彩の国さいたま芸術劇場で、7月18日から28日まで、大稽古場(蜷川スタジオ)での公演となる、『朝のライラック』(世界最前線の演劇3)をみる。実は、この劇作品の公演を期待していたのだが、公演期間をうっかり忘れてしまっていた、というか公演が9月とかんちがいしていた。それを知ったのは、とてもありがたいことに、招待状がとどいたからである。さいたまネクスト・シアターの関係者でもなんでもない私としては、誰から招待していただいたのかわからぬまま、ただありがたかったので、7月19日、この冷夏のなか、予想外に暑い一日に見させていただくことになった。
イスラム国(ISIS)に占拠された中東の架空の町の学校で、ともに音楽教師をつとめる夫妻の抵抗と監禁、そして悲劇的結末を描く作品だが、ただたんに困難な状況に置かれ、暴力的な支配体制の犠牲になった夫妻という悲惨な事件を提示しても、それはそれでりっぱな作品なのだが、そうしたリアリズムの追及だけでなく、べつの現実、ありえたかもしれないオールタナティヴの可能性をもあわせて提示する、優れた演劇的仕掛けにみちた部隊となった。演出上の工夫もあったのだろうと思われるが、シナリオそのものが、二重性、三重性を実現しながら、メタ演劇的次元を有している。
後半、夫婦が隠れることになった学校の講堂の舞台。学校そのものがダーイシュ(と、イスラム国に批判的人びとが使う別称)の司令部となっているのだが、逆に、灯台下暗しではないが、そこに隠れることによって、姿をくらますことになるのだが、もちろん、そこに至るまでには夫妻が学校で教えていた生徒、ダーイシュの一員になりながらも、恩師を助けてくれた生徒の手引きがあったからなのだが、その物置に使われている舞台で、夫婦と、元生徒は、音楽劇の一部を演ずる。アラブ世界で古くから語りつがえる英雄物語ということなのだが、べつに気晴らしでそうしているのではない。ダーイシュの一員となった生徒、闇に堕ちたともいえる生徒を覚醒させ更生させるための(ひいてはそれがダーイシュからの逃亡を可能にする)必死のパフォーマンスである。
忘れ去られつつある古典劇を、物置となって機能を喪失している舞台で、ダーイシュによって文化が壊滅的打撃をこうむった廃墟の学校において、人目をしのんで演ずることの生死を賭けた抵抗として、過去の文化の反復だけでなく、未来への生存を志向するパフォーマンス。その緊張感のなかでの演劇性の炸裂のなかで、この劇は、中東の文化的政治的状況のみならず、全世界の文化的政治的状況に接続されるように思われる。
またもうひとつ特筆すべきは、歌が多いこと。その多さは、たとえば現在映画館で上映中のディズニーの実写版ミュージカル『アラジン』に匹敵する。『アラジン』に代表されるようなミュージカルが、主人公たちに、意味もなく突然、歌をうたわせたり躍らせたりするのに対して、この劇では、夫妻が音楽教師ということもあって、随所に挿入される歌は、理由がある。唐突で無意味な挿入ではない。またその歌は、どれも、既存の歌であると思うのだが、古くから歌われている歌であったり、彼らの音楽教育のなかで重要な働きをした音楽で、民族的過去や共同体的過去と歌い手をつなぐ機能をはたしている。歌は、あるい意味、政治的な機能を帯びているのである。
しかも、そうした歌は、リアルな切迫した状況のなかで、どこか非現実的で夢幻的な雰囲気をつくりだしで、出口のない状況のなかに、別世界の出口をつくっているようなところがある。もとより歌とか音楽には、そうした働きがある。つまり現実を超出する世界へとの誘い効果があるのだが。そしてそれはまた歌のもうひとつの政治的機能でもあるのだ。
ただし、同時に、歌は、国境を時代を超えない。いや古い歌でも時代を壁を超えて歌いつがれることから民族の記憶にもなるのだが、時間を超えても空間は超えられないところがあって、この演劇をみながら、自分が中東の住民であないことを残念に思った。というのも、もし私が中東の住民であったら、ここで歌われる歌は、まさに民族歌謡として心ふるわせるものであったらだろうし、なつかしさに胸が熱くなってもおかしくないのだが、残念ながら、同じ文化を共有していない者にとって、歌は、どこか唐突感と、悪い意味での非現実感(リアルからの超出よりも、リアル感の妨害)しか伝わらない。また、これはこの作品本来の意図ではないと思うのだが、ダーイシュの占領下・監視下にあって、のんきに歌なんかうたっていたら殺されてもおかしくないと一観客として思わざるをえない。たとえ歌をうたうことがダーイシュ支配への抵抗だとしても、こんな無力な抵抗では、抵抗の意味がないとしか思えないのである――ただし中東の住民なら、歌の魅力に感銘をうけて、そこまでは思わないと思う。
なおこの作品のアーキタイプは、『ロミオとジュリエット』であろう。困難な状況の中で、未来を生きようとした夫婦であったが、死を選択せざるをえなくなる。また二人を助けようとする人物もいる。すでに述べたように、夫婦が教えた生徒のひとりである。私がこのブログでも何度も書いているように、またナチスのホロコースト映画などで最近描かれるようになってきた「善き人」(助け人)の存在は、ここでも重要な役割をはたす。元生徒は、ダーイシュを裏切ってまで、恩師を助けようとするのである。『ロミオとジュリエット』では若い恋人たちを助けようとするのは恩師的なロレンス修道士だったが、この作品では恩師を生徒が助けようとする。ここまで書いたからもうネタバレの領域に入っているのだが、『ロミオとジュリエット』ではロレンス修道士が二人の駆け落ちを画策しても、情報の行き違いから悲観した二人は命を絶つのだが、この作品でも元生徒は、逃亡の手はずをととのえて、隠れ処になっている舞台に入り、そこで自害している恩師である夫婦をみて呆然とするのである。
「善き人」であるこの元生徒は、今後、日本も安倍一味によって全体主義化がすすむだろうから、もう他人ごとではないのだが、たとえ、私自身、抵抗運動や反政府運動に参加できなくても、参加する人をかくまい、助けることは、せめてもの抵抗であり、せめてもの私の存在意義だと思っている――それゆえに「善き人」問題は、追究されてしかるべき重要な課題だが、この元生徒は、イスラム国/ダーイシュに、父親と母親を殺されたという。ともに背教者、異端者の烙印をおされる。そうなるとふつうはイスラム国に復讐する側にまわるのではないか。たとえば、一般人に蔑視されたり差別されたり冷遇されたりし、あげくのはてに両親を間接的であっても殺された子供が、おおきくなって反社会勢力の側になって、社会に復讐しようとすることはよくわかる。しかし、この演劇作品の世界では、両親を殺した側になる。ダーイシュが両親を殺した。そしてダーイシュの先兵となって働くようになった。それは、どういうメンタリティなのだろうか。アフター・パーフォーマンス・トークの場で原作者のカンナーム・ガンナーム氏がいたので、もし質問が許されるのなら、その場で、質問しようと本気で考えていたのだが、質問の時間は、最初から予定されていなかった。
というか他人にたよるよりも自分で考えるべきだろうから、そうするしかないが。結局、問題は、両親を殺した側につくことの謎につきる。この青年か少年は、両親がムスリムとして恥ずかしい存在とか異端者だとは思っていない。両親は、敬虔な信者であったと確信している。にもかかわらずイスラム国に冤罪あるいはみせしめのように背教者扱いされ殺された、母親は性奴隷とされ殺されたらしい。となればダーイシュの悪は明白である。それなのになぜダーイシュに加担するのか。無実の両親が殺されたことの恐怖が、彼を敵方につかせたのか。あるいは敵といっても、宗教勢力である。神を味方につけて絶対的宗教的真理を標榜し、つねに正しい側にあるという宗教勢力と表裏一体化しているダーイシュにとって、たとえどんなにダーイシュが不逞の輩で腐敗し私利私欲に走っているだけだとわかっても、信者たるもの逆らうことができなかったのか。あるいは汚名にまみれた両親の汚名をそそぐためにダーイシュの戦士となることにしたのか。さらにいえば家族を殺されて孤独の身となった彼にとって、ダーイシュ参加する以外の選択肢はなかったのかもしれない。
この元生徒は、なにもわからないまま洗脳されてしまう幼い子供ではない。ダーイシュの真実の姿も把握しているし、恩師たちによる教育の影響を受けている。いわば半身はダーイシュだが、半身は世俗的啓蒙化された人間である。こうした二重性を、ダーイシュの戦士といえども生きている。そしてそれはアラブ世界全体の住民たちの最大公約数的ありようということなのだろうか。引き裂かれと矛盾。それを統合しようとダーイシュは暴力的に支配し、反ダーウィシュ勢力は啓蒙化する手段をとる。分裂と統合。そこに最大の悲劇があるのだろうか。
と、疑問になってしまったが、ダーウィシュの戦士となった元生徒は、戦って死ぬこと、殉教によって天国に行けると信じこまされている(本人は、そこまで信じていないとしても)。そこで教員夫婦は、彼に死ぬのではなく生きるように説得する。ここにあるのは宗教と世俗主義との対立である。しかし皮肉なのことに、生きるように説得した夫婦が、死を選んでしまう。元生徒のほうは最後まで生きている。これはたんなる皮肉なのか。あるいは、世俗主義も、実は宗教の裏返しという、最近というか一昔前からの議論の延長線にあるものなのか。またもや疑問に終わってしまったが、この作品に触発される思考は実に多い。安倍一味がこの国を強奪してイスラム国まがいの恐怖政治を実現する時代において、私たちひとりひとりの生存のための重要な示唆を、この作品は限りなくあたえてくれることだろう。またそう確信できるほど、演技者の演技が素晴らしかったことは最後に明記しておきたい。
追記
明記のあとに。作者はパレスチナ人である。ガッサン・カナファーニー原作の『ハイファに戻って』が代表作ということらしい(同名の小説は私は翻訳で読んでいる。まあ『太陽の男たち』と並んでカナファーニーの有名すぎる代表作のひとつだから読んでいても当然なのだが)。そうするとイラクとかシリアとかヨルダンといったイスラム国に蹂躙された中東地域の物語だが、どこかパレスチナの現実と通ずるところがあるかもしれないと思ってしまう。
それは学校が舞台になっているからである。学校と行っても廃墟に等しい学校なのだが。イスラム国と同様イスラエル政府もパレスチナ人の学校を狙っている。学校を閉鎖する政策に出ている。パレスチナ人の自治区にいくと、週日の昼間には街には子供たちがあふれている。学校が閉鎖されているから、終日、街でぶらぶらしてすごすしかない。もちろん心ある親なら、家庭で、子供たちに勉強させて、基本的な知識とか教養をみにつけさせようとするだろうが、親たちも生活することに必死であれば、子供たちを教育する時間的余裕はないだろう。かくして学校を閉鎖されることで、次世代の若きパレスチナ人たちは無知蒙昧の徒となるばかりで、民族的文化も継承することもなく、頭脳の発達もない、ただの愚か者になりさがる。こうしてイスラエルはパレスチナ人の間接的な民族抹殺を図っているのである。イスラエル政府のこのやり方は絶対にゆるされないだろう。
イスラエル右翼は、パレスチナ人を学校に行かせると、民族教育、原理教育がほどこされて、子供たちはテロリストになると思い込んでいるかもしれないが、実際は逆である。学校もいけず、読み書きも、計算も、基本的教養もない子供たちこそ、原理主義思想を吹き込むには格好の材料である。何も知らない子供たちに、原理主義者たちがテロ思想を教え込む。学校に行けない子供たちが、自爆テロリストになる。結局、イスラエルの右翼は、子供たちを自爆テロリストにして墓穴堀人を育成しているようなものだが、それでもいいだろう。自爆テロリスト一人の凶行には倍返し三倍返しの報復を用いれば、パレスチナ人の民族消滅も遠いことではないからである。
学校を占拠し、子供たちを洗脳して戦士にするイスラム国のやり方は、どこかイスラエル政府のやり方と似ている。この演劇作品の光景は、パレスチナ自治区の今と、つながっている部分もあるのである。