原題は映画スターはリヴァプールでは死ない。Filmstars don't die in Liverpool。
この映画のなかで、往年の映画スターグロリア・グレアム/アネット・ベニングは、恋人となったピーター/ジェイミー・ベルに、自分は、ロイヤル・シェイクスピア・カンパニー(RSC)の演劇活動に参加して、シェイクスピアのジュリエットを演じてみたいという。もしこれがフィクションであるなら、彼女にもジュリエットが可能なパラレルワールドがあるということで、あきらめもつくが、彼女が、私たちの世界というか時空間にかつて実在したのであれば、なにをとぼけたことを言っているのだ、わがままもいい加減にしろといいたくなる。
つまり私たちの世界は、50歳代の女性が、ジュリエットを演ずることができる世界ではなくなっている。あるいは彼女はみずからが往年の映画スターであった40年代50年代の映画・舞台慣習のなかに生きていて、70年代80年代の今に生きていないということだろう。たとえば1936年のハリウッド映画『ロミオとジュリエット』(ジョージ・キューカー監督)では、ロミオ役レスリー・ハワードは43歳、ジュリエット役ノーマン・シアラー(Norman Shearer)は34歳であって、たとえばバルコニー・シーンをみていると、性的欲求不満をかかえた主婦が、バルコニー下を通りかかった、近所のコスプレ変態中年に話しかけているというふうにみえる。この映画の世界というか、こういう映画が作られ続けている世界なら、50歳代のグロリア・グレアムがジュリエットを演ずるような映画なり舞台があってもおかしくない。彼女がジュリエットを演ずることを望んでも、おかしくない。実は映画は『ガラスの動物園』に出演する彼女が楽屋で準備しているところからはじまる。最初は、まだ状況がのみこめない私たちとしては、彼女は『ガラスの動物園』の母親役かと思うのだが、ひょっとしたら娘役だったのかもしれないと思うと唖然とする。
ただ、それはともかくフランコ・ゼッフィレリ監督の映画『ロミオとジュリエット』は、ロミオ役のレナード・ホワイティングとジュリエット役のオリヴィア・ハッセーは、当時、15歳か16歳(二人の年齢差は1歳)であり、原作の設定に忠実だが、それまでのロミ・ジュリ映画においては圧倒的に若い、このカップルが、映画の世界的ヒットもあって、以後の『ロミオとジュリエット』映画を変えた。舞台では10代のカップルの舞台は無理だとしても、中年俳優のロミオとジュリエットの息の根をとめた。その世界に、この映画のグロリアは生きていないのである。
いや、そもそも40・50年代の映画スターが、簡単にRSCの舞台に立てるわけがない。RSCのシェイクスピアの舞台とハリウッドのエンターテインメント映画とでは、格が違うというよりも、世界が違う。逆のこともいえてRSCで人気を博している俳優が、望んでも簡単にハリウッド映画に出演できるわけではない。だから簡単に格が違うということではない。一昔前では、アメリカなどでは映画俳優はテレビドラマに出ることはなく、テレビドラマ俳優が映画に出ることはなかった。日本でも一昔前まで映画俳優がテレビドラマやテレビ番組に出演できなかった。テレビと映画、映画とRSCの舞台、それぞれ世界が違うのである。だから、好意的にとれば、彼女は、境界とか領域とか格式とかジャンルを気にかけない、また空気も読まない、忖度もしない、越境者であり、壁をものともしない、まさにジュリエットなのである。彼女がジュリエットを演じたいという、わがまますぎる、空気読まなさすぎる、非常識な欲求は、彼女がジュリエットであることの信号だということができる。
だから彼女がジュリエットを演じたいというのは――たとえ、やはり、どうみても、わがままな欲望だとしても――、映画と舞台、アメリカとイギリス、ニューヨークとリヴァプール、セレブと庶民、その壁というか境界を超える勇気あるいは無頓着なまでの大胆さ、そして心の柔軟さのあらわれでもあろう。彼女がこれまで義理の息子と結婚したというのも、スキャンダルというよりも、彼女の無神経ぶりというよりも、彼女の善き無頓着ぶりの証しなのかもしれない。
50歳代のジュリエット。ジュリエットが原作のとおり14歳になる直前の13歳だったのなら、それは恐れを知らぬ、世間知らずの純情さによって、相手が誰であろうと、自分の欲望に忠実に生きることになろう。これが50歳代のジュリエットなら、彼女は、だたのわがまま女、周囲をまきこむ迷惑女にしかすぎないだろう。強いていえば、そういう彼女は、女王様、ディーヴァ、往年のエゴむき出しの往年の名女優。結局、彼女は年取ったジュリエットだったのである。それが、この映画から得た知見だった。
この映画の背後にシェイクスピアの『ロミオとジュリエット』があるとすれば、もうひとつの背景はテネシー・ウィリアムズの戯曲だろう。
冒頭の『ガラスの動物園』は、ウィリアムズ劇との関連を暗示させるものとなっている。またアパートに入れてもらえないピーター/ジェイミー・ベルが、ドアの前で「ステラ!」と叫ぶのだが、いったいステラとは誰かといぶかるまもなく、グロリアがドアを開ける。そしてその時のセリフによって(正確にどんなセリフだったか忘れた)が、ピーターが、『欲望という名の電車』のなかで、夜中に家の前の路上で「ステラ」と妻の名前を叫ぶマーロン・ブランドのふりをしていたことがわかる。ステラの姉がブランチ。そしてここからわかるのは、グロリアが、『欲望という名の電車』のステラではなく、ブランチだという暗示である。
彼女はアメリカではまさに女王様だったが。スキャンダルにまみれていた。それがイングランドの地方都市リヴァプールにやってくる。病身で。また、悪意からではなくとも身勝手な要求で周囲を困らせる彼女は、まさに女王様なのである。そう考えると、映画の最後、彼女がリヴァプールからニューヨークに帰る場面。彼女が逗留していたピーターの家に迎えが来る。そして彼女が運ばれてタクシーに乗って去る。あの別れは、まさに『欲望という名の電車』の最後、あのブランチが「他人の親切」によって生きてきたと語る、あの最後の場面をほうふつとさせるものがある。
越境と帰還。二つの世界の錯綜、融合、離反。その典型的例証が、映画と舞台の交錯であろう。この作品ではピーターが、自分のリヴァプールの実家で、がんで死にかかっているグロリアの世話をする今の時間に、過去におけるグロリアとの出会いから、現在にいたるまでの幸福な、あるいは悲しい出来事の想起が入り込む。その想起の仕方が、ピーターの場合、たとえばドアをあけると、その向こうに、カリフォルニアの海岸が広がり、そこですごしたグロリアとの出来事が再現されるというように、舞台における場面展開によって、あるいは劇中劇のように、回想シーンがあらわれる。回想シーンから、現在に戻ってくるのも、きわめて演劇的である。その意味で、最初は、これまでにない凝った回想シーンへの転換かと思った方法も、舞台のテイストというか舞台的転換の再現であるとわかって、ある意味、納得した。いっぽうグロリアの回想シーンは、フラッシュバック、まさに映画的回想シーンである。映画と舞台、ふたつの世界が並置されている。
人物レヴェルから、社会・文化レヴェル、さらには表象レヴェル、媒体レヴェルへと遍在する二つの世界の交錯と交流こそ、この映画が組織する稀有な視覚芸術的一瞬といえるかもしれない。つづく