岡田将生ファンの私としては、彼の舞台は、可能なかぎりみることにしているのだが、同時に、チケットを獲得する手間が煩わしくて、知人に頼みっきりという無精な性格を丸出しなのだが、そのぶん、あまりいい席が取れない。今回も悪い席がひとつあるが、いいかと言われてよいと返事をした。
当日、シアター・クリエの座席表で自分の席を探したが、ない。ほんとうにない。~番扉から入れとチケットに書いてあるのだが、その~番扉も、座席表にはない。受付では、係りの者が案内するから待つようにと言われていたので、そばにいた係りの女性にチケットを見せた。すると連絡をとってくれたみたいで、すぐに若い男性が現れ、こちらへと席に案内してくれた。ボックス席だった。私一人のために係員が席まで案内するというのは、悪い席というよりもよい席ではないかと思ったのだが、ボックス席なので、少し値段が高いことがわかった(やっぱり悪い席か)。また客席からみて舞台の左側は、身をのり出さないと見えないのだが、危険なので身を乗り出すことのないようにとくぎをさされた。だから、舞台で観えない部分がある。良い席なのか、悪い席なのかわからない。もうひとつ帰りにはボックス席の観客のために特別なドアを開けてくれた。そこを登ると、誰よりも早く劇場の出口にたどり着いた。混雑する前に、真っ先に劇場を後にできたので、よい席なのかもしれない。
岡田将生その人と、いいのか悪いのかわからない席に気をとられて肝心の舞台作品については、そもそも作品そのものに期待していなかったので、どんな作品なのかもまったく関知せずに劇場に出かけた私としては、作品について知って思わず驚いた。
アレクシ・ケイ・キャンベルの作品だった。とすれば文学座で広田敦郎翻訳、上村聡史演出で『信ずる機械』とか『弁明』を文学座でみた作家ではなかったのか(残念ながら『プライド』はみていない)。それを座席についてから、初めて知るというのも、恥ずかしい話だが、逆に、アレクシ・ケイ・キャンベルの作品だとわかっていたら、もっと早くチケットを手配していたのかもしれない。キャンベルの作品をシアター・クリエで見ることができるというのは、ある意味驚きであり、また感慨深い。たしかにシアター・クリエはちゃらいミュージカルだけを上演しているのではなくて(シェイクスピアの『恋の骨折り損』のミュージカルを今度上演するそうだが、年金生活者の私には高い金を払って見に行く余裕も意欲もない、ちゃらそうなので)、通常の演劇作品も上演している。
ミュージカル以外にも、シェイクスピアの『お気に召すまま』や『死と乙女』をシアター・クリエで観たことがある。ただ文学座のアトリエなどで観ていたキャンベル作品が、まさかシアター・クリエで岡田主演でみることができるとは夢にも思っていなかった。
しかもはじまってみると『ブラッケン・ムーア』は、これまでみた『信ずる機械』とか『弁明』とも違う、時代物である。いったい何が始まるのか、あるいは大した事件もないまま淡々と続いていくのかと思ったら、幽霊話になった。英国ゴシック風演劇とでもいえるものとなって、幽霊が本物なのか、トリックなのか、わからなくなっていき、後半の謎解きに期待した。謎は確かに解明された。ネタバレになるので書かない(プリーストリーの『夜の訪問者』と似ているという話があったが、資本家や資本主義批判、幽霊かもしれないということもふくめれば、『夜の訪問者』に似ているというか、そういう作品の雰囲気を意図的に狙っているのだろう)。
ただ理論的にはネタばれになるかもしれないことを書く。劇場で作品を楽しむときのさまたげにはならないだろう。
同一化の欲望(To beの欲望)と所有の欲望(To haveの欲望)でジェンダーと欲望の関係を考えると、たとえば私が男性だとして、私が他の男性に対して同一化の欲望をいだくとき、私は同性愛者ではない。むしろ異性愛者であって、私は他の男性と同じように、女性のパートナーをつくろうと思う。もし私が他の男性に対して所有の欲望をいだくとすれば、つまり男性である私が、他の男性をパートナーにしようとすれば、私は同性愛者ということになる。
しかし、こういうことも考えられる。例外的なケースとは思うが、男性である私の周囲には男性同性愛者がいっぱいいるとする(おっさんずラブの世界というよりも、同性だけの集団(学校とか軍隊とか)ならなんでもよい)。そうすると私もほかの男性と同じように、男性のパートナーをつくろうとする。この場合、私は同性である男性に対して、同一化の欲望をいだきつつ、一部の男性に対しては所有の欲望をいだくことになる。
ただ、いずれの場合も、また単一のジェンダー集団の場合も、私が同一化したい欲望をもつ男性と、私が所有したい欲望をもつ男性とは、明確にわけられる。同一化の欲望と、所有の欲望とは混同してはならないし、混同できないというのが、原則である。
だが同一化の欲望に愛はないのか。たとえば、ある物でも人物でもいいが、ある物Xが、ある人物の所有となっているとき、私も、そのX(そのものではなくても、同類の物でもいのだが)を欲しいと思うとしたら、それはたんに模倣(機械的自動的同一化の欲望)、あるいは猿まねによって、自分もそれが欲しいと思う場合もあるが、私が、その人を敬愛していたり、ライバル視していたら(敬愛の変形)、私は、Xを心から欲望することになるだろう。私の欲望は、同一化によって刺激されるのだが、しかし、機械的な模倣の欲望ではなく、愛が関わっている。もし私が軽蔑する誰かが、Yという理由で表彰されたとしたら、私は。そのような表彰を軽蔑するだろうし、よもや私も同じようなかたちで表彰されたいとは思わないだろう。もし誰からも人気のある女性が、私の軽蔑する男性の妻だった場合、私は、その女性を軽蔑するだろう。私の欲望を刺激する同一化の欲望は、自分にとって好ましい者あるいは理想像との同一化であって、同一化には愛がある。
また同一化には、もちろん想像力が必要となる。想像力なくして同一化はない。となると想像力がなく、同一化する対象のない人間は、永遠に呪われた孤独の地獄に生きるほかはない。もし、この孤独の地獄からの抜け道があるとしたら、自分が失ったものを取り返すことであろう。抑圧されたものが回帰する限り、その恐怖と向き合う限り、救いはまだあるのである。幽霊物語は、それでもまだ救済物語なのである。
シアター・クリエでの公演は、岡田将生もふくめて、いかにも、それにふさわしい俳優によって演じられていて、まるて原作者が今回の俳優を念頭にあてがきしたかのようである。そのぶん、適切な配役の迫力のある芝居となったのだが、同じ一つの居間だけで、また言葉、言葉、言葉によって、過去を回顧し、未来を予測し、文明を批評し、そのオールタナティヴを語りながら、1930年代のイングランドの社会と文化を暗示させる劇作術は見事。まあ、文学座のアトリエで上演してもよかったような芝居ではあるが、岡田将生主演でシアター・クリエの、しかも私の場合、ボックス席でみることができたのは、よかった。
とはいえ不満がないわけではない。メイド役の前田亜季。彼女が出演しているのだから、なにか重要な役ではないか。あるいは事件とか死に関与しなくとも、家政婦は見たのような、そんな役割なのか。とりわけ劇の後半で、彼女の重要性が開示されるかと期待したが、結局、メイドで終わってしまった。立川三貴の脇役の二役といい、前田亜季のほんとうにただの脇役といい、ちょっと納得できない配役だった。とりわけ、岡田のファンであると同時に前田亜季のファンでもある私には。