6月14日、日本テレビで、実写版『アラジン』の公開記念ということで、アニメ版『アラジン』を放送していた。このアニメ版、その後、続編などつくられて、今やレジェンドともいっていい作品なのだが、公開時、そのクィア性というかゲイ的要素の横溢によって評判になった。
もし、あなたが映画館で、今公開中の実写版しか見ていないとしたら、どこにゲイ的要素があるのかといぶかるかもしれない――まさに、それが実写版の問題点なのだが。もし、あなたがアニメ版だけをみていたら、あるいは昔見て、今回のテレビ放送で印象をあらたにしたら、どこにゲイ的要素があるか、指摘されるまでもなく、すぐにわかるにちがいない。そう映画版からは想像もつかないかもしれないが、魔法のランプに宿るジーニー、髭を生やしたいかついおっさんなのだが、完全に、いわゆる芸達者な「おかま」なのである。もちろんステレオタイプ化されたものであるのだが、ゲイ男性のひとつの典型となっている。そしてアラジンを助けるこのジーニーの、臨機応変で変幻自在ぶりな活躍は、主人のアラジンを食ってしまうほどの強烈なキャラで、観る者を圧倒する。毎分ごとに女装するのも、アニメ版ジーニーの特徴である。そしていわずもがなだが、このジーニーの声を担当しいていたのが今は亡きロビン・ウィリアムズだった。ロビン・ウィリアムズの名前を出すだけですべてが説明できてしまうのだが。
先週になるが木曜日駒澤大学の英文科主催の講演会で映画関係の講演会をさせてもらったが、そのとき音と映像との興味深い関係がみられる例として、ガイ・リッチー監督(!)の『コードネーム U.N.C.L.E.(アンクル)』(The Man from U.N.C.L.E. 2015)のなかの一場面を取り上げた。
講演会には、私のもと指導学生も聞きにきてくれて、この映画の引用とコメントは、このブログに以前書いたことと同じですねと指摘されたので、というか……まさに指摘どおりなので、ここで繰り返すことはしないが、かつて日本のテレビでも人気を誇ったスパイ・シリーズ物ドラマ『ナポレオン・ソロ』の劇場版リメイクでもあるこの映画では、ソロとクリヤキンの二人が、同性愛的感情でも結びついているということを、実際の場面の展開とは場違いな映画の音楽‘Che vuole questa musica stasera’の挿入によって伝えていることを簡単に示した。
イタリアの歌手ペピーノ・ガリアルディ(Peppino Gagliardi)が歌うこの‘Che vuole questa musica stasera’は、日本のお笑いタレントであるヒロシがテーマ音楽として使った曲で、この曲を聴くと、思わず「ヒロシです」という導入句を思い浮かべる人も多いと思うのだが、『ガラスの家』(Plagio,1969)で使われて、曲のタイトルも「カラスの家」と紹介されることが多いものの、それは違う。そもそも『ガラスの家』の原タイトルはPlagioは英語のplagiarizeとかplagiarism(盗用、剽窃)の親戚語で、内容は、三角関係物。先の『パラレルワールド・ラブストーリー』にも通ずる要素があって、実際、『パラレルワールド……』のタイトルも、『盗用』とか『ガラスの家』としても、けっこうぴったりくるのだが。『コードネーム……』でも、この愛の歌は、該当する場面において、水の物語との相乗効果によって、ソロとクリヤキンが深い愛で結ばれている、もしくは結ばれていくことの強烈な暗示となっていた。
映画『ガラスの家』では苦境の陥っている男を助けることから物語は発展していく。
ただ『ナポレオン・ソロ』では、それほど強く感じられなかったのだが、同じくスパイ物でバディ物でもある、これも日本のテレビでも放送されたスパイもの西部劇『ワイルド・ウェスト』(The Wild Wild West 1965年から1969年まで制作、日本での放送時期は、ずれる)シリーズにおける二人の関係は、明確にゲイ・カップル的で、エージェント役のロバート・コンラッドと、彼を補佐するもうロス・マーティンのうとロバート・コンラッドはアクション担当のプレイボーイ、そしてロス・マーティンは支援係の情報作戦担当だが、彼は同時に変装の名人で、2回に一度は女装していた。今から思えば、まさにアニメ版のアラジンとジーニーの関係そのままだった。アラジンのジーニーも『ワイルド・ワイルド・ウェスト』も、いうなれば「女房役」なのだが、女房役の男性がいると言うこと自体、興味深いジェンダー関係を提示していた。
ちなみにこの『ワイルド・ワイルド・ウェスト』は、劇場版映画(『メン・イン・ブラック』シリーズの監督(インターナショナル篇の監督ではない)作品)にリメイクされたのだが、テレビドラマ版にあったようなプレイボーイのエージェントとそれを補佐するおかま的人物というジェンダー的混淆あるいはゲイ的要素がなくなったせいか、たんに話が面白くなかったのか、原シリーズにあった、お伽噺的荒唐無稽さがなくなったのか、とにかくラズベリー賞をもらうにいたるほど酷評された。
そしてその酷評された映画版に出ていたのがウィル・スミス。ウィル・スミスとケヴィン・クラインのコンビは、オリジナルのテレビ版にあった、おそらく明確には表現できない要素をすべて消し去ったものであった。オリジナルのテレビ版にあった精神が失われていた。
このウィル・スミス、今回もやってくれたではないか。ウィル・スミスがジーニーであることは予告編でわかっていた。だが映画がはじまると、彼は、二児の父親で、彼が子どもたちに語ってきかせるのが、本編の物語というからには、もうゲイ的要素は最初から消滅しているといっていいではないか。さらにいえば、ジーニーになってからのウィル・スミスは、王女の侍女に恋をするのであり(アニメ版にはない設定)、解放されたあと、その侍女と子どもをつくり、世界を見て回るという設定なのだからあきれはてる。オリジナルのアニメにはない侍女との結婚。ガイ・リッチー監督らしさは、何処に行ったのか? 『シャーロック・ホームズ』ではホームズに嫉妬させ、そして『コードネーム』ではバディ物の絆に同性愛をもってきた監督の監督らしさは?
6月14日、日本テレビで、実写版『アラジン』の公開記念ということで、アニメ版『アラジン』を放送していた。このアニメ版、その後、続編などつくられて、今やレジェンドともいっていい作品なのだが、公開時、そのクィア性というかゲイ的要素の横溢によって評判になった。
もし、あなたが映画館で、今公開中の実写版しか見ていないとしたら、どこにゲイ的要素があるのかといぶかるかもしれない――まさに、それが実写版の問題点なのだが。もし、あなたがアニメ版だけをみていたら、あるいは昔見て、今回のテレビ放送で印象をあらたにしたら、どこにゲイ的要素があるか、指摘されるまでもなく、すぐにわかるにちがいない。そう映画版からは想像もつかないかもしれないが、魔法のランプに宿るジーニー、髭を生やしたいかついおっさんなのだが、完全に、いわゆる芸達者な「おかま」なのである。もちろんステレオタイプ化されたものであるのだが、ゲイ男性のひとつの典型となっている。そしてアラジンを助けるこのジーニーの、臨機応変で変幻自在ぶりな活躍は、主人のアラジンを食ってしまうほどの強烈なキャラで、観る者を圧倒する。毎分ごとに女装するのも、アニメ版ジーニーの特徴である。そしていわずもがなだが、このジーニーの声を担当しいていたのが今は亡きロビン・ウィリアムズだった。ロビン・ウィリアムズの名前を出すだけですべてが説明できてしまうのだが。
先週になるが木曜日駒澤大学の英文科主催の講演会で映画関係の講演会をさせてもらったが、そのとき音と映像との興味深い関係がみられる例として、ガイ・リッチー監督(!)、
『コードネーム U.N.C.L.E.(アンクル)』(The Man from U.N.C.L.E. 2015)のなかの一場面を取り上げた。講演会には、私のもと指導学生も聞きにきてくれて、この映画の引用とコメントは、このブログに以前書いたことと同じですねと指摘されたので、というか、、、まさに指摘どおりなので、ここで繰り返すことはしないが、かつて日本のテレビでも人気を誇ったスパイ・シリーズ物ドラマ『ナポレオン・ソロ』の劇場版リメイクでもあるこの映画では、ソロとクリヤキンの二人が、同性愛的感情でも結びついているということを、実際の場面の展開とは場違いな映画の音楽‘Che vuole questa musica stasera’の挿入によって伝えていることを簡単に示した。
イタリアの歌手ペピーノ・ガリアルディ(Peppino Gagliardi)が歌うこの‘Che vuole questa musica stasera’は、日本のお笑いタレントであるヒロシがテーマ音楽として使った曲で、この曲を聴くと、思わず「ヒロシです」という導入句を思い浮かべる人も多いと思うのだが、『ガラスの家』(Plagio,1969)で使われて、曲のタイトルも「カラスの家」と紹介されることが多いものの、それは違う。そもそも『ガラスの家』の原タイトルはPlagioは英語のplagiarizeとかplagiarism(盗用、剽窃)の親戚語で、内容は、三角関係物。先の『パラレルワールド・ラブストーリー』にも通ずる要素があって、実際、『パラレルワールド……』のタイトルも、『盗用』とか『ガラスの家』としても、けっこうぴったりくるのだが。『コードネーム……』でも、この愛の歌は、水の物語との相乗効果によって、ソロとクリヤキンが深い愛で結ばれている、もしくは結ばれていくことの強烈な暗示となっていた。
映画『ガラスの家』では苦境の陥っている男を助けることから物語は発展していく。
ただ『ナポレオン・ソロ』では、それほど強く感じられなかったのだが、同じくスパイ物でバディ物でもある、これも日本のテレビでも放送されたスパイもの西部劇『ワイルド・ウェスト』(The Wild Wild West 1965年から1969年まで制作、日本での放送時期はずれる)シリーズにおける二人の関係は、明確にゲイ・カップル的で、エージェント役のロバート・コンラッドと、彼を補佐するもうロス・マーティンのうとロバート・コンラッドはアクション担当のプレイボーイ、そしてロス・マーティンは支援係の情報作戦担当だが、彼は同時に変装の名人で、2回に一度は女装していた。今から思えば、まさにアニメ版のアラジンとジーニーの関係そのままだった。アラジンのジーニーも『ワイルド・ワイルド・ウェスト』も、いうなれば「女房役」なのだが、女房役の男性がいると言うこと自体、興味深いジェンダー関係を提示していた。
ちなみにこの『ワイルド・ワイルド・ウェスト』は、劇場版映画(『メン・イン・ブラック』シリーズの監督(インターナショナル篇の監督ではない)作品)にリメイクされたのだが、テレビドラマ版にあったようなプレイボーイのエージェントとそれを補佐するおかま的人物というジェンダー的混淆あるいはゲイ的要素がなくなったせいか、たんに話が面白くなかったのか、原シリーズにあった、お伽噺的荒唐無稽さがなくなったのか、とにかくラズベリー賞をもらうにいたるほど酷評された。
そしてその酷評された映画版に出ていたのがウィル・スミス。ウィル・スミスとケヴィン・クラインのコンビは、オリジナルのテレビ版にあった、おそらく明確には表現できない要素をすべて消し去ったものであった。オリジナルのテレビ版にあった精神が失われていた。
このウィル・スミス、今回もやってくれたではないか。ウィル・スミスがジーニーであることは予告編でわかっていた。だが映画がはじまると、彼は、二児の父親で、彼が子どもたちに語ってきかせるのが、本編の物語というからには、もうゲイ的要素は最初から消滅しているといっていいではないか。さらにいえば、ジーニーになってからのウィル・スミスは、王女の侍女に恋をするのであり(アニメ版にはない設定)、解放されたあと、その侍女と子どもをつくり、世界を見て回るという設定なのだからあきれはてる。オリジナルのアニメにはない侍女との結婚。ガイ・リッチー監督らしさは、何処に行ったのか? 『シャーロック・ホームズ』ではホームズに嫉妬させ、そして『コードネーム』ではバディ物の絆に同性愛をもってきた監督の監督らしさは?
6月14日、日本テレビで、実写版『アラジン』の公開記念ということで、アニメ版『アラジン』を放送していた。このアニメ版、その後、続編などつくられて、今やレジェンドともいっていい作品なのだが、公開時、そのクィア性というかゲイ的要素の横溢によって評判になった。
もし、あなたが映画館で、今公開中の実写版しか見ていないとしたら、どこにゲイ的要素があるのかといぶかるかもしれない――まさに、それが実写版の問題点なのだが。もし、あなたがアニメ版だけをみていたら、あるいは昔見て、今回のテレビ放送で印象をあらたにしたら、どこにゲイ的要素があるか、指摘されるまでもなく、すぐにわかるにちがいない。そう映画版からは想像もつかないかもしれないが、魔法のランプに宿るジーニー、髭を生やしたいかついおっさんなのだが、完全に、いわゆる芸達者な「おかま」なのである。もちろんステレオタイプ化されたものであるのだが、ゲイ男性のひとつの典型となっている。そしてアラジンを助けるこのジーニーの、臨機応変で変幻自在ぶりな活躍は、主人のアラジンを食ってしまうほどの強烈なキャラで、観る者を圧倒する。毎分ごとに女装するのも、アニメ版ジーニーの特徴である。そしていわずもがなだが、このジーニーの声を担当しいていたのが今は亡きロビン・ウィリアムズだった。ロビン・ウィリアムズの名前を出すだけですべてが説明できてしまうのだが。
先週になるが木曜日駒澤大学の英文科主催の講演会で映画関係の講演会をさせてもらったが、そのとき音と映像との興味深い関係がみられる例として、ガイ・リッチー監督(!)、
『コードネーム U.N.C.L.E.(アンクル)』(The Man from U.N.C.L.E. 2015)のなかの一場面を取り上げた。講演会には、私のもと指導学生も聞きにきてくれて、この映画の引用とコメントは、このブログに以前書いたことと同じですねと指摘されたので、というか、、、まさに指摘どおりなので、ここで繰り返すことはしないが、かつて日本のテレビでも人気を誇ったスパイ・シリーズ物ドラマ『ナポレオン・ソロ』の劇場版リメイクでもあるこの映画では、ソロとクリヤキンの二人が、同性愛的感情でも結びついているということを、実際の場面の展開とは場違いな映画の音楽‘Che vuole questa musica stasera’の挿入によって伝えていることを簡単に示した。
イタリアの歌手ペピーノ・ガリアルディ(Peppino Gagliardi)が歌うこの‘Che vuole questa musica stasera’は、日本のお笑いタレントであるヒロシがテーマ音楽として使った曲で、この曲を聴くと、思わず「ヒロシです」という導入句を思い浮かべる人も多いと思うのだが、『ガラスの家』(Plagio,1969)で使われて、曲のタイトルも「カラスの家」と紹介されることが多いものの、それは違う。そもそも『ガラスの家』の原タイトルはPlagioは英語のplagiarizeとかplagiarism(盗用、剽窃)の親戚語で、内容は、三角関係物。先の『パラレルワールド・ラブストーリー』にも通ずる要素があって、実際、『パラレルワールド……』のタイトルも、『盗用』とか『ガラスの家』としても、けっこうぴったりくるのだが。『コードネーム……』でも、この愛の歌は、水の物語との相乗効果によって、ソロとクリヤキンが深い愛で結ばれている、もしくは結ばれていくことの強烈な暗示となっていた。
映画『ガラスの家』では苦境の陥っている男を助けることから物語は発展していく。
ただ『ナポレオン・ソロ』では、それほど強く感じられなかったのだが、同じくスパイ物でバディ物でもある、これも日本のテレビでも放送されたスパイもの西部劇『ワイルド・ウェスト』(The Wild Wild West 1965年から1969年まで制作、日本での放送時期はずれる)シリーズにおける二人の関係は、明確にゲイ・カップル的で、エージェント役のロバート・コンラッドと、彼を補佐するもうロス・マーティンのうとロバート・コンラッドはアクション担当のプレイボーイ、そしてロス・マーティンは支援係の情報作戦担当だが、彼は同時に変装の名人で、2回に一度は女装していた。今から思えば、まさにアニメ版のアラジンとジーニーの関係そのままだった。アラジンのジーニーも『ワイルド・ワイルド・ウェスト』も、いうなれば「女房役」なのだが、女房役の男性がいると言うこと自体、興味深いジェンダー関係を提示していた。
ちなみにこの『ワイルド・ワイルド・ウェスト』は、劇場版映画(『メン・イン・ブラック』シリーズの監督(インターナショナル篇の監督ではない)作品)にリメイクされたのだが、テレビドラマ版にあったようなプレイボーイのエージェントとそれを補佐するおかま的人物というジェンダー的混淆あるいはゲイ的要素がなくなったせいか、たんに話が面白くなかったのか、原シリーズにあった、お伽噺的荒唐無稽さがなくなったのか、とにかくラズベリー賞をもらうにいたるほど酷評された。
そしてその酷評された映画版に出ていたのがウィル・スミス。ウィル・スミスとケヴィン・クラインのコンビは、オリジナルのテレビ版にあった、おそらく明確には表現できない要素をすべて消し去ったものであった。オリジナルのテレビ版にあった精神が失われていた。
このウィル・スミス、今回もやってくれたではないか。ウィル・スミスがジーニーであることは予告編でわかっていた。だが映画がはじまると、彼は、二児の父親で、彼が子どもたちに語ってきかせるのが、本編の物語というからには、もうゲイ的要素は最初から消滅しているといっていいではないか。さらにいえば、ジーニーになってからのウィル・スミスは、王女の侍女に恋をするのであり(アニメ版にはない設定)、解放されたあと、その侍女と子どもをつくり、世界を見て回るという設定なのだからあきれはてる。オリジナルのアニメにはない侍女との結婚。ガイ・リッチー監督らしさは、何処に行ったのか? 『シャーロック・ホームズ』ではホームズに嫉妬させ、そして『コードネーム』ではバディ物の絆に同性愛をもってきた監督の監督らしさは?
6月14日、日本テレビで、実写版『アラジン』の公開記念ということで、アニメ版『アラジン』を放送していた。このアニメ版、その後、続編などつくられて、今やレジェンドともいっていい作品なのだが、公開時、そのクィア性というかゲイ的要素の横溢によって評判になった。
もし、あなたが映画館で、今公開中の実写版しか見ていないとしたら、どこにゲイ的要素があるのかといぶかるかもしれない――まさに、それが実写版の問題点なのだが。もし、あなたがアニメ版だけをみていたら、あるいは昔見て、今回のテレビ放送で印象をあらたにしたら、どこにゲイ的要素があるか、指摘されるまでもなく、すぐにわかるにちがいない。そう映画版からは想像もつかないかもしれないが、魔法のランプに宿るジーニー、髭を生やしたいかついおっさんなのだが、完全に、いわゆる芸達者な「おかま」なのである。もちろんステレオタイプ化されたものであるのだが、ゲイ男性のひとつの典型となっている。そしてアラジンを助けるこのジーニーの、臨機応変で変幻自在ぶりな活躍は、主人のアラジンを食ってしまうほどの強烈なキャラで、観る者を圧倒する。毎分ごとに女装するのも、アニメ版ジーニーの特徴である。そしていわずもがなだが、このジーニーの声を担当しいていたのが今は亡きロビン・ウィリアムズだった。ロビン・ウィリアムズの名前を出すだけですべてが説明できてしまうのだが。
先週になるが木曜日駒澤大学の英文科主催の講演会で映画関係の講演会をさせてもらったが、そのとき音と映像との興味深い関係がみられる例として、ガイ・リッチー監督(!)、
『コードネーム U.N.C.L.E.(アンクル)』(The Man from U.N.C.L.E. 2015)のなかの一場面を取り上げた。講演会には、私のもと指導学生も聞きにきてくれて、この映画の引用とコメントは、このブログに以前書いたことと同じですねと指摘されたので、というか、、、まさに指摘どおりなので、ここで繰り返すことはしないが、かつて日本のテレビでも人気を誇ったスパイ・シリーズ物ドラマ『ナポレオン・ソロ』の劇場版リメイクでもあるこの映画では、ソロとクリヤキンの二人が、同性愛的感情でも結びついているということを、実際の場面の展開とは場違いな映画の音楽‘Che vuole questa musica stasera’の挿入によって伝えていることを簡単に示した。
イタリアの歌手ペピーノ・ガリアルディ(Peppino Gagliardi)が歌うこの‘Che vuole questa musica stasera’は、日本のお笑いタレントであるヒロシがテーマ音楽として使った曲で、この曲を聴くと、思わず「ヒロシです」という導入句を思い浮かべる人も多いと思うのだが、『ガラスの家』(Plagio,1969)で使われて、曲のタイトルも「カラスの家」と紹介されることが多いものの、それは違う。そもそも『ガラスの家』の原タイトルはPlagioは英語のplagiarizeとかplagiarism(盗用、剽窃)の親戚語で、内容は、三角関係物。先の『パラレルワールド・ラブストーリー』にも通ずる要素があって、実際、『パラレルワールド……』のタイトルも、『盗用』とか『ガラスの家』としても、けっこうぴったりくるのだが。『コードネーム……』でも、この愛の歌は、水の物語との相乗効果によって、ソロとクリヤキンが深い愛で結ばれている、もしくは結ばれていくことの強烈な暗示となっていた。
映画『ガラスの家』では苦境の陥っている男を助けることから物語は発展していく。
ただ『ナポレオン・ソロ』では、それほど強く感じられなかったのだが、同じくスパイ物でバディ物でもある、これも日本のテレビでも放送されたスパイもの西部劇『ワイルド・ウェスト』(The Wild Wild West 1965年から1969年まで制作、日本での放送時期はずれる)シリーズにおける二人の関係は、明確にゲイ・カップル的だった。エージェント役のロバート・コンラッドと、彼を補佐するもうロス・マーティンのコンビは、ロバート・コンラッドがアクション担当のプレイボーイ、そしてロス・マーティンは支援係の情報作戦担当だが、彼は同時に変装の名人で、2回に一度は女装していた。今思うと、これはまさにアニメ版のアラジンとジーニーの関係そのままだった。アラジンのジーニーも『ワイルド・ワイルド・ウェスト』も、いうなれば「女房役」なのだが、女房役の男性がいると言うこと自体、興味深いジェンダー関係を提示していた。
ちなみにこの『ワイルド・ワイルド・ウェスト』は、劇場版映画(『メン・イン・ブラック』シリーズの監督(インターナショナル篇の監督ではない)作品)にリメイクされたのだが、テレビドラマ版にあったようなプレイボーイのエージェントとそれを補佐するおかま的人物というジェンダー的混淆あるいはゲイ的要素がなくなったせいか、たんに話が面白くなかったのか、原シリーズにあった、お伽噺的荒唐無稽さがなくなったのか、とにかくラズベリー賞をもらうにいたるほど酷評された。
そしてその酷評された映画版に出ていたのがウィル・スミス。ウィル・スミスとケヴィン・クラインのコンビは、オリジナルのテレビ版にあった、おそらく明確には表現できない要素をすべて消し去ったものであった。オリジナルのテレビ版にあった精神が失われていた。
このウィル・スミス、今回もやってくれたではないか。ウィル・スミスがジーニーであることは予告編でわかっていた。だが映画がはじまると、彼は、二児の父親で、彼が子どもたちに語ってきかせるのが、本編の物語というからには、もうゲイ的要素は最初から消滅しているといっていいではないか。さらにいえば、ジーニーになってからのウィル・スミスは、王女の侍女に恋をするのであり(アニメ版にはない設定)、解放されたあと、その侍女と子どもをつくり、世界を見て回るという設定なのだからあきれはてる。オリジナルのアニメにはない侍女との結婚。ガイ・リッチー監督らしさは、何処に行ったのか? 『シャーロック・ホームズ』ではホームズに嫉妬させ、そして『コードネーム』ではバディ物の絆に同性愛をもってきた監督の監督らしさは?