタルシスを感じるような造りになっていないし、ずーっもなんだか肩に力が入った雰囲気でちょっと疲れてしまいました。
これに尽きるのかもしれない。
実際、これは30分、ながくて1時間のネタだし、それを2時間近く見せられるのはつらい。オーディションで集めた無名の俳優を使うのは、俳優によって先が読めてしまうのを回避するためにも意義があるというのだが、出てくる俳優の無名さは、彼らが演ずる役柄のステレオタイプ性を相殺するものではない。むしろ、人物なフラットなキャラクターなのだから、先は読める。もちろん役者というのだから、本当の性格と、役柄とのギャップが生ずるのだから、そこが面白いのだが、そんなギャップはないように思われる。また全体にチープ感が支配的であって、実は『楽園』と連続してみたこともあって、比べるのが酷といえば酷だが、たとえジャンルの違い(コメディとシリアス・サスペンス)や予算規模を完全に無視しても、映像のクオリティが違いすぎる。もちろん最後の5分のどんでん返しが重要かといえるのだが、そのためにチープな映画(チープ感も意味があったとわかるとはいえ)を延々とみせられるのは、正直つらい。
あと宣伝文句にあるように、緊張すると失神してしまうという主人公の性癖は、それを武器に大どんでん返しとはいかなくとも、計画の成就に大きく貢献するものかというと、たんなる弱点にすぎず、むしろ計画の足を引っ張る可能性があるというのもいただけない。まあ主人公がトラウマを抱えているという設定は、よくあることではあるが(クリント・イーストウッドだって緊張すると失神する主人公を演じていたのだから『ファイアーフォックス』で)。
もうひとつのコメントは内容に踏み込んでいるが、観客の不満をくみあげた辛辣な批評を展開している。
2.0監督は「カメ止め」を上回らねばというプレッッシャーに負けたんでは?
高武蔵守師直さん |2019年10月23日 |PCから投稿 |鑑賞方法:映画館
【ややネタバレ! ただし見ていないとわからないのでそんまま引用する】
実際、物凄く期待してたんですよ。この上田監督なら、前回を上回る「大どんでん返し」があるに違いない、途中がどんなに稚拙でも、それはラストの伏線かも知れない、って。2は1よりスケールアップしないと許されない、が宿命ですから。
で、結論。悪いほうにスケール大きくしちやったな。あれやったら、台無しだ。
南アフリカに負けた、ジャパンは終わったんだなあって寂寞感で見てたんだけど。上手いのかどうか微妙な無名の役者も、安っぽく嘘臭い展開も、まあ、そういう座組みなんだからいいや、と思える程度には、面白く見られたんだけど。
…ラストのどんでん返し、あれはない。まあネタバレになると悪いから言わなかったけど(言ってるか?)、あれは台無し。確かに「どんでん返し」のスケールは大きいけど、それやったら、今まで見せられていた全ての登場人物の努力が、全ての観客のワクワクが、全部意味がなくなっちゃう。台無し、ってのは、まさに、こういうことを言う。【これはもちろん異論があろうが、こう感ずる観客がいてもおかしくない――引用者】
まず、辻褄がぜんっぜん合わなくなる。主人公はいつもスマホで検索している奴なんだから、あの教団がああなったというニュースを読みたいを思うはずでしょ。それが、どこにも出てなかったら、おかしい、と思うでしょう。
まず、弟のプロフィールより、ニューズの検索をしないか?【この指摘は、確かに鋭くて、現在のネット社会では、こういうネタはもう使えないということが痛感できる。】
つまり、ラストのどんでん返しがぜんぜん成立してないおかげで、映画全体がカスになってしまうんだよ。
監督が脚本を持ってきたとき、「これ、ぜんぜん辻褄あいませんよ」てチームの誰か進言しなかったのかねえ?
上田監督、「どんでん返しは『カメ止め』を上回らなければならない、というプレッシャーに押しつぶされた、といえます。
最初から無理なんだよ、いままで世界に存在する何万、何十万のどんでん返しを徒手空拳で(この予算と座組みで)上回ろうなんて。そんな無理して奇跡を起こそうとすることはなかったんじゃないの?
もっとさ、「おい、俺をここに引き込んだのは、最初から、俺に立ち直って欲しいと思ったんだろ?」「・・・ハハハ、そんなことはないよ」「あそこで会ったのも偶然じゃないだろ?」「うーん、まあいいだろ」くらいのラストで良かったんじゃない?【こんなラストは、ないほうがいい。このラストもクソですよ。】
それとも、実はあの姉の女将が、逆に教団を乗っ取って自分が教祖になろうと画策してたのに、主人公たちがそれをブチ壊して、あーあ、みたいな。「旅館経営なんてやってられないわよ、あんな大赤字の旅館、いくら親の遺産でも迷惑よ! そんなに言うならあんた(妹)女将やってみなさいよ、すぐに潰してベソかくに決まってるのよ、そんな妹の顔を見たくないから頑張って芝居してきたのに、あー、馬鹿みたい!」みたいな。【このすぐあと「ありきたりかも知れない」とコメンテイターは書いているが、この種の結末は、つまり姉が、なにかあやしいという予感が頭をよぎったことは確か。全然、怪しくなかったのだが】
ありきたりかも知れないけど、ちょっとビターで収まるなオチなんて、いくらでも思いつくじゃない、素人でも。【いやいや、どれもド素人の浅はかな考えです。】
ラストだけ忘れれば、楽しい映画だった、と言うしかない、なんて、いかにも残念。
できればラストを際撮影した「ホントウはこっちだよ版」を作って再公開すべきだ。
鋭い指摘のコメントだが、偽教団の裏教典が電子ファイル化されているのに対して、スペシャル・アクターズの台本とか書類がペーパーであるというのは、機密保持には紙しかないという現在のネット社会・情報社会のパラドクスめいたものがみえるのだが、それをおしとおして、最後にネットを検索させなければよかったのだ。もし、あのようなビジネスがあるとすれば、ネットに載せてはだめでしょう。と、私もつっこみを入れたくなったのだが、ただ、この映画、本物と偽物、アナログとデジタルなど、基本的主題における対立は興味深いものがあるので、このことについて考えてみたい。
*****
コルネイユはラシーヌ、モリエールと並ぶ17世紀フランスの新古典主義を代表する劇作家のひとりだが、三一致の法則を守らないということで批判もされていた。三一致の法則というのは劇作において、物語は単一、場所も単一の場所、そして時間も24時間以内(理想をいえばリアルタイム)という規則である。コルネイユの喜劇『舞台は夢』(『嘘つき男・舞台は夢』岩瀬孝・井村順一訳(岩波文庫2001)所収)は、劇作家が批判に応えようとした作品である。日本で翻訳上演されたこともある(残念ながら私は見る機会がなかったのだが)。ネタバレになるので詳しくは語れないが、『舞台は夢』では、物語は複雑で、場所はフランスにはじまりイングランドにまでいたる。そして物語は数箇月に及ぶ。最初から三一致の法則を守る気などない大胆不敵な、あるいは異端的な作品かと思うと、最後に、大どんでん返しがあって、三一致の法則を守っていたことがわかる。どういうネタかは語れないのが残念なのだが、類例のとして『カメラを止めるな』を考えてみたい。
『カメラを止めるな』はゾンビ映画を撮る映画である。アメリカの高校生はソンビとか吸血鬼がほんとうにいると信じているらしいが、この信念は全世界で共有されているわけではないだろう。ソンビ映画は、虚構、絵空事である。しかしソンビ映画を撮ることはリアルである。リアルの定義を、たとえば新聞で記事になる、メディアに報道されることと考えれば、たとえばハムレットが舞台で父親の仇を討ったとしても、それは絵空事である。しかし、その『ハムレット』公演が感動を与え大ヒット・ロングラン公演となったり、は演技がひどすぎて観客が暴動を起こしたら、それはニュースになる。『ハムレット』の内容は絵空事でも、その公演はリアルである。
安っぽい、チープというのは、絵空事っぽさが抜けない、いくら絵空事でもリアルさが希薄であるということをいう。『カメラを止めるな』では、ゾンビ映画はゾンビ物であることで、チープ感があり、さらに低予算映画でもあることでチープ感は二乗される。しかし、ゾンビ映画を撮ることそのものにチープ感はない。それは本物でありリアルであるからである。低予算映画であることは、チープなことではない。むしろ現実味を増している。リアルさがハンパない。『カメラを止めるな』では、この撮影内容はチープでも、撮影行為そのものはリアルでチープ感はないので、たとえ撮影行為が実のところ撮影内容にくみこまれているのだが、それを感じさせずに、映画というか撮影行為の裏側をじっくりみるという喜びとおかしさを満喫できる。チープさと本物とが並行してすすむ。まさにそれがメタ映画ゆえなのであって、チープ感が連続し最後の5分で本物が登場しても、もう遅すぎるのである。
とはいえ、チープな物語の次元と、撮影行為という偽物感が入り込めない次元とを共存させることによって、チープ感を払拭した『カメラを止めるな』は、アイデアはすごいが、そのぶん、最初から勝負がついている。成功することはまちがいないといえる。おそらくそれでは製作者側は満足しなかったのかもしれない。むしろステレオタイプのフラットなキャラクター、棒読みの台詞、大根役者の硬直化した演技、すべてにはわたってチープ感しなかい映画において、それでもなお、観客に感度をあたえることができたら、あるいは最低の物が、最高の効果をもたらすのなら、失敗的要素しかない作品が成功するのなら、それこそが製作者側の賭けであり、大いなる喜びといえるだろう。その意味では、実は、この映画、成功しているのである。安っぽい展開、漫画チックな絵空事、にもかかわらず、手に汗握るところがなかったわけではないので。
あと『カメラを止めるな』チームの第2作目『イソップには騙されるな』と同様、というかそれをいうなら『カメラを止めるな』も同じなのだが、少女物である。ただ、少女物であることが、今回の『スペシャル・アクターズ』では、残っているが、後退した。おりしも、比較的最近の日本映画では『見えない目撃者』、あるいは『楽園』など、少女物が、なにか流行っているというのに。

2019年10月27日
『ザ・レセプショニスト』
2017年にソチ国際映画賞&フェスティバルで最優秀映画賞を受賞し、エジンバラ国際映画祭オフィシャルセレクションで上映されたほか、アジアン・アメリカン国際映画祭をはじめ、各国の映画祭で上映・受賞。2018年の第一回 熱海国際映画祭グランプリを受けて、日本国内での上映が決定したという。
シネコンで上映2,3分前に入ったら、誰もいない。スクリーン2という、かなり客席数の多いスクリーンで、いるのは私一人というのは、どうしたことか。貸切かと喜んではいられない。暗い中一人で映画を見るとなると、変な奴に脅されて金銭物品を強奪されるかもしれない。その挙句殺さるかもしれないのだ。私がたくさんの金を持っているからではなく、財布のなかにほとんどお金がないので、かえって強盗犯を怒らせて殺されるかもしれないのだから。とにかく映画館、一人貸切状態は危険なのだ。
まあ予告編がはじまってから、若い男女のペアが二人ではいってきた、結局広い客席にいるのは三人だけとなった。で、そうなると私はどうなるのだ。映画の内容な、ロンドンの住宅街で違法マッサージを営む中国系移民の日常をドキュメンタリー風に描く映画。で、それを雨のなか、わざわざ見に来ている老人の私は、ただのスケベ爺ということになってしまう。それは違うといっても誰も信じてくれないじゃないか。
観客が私とそのペアの三人しかいないのは、豪雨が来ているせいである。と同時に、アジア系の映画は、どんなヒット映画でも、中国系、韓国系はのぞくと、よほどエンターテインメント性が強い映画でないかぎり、客が入らないと言われている。この映画、よくできた映画ではあっても、エンターテインメント系ではない。ただし、見て損はない映画だと思う。すけべ爺は来なくていいのだが。
といいながら、これだけは言っておきたい。この映画、暗すぎる。内容も暗いのだが、それ以上に、画面が暗すぎる。照明を使わずに天然光で撮っているらしいので、部屋のなかは昼間は窓のカーテンのところが明るく、あとは完全に逆光になって人物の顔が見えない。しかも顔のアップがけっこう多いのだが、あきらかに照明をあてていて鮮明な画面も時々あるのだが、全体の8割は、暗くてぼんやりしている。しかもアップが。
これは撮影側の責任ではなく、上映側の責任なのかもしれないが、たとえば私が前のほうに座りすぎたとか、大画面ではなく、小型テレビパソコンやタブレットくらいの画面ならば、そんなに気にならない暗さ、ボケ具合というか解像度なのかもしれないのだが、ただこの暗さは意図的なのだろう。照明を使わないことによるドキュメンタリー感は出ているかもしれない(暗すぎるのだが)。ここで照明があたったらリアリティが吹き飛んでしまうということなのだろう。
映画のテーマのひとつが、ふだん土のなかにいるミミズは、土から離れると死んでしまうという話があって、これが最後に主人公が台湾の故郷に帰り、水害にみまわれた故郷の復興に尽力する、つまり土に帰ったミミズなのだが、このイメージは、そのまますんなりと受け入れられるのだろうか。土は暗いイメージになる。そうなるとロンドンの、日本風にいうと違法風俗店を舞台に、そこを経営し、そこで働く中国系の女性たちの生き様こそ、土からはなれたミミズというよりも、土のなかで蠢いているミミズではないだろうか。
いずれにしてもミミズのイメージは、良いものではない。台湾に帰ってきた女性のことをミミズに例えるのは抵抗があるとすれば、違法風俗的で働く彼女たちこそ、日の当たらない地中で蠢くミミズではないだろうか。しかも、そのなかの一人が、過酷で危険な仕事に耐え切れずに精神に不調をきたし、故郷に帰ろうとし空港をうろついているうちに係員に保護されるが、それを振り切って逃げていく途中で、高いところから落ちたか、もしくは自殺する(映画では何も説明されない)。明るい陽光のもとコンクリートのうえで死んでいる彼女は、台湾か中国という土地を離れてロンドンで日干しになっているミミズなのだろうか、あるいは違法風俗店という地中を離れて陽光のものに出て日干しになったミミズではないか。土をはなれては生きて行けないミミズたち。しかもこの比喩は良い意味でも悪い意味でも成立する。
もちろん、こんな違法風俗店そのものが存在してはいけないものだし、そこで長く働くことはできないし、またそうすべきでもないのだが、しかしロンドンに出てきても働く場所がない彼女たちにとって、生き延びる、唯一の手段ではないとしても、生き延びるうえでやむをえない手段でもあって、そんななかで長くいっしょにすごしていれば、友情や親族の愛めいたものが生まれておかしくない。映画はそれを前面に押し出してはいないが、たしかに友情めいたもの、母と娘の情愛のようなものも生まれている。
主人公の女性は、この違法風俗的で「受付」として働くことになるのだが(それが映画のタイトルの『ザ・レセプショニスト』の由来)、体を売ることはない。しかし、そこで働いていることを隠していたことが同棲していた恋人によって暴かれ、追い出されて、住む場所をなくして、その違法風俗の家で泊めてもらうしかなくなる。行場所がなくなった女たちが、共存する場。そこに芽生える友情や愛情。『万引き家族』の世界へはあと一歩である。
そう、彼女たち、血がつながっていなくても(血がつながっているかもしれないという暗示もあるのだが)、ひとつ屋根の下、苦しいながらも生き続けたときの、友情なり愛情は、それは、ここにしか得られない貴重なものかもしれない。そう『万引き家族』へのふりきりがあってもよかったのだが、ここにはそれがない。
もちろん違法風俗営業が長続きするわけでもなく、また推奨するようなものではないことはわかっているし、それは『万引き家族』でも、万引きとか、詐欺やたかりで暮らすることがよいとは誰も思っていないし、当然、そこから逃れようとする子供も出てくるのだから、理想郷あるいは楽園ではない。だが、それは楽園になる可能性を、あるいは楽園を確かな手ごたえとともに希求させてくれる生活様式でもあるのだ。この映画が、『万引き家族』へのふりきれなかったのはほんとうに残念である。
主人公の女性は「受付」で、売春行為をしていないから、誤解されることはあっても、故郷の台湾に変えることができる。最初から逃げ場は用意されている。高学歴であることも、逃げやすく、帰りやすくしている。土に帰ったミミズ。ミミズは土に還れ――ここには、やはり批判性はあるかもしれない。
いっぽう売春行為で荒稼ぎするしかない女性たちに還る場所はない。あるとすれば、結局、違法風俗の場でしかないかもしれない。ミミズはひなたでは生きられない。
そして映画監督の女性。彼女は台湾に還ることはなく、ロンドン在住となる。ある意味、レセプショニストから台湾に還る女性と、違法風俗を転々とするしかない女性は、ロンドンで地歩を築いている監督の分身あるいは、そうであったかもしれないオルターナティヴな存在であった。この三体のうち、どれが望ましいのか、究極の運命なのか、どこに未来があるのか、決められない迷いが、映画の解像度の悪さ、画面の暗さになっているというふうに考えれば、老齢になると、あんなふうに視界が狭くなり、暗くなるのかと、ぞっとするような暗さの映画だが、なんとか納得できるのかもしれない。

2019年10月26日
『キング』
ティモシー・シャラメ主演の『キング』(The King)が本日10月25日に封切られることわかった。事前に情報を伝えられていなかったというか、積極的に公開映画の情報を集める人間ではなかったので、この映画について
舞台は15世紀の英国。国王である父の死後、王位を継承したハルの物語【ハル?】。自由気ままな王子が、宮廷の権力争いや戦争、混乱の時代を経験して、国王としてたくましく成長していく姿が描かれる、Netflixオリジナル作品。2019年11月1日からの配信に先駆けて、アップリンク渋谷・吉祥寺にて劇場公開【もちろんアップリンクだけでなく、地元の映画館でも公開】。
え、これって、どの国王? ヘンリー五世のこと?
『キング』(原題:The King)は2019年に公開された米豪合作の歴史映画である。監督はデヴィッド・ミショッド、主演はティモシー・シャラメが務めた。本作はウィリアム・シェイクスピアの戯曲『ヘンリー四世 第1部』、『ヘンリー四世 第2部』、『ヘンリー五世』を原作としている。
という情報もある。さらに調べるとエドガートンがフォルスタッフを演じている。え、これはティモシー・シャラメ主演の『ヘンリー五世』。地元の映画館では、夜の回もあったが、午後の回もまだ間に合うことがわかった。急いでネット予約して、外に出た。出た瞬間に公開した。豪雨である。しかしティモシー・シャラメのファンの一人でもある私を豪雨が止めることはできなかった。
映画はシェイクスピアの『ヘンリー四世』二部作と『ヘンリー五世』をミックスしているのだが、ただシェイクスピア劇からはずれている。いや史実ともちがっているのだが、ただアジャンクールの戦いで英軍は勝利するので歴史は改変していない。シェイクスピアの『ヘンリー五世』には登場しないフォルスタッフが、映画では登場して、アジャンクールの戦い参加している。エガートン扮するフォルスタッフは、フォルスタッフとしては線が細いのではないかと思ったが、エガートン、もうじゅうぶんに太くなっていて貫録もあり、しかも劇中のフォルスタッフよりもかっこいいというか、かっこよすぎる。映画はシェイクスピア劇のテイストは残そうとしている。史実に忠実というよりも(史実ではアジャンクールの戦いでフランス皇太子(ドーファン)は死んでいない)、歴史の現実政治のテイストを残そうとしている。
ティモシー・シャラメの映画としては、今年はこれで何度目かはわからないのだが、『ビューティフル・ボーイ』は、薬物依存症の息子を父親が救おうとする話だが、話の内容というか結末が当然と言えば当然だが、同時に、衝撃的で(つまり親は依存症の子供を救えない、また救おうとすると依存症を悪化させるという叡智は、そのとおりだが、映画や物語で語られることのない真実として衝撃的だった)、そのぶんティモシー・シャラメの影がかすんだ(重要な役柄なのだが)。
『レディー・バード』では、妖艶な謎めいた男でワルというティモシー・シャラメに似合っていたが、やはり主役のシアーシャ・ローナンの魅力というか演技が際立っていたし、彼の魅力が映画を支えているわけではなかった。
一番期待したのが『ホット・サマー・ナイツ』(原題:Hot Summer Nights)なのだが、これは『君の名前でぼくを呼んで』の前に撮られていた映画で、このなかでティモシー・シャラメは、頭のよいクソガキの愚か者で、悪に染まって取り返しがつかなくなる役だが、彼の堕天使的な魅力は乏しかった(そもそも映画のプログラム、映画のスチール写真が大半で、内容は薄っぺらでながら定価1000円とはおかしいだろう。金返せ)。この映画をみながら、この若者たちの無軌道な愚か者ぶりから、『ブリングリング』を、あるいは『スプリング・ブレーカーズ』を思い出したのだが、『ブリングリング』も『スプリング・ブレーカーズ』も『ホット・サマー・ナイツ』も、どれもA24の作品。まあ『レディ・バード』も、あるいはアカデミー賞をとった『ムーンライト』もA24の作品なので、一概に、どうの、こうのとは言えないのだが、春休み、夏休み、毎日が休みの、無軌道な若者たちの愚かな青春を描いて、何が面白いのかを考えて見たかった。とりわけA24が配給している、この種の映画の特徴(社会性、政治性、文化的意義)は何かあるのではと考えているうちに、ブログに投稿の機会を失ってしまったのだが。ただ『ホット・サマー・ナイト』は、『君の名前』の前の映画なので、ティモシー・シャラメの魅力は開花していない。今回の『キング』がポスト『君の名前で』である。
ポスト『君の名前で』の期待を、この『キング』は裏切らなかった。ティモシー・シャラメのヘンリー五世を最後まで食い入るように見つめている私がいた。まあシェイクスピアの『ヘンリー五世』を知っていて、ティモシー・シャラメのファンであれば、絶対に面白い映画なのだが、それ以外の観客にどこまで受けるかわからないのだが、ただティモシー・シャラメの無垢でありながら悪魔的な、少年っぽさを残しながら大人となった、そして正義と善を求めながら、悪と不正にも汚染されてゆく自分を意識している英明かつ英雄的な王の姿は、きわめて印象的で、感銘を受ける観客は多いのではないかと思う。
泥まみれのアジャンクール/アジンコートの戦いは、監督・主演の『ヘンリー五世』を彷彿とさせるのだが、ケネス・ブラナーの映画のほうは、シェイクスピア劇の映画化なので、詳しい説明などなく、なぜ泥まみれなのか、演出上の設定なのだろう受けとめる観客が多かったと思うが、今回、なぜ泥まみれなのか、史実に基づいての設定であることが映画の観客にはよくわかった。ハーフラーの攻城戦はシェイクスピア劇では激戦なのだが、映画では突入前に降伏する。この点は史実で確認すべきかもしれない。なお皇太子のハルが、ホットスパーと一騎打ちの決闘をすることはない(皇太子と貴族とで身分が違うので)。またヘンリー五世が、フランスの皇太子(ドーファン)と決闘することもない(国王と皇太子は身分が違う)。まあ、そもそも甲冑を付けた重装備で肉迫しての白兵戦は、中世ではなかったと思うのだが、同じような甲冑を付けての戦いは敵味方どちらかよくわからない。実際の戦闘において同士討ちはよくあったのではないか。同士討ちで死んだ人間のほうが多かったのではと思えないわけではない。そのへんも調べてみるべきだろう。
フォルスタッフに関しては、ヘンリー五世の親友だが、フランス遠征には随行していない。そもそもフォルスタッフは、実在したサー・ジョン・オールドキャッスルという貴族がモデルで、オールドキャッスルは、ロラード派(反カトリック勢力)で、イングランドで反乱を起こしている。ヘンリー五世の親友でもあったので、捕まっても極刑を免れていたが、ヘンリー五世がフランス遠征中にイングランドで火あぶりになった。したがってサー・ジョン・オールドキャッスル/フォルスタッフはフランス遠征してはない。
いっぽうヘンリー五世死後、フランスの領地を統治した弟のトマス・ベッドフォードの側近にジョン・ファストルフという郷士がいた。彼はガーター勲章を保持している側近中の側近だったが(アジャンクールの戦いには参加していない)、敵前逃亡を非難されガーター勲章を剥奪されるという不名誉な経歴の持ち主だが(のちに名誉回復)、シェイクスピアがオールドキャッスルの子孫から、『ヘンリー四世』における道化的臆病者のオールドキャッスル像を批判されたとき、オールドキャッスルの名前を、ジョン・ファストルフにちなんで、フォルスタッフとしたと考えられる。以後、このフォルスタッフが有名になったのだが、シェイクスピア劇のなかでのフォルスタッフは、口八丁手八丁の臆病者で卑怯者として(とはいえその巨体が幸いして、どこか憎めない愛嬌のある人物なのだが)活躍するのだが、映画『キング』のフォルスタッフは、演劇『ヘンリー四世第二部』で追放されたフォルスタッフが、失意のなか老衰で死ぬときに(あるいはアルコールで肝臓をやられて死ぬときに)、見た美しい夢――ヘンリー五世によって全軍の司令官に取り立てられ、ヘンリー五世を助けて、作戦を立案し、騎士たちの先頭に立ち、みずからを犠牲にして英雄的に死んでいくという名誉ある最期――というかたちになるのかもしれない。
シェイクスピア劇では追放されるフォルスタッフの不名誉な姿をせめて救うために私も夢を見る――フォルスタッフのモデルとなったのは、当時、カトリックの腐敗を暴き、ローマ・カトリックを徹底的に批判し、教会と権力側に抵抗したロラード派の指導者のひとりオールドキャッスルだった。このオールドキャッスルが道化的人物だったかどうかわからないのだが、彼は、国王の親友、つまり中世以来の王と道化のコンビの一人だったのなら、そう、このフォルスタッフ/オールドキャッスルこそ、虐げられた人々の守護神にして救世主、まさに英雄ジョーカーと同じではないか。いっぽう、この道化と対峙する王たるヘンリー五世は、イングランドの救国の英雄でもある。まさにバットマン。バットマンとジョーカー。エリート層による、エリート層のための英雄バットマン・対、貧民層による貧民層のための英雄ジョーカー、このふたりのヒーローの対立こそ、ヘンリー五世とフォルスタッフの対立の進化型あるいは原型ではないだろうか。
現実政治的要素は、映画の最後の5分のどんでん返しによって見えてくる。実際、この最後の5分、『スペシャル・アクターズ』の最後と、基本構造は全く同じである。両者をみれば、私の言っていることがわかると思う。真相を知って『スペシャル・アクターズ』の主人公は、克服したはずの失神癖が再発して失神。『キング』ではヘンリー五世が首謀者の頭に短剣を突き立て殺す(心のなかで拍手した)。
武芸の達人ながら無駄な戦いや殺戮を好まず、平和と統一を望む若き英明な国王ヘンリー五世/ティモシー・シャラメが、それでもフランスの地で皇太子(ドーファン)の軍と戦うことになるのは、穏健派のヘンリー五世を挑発し怒らせ戦争をするように仕向けた勢力が、あるいは首謀者がいたからである。あたかもフランスが戦争をしかけてくるように情報が操作された。
おそらく多くの戦争は、しなくてもよい戦争であり、火のないところに煙をたたせ、対立をあおり、戦争へとしむけられた戦争であろう。現代日本では内閣府や官邸がフェイク情報を垂れ流し、危機や憎悪をあおる張本人となっている。現代日本の場合、暴走する内閣府の犠牲者は首相ではない。首相こそが、首謀者なのだから。犠牲者は国民である。首相とそのクソ側近たちにあおられ、さらにはメディアによって偽りの危機感をつのらされ、憎しみをうえつけられ、対立が激化される。まさに、国民こそ、犠牲者である。国民の手で、首相から内閣府の人間、メディアのトップの頭に短剣を突き立てる日は来るのだろうか。あるいか安倍から国民を守るA国党を作ろうとする者はいないのか。
ちなみに悪辣な情報操作は、シェイクスピア作品そのものにもあてはまる。テニスボールの件は、『ヘンリー五世』にも登場するのだが、もとはアレキサンダー大王とペルシア王との関係についての故事に由来するのだが、シェイクスピアが参照した歴史書以外にはどこにも登場しないエピソードである。テニスボール事件は後世の捏造かもしれない。あるいは実際に事件はあったとしても、それは映画にあるように自作自演であった可能性もなくもない。たしかに時代は英仏100年戦争のさなかであって、いつ戦争が再発してもおかしくないといえるのだが、しかし100年戦争という名称と概念は後世のものであって、この時代、100年戦争のなかの平和あるいは小康状態という考えかたはなかったはずだから、そこに戦争にいたる道を用意するのは、きわめて悪辣といわねばならない。
ケンブリッジ伯による国王暗殺計画も、シェイクスピア劇のなかで、『ヘンリー六世第二部』で語られる反乱正当化の説明と、『ヘンリー五世』で語られるフランスから金をもらって暗殺しようとしたという適当な説明とは齟齬をきたしている。後者はヘンリー五世正当化のために同じ劇作家が捏造した可能性がある。映画『キング』は、シェイクスピア自身が、フェイクとプロパガンダの創造者であるという批判的視座を用意してくれるのだ。ただ、とはいえ、シェイクスピア自身も『ヘンリー四世』のなかで国内が不安のときは海外に目をむけ海外遠征によって国内の不安を解消させるという現実政治の知恵を王子に授けている。この知恵は、現在のトランプ政権、安倍政権まで引き継がれていることはいうまでもない。
また映画『キング』では女性が真実を語る。王の妹と未来の妻の二人の女性だけが王に真実を語るのであり、王もそれによって助けられる。私は独身者だが、これにはまったく同感である。私も妻と妹しか信用しない。ただし、女性が、忖度とも権力に媚びることもなく、どんなに不都合な真実でも、それに直面できるのは、女性が権力の座あるいは権力闘争の場から排除されているためである(フランスからきた王妃は、外国人の地位を割り振られている)。女性の場合、真実をありのままに語っても、失うものが何もないからである。だから、これは、もろ手を挙げて喜ぶべき事態ではないのだが。
ヘンリー五世になってからティモシー・シャラメは、笑うことはない。国王としての重圧、内憂外患、権謀術策渦巻く宮廷、すべてが彼を無口にするし、憂いに満ちた顔にする。そこがいいのだが、ただ、最後にヘンリー五世は、ほほ笑む。真実を語る女性を発見したからである。

『T34』
アレクセイ・シドロフ監督による、ロシア国内で大ヒットしたらしい、リアリティーに欠ける戦争映画。/戦車のバトルシーンを売りにしたアクション劇で、ストーリーはそんなバカな!の連続で、ほぼ子供向けの漫画といってもいいです。/数的不利の中、決してあきらめずに悪の組織ナチスに立ち向かうロシア兵、といったロシア人の愛国心をくすぐるようなヒーロー要素が含まれているのがロシアで売れた要因でしょうね。/いわゆるプロパガンダ映画で、アメリカ軍を美し描いた戦争ものと同類です。違いといえば、お金のかけ方と演技、映像、脚本のクオリティーが低いことですかね。/ロシアはなにかとハリウッド映画でアメリカ人に敵役として描かれているんだから、どうせならアメリカ人をやっつける話にすればいいのにね。アメリカ人に気を使ってるんですか?/まず、映像がセット丸出しなのがいただけませんね。美術の技術が低いからか、昔の建物や道具も古さが感じられず、作ったばかりの新しさが出ちゃってるのがダメです。【このコメントに対する反論は最後にまわす】
まず、この*********は、この『T34レジェンド・オブ・ウォー』が『鬼戦車T34』のリメイクであることをご存知ない。あほかと言ってやりたいのだが、『鬼戦車T34』のリメイクとして、完全にかけ離れたストーリーにならない程度に、話を盛って、現代風のエンターテインメント作品にしている。もうひとつ『鬼戦車T34』は、実話に基づいているらしいので、まったく別の物語にすることもできなかった。以下、Wikipediaの『鬼戦車T34』の記述である。
『鬼戦車T-34』(おにせんしゃT-34、原題:Жаворонок)は、1965年制作のソビエト連邦の戦争映画。第二次世界大戦中の実話を基にした映画。第18回カンヌ国際映画祭コンペティション部門出品。
あらすじ
第二次世界大戦中の1942年、ドイツ東部にあるナチスの捕虜収容所では、捕らえられていた連合軍の捕虜たちが新型砲弾の射撃訓練の標的にされていた。それは、砲弾の入っていない戦車T-34に捕虜たちを乗せて一斉砲撃するというものであった。
ある日、捕虜となっていたソ連軍の戦車操縦士のイワンは、ピョートル、アリョーシャ、フランス兵と共に次なる標的に選ばれる。だが彼らは砲撃を見事にかわし、煙を出してやられたふりをして、戦車T-34を操縦して脱走する。
彼らの乗った戦車T-34は一路東へ向けてひた走るが、ドイツ軍側は追手を差し向け、彼らは次第に追い詰められていく。
で『鬼戦車T34』だが、これがけっこうな異色作で、第二次大戦中のソ連の傑作中戦車T34を使ったプロパガンダ映画かというと、必ずしもそうとはいえない。ロシア語がわからないのでなんともいえないのだが原題は「ひばり」とかなんとか鳥の名前である。鳥=魂という連想であって、なぜ、このタイトルかは映画のなかで説明されていない。予算を使わない、スケールを大きくしない、エンターテインメントあるいはプロパガンダというよりも象徴的な作品でもあり、カンヌ映画祭に出品されてもおかしくない。ちなみに今回リメイクは、カンヌ映画祭では上映されないだろう。
『鬼戦車T34』は、今回の『T34レジェント・オブ・ウォー』と同じことは上記のWikipediaからわかる。T34への対抗手段を研究するためにドイツ軍が、ソ連兵の捕虜を使って、捕獲したT34を相手に実弾演習をする。演習場で撃破されたT34の搭乗員は死亡することになるが、主人公は敵の裏をかいて市街地に逃げ出す。そしてロシアの地に帰ろうとする。
これだけでもじゅうぶん異色の設定なのだが、ただドイツ国内の捕虜収容所と、それに隣接する演習場から、逃げ出すというのは、戦争映画の定番といえる「敵中突破形式」である。
では、正統的な戦争映画かというと、燃料とか距離とか立ちはだかる数々の障害によって、故郷へ帰ることをあきらめるところから様相がかわってくる。帰国はあきらめ、逆にベルリン方向へと進撃しドイツ国内で暴れまわるという玉砕覚悟の戦闘行為となる。また演習場から逃げ出したのでT34には当然のことながら砲弾がない。『鬼戦車T34』は、T34が最後まで一発も砲弾を発射しない映画なのだ。脱走したソ連兵の武器というのは小銃や自動小銃だけで、これで敵とわたりあうのだから、ほんとうに、明日に向かって撃て式の、敵中突破はしない、玉砕覚悟の決死行となる。
『鬼戦車T34』では、搭乗員たちはつぎつぎと倒れ、最後は乗り手のいなくなったT34が待ち構える敵の戦車軍につっこんでいくとというもので、戦車という機械そのものが主役となって壮絶な最期をとげる。この辺は、かつてはアメリカと並んで映画製作や映画芸術をけん引したソ連映画のテイストが感じられて、低予算映画ながら、あるいはそうであるがゆえに、不思議な印象を残す映画だった。
今回の『T34レジェンド・オブ・ウォー』は、最初に、ドイツ戦車軍との戦闘場面を付け加えた。T34とドイツ軍との戦闘を前面に押し出した。とはいえT34/76(前期型。76は主砲の直径ミリ)とT34/85(後期型。主砲の直径が大きくなっている)とは、本物のようで、とりわけT34/85が平原を疾走するさまは感動的である。しかし、それ以外のドイツの戦車は、安い作り物っぽくて、最初の戦車戦のドイツ軍の戦車は4号戦車なのかタイガー戦車なのかよくわからない。また決闘というか一騎打ちになるパンサー戦車も、本物ではなく作り物だが、ちょっと形がおかしい。つまりT34以外はCGかバッタモンの戦車であって、そこは、正直いって安っぽい。演出によって緊迫感をうまく盛り上げているが、それがなかったドイツ戦車はハリボテ戦車軍団である。
また演習場から逃亡する捕獲戦車に奇しくも砲弾が6発残っていた。これが映画のなかでは逃亡T34の戦闘力を保証することになるのだが、『鬼戦車T34』でT34が一発も砲弾を発射しないことと好対照をなしている。
さらに対戦車戦闘力をT34に残したことによって、最後には戦車どうしの一騎打ちみたいな話になって、政治性も社会性も吹っ飛んで個人と個人の戦いとなってしまった。また女性とのロマンスみたいなものもあるが、一応、彼女は通訳ができる女性だが、もし軍事捕虜なら彼女は第二次世界大戦におけるソ連軍の女性兵士であるはずだが、女性を男性兵士とほぼ対等の立場で使用したソ連軍の面影あるいはそれに驚くドイツ軍の面影はない(もっとも彼女は強制収容所に入れられた一般人かもしれないし、戦争捕虜たちも、一般の強制収容所に入れられたとみるべきなのだろう)。
なお『鬼戦車T34』は、ドイツ国内では、そもそも砲弾がないという設定からして当然なのだが、建物をその車体で壊すことはあっても住民・民間人は一人も殺傷していない。これは意味のあることだと思う。
ひとつには民間人を驚かす、あるいは脅すことはあっても、建物は壊しても民間人を殺さないという大原則をリメイク版でも守ることによって、結局、戦車どうしの戦闘が、最後には一騎打ちの決闘にまでになる。これによって、エンターテインメント性が高まった。第二次世界大戦において最強の戦車軍団を実戦に投入したのはドイツとソ連である。この二つの国の戦車に肩を並べる戦車を、それ以外の国(日本も含む)は造れなかった。英米もドイツのタイガー戦車に対抗できる戦車を開発したが戦争には間に合わなかった。したがって二つの国の中戦車の代表格であるT34とパンサー(あるいはタイガー)が一騎打ちで戦うことは、夢にまでみた戦車戦である。カルパンを超える。
そもそもT34の出現に驚いたドイツは、対抗戦車としてパンサーを開発した。この映画の最後では、このふたつの戦車が対決するのだが、ふたつの戦車のシルエットはよく似ている。パンサーがT34をまねたのである。これはホント。
そしてもうひとつ重要なのは、『鬼戦車』でもリメイク版でもドイツ国内で民間人を殺さないのは、ソ連領内に侵入したドイツ軍とは違うことの誇示であろう。ソ連領内のドイツ軍は、民間人を殺しまくった。正規の軍隊が進軍したあと絶滅部隊が次に進出して住民を殺す。第二次世界大戦中で最も多くの死者を出したのはソ連であるが、それは民間人の多くがドイツ軍の犠牲になったからである。ドイツのファシストどもは、敵国の民間人、自国の、あるいは同盟国の民間人レジスタンスを殺しまくったが、犠牲になった民間人の数は各国とくらべてもソ連領内の犠牲者の数は桁が違う。
バルト9で、この映画をみたのだが、バルト9は、ガールズパンサーのアニメ映画の上映館でもある。その意味で戦車戦のエンターテインメントとしての面白さが際立った。ガルパンアニメというかハリウッド映画風というか。ただ、いくらパワーアップしてもいいし、CGを使ってもいいが、カンヌ映画祭に出品できるような映画でもあって欲しかった。まあ、それだとヒットしないかもしれないが。
付記
以下、最初の引用にコメントする。
アレクセイ・シドロフ監督による、ロシア国内で大ヒットしたらしい、リアリティーに欠ける戦争映画。/戦車のバトルシーンを売りにしたアクション劇で、ストーリーはそんなバカな!の連続で、ほぼ子供向けの漫画といってもいいです。/数的不利の中、決してあきらめずに悪の組織ナチスに立ち向かうロシア兵、といったロシア人の愛国心をくすぐるようなヒーロー要素が含まれているのがロシアで売れた要因でしょうね。【たいていの戦争映画では敵中突破形式がふつうなのであり、それが一番盛り上がる。繰り返すと、敵中突破形式こそが戦争映画なのだ。*******、め】/
いわゆるプロパガンダ映画で、アメリカ軍を美しく描いた戦争ものと同類です。違いといえば、お金のかけ方と演技、映像、脚本のクオリティーが低いことですかね。【第二次世界大戦中のロシアの戦車とドイツの戦車の一騎打ちがプパガンダ? つまりソ連はドイツに勝ったことを自慢したいの? もう過去の話でしょう。『平家物語』だってプロパガンダですよ。しかし、いまは誰も『平家物語』をプロパガンダとは読まない。源氏も平家もないのだから、純粋に文学として読んでいる。あるいはこの映画も、ゲーム感覚でみることができる。プロパガンダなく、ただ戦車がたたかうというガルパンの世界と同じだとみるべき、*********、め】/
ロシアはなにかとハリウッド映画でアメリカ人に敵役として描かれているんだから、どうせならアメリカ人をやっつける話にすればいいのにね。アメリカ人に気を使ってるんですか?【あのさ、冷戦期なら、そうなのだが、第二次世界大戦はソ連はアメリカとともに同盟国。ソ連は、アメリカから多くの武器を貸与されている。第二次世界大戦では同盟国。大戦期と冷戦期くらい区別をつけろよ、**********7バカ、め】/
まず、映像がセット丸出しなのがいただけませんね。美術の技術が低いからか、昔の建物や道具も古さが感じられず、作ったばかりの新しさが出ちゃってるのがダメです。【何言っているのだがよくわからない。現在からみると昔の建物はふるびて、汚れているけれども、昔は、新品でピッカピッカだったのですよ。たとえば時代が昭和初期に設定している映画で、新刊本が古本みたいに黄ばんで汚れていたらおかしいでしょう。当時の新刊書は、当時は新しいきれいな本だったのですよ。このことわかりますか。ドイツ国内の第二次世界大戦中と設定されている映画のなかで建物が、中世のゴシック建築だったらまだしも、同時代の建物がすでに古びていたらおかしいでしょう。また新しく綺麗なドイツ国内と、泥だらけのソ連の主戦場とのコントラストも演出で狙っていることも考えるべき。
なおこのクソ*********は、映画のあらすじのなかで、捕虜たちの前に古いT34がもってこられると書いている。ところがこのT34は最新鋭のT34/85で、捕獲した際に、戦死した搭乗員たちの死体が中に残っている。腐敗しているようだが、死体が残っていることは、古い戦車ではない。また初期型のT34/76しか操縦したことのない戦車兵が燃料消費が大きいことを知らずに、走行距離の計算が狂ったということも、これが最新鋭であることがわかる。映画はしっかり見てね。しっかり見てなかったのなら、くだらないコメントを書くな。
なおこのクソは、最後に、このT34がどうやって国境を超えたのかわからないと書いているが、最後の決闘で履帯を壊されたので、もうあの橋の上からは動けません。戦車兵たちは、歩いてきたのです。しっかり映画はみてね。この************。】

2019年10月25日
『アド・アストラ』
かなりの期待をもって映画館に足を運んだが、きわめて内面的な映画であることに驚いた。宇宙開発、あるいは太陽系の果て、さらにそのむこうの星の彼方までもうかがおうとする外向的・空間的・科学的・開発的・征服的世界観というか宇宙観と、その運動の破綻と、それを克服する内面的世界の開拓という大きな主題がある。アウター・スペース、アド・アストラから、インナー・スペースへの転換こそが主題である。有能な宇宙飛行士ブラッド・ピットは、AIによって心身が管理される近未来世界において、円満で成熟した人格であることを要求されて常に微笑みを絶やさぬよう、また敵をつくらず、誰からも好感をもって迎えられる人物を、「演じている」あるいは「演じざるをえない」。しかし、それは偽りの微笑みであって、そこに真の人間的幸福とか充足感はない。
未知の生命体との接触を求めて海王星(いまは太陽系最遠の惑星は海王星である)、さらにはその先の深宇宙へと探険に飛び立ったものの、海王星付近で立ち往生している父親(トミー・リー・ジョーンズ)に会うために、ブラッド・ピットが、地球から火星に、そして火星から星の彼方へと出かけるのが物語のメインとなる。地球では、ブラッド・ピットの父親がおかしくなったというふうに考えている。ブラッド・ピットの任務は、明示的には語られないが、この狂気に陥った父親を連れて帰るか、それに失敗したら、殺害することとなる。もっと正確にいえば、彼は途中でこの任務からはずされるが、宇宙船に秘密裏に潜り込んで、海王星まで出かける。
海王星付近の宇宙ステーションにたどり着くと、唯一の生存者がブラッド・ピットの父親【彼はまた探険隊の隊長でもあった】であった。太陽系を危機に陥れる電磁波は、地球帰還を試みた一団が暴走させてしまった反物質装置がつくりだしたものだった。しかし、地球外生命体との接触計画をあきらめていない父親は、研究データを回収して地球に帰ろうとするブラッド・ピットの説得を拒否し、1人星々の彼方へ(Ad Astra)飛び去る。ブラッド・ピットは、ステーションを破壊する核爆弾の衝撃波を推進力とし、宇宙船で地球へ帰還する(海王星の輪を、あんなに簡単に突き抜けられるのかという驚きもあったが)。
父親との対決は、コンラッドの『闇の奥』、あるいはそれをベトナム戦争に置き換えたコッポラ監督の『地獄の黙示論』を彷彿とさせるというか、実際、この『アド・アストラ』は、もうひとつの、あるいは宇宙時代の『闇の奥』である。そして『闇の奥』が西洋の植民地主義競争の狂気と破綻を、『地獄の黙示録』がベトナム戦争(あるいは東洋・神秘のアジアとアメリカ=西洋との衝突)の狂気を描ものだとしたら、この『アド・アストラ』は、テクノロジーと科学とAIによる、外宇宙征服という文明の運動のいきつく狂気と行き詰りを確認して、内宇宙の開発と充実へと方向転換を促す転機となる出来事を描くことになる。主題は、外から内へ。開発、征服、侵攻の時代は終わった。むしろそれによって失われた人間性の復権へと、これから向かうという予感とともに映画は終わる。
最後にブラッド・ピットには微笑みが戻る。しかし、それは映画の最初にあったような偽善的な演劇的な、周囲を、またAIを満足させるような偽りの微笑みではなく、真の内面的充足と家族との絆を取り戻した男の幸福感からくる微笑みである。微笑みから微笑みへ。だがそれはメビウスの輪のように、正反対のものに、人為的なものから自然なものへと転換したのである。そして恐るべきは、AIの人間支配。それは人間の心身を平常・平均的健康状態へと保つことで、人間から人間性を奪いロボット化するのである。リベラルのいなくなった究極的な保守社会こそ、AIがつくろうとする社会だろう。だが、敵なき保守勢力は、みずからもロボット化して自滅するほかはない。
と、こう書ければアウター宇宙からインナー宇宙への転換という、ある意味、SF史のなかで体現されてきた変化が、内容にまで組み込まれたSF映画ということになるが、実は、そうではないのだ。リアルな宇宙と宇宙旅行の映像は、一昔前なら、驚異の映像として、観客の目を見開かせたかもしれないが、今となっては、いくら高度なCG技術を動員したからといって、むしろ見慣れた映像である。人間が星々どころか月にしか行ってない段階で、映像のほうはリアルに海王星までの旅を実現できる。ただ、問題は、宇宙は、闇の世界であって、たしかに海王星は太陽系をつつみこむ闇のその奥かもしれないが、すべて闇であり何もない宇宙は、それ自体で、たとえばキューブリックの『2001年』以来といってもいいのだが、精神的な内面的な、ときに精神的な空間としての観る者に迫ってくる。宇宙は、その映像は、外宇宙ではなく内宇宙として受けとめられる感じがある。
外宇宙から内宇宙への旅は、最初から最後まで内宇宙でおこなわれる。そのため、全体が夢と同じものになる。客体として物質的な世界を描く映画が、徹頭徹尾、内面しか描かないのが、こうした宇宙物となる。そこでは科学とテクノロジーが精神世界、内面世界、内宇宙のプロップとなる。そこが面白いのだが、同時に、これほどつまらないことはない。なぜなら科学とテクノロジーが私たちの内面のみせてくれるとしても、驚異をみせてくれることはないのだから。

2019年10月24日
『見えない目撃者』
〇韓国映画『ブラインド』2011年、アン・サンフン監督。
〇中国映画【正式には中国・韓国合作映画】『見えない目撃者』(原題:我是証人 The Witness)2015年公開。アン・サンフン監督。
日本版では、『ブラインドネス』という映画に基づいているとクレディットされるのだが、韓国版のリメイクであると同時に、中国版の日本公開時のタイトルを使っている。韓国版と中国版を見比べていないので、何とも言えないのだが。
ただ中国版の日本語タイトルと今回の映画のタイトル「見えない目撃者」というのは面白いタイトルであると思う。タイトルがパラドクスになっていることだけではない。つまり見えないにはBlindとInvisibleの両方の意味がかかっているからである。
とにかく目が見えない人物を中心して、彼女が犯人をつきとめると同時に犯人からも命を狙われるという絶体絶命の状況に置かれるのだが、これは映画を作る側にとってみれば、チャレンジングな設定でありテーマであって、さらにそこからいろいろなことができる、かなり魅力的な条件のそろった題材であろう。
なおネット上では浅香航大が出てきた時点で、彼が重要な役でないわけはなく、そこから事件の全貌が見えるというコメントもあったが、残念ながら浅香航大が誰だか知らなかった私は、キャスティングの意味論によって先を読むことができなかったので、そのぶん意外な展開を楽しむことができた。
韓国版オリジナルも、中国版もみていないので、なんともいえないというか推測でしかいえないのだが、こうした題材を扱うに際して、日本版は、吉岡里帆を、映画でおなじみの頑張る少女にしている感じがする。犯人探しの手伝いをしてくれる高校生(高杉真宙)は、彼女の死んだ弟の分身のようなものであって、ありがちな恋人あるいはのちに恋人になるような存在ではない。とにかく二人の仲に男女の仲を想像させるものはなくて、むしろ姉と弟の関係になる。独身の吉岡は、こうして、最後には男にも頼らず、自力で活路を見出す独身戦闘美少女ということになる。
あと日本版には(韓国版も中国版も同じかもしれないが)、『羊たちの沈黙』が入っているような気がする。『羊たち』でも、犯人の隠れ処での探索において、暗視ゴーグルをつける犯人が、地下室の電気を消して真っ暗にして、ジュディ・フォースター扮するFBIの捜査官候補生を襲おうとするが、この映画では吉岡里帆が目が見えないために、彼女にとってはつねに暗闇のなかで襲われることになる。また犯人が連続して女性を襲うのだが、それには一定の目的(憎悪とか復讐とかではなく)があることも、『羊たち』と似ているし、拉致された女性が、最後に助かるのも(とはいえ、今回の映画では助からない女性もいるのだが)『羊たち』と似ている。最後の恐怖の一夜が明けたあと、救急車や警察が駆けつける朝のシーンは、『羊たち』のなかの同様のシーンとよく似ている。
『羊たち』のなかのジョディ・フォスターはトラウマを抱えた捜査官候補生だったが、吉岡里帆も任官した当日に弟と視力を失い、トラウマを抱える女性になるのだが、ふたりはともに少女性ということで共通点があろう。少女がトラウマを克服する物語だが、同時に、その過程で、女性の置かれている困難な状況を体験し認識する物語でもある。
盲目性は、たんに身体的な問題ではない。
父権制男性中心社会では、女性は見る存在ではなく、見られる存在、一方的に見られる存在であり、見返すことの許されない存在であることを余儀なくされる。男性中心社会では、目が見えるのは、男性だけである。女性は盲目であることを余儀なくされる――見えないBlind目撃者。それゆえ、彼女の周りにいるのは、彼女にとっては見ることのできない目撃者たちである――見えないInvisible目撃者。この状況をどう打開するか。そこからどう脱出するか。この困難な課題に、男性中心社会に完全にとりこまれてはいない未完の・未熟の・少女だけが挑戦できるのである。見えないけれども、自らの知性と勘に頼りつつ、利用できるものは何でも利用して、見えない目撃者を可視化すること、それがフェミニズムの責務となる。そして、それは、おそらく永遠の独身少女だけが、永遠のジャンヌ・ダルクだけが可能なのかもしれない。
(もちろん、この状況のむつかしさは、吉岡里帆は、観客という、いまひとりの見えない目撃者たちに観られていることである。いくら、少女が見返す、あるいは見えないなかで見る映画だとしても、それを観客は、見えないこところから見ているというパラドクスはある。ローラ・マルヴィのいう窃視症としての映画の問題は、未解決だが、この映画は、その解決のためのリハーサルとしてあるということもできる)。

2019年10月21日
『ドリアン・グレイの肖像』
しかし新訳? 思い出した。私は学生時代か、院生時代に、『ドリアン・グレイ』を一刻も早く読んでおかねばならいないという状況のなかで、原著を丁寧に読む時間がなく、あわてて翻訳で読んだ記憶があるのだが、そのときお世話になったのが、富士川先生の『ドリアン・グレイの肖像』である。手元に本がある。講談社版『世界文学全集63 コンラッド/ワイルド』訳者:鈴木健三/富士川義之である。コンラッドは『ロード・ジム』だけが翻訳されている。ワイルドは富士川先生訳で『ドリアン・グレイ』と童話が収録されている。まあコンラッドもワイルドも、詳しい解説と、訳出された作品以外の代表的作品の改題があり、充実した立派な本である。いまみると『ロード・ジム』のほうに書き込みなどがいっぱいあって、ワイルドのほうは切れない頁なのだが、これは私の記憶違いではなく、フレドリック・ジェイムソンの『政治的無意識』を翻訳(共訳)したとき、『ロード・ジム』が詳しく論じられているので、そのとき日本語訳と内容を確認したからであって、ワイルドのほうを先に読んでいたことはまちがいない。
とはいえこの富士川先生は、岩波文庫に収録するにあたって、講談社の世界文学全集の翻訳を見直して改訳版に近いものになったと文庫の解説に書かれているので、私が昔よませてもらったものとはかなり違うのかもしれないが、昔、お世話になった富士川訳の『ドリアン・グレイ』を再び読むことができるのは、幸福な偶然ともいうべきものを感じている。
今回、岩波文庫版の解説を真っ先に読ませていただいたが、富士川先生の文章は、ものやわらかな気品のある文章のなかに、専門的な知識や知見を過不足なく盛り込むもので、知識や洞察を誇示する専門家臭とは無縁ながら、しかし同時に、一般読者向けの文章とはいえ、決して低俗な、あるいはありきたりな内容にはならなずレヴェルを落とさないものとなっていて、私には、とうていまねのできない文章で、いつも羨望の眼差しでながめている。
『ドリアン・グレイの肖像』というと、一般に、またこれまでも、世紀末の耽美的、退廃的なおどろおどろしい幻想・伝奇を売り物にするいっぽうで、ワイルド独自の反道徳的、反社会的退嬰思想を押し付けてくるような、小説としては、完成度の高くない作品という評価で語られてきたのだが、富士川先生の解説は、こうした評価を一つ一つ、丁寧に、また説得力のあるかたちで覆し、新たな『ドリアン・グレイ』像を、たちあげていて、感銘を受けた。
たとえば『ドリアン・グレイの肖像』には、たんに肖像画が歳をとったり、若返ったりするという幻想的な部分だけでなく、小説的なたくらみと面白さに満ちた部分があることを、その解説を通して教えてもらえる。また幻想的といっても、当時の社会状況から社会問題にも目配せが聞いていて、世紀末の英国社会と文化を的確に小説世界に移入している。さらに退廃的な不道徳な思想の宣伝と思われがちな作品だが、自堕落な放蕩生活は、いつか破滅に至ることを警告するような道徳意識も顕著で、耽美的世紀末文学という通俗的イメージとは一線を画すものであることを解説は力説している。また当然のことながら、同性愛的欲望や同性愛差別の問題、そこから束縛のない自由な生き方を希求したワイルド自身の世界観なり社会観も垣間見えることが語られる。そして小説作品としての全体的評価も20世紀から21世紀にかけて上がりつづけ、現在では傑作小説としての高い評価をほしいままにしているということである。
富士川先生の解説は、従来のワイルド像、あるいは『ドリアン・グレイ』評価の根本的変更を迫る、出色の解説なのだが、しかし、それを大上段に振りかざすような議論ではなく、丁寧に、わかりやすく、しかも豊富な知識に裏付けされた洞察を交えて語るのである。私には、残念がら、本当に、真似できない。
ただ、と、あえて書かせていただれば、この解説で述べられていることは、目を開かれる指摘ばりであることを確認したうえで、にもかかわらず、この解説に書かれていないこととして、また私が初めて富士川先生の翻訳で『ドリアン・グレイ』を読んだときに抱いた感想を述べれば、この小説に小説的な面白さはあると同時に、この小説は、すごい思想小説だということである。それは、ときにはただいたずらに衒学的になりかねないほどである。
ただ、そうした注釈がどうしても必要な部分だけに思想性が顕在化しているのではない。その思想あるいは思索の特徴的なことは対話形式によって、まさに演劇的に深化してゆくことだ。実際、本をて手にとってみるといい。対話それもけっこう長い対話だけですすんでいる章もある。それは対話というよりも、一方的な説教であったりレクチャーであったりすることも多いのだが、とにかく人物の行動や情景描写ではなく、対話だけの演劇形式によって、思想が語られ思索が深化することも多いのは事実である。
従来は、そうした部分が、まさに頭でっかちになっていて、小説的面白さを阻害している、ひいては、そうした思想小説は、芸術的あるいは技術的にも稚拙であるとさえみなされてきたのだが、小説的要素は、それをしのぐほど面白いことが評価されるようになったことは、富士川先生の解説からもよくわかる。そうなれば、思想小説的部分は小説を読む喜びを消し去るというよりも、相殺ではなく、相乗効果によって、作品を多様な側面が活性化される全体小説へと変容させるのではないか。
かつて『ドリアン・グレイの肖像』を大慌てで急いで読んでいたとき、思想小説的部分は大きく立ちはだかって最後まで読めないのではないかという不安を抱かせた。もし私が読んだのが、富士川先生の見事な美しい日本語の訳業でなかったら、ほんとうに最後まで読めなかったかもしれないのだが、そのときは、とくに感じなかった、小説としての面白さを、いまこうして富士川先生の解説を通して教えてもらえることになった。そのことは深い感慨とともにかみしめている。

2019年10月14日
『英雄は嘘がお好き』
監督はローラン・ティラール、出演はジャン・デュジャルダンとメラニー・ロラン。 1809年のフランス・ブルゴーニュを舞台に、戦地から還らない婚約者を待つ健気な妹のために姉がついた嘘を利用して一儲けしようと企む婚約者の男が巻き起こすロマンスと騒動を描いている。
予想通りの内容で、正確に言えば予告編どおりの内容で、もしそうならその内容なら面白いはずだから、それでよいように思うのだが、そこに違和感がある。
対照的なのは三谷幸喜(作・監督)『記憶にございません』で、予告編で語られていたことは、やや長い冒頭部、タイトルが出る前で終わって、本編は、予告編では語られなかった内容となる。もちろん、この展開に不満な観客もいるわけで、記憶を失う前の嫌われ宰相の暴言吐きまくりの暴れっぷりに対する大いなる期待が裏切られたと観客が落胆してもおかしくない。とはいえ『記憶にございません』全体はおかしくて笑えたのだが、こちら『英雄は嘘がお好き』は、予告編で語られたことが、ほぼ全編の内容をカバーしている。だから予想外の展開というものはない。しかも全体として喜劇仕立てだが爆笑するようなところがない。
予告編の作り方が下手ということはないだろう。予告編としては興味を掻き立てるよくできたものであったことは間違いないのだが、まさか予告編が、全体のシノプシスになっているとは夢にも思わなかった。予告編にない細部とか意外な展開というものがほとんどない。90パーセントは予告編通りなのである。
また予想外のことも、何か違和感が残るのであって、それはコサックの騎馬隊がフランス国内で略奪を繰り返しているというものだが、コサック? コサックといえばウクライナ。そのウクライナからフランスまで進出してきたのか。まさか勝手にでっちあげた設定ではないと思うので、そういう史実があったのなら、驚きというほかはない。
それはともかく、予告編通りの映画に対する違和感あるいは落胆というのは、予告編と本編との関係が逆転していることへの落胆でもある。つまり本編がまずあり、そこからいくつか場面をピックアップして編集して、内容の概要を紹介しつつ、同時にまた、謎なり語られざるところを残して観客の期待を盛り上げるというのが一般にイメージされている予告編の姿だろう(実際には、撮影が終了していない段階で、あるいは結末すら未定の状態で、予告編を製作せねばならないことあるかもしれない。予告編で使われている映像が、本編にはないということはごくふつうに起こるのだが、これは予告編と本編とが並行して作られていることの証左であろう――どうして同時並行かは事情によるのだろうが。
いっぽうこの『英雄は』では、予告編がシノプシスになっていて、しかも予告編=シノプシスの製作者側が力をもっていて、シノプシスからはずれないように本編製作者に注文をつけているような、また、まさにそれゆえに本編がクソ面白くないものに仕上がった、と、まあ、そんなイメージであり、このイメージは、あまり心地よくはない。
実際、それと作品中にもそれと同じようなことがおこる。この予告編と本編の関係の喜劇版とでもいうものが。まず脱走兵で結婚詐欺師のような男ジャン・デュジャルダン扮するところのシャルル=グレゴワール・ヌーヴィル(が、ひとりで大勢の敵を相手にするという絶望的状況の中で孤軍奮闘するが、死を覚悟した最後の瞬間に援軍が来て助かったというほら話をする。これがまるで予告編になったかのように、あるいは嘘から出たまことというべきか、彼は、最後に、先に触れたコサック相手に一人で奮闘するはめになるが、援軍が来て助かる。予告編となるのが、嘘っぽいほら話。しかし、やがて語った本人が、そのほら話どおり、孤軍奮闘することになり、嘘から出たまことというか、そこで真の英雄に生まれ変わる。しかも重要なことは、ほら話がなければ、この彼の孤軍奮闘が意味を持たなことである。その意味で、ほら話は、まさに予告編であり、予告編どおりの出来事となることは、感動的でもあるのだが、同時にまた予測可能ともなって、つまらない。実際、ほら話のところでも、最後に援軍がきて助かるというのは、まるで三文小説のようだと主人公の女性エリザベット・ボーグラン/メラニー・ロランにからかわれるのだが、このコサック相手の奮闘も援軍が来る。まるで三文小説のように。
結局、予告編が本編を支配してしまう、あるいはほら話が真実を支配してしまう。予告編を乗り越えるような、予測不可能な想定外の展開になるわけでもなく、またほら話の嘘が暴かれることなく、隠されてしまうような展開、はっきりいって面白くない。
と、ここまできてこの映画の面白くなさについて、ほら話から思いついたことがある。この映画、聡明な長女が、妹の許婚者が詐欺師であることを見抜き、また軽蔑し喧嘩ばかりしている妹の許婚者と最後に結ばれる(予告編はここまで語っている)という物語は、時代的にも同時代なのだが、ジェイン・オースティンの小説の世界を彷彿とさせるものがある。『高慢と偏見』のフランス・ラブコメ版と言ってもいいかもしれない。
しかしこの映画は、ある意味ツートップの映画であって、妹の許婚者で脱走兵で地域住民にねずみ講をもちかける詐欺師の男が主役でもある。この男、脱走兵だがみずからの武勲を語るほら吹き兵士、古代ローマ喜劇に登場する類型的人物、すなわちミレス・グロリオースス型の人物である。ほら吹き兵士/ミレス・グロリオースス? 聞いたこともないんなら、シェイクスピアのフォルスタッフが、その典型といえばわかってもらえるだろうか。(ちなみに翻訳としては『古代ローマ喜劇全集第3巻プラウトゥス編』(東京大学出版会)あるいは『ローマ劇集3(プラウトゥス)』(京都大学学術出版会)で読むことができる。タイトルは、ともに「ほら吹き兵士」)
フォルスタッフのことを思い、この映画の同類の人物と較べると、このミレス・グロリオースス型人物を、シェイクスピアがいかにうまく処理したのかがよく分かる。まず、ラブコメにはふさわしくない人物であって、その証拠にフォルスタッフが登場する『ヘンリー四世二部作』にはフォルスタッフをめぐる恋愛関係はない。ラブコメからの排除。
エリザベス女王がシェイクスピアに恋をするフォルスタッフを見たいと話したので、シェイクスピアは二週間で、恋するフォルスタッフが登場する『ウィンザーの陽気な女房たち』を書き上げたという。有名な逸話だが、もちろん根も葉もない作り話である。その証拠に、即位当初は寛容な宗教政策を掲げていたが、次第に、カトリックへの締め付けを厳しくするような女王と隠れカトリックのシェイクスピアとが親しく言葉を交わすことはなかったと思われる。しかし、それよりも決定的なのは『ウィンザーの陽気な女房たち』において、フォルスタッフは恋などしてないからである。ウィンザーの地で、フォルスタッフは二人の人妻を手玉にとって金品を巻き上げようとしているのであって、詐欺師フォルスタッフが恋愛関係に陥るのではない。実際、詐欺師たるもの恋愛関係には距離を置いて、そこから最大限の利益をもぎとろうとするしかない。いっぽう恋愛関係はフォルスタッフの外で起こる。間接的に彼の存在が恋愛関係を先にすすめる原動力になるかもしれないが、それは彼自身は関知しないこととなる。シェイクスピアはフォルスタッフを恋愛関係の中心なる空白として、その周囲に配置して、また最終的に彼自身の詐欺行為を白日のもとにさらすことにした。よくあるシェイクスピア喜劇の構成だが、これがいかに巧みなものかは、この映画と比較するとよくわかる。
この映画ではフォルスタッフは基本的に詐欺師だが、嘘から出たまことのように英雄的行為に走り、また女性の愛を獲得する。だが、そのためにすべてを中途半端にすることになる。彼は、みずからの卑劣な敵前逃亡は、正直に告白するのだが、最初から彼を英雄と信じている周囲の者たちには、それは謙虚な姿勢とうつり、敵前逃亡は公衆の認めるところとはならない。当然、結婚詐欺も隠蔽されたままである。さらにマルチ商法的な詐欺にいたっては、彼を愛するようになる主人公の女性も加担し、住民から不満がでると、結婚式の場に、それはふさわしくないと逃げ、あとは話題になることもない。そしてさらに結婚式当日に招集がかかると、おとなしく戦場に行くかにみせかけて、逃げる。花嫁も置いたままに。
結局、この映画は、ウェルメイド的処理を、意図的に避けているのだろうか。そうとは思えない。最初から処理が下手で観客に違和感と欲求不満しか残さないのである。

2019年10月13日
これまで体験したことのない、観測史上最大の台風19号
これまで経験したことのない、観測史上最大の台風19号が東海・関東に上陸する可能性から、首都圏を直撃するという情報に変ったので、あるいは伊勢湾台風並みという情報もあり、伊勢湾台風を経験した私としては、子供の頃に体験した最大級の台風をさらに上回るような台風を経験するとは、なんの因果かと心のなかで嘆きつつ、いろいろと準備をした。たぶん住居が壊れることはないだろうと考えた。雨戸のないガラス戸が壊れたとしたら、これはもう仕方がない。このときは諦めるほかはない。実際、窓ガラスが壊れてもおかしくない瞬間最大強風だったのだが、こればかりは防ぎようがない。
ガラス戸は別にして、巨大台風のせいで停電になったり、ガス水道が止まったりするかもしれないと考え、浴槽に水をはったり、ペットボトル入りの天然水を買いそろえたり、食料品を買いそろえたりと、停電・断水対策をしておいた。やはり、これまで経験したことのない観測史上最大の台風と、これから出会うのだから。
台風は日本に上陸する前から全国各地に大雨を降らし被害が出ていた。台風本体が上陸したら雨がさらに多くなり、さらに強風による被害がでるということが予想された。気づくと、夜、いつにない強風と思えるものが窓ガラスを揺らしている。怖い。いよいよ台風と遭遇すると思ったら、強風はおすぐに収まった。いや、おさまっていいのかと、これまで経験したことのない観測史上最大の台風だそ。なんだこのあっけなさは。とにかくNHKのデータ放送では、台風の中心があると推定されるとことを文字情報で出してた。たまたま知人の住んでいる近くを台風が通り過ぎたようなので、メールで様子を聞いてみた。すると、近くを台風が通り過ぎたらしいのだが、風は強くなかったという。え、これまで経験したことのない観測史上最大の台風が通過したのに、風邪が強くなかった? これまで経験したことのない観測史上最大の台風は、いったいどこに行ったのだ。
その知人は、ネット上でレーダー映像も見ていたのだが、上陸前は、強大な台風雲が取り巻き、大きな台風の目もみえたのだが、伊豆半島に上陸して、東京を通過する頃になると、台風は一気に小さくなったという。台風は、比較的早く熱帯低気圧にかわってしまった――これまで経験したことのない観測史上最大の台風が、だ。
その知人と意見が一致したのは、今回の台風19号よりも、先の台風15号、つまり千葉県に大きな被害をもたらした15号のほうが、風はひどく、一晩中吹き荒れていたし、事実、千葉県では強風で多くのものが壊されていた。それを気象庁は、小型台風という。そしてこれまで経験したことのない観測史上最大の台風19号のほうは、水害をもたらしたのだが、風は小型台風並みであったことをメディアは触れないでいる。
おそらく正確には、台風は、これまで経験したことのない観測史上最大の降雨をもたらし、甚大な水害をもたらしたということだろう。河川沿岸地域の警戒や避難に集中すべきところ、余計な情報を入れて不安をあおるという情報操作はなかったのか、もしあればそれには憤りを感ずるほかはない、なにしろ、これまで経験したことのない観測史上最大の台風19号は、これまで経験したことのない観測史上最大のあっけなさだったのだから。

2019年10月12日
『イエスタディ』
しかし、そこにこだわるのではなく、もし、このIFの設定で、交通事故にあったインド系の英国人の青年ひとりが、ビートルズの歌を知っていたとしたら、どうなるのか。そのシミュレーションは、喜劇的な笑いの宝庫となる。また、そのシミュレーションの過程で、ビートルズの曲の素晴らしさを改めて認識できることになる。
荒唐無稽な世界における喜劇的シミュレーションというのは、まさに無理な後付で、本来は、ビートルズの曲をちりばめた、喜劇的で軽い恋愛ドラマをつくろうとして、ただ、そのままでは、過去に類似の作品はやまのようにあることから、あまりに芸がない。そこで趣向を凝らした。パラレルワールド物にする。ビートルズの曲を覚えているインド系の英国人青年の売れないミュージシャンが、自分のオリジナル曲としてビートルズの曲を発表し、人気がでて一挙にスーパースターの地位に登りつめるという物語にすれば、変わっていて独創的な映画となる。
さらに誰も知らないビートルズの曲でスーパースターになる主人公という設定によって、最近はやっているロック界のスーパースターを扱う伝記音楽映画のテイストを出すことができる。ある意味、『ボヘミアン・ラプソディ』(クィーンのフレディ・マーキュリー)や『ロケットマン』(エルトン・ジョン)といった映画のパロディではないかもしれないが、パスティーシュ的なところはまちがいなくある。主人公が非ヨーロッパ系であったり、押しの強いアメリカ人のプロモーターやマネジャーの存在であったりとか……。私にとって映画で見る巨大アリーナでのコンサート・シーンは、この『イエスタデー』で三回めである。こうしたアーティスト、ミュージシャン映画と、この映画が唯一大きく異なるところは、主人公がストレートなところであろうか。
先にパラレルワールドといったが、よくわからないところでもあるが、これはパラレルワールドではないかもしれないと、ここで考え方をかえてみる。
つまり、もっと単純に、ビートルズがいない世界というよりも、ほとんどの人びとがビートルズのことを忘れてしまった世界ということかもしれない。もしビートルズの曲を積極的に保存しようとする努力がなされなければ、早晩、その世界からビートルズはいなくなる。
またこの発想にも一理あるのは、映画のなかで主人公以外にもビートルズの曲を知っている人間が、すくなくとも二人いた。ビートルズの曲が存在しない世界は、なんと味気ない世界かと、この二人は考えている。この世界はまたジョン・レノンが存命である。ジョン・レノンのそっくりさんが登場したのには驚いたが、これは先の『ワンス・アポン』のときに述べたように、ジョン・レノンが生きているというか殺されなかったオルターナティヴの世界といえるのだが、同時に、この映画の世界では、たとえ、存命でも彼は忘れ去られているのだ。
オルターナティヴな世界とパラレルワールドは同じようなものだが、繰り返すが、この設定はいかに荒唐無稽にみえよとも、ごく普通に起きていることだと考えることもできる。いや、そう勧化見てはどうか。たとえば、と、私は、いま、手近にある江戸川乱歩の『幽霊塔』という作品を手にとっている。
この作品、もし作者の江戸川乱歩が黙っていても、彼のオリジナル作品として高く評価されていてもおかしくない傑作である、もちろん乱歩は、これは黒岩涙香の翻訳・翻案作品を同時代の読者のために文章をあらため、また乱歩流の工夫を加えたものだと断っている。
乱歩のこの『幽霊塔』は、人気作品で、その本格推理小説というよりもどちらかというと伝奇ロマンに属する作風が多くの読者をひきつけている(私もその一人だが)。数年前、宮崎駿がアニメ化を考えているというような情報も飛び交った。また宮崎駿が挿画(口絵形式)を描いた乱歩の『幽霊塔』は、岩波書店から2015年に出版されている。
で、それはさておき、黒岩涙香って誰? とは現代の多くの日本人読者が抱く疑問であろう。乱歩の時代においても、少し忘れられつつあった黒岩涙香だから、現代の読者にとっては、なおのこと馴染みのない名前だろう。たとえていえば、ビートルズが存在しない世界で、ジョン・レノンやポール・マッカートニーの名前を出すのと同じで、この黒岩涙香という名称は、浮遊するシニフィアンという趣すらあるのだ。
しかも黒岩涙香の作品自体、The Phantom Tower, by Mrs. Bendisnと原著を示し、翻訳であることをうたっているのだが、このベンディスン夫人という作家が、そもそも存在しないのである。これは黒岩涙香が間違えたのか、あるいは原著を突き止められないように意図的に架空の作家をでっちあげたのか、そのいずれだろうと考えられているのだが、もう一つの可能性も考慮にいれるべきだろう。黒岩涙香が「交通事故」にあう前に暮らしていた世界には、ベンディスン夫人という作家は存在していたのである! それが交通事故後、黒岩が紛れ込んだ世界にはベンディスン夫人は、存在しないか忘れ去られていた!! そのため黒岩は、記憶を頼りに、自分で読み覚えていた英語作品を日本語に翻訳したのだが、それは原著なき翻訳となった。このことはまあビートルズを誰も知らない世界でビートルズの曲を記憶を頼りに再現しようとするこの映画の主人公の行為を思い起こさせるではないか!!!
ちなみに黒岩の作品の原著は、ウィリアソン夫人という作家のA Woman in Grey(1898)であると2000年に発見された。私が『幽霊塔』を読み、またその解説を参考にさせてもらっているのは光文社文庫版の江戸川乱歩全集第11巻『緑衣の鬼』(2004)だが、そこでまだ原稿段階であったウィリアムソン夫人の作品の翻訳は2008年『灰色の女』中島賢二訳(論創社)として出版された。このウィリアムソン夫人は生前は人気作家だったようだが、死後、急速に忘れ去られた作家でもあって、誰もウィリアムソン夫人を知らない世界で、黒岩涙香は彼女の作品を翻訳というかたちで世にとどめようとしたのだ。
いっぽうこの映画の主人公は、ビートルズの曲と歌詞を、記憶をとおして再現するしかなく、時にはうろ覚えのため歌詞がまちがっていたりする。またどうしても思い出せない歌詞があるため、主人公はリヴァプールにまで調査旅行に出かけ、忘れた歌詞の再現をはかる。つまり手元にビートルズの曲の歌詞と楽譜があって、そこから小出しに曲を発表するというのではなく、すべて彼の頭脳と身体を経由したかたちで曲を発表することになり、これは、ゼロからの創作ではないかもしれないが、創作に近いもの、アダプテーションといってよい創作となる。
さらにいえば、その世界で存在しないアーティスト、あるいはその世界では忘れ去られたアーティストは、死んだ人間も同然であり、主人公は死者が残した楽譜と歌詞を、みずからの記憶と知的構築と身体活動を経由して再現構築するかたちになる。いやそもそも誰かが書いた曲を演奏し歌うという、通常の音楽活動そのものが、あるいはたとえばビートルズの曲を演奏し歌うことそのものが、ビートルズのことを誰も知らない世界で、ビートルズの楽曲を自分で作詞作曲したかのようにパフォーマンスすることだと言えなくもない。
この映画の荒唐無稽な設定は、音楽的パフォーマンスの根幹に抵触しているのではないか。死者あるいは不在の誰かの音楽を、歌手や奏者の身体を経由させて、再現するという音楽的パフォーマンスの形而上学は、また、音楽業界にいまなお残るパクリ体質を、形而下的なダークサイドとするのではなく、むしろ形而上学の延長線上にあるものとしてもみる視座となってくれるだろう。そう音楽的パフォーマンスは、良い悪いは別にして、パクリなのだ。しかもそのパクリたるや、偽物を本物にみせるとか、醜いものを美しいものにするのではなく、美しいものをさらに美しいものにするという、ある意味、無償の行為なのである――ここで、たまたま思い出した乱歩の『幽霊塔』のテーマのひとつ、生来の美人をさらに美人にするということが、涙香の『幽霊塔』というそれなりに完成した良作をさらに完成した作品へと変身させる乱歩の試みそのものに対するメタコメンタリーになっていることを指摘したいが、それはまた、機会があれば。ともあれ、一見荒唐無稽にみえる設定そのものが、音楽的パフォーマンスの形而上学にも抵触しているとみることは確実にできるのではないだろうか。
そしてこの映画についていえば、これは音楽的パフォーマンスの形而上学に沈潜してもいいし、パラレル=オルターナティヴ・ワールドでの騒動を楽しんでもいい、いろいろな受け止め方ができる映画である。
最後に、ビートルズの曲『レット・イット・ビー』のなかの歌詞「マザー・メアリー」は「メアリーお母さん」じゃないぞ、映画の字幕担当者様。【「ヘイ・ジュード」を「ヘイ・デュード」に読み換えるエド・シーランのバカさ加減に匹敵するまちがいだぞ、映画の字幕担当者様。ちなみに「デュード」を「相棒」と字幕をつけていたが、それもまちがいだ。】
付記:『レット・イット・ビー』のそれは、「聖母マリア様」の意味も含ませてあるというか、こちらの意味のほうが、意味がある。。

2019年10月10日
『ワンス・アポン・ア・タイム・イン…ハリウッド』
Once Upon a Time in ...Hollywood
とくになんの予備知識もなく見始めた私は、開始からほどなくして、ああ、そういう映画かと、心のなかでひとりごちた。レオナルド・デカプリオ扮する往年のハリウッド。スター、リック・ダールトン(架空の人物)の隣人が、映画監督ポランスキーと女優シャロン・テイト夫妻だとわかるのだ。ああ、そういう映画なのかと、私は、ほんとうに心のなかで、二度もひとりごちた。
いまの若い人たちは、ロマン・ポランスキーとシャロン・テイトの名前を聞いただけで、マンソン・ファミリーによる惨殺事件をすぐに思い出すのだろうか。もちろん知っている人も多いと思うが、同時に知らない者も多いだろう。アメリカ人ならシャロン・テイト殺人事件を知っているだろう。そうしたアメリカ人観客に向けて作られている。そのため映画のなかでデカプリオとブラッド・ピットがどんな馬鹿をしようが、二人の関係がどことなく悪化するようにみえようが、それは観客にとって気がかりなことではない。もっと気がかりなのは映画のなかのシャロン・テイトの運命である。彼女のことが、彼女の最期が気になってしかたがない。
実際、映画のなかで妊娠したシャロン・テイトのお腹が、いよいよ大きくなると、ますます嫌な気分になる。見たくない、そんな結末、見たくないという苦しい思いがつのってくる――シャロン・テイト事件について知らない若い人は、ここでなぜ私が、妊娠している彼女の姿をみて苦しんでいるのか理解できないと思うが、事件について調べれば理解できるはず。
フランク・カーモードの『終わりの感覚』という時間論を扱う本がある。そのなかで著者は、神学の概念を借りて、時間には、無限につづく時間であるクロノスと、終わりある時間カイロスの二種類があることを説いている。クロノスというのは過去、現在、未来へと線的継起的につづく無限の時間の流れであり、時計によって計測できる時間、あるいは日常的な時間である。クロノスを日常的時間と断定するのは、その対概念である終わりある時間カイロスがあるからである。カイロスは終末論的時間なのだが、同時に、これはそんなに珍しいものではない。私たちの人生も、いつか終わりを告げるからカイロスである。学校の授業もチャイムによって区切られる終わりある時間である。学校そのものの卒業生にとってみれば、終わりある学生時代と一体化している。クロノスとカイロス。この区別をもう少しつづけると――
終わりある時間カイロスは、死とむすびつく。これに対しクロノスは終わりがないから死とは関係がない。また地球上の多くの文明国には四季があることから、クロノスは春から夏、秋、冬と、循環性もあわせもっている。そしてこの循環性は、生から死へ、そして死から復活へというリズムを刻むことになる。そこには死はない。死と再生のドラマがある。
こうみていくとクロノスは文学ジャンルとしては喜劇(悲喜劇も含む)であるのに対してカイロスは悲劇である。もちろんすべての文学作品はジャンルを問わず、必ず終わるのだから文学作品の時間は、カイロスといえるのだが、その終わりある時間のなかに永遠に続くような、あるいは永遠に反復されるような時間のイメージをもりこむことができる、また劇的なものはカイロスと相性がいい。いっぽう日常的なものはクロノスであり、それは変化のない無味乾燥な世界像と結びつきながらも、機械時計を発明したのがキリスト教の修道士であったことからもわかるように、変わらぬこと一定のリズムで時を刻み続けることで、ユートピア的な平和とも結びつくのでもある。他方カイロスは破滅と結びつく。
クロノスとカイロスは実際には共存する。そしてその客観的相関物といえるもの、もっと簡単にいえばクロノス/カイロスの共存体のメタファーといえば、それは文学作品である。たとえそこにどれほど淡々とした変化のない、そのぶん平穏な日常が描かれていても、作品は無限につづくことはなく、いつか終わる。クロノス/カイロス複合体のもうひとつのメタファー的等価物は、私たちの人生である。私たちは長い人生において数限りなくミニ・カイロスを設定する(幼年時代、青春時代、学生時代、プロジェクト、計画など)、また人生がいかに平穏で変化がなく永遠につづくかにみえて、実際には最後の死があることを私たちは忘れることはできない。メメント・モリ(「死を忘れるな」)こそ、クロノスと同居するカイロスをもつ時間を生きる私たちのモットーだ。
そしてこのクロノス/カイロス複合体のさらなるメタファー的等価物を求めるなら、もちろんタランティーノ監督の映画『ワンス・アポン・ア・タイム・イン…ハリウッド』である。デカプリオ扮する往年の映画スターの1969年の映画的日常(クロノス)を描きながら、同時に、同年に起こるシャロン・テート事件(カイロス)のはじまりから惨劇までの顛末(カイロス)をも描くことになる。すでに述べたように、映画にシャロン・テートが登場すると、私たち少なくとも事件を知っている観客は、結末が気になって、意識は上の空状態になる。おそらく最良の観客は、無知な観客だろう。シャロン・テートのことを知らない観客のほうが、上の空状態にならずに映画の細部に注意をむけることになる。眼の前にころがっている死体を前にして二人の人物が哲学的談義とか文化論あるいは人生観を延々と語り合うという不条理性あるいは日常性賛歌のクロノス的時間の出現こそ、タランティーノ映画の特徴だろう――ただしそれに興味をもつこともなく、シャロン・テート事件についても知らない観客には、」あとはただ眠りが待っているのだが。
いっぽうシャロン・テートのことが気がかりな観客は、最後にほっとするものの、上の空になりすぎて、私のように苦しみすぎて、タランティーノ映画の細部を見過ごしたことを痛感して二度見ることにもなるのだが(残念ながら、映画を見るのが上映期間も終わりの頃で、二度見出来なかった)。
アレハンドロ・アメナーバル監督の映画『アレキサンドリア』(原題Agon)は、歴史上(同時に伝説上)の女性哲学者・天文学者・数学者(現在では古代のフェミニストのシンボル的存在でもある)ヒュパチアHypatia (?370-415) をレイチェル・ワイズが演じた一種の伝記映画だが、ヒュパチアの最期を知っている観客は、その結末を観たくないと思ったに違いない。私もその一人である。キリスト教民兵に殺されるのだが(史実とはいえキリスト教徒を、こんなに悪く描いた映画というのは珍しい)、おそらく残酷すぎる場面の提示を避け、映画では、彼女の弟子でもあった男が、最後に、彼女を救うために、刺し殺すのである――少なくとも、彼女が拷問死で苦しまなくてもすむように。史実――とはいえ伝説に近いのだが――に対し、すこし虚構を追加したかたちで残酷さが緩和されたときに、観客、、もほっとしたと思うのだが、今回のタランティーノ監督の映画も最後に観客はほっとする。ただしその代わりのというべき惨劇は、実際の事件よりも格段に上なのだが、暴力といっても映画のなかの暴力は、タランティーノ映画がそうなのだが、非現実的であり、現実の暴力のもつ残酷さはない。
ネタバレになるかもしれないのだが、そのぶん映画の細部に注意が向くので許していただくほかはないのだが、映画は残酷な終わり方ではなく。最後近くなって、なにかがおかしくなる。そしてパラレルワールドが生ずる。だから観客は安心のほどを。史実では殺された人びとが全員生きている。理由もなく教祖の命令によって住人惨殺を試みる狂気の四人は、彼らが、逆に返り討ちにあって殺される。
映画は史実や現実を描くのではなく、あったかもしれないパラレルワールドを描くことによって、現実の過酷さ、過度の残虐性を緩和する働きをする。もちろんこの特質は諸刃の刀であって、映画は現実を風評としてフェイクとしてなかったことにする、まさに不都合な現実を隠蔽するというイデオロギー機能を帯びる――いや、これがもっと唾棄すべき映画の特徴なのだが――、と同時に、私たちに過酷な現実を超える夢を見せてくれるユートピア機能をも帯びている(イデオロギーかユートピアかというマンハイムの図式を踏襲すればだが)。もちろん繰り返しになるが、これは現実を直視しない現実逃避にもなる。だから現実を見据えつつ、そこに満足しない、あるいはありえたかもしれない別の選択肢を想像する、つまりオルターナティヴ喚起機能とでも呼ぶべきものを映画はもっている。
いや、もっと正確にいえば、過酷な史実と、ありえたかもしれない別の現実、そのふたつを見据えることを観客に求めることが、ハリウッド映画文化の最良の部分であったと、この、映画界、ハリウッドの住人たちを映画く映画、映画の映画は伝えているように思われる。デカプリオとブラッド・ピットのペアは、スターとそのスタントマンの関係であり、この二重性、スターの激しいアクションと思えるものは、スタントマンが行なっているという二重性、裏と表、ボディダブルは、すでにこの映画のテーマにくみこまれている。最初から最後まで。
さらにはエンドクレジットにまで。そこでディカプリオ扮するリック・ダールトンがタバコのCMに出演している映像(もちろん架空の)がクレジットともに流れるのだが、そこではダールトン/ディカプリオは好感度の高い人気スターとしてタバコの宣伝をおこなう。CMが終わったあとの映像も続いて流れ、ダールトン/ディカプリオは、クソまずいタバコだと、タバコを吐き捨ているし、そばにあった等身大の写真ボードを、顎が二重顎に写っている、こんなボードを出すなと、ブチ切れて壊すのである。好感度の高いスターと、その裏のゲス野郎としてのスター。この二重性、この表と裏。これを忘れるなと映画は訴えている。
映画の最後、殺しに来たマンソン・ファミリーの4名を全員返り討ちにしたあと、ダールトン/ディカプリオは、隣人のシャロン・テートらに邸宅に招かれる。シャロン・テートの知人のほか、当日、一人、訪問者が招かれる。史実では彼らが全員惨殺される。映画では和気あいあいとした近所づきあいというか隣人づきあいで終わるのだが、その裏、フィクションの裏の史実は、惨殺事件だったことを思い出せ、意識せよと映画は訴えかけているように思われる。映画は、良くても悪くてもオルターナティヴなのだ、と。

2019年10月09日
『帰れない二人』
前作(直前作ではない)『罪の手ざわり』(2013)から暴力性が加わったジャジャンクー映画は、今回もその暴力性を引き継ぎつつ、『長江哀歌』(2006)『山河ノスタルジア』(2015)のような歴史の流れと言うか近代化や産業化のなかでとりのこされていく人間や記憶を描く抒情的リアリズムが合体した映画をつくっているのだが、自己反復に終わっているようにもみえる。『帰れない二人』の男女二人は、『青の稲妻』(2002)の若い男女と名前が同じという指摘があった(そうかここでも暴力性をすでに扱っていたが)。また『帰れない二人』の冒頭の、バスの中の違和感のあるシーンは、『青の稲妻』のフッテージの残り物を使ったのではという指摘があった。同じ人物の中高年版を作成したというのは、よい意味での自己反復かもしれないが、同時に、自家中毒的自己反復に陥っているともいえる。
韓国でジョニー・トー監督の香港映画『ドラッグ・ウォー 毒戦』(毒戰 2013 ※第8回大阪アジアン映画祭で上映とウィキペディアにあるが、もちろん一般公開もされ、私はふうつに映画館でみた)をリメイクした映画『毒戦 BELIEVER』(2018)が現在上映中だが、よくまあジョニー・トーの映画をリメイクしたものだと、あきれる。韓国版リメイクは、意図的にテンションを高くしているようだ。もともとテンションの高い映画なので、テンションは高すぎて暴発する感がある。いっぽう、この『帰れない二人』も、まるで中国でリメイクした、それも、そんなにテンションを上げないで、というかテンションを下げるようなリメイクをしたようにもみえる(もともと中国映画なので、中国でリメイクしたというのは冗談なので、そのつもりで)。
ジャジャンクー監督は、『山河ノスタルジア』では時間の流れを未来にまで設定して(SF仕立てになっている)、やや破天荒な構成で、魅せてくれたが、今回は、予想以下でもなければ予想以上でもなかった。最後に登場する監視カメラの映像は、カメラが過去の記憶・記録装置であるとともに、監視装置として人間の自由を束縛したり、神の視点のように人間を裁いたりするようなものかという思いを強くした(中国では監視社会を大衆はむしろ守られケアされているという安堵感とともに受け入れているという指摘もあったが、それは嘘だろうと思うものの一理はある)。監視カメラで切りとられる時間の流れの中で、人間を描く映画は、その人間を審判しているということもいえなくもない。監視カメラには審判カメラという意味もあろう。そしてそれは映画そのものが、ひとつの審判の場であることを含意している。
