2014年の同作品の再演とのことだが、前作を観ていないので、新鮮な驚きをもって見ることができた。池袋の東京芸術劇場のシアター・イーストの通常の舞台をとりはらって、平土間と、その四辺を取り囲む階段席(3段だが)から構成される劇場となって、パフォーマンスは長方形の平土間でおこなわれるが、平土間に用意された椅子に観客は座ることができる。劇場に入るとどこに座ったらいいか迷うのだが(全席自由席)、通常のシアター・イーストは、狭いところなのだが、それよりもさらに狭くしているので、まあ、どこに座ってもよく見えることがわかって、階段席を選んだ。演者と同じフロアに座るのは、前日のカクシンハンのリーディング公演と同じなので、変化を求めたということもある。
ところが芝居がはじまると、登場人物全員、本というか台本をもって、中央のテーブルを囲んでいる。え、リーディング公演かと、つまり演者が全員、『テンペスト』の本をもってト書きを朗読したり、台詞を読み上げている、まさに台本の読み合わせからはじまる舞台。ただし、いつしか演者は、本をもたずに台詞を発するようになり、台本の読み合わせから、印字された文字から、虚構の世界が立ち上がるというメタモルフォーゼを経験することになる。
また最初のほうは、コーラス(解説役と同時に合唱団でもある)形式で、たとえばテーブルをはさんで向き合って座っているプロスペロとミランダのふたりは、台詞を発することなく、彼らをとりかこむ男性たちが、順番にプロスペロの台詞を、また女性たちが、とっかえひっかえミランダの台詞を口にしはじめる。そのまま最後まで、この形式にするのかと驚くとともに興奮したが、さすがに、この形式は消え、通常の演技へと移行する(たしかにこのままだとテンションは上がり、迫力はあるが、疲れそうだと言う気もする)。これは、全員で台本を分担して読み合わせる形式と、虚構世界が立ち上がり、人物が独り立ちして展開する演劇までの過渡的な形式ともとれるが、同時に、それだけではなく、劇中世界を集団幻想として印象づける仕掛けでもあるのだろう。
ピーター・グリーナウェイ監督の『プロスペロの本』は、全編というわけではないが、ほぼ全編、プロスペロを演ずるジョン・ギルグッドが、登場人物全員の台詞を話している。すべてがプロスペロの脳内劇場であり、登場人物はプロスペロの操り人形か分身である。この解釈は、舞台ではなく、映画になじみやすい。プロスペロの声がヴォイス・オーヴァ―というかナレーションとなって、映像全体に違和感どころか統一感をあたえることになるからだ。そう私は考える。
ただグリーナウェイの映画には、『テンペスト』のオリジナルの設定を踏襲しているところがある。プロスペロの島にはつねにこの世ならぬ音楽が聞こえるのは、この島がまた妖精たちの島であって、彼らは人間にみられることなく、人間たちの行動を見守っているということが暗示されるのだが、グリーナウェイの映画には、台詞のない、物言わぬ妖精たちが多く登場する。映画のなかで彼らは、全裸の老若男女として登場する。本来なら彼ら妖精たちはプロスペロの脳内劇場の観客なのだが、映画では見る側ではなく見られる側にいる、特異な劇中人物にすぎない(全裸には誰もが見入ってしまうのだから)。
この黙って見守っている側、つまり妖精たちは、『K・テンペスト』には、観客(文字通りの観客)がなった。劇場全体は真っ暗になったり照明を落としたりするところもあるが、ほぼ8割か9割方、観客も平土間も明るい室内となっている。おそらく平土間で椅子座っている観客も、私のようにギャラリー席にいる観客も、たがいにその姿が目に入るのであり、私たちが観ているのは、『K・テンペスト』という芝居ではなく、〈『K・テンペスト』という芝居を観ている観客〉を観ているのである。もちろん演者と観客は混じりあうことはない(実際には時折まじりあい、そこにメタドラマ的笑いが生まれるというか、生まれるように仕組まれているのだが)。観客は、登場人物たちが目にすることのない、精霊、亡霊妖精のように人間たちのアクションを見守っている。あるいは逆かもしれない、私たちが観客が観ているのは、プロスペロその他の人物のほうが、精霊、幽霊、亡霊かもしれないのだ。
私のようにギャラリー席で観ている者にとって、平土間ステージの椅子に座っている観客(本物の観客)は、素人にもかかわらず、けっこう存在感がある――仕込みの役者かと思われるような老若男女なのだ(実際には仕込みでなくとも、演劇関係者かもしれないのだが)。おまけに着ている者が、昨日は、5月の真夏日だったので、観客はやや薄着で演ずる者たちの服装(現代服)とは、弱冠の差があったのだが、しかし基本的に来ている者に差がないから、役者が、平土間の観客にまじって座ると、ほんとうに誰が役者で誰が観客かわからなくなる。そして平土間客にまじって座っている役者が、たちあがって劇中世界に参加すると、ほんとうに一瞬、一般の観客が立ち上がって劇に参加したかもように思えるときがある。極端な解釈をすれば、観客のなかから分身的精霊がエキトプラズムのように立ち上って、芝居をみせるということもできる。劇は、まさに集団幻想ともいうべき様相を呈していくるのである。
とはいえ演出意図は、おそらく、そうでなくて、広い部屋にたまたま居合わせた人々が世間話を始める――実際、劇が始まる前、話し込んでいる二人とか、周囲の人にむかって自分の経験談を話している者たち(いずれも劇団員)がいて、和やかな集会の雰囲気を出している。そのなかで、テーブルを囲んで台本の読み合わせのようなものがはじまる。他愛もない世間話、むだ話、ひまつぶしの話のなかから、はかない夢のごとき物語が出現し、ひととき幻想空間あるいは虚構空間を形成するが、やがて、また、もとのはかない、むだ話へ回帰するという設定なのだろう。事実、劇上演中にも、演者たちの無駄話が即興的に(実際には計算づくで)さしはさまれるところがあって、そこは実に面白いやりとりとなっているのだが、これなども、私たちの世界は夢と同じ材料でてきていて、また夢で囲まれているというシェイクスピアの世界観ではなく、私たちの世界は、無駄話で囲まれている、無駄話は油断すると、あるいはどんな間隙であろうともそれをぬっていつでも侵入するといのが『K・テンペスト』の世界観となっている。それはすごく面白し、この無駄話の魔力は、舞台と客席との一体感の形成に大いに貢献する。観客の日常世界が、そのまま劇中世界に直結するということにもなって、リラックスして劇中世界に入っていける。
ただ、強いて言うと、このせっかくの試み、この驚くべき趣向のかずかずにもかかわらず、劇も終幕にいたると失速してしまうかにみえるのが残念だ。これは演ずる者の責任ではないし、また演出家の責任でもない。劇を終わらせるための終盤戦に入ると、こじんまりとまとまる方向に劇が大きく転換するかにみえる。それはオリジナルの劇の方向性を踏襲しただけと思われるかもしれないが、そうではない。実際、オリジナルの劇の解釈も雑になっている。たとえば「宴は終わった」というプロスペロの有名な台詞は、「宴はいずれ終わるだろう」と変えられている。そして力点は、堅固な物、揺るがざる物も、いずれは夢まぼろしの如く消えるということに置かれるのだが、宴は終わるのではなく、中断されるのであり、それはキャリバン一行が襲ってくることをプロスペルが突然思いだしからであり、そこにプロスペロ自身の動揺もすけてみえる。原作は、ある意味、アクション重視で、ドラマティックに展開するのだが、『K・テンペスト』のほうはテーマ重視で静的になっている。
ただしそれは原作と較べるときの議論であって、原作はインスピレーションの源泉であって、忠実になぞる教科書ではないとすれば、無意味な、生産性のない議論かもしれないので、こうしたことは無視できるとしても、唯一無視できない、そして今回の上演の瑕疵ともいえない、欠陥のようなもの、あるいはどのような立場であろうとも、違和感をいだくであろう問題点がある。おそらく演出家だったら、本来なら、排除あるいは修正しておくべき問題点であったと思う。それはプロスペロ役の俳優の演劇が、他の演者たちとくらべると浮いていることである。
プロスペロ役の俳優は、クラリネットも吹けることが上演で証明されているので、それこそ裏方にまわって音楽・楽器演奏担当でもしていればよかったと思う。プロスペロ役の俳優は、見栄えはいい。しかし、そこに溺れてしまって演技そのものの質の向上を目指さなかったのは残念としかいいようがない。台詞は、ただ口にすればいいというものではない。台詞はデクラメーションでもある。いくら日常的な無駄話を出発点としても、シェイクスピアの芝居の台詞には、たとえ翻訳劇であろうとも、デクラメーションが必要である。このデクラメーションが、プロスペロの役者に出来てない。もちろん、その違和感、あるいは素人っぽさが、けっこう心地よく味になっているとか、他の人物を植民地支配あるいは政治的に支配するプロスペロの異人的超越性の指標ともなっているともとれる。好意的に解釈もできるのだが、やはり私としては残念でならない。
演技経験もあるようだが、今回のプロスペロはひどすぎないだろうか。演出家は、作品を解体して構築しなおすろような大胆な組み合えに剛腕をふるい、かつまた飽きさせることのない技巧や設定や展開をとおして大変な活躍だったと思うし、そのためプロスペロ役の俳優の演技指導まで手が回らなかったのかもしれないが、残念である。早い時点で、俳優をとりかえるべきであった。それこそ藤木隆のプロスペロで問題なかったのではないだろうか。藤木隆をナポリ王ではなくプロスペロの役にすればよかったのでは、と、演出家の串本和美氏に言いたい。早く、プロスペロ役の俳優をかえるべきであった、そう、俳優の串本和美氏をやめさせるべきであった。