2019年08月26日

『ブラッケン・ムーア』

岡田将生ファンの私としては、彼の舞台は、可能なかぎりみることにしているのだが、同時に、チケットを獲得する手間が煩わしくて、知人に頼みっきりという無精な性格を丸出しなのだが、そのぶん、あまりいい席が取れない。今回も悪い席がひとつあるが、いいかと言われてよいと返事をした。

当日、シアター・クリエの座席表で自分の席を探したが、ない。ほんとうにない。~番扉から入れとチケットに書いてあるのだが、その~番扉も、座席表にはない。受付では、係りの者が案内するから待つようにと言われていたので、そばにいた係りの女性にチケットを見せた。すると連絡をとってくれたみたいで、すぐに若い男性が現れ、こちらへと席に案内してくれた。ボックス席だった。私一人のために係員が席まで案内するというのは、悪い席というよりもよい席ではないかと思ったのだが、ボックス席なので、少し値段が高いことがわかった(やっぱり悪い席か)。また客席からみて舞台の左側は、身をのり出さないと見えないのだが、危険なので身を乗り出すことのないようにとくぎをさされた。だから、舞台で観えない部分がある。良い席なのか、悪い席なのかわからない。もうひとつ帰りにはボックス席の観客のために特別なドアを開けてくれた。そこを登ると、誰よりも早く劇場の出口にたどり着いた。混雑する前に、真っ先に劇場を後にできたので、よい席なのかもしれない。

岡田将生その人と、いいのか悪いのかわからない席に気をとられて肝心の舞台作品については、そもそも作品そのものに期待していなかったので、どんな作品なのかもまったく関知せずに劇場に出かけた私としては、作品について知って思わず驚いた。

アレクシ・ケイ・キャンベルの作品だった。とすれば文学座で広田敦郎翻訳、上村聡史演出で『信ずる機械』とか『弁明』を文学座でみた作家ではなかったのか(残念ながら『プライド』はみていない)。それを座席についてから、初めて知るというのも、恥ずかしい話だが、逆に、アレクシ・ケイ・キャンベルの作品だとわかっていたら、もっと早くチケットを手配していたのかもしれない。キャンベルの作品をシアター・クリエで見ることができるというのは、ある意味驚きであり、また感慨深い。たしかにシアター・クリエはちゃらいミュージカルだけを上演しているのではなくて(シェイクスピアの『恋の骨折り損』のミュージカルを今度上演するそうだが、年金生活者の私には高い金を払って見に行く余裕も意欲もない、ちゃらそうなので)、通常の演劇作品も上演している。

ミュージカル以外にも、シェイクスピアの『お気に召すまま』や『死と乙女』をシアター・クリエで観たことがある。ただ文学座のアトリエなどで観ていたキャンベル作品が、まさかシアター・クリエで岡田主演でみることができるとは夢にも思っていなかった。

しかもはじまってみると『ブラッケン・ムーア』は、これまでみた『信ずる機械』とか『弁明』とも違う、時代物である。いったい何が始まるのか、あるいは大した事件もないまま淡々と続いていくのかと思ったら、幽霊話になった。英国ゴシック風演劇とでもいえるものとなって、幽霊が本物なのか、トリックなのか、わからなくなっていき、後半の謎解きに期待した。謎は確かに解明された。ネタバレになるので書かない(プリーストリーの『夜の訪問者』と似ているという話があったが、資本家や資本主義批判、幽霊かもしれないということもふくめれば、『夜の訪問者』に似ているというか、そういう作品の雰囲気を意図的に狙っているのだろう)。

ただ理論的にはネタばれになるかもしれないことを書く。劇場で作品を楽しむときのさまたげにはならないだろう。

同一化の欲望(To beの欲望)と所有の欲望(To haveの欲望)でジェンダーと欲望の関係を考えると、たとえば私が男性だとして、私が他の男性に対して同一化の欲望をいだくとき、私は同性愛者ではない。むしろ異性愛者であって、私は他の男性と同じように、女性のパートナーをつくろうと思う。もし私が他の男性に対して所有の欲望をいだくとすれば、つまり男性である私が、他の男性をパートナーにしようとすれば、私は同性愛者ということになる。

しかし、こういうことも考えられる。例外的なケースとは思うが、男性である私の周囲には男性同性愛者がいっぱいいるとする(おっさんずラブの世界というよりも、同性だけの集団(学校とか軍隊とか)ならなんでもよい)。そうすると私もほかの男性と同じように、男性のパートナーをつくろうとする。この場合、私は同性である男性に対して、同一化の欲望をいだきつつ、一部の男性に対しては所有の欲望をいだくことになる。

ただ、いずれの場合も、また単一のジェンダー集団の場合も、私が同一化したい欲望をもつ男性と、私が所有したい欲望をもつ男性とは、明確にわけられる。同一化の欲望と、所有の欲望とは混同してはならないし、混同できないというのが、原則である。

だが同一化の欲望に愛はないのか。たとえば、ある物でも人物でもいいが、ある物Xが、ある人物の所有となっているとき、私も、そのX(そのものではなくても、同類の物でもいのだが)を欲しいと思うとしたら、それはたんに模倣(機械的自動的同一化の欲望)、あるいは猿まねによって、自分もそれが欲しいと思う場合もあるが、私が、その人を敬愛していたり、ライバル視していたら(敬愛の変形)、私は、Xを心から欲望することになるだろう。私の欲望は、同一化によって刺激されるのだが、しかし、機械的な模倣の欲望ではなく、愛が関わっている。もし私が軽蔑する誰かが、Yという理由で表彰されたとしたら、私は。そのような表彰を軽蔑するだろうし、よもや私も同じようなかたちで表彰されたいとは思わないだろう。もし誰からも人気のある女性が、私の軽蔑する男性の妻だった場合、私は、その女性を軽蔑するだろう。私の欲望を刺激する同一化の欲望は、自分にとって好ましい者あるいは理想像との同一化であって、同一化には愛がある。

また同一化には、もちろん想像力が必要となる。想像力なくして同一化はない。となると想像力がなく、同一化する対象のない人間は、永遠に呪われた孤独の地獄に生きるほかはない。もし、この孤独の地獄からの抜け道があるとしたら、自分が失ったものを取り返すことであろう。抑圧されたものが回帰する限り、その恐怖と向き合う限り、救いはまだあるのである。幽霊物語は、それでもまだ救済物語なのである。

シアター・クリエでの公演は、岡田将生もふくめて、いかにも、それにふさわしい俳優によって演じられていて、まるて原作者が今回の俳優を念頭にあてがきしたかのようである。そのぶん、適切な配役の迫力のある芝居となったのだが、同じ一つの居間だけで、また言葉、言葉、言葉によって、過去を回顧し、未来を予測し、文明を批評し、そのオールタナティヴを語りながら、1930年代のイングランドの社会と文化を暗示させる劇作術は見事。まあ、文学座のアトリエで上演してもよかったような芝居ではあるが、岡田将生主演でシアター・クリエの、しかも私の場合、ボックス席でみることができたのは、よかった。

とはいえ不満がないわけではない。メイド役の前田亜季。彼女が出演しているのだから、なにか重要な役ではないか。あるいは事件とか死に関与しなくとも、家政婦は見たのような、そんな役割なのか。とりわけ劇の後半で、彼女の重要性が開示されるかと期待したが、結局、メイドで終わってしまった。立川三貴の脇役の二役といい、前田亜季のほんとうにただの脇役といい、ちょっと納得できない配役だった。とりわけ、岡田のファンであると同時に前田亜季のファンでもある私には。


posted by ohashi at 21:01| 演劇 | 更新情報をチェックする

2019年08月25日

『ロケットマン』

『ボヘミアン・ラプソディ』を製作したチームによる、ゲイアーティスト伝記映画の第二弾である。

『ボヘミアン・ラプソディ』と作り方はよく似ている。まず前作と同様、主人公に若手俳優を起用しているが、どちらも本物に似ていない。ただ、それは戦略的な使用かもしれず、映画をみていると、映画の偽物の主人公のほうが、本物よりも本物ならしくみえてきて、『ボヘミアン・ラプソディ』では、エンドクレジットにでるフレディ・マーキュリーは、こんな顔をしていたのかと驚くことになる(フレディ・マーキュリーのことを知っている観客がである)。同じく『ロケットマン』でも、エンドクレジットに出てくるエルトン・ジョンの写真は私には衝撃的で、誰の写真か、すぐにはわからなかった。この爺さんは、いったい誰かと本当にいぶかった。もちろんエルトン・ジョン本人だとわかると、思わず、これはなにかの人違いだと思わずにはいられなかった。映画の終わるころには、本人と偽物との距離が修復あるいは縮小できなくなるほど広がっていたといってよい。

ただ前作との違いも、たんに対象としてアーチストが違うというだけでなく、描き方もちがっていて、施設に入ったエルトン・ジョンが、自分の過去を振り返るという内面的な作り方をしているので(フラッシュバックは、『ボヘミアン・ラプソディ』にはなかったような気もする――あったらごめんなさい)、私たちが画面にみていたエルトン・ジョンは、その数多のコスプレのなかで、内的に息づいていた魂の姿ということになる。実際、この映画は、少年時代のエルトン・ジョンを繰り返し強調する。少年エルトン・ジョンは何度も登場する。仮面と素面との対照はテーマのひとつになってい、本物のエルトン・ジョンが仮面としか思えないくらいになっているとでもいえようか。

物語の流れからすると、これは実際にそうであったのか、ゲイ物語の定番というべきなのかわからなくなるのだが、中盤、これまでの仲間を切りすて、そのかわりに割り込んできた恋人でもあるが同時に悪徳マネージャーでもある男にずっと騙され続けるという展開になる。成功しても満たされぬ愛。そしてマネージャーに裏切られても縁を切ることもできず、心身ともにむしばまれていく主人公。両作品のみならず、ゲイ・レズビアン的物語の典型ともいえるこうしたゲイ・メランコリーの横溢した展開は、いっぽうで苦しく痛々しいとともに、当人も、あるいは観客もそこに、マゾヒスティックな喜びを感じているのかもしれない。そもそもメランコリーの克服、そこからの脱却よりも、メランコリーに呪縛されている状態こそが映画の醍醐味ともいえるのである。

このところ映画史とともに少女物は存在していたと私は強調しているが、こうした中盤のメランコリーもまた映画史とともに、あるいは映画の根幹となっていることをここに強調していおきたい。ゲイ物語に特徴のメランコリーは、メランコリーを描くことを使命とするような映画史と、きわめて相性がいいのである。

どちらの作品も、ふたりのアーティストにおける、ある意味幸福な晩年を迎える前の、あるいはその契機となる人生の危機を描いている。成功する話は、けっこうあっさりしている。成功しても堕落していく話が中盤というか全体のメインとなる。悪徳マネージャーに騙されて正しい道を見失っていくこと。やがて昔の仲間とも再会し、破滅の淵からもどり復活すること。この点は、どちらの映画も同じである。

エルトン・ジョンの場合、薬物依存症あるいはアルコール依存症をなおするための施設におけるセラピーのなかで、自己の人生を振り返る--愛のない家族生活にはじまりアメリカでの成功から億万長者のロックスターになっても満たされぬ愛情生活と、その埋め合わせとなる薬物やアルコールによって身をもちくずすまで。

ただ復活の仕方が『ボヘミアン・ラプソディ』とは異なっている。フレディー・マーキュリーの場合、昔の仲間と縁を切り、悪徳マネージャーの言いなりになって不本意な活動を続けるのだが、マネージャーの裏切り、そしてライブ・エイド出演が契機となって、復活をとげる(昔の仲間とも再会し、クィーンが再結成される)。ただしエルトン・ジョンの場合、克服できる依存症だったのだが、フレディー・マーキュリーの場合はエイズに犯されていて病の克服はなかった。ただ、そのぶんライブ・エイドの20分間の渾身のパフォーマンスは、フレディー・マーキュリーの音楽活動の集大成であり、そしてまた未来への勇気づけであり、恵まれぬ人たちへの応援歌であり、そしてみずからの遺言でもあるという、その重さによって、あるいは深さによって、深い感動をあたえるものとなっていた。

残念ながらエルトン・ジョンの場合には、セラピー完了からの復活には、そのような劇的な展開はなかった。復活してからの最初のミュージック・ビデオを、当時のミュージック・ビデオの再現なのだが、それを映し出して映画は終わる。セラピー前と後で、エルトン・ジョンのパフォーマンスに変化があったとは思えないというか、変化はないのである。しかも当時のMVの再現だから、見ていて古さしか目立たない。歴史的な古さという点では興味深いが、現代におけるMVのレヴェルではないし、全体に軽いのである。復活第一号は、復活前とさほどかわらない。軽い、古い、そして面白みがない。面白みがないところが面白いのだとしても。しかも不治の病に侵されているのではないので、悲壮さはない。いまなお存命するエルトン・ジョンの幸福な隠居生活を言祝ぐだけとなってしまう。フレディ―・マーキュリーの悲惨と栄光、悲壮と悲劇は、微塵もないのである。

ただ、まさにそうしたかたちでフレディー・マーキュリーとエルトン・ジョンの差を出そうとしたのわかる。その違いは前者がシリアスなアーティストの伝記映画であり、そこに同性愛者をとりまく栄光と悲惨、どちらかというと悲劇性が感知できるのに対し、後者は、ポストモダン的クィアなアーティストの悲壮ではなく皮相的な祝祭的パフォーマンス、芸術家というよりも芸人としてパフォーマンスをめぐる伝記映画なのである。モダンとポストモダンとの差異とでもいえようか。

フレディ・マーキュリーは裸になるが、そこには、まさに虚飾を剥ぎ取り、裸の自分をだす、どこまでもシリアスな神聖儀礼のイメージがあるとすれば、エルトン・ジョンは、裸になるよりも、ごてごてと着飾ることをめざす。本来の自分は、映画ではふんだんにみせているのだが、絶対にパフォーマンスの場ではみせない。クィーンというのは、同性愛者であることを積極的にカミングアウトするようなバンド名でもあるが(実際、最初の意図はどうであれ、結果的にそうなった)、エルトン・ジョンの場合、女王は、過激なコスプレの対象である。彼は女王の衣裳で着飾るる(女王と言っても、シェイクしスピアの時代のエリザベス一世の衣裳である)。フレディー・マーキュリーが芸術家でシリアスで虚飾をはいだむき出しの生をパフォーマンスへと昇華させたとすれば、エルトン・ジョンは、芸術家と言うよりも芸人、表層的で皮相的でどこまでも軽く、とことん悪趣味で、素顔すら定かでない化粧と着飾りの虚飾性をパフォーマンスに昇華させたといえよう。フレディー・マーキュリーが成熟するアーティストだとすれば、エルトン・ジョンは、年齢を重ねても、ただのクソガキ・アーティストである。図式化をすすめれば、フレディ―・マーキューリーは、モダンであるとすれば、エルトン・ジョンはポストモダンなのである。

追記

最近、BSで『刑事ルーサー』を、はじめて、しかもぼんやりと、ほかのことをしながら見ることがあった。イドリス・アルバは、『パシフィック・リム』からのおなじみで、最近ではテレビ・ドラマや映画でますます存在感を強めている(この刑事ドラマもその一例だろう)。またこのドラマでは、みんなヒステリックに感情を爆発させて暴れるというか物にあたるのだが、この演出はなんとかしてほしいと思いつつ、最後のエンドクレジットで、イドリスの上司の女性警視がサスキア・リーヴスとわかって驚いた。まったくわからなかった。彼女は私がストラットフォード・アポン・エイヴォンにいた頃、ロイヤル・シェイクスピア劇団では中心的メンバーでは、私は『あわれ彼女は娼婦』のアナベラ役の彼女を舞台でみたし、トマス・ヘイウッドの『やさしさで殺された女』(16世紀・17世紀の英国演劇の専門家しか知らない作品だが、専門家にこれを舞台で観たというと、けっこううらやましがられるのだが)で主役も彼女だった。だからサスキア・リーヴィスはよく知っていると思っていたが、まあ彼女も老けたのだとわかった。ということは私も年をとったということで、人のことをとやかく言っている場合ではないのだが。

 こちらも変貌していたのだが、すぐに気付いたのは、『ロケットマン』のブライス・ダラスハワード――エルトン・ジョンの母親役――だった。マシュー・マコノヒー主演の『  』では、はりきれんばかりの肉体をしていたのだが、今回は、はちきれている。ちょっと脂肪がつきすぎでは。実際のエルトン・ジョンの母親に似せたのか、悪役として、威圧的な肥満になったのか、ただの肥満なのか、まあ、これが現実の女性に面と向かっての発言なら、失礼を通り越した問題発言、差別発言になるのだが、この肥満については、驚き、また心配にもなった。ケネス・ブラナー監督の『お気に召すまま』で、ロザリンドを演じていた頃の面影はないことが、心配である。どうでもいいこと、余計なお世話だとしても。

posted by ohashi at 23:05| 映画 | 更新情報をチェックする

『おっさんずラブ』

映画『トム・オブ・フィンランド』について、新聞かなにかの映画評に、トムの描くゲイ絵画ではみんな笑顔で淫靡さ暗さが微塵もないと書いてあって、それは確かにそうだが、だからといって、そこにゲイの世界の暗さや悲劇がないかのように映画の内容を語るのは、どうかと思った。

アメコミ風のポルノ・イラスト(ポルノだから価値が低いということはない)では、ゲイだろうがストレートだろうが、たとえレイプされても、驚くか笑っているかのどちらかで、そこでは、誰もがにこやかに笑っている。これに対してレイプされる対象が恐怖し苦痛に顔をゆがめているのは、ジャンルとしては、ポルノではなくて、もっと犯罪的・変態的ジャンルである。また明るい性の謳歌が表紙になっていても、同性愛世界の内実は悲劇的かつメランコリックであって、決して溢れ出る歓喜が隅々にまで浸透している世界ではない。事実、映画『トム・オブ・フィンランド』の世界には、戦争と病、そして無理解と偏見差別、時には暴力的迫害があふれている。同性愛映画の世界にダークサイドは消えることはない――たとえそのダークサイドゆえに、性と愛の喜びがかけがえのないものになるとしても。

むしろ明るいゲイの世界、翳りのないゲイの世界について語るのなら、この『おっさんずラブ』まで待つべきであった。ここには悩みや苦悩はあっても、苦難はない。命の危機にさらされる場面もあるのだが、最終的には誰も死ぬことはない。あるいは誰も死なないことはわかっている。失くした靴はもどってくるし、捨てた指輪もすぐにみつかる。なくしたキーホルダー(天空不動産のキーホルダー)まで、最後にもどってくる。別離も失恋も離婚もあるかもしれないが、再婚、再会、よりがもどる、新しい恋がはじまるなどして、決定的な喪失はない(家族を亡くしている人物がいるが、これは唯一の例外あるいは脚本のミスのように思えてくる)。

これほど、ゲイ的悲劇の世界から遠い世界はない。ゲイ的なものが、差別とか蔑視の対象となるだけでなく、性的嗜好と性的選択の一選択肢として、もう市民権を得ているユートイピアあるいはパラレルワールドに近い。それはそれでいいし、そこでのラブコメは、たしかにみていて面白い。こんなに笑える映画は、そうざらないはないだろう。思い出しても笑えてくる場面はいくつもある。

そして、そこに特異性もある。同性愛者は全人口の1割といわれている。マイノリティーである。マイノリティーだからといって、差別していいとか無視していいということはなく、むしろその逆であり、マイノリティーの権利を守ることこそ、成熟した社会の証しだろう。また同性愛者は1割だとしても、同性愛的なものに共感をいだいたり、関心を寄せている人びと、あるいは意識せずに同性愛的欲望を生きている人たちの数は、おそらく半分以上、あるいは大多数であるかもしれない。同性愛者が差別や偏見や無理解にさらされることなく生きることのできるユートピアは実現がむつかしいかもしれないが、私たちが、カミングアウトするしないにかかわらず、自覚的か否かにかかわらず、全員同性愛者だということもありうる。もしそうであるのなら、同性愛は特殊な事象ではなく、普遍的な事象、あるいは多数派を支える基盤なのかもしれない。

この映画は、ゲイと呼ばれる人たちの特殊な生き方をとりあげ、そこにゲイではない人たちが遭遇する喜びや悲しみと同じものがあることを示すことで、ゲイと呼ばれる特殊な人たちは、モンスターではなく、私たち一般人と同じ人間なのだと訴えるような映画(もちろん、そういう映画があっていいし、これからもそうした映画は造られるべきだが)ではない。

むしろ現代の日本の(と特殊化されるべきかどうかはわからないが)サラリーマン社会における男性社員の人間関係を、たとえば会社への忠誠心、上司と部下の緊密な信頼関係、仲間・同胞との友愛や連帯、先輩後輩の上下関係に生まれる兄弟関係、競争心や嫉妬や羨望の念や愛しみや癒しの感情、とりわけそうした情動的な側面を、男性同性愛をパラダイムとし、その現実的様態をラブコメとして表象したといえるのではないか。

だから、特殊な社会の出来事を真正面からみているというよりも、私たちの日常世界の出来事を特殊な角度からみているということがいえるかもしれない。そこにあるのは、誰もが知っている、よくある世界なのである。ありきたりな日常的世界が飽きさせないのは、それを特殊な角度からみているからである。

たとえば、家族愛と恋愛とは違うということは言える。しかしフロイトは、あえて、そのふたつを同一視し、家族愛を恋愛三角関係で語ることで、家族愛に潜む隠れた次元をあばくことになった。たとえばエディプス・コンプレックスというのは、一人の女性(母親・妻)の愛をめぐって二人の男(父親と息子)が争う関係だった。家族愛を恋愛関係でみることによって、見えてきたものは多い。それと同じで、この映画では、まだまだ男性中心の男社会であるサラリーマン社会の人間関係を同性愛という観点から見たのであり、登場人物はみんな同性愛的欲望なり感情をもっているのだが、それが自然であるのは、彼らが通常のサラリーマン世界に生きる普遍的な男性であるからである。

同性愛者であるということは、うらやましがられたり羨望の念でみられたりすることがあるかもしれないが、同時に、さげすまれたり、変態扱いされることもある(全世界的にみると日本は伝統的に同性愛者の天国だが、現実の日本では同性愛者はヘイトの対象となっている)。この映画のなかで登場人物たちが同性愛者であるタグをつけられても、まったく傷つかないようにみえるのは、彼らが、現代日本の通常のサラリーマンだからである。しかも、このサラリーマン社会の伝統的・保守的部分は、女性を排除している。つまり男性ホモソーシャル社会である。ホモソーシャルとホモセクシュアルは排除しあうのがふつうだが、同時に、ホモソーシャルとホモセクシュアルは絨毯の裏表であるともいえる。

そしてこのようなホモソーシャル関係にまぎれたホモセクシュアル関係がまかりとおっているかぎり、女性排除はなくならない。この映画にあるのは、新しいユートピア的日本ではなく、古い日本の男性中心社会である。「おっさんずラブ」というタイトルは、この映画における人間関係をみるかぎりでは、内容に即していない。

もともとはテレビドラマ版における吉田鋼太郎に言い寄られる田中圭との関係を指して「おっさんずラブ」だったのだが、映画では、田中圭と林遣都とのカップルができているので、この二人を指して「おっさんずラブ」とは言えないだろう。

しかし、ここでの男性同性愛関係は、古くからある男性どうしの、女性を排除したつきあいの、矛盾した言い方をすれば、明るい陰画なのである。その意味で、日本のサラリーマン社会の男性の情動的友愛関係は、「おっさんずラブ」なのである。


追記

『おっさんずラブ』について、映画を見た余韻のさめやらぬまま、急いで書いたので、考察が不十分なところがあった。要は「異化」ということを言わんとしたのだと、あとで気づいた。

たとえばこの映画の世界は、現代のサラリーマンの世界を、同性愛者のコミュニティーとして異化したといえば、私の主張は尽きる。たとえば現代の社会のさまざまな政治的主張や立場の違い、政治的闘争を、家畜として飼われている動物たち、牛や馬や豚や鶏の世界として描くことは、現代の政治社会を異化することになる。童話とか諷刺の手法といえば、わかっていただけるだろうか。ただ、複雑な人間社会を家畜動物の世界とか小人や巨人たちの国に置き換え、異化することは、矮小化であったり単純化であって、批判的諷刺的要素が強いものだが、諷刺的要素が希薄な場合もある。

私がすでに例として挙げたのは家族関係を恋愛関係として記述したフロイトの例だった。これは家族愛を恋愛として異化したということになるが、それによって家族愛は批判されたのか、矮小化されたのか。そうではなくて、家族愛に潜む、性的な欲望とか葛藤や嫉妬や倒錯的欲望を明るみにだしたといってよい。あるいはフロイトの幼児性愛について考えてもよい。フロイトは、幼児を、未完成の大人ではなくて、完成された変態と考えた、つまり異化した。大人になることは、この変態が正常な性愛を営むことができるように矯正する過程であった。こうなると、単純化したというよりも複雑化したのである。

こう考えれば『おっさんずラブ』の世界は、現代のサラリーマン社会の人間関係を、ゲイ関係として異化することによって、笑ったわけでも、矮小化したわけでも、批判したわけでもなく、複雑にしたとも、あるいは見えない部分を明るみに出した、つまり鮮明にしたともいえるのである。ただ、そのぶん、同性愛的なものが対象としてではなく、対象を測定する規範なりパラダイムとして使われているのであって、いっぽうで同性愛に市民権を獲得させるとともに、同性愛を引き立て役にしただけということもいえて、そこに複雑な思いを抱かざるを得なかったということになる。追記 2019827




posted by ohashi at 15:29| 映画 | 更新情報をチェックする

2019年08月24日

あおり運転殴打事件 1

このところ「あおり運転殴打事件」が、とりわけテレビのワイドショーなどで連日取り上げられ、世間をにぎわしている。タブーが多すぎて、ろくな取材もできない、あるいは政府を批判するような内容の番組を報道しようものなら、「ハード・パワー」が襲いかかる昨今、テレビのワイドショーでは、このドライブレコーダーに録画済みの映像による「あおり運転殴打事件」は視聴率がとれる内容となって、実質的に韓国と戦争状態に入っている日本の安倍政権の犯罪行為を糊塗するものという批判もある。そもそも「あおり運転殴打事件」は、全国指名手配になるような重大犯罪ではないからである。

しかし同時に興味深い犯罪であって、これを契機にいろいろ考えることがあった。テレビのワイドショーの低劣化(私はこれをワイドショーの「宮根屋化」と呼んでいるのだ)にのっかるつもりはないが、そこから得られた情報は、現代の日本について考えるいろいろなヒントが含まれていた。

そもそも最初のドライブレコーダーの映像(もう連日流されて見飽きたのだが)について、茨城県警の対応が遅いという批判もあった。詳しい事情はわからないし、そもそも自動車にかかわる案件は日本(おそらく全世界的にみて)でゆるいために、犯罪として成立させるというよりも、うやむやにしておこくという意志が県警側になかったとは言えないのだが、この最初の映像だけをみると、どっちがあおり運転をしたのか、わからないところがある。

ただ、その後、同じSUVがほかの場所でもあおり運転をしてた映像が発見されるにおよんで、宮崎があおり運転をしていたということになって、宮崎=最初の被害者という可能性は消えたのだが、しかし、これは私の初期段階におけるただの妄想ではない。

つまり最終的に殴られた被害者の男性が運転する車のほうが、最初、SUVをあおっていた。ところがあおられたSUVの運転手も強気で、高速で、あおった車を止めて文句を付けにきた。しかし、勢いあまって運転手を殴ってしまった。もしこうなると、殴ったこと自体は犯罪で弁護の余地はないとしても、SUVの宮崎のほうが、実は最初の被害者ではないかという可能性もでてくる。

最初、映像はテレビ朝日に持ち込まれたものだそうだが、他のテレビ局で、殴られた被害者の男性に取材していて、そこでは、この被害者男性も、けっこう強気の、発言をしていた。もっとも、被害者男性も、ただ殴られるだけのいくじなしと思われてもいやなので、強気の姿勢を強調したか、捏造したかとも思えるのだが、誰もが不思議に思うのは、SUVから強面の男が出てくるので、ふつうは車のドアの窓ガラスを閉めて対応するのだが、被害者男性は窓ガラスを降ろしたまま話をつけている。かなり強気で、喧嘩にも自信があるのかもしれない。被害者男性も、けっこう強面だった可能性もある。

実際はちがっていたが、ありうる事件経過として、最初、この被害者男性がSUVをあおっていた。あおられたSUVは、文句をいうために、あおった車を高速道路上に停車させて、運転手を謝らせようとした。運転手のほうも、強面の男が出てきたので、驚き、ドアガラスを閉めるまもなく、あるいは喧嘩覚悟でドアガラスを降ろしたまま対応した。やりとりのなかで、車が動いてと止まっているSUVにぶつかった。怒った宮崎(SUVの運転手)は、車のドア越し手に相手を殴った。と、まあ、最初、警察が、この可能性も視野に入れていたとすれば、簡単に、あおり運転として立件できなかったかもしれない。

また喜本容疑者のガラケーでの撮影も問題になった。つまりあおった側のSUVがあおられた運転手をさらにいじめてやろうとして、同乗の女性に、その犯行・いじめの現場を写真か動画に撮らせたというのは、ふつうは考えにくい。むしろ自分たちをあおってきたけしからん車と運転手の記録を残しておくために、車と運転手、そして宮崎とのやりとりを記録したともとれる。そのほうが理にかなっている。

ただ、その後、いろいろな事実なり動画が出てきて、宮崎のほうが、あおったことはまちがいないとわかったのだが、そうであるなら、喜本容疑者は、なぜ動画か写真を撮影したのだろうか。自分たちをあおってきた運転手の姿を記録しておくためのものでないとなれば、脅しだろうか。警察に訴えてもいいが、こちらも、お前たちの姿を記録しておくので、なにかあれば報復するぞという脅しなのだろうか。

こうなってくると頭のおかしい連中のすることは、予測も想像もできないということになるのだが、ただ、当人たちの頭のなかでは、ここで考えたような最初の妄想、おそらくそれゆえにひょっとしたら警察も迷ったかもしれない妄想があったのではないか。最初のきっかけは、たとえばクラクションを鳴らしたとかいうささいなことかもしれない。あるいはなんのきっかけもなかったかもしれないが、SUVの宮崎は、自分があおられたと感じ、そのけしからぬあおり運転手に鉄槌を下してやるつもりで、相手を停車させ、文句を言いに降りた(宮崎と喜本の、三重県のうどん店での行動は、熱すぎるお茶を出した店と店主に半生をうながすべく閉店時間をすぎても延々と説教するものであったらしい。迷惑な話だが、自分が不正なり迷惑を行為を正すという教師としててふるまっていることはまちがない)。

また同乗の喜本容疑者も、けしからぬあおり運転手の顔と車種を記録すべく、そして、そうした不埒なあおり運転手に鉄槌を下す、宮崎の頼もしい、たくましい姿を、武勇伝としておさめるべく動画か写真を撮影したのではないだろうか。

宮崎容疑者は、相手を殴ったのは、やりすぎたと反省しているようだが、不埒なあおり運転手に厳重注意するという妄想からは脱却していない。反省などしていないのである。

ここから少し飛躍すると、

最初の教訓:人の上に立ちたい、権力者となって人を服従させたいと思うのは、人間誰もがいだいている悪しき欲望かもしれない。ただ年齢を重ねるとか、一定の高い地位につくとか、敬愛されたり尊敬されたりする実績とか実力とか美徳をもつことによって、他人を屈服させる権力を保持したいという欲望は緩和されることになるだろう。しかし社会的に認められていない、あるいは軽蔑されたりしている、自己評価に合致しない低い地位に甘んじている場合、人を屈服させたり服従させることはできない。そんなときどうするか。権力欲の強い人間は、みずからが不道徳な人間であるにもかかわらず、道徳に訴え、悪を懲らしめる、不正をただす、正義を履行するというかたちで、みずからの権力欲を満たすことになる。彼らにとって、教師とか警察官というのは、理想像なのである。思う存分、合法的に、他人を屈服させることができる。むしろ彼らのほうこそ、教師による指導、警察官による逮捕がふさわしい。教師による矯正の対象、警察による監視と処罰の対象たる彼らが、みずからを教師として警察としてふるまうのである。警察官になった犯罪者ほど怖いものはない。道徳重視は、結局のところ、ファシストの欲望のはけ口なのである【フロイトならイドが昇華によって超自我になったということだろう】。つづく


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2019年08月22日

『夏の夜の夢』

劇団ひまわりのシェイクスピアの『夏の夜の夢』を見ることができた。劇団ひまわりの本部にある代官山のシアターである。実は、大学の卒業生が、劇団ひまわりで仕事をしていて、その関係から招待されたのだが、実は招待されなかったら気づかなかった公演である。そして、見てよかった公演であって、最初は、子供向けにアレンジしたミュージカル版かと思っていたら、予想に全く反して、本格的な、誰がみても、まぎれもないシェイクスピア劇であって、子度向けのミュージカルでは決しなかった。東京劇術劇場の珍奇な『お気に召すまま』などよりも、こちらのほうを私は自信をもってシェイクスピア劇として推薦したい。

823日月曜日には下北沢の本多劇場で観劇したのだが、そのとき劇場のロビーに、劇団ひまわりの『夏の夜の夢』のチラシがあって、これかと、手に取って、裏返したら、そこに出演者の多さに驚いた。多くの児童劇団員が、おそらく妖精として歌い踊る、楽しいミュージカルかと、そう思っていた。実はそのとき、妖精役もふくめ、出演者の顔写真をひとりひとり検討すれば、考え方がかわったのかもしれないのだが、ただ、児童劇団のシェイクスピア劇をアレンジした子供向けミュージカルという先入観をもって見に行った。実際、観客には小さなお子さんをつれた母親が多かった。それも当然だと、舞台を見る前に思っていた。

ところがはじまって驚いた。小さな劇場で、舞台にはあふれんばかりに人がいる。そして彼らが客席に降りてきて、歌をうたい踊ると、もう劇場全体がアテネの郊外の妖精の森に一挙に変容をとげた。また妖精たちは子供の劇団員ばかりかと思っていたが、むしろ子供はすくなくて、大人、さらに年齢層に幅がある男女によって構成されていた。まさにギリシア古典劇におけるような歌い踊るコロスとして存在し、彼らが黒い装束で、舞台から劇場全体にあふれるさまは圧巻で、かなり興奮した(なお、このコロスを演じているのは、劇団ひまわりというよりも系列の砂岡事務所に所属する俳優が出演しているのだろうが)。

しかも劇がはじまると、もう本格的な、そしてまぎれもない『夏の夜の夢』で、子供向けのミュージカルへのアレンジという勝手な予想は、この時点で消し飛んだ。舞台に展開するのは、本格的なシェイクスピア劇だし、これなら、私は都合によって、聞くことができなかったのだが、演出の栗田芳宏氏と翻訳の松岡和子氏とのトーク・ショーがあってもまったくおかしくない。誰も文句がつけられない、いや誰をも感動させるシェイクスピア上演だった。

正直いって、本多劇場のロビーにあったチラシ、あるいは当日渡されたチラシをしっかりみていれば、そこにオベロン役で出演し、演出も担当している栗田芳宏(りゅーとぴあ、劇団AUN)の名前がそこにあることを発見していれば、これが本格的なシェイクスピア劇だとわかったはずだが、児童劇団という自分の偏見が強すぎて、なにもみえていなかった。

ちなみにミュージカルの歌の部分は、独自につくられた曲もあるが、そのほとんどが、シェイクスピアの台詞に曲をつけたものなので、シェイクスピアの台詞のパワーあるいは魅力は全く失われていないし、歌がじゃまになったり、原作からの逸脱となることがまったくないのも見事だった。

舞台が妖精の森になると、舞台に黒装束の妖精たちがあふれる(演出意図としては妖精たちはコウモリに乗って夜の森を飛び回るという台詞から、黒装束でコウモリをあらわしたものという)。しかも妖精たちは、アテネの恋人達たちが森をさまよっているときも、舞台にあふれてている。彼らは、うっそうとした夜の森の黒々とした木々や草叢にもみえ、また同時にこの森に溢れて人間の愚行を観察している、そして人間には見えない妖精たちのありようを暗示しているのであり、これだけでも見る価値がある。

そう、芝居の部分は、松岡和子氏の台詞をそのまま使っているので、翻訳は、素晴らしいが、子供向けではない。正直いって、母親と一緒に来ている児童たちには、この作品の芝居の部分は、むつかしすぎるという気がする。しかし、たとえむつかしくてよくわからなくても、黒装束の劇団員たちの存在によって見事に構築された妖精たちのあふれる夜の森の夢幻的な雰囲気には深い感銘をうけるにちがいなく、大人になっても記憶に残る舞台だろうと思う。子供向けのミュージカルではないこの舞台は、それでも子供たちの感性にも大きな影響をあたえることと思う。

もちろん台詞の多くを省略していると思うのだが、しかし、どこを省略したのかすぐにわからないような巧みな省略であって、観客の前に展開するのは、まぎれもなくシェイクスピア劇なのである。

もし私が大学で、シェイクスピアの『夏の夜の夢』を教室で読んでいたり、講じていたらもちろんのこと、シェイクスピアの他の作品あるいはシェイクスピアの喜劇などを講じていても、まちがいなく、この上演をみるようにと勧めるだろう。シェイクスピア劇の魅力を、その台詞や基本的構成から、そして優れた創造的な演出と演技から確実に受け取ることができるからである。残念ながら、いまはもうどこでも教えていないので、私自身、直接的なかたちで上演の宣伝はできないのだが、児童劇団の子供向けの上演という偏見が消えて、質の高い演劇公演として、おそらくすでに認知されていると思うのだが、さらにもっと広く認知されることを願ってやまない。

あと、これは私の無知のなせるわざかもしれないが、『夏の夜の夢』は、妖精パック、別名ロビン・グッドフェローのエピローグで終わるのだが、また今回の公演では天才的子役が演じていて、それで幕となるはずが、そのあと、シェイクスピアの演劇を賛美する歌と踊りが入る。なにかそれは蛇足のように思われたのだが、こういう最後の歌と踊りを、これまで劇団では、上演の締めくくりとして必ず遂行してきたのか、あるいは、シェイクスピア劇の上演の場合、そうしてきたのか、松岡+栗田のコラボの第三回ということだが、過去二回にわたって、この歌が歌われたのか、さらには今回はじめての試みなのか、まったくわからないが、もし伝統的にこういう歌や踊りでしめくくるのが劇団のパフォーマンスの型だとしたら、とやかくいう筋合いではないのだが、もしそうでなかったら、この最後の盛り上げは、蛇足のような気がしたが、おそらく、私の無知が、そう思わせるにすぎないとしても。

posted by ohashi at 23:13| 演劇 | 更新情報をチェックする

2019年08月18日

『あなたの名前を呼べたなら』

『あなたの名前を呼べたなら』 Bunkamura30周年記念作品だが、こんな紹介がある。

決して交わるはずのない、ふたり。近くて遠いふたつの世界が交差した時──。

経済発展著しいインドのムンバイ。農村出身のメイド、ラトナの夢はファッションデザイナーだ。夫を亡くした彼女が住み込みで働くのは、建設会社の御曹司アシュヴィンの新婚家庭……のはずだったが、結婚直前に婚約者の浮気が発覚し破談に。広すぎる高級マンションで暮らす傷心のアシュヴィンを気遣いながら、ラトナは身の回りの世話をしていた。ある日、彼女がアシュヴィンにあるお願いをした事から、2人の距離が縮まっていく…。

この映画の最高のインパクトは最後に訪れる。最後に彼女は愛する人の名前を呼ぶ。最後の最後で、タイトルの意味がわかる。そういうことだったのか、と。そしてこれはまたこうしたかたちでリセットされたうえでの愛のはじまりでもある。地域格差を超え、階級差、あるいはカースト差をこえてはぐくまれる愛、そのはじまりで終わる映画。なるほどよくできたタイトルと感心したのだが、しかし、よく考えてみれば、これは日本で勝手につけたタイトルで、原題はSir、敬称につけるSirで、「ご主人様」(というのは大げさすぎるのだが)という意味になる。

もちろん、褒められるべきは、日本語のタイトルを考えた関係者の努力であって、「君の名前で僕を呼んで」の疑似的反復ながら、障害を乗り越えてはぐくまれる異性愛物語をみごとに要約するタイトルになった。劇の最後の最後で、しかもタイトルの意味がひびいてくるという、心憎い仕掛けでもある(名前を呼ぶことが重要な結末となるというのは、それこそ『君の名前で僕を呼んで』と同じであって、日本語タイトルは、そこに着目したのかもしれない)。

また映画そのものも淡々とした展開ながら、つまり同じような日常の繰り返しながら、高級マンションにすむ建築会社の経営者の御曹司と、田舎から都会(ムンバイ)で働くようになった若い未亡人のメイドの、人となりが、じわじわとわかってくるようになり、観客は、いつしかふたりの人間的魅力を発見するようになり、二人がひかれあえば、その恋を応援したくなる。ひそかに、そう二人も、観客も、心ひそかに、思いをはせるのである。

問題はカースト制度である。階級やカーストが二人の愛を阻むということがいわれているが、インドではカースト制度はずいぶん前に廃止されたはずである。もちろん法的に廃止されたからといって、文化のなかに因習として残るということはわかる。法的制限はなくなっても、見えない束縛あるいは檻が存在している。

ちなみにテレビでインド料理というかインドカレーを紹介していて、そのなかで講師は、日本のインド料理店でも手で食べてもいいと語っていた。ただ、この映画をみるかぎり、インドの富裕層は、手で料理を食べないだろう。よく覚えていないがメイドが出す料理も、手で食べることは前提とされていないようだ。いっぽうパーティで客人たちとは別に使用人たちはキッチンで床に食器をおいて手で食べている。テーブルくらいキッチンにないのかと驚くのだが(そう思うのはインドの富裕層か、日本人くらいで、あえて床に食器をおいえて片手で食べるのは伝統的な食事作法だろうとは想像がつく)、かたや伝統と因習による支配、かたや近代化と自由な社会生活、それらが複雑にからまりあい、伝統的でもなければ近代的でもない社会生活が出現している。この生活は、たとえば現代の日本の生活とそんなにかわりはない。

この映画のなかで金持ちの息子と、彼の世話をするメイドとの結婚について、周囲が反対するのだが、それは地域差(都会生活者と田舎者との対立)やカースト差(特権階層と賤民との対立)などで説明されるのだが、同時に、べつに伝統的カースト制度に縛られてはない日本においても、エリート層(上級国民)の息子と若い未亡人の家政婦との結婚は反対する人が多いだろう。カースト制度の呪縛とは関係なく、この二人の愛は、はぐくむのがなかなかむつかしいし、そこにどこの国の観客にも共感をひきだせる要素があるということはできる。問題は、どちらによせるかである。

つまり親が子供の結婚を決定することはなく、子供は自由に自分の意志でパートナーを選べる現代においても(おそらくそれはインドでも同じだろう)、またカーストの制度の呪縛はなくとも、見えない階級差やカースト制度がまだ残っている。柵や壁や鉄条網がみえなくとも、現代社会は透明な檻なのである。見えないカーストに縛れているとみることはできる。自由を謳歌している場合ではない。自由を阻むものが多すぎる現代社会に今一度目を凝らせといわれているようにも思われる。日本でも、被差別部落問題のほかにも、差別と階級差は、みえないかたちで存在していることに気づけということである。

また一方でカースト制度はとっくに廃止されているにもかかわらず、インドのような社会はいまもなおカーストに縛られている。その問題を直視せよと命じられているようにもみえる。庶民のメイドの暮らしぶりは、伝統的なインド文化(観光客向けのインド文化というべきか)を守っているように思われるが、富裕層は民族文化とは関係なくコスモポリタン的・無国籍的・ポストモダン的生活をいとなんでいるにもかかわらず、あらたな富裕層として階級融合を阻び庶民とは別世界に生きている。これをどうするのかと、迫っているところがある。

いっぽうは消えたはずのもの、いや、そもそも最初からなかったはずのものが、厳然と存在していること、実はそれは最初からあったのである。そしてもういっぽうでは消えるはずのものが、いまなお残っている、一刻も早く消えてもらわねばならないもの、それを残すような営みはあってはならないのである。

インドはもう第三世界ではないのかもしれないが、昔ながらの第三世界という形容を使えば、第三世界の社会慣習を告発する映画では、女性が結婚相手を選べないという悲劇を前面に押し出すものが多いような気がする。女性に強制される結婚のありようこそが、第三世界の非人道性を端的に表象している。映画のおわりのほうで、建築会社経営者の息子は、傷心のままムンバイを去らんとするとき、次々と建築される高層ビルの姿をまのあたりにする。街の光景も、社会も、生活も、かわりつつある。こんなときに昔ながらの結婚の障碍に縛られていていいのかという暗黙の思いが観客を満たすことになろう。結末は、愛のリセットだが、リセットされた愛がどこにゆくのかはわからないものの、未来での幸福追求と自己実現に足を踏み出していることは実感できる。現在への告発は未来への希望とつながっているのである。

追記 1

主役の彼女は『モンスーン・ウェディング』に出演していとのことだが、まったく覚えていない。かなり前の映画なので、この映画の彼女とは趣はことなるだろうと思うのだが。ちなみにインド映画にはおなじみの派手な結婚式シーンがない(あえてそうした結婚式場面を拒否しているようなところがある)という点で、この映画は、インド映画としては画期的なのかもしれない。

追記 2

ムンバイの人たちは現地語と英語とをミックスしてしゃべるのだが、この人たちの英語は、わかりにくかった。Thanksくらいしかわからない。現地語かと思うと、よく聞くと英語だったりしたことが何度もある。聞きなれないうちは、この英語はほんとうによくわからない。個人的感想だが。



posted by ohashi at 20:15| 映画 | 更新情報をチェックする

2019年08月17日

『永遠に僕のもの』

以下、ウィキペディアの紹介

『永遠に僕のもの』(El Ángel)は、ルイス・オルテガ監督による2018年のアルゼンチン・スペインの伝記・犯罪・ドラマ映画である。第71回カンヌ国際映画祭のある視点部門で上映された。アルゼンチンの連続殺人犯のカルロス・ロブレド・プッチの実話を基にしている。

渋谷のシネクイントで観たのだが、観客には女性(いろいろな年齢層の女性たち)が多い。また渋谷という場所柄かもしれないが、若い男女も多い。この観客層のなかでいないのは、老人男性だけである。唯一ではないかもしれないが、唯一に限りなく近い男性老人であった私は、美少年を見に来た変態老人と思われたかもしれない。まあ、そうなのだが。

たしかに、ロレンソ・フェロLorenzo Ferro, の美少年ぶりは、天使(原題)というよりも悪魔か堕天使ルシファー、あるは兇天使ともいうべき存在で、観る者を圧倒するのだが、そのぶん、内面は謎のままで、動機や苦悩など一切ない、無垢の天才的犯罪者であって、仲間や周囲を確実に不幸にするが、本人は基本的傷つかない--死の天使」とか「黒い天使」と呼ばれたらしいが、映画では「天使」だけをタイトルにした。

結末近くに流す涙も、まあついにこれで孤立することに対する悲しみなのかな。、あるいはもはや自由を失うしかない運命を嘆いたのかなとも思うのだが、「レンタ」のテレビCMで、ロバートの秋山演じる「レンタウロス」が電車内で号泣する理由と同様に、よくわからない。

冒頭、留守中の豪邸に忍び込んで、金目のものを物色し、さらにオーディオ装置をみつけ音楽を流し一人踊る主人公の姿は、美しく、またダンスもプロなみにうまく、そこのオープニングの字幕が入ってくるという洗練された映像展開をみせてくれて、期待させるものが多い。そして最後もまた空き家で、そこに残っていたラジオで音楽を流し、踊る。冒頭の場面とは、対照的な廃屋での踊りながら、場面は冒頭に戻って終わる。

他人の家にはいって、そこで好き勝手に振る舞う侵入者。おそらくこれはアウトサイダーと言うかエイリアンとして社会に入り込んだ主人公の無償のパフォーマンスとしての犯罪というかたちで映画全体の主題を要約するような場面であり、また行為だということはわかる。こうした側面は、さらにもっと掘り下げて考えることもできるだろう。

映像は洗練されている。そして冒頭と同じような場面に戻るというのも巧みな構成といえるかもしれないが、ただ、うまく終わりそうもなかったり、このあたりで終わりにしようかというときに最初と同じような場面とか状況に戻るというのは、物語構成の基本中の基本である。

とうことは、うまく終わらせなられない、あるいはむりやり終わらせたということであろう。しかし、そんなに終わらせることがむつかしい物語なのか。むしろ起承転結がある、典型的な物語展開ではないかと思う。犯罪の始まり、展開、そして逮捕というのは、予想どおりのパタンだが、そのぶん終わり方に悩む必要はないようにも思う。

というかむしろこの典型的な起承転結のパタンにあてはまるがゆえに、あえて展開を否定して、同じことの反復というかたちで映画を組織したのではないだろうか。成長とか改心を知らない、遊ぶこと、人生を楽しむことしか知らない主人公にとって、展開というよりも反復こそが、生きることなのである――あるいはクィアな時間というべきか。

展開と発展ではなく停滞と反復。この代償もある。つまり映画がどんなに洗練された映像をみせようとも一本調子となることである。そのため、せっかく美少年を見に来たクソジジイも、寄る年波には勝てず、意識を失ったというか寝てしまったところがある。美少年というよりも驚異の童顔なのだが、ずっと見ているという至福をみずから失ってしまったことを棚にあげていうのも何だが、面白い仕掛けがいっぱいあるにもかかわらず、単調になっているところは惜しい。まあ、またみにいくかもしれない、変態クソジジジだが。

追記

ちなみにモデルとなった殺人犯カルロス・ロブレド・プッチは、まだアルゼンチンの刑務所で服役中。45年間収監されているようで、これはアルゼンチンでは史上最長の収監帰還らしい。

この連続殺人犯の逮捕時の写真をみると、映画の主人公とそっくりである。現実のモデルに、かなり寄せていることがわかる。現在どうなっているかわからないが、この連続殺人犯カルロス・ロブレド・プッチは、私よりも一歳年上である。たぶんまちがいなく、私のような変態クソジジイだろう
posted by ohashi at 22:50| 映画 | 更新情報をチェックする

『イソップの思うツボ』

『カメラを止めるな』チームの2作目ということで、また、どんな仕掛けが待ち構えているのだろうかと、期待に胸躍らせて、見に行った。

参考までに映画.comの映画紹介をいかに。

「カメラを止めるな!」の上田慎一郎監督を中心とした製作スタッフが再結集し、再び予測不能な物語を紡ぎだしたオリジナル作品。上田監督と「カメ止め」助監督の中泉裕矢、スチール担当の浅沼直也が3人で共同監督・脚本を務めた。カメだけが友達の内気な女子大生・亀田美羽、大人気タレント家族の娘である恋愛体質の兎草早織、父と2人で復讐代行業を営む戌井小柚。ウサギとカメ、イヌの名前を持つ3人は、有名童話さながらの奇想天外な騙し合いを繰り広げるが……。舞台やテレビ、ミュージックビデオで活躍する石川瑠華が美羽、「4月の君、スピカ。」の井桁弘恵が早織、「光」「アイスと雨音」の紅甘が小柚をそれぞれ演じ、「恋に至る病」の斉藤陽一郎、「愛のむきだし」の渡辺真起子、「らせん」の佐伯日菜子らが脇を固める。

たしかにどんでん返しはある。しかし『カメラを止めるな』のような斬新さはない。『カメラを止めるな』は、ある意味、詐欺師もの、あるいはひっかけ物の変形である。『スパイ大作戦』と呼ばれていた頃のテレビ版『ミッション・イムポッシブル』とか、『オーシャンズン』なんとかという、詐欺師ものの変形が『カメラを止めるな』であって、表の物語はこうですが、実は、裏ではこうなっていましたと、種明かし的に最後の大どんでん返しに出るのが、このジャンルの特徴。『カメラを止めるな』では、詐欺師集団ではなく、30分のテレビ番組の生放送という設定で、その裏では……、というかたちになり、詐欺ものからの逸脱ぐあいがなんとも斬新だったのだが、今回の『イソップ』では、詐欺師ものの変形ではなく、そのままとなってしまった。だからこの手のジャンルの作品をはじめてみる観客には、とても面白いものだと思うが、『カメラを止めるな』の上をいく大どんでん返しを期待した観客には、物足らなかった。実際、最後にもうひとつ大どんでん返しがあるのではないか、あるいはもうひとつ枠組みがあるのではと、期待したが、それはなかった。

通常の詐欺師もので、何が悪いかといわれそうだが、そうした作品は他にもあるし、『コンフィデンスマン』は、『イソップの思うツボ』よりも、はるかに大がかりだし、また長澤まさみに勝てる女優がそんなにいるとも思われない。

あと『イソップの思うツボ』というタイトルはよくわからない。亀とウサギと犬にまつわる苗字だったのだが、それ以上のことはわからなかった。

文句ばかりいったのだが、よいところを列挙すると。

人間関係が複雑になってきて、これはまずい。しっかり誰が誰かと把握しなければと思ったやさき、遅れたタイトル画面がでる。そこで登場人物の名前がでるのだが、ローマ字。あの3音節以上(3音節でも長い)の単語は、すぐに読んでわからない(おそらく日本に来ている外国人観光客が地名の表示などですぐに読めなくて困っているのではないかと思う。たとえばHitotsubashidaigaku――8音節か9音節のこの単語は、ウェールズの駅名かと思うかもしれないが、これは「一橋大学」のローマ字表記)。だから登場人物の役名がわからずにあせるのだが、映画全体では、込み入った内容の事件を、観客が抵抗を感ずることなく、わかりやすく説明していた。これはこの映画の特筆すべきところだろう。

カメラを止めるなというテーマは、実は、この作品にもあてはまる。このテーマでつくった第1作の後、同じテーマでこんなふうにもできるというのが、今回の『イソップ』。実はカメラをとめるなコンセプトで、これまで2作を製作したということではないだろうか。もちろん「カメラを止めるな」版第3作を期待することはいうまでもないとして。

佐伯日菜子を久しぶりみることができてよかった。テレビ版『エコエコアザラク』での黒井ミサのイメージは、原作のそれとはまったく異なるものだったが、樋口扮する黒井ミサは、独特の雰囲気があってよかった。

Last but not least

見ればわかるのだが、この映画のジャンルは、詐欺師もの以外にもいろいろレッテルが張れる。復讐もの。学園もの。そして、くりかえすが、みればわかるのである、少女物である。ここでも出逢った「少女物」。つまり『カメラを止めるな』もまた「少女」がゾンビと戦う、あるいは逃げつつも、最後の勝利する無敵少女の物語だった。「少女」物というコンセプトも第一作からつづいているのである。だから「少女」物としてのこの映画、嫌いではないどころか、好きである。


posted by ohashi at 11:40| 映画 | 更新情報をチェックする

2019年08月16日

『アルキメデスの大戦』

原作漫画はまだ完結していないらしいのだが、映画は戦艦大和の終焉と、そのメイキングに的を絞ったということらしい。ただ、誤解されてこまるのだが、映画のポスターなどをみると、戦艦大和の雄姿が描かれているので、戦艦大和の建造に奔走した人々の話ではないかと思うかもしれないのだが、映画の時間の8割は大和建造を阻止するために奔走する人びとの活動が描かれる。戦艦大和の建造を阻止すべく奔走した人びとの話である。主人公は、新型戦艦(のちの大和)の受注にまつわる不正、見積もりの虚偽、そして重大な構造的欠陥までを指摘して、新型戦艦案を廃案にまでもちこむのである。

と同時に、ここでも誤解されてこまるのだが、またパラレルワールドの話ではないので、戦艦大和は完成するというか、映画の冒頭で、攻撃を受けて沈没するのであって、史実をねじまげているのではない。つまり戦艦大和は造られた。大和の造船に反対した主人公が、最後には大和の建造に貢献するのである。

いやそればかりではない。山本五十六も、航空母艦を集中使用する航空攻撃を中心とする戦術を提唱し、航空母艦の建造を推し進め(新造戦艦大和を廃案にもちこもうとする中心人物の一人)、真珠湾攻撃を成功させながら、それから数か月後、完成した戦艦大和の船上で閲兵するのである(おそらくこれは、連合艦隊長官になった山本五十六が、連合艦隊旗艦となった大和の船上で閲兵するということなのだろう)。

そもそも主人公は、軍隊が嫌いで、産軍一体化する戦時体制に嫌気がさしている平和主義者で、日本を捨て、アメリカ留学に旅立つところ、最終的には海軍士官それも少佐という高官になり、数字で戦争をやめさせるどころか、戦争に苦渋の思いで協力することになる。

いや、山本五十六にしても、アメリカとの国力の差から戦争をしても負けるとわかっていて戦争に否定的でありながら、初戦において打撃をあたえ一挙に講和にもちこむという戦法をずっと温めていたことがわかる。

そう、どんでん返しの連続であり、それは同じ時期に上映されている『イソップの思うツボ』の上をいく。ほんとうに上をいくといっていい。たとえば、海軍の造船計画を確定する会議において、企業と海軍大臣とも結託している新大型戦艦建造派が圧倒的に有利であるところ、主人公の超人的洞察と努力によって、新造戦艦案を廃案にもちこむまでの緊迫感はハンパではない。実はそこのところは実にうまく脚本がつくられているし、またお約束とはいえ、部下(田中正二郎=柄本佑)との友情、かつて家庭教師のお嬢さんからの援助(櫂直=菅田将暉と尾崎鏡子=浜辺美波は美男美女コンビである)といった熱いエピソードも満載である。そして戦艦大和を設計した平山忠道=田中泯(モデルは平賀譲)   が、見積もりの嘘を指摘されても、脅威的詭弁で、いったんは会議を支配したかにみえた矢先、重大な構造的欠陥を指摘され敗北を認めて会議場を去るまでの劇的展開。だが、それだけではなく、主人公の善意を正義感をねじ伏せて、大和建造に協力させる最終展開。どんでん返しの連続である。『イソップの思うツボ』の上をいくのである。

しかしこれは百田尚樹の小説を原作とした映画『永遠のゼロ』(監督山崎貴 2013)の頃と変わっていない。特攻に反対していた主人公(岡田准一)が最後には特攻する。主人公の、あるいは原作者の主張が反戦であるかにみえて、最後に、戦争擁護に裏返る。それと全く同じで、大和反対、戦争反対であるかのような映画が、最後には戦争擁護、大和賛美に裏返る。『永遠のゼロ』の頃からなにも変わっていない。一貫して戦争擁護である。それは最初反戦にみえるので藤木国会議員よりもたちが悪い。百田尚樹の思うツボ、山崎貴の思うツボである。

象徴的な場面が映画の最初CGの部分にある。戦艦大和とアメリカ軍機の戦いのなかで、大和の対空砲火によって撃墜されたアメリカ軍機のパイロットがパラシュートで脱出する。そのパラシュートは、もはや大和の眼前で、海に着水する。するとカタリナ飛行艇が海上に浮かぶパイロットの脇に着水、パイロットを救助し、まだすぐに飛び去るのである。もちろん大和の水兵の目線で、この出来事をみているのだから、パイロットの負傷具合、顔、飛行艇の乗員の動きなど見えないのだが、ただ水兵が、無言のまま、この光景を驚きをもってみつめている。

飛行艇が、パラシュートで海に降りたパイロットを、銃弾や砲弾の飛び交う戦闘中に降りてきて救助するというのは考えられない。危険すぎるし、救出する側も救出される側も共倒れになる可能性がある。またこのシーン、台詞もナレーションもないから、その位置づけなり意味づけは、観客にまかされているのだが、ただ、撃ち落とされたパイロットを、危険をかえりみず救助するという人命をどこまでも尊重するアメリカの戦闘行動(とはいえ、それは基本なのだが)は、日本側の片道切符の特攻とは(人間魚雷回天の例でもわかるように特攻とは帰還することを考えていない)全く異なる。そこに人道主義の有無、人命尊重の有無、人命を軽んずる日本側の冷酷な思想(冷和の冷和思想)があるとみることができる。と同時に、山崎貴に騙されるな。アメリカ側による着水したパイロットの救出は、まるでアメリカンフットボールで試合中に怪我をした選手に医療チームが駆け寄って応急手当てをして試合会場から運び出すような、スポーツの試合でみかけるような光景を、この飛行艇カタリナによる救出劇はほうふつとさせる。あるいは、日本海軍の水兵の驚きの表情からも、フェアなゲームでやってはいけない不正行為のようにもみえる。戦争というよりもスポーツであり、その分、余裕もあり、必死さの度合いが少ない。またスポーツであっても、なにか不正の影を感じ取ってしまうような行為である。これに対し日本側は、死を覚悟して、自らの命を犠牲にした崇高きわまりない行為であって、たとえ命がけという点では同じに見えて、スポーツとは確然たる開きがある。特攻は精神性と栄誉にかわる。アメリカ軍の攻撃は、スポーツの軽薄さに支配されていて、特攻の崇高さに及ばないということではないか。私はそう読んだ。

つづく

posted by ohashi at 07:18| 映画 | 更新情報をチェックする

2019年08月15日

特攻兵器 回天

この時期になると過去の戦争に関する情報や回顧が行なわれ、夏休み映画のなかの戦争映画のお約束として特攻映画と戦艦大和の映画がつくらえる。今年も、『アルキメデスの大戦』が戦艦大和映画なのだが、それとは、テレビ番組のひとつに特攻兵器回天について回顧するものがあった。

回天というのは人間魚雷のことで、潜水艦の上部甲板に搭載され、人間が乗り込んで操縦して敵艦に体当たりする特攻兵器である。その存在は子供の頃から知っていたが、なぜそんな兵器がつくられたかについては、人間が操縦することによって、目標を的確に捕捉することができ、百発百中の最終兵器となるのだろうと漠然と考えていた。

いまも、なぜ人間魚雷なのかは、正確なことを知らないのだが、子供の頃と考えがかわったのは、近年のアメリカの戦争映画『パシフィック・ウォー』(USS Indianapolis: Men of Courage2016年アメリカ映画、日本公開2017年)を観てからである。

この映画、戦争時代の黒歴史を扱ったよくできた映画で、その内容は驚くべきものだった。ただCGが軍法会議物のひどいもので、内容とか時代考証がどうかという以前のクオリティが低すぎ、これが全体の評価を下げているのだが、CGさえ無視すれば、また有名な俳優が だけであることは無視すれば、素晴らしい映画だった。

それは戦争末期、サイパン島に、秘密裏に原爆を運んだアメリカの巡洋艦インディアナポリスが、帰国の際、日本の潜水艦伊58に沈められた事件で、漂流中の乗組員の捜索に手間取り犠牲者が多くでる。また米海軍司令部の失策の責任をインディアナポリスの艦長がとらされる。軍法会議で、艦長は、アメリカ海軍中、自艦を攻撃され沈められたことで有罪となった唯一の艦長となった。のちにその艦長は自殺。艦長の名誉回復がおこなわれたのは21世紀になってからだった。

このインディアナポリスを沈めた伊58は、実は回天搭載潜水艦である。そしてインディアナポリスを沈めたのは、回天ではなく通常魚雷だった。伊58の艦長橋本以行(もちつら)には、回天による攻撃か通常魚雷による攻撃か選択できた。通常魚雷を選択したのは、人道的見地からではなく、映画を見る限り回天は命中率が悪いからだった。夜の洋上では回天は無力にちかい。

たしかに人間魚雷の場合、潜望鏡の目視だけで、海中から敵艦に体当たりするというのは至難のわざのような気がする。潜望鏡で目標を確認し、どちらの方向に、どのくらいの速度で進めば、外れることなく衝突できるかを計算するらしい。計算によって敵を排除できなければ自分の身が危ういとなれば、人間、必死で計算を瞬時におこなうことができる。計算ミスは命取りになるのであれば、正確さも絶対におろそかにしない。自己防衛のための計算なら、火事場の馬鹿力もでるというものだ。ところが、回天の乗組員の計算は、自分の死のための計算である。そこに崇高な使命感をいだいて的確かつ素早い計算ができる者もいるだろう。同時に、自分のための死の計算に恐れおののくこともまた予想できる。なんという残酷な作業を強いることになるのだろう。

人間魚雷は、通常魚雷よりも速度は遅いだろうし、小回りはきかないだろうし、動く標的を暗い海中から捕捉するのは至難の業であるように思われる。もし目標を外したら、二度めの攻撃は、実質的に不可能である。Uターンしてもう一度目標を狙うといった機動性のある兵器ではないし、そんな操縦もできないはずである。また伊58のように夜の攻撃となれば、回天の潜望鏡による目視では攻撃は不可能である。となれば、潜望鏡で捕捉した標的にむけ通常魚雷を発射した方が、貴重な人命も失うことがないし、おそらく全体としてみれば命中率も成功率も高いのではないか。そんなことは誰にでもわかる。ならばなぜ、そんなものをつくったのか。死にたいか、死なせたいがためであろう。

ちなみになぜ伊58が回天ではなく通常魚雷で攻撃に成功したのかまでわかっているのは、沈没することなく終戦を迎えたイ58の橋本館長が、インディアナポリスは、あの時点では、攻撃回避できなかったとして、インディアナポリスの艦長擁護のため弁護側の証人として発言していたからである(これは史実)。

おそらく人間魚雷も含む特攻兵器は、最初から負けるとわかっているアメリカとの戦争をはじめてしまって、実際に敗色が濃くなった段階で、いかに美しく負けるか、いさぎよく負けるかを念頭において、滅びゆく者の美しき神話を残そうとしたのであろう。実際、特攻作戦や特攻兵器は、成功の確率は低いのだから、効率は悪い。だが、それは関係ない。むしろ成功しないし効率が悪いからこその特攻である。成功の確率が高い攻撃を特攻とはいわない。また成功の確率をあげようとも思わないから、作戦もたてない。作戦などと言う卑しい姑息な手段に頼るのは敗北の美学に反することだろう。

結局、帝国軍人は、ただ美しく死ぬことによって、自己の名誉を守ることだけに専念する狂気の集団と化していたということである。いや、彼らの言い分は、彼らが美しく滅び、その名誉を守ることによって、日本そのものの名誉が、国体が守られるということだろう。保身にみえて、実は、民族の大義に従っているということだろう。

もちろん彼らの滅びの美学に対して言行不一致を批判することはできる。たとえば航空特攻の初期には随伴機が攻撃隊の最後を見届け戦果を報告することになっていた。戦争あるいは戦闘は、憎悪に駆られた殺し合いではない(最終的には、そういうものになるとしても)。手続きと手順を踏み、ルールにのっとり、しかるべき戦略的戦術的配慮のもとに遂行される競技あるいは闘争というゲームでありまた儀式でもあって、その勝敗、成果、影響、勝因と敗因との分析は、戦争というゲームの重要な一部である。実際の戦闘行為では記録できない混乱が生ずるとしても、記録は絶対に必要である。だが、航空特攻では、やがてが飛ばなくなる。随伴機が耐え切れずに自らも特攻するというようなことがあったらしいのだが、随伴機そのものがもったいなくなる。だが、自らの命を捧げようという特攻要員の崇高な意志に対して、ただ手を振って見送って、あとは放置というのは、軍事行為履行の責任を放棄したことであり、みずからの命を捧げようとする若者たちの崇高な意志を冒涜するものであろう。

そもそも美とは距離に基づく。みずからの行為を冷静に客観的に眺める余裕が、たとえ自殺行為にみえても、用意周到な美的行為となり、そこに絶望しての自殺ではなく名誉ある自死が生まれる。だがただ見送るだけの特攻とは、本来、あってはいけないことであり、もしそうするしかなかった場合、戦争はやめるべきなのである。たとえ死んでゆく人間は、戦果を挙げても気づかれず、また失敗して海の藻屑と消えても、満足したとしても、要は、見届ける側の姿勢が、あまりにも投げやりなのだ。もちろん戦況の悪化ゆえに投げやりになるほかなかっとしたなら、もう、やめるべきなのだ。

かつてテレビのドキュメンタリー番組で、振武隊【振武隊は、1945年(昭和20年)326日から始まった沖縄戦における陸軍第6航空軍隷下の特別攻撃隊たる飛行部隊の総称とWikipediaにある】に派遣された少年航空兵の足跡を追う内容のものがあった。優秀なパイロットであった彼は振武隊に配属され、最後に、仲間たちに見送られて出撃。それで終わり。戦果を挙げたか、途中で撃墜されたか、怖気づいて逃亡したか、なにもわからないまま消えたのである。特攻を命ずる側のこの無気力。作戦の成否にも無関心。そうなると次の作戦もない。戦争に勝とうとするつもりもないし、そもそも戦争するつもりもない。

回天について話をもどすと、回天による成果については、港湾に侵入して停泊中の艦船を攻撃することに対しては一定の成果を上げたらしい(目標が動かないから成功の確率は高いだろう)。しかし敵も港湾の防衛を強化すると、回天では侵入できなくなる。そこで洋上での通常魚雷の代用兵器として使われることになる。だが、こうなると成功率は格段に悪くなる。べつに怖気づいて逃げ出したからではないだろう。目標をはずしたらUターンしてもう一度目標を狙うといった機動性のある兵器ではないし、海中で洋上で潜望鏡を頼りに、そんな操縦もできないはずである。あとは燃料と酸素がなくなるまで海中を進み続け、乗員は死ぬだけである。こんな兵器に載せられた当時20代前半の若者たちは、どう思っていただろう。お国のために、家族を、愛する者を守るために死ぬと覚悟を決めていただろうか。もしそのような覚悟があれば、それはそれで称賛に値する英雄的覚悟であるのだが、そうして英雄たちに、用意されたのが兵器が、死ぬための死ぬ装置でしかなかったとしたら、あまりに不条理で残酷ではないだろうか。

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2019年08月13日

京都アニメーションの闇

京都アニメーションの放火事件で多くの犠牲者を出した大事件から一か月後、事件そのものの全容はなにも解明されていないどころか闇が深まるばかりである。

すでにこのブログでも述べたように、いくらガソリンの爆発的引火の猛威とはいえ、あれだけ多くの犠牲者が出ることは、想像を絶する。

もちろん容疑者の男が原因であることはいうまでもないのだが(推定無罪の原則から、以後、犯人といわずに「容疑者」というが)、アニメスタジオでは、燃えやすい器材や材料を使うため、建物の設計とか構造、消火設備の有無や有効性。そして消防署の指導の適否などにも配慮すべきところ、その配慮がみえない。犯人以外にも、二次的・三次的原因をつくった責任者がいるはずであるが、彼らの責任は全く問われないでいる。

容疑者の男が、自分の小説のアイデアを京都アニメーションが奪ったと証言していることは、事件報道の初期段階で何度も伝えられたにもかかわらず、京都アニメーションは、そうした人物が小説コンクールに応募してきたことはないと、これも早い段階で断言していた。

これも、本来ならしっかり調査して答えるべきだし、調査中と答えておけばよいのに、つまり誰も京都アニメーションが、この容疑者から小説のアイデアを盗んだなどとは思わないのに、早々に断言していた。

ところが容疑者は、小説を京都アニメーションに送っていたことが、あとでわかる。放火犯と同性同名で同じ住所の人物が応募していたと、しばらくたってから公表される。なんという恥ずかしいこと、そして疑わしいことなのだろう。調査中としておけば、それで済んだのに。そして京都アニメーションの言い訳がまた馬鹿馬鹿しい。所定の書式になっていなかったので審査対象になる前にボツになったという。容疑者の応募した小説など、どうせろくでもないもので、落選以前に審査対象にもならなかっただろうと容易に想像はつく。だから没になった応募作も、最初から調べて当然だったのに、なぜしなかったのか。

さらに京都アニメーション作品のなかで、容疑者の作品と類似したアニメーション作品はないと、またも無責任に断言。京都アニメーションがアイデアを盗んだとは夢にも思わないが、類似の構造の作品はたくさんあるだろう。そもそもアニメ作品の基本的構造はどれも同じだから、構造の類似性によって盗作の証拠とはならない。にもかかわらず、一抹の疑念も払拭せねば気が済まないのか、あるいは、むしろ、やましいところがあるのか、容疑者の作品と類似の作品はないといってのける。嘘としか言いようないではないか。私は京都アニメーションが容疑者からアイデアを盗んだと信ずるほうに傾斜している。

もし盗作があるのなら、類似の構造をしていることよりも、その細部を盗んだか断りなく使用しているかが重要である。類似の構造は、偶然の一致ということもありうるし、アニメ作品のプロット構造は、どれも同じであることは誰でも知っている。だから細部が重要となる。細部が一致すれば、そこに盗用の疑いが生まれるからだ。アニメ作品は、どれも構造的には似たり寄ったりだから、類似性があって当然だが、細部の独自性は、個々の作品で同じになることはまずない。だから類似の細部をもつ作品はこれまでになく、盗用なり盗作はありえない、と、そう答えれば誰も疑うことがなかったのだが、京都アニメーションの広報は、疑わしいコメントを繰り返している。

そして最大の謎は、今回、死亡した関係者のなかで10名しか氏名が公表されていないことだ。京都警察は、遺族の意志として名前の公表を控えるということだが、この処置を、遺族の意志をおろそかにしないと称賛するむきもあるが、被害者の名前は確認次第すぐに発表するのが通例であって、京都警察の処置は異例との声が高まっている。これが最大の闇である。

今回の事件は、もちろん容疑者に最大の責任があり、これほど多くの犠牲者を出した罪は、あがないきれないものがあろう。しかし、だからといって、会社側、消防署、警察側にとおって不都合な真実を隠すことは絶対に許されない。

アニメ会社といっても、ブラック企業の最たるものであろう。従業員とも正式の、また適切な雇用契約をむすんでいないかもしれない(おそらくそれは吉本と所属芸人の関係よりの、はるかに劣悪なものであろう)。また、今回の事件で死亡した従業員の遺族に対して保障もしなくてはいけないだろう。そんなものは保険に入っているだろうから簡単だと言われるかもしれないが、この、どこかおかしない対応のこの会社は従業員のために保険すら入っていない可能性がある。もちろん根拠のない私の妄想でしかないが、全世界に夢をあたえてきたアニメーション会社が、どこか闇をかかえているようにみえて残念ではならない。私の妄想が根も葉もないことを望んではいるが。


posted by ohashi at 10:08| コメント | 更新情報をチェックする

2019年08月12日

『守護教師』

『工作 ブラック・ヴィーナス』を見に来たのだが、せっかく新宿シネマートに来たので、マ・ドンソク主演『守護教師』(イム・ジンスン監督)を観た。女子高の体育教師になった元ボクサーが、失踪した女子生徒の行方を追うと言う内容だが、マ・ドンソク(馬東石 마동석、1971-)が、地方都市の闇を暴き、失踪した女子校生を救出するであろうことは予測できるが、見どころは、なんといっても、その剛腕で、悪人たちを次々と倒していくところだろう。その爽快感を求めたのだが。

予想外だったのは、もちろん良い意味で期待を裏切られたのは、超人的で無敵のスーパーヒーローが大活躍するという、ある意味、荒唐無稽な娯楽映画かと思いきや、むしろ不死身の超人ではない生身の悩める高校教師ということも強調していたことである。またネタバレになるので書けないが、ハッピーエンディングであることは期待どおりだとしても、けっこうビター・エンディングで、事件が解決し、地方都市における闇の支配が終わっても、失ったものは取り戻せないし、マ・ドンソクも周囲からヒーローとして歓迎されることもなく、職を失い、ひっそりと地方都市を去るのである。

「見た目はヤクザ」と女子校生から言われるマ・ドンソクの怖そうだけども、心優しい力持ちという外見と内面との落差が引き起こす、予想される喜劇的展開は、ないわけではないが、それがメインというか、それで笑いをとるようなことは最初から狙っていないのである。マ・ドンソクの格闘能力はハンパではないし、またポパイのような上腕をもつ彼に殴られたら、一撃でダウンするしかなく、超人的な力強さはないわけではないが、それよりも地方都市のリアル(地方都市の空気感とがよくでている)と闇を追うサスペンスに力点が置かれている。そして……

これは映画の宣伝でも強調されていたが、キム・セロンが失踪した友人を探す女子校生役で登場し、マ・ドンソクと共演している。キム・セロンとは誰か。ネットではこんなふうに彼女を紹介している

2000年生まれ、現在19歳のセロン。スクリーンデビュー作となった2009年の映画『冬の小鳥』がカンヌ国際映画祭に特別招待され、“天才子役”として注目を浴びると、闇を抱えながら生きる男(ウォンビン)と心を通わせる少女を演じた2010年の映画『アジョシ』がこの年の韓国興行収入第1位となる大ヒットを記録。一躍その名をとどろかせ、国民的子役となった。

彼女のことを当時「神童」と評したこともあったと映画のホームページは記している。『冬の小鳥』――私は岩波ホールで観た。『アジョシ』は近所のシネコンで観た。キム・セロンは、不幸な境遇の女の子がよく似合う子役という印象が強かったが、同時に、不幸な境遇に負けることのない精神的強さをもった芯の強い女の子という印象もあった。その彼女が、もう19歳。こちらが歳をとったというべきだが、もうすっかり魅力的な大人の女性である。不幸な境遇が似あうというのは、もともと可愛らしいというか可憐な令嬢というイメージではなかったということであり、いま彼女は、むこうみずなまでに自分の力で問題を解決しようとする、ある意味気の強い自立心旺盛な、そして安易に男に頼らない女性となっている。このような女性のことを、大人の女性と呼んではいけないだろう。彼女は、映画史とともにある王道的なモチーフであり、私たちの言葉を使えば、「少女」として成長したのである。決して少女から大人へと成長したのではなく、少女へと成長したのである。

少女としての面影があるということではない。そもそも『冬の小鳥』の時から、彼女は、「少女」だった。その彼女が成長して大人の女性となって男性中心秩序に呑み込まれるか従属することなく、自立し自己充足し、自身の同一性を守り抜く堅固な意志をもった少女に留まりつづけているのである。なんとも素晴らしい話ではないだろうか。

そうなればマ・ドンソク扮する高校教師と、キム・セロンの女子校生とは、似て非なるものどうし、同族、あるいは分身そのものである。ふたりは、見た目はこわもてでだが、心は人一倍優しいし、正義感は人一倍強く、妥協を好まず、真実をとことん追求する気概に満ちている。だからふたりは、この映画のなかで結ばれてもよかったのだが、女子校生であることと、少女であることから、それは望めないとしても。つまり少女であるということは、自分以外の誰にも従属しないのである。ウロボロスのように自分の尻尾をくわえる蛇なのだから。

少女と巨人。この系統の変形あるいは原型とも言える作品のひとつに、このブログでも言及したリュック・ベッソンの『レオン』がある。もちろん『守護天使』のふたりは、『レオン』の二人のように警察に追われる側ではなく、警察の腐敗をただし、悪徳警官を駆逐し、真実を追求する側なのだが、二人の交流が、この映画のもうひとつの魅力となる。『レオン』ではレオンは最後に鉢植え植物となる(正確にいうと鉢植えから地面に埋められる植物となり、これは移民的境遇から帰化へのメタファーレベルへの実現だろう)。『守護天使』では教師は最後でゲームセンターでとった小さなぬいぐるみ人形となる。そして巨人は少女の心のなかで永久に生き続けるのである。


posted by ohashi at 09:25| 映画 | 更新情報をチェックする

2019年08月11日

『工作』

一昔前は、お盆休みというと都内は人がいなくなって閑散としていたのだが、連休の中日とはいえ、どうして新宿のシネマートには人が多いのだ。狭いロビーには人があふれている。昔のお盆の休みとは、様子がかわったということなのだろうが、ただ、よく考えると、そもそも今年のお盆休みはいつからか、よくわからい。お盆は例年通り815日である。ほんらいならその前後を休むのがお盆休みだが、「山の日」が制定されてからは、今年は「山の日」の振り替え休日を含めて、三連休になり、その三連休に帰省する人が増えたようだ。三連休がおわって12日からは、仕事がはじまる人も多いようだ。しかし、同時に、本来お盆(最近では月遅れのお盆というようだが)は815日前後、12日はお盆の迎え火のひであるし、高速の上がり車線のピークは14日(水曜日)だともいわれている。そうなると、結局、お盆休みというのはいつなのか。810日から18日までの9連休だという説もあって、なんだかよくわからない。山の日前後の連休とお盆休みが合体して9連休となるらしい。そしてその間、都内の繁華街や映画館は、どこも人が多いのだろう。

『工作』2018年製作/137分/G/韓国 原題:The Spy Gone North

ネット上の映画紹介のなかには、こんなものもあった。参考までに。

釜日映画賞最優秀作品賞をはじめ韓国の映画賞を総なめした、事実に基づく歴史ドラマ。1992年、北朝鮮の核開発の実態調査のため、軍人のパクは工作員として北に潜入せよと命じられる。3年の工作活動の末、対外交渉の責任者であるリ所長に接触するが……。出演は、「哭声/コクソン」のファン・ジョンミン、「リアル」のイ・ソンミン、「お嬢さん」のチョ・ジヌン、「背徳の王宮」のチュ・ジフン。監督は、「群盗」のユン・ジョンビン。第71回カンヌ国際映画祭ミッドナイトスクリーニング公式招待作品。

わざわざたとえなくともいいのだが、たとえば医師を装って、ある地方の村に行き、そこに病院とか医院を建設するというプロジェクトをもちこみ、行政から、あるいは村人たちからお金をだましとろうとする詐欺師がいたとする。その計画をすすめるにあたって、限界集落で説得にまわる詐欺師は、病人が出たから診察してくれといわれ、偽医者である彼は困るが、そこは機転をきかせて、医者らしくふるまい、もっともらしく診断し、医薬を処方したら、病人がなおってしまう。以後、病人やけが人を診察するはめになり、無医村にやってきた医師としてありがたがられ、ヒーローに祭り上げられる。また病院建設事業も、資金が集まったら、それをもって逃亡するはずだったのが、村から逃げられず、集まった資金でほんとうに病院ができてしまうことになり、この点でも、行政からありがたがられてしまう。

と、まあ、こんな話と『工作』の内容は似ている。この偽医者の詐欺話において、別に偽医者でもなくても、本物の医者でもいい。実際、そのほうが、詐欺もうまくいくはずである。医者を装うのは、けっこうむつかしいからだ。この話の難点は医者に化けることの非現実性だが、この話の要点は、嘘から出たまことであろう。いい加減な詐欺話が実現してしまう。ただ、人を騙すときに、最初から実現不可能な荒唐無稽な非現実的なプロジェクトをでっちあげるバカはいない。むしろ容易に実現可能であったり、常々望まれている計画であったりしたほうが、人を騙しやすい。そして、またそれゆえに嘘が本当になっても、さほどおかしくはない。

映画『工作』は、この詐欺話とよく似ている。もちろん、もっと緊迫感もあり、もっと複雑で危険で、しかも分断された民族の希求の実現という大きなスケールの話なのだが、虚実交錯するという点では似ている。そう工作は交錯でもある。

主人公は軍人だが軍人の身分を隠して実業家として北朝鮮に乗り込み、南北融和と統一の露払い的な役割をはたすであろう、南北共同の観光事業を立ち上げようとする。主人公は南の軍人であり工作員であって、実業家ではないのだが、はたしてそうか。軍人であることがわからないように周到な手配をしたあとで、に北に乗り込む「黒金星(ブラック・ヴィーナス)」と呼ばれる工作員だが、彼は実業家としても本物である。いや、確かに偽の実業家なのだが、韓国の安企部(韓国版CIA)がバックアップしているため、彼が語る資金面や事業面さらには収益面での計画は、すべて実現可能であり、詐欺的・大ぼら的欺瞞ではない。もし真実を語り、真実を約束し、真実を実現することができれば、その人物は正真正銘、額面通りの人物である。まが実業家は、資格試験がないぶん、医師よりも化けるのが容易であるが、そもそも化ける必要はなく、ほんとうに実業家になっているのである。

【ちなみに安企部とは、その前身が1961年朴正煕政権時代に設立視された韓国中央情報部(KCIA)であり、1981年全斗煥政権時代に国家安全企画部となる。その後1999年金大中政権は国家安全企画部を廃止し、大幅に縮小した大統領直属機関として国家情報院を新設。】

工作員の目的は、南北共同の観光事業を立ち上げるために北と交渉するという名目で、北に入り、北朝鮮の核開発を監視し、情報を得るということだった。問題は、どちらのもりっぱな大義があることだ。北の核開発の監視は重要な任務であり、その過程で北の情報提供者に接触し、情報網を確保することは重要な任務である。と同時に、表の事業、南北融和あるいは南北統一にむけての共同事業は、南北どちらも非難できないりっぱな大義をかかげる一大事業である。そして主人公は、安企部の思惑や当初の計画とはべつに、南北融和の事業へとひた走るという皮肉な結果になる。

なぜ皮肉なのかはすぐにわかるが、その前に、この物語をさらに劇的にしようとするなら、主人公を記憶喪失にしてもいい。安企部のエージェントが、事故で記憶喪失になり、南北融和事業のことしか記憶に残っておらず、その事業実現にむけて誠心誠意心をくだき奔走し、北の人間からも信頼を勝ち得るのである。いっぽう安企部では、彼の記憶喪失について確証がもてないまま、当初の予定通り、政権の意向とは関係なく、北に武力侵略ならびに同時多発テロを起こし、混乱に乗じて、一挙に、北の政権の崩壊をたくらんでいた。この安企部の暴走計画の先兵が実は、彼だったのだが、記憶喪失となったいま、安企部のこの不穏な計画を察知して、それを阻止すべく奔走するのである。と、まあ、こうなるとコリン・ファレル主演の『トータルリコール』のリメイクみたいな劇的な話になるのだが、ただ、この映画は、事実に基づくと銘打っているので、そこまで荒唐無稽ではない。

これまでのところでは、これが韓国のリベラル政権下ならではの光州事件を扱う映画『タクシー運転手』(2017年、日本公開2018)、韓国民主化闘争における学生の拷問死にはじまる事件を扱う『1987、ある戦いの真実』(2017年、日本公開2018)そして『工作』とづづく、社会派政治映画三部作で、「釜日映画賞最優秀作品賞をはじめ韓国の映画賞を総なめした、事実に基づく歴史ドラマ」という評価は、どこからくるのか、これまでの展開ではうかがうことができない。また工作員たる主人公は、表のミッションも、裏のミッションも、両方を破綻なくこなすのであり、表のミッションの順調な実現は、北との友好な関係を築く一助となるし、北の責任者との熱い友情関係すら生まれていくのである。そして表のミッションは、偽物でも偽装でもなく、本物の事業のたちあげなのであって、そこに矛盾や欺瞞は存在していない。いっぽう裏のミッションはといえば、困難をきわめるのだが、それでも北に知られることなく(知られている可能性もあるが)継続される。では、そこからどのように政治的な洞察が開かれるかというと、実は、映画のなかで語れる工作の時期が、韓国の大統領選につながる時期でもあり、韓国の保守右翼勢力と安企部とが、金大中大統領選出を阻むために、北朝鮮に接触すること、そしてその陰謀を工作員が目撃する。ここの政治的な闇が濃くなると同時に政治的洞察が生まれてくる。

それは保身のために敵をつくるという政治学である。

安企部が監視対象とし、彼らにアカ呼ばわりされてきた金大中が大統領になることをなとしても阻止したい安企部と右翼保守勢力は、北朝鮮と接触して北朝鮮に軍事挑発をするように話をまとめる。北の危機をあおることによって金大中の親北政権の誕生を阻止することを目的とする。だかそれは韓国のことを、また韓国民のことを守るためのものではない。金大中大統領誕生の暁には、かつて金大中を日本から強制的に拉致した安企部の暴走なり犯罪的諜報活動が暴かれ解体に追い込まれることはわかりきった話だからである。そして北にとっても、南に親北政権が誕生して敵がいなくなったら、北の政権の維持も危うくなるのである。安企部の存続と、北の将軍様の政権の存続。そして北朝鮮が、良い例となるのだが、この保身の政治、あるいは敵をつくることで身を守る政治のために、国民が犠牲になっている。まるで生ごみのように捨てられていく北朝鮮人民。だが、それと同じことも韓国の右派保守勢力もやっている。まさに、この鋭い切り込みによって、リベラル政権下ならではの政治的洞察が白日のもとにさらされる。

この安企部の保身戦略は、工作員がおこなったきた南北共同の観光事業そのものを危うくするのだが、一工作員の運命など安企部は関与しない。そればかりか金大中大統領誕生によって、北朝鮮と接触して軍事的挑発を頼んだ安企部の暴走があばかれると、トカゲの尻尾切り的に、本来絶対に秘密にしておく工作員の存在をメディアに通達してしまうため、工作員も急遽南に逃げ帰ることになる。

金大中大統領誕生で一区切りつく、この時期の政治の季節は、残すところ、ゆるやかなエピローグだけとなった。韓国映画のお家芸でもある泣かせる要素が顕著ではなかったと思いだしていた矢先の、このエピローグには、思い返せば、こうなるしかないとわかるのだが、そこまで思い至ることなく、不意打ちをくらったようなもので、不覚にも号泣しそうになった。号泣はしなかったが。

ただし、泣いている場合ではない。南北対立という終わらない冷戦のなかで、南北統一(その形態について統一見解はないかもしれないが)、あるいは南北融和、南北対立の解消を、どちらも希求し、それを目指していながら、国民の願望とは裏腹に、どちらの政権も、それを望んでいなかった。敵対関係の永続こそが、南北政権を永続的に保障する政治となっていたというのが、痛ましくもまた恐ろしい現実政治なのである。現体制維持には、現体制を脅かすかにみえる敵こそが必要であり、敵こそが味方、敵対関係こそ平和、戦争は平和の世界なのである。金大中大統領誕生とともに、この政治は終わりを告げたかというとそうでもなく、まさに現政権は、北という敵によって政権維持を図るのではなく、日本という敵(ほんとうは日本ではなく、安倍一味なのだが)によって、政権強化を図ろうとしている。

だが、他国のことについて、それこそ上から目線で語っている場合ではない。安倍政権こそが、いまや韓国を敵として政権強化をはかろうとしているのではないか。そういえば、北朝鮮の軍事的挑発のタイミングのよさは、前から、おそらく誰もが気づいてことである。北朝鮮のミサイル発射が、安倍政権への支持を強化してきたことは誰も否定できないだろう。もし内閣府が北朝鮮と接触して、軍事的挑発のタイミングを調整していたことが暴露されたとしても(そこまでのことはないだろうが)、この映画のあとでは誰も驚かないだろう。北朝鮮の脅威は安倍一味にとっては貴重かつ絶大なる支援であり、改憲をめざす安倍政権を、今後も、いや改憲実現までは、ますます北朝鮮の軍事的挑発はやむことがないだろう。

アメリカの言いなりにしかなっていない安倍首相が、アメリカの言いなりになって作った憲法を変えようとするという愚行こそ糾弾されるべきところ、北朝鮮の軍事的挑発が、そして韓国との敵対関係が、安倍一味への支持を増やすことになるだろう。日韓関係は、憲法改正までは正常化されることはないだろう。

アメリカの言いなりになって作ったという憲法を変えようとするのもアメリカの言いなりなってのことだろう。現憲法が日本を弱体化するためのものだと愚かな改憲勢力は主張するのだが、ではアメリカのいいなりになって改憲することは、日本を強化することになるのだろうか。アメリカは、そこまで、日本のことを思いやってくれるのか。お花畑というのは日本の保守勢力が理想論や観念論を批判して使う比喩だが、アメリカが日本のためを思って憲法を改憲し強い日本になってくれることを望んでいると改憲勢力が本気で考えているのなら、彼らの頭の中こそが、お花畑である。

映画『工作』は、現在の日本について貴重な視座を提供してくれている。

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2019年08月10日

『ピータールー』

まちがいなくわかっていながら、どうしてなのだろうと、とぼけてみせるのは、それが悪いとはいわないが、誤解を招くこともあって、あまりよくはないと私は思う。この映画のウェブサイトで、上野千鶴子氏は、支配層は民衆のことを、どういうわけか怖れているようにみえると書いているし、映画のパンフレットのなかで新井潤美氏は、支配階級が大衆を脅威ともみなしていると書いている。具体的な理由は書かれていない。数が多いとか、不満がくすぶっているとか、狂暴だとか、漠然たる理由を読者が推測するしかない。

お二人ともわかっているはずだが、ただ暗示的に書くことによる修辞的効果を狙っているとしか思えない。支配層が民衆を怖れている理由の根本は、彼らが民衆を虐げているからである。経済的搾取ということだけではない。不正なかたちで冷遇どころから隷属させ、永続的に困窮状態を強いている。支配層はそのことを知っているし、そのことにやましさを感じている。庶民がいつ反抗するか、いつ暴動を起こすのか気が気ではない。もし庶民が、わずかでも反抗的な姿勢をとったりすると、こんなによくしてやっているのに恩知らずめがと口ではいうかもしれないが、支配層は庶民に慢性的に不正義をはたらいていて、庶民をとことん踏みにじっていることは知っていて、やましさを感じているために、暴動が勃発すると過剰反応してしまうのである。

ちょうどアメリカの警官が、黒人に対し、日常的に不当な差別的措置をおこなっているために、黒人側の軽犯罪あるいはちょっとしたからかいにも過剰反応して射殺してしまうのとよく似ている。何に対してであれ、何かを脅威と感じてしまい、恐れることは、そこに不正義があることのまさにエヴィデンスなのである。

軍隊とか警察は、国民を守るための武器あるいは暴力装置であることはまちがいないが、同時に、それが支配層の手に握られてしまうと、彼らのやましさゆえの過剰反応を、即時に引き起こし実現してしまう凶器と化す。まさに支配層に刃物である。丸腰の黒人を射殺した警官が、その黒人が拳銃をもっていると思ったというようなものである。支配層は、庶民が拳銃をつねに隠し持っていると妄想する。だが、そのような妄想の淵源には支配層の不正義の自覚がある。やましさが無辜の民をさらなる虐待と、そして死へと至らしめるのである。

マイク・リーのこの映画のなかで描かれるピータールーの虐殺(The Peterloo Massacre)、その名の由来は、マンチェスターの「聖ピーターズ広場St Peter’s Fields」で行われた司法当局による民衆虐殺を、その4年前の「ウォータールーの戦い」(ワーテルローの英語読みがウォータールー)を思い出すということから「ピータールーの虐殺」と当時のメディアが命名したことによる。

ナポレオンの帝国主義的野心を英国とプロシア連合軍が粉砕した、ある意味「正義の戦い」を、悪しき弾圧の比喩に使うというのは、どうかと思うのだが、おそらく「ウォータールーの戦い」のイメージとしては、「一大決戦」――日本風にいうなら山崎の戦いにおける天王山の重要性から、重要な分岐点となる戦いを「天王山」と言ったりするようなものか――とともに、多くの犠牲者を出した殺戮戦のイメージがあるのかもしれない(映画『ワーテルロー』(セルゲーイ・ボンダルチューク監督1970)では最初一進一退の戦局も最終的には降伏しないフランス軍に対する虐殺で終わっていた)。

だがこの命名は、民衆弾圧を戦争とたとえることの皮肉と適切さに思いを至らしめる。というのも正規軍や義勇軍らは、よくもまあ、ここまで、同じ国の国民それも武器をもたない無抵抗の国民(女性や子供、老人も含む)を惨殺できるものかと唖然とする。これが戦争状態で、敵兵をやっつけるのなら、わからないわけではない(私は平和主義者だから戦争は肯定しないが)。ところがこれは味方である。敵国の将兵ではなく味方の同じ国の無辜の民を、たとえ命令だとはいえ、よくここまで殺せるものだと唖然とする。

ただ、見方をかえればこれは当然なのである。庶民と支配層。それは連続しているのではない。格差社会では庶民と支配層は、別の民族なのである。そう、階級社会あるいは格差社会は、一国二国民制なのであり、ひとつの土地に二つの民の世界である。だから庶民は人でもなければ国民でもなければ同胞でもなく、端的にいって敵なのである。そしてこれが支配層が、庶民に抱く怖れ、嫌悪、敵対感情のもうひとつの淵源である。

おそらくこう考えると、ピータールーの虐殺の現代版あるいは20世紀版の第一候補は「天安門事件」であろう。そして「ひとつの土地に二つの民」と考え、敵国民・敵民族の虐殺と考えれば、まさにこれは一国二国民主義をとろうかどうかという現代のイスラエル・パレスチナ情勢と一致する。占領地区のパレスチナ人は、イスラエル当局の弾圧、民族絶滅プロジェクトにさらされている。ピータールーで殺された庶民は、イスラエル軍に迫害・虐殺されるパレスチナ人そのものである。

映画のパンフレットでは、ピーター・バラカンから新井潤美まで「EU離脱問題(ブレクシット)」とこの映画をからめようとしているが(また、それは多くの評者に共通した意見でもあるが)、まあ大きな枠組みからみれば、そうみえなくもないが、はっきりいって、そこまでの照応性はない。むしろこの映画は、今の時点では、香港で起こっていることを彷彿とさせる。

「プレゼンティズムPresentism」という言葉がある。「あらゆる歴史は現代史である」というクローチェの言葉が、その理念を代表しているともいえるのだが、過去の出来事は、つねに現代の出来事との関係のなかで、その意味を見出され変容させられる。過去と現在は、たがいに照らしあう。すべてを現代の尺度から判定することの害悪というものはあるが、現代の尺度で考えることによって過去の見方がかわる。いいかえるとこれは過去の作品なり過去の出来事が未来を予言しているとみることである。ピータールーは、天安門事件を予言していたし、そしていま不吉なことながら香港の市民の運命も予言しているのかもしれない。そしてさらに……

こうなるとあらゆる事件は、現在の、あるいは未来の影である。もっと簡単にいってしまえば、現在との関係でさまざまに解釈される。さまざまに意味を生み出す。だからであろう、この2時間30分の映画のなかで、虐殺のその後がまったく描かれず、一人物の葬儀で、最初と最後をむすびつけて終わる。ただしナレーションも、字幕もなく、この事件のその後については示されない。誰もが知っていることではないだろう。英国『ガーディアン』紙が、『マンチェスター・オブザーバー』紙と『マンチェスター・ガーディアン』紙から生まれたことも、映画だけでは、よくわからない。関係者のその後についても、ほんとうは知りたいところだ。それは調べればよいということかもしれないが、同時に映画のなかで語られることの意味は大きい。ただ、多くの解釈に開かれる「生き物」として映画を完成させたかったのかもしれないが。

なお、ちなみに最後の葬儀の場面は、ウォータールーの戦場からの帰還兵の葬儀なのだが(帰還兵というよりも廃兵なのだが)、この人物がウォータールーとピータールーをつなぐことになる。もしかしたら彼は、ウォータールーで死んでいたのではないだろうか。彼は幽霊として戻ってきた。あるいは、死者となった彼の脳裏に浮かんだ。故郷に帰還したという夢――しかもウォータールーの修羅場を再現したかのような広場での惨劇という悪夢。それがこの映画の物語ではないかという気もする。

マイク・リーの映画は毎回欠かさずみているが、前作『ターナー』(2014)が画家の伝記映画で、19世紀の社会の再現性が完成の域に達していたので、今回も、19世紀初頭の英国の社会を、まるで当時の絵画をみるようなというか、当時の絵画で描かれた世界がまさにここにあるという、リアルな再現性が驚愕に値した。貧乏な庶民のみすぼらしい生活と服装、当時のくそみたいな支配層、その頂点に立つバカ殿のような摂政といい、ある意味、誇張された戯画化ともいえなくもないが、もし本当にタイムマシンで当時に行くことができたのなら、この映画の戯画化どころではない、もっと悲惨な現実を目の当たりにするだろうと思わせるほどの実在感が映画にはある。

ヘンリー・ハント役のロリー・キニアについて日本の映画関係者はよく知らないみたいで新しい『007』シリーズに出ているというような情報しか示されていないが、ロリー・キニアはシェイクスピア俳優あるいは舞台俳優であり、映画のなかでの演説のうまさは、舞台人であるところの彼の実力のなせるわざであろう。私が比較的最近、ナショナルシアターライブでみた彼の舞台は『ヤング・マルクス』。喜劇仕立てなのだが、ロンドンで家族と暮らしていたマルクスを、エンゲルスとの交流などをとおして示す、けっこう感動的な舞台だった。

ロニー・キニアと並んでマクシン・ピークが二大俳優なのだが、彼女も、テレビでの活躍がメインで、映画では『博士と彼女のセオリー』での出演くらい。しかしテレビドラマでは、彼女が19世紀の実在したレズビアンの女性地主を演じた『ミス・アンの秘密の日記』(人から言われて気が付いた映画だが、必見の価値あり)、それから女性版ハムレットも舞台で演じたし(2015)、比較的新しいところではBBC版の癖の強い(ただし、その癖の強さが素晴らしいのだが)『夏の夜の夢』(2016)のなかでは妖精の女王タイテイニアを演じていた。この映画では当時の庶民の女性を演じているので、化粧はせず、すっぴんなのだが、顔立ちのよさが、かえってよくわかることになった。

あと最後に映画のパンフレットについて。その記事はどれも興味深いものだったし、丁寧なあらすじまでも収録していて価値は高いのだが、変なというか、驚くようなところがあった。

ピーター・バラカンが、インタヴューのなかで、「僕自身イギリス人ですが、映画を見ただけでは、王立の正規軍と、地元の富裕層が作っていた義勇騎兵の違いがすぐにはわからなかった」と述べている。

当時の地元の義勇騎兵の姿などよほどの専門家しか知らないだろうから、わからなくて当然だが、正規軍がわからなかったとは、驚きである。英国軍の真っ赤な軍服。知らなかったのだろうか。エメリッヒ監督、メル・ギブソン主演の『パトリオット』(2000)は、アメリカ独立戦を扱う映画なのだが、戦争において、アメリカ植民地人側を苦しめた憎き英国軍は、その赤い軍服で印象的だった。この軍服の赤ぞろえというのは、イギリス人にとってはよく知られたものではないかと思っていたが、ピーター・バラカンのような頭がよく、何でもよく知っている人が知らなかったとは驚きである。

まあ、それが問題ということではないのだが、映画評論家河原晶子のコメント。「ジョゼフを演じるデイヴィッド・ムーアストはイギリスの若手人気俳優エディ・レッドメインにどこか面差しが似ている。ジョゼフはさながらヴィクトル・ユーゴーの『レ・ミゼラブル』の若き革命児マリウスのようだ。そしてレッドメインはミュージカル版でそのマリウスを演じていたのだった」――面差しが似ているか似ていないかは主観によるので、べつにかまわないが、この映画のジョゼフが、『レミゼ』の革命児マリウスのようだとは、頭おかしいのではないだろうか。ジョゼフは明からかに戦争後遺症であって、革命児どころではなくなっている。このコメントはマリウスにもジョゼフにも失礼だ。頭かおかしいのだからしかたがないとしても。


posted by ohashi at 11:40| 映画 | 更新情報をチェックする

2019年08月09日

カクシンハン公演

カクシンハン版『薔薇戦争』

2016年にシアター「風姿花伝」でシェイクスピアの『ヘンリー六世』三部作と『リチャード三世』を上演した劇団カクシンハンが今年の夏も、同じ演目を『薔薇戦争』と銘打って連続上演することになった。現在上演中。全部見ると7時間越えという上演なので、この猛暑、わざわざ見に行く気にならないかもしれないが、私のように『ヘンリー六世』三部作を一日(休憩をいれて三部作で4時間30分くらい)で、もう一日で『リチャード三世』(2時間30分くらいか)というように二日にまたがれば、体力的にそんなに苦しいものではないし、劇場にいるかぎり、猛暑を避けることができる。そして長時間だが、あっというまに終わるという迫力に満ちた舞台なので、別にシェイクスピア作品を予習・復習しなくとも、充分に普通に楽しめる貴重な演劇体験を得ることができる。実は、池袋の東京芸術劇場プレイハウスのシェイクスピア『お気に召すまま』の公演を観たあとで、これを書いているせいもあるのだが、今回観た『お気に召すまま』のようなくだらない公演にお金と時間を費やすくらいなら、絶対にカクシンハン版の『薔薇戦争』は見るべきである。

2016年の上演では『ヘンリー六世』三部作はポケット公演で、正確には覚えていないが、三部作の各作品を1時間ちょっとの作品にまとめたものだったが、今回は、本公演である。とはいえ馴染のない作品を省略せずに上演することはむつかしいので、各作品を70分から90分くらいの内容にまとめている(ただ、それでも三部作は通してみれば、休憩時間も含めて4時間30分はかかる)。そのためポケット版よりも少し詳しくなったくらいで、ポケット版の時の印象とかわらない。コンセプトはポケット版のときと同じである(ただし改良が加えられていることはいうまでもないが)。

そのため2016年に観たときと同じ感想をいだいた。もちろんよい感想であるが。つまり、このカクシンハン版『薔薇戦争』(『ヘンリー六世』第一部・第二部・第三部『リチャード三世』)は、まるでシェイクスピアがカクシンハンのために書き下ろしたかのような、そんな作品だという印象を、2016年も今回も受けた。

実際、カクシンハン版の『薔薇戦争』は、シェイクスピアの初期の歴史劇の良さ、面白さ、迫力、エネルギーを、たとえ簡略版であっても、あるいは簡略版であるがゆえになおいっそう、観客に生々しく伝えてくれる。と同時に、シェイクスピアのこの三部作+一作品は、あたかもシェイクスピアがカクシンハンのために書き下ろしたのではないかと思えるほど、カクシンハンのパフォーマンスの良さを、面白さを、エネルギーを、みごとに伝えてくれているのだ。

いまのところカクシンハンが上演してきたシェイクスピア作品のなかで、この『ヘンリー六世』と『リチャード三世』は、ベストマッチではないかと思っている。もちろん、これから、さらなるベストマッチ作品があらわれるかもしれないから、いまのところという保留はつくが、とにかく、カクシンハン版歴史劇には、わくわくするような面白さとがある、激しい演劇的強度と集中がある。そしてそこには、抒情性と演劇性、情念と知的洞察、感動と批評、すべてが混然一体化した完成度の高い演劇実践が、まぎれもなく実在している。

以後、数日にわたって、『ヘンリー六世』と『リチャード三世』について書いていきたいだが、もちろん、それはカクシンハン公演とは独立した作品覚書ではなく、カクシンハン公演とまさに一体化した作品覚書であることはいうまでもない。つづく



posted by ohashi at 07:02| 演劇 | 更新情報をチェックする

2019年08月08日

『よこがお』

深田晃司監督、2019年、日仏合作映画だが、舞台は現代日本の話。

クィア映画である。復讐劇と記述されていたのだが、映画をみているうちに復讐劇という言葉は消し飛んだ。これは正統的なクィア映画である。レズビアン映画といってもいいが、レズビアン的欲望に留まらない名づけ得ぬ欲望も盛り込まれているからクィア映画といっていいだろう。そしてさらに宣伝文句では、同性愛的欲望の登場について一ミリも触れていないという点でも、まさに正統的なレズビアン、クィア映画である。それ、つまり触れないことがよいこととは思っていないのだが。

また一般の反応でも、あきらかにホモフォビアによって使用される語彙を使って感想述べている観客が多い。これもクィア映画たるゆえんだろう。

レズビアン・ヴァンパイアの罠にはまり、職をはじめとしてすべてを失った女性、筒井真理子が、復讐に走るかというと、しかし、彼女のなかにもレズビアン的欲望があり、さらには彼女の存在が、レズビアン的欲望を誘発した可能性もあり、復讐は、ドリアン・グレイ方式になる。つまり相手にナイフを突き立てたと思ったら、自分にナイフがささっていたというような。

ラスト近くの場面が象徴的である。自分を陥れた女が遠くに立っているのをみかけた筒井は、猛然とその女にむかって走り、近づきぶん殴ろうとするが、その前に、相手のほうがいちはやく、筒井を殴るのである。殴られて倒れて悶絶する筒井。しかも相手とみえたのは、実は、筒井の妄想であって、結局、自分で自分の首を絞めるようなかっこうになった。彼女はレズビアン・ヴァンパイアの無辜の被害者ではない。彼女の抑圧されたレズビアン的欲望が、相手のレズビアン的欲望を刺激した。こうなると復讐などできない。怒りをぶつける相手がいなくなるというか、そこには自分もふくまれてしまう。この脱構築状態に捕らわれた彼女にとって、できるのは、怒りと悲しみと悔恨と自戒の混然一体となった閉塞的感情を爆発させることである。車のクラクションを延々と鳴らしたり、やけくそになって車を爆走させたり、と。

したがって心の迷宮への入口はひとつ、それも簡単に認識できる単純な入口だが、出口がたくさんありすぎて、出口なしに等しくなっている。鬱屈した感情は、もはや出口を失い、爆発するしかなくなる。あるいは、最初は、単純な選択ミスと思われたものが、クィアな欲望が全開となる。実際のところ、もはや失うものがない主人公は、かえってふっきれて、新たな人生を踏み出すことができるのではないか、そんな結末を予想したが、ただ、ふっきれないまま叫ぶしかない主人公で終わった(実際に叫んでいるわけではないが)。

なおカンヌ映画祭のある視点に出品されただけあって、ある意味、外国人向けというべきか、心理のあやを、丁寧に、また綿密に、緻密な計算のものと提示している。ふつうの日本映画なら、もっとぼかすようなところも、図式化と象徴性の横溢によって説明不足とならないように配慮されている。たとえば、職を失い、頭髪を緑色に染めた筒井真理子が、海辺で、服を着たまま海に入って行くシーンがある。彼女の妄想というか、幻想あるいは心象風景のだが、この水あるいは水辺のシーンによって、彼女のなかに潜む同性愛者の欲望が、そうと語られなくとも映像的に示唆されるのである。

あるいは動物のイメージの多用。動物園まで登場する。印象的な動物園シーンは、主人公と女性との会話(事件前の)と主人公と男性との会話(事件後の)からなり、動物が人間の性欲を、それも囲われて抑圧されてもなお消えることのなない性欲の象徴表現となるという、ある意味、分かりやすい寓意性も外国人向けといえなくもない。

なお日常の出来事が淡々と示されると最初に思い込むので、違和感のある展開に戸惑うことになる。彼女は、ふつうのマンション暮らしかと思うと家具もおいていないみすぼらしいアパートの一室で暮らしているようにもみえる。彼女は二重生活を送っているのかと、ならばそれはなぜかと謎めいた展開に驚きまた違和感をいだくのだが、実は事件前と事件後の主人公の行動を並行して描くことになっていると、やがて気づく。

たしかに事件前と事件後では着ているもの、住んでいるところ、髪型などで、区別されているとはいえ、事件後の出来事も、時系列を往復することになり、やはり戸惑うことになる。

いや、戸惑うだけならまだしも、時間関係ととりちがえたり、過去を現在と、現在を過去と思いまちがえたりすることによって、着実に、現実が幻想化してゆく。また彼女自身、嘘をつく。その嘘が最終的に抑圧された性的欲望という真実をあぶりだすことにもなるのだが、ここで二重性がさらにふえる。つまり事件前と事件後の並置による二重性だけでなく、事件の時系列展開にも往復運動があり一見淡々としてみえて二重性を胚胎させているし、さらに彼女の言動にも、事件前と事件後にも二重性があり、二重性は増殖していく。このことは頭のなかで整理するまで時間がかかる面倒な展開であるのだが、同時にそこに映画の語りの面白さがあるともいえて、その一筋縄ではいかないところが、この映画の興味をそそる特性となっている。

おそらく、それもまた映画のクィア性の要素に付加されてしかるべきものと思うのだが、この考察については、機会があればまた。

posted by ohashi at 20:12| 映画 | 更新情報をチェックする

2019年08月07日

『凪待ち』

トラウマの定義というか、比喩のひとつにチューインガムというのがある。これは別に私の勝手な思い付きではなくて、実際に論じてある文献もあるのだが、トラウマ=チューインガム説の根拠とは、何か? どちらも消化できないことにある。

嫌なこと、悲しいことがあっても、人間は、それをときとともに忘れていったり、その衝撃を和らげたり、慣れたりして、克服してゆく。それは、人間が、摂取した食物を、体内の消化管で消化して、必要な栄養分をとりこみ、あとは排出するのと同じである。この物理的・身体的過程が、心的過程に、そのままあてはまるのだ。衝撃的な出来事も、無理やり忘却の淵に追いやるべく排除するか、あるいはそれを有意義な経験として自らのなかに精神的養分として取り込むとすれば、それはまさに消化の過程と同じといえよう。

ただトラウマの場合、衝撃的な出来事が消化されないのである。どんなに時をおいても、一瞬前の出来事のごとく、よみがえり、主体を苦しめる。それは決して消えてなくならない。消化されることもなく、栄養分になることもなく、経験として心的成長に寄与することもない。むしろただ悪性腫瘍にように、主体を内側からむしばむだけである。どんなに忘れようとしても、消し去ることのできないもの。消化されずに残るもの、それはチューインガムと同じ。チューインガムの場合、どんなに噛み続けても消化されず、たとえ呑み込んでも、消化されずに排泄されるだけである。

『凪待ち』では妻の実家(とはいえ、実際には妻ではないとわかるのだが)にもどり、そこで新生活をはじめるところから物語は動き始める。その実家がどこかはとくに説明されないのだが、映像をみると、驚く。この入り江は、東日本大震災で津波が押し寄せた地域のひとつである。

震災後の被害を検証するなかで、いろいろな映像を、テレビやネットや映画でみることになったが、この入り江は、テレビでもみたし、3Dのドキュメンタリーでもしっかりみたことがある。あれから8年後の今、復興が進んで震災の影などどこにもない区域から、いまなお震災の傷跡を残す区域まで、まだらになっているこの地の現状が、映画のなかでも時折映し出される。この地域を震災後訪れたことはないが、しかし映像的には私たちは何度も地域の惨状から復興状態までをみている。そう、見慣れた光景あるいは日本文化の原風景のひとつとなりおおせている地域。そこでドラマは展開する。

ネットなどの評価が高いこの映画だが(もちろん、それは当然のことと思うのだが)、香取慎吾扮する郁男の、実質的な妻の実父が、娘の夫ともいうべき郁夫を、つまり、このギャンブル依存症から脱け出すことができずに、身の破滅を繰り返すダメ男を、なぜ助けるのか、ただ心優しいだけなのか、それがよくわかないという評価や、そのことに触れていないコメントがある。

映画のなかの香取慎吾にとって義理の父にあたる人物が、娘の実質的な夫である香取慎吾を最後まで助けつづける理由は明白である。ただ、それがネタバレになりそうなので、多くのコメントが触れたがらないのではないだろうか。しかし、あまに内容に踏み込まないでいえば、二人はトラウマに苦しむ者どうしというかたちの絆で結ばれるのである。

義父のトラウマは、震災時に、妻の死の責任は自分にあると感じていることらしい。香取慎吾のトラウマは、震災とは関係がないのだが、義父のそれと結び付けられることによって、彼の個人的苦悩が、共同体の苦悩と共鳴することになる。おそらく、この共鳴を組織できたことによって、この映画は成功したといっても過言ではない。

共鳴。シンクロ。それは震災の直接の被害者ではない人間が、震災の被害者の苦しみを共有できる可能性を開くことになろう。香取慎吾の個人的苦しみが、共同体の苦しみと呼応することによって、そこにかすかな希望も見出せる。

そもそも震災で亡くなった人々の死に対して、生存者が罪悪感をいただくことは、よくあることだが、ただ、自然災害による死に、個人の責任はない。もしそうなら、つまり震災での死に対しても、生存者が責任を感じてしまうというのなら、私たちはすべての死に対して責任を感じてしまう、あるいは感じなければならないということになる。おそらく、そこまで責任を感ずることはないだろうし、感じてもしかたがないのだが、無関係な他人の死と、自分が直接責任を負う人の死、この中間にあるのが、自分にとって身近な者の死(その身近さには幅があるのだが)ということになろう。身近な人の死に対しては、直接責任はなくとも、責任を感じてしまうのである――生き残る者は。生き残った者たちがいだく責任(想像的な責任)は消えることがないだろうが、同時に、直接責任のないところに責任を感じてしまうということであれば、その想像の責任から覚醒して脱却することも可能となる。

と同時に直接責任はなく(たとえば刑事罰に問われるような責任はなく)、想像の責任しかないのなら、その責任感は失いたくないともいえるし、死者に対して想像的責任感をいだくかぎり、その死者は私たちの意識のなかで、あるいは良心のなかで生き続けることになる。私たちの苦しみや悲しみのなかに、死者は生きているのである。

したがって苦しみが苦しみでなくなる瞬間――責任感はもたなくていいのだと覚醒する瞬間。それを待ちながら、それが来ることを予感しながらも、同時に、それが来てほしくない気持ちもある、まさにそれこそ、「凪を待つ」としか表現できないような時間ということになろう。

映画のなかで犯人は私にとって意外な人物だったが、ネット上には犯人はすぐにわかったと、マウントしたがるバカがけっこういたが、あらすじを読んですぐにわかったというのがほんとうであれば、あらすじを書いた人間は責任をとるべきだろう。私はあらすじを読んでいないので、何とも言えないのだが、そもそも、その死は、犯人が誰かを推理したくなる犯罪というよりも、行きずりの犯行であり、自然災害に近いものと私は考えていたので、犯人が誰かなど、考えもしなかったし、犯人が逮捕されたとき、犯人の人物が意外であったこともさることながら、犯人が逮捕される物語展開のほうがもっと意外だった。つまり犯人探しに比重が置かれてしまうと、主人公の直接的責任の有無ということが問題となる。だが、これが自然災害と同じ不運だったというふうにシフトすると、主人公が感じる責任は想像上のものとなって、そこに救いの可能性が出てくる。また、相であればこそ、同時に、犯罪よりも自然災害、つまり震災のもたらす悲しみとの連続性が生まれる。

トラウマのイメージは、映画に頻出する。たとえば義父は末期癌に犯され余命いくばくもない状態なのだが、癌というのはトラウマに近いステータスにある。かつてスーザン・ソンタグは「隠喩としての病」というエッセイのなかで、結核と癌を比較して結核には、文学的にロマンティックなイメージがつきまとうが、癌には、ただマイナスのイメージしかないことを指摘し、また病の過度に意味付けることの危険性に警鐘を鳴らしもしたのだが、結核に比べてプラスの文化的イメージのない癌だが、知らないうちに腫瘍ができ、それが悪性腫瘍となって広がり、主体の命を奪うという癌は、トラウマにちかい。また実際、トラウマがもたらす心的ストレスは悪性腫瘍の原因にもなることがあって、癌とトラウマとは親しい関係にある。

あるいは映画のなかで香取慎吾が陥るギャンブル依存症。川崎から石巻へとやってきた香取慎吾は、競輪ギャンブル依存症だけあって、若い同僚たちがノミ屋で競輪に賭けるときも、香取はベテランの風格をみせて、あれこれ競輪の賭け方の指南をするのだが、また、その指南で、若い同僚たちは賭けに勝ったりするのだが、本人は、一度も賭けに勝ったことがない。ずっと負け続けるのである。まただからこそ依存症なのであろう。賭けは、成功体験を反復しようとすることとはちがうだろう。実際のところ、成功体験など打ち消してしまうような失敗の連続があるからこそ、そして次は失敗しないと覚悟をきめて、ふたたび失敗し、失敗しつづけるからこそのギャンブル依存症なのである。さらにいえば、ギャンブル依存症は、最終的に失敗しないと納得しないような、失敗しないことなどあってはならないような、失敗依存症ともいうべきものとなっていく。成功などもとめない。失敗しか期待しなくなる。解消されない失敗の連続はまた、トラウマのイメージそのものでもある。

成功するまで賭けるのではなく、失敗しつづけるから賭ける、いや失敗したいから賭けるというところにギャンブル依存症の怖さがある。

かくして震災のトラウマとギャンブル依存症が並置されることによって、化学反応が起こる。おそらく誰もが震災のトラウマから逃れたい。それはギャンブル依存症から逃れたいのと同じであろう。だが、依存症がそうであるように、ほんとうに脱却したかは疑わしいのである。トラウマがもたらす耐えがたい記憶は、実は、どんなに耐えがたくとも忘れたくない無意識の願望のあらわれかもしれないのであり、自分にとって、どんなに苦しくとも忘れたくない、あるいは想起しつづけたい記憶をもつこと。それがトラウマの効果かもしれない。ギャンブル依存症の終わりは、勝利や成功の瞬間である。どれほど勝利を望んでいようとも、勝利は、ギャンブルの終わりである。成功体験を反復したいという願望もあるのだろうが、むしろ成功は失敗までの猶予であって、真に望まれているのは失敗である。そして失敗があれば、反復あるいは依存への道が開かれるのであるとすれば、ギャンブル好きとはいっても、成功を求めてのギャンブルではなく失敗を求めてギャンブルにはまるのである。おそらくトラウマも、忘れないための、苦しみである。思い出すことで苦しい思いをする。苦しい思いをすれば忘れない。まさにこの苦痛想起への依存症がトラウマなのである。

そしてトラウマは、逆説的ながら忘却への抵抗である。トラウマほど忘却と親和するものはないと思われているが、実は、忘却しないための心的装置がトラウマだということがいえるかもしれない。

この映画の衝撃が最後のエンドクレジットに登場する。おそらく石巻沿岸の海底の映像だろう、そこには震災の津波によってもたらされた瓦礫が埋まっている。瓦礫といっても原型をとどめぬものから、原型をとどめているものまでさまざまで、そこには壊れた家具とか自転車などが朽ち果てずに残っているのだ。海底に。震災の津波のなまなましい痕跡として。

まさこの映像が、この映画の狙いを良く物語っている。震災の記憶は、いまや消えかかっている。この海底の瓦礫のように。いずれは自然解体され、記憶のかなたに遠のいていく。苦しみの終わる日も近い。過去に捕らわれていることもそろそろ終わりにして、明るい未来ではないとしても、やすらぎの未来を夢見てもいい頃かもしれない。

と同時に、この最後の映像の衝撃は、まだ震災の津波で流された瓦礫が海底に残っていることだ。あれから8年たっても。私たちがそろそろ忘れかかっていても、震災の災禍は決して消えたわけではなく、海底で、じっと、しかし、同時に、雄弁なる沈黙というかたちで眠っている。まさに、これは消化されないガムだ。トラウマそのものともいえる原風景だ。そう、震災は終わっていない。決して終わっていない。そして震災によってもたらされた不幸と日々向き合ってきた人たちにとっては、この消えることのない爪痕を、苦悶のなかで残し続けることが、生き残った者の責務であるかのように思えてくる。

はたしてやすらぎは、凪は、あるのだろうか。私たちは、まだ岐路に立たされている。

追記

これもまた映画の主題と関係すると思われるのだが、香取慎吾演ずる郁男、ギャンブル依存症であり、奥さんのささやかな貯金をギャンブルに使い果たす。もちろん、そんなにお金があるはずがなく、ほとんどギャンブルで負け続けるのだが、それでも、積もり積もって巨額の賭け金をギャンブルに投入する。これにはある意味驚く。彼は、義父が漁船を売ったお金もギャンブルにつぎ込んで失うのだが、しかし、最後には失ったお金を取り戻す。金銭的に困窮しないところで終わる。考えれば不思議である。しかしこれは主人公が強運であることの象徴ではないだろうし、かといってご都合主義的な物語展開でもないだろう。金銭の問題は、経済活動や投機や賭けなども含め、一定の秩序というか、エネルギー保存の法則のようなものがあって、最終的にプラス・マイナス・ゼロのようになるような、人間の運も意志も超えた法則なり秩序のようなものの存在を予感させる。失えば儲かり、もうかれば失う。そうしたなにやら自然法則みたいなものを金銭の世界は体現しているところがあり、主人公の苦悩も、自然と消えていく、苦しみもいつか終わり、希望にかわるというような暗示がある。その意味で資本主義の精華であるのような金銭に救済の可能性を見出しているのは面白いと思った。


posted by ohashi at 19:04| 映画 | 更新情報をチェックする

2019年08月04日

『トム・オブ・フィンランド』

トム・オヴ・フィンランドのイラストは有名で、昔からよく知っていたし、「トム」が死んでから出版された短い評伝を私は購入していた。ただ、いつのまにか自宅の蔵書のなかにまぎれてしまい、読むチャンスがなかったのだが、今回の映画の公開にあわせて、本気で捜索して、ようやくみつけた。あいにく見つかったのが映画館に行くその日の朝だったので、映画を観る前に読むことはできなかったが、伝記映画であるので、映画を参考にしながら今読んでいる。

ちなみにその本F. Valentine Hooven III, Tom of Finland: His Life and Times(St. Martin’s Press, 1993). 購入したのが1993年だったかどうか記憶にないのだが、20世紀に購入したのはまちがいない。素晴らしい本で、200頁弱の短い本で、イラストが豊富で、見ているだけでも楽しい本だし、ほんとうに自分で翻訳したいくらいだが、あいにくフィンランド語とフィンランド文化に無知なので(フィンランドとソ連の戦争については詳しいのだが)、翻訳は断念するしかない。まあ、翻訳しても、トムの妹と同様、私の妹も、こんなデカチンのイラスト満載の本を出して、どういうつもりかと、非難されるかもしれないが。

とはいえ、この本は、本当に素晴らしい本で、トムの画業がこの一冊でよくわかるし、伝記を通して歴史や文化もよくわかる。またこの本の写真から見る限りのトムは、映画のトムとうり二つである。というか映画のトムが本物のトムにかなり寄せていることがわかる。映画のなかの愛人のヴェリも、ダグも、本物によく似ている。

そしてこの本のカバーはトムのイラストだが、肝心なところが本のタイトルで隠されている。ところが映画のパンフレットを購入したら、表紙はトムのイラストだが、この本のカバーよりも、もっと攻めていて、素晴らしい。あまり人前では魅せられないのが残念だが。

トム・オヴ・フィンランド、その人については残念ながら何も知らないも同然だったので、たとえばフィンランドで人気のあるイラストレイターが、アメリカ人のゲイカルチャーに見出されたか、あるいはフィンランド出身のアメリカ人イラストレイターがアメリカのサブ・カルチャーあるいはゲイ・カルチャーで人気を博するようになったのではという、漠然とした印象しかなかったのだが、よく考えれば、そんな簡単なことではないということが、この映画をみてわかった。

というのも私の漠然とした印象は、実は、トム・オヴ・フィンランドにインスパイアされたゲイ・カルチャー以後の世界しかみていなくて、それはもう自然そのものであって、その自然をトムのイラストが反映していると勘違いしたのである。トムが、このゲイ・カルチャーのインスピレイション源のひとつであり、トムがつくりあげたカルチャーであるという認識を新たにさせてくれたのがこの映画であった。

映画によればトムの出発点は戦争である。ソ連との、おそらく「継承戦争」。まだ東京では上映しているかもしれないフィンランド映画『アンノウン・ソルジャー』で描かれた戦争である。その死のトラウマからの脱却。それがトムのアートの源泉にある。いや、死は戦争だけではない。トムの愛人ヴェリは癌で死亡する。そしてゲイ解放の時代にエイズ禍がふってわく。同性愛者たちはエイズの元凶として迫害攻撃さえるようになる。トムの生涯に、またゲイカルチャーに、死は絶えず寄り添っている。トムのゲイのイラストは、ある意味、翳りのまったくない天真爛漫なペニス賛歌の世界、デカマラ賛美の世界である。それは死を抑圧している。いや死を克服しようとしている。

2次大戦後まもなくの時代、フィンランドでは、同性愛は違法行為であり取締りの対象だった――後年、トムがカリフォルニアでゲイの集まりに招かれたとき、そこに制服警官が数人侵入してくる。ゲイの取り締まりかと一瞬思うのだが、コンビニ強盗を追っているという。ゲイの取り締まりは、もう過去の出来事となっていた。だが、それまでの間、トムのイラストは非合法であったことを、この映画は思い起こさせてくれる。たしかにトムのイラストはポルノ、それも通常のポルノよりも、さらにもっと忌み嫌われるゲイ・ポルノであって、それが認められ人気を博するのは、並大抵のことではない。偶然と努力の積み重ね。どうしたら非合法的なポルノ・イラストが日の目を見るようになったのか、その間のプロセスを、すべてではないとしても、ある程度推測できるようなかたちで映画は暗示的に提示している。そしてそれは同時にまた、ゲイカルチャーのメイキング過程とも重なるのである。トム自身がゲイ・カルチャーの作り手でありまた体現者でもあった。そのことがよくわかる映画となっている。

もちろん先の本の写真を見る限り、映画はトムがイラストは描いた机までも正確に再現しようとしていることがわかり、その史実への配慮に感銘をうけた。2017年の映画である。まったく知らなくて、見過ごしていてもあたりまえだったが、見ることができて幸福だった。

posted by ohashi at 17:36| 映画 | 更新情報をチェックする