2019年06月23日

『ザ・ファブル』

タイトルの「ファブル」というのは、どういう意味かと不思議に思った。映画ではタイトルにThe Fableとでる。Theがついていると、これは英語。となると、これは「フェイブル」と発音するのがふつうというか、その発音しかない。これを「ファブル」などと気色の悪い読み方をするのは、4Aprilを「エイプリル」ではなく、フランス語のように「アプリル」と発音するようなものだが、それでいいのだろうか。むしろフランス語を意識しているのだろうか。もし英語なら、Fableをファブルと読むのは、ただのバカである。しかしフランス語なども意識して、あえてファブルと読むのは、くせ者かもしれない。

まあ、英語とすると、このFableは、バカペディアに書いてあったように「寓話」という意味ではないだろう。いや英語の「フェイブル」は「寓話」という意味が一般的なのだが、「伝説、神話」というような意味もある。伝説というとLegendレジェンドのほうが一般的だが、Fableにも、その意味がある。まあ映画では、伝説・神話になっているような殺し屋という意味で「ファブル」が使われている。もっとも原作の漫画では、殺し屋組織全体が「ファブル」と呼ばれているようで、それがどういう意味かよくわかない。くせ者なのか、バカなのか、つかみどころのないところがある。

ここで寓話ではなく伝説だということにこだわったのは、この映画が、ふまえているのは、もう一つの伝説的映画だという気がしたからである。岡田准一扮するファブルこと佐藤明(偽名)は、父親代わりのボス(佐藤浩市)にプロの殺し屋になるために育てられ訓練された超一流の殺し屋なのだが、天才だが、ただのバカという二面性があって、そこがキャラクター的に興味深いというか魅力的なところがある。もっと具体的にいうと、この天才的殺し屋は、みかけは大人だが、中身は子供であって、一年間、大阪に一般人として潜伏することによって、天才的殺し屋から凡人の殺し屋になるというか殺し屋から足を洗うと同時に、それはまた子供から大人への成長過程ともなっている。また彼の成長過程のなかで、薄幸の美女との出会いが大きな影響をあたえることになる。そう、みかけはおっさんだが、中身は子供。父親がわりのボスがいて。この映画では冷酷な殺し屋だが、同時に、慈愛に満ちた父親だが、また父親がわりであっても、なにもしらない子供同然の疑似息子を搾取するボスというのがいて……。

そう、この『ザ・ファブル』のもとにあるのは、伝説の映画『レオン』だろう。ジャン・レノ演ずる殺し屋は、みかけは、くそおやじだが、中身は、無垢な子供で、そのぶんボスに騙され搾取されている。彼が植木の植物を育てていることと、岡田准一がオウムを鳥かごに飼っていることもまた、レオンを暗示させるものとなっている。レオンと少女との出会いとふれあい。またプロの殺し屋であったレオンにとって贖罪は、みずからを犠牲にして少女を救うことであり、当然、それは悲劇的な結末を生むことになるが、もしプロの殺し屋でありながら、最後まで死なないという物語にするのなら、実際には、笑いによって死を限りなく遠ざけるということになろうか。ただ、たとえそうでも、主人公のレオン感は消せないように思われる。『ザ・ファブル』つまり『ザ・伝説映画』すなわち『レオン』の喜劇ヴァージョンなのである。

なお主人公ファブル/岡田准一の、レオン以外のイメージは、野生動物である。枝豆を皮ごと食べる。スイカも皮ごと丸かじりする。そして猫舌で、熱した食材は食べられないというのは、はっきりいって、動物。火を入れたものを食べることができるのは人間だけなので。また映画のなかで岡田准一は、日常的には服を着ない。素っ裸である。動物と同じ、したがって主人公は、人間に化けている動物といもいえる。武器が使え、言葉も喋ることができるが、中身は動物という設定というかイメージが濃厚である。となると人間の言葉をしゃべる動物が登場するのは「寓話」、もしくは「動物寓話」。そこからタイトル、個人名、団体名が生まれたのかもしれない(原作は読んでいないので、勝手な推測だが)。ただし、その場合でも「ファブル」ではなく「フェイブル」。

つっこみどころは、「ファブル」からはじまって、やまのようにあるが、同時に、それはただのバカなのか、くせ者なのかわからないところがこの映画の魅力だろう。サヴァン症候群の話が出てくるが、天才的なバカの物語が、全編にわたって炸裂する。それはつっこまれやすさが、つっこまれないほど一貫しているというべきか。猫舌の例をとってみたい。極度の猫舌という設定なら、最後に出てくる手羽先のから揚げも、スーパーで買ってくるとか、名古屋のお土産で買ってくるのなら、まだしも、居酒屋で出されるのなら、店内で揚げていて熱いはずなのに、どうして平気なのか。鮎の塩焼きは熱くて食べられなくて、居酒屋でのサンマの塩焼きは頭から食べられるというのは、一貫性がない。バカじゃないかとつっこみたくなるが、しかし同時に、そこがくせ者の配慮かもしれないと思えてきて、動けなくなる。すべて「ファブル」からはじまっている。「フェイブル」だろう、この偏差値低い漫画・映画が、と、つっこみたくなって、ひょっとしたらここに配慮があるのではと思い始め、つっこめなくなる。

別の例。たとえば岡田准一が世話になる山本美月が映画ではマドンナ役なのだが、岡田の妹役の木村文乃が、ゲームで、山本の顔をいじり、むりやり変顔にさせる場面がある。その場面をみながら、山本はずいぶん美人だ、と、あらためて思った。これは、変顔と普段の顔とのギャップによって、彼女がきれいにみえたというのではない。あるいは同じことだが、彼女の変顔が引き立て役となって、普段の彼女の顔の美しさを際立たせたということではない。くしゃくしゃにされ、ある意味、苦悶にゆがむ顔そのものを、みていて美しいと感じたのだが、これは私自身のSM的嗜好とはまったく関係なく、また倒錯趣味とも関係がない。変顔になっているときのほうが、普段の顔よりも美しいというと語弊があるが、変顔と普段の顔のどちらでもない、両者の混淆、両者が相互に出現あるいは点滅的に共存するところが、なんとも見慣れぬ面白さがあるがゆえに、感銘をうけたというところか。

言い換えれば、何かハイブリッド的なものの魅力とでもいえるようなものがあって、それが一見、無配慮あるいは失敗あるいは欠陥のようにみえたりもするのだが、それが、堂々とまではいかなくても、けっこう悪びれずに誇示されているために、簡単に批判して終わらせることができなくなるような、還元不能、説明不可能な、何かとして残存し続ける。そこにへんな魅力があるのである。

いや、これは何か、もやもやするものを魅力とかなんとかいいくるめようとしているのではないかと反論されそうだが、そうでないということで付け加えると、たとえばアクション・シーン。ネット上の反応にはこんなものがあった。

*快感すぎる人殺し映画。 (投稿日:622)

*銃でドンパチするシーンが多く、見た目は残酷な演出が多く見られたものの、

*あんだけの人数に拳銃持たせる力有るなら向井理って既に組長以上だろってwww

 実際あれだけの人数なら絶対ファブル殺されてる。設定ミス。【あれだけの人数を、本来のファブルなら簡単に殺せるのに、本来  のファブルではないから、時間がかかるという、映画の基本的設定というか物語を理解していないコメント】

*周りが岡田准一のアクションに付いていけないからか、中途半端なガンアクションにはイライラした【これも上記と同じ、本来のファブルではないから、ガンアクションが中途半端になる。それがこの映画の設定。】

映画の最初では天才的な殺し屋が、殺しまくる。しかし彼が凶悪なテロリストではないのは、殺される側が、闇社会の反社会的勢力だからで、警察の代行という面がある。そして最後の救出作戦は、ボスから一人でも殺したら殺すぞと言われている岡田准一が、ふつうならあっというまに全員皆殺しにできるところ、銃が使えない(まるでマクガイバーのように、ありあわせの機材で基本おもちゃの銃を作り、それを武器にして乗り込む)、一人も殺さないという、ありえないほどの困難を克服しての乱射・乱闘シーンが最後のクライマックスに待っている(たとえ乱闘になって、相手の銃を奪って射殺したかにみえて、急所をはずしているので、相手は死んでいない)。

そうなると面白そうだと思うかもしれないが、岡田准一、乗り込むときには、殺し屋としての習慣で、毛糸帽に目の部分をくりぬいただけの、マスクをつけて乗り込む。つまり顔がわからない。スタントマンを使わなくともアクションができるらしい岡田准一が、顔をみせないヒーローとして、アクションを繰り広げるというのは、正直言って驚く――まあ、目力で魅せるのかもしれないが。また一人も殺さないアクションシーンについては、本来なら、たとえ、一つ一つの事例でなくてもいいとしても、なにか映像で説明するかたちで提示するものだと思うのだが、ただただ暗闇のなかで、なにがなんだかわからないままに、展開していく。そういう意味からすれば、せっかくのアクションシーンが下手なのは残念だが、それも最初から織り込み済みだったかもしれないと思い、一瞬、見る者が考え込む。それがこの映画の特徴であり、また変な魅力となっている。ジャッカル富岡(宮川大輔)のギャグも、実は同じような一瞬置いての笑いとなっていることとも、これは関係するだろう。何事であれ、一瞬置かせることのあとでは、思いがけないことがおこる、あるいは思いがけない反応が起こる。そこをこの映画は知っているというべきか。

あと、この映画、スターを無駄に使っている。木村文乃は謎めいた女性の役だが、最後まで謎めいているというよりも、そんなに出番もなく、詳しいことがわからないまま終わるから、謎ではなく、性格を提示しそこなうというイメージが強い。もちろん役どころとしても、あまり活躍の場がない。藤森慎吾と飲み比べをするか、山本美月に変顔をさせるくらいである。柳楽優弥の演技のうまさには定評があるし、先月、私は、劇場(彩の国さいたま芸術劇場)に見に行ったくらいだから、その演技について称賛の言葉しかないのだが、この映画のなかで、ステレオタイプ的表層的演技でしかないということとは別としても、主人公にとって強力なライヴァルあるいは天敵になるはずが、まさか最後の救出作戦において主人公に救出される側になるとは。その肩透かしももまた、下手なのか、思慮を欠いているのかと思われて、案外、想定済みのことかもしれず、ここでもまた、一瞬置いた、良き、もやもや感が生ずるのである。

「フェイブル」なのか「ファブル」なのか、なぜ「ファブル」なのか、バカじゃないかと思いながら、一瞬置いて、もしかしたらなにか、たとえ深いものでなくても、配慮がというふうに思えてくる。このパタンの繰り返しであり、繰り返しが快感になる。そのへんを映画はねらっているのかもしれない。ジャッカル富岡のギャグはなにもおかしくないが、そうとは決められないかもしれないと一瞬置くことによって、最後には、面白いと思うようになる。それがこの映画の奇妙な魅力なのかもしれない。

posted by ohashi at 19:52| 映画 | 更新情報をチェックする

2019年06月15日

『アラジン』

614日、日本テレビで、実写版『アラジン』の公開記念ということで、アニメ版『アラジン』を放送していた。このアニメ版、その後、続編などつくられて、今やレジェンドともいっていい作品なのだが、公開時、そのクィア性というかゲイ的要素の横溢によって評判になった。

もし、あなたが映画館で、今公開中の実写版しか見ていないとしたら、どこにゲイ的要素があるのかといぶかるかもしれない――まさに、それが実写版の問題点なのだが。もし、あなたがアニメ版だけをみていたら、あるいは昔見て、今回のテレビ放送で印象をあらたにしたら、どこにゲイ的要素があるか、指摘されるまでもなく、すぐにわかるにちがいない。そう映画版からは想像もつかないかもしれないが、魔法のランプに宿るジーニー、髭を生やしたいかついおっさんなのだが、完全に、いわゆる芸達者な「おかま」なのである。もちろんステレオタイプ化されたものであるのだが、ゲイ男性のひとつの典型となっている。そしてアラジンを助けるこのジーニーの、臨機応変で変幻自在ぶりな活躍は、主人のアラジンを食ってしまうほどの強烈なキャラで、観る者を圧倒する。毎分ごとに女装するのも、アニメ版ジーニーの特徴である。そしていわずもがなだが、このジーニーの声を担当しいていたのが今は亡きロビン・ウィリアムズだった。ロビン・ウィリアムズの名前を出すだけですべてが説明できてしまうのだが。

先週になるが木曜日駒澤大学の英文科主催の講演会で映画関係の講演会をさせてもらったが、そのとき音と映像との興味深い関係がみられる例として、ガイ・リッチー監督(!)の『コードネーム U.N.C.L.E.(アンクル)』(The Man from U.N.C.L.E. 2015)のなかの一場面を取り上げた。

講演会には、私のもと指導学生も聞きにきてくれて、この映画の引用とコメントは、このブログに以前書いたことと同じですねと指摘されたので、というか……まさに指摘どおりなので、ここで繰り返すことはしないが、かつて日本のテレビでも人気を誇ったスパイ・シリーズ物ドラマ『ナポレオン・ソロ』の劇場版リメイクでもあるこの映画では、ソロとクリヤキンの二人が、同性愛的感情でも結びついているということを、実際の場面の展開とは場違いな映画の音楽‘Che vuole questa musica stasera’の挿入によって伝えていることを簡単に示した。

イタリアの歌手ペピーノ・ガリアルディ(Peppino Gagliardi)が歌うこの‘Che vuole questa musica stasera’は、日本のお笑いタレントであるヒロシがテーマ音楽として使った曲で、この曲を聴くと、思わず「ヒロシです」という導入句を思い浮かべる人も多いと思うのだが、『ガラスの家』(Plagio,1969)で使われて、曲のタイトルも「カラスの家」と紹介されることが多いものの、それは違う。そもそも『ガラスの家』の原タイトルはPlagioは英語のplagiarizeとかplagiarism(盗用、剽窃)の親戚語で、内容は、三角関係物。先の『パラレルワールド・ラブストーリー』にも通ずる要素があって、実際、『パラレルワールド……』のタイトルも、『盗用』とか『ガラスの家』としても、けっこうぴったりくるのだが。『コードネーム……』でも、この愛の歌は、該当する場面において、水の物語との相乗効果によって、ソロとクリヤキンが深い愛で結ばれている、もしくは結ばれていくことの強烈な暗示となっていた。

映画『ガラスの家』では苦境の陥っている男を助けることから物語は発展していく。

ただ『ナポレオン・ソロ』では、それほど強く感じられなかったのだが、同じくスパイ物でバディ物でもある、これも日本のテレビでも放送されたスパイもの西部劇『ワイルド・ウェスト』(The Wild Wild West 1965年から1969年まで制作、日本での放送時期は、ずれる)シリーズにおける二人の関係は、明確にゲイ・カップル的で、エージェント役のロバート・コンラッドと、彼を補佐するもうロス・マーティンのうとロバート・コンラッドはアクション担当のプレイボーイ、そしてロス・マーティンは支援係の情報作戦担当だが、彼は同時に変装の名人で、2回に一度は女装していた。今から思えば、まさにアニメ版のアラジンとジーニーの関係そのままだった。アラジンのジーニーも『ワイルド・ワイルド・ウェスト』も、いうなれば「女房役」なのだが、女房役の男性がいると言うこと自体、興味深いジェンダー関係を提示していた。


ちなみにこの『ワイルド・ワイルド・ウェスト』は、劇場版映画(『メン・イン・ブラック』シリーズの監督(インターナショナル篇の監督ではない)作品)にリメイクされたのだが、テレビドラマ版にあったようなプレイボーイのエージェントとそれを補佐するおかま的人物というジェンダー的混淆あるいはゲイ的要素がなくなったせいか、たんに話が面白くなかったのか、原シリーズにあった、お伽噺的荒唐無稽さがなくなったのか、とにかくラズベリー賞をもらうにいたるほど酷評された。


そしてその酷評された映画版に出ていたのがウィル・スミス。ウィル・スミスとケヴィン・クラインのコンビは、オリジナルのテレビ版にあった、おそらく明確には表現できない要素をすべて消し去ったものであった。オリジナルのテレビ版にあった精神が失われていた。


このウィル・スミス、今回もやってくれたではないか。ウィル・スミスがジーニーであることは予告編でわかっていた。だが映画がはじまると、彼は、二児の父親で、彼が子どもたちに語ってきかせるのが、本編の物語というからには、もうゲイ的要素は最初から消滅しているといっていいではないか。さらにいえば、ジーニーになってからのウィル・スミスは、王女の侍女に恋をするのであり(アニメ版にはない設定)、解放されたあと、その侍女と子どもをつくり、世界を見て回るという設定なのだからあきれはてる。オリジナルのアニメにはない侍女との結婚。ガイ・リッチー監督らしさは、何処に行ったのか? 『シャーロック・ホームズ』ではホームズに嫉妬させ、そして『コードネーム』ではバディ物の絆に同性愛をもってきた監督の監督らしさは?

614日、日本テレビで、実写版『アラジン』の公開記念ということで、アニメ版『アラジン』を放送していた。このアニメ版、その後、続編などつくられて、今やレジェンドともいっていい作品なのだが、公開時、そのクィア性というかゲイ的要素の横溢によって評判になった。


もし、あなたが映画館で、今公開中の実写版しか見ていないとしたら、どこにゲイ的要素があるのかといぶかるかもしれない――まさに、それが実写版の問題点なのだが。もし、あなたがアニメ版だけをみていたら、あるいは昔見て、今回のテレビ放送で印象をあらたにしたら、どこにゲイ的要素があるか、指摘されるまでもなく、すぐにわかるにちがいない。そう映画版からは想像もつかないかもしれないが、魔法のランプに宿るジーニー、髭を生やしたいかついおっさんなのだが、完全に、いわゆる芸達者な「おかま」なのである。もちろんステレオタイプ化されたものであるのだが、ゲイ男性のひとつの典型となっている。そしてアラジンを助けるこのジーニーの、臨機応変で変幻自在ぶりな活躍は、主人のアラジンを食ってしまうほどの強烈なキャラで、観る者を圧倒する。毎分ごとに女装するのも、アニメ版ジーニーの特徴である。そしていわずもがなだが、このジーニーの声を担当しいていたのが今は亡きロビン・ウィリアムズだった。ロビン・ウィリアムズの名前を出すだけですべてが説明できてしまうのだが。


先週になるが木曜日駒澤大学の英文科主催の講演会で映画関係の講演会をさせてもらったが、そのとき音と映像との興味深い関係がみられる例として、ガイ・リッチー監督(!)、

『コードネーム U.N.C.L.E.(アンクル)』(The Man from U.N.C.L.E. 2015)のなかの一場面を取り上げた。講演会には、私のもと指導学生も聞きにきてくれて、この映画の引用とコメントは、このブログに以前書いたことと同じですねと指摘されたので、というか、、、まさに指摘どおりなので、ここで繰り返すことはしないが、かつて日本のテレビでも人気を誇ったスパイ・シリーズ物ドラマ『ナポレオン・ソロ』の劇場版リメイクでもあるこの映画では、ソロとクリヤキンの二人が、同性愛的感情でも結びついているということを、実際の場面の展開とは場違いな映画の音楽‘Che vuole questa musica stasera’の挿入によって伝えていることを簡単に示した。


イタリアの歌手ペピーノ・ガリアルディ(Peppino Gagliardi)が歌うこの‘Che vuole questa musica stasera’は、日本のお笑いタレントであるヒロシがテーマ音楽として使った曲で、この曲を聴くと、思わず「ヒロシです」という導入句を思い浮かべる人も多いと思うのだが、『ガラスの家』(Plagio,1969)で使われて、曲のタイトルも「カラスの家」と紹介されることが多いものの、それは違う。そもそも『ガラスの家』の原タイトルはPlagioは英語のplagiarizeとかplagiarism(盗用、剽窃)の親戚語で、内容は、三角関係物。先の『パラレルワールド・ラブストーリー』にも通ずる要素があって、実際、『パラレルワールド……』のタイトルも、『盗用』とか『ガラスの家』としても、けっこうぴったりくるのだが。『コードネーム……』でも、この愛の歌は、水の物語との相乗効果によって、ソロとクリヤキンが深い愛で結ばれている、もしくは結ばれていくことの強烈な暗示となっていた。

映画『ガラスの家』では苦境の陥っている男を助けることから物語は発展していく。


ただ『ナポレオン・ソロ』では、それほど強く感じられなかったのだが、同じくスパイ物でバディ物でもある、これも日本のテレビでも放送されたスパイもの西部劇『ワイルド・ウェスト』(The Wild Wild West 1965年から1969年まで制作、日本での放送時期はずれる)シリーズにおける二人の関係は、明確にゲイ・カップル的で、エージェント役のロバート・コンラッドと、彼を補佐するもうロス・マーティンのうとロバート・コンラッドはアクション担当のプレイボーイ、そしてロス・マーティンは支援係の情報作戦担当だが、彼は同時に変装の名人で、2回に一度は女装していた。今から思えば、まさにアニメ版のアラジンとジーニーの関係そのままだった。アラジンのジーニーも『ワイルド・ワイルド・ウェスト』も、いうなれば「女房役」なのだが、女房役の男性がいると言うこと自体、興味深いジェンダー関係を提示していた。


ちなみにこの『ワイルド・ワイルド・ウェスト』は、劇場版映画(『メン・イン・ブラック』シリーズの監督(インターナショナル篇の監督ではない)作品)にリメイクされたのだが、テレビドラマ版にあったようなプレイボーイのエージェントとそれを補佐するおかま的人物というジェンダー的混淆あるいはゲイ的要素がなくなったせいか、たんに話が面白くなかったのか、原シリーズにあった、お伽噺的荒唐無稽さがなくなったのか、とにかくラズベリー賞をもらうにいたるほど酷評された。


そしてその酷評された映画版に出ていたのがウィル・スミス。ウィル・スミスとケヴィン・クラインのコンビは、オリジナルのテレビ版にあった、おそらく明確には表現できない要素をすべて消し去ったものであった。オリジナルのテレビ版にあった精神が失われていた。


このウィル・スミス、今回もやってくれたではないか。ウィル・スミスがジーニーであることは予告編でわかっていた。だが映画がはじまると、彼は、二児の父親で、彼が子どもたちに語ってきかせるのが、本編の物語というからには、もうゲイ的要素は最初から消滅しているといっていいではないか。さらにいえば、ジーニーになってからのウィル・スミスは、王女の侍女に恋をするのであり(アニメ版にはない設定)、解放されたあと、その侍女と子どもをつくり、世界を見て回るという設定なのだからあきれはてる。オリジナルのアニメにはない侍女との結婚。ガイ・リッチー監督らしさは、何処に行ったのか? 『シャーロック・ホームズ』ではホームズに嫉妬させ、そして『コードネーム』ではバディ物の絆に同性愛をもってきた監督の監督らしさは?

614日、日本テレビで、実写版『アラジン』の公開記念ということで、アニメ版『アラジン』を放送していた。このアニメ版、その後、続編などつくられて、今やレジェンドともいっていい作品なのだが、公開時、そのクィア性というかゲイ的要素の横溢によって評判になった。


もし、あなたが映画館で、今公開中の実写版しか見ていないとしたら、どこにゲイ的要素があるのかといぶかるかもしれない――まさに、それが実写版の問題点なのだが。もし、あなたがアニメ版だけをみていたら、あるいは昔見て、今回のテレビ放送で印象をあらたにしたら、どこにゲイ的要素があるか、指摘されるまでもなく、すぐにわかるにちがいない。そう映画版からは想像もつかないかもしれないが、魔法のランプに宿るジーニー、髭を生やしたいかついおっさんなのだが、完全に、いわゆる芸達者な「おかま」なのである。もちろんステレオタイプ化されたものであるのだが、ゲイ男性のひとつの典型となっている。そしてアラジンを助けるこのジーニーの、臨機応変で変幻自在ぶりな活躍は、主人のアラジンを食ってしまうほどの強烈なキャラで、観る者を圧倒する。毎分ごとに女装するのも、アニメ版ジーニーの特徴である。そしていわずもがなだが、このジーニーの声を担当しいていたのが今は亡きロビン・ウィリアムズだった。ロビン・ウィリアムズの名前を出すだけですべてが説明できてしまうのだが。


先週になるが木曜日駒澤大学の英文科主催の講演会で映画関係の講演会をさせてもらったが、そのとき音と映像との興味深い関係がみられる例として、ガイ・リッチー監督(!)、

『コードネーム U.N.C.L.E.(アンクル)』(The Man from U.N.C.L.E. 2015)のなかの一場面を取り上げた。講演会には、私のもと指導学生も聞きにきてくれて、この映画の引用とコメントは、このブログに以前書いたことと同じですねと指摘されたので、というか、、、まさに指摘どおりなので、ここで繰り返すことはしないが、かつて日本のテレビでも人気を誇ったスパイ・シリーズ物ドラマ『ナポレオン・ソロ』の劇場版リメイクでもあるこの映画では、ソロとクリヤキンの二人が、同性愛的感情でも結びついているということを、実際の場面の展開とは場違いな映画の音楽‘Che vuole questa musica stasera’の挿入によって伝えていることを簡単に示した。


イタリアの歌手ペピーノ・ガリアルディ(Peppino Gagliardi)が歌うこの‘Che vuole questa musica stasera’は、日本のお笑いタレントであるヒロシがテーマ音楽として使った曲で、この曲を聴くと、思わず「ヒロシです」という導入句を思い浮かべる人も多いと思うのだが、『ガラスの家』(Plagio,1969)で使われて、曲のタイトルも「カラスの家」と紹介されることが多いものの、それは違う。そもそも『ガラスの家』の原タイトルはPlagioは英語のplagiarizeとかplagiarism(盗用、剽窃)の親戚語で、内容は、三角関係物。先の『パラレルワールド・ラブストーリー』にも通ずる要素があって、実際、『パラレルワールド……』のタイトルも、『盗用』とか『ガラスの家』としても、けっこうぴったりくるのだが。『コードネーム……』でも、この愛の歌は、水の物語との相乗効果によって、ソロとクリヤキンが深い愛で結ばれている、もしくは結ばれていくことの強烈な暗示となっていた。

映画『ガラスの家』では苦境の陥っている男を助けることから物語は発展していく。


ただ『ナポレオン・ソロ』では、それほど強く感じられなかったのだが、同じくスパイ物でバディ物でもある、これも日本のテレビでも放送されたスパイもの西部劇『ワイルド・ウェスト』(The Wild Wild West 1965年から1969年まで制作、日本での放送時期はずれる)シリーズにおける二人の関係は、明確にゲイ・カップル的で、エージェント役のロバート・コンラッドと、彼を補佐するもうロス・マーティンのうとロバート・コンラッドはアクション担当のプレイボーイ、そしてロス・マーティンは支援係の情報作戦担当だが、彼は同時に変装の名人で、2回に一度は女装していた。今から思えば、まさにアニメ版のアラジンとジーニーの関係そのままだった。アラジンのジーニーも『ワイルド・ワイルド・ウェスト』も、いうなれば「女房役」なのだが、女房役の男性がいると言うこと自体、興味深いジェンダー関係を提示していた。


ちなみにこの『ワイルド・ワイルド・ウェスト』は、劇場版映画(『メン・イン・ブラック』シリーズの監督(インターナショナル篇の監督ではない)作品)にリメイクされたのだが、テレビドラマ版にあったようなプレイボーイのエージェントとそれを補佐するおかま的人物というジェンダー的混淆あるいはゲイ的要素がなくなったせいか、たんに話が面白くなかったのか、原シリーズにあった、お伽噺的荒唐無稽さがなくなったのか、とにかくラズベリー賞をもらうにいたるほど酷評された。


そしてその酷評された映画版に出ていたのがウィル・スミス。ウィル・スミスとケヴィン・クラインのコンビは、オリジナルのテレビ版にあった、おそらく明確には表現できない要素をすべて消し去ったものであった。オリジナルのテレビ版にあった精神が失われていた。


このウィル・スミス、今回もやってくれたではないか。ウィル・スミスがジーニーであることは予告編でわかっていた。だが映画がはじまると、彼は、二児の父親で、彼が子どもたちに語ってきかせるのが、本編の物語というからには、もうゲイ的要素は最初から消滅しているといっていいではないか。さらにいえば、ジーニーになってからのウィル・スミスは、王女の侍女に恋をするのであり(アニメ版にはない設定)、解放されたあと、その侍女と子どもをつくり、世界を見て回るという設定なのだからあきれはてる。オリジナルのアニメにはない侍女との結婚。ガイ・リッチー監督らしさは、何処に行ったのか? 『シャーロック・ホームズ』ではホームズに嫉妬させ、そして『コードネーム』ではバディ物の絆に同性愛をもってきた監督の監督らしさは?

614日、日本テレビで、実写版『アラジン』の公開記念ということで、アニメ版『アラジン』を放送していた。このアニメ版、その後、続編などつくられて、今やレジェンドともいっていい作品なのだが、公開時、そのクィア性というかゲイ的要素の横溢によって評判になった。


もし、あなたが映画館で、今公開中の実写版しか見ていないとしたら、どこにゲイ的要素があるのかといぶかるかもしれない――まさに、それが実写版の問題点なのだが。もし、あなたがアニメ版だけをみていたら、あるいは昔見て、今回のテレビ放送で印象をあらたにしたら、どこにゲイ的要素があるか、指摘されるまでもなく、すぐにわかるにちがいない。そう映画版からは想像もつかないかもしれないが、魔法のランプに宿るジーニー、髭を生やしたいかついおっさんなのだが、完全に、いわゆる芸達者な「おかま」なのである。もちろんステレオタイプ化されたものであるのだが、ゲイ男性のひとつの典型となっている。そしてアラジンを助けるこのジーニーの、臨機応変で変幻自在ぶりな活躍は、主人のアラジンを食ってしまうほどの強烈なキャラで、観る者を圧倒する。毎分ごとに女装するのも、アニメ版ジーニーの特徴である。そしていわずもがなだが、このジーニーの声を担当しいていたのが今は亡きロビン・ウィリアムズだった。ロビン・ウィリアムズの名前を出すだけですべてが説明できてしまうのだが。


先週になるが木曜日駒澤大学の英文科主催の講演会で映画関係の講演会をさせてもらったが、そのとき音と映像との興味深い関係がみられる例として、ガイ・リッチー監督(!)、

『コードネーム U.N.C.L.E.(アンクル)』(The Man from U.N.C.L.E. 2015)のなかの一場面を取り上げた。講演会には、私のもと指導学生も聞きにきてくれて、この映画の引用とコメントは、このブログに以前書いたことと同じですねと指摘されたので、というか、、、まさに指摘どおりなので、ここで繰り返すことはしないが、かつて日本のテレビでも人気を誇ったスパイ・シリーズ物ドラマ『ナポレオン・ソロ』の劇場版リメイクでもあるこの映画では、ソロとクリヤキンの二人が、同性愛的感情でも結びついているということを、実際の場面の展開とは場違いな映画の音楽‘Che vuole questa musica stasera’の挿入によって伝えていることを簡単に示した。


イタリアの歌手ペピーノ・ガリアルディ(Peppino Gagliardi)が歌うこの‘Che vuole questa musica stasera’は、日本のお笑いタレントであるヒロシがテーマ音楽として使った曲で、この曲を聴くと、思わず「ヒロシです」という導入句を思い浮かべる人も多いと思うのだが、『ガラスの家』(Plagio,1969)で使われて、曲のタイトルも「カラスの家」と紹介されることが多いものの、それは違う。そもそも『ガラスの家』の原タイトルはPlagioは英語のplagiarizeとかplagiarism(盗用、剽窃)の親戚語で、内容は、三角関係物。先の『パラレルワールド・ラブストーリー』にも通ずる要素があって、実際、『パラレルワールド……』のタイトルも、『盗用』とか『ガラスの家』としても、けっこうぴったりくるのだが。『コードネーム……』でも、この愛の歌は、水の物語との相乗効果によって、ソロとクリヤキンが深い愛で結ばれている、もしくは結ばれていくことの強烈な暗示となっていた。

映画『ガラスの家』では苦境の陥っている男を助けることから物語は発展していく。

ただ『ナポレオン・ソロ』では、それほど強く感じられなかったのだが、同じくスパイ物でバディ物でもある、これも日本のテレビでも放送されたスパイもの西部劇『ワイルド・ウェスト』(The Wild Wild West 1965年から1969年まで制作、日本での放送時期はずれる)シリーズにおける二人の関係は、明確にゲイ・カップル的だった。エージェント役のロバート・コンラッドと、彼を補佐するもうロス・マーティンのコンビは、ロバート・コンラッドがアクション担当のプレイボーイ、そしてロス・マーティンは支援係の情報作戦担当だが、彼は同時に変装の名人で、2回に一度は女装していた。今思うと、これはまさにアニメ版のアラジンとジーニーの関係そのままだった。アラジンのジーニーも『ワイルド・ワイルド・ウェスト』も、いうなれば「女房役」なのだが、女房役の男性がいると言うこと自体、興味深いジェンダー関係を提示していた。

ちなみにこの『ワイルド・ワイルド・ウェスト』は、劇場版映画(『メン・イン・ブラック』シリーズの監督(インターナショナル篇の監督ではない)作品)にリメイクされたのだが、テレビドラマ版にあったようなプレイボーイのエージェントとそれを補佐するおかま的人物というジェンダー的混淆あるいはゲイ的要素がなくなったせいか、たんに話が面白くなかったのか、原シリーズにあった、お伽噺的荒唐無稽さがなくなったのか、とにかくラズベリー賞をもらうにいたるほど酷評された。

そしてその酷評された映画版に出ていたのがウィル・スミス。ウィル・スミスとケヴィン・クラインのコンビは、オリジナルのテレビ版にあった、おそらく明確には表現できない要素をすべて消し去ったものであった。オリジナルのテレビ版にあった精神が失われていた。

このウィル・スミス、今回もやってくれたではないか。ウィル・スミスがジーニーであることは予告編でわかっていた。だが映画がはじまると、彼は、二児の父親で、彼が子どもたちに語ってきかせるのが、本編の物語というからには、もうゲイ的要素は最初から消滅しているといっていいではないか。さらにいえば、ジーニーになってからのウィル・スミスは、王女の侍女に恋をするのであり(アニメ版にはない設定)、解放されたあと、その侍女と子どもをつくり、世界を見て回るという設定なのだからあきれはてる。オリジナルのアニメにはない侍女との結婚。ガイ・リッチー監督らしさは、何処に行ったのか? 『シャーロック・ホームズ』ではホームズに嫉妬させ、そして『コードネーム』ではバディ物の絆に同性愛をもってきた監督の監督らしさは?

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2019年06月12日

『パラレルワールド・ラブストーリー』2

『パラレルワールド・ラブストーリー』で隠蔽されたり、捻じ曲げられたりした真実は、クィアな真実である。

前回指摘したように、真実と捏造あるいは忘却された記憶とのせめぎあいがドラマになっているこの映画では、製作者側の意図と、観客側の受容とが、うまくいかないようなところがどうしても生ずる。観客が映画製作者側の意図を汲み取れないところ、そして、これが、現在なのか、過去なのか、真実の部分か、捏造された部分か、判断できないところがある。映画は映像にめりはりをつけて、過去の回想とか、夢の部分では、映像が粗くなる。それはいいのだが、では対照的に現在時においては、映像は、くっきりと鮮明かというと、実は、そうでもなくて、ときには、これが回想なのか、現在の出来事なのかわからなくなる。

いっぽうで、これは映画の欠陥ではなくて、むしろ、そこが面白いところで、製作者側の狙いもそこにあるのだろうと思うのだが、いまいっぽうで、これは、つまり観客の側で、意味付けることができないそうした部分は、製作者側のつじつまあわせに観客がついていけないということでもあると思ってしまう。そうした部分を細かに指摘してもいいが、そうなるとネタバレになるかもしれないので、一例だけ。

実は映画だけでは設定とか全体像を把握できないかもしれないと思い、プログラムを購入した(まあ、謎が解けるという宣伝文句につられたのだが)。時系列にそって、出来事を、真実と、捏造あるいは虚偽の部分と並行して示した図があった。映画を観終わった観客は、自分が最終的に映画から受け取った全体像と、このプログラムの図とがほぼ同じで安堵すると思うのだが、こまかにみておくと、疑問が残るところがある。

たとえばガード下で、主人公の玉森が、松葉杖の男性と正面衝突しそうになる。松葉杖といっても、昔のそれではなく、今のひじから下だけの杖なのだが、しかし、不思議なオーラのある人物あるいは夢のなかのような人物は、あとでなにか出来事に関与してくるのだろうと私は考えた。ところがプログラムをみると、これは夢のなかの出来事であれ現実の出来事であれ、足の悪い老人をみて、玉森は、同じく足の悪い染谷のことを思い出すというのだ。確かにその後の展開で、玉森は染谷のことを気に掛けるのだが、製作者側のこの意図は、伝わらないと思う。映画の中で染谷は足が悪いという設定だが、べつに杖をついていない。足をひきずるだけである。いっぽうガード下ですれ違った老人は、両腕で杖をつき歩きにくそうである。玉森が、その時点で、友人で脚の悪い染谷を思い出すことについて、その可能性は否定できなとしても、それを観客が推測するのは(台詞で語られたわけではない)至難の業である。そもそも染谷は、時系列がばらばらであっても、最初から登場していて(もちろん時系列がばらばらなので、彼が染谷とずっと友人でありつづけていると錯覚にすぎないとしても、観客としては、この錯覚を真実としてみるほかないのだ)、玉森が忘れるということは、ありえないと、観客には思えてしまうのだ。

あるいは染谷が、玉森のところを訪れて、吉岡のことが本気で好きなのかと確かめにくるところがある。あれは現実の場面なのか、夢/捏造された記憶なのか。映画では最後に、一応答えをだしているが、その答えに観客が納得するかどうかはべつである。

ただし、これは映画の欠陥をあげつらっているのではない。むしろその逆であって、真実と虚偽のゆらぎ、現実と夢の境のなさ、そのなんともいえない不安定感が、映画のなかの玉森からは、ヒステリックで狂おしい怒りの反応を引き起こすが、観客としては、まさに、そこにこそ、この映画を観る価値がある。

とはいえ観客は、謎解きとしてだけ、この映画をみることはない。時系列を整理できないまま、また事の真相がつかめないまま観客は、途方にくれるかというと、そうでもない。むしろ謎が全く解けない観客のほうが、この映画のもうひとつの、おそらく、こちらのほうが重要かもしれない、物語を見抜くことができる。それは男女の三角関係のもつれである。恋人をもつ友人に嫉妬したり、友人の恋人に恋をしたり、恋人の友人に言い寄られて心がゆらいだり……。ましてや、記憶抹消、記憶捏造、現実改変といった、自我の防衛機制をめぐるフロイト的な物語あるいは夢物語全開の映画では、すべてが、嫉妬したり恋したりする男性の心象風景にみえてくる。最初の山手線と京浜東北線の並走における出会いにしても、あとから二人の関係を正当化というか必然化するような捏造された記憶かもしれないのだ(たとえ映画では一定の答えをだしているとしても)。そうなるとすべてがあやふやなこの映画の世界で、恋する男の邪悪なまでの嫉妬心や絶望と願望だけがリアルなのである。現実の因果関係よりも、あやふやな時系列よりも、嫉妬の心象風景だけは、別の選択肢のない、確定的なリアルなのである。

したがって、たまたま購入したプログラムのなかで森直人が指摘していたように、いや、指摘するまでもなく、この映画の男女関係や、漱石の『こころ』や、武者小路実篤の『友情』(森山直人の指摘――しかし、いまの時代に武者小路実篤を記憶している人間がどれだけいるのだろうか。国語の教科書に載っているのだろうか)のような、友情か恋愛かという、まさに明治以前の洋の東西を問わない古典的物語のパターンと一致する。友情か愛情か。この古い物語がいまなお反復再生産され消費されるのは、まさに古くて新しいテーマいや、まだ解決のついていない、永遠の課題なのかもしれない。

そして、そこに、この映画の願望と記憶改変に起因するドミノ現象がある。

漱石の『こころ』については、もし授業をするとすれば(いまのところ、二度と授業はすることはないのだが)、こんな説明をするだろう(とはいえ現役の頃にしていた授業と同じ内容なのだが)。『こころ』では「先生」が「学生」の頃、云々、というように、作中の呼び方を踏襲すると面倒なものになるので、機械的・事務的にXYZの三角関係として図式化して説明すると、

学生Xは、下宿している家のお嬢さんZと恋人同士になる。またXは、親友のYを同じ下宿屋に住まわせることにする(動機は? Xには、親友Yに、自分の恋人Zを見せる/見せびらかすという無意識の願望があったかもしれないが、基本的動機は、住むところがなくて困っていたYを助けるとか、親友と同じ屋根の下で暮らしたいという友情に基づくものであったように思う)。だが、Xの眼からみるとYはお嬢さんZに恋をしているよう思われる。その推測は当たっていて、いつしかXとYは、どちらがZの愛を勝ち得るかをめぐってライヴァル関係になる。最終的にXがYを出し抜いて、先に告白してZと結婚の約束をする。だが、そのことを知ったYは自殺する。なぜ、Yは自殺したのか。真相はわからない。

授業では、ここから、あるいはここに至るまでに、長いジェンダー論とかホモソーシャル論の話があって、それを使ってこの事例を考えてみるということになるのだが、ここでは、それをはっしょって、簡単に結論だけを確認すると、

Yは身寄りもない孤独な境遇のなかにいてXだけが唯一の友である。XとZの愛をめぐって競争関係になるが、同じ目的をもって互いに奮闘すること、切磋琢磨することは、楽しいことであり、関係を親密にする。しかしXは、Yを裏切るかたちで、Zとの結婚を決めてしまった。もしXがそこまで真剣にZに恋していたのなら、そのことを正直に話してくれていたのならYは、喜んで身を引いたかもしれない。ところがYには何も話さず出し抜くかたちでZと結婚することになった。男同士の絆(ホモソーシャル関係)よりも男女の絆を重視したことによって、XとYとの強い絆は、これで切れてしまう。事実、XとZとは結婚しても、Yの自殺があったこともあるが、世をはばかってひっそりと夫婦だけの暮らしをしている。またYの自殺は、彼が唯一頼りにしていた男同士の絆を、Xによって断ち切られてしまったために生きる意味を失ってしまった。あるいは、その自殺によってXとZとの結婚を呪ったのかもしれない。とにかく、本来、異性関係よりも重視すべき、またそれを失ってしまったら、この父権制社会では生きて行けない、ホモソーシャル関係が消滅してことによってYも死ぬしかなかった、というのが、ジェンダー論(ホモソーシャル編)の答えである。

しかし後年、私も考えが変わってきて、上記の説明は一理あるが、もっと単純な理由もあったかもしれないと思うようになった。三角関係になったとき、友情にひびがはいらないために、一方が身を引く、あるいは両方が身を引いて、友情を維持することを選ぶというのが、上記ホモソーシャル理論における基本的構図である。しかし、もうひとつ別の三角関係があったのではないか、べつの三角関係も共存していた、あるいは、こちらのほうが真の三角関係ではなかったか。つまりZという女性を求めて、二人の男性XとYとが競い合ったというのがホモソーシャル三角関係だけではなく、もうひとつの三角関係というのが存在していたのではないか。それは、Xという男性を求めて、女性Zと男性Yとが競い合う三角関係である。

Xは、親友Yとともに、お嬢さんZを求めて争っていると思っている。ライヴァル関係がXとYとの絆を強めていると思っている。しかし、Xは、そのとき、Yから自分に向けられた熱い視線を感じ取っていたのではないか。お嬢さんZはXのことが好きである。と同時に、YもXのことが好きである。XをめぐるZとYとの三角関係は、異性愛をとるか、同性愛をとるかのせめぎあいでもあった。おそらくXは、Zと結婚しても、Yとの友情はつづけられると思っていたのだろう。しかしYにしてみれば、Xにフラれたことになる。しかもそれは、異性愛が選択され、同性愛は意識もされなかったということであり、敗北は個人の敗北ではなく、性的選択そのもの敗北いや排斥・抑圧だったのである。相手にふられたぐらいで死ぬ人はほとんどいない。しかし同性愛者は失った恋のために自殺する。同性愛者と自殺とのいまなお消えていない深い結びつきを漱石の『こころ』は再生産していたのではないだろうか。

上記、三角関係においてYの自殺は、愛するXにフラれたからである。これがジェンダー論(ホモセクシュアル/クィア編)の答えである。

映画のなかで染谷は、脚が悪い。ちなみに脚が悪い人は、今現在、多くいると思うし、その人が脚が悪いから同性愛者だというのは、完璧な偏見なのだが、しかし、文学や文化表象の世界では、脚が悪いこともふくめて障害者は、同性愛者のイメージで表象されることが多い。

ここでいいたいのは1)同性愛者であることは悪いことではまったくない。2)脚が悪いことが同性愛者のしるしであるというのは、まったく無根拠の偏見にすぎない。3)文学・文化表象において脚の障害を含む、さまざまな傷害が、同性愛者の表象として使われてきた(この事実は、嘆かわしいと思っている)――ということである。

サマセット・モームの自伝的小説『人間の絆』の主人公は脚に障害をかかえている。モームは一般にむけてカミング・アウトしていなかったから、また小説の最後で主人公は女性と結ばれるから、読者は気づかなかったにしても、主人公の障害は、同性愛者の暗黙の記号でもあった(とはいえ私が中学生の頃読んだ文学全集のモーム編の巻に付された詳細な年譜には、モームの愛人となったアメリカ人男性の名前まで書かれていたように覚えているが、ただし、モームの同性愛者性は、解説ではまったく触れられていなかった)。

染谷が脚が悪くて中学生の頃に仲間たちからいじめにあった、それを同学年の玉森が防いでくれた、以後、二人の友情関係が成人し、ともに研究者になってからもつづいているという設定なのだが、それは染谷にある同性愛的欲望を抑圧する隠蔽記憶ではないか。

染谷にいるガールフレンドに、玉森は惚れてしまう。玉森と自分のガールフレンドの仲のよさを認めた染谷は、彼女を玉森にゆずり、自分は身を引く、いやそれだけでなく自殺する。彼はガールフレンドとの記憶を消そうと、その操作を親友の玉森に頼むのだが、実は、それは染谷が昏睡状態になるための操作でもあった。映画のなかで染谷の昏睡状態は、自殺として扱われている。状況は、『こころ』のなかのそれと全く同じである。

映画のなかでは吉岡をめぐって、玉森と染谷の親友同士が争うという三角関係になっている。しかし、玉森をめぐって吉岡と染谷が争うという異性愛か同性愛かをめぐる三角関係も存在していたのではないか。あるいはホモソーシャル三角関係に、この同性愛三角関係も影のように寄り添っていたのではないだろうか。

そしてこの影の同性愛関係を払拭し消去すべく、玉森は異性愛関係物語を捏造したのではないだろうか。山手線と京浜東北線の並走の時点にまでさかのぼって。これこそが、もうひととのパラレルワールド、つまり異性愛物語(ホモソーシャル関係物語)と同性愛物語(ホモセクシュアル関係物語)とがパラレルワールドになっていること、おそらくいまなお同性愛物語は、反社会的だと邪悪だの変態だのと、偏見でみられているので、この同性愛物語を消すことは、自我の無垢を守るためにもなるから、異性愛物語を捏造することになったのだろう。異性愛物語は、同性愛物語の記憶改変である。捏造された記憶である。同性愛物語の記憶は抹消され、異性愛物語という捏造された記憶が、現実の細部にいたるまで改変するだろう――ドミノ現象として。

『パラレルワールド・ラブストーリー』――ある意味、この映画自体がまきこまれているというか、ひとつのパラレルワールドともなっているラブストーリーについて考えてみるのは悪くないだろう。私たちの住んでいるこの父権制異性愛体制には、もうひとつの消されたパラレルワールドがあるのだから。

posted by ohashi at 22:09| 映画 | 更新情報をチェックする

2019年06月09日

『パラレルワールド・ラブストーリー』1

『パラレルワールド・ラブストーリー』は、予告編では、たしかにパラレルワールド物であった。つまり一方の世界で、津野麻由子/吉岡里帆は、敦賀崇史/玉森裕太の友人三輪智彦/染谷将太の恋人になっている。しかし、もういっぽうの世界で、玉森は吉岡と結ばれている。二つの世界は並行して存在しているのか。だとすれば、どうしてか。あるいは予告編で暗示されているのは、どちらかの世界は偽物であり、現実の世界はひとつだけしかない。それはどちらだ、ということになる。

しかし映画は正確にいえばパラレルワールド物ではない。たとえば私が眠ってみている夢の世界と、私が生きている現実世界は、夢と現実であって、パラレルワールドではない。比喩的にはそうであっても。映画『マトリックス』では人類は人間電池としてコンピューターに体内電気を利用されているのだが、脳を刺激されて自分たちは現実の世界で暮らしていると思い込まされているとき、人間電池としての現実の世界と、人間が体験させられてるヴァーチャル・リアリティの世界とは、パラレルワールドになっていない。つまり、夢と現実は、真偽の対立であり、いっぽうパラレルワールドは、どちらも真実か、どちらも虚偽なのである。

なぜ同等の二つの世界が生まれるのか、その理由を知りたくて、映画館に足を運んだのだが、パラレルワールドではなかった。夢と現実との対立、あるいは記憶喪失物の変奏であった。

記憶喪失ジャンルの約束事に支配された人物とその行動とが展開する。ジェイソン・ボーン・シリーズでもなんでもいいのだが、記憶喪失前は、天才的な能力をもった人物も、記憶喪失後の人物は、凡人かもしれないが、総じて、好人物である(もちろん例外もあって、『メンタリスト』のパトリック・ジェインが一時的に記憶を失うエピソードでは、彼は、ずる賢い詐欺師になる、もしくはもどってしまう――むしろジェインが捜査に協力するようになってから(それがシリーズのエピソードとなる)が、記憶喪失状態で善人になったところがあり、彼が、自分の妻子を殺した犯人を執拗に追い続ける過程は、ひょっとしたら彼自身が犯人でありながら、記憶を失っているのではないかという暗示すらうかがえるのだが)。記憶喪失前は、天才的かつ冷酷な殺し屋でも、記憶喪失後は、空白の過去と自己のアイデンティティ喪失に悩む凡人だが心優しく思いやりのある誰からも好かれる優れた人物となる。

べつに過去の記憶を一時的になくしても、人格まで変わる必要はないのだが、つまり有能な殺し屋が記憶喪失になったとき、人を殺す技術は忘れても、金のために人殺しをいとわない、その人格をなくす必要ないのであって、記憶喪失になったからといって冷酷非情な性格が失われるとはかぎらない。ところがたいていの記憶喪失物では、記憶喪失になって、憑き物が落ちたように、すっきりさわやか晴れ晴れとした性格に生まれ変わるのである。まるでそれまでの自分は攻撃的かつ防衛的で、必死で生きていて、余裕などない人間だったのが、記憶喪失を境に、本来の自分に、つまり肩ひじをはらない、リラックスした自然体の自分に、もどったようなところがあるのだ。

この記憶喪失者=良い人・自然体人間というイメージについては、この映画そのものが、説明をあたえているところがあって、自分の意志であれ機械的手段であれ、過去の記憶を失ったり改変したりするとき、人間は自己防衛のためにそうするのであって、その行為の中心には、つねに、防衛されるべき美しい自己が存在する。記憶喪失した人間が、無垢な人間にみえるのは、忌まわしい自分の過去や記憶を消すことが、自己防衛のためであり、美しい無垢な自分を生存させることが目的となるために、好人物の自然体の記憶喪失者は、そうした無垢な自己の投影となるのである。

あと、これはこの映画とは関係のない話だが、記憶喪失者が凡人で好人物というのは、あまたの凡人、一般人に分類される人間が、実は、自分は忘れているのだが、過去においては天才あるいは超能力者であったという、ファンタジーがどこかにあるからある。私は凡人だが、かつては神にも等しい超能力者だったという、幼くも、また痛ましいファンタジーが、記憶喪失後の人間を平凡な一般人だが好人物であるような人間に仕立て上げているのである。

そして記憶喪失物のもうひとつの重要な特徴。それは、記憶はよみがえること。記憶は絶対に失われないということである。事故で記憶を失ったり、無意識のうちに記憶を消去したり置き換えたり(フロイト的防衛機制)、あるいは記憶を強制的に消去させられたり、機械的に書き換えられたりしても(SF的設定)、記憶は完全には失われることなく、徐々にとりもどされる。失われた記憶を必死でとりもどそうとする場合は、ささいなヒントが記憶回復への大きな一歩につながることになるし、記憶の回復が謎の解明と軌を一にすることがふつうであって、失われた記憶は、失われた記憶をして葬らせよというのは、記憶喪失物では絶対にありえない。

ただ、この映画では、たぶん、映画そのものを不安定なまま漂流させる原則が導入される。映画のなかでドミノ現象とよばれるものである。たとえば、部分的に記憶を消去したり、記憶を書き換えたりするとしよう。かりに、私が昨日、人を殺したとする。私は、その忌まわしい出来事を、無意識のうちに忘れ去ろうとしたり、あるいは別の記憶(捏造された記憶)で置き換えようとしたりする――これは意識的にはできないことで、強い心的衝撃によって無意識のうちに行うか(そうでなければ意味がない)、あるいはこの映画のように脳に刺激をあたえて記憶を書き換える(ただし、それはSFのなかでの話で、現時点では実現していない)ことになる。あと人殺しというのは、あくまでもたとえ話で、映画のなかの物語とはなんら関係がない、つまりネタバレではない。

もし私がXを殺していてながら、そのことを忘却するとき、あるいはなんらかの別の記憶で置き換えるとき、つじつまをあわせるために、ほかにも記憶を変える必要がある。そのため記憶改変にともなって周辺記憶もつぎつぎと変えられ、つじつまがあうように自分の記憶が書き換えられるという現象がおこる。これを映画のなかではドミノ現象と呼んでいる。

たとえば私が親友Xを殺したとして、その記憶を抹消することによって、つぎに、「私はXを殺してない、私は昨日Xと会っていない、私はXとは誰か知らない、そもそも私はXなどという人物とは一度も会ったことはない……」というように、つぎつぎと周辺あるいは関連記憶が改変され消去されていく。ちなみに映画のなかでドミノ現象といわれているのは、有名な壊れたヤカンのジョークと同じ論法である。出所はフロイトの『夢解釈』(だとジ゙ジェイクに私たちは教えられているのだが)、そこではある人が借りた薬缶(ケトル)を壊して返してきた。薬缶を壊したことを非難されると、その人は、「私は薬缶をこわしていない」「そもそも薬缶を借りてもいない」「借りた薬缶を壊して返してはいない」と弁明したというのである。この話を紹介しているジジェクは、自分は借りた薬缶を壊して返したという現実をなんとしても認めないために、あるいは自我を守るために、相互に矛盾する言明を平気で繰り出している愚かさというふうに説明しているが、フロイトに帰れば、私たちは自我を守るためだったら、あらゆることをする、たとえ現実あるいは真実を捻じ曲げても、自分の無実を確信しようとするということであり、これはまた、自分を守るためには、現実のほうをつじつまのあうように改変することだろう。実際に、現実を改変することは不可能だが、現実についての解釈をかえることはできる――フェイク・ニュース。あるいは現実についての記憶を変えることもできる――記憶改変、捏造された記憶。

(なお、これはテレビのバラエティ番組で紹介されていたことだが、ある女性が、客にお茶を出そうとして、湯呑みを倒してお茶をこぼししてしまった、そのとき、その女性がとっさに放ったひと言とは、「わたしじゃないよ」。あるいは最近の老後2000万円貯金問題――年金問題に関して、そのことが問題になった時、政府見解は、その数字は適切ではない、誤解をあたえたから、報告書は受け取らない、そして受け取っていないから、報告書は存在しないというふうに、こわれたヤカンの議論を展開した。)

この理論というか考え方を、文学作品なり映画作品に導入すると、こまったことが生じてくる。もはや、どこまでが現実でどこまでが嘘なのか。どこまでが現実でどこまでが願望なのかわからなくなってくることである。たとえ、これが最終的真実だといわれても、それすらも捏造された記憶、願望充足的現実解釈、フェイク・ニュースかもしれないという疑いを免れえないからである。

先の『12モンキーズ』でのエピソードからすると、作者・製作者側の意図は、必ずしも受容者にそのまま伝わるとは限らないことが言えるとすれば、今回の議論では、受容者(読者や観客)は、自分の願望にそって細部をつぎつぎと誤解したり曲解したり、無視したり間違って記憶したりして、受容者が願望のおもむくままに、好き勝手に作品を解釈するということになってしまうことになる。受容者がいったん、この作品はこうだと思い込むと、どんな細部も自分の解釈あるいは印象に都合の良いように書き換えてしまう。これが映画のなかでいわれていたドミノ現象である。

受容者は、あくまでも受容者であってデータの受け皿であったのが、自分の願望、無意識の欲望によって、データを改ざんしてしまう。あるいは自分で勝手に現実をこしらえてしまう。つまり受容者(読者や観客)は、作者や映画監督でもあるということである。作者と読者、映画製作者と観客との壁がとっぱらわれてしまう。もし観客が、自分の願望にあわせて、あるいは自分を守るために、自分の都合のよいように細部をいじって改変してしまうとすれば、映画製作者側も、自分たちの願望にあわせて、自分たちの都合のよいように、細部をいじり、特定の枠に真実をねじまげていないだろうか。記憶を改変されたり、誤った記憶をもたされたりしながら、そのことに気づかず、映画をつくっていたとしたら、その映画自体が、真実を隠蔽して、改変された映像そのものではないだろうか。

フロイトが、誰であれ、子供の頃に、なにか自分にとって都合の悪いこと、自分の世界観にそぐわないこと、自分にとって不利になることがあると、それを隠蔽して偽りの記憶をもつようになると語っていた。真実を隠蔽する偽りの記憶にフロイトが付けた名前が遮蔽記憶、真実を隠蔽し、遮蔽する記憶という意味だが、英語表記すると、スクリーン・メモリーとなる。映画とは関係ないのだが、どこか映画一般にも、また個別的に、この映画についても、これはぴったりあてはまる命名ではないだろうか。つづく


posted by ohashi at 23:08| 映画 | 更新情報をチェックする

2019年06月08日

『12モンキーズ』

映画『12モンキーズ』(Twelve Monkeys,1995年アメリカ映画)の結末を思い出した。すべてを正確に覚えているわけではないので、というか、うろおぼえなので、詳細は語れないが、だいたい、こんなシークェンスだった。

時間改変SF物で、ウィルス散布によるパンデミックで壊滅状態となった後に細々と営まれている地球の文明社会において、ある組織が、ウィルスを散布を阻止して、地球の歴史を変えるべく、カタストロフ前の時代にエージェントをタイムマシンで送り込む。エージェントは、最後に、空港で、犯人をつきとめるが、あと一歩でつかまえるか射殺するところで、空港警察に犯罪者とまちがわれて射殺されるというのが大筋だった。

この最後の射殺場面が、動かないMoving Pictureであるフランス映画クリス・マルケル監督の『ラ・ジュテ』の最後の部分の、オマージュ的引用ともなっている(もちろん設定全体もこの『ラ・ジュテ』に負っている)。

私はDVDで観たのだが、DVDにはメイキングも収録されていて、そこで監督のテリー・ギリアムが友人たち(映画関係者たち)と話しあうところがあって、そこで結末が暗いという友人のひとりに対して、監督は、希望をのこす結末だと、つぎのように説明していた。

なるほどエージェントのブルース・ウィリスは、犯人を捕まえる前に射殺されてしまうのだが、時間改変を目指す組織は、ウィリスの行動によって、誰が犯人かをつきとめた。そこで組織のリーダーたる女性が、みずから過去に赴き、致命的なウィルスをたずさえた犯人が乗ったのと同じ飛行機に乗り込んだところで終わる。つまり彼女によって、やがて犯行は防がれ、パンデミックは発生せず、カタストロフもなくなる。そのような新たな時間の始まりを暗示して映画は終わるということだった。

ところがその友人は、納得しなかったし、私も納得しなかった。監督の友人と、私は同じ意見で、監督の意図したように、その結末は受け取れなかった。

エージェントのブルース・ウィリスは、あと一歩のところで、射殺され、犯人を逃がしてしまう。また組織のボスも犯人と同じ飛行機に乗り合わせながら、たがいに見知らぬ乗客として軽く会釈するだけで、そのボスも何も知らないようにみえる。実はその映画の結末は、アイロニーを特徴としていた。空港にはブルース・ウィリス演ずる男の子供の頃の自分が来ている。彼は、空港で、謎の男が警察官によって射殺されるところを目撃する。子供は、未来の自分、あるいは未来の世界からタイムマシンでやってきた自分が殺されるところを目の当たりにするのだ(そしてみずから射殺されるときに、子供のころの目撃した記憶をよびさます)。しかし、当然とはいえ、子供は、その時点では、殺されるのが未来の自分であるとは気づかない。

あるいは時間改変をめざす組織のボスの女性は、めざす犯人と同じ飛行機に乗り合わせながら、たがいに見知らぬ乗客として軽く会釈するだけで、相手をつかまえようとはしないだろう。また空港警察も、時間改変を阻止きたかもしれない人物を、なにも知らないまま射殺してしまう。結局、誰もが全体像を把握していない。犯人が目の前にいても気づかない。アイロニーの連鎖は止まらないように見える。

と、私は結末を皮肉な悲劇としてみることになった。

またさらにいえば、時間改変SFのお約束事のひとつとして(すべての場合、そうだとは限らないが)、一度起きたことは変わらないことが多い。関ヶ原の戦いで、いくら石田三成の側をタイムマシンから降り立った未来人が支援しようとも、さまざまな要因が絡まり合って徳川家康側の勝利に終わり、歴史はかわらなかったというのは、実によくある物語である。とりわけすでに起こった過去の歴史的事件を扱う場合、その変更は、現在史も変えることになるから、歴史は変えられないというかたちで落ち着くことが多い。ただし不確定の未来、あるいは確定していても現在の歴史とは異なるパラレルワールドの歴史の場合、歴史を変える試みが成功することもある。たとえ歴史が変わっても、私たちの未来の話であって、私たちの今には影響がない。

まとめると、歴史は変わらないという設定は、ある意味、デフォルトである。ただし未来SFには歴史が変わる場合もある。しかし、それでも歴史は変わらないという設定を守ろうとする場合もある。『ターミネーター』を考えてみる。ただし複数のヴァージョンがあるので、確定的なことはいえないのだが、機械生命体が未来の地球を支配している。だが人間側も有能なリーダーのもとレジスタンスが組織され機械の支配を覆えしにかかる。そのリーダーを倒すために、機会側は刺客を過去に送り届けるが、人間側も、生まれたリーダーが成人して組織のリーダーとなるまで守るために人間やサイボーグを過去に送り届ける。過去の歴史を変えようとするのは、機械側の悪の勢力である。いっぽう人間側は過去の歴史が変わらないようにし、歴史変更を阻止することに成功する。過去を変えようとして失敗するのが敵側であることによって、歴史改変の失敗の苦さは緩和される。

『12モンキーズ』では、歴史を変えようとするのは、地球の破滅を防ごうとする組織である。だが、その活動は、あと一歩というところで、失敗してしまうように思われる。苦い結末。ただ、エージェントの死を目撃した子ども(実は、そのエージェント自身でもある)に失敗の連鎖を断ち切るかすかな可能性が残される――未知数の可能性として。たとえ『12モンキーズ』の監督テリー・ギリアムがどのような意図であれ、映画作品の解釈としては、これは、たとえ唯一のものとはいえないとしても、きわめて有力な解釈のひとつである。もし監督の意図したようなことを強調するのだったら、たとえどんなにごくわずかな暗示的手段であってもいい、地球が救われたことの映像を示すべきであった。それがないとなると、今回も失敗したという暗示しか残らない。無知、アイロニー、失敗、歴史は変えられない、歴史は繰り返す……。こうした主題系列を活性化する結末は、監督の意図とは逆の結末たりえているのではないか。

これは実は『パラレルワールド・ラブストーリー』の前ふりである。


posted by ohashi at 18:48| 映画 | 更新情報をチェックする

2019年06月03日

『アメリカン・アニマルズ』

充分に面白い映画なのだが、同時に、前評判ほどの映画ではなかった。というか前評判とは違った映画だった。映画を見ていない人間の勝手な前評判と誇大な宣伝が、かえって映画の足をひっぱって落胆させるのではないか。それを心配する。

退屈な大学生活を送っていたウォーレンとスペンサーはくだらない日常に風穴を開け、特別な人間になりたいと日頃から願っていた。

ある日、2人は大学の図書館に時価1200万ドルを超えるジョン・ジェームズ・オーデュボンの画集「アメリカの鳥類」が保管されていることを知り、それを盗み出すという計画を思いつく。2人はエリックとチャズを仲間に引き入れ、入念な計画を立てる。

そして4人は特殊メイクで老人の姿に変装し、ついに計画を実行に移す。Wiki

ウィキペディアの記述だが、「そして4人は特殊メイクで老人の姿に変装し、ついに計画を実行に移す」というのは、絶対にまちがいではないが、変装しての強盗計画は中断され、翌日、出直すことになるので、ミスリーディングである。だが、ミスリーディングをいうのなら、それは映画にもいえて、映画は、入念なメイク・シーンから始まるが、物語は過去にさかのぼり、メイクの時点に到達することで、それが老人への変装作業であることがわかり、いよいよ犯行実行かと観ている側の期待も高まるのだが、変装による強奪計画は頓挫し、翌日、今度は変装なしで出直すのである――なんのこっちゃということになる。

ネタバレではないかというなかれ。実際にあった犯罪をドキュメンタリータッチで再現する映画であることはわかっているわけだから、犯罪は失敗し、関係者は全員、逮捕されたであろうことが前提となっている、つまり犯罪は失敗したがゆえに、この映画ができたわけだから、犯罪の成否は最初からわかっているのである。

ただし、誇大宣伝のなかでも、絶対に許せないのは、この映画が、2019年版の『カメラを止めるな』であると語ったバカである。新聞の広告か、あるいはネット上での宣伝文か忘れたが、個人の感想ならまだしも、個人の感想というかたちをかりた宣伝コピーの一部になっていて、これは許しがたい。というのも、この映画は、最後になって、なにかひねりがあるのではないかと、わくわくしながら、またいらいらしながら見ていた私は、結局、なにもなさそうだとわかって、いらいらも頂点に達した。最後に事件を回顧するなかで、犯罪へと若者たちを導いた、ある人物の行動が、虚偽つまり実際には遂行されなかった可能性が示唆されるのだが、仮に、そうだとしても、それで犯罪の性質とか若者たちの責任や罪について、見解がかわるわけでもない。その些細な指摘をもってして、『カメラを止めるな』的な反転と強引に言いくるめようとしたか、実際に映画全体をみていなかったので勘違いしたか、最初から、誇張と承知の上で誇大広告に加担したのか、とにかく許しがたい。

実際、最後まで、あるいはいまも、この事件は、ほんとうに起こった事件なのだろうかという思いにとらわれた。というのも、この映画が事実を忠実に再現しているとすれば、もっとも高価なオーデュボンの画集、12億円相当のものは、盗もうとしたのだが、持ち出せずに失敗。あとは来歴が定かでない本と、ダーウィンの本(珍しい初版本なのかもしれないが、だとしても19世紀の印刷本である)を奪い、売ろうとして失敗。図書館司書を縛って動けなくした(軽傷を負わせた可能性はある)。と、これだけの罪状で、執行猶予なしの7年の実刑判決というのは、アメリカの法律、ケンタッキー州の法律かもしれないが、厳しすぎる。

この事件のネット上の記事は、孫引きが多く、元の情報ソースは、いまではアクセスできないものとなっている場合が多く、事件そのものがねつ造ではないかとうい疑いをもったが、一応、たまたまだが、以下のAPの記事があった。

Posted: Tue 11:30 AM, Feb 05, 2008 Updated: Tue 5:35 PM, Feb 05, 2008

LOUISVILLE, Ky. (AP) - Four former college friends serving prison time for stealing and trying to sell rare manuscripts and drawings now face longer sentences.The U.S. 6th Circuit Court of Appeals in Cincinnati ruled Tuesday that a judge erred in sentencing the four men to seven years in prison for the 2004 robbery at Transylvania University.Judge Alice Batchelder wrote that the trial judge underestimated the value of the stolen items when determining sentences for Charles Allen, Eric Borsuk, Warren Lipka and Spencer Reinhard.The higher value of over $1 million for the five items the men took from the college library in Lexington would increase their potential sentences, the judge said. Instead of facing a minimum of seven years in prison, the four should face a minimum of nine years behind bars, Batchelder wrote.Under the seven-year sentence, all were scheduled for release in May 2012.

あと4人は出所後、この映画が伝えるところが正しいとすれば、この事件を本にする原稿を執筆したり、専門のトレーニング法の本を書いたり、映画製作にたずさわったり、動物画()を描いたりと、みんなクリエーターになっている。名門大学の大学生だったわけで、もともと頭がよく才能もあったのだろうが、事実だとしても、彼らの出所後の活動は、そこにメタフィクションあるいはメタ映画的な意味をもった、なにか嘘くさいというか人為的な設定を感じてしまう。くりかえすが、たとえ事実だとしても。

この映画のはじめのほうで、この映画は事実に基づく映画ではないと宣言する。つまり事実に基づく虚構ではないということだろう。フィクションではなくドキュメンタリーだといわんばかりに、この映画は真実の物語であると宣言する。といっても俳優を使った再現ドラマをみせるわけだから、100パーセント真実とはいいきれないだろう。いや事実そのものではなく、再現ドラマにこそ、真実は宿るということか――事実と真実の対立の場合、虚構なり再現なり表象は、つまり事実ではないものは、真実として救済されるのだ。この事実と真実、嘘か真実かの葛藤が、映画をつくることの原動力となったのではないか。

いや、それについていうのなら、やや早すぎて後悔しているのは、『ドント・ウオーリー』で、これも事実に基づく映画だが、人相の悪い主役のホアキン・フェニックスに比べて、エンドクレジットに出てくるモデルとなった漫画家が写真からするとイケメンの俳優のような顔をしていて、映画と現実、俳優と現実の人物との落差がないのではということを書いたが、はやとちりの感はまぬがれない。というのも、この『アメリカン・アニマルズ』に登場する現実の実行犯の元学生たち。彼らは、みんないい顔をしていて、俳優のような顔をしている。これは誰もが驚くだろう。現実の元学生たちが、俳優だといわれても何ら違和感がない。この4人に会えば、映画製作者側が、映画に出演させたいと思ってもなんらふしぎではない。再現ドラマの部分の俳優たちと、モデルにあった男たちとの落差がない、境界があいまいになっている、おそらくそれがこの映画のねらいと合致しているのではないだろうか。

とはいえ、一方で境界のあいまいさを突きながら、同時に、境界のあいまいさは消失してして、冷厳な現実がたちあがることもまた示している。たとえば稀覯本を盗むときに彼ら4人が参考にするのは『オーシャンズ11』とか『レザボアドッグズ』といった詐欺窃盗物あるは犯罪物の映画である。あるいはさらに映画の世界を模倣するようなノリで犯罪をおこなうといってもよい。こうした軽いノリ、あるいは映画と現実との境をとっぱらうような事件を、この映画は描くのかと期待する。そのノリ、その境界侵犯性を、だが、映画は積極的に裏切るのである。

冒頭のメイクシーンは、彼ら4人が、中高年の老人に変装して稀覯本強奪を行おうとすることの暗示で、映画のような犯罪が実行されると期待する。だが、実際には、司書を襲うチャンスがないとわかると、計画を翌日に延期し、さらに変装自体も、わざとらしく、疑われる可能性があるということでやめる。想定されているのは映画のような現実である。だが実際には、つまり想定外なのは、現実は映画ではないということだった。

ちょっと古い映画だが、『おかしな泥棒ディック&ジェーン』Fun with Dick and Jane (1977) に、ジョージ・シーガルとジェイン・フォンダ扮する中流家庭の夫婦が、金銭的に困窮して、スーパーマーケットに強盗に入るしかないと決心する場面がある。だが、巨大スーパーマーケットに車で乗り付けたこの素人強盗夫婦は、目の前の巨大店舗の威圧感、多くの客と従業員のいるまえでの強奪行為から予想される混乱と恐怖、一線を越えて犯罪者になることへの躊躇、こうした要因がたちはだかるため、夫婦は、なにもできないまま、つまり強盗行為はあきらめて立ち去る。このときの、犯罪行為への躊躇、足のすくむ感じは、映画が、まさに観客が肌で感ずることができるくらいに迫真的に伝えてて、犯罪は映画のなかでのように簡単にはできないことを主人公たちも観客も思い知るのだが、これと同じように映画ととは異なる現実の犯罪の重みというものを『アメリカン・アニマルズ』はよく伝えている。

もちろん、最初に述べたように、彼ら4人の犯罪が失敗することは、最初からわかっているのだが、しかし、実際に犯罪を実行する段になると、観ていて緊張する。彼らがどこまでやれたのか、何が原因で失敗したのか、興味津々であって、かたずをのんで見守っているという言葉がぴったりあう感じがする。もちろん、どうなったかわかる。想定外の出来事、無残な失敗の連続であって、一見、用意周到な犯罪計画にみえたものが、穴だらけで、対処法も、小学生なみの知恵しかはたらかないというか、まったく知恵がない。こんな間抜けな連中によく強奪ができた、いや、よく強盗をしようという気が起きたのかとあきれるほかはない。そこから、もはや現実は『オーシャンズ11』とは真逆の手におえないものとなる。

度重なる失敗のなかで彼ら4人は、自暴自棄になり、なかにはスーパーで万引きをして疑われ、みずから警察につかまるように仕向ける者まででてくる。彼らが警察に摘発されるのは、時間の問題となるのである。

現実の実行犯を映画に登場させることが斬新で衝撃的であるかのような宣伝をしていたバカがいたが、テレビ番組では、ごくあたりまえのことである。どのような選択肢があったのか確認してみたい。

ひとつは、現実の事件を俳優を使って再現する、再現ドラマとする。このとき同じ俳優が、犯行を行った者として、犯行に至る経緯とか犯行の詳細と、その後についてコメントする映像を随所にさしはさむ。俳優による犯行再現ドラマと、それついての俳優による犯罪者たちコメント。これは疑似ドキュメンタリー手法である。なぜなら現実の当事者としてコメントする犯罪者たちが、再現ドラマの犯罪者を演ずる俳優と同じだからである。

逆に言うと、テレビ番組などでは、再現ドラマの部分をみせつつ、当事者本人がコメントするという形式はふつうにある。再現ドラマの部は俳優を使い、当事者コメントは、本人がする。要はテレビ番組の再現ドラマ付きドキュメンタリーなのである。

しかし、もっと先を行くこともできる。当事者たちに再現ドラマをさせるのである。知っていのとおり、クリント・イーストウッド監督の『1517分、パリ行き』(The 15:17 to Paris2018)は、事件の当事者の若者たちを、本人役として、再現ドラマに出演させている。ただ、この映画では、当事者たちは、ヒーローである。事件を当事者としてコメントしてもいいが、みずから再現ドラマで自分を演ずることにも、ある意味、喜びもあるかもしれない。ヒーローとしてのプライドをくすぐられるものであるかもしれない。

『アメリカン・アニマルズ』は、当事者たちは、残念ながらヒーローではなく、けちな犯罪者である。そしてコメントにおいて、犯罪にいたる経緯については、雄弁に語る、ときに退屈になるほど語る当事者の若者たちも、事件の核心、犯行と犯行後については、言葉がでない。トラウマになっていて、言葉を失うのである。この沈黙は、演出かもしれないが、それまでの雄弁さと対照的であり、観ていて痛ましいほどである。沈黙の長さが、犯罪あるいは犯罪行為へと一線を越えた自らの罪の重さと呼応する。逆に、彼ら当事者が、みずからの犯罪の再現ドラマに嬉々として本人役として出演しようものなら、とりかえしのつかない犯罪を犯したことの反省がないのではと非難を浴びるのかもしれない。俳優による再現ドラマと当事者本人のコメントという構成は、テレビ番組的であるし、またこれ以外の方法はなかったのではないかと思う。

映画の冒頭で、バリー・ゴーガン(『ダンケルク』、あるいは『聖なる鹿殺し』で、人相の悪さで強烈な印象を観る者に残す――『アメリカン・アニマルズ』でモデルとなった人物は、端正な顔立ちの知的な若者で、バリー・コーガンとは似てもにつかない)は、面接官に自分のことを語るように言われる。実は、何の面接なのかはわからないのだけれども、彼の画家としての才能が認められたがゆえの面接ではないかと思う。また映画も、彼の目線で語られることが多い。彼らは、ある意味、4人の代表である。そして、その4人は文筆活動に入ったり、映画製作に携わって入りして、広義のアーティストとして活動している。彼は画家である。となると、この4人、平凡な日常に穴をあける輝ける瞬間を求めて犯罪に走ったというようなことではないだろう。彼らは、その才能をまちがったこと(稀覯本強奪未遂)に使ってしまった。まちがった手段で自己実現を追求したということであろう。大きすぎる代償をはらった青春と友情物語のドキュメンタリーなのである――再現ドラマつきの。

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2019年06月02日

『誰もが知っている』

Todos lo saben(2018)/Everybody knows


アスガル(アスガーの表記もあり)・ファルハーディ(ファルハディの表記もあり)監督・脚本による『誰もが知っている』Todos lo saben(2018, 英語タイトルEverybody knows)は、予想通り、ファルハーディ映画の世界が展開し、2時間を少し超える映画だが、最後まで緊迫感というか緊張が途切れることなくまったく飽きさせない。


淡々として続く日常の表皮に、あるいは慣習的行事の反復のなかに、知られてはならない秘密、直面したくない過ちや人間的弱さ、共有される偏見や差別意識が、とりかえしのつかないかたちで衝撃的に露呈する、あるいは衝撃的に再度隠ぺいされるという、社会の闇と黒歴史を描くファルファディの映画は、いつも後味の悪い結末なのだが、しかし、それでいて、ある種の爽快感をもたらしてくれる。それは膿を出し切ったというようなカタルシスというようなものではなく、膿があることの、それが広範囲に拡散し、なおかつ隠ぺいされていることの認識の喜びである。ただし、批判の対象には、誰もが心当たりがある存在、つまり自分自身も含まれるため、諷刺的に終わるのではなく、苦い認識となる――苦くても、あるいは苦いがゆえに、そこに認識の喜びがあるのだが。


今回の映画は秘密を主題にしている(まあ、ファルハディの映画はみんな秘密を主題にしている)のだが、秘密とは、すでにいつもオープン・シークレットであることがわかる。誰もが知っているのが、実は、誰も詩ならないはずの「秘密」なのである。そして誰もが知っている/知らない秘密が、社会の基盤として、時に犯罪を、時に偏見を、時に犠牲を、時に快楽をもたらすのであって、どのような社会にも、そのような秘密がある。良質であったり悪質であったりする社会現象の中核にあるのが、そのような秘密なのである。


この秘密と関連するのだが、映画のなかでは、ほとんどの人物が、正しいと思える選択はしない。誘拐事件が発生したとき、警察に通報しないのがその最たるもの。この村人たちが全員、最終的に、事件を闇から闇へと葬り去るため、公的にはなにもなかったことになる。


だが、それは愚かな選択だったかというと、そうでもない。というか、愚かとしか思えない選択でも、二歩も三歩も、いや十歩や二十歩先も見通していたかのような洞察に裏付けられているかのようなのだ。あたかも、たとえば子供を誘拐された女性の、愚かな選択と無能ぶりが、実は、まるで共犯者であったかのように、誘拐の成功を保証してしまうのだ。誤解のないようにいうと、映画のなかで娘を誘拐されるペネロープ・クルスは、共犯者ではない(このことを指摘してもネタバレとはならないだろう)。共犯者ではないのだけれども、共犯者であるかのように、犯人たちを支援するかたちになるし、最終的に、自己犠牲もないし損失もこうむらない。周囲の反対を押し切って、警察には絶対に通報しないという、どうみても賢明ではない判断と選択が、最終的に、正解であったことがわかる。そこが皮肉でもあるし、そこに無意識の悪意がすけてみえるともいえる。


最終的に、なぜパコ(ハビエル・バルデム)は助けてくれたのかという疑問は、映画の中の人物が発する問いは、決して素朴な疑問ではない。ヴィトゲンシュタインが言っていたように、問いを発することができるというのは答えがわかっているからである。素朴な問いというものはない、問いが成立する瞬間に答えはみえているからであり、答えがわかっていないと問いはでてこない。素朴な問いというのものは存在しない。すべては答えを前提としている修辞疑問文である(とまではヴィトゲンシュタインは言っていないとしても)。


あるいはこれは、たとえばアルチュセールが述べていたような、問われるべき問いを決定し、また答えるべき答えを決定する、Problematics、「問題設定」とか「問題圏」と訳されるものの問題である。この映画のなかで、秘密とされるものは、この「問題圏」である。この「問題圏」の支配下において、すべての選択は決定され、すべての選択が、答えを確定的に想定しているものとなる、つまりすべての選択が賢明なものなのである――たとえどれほど愚かな選択にみえたとしても。


そしてこの「問題圏」こそ、社会の闇であり、黒歴史なのである。そしてこの問題圏を、あぶりだすのがファルハディ映画なのである。


とはいえ、今回の映画は、まぎれもなくファルハディ映画なのだが(たとえ、監督名を伏して上映しても、私は、これがファルハディ映画ではないかと当てる自信はある、まあ、誰もでもわかることではあるが)、同時に、不満も残る。


オールスターすぎる。ペネロペ・クルスとハビエル・バルデム夫妻の出演はまだしも、彼らだけで映画としてはじゅうぶんに成立すると思うのだが、監督の国際的評価の高まりからか、さらにリカルド・ダリンとバルバラ・レニーまで出演している。『瞳の奥の秘密』(El secreto de sus ojosThe Secret in Their Eyes)のリカルド・ダリンについていえば、彼だけでもうひとつべつの物語や映画が成立しそうな気がする。『瞳の奥の秘密』という、同じく秘密を扱った映画の主役であったときは、そうでもなかったのだが、脇に回ると、顔が濃すぎて主役以外に役柄がありえない。『マジカル・ガール』のバルバラ・レニー(この6月には彼女が主演の新作が日本で公開される)もパコの妻の役で出演しているが、おそらく映画のなかで彼女だけが賢明な意見の持ち主で、パコが従うべきは彼女の意見のはずだが、そのぶん彼女がよそ者なのかもしれない。夫婦関係の崩壊は目に見えているのだが、存在感のあるレニーは、もっと重要な役でもよいような気がする。


もちろん、これはこうしたことは好みの問題だが、プロットが、やや弱い点はみすごせない。べつにサスペンス映画ではないので、サスペンスとしてのプロットは弱くていいのだが、へんな盛り上げ方をしていて、サスペンスとしての弱さが目立ってしまう。教会の時計台の内部にしても、たぶん過去とか時の流れを意識させる情景装置なのだろうが、それ以上の重要性がない――思わせぶりなのにもかかわらず。最後は清掃員が放水して町を掃除しているのだが、汚れを洗い流す行為にもかかわらず、砂ぼこりにもみえる水沫が、秘密を埋没させるようにもみえるということでイメージとしては優れているけれども、プロットと絡んでこない。プロットと絡んでこないのは現実効果なのかもしれないが、現実の偶然の表皮の下に必然の網の目が張り巡らされているという映画の世界で、このような現実効果は似合わない。またもう一つの過去の誘拐事件との関係がどうだったのか、ぼんやりしていて把握できなかった(というか、基本的に、これも、めくらましの無関係要素だったのか)。


しかし最大の問題は、『ある過去の行方』 (2013)と同様、イランの外部を舞台にしている映画なのだが、イラン者の映画に比べて、社会的掘り下げが弱くなったということだろう(『ある過去の行方』のときは、さほど感じなかったのは、そこでは移民が重要な役割を担っていたからだ)。地主階級と小作人階級との、隠れた対立と、秘密が共有される村生活というのは、いまのスペイン社会の闇として、切実な問題なのだろうか。そうしたことがないとは誰にもいえないのだが、ほかにもっと切実で直面したくない、それでいて誰もが知っている問題があるような気がしてならない。

posted by ohashi at 10:44| 映画 | 更新情報をチェックする

2019年06月01日

『コレット』

作家コレットについては、翻訳で『シェリ』とその続編を読んだくらいで、とりわけ伝奇的事実に関しては、まったく知らなかったので、奔放な彼女の半生の物語の映画化であるからには、大いなる期待をもって見ることになった。

たとえば岩波文庫版『シェリ』の訳者解説にはこうある:

コレットは粋筋の女のようなショートカットに髪型を変え、流行の先端を切って自転車をのりまわし、体操部屋をつくり、パントマイムを練習し、男装の写真やヌード写真を撮影した。舞台でクローディーヌを演じる女優のポレール、彼女とお揃いの服を着たコレット、女ふたりにはさまれてしたり顔のウィリー。この「三点セット」はベル・エポックの「流行商品」になった。

一九〇三年(中略)コレットの同性との関係、ウィリーの華やかな異性関係、さらに金銭的な確執までがからみ、時代の寵児となったカップルは早々と婚約を解消する。コレットの女友達ミッシーことマチルド・ド・モルニーはれっきとした貴族(中略)レズビエンヌとして知られた貴婦人と売れっ子女流作家との同棲生活というだけでもゴシップ屋を喜ばせるには充分だったにちがいないけれど、そのミッシーがコレットに誘われてパントマイムに根中し、一緒にミュージック・ホールの舞台にあがり、女性同士のラブシーンを演じてしまったのだから、ナポレオンの一族が黙ってはいない……(p.250

とある。語られている「三点セット」の写真は映画で提示されるし、ミッシーとの交流や舞台も映画は再現している。だが、にもかかわらず、期待はずれの映画だった。悪い意味で言っているのではない。引用で、その一部が語られているような奔放な彼女の半生の物語という映画ではなかったのだ。

むしろ父権制と戦って自立を獲得する映画、あるいは作家コレット誕生の映画であって、作家コレットの映画ではなかった。初期のヒット作、クローディーヌ・シリーズ(比較的最近のアメリカ英語でいうとクローディーヌ・フランチャイズ)は、彼女が書いているのだが、夫の名義で出版されていた、つまり夫の作品だったので彼女は作家としてはまだ誕生あるいは認知されていない。

となると夫が妻の作品を自分の作品であるかのようにして刊行することは、よく映画の題材にもなった。『ビッグ・アイズ』(2014年ティム・バートン監督)がそうだった。妻の描いた絵を夫が自分の作品として長らく発表していたが、裁判で、真の作者が判明する。あるいは比較的最近では『天才作家の妻 40年目の真実』(The Wifeビョルン・ルンゲ監督、2017年制作のスウェーデン、イギリス、アメリカ合衆国の映画だが日本公開は2019年)がある。ノーベル文学賞を受賞した男性作家の作品は、実は妻が全部書いていたという、ゴーストライター物の映画。『コレット』が『ビッグ・アイズ』とか『天才作家の妻』と同じ種類の映画だというのは、まったく予想していなかった。

コレットが、その創作物を夫に騙し取られ搾取されながら、どうして夫と縁を切らなかったのか、自立できなかったのか、その心理的葛藤の部分が、映画の本筋となる。映画はそこのところをじっくりみせる。奔放な生きざまと性的対象選択(レズビアン的)にもかかわらず、夫と決別できなかった理由として、彼女の女性としての弱さ、あるいは優しさを強調することになるが、彼女に対して早く目を覚ませと思いつつ、彼女が目を覚ました瞬間には、もう映画は終わる直前なのである。作家誕生物語。だが、その結末までが長いすぎるように思われる。

そもそも、あんな夫(作家だが、作品はすべてゴーストライターまかせ)に、あんな繊細かつ大胆な女学校生徒物が書けるわけがない、才能がありそうな妻のコレットがゴーストライターとして書いているのではという推測は、簡単にできるのであって、当時のパリの文壇がゴーストライターを見破れなかったとは思えない。見破れずにいることに、観客の側はいらつくのである。

あるいは夫に何度裏切られても、それを許してしまうコレットの思慮のなさにもあきれる。プレイボーイで商売人で儲けと名声しか眼中になく、あらゆる手段をつかった妻の創作物を引き出す(なんといって、妻がゴーストライターなら執筆料を払う必要がないからである)夫に、文学のなんたるかがわかるはずもないだろう。あるいはパリの文化事情に詳しく、演劇とか小説についての評価が常に辛口なのも、田舎娘には権威ある人物としてうつるのかもしれない。流行に敏感で新しい潮流に寛容ながら、それもすべて儲かるためであり、非難されればすぐに謝り泣いたりしても、すべては利益を考慮してのことである。またコレットの原稿を焼いて、自分がゴーストライターを使っていたことの証拠隠滅を図ろうとする卑劣さにおいても、こんな男に騙されるコレットに対しては、哀れさよりも愚かさが鼻についてしまう――たとえ、それには理由があったとしても(たとえば、コレットにとって子供がいないことの負い目と、作品が夫の共作であり子どもであったという思いが、彼女を夫に結び付けていたのだが)。

コレットの夫は寛容なところがあり、それがコレットにとって夫への愛を持続させたのかもしれないが、登場人物の一人が行っていたように、いくら手綱が長くても、手綱は手綱であって、夫はしっかり妻をコントロールし、抑圧している。長い手綱は、父権制のことでもある。この映画は、父権制の手綱がいかに長く、また狡猾で、そこから解放されるにはたいへんな戦いが待っているということを主題としている。そして敵中突破して、作家として誕生するコレットを言祝ぐようでいて、長い戦いの記録を重視している。その部分を提示したがっている。いかにして父権制が女性の自立を妨げるかを、教訓とか警告として示すというよりも、父権制のあなどりがたさ、避けがたさの例示をとおして、父権制の、ある意味、したたかさ、強さを強調しているかのようだ。父権制が好きであり、それにとりこまれて抜け出せない愚かな女の醜態が好きなのである。

ここが、この映画について複雑な思いを抱いてしまう原因ともなっている。

そもそもこの映画は男性の脚本による男性の監督の映画である。目線が、男性から独立して生きる女性作家の奔放な生きざまというよりも、たとえどんなに奔放にみえても、男性に依存するか、男性にどこかで手綱を握られている、自由な奴隷にすぎないゴーストライターの苦悩を延々と描くというのは、女性の自立よりも女性の束縛のほうを主題として好んでいるとしか思えないではないか。奔放な女性作家の生きざまではなく(実際、スキャンダラスなコレットの生涯に、材料はことかかないはずだ)、ろくでもない夫から逃れられない彼女の弱さあるいは愚かさを描くことによって、男性あるいは父権制の、たとえ悪辣なものであっても、重要性あるいは不可避性を強調しようとしているのではないか。たとえクソのような男性と父権制であっても、また今回は、コレットの予想外のクィアな欲望ゆえに、不意を突かれ負けたけれども、男性と父権制は、簡単に屈服されたり排除されたりはしないという含意が透けて見えるのである。

繰り返すが、コレットの奔放な作家人生に関する材料は、いくらでもある。にもかかわらず、それを描くことはない。作家になる以前のコレットの苦悩を延々と描く。いや、そもそもクローディーヌ物の作者ではなくゴーストライターというのは、大衆作家のゴーストライターであって、それこそ文学史に残るような作家になるのは遠い先のことである。映画の最後は、作家誕生というよりも、大衆作家のゴーストライターからゴーストライターという肩書が消えたにすぎないのである。

アネット・ベニングが若い男性俳優と絡む映画に『リヴァプール 最期の恋』ではなく、イシュトヴァン・サヴォー監督の『華麗なる恋の舞台で』(Being Julia2004年)がある。この映画の原作サマセット・モームの小説『劇場』は、実力も人気もある中年の女優が、彼女を道具としてあつかって成り上がろうとする若い男性俳優に翻弄され苦悩する部分が内容の大半、いや八割・九割を占めるという印象がある。読んでいる側は、さすがにいらだつ。早く眼を覚ませと、主人公の女優に伝えたくなる。いや、困るのは、彼女が恋によよってものが見えなくなっているからというよりも、彼女は、すべて見えているのではないか。若い男に翻弄され苦しむ自分のことを楽しんでいるのではないかと思えてくる。最愛の夫の愛を失い、家族も失い、さらには名声までも失いそうになっても、彼女は若い男に翻弄される自分を愛しているふしがある。このマゾヒズムに支配されているかぎり、彼女が覚醒して訣別することなどのぞむべくもない。彼女はすでに覚醒して訣別している。にもかかわず、苦しむ自分がいとおしく、苦しみのたうちまわる自分に陶酔しているのである。

このマゾヒズムは死に至る病でもある。ただ、マゾヒスティックな欲望のありかは、登場人物ではなくて、彼もしくは彼女を描く作者の側になる。だから、最終的に登場人物を死に至る病から解放して、マゾヒズムの欲望に終止符をうつことができる。それはまたクィアの作家自身の死に至る病を抑止するセラピーでもある。人物を苦しめに苦しめておきながら、どこか冷めていて、ゲームを終わらせる余裕がある。だから何度でもこのマゾヒズム・ゲームをリセットして始めることができる。『劇場』において、主人公の女優の苦難は、ゲイ作家であるサマセット・モームのマゾヒスティックな欲望を全開させる契機となるのである。

同じことは、『コレット』の監督についてもいえるのかもしれない。ウォッシュ・ウェストモアランドは、これまでリチャード・クラッツァーと共同監督で映画を製作してきた。今回、一人なのは、長年のパートナーだったリチャード・クラッツァーが亡くなったからである。映画のエンドクレジットには「リチャードへ」という献辞が入っている。苦しむコレットあるいは夫のもとから逃れられずに従属を余儀なくされ搾取されるがままのコレットを描くことは、ゲイの監督のマゾヒスティックな欲望の産物なのである。

もちろんマゾヒズムは誰にもでもある。またゲイのアーティストにマゾヒズム的傾向が強いからといって、それを非難の対象とすることに意味はない。問題は、マゾヒズム的欲望は、強大な敵を倒すのではなく、敵を強大のままにとどめおくことになり、逃避・訣別・自立する機会を、いま、そこにある機会を、限りなく先に延ばすことによって、保守的な世界観を構築しかねないからである。モームの『劇場』において、作者ならびに主役の女優のマゾヒズムにはうんざりしたことは確かだが(映画版は、苦難は小説版ほど長くは続かない)、そこに伝統的社会とか因習的権威、父権制の束縛などはない。ところが『コレット』の場合、伝統的父権制社会が最後まで立ちはだかるのであって、力点が解放よりも束縛に移行してしまった観がある。映画は、危険なプレイを行ったふしがある。あるいは、映画は、束縛のマゾヒズムを展開させることによって、束縛からの解放、自由な奔放さを犠牲にして観客をがっかりさせているのかもしれない。

付記

映画としては、目を見張るような風光明媚な風景の数々、そしてまた世紀末から20世紀にかけての時代再現性は特筆するに値する。私が監訳・編集した『クィア短編小説集』(平凡社ライブラリー)のカバーに、カイユボットの有名な絵画――部屋の床板を削る作業をする上半身裸の作業員を描いたもの――を使わせてもらったが、その絵を彷彿とさせるような、上半身裸で床板を削っている作業員が登場する場面がある。

あと映画の最後は、映画『スター誕生』の最後と同じような構成になっている。

もちろんキーラ・ナイトリーの熱演も、この映画を支えている。彼女の肢体は、レズビアン的・クィア的コレットの肢体としてふさわしいアスレチック性を有している。かつては骨と皮だけだったようなキーラ・ナイトリーの身体は、筋肉質にかわっている。そして彼女の癖の強い夫ウィリーを演ずるドミニク・ウェストの好演・力演もまた忘れてはならない。このふたりのやりとりが、この映画のすべてであって、現実にも、この夫婦は彼女が作家として独立したあと、再会することはなかったらしい。あとフィオーナ・ショーも、コレットの母親役で出ていたが、彼女は、いつみても年をとらない。

posted by ohashi at 16:16| 映画 | 更新情報をチェックする