2019年07月22日

『朝のライラック』

彩の国さいたま芸術劇場で、718日から28日まで、大稽古場(蜷川スタジオ)での公演となる、『朝のライラック』(世界最前線の演劇3)をみる。実は、この劇作品の公演を期待していたのだが、公演期間をうっかり忘れてしまっていた、というか公演が9月とかんちがいしていた。それを知ったのは、とてもありがたいことに、招待状がとどいたからである。さいたまネクスト・シアターの関係者でもなんでもない私としては、誰から招待していただいたのかわからぬまま、ただありがたかったので、719日、この冷夏のなか、予想外に暑い一日に見させていただくことになった。

イスラム国(ISIS)に占拠された中東の架空の町の学校で、ともに音楽教師をつとめる夫妻の抵抗と監禁、そして悲劇的結末を描く作品だが、ただたんに困難な状況に置かれ、暴力的な支配体制の犠牲になった夫妻という悲惨な事件を提示しても、それはそれでりっぱな作品なのだが、そうしたリアリズムの追及だけでなく、べつの現実、ありえたかもしれないオールタナティヴの可能性をもあわせて提示する、優れた演劇的仕掛けにみちた部隊となった。演出上の工夫もあったのだろうと思われるが、シナリオそのものが、二重性、三重性を実現しながら、メタ演劇的次元を有している。

後半、夫婦が隠れることになった学校の講堂の舞台。学校そのものがダーイシュ(と、イスラム国に批判的人びとが使う別称)の司令部となっているのだが、逆に、灯台下暗しではないが、そこに隠れることによって、姿をくらますことになるのだが、もちろん、そこに至るまでには夫妻が学校で教えていた生徒、ダーイシュの一員になりながらも、恩師を助けてくれた生徒の手引きがあったからなのだが、その物置に使われている舞台で、夫婦と、元生徒は、音楽劇の一部を演ずる。アラブ世界で古くから語りつがえる英雄物語ということなのだが、べつに気晴らしでそうしているのではない。ダーイシュの一員となった生徒、闇に堕ちたともいえる生徒を覚醒させ更生させるための(ひいてはそれがダーイシュからの逃亡を可能にする)必死のパフォーマンスである。

忘れ去られつつある古典劇を、物置となって機能を喪失している舞台で、ダーイシュによって文化が壊滅的打撃をこうむった廃墟の学校において、人目をしのんで演ずることの生死を賭けた抵抗として、過去の文化の反復だけでなく、未来への生存を志向するパフォーマンス。その緊張感のなかでの演劇性の炸裂のなかで、この劇は、中東の文化的政治的状況のみならず、全世界の文化的政治的状況に接続されるように思われる。

またもうひとつ特筆すべきは、歌が多いこと。その多さは、たとえば現在映画館で上映中のディズニーの実写版ミュージカル『アラジン』に匹敵する。『アラジン』に代表されるようなミュージカルが、主人公たちに、意味もなく突然、歌をうたわせたり躍らせたりするのに対して、この劇では、夫妻が音楽教師ということもあって、随所に挿入される歌は、理由がある。唐突で無意味な挿入ではない。またその歌は、どれも、既存の歌であると思うのだが、古くから歌われている歌であったり、彼らの音楽教育のなかで重要な働きをした音楽で、民族的過去や共同体的過去と歌い手をつなぐ機能をはたしている。歌は、あるい意味、政治的な機能を帯びているのである。

しかも、そうした歌は、リアルな切迫した状況のなかで、どこか非現実的で夢幻的な雰囲気をつくりだしで、出口のない状況のなかに、別世界の出口をつくっているようなところがある。もとより歌とか音楽には、そうした働きがある。つまり現実を超出する世界へとの誘い効果があるのだが。そしてそれはまた歌のもうひとつの政治的機能でもあるのだ。

ただし、同時に、歌は、国境を時代を超えない。いや古い歌でも時代を壁を超えて歌いつがれることから民族の記憶にもなるのだが、時間を超えても空間は超えられないところがあって、この演劇をみながら、自分が中東の住民であないことを残念に思った。というのも、もし私が中東の住民であったら、ここで歌われる歌は、まさに民族歌謡として心ふるわせるものであったらだろうし、なつかしさに胸が熱くなってもおかしくないのだが、残念ながら、同じ文化を共有していない者にとって、歌は、どこか唐突感と、悪い意味での非現実感(リアルからの超出よりも、リアル感の妨害)しか伝わらない。また、これはこの作品本来の意図ではないと思うのだが、ダーイシュの占領下・監視下にあって、のんきに歌なんかうたっていたら殺されてもおかしくないと一観客として思わざるをえない。たとえ歌をうたうことがダーイシュ支配への抵抗だとしても、こんな無力な抵抗では、抵抗の意味がないとしか思えないのである――ただし中東の住民なら、歌の魅力に感銘をうけて、そこまでは思わないと思う。

なおこの作品のアーキタイプは、『ロミオとジュリエット』であろう。困難な状況の中で、未来を生きようとした夫婦であったが、死を選択せざるをえなくなる。また二人を助けようとする人物もいる。すでに述べたように、夫婦が教えた生徒のひとりである。私がこのブログでも何度も書いているように、またナチスのホロコースト映画などで最近描かれるようになってきた「善き人」(助け人)の存在は、ここでも重要な役割をはたす。元生徒は、ダーイシュを裏切ってまで、恩師を助けようとするのである。『ロミオとジュリエット』では若い恋人たちを助けようとするのは恩師的なロレンス修道士だったが、この作品では恩師を生徒が助けようとする。ここまで書いたからもうネタバレの領域に入っているのだが、『ロミオとジュリエット』ではロレンス修道士が二人の駆け落ちを画策しても、情報の行き違いから悲観した二人は命を絶つのだが、この作品でも元生徒は、逃亡の手はずをととのえて、隠れ処になっている舞台に入り、そこで自害している恩師である夫婦をみて呆然とするのである。

「善き人」であるこの元生徒は、今後、日本も安倍一味によって全体主義化がすすむだろうから、もう他人ごとではないのだが、たとえ、私自身、抵抗運動や反政府運動に参加できなくても、参加する人をかくまい、助けることは、せめてもの抵抗であり、せめてもの私の存在意義だと思っている――それゆえに「善き人」問題は、追究されてしかるべき重要な課題だが、この元生徒は、イスラム国/ダーイシュに、父親と母親を殺されたという。ともに背教者、異端者の烙印をおされる。そうなるとふつうはイスラム国に復讐する側にまわるのではないか。たとえば、一般人に蔑視されたり差別されたり冷遇されたりし、あげくのはてに両親を間接的であっても殺された子供が、おおきくなって反社会勢力の側になって、社会に復讐しようとすることはよくわかる。しかし、この演劇作品の世界では、両親を殺した側になる。ダーイシュが両親を殺した。そしてダーイシュの先兵となって働くようになった。それは、どういうメンタリティなのだろうか。アフター・パーフォーマンス・トークの場で原作者のカンナーム・ガンナーム氏がいたので、もし質問が許されるのなら、その場で、質問しようと本気で考えていたのだが、質問の時間は、最初から予定されていなかった。

というか他人にたよるよりも自分で考えるべきだろうから、そうするしかないが。結局、問題は、両親を殺した側につくことの謎につきる。この青年か少年は、両親がムスリムとして恥ずかしい存在とか異端者だとは思っていない。両親は、敬虔な信者であったと確信している。にもかかわらずイスラム国に冤罪あるいはみせしめのように背教者扱いされ殺された、母親は性奴隷とされ殺されたらしい。となればダーイシュの悪は明白である。それなのになぜダーイシュに加担するのか。無実の両親が殺されたことの恐怖が、彼を敵方につかせたのか。あるいは敵といっても、宗教勢力である。神を味方につけて絶対的宗教的真理を標榜し、つねに正しい側にあるという宗教勢力と表裏一体化しているダーイシュにとって、たとえどんなにダーイシュが不逞の輩で腐敗し私利私欲に走っているだけだとわかっても、信者たるもの逆らうことができなかったのか。あるいは汚名にまみれた両親の汚名をそそぐためにダーイシュの戦士となることにしたのか。さらにいえば家族を殺されて孤独の身となった彼にとって、ダーイシュ参加する以外の選択肢はなかったのかもしれない。

この元生徒は、なにもわからないまま洗脳されてしまう幼い子供ではない。ダーイシュの真実の姿も把握しているし、恩師たちによる教育の影響を受けている。いわば半身はダーイシュだが、半身は世俗的啓蒙化された人間である。こうした二重性を、ダーイシュの戦士といえども生きている。そしてそれはアラブ世界全体の住民たちの最大公約数的ありようということなのだろうか。引き裂かれと矛盾。それを統合しようとダーイシュは暴力的に支配し、反ダーウィシュ勢力は啓蒙化する手段をとる。分裂と統合。そこに最大の悲劇があるのだろうか。

と、疑問になってしまったが、ダーウィシュの戦士となった元生徒は、戦って死ぬこと、殉教によって天国に行けると信じこまされている(本人は、そこまで信じていないとしても)。そこで教員夫婦は、彼に死ぬのではなく生きるように説得する。ここにあるのは宗教と世俗主義との対立である。しかし皮肉なのことに、生きるように説得した夫婦が、死を選んでしまう。元生徒のほうは最後まで生きている。これはたんなる皮肉なのか。あるいは、世俗主義も、実は宗教の裏返しという、最近というか一昔前からの議論の延長線にあるものなのか。またもや疑問に終わってしまったが、この作品に触発される思考は実に多い。安倍一味がこの国を強奪してイスラム国まがいの恐怖政治を実現する時代において、私たちひとりひとりの生存のための重要な示唆を、この作品は限りなくあたえてくれることだろう。またそう確信できるほど、演技者の演技が素晴らしかったことは最後に明記しておきたい。

追記

明記のあとに。作者はパレスチナ人である。ガッサン・カナファーニー原作の『ハイファに戻って』が代表作ということらしい(同名の小説は私は翻訳で読んでいる。まあ『太陽の男たち』と並んでカナファーニーの有名すぎる代表作のひとつだから読んでいても当然なのだが)。そうするとイラクとかシリアとかヨルダンといったイスラム国に蹂躙された中東地域の物語だが、どこかパレスチナの現実と通ずるところがあるかもしれないと思ってしまう。

それは学校が舞台になっているからである。学校と行っても廃墟に等しい学校なのだが。イスラム国と同様イスラエル政府もパレスチナ人の学校を狙っている。学校を閉鎖する政策に出ている。パレスチナ人の自治区にいくと、週日の昼間には街には子供たちがあふれている。学校が閉鎖されているから、終日、街でぶらぶらしてすごすしかない。もちろん心ある親なら、家庭で、子供たちに勉強させて、基本的な知識とか教養をみにつけさせようとするだろうが、親たちも生活することに必死であれば、子供たちを教育する時間的余裕はないだろう。かくして学校を閉鎖されることで、次世代の若きパレスチナ人たちは無知蒙昧の徒となるばかりで、民族的文化も継承することもなく、頭脳の発達もない、ただの愚か者になりさがる。こうしてイスラエルはパレスチナ人の間接的な民族抹殺を図っているのである。イスラエル政府のこのやり方は絶対にゆるされないだろう。

イスラエル右翼は、パレスチナ人を学校に行かせると、民族教育、原理教育がほどこされて、子供たちはテロリストになると思い込んでいるかもしれないが、実際は逆である。学校もいけず、読み書きも、計算も、基本的教養もない子供たちこそ、原理主義思想を吹き込むには格好の材料である。何も知らない子供たちに、原理主義者たちがテロ思想を教え込む。学校に行けない子供たちが、自爆テロリストになる。結局、イスラエルの右翼は、子供たちを自爆テロリストにして墓穴堀人を育成しているようなものだが、それでもいいだろう。自爆テロリスト一人の凶行には倍返し三倍返しの報復を用いれば、パレスチナ人の民族消滅も遠いことではないからである。

学校を占拠し、子供たちを洗脳して戦士にするイスラム国のやり方は、どこかイスラエル政府のやり方と似ている。この演劇作品の光景は、パレスチナ自治区の今と、つながっている部分もあるのである。


posted by ohashi at 17:05| 演劇 | 更新情報をチェックする

2019年07月21日

消防設備

京都アニメーションのスタジオでの放火による痛ましい犠牲者の多くには言葉を失うしかない。もちろん犯人の行為は弁護の余地がない、許し難いものであり、今世紀において、一人で殺害した数の多さに、記録にのこる凶行犯となることはまちがいない。

と同時に、ガソリンをまいて、火をつけたことによって、これほど多くの人たちが逃げ遅れ死ぬということも前代未聞のことではないだろうか。つまり消防設備とか防火設備に問題はなかったのか。会社側の消化・防火体制に問題はなかったのだろうか。あるいは建物の設計に問題はなかったのだろうか。そのことに、言葉を失うべきではないだろう。むしろ追究してほしいところである。

映画『ダイナー』の最後のほうで、藤原達也が、押し寄せる刺客に対して調理場にガスを充満させてライターで火をつけるところがある。大爆発が起こり、フロアー全体に爆風が広がり、殺し屋たちが吹き飛ばされる。そして火に包まれるフロアー。これなどは、まさに京都アニメーションの建物におけるガソリンの爆発を思い浮かべて、火災のすさまじさが想像できたのだが、……次の瞬間、スプリンクラーが作動して大量の水が降ってくる。

映画としては爆発、火災、スプリンクラーによる消火というのはお定まりの展開だが、京都アニメーションの火災ではスプリンクラーは作動しなかったのか。あるいはスプリンクラーが誤作動したら、紙の資料などがこうむる被害はばかにならないものであるだろうから、最初からスプリンクラーはつけていなかったのか。あるいは螺旋階段は別にして階段室もあったようだが、防火壁はなかったのか。消防署の指導のもと、どんな企業や学校でも避難訓練など年に一回はしているはずだが、たとえ形式化した無意味な避難訓練でもないよりはましだが、今回の火災で、非難訓練の成果はあったのだろうか。たぶん避難訓練そのものもしていないのではないか。

そもそもこうした火災で、犠牲者がふえるのは、建物の構造に問題があった場合が圧倒的に多い。外付けの非常階段もない、窓も少ない、またベランダに出た人がいなかったのは、ベランダには出られないようになっていたのではと思われるのだが、とにかく密閉された空間である。このような設計の建物が犠牲者を多くした。会社側、あるいは建物の設計側の責任は、決して小さくないだろう。こうした貴重な人材と資料の損失を招いたのは、犯人が第一原因だが、同時に会社側、設計側の責任も大きいはずだ。それを追究しないメディアは、いったいどこに遠慮しているのだろうか。それがわかった暁には、絶対にメディアもまた無償ではすまされないように思う。



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『ケイオン』

今回の京都アニメーションの痛ましい放火事件について、たまたま姪と会う機会があったので、話をした。姪はアニメーション好きである(熱心なファンかどうかは不明)。京都アニメーションのアニメでは『ケイオン』が好きだとか、それ以外は、あまり知らないという話になって、『ケイオン』はテレビでみたのか、DVDなどでみたのかと聞いたところ、『ケイオン』はDVD全巻見たという。全巻持っているという。え、全巻。それはすごいねと話し、自分で買ったの、誰かにもらったのかと尋ねたら、怪訝な顔をされた。

おじさんに(つまり私のことだが)全巻、もらったよと言われた。すっかり忘れていた。いまでも、そんなことがあったのかと思い出せないくらいだが、確かに、姪にDVD全巻あげるのは私しかいない(まとめて全巻ということではなくて、発売順にあげたということだが)。当時、もちろん今も、人気があったテレビ・アニメを姪のためにプレゼントしたのだろうが、それでも、いまも忘れている感じがする。なんのこっちゃ。

しかし、昔はお金があったのかもしれないと、いまの年金生活からみると、ほんとうにうらやましい。もっともいくら給料が高くても(そんなに高いわけではないが)、DVD全巻買って姪にあげるくらいだから、私本人は、そんなに贅沢な暮らしはしていない。それはほんどうのことだが。



posted by ohashi at 18:06| コメント | 更新情報をチェックする

2019年07月13日

『新聞記者』

まずこの映画を観る前に、思いつく映画が2つあって、それを語らせてもらいたい。ひとつは、最近DVD/ブルーレイ化されテレビ(BS)でも放送されていたような映画『ヴェノム』がある。映画公開当時の新聞などでの映画評は、エンターテインメントに徹した面白おかしい映画だというコメントがけっこう見受けられたが、それが新聞に掲載する映画評かとあきれたことがある(新聞社ではなく映画評論家の責任だが)。というのも、ヴェノム、新聞記者ではないが、在野のジャーナリストなのである。しかも、そのジャーナリストに地球侵略・人類皆殺しをたくらむ異星人というか異星の怪物が憑依する。つまりヴェノム、人間を食べる恐ろしい怪物だが、半分は地球人、半分は異星人であって、しかもこの異星人、本来は地球人を滅ぼす恐ろしい悪魔なのだが、地球人の側に立って、自分の仲間である侵略者としての宇宙人と戦うのである。

マーヴェルヒーローものとしては異色のダークヒーローだが、ここには社会派ドラマ的な寓意性がみてとれて興味のつきないものがある。ジャーナリストは、その取材において、真実の追及において、攻撃的なならず者でなければならない。そうでなければジャーナリストである意味がない。真のジャーナリストとは、外国人であり、異星人であり、それも礼儀正しくなく、忖度をせず、ぶしつけで、相手を怒らせるアウトロー的な存在でなければならないだろう。ヴェノムは、ほうっておくと人を食べる恐るべき宇宙怪物だが、人間のコントロールによって、また怪物自身の覚醒によって、真実を暴き、正義を実現するジャーナリストとなる。ジャーナリストは取材においてならず者、宇宙からの侵略生物でなければならない(これはジャーナリストが、日常生活においても無法者でなければならないということではない。あくまでもジャーナリストとしての活動における話。日常生活では礼儀正しく寛容で人当りのよい好人物であっても問題ないのだから)。

宇宙人と地球人が合体したヴェノムは、同時に、敵と味方が共存しているともいえるし、さらにいえば敵である宇宙人を裏切った宇宙人と地球人が共存しているとも言える。地球人ジャーナリストは、侵略者である宇宙人を裏切った宇宙人と共存し、そして戦うのである。

ここにはジャーナリストあるいはジャーナリズムの本質にかかわる深い寓意があるだろう。まずジャーナリストは外国人でなければならない。外国人であればこそ、インサイダーにはみえないものがみえてくる。またジャーナリストは、無法者でなければならない。日常生活においてどれほど心優しい人物であってもかまわない、ひとたび取材活動ともなれば、アグレッシヴなアウトローでなければならない。忖度などしない、妥協などしない、不作法で無礼なならず者でなければ、ジャーナリストである意味がない。そしてジャーナリストは裏切り者である。二重の意味で。あるいは裏切り者は内と外にいる。内なる裏切り者としては、正義と真実のために妥協しなければ、共同体と、その慣習的伝統、あるいは闇の部分を破壊する裏切り者になりかねない。そして外なる裏切り者とは、敵でありながら、同時に敵を裏切るような協力者を得ることによって、堅く守られた真実を白日のもとにさらけだすことになる。成功したジャーナリズムには、かならずディープスロートがいるのである。

とここまでくれば映画『新聞記者』のりっぱな予告編になるのではないだろうか。あるいは『ヴェノム』は『新聞記者』への重要なコメンタリーともなっている。

映画『新聞記者』を、後世の人間が観ることになれば、どのような見方をするのだろうか。これは2010年代末の日本の社会情勢をめぐる社会派映画としてみるのは歴史の専門家で、そういう予備知識なしで観る観客がいるとすれば、この映画を、良質のサスペンスドラマとしてみるだろうか。

ここにあるのは全体主義国家ではなく民主国家なのだが、それは見かけだけで、全体主義国家化は、加速化していると未来の観客は受け取るだろうか。むしろ、未来の観客は、これをオーウェルの『1984』のパロディあるいはリメイクとみるのではないだろうか。

この内閣府あるいは内閣調査室(略して内調)では、メディアやネット上に飛び交う情報や世論、政治的見解を逐一監視し調査するだけではない。政府あるいは政権に批判的意見や政権にとって不都合な真実を暴露するソースなどをあらいあげ、情報操作をおこなう。偽りの情報やフェイクニュースそして誹謗中傷すらいとわない汚い戦争をしかけている。外務省から出向して内閣調査室で卑劣な情報操作の作業をさせられている若きエリート官僚が、かつての外務省時代の恩義のある上司の自殺を契機に、政権がひそかにすすめている国際法違反の事業を秘密裏に進めていることをつきとめる。

そしておそらく、この秘密を、かつての上司と同様、メディアに流すというか、政権の陰謀を暴露することを使命として新聞記者に協力する。

しかし同時に、この若きエリート官僚と同等の、あるいはそれ以上の比率で描かれているのが新聞記者の女性で、彼女の真実追及の姿勢のまえに、彼もまた、正義のために真実をあかそうとするのである。

オーウェルの『1984』では、政府の情報操作の作業をする男性側の視点にたって描かれるのだが、この『新聞記者』は、男性と女性、双方の立場から、そして対立しつつもともに連帯する二人の行動を緊迫感をもって描きだしているというのが未来の観客の感想だろう。

政府が秘密裏に進めていた違法な事業は新聞記者によって暴露された。だが、内閣府や内調は、これを違法な情報漏えいとみなして、首謀者をあぶり出し、処分することになるだろう。映画の結末はオープンエンディングである。おそらくオーウェルの『1984』から推測すると、若きエリート官僚は、拷問にかけられて、苦痛と恐怖のなか、この拷問は彼女にほうにやってくれと、女性の存在を暴露するだろう(もっとも内調では、女性記者のことはすでに把握していて、彼女に対して死の脅しをかけているのだが)。

オーウェルの『1984』は、社会主義政権が国家を支配すると、どうなるのか。この小説では、社会主義者は、政治社会を支配するだけでなく、情報をも操作・支配し、現実そのものの変えてしまうという恐怖が描かれた。まさに反共小説の代表作。『1984』は、第2次世界大戦後、アメリカが反共宣伝政策の一環として熱心に翻訳をするように働きかけていた、二大、反共小説のひとつである(もうひとつはカミュの『ペスト』)。この『新聞記者』は、21世紀初めの日本では全体主義国家化がすすみ、メディアの言論統制が進むと同時に、偽情報、フェイクニュースによって世論を操作するという腐敗政権の恐怖の情報支配が実現するというディストピアを描いている。と、そう未来の観客は見るだろう。

もちろん、安倍一味が支配するようになっていから、日本は品のない政策を打ち出して、世界で最も下品なトランプ政権のケツの穴をなめるような、そのうえをいく下品な政策を打ち出すことで、いずれトランプ政権が袋叩きにあうと、それと連座するかたちで安倍一味の支配する日本も国際社会からかえりみられなくなり、没落の一歩をたどるであろうから、この映画を見る未来の観客などいなくなるだろう。だから、いまみておかねば、後悔する。

吉岡エリカという日本人姓の女性を韓国の女優シム・ウンギョンが演じているのだが、日本語がたどたどしい。大丈夫かと思ったが、韓国人女性を母にもち、父親が日本人、長くアメリカで暮らし、日本語よりも英語の方が得意という設定がわかってくると、違和感もなくなり、それどこころ、外国人あるはアウトサイダーゆえに日本の暗部に宿る不正を果敢に暴くことができるのではないかと、むしろ、そのたどたどしい日本語が説得力を帯びてくるところが不思議である。

ジャーナリストたるもの、外国人、もっというと特定の故国をもたないエグザイルであるべきで、そうであればこそ、インサイダーにはできないアウトサイダーの視座からの活躍が望めるのである(吉岡を演ずるシム・ウギョンは、『怪しい彼女』での主演が強烈であったため、それ以後の映画での出演についてはよく覚えていないか、映画そのもののを観ていないかのどちらかだが、とにかく彼女の外国人としての存在感はこの映画に不可欠のように思われる)。

また映画の題材としては、こう書くと、なんとかの一つ覚えといわれることは、まちがいないが、彼女を中心にしてみるならば、少女ものである。ひとつには彼女は孤児である。父親も母親も亡くしていて、しかも独身である。恋人らしき人物もいない。そして父親の謎の自殺というトラウマを背負いながら、誰からの助言をも聞かず、また忖度とか大人の反応を拒否して、あくまでも自らの良心に従って行動する彼女は、映画が特権化してきた頑固者の少女である。この映画によって、映画史のなかで特権化される少女について、外国人でありアウトサイダーでもあるという特徴が追記されたように思われる。彼女に焦点をあてれば、これは権力の不正をあばく少女の活躍なのである。

もちろん、この映画の最大の特徴は、現在の日本における安倍一味と内閣府による官僚組織の支配(「忖度」政治)への批判というか映画の内容のシンクロ率の圧倒的な高さであろう。まさに、こういう映画を望んでいた。つまり忖度政治の時代、腐敗した政権の暴走・独裁の時代に、エンターテインメントしても迫力があり、同時に、社会批判性もきっちりと押さえておくような社会派映画。

ここから個人的な感想をふたつ。ひとつは私のいた大学の専修課程の卒業生で官僚になったものは多い。さすがに、文学部なので財務省に行った卒業生はいないのだが、卒業後、外務省や文部科学省、厚生労働省などに就職した学生は多い。彼らは、官僚になるだけに、優秀で、こうした卒業生たちが日本の行政組織を支えるならば、日本も安泰だと、そうごく自然な気持ちで思えたことも事実。卒業後に、どのような仕事をしているのか、詳しく聞いたことはないが、もし彼らが、安倍一味の私兵となって、下劣で卑劣で愚劣な仕事に従事させられていたら、泣くに泣けない、ほんとうに痛ましい事態だと思う。彼ら自身にとっても、また彼らを優秀で有能な人材に育てた、多くの人たちにとっても、腐敗した愚劣な、そしてなによりも、彼らよりもどの点においても劣っている政治家の私兵になり下がったりしたら、いや、そうなるしかないような制度改革の犠牲になったとしたら、それこそ日本の大いなる損失である。優秀な彼らを犯罪者にするその制度改革こそ、まさに重罪といっていい。マックス・ウェーバーのいうように優秀な官僚組織は、近代国家の精華である。その精華を、外宇宙からやってきて地球人を食い物のするような悪魔的な怪物の奴隷にしていいのか、その精華を破壊していいのか。

もうひとつ、私が思い出すのは、シェイクスピアの『リチャード三世』のなかの一場面である。リチャード三世は悪魔的な独裁者という悪のヒーローだが、同時に、愛嬌のある悪ガキのようなところもあって、その活躍は観客から快哉をもって迎えられることが多い。人気のある悪役である。シェイクスピアはリチャード三世を創造するにあたって、既存の歴史書のみならず、トマス・モアの『リチャード三世』伝を参考にしているふしがある。ちなみにモアの『リチャード三世』は、シェイクスピアが劇を創作したころは、出版されていなくて、原稿とか手稿をシェイクスピアは読むしかなかった。しかしヘンリー八世を批判して処刑された聖人トマス・モア(当時はまだ列聖されてはいなかったが)の遺稿を閲覧できたシェイクスピアはカトリック勢力において重要な地位にあったと考えられるのだが、そのモアの『リチャード三世』はリチャード三世を悪く描いているのは、リチャードを倒してチューダー朝を開始した当時の王権に忖度した結果だという説もある。しかしモアは当時の政権擁護のためにリチャード三世伝を書いたのではない。むしろモアは独裁政治を批判するためにリチャード三世伝を書いたのであって、おそらくシェイクスピアのスタンスも、反独裁という点ではゆるぎなかったと思われる――たとえ劇作家としての演劇センスによって悪がき的独裁者像を創造したとしても。

これまでの、またこれからも、リチャード三世は、恐るべき独裁者だが、愛すべき小悪魔的なトリックスターとして演出されつづけるだろうと思う。それが悪いということではないし、そのほうが劇場での受けがいいことも確かである。また狡猾なトリックスターとしてのリチャードを際立たせるために、民衆は衆愚の徒として演出されるのがふつうである。リチャード一味の情報操作に騙されて、最後にはリチャードを国王に推すのだから。またそうした愚かな民衆という演出も、そのほうが演劇的な迫力も生まれ、対照性も明確になり、今後も、採用されることはまちがない。

しかしシェイクスピアの怖さ・すばらしさは、トリックスター・対・衆愚の徒という関係以上のものを提示していることにある。舞台では、ロンドン市民は、リチャード一味の情報操作を、陰謀を、そして茶番を、見ぬいている。リチャードは、敬虔なキリスト教徒としての信仰生活を送り王族のひとりでありながら権力欲などまったくないのだが、市民たちに乞われて、いやいやながら王位につくことにするというクソみたいな茶番を演じ、リチャード一味は市民にリチャードの敬虔さを信じ込ませたと思っている。しかしシェイクスピアの原作では、市民たちはこの茶番をみぬいている。しかし反対の声、非難の声をあげると、影の権力者リチャード一味による報復を受けかねない。したがって茶番とわかっていても、どうすることもできず、茶番を真実として受け入れるふりをするしかない。虚偽とわかっていながら、どうすることもできない絶望。ああ、シェイクスピアは我らの同時代人。現在の日本の、あるいは世界の、虚偽を、フェイクを、わかっていながら、手をこまねいているほかはない。

この映画で描かれていることを、いくらメディアが無視し、政権が虚偽ときめつけても、市民はすべてわかっている。わかっているが、どうすることもできない絶望。Ripeness is all.すくなくとも、この映画と同じことをひとりひとりわかっていることを記録しておくべきである。安倍一味の茶番を絶対に忘れない。そして茶番に騙されているわけではないことをどこかで記録すべきである。そうすれば、一味の未来はない。未来は一味を恥さらしな集団として侮蔑するであろうから。

そういえば、思い出した映画をひとつだけ、『ヴェノム』だけしか触れていなかった。それは、つづく。

posted by ohashi at 23:02| 映画 | 更新情報をチェックする

2019年07月12日

『ザ・クロッシング』

ジョン・ウー監督の大作映画で二部作。201415年制作の映画のようだが、日本人の俳優も出ているのに、どうして公開が遅れたのだろうか。日中の文化的対立が激化していたとも思えないし、映画の内容をみずに勝手なことをいう*******ネトウヨからの攻撃があって公開が躊躇われたのだろうか。べつに日本人がこの映画をみて不快に思うようなことのない映画である。

1949127日に発生した海難事故、太平輪沈没事故を題材にしている映画である。Wikipediaによれば:

この事故を題材とした映画『The Crossing ザ・クロッシング Part I』(原題:太平輪 乱世浮生)、『The Crossing ザ・クロッシング Part II』(原題:太平輪 彼岸)がジョン・ウーの監督で製作され、Part I201412月に中国および台湾にて公開された。日本人では、長澤まさみや黒木瞳が出演している。台湾では興行収入が好調だったが、中国では大コケして酷評された。日本では、201967日に公開予定。

とある。だが、今になって公開される理由は不明。

前半と言うか第一部は、日中戦争から、戦後の、中国本土での国民党軍と共産軍との闘いの日々と、それに翻弄される人びとの群像劇でもある。大河ドラマでもあるのだが、前半は激しい戦闘の再現に力が入っていて、正直いって、うざい。第二次大戦後から中国における戦後にかけての激動の時代における3組の男女の生き様をみたいのに、激しい戦闘シーンをこれでもかこれでもかと見せつけられると、お腹いっぱいになる。

第一部:日中戦争の末期。前線の司令官でありながら、最前線で陣頭指揮し、みずから負傷しながらも日本陣地を陥落させた英雄的士官が、戦後、国民党軍の司令官となり、共産軍と激しい戦闘を繰り広げ、最後に共産軍との激突のなか戦死するまでを描く。

2部は、台湾の植民地時代から戦後にかけての生活のなかで、日本軍とともに行動した中国人青年医師(金城武)の台湾に帰国後の生活。また前半で最後に戦死する指揮官のフィアンセでもあった女性が、植民地時代の日本人の邸宅に住み始めてからの夫の帰還を待ちつつの生活。また国民軍に志願した恋人の帰りを待ちつつ看護師として上海ではたらきつつも、貧困の中、街娼に身を落としてゆく若い女性(チャン・ツィー)の暮らしが描かれる、前半の登場人物で、戦死することのなかった関係者が、後半、上海から台湾に向けて航海する大型客船太平輪に乗りあわせることになる。太平輪は、途中、貨物船と衝突、沈没しほとんどの乗客が死亡する。その数,約1000人。生存者35名。この大海難事故が後半のクライマックスとなる。はたして太平輪に乗り合わせた登場人物たちの運命は、誰が生き残り、誰が死んでゆくのか。そしてその後は?というドラマティックな展開となる。

この海難事故については何も知らなかった。また海難事故があったことは、後半の冒頭でも伝えられるのであり、運命の衝突事故と、その後の大参事が後半の見どころとなる。前半の激しいが、どこか紋切り型の戦闘シーンに比べ、後半の沈没シーンは迫力があり、また全体的にみても後半のほうが面白い。

また前半と後半との関係性が、工夫と言うかひねりが加えられていて興味深い。というのも、後半では、前半を観てない観客、あるいは前半を観ていても内容をうろ覚えの観客のために、前半での出来事を回顧しつつ、内容を復習したり確認したりして先にすすむことになるが、それは問題ないと思う。重複があっても、それはやむをえないことだし別に気にならない。

ところがこの後半は、通所の後半とは少しちがう。前半での出来事を回顧する部分はもちろんあるのだが、そのとき前半での出来事を省略したりすることはいいとしても、前半では描かれていない出来事の別の面が描かれるところが変わっている。前半でのエピソードも、その裏ではこんなことが行なわれていたと新情報が後半部で補完されるのである。またそれによって前半の内容の復習というよりも、前半の内容が違ってみえてくる。

そう、この手法は、『カメラを止めるな』と同じではないか。『カメラを止めるな』では、最初の30分は、ゾンビを扱う生中継テレビドラマの場面。後半は、そのドラマがどのような経緯で企画され、準備され、撮影・放送の当日、放送されなかった裏の部分で、どういう騒動が起きていたかをみせることによって、前半の30分のテレビドラマが、まったくちがったふうに見えてくるという、傑作映画だったが、実は、それと同じことを『ザ・クロッシング』もしている。前半を回顧するという口実のもと、前半で描かれた出来事の別面をあらたにみせることによって、出来事の裏面があるいは隠れていた全体像が見えてくるのである。

ただし、そうして前半分の出来事をすべて再現し、その裏をみせていたら、物語の時間は前半の時間で終わりを告げて、その先がなくなってしまうので、前半での出来事の再現とその裏面の提示は、部分的ででしかないことはいうまでもない。後半部は、あらたな時間がうごきはじめるが、それは海難事故という破滅へと至る道なのである。

激動の時代に翻弄されながらも、ある時はけなげに、またある時は必死に、またある時には諦念をにじませたりと、さまざまな生き方を余儀なくされる複数の人物たちが、同じ大型客船に乗り合わせ、そして死んでゆくということ。この人生のむなしさは、規模は違う(小さい)ものの、人生の無意味さに対する癒し難い虚無感に捕らわれて立ち直れなくなりそうな物語あるいは映画を思い出させるものがある。それはアメリカの小説家・劇作家ソーントン・ワイルダー原作の映画『サン・ルイ・レイの橋』である。

『サン・ルイ・レイの橋』又は『サン・ルイス・レイ橋』(The Bridge of San Luis Rey)は、実話をもとにソーントン・ワイルダーが1927年に発表した小説。1928年にピューリッツァー賞を受賞した。1929年、1944年、2004年に映画化されている。日本では2004年版がDVDとしてリリースされた。

元気のいいときに見ると、確実に気力をなくしてしまう映画なのだが、元気じゃないときにみると本当に死にたくなる映画なので、どうか元気なときに見て滅入ってもらうしかないのだが、物語は、南米のペルーかどこかの峡谷にかかるつり橋(サン・ルイ・レイの橋)のロープが切れ谷底へ落下する事故が起こる。そのとき、つり橋で渡ろうとしていた5人が全員死亡する。死亡した5人について、それまで辿ってきた人生が紹介されるが、順風満帆な人生から悲惨な人生、絶望の淵に向かう人生から、絶望から這い上がろうとしていた人生、さまざまな様相を見せる人生が、崩落事故というか落下事故によって、暴力的に断ち切られる。その人生が、どのようなものであれ、ただ無意味に終わりをつげたという虚無感しかない。司祭は5人の死をめぐって神の意志を探ろうとするが、それが異端とされて最後には火刑に処せられるが、彼にとっても、この事故死の無意味さを意味付けるだけの思想をもちあわせぬまま、ただ中身のない言葉を発し続け死ぬしかないのである。

だが、それは事故死という特別な事態による死、非業の死だからむなしいということではおさまらない面がある。私たちの人生も意味付けのできないまま、ただ暴力的に断ち切られるだけである。非業の死は、たまたま無意味さが顕在化されだけであって、通常の死も、無意味さにおいて何ら選ぶところはないのである。

太平輪の海難事故――私は、この映画『サン・ルイ・レイの橋』の世界あるいは世界観を予想した。映画の第一部からつきあっている金城武とかチャン・ツィーも海難事故で死んでしまうのかと思うと、なんだか悲しくなるし、むなしさが、本来、味などないのだが、味をともなって口のなかに広がるような、そんなやりきれない不快さあるいは悲しみにとらわれるのではないかと予想した。

海難事故シーンは、激しいシーンの連続で、客船の崩壊と夜の海に投げ出される人びとの生存のための必死の戦いは、第一部の戦闘シーンに劣らず迫力がある。またたとえ沈没に巻き込まれなくても、夜の洋上においては熾烈な生存競争が展開し、そのなかで力尽きて溺死する人々も多かったことがわかる。そしてサン・ルイ・レイの橋の落下事故と、太平輪の沈没――だが、今回の映画のほうは、映画『サン・ルイ・レイの橋』がかもしだす、いいようのない虚無感とは無縁だった。なるほど多くの人々の死をみてきたが、また生き残った人びといる。悲惨な海難事故ではあった、その後の展開は爽快ですらあった。これは、無意味な事故死をとおして人間の実存を垣間見せる『サン・ルイ・レイの橋』とは異なり、映画『ザ・クロッシング』は、エンターテインメント映画として悲惨さを無意味さを感じさせないような工夫が凝らされている。イデオロギー的想像界というべきものを映画が構築していて観客を不快な虚無感から守ろうとしているのである。

この点を詳細に分析する余裕はないのだけれども、たとえば一方で多くの乗客の死が映像化されながら、同時に、出産シーンも描かれる。第1部で戦死した司令官の妻が台湾で出産する。死ぬ人びとがあれば、生まれる子どももいる。死と誕生あるいは死と再生がテーマとして前景化される。また死者の数が多いことから、もはや運の悪さでは片づけられない自然災害規模の大参事となるが、人災ではなく天災であるのなら、人間の生き死には、自然のサイクルにのみこまれ、死と再生のリズムを刻みつつ、諦念と希望へ開かれる。いつか必ず死ぬ。だが、決して死滅するわけではなく、再生はつねに繰り返される。『サン・ルイ・レイの橋』では橋の落下事故に巻き込まれた人間は5人。運の悪い例外的人間たちの悲惨ですんでしまうところがある。

また金城武は、海で死ぬのだが、台湾人の彼は、植民地時代に出逢った日本人の少女と相思相愛のなかになるのだが、戦争によって離れ離れになったあと、戦後に帰郷しても、日本に帰った女性からの手紙を、母親が中国人と日本人の恋は実らないとして、すべて隠してしまう。ようやくその手紙が、兄嫁によって金城武に手渡されたとき、手紙の文面から、日本に帰った女性は人生を悲観して死んだらしいとわかる。夢のシーンで、彼女は入水自殺をとげたことが暗示される。その薄幸の日本人美女を長澤まさみが演じているのだが、永遠に結ばれないあこがれの美女であるというのなら、ミスキャストのような気がするが、ともかく、金城の恋人であった女性は死んでいて、彼には愛のない不毛の人生しか待っていない。むしろ彼の場合、生き残るよりも、死んで結ばれたほうが幸せかもしれないという暗示がある。また長澤まさみが水のなかで彼を呼んだという暗示もあるだろう。

また看護師から街娼にまで身を落としたチャン・ツィーは、内戦前、夫婦ものであると偽るために、見ず知らずの男性と夫婦写真をとる(これはどちらにとっても有利なことなのだが――給与面で優遇措置を獲得するために)が、その男と太平輪で、再会する。ふたりは生き残り、台湾で夫婦として生きて行くことにする。生き残り孤児となった見ず知らずの少女をふたりの子供として。災厄後の人間関係、親族関係の廃墟から、血のつながりではない新たな家族関係の誕生。破壊のあとの、血のつながらない人間関係の構築。いわゆるフィリエーションからアフィリエーションへの転換。それを可能にするカタストロフ。すべてを奪うカタストロフが、すべての起源となる……。

『サン・ルイ・レイの橋』のリアルは、死んだら終わりであって、再生や蘇生などないという冷厳な事実をつきつけてくるところがある。死と再生のテーマは、死んだら天国に行けるという妄想となんらかわりはない。再生もない、天国もない。人生を意味付ける有終の美などない。あるのは無。Nothing comes out of nothing. この耐えがたい真実から、いかに目をそむけるか、そこにいかに意味付けるか、心地よい虚構を構築するか、その問題を解決するイデオロギー的想像界的虚構、必要不可欠な虚構が、娯楽映画だとしも、想像界はリアルを完璧に覆い隠すわけではない。リアルは心地よい虚構からも感じ取れるのだ。だから、娯楽映画でも、衝撃こそ直接的ではないかもしれないが、どこか闇が、虚無が、感じ取れるというか、そうした領域に触手を伸ばしておかないと感銘をあたえないことだろう。

もうひとつ、この映画がリアルを抑圧する手段として提示しているのが、そしてそれは同時にある種のユートピア的志向性とも関係するのだが、第一部は男たちの物語、そして第二部は女たちの物語として、そして最後に、激動の時代のあとの再建の時代を担う者たちとして女性たちがクローズアップされる。それはいいとして、その女性たちの物語はまた、第1部との関係から見出されるのは、つまり回想シーンを介することによって、少女の物語となる。たとえ軍人の妻となり、出産するにいたるも、あるいは田舎から都会にやってきて、看護師さらには街娼にまでなるとしても、あるいは幼馴じみの台湾人の男性と愛を育みつづけた日本人女性であろうと、彼女たちはみな少女である。少女の魂を失うことがない。長澤まさみは、薄幸の日本人美女としてはミスキャストのような気がするが、少女としてのイメージで選ばれたのなら、いまもなお元気な永遠の少女としてのイメージが強い彼女は、この映画の女性/少女たちのなかでも中心的な位置を占めることになるだろう。

少女としての女性、頑固で独立心が強く決してめげることがなく無垢であり続けそして希望を持ち続ける少女たちが集うことによって映画は幕を閉じる。戦場で戦う男たちに対して家庭を守る女という、一昔前の旧弊な女性像に依拠している映画でもあるが、同時に、映画史の中で特権化された少女を主題に据えたことによって、この大河ドラマが、赤壁の戦いよりも映画史に残りうる作品になっているのではないかとも思う。再評価されてしかるべき映画である。

posted by ohashi at 19:52| 映画 | 更新情報をチェックする

『ある町の高い塔』

20世紀初頭、日立鉱山の煙害問題をめぐり企業と地元の村人たちが苦闘するさまを描く新田次郎原作の映画。

主役の井手麻渡は、仲代達也主催の無名塾の出身で、師である仲代達也と共演しているわけだが、ネット上でこの新人俳優に対して、演技が下手だとか、カメラで撮られることに慣れていないというコメントを書く**がいて、驚く。

上手い下手は個人的主観に左右される要素は大きいのだが、私の見る限り力演だし、あれを下手だというのなら、世の中、それこそ仲代達也のような名優しかいなくなって、それはそれでうっとうしいのではないか。またカメラで撮られることに慣れていないというバカなコメントがあったが、新人だからかりにそれは当然だとしても、しかし、それは演ずる側の問題ではなくて、撮る側の問題であって、撮影が下手だというコメントなら、コメントとして理にかなっているが、たいていは、いくら新人の俳優がとまどっても、でき上がった映像は、そんな戸惑いなど綺麗に消し去っているはずだ。そうでなければ撮影のプロとはいえないだろう。仮にアクションが下手でも、映像は超絶アクションの連続とならなければ撮影のプロとはいえないのである。

またそもそも役者は演技ではない。オーラである。どんなに演技の勉強してもオーラだけは簡単に身につかない。演技がかりに下手でも、オーラのある俳優は、それだけでやっていける。そしていえることは、井手麻渡は演技が下手だとは思わないし、またオーラは充分にあったということである。俳優に対する予備知識がない観客がみれば、彼が人気のある主役クラスを演ずる俳優だと違和感なく思うだろう。

ただ、それでも演技が下手だと思う観客がいたとしたら、ひとつに役柄。もうひとつには演出のせいであって、どちらであれ、それは俳優本人のせいではない。

主人公は、生真面目で不器用な生き方しかできない、つまり生き方が下手なのだが、その下手で不器用なところが、逆に、人を動かすエネルギーとなっていくという、ある意味わかりやすい物語展開をみることができない観客は、ほんとうになさけないし、人物の性格に付随する不器用さを、演技の下手さに転嫁するのは最低である。

また演出は、正直言って、全体的に古い感じがする。明治・大正の時代の出来事を辿る映画について、昭和のオーラがというのは、違和感があるものの、とにかく昭和の初期や中期のオーラが漂っている演出なのである。りっぱな映画というか、きちんとつくっている映画にもかかわらず、あるいはそうであるがゆえに、見た後の率直な感想としては、なんか古かったということにつきる。

ただ、それは、けっして誇張しているわけではないのだが、学校の教科書に載るような美談になっていて、企業のほうも、近隣住民の鉱害被害を放置せず、保証金を支払ういっぽうで、鉱害そのものの抜本的な解決を、国策として生産性を重視する国の干渉をはねのけながら、解決策を模索し、それが巨大煙突の建造となって結実する。

また近隣の農村の住民たちも、保証金をもらって離村する、あるいは企業との対決に終始するだけでなく、同時に、企業との共存の道を模索し、鉱害撲滅のための道を企業と連携しつつ模索するという、対決と共存の二重の挙措を貫き通した潔さと、それが鉱害解消につながることの、理想的なプロセスを、まさに人間ドラマとしても見せてくれる。

強いて難をいえば、けっして誇張も美化もしてない、そのプロセスは、史実に文句をいってもしょうがないが、教科書的美談になっているところが、物足らないということか。演出も、どうしても美談となるしかない以上、悪い意味でただ道徳的なだけで血のかよっていない美談を語るだけの教科書的なものにならざるをえない。そこがある意味、運がわるかったということか。

たぶん、そのぶん演劇的強度を求めて、対立場面に力をいれているのかもしれない。まるで舞台をみているような激突場面がある。私は、面白いと思うのだが、映画に演劇的要素があることを嫌う偏狭な観客がいて、せっかくの演技も、大仰だの演劇くさいだのと批判されているのは残念だ。ドゥルーズが映画論で語っているように、映画は演劇がめざしていながら制約があってできないことを実現できる面がある。演劇的激突も舞台よりも映画のほうが映えることもある。そして、史実を再現するという縛りがあり、その史実そのものが美談になっている以上、リアルな映画につくっても、そこに美談ならではの大仰さ、あるいは芝居がかった面が生まれるために、逆に、大仰な芝居にうってでたというところがあるかもしれない。だから芝居がかっているところは、私は評価したい。ただ、あいにく、それが昭和の初期から中期の演出という印象をあたえることは否めないが。

あと、これは誰もが気づいていておかしくないのだが、誰も問題にしないこととして、主人公も、また彼に関係することになる家族、村人、そして企業側の人間、みな独身者である。女性は登場するが、男性の妻としての女性は登場しない。企業側の保証担当者である渡辺大も、企業主の木原吉之助/吉川晃司も、また村人で彼にかかわりあう人びとも、みな独身者であったり、たとえ結婚していても妻の影がない男たちばかりである。これは独身者の物語であり、ある意味、クィアな物語そのものなのだ。

だいいち高い煙突を建てる話ではいか。地を這うような煙道をつくっても失敗するしかくなく、短く太い煙突はアホ煙突とよばれるのに対して、虚空にむけて佇立、勃起する、煙突、このペニス、このファリック・シンボルが、男たちの物語の最後をかざるのである。

だが、このペニスを勃起させるクィアなこの物語も、大正時代の話で女性の出る幕はない、女性を排除しての男子中心主義の話としてのみ消費されるだけかもしれず、というかそれしかないかもしれず、これは消費する側の問題だが、残念な気がする。男たちとペニスの話としても消費されるべきだろう。ちなみにクィア物語と煙突に関しては、私が監訳した『クィア短編小説集』(平凡社ライブラリー)所収のメルヴィルの作品を参照のこと。

この巨大煙突の現在の姿も最後に映し出されるが、上半分が崩落して、往年の高い煙突の見る影もない。結局、鉱害対策は、どうなったのかは、日立市民でもなく、この日立銅山の歴史を知ることない一般観客にとっては、わかるはずもない。そこは問題かもしれない。東京でも都会のど真ん中にあるごみ焼却場は、空高くそびえる煙突をもっていて、煙を高い煙突から空中に拡散させることで、煙害をなくす処置がとられているので、日立銅山の高い煙突は素人目にも妥当な解決案だと思われるのだが、その煙突が結局壊れるとは……。

もっとも映画では触れていないが、高い煙突でも完全に煙害は防げなかったようで、観測所による監視と警報が欠かせなかったようだが、煙害は、銅の精錬の際に生まれる亜硫酸ガスなどの有害物質によるものだが、この亜硫酸ガスから、現在では、100%、硫酸ができるので、煙害はなくなったらいしい。そのため煙突も必要なくなった。崩れるにまかされたということだろう。そうなると、ちょっとアンチクライマックスだが、史実だから仕方ないということか。

この物語の続編はつくられることはないだろうし、安倍一味がこの国を簒奪している限り、つくられることもないだろうが、日立銅山では鉱害あるいは煙害が終息にむかったあと次の問題がある。それは強制連行されて働かされた朝鮮人労働者の問題である。日立鉱山は、朝鮮人労働者と連合国軍捕虜を作業につかっていた。

ここで鮎川(日産)系の日本鉱業についてみておけば、日本鉱業は多くの朝鮮人を鉱山に連行しています。茨城の日立鉱山が最も多く四〇〇〇人を超える朝鮮人が動員されました。

 という記述もある、強制連行と強制連行。その黒歴史もまた語られねばならないだろう。そしてそれを語りえたときに、その物語は、教科書となるべき、リアルさを兼ね備える有ろう。

もうひとつ。煙害に強い植物として桜が選ばれ、伊豆大島のオオシマザクラを日立周辺の山々に植えたということである。その桜が、春になると、いまも市民の眼をたのしませていると。ということは日本全国、春に咲き誇る桜のすべてではないとしても、その多くは、公害対策のためのもの、あるいは公害に苦しみ地に植えられた木かもしれない。サクラを見るたびに、私たちは富国強兵によって苦しめられた住民たちの顔を、あるいは利己的な企業による公害被害にあって苦しんだ住民たちの顔を、そして住民を苦しめてもなんとも思わなかった日本の政府を牛耳ったくずども顔を思い浮かべるべきかもしれない。やはり桜の花の下には死体があるのだ。

posted by ohashi at 19:04| 映画 | 更新情報をチェックする

2019年07月11日

『旅のおわり世界のはじまり』

映画のなかで前田敦子は現地の人の少女(未成年)扱いされ、あんな少女に、いろいろなことをさせてはいけないと、日本人の撮影クルーが文句を言われるところがある、というか、そういうふうに物語が展開するところがある。前田敦子は、『町田君の世界』でも、28歳で、女子高生役を演じているのだが、この映画では、女子高生どころか、中学生の女の子くらいにしかみえない。おそらく、それはたまたまそうみえるというのではなくて、意図的なものだろう。

すべての映画に登場するとか、すべての映画があつかっているわけではないが、同時に、それなくしては、映画の歴史が限りなく貧しくなってしまうもの、また映画のなかで、特権的な扱いを受けている存在がある。それが暴力、そして少女。

もちろんこう書くと、少女がレイプされる映画というのは特殊な映画ではないか、それが映画の精髄などというのは変態ではないかと言われそうだが、暴力と少女がつねに同じ映画のなかで出会うわけではない。また暴力は基本的人的暴力だが、天変地異とか戦争なども暴力に属する。また少女といっても、むしろ負けることのない、節を最後まで負けない、純粋さを失うことのない、また自分の尻尾を加える蛇ウロボロスのように自己完結し、誰も、何ももの動かすことのできない自立した自己を確立した女性の表象として少女が選ばれ、映画のなかで特権化される。また映画のなかで焦点を絞られる女性は、少女に還元されることが多い――もちろん、良い意味、強い意味で。

また暴力と少女の合体している映画は、少女がレイプされる映画ではない。たとえば相米慎二監督の『セーラー服と機関銃』――これこそ映画。絵画のなかに描かれた鏡が、観る側を映し返すように、映画的主題の集約となるような主題によって、映画史そのものを照らし出し、映画史を内省する映画ともいえるような映画。あるいは、この『旅のおわり……』と同時期に公開されているジョン・ウー監督の二部作『クロッシング』。戦争と女性たち。その主題は暴力(戦争、社会的混乱、暴動、弾圧、台風、海難事故)と女性たちに還元され、その女性たちは、成人し、結婚し、子供がいる場合もあっても、チェン・チーから長澤まさみにいたるまで、少女である――どのような運命に翻弄されても信念と愛を失うことのない少女。映画史のなかには、いまも少女が、その中核にいる。そして、この『旅の終わり……』は、前田敦子という「少女」を獲得して、映画史の少女の正統的継承者となった。

ちなみに、映画の少女がすべて不思議の国のアリスではないことは、この映画、前田敦子=少女の冒険譚ともなっていて、そこから映画の結末もある程度予測できる。

不思議の国のアリスでは、アリスの冒険物語は、実際のところ、不思議の国の変人奇人にアリスが翻弄されるという、ある意味、アリスいじめのところがあるのだが、最後に、これまでさんざんいじめられてきたアリスは、すべてを一挙にひっくり返して、不思議の国を破壊、征服あるいは放置する。たてえば『不思議の国』では、彼女はすべてトランプ・ゲームではないかと、その国を、巨大怪獣のようになって破壊する。『鏡の国』では、彼女は、すべてチェス・ゲームではないかと、その国を夢の世界、ただの幻として放置する。では、この映画では、どのような結末になるのだろうか。

2014年に公開された前田敦子主演の『Seventh Code』では、彼女はロシアのウラジオストクで任務をはたす殺し屋であり、その変装、隠密行動、殺人まで、すべてそつがないというか有能さを絵にかいたような女性だった。華奢な体で男を締め殺すところも、違和感というよりも説得力があった。そして映画のなかで、彼女が話す流ちょうなと思われるロシア語(前田敦子の、どや顔でのロシア語(インタヴューでもけっこう自慢していたロシア語)については、ロシア語がわかる知人によれば、たいしたことないロシア語ということだったが)。

いっぽう『旅のおわり世界のはじまり』では、前田敦子扮する女性(バラエティ番組で海外レポートをする女性タレントという役どころ)の、ウズベキスタンでの行動は、まさに不思議の国のアリスの冒険そのものである。前田敦子の役は、べつに無能な女性ではないが、外国になじんでいて外国語も流ちょうに話せるというのではないまま、あちこちをさまよい、不思議な外国人に遭遇する(実際には彼女の行動そのものが、現地の人にとっては不思議なこときわまりないものだろうが)。言語面で、また思慮を欠くような行動、あるいは理由なき暴走、そしてそれがひきおこすトラブル(最後には警察にまでやっかいになる)など、彼女は、まさに不思議の国のアリスである。

あと、『Seventh Code』を映画館でみたときには、最後に前田敦子が歌をうたう。その時の衣装は、映画のなかでの衣裳と終わりである。となると、彼女は、もともと歌手だったのか、あるいはこの任務を結局無事に終えて日本で歌手でヴューしたのか、いったい、この彼女の歌唱と映画のなかの殺し屋物語とはどういう関係になるのか理解できなくて戸惑ったことを覚えている。

もちろん『Seventh Code』における最後の歌と、映画の物語との関係は、この映画が長いプロモーション映画、新曲『SeventhCode』のPVであるということから説明できた(歌唱部分が3分くらい、のこり90分は映画)。PVにおいて、楽曲と同時に、あるいは別に流れるイメージ、ドラマ、パフォーマンスは、緊密な関係がある場合(たとえば歌詞から連想されるドラマあるいは歌詞の内容の絵解き)から、漠然としたイメージの提示、歌詞とは正反対の内容、あるいは歌詞とか無関係なパフォーマンスなど、いろいろな可能性があるのだが、PVであるという口実のもと、まったく無関係なものを同居・共存させることができる。そういう意味で、PVはさまざまな可能性を胚胎させる興味深いジャンルである。『SeenthCode』という映画ともPVともいえる、最終的には長いPVから、今回は、長いPVのような映画へと移行あるいは反転したように思われる。

今回も前田敦子は、最後の、「愛の賛歌」を歌う。まるで、この映画が長いPVであるかのように。しかし「愛の賛歌」は新曲ではないし、これは新曲のPVではない。となると彼女の歌は、PVであるかのような口実のもと歌われる彼女の内面の叫びでもある。そしてPVでもそうかもしれないのだが、歌と映画の物語の関係は、ここで化学変化をみせて、この歌が、彼女の内面の叫び(その叫びは、悲しみ、怒り、歓喜、昂揚、興奮などさまざまに解釈できるのだが)であることから、映画の部分が一挙に彼女の内面と化してゆくのである。あるいはそう思われる。PVの場合、どんなに長くとも映画部分は、歌唱や楽曲をひきたて役であり、歌ったり演奏したりする歌手やグループの引き立て役であり、その関係は、ゆるいものであったが(またゆるいほうが、いろいろな可能性に開かれることになるのだが)、PVであるという縛りを離れたこの映画にとって、彼女の最後の歌唱は、これまでの映画の内容をすべて、彼女の内的風景へと変容させるものがある。

それは、ウズベキスタンという不思議の国での少女の冒険物語が、彼女の自分探しの旅の心象風景へと変容を遂げたのである。外からは入れない、ウロボロスのような少女の堅く閉ざされた内面が、いま開かれ、私たちは、これまでの異国の風景が、少女の内面であったことを知る。しかもいまそれは晴れ晴れとした広やかな俯瞰の光景となって、昂揚感とやすらぎのなかに観客を置くのである。

posted by ohashi at 23:02| 映画 | 更新情報をチェックする

2019年07月08日

『アマンダと僕』

『アマンダと僕』Amanda 2018

監督脚本ミカエル・アース  キャスト: ダヴィッド  ヴァンサン・ラコスト 

    アマンダ: イゾール・ミュルトゥリエ 

    レナ:  ステイシー・マーティン 

東京都区内では、銀座の死ね者と恵比寿のガーデン・シネマと、あともう一館で上映中で、恵比寿ガーデンシネマで観ようと思っていた私には、近くの映画館で上映中というのは、なんともありがたかった。ネット予約できるし、シネコンだから客席の傾斜が急で、どこに座ってもよく見える。

タイトルは『アマンダと僕』だが、原題は『アマンダ』で、日本語のタイトルが適切ではないかというと、そうでもなく、実際、7歳の少女であるアマンダの視点というよりも、24歳の青年の視点で世界を眺めているから、「僕」というのを入れても、おかしくはない。また「アマンダ」だけではすわりが悪いし、「と僕」を入れると、いろいろなドラマを予感できて、暗示性も高くなる。日本語タイトルも悪くはない。

ただし、原題のほうが、一連の事件のなかで、中心にいるのではないアマンダを、あえて中心に据えているのである。なぜなら彼女が7歳の少女だから。そしてそれは、この映画が、少女物という、映画史上の正統派に所属することを意味している。

少女物の映画は、少女の孤児性と関係がある。『不思議の国のアリス』でも、彼女の冒険は親とは関係ない。本来なら親の養育の対象である幼い少女が、親から独立しての冒険であり、また親を思い出すこともない。この『アマンダ』のなかでアマンダは、母親をなくすのだが、それによって彼女は少女物映画の主人公になる。同様の少女=孤児性は、たとえば『千と千尋の神隠し』にもみられるだろう。

もちろん叔父のダヴィッド/ヴァンサン・ラコステの支援がなければ、まだ7歳の彼女は生きていけないのだが、しかし同時に、彼女は、自分の世界を確立しているし、また、自分の尻尾を加える蛇ウロボロスのように、自己充足していて、何者も外部から干渉できないような自己を確立している。7歳にしてすでに。そして7歳の少女こそが、女性の魂であり、7歳の少女の魂が失われるとき、女性は男に奉仕する奴隷になりさがり、あげくのはては、男に奉仕しつづけ、女性の解放を訴える女性たちに恥を知れと悪罵を投げつける、ただのバカ女に成り下がる。それこそ恥を知れといいたくなるのだが、女性はしかし7歳の少女のころは、こんなにまで独立し解放されて生きていたことを思い出してほしい。

7歳の少女(実は、不思議の国のアリスと同年齢)が、男性に依存しない独立した解放された女性の原型とは思えないかもしれない。7歳である以上、大人に依存して生きていくしかないからだ。しかしアマンダは、ただ依存するのではなく、依存するときは依存すると決める。依存を選択するのである。不可避の依存と、選択された依存、たとえ不可避でも選択されたかたちでの依存は、もはや、十全たる依存あるいは奴隷状態ではない。

そうした少女の生態を、さまざまな言動あるいはさまざまな視点から浮き彫りにしていく映像とシナリオは、もちろんアマンダを演ずる彼女の天才的演技ともあいまって、この映画を少女物の傑作にしている。

と同時に、この映画、青年が、ひょんなことから7歳の女の子の面倒をみることになり、けっこう強情でいいうことをきかない女の子に戸惑いながら、ときには怒りを感じながら、いつしかうちとけるようにもなり、女の子と深い絆で結ばれていき、青年も成長をとげるという映画を予告編などでは予感するのだが、そういう映画ではまったくない。

青年とアマンダは叔父と姪の関係でもあり、最初から、ふつうに仲がいい。母親の死によって、彼は姪の面倒をみることになるのだが、姪もそれを受け入れている。問題は、彼にとっては最愛の姉、姪にとっては最愛の母である女性を失くしたことであり、その悲しみを、ふたりとも克服できないことにある。これは誰にもあてはまるものだが、最愛の人、家族の者を亡くした者にとって、その死の直後は、悲しみが突発的に襲ってくる、なにかにつけて涙が止まらなくなる、情緒不安定になる。アマンダも青年も、この死後の悲しみのなかにいる。アマンダはともかく、この青年ダヴィッドに、まだ姉の死の悲しみを克服できない彼に、姪の面倒を見ることができるのか。あるいは彼とアマンダがいかに悲しみを克服していくか。そこがこの映画の終盤における賭けとなる。

ウィンブルドン映画である。この時期に、この映画が公開されているのは、意図があってかどうかわからないが、最後はウィンブルドンのテニスの試合で幕を閉じる。最初にことわっておけなければいけないのだが、テニスの試合を観戦するとき、青年とアマンダは、指定席に座り、アマンダは隣の空席にかばんをおく。一瞬、けち臭い小市民の私は、そこに荷物を置くと、あとからその席を予約した人が来たら迷惑でしょうと心の中で思ったのだが、恥を知ることになった。人から言われたのだが、そう、あの席は死んだ母親の席だった。チケットは3枚。母親は死んで来られないのだが、本来、その席は母親が予約した席だった。またチケットはキャンセルしていないのだから、その席に、誰かが座ることはない。気づくべきだった。繊細さと推理力のない小市民的感性を恥じた。

で、このテニスの試合、実際、映画のなかの試合は演技なのだろうか、本物のなのだろうかすらもわからないほど、テニスついては何もわからない私だが、アマンダは、テニスの試合をみて、それを鏡/鑑として悲しみを克服する、あるいは希望を持つにいたるというのは、イメージを通しての治癒と回復であろう。アマンダの姿をみて、この青年も希望をいだくにいたるだろうと予想できる。そして、そうこれはエリック・ロメールの世界でもあろう。

エリック・ロメールの映画『冬物語』(Conte d'hiver, 1992)は、舞台でシェイクスピアの『冬物語』を観て、恋人と離れ離れになった女性が、人生に再会の奇跡と希望があることを確信してゆく映画だが、『アマンダ』もまた、テニスの試合をみて、人生が終わったわけではない(「エルビスは建物を出た」わけではない)と希望をいただくにいたる結末となる。エリック・ロメールの『冬物語』を思い出したのは、私の個人的嗜好ではなく、たぶん正しい想起なのだと思う。『アマンダ』はエリック・ロメール的映画の伝統を継いでいるのだ。ただ、ロメールの『冬物語』には問題があって、舞台で上演されるシェイクスピアの『冬物語』、もちろんほんの一部でしかないのだが、演出がださい。台詞まわしもひどい。いったいどんな素人劇団が、シェイクスピア劇を上演しているのかという唖然とする舞台で、この舞台を観て絶望するのならまだしも、希望をいだくとは信じられないという思いにとらわれるのだが、『アマンダ』のほうのテニスの試合は、映像に説得力があった。

追記

1どうでもいいことかもしれないが、私にとっては重要なこととして。グレタ・スカッキ、出演していることにエンドクレジットではじめてわかった。それまで、まったくわからなかった。青年の母親、アマンダの祖母を演じている女性。いや、往年の美女が歳をとったというよりも、こちらが、立ち直れなくなるほど、街を歩いていても思わず嗚咽がこみあげくるほど、グレタ・スカッキ、太っていた――太りすぎではないとしても。

2ネタバレ注意 Warning:Spoilerマ

アンダの母親の死の原因は、パリで起こった無差別テロということになっている。ただテロ事件そのものは描かれず、公園に横たわっている負傷者や死者を、事件直後に公園に到着したダヴィッドが目撃するだけであり、母親は死体としてでも描かれることはない。テロ事件そのものに怒りをぶつけるのではなく、いかに立ち直るかに力点が置かれているという映画のふれこいだが、描かれるテロ事件そのものが、あいまいで、宗教テロなのか愉快犯の殺人鬼による犯行なのかも定かでないが、イスラム系の宗教テロであることがにおわされている。しかし、そうした描き方は、はっきりいって、イスラム教徒やイスラム系移民に対して差別的であることを指摘しておきたい・

posted by ohashi at 19:53| 映画 | 更新情報をチェックする

2019年07月05日

『ジョナサン』

映画は東京ではシネマ・カリテの単館上映で週日の正午前から午後130分くらいの回は、そんなに人も入ってない。派手な映画ではないのだが、信じられないくらい面白映画で、家族の問題、愛の問題、自我の問題が、この1時間40分たらずの映画にすべて集約されているといっていい。「観る者を翻弄する《脳》コントロール・スリラー」と、脳みその使い方をまちがっているのではないかと思われるポスターのコピーに、まどわされなければ、べつに難しい映画ではないし、受ける感銘は大きい。見るべき(A Must)映画である。

二重人格、多重人格は、存在することはわかっているが、この映画では二つの人格が、ひとつの身体を昼間と夜とに分けて共有している。二つの人格が24時間を二分して生きている。だが、それを可能にするテクノロジーは現在存在していないので、ある意味、これはSF映画である。しかし、受ける印象は、SF映画というよりは、人間の心的リアリティを、実に生々しくみせてくれる心理ドラマというべきだろう。

ジョナサンは、朝7時に目覚め、設計事務所で午前中働き、午後帰宅。午後3時には就寝する。

午後7時、ジョンが目覚め、夜の間活動し、午前3時に就寝。翌朝の午前7時にジョナサンが目覚めることになる。

ジョナサンとジョンが同一人物のなかに同居している。ジョナサンは昼間の世界を生き、ジョンは夜の世界を生きる。ふたりは自撮りビデオで、もう一人の人格のためにメッセージを残す。外見は同じ人物なので、外出先でもう一人の人格と間違われ、声をかけられても戸惑わないよう、たがいの生活や活動を報告している。

たとえばジョナサンは朝7時に起床、ジョンが残しておいたビデオメッセージを確認。ジョギングのあと勤め先の設計事務所に行く。病気の親の介護という理由で設計事務所で働くのは午前中だけ。午後には帰宅する。もう一人の人格ジョンのために買い物をしていたり、家のなかを掃除したり、料理を作って冷蔵庫に入れておいたりする。ジョナサンにとっての一日の出来事を、ジョンにビデオのなかで報告して、午後3時には就寝。ジョナサンもジョンも、それぞれ4時間は寝ている。

もちろん、こういうことになっていると理解するまでに少し時間はかかる。しかし、二人というか二つの人格が、どうやって一つの身体、一日、そして人生を棲み分けているかが解明するのがこの映画の目的ではない。ふたりの棲み分けがわかったところで、いよいよ本題に入る。二人の葛藤あるいは闘争である。それがこの映画の主題となる。

たとえばジョナサンとジョンは、兄弟である。どちらが兄でどちらが弟かわからないが、どちからかというジョナサンが兄、ジョンのほうが弟に近い。性格は違うものの仲のよい兄弟とみえて、そこに葛藤がある。Sibling Rivalryという永遠のテーマが展開する。

ジョナサン(兄?)がジョン(弟?)の恋人に接触し、奪おうとしたりする。ジョナサンは、ジョンの恋人の後をつけるのだが、すぐにばれてしまうのは、ジョナサンとジョン、名前はちがっても、同じ一人の人物だからである。ふたりの性格の違いは、言動や服装、就いている職業などによって明白なのだが、同時に、同じ一つの顔、同じひとつの身体なのである。

となるとこの兄弟は、双子の兄弟ともいえる。双子の兄弟ならば、そこに人違いの喜劇、Comedy of Errorsが生まれそうだが、そうしたエピソードもないわけではないが、二人の関係は、深刻化するほうにシフトする。つまり似ていれば似ているほど、ただの兄弟姉妹とは異なり、どちらがか相手を抹殺して、一つの身体を独占するまでに、似た者同士関係の解消にいたるまで、対立は激化し深刻化する。そこにはホラー的要素もある。

と同時に、たとえひとつの身体を共有していても、ふたりは別人格であり、ある意味、友人どうしである。ジョナサンが、ジョンの恋人に興味を示し、ジョンに内緒で、その恋人と仲良くなるというのは、まさに友人の恋人に嫉妬し、友人から恋人を奪うことのいほかならない。友人の恋人を奪う、あるいは友人の恋人だからこそ、奪う。ここにあるのは友情か愛情かという、まさに『パラレルワールド・ラブストーリー』で触れたように、漱石の『こころ』あるいは武者小路実篤の『友情』につながる古典的なテーマであろう。

そして『パラレルワールド・ラブストーリー』の時にも触れたが、またいま嫉妬という言葉を使ったが、一人の女性をめぐる二人の男(この映画ではジョナサンとジョン)との三角関係は、もうひとつの三角関係と相互嵌入していて、それは一人の男をめぐる女と男の葛藤・闘争という三角関係なのである。

この映画のなかでジョナサンとジョンとの関係は、同性愛的関係ともなっている。性格も異なり、相手に対する憎しみすら隠し持っているのではないかと思われるジョナサンとジョンは、また、隠れゲイ・カップルという面も強い。ジョナサンが、ジョンの恋人を奪うのは、ジョンの恋人を通して、ジョンとつながりたいというジョナサンの欲望、同性愛的欲望のあらわれであろう(ステレオタイプ的発想を許していただき、すべてそうだということはないことを明記したうえで、あえていえば、双子のカップルは同性愛的欲望を育みやすい)。

ジョナサンは昼間の世界を生き、ジョンは夜の世界を生きる。映画は、タイトルどおり、ジョナサンの視点を通して描かれる。ジョンが、夜の活動時間中、どうしているのかは、ジョンからの短いビデオメッセージでの報告を通してしか知ることができない、つまりわからないも同然である。昼間の世界を生きるジョナサンは、生真面目で、冷静沈着、規則正しい生活と清潔好きで、物静かで理知的・理性的である。職場では仕事ぶりを高く評価されている。そして童貞である。

一方夜の世界を生きるジョンの方は、断片的なことしか伝ってこないが、プレイボーイで、チャラ男で、勝手気ままに生きている。家の掃除もしないし、夜遊びが過ぎて、ジョナサンと共有している身体に負担をかけている。だが、感情表現が豊かで、人生を謳歌しているようにもみえる。ジョナサンが、理知的で静の人であれば、ジョンは、感情的で、動の人である。ジョナサンの生活は規則正しいが無味乾燥であるのに対し、ジョンの世界は、不規則で派手で冒険に満ち情緒的起伏に富んでいる。あるいは個人の自我に置き換えるのなら、ジョナサンは理性、ジョンは無意識。そして夜の世界しかあてがわれない無意識が、昼の世界、理性の世界を侵食しはじめるというのが後半のホラーの展開となる。

ここにあるのは一個人の心的世界における意識と無意識の葛藤でもあろう。そしてそれがホラーであるのは、観客はジョナサンと同一化しているので、ジョナサン的パースペクティヴからすると、守りに入るしかない。ジョンは、壁を乗り越えて侵食してくるのである。

しかし、すでに述べたようにジョナサンとジョンは、同性愛的関係でもつながっている。またたとえいくら対立しても、同じ身体を共有している分身でもある。兄弟でもある。双子でもある。だからこそ対立があり、対立が激化するが、同時に、どちらから勝利を収めるとき、それはどちらにとっても敗北でしかない。

この映画の場合、あるいはホモソーシャル関係ではそうなのだが、女性は、ふたりの男性をつなぐ役割をはたすのであって、決定的にどちらか一方に所属していしまえば、二人の男性の関係は消滅する。友情も、同性愛も、兄弟愛も、消滅するのである。兄弟であるからこそ、対立する。だが対立に決着をつけたとき、兄弟であることも終わってしまうのである。

兄弟、双子、友情、そして内的生活における理性と欲望との葛藤、そして葛藤のパラドクスを、ひとつの身体をふたりの人格が共有するという二重人格の設定のもとに、あるいはそれを母型(マトリクス)として、静謐な映像表現によって結晶化させた傑作だと思う。

追記

パトリシア・クラークソンが女性の科学者を演じていて、彼女が、二つの人格の棲み分けを設定したのだが、これは、男二人の兄弟、あるいは双子の兄弟の世話をする母親的存在となる。母と子、あるいは母の愛をもとめ争う二人の兄弟という家庭と家族のテーマも、展開する。ジョナサンの視点で描かれているので、彼は、母親的存在の科学者に悩みを打ち明けたり、相談事をする。遊び人で、不良っぽいジョンよりも、ジョナサンのほうが、母親にとっては、愛すべき存在かとジョナサンに同化した観客は勝手に思うかもしれないが、実際には、夜の世界にあてがわれるジョン、ふびんなジョンに、この母親的科学者が同情していることがわかって(それは当然のことかもしれないが)、観客はやや落胆するのではないかと思うところが興味深かった。

結晶化Crystallizationというのは、良い意味でもあるが悪い意味もある。この映画の、透明で静謐な映像と淡々とした展開は、結晶化した透明な宝石あるいは物質を思わせるところもあり、結晶化という比喩にふさわしいものがあるが、同時に、結晶化というのは、複雑なもの、混沌としたものを、整理整頓し、明確明晰にし、ときには単純化したり図式化したりすることを指したりもする。この映画は、複雑な要素、錯綜する関係、パラドクスを単純な関係のなかに集約して明確化しているところがある――Crystallizationの良い意味と悪い意味とうよりも、二つの良い意味を具現化しているとうべきか。ちなみにCrystallizationは具現化と訳されることもある。

posted by ohashi at 21:04| 映画 | 更新情報をチェックする

2019年07月03日

『アンノウン・ソルジャー』

映画の最初にUnknown Soldierと出るのだが、エンドクレジットではThe Unknown Soldierとある。どっちが正式の英語タイトルなのだ?

それはともかく彩プロ配給のフィンランドの戦争映画、まったく期待せず映画館に。

というのも『ウィンター・ウォー 厳寒の攻防戦』(Talvisota 1989 ベッカ・バリッカ監督)をDVDで観たことがある。正確には全部見ていない。内容がどうのこうのという前に、撮り方がひどすぎる。ジャンル的にはB級映画を通り越してZ級だといいたいのだが、Zというゾンビと勘違いされるかもしれないので、B級をとおりこしてC級映画といっておくが、まさにC級映画の撮り方で、正直って、途中で観るのをやめた。歴史的にも、ひと昔もふた昔も前の演出で、ひどすぎる。結局いまもって最後まで見ていないのだが、そのDVDは短縮版だったようで、2017年にはオリジナル完全版が上映されたらしい。もちろん見に行ってない。地獄の戦場を描く映画そのものが地獄だったので。

その2017年の上映の解説――

2次世界大戦中のフィンランドで繰り広げられたソ連軍との激しい攻防戦「冬戦争」を映画化した戦争ドラマ。兵器・装備・爆破は全て本物を使用するなど徹底してリアリティにこだわり、凄惨な戦闘シーンを圧倒的な迫力で描いた。1939年、冬。ソ連軍はフィンランドにある軍事的要衝を手中に収めるべく侵攻を開始した。軍備に乏しいフィンランド軍の兵士たちは、強敵ソ連軍を相手に苦戦を強いられるが……。本国フィンランドのみで上映された197分のオリジナルバージョンがデジタルリマスター化され、「彩プロ30周年記念特集上映」(新宿K's cinema)にて日本初上映。

あの映画の3時間超えヴァージョン。いや、見に行かなくてよかった。地獄の地獄とは、このことだと思う。

今回の映画は、その「冬戦争」のあとの、「継承戦争」を扱う。もちろん監督もちがう。国際短縮版で2時間ちょっとの映画だったが、期待していなかったぶん、映画の出来のよさに驚いた。戦争映画としては淡々としているのだが、2時間飽きることなく、また眠ることなく、集中してみることができた。

映画・コムでの解説――

これまでにも何度も映画化や映像化がされているフィンランドの古典的名作小説「無名戦士」を映画化し、同国史上最大のヒット作となった戦争映画。第2次世界大戦時、祖国防衛のためソ連軍を相手に戦ったフィンランド兵士たちの姿をリアルに描いた。1939年から40年にかけて行われたソ連との「冬戦争」で、独立は維持したものの、カレリア地方を含む広大な土地を占領されたフィンランドは、翌41年、なおも侵略を計画するソ連に対し、ドイツの力を借りて立ち上がる。これにより冬戦争に続く「継続戦争」が始まり、フィランド軍兵士たちは果敢にソ連軍へ立ち向かっていく。年齢や立場、支える家族など、それぞれ異なる背景を抱えた4人の兵士たちを中心に、戦場で壮絶な任務にあたる兵士目線に徹して戦争を描いた。

ネットなどの映画評では、激しい戦闘場面で行きつく暇がないとか、あるいは使用される武器がすくなとか、ミリタリー専門家によれば時代考証が厳密だとか、いずれもとんちんかんなコメントが多い。激しい戦闘場面は、断続的で、どちらかというと前線での兵士たちの日常を描くことに多くが割かれている。淡々としているのである。もちろん、その淡々とした日常のなかに戦闘場面が入り込んでくる。森のなかで姿の見えない敵の眼をかいくぐり、飛び交う銃弾を交わしながら手りゅう弾を投げ合うので、アウトレンジから攻撃しあうという戦いよりも接近戦であって、白兵戦という印象がある。それでもソ連軍の戦車が登場すると、敗走するしかなく、ただ勇気ある兵士が爆薬をかかえて、死角から接近し、戦車の底部に爆薬を投げ込んで吹っ飛ばすという戦法が時に効果を奏することもある。日本軍のノモンハンの戦いのときの戦法だが、対戦車砲も、バズーカもない状態では、自殺テロに近い戦いになり、犠牲者も多い。しかし今回は、ノモンハンあるいは冬戦争のときとは異なり、ソ連の戦車も泣く子も黙る鬼戦車T34なので戦車を攻撃するのは大きな犠牲を伴う。実際、この映画ではソ連の戦車は最終兵器そのものである。

(かつてハンガリー動乱を扱った映画をみたことが、市街でワルシャワ条約軍の戦車、つまりソ連戦車をくいとめるために、柄をとったフライパンを路上に伏せて置いておくと、ソ連戦車兵が対戦車用の地雷と見間違い、戦車の進行を妨害できたようだが、まあ、戦車も、下からの攻撃には弱いようだ)。

使われている武器が限られているというコメントがあったが、戦争映画はみなそうである。大戦中には、さまざまな兵器が使われたが、一般論として、映画のなかでは、ほんの限られた兵器しか登場しない。この映画では、そのソ連製戦車が本物みたいだが、T34/85の前期型は、それらしく作られたレプリカのように思われるし、後期型は戦後につくられたT43T44ではなかという気がするが、ミリタリーおたくではないのでなんとも言えない。まあ私が間違っている可能性は高いのだが。

ただ、この映画では戦時あるは戦闘中の兵卒たちの視点と人間ドラマに力点が置かれているため、あくまでも部分を通して全体を暗示することが目的であって、兵器や戦闘戦術の展示は重視されていない。

あと、戦闘場面では銃弾がかすめ飛ぶ臨場感に力点が置かれ、たとえば自動小銃を撃つ兵士を真横からカメラがとらえるとき、カメラにむかって、とはつまりスクリーンにむかって、銃から空薬莢が噴き出すように飛んでくるというようなディテールの追及はある。しかし、そうした細部も、兵士たちの苦境を描くことに奉仕しているのであって、最終的には戦争のリアルこそが映画の目的であるように思われる。

敵も人間だから、戦えば勝算はあると語られるいっぽう、戦闘では人間ではなく敵を殺すと思えと語られ、さらには敵側からの視点がなく、敵の姿を目と鼻のさきでみることはほとんどなので、最終的には見えない不気味な敵との戦になる。しかも、この見えない敵の狙撃能力は超一流で、つぎつぎと見方は銃弾に倒れるのである。見えない不気味な敵。

そのいっぽうで敵は内部にもいる。映画は短縮版であるせいか、ロシア系住民との関係とか、将校間の民族的・階級的対立などについて情報不足なのだが、つまりロング・ヴァージョンでは描かれているだろうと思うのだが、ただ、詳しい説明や情報がなくとも、内部にも対立があるらしいということが暗示されるということだろう。

事実、最初は連戦連勝のフィンランド軍も、その後は、塹壕戦となって敵との対峙の日々が続き、敵の反攻が本格化すると敗走を重ねるしかなくなる。そう、フィンランドは第二次大戦では敗戦国なのである。そのため一昔前の日本の戦争映画の描き方と同様に、前線の兵士は自己犠牲もいとわず祖国を守り抜こうとするが、無能な指揮官は叱咤激励するだけで無謀な作戦を強要し犠牲者・戦死者など歯牙にもかけず、死体の山をつくってもなんとも思わない悪魔的な人物となる。日本映画における悪しき憲兵隊が指揮官になっているというようなものである。敗戦国がつくる映画では、敗戦をもたらすのは強大な敵だけではなく、内部の愛国者もまた、口先だけの裏切り者として告発される。そこが面白いといえば面白い。

4人の兵士たちがクローズアップされ彼らの日常からこれまでの人生までもが紹介されるのだが、彼らは、つまりこの映画を支える主役たちは、最後にはみな死んでしまう。一人も生き残らない。ただ、そのうちの一人は、戦後、自分の家族のもとに疲弊した姿で帰ってくる。そこで映画が終わる。戦死したと思われていた人間が帰還するという話ではない。戦闘場面で彼はまちがいなく死んでいた。その後、一命を取り留めたとも思えない。つまり彼の存在はこの世にいない。帰還した廃兵は、家族のなかの幻想か、共同体の共通願望なのか。いずれにしても彼は幽霊である。この映画が語っている物語は、戦争とは幽霊が帰還するという物語なのである。

(実際、戦後の日本の日常には戦地・外地から帰ってきた幽霊がいたのである。傷痍軍人のことではない。彼らも含め、戦死者たちは、日本人とともに日常生活をともにしていた。だが、彼らの存在は、いまでは記憶のなかにすらもとどめ置かれることはなくなったところがある。戦争の名を軽々しく口にしたり、戦争のできる国にしたがっている狂気の独裁者一味にとって、幽霊は怖くないらしい。)


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