2019年09月25日

シェークスピアかシェイクスピアか

シェークスピアかシェイクスピアか/イスラムかイスラームか

シェークスピア/シェイクスピアに関しては結論からすれば、私はどちらでもいいと思っている。辞書などに掲載されている表記と、一般に使われてている標記のずれがある固有名詞の一つであることはまちがない――シェイクスピア/シェークスピアが。

私は大学で「シェイクスピア」に関する授業を担当していたときには、学生諸君には、「シェイクスピア」という表記を使ってもらっていた。辞書(英和辞典をふくむ)では「シェークスピア」という表記が項目として掲載されているので、「シェイクスピア」という表記には不満あるいは批判的である学生もたくさんいたと思う。

私がした説明というのは、翻訳などでは「シェイクスピア」がふうつ。「シェークスピア」と表記しているシェイクスピアの翻訳書はみたことがない。また日本の舞台でも「シェイクスピア」だし、「日本シェイクスピア協会」もある。翻訳文学、演劇界、そして学会でも、「シェイクスピア」という表記が一般的であり、そもそも大学の授業名でも、「シェイクスピア演習」「シェイクスピア講義」「シェイクスピア購読」など、「シェイクスピア」がふつう。だから、私の授業でも、「シェイクスピア」という表記を使うし、その表記にどうしても違和感があるのなら、履修するのをやめてもいいし、また一定の学期のあいだだけ、その表記を使うのであって、これから先、大学を卒業しても、死ぬまで、その表記を使えと言っているわけではない。もし気にいらなくても、ゲームの規則のようなもので、一定期間だけ、その表記でがまんしてもらうというふうに説明している。

ただ基本は、どちらでもいい。二種類の表記があるのなら、それが共存というか併存していいわけで、問題は、今述べた大学の授業の場合がそうで、どちらか一方に統一しようとするときである。メディアでは、「シェークスピア」の表記がふつうで、これは絶対に守ることになっている。したがって、新聞などで、シェイクスピア関連の本をとりあげるときも、書名の表記は、タイトルどおり「シェイクスピア」としても本文では「シェークスピア」に統一していて、「シェークスピアが書いた悲劇について読みたいと思えば、***著『シェイクスピアの悲劇』という本がある」といった文がふつうに存在する。ただし、著者が、「シェイクスピア」と本文で書いているのに、それを引用するとき「シェークスピア」としてしまっては問題だろう。記憶は定かでないのだが、妄想だったかもしれないが、そうした例が新聞記事にあったような気がする。

これは正しいか正しくないかの問題ではない。もちろん日本語の場合「エイ」という表記は実際には「エー」となるので(たとえば時計は「トケイ」ではなく「トケー」と発音されるし、先生は「センセイ」ではなく「センセー」と発音される)、「シェイクスピア」と書いても「シェークスピア」と発音されるから、どちらでもいいということになる。翻訳の世界、演劇の世界、学術研究の世界では、「シェイクスピア」にしたい気持ちであることはわかるが、また私は「シェイクスピア」という表記を使うが、「シェークスピア」と表記する人間がまちがっているということにはならないだろう。

むしろ、その反対かもしれないのは、「合衆国」か「合州国」かの例を考えてみてもいい。「合州国」という表記は、アメリカは「州」が集まってできている国だから「合衆国」というのは理屈にあわない、おかしな命名である。だから「アメリカ合州国」と表記するのだという人たちが、かなりの数いる。これに対して国語辞典のなかでは「合州国」という表記はまちがいであると明記してあるものもある。ただし、これは、中学生が、「合衆国」と書くべきところを、「合州国」と書いてしまったので、それは違うからとたしなめているようなもので、「合州国」派は、別にまちがっているわけではなく、合理的な考え方に基づいて従来にない新たな表記を提案しているのであって、それはまちがいではない。国語辞典の注意書きは、その書き方は、従来の書き方がからはずれているという指摘にすぎない。

またそうであるなら、「シェイクスピア」と表記するのは、辞書類(英和辞典なども含む)の表記は「シェークスピア」なので、間違いということになる。さすがにそこまで書いてある辞書はないように思うが、辞書にないから「合州国」まちがい派と、「シェイクスピア」まちがい派は、同じ発想である(何度言っても「シェークスピア」と書いてきた一部の学生の抵抗もわからないわけではないというか、よくわかる)。一方、「合州国」派にとっては従来の「合衆国」表記は、まちがいであるということになるが、「シェイクスピア」派としての私は、「シェークスピア」がまちがいだと強くいうつもりはないし、最終的に、選択の自由はあると思う。

ちなみに「合衆国」と「合州国」について、私はどう思うかということになるが、どちらの漢字表記も、私はまちがいではないかと、確たる根拠はなく、ただ漠然と思っている。「合州国」は、理にかなっているように思われるが、「州」という漢字の意味内容は多岐にわたるので、それをStateの訳語にしてよいのかどうか、よくわからない。「合衆国」と「合州国」どちらも間違っている可能性があるのなら、辞書に載っている従来どおりの「合衆国」でいいのではないかと思っている。

内的な根拠で正しいか間違っているかということは、「シェークスピア/シェイクスピア」には関係ないかと思われるかもしれないが、実は、関係がある。どちらも英語のShakespeareのカタカナ表記である以上、どんな表記でも原音の再現は不可能である。つまりどちらもまちがっている。だったら、辞書(英和辞典もふくむ)にある「シェークスピア」でよいかというと、やはり「シェイクスピア」である。好き嫌いの問題かもしれない。ただし、好き嫌いの理由は、正しいかまちがっているかの問題ではなく、その表記のイメージにも関係があるのだろう。「合州国」とか「シェイクスピア」という表記を使う人は、そのほうが、専門家っぽいと思っているのである。逆にいうと「シェークスピア」という表記は素人っぽいのである。

私は、素人を馬鹿にするつもりはまったくない。それというのも、同じく、表記がわかれる固有名として、関係するのが「イスラム」と「イスラーム」である。「イスラーム」を使う人間は、「イスラーム」が正しいと思っているらしい。いわゆるアカデミックな使い方である。そして彼らは、「イスラム」を使う人間は素人っぽいと思っているらしい。

その証拠に、私が翻訳している英語の文献で、「イスラム」という語が出てきた。ただし、その本全体をみても、「イスラム」という語は、23度出てくるにすぎない。イスラム/イスラーム社会とか文化を真正面から扱った専門的文献ではない。私は「イスラム」と訳した。すると、編集者とか校閲係といった出版社サイドではなく、「イスラーム」の専門家から、いまどき「イスラム」という表記を使っていると素人と思われますよというコメントが入ってきた。さすがにこれには、カチンときた。素人で上等じゃないか。

つまり専門家と素人というハイアラーキーを、この専門バカは当然視しているのである。専門家は偉い、素人は素人だ、つまり愚か者だということだろう。いや、専門家が偉いというのではなく、専門家の間で、それこそ命をかけて真剣に研究し討議し真実を究明する分野では「イスラーム」と表記されてきたのだから、それに対して敬意を表してもいいのではないか。自分たちは見栄をはるとか威張っているわけではなく、真摯に学問研究しているのであって、その真摯さと真実への奉仕そのものに対しては、一定の敬意が払われてしかるべきであろうということになる。

別に喧嘩をしたいわけではない(その専門家からは、貴重な助言もいただいているので)。むしろ、いみじくも「素人っぽい」と言われたこと自体に、大いに勇気づけられたのである。つまり「イスラム」という表記を使うことで、素人の自由を保証されたのである。素人であることの自由は、何事にも代えがたい素晴らしいことである。どんなに馬鹿にされても、この自由だけは失いたくない。ただし素人を馬鹿にする側が愚劣であることは言うまでもないのだが。

「イスラーム」という表記がどれだけ正確かつ推奨されるべきものかについては、原語についての知識のない私には判断のしようがない。英語でIsalmというと発音は「イスラーム」となる。たぶん英語も、原語の発音を反映しているのだろう。英語読みをして「イスラーム」としてもいいのだが、Old habits die hard.辞書(英和辞典もふくむ)の表記では「イスラム」が多数派であるし、「イスラム」という表記は日本語から消えているわけではないし、もし、それが素人の記号なら、私は、素人性を大々的に標榜したいのである。

素人を馬鹿にする専門家は最低だが、同時に、専門家を気取る素人は、専門家からみればすぐに化けの皮がはがされて、馬鹿にされる最低の存在となる。専門家を気取って、馬鹿にされるようなことになれば、それは自業自得である。いや、それだけではない。素人であるうちは、専門家から一目おかれるか相手にされないかのどちらかだが、ひとたび素人が専門家を気取れば、専門家から馬鹿にされるし、それはまた専門家の軍門に下ること、専門家に従属することであって、素人がもっている自由を、つまり専門家を批判できたり、専門家に助言できたりする自由を失うことになる。

アウトサイダーの自由を失うことなる。サイード的にエグザイルの自由とは言えないような気がするが、まあ私も、よく考えるまでもなく、自分の専門分野を追放されたようなところもあるので、ある意味で、エグザイルかもしれず、エグザイルとしての自由をすでに獲得しているのかもしれない。アウトサイダーの自由、エグザイルの自由は、専門家になったり、専門家のまねごとをすることでは得られないのである。

私にとって「イスラム」と表記するのは、素人として、専門家と対等であること(素人であるが故に無視されるということと背中合わせだが)を意味するのだが、そこまで気張らなくても、すでに書いたように、イスラムの語は、2度、3度、出てくるだけで頻出するわけではないし、本の内容もイスラム文化や社会を取り上げた入門書でもなければ専門書でもない。私が、専門家に素人として意見をいうようなチャンスは、今回の翻訳に関して、あるわけはない。にもかかわらず、「イスラム」と表記するのは素人っぽいとコメントしてくる者の権力志向、縄張り思考、そしてマウントしたい欲望、すべてに反吐がでるとだけは書いておきたい。

追記

1「イスラム」という表記はメディアなどでは一般的だが、同時に私は東京大学文学部の教員でもあったので、文学部に「イスラム学研究室」があることを知っている。もちろん東大のイスラム学研究室の「イスラム」は、設立されたことの古さと伝統の指標であって、いまイスラム学関係の研究室をつくるのなら「イスラーム」と表記するのがふつうかもしれず、また東大イスラム学研究室でも、内部では「イスラーム」という表記が一般的かもしれないが、古さの指標であるとしても「イスラム」の表記を続けている研究室があることは確認しておきたい。たぶんそういうことはないと思うのだが、ひょっとして学会には「イスラム」派と「イスラーム」派の派閥対立があるのかもしれないので、へたに「イスラーム」と表記すると、知らないうちに派閥に組み込まれてしまうのかもしれない。もちろん「イスラーム」と表記するのがいまや趨勢なので、「イスラム」と表記するのは守旧派に組み込まれることかもしれないという危険性はあるが、私はそれでもかまわない。とにかく自分で責任を負えない表記に対しては守旧派でいるしかない。

2表記の問題

ある大学で、シェイクスピアについての講演をしたことがある。そのとき講演のなかでは扱わなかったが、質疑応答の場で、『オセロー』とか『マクベス』の話が出た。私は無意識のうちに、『オセロー』とか『マクベース』(太字にストレスを置く)という発音をしていたみたいで、懇親会の席上で、司会の先生が、大橋先生はさすがに東大の先生で、『オセロ』とか『マクベス』と言わず、つねに『オセロー』とか『マクベース』と発音されていて、すごい、学生諸君も、日ごろからそういう発音をしておかないと、国際学会の場などで、恥をかくことになるから、しっかり見習いなさいとコメントした。え、そこ? そこを褒める?講演の中身についての褒め言葉はなかったので、むしろがっかりしたのだが、標記とか発音・発声には、専門家らしさが出るのだろう。それが素人・一般人と、専門家を分ける指標となることが多いようだが、しかし、そんな区分の指標は、虚妄にすぎないとも言える。



posted by ohashi at 19:57| エッセイ | 更新情報をチェックする

2019年09月07日

『Shadow/影武者』

チャン・イーモウ監督のスタイリッシュなファンタジー映画。『三国志』のなかのエピソードの翻案というが、『三国志』については、だいたいの内容は把握しているが、詳しいことは忘れてしまっているので、心当たりはまったくない。

画面は黒と白の二色が基本、つまりモノクロ映像だが、人間の顔とか手など露出している身体の部分に肌の色をつけているのが、それをのぞけば水墨画の世界を映像化したかたちになっている。ただし水墨画の幽玄の世界は、ある意味、ユートピア世界なのだが、この映画ではユートピアとは程遠い、血なまぐさい闘争と裏切りの世界が展開する。水墨画というよりも、文字通りノワールの世界、それも歴史ノワール、さらにはノワール的ファンタジーというべき世界が展開する。

ただし『三国志』や水墨画の世界という連想は、むしろこの映画の衝撃を妨げるところもある。この映画のモノクロの世界では常に雨がふっている。太陽は決して姿をみせることはない。砂の惑星ならぬ雨の惑星における戦争。そしてそこに陰陽の哲学と美学が通奏低音のように流れる。これは中国的であると同時に中国から独立したスタイリッシュなファンタジーの世界であり、その幻想性と抽象的あるいは観念的な世界観に西洋人なら圧倒されるかもしれない。あるいはファンタジー好きなら完全に魅了されるかもしれない。

予告編でみた面妖な円盤武器は、映画のなかでは傘状に剣を組み合わせたもので、移動兵器にもなり、楯にもなって相手の武器を交わものだが同時に剣でもあり手裏剣でもあって攻撃兵器にもなる。そして槍というか鋒の攻撃を受ける傘あるいは傘兵器との対立が、陰陽の対立、さらには男女のジェンダー対立ともなっている点は見逃せないというか面白い。

実際、映像化あるいは映像美術で強調されている陰陽の世界観は、黒と白のモノクロ映像からはじまって本物と影、夫と妻、兄と妹などの男女のジェンダー対立にまで浸透している。そしてジェンダー対立の面からみると、この映画のある種のアレゴリー性も、荒唐無稽ない物語のなから見えてくる。

本物と影(影武者)という関係が、映画のなかでメインかと思うかもしれないが、今述べたよううにそこに夫と妻との関係もからんでくる。男性・夫・本物のほうは、攻撃的・積極的で正面と表面の光そのものであるのだが、実は、影であり、身をひそめ、支える側の女性・妻・影によって支配されている。影武者を操る将軍も、隠れ処から一歩も出ずに戦闘を指示するとか、国の真の支配者は自分であるといってのける将軍は、独身の王に対する象徴的な妻でもある(男勝りの妻ともいうべきものか)。影武者のほうも卑しい身分から引き立てられたり、実家に帰されることになるところからも、ただの奴隷ではなく、囲われ女あるいは妻的な立場と共通性をもっている(その女性性器のような傷口にも注目すべきだろう)。影あるいは影武者というのは、ただのダブルではなくて妻、女性のことである。また朝議には参加できなくとも、緞帳の向こうで兄である国王に助言する妹もまた、影的存在である。

敵の槍を使う武術に対して傘による受けと攻撃というのも、槍=ペニス、傘=ヴァギナとなって武術レベルでもジェンダー対立となる。また潜入攻撃する側は、最初、命知らずのならず者の囚人たちを攻撃隊として徴用するのだと語られるのだが、実際の攻撃の際、攻撃部隊には女性しかいない(女忍者のような扮装は笑えるのだが)。傘を使う受けの武術が女性であり、そこから傘=女性性という図式は、攻撃方法、攻撃部隊にまで浸透していくのである。

影に影武者のみならず女性性をも加味すると、この雨の惑星でのSF的あるいはロード・オブ・ザ・リング的ファンタジーの世界が、にわかにジェンダー的洞察の鋭さを帯びるように思えるから面白い。

また、そこにある敵か味方がの境界が曖昧なこと。忠誠と裏切りとの交替あるいは相互作用など、実は、物語のなかで明示的に語られない部分は多い。

たとえば冒頭近くに、王は都督と妻に琴を演奏させる。都督が影武者であることをまだ知らない観客は、琴の演奏のもつ緊迫した危険性(影武者は演奏できない)がわからないのだが、あとで、あれは危険な場面であったことがわかる。ただし、王は、都督が影武者あるいは影武者である可能性に気づいていたのではないだろうか。後の傷口を見せろという王の要求も、影武者の可能性を知っていたからではないか。最後に重臣が実は敵の内偵であったことがわかるように、王と敵対する都督は、相手のことを知り尽くしていたか、もしかしたら内通していたのではないか。

それをいうのなら影武者の母親を殺したのが王であったのはどうしてなのか。影武者の母のことを知っているのは都督あるいは都督の妻であった。王が知ることはない。しかし、王は、本物の都督の刺客が、影武者の母親を殺したかのように装うことがどうしてできたのか。やはり内通者がいるのである。影はひとりではなかった。それは映画のなかでは語られないが、映画の最後に顔が映し出される人物ではないだろうか……。【おわり】


posted by ohashi at 12:53| 映画 | 更新情報をチェックする

2019年09月06日

『フリーソロ』

「ラスト20分――極限を超えた体感」と宣伝文句にあるが、それは確かで、ラスト20分。一度、途中で投げ出したフリーソロの登攀に再度挑戦し、まさに絶壁を何も身に着けずに登って行くさまを、カメラマンとともに地上から見え上げている知人の一人が述懐する、よく見ていられるなと。これは映画だから、すでに成功した記録だから見ていられるのであって、リアルタイムでは、とてもみていられないだろう。フリーソロが、いつフリーフォールになるのか、ほんとうにわからないのだから。また絶壁を一人で登って行くさまなどこれまで見たこともない私のような観客がほとんどだろうから、とにかく最後20分感の挑戦は素晴らしい。

と同時に、もうひとつ特筆すべきは、特筆すべきことがないことである。つまりこの特筆すべきことがないことこそ特筆すべきであって、この映画、フリーソロの部分は驚異的で感動的だが、それ以外のところは、まったくクソみたいに淡々としているのだ。人物像の掘り下げが少ないとか弱いということではない。このフリーソロのクライマー、アレックス・オノルドは、カメラの前では、いろいろなことを包み隠さず語ったり、みせてくれる、誠実な人柄で好感がもてるのだが、そのぶん秘密も謎も神秘も、深みも何もない。掘り下げが弱いということではなく、パーソナリティの魅力が乏しいのである。

いや、この点は、もっと正確にいうべきだろう。そもそも、このアレックスが天才的なクライマーであることはまちがいない。そしてクライミングしか興味のない天才的なバカであることもまちがいないだろう。ただ、どんな困難なことでも、すいすいやってのけてしまうので――それが天才たるゆえんなのだろうが――、みていて感動的ではない。

常人ではなしえないことを、やすやすとやってのけられるわけだから、本人のリアクションがうすい。これは、自己表現力が弱いのではないかと思えてしまう。たしかに挫折を味わったりもするのだが、劇的な立ち直りはなく、気が付くと、また元の彼にもどっている。飄々としているといえば、わかるだろうか。よくいえば奇跡的な偉業を涼しい顔でやってのける。そのぶん、劇的でもなければ面白くもない。

恐怖や苦悩など、本人の頭のなかでは複雑な感情が渦巻いといると思うのだが、それがまったく表に出ないまま、苦しい胸中を語っているときですら、飄々としているのである。あるいは最後に再挑戦に成功したあと、カメラクルーから、感激して泣いてもいいし、そこを撮らせてほしいと言われるのだが、本人、泣くつもりもないし、たぶんうれし泣きというような感情は本人のなかに生まれないだろうし、また実際、表情が乏しいまま、ただにこやかに笑っているだけである。嬉しいことはまちがないだろう。ただ、そのにこやかな笑いは、人類が未踏の領域に入り込んで帰還した、あるいは人類史上未曽有の挑戦の成功だったといっても過言ではないのに、まるで、税務署に確定申告の書類を出したら、不備もなく問題なく受け取ってもらえてよかったという程度の、にこやかな笑いなのである。

天才を素材にしたのが悪かったということだろうか。素材としてふさわしいのは、むしろ周囲の人物たちである。妻となる女性が、夫の身を常に案じていて、なにかきっかけがあると不安な感情が爆発するというか、感情が抑えきれなくなってしまうさま。あるいは共同監督の一人ジミー・チンが、カメラクルーの存在が当人を神経質にさせているのではないかと指摘され、顔をくもらせるときの、その独特の表情とか、あるいは挑戦を一時中断して下山してきた当人を、むりしなくていいから休めというときのクルーの心優しい表情など、周囲の人物たちは、みんなメロドラマの主人公たちである。

ところが肝心のアレックスが、よくて涼しい顔、悪くて、飄々として、へらへらしているだけであって、空白にぽっかり穴が開いている。つまり本人悪気はないだろうと思うし、何かを隠し立てするつもりもないと思うのだが、また内面の葛藤もあり感情の起伏も情緒的な動揺も、まあ喜びも悲しみもあると思うのだが、それは絶対に浮上しないのである。心はあるのだが、心がないようにふるまっている。いつも涼しい顔でいること。それこそが天才であるゆえんといえるのだが、また映画の素材としては、ストレートな魅力に乏しい。

いいかえると、アレックス・オルノドは、その立ち居振る舞い語りから察する限り、生きているのか死んでいるのか、生の実感に乏しいパーソナティということだろう。

友人であり知人のフリーソロのクライマーが登攀中に自己で死んだというニュースが入ってくる。周囲が衝撃を受ける中、アレックスは涼しい顔をしている。そこから、彼にとっては、知人の死には関心がない。衝撃も受けなければ悲しみもない。そもそも日常そのものに本人は生の実感を得ていない。本人はいつも死んだも同然である。ただフリーソロののクライミングをしているときが、死の危険と直接生々しく対峙しているときだけが強烈に生を実感できるのだ、――と、まあ、だいたいそう解釈されているようだ。この映画から。

だが、それは違うと思う。アレックスは、人並みに喜怒哀楽の感情はあり、たとえ自炊してフライパンから直接食べるのが習慣になっているとはいえ(鍋から直接食べるのはホームレス生活の指標である――私も一人で自炊しているし、実際に立って食べることも多いのだが、ほんとうにホームレスになるまでは、鍋からは食べない)、食事の喜びも、生の喜びも人並みに、あるいはひょっとしたら人一倍感じていると思うのだが、自己表現が下手なのか、意識的にみずからに禁じているのかわからないが、自分の気持ちを伝える回路なり手段が乏しい。しかし、彼はフリーソロの3時間でなら、自分の好きな手段で自分自身を表現できる。フリーソロは、自己表現が貧しい彼が唯一すがる豊かな自己表現なのである。フライパンから食べている彼が、月一回か年一回、レストランでする食事のようなものである。

生の実感に乏しいからクライミングのときの死との直面のなかに、十全たる生の実感を得るというのは、生の実感が乏しい日常生活から脱却するために、人を殺すことで、人の断末魔の苦しみをみるとことによって、そこに生の実存を実感するという連続殺人犯理論である。ドラマティックで、またメロドラマティクである。そういうふうにこの映画を見る人は多いと思う。

しかし私はそうは思わない。たとえていえば自己表現が下手で、まあ口下手で、周囲からバカか鈍感な人間と思われてる男女が、たとえば優れた文章表現能力によって、その本心を、自分の世界観を、感動的に周囲に、世界に伝えることができるようなものであり、アレックスにとって、フリーソロは、別の手段で表象される自分自身と、その日常なのである。ただし、こちらの理論は、面白くないという欠点をもっている。

この映画を見る前は、高所恐怖所の私は、フリーソロの映像を見ながら失神するのではないかと思ったが、幸い、それはなく驚異的な映像に対して興奮して目を見張りながら最後まで見ることができた。私にとって、予想外だったのは、淡々とした途中の展開に、飄々とした主人公と、その単調な語りに、途中、失神してしまったことである。

追記

このクライマーが、カメラで写されることについて敏感なところが、映像を通しても伝わってくるし、撮影する側と撮影される側との関係はしっかり示されているので、メタ意識にあふれているといいたいところだが、中途半端むしろ問題があるメタ意識であろう。アレックスの用意周到な準備について、その裏側まで見せておきながら、肝心の撮影方法については絶対にみせない――たとえその方法は、予想されるとしても。ブルーレイ/DVDが発売されて、そこに収録されるメイキング映像まで、撮影方法の開示は、おあずけだとしたら、それはよくないと思う。どうやって撮影したのか不思議なところはある。またクライミングの途中に、クライマーがカメラにむかって語りかけるところがあるが、それはカメラをもった同伴者がロープを使っていっしょにのぼっているのか、ドローン撮影なのか、あるいは登攀ルートの途中に固定カメラが設置されているのか、仕掛けそのものを露呈させるメタ意識は、この映画にはまったくないように思われるのが惜しいのである。

posted by ohashi at 18:06| 映画 | 更新情報をチェックする

2019年09月05日

トム・オブ・フィンランドからトーベ・ヤンソンへ

映画『トム・オブ・フィンランド』のことを話題にし、フィンランドは、同じ北欧のスウェーデンなどと違って性の解放が遅れていて、ゲイは長い間、処罰の対象だったらしいと、ある人と、話をした。

そのとき軽い気持ちで、対比として、なにしろフィンランドはムーミンの国ですからねと、冗談めいて語った。

同性愛的欲望はいうにおよばず、性的欲望すらも最初から存在しないようなムーミンの世界は、まさに濃厚なゲイポルノイラスト(デカチン)のトム・オブ・フィンランドの世界の対極にあるし、たぶんムーミンはフィンランドでも国民的童話というかファンタジーなのだから、ムーミン好きの国民が、トム・オブ・フィンランドを受け入れるはずはないというようなつもりだった。

ちなみに私はムーミンについては、詳しくはない。

すると、その相手からこういわれた。ムーミンの作者トーベ・ヤンソンはレズビアンですよ、と。

トム・オブ・フィンランドとムーミン=トーベ・ヤンソンが対極あるいは両極ではなく一極だった。

そういえばムーミンはカバと思っている人が多いかもしれないが、あれは架空の生物で妖精の一種。妖精とえば、同性愛者の別名でもあるのだが。

またウィキペディアにも、

私生活でのパートナーはグラフィックアーティストのトゥーリッキ・ピエティラ(Tuulikki Pietilä1917218 - 2009223日)。彼女は、ムーミン谷博物館に納められた数多くのムーミンフィギュアやムーミン屋敷の制作でも知られ、作品『ムーミン谷の冬』に登場するトゥーティッキー(おしゃまさん・おでぶさん)のモデルともなっている。

 と、ある。私の無知を恥じることになった。

posted by ohashi at 16:54| コメント | 更新情報をチェックする

2019年09月03日

「トールキン・

『トールキン はじまりの旅』

この映画が公開されたおかげで、同じドメ・カルコスキ 監督の前作『トム・オブ・フィンランド』も公開されたので、ただ『トールキン』には、ひたすら感謝しなければならないのだが、ただ、前作と今作は続けてみるとつながりがあるように思えてきた。

とはいえ誤解のないようにいえば『トールキン』はゲイ映画ではない。友情と愛情との板挟みという古典的テーマがみられるが、葛藤は深刻なものではなく、友情が永遠のものとなったと同時に愛情もまた勝利する。ウィン・ウィンの関係なのかもしれないが、両者を矛盾葛藤なく共存させたものとして第一次世界大戦がある。

そもそも『ホビット』にしてもそうだが『トード・オブ・ザ・リング』は、小人ホビットの村落からはじまる牧歌的ファンタジーに不釣り合いなほどスケールの大きな激戦場面が描かれる。そのあたりは本で読んでいる限りは、緩和されるというか、頭のなかで書きかえられるのだが、大掛かりなCG画面によって誇張気味に表象されると、『ロード・オブ・ザ・リング』は、もうおとぎ話的な可愛らしさや魅力など消し飛んでしまうアルマゲドンの世界でしかない。いったいこの戦争は、どんな戦争を念頭におかれたものか。正確にいえば『ロード・オブ・ザ・リング』が、というべきかもしれないが、しかし『ロード・オブ・ザ・リング』を可能にし実現した原作ともまた共有していると想定される戦争とは、第一次世界大戦(当時は大戦グレート・ウォーと呼ばれた)であると、この映画は告げてくれる。いや、20世紀における戦争であると告げてくれる。つまりゲルマン民族の古代神話あるいは中世神話の戦闘ではなく、近現代の凄惨な激戦である、と。

もしトールキンが、この映画が伝えるように、第一次世界大戦時にソンムにいたのなら、まさに大戦中最大の激戦地となったソンムである。生きて帰還したことは奇跡に近い。この戦いで、トールキンらがパブリックスクールからオックスブリッジにいたるまで培ってきた堅い友情は打ち砕かれる(4人のうち2人は戦死、ひとりは廃人になり、唯一生き残ったのはトールキンだけである)。やがてこの経験を経て、トールキンは自分の子供たちにむけてファンタジーを書き始める。それが『ホビット』となる。『ロード・オブ・ザ・リング』となる。『ホビット』も『ロード・オブ・ザ・リング』も、死んだ友への鎮魂歌である。青春の遺言(Testament of Youth)である。

戦争を中心にしているが、同時に、戦争が直接トールキンをしてファンタジーを書かせたということではなく、ただ書かせたといえるのではないかという暗示的に語られるだけなので、あるいはそう見る者に思わせるために、戦争は中心でありながら、周囲がぼやけたというか、ぼかされている。中心がそうだから、それに収束し、また、そこから発展するエピソードも、暗示的であり明確な輪郭を失っている。

たとえば語学というか言語センスの天才だったトールキンが、大学受験に失敗するものの、最終的に入学した大学で、なぜ落第してしまうのか。しかも成績不良で。大学受験の失敗は、どうやら恋愛が原因だとわかる。試験日前日に恋人といちゃついていたら、どんな天才でも試験に落ちる。

しかし大学での成績不良はなぜか。恋人が婚約したことを知ってショックを受け、やけ酒を飲み、深夜に大学構内で一人で奇声をあげてさわぐという草彅剛状態になるのわからないではないが、これは入学してから2年たったときのことで、この時点で彼はまだ言語研究に目覚めていないし、卒業後の進路も決まっていないようだ。女性との恋愛が彼の学問を阻害したという暗示があるが、しかし、すぐに戦争がはじまり、詳しく説明されていないのだが、4人組は、全員、志願して出征する。しかも別の男性と婚約までした女性と完全に分かれるかと思うと、大陸へ出発間際によりをもどすようにも思われる。学問を阻害したのは女性なのか戦争なのかはあいまいなままである――あいまいであることがふつうであるとしても。

映画的語りの典型ともいえのは、ソンムの塹壕で熱病のため意識を失ったトールキンが気づくとイングランドの病院で恋人に付き添われていることだろう。どうして発見され、どのように帰国したのか何もわからない。ただ目覚めると戦争を後にしていたということ。あるいは戦争は恐ろしい悪夢にすぎなかったという暗示があるが、途中の省略によって、輪郭がぼやけ、暗示性が極度に高まることになる。

と同時に、男同士の友情と、男女の愛情のふたつが微妙に対立する構図もみえてくる。そして主人公の意識のなかでは野外の泥沼と累々たる死体の戦場(男性しかいない)にいる自分と、屋内あるいは牧歌的光景のなかで女性といる自分とが対比されている。いや、おそらく両方を生きている。そしてそれがおとぎ話的なホビットの小人村落とアルマゲドン的大会戦とを共存させせる『ホビット』『ロード・オブ・ザ・リング』の世界と重なってくる。

さらにもっと読み込むと、トールキンが書き始めるのは『ホビット』である。おとぎ話的な村落の牧歌的な冒険物語は、いつしか死の影に覆われ、近代の殲滅戦的様相を呈してくる。幼年時代の牧歌的幸福に、時代の戦争が影を落とし、お伽噺的ファンタジーが変貌をとげていくことと、トールキンの半生が重なるのである。

物語を書き始める直接的な動機は、大学教授になっていから忙しくなり(にもかかわらず4人か5人子供ができている)、子供の相手もできないトールキンが、壮大で長い物語を語って男の子を喜ばせることにある。ただそうなると激戦地の戦場でトールキンが幻視したモンスターや中世の騎士たちの活躍は、たんなる素材として貢献したにすぎないのか。ここにも戦場と友情に対する家庭生活と家族愛との対立がみてとれる。あるいは二つの世界は共存している。

『トム・オブ・フィンランド』では、「トム」が描くゲイ・ポルノのイラストは、ある種のユートピア的ファンタジーだった。トールキンの場合、ミドルアースのホビットや妖精や人間たちの世界もまた、ユートピア的ファンタジーとして出発している。ただ、どちらの場合も戦争がファンタジーを生んでいる。そしてそのファンタジーは戦争から逃避するのではなく、戦争そのものが可能にしているのである。20世紀が生んだのは戦争とファンタジーであった。そのことを二つの作品は考えさせてくれるのである。

posted by ohashi at 03:52| 映画 | 更新情報をチェックする

2019年09月02日

『ドッグマン』

イタリアの巨匠マッテオ・ガローネ監督については、今回の『ドッグマン』Dogman(2018)の公開によってはじめて知ることになった。はずかしながら。ただ、ほんとうに気づいていなかったかというとそうでもなく『ゴモラ』の監督で、それは現代イタリアの闇組織についてドキュメンタリーだった。そのためドキュメンタリー系の監督という認識が先行して、前作の『五日物語』の時は全く気付かず、今回、1日だけの上演に、あわててかけつけて、その映像に圧倒された。まさか、あのドキュメンタリーの監督が、このようなシュールなファンタジーの映画を撮るとは夢にも思わなかったのだ。

今回『ドッグマン』は、ドキュメンタリーではないが、ドキュメンタリー風の世界に戻ってきたのかと思ったが、そうではなく、『五日物語』の幻想世界が、リアリズムの世界に色濃く影を落としている。いや、そもそも『ドッグマン』はリアリズムではないことに気づくことになった。恐るべき映画である(ホラー映画ということではない)。現実でもなけれ幻想でもない、そのインターフェイスそのものが映像化されている。

犬のトリマーと日本の映画会社で紹介しているので、トリマーとしておくが、その男性が冒頭、手入れをしている犬の狂暴で大きなこと。もちろん小さな犬もいるのだが、人間よりも大きな牛や馬のような大きな犬もいるし、主人公の男性が小柄なこともあって、犬の超現実的大さに圧倒される。もちろん主人公は、この巨大犬の毛づくろいや洗体をしながら、最後には手なずけるのであって、そこもまた面白いのだが。

この狂暴で巨大な犬に圧倒されたあと、その犬が人間に変身したかのような、狂暴な街の嫌われ者の男が、主人公の親友としてあらわれる。主人公は、この男に食い物にされる。ここでは主人公は、この嫌われ者の巨漢の忠犬である。

そう物語として面白いのは、犬と主人公の関係が、換喩的でもあると同時に隠喩的でもあることだろう。つまり犬は、主人公が毛づくろいしたり躾けたり洗ったり餌をあたえたりする持ち物あるいはケアの対象であり、主人公の仕事の重要な一部である。この場合、犬と主人公は換喩的関係にある。と同時に主人公は町の嫌われれ者の男にとっては、まさに忠犬であるポチである。犬のように言うことを聞くし、忠実で、遊び相手にもなってくれる主人公は、まさにペットの犬のようである。この場合、主人公は犬と隠喩的な関係にある。

主人公は店名「ドッグマン」のオーナーだが、彼自身犬のようなところがある。犬が犬のペットショップのオーナーとなっているという奇妙な二重性がみられるのである。

だが主人公と犬との関係を、換喩的であると同時に隠喩的であると分析したところで、この映画の魅力を語ったことにはならないだろう。むしろ映像の異様な強度ともいうべき超現実性こそ、この映画の最大の魅力となっている。

主人公が構える犬のトリミングサロンプは、さびれきった海水浴場の一画にある。およそ風光明媚とはいえない、心をいやす自然の景色もなく、ふだんは閑散としていて、ときおり観光客でにぎわっても、よくこんなさびれた薄汚い海辺にやってきたものだと驚くような、そんなスラム化したというより人が寄り付かないような、どこにでもある見捨てられた古びて薄汚れた地域が舞台となる。これはまさに汚いリアリズムの極致でもある。この廃墟といってもいいような地域と、その空気が、リアリズムの果てに、どこか非現実的な幻想空間の気配を漂わせ始めるのだ。

映画の公開に先立って一日だけ特別上演された前作『五日物語』の驚くべき幻想空間に圧倒され、その余韻さめやらぬうちに観ることになった『ドックマン』は、リアリズムでありながら、前作のもつ伝奇物語の幻想性の延長線上にあるように思えてならない。そう、このビーチは、もはやこの世のものでない雰囲気を濃厚に漂わせている。強いて言えば、これは地獄の一季節である。

大きな犬が、やがて人間に化身し、人間に命じたり、人間を食い物にするような倒錯した世界。しかも犬の世話をする人間もまた、どこか犬の生まれ変わりのようなところがあって、全体として犬物語となる。しかも、街の嫌われ者である男を信じて、街の仲間たちを裏切ることになるこの男にとって、映画の後半は化け物退治の伝奇物語に接近する――まるでメビウスの輪のように、現代の社会の闇の部分を描くリアリズム志向の側をたどっていくと、社会に巣食う鬼なりモンスターを退治する伝奇物語の側にいることになる。モンスターは、『五日物語』から察すると監督のお気に入りのモチーフである。不気味なモンスター退治物語。リアリズムと幻想文学とが同居もしくは反転する関係にある。

いやそれだけではない。モンスター退治という、寓意的にもみえるし、同時に、不気味さとの無償の戯れともいえるイメージ創造ともいえるような、この映画の物語は、そもそも現実における事件として扱うべきかどうかも定かではない。なるほど最後まで、一連の出来事が時間軸にそって追われ、その顛末が過不足なく示されるというふうにもとれるのだが、同時に、どこかで舞台は、主人公の脳内劇場に移行しているともとれる。どこかはわからない。現実と白日夢との境が見えないのだが、しかし、実は、最初から、このビーチで、厄介者が横暴な行動に出なかったし、観光客も来ないし、このビーチで商売している者もいなかった。すべてが主人公の白日夢ともとれる――離婚したあと娘と一定期間会うことができるのだが、娘とは紅海でスキューバダイビングを楽しむ? 娘のペットの犬を手入れして品評会で優勝する? すべて勝手なハイソな生活にあこがれる空想ではないか。すべてが白日夢。すべてが。だからこそ、どこまでもリアルに薄汚いさびれた光景が、異様な非現実の幻想的輝きに浸されてもいたのだ。

ある意味、この映画の空間は煉獄である。主人公は、この舞台のなかで、社会にすくうモンスターと対峙する。たとえモンスターの裏切りがはっきりしてから、退治しても、共同体は取り返しのつかないほど破壊されている。いや、そもそもモンスター退治など脳内劇場のなかでの、むなしい空想であって、退治など誰にもできやなしない。悪をはびこらせた人間の無力さを思い知らされるために、主人公は、永遠にこの煉獄に閉じ込められるのである。リアリズムが、かつて縁を切った寓意と、ふたたびまみえているのである。

posted by ohashi at 13:58| 映画 | 更新情報をチェックする