シェークスピアかシェイクスピアか/イスラムかイスラームか
シェークスピア/シェイクスピアに関しては結論からすれば、私はどちらでもいいと思っている。辞書などに掲載されている表記と、一般に使われてている標記のずれがある固有名詞の一つであることはまちがない――シェイクスピア/シェークスピアが。
私は大学で「シェイクスピア」に関する授業を担当していたときには、学生諸君には、「シェイクスピア」という表記を使ってもらっていた。辞書(英和辞典をふくむ)では「シェークスピア」という表記が項目として掲載されているので、「シェイクスピア」という表記には不満あるいは批判的である学生もたくさんいたと思う。
私がした説明というのは、翻訳などでは「シェイクスピア」がふうつ。「シェークスピア」と表記しているシェイクスピアの翻訳書はみたことがない。また日本の舞台でも「シェイクスピア」だし、「日本シェイクスピア協会」もある。翻訳文学、演劇界、そして学会でも、「シェイクスピア」という表記が一般的であり、そもそも大学の授業名でも、「シェイクスピア演習」「シェイクスピア講義」「シェイクスピア購読」など、「シェイクスピア」がふつう。だから、私の授業でも、「シェイクスピア」という表記を使うし、その表記にどうしても違和感があるのなら、履修するのをやめてもいいし、また一定の学期のあいだだけ、その表記を使うのであって、これから先、大学を卒業しても、死ぬまで、その表記を使えと言っているわけではない。もし気にいらなくても、ゲームの規則のようなもので、一定期間だけ、その表記でがまんしてもらうというふうに説明している。
ただ基本は、どちらでもいい。二種類の表記があるのなら、それが共存というか併存していいわけで、問題は、今述べた大学の授業の場合がそうで、どちらか一方に統一しようとするときである。メディアでは、「シェークスピア」の表記がふつうで、これは絶対に守ることになっている。したがって、新聞などで、シェイクスピア関連の本をとりあげるときも、書名の表記は、タイトルどおり「シェイクスピア」としても本文では「シェークスピア」に統一していて、「シェークスピアが書いた悲劇について読みたいと思えば、***著『シェイクスピアの悲劇』という本がある」といった文がふつうに存在する。ただし、著者が、「シェイクスピア」と本文で書いているのに、それを引用するとき「シェークスピア」としてしまっては問題だろう。記憶は定かでないのだが、妄想だったかもしれないが、そうした例が新聞記事にあったような気がする。
これは正しいか正しくないかの問題ではない。もちろん日本語の場合「エイ」という表記は実際には「エー」となるので(たとえば時計は「トケイ」ではなく「トケー」と発音されるし、先生は「センセイ」ではなく「センセー」と発音される)、「シェイクスピア」と書いても「シェークスピア」と発音されるから、どちらでもいいということになる。翻訳の世界、演劇の世界、学術研究の世界では、「シェイクスピア」にしたい気持ちであることはわかるが、また私は「シェイクスピア」という表記を使うが、「シェークスピア」と表記する人間がまちがっているということにはならないだろう。
むしろ、その反対かもしれないのは、「合衆国」か「合州国」かの例を考えてみてもいい。「合州国」という表記は、アメリカは「州」が集まってできている国だから「合衆国」というのは理屈にあわない、おかしな命名である。だから「アメリカ合州国」と表記するのだという人たちが、かなりの数いる。これに対して国語辞典のなかでは「合州国」という表記はまちがいであると明記してあるものもある。ただし、これは、中学生が、「合衆国」と書くべきところを、「合州国」と書いてしまったので、それは違うからとたしなめているようなもので、「合州国」派は、別にまちがっているわけではなく、合理的な考え方に基づいて従来にない新たな表記を提案しているのであって、それはまちがいではない。国語辞典の注意書きは、その書き方は、従来の書き方がからはずれているという指摘にすぎない。
またそうであるなら、「シェイクスピア」と表記するのは、辞書類(英和辞典なども含む)の表記は「シェークスピア」なので、間違いということになる。さすがにそこまで書いてある辞書はないように思うが、辞書にないから「合州国」まちがい派と、「シェイクスピア」まちがい派は、同じ発想である(何度言っても「シェークスピア」と書いてきた一部の学生の抵抗もわからないわけではないというか、よくわかる)。一方、「合州国」派にとっては従来の「合衆国」表記は、まちがいであるということになるが、「シェイクスピア」派としての私は、「シェークスピア」がまちがいだと強くいうつもりはないし、最終的に、選択の自由はあると思う。
ちなみに「合衆国」と「合州国」について、私はどう思うかということになるが、どちらの漢字表記も、私はまちがいではないかと、確たる根拠はなく、ただ漠然と思っている。「合州国」は、理にかなっているように思われるが、「州」という漢字の意味内容は多岐にわたるので、それをStateの訳語にしてよいのかどうか、よくわからない。「合衆国」と「合州国」どちらも間違っている可能性があるのなら、辞書に載っている従来どおりの「合衆国」でいいのではないかと思っている。
内的な根拠で正しいか間違っているかということは、「シェークスピア/シェイクスピア」には関係ないかと思われるかもしれないが、実は、関係がある。どちらも英語のShakespeareのカタカナ表記である以上、どんな表記でも原音の再現は不可能である。つまりどちらもまちがっている。だったら、辞書(英和辞典もふくむ)にある「シェークスピア」でよいかというと、やはり「シェイクスピア」である。好き嫌いの問題かもしれない。ただし、好き嫌いの理由は、正しいかまちがっているかの問題ではなく、その表記のイメージにも関係があるのだろう。「合州国」とか「シェイクスピア」という表記を使う人は、そのほうが、専門家っぽいと思っているのである。逆にいうと「シェークスピア」という表記は素人っぽいのである。
私は、素人を馬鹿にするつもりはまったくない。それというのも、同じく、表記がわかれる固有名として、関係するのが「イスラム」と「イスラーム」である。「イスラーム」を使う人間は、「イスラーム」が正しいと思っているらしい。いわゆるアカデミックな使い方である。そして彼らは、「イスラム」を使う人間は素人っぽいと思っているらしい。
その証拠に、私が翻訳している英語の文献で、「イスラム」という語が出てきた。ただし、その本全体をみても、「イスラム」という語は、2,3度出てくるにすぎない。イスラム/イスラーム社会とか文化を真正面から扱った専門的文献ではない。私は「イスラム」と訳した。すると、編集者とか校閲係といった出版社サイドではなく、「イスラーム」の専門家から、いまどき「イスラム」という表記を使っていると素人と思われますよというコメントが入ってきた。さすがにこれには、カチンときた。素人で上等じゃないか。
つまり専門家と素人というハイアラーキーを、この専門バカは当然視しているのである。専門家は偉い、素人は素人だ、つまり愚か者だということだろう。いや、専門家が偉いというのではなく、専門家の間で、それこそ命をかけて真剣に研究し討議し真実を究明する分野では「イスラーム」と表記されてきたのだから、それに対して敬意を表してもいいのではないか。自分たちは見栄をはるとか威張っているわけではなく、真摯に学問研究しているのであって、その真摯さと真実への奉仕そのものに対しては、一定の敬意が払われてしかるべきであろうということになる。
別に喧嘩をしたいわけではない(その専門家からは、貴重な助言もいただいているので)。むしろ、いみじくも「素人っぽい」と言われたこと自体に、大いに勇気づけられたのである。つまり「イスラム」という表記を使うことで、素人の自由を保証されたのである。素人であることの自由は、何事にも代えがたい素晴らしいことである。どんなに馬鹿にされても、この自由だけは失いたくない。ただし素人を馬鹿にする側が愚劣であることは言うまでもないのだが。
「イスラーム」という表記がどれだけ正確かつ推奨されるべきものかについては、原語についての知識のない私には判断のしようがない。英語でIsalmというと発音は「イスラーム」となる。たぶん英語も、原語の発音を反映しているのだろう。英語読みをして「イスラーム」としてもいいのだが、Old habits die hard.辞書(英和辞典もふくむ)の表記では「イスラム」が多数派であるし、「イスラム」という表記は日本語から消えているわけではないし、もし、それが素人の記号なら、私は、素人性を大々的に標榜したいのである。
素人を馬鹿にする専門家は最低だが、同時に、専門家を気取る素人は、専門家からみればすぐに化けの皮がはがされて、馬鹿にされる最低の存在となる。専門家を気取って、馬鹿にされるようなことになれば、それは自業自得である。いや、それだけではない。素人であるうちは、専門家から一目おかれるか相手にされないかのどちらかだが、ひとたび素人が専門家を気取れば、専門家から馬鹿にされるし、それはまた専門家の軍門に下ること、専門家に従属することであって、素人がもっている自由を、つまり専門家を批判できたり、専門家に助言できたりする自由を失うことになる。
アウトサイダーの自由を失うことなる。サイード的にエグザイルの自由とは言えないような気がするが、まあ私も、よく考えるまでもなく、自分の専門分野を追放されたようなところもあるので、ある意味で、エグザイルかもしれず、エグザイルとしての自由をすでに獲得しているのかもしれない。アウトサイダーの自由、エグザイルの自由は、専門家になったり、専門家のまねごとをすることでは得られないのである。
私にとって「イスラム」と表記するのは、素人として、専門家と対等であること(素人であるが故に無視されるということと背中合わせだが)を意味するのだが、そこまで気張らなくても、すでに書いたように、イスラムの語は、2度、3度、出てくるだけで頻出するわけではないし、本の内容もイスラム文化や社会を取り上げた入門書でもなければ専門書でもない。私が、専門家に素人として意見をいうようなチャンスは、今回の翻訳に関して、あるわけはない。にもかかわらず、「イスラム」と表記するのは素人っぽいとコメントしてくる者の権力志向、縄張り思考、そしてマウントしたい欲望、すべてに反吐がでるとだけは書いておきたい。
追記
1「イスラム」という表記はメディアなどでは一般的だが、同時に私は東京大学文学部の教員でもあったので、文学部に「イスラム学研究室」があることを知っている。もちろん東大のイスラム学研究室の「イスラム」は、設立されたことの古さと伝統の指標であって、いまイスラム学関係の研究室をつくるのなら「イスラーム」と表記するのがふつうかもしれず、また東大イスラム学研究室でも、内部では「イスラーム」という表記が一般的かもしれないが、古さの指標であるとしても「イスラム」の表記を続けている研究室があることは確認しておきたい。たぶんそういうことはないと思うのだが、ひょっとして学会には「イスラム」派と「イスラーム」派の派閥対立があるのかもしれないので、へたに「イスラーム」と表記すると、知らないうちに派閥に組み込まれてしまうのかもしれない。もちろん「イスラーム」と表記するのがいまや趨勢なので、「イスラム」と表記するのは守旧派に組み込まれることかもしれないという危険性はあるが、私はそれでもかまわない。とにかく自分で責任を負えない表記に対しては守旧派でいるしかない。
2表記の問題
ある大学で、シェイクスピアについての講演をしたことがある。そのとき講演のなかでは扱わなかったが、質疑応答の場で、『オセロー』とか『マクベス』の話が出た。私は無意識のうちに、『オセロー』とか『マクベース』(太字にストレスを置く)という発音をしていたみたいで、懇親会の席上で、司会の先生が、大橋先生はさすがに東大の先生で、『オセロ』とか『マクベス』と言わず、つねに『オセロー』とか『マクベース』と発音されていて、すごい、学生諸君も、日ごろからそういう発音をしておかないと、国際学会の場などで、恥をかくことになるから、しっかり見習いなさいとコメントした。え、そこ? そこを褒める?講演の中身についての褒め言葉はなかったので、むしろがっかりしたのだが、標記とか発音・発声には、専門家らしさが出るのだろう。それが素人・一般人と、専門家を分ける指標となることが多いようだが、しかし、そんな区分の指標は、虚妄にすぎないとも言える。