2019年05月25日

『K・テンペスト』

2014年の同作品の再演とのことだが、前作を観ていないので、新鮮な驚きをもって見ることができた。池袋の東京芸術劇場のシアター・イーストの通常の舞台をとりはらって、平土間と、その四辺を取り囲む階段席(3段だが)から構成される劇場となって、パフォーマンスは長方形の平土間でおこなわれるが、平土間に用意された椅子に観客は座ることができる。劇場に入るとどこに座ったらいいか迷うのだが(全席自由席)、通常のシアター・イーストは、狭いところなのだが、それよりもさらに狭くしているので、まあ、どこに座ってもよく見えることがわかって、階段席を選んだ。演者と同じフロアに座るのは、前日のカクシンハンのリーディング公演と同じなので、変化を求めたということもある。

ところが芝居がはじまると、登場人物全員、本というか台本をもって、中央のテーブルを囲んでいる。え、リーディング公演かと、つまり演者が全員、『テンペスト』の本をもってト書きを朗読したり、台詞を読み上げている、まさに台本の読み合わせからはじまる舞台。ただし、いつしか演者は、本をもたずに台詞を発するようになり、台本の読み合わせから、印字された文字から、虚構の世界が立ち上がるというメタモルフォーゼを経験することになる。

また最初のほうは、コーラス(解説役と同時に合唱団でもある)形式で、たとえばテーブルをはさんで向き合って座っているプロスペロとミランダのふたりは、台詞を発することなく、彼らをとりかこむ男性たちが、順番にプロスペロの台詞を、また女性たちが、とっかえひっかえミランダの台詞を口にしはじめる。そのまま最後まで、この形式にするのかと驚くとともに興奮したが、さすがに、この形式は消え、通常の演技へと移行する(たしかにこのままだとテンションは上がり、迫力はあるが、疲れそうだと言う気もする)。これは、全員で台本を分担して読み合わせる形式と、虚構世界が立ち上がり、人物が独り立ちして展開する演劇までの過渡的な形式ともとれるが、同時に、それだけではなく、劇中世界を集団幻想として印象づける仕掛けでもあるのだろう。

ピーター・グリーナウェイ監督の『プロスペロの本』は、全編というわけではないが、ほぼ全編、プロスペロを演ずるジョン・ギルグッドが、登場人物全員の台詞を話している。すべてがプロスペロの脳内劇場であり、登場人物はプロスペロの操り人形か分身である。この解釈は、舞台ではなく、映画になじみやすい。プロスペロの声がヴォイス・オーヴァ―というかナレーションとなって、映像全体に違和感どころか統一感をあたえることになるからだ。そう私は考える。

ただグリーナウェイの映画には、『テンペスト』のオリジナルの設定を踏襲しているところがある。プロスペロの島にはつねにこの世ならぬ音楽が聞こえるのは、この島がまた妖精たちの島であって、彼らは人間にみられることなく、人間たちの行動を見守っているということが暗示されるのだが、グリーナウェイの映画には、台詞のない、物言わぬ妖精たちが多く登場する。映画のなかで彼らは、全裸の老若男女として登場する。本来なら彼ら妖精たちはプロスペロの脳内劇場の観客なのだが、映画では見る側ではなく見られる側にいる、特異な劇中人物にすぎない(全裸には誰もが見入ってしまうのだから)。

この黙って見守っている側、つまり妖精たちは、『K・テンペスト』には、観客(文字通りの観客)がなった。劇場全体は真っ暗になったり照明を落としたりするところもあるが、ほぼ8割か9割方、観客も平土間も明るい室内となっている。おそらく平土間で椅子座っている観客も、私のようにギャラリー席にいる観客も、たがいにその姿が目に入るのであり、私たちが観ているのは、『K・テンペスト』という芝居ではなく、〈『K・テンペスト』という芝居を観ている観客〉を観ているのである。もちろん演者と観客は混じりあうことはない(実際には時折まじりあい、そこにメタドラマ的笑いが生まれるというか、生まれるように仕組まれているのだが)。観客は、登場人物たちが目にすることのない、精霊、亡霊妖精のように人間たちのアクションを見守っている。あるいは逆かもしれない、私たちが観客が観ているのは、プロスペロその他の人物のほうが、精霊、幽霊、亡霊かもしれないのだ。

私のようにギャラリー席で観ている者にとって、平土間ステージの椅子に座っている観客(本物の観客)は、素人にもかかわらず、けっこう存在感がある――仕込みの役者かと思われるような老若男女なのだ(実際には仕込みでなくとも、演劇関係者かもしれないのだが)。おまけに着ている者が、昨日は、5月の真夏日だったので、観客はやや薄着で演ずる者たちの服装(現代服)とは、弱冠の差があったのだが、しかし基本的に来ている者に差がないから、役者が、平土間の観客にまじって座ると、ほんとうに誰が役者で誰が観客かわからなくなる。そして平土間客にまじって座っている役者が、たちあがって劇中世界に参加すると、ほんとうに一瞬、一般の観客が立ち上がって劇に参加したかもように思えるときがある。極端な解釈をすれば、観客のなかから分身的精霊がエキトプラズムのように立ち上って、芝居をみせるということもできる。劇は、まさに集団幻想ともいうべき様相を呈していくるのである。

とはいえ演出意図は、おそらく、そうでなくて、広い部屋にたまたま居合わせた人々が世間話を始める――実際、劇が始まる前、話し込んでいる二人とか、周囲の人にむかって自分の経験談を話している者たち(いずれも劇団員)がいて、和やかな集会の雰囲気を出している。そのなかで、テーブルを囲んで台本の読み合わせのようなものがはじまる。他愛もない世間話、むだ話、ひまつぶしの話のなかから、はかない夢のごとき物語が出現し、ひととき幻想空間あるいは虚構空間を形成するが、やがて、また、もとのはかない、むだ話へ回帰するという設定なのだろう。事実、劇上演中にも、演者たちの無駄話が即興的に(実際には計算づくで)さしはさまれるところがあって、そこは実に面白いやりとりとなっているのだが、これなども、私たちの世界は夢と同じ材料でてきていて、また夢で囲まれているというシェイクスピアの世界観ではなく、私たちの世界は、無駄話で囲まれている、無駄話は油断すると、あるいはどんな間隙であろうともそれをぬっていつでも侵入するといのが『K・テンペスト』の世界観となっている。それはすごく面白し、この無駄話の魔力は、舞台と客席との一体感の形成に大いに貢献する。観客の日常世界が、そのまま劇中世界に直結するということにもなって、リラックスして劇中世界に入っていける。

ただ、強いて言うと、このせっかくの試み、この驚くべき趣向のかずかずにもかかわらず、劇も終幕にいたると失速してしまうかにみえるのが残念だ。これは演ずる者の責任ではないし、また演出家の責任でもない。劇を終わらせるための終盤戦に入ると、こじんまりとまとまる方向に劇が大きく転換するかにみえる。それはオリジナルの劇の方向性を踏襲しただけと思われるかもしれないが、そうではない。実際、オリジナルの劇の解釈も雑になっている。たとえば「宴は終わった」というプロスペロの有名な台詞は、「宴はいずれ終わるだろう」と変えられている。そして力点は、堅固な物、揺るがざる物も、いずれは夢まぼろしの如く消えるということに置かれるのだが、宴は終わるのではなく、中断されるのであり、それはキャリバン一行が襲ってくることをプロスペルが突然思いだしからであり、そこにプロスペロ自身の動揺もすけてみえる。原作は、ある意味、アクション重視で、ドラマティックに展開するのだが、『K・テンペスト』のほうはテーマ重視で静的になっている。

ただしそれは原作と較べるときの議論であって、原作はインスピレーションの源泉であって、忠実になぞる教科書ではないとすれば、無意味な、生産性のない議論かもしれないので、こうしたことは無視できるとしても、唯一無視できない、そして今回の上演の瑕疵ともいえない、欠陥のようなもの、あるいはどのような立場であろうとも、違和感をいだくであろう問題点がある。おそらく演出家だったら、本来なら、排除あるいは修正しておくべき問題点であったと思う。それはプロスペロ役の俳優の演劇が、他の演者たちとくらべると浮いていることである。

プロスペロ役の俳優は、クラリネットも吹けることが上演で証明されているので、それこそ裏方にまわって音楽・楽器演奏担当でもしていればよかったと思う。プロスペロ役の俳優は、見栄えはいい。しかし、そこに溺れてしまって演技そのものの質の向上を目指さなかったのは残念としかいいようがない。台詞は、ただ口にすればいいというものではない。台詞はデクラメーションでもある。いくら日常的な無駄話を出発点としても、シェイクスピアの芝居の台詞には、たとえ翻訳劇であろうとも、デクラメーションが必要である。このデクラメーションが、プロスペロの役者に出来てない。もちろん、その違和感、あるいは素人っぽさが、けっこう心地よく味になっているとか、他の人物を植民地支配あるいは政治的に支配するプロスペロの異人的超越性の指標ともなっているともとれる。好意的に解釈もできるのだが、やはり私としては残念でならない。

演技経験もあるようだが、今回のプロスペロはひどすぎないだろうか。演出家は、作品を解体して構築しなおすろような大胆な組み合えに剛腕をふるい、かつまた飽きさせることのない技巧や設定や展開をとおして大変な活躍だったと思うし、そのためプロスペロ役の俳優の演技指導まで手が回らなかったのかもしれないが、残念である。早い時点で、俳優をとりかえるべきであった。それこそ藤木隆のプロスペロで問題なかったのではないだろうか。藤木隆をナポリ王ではなくプロスペロの役にすればよかったのでは、と、演出家の串本和美氏に言いたい。早く、プロスペロ役の俳優をかえるべきであった、そう、俳優の串本和美氏をやめさせるべきであった。



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2019年05月24日

『ハムレットShibuya』

カクシンハンによるリーディング公演

カクシンハン主催の木村龍之介氏による戯曲『ハムレットShibya――光よ,おれたちの復讐は穢れたか――』のリーディング公演である。リーディング公演といっても、演者が立ったままあるいは座ったまままで、ただ朗読するという完全朗読公演ではなく、木村氏の演出による演技的要素もとりいれたもので、それ独自で完全上演ではないが、上演と朗読の中間的なパフォーマンスとなっていた。

木村龍之介氏のこの戯曲は英語訳されて出版されることになっているとのこと。ただし日本語版も英語版も(出版されていないと思うのだが)私は読んだことがない。また2012年のカクシンハンの旗揚げ公演作品でもあったようだが、残念ながら私は見たことがないので、今回のリーディング公演で、いかなる戯曲なのかがわかるという期待に胸ふくらませた。

木村龍之介氏のシェイクスピア劇の演出あるいは翻案は、これまでどれも優れたものばかりで、国際的にも推奨できる舞台というかパフォーマンスになっているのだが、創作戯曲となると、それを英語訳して出版するのは、氏がこれまで演出のみならず戯曲そのものをもたくさん執筆してるというのなら実績もあってよいとしても、これが現在では最初で最後のオリジナル戯曲というのは、正直いって、いかがなものかと心配していた。なにかコネでもできて、その勢いで英訳出版にまで行ってしまってのだろうが、それで大丈夫なのかと不安であった。

しかし実際今回のリーディング公演で戯曲に接してみて、これは素晴らしい戯曲だと思った。英訳するに値する。現代の日本の劇作家が、『ハムレット』を題材にして、また『ハムレット』の台詞を縦横無尽に使いながら、こんな戯曲を書いたというのは、世界中が驚いていいいと思い、また英訳によって、その感動を世界中で共有していいと思った。現代日本の演劇シーンの最良の部分を世界に紹介するための絶好のチャンスに、この作品が、なりおおせていると確信した。

リーディング公演といっても、男女5人の俳優たちによって、作品の台本はすべて朗読されるのだが、同時に、役が割り振られている彼らによる演技も展開、また情景などは、中央に置かれたテーブルのうえのミニチュアの車と、カクシンハンの『ヴェニスの商人』公演で登場した紙人形というか紙屑に近い人型の切れ端によって表現される。それは秋葉原の交差点でもあり、また渋谷の交差点でもあるという二重性を帯びている。

ただし特筆すべきは、どうじに、そうしたミニチュアだけでなく、俳優たちが四方向から、同時に、大きな声で台詞を発することによって、まさに渋谷の交差点のにぎわいをとおりすぎた、不協和音的雑音の噴出と包囲を再現していることだ。パフォーマンスの力強さと再現方法の多様性は、ここですべて特筆すべきだが、パフォーマンスの実際はうまく伝えたられないのは残念である。

そもそも二重性をいうのなら、紙切れは、ただの紙切れだが、同時に人間あるいは人間の一関係を示すトークンでもあるという二重性でもあるし、俳優は、俳優本人であると同時に、劇中人物であったりする。そしてそれをいうのなら、『ハムレット』のアダプテーションでもあるこの作品は、『ハムレット』であって『ハムレット』ではないということになろう。またハムレット自身も、ハムレットという主人公であると同時に、ハムレットを演ずる役者というだけではない。この『ハムレットShibuya』では、秋葉原版ハムレットと、渋谷版ハムレットという二重性を帯びる。そう、二重性がこの劇の重要なテーマであるとすれば、二重性は、世界と演劇の二重性そのものの二重性についてのメタドラマ的コメントともなっているのである。

(当然二重性はTo be or not to beという『ハムレット』のなかのもっとも有名な台詞とも関係してくる。ちなみに『ハムレットShibyuya』では、「このままでいいのか、いけないのか」と「生きるべきか死ぬべきか」という二つの台詞が登場する。どちらも、ハムレットの独白の二つの日本語訳というか二つの日本語ヴァージョンだが、前者は小田島雄志訳、後者は、英和辞典などの例文に付せられた和訳という一般的な表現と思うかもしれないが、これを舞台で最初につかったのは河合祥一郎訳である。「このままでいいのか、いけないのか」と「生きるべきか死ぬべきか」は『ハムレット』の原文では、どちらもTo be or not to beなのだが、英語訳はどのように処理するのだろうか――閑話休題)

文学研究や批評というのは作品の演出それも独創的な演出であると私は考えているが(別に私でなくとも誰もが考えるところだろうが)、逆に演出は、すぐれた解釈や批評となるだろう。木村龍之介氏の演出=解釈は、私たち研究者にとって思いがけない地平を切り開いてくれた実に優れた洞察の産物であり、私たちとしてもどんなに感謝をささげておささげたなりないのだが。

たとえば旅役者がアキレウスの息子によって殺されるトロイのプリアモス王の場面を再現するところが『ハムレット』にあるが、これは、アキレウスの息子による父の復讐という面がある。このことはこれまでの『ハムレット』研究で指摘されていたと思うのだが、私は忘れていた。もちろん木村氏の洞察あるいは知識は、息子による父親の復讐のテーマを指摘しているのだが、同時に、このプリアモス王殺害の場面は、トロイの木馬に端を発して、木馬に潜んだギリシア軍の作戦の最終成果なのである。つまりギリシア方の欺瞞陽動作戦であり、それはまたハムレットの佯狂作戦とも通ずるものがある。そして木村氏は、このトロイの木馬のテーマを、トラックで交差点につっこんだ秋葉原無差別殺傷事件(20086月)と結びつける。というか秋葉原無差別殺傷事件は最初からテーマとなっているのだが、そこに木馬とトラックのモチーフを結びつけるという刺激的かつ深い洞察を実現するのだ。そして劇中でハムレットShibuyaは、この事件をもうひとつの世界的に有名になった劇場空間というかステージ、すなわち渋谷の交差点で再現・再演するのである。

 『ハムレットShibuya』が開いてみ世てくる地平は数多くあるのだが、もう一つだけ確認すると、原作でハムレットがからむのは母親とオフィーリア(恋人)である。この二人をむすびつけるのが娼婦である。ハムレットにとって父の死後、叔父と早々と結婚した実の母は淫乱な女あるいは娼婦である。またオフィーリアは娼婦ではないが、ハムレットには大人たちに好きなように使われ、またいずれ母親のような淫乱女になる少女であるからには、娼婦呼ばわりされる面がある(「尼寺へ行け」という有名な台詞は、「娼館へ行け」とも読めるという説がある)。しかし、これは女性を母親と娼婦に二分するという悪しき男性の女性差別的見解の反復再生産にすぎないのは確かだが、同時に、娼婦と母親によって救われるという面もある。娼婦と母親の合体、聖なる娼婦のモチーフを原作『ハムレット』は胚胎させていたことを『ハムレットShibuya』をとおしてはじめて知ることができた。つまり秋葉原無差別殺傷事件の犯人は、父親がかよった風俗店で、母親あるいは娼婦と出逢う。その娼婦は母親でもありオフィーリアでもありそして娼婦でもある。その母親=娼婦という聖なる娼婦に心情を吐露する無差別殺人犯のやりとりをみてみると、そう『罪と罰』のラスコーリニコフとソーニャではないか。『ハムレット』と『罪と罰』をつなぐ要素を思いがけず『ハムレットShibuya』が与えてくれたことに感謝したい。感謝しきれないとしても。『ハムレット』のなかに『罪と罰』があり、『罪と罰』のなかに『ハムレット』がある。

ほかにも語りたいことは多くあるが、英語訳を手にすることができたら、今回のリーディング公演を思い浮かべながら、じっくり検討して、その感想を報告したいのだが、ひとつだけ付け加えると、この『ハムレットShibuya』のリーディング公演が、いま変貌しつつある渋谷の新南口近辺のギャラリーで実現したことの意味は大きいと思う。再開発、あるいは差異再開発がすすむ都市をみていると、すべてが新しくなるという期待のなかに、古いものが埋葬されていくという不安あるいは喪失感が忍び込む。生きている都市、変貌する都市のシティスケープは、同時に、消され忘れ去られる過去あるいは過去の記憶の墓場だという思いも強くさせる。べつのその都市が自分の人生と深いかかわりを持たなくとも、桜の木の下に死体が埋まっているという思いと同じで、都市の新たな高層建築の下には死体が、二度と取り戻せない過去が、かけがえのない記憶が埋まっているように思えてしまう。都市の発展は、悔恨の発展でもある。都市への期待は、死の不安と背中合わせとなっている。新しく清潔な都市の顔からは、抑えつけられ窒息させられた情念がいつ何時噴出しそうになってもおかしくない、そんな思いを禁じ得ない。

『ハムレットShibuya』のリーディング公演の場所は渋谷のJRの新南口が近いのだが、もうひとつ私のように副都心線で向かった者にとって、渋谷駅からの最寄りの出口は16bだった。16bという出口は、昨年の夏ぐらいから有名になった。ここは渋谷ストリームに直結している出口なのである。渋谷の新たな顔のひとつとなった渋谷ストリームは、いまのところ渋谷で最大の墓碑である。


posted by ohashi at 09:47| 演劇 | 更新情報をチェックする

2019年05月20日

『ドント・ウォリー』

Don’t worry、He wont get far on foot (2018)

実話に基づく、この映画では、お約束通り、最後に、モデルとなった実際の人物の写真が示される。同じガス・ヴァン・サント監督の『ミルク』でも、最後にモデルとなったハーヴェイ・ミルクの写真ならびに映画にも登場する関係者の写真が示されるのだが、そこに驚きが待っていた。映画は実際に起きた事件、実在した人たちを俳優によって再現するので、俳優の容貌と、モデルとなった関係者たちの容貌には大きく開きがあるものだ。一般的にいって、実在の人物たちのほうが貧相である。ところが『ミルク』のモデルとなった人びとは、その存在感、顔立ちで俳優たちに負けていなかった。時には俳優たちを凌駕していたのである。

同じことがこの映画でも起こった。とはいえモデルとなった人物の写真一枚だけなので、衝撃も少ないのだが、2010年に死亡した実際のカートゥーン作者の、若い頃の、おそらく事故にあうまえの写真から察するに、甘いマスクのイケメンである。主人公を映画で演ずるのはホアキン・フェニックス。彼は実在した人物よりも人相が悪すぎる。

ガス・ヴァン・サントの実在した人物を扱う映画としては、『ミルク』に次ぐ映画かもしれないが、射殺されたゲイの運動家・市長のハーヴェイ・ミルクの事例とは異なり、交通事故で下半身が麻痺したという出来事以外には、事件らしきものもない人物なので、むしろ講演会でみずからの半生を語る漫画家の語りが全体を枠取り、途中は、ゆるやかなエッセイ形式の展開となって、時間軸を往復しつつ、その半生の出来事を再現したり語ったりするのであって、見る側も、物語を追うような緊張感とは無縁の、リラックスした気分で、淡々と語られる映画の語りに身をゆだねるしかないだろう。

ガス・ヴァン・サントの映画の語り口は、淡々としていても、観る者を飽きさせない巧みさで際立っている。

ただ、問題がないわけではない。このカリカチュアリストのイラストは、諷刺的というよりも差別的であって、その差別性に反発も買う。映画のなかに登場して、このカリカチュアリストを罵倒する人びと、あるいは批判する投書は、絵が品性を欠くとか卑俗すぎるから批判しているのではなく、その差別性を批判しているのである。ヨーロッパにおけるイスラム教徒を題材としたカリカチュアがテロ事件の引き金となるのは、その諷刺性ではなく差別性が怒りを買うからだろう。また諷刺性ではなく差別性へと向かうのは、モードの変換ではなく、やはり政治的姿勢である。諷刺は、体制批判へと向かう反体制的あるいは野党的精神の発露であるのに対して、差別性は、保守的イデオロギー性の発露であって、諷刺性と差別性は左と右にわかれるのである。となるとこの映画のカリカチュアリストは差別性を軸とする絵を描くので、どちらかというと保守的な世界観を有している。そしてそれは映画からも伝わってくる。

では、保守的ではない監督はこの点をどうみているのだろうか。それは保守的世界観に裏付けられたカリカチュアでも、描いた者の意図を超えた事件性をもったり、意味作用を深化させたりするのである。たとえば男性高級誌に掲載されたレズビアンを揶揄したようなカリカチュアについて、それをみた読者のひとりが、レズビアンを、猛犬注意という看板の猛犬のように、恐怖の対象として描くのは、こうした男性誌の読者が無意識にいだいている女性恐怖に気づかせるものをもっていて、男性読者を諷刺するものともなっていると解釈評価する場面がある。差別性を見事に諷刺性に転換させるコメントだと思ったが、おそらくそれは監督自身の立場なのだろう。たとえどんなに保守的で差別的なカリカチュアでも、リベララルな諷刺性へと転換できる要素を、あるいは契機をもっているというであって、たんに保守的だから差別的だからと却下することはよくないということだろう。

もうひとつKKK団を扱ったカリカチュアがあるのだが、どのようなキャプションを入れるか相談する場面がある。狙いは、KKK団といえば悪魔の集団と思われているが、実は、隣人たち、それも血の通った人間であることはまちがいないので、その人間であることのあかしとなるような些細な知覚をもって、KKK団の悪魔性を払拭している。これなども保守的な世界観が全開というところだろう。ヒトラーだって孫からみれば心やさしいおじいちゃんに決まっているのだから、人間性というのは正当化なり合法化なり免罪の根拠にはならないし、それを根拠に差別的なものを正当化するのは保守陣営である。

KKK団を悪魔とは犯罪者とか狂人として描かないことの保守性には問題があるが、同時に、悪魔は裁けないが、人間、それも一般人・庶民であるのなら、裁くことができる。いたずらに悪魔化するのではなく、時には人間化する心温まるカリカチュアは、彼らから免罪の根拠を奪い、正しき裁きを受けさせる第一歩かもしれないと考えた。

とはいえ、たとえば肛門のなかを望遠鏡でのぞき、ここにもスターバックスがあるというキャプションについては、最初、なにがおかしいのか、よくわからなかった。スターバックスはどこにでも、いたるところにあるということらしいが、しかし、これはスターバックスへの風刺というよりも、ゲイ関連のネタだろう。人通りが多い場所だからスターバックスが店をひらいている。あまり詳しく説明したくないが、要は、ゲイを嘲笑するものだろう。おまけに、映画のなかの時代設定では、まだスターバックスが米国全土に展開する以前のことであって、このカリカチュアの使用は時代錯誤ということらしい。そして主人公にはゲイ的要素があるらしいのだが、映画は、そのことに触れていない。

もしそうなら、差別的カリカチュアでも、それが自虐的なものであるのなら、許されるというか、あるいは悪質ではなくなるともいえようか。この自虐的カリカチュアは、許しの問題へとつながっていく。生物の進化のはてに人間が、おそらく作者自身が登場するというカリカチュアは、その図柄とあいまって、人間が、くだらない生き物の進化のはてに生まれてきたくだらない生き物であるかのようにみえてくる。その進化の頂点に作者がいるということである。それは自虐的笑いであり、同時に、すべてを許すような水平的笑いでもあるだろう。

主人公は、自己啓発セミナーのようなところに通っている。それはアルコール依存症の集団セラピーのようなものなのだが、しかし主催者が新興宗教の教祖じみた人物で、この自分からの呪縛をふりほどいて、主人公が新たな生き方を選択してゆくのかと思ったたら、最後まで、このいかがわしい教祖を主人公が頼っている。この教祖は、エイズになっていて、徐々に弱っていき、いずれ死ぬだろうということが予感される。結果として、彼は、そんないかがわしい人物ではなく、主人公をよい方向へと導いていく人物だとわかるのだが、そうはいっても新興宗教の教祖的人物にほかならない。アルコール依存症は克服できても、その人物への依存症は続いているために、観客としては複雑な思いを捨てきれない。

あとスケートボートをしている子どもたちとの絡みが、よくわからないといえば、よくわからないのだが、たとえ人生悲惨なことがあっても、すべてを許し、自分を許し、子供のように無心に遊ぶことこそ、人生に対する最良の姿勢であるという暗示かと思った。


なおこの映画もそうだが、体が動かなくなった人間の場合、性欲が強くなるというのは、なにか因果関係でもあるのだろうか。『博士と彼女の方程式』を見て以来気になっていることでもあるのだが。


posted by ohashi at 14:43| 映画 | 更新情報をチェックする

2019年05月16日

『ハムレット』

渋谷文化村のシアター・コクーンでの『ハムレット』公演。チケットは最初からとれないものと諦めていたのだが、悪い席だがチケットが取れたから見に行くかというお誘いがあった。もちろん自腹で。

こんなことをいうと、どれだけエリートかとか、エリート自慢かと侮蔑の声が聞こえてきそうで自分でも恥ずかしいのだが、シアター・コクーンに3階席があることを初めて知った。2階席の表記だが、中2階席があるので、実質的に3階席。シアター・コクーンでのはじめての3階席だった。その席に座るとプログラムを読めない暗さで、これは演出上の都合で暗くしてあるのかと思ったが、3階席のそのエリアは、最初から暗くて、プログラムを読める照明設備がない。

その3階席から下をのぞくと、私の視界には、男性は一人も見当たらなかった。私が観る限り、1階席には女性しかなかった(女性比率は、数日前に行った宝塚公演よりも大きい)。岡田将生ファンクラブで席を買い占めたのだろうか。これでは私のような一般観客は見るチャンスはほぼないだろう。

数日前の宝塚公演では、どの席がまわってくるのかわからなかったので、オペラグラスを用意したのだが、幸い、比較的前のほうの席だったので、オペラグラスは不要だったが、今回の3階席ではオペラグラスが大活躍。3階席からの時折オペラグラスでの観劇だったが、パフォーマンス自体、すぐれたもので、大いに感動した。

とりわけ岡田ハムレットの変貌ぶりには驚いた。最初、黒いコートをはじめとする黒ずくめの格好で登場する岡田ハムレットは、コートをぬぐと、両腕に血のにじんだ包帯をしている(オペラグラスで確認済み)。これはハムレットの自殺願望というか、自傷癖を明確にしめす標識となるのだが、イングランドに追放されるまで、この包帯はついてまわる。繰り返すとハムレットに自殺願望があるのは確かだが、実際に、腕を切ったことがわかるようなこうした包帯をまいた姿を私ははじめてみた。

ただ、おどろきはそれだけではない。ハムレットについては、トリックスターだとか、道化的あるいは道化そのものだとよく言われる。私はその解釈は正しいと思うのだが、今回の岡田ハムレットは、亡き父王の亡霊と出逢い、復讐を誓い、気が狂ったふりをして国王の様子をさぐると宣言してから、着ているものも、黒装束をやめて、派手な、いわゆる、うつけものの格好になるし、なにしろ顔面が、道化師、ピエロの化粧になるのだ(岡田君の美貌を完全に隠さないために部分メークだが、ピエロのメークであることはわかる)。ハムレット=道化説は、珍しいことではないが、ほんとうに道化のメークをするハムレットは日本では観たことがない。欧米では、よくあることだと思うのだが、日本ではハムレットに道化のメークはさせない。その意味で、この岡田ハムレットは、新鮮な驚きを日本の演劇シーンにもたらしたのではないかと思う。

『ハムレット』はシェイクスピアのなかで最長の芝居なので、台詞はどうしてもカットされるのだが、私が耳で判断する限り、河合祥一郎氏の翻訳の台詞は、とても聞きやすいし、理解しやすし、美しく、また余韻を残す、すぐれた台詞となっている。

後は沈黙といいいたいところがだ、ひとつだけ不満が。

あの舞台装置は、いただけない。3階席から見下ろしているので、舞台や舞台装置が小さく箱庭のようにみえてしまうので、こういう印象を受けたのかもしれないが、とにかく、その舞台は、北欧感は良く出ている。しかし、その舞台は、デンマークの、ユトランド半島の漁村の公民館というよりも、漁労民民の集会所といったおもむきで、宮中宮廷感はまったくない。キングだクイーンだといっても、地元の名士や有力者のあだ名が「王」とか「女王様」というだけで、国王や王妃や宮廷人が出入りする宮中というイメージはまったくないのだ。漁村民の集会所なのだ。

たしかに原作にはローカル感があふれている。ハムレットはドイツのウィッテンベルグ大学に留学中に呼び戻される。レアティーズは留学中のフランスのパリから呼び戻される。ふたりは用が済めば、一刻も早く留学先に戻りたい。ヨーロッパの辺境地域、野蛮な因習にまみれた前近代的国家デンマークよりも、ドイツやフランスの文化・社会の中心地が若者たちによって望ましくうつるのは当然である。またデンマークのエルシノア城には、旅役者たちが訪れる。彼らはそれとともに、首都(だが、どこの首都か)における少年劇団の人気と活動についての知らせをもってくる。田舎臭さ、そこから脱出したいという強い願い。たしかに原作のローカル色は、デンマークの漁村の漁労民の集会所とみまごうばかりの舞台装置に受け継がれている。

デンマークは、どこかが腐っていて、問題ありの北欧諸国の闘争の闇のなかにくるまれている前近代国家なのだが、しかしハムレット自身は、どちらかというと先進的都会的感性の持ち主で、そこに限りない魅力が感じられたのではないか。彼は田舎のプリンスというよりもシティ・ボーイに近い。首都の演劇事情にも詳しそうだ。原作においてハムレットの周囲には田舎国家デンマークにはない先進都市ロンドンの文化と社会のオーラがたちこめている。彼は田舎に閉じ込められ呻吟する田舎者のなかの都会人なのである。

だとしても、いや、だとしたら、いっそのこと地方に閉じ込められてもがく都会人ハムレットよりも、むしろ最初から都会人としての苦悩、復讐、迷い、覚悟と諦念、そうした情動のゆれうごきをじっくり追いかけられるよう、都会的設定にしてはどうだろうか。

とにかく今回の『ハムレット』、劇中劇の場面でも、漁村の集会所で、旅回りの劇団が演ずるという趣なのだから。宮廷での劇中劇をみたかったぞ。オフィーリアにしても、黒木華の熱演にもかかわらず、頭のおおかしくなった漁民の田舎娘でしかなかったのだから。なおローゼンクランツとギルデンスターンのうち、どちからが女性だったが、それに何か意味があったのかわからなかった。

付記

日本で公開されたのか、あるいは日本版のDVDなどが出ているのかわからないが、『ユトランドの王子』Prince of JutlandあるいはRoyal Deceitという英語のタイトルの映画があって(1994年、米・デンマーク合作映画)、これはシェイクスピアの『ハムレット』のもとになった北欧の伝説的物語を映画化したもの。とはいえ内容は『ハムレット』と基本的に同じなので、『ハムレット』の映画化と思われてもしかたがない。

主人公のアムレットをクリスチャン・ベールが演じている。ガートルード役の人物を演ずるのはヘレン・ミレン。敵役の叔父をガブリエル・バーンが演じ、オフィーリア役の人物を演ずるのはケイト・ベッキンセール。監督はガブリエル・アクセル。『バベットの晩餐』の監督である。

『ハムレット』伝説をもとにしたこの映画をみると、基本的設定なり要素は同じながら、アムレス/ハムレットは、逆境のなかで、みずから生きる道を切り開き、父親の復讐を遂げ、愛する女性と結ばれる。ハッピーエンディングをもたらす原動力となるのは、アムレス/ハムレットのトリックスター性であって、彼は狡猾なまでに機転が利き、敵を翻弄しつつ、自らの偽りつつ、所期の目的をとげる。そのためトリックスターとしての彼は悲劇の主人公ではない。それを悲劇の主人公とすべくシェイクスピアはどう改変したのか。またトリックススターとしての演技性はアムレスにあるのだが、シェイクスピアは欺瞞・演技性の主題をさらにメタドラマ的に発展させ、演劇的世界観あるいは宇宙観へと開いていったこともわかる。Prince of JutlandあるいはRoyal Deceitは『ハムレット』に興味があれば見ておいて損はない映画である。

posted by ohashi at 20:53| 演劇 | 更新情報をチェックする

2019年05月14日

『フォーリナー』

ジャッキー・チェン主演のアクション映画で北アイルランドを舞台にテロリストに娘を殺された男の復讐を描くという、まあ面白そうな映画だと思い、見てみることに。アイルランド問題について、どこまで踏み込むかという期待は、はぐらかされ、たんなる復讐物語になったのは残念だが、また「もったいない精神」が発揮され、登場人物すべてが最後には、きちんとその役割を果たす。最初から時折登場するジャーナリストも最後に無駄に登場しているのではないことがわかるように、すべての登場人物に解決がもたらされる。またアクションとともに政治的駆け引きと政治的解決にも重点が置かれ、意外に、サスペンス色が強いことも特徴かもしれない。

これが正直な感想だが、この映画、いろいろ問題をかかけえていて、決して眠ってはいなかったが、ちょっとボーとして見ているだけだったのかと反省しつつ、問題点を考えてみたい。

原作はスティーヴン・レザー『チャイナマン』で、新潮文庫に翻訳があるものの、現在は絶版か品切れで、けっこう高額な古書として売られている。AMAZONにおけるこの小説の紹介は、以下のとおり:

ロンドンで中華料理店を経営するニューエン・ニョク・ミンは、どう見ても風采の上がらない東洋人。だが最愛の家族を爆弾テロで失うと、彼は心に復讐を誓った。警察、新聞記者、代議士の元へ足を運び続け、遂に犯行の秘密を握る大物政治家にたどり着くと、ヴェトコンの優秀なゲリラ兵だった彼はあらゆる手を尽くして犯人を追い詰める。果して復讐は完遂するのか?著者渾身の代表作。

ここからわかるのは映画と小説では主人公の名前がちがっている。また主人公の前歴を、小説ではヴェトコンの優秀なゲリラ兵、映画では、アメリカ軍の特殊部隊の工作員としている。映画のほうの紹介文も掲載すると:

クァン・ノク・ミンはロンドンでチャイニーズレストランを経営していたが、ある日娘のファンの送迎中、爆発テロに巻き込まれ目の前で娘の命を奪われてしまう。

 その後、北アイルランド解放を謳う過激派組織が犯行声明を出す。クァンは、かつて過激派組織の活動家だったが現在は北アイルランド副首相となっているリーアム・ヘネシーとコンタクトを取り、犯人の名前を教えるようにリーアムに迫るが、リーアムは無関係を主張し、彼を帰してしまう。

 しかし、クァンはベトナム戦争時代、アメリカの特殊部隊に所属していた優秀な工作員だった。

 やがてクァンはリーアムを追跡するようになり、クァン、リーアムとその一派、過激派組織の三つ巴の戦いが始まっていく。

香港出身のジャッキー・チェンがベトナム人を演ずることの問題を指摘しているネット上のサイトがあった。ベトナムと中国は仲が悪い、と。はっきりとした記憶がないのだが、映画のなかでは中国系ベトナム人といっていたような(隣接国だから中国人とベトナム人とは交流がある)。クァン・ノク・ミンという主人公の名前は、中国式になっていてクァンが苗字というかファミリー・ネイム。ベトナム人にクァンという姓が多いか普通なのか不明。国民的対立とか差別などを問題にするなら、ジャッキー・チェンがベトナム人を演ずることよりも、「チャイナマン」という表現だろう。

映画のなかでジャッキー・チェンについては「チャイナマン」として言及されていたので、主人公は「中国人」というイメージが強いのかもしれないが、中国人は「チャイニーズ」で、「チャイナマン」というのは蔑称。映画のなかで犯人の名前を教えろと迫る頭のおかしい中高年の中国人であるジャッキー・チェンのことを、また政治家や警護人を困惑させる破壊工作の諜報人としてのジャッキー・チェンのことを、怒りにまかせて「チャイナマン」という蔑称しているのである。

ずいぶん前のことだが、イギリスにいたとき私は、「このあたりは、ああいうチャイナマンが多く歩いている」と若者たちが私の背後で私のことを話していたことを聞いた。そのときは、私は、その発言は聞こえなかったことにして、こちらは日本人だ、中国人とまちがえるなと心の中で思ったが、「チャイナマン」がアジア人全般に対する別称であることは知らなかった。つまり私が抗議して「私は中国人ではない、日本人だ」と指摘しても、その不良っぽい若者たちは「いや、おまえはチャイナマンだ」と言って、私をぼこぼこにしていたかもしれない。

映画の原作は『チャイナマン』。原作は読んでいないのだが、小説家が蔑称をタイトルにしたというよりも、作中で「チャイナマン」と蔑称で呼ばれている人間が、ところがきわめつけ有能な人間で大活躍するということなのだろう。映画では原作のタイトル「チャイナマン」を「フォーリナー(外国人)」に変えたとのことだが、「チャイナマン」と蔑称で呼ばれる中国系ベトナム人ジャッキー・チェンがアイルランド人やイギリス人を手玉にとるということを話として、「チャイナマン」のままでもいいようにも思うが、蔑称は、意図がどうであれ、使わないことを賢明な選択と考えたのだろう。

テロ組織のことを映画のなかではUDIと言っていた。しかし「英語版ではIRAと表記されるが、中国版字幕や日本版字幕では「UDI」という架空の表記になっている」と、日本版Wikipediaに書いてあって、驚いた。正直言って、UDIという言葉は、字幕で、そのアルファベットを見て理解してしまい、音声として聞き取れなかったのだが、最初から、UDIとは発音されていなかったのだろう。ただ、恥ずかしいことにIRAという発音も聞き取れなったのだが。

しかしどうだろう。シン・フェイン党という言葉は、映画のなかで出てくるのに、なぜIRAをUDIに変えるのか。またUDIという略号はUnilateral Declaration of Independence「一方的独立宣言」という意味だが、果たして、それを政治団体の名称に使うのは自然なのか不自然なのかよくわからない。それしてもなぜIRAという名称を使わなかったのか。UDIがIRAの代わりに使われている架空の団体名だろうとはわかるものの。

ジャッキー・チェンが最初のほうは娘とのやりとりのなかで、中高年男性の庶民としての顔の表情の一部として自然な笑顔をみせていたのだが、娘を、テロ行為の犠牲者として失ってからは、笑顔が消える。そして復讐の鬼と化していくのだが、西洋の観客はその無表情ぶりのなかに怒りと悲しみ、そして不気味な東洋人の姿をみることだろう。実際、いくらもとアメリカ軍の特殊部隊にいたからといって、その洞察と推理力と行動力は、不気味なほど卓越している。

先の原作の紹介文のなかで主人公は「警察、新聞記者、代議士の元へ足を運び続け、遂に犯行の秘密を握る大物政治家にたどり着く」とあるが、映画のなかでは時間の節約もあってか、この地道な調査と推測の積み重ねがなくて、通常なら、無関係に思われる副首相が犯人の名前を知っていて、しかもテロの首謀者だと思うのは、それは正しい推測なのだが、映画のなかでは、あまりにも唐突で超能力者かとみまがうほどである(むろん超能力者ではないが)。

また卓越した格闘技力も、森のなかで、自己訓練をして体をほぐそうとするなど、中高年の男性にとって戦闘はなまやさしいことではない点を強調しているが、ジャッキーが負けることはないと観客は予想するし、その予想は当然のことながら的中する。

別荘に身をひそめた副首相から情報を聞き出すべく森に潜んで破壊工作をするジャッキー・チェンの姿に、シルヴェスター・スタローンのランボー・シリーズの第一作『ファースト・ブラッド』を思い浮かべる観客もネット上にいたが、私も、その一人である。傷を自分で治すというのも、『ファースト・ブラッド』と似ている。しかしベトナムからの帰還兵として厄介者扱いされ無実の罪を着せられる人間としての怒りを爆発させるランボーとは異なり、復讐の鬼と化していても、最終的に、身をひそめて、威圧するだけのジャッキーには、不気味さが漂う。いや、ジャッキーは、テロの実行犯以外の警備員はては犬までも大怪我を負わせたりするが決して殺さない(犬も眠らせるだけである)。復讐の鬼と化しているが、テロに関係のない者は絶対に殺さないのである。その冷静さと心やさしさは、バランスがとれているというよりも不気味である。心優しい、人をいたずらに殺さない、そして絶対に笑わない復讐の鬼というのは。

とはいえ映画制作側の狙いとしては、そうした不気味さもあるかもしれないが、それこそ娘を助けるために奔走する、あるいは娘の復習をする、そうした父親のイメージを前面に押し出すことにあったのだろう。殺された娘のために復讐するという父親は、娘を助ける父親ともども、たとえばメル・ギブソンがよく演じていたが、まさに、そういう種類の映画を狙ったのだろう。

映画は中盤からジャッキー・チェンを中心にというよりも、副首相役のピアス・ブロスナンを中心に展開していく。そしてそこでサスペンス要素が強化され、権謀術策、裏切り、騙し合いの連鎖が生まれるなかで、ただ、森に身を潜めているだけのジャッキー・チェンは不気味な外国人だが、蚊帳の外に置かれた存在ともいえる。実際、彼に関心があるのは、テロの実行犯だけで、テロをめぐるさまざまな思惑や政治的配慮は、彼の知るところではない。最後に画像をネット上で全世界に拡散させることも、すでに事件は決着しているので、なにか無駄なことであるように思えてならない。要は、彼は空気を読めていないのであって、このことからも、事件の全体は、彼の周囲で、彼には関係なく展開してゆくのである。

したがって最後のテロリスとのアジトへの急襲の場面が象徴的である。警察がテロリストを一網打尽にすべく突入するとき、その間隙をぬってジャッキー・チェンがテロの実行犯を殺害し、すぐにその場を立ち去る。大がかりな急襲劇の、ごく一部の微細な挿話というのが彼の存在の在り方になってしまう。そこが、ある意味、残念といえなくもないが。その抑えた登場ぶりがよいと評価がたかまるかもしれない。

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2019年05月09日

『ビューティフル・ボーイ』

『ビューティフル・ボーイ』(Beautiful Boy)は、2018年公開のアメリカ合衆国の伝記映画。監督はフェリックス・ヴァン・フルーニンゲン。主演はスティーヴ・カレルとティモシー・シャラメ。


『君の名前で僕を呼んで』のティモシー・シャラメの美少年(いやもう美青年)ぶりを堪能しようと――実際、ジョン・レノンの歌のタイトルからとられている映画タイトルが暗示的なのだがーー軽い気持ちで観た映画だったが、予想を裏切る展開で、大きな感銘をうけた一作となった。つまり薬物中毒の息子を父親が必死になって助け、更生させようとする話かと思ったが、いや、実際、そういう映画の内容なのだが、紆余曲折の果てに、また苦悩と試練のはてに父親が息子を助ける展開を予想したが、いや、実際、そういう展開なのだが、その終わり方は、予想をまったく裏切るものとなった。つまり、親は子供を絶対に救えないというのが、映画のメッセージだったのだから。


親が子供を救う話かと思ったら、親は子供を救えないという話だったのだ。それは薬物依存症の怖さでもある。ひとたび薬物依存症になると、抜け出すのは至難の業である。薬物使用で逮捕されたりする薬物依存症の芸能人をテレビなどで非難するコメンテイターがいるが、往々にしてそうしたコメンテイターが煙草をやめていない。酒やたばこすら、それをやめることができない人間が、薬物依存症を軽々しく非難するなと言ってやりたい。


薬物依存に比べたらタバコなどものの数ではないが、それでもタバコをやめることができない人間は多し、私も20世紀にはタバコを吸っていた。しかも私がタバコをやめたのは、自分の意志の力ではない。自分で、このくらいの本数を毎日吸っているだけなので、タバコはいつでも止められると思っていたときには、すでにタバコをやめられない体になっていた。そして自分の意志で禁煙しようとしたが、何度も失敗した。自分の意志ではやめられなかった。


この映画では、息子のニックは、何度施設に入っても依存症を抜け出せないまま薬物に手をだしている。何度も。最終的に彼が薬物依存から縁を切ろうとしたのは、ガールフレンドが過剰投与で死にそうになったり、みずからも過剰投与で生死の境をさまよったからに他ならない。ガールフレンドも彼自身も助かるのだが、これを機にふたりは、薬物と縁を切ることになる。いいかえると彼らが薬物依存から抜け出せたのは、意志の力というよりも、生死をさまよったから、また生死にかかわる物語が確実に未来に向けて展開していることを自覚したからともいえる。


私が禁煙に成功したのも、自分の意志の力ではない。もちろん生死をさまようような体験をしたわけではないが、生死にかかわる物語の存在に自覚的になったからでもある。死にかかわる物語は、人をして、そこからの脱出を志向させるのである。


ということは薬物依存であれ何であれ依存症の場合、本人の強い自覚なくして脱却はありえない。これに対して親は、いくら頑張っても、いくら子供のためを思って奔走しても、無力である。いや、無力どころから、親が頑張って救おうとすればするほど、子供の薬物依存からの脱却は遅れるのである。これは、ある意味、衝撃的な洞察であった。


親は子供を救おうとする。他人が見捨てても親だけは子供を見捨てない。そこを子供はねらう。親に甘えることによって依存症から立ち直れなくなる――必ず親が助けてくれるという甘えが依存症からの脱却を阻むのだ。薬物依存症依存症であれ、依存症と名の付くものは、親への依存症でもある(親がいなければ、話はべつだが)。そしてこの映画の強烈なメッセージがこれだった。すなわち「親は子供を救えない」。


薬物依存症というのは簡単にはなおらない。私の禁煙努力と同じで、なんどやっても失敗する。そしてそんな子供をかかえる親は、親のほうがおかしくなってしまうこともあるようで、親に対する集団セラピーも行われていることが、今回の映画をみてわかった。そこでのスローガンは、「親が原因ではない」「親は子供をコントロールできない」「親は子供を救えない」であった。


結局、親は子供を救えないことを痛感し、子供を見捨てたとき、そのときはじめて子供に自覚が生まれ、子供が自分から施設に入って更生を試みる。結果的には、それが子供を救うことになる。このことをこの映画は深く納得させるのに成功している。


最近のMXテレビの『5時に夢中』のなかで、引きこもりの子供をかかえる親のことを扱っていたが、そのとき、コメンテイターのマツコ・デラックスは、親は子供を見捨てたほうがいい。もう子供に翻弄されるのではなく、子供を見捨てないと、いつまでたっても子供は自立できないし、親の人生も引きこもりの子供によって台無しになると語っていた。だから親は子供を見捨てるべきだ、と。同じことは映画のなかでの親への集団セラピーでも薬物依存症で最後には過剰摂取で死んだ子供をもつ親の告白のなかで語られていた。そのなかで母親は、薬物依存の子供を見捨てたら、子供は死ぬだろうが、見捨てなくても、子供は死んだも同然だった。ほんとうに死んで、正直いって、安心したくらいだ、と。


『5時に夢中』の中でマツコ・デラックスのコメントは、必ずしも、支持を得られてはいなかったが、言っていることは全く正しいと、この映画を見た後なら、自信をもって言えるし、その主張に全面的に賛同できる。いつか親が助けてくれるという甘えがあるかぎり、子供は確実に死へと近づく。見捨てることが、子供を性へと回帰させるのである。


posted by ohashi at 21:53| 映画 | 更新情報をチェックする