2019年04月28日

『リヴァプール 最後の恋』1

原題は映画スターはリヴァプールでは死ない。Filmstars don't die in Liverpool


この映画のなかで、往年の映画スターグロリア・グレアム/アネット・ベニングは、恋人となったピーター/ジェイミー・ベルに、自分は、ロイヤル・シェイクスピア・カンパニー(RSC)の演劇活動に参加して、シェイクスピアのジュリエットを演じてみたいという。もしこれがフィクションであるなら、彼女にもジュリエットが可能なパラレルワールドがあるということで、あきらめもつくが、彼女が、私たちの世界というか時空間にかつて実在したのであれば、なにをとぼけたことを言っているのだ、わがままもいい加減にしろといいたくなる。


つまり私たちの世界は、50歳代の女性が、ジュリエットを演ずることができる世界ではなくなっている。あるいは彼女はみずからが往年の映画スターであった40年代50年代の映画・舞台慣習のなかに生きていて、70年代80年代の今に生きていないということだろう。たとえば1936年のハリウッド映画『ロミオとジュリエット』(ジョージ・キューカー監督)では、ロミオ役レスリー・ハワードは43歳、ジュリエット役ノーマン・シアラー(Norman Shearer)は34歳であって、たとえばバルコニー・シーンをみていると、性的欲求不満をかかえた主婦が、バルコニー下を通りかかった、近所のコスプレ変態中年に話しかけているというふうにみえる。この映画の世界というか、こういう映画が作られ続けている世界なら、50歳代のグロリア・グレアムがジュリエットを演ずるような映画なり舞台があってもおかしくない。彼女がジュリエットを演ずることを望んでも、おかしくない。実は映画は『ガラスの動物園』に出演する彼女が楽屋で準備しているところからはじまる。最初は、まだ状況がのみこめない私たちとしては、彼女は『ガラスの動物園』の母親役かと思うのだが、ひょっとしたら娘役だったのかもしれないと思うと唖然とする。


ただ、それはともかくフランコ・ゼッフィレリ監督の映画『ロミオとジュリエット』は、ロミオ役のレナード・ホワイティングとジュリエット役のオリヴィア・ハッセーは、当時、15歳か16歳(二人の年齢差は1歳)であり、原作の設定に忠実だが、それまでのロミ・ジュリ映画においては圧倒的に若い、このカップルが、映画の世界的ヒットもあって、以後の『ロミオとジュリエット』映画を変えた。舞台では10代のカップルの舞台は無理だとしても、中年俳優のロミオとジュリエットの息の根をとめた。その世界に、この映画のグロリアは生きていないのである。


いや、そもそも4050年代の映画スターが、簡単にRSCの舞台に立てるわけがない。RSCのシェイクスピアの舞台とハリウッドのエンターテインメント映画とでは、格が違うというよりも、世界が違う。逆のこともいえてRSCで人気を博している俳優が、望んでも簡単にハリウッド映画に出演できるわけではない。だから簡単に格が違うということではない。一昔前では、アメリカなどでは映画俳優はテレビドラマに出ることはなく、テレビドラマ俳優が映画に出ることはなかった。日本でも一昔前まで映画俳優がテレビドラマやテレビ番組に出演できなかった。テレビと映画、映画とRSCの舞台、それぞれ世界が違うのである。だから、好意的にとれば、彼女は、境界とか領域とか格式とかジャンルを気にかけない、また空気も読まない、忖度もしない、越境者であり、壁をものともしない、まさにジュリエットなのである。彼女がジュリエットを演じたいという、わがまますぎる、空気読まなさすぎる、非常識な欲求は、彼女がジュリエットであることの信号だということができる。


だから彼女がジュリエットを演じたいというのは――たとえ、やはり、どうみても、わがままな欲望だとしても――、映画と舞台、アメリカとイギリス、ニューヨークとリヴァプール、セレブと庶民、その壁というか境界を超える勇気あるいは無頓着なまでの大胆さ、そして心の柔軟さのあらわれでもあろう。彼女がこれまで義理の息子と結婚したというのも、スキャンダルというよりも、彼女の無神経ぶりというよりも、彼女の善き無頓着ぶりの証しなのかもしれない。


50歳代のジュリエット。ジュリエットが原作のとおり14歳になる直前の13歳だったのなら、それは恐れを知らぬ、世間知らずの純情さによって、相手が誰であろうと、自分の欲望に忠実に生きることになろう。これが50歳代のジュリエットなら、彼女は、だたのわがまま女、周囲をまきこむ迷惑女にしかすぎないだろう。強いていえば、そういう彼女は、女王様、ディーヴァ、往年のエゴむき出しの往年の名女優。結局、彼女は年取ったジュリエットだったのである。それが、この映画から得た知見だった。


この映画の背後にシェイクスピアの『ロミオとジュリエット』があるとすれば、もうひとつの背景はテネシー・ウィリアムズの戯曲だろう。


冒頭の『ガラスの動物園』は、ウィリアムズ劇との関連を暗示させるものとなっている。またアパートに入れてもらえないピーター/ジェイミー・ベルが、ドアの前で「ステラ!」と叫ぶのだが、いったいステラとは誰かといぶかるまもなく、グロリアがドアを開ける。そしてその時のセリフによって(正確にどんなセリフだったか忘れた)が、ピーターが、『欲望という名の電車』のなかで、夜中に家の前の路上で「ステラ」と妻の名前を叫ぶマーロン・ブランドのふりをしていたことがわかる。ステラの姉がブランチ。そしてここからわかるのは、グロリアが、『欲望という名の電車』のステラではなく、ブランチだという暗示である。


彼女はアメリカではまさに女王様だったが。スキャンダルにまみれていた。それがイングランドの地方都市リヴァプールにやってくる。病身で。また、悪意からではなくとも身勝手な要求で周囲を困らせる彼女は、まさに女王様なのである。そう考えると、映画の最後、彼女がリヴァプールからニューヨークに帰る場面。彼女が逗留していたピーターの家に迎えが来る。そして彼女が運ばれてタクシーに乗って去る。あの別れは、まさに『欲望という名の電車』の最後、あのブランチが「他人の親切」によって生きてきたと語る、あの最後の場面をほうふつとさせるものがある。


越境と帰還。二つの世界の錯綜、融合、離反。その典型的例証が、映画と舞台の交錯であろう。この作品ではピーターが、自分のリヴァプールの実家で、がんで死にかかっているグロリアの世話をする今の時間に、過去におけるグロリアとの出会いから、現在にいたるまでの幸福な、あるいは悲しい出来事の想起が入り込む。その想起の仕方が、ピーターの場合、たとえばドアをあけると、その向こうに、カリフォルニアの海岸が広がり、そこですごしたグロリアとの出来事が再現されるというように、舞台における場面展開によって、あるいは劇中劇のように、回想シーンがあらわれる。回想シーンから、現在に戻ってくるのも、きわめて演劇的である。その意味で、最初は、これまでにない凝った回想シーンへの転換かと思った方法も、舞台のテイストというか舞台的転換の再現であるとわかって、ある意味、納得した。いっぽうグロリアの回想シーンは、フラッシュバック、まさに映画的回想シーンである。映画と舞台、ふたつの世界が並置されている。


人物レヴェルから、社会・文化レヴェル、さらには表象レヴェル、媒体レヴェルへと遍在する二つの世界の交錯と交流こそ、この映画が組織する稀有な視覚芸術的一瞬といえるかもしれない。つづく


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2019年04月27日

『ザ・プレイス』

『ザ・プレイス 運命の交差点』The Place 2017、監督パオロ・ジェノベーゼ)については、ネット上に、この映画の紹介文があるので、そのまま引用すると:

舞台は、とあるダイナー。 店の一席にはいつもある男が座っている。 パリっとしないスーツに、無精ひげの一見、平凡な男。

細かに何かが書き込まれた分厚い冊子を持ち、いつも誰かを待っている。

そんな彼には噂があった。

どんな望みでも、彼の言うとおりのタスク(課題)を行えば、叶えることができる、と。

彼の言うとおりに実行するかしないかは、依頼者の自由。 望みをかなえる術と引きかえるのはただ、その行動の詳細を語ることだけ。 彼は何者で、なぜそれは叶うのかは、誰も知らない。

望みを叶えるために人はどこまでできるのか。

渇望する人間心理を大胆に描いたサイエンス・フィクションドラマ。

監督:ジェシカ・ランドー

脚本:スティーブン・コーエン、ノエル・ブライト他 原題:The Booth at the End

出演:ザンダー・バークレイ(謎の男)ほか


あっ、これは2011年のテレビドラマ『The Booth 欲望を喰う男』の紹介(それにしてもサイエンス・フィクション・ドラマとは? 嘘をつくな。ファンタジー・ドラマもしくは不条理ドラマくらいの分類か)。


気を取り直して『ザプレイス』の紹介文を探すと、以下のようなものがあった:

カフェ“ザ・プレイス”の奥のテーブルに、昼も夜も座っている謎の男(ヴァレリオ・マスタンドレア)。彼の元には、人生に迷ったものたちが訪ねてくる。彼らの願いや欲望を叶えるためには、男が告げる行為を行わなければならない。アルツハイマーの夫を救いたい老婦人マルチェラ(ジュリア・ラッツァリーニ)には「人が多く集まる場所に爆弾を仕掛けろ」、雑誌のスナップ写真の女性と関係を持ちたいと話す男性オドアクレ(ロッコ・パパレオ)には「ある少女を守れ」など。その他、神の存在を感じたい修道女キアラ(アルバ・ロルヴァケル)は妊娠を命じられ、視力を取り戻したい盲目の青年フルヴィオ(アレッサンドロ・ボルギ)は女を犯せと告げられる。無理難題を与えられた9人の男女は告げられた行為を達成しようとするものの、その行為が他人の運命を大きく左右することに気づき、迷い、葛藤する。そして、相談者たちの運命は次第に交差していく。彼らの選んだ道とは? そして、謎の男自身の結末は……

あるいはこんな紹介も

『おとなの事情』のパオロ・ジェノベーゼ監督が、アメリカの大ヒットドラマ「The Booth 欲望を喰う男」をカフェに集う人々のワンシチュエーションドラマとしてリメイクしたイタリア映画。カフェ「ザ・プレイス」の奥のテーブルには昼も夜も居続ける謎の男。男のもとには人生に迷いがある人たちがたえず訪れる。彼らは願いや願望を男に訴え、男はそれをかなえる条件として、さまざまな任務を与える。がんの息子を救いたい父親は見ず知らずの少女の殺害、アルツハイマーの夫を救いたい老婦人は爆弾を仕掛けることを男から命じられた。願望実現の代償として、男が提示する課題はいずれも他人の運命を巻き込む行為だった。願いをかなえるため、男から無理難題を与えられる人々の運命が次第に交差していく。謎の男役を演じる「甘き人生」のバレリオ・マスタンドレをはじめ、アルバ・ロルバケル、マルコ・ジャリーニらイタリア映画界のスター陣が顔をそろえる。「イタリア映画祭2018」では「ザ・プレイス」のタイトルで上映。

「アメリカの大ヒットドラマ「The Booth 欲望を喰う男」」のリメイク。とはいえほんとうに大ヒット・ドラマなのだろうか。いまではネット上の動画としてもみることができるこれは、130分で、1シーズン5話で、2シーズンまで続いたのだが、この内容と30分ドラマで2シーズンのみというドラマのどこが大ヒットドラマなのだろうか。


また正直いって映画館では最初のほうで眠ってしまったが、眠ったから筋がわからなくなったとか、眠らなかったら、よく理解できたということはない。幻想的・形而上的・不条理ドラマであって、たとえ舞台となっているのが、ありふれた庶民的なダイナー/カフェであって、登場人物もみんな庶民とはいえ、リアリズム映画ではない。そもそも一日中、ダイナー/カフェにいて、座りっぱなしなら、エコノミークラス症候群ではないが血栓ができて突然死してもおかしくない状況ではないか。この謎の男は、神か悪魔である。またダイナーのウェイトレスは、女神ではないかという意見がネット上にあったが、しっかり映画を観ろといってやりたい。彼女の名前はアンジェラ。つまり彼女は天使でしょ。


英語版のWikipediaには、ファウスト的契約というフレーズが見えたが、映画/テレビドラマは、自分の願いをかなえてもらうかわりに、この男から課題(難題に近い)を与えられる人々の困惑と行動を描く(ただし舞台はダイナー/カフェなので、実際に人々がどう行動したかは言葉による報告を通して知るしかないし、報告は真実の報告ではないこともある)。


悪魔との契約という設定と、願望をかなえてもらいに来る人達の生活や人生がからみあうことの興味(これが映画版の、ドラマ版との違い)によって映画は観客をひっぱっていくが、同時に、私たちが自分の願望をかなえようとするときにとる行動について考えさせられた。ファウストのようにメフィストフェレスと契約をむすぶ(願望充足と引き換えに悪魔に魂を売るのがファウストの契約だった)ことは、特殊な例ではなく、むしろ日常的ではないかと思いいたることなった。この発見を促してくれたことで、この映画は私にとって貴重なものとなった


何か願望をかなえたいと思うとき、そのために努力をする。これはあたりまえだが、不可能な願望、あるいはせっぱつまった願望で努力している暇がないとき、私たちはどうするか。自力ではどうすることもできないとき、私たちは神様にすがる。神様でなくても、悪魔にすがるかもしれないが、いずれにせよ他力本願的発想をする(そもそも宗教とは自力本願ではなく他力本願を原則とする)。


たとえばグレアム・グリーンの小説『情事の終わり』では、第二次大戦中に不倫相手の男が空襲によって重傷を負う。生死の境をさまよっている男に対して愛人になっている女性は、神様に祈る。もしこの男を助けてくれるなら、もうこの男との不倫関係を清算して、二度と会うこともない、と。すると相手の男は奇跡的に一命をとりとめる。だが、彼女はその祈りに責任をもつため、二度と、男と会うことはない――男の側の困惑をよそに。


この場合、願望を達成するのに、自分の力ではどうすることもできない(努力できない)。また努力する時間もない。一刻を争うことである。そして一番重要なこととして、願望をかなえてくれた見返りに自己犠牲を行う。

Give and takeあるいはTake and giveの思想といってもいいが、何かにすがる、ご利益を得るというとき、私たちは、自己犠牲によって、その対価を支払う、あるいはそうした対価を支払わねばと思うのだ。自己犠牲というのは、みずからすすんで、嫌なことをする、あるいは自分にとって大切なものを失う、あるいは差し出すのである。映画では、これは契約行為だと語られる。願望をかなえようとするとき、それが切実で不可能な願望であるとき、私たちは神様と契約を結ぶのである。

ただ、この映画では、願望をかなえてもらうためには、自己犠牲ではなく犯罪を行えと迫られる。指定された犯罪を行わない限り願望はかなわない。これが契約の内容である。自己犠牲と犯罪とでは話が違う。片方では苦しむのは自分自身であって、他人に危害は加えない。ところが犯罪は他人を傷つける、殺害する。しかし両者は、単純な二項対立にはない。犯罪は、むしろ自己犠牲の延長線上にあるのではないか。自己犠牲は自分にとって嫌なことをする。極悪非道な犯罪者でないかぎり、他人を傷つける犯罪行為を好きでするものはいない。みずから嫌悪すること、みずから望まないこと、自分が苦しむことをあえてすることと犯罪行為が重なるとすれば、犯罪は自己犠牲の一形態である。

だが自己犠牲を求めるのが神だとしたら、犯罪行為を求めるのは悪魔といえるのだが、両者の間に明確に線がひけるわけではない。

いやさらにいうと、映画のなかの謎の男が神であるか天使であるかはどうでもいい。つまり願望をかなえたいとき、その見返りとして自己犠牲が必要だと考える人間の発想、あるいは自己犠牲が大きければ大きいほど、願望達成に近づくと考える人間の発想、その受け皿として人格化された課題提供者が生み出されるのである。願望達成(take)には、自己犠牲(give

が必要と考える私たちは、自己犠牲の課題をあたえてくれる存在がいないと安心できない、あるいは納得できないのである。しかも自己犠牲が大きければ大きいほど、願望達成に近づくとするなら、困難な、大きな自己犠牲を課する存在が必要となる。それは私たちに悪事を犯罪をするように要求するだろう。犯罪者ではない私たちにとって犯罪は最高度の自己犠牲であり、そうした自己犠牲を要求する存在は、愛を説く神ではなく悪を説く悪魔でしかありえない。

こう考えると、神や悪魔が人間をつくったり人間を支配しているというよりも、この願望と自己犠牲の論理のなかで、神や悪魔が要請されて登場する、あるいは創造されるとみることができる。また宗教観あるいは宗教思想の根底には、この願望と自己犠牲の論理があること、逆に言えば願望と自己犠牲の論理によって、宗教のすべてが説明できるのではないかと思えてくる。

願望と自己犠牲のダイナミズム。これは、ある意味、無敵である。いいかたをかえれば永久機関のように自足的で自己充足的で終わりがない。映画のなかで、課題を出す謎の男は、依頼者の願望をかなえているのか、その能力があるのか疑問である。むしろ彼は、何もしていない。そして課題を果たしたのに、願望が実現しないと文句をいう依頼者に対しては、実は、ほんとうに課題を果たしていないのではないかと問い詰めることによって、相手を納得させ、課題遂行の無間地獄へと呪縛するのである。まあ、詐欺師と同じであり、ご利益を約束しながら、それが与えられないのは、受け取る側に問題があるとされる。そのため課題を正しくはたしていないか、さらなる過酷な課題を必要とするかのいずれかとなる。

このロジックには終わりはない。自己犠牲には終わりがないからであり、願望が達成されないのは、そもそもそんな願望など達成できないのであるからと判断されるのではなく、自己犠牲が足らないからと、自己責任の連鎖にからめとられてしまうのである。お百度参りがだめなら千度参りがあるということになる。これだけ自己犠牲を払ったのに願望が実現できないというのは、どこかおかしいのではなく、自己犠牲が不十分であるからで、自己犠牲が願望の達成度の物差しとなるのではなく、願望が達成しない限り自己犠牲が不十分なものでありつづけるのである。この果てはどうなるのか。自己犠牲の果てに自ら破滅してしまうか、あるいは自己犠牲の極限としての犯罪によって、世界が破滅するかのいずれかであろう。いずれであっても、これは地獄というほかはない。私たちが目覚めるまでは。この映画に即していえば、この謎の男は、私たちひとりひとりがつくりあげている妄想上の存在であり、実体はないのだと悟るまでは。

映画の終わりは、開店前のダイナー/カフェで、テーブルの灰皿のなかで紙切れが燃えている。これは願望が達成されたときに、謎の男がする儀式のようなもので、願望とか課題の書いてあるメモ書きも燃やすのである。だが、男の姿はいない。ただメモ書きだけが灰皿のなかで燃えている。なにかの課題がはたされ、願望が実現したのである。それは、たとえばこの映画が終わりを迎えたということかもしれない。このダイナー/カフェにやってくる人びとの願望がかなったのかもしれない。ただしそれは、この謎の男に頼らなくとも問題は解決したか、あるいは頼っているかぎり、問題は解決しないと悟ったからであろう。

この映画のもう一つの意味は、この謎の男が何もしていないことから生まれる。実は、彼に相談にくる人たちの人生は、なるようにしかならないのだが、そのとき願望が実現できなくても、責任は自分にあると(自己犠牲がたらないと)自分を責めるだけであり、願望が実現すれば、実な何もしていないこの男のおかげであるとして、死ぬまでこの男の精神的支配下に自らを置くか、大きな自己犠牲による深い喪失感に死ぬまでさいなまれるのである。いずれにせよ、その人とは神と悪魔に死ぬまで従属することになる――目が覚めない限りは、


たとえ話を。私が大学の教員であり、裏口入学をさせてやると前金をとるとする。ただし、あまり成績が悪いと入学できないので、入学できなかったら、お金を全額返すと約束する。そうして私は、なにもしない。あっせんする受験生が不合格ならお金を返す。合格すれば、すべて私の工作のおかげだと恩着せがましく、お金を返さない。追加のお金を要求するかもしれない。その受験生はひょっとすると優秀な成績で合格したかもしれないのだが、そんなことは関係ない。合格点に少し達していないところ、私が奔走して合格にしたと、その受験生に思い込ませ、死ぬまで、自分の無能さを心に刻ませ、私の支配下におくかもしれない。私は神か悪魔、あるいは傲慢な詐欺師である。


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2019年04月26日

『ある少年の告白』

『ある少年の告白』(Boy Erased 2018)ジョエル・エドガートン監督。ルーカス・ヘッジズ主演、他にニコール・キッドマン、ラッセル・クロウら。


ルーカス・ヘッジズは、他にも主演作の公開が控えていて(映画館での予告編でわかる)、いまや売れっ子のようだが、彼だけでなく、ジョン・アルウィンの出演映画は、今年で3本目。『女王陛下のお気に入り』『ふたりの女王』そして、この『ある少年の告白』。いまや、彼もまた売れっ子のようだし、この映画の役どころは、今年観た前二作に比べると、格段にいい。彼の魅力が全開といったところか。


映画は、ガラルド・コンリー(Garrard Conley)【「ガラルド」と映画会社は表記しているのだが、これが正しいかどうか不明】の回想録に基づく映画で、19歳の時に、参加させられた同性愛矯正プログラムでの体験の部分がメインとなる。


驚いたのは、同性愛を矯正するというのは、ずいぶん昔におこなわれていて、電気ショックを与えるなど、人道的にも、医療的にも問題のある処置が行われていたのだが、いまや同性愛は病気ではなくなった(つまり同性愛は「好み」の問題、性的嗜好問題だから――あなたが肉好きで野菜嫌いだとしても、それは病気ではないということだ)。かつての非人道的殺人的治療への反省もあり、さらには電気ショックを与えても結局、同性愛はなおらないということもあって、こういう治療はなくなったものと思っていた。


ところがこの映画では、治療プログラムが存在している。いつの話かと思ったら21世紀のアメリカでの話である。これで衝撃をうけた。まだこんなことをしているのか、あるいは、こんなことが復活してきたのか。この映画の告発は、こういう治療プログラムは、「治療」にも「プログラム」とも呼べない、無資格の素人がおこなう、私的矯正合宿で、洗脳あるいは拷問に近い、人権侵害行為であることを白日の下にさらすものだ。そもそも同性愛は病気ではないのだから、病気を治す医師や治療者は存在しない。だから治療プログラムでもない。そしてこのことが告発されても、治療プログラムを容認している州がまだあるということの驚きである。それは拷問とか人権侵害を容認するようなものである。


【ちなみにヨルゴス・ランティモス監督『ロブスター』(The Lobster, 2015)は、パートナーがいない、あるいはいなくなった男女は、一定期間内にパートナーとなる異性と結びつくことができなければ、動物に変えられるという設定の、近位未来SFは、あまりの荒唐無稽な設定に、ただの独身者いじり以外の意味を見出せなかったが、しかし、同性愛矯正施設の存在を前提とした、かなりひねった風刺的寓意があると、いまではみることができよう。】


そもそも同性愛を、アルコール依存症とか薬物依存症と同じ犯罪的悪習と考え、集団で治療するというのはまちがっている。同性愛は、アルコール依存症ではないからだ。それを同一視し、アルコール依存症の治療セラピーと同じ手法を使って、同性愛的欲望を捨てさせるということは、完全なる勘違いで、それは、たとえば、異性愛者のなかで、性欲が以上に強く、異性である女性をレイプした男が、その性欲の強さをコントロールできるようになり、ときには完全に抑えるために同性愛者になるようすすめたとしたら、それは根本の部分で何かが間違っているということになろう。同性愛は治療の対象ではない。むしろ容認と寛容さの対象なのである。


もちろん、ここからアルコール依存症とか薬物依存症の集団治療プログラムのいかがわしさについても思いが及ぶところではあるが、今回は、そちらではなく、同性愛問題に話をしぼうろ。


くりかすが、同性愛矯正プログラムというのは、公的なものでもなければ、学術的なものものでもなく、ましてや医療と関係するものでもまったくなく、あくまでも私的な狂信者による、拷問遊戯である。主人公の場合、環境が悪すぎる。たとえば、大学で、学生が同性愛者であることがわかっても、彼もしくは彼女が、同性愛が引き金となって生ずる犯罪に関係しないかぎり、同性愛者であることでカウンセリングを受けたり、同性愛者であることが学内で問題となることはない。これはアメリカでも日本でも同じだろう。ところが、この映画の大学では問題になるのだ(実は、それが、ある種の陰謀でもあるとわかるのだが)。


そして両親は、息子がゲイであることに動揺し、それを矯正しようとする。同性愛は矯正の対象ではないし、矯正するのは違法行為だが、アメリカでは一部の州では、容認されているようだ。どの家庭でも息子や娘が同性愛者だとわかったら、親は動揺するだろうが、それによって子供を勘当したりするかもしれないし、またカミングアウトに対して、思い違い、幻想、誤認として、カミングアウトをなしにすることもあるかもしれない。しかし、同性愛を矯正すると考える両親は、この映画のように敬虔な信者(メソジスト)で、宗教上、同性愛を悪とみなしている場合にかぎられる。両親とりわけ父親が教会の長老たちと相談して、同性愛の息子を矯正施設に入れて、異性愛者として生きるようにさせるという場合、主人公は、ほんとうに生まれた環境が悪く、両親がクソだったとしかいいようがない。


もちろん、同性愛者に対する迫害は、今でも、続いていることも確かである。ここで思い出すのは、東京では今年の2月か3月まで上映していた『サタデー・ナイト・チャーチ』。このなかで母子家庭で育つ少年は、ゲイであるとわかると、働きに出ている母親のかわりに、その少年と彼の妹の面倒をみてもらっている伯母から激しく非難され、完全に心が折れて、家出をするまでになる。柴田理恵によく似ている、この鬼伯母によって、ただの変態扱いされた少年は、帰る家もなく夜の街を転々とする。彼がいなくなって心配した母親は懸命にその行方をさぐるが、息子の家出の原因が、伯母の同性愛差別的発言であったことを知り、母は、発見された息子を家に連れて帰り、伯母を非難し、家から追い出す。結局、母が、息子を守ってくれた。息子がゲイであろうがなかろうが、息子は息子であり、母の愛は、ヘテロ、ゲイの区別にゆらぐこともなかった。


同じことは、この映画にもいえる。世間体、体面を気にして、ゲイを嫌うのは父親であり、その父親の言いなりになっていた母親は、最後に、息子のために決断をする。ゲイの人間は、母親とは仲がいい。母親を尊敬している(母親を「ばばあ」とか言って平気なヘテロ男性との大きな違いがここにある)。母親こそが、ゲイとヘテロの枠を、境界を乗り越える勇者なのだから。


この映画との関連で思い出したのは、1999年制作ジェイミー・バビット監督のアメリカ映画『Go!Go!チアーズ』(But I'm a Cheerleader)である。日本では劇場未公開だがDVDは発売されている。私が見たのはアメリカ版DVDだったが、女性が同性愛矯正施設に入れられる。一種の風刺的コメディなので、そんな矯正施設があることに違和感もなかった。つまりそういう施設は、ホモフォビアをからかった一種の冗談だと思っていた。また主人公の女性、矯正施設に入ってから同性愛がなおるどころか、もっと深化し、矯正施設がまったく機能していない。それどころかこの矯正施設が同性愛者を輩出することになるという、まさに風刺コメディだった。


しかしこの映画がつくられてから20年近くたったアメリカでは、もうこれは笑い話にならないような矯正施設が存在し、その犠牲者たちが施設を告発するという事態になっていた。歴史は、進化するよりも退歩しているのではないか。ホモフォビアの愚か者どもは、文化要因としてのゲイ的要素の増大こそが、文明対退化とみなすかもれないが、多様な可能性を排除する姿勢こそ、未来を閉ざす退行的愚挙に他ならない。


あと、この施設の告発をする主人公の、施設での今と過去の経緯とが交錯する映画のつくりかたは、同性愛者として、クローゼットを生きた、そしてカミングアウトした男性の青春物語ともなっていて、その切ない恋の物語は、まさにゲイの青春物語でもあって心を打たれるし、家族との戦いと和解というか同性愛に対する家族の姿勢にはいろいろ考えさせられる。またゲイに対する不寛容が右傾化する社会において増大することに危険なものを誰もが感ずることをだろう。


またラッセル・クロウとニコール・キッドマンの父親と母親というのは、無駄に豪華な俳優陣を配したという気もしないが(べつに無名の俳優であっても、映画の質はかわらないと思うが)、監督(俳優のほうが有名だが)のジョエル・ドガートンがオーストリア出身なので、友情出演のようなものか。それはともかく、画面が暗いのは参った。内容の話ではないが、たぶん内容における矯正施設関係者のある種のうしろめたさを反映しているように思うのだが、画面そのものが暗い。逆光で撮っている場面もあるし、また自然光で撮影もしているので、意図的なものと思うが、画面暗すぎる。見て疲れる。私が老人となって、視界が狭くなったりしたせいかもしれないと思いつつ、映画館から外にでると、光がまぶしいくらいだから、画面がやはり暗すぎる。西洋人は暗くても平気だといわれるが、せめて逆光でとるのはやめてほしいといいたい。


もうひとつ、この映画あるいは原作では、事実と障害と真正面から向き合い、逃げることなく、正々堂々と告発することが、現実を改変する正攻法であるかのように語られている。逃げたり、偽ったりすることの戦略を卑怯とまではいかなくても、問題のある対応としているが、そのような観点は、むしろ体制側を迫害する側を利するものでしかない。死んだふりをして逃げろ、やりとげるまでは、ふりをしつづけよ。それこそが、強大な敵を前にして絶対に必要なゲリラ戦略あるいは文化戦略だろう。


<Fake It Till You Make It>は映画のなかで語られるスローガン的フレーズだが、この選択肢も生き延びるために必要なことを強調してもよかった。カミングアウトだけが、対決だけが、選択肢である世界は、あまりにも貧しい。


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2019年04月24日

『マイブックショップ』

『マイブックショップ』というのは原題のカタカナ化と思ったのだが、原題は「ジ・ブックショップ」。ペネロピ・フィッツジェラルド原作の小説The Bookshopの映画化。ブッカー賞にノミネートされたという小説なのだが、まあ、毎度のことながら、原作は未読。

2017年制作のスペイン、ドイツ、イギリス映画。第32回ゴヤ賞3部門受賞(作品賞、監督賞、脚色賞)の『マイ・ブックショップ』(原題:The Bookshop)は、当初、予想していたのとは大きく異なる映画だった。

戦争(第二次世界大戦)で夫を亡くした未亡人が、1950年代の終わり、小さな漁村に、長年の夢であった書店をつくる。その準備とか書店経営のなかで、失敗もあるかもしれない。周囲との軋轢もあるかもしれない。同時に、周囲から援助をえられるかもしれない。試行錯誤のすえに、町の書店が軌道にのる。よそ者の彼女が共同体に迎え入れられる。周囲もまた彼女の書店によって生活の文化面がうるおいはじめる。書店をめぐる話である。ささいな変化しかないかもしれないが、心温まる社会と人生の一時期の断片の存在感がじわじわと伝わってくる。

そんなハートウォーミングあるいはハートフルな物語とは全く異なる話だった。いや、そうなる気配は最後まで濃厚に漂わせているのだが、主人公の女性は、「上級国民」との闘いに巻き込まれていていく。実は、この映画を見そびれていて、ようやく見ていないことに気づいて映画館に足を運んだとき、すでに「上級国民」の運転する車の暴走によって母娘が殺されていた。そのためこの映画をみて「上級国民」との闘いという言葉が浮かんだ。

書店を田舎の漁村町に開く話である。それこそ、その書店に幻の太宰治の『晩年』の初版本があって、その争奪をめぐってコレクターたちが暗躍するという展開でもないかぎり、書店経営が波風をたてるはずがない。

勇気courageがキーワードになることからも察せられると思うのだが、彼女の書店経営は攻めの戦略がめだつ。勇気があるのである。本好きだが、引きこもりの、高齢の紳士に、レイ・ブラッドベリーの『華氏451度』を勧めるかな?(結果的にはよかったとしても)。あるいはナボコフの『ロリータ』を、いくら評判の作品とはいえ、また自分でも最後まで読んで、内容を確認し、他人にも評価を確認して、そのうえで一挙に250冊仕入れるというのは、どうなのだろうか。保守的であろう田舎町の住民に『ロリータ』を売るのは暴挙に近い。原作ではどうか知らないが、その暴挙は大きな波乱を引き起こすことなく終わるのだが、ただ、この攻めの姿勢が、地元の名士の女性(上級国民)との衝突を招いたのかもしれない。

ただし、政策とか思想とかの違いではないし、芸術観とか文学観の相違でもない。書店の品ぞろえ程度の話である。また、もうひとつ、地方の小さな港町は、町民の結束が固く、よそ者に対して反発がある。彼女の存在自体が反発を招くところがあり、またいじめの対象ともなるかもしれない。洋品店の女主人が進める赤いドレス(深いマルーンのドレス)は、どうみても、善意とは反対の悪意のなせるわざだろう。その他、一見親切な町民も、陰で主人公を陥れようと暗躍する。信頼できるのは小学生のバイトの少女だけなのである。

だから偏狭な地元民との対立という構図によってくくられてもおかしくないのだが、しかし、その偏狭さの原因に地方の名士の女性の存在がある。それがこの映画の物語を支える分析的視点であろう。

資産家で名士である彼女は退役将軍の夫とともに、その地方の社会・経済・文化を私物化している。権力と栄光の中心にいないと満足できない専制君主、まあ地元のボスである。パトリシア・クラークソン演ずる彼女は、上品な、また人当りのよい笑顔を絶やすことのない女性で、そこに独裁者の影などみじんもないのだが、悪意と独占欲・権力欲の塊で、貧乏人の庶民のことなど、なんでもないというか、自分の下女・下男くらいにしか思っていない(パトリシア・クラークソンの悪役ぶりは見事としかいいようがない)。その彼女と書店主のとの女性どうしの戦いがメインとなる。もちろん表立った戦いはない、法律を盾に取ったり、銀行による圧力といったり、文部省に圧力をかけるといった陰湿な嫌がらせと、それをはねのける闘いなのだが。映画を見る前には思ってもいなかった展開となる。

ふとパトリシア・クラークソン演ずる女性が、車を運転中、事故で母親と娘をはねてしまったらどうするのかという思いに、映画を見ながら、とらわれた。たぶん彼女は、車そのものもダメージを受けて、みずからも負傷した車中で、携帯をとりだし、電話するだろう。夫か家族のもとに。人をはねたみたいだけれど、どうしたらいいのだろう。日ごろから足の悪い彼女に、車の運転をやめるよう説得しても、女王様の彼女は、そんなことなどに耳を貸そうとしなかったし、家族も、彼女が事故を起こしたとなると、みずからの罪責感に圧倒されてしまい、いつしか、彼女の知り合いの司法関係者や地元の政治家や警察関係者に電話をいれているかもしれない。被害をうけた母娘のために、携帯で、救急車を呼ぶとか警察に報告しようともせず。また即入院で、入院中だから逃亡とか証拠隠ぺいの恐れはないため逮捕もされず。

こう想像したとき、この映画のなかの書店開店を快く思わないどころか、彼女が私物化している地元の村社会への挑戦として、書店をつぶそうとするこの地元名士のボス的女性は、まぎれもなく「上級国民」そのものだとわかった。そしてそうなるとこの映画は、心温まる地方書店開店・運営・地元交流の話ではなく、「俺様・私様」の「上級国民」との勝ち目のない戦いの話だとわかる。ほのぼのとした心温まる話どころか、むしろ硬質の社会派ドラマだったのである。

じつは、そう考えたほうがこの映画の見方が柔軟になる。長年放置されていたオールドハウスを購入して、そこを書店にしようとすることが、なぜ、地元の名士の逆鱗にふれるのか、いまひとつよくわからない(原作では、そこのところを説明しているのかもしれないが)。そのため、個別具体性が、たとえ映像の圧倒的な地方色性にもかかわらず、希薄となり、そこから別の可能性として浮かび上がってくるのだ――国民生活を私物化している政権、その政権を忖度によって支える公的組織、さらには自分を「上級国民」と勘違いしているネトウヨ、さらには勘違いどころか本物の「上級国民」による応援団、これらが跳梁跋扈している現代日本の姿が。

上級国民は違法行為をしているのだが、それを合法行為にみせかける、いや、合法行為にすべく、法律を作り、ありもしない公的記録をねつ造し、証拠となる記録を消去することを何の苦も無くやって見せる。こうした上級国民への怒りと絶望が、この映画をささえるエートスなのである。いや、エモーションというべきか。

もちろん、この映画を支えているのが、エミリー・モーティマーとパトリシア・クラークソンの演技であることはいうまでもない。そして忘れてならないビル・ナイ(エドマンド・ブランディシュ)の演技も。彼は、パトリシア・クラークソン(ちなみにその夫である退役将軍の、ほんとうにむかつくような傲慢さと無神経ぶりと悪意ある無知も特筆ものであるが)に対し、こう述べている:

Edmund Brundish: I can't answer that question "yes" or "no". I suspect that by "outrageous" you mean "unexpectedly offensive". And the truth is that you have been fairly offensive, bu also... repulsive, Mrs. Gamart. That is, you have behaved exactly as I expected.

字面だけみると、怒っているだけのセリフと思われるのだが、これは病弱で死にかかっている男の、憤怒を自制しつつ、それでいて全身全霊をこめて発声される怒りの声なのだ。そのビル・ナイの口調は、もう文字では再現不可能な痛ましくも絶望的な力強さに満ちていて、、圧倒されるほかはない。

この私の感想は、決して、拡大解釈や曲解ではない。映画のエンドクレジットで、この映画が亡きジョン・バージャーにささげられていることがわかる。監督、イザベル・コイシェ・カスティージョ(カタルーニャ語: Isabel Coixet Castillo: カタルーニャ語発音: [izəˈβɛɫ kuˈʃɛt], 196249 - )による、美術家としてのジョン・バージャーへの追悼とわかるのだが、しかし、それはまた硬質な社会派の小説家でもあった、バージャーへの献辞を含むものだと私は確信している。

上級国民との闘いは、負けることがわかっている。車を暴走させて死傷事故を起こした上級国民は逮捕されることもなく、犠牲者たちの家族をあざ笑うかのような処遇を得ることだろう。まあ、その前に、耄碌してなにもわからなくなっている可能性もあるが、それをいいことに上級国民をかばうために不起訴になるだろう。

上級国民は、未来を残さない。反抗的な者たちを徹底して弾圧する。若い世代を犠牲にするだけである。上級国民ではない私たちは、若い世代を犠牲にすることなく、若い世代の未来をできる限りに支援することを心掛ける、若い世代のために年寄りが犠牲にある覚悟をもつべきであろう。

posted by ohashi at 17:52| 映画 | 更新情報をチェックする

2019年04月21日

『ねじれた家』

『アガサ。クリスティーの ねじれた家』Crooked House(2017)


べつに面白くない映画ということではないし、私が疲れていたせいもあって、途中、何度か眠ってしまった。退屈な映画ということではないが、ただ、予想通りの展開なので(犯人がすぐにわかるということではない)、一瞬たりとも目が離せないというような緊迫感はない。


大富豪が、邸宅で殺される。犯人は、一族のなかにいるらしい。大富豪の孫にあたる女性は、知り合いの若い探偵に調査を依頼する。探偵は、富豪の大邸宅というか館で、そこに集った一族の者に順に聞き取り調査を行う。誰もが一癖も二癖もあり、誰もが殺人犯になりうる怪しさを漂わせている。ねじれた家に集うねじれた一族。だから全員が怪しく、そして怪しい人物は、犯人ではないので、その地味な聞き取り調査、どうせ真犯人にはつながらない情報しかでてこないだろう、そんな調査につきあってもいられないと思うと、いつしか睡魔が。


大邸宅というか館、そこの集うか住まう人々、彼ら全員が容疑者。綿密な聞き取り調査をとおして、全員が有力な容疑者になりうることがわかる。そしてそのなかで予想外な人物が犯人だとわかる。この、いかにもアガサ・クリスティーの初期の古典的なパタンを好きでたまらない観客にとっては、この映画は、その雰囲気にどっぷりと浸らせてくれるだおる。そんなに好きでもないと、大邸宅という、ある意味、大きな密室なので、そこから一歩も外にでることはないために、退屈になって、いつしか睡魔が。


いや、探偵は、外からやってくる。また富豪の孫娘との過去のいきさつもあって、彼の存在は、密室空間に風穴をあけている。しかしエルキュール・ポワロでもミス・マープルでもない無名の探偵なので、一族と一晩過ごすための工夫には、才能の片りんがうかがえるが、その他の点で、この探偵が、誰よりも、事態を把握しているとも思えないのが、つらい。


もちろん映画としての特質には意味があって、最初、どうしてカメラを低い位置において、下から見あげるようなショットが多いのは違和感マックスなのだが、最後までみると、なるほどと納得がいくカメラアングルでもある。


またマザーグースの歌がモチーフになっている作品だが、私がはじめてアガサ・クリスティー作品を読んだのは『そして誰もいなくなった』であり、次は『愛国殺人』だったが、どちらもタイトルがマザーグース。『愛国殺人』はアメリカ版のタイトルで、元のタイトルはOne Two Buckle My Shoeでマザーグース。ただ、今回のCrooked Houseは、マザーグースの歌がモチーフなのだが、形式と内容と分けて考える場合、形式の内容(内容の形式ではない)が、マザーグースにぴったりだったことは特筆に値する。


アマゾンの原作のサイトでは、エラリー・クイーンの作品との類似性が指摘されていたが、あれは模倣犯の話であって、模倣犯であるがゆえに動機なき犯罪となって、犯人像がまったくつかめなくなるのだが、こちらというか映画版(原作はまだ読んでいない)では、動機は明確である。ただ、ほかにも動機が明確な人物がいすぎて、誰が犯人かわかりにくくなっているということだろう。


つい最近もテレビ朝日で、アガサ・クリスティーの小説を日本に置き換えた翻案ドラマを放送していたが、この映画も、テレビの2時間ドラマとしてみるなら、面白いだろうが、わざわざ映画館でみる必要なないかもしれない。それに2107年の映画が、なぜ今頃、公開なのだ!


【新宿のシネマートで土曜日に見たのだが、土曜日だけあって満席であった。小さいほうのスクリーンでもあったのだが。しかし、いつも変な客を身の回りに集める不幸な私としては、今回だけは、私が居眠りをして周囲に迷惑をかけたため、私が嫌な客になったと思いきや、上映開始直前に入ってきて、私のすぐ後ろに座ったペア、上映前もしゃべっていてうるさかったのだが、エンドロールで、しゃべっていて、しゃべるくらいならとっとと帰れと思ったのだが、そう思った、直後、誰かの携帯電話がなり、携帯電話に出た女性が小声で電話でしゃべっていた。携帯を切らず、またバイブでもなく鳴らして、そして携帯で話す客というのに、私は、はじめて遭遇した。やっぱり私は運が悪い。私のすぐ後ろに座っていた女性で、神様は私を迫害することをやめることはないようだ。、】

posted by ohashi at 11:52| 映画 | 更新情報をチェックする

2019年04月17日

『ふたりの女王』

『ふたりの女王 メアリーとエリザベス』(2018)は、23月の退職に関係する行事のために行くチャンスを逸していたのだが、気づくと、もう上映が終わりかかっている。あわてて、渋谷のルシネマに見に行く。『ふたりの女王』とあるが、スコットランド女王メアリーに重点が置かれていて、あきらかに彼女が主演の映画と思ったが、原題がMary Queen of Scotsで、やはりメアリーの物語だった。


アントニア・フレーザーの本で紹介されていたのだが、フランスのアンリ四世は、ジェイムズ一世について、「イングランドの英明な国王と聞いているが、まさに当代のソロモン王と呼ぶにふさわしい」と述べたという。いや、この皮肉はきつい。実際、アントニア・フレーザーも、英国王になってからも、こういう皮肉を言われる不運を指摘してる。


どういうことかといえば、ソロモン王とは旧約聖書に出てくる賢人王であり、父親はダビデ。そうアンリ四世は、ジェイムズ一世の父親がダビデであると皮肉っているわけである。『ふたりの女王』を観た人なら、メアリーの側近で、イタリアの楽師リッチオ殺害事件を覚えているだろう。実際に起こった事件で、スコットランドの貴族が、メアリーの不倫相手ということで(冤罪というか、陰謀によって罪を着せた)、リッチオをメアリーのいる前で斬殺する。映画の中でも、その生々しさで見るものを圧倒した。このリッチオの名がダビッド、そうダビデ。つまりジェイムズ一世はメアリー女王の不倫の相手ダヴィッド(ダビデ)・リッチオの子だ、ダビデの子だ、ソロモンだと言っているのである。繰り返すが、英国王になってからも、そんな皮肉、誹謗中傷を言われてしまうのは、どれだけ不運だということになる。


実際、生前のスコットランド女王メアリーは、スキャンダラスでノトリアスな存在で、息子のジェイムズ一世も、母親の生きざまとは一線を画し、また母親が話題にのぼることを好まなかったといわれている。映画は、そういう悪名ばかりが先行するスコットランド女王メアリーの、けなげで誠実で力強い生き方を描く力作で、スコットランドの宮廷の黒装束の宮廷人たちは、ベラスケス描くところのスペインの宮廷ではないのだから、もう少し、カラフルではやなかであったはずと思うのだが、イングランドの宮廷も、豪華だがモノクロが支配的な世界で、歴史的重厚感は、これでもかというかたちで見るものに迫ってくる。


メアリーにとって敵はエリザベス女王ではない。スコットランド宮廷の愚劣で卑劣な男どもであり、そのなかで女王の威厳を失わずに、男たちをいかに操作するか、あるいはその陰謀からいかに自由な空間を確保するのか、神経をすり減らし、時には何度も心を折られるような苦境に立ちながらも、最後の望みとして、イングランドのエリザベス女王にすべてを託そうとする。だが、エリザベス女王は、イングランドのプロテスタントの君主で、国家と結婚する男でもあって、もはや女を捨てていて、メアリー女王とは対極にある――メアリーはいえば元気溌剌、その身体的魅力によって、多くの男を手玉にとったり、あるいは若さゆえに妊娠・出産もいとわず、実際、世継ぎの男の子を生んだりして、けっしてめげない前向きの生き方を崩さず、その身体的可能性(まあ生む性であることだが)を逆手にとって、果敢に男性政治に女性と女王の場を確保する、女性のヒーローなのである。


ちなみに映画において、登場人物に対して観客が感情移入とまではいかなくとも、好感を持つ、あるいは共感するときの鉄則のような人物造形とエピソード形成法がある。それは、誤解されている人物について、観客だけが、真相を知っているという設定である。スコットランド女王メアリーは、最終的には淫乱な悪女である。しかし、ほんとうの彼女は、そうではないことを映画は示す。観客は、誤解されているメアリー女王の真の姿を自分だけは知っているという幻想のもと、メアリーの側近となる。


同じことはエリザベス女王についてもいえる。国家と結婚した鉄の女である女王も、実は、生身の女性としての苦悩と不安と落胆と悔悟にさいなまれている。そのことが観客にだけはわかるようになっている。さきほど観客がメアリーの側近になるといった。むしろ、観客は、男性政治のなかで苦闘する女性に共感する。その共感に抵抗がなければ、観客は、誰もが、この映画のなかでは、女性化する、あるいは二人の女王の側につく、女性の味方になるといえようか。


映画の俳優としては、ジョー・アルウィンが『女王陛下のお気に入り』につづいて、この映画にも出演している。レスター伯(ロバート・ダドリー)の役なので、こちらの映画においてずいぶん出世したことになる。デイヴィッド・テナントが出演していることを最後のエンドロールで知ったが、誰だったのか思い出してもわからなかった。確認したらジョン・ノックスの役。髭と頭髪が多すぎて、すぐには認識できなかった。ただジョン・ノックスは、スコットランドの枢密院のような政策決定機関の一員ではなかったのだが。といえようか。存在で、は、なみないならぬものがある。


マーゴット・ロビーは、多少顔をつくっているように気がするが、彼女のこれまでの経歴のなかで、外見的にもっとも醜い役柄だと思う。いっぽうシアーシャ・ローナンは、いまのところ彼女のベストの演技を披露してくれた。最初、二人の女王を誰が演ずるのか興味を持った。恋多き悪女としてのメアリーには、マーゴット・ロビーがふさわしく、謹厳実直なエリザベスにはシアーシャ・ローナンがふさわしいのではないかと思ったが、逆だった。年齢差もあってシアーシャ・ローナンがメアリーを演ずることになっただけではないだろう。現在残っているスコットランド女王メアリーの肖像画というかリアルなスケッチがある。ぜひ、みてもらいたい。実在したメアリーは、シアーシャ・ローナンに、そっくりである。実在したメアリー女王はシアーシャ・ローナンの容姿から連想して、さほど間違っているとは思えない。

posted by ohashi at 01:10| 映画 | 更新情報をチェックする

2019年04月13日

『ハンターキラー』

『ハンターキラー 潜航せよ』(Hunter Killer)は2018年のアメリカ合衆国のスリラー映画。監督はドノヴァン・マーシュ、主演はジェラルド・バトラー。ドン・キースとジョージ・ウォレスが2012年に発表した小説『Firing Point』を原作とする。


本作は、次にどうなるか、予測はついても、予測がつかない宙吊り状態で、どんどん先へとテンポよく進んでいくため娯楽映画として飽きさせないし、結末も、まあ、満足がゆくものとなっている。続編あるいはシリーズ化も可能かもしれないが、実際、アメリカ海軍の援助も受けている以上、シリーズ化には金がかかりすぎるのではないかと心配なところがある。また今回は、冷戦時代と同じ設定であり、ポスト冷戦時代の物語ではない。とはいえポスト冷戦時代とするならば、敵は中国になるしかないが、アメリカ映画に流入する中国資本を考慮すると、中国を敵にまわす設定は、ややむつかしいかも。


冷戦時代の米ソ対立映画作品において、中心になるのは、絶対に正面衝突あるいは戦争状態を避けるかということである。戦うのではなく、戦いをいかに避けるかという、平和のための戦いがメインとなる。たとえば潜水艦映画としてはロシアの潜水艦が、原子炉事故を起こす『K19』(キャスリン・ビグロー監督、2002年)でも、いかに米海軍やNATO軍に援助を求めることなく、事態を乗り切るかというのがメインだったり、デンゼル・ワシントンとジョージ・ハックマン主演の映画『クリムゾン・タイド』(1995)は、米ソ衝突となるミサイル攻撃をいかにして避けるかによって、狭い艦内での対立・葛藤が生じていた。このかけひきなり交渉なりに失敗すると第3次世界大戦が起こるという、ある意味、緊迫した状態が映画の要諦となる。


ただし、そうなるとアクション映画としてはものたらなくなる。潜水艦物の場合、乗組員は艦内に閉じ込められるので、身体的な動きは、それこそ浸水したときに水と戦うことはあって、通常は、動かない。ジェラルド・バトラーも艦長として終始、立ったままであって、あとは部下への通達とか判断において威厳を見せることしかできない。アクションというよりもふるまいに近いことしかできない。


となると心理的葛藤だけがメインになるが、今回は、海軍特殊部隊ネイヴィー・シールズが地上で活動・活躍することによって、それが身体運動を支えることになる。とはいえ、ロシアの海軍基地に潜入するのは4名(すぐに1名負傷する)。3名でロシアの大統領を救出するというは、最後に救出するのだろうと予想できるのだが、ではこのたった3名でどうするのかについては予測できない。


また交渉・心理的葛藤戦だけでは物足らないこともあり、実際に部分的に交戦することもあるが、こうした戦争映画のお約束として、気付くと、「敵中突破」形式の戦闘アクションになっている。ネイヴィー・シールズは4名で侵入し、脱出を図る。潜水艦本体も、機雷原を超えて、ロシア海軍基地につながる湾へと侵入する。それ以後は、敵中突破の連続である。


潜水艦とか潜水艦映画は人気があるらしい――理由はよくわからない。私にとって潜水艦映画・ドラマというのは『眼下の敵』ではなく、テレビで放送されていた『原潜シービュー号 海底科学作戦海底大作戦』である。メビウス・モデルからこのシービュー号の巨大プラモデルが発売されていて(1/128で、全長1メートル、価格は2万円台)、一時、本気で購入しようと思ったが、値段が高いこと、そしてそもそもそんな巨大モデルの置き場所がないこと、モデルの巨体をプラスチックで支えるのは無理で、自分で工夫して補強しなければならず、それが面倒で諦めたのだが、シービュー号は好きである。


稲垣足穂は、このシービュー号の提督と艦長との関係に同性愛的関係を見出していた――海の物語でもある――が、海洋物のお約束として、海の男の物語もある。敵と味方を超越して、理解し共鳴する海の男たちの連帯というのも、こうした海洋戦記物の特徴でもある(そこに同性愛的なものが絶対にないとは言い切れまい)。


ちなみにこの映画では、アメリカの司令センターにいる司令官に対して「少将」と字幕をつけていたが、まあ、設定とか軍服によって「少将」なのだろうが(私には判断できない)、たとえそうでも「提督」と呼ぶべきで、映画のなかでも「アドミラル」と呼ばれたように思う。あと副長は、EOと呼ばれることをはじめて知った。昔はコマンダーだったのだが(いまもそうかもしれないが)。


艦長と副長との関係は、日本の学校制度における校長と教頭の関係と同じで、前々から興味深いものと思ってきた。副長は乗組員のトップであり、それは教頭が教員集団のトップであるのと同じである(校長は校長室に、教頭は職員室にいる)。そして艦長とか校長は、よそから派遣されてくる。映画のなかでも米潜水艦の艦長、ならびに、ロシアの駆逐艦の艦長は、よそ者なのである。


潜水艦とか軍用艦の内部は、知る由もないが、私は潜水艦の場合、司令室での配置は、『スタートレック』のエンタープライズ号と同じで、艦長が座っている。その前に操縦者がいて、副長がこまかな指令を出すと思っていたが、米潜水艦の艦長も、ロシア駆逐艦の艦長も、ずっと立っている。操縦者はどこにいるのかみえない。ちょっと不思議な感じがした。米潜水艦が急速潜航するときには艦体が急角度で潜航するので、艦長をはじめ立っている乗組員は、バランスをとるために体を後ろに傾ける。実際に巨大セットを傾けて撮影したようで、そこだけは、これまでに映画にない映像で面白かった。そのためにも艦長には立ち続けてもらいたかったのか(司令室のレイアウトについていえば、全体として映画『眼下の敵』(1957)Uボートと似ていなくもない。なぜそんなことを思いついたのかというと、『眼下の敵』も、潜水艦ではなく米海軍駆逐艦のほうだが、艦長は、民間出身であり(ロバート・ミッチャムが演じた)、この映画でも、ジェラルド・バトラー扮する艦長は民間人出身か、たたき上げの士官である。そして『眼下の敵』と同様、この映画でも……。


追記

この映画の最後の衝撃は、エンドロールが終わったところで、ロシア潜水艦の艦長役のミカエル・ニクヴィストが追悼されていたことである。


ミカエル・ニクベスト(Mikael Nyqvist)は、私よりも若いはずだが、2017年にすでに亡くなっていた。これは遺作とのこと(ニクヴェスト, 1960118 - 2017627日)。


スウェーデンの俳優ミカエル・ニクヴェストとの私の出会いは『ミレニアム――ドラゴン・タトゥーの女』Män som hatar kvinnor だった。『ミレニアム』という雑誌の編集長が、ドラゴン・タトゥーの女であるノオミ・ラパスと事件を解決するという内容で、立て続けに公開された第二部『ミレニアム2 火と戯れる女』Flickan som lekte med eldenと第三部『ミレニアム3 眠れる女と狂卓の騎士』Luftslottet som sprängdesも公開されるとすぐに観た記憶がある。このミレニアム・シリーズはルー二・マーラ、クレア・フォイ主演でリメイクされているのだが、私にとってオリジナルの映画シリーズがもっとも印象深いものであった。またこのシリーズによってニクヴェストもハリウッド映画に出演するようになった。今回も、出演していて嬉しくなったのだが、すでに亡くなっていた。冥福を祈る。

posted by ohashi at 20:57| 映画 | 更新情報をチェックする

2019年04月12日

『バイス』

映画『バイス』(Vice監督はアダム・マッケイ、主演はクリスチャン・ベール)のタイトルは、『ヴァイス』とすべきでしょう。いくら日本には極右ファシストが政権に巣食っている現状だとはいえ、「ヴ」を認めず、『バイス』になるというのは、愚の骨頂だし、極右の***は、vとbの区別をしないのは、スペイン語と同じであることに気づいていない。日本語のスペイン語化万歳!

英語のViceというのは悪・悪徳という意味だが、同時に「代理、代わりに、副」という意味の接頭辞として、ラテン語そのままVice-という語を使う。タイトルの『ヴァイス』には「悪徳」と「副」の両方の意味がかかっていることは、誰もわかる。

アメリカ映画では、よく実際に起きた事件に基づいて製作されるがあるのだが、多くの場合、そんな重要な事件があったのかと驚き、また呆れるのでだが、この映画の場合、ある意味、私たちの時代というか、まさに「平成史」における重要な事件を扱っているので、そんなことがという驚きはない。

ただし、実際に起きたのだが、日本で大きく取り上げられることがなくて、まったく知らなかった事件というのは、この『ヴァイス』にも登場する。「プレイム事件」が、それで、のちに『フェアー・ゲーム』(ダグ・リーマン監督2010年)として映画化され、私は、この映画をみて初めて事件について知った。逆に言えば、この映画がなければ、事件のことを知らなかったのだが、『ヴァイス』のなかで、イラクに大量破壊兵器があることを疑問視する記事を書いた中東専門家に腹を立てた政権が、その専門家の妻がCIAの工作員であることを公にして報復しようとする場面があることを覚えているだろうか。あれがプレイム事件への映画的言及で、映画の解釈によれば、その首謀者はチェイニー副大統領だった。

 Wikipediaで関連項目を引用すると

ジョゼフ・チャールズ・ウィルソン4世(Joseph Charles Wilson IV1949116 - )は、アメリカ合衆国の中東アフリカ問題に関する専門家である。イラク大使代理、ガボン大使、国家安全保障会議 (NSC) のアフリカ担当部長を歴任した。ジョージ・W・ブッシュ政権誕生後は退職し、コンサルタント業を行っていた。//2002年にアメリカ中央情報局よりイラクがウランをニジェールから買い付けたという疑惑(ニジェール疑惑)の調査でニジェールに派遣されたが、大量破壊兵器は無いと結論付けていた。後に大量破壊兵器説は全くのでたらめであったことが確認されたが、当時のブッシュ政権は大量破壊兵器があると世論に訴え続けていた。//これに対しウィルソンは、200376日付の米『ニューヨーク・タイムズ』紙に「What I Didn't Find in Africa」と題された文章を寄稿して世論に訴えたが、714日にロバート・ノヴァクにより妻ヴァレリー・プレイムがCIAの工作員であると身分を漏洩された。これに対しウィルソンは記者会見を開き、これはアメリカ合衆国政府の報復だと訴えた。


ファレリー・プレイム 。。。夫ジョゼフはイラク戦争において、ブッシュ政権の主張する大量破壊兵器の存在に批判的であった。だが、そのためそれに報復を試みたアメリカ合衆国政府により、2003714日に彼女がCIAの工作員であるという身分を漏洩された。これにより彼女は活動が出来なくなってしまった。…//事件の詳細は、ジョゼフ・ウィルソンの回顧録『The Politics of Truth』、ヴァレリー・プレイムの回顧録『Fair Game』として出版されている。

なおこの件を映画をみて思い出したのは、たんに映画のなかで暗示されているだけではない。このプレイム事件を扱った『フェアー・ゲーム』でプレイムを演じたナオミ・ワッツ(夫の役はショーン・ペン)が、この映画のなかでニュースキャスターの役で出演しているからでもある。

閑話休題 この映画は、クリスチャン・ベールが10キロ以上体重を増やして、チェイニー役に臨んでいるのだが、その挑戦は成功して、外見からは、クリスチャン・ベールが演技している痕跡はまったくうかがわれないのだ。かつてクリスチャン・ベールは骨と皮になった役を演じたことがある(『マシニスト』(ブラッド・アンダーソン監督、2004年))。今回はその逆をいった。

ただしクリスチャン・ベールは鬼気迫る本物ぶりで観客を圧倒するが、それ以外の人物となると、テレビのヴァラエティ番組などの再現ヴィデオのように、外見的にやや質が落ちる。テレビ番組には、ゲストで、有名で人気のあるタレントが出演した際、そのタレントの経験談を、再現映像で紹介することがあるが、そのとき、そのタレントとは別の俳優が、そのタレントを演ずることになるのだが、再現する俳優のほうには、本家のもつオーラは存在しないので、やむをえぬものとはいえ、クオリティの低い再現ドラマという印象はぬぐいされない。それと同じで、ブッシュ大統領を演じたサム・ロックウェルも、小細工をして顔を一部変えているらしいのだが、全体的な印象はブッシュ大統領ではない(たとえ、その演技によって、またイギリス人なのにアメリカ英語の発音が完璧すぎることもあって、だんだんと似ているように思えてくるとはいえ)。スティーヴ・カレル演ずるラムズフェルドなどは、アクの強さを演技で出そうとしているようだが、本家のもつ非人間的な冷酷な印象とは程遠い。

いや、こうした実話もの映画の場合、演ずる俳優のほうにオーラがあって、よく最後のエンドクレジットなどに実在の人物が映し出されるのだが、映画の映像と実際の写真のギャップに驚かされることが普通だが(たとえば『グリーンブック』の二人は、映画の二人のほうが存在感が強い)、この映画に限っては、あのブッシュ大統領(父親のバッタものにみえるバカ息子)のバカ顔を除くと、当時の政権の中枢にいた政治家たちは、みんな顔が怖い。よく、あんな人相の悪い連中が、そのものすごい悪役顔で、国民の支持を得られたのかと思うし、現実の政権中枢にいたメンバーの悪役顔に比べると、映画のキャストのほうが負けていることは否めないのではないか。当時のブッシュ(バカ息子)政権のメンバーは、その容貌のなかに、冷酷さと悪辣さが充満していた。

もちろん内容は、チェイニー副大統領についての、はじめて知るディテールはあったのだが、全体として予想どおりのもので、これをリベラルに偏向しているというのは、アメリカのトランプ派のバカか、日本のネトウヨの**くらいだろう。内容ではなく、むしろ全体に流れるシニカルな扱いそのものにけっこう感動した。

最後に政界を引退してから、しばらくしてチェイニーはテレビのインタヴューを受けるのだが、その時、イラク戦争において、アラブ人、アメリカ人、双方に多くの犠牲者を出したことの責任を問われるような問いかけをされると、世界に必ずいるテロリストのモンスターと戦ったのであり、これからだってモンスターと戦うと、テレビカメラではなく、画面に直接向かって、つまり映画館の観客にむかって話しかける(これは当初の予定ではなく、クリスチャン・ベールのアイデアだったらしいが)。この時、観客は、テロリストは許せない、チェイニーを応援したいと思うだろうか。むしろ、画面のチェイニーに向かって、あんたこと、テロリスト以上に悪辣なモンスターだと思うのではないか。私は、そう思った。

チェイニーは釣り好き(フライフィッシング)のようで、まるで映画『リヴァー・ランズ・スルーイット』(1993)の一場面かと思われるような、大自然に囲まれた川での釣りの場面がはさまれるのだが、それは政界から離れたプライベートの場で唯一やすらぎを得るチェイニーの姿かとおもいきや、エンドロールで、つぎつぎに映し出されるフライフィッシング用の毛鉤というか疑似針からわかるように、プライベートでフライフィッシング好きの彼は、政治の世界では、アメリカを食い物にして、つぎつぎと富と権力を釣り上げていたという皮肉が顕著となる。アメリカは、彼に、その富を、いいようにもっていかれた、いや釣り上げられたのだ。

そしてこのエンドロールに流れる『アメリカ』という曲。ミュージカル『ウェスト・サイド・ストーリー』のなかの有名な一曲であるこれは、私が子供の頃、テレビでの映画の予告編ではじめて聞いたとき、英語を勉強する前だったが、なんだか聞いてわかりやすそうな英語で、このくらいの英語だったら、頑張って話したり聞いたりできるのではないかと思った記憶がある。その歌のなかで、Americaを「アメリッカ」と、まさにカタカナで発音していたのだから。

もちろん子供の頃の思い出であって、後年、ミュージカルのこの歌が皮肉な曲であることを知った。アメリカで差別されているプエルトリコ系移民たちが歌う「夢の国アメリカ」という皮肉。しかも私が子供の頃、わかりやすい英語と思った、その歌は、プエルトリコ人のなまった英語を再現していたのである。それがこのエンドロールで歌われる。アメリカはチェイニーのような極悪非道の人間いやモンスターにとって、まさに宝島のような夢の土地だったのかもしれない――権力と富を思う存分収穫できたのだから。いっぽうアメリカ人庶民は、強奪され搾取されても、最後まで夢の国と信じて、お人好しのプエルトリコ人移民のように生き、そして死んでいったのではないか。

ちなみにこのエンドロール、数え方にもよるのだが、この映画のなかには多くて3度のエンドロールがある――えっ、『カメラを止めるな』と同じかと思うかもしれないが、趣向は違う。『アメリカ』が歌われるエンドロールは、中断される。中断の前と後で、違うエンドロールなら、全体で3度のエンドロール、中断があっても連続していると考えれば、全体で2度のエンドロール。

ただ、この中断。『ブラック・クランズマン』と同様、映画の内容を過去の一挿話として埋葬するのではなく、現代に接続する機能をもっている。悪辣なモンスターであるチェイニーの悪事は暴かれた。国民を食い物にして、交通事故死をした人間の心臓を移植されて生き延びているチェイニーは、それでも真実が暴かれて失墜した。だが、それでめでたしでは終わらない。もうひとりの怪物が、いや、これからもさらなる怪物が、アメリカに君臨するという暗示が明確にあるのである。この2度目のエンドロールの中断によって。

なおネット上に以下のような政治的コメントがあった。あまりののんきさに開いた口がふさがらなかったので、紹介したい。

こういう映画を観て、思うのです。

民主主義体制というのは、それを悪用する人間が出てこないことを前提にしている体制。

極悪人を排除するのが選挙という制度ですが、本物の極悪人なら、この制度を悪用しようと思えばいくらでも悪用できるのだという警鐘なのだろうと感じたのでした。

たった一度や二度の選挙で、人に全権を与えてしまう制度の弊害が、アメリカにせよ韓国にせよ、明白になってきた昨今、日本のように、何度も選挙のチェックを受けてきた人間だけしか権力の頂点に到達することができない議院内閣制度のほうが、実は民主主義の制度として優れているのかも知れないと考えさせられました。

直接民主制の「国民投票」によって、英国がBREXITでどれほど悲惨な状況に陥ったか。

韓国がローソク革命でどれほど酷い売国奴を大統領に選んだか。

そしてこの映画のディック・チェイニーが、たしかに選挙を戦ったのは事実ながら、その選挙はブッシュ大統領の後ろにコソコソ隠れて当選しただけに過ぎないこと。

こういう事例こそが、直接民主主義の陥穽なのだと再認識させられたのでした。、

「ぼーとして生きてんじゃないよ」と言ってやりたい。韓国の大統領が売国奴? これまで日本のケツの穴しかなめてこなかったような韓国の多くの売国奴大統領とはちがって、いまの大統領は日本の帝国主義者ファシストと戦う英雄ではないか――韓国民にとっても、日本人にとっても。またアメリカの大統領選が「直接民主制」ではないことに、まだ目が覚めないのか。アメリカの国民全員が一票を投ずるのではない。国民投票ではなく、選挙人を選ぶかたちでの投票のどこが直接民主制なのか。

しかし、さらに許せないのは、「日本のように、何度も選挙のチェックを受けてきた人間だけしか権力の頂点に到達することができない議院内閣制度のほうが、実は民主主義の制度として優れているのかも知れないと考えさせられました」というたわごとである。

頭悪すぎるのではないか。最近、辞任を迫られた桜庭義孝大臣は、なぜ、誰がどうみても、適任ではないにもかかわらず、大臣に選ばれたのか。それは当選回数が多かったからでしょ。確か4回。5回だったかも。何度も選挙のチェックを受けてきた人間が、このざまなのだ。

そしてよその国の大統領を売国奴呼ばわりする前に、自分の国の首相のことを考えてみろ。

この首相夫妻の言動は、チェイニー副大統領夫妻の比ではないぞ。しかも、この日本の首相、トランプに言われて一機100億円する戦闘機を100機購入すると約束したのだ。一機分だけの予算、つまり100億円でもあれば、日本の貧困家庭や貧困にあえぐ若者たちがどれだけ多く救われることか。100機というのは1兆円だ。しかも今回、一機が墜落した。軍用機は訓練においても酷使されるので、パイロットの技量とかミスとは関係なく、墜落することが多いため、100機購入しても、そのうち数機は墜落する可能性が最初から見込まれる。つまり数百億円から一千億円は、最初から無駄になることが予想される。それなのに、いったい誰のために、そんな高価な航空機を数多く購入したのだ。トランプ大統領のためである。最凶最悪の売国奴は、いったい誰なのだ。


posted by ohashi at 23:18| 映画 | 更新情報をチェックする

2019年04月11日

コメダ珈琲店

コメダ珈琲店が好調らしい。こんなニュースがあった。


KYODO2019/4/10 17:09

 「コメダ珈琲店」などを展開するコメダホールディングス(HD)が10日発表した20192月期連結決算は、売上高が前期比16.7%増の303億円、純利益は4.3%増の51億円となり、ともに過去最高となった。増収増益は5年連続。積極的な新規出店が収益を押し上げた。


 国内外の店舗数は2月末時点で前期に比べ55店多い860店となった。名古屋市で記者会見した臼井興胤社長は「千店を目標に店舗数を増やす。まだ十分な成長の余地はある」と述べた。


 202月期は売上高が328億円、純利益は53億円を見込む。


名古屋が発祥のコメダ珈琲店は、同じ名古屋出身としても気になる存在で、それが東京とか関東に出店してきて、その地域の話題になるのは嬉しい限りである。比較的最近も、私sが日ごろから利用する私鉄の駅ではないが、同じ沿線の某駅近くにコメダ珈琲店が出店するとあって、地元の人たちが話題にしているのを、たまたま知った。


そのことを妹に話して、一度、コメダ珈琲店に入ってみたいものだと語ったら、何を寝ぼけたことをと笑われた。というのも、妹が暮らしている神奈川県の某市の駅前には、駅に隣接して前からコメダ珈琲店があるという。そして、私自身、そこで妹と落ち合ったことがあるという。え、あれがコメダ珈琲店? 全く気付かなかった。どうもぼんやりと人生を生きていたのだと、あらためて反省した。



posted by ohashi at 07:45| コメント | 更新情報をチェックする

2019年04月10日

研究室の引っ越し

正確にいうと、ひとつの研究室から別の研究室に荷物を運んだのではなく、研究室の荷物を、自宅に運んだのである。荷物といっても、本と書類である。


410日に私の個人研究室に置いていた本や書類をすべて大学から搬出し、自宅に搬入した。私の個人研究室そのものは、新任の先生が入るので、327日までに荷造りを終え、大量の段ボール箱は、英文研究室が管轄するスペースのなかで開いているところに置かせてもらった。


この時期、引っ越しが多く、3月末までに引っ越しできる業者がみつからなかった。もちろん、あらゆる業者を調べたわけではない。生協で紹介しているSGムービングでは49日以降なら引越しOKということだったので、410日にお願いすることにした。当日は、東京は4月に入ってからの記録的な寒さで、冷たい雨の日で、最悪の日だったが、引っ越し作業はきわめてスムーズに進んだ。生協が紹介してくれたSGムービングは、とても有能な業者だった。


もちろん引っ越しの荷物は本と書類だけだったので、荷造りは、自分の研究室を片づけながら行ったので、時間はかかったし、最後と最後から二番目の日は、助教や院生の手を借りることになって、迷惑をかけたが、最終日は荷造り完了、研究室の掃除も午後6時まで終わり、助教と院生とで打ち上げの宴会をした。27日のこと。それから約2週間後に、冷たい雨の朝に搬出をおこなった。


SGムービングは大学の研究室の引っ越しに慣れているみたいで、こちらがあれこれ心配する必要もなく、きわめて効率的に処理してくれた。930分頃から搬出をはじめ、30分足らずで段ボール箱120箱をトラック二台に積み込んだ。大学での午前中の二時間目の授業が始まる前に、作業が終わったのは良い意味で予想外だった。それから業者と私は別々に、私の自宅に向かい、午後1時に落ち合うことになった。


午後、私の自宅に荷物を搬入するのは、たいへんな作業になるはずだった。団地の一角なので、まずエレベーターから通路と階段まで養生をしなければいけなかった。しかも雨が降っている。エレベーターを一台、引っ越し用に止める必要もあった。養生には30分以上かかったし、また階段を段ボール箱をもって降りるという肉体作業があった。しかし145分頃から本格的に段ボール箱を手作業で搬入しはじめて、120箱全部自宅に入れるのに30分かからなかった。雨のなかにもかかわらず、215分に作業は完了した。


実に効率的であり、私自身、段ボール箱を運ぶのを手伝うと言ったら、何もしないで休んでくれと強く言われたので、私自身は、まったく段ボール箱に触れることなく、作業は終わった。


荷物に家具などがなく、とにかく同一規格の段ボール箱120箱だけだったので、作業も楽だったのかもしれないが、しかし本はほんとうに腰をいためるくらい重い。だから重労働を強いられる。また責任者も的確な指示を出すだけでなく、自らも身体を酷使する作業を積極的にしていて、5人の作業員が、無駄なく、動いた。


そして最後に養生につかった資材をすべて余すところなく取り去って帰った。もちろん、それは当然のことと思われるかもしれないが、私の団地で引っ越し作業がおこなわれるとき、引っ越し業者が養生に使った資材を残していくことが多くて困る。テレビでコマーシャルなどをしている業者でも、平気で養生用の資材を残していく。悪質である。


しかし今回お願いしたSGムービングは、きちんと資材をはがして持ち帰った。当たり前のこととはいえ、こうしたきちんとした業者は少ないことも事実なので、あらためて、見事な遺漏なき仕事にほんとうに感謝したい。お薦めの業者である。


posted by ohashi at 21:44| コメント | 更新情報をチェックする

2019年04月08日

サンチェス・フェルロシオ

前に、このブログで、デュ・モーリアの作品(短篇)について、女性が男性とその男性社会に、民族や国民を超えて正義の鉄槌を下そうとする、驚くべき、また恐るべきジェンダー戦争を扱っているにもかかわらず、現代日本の能天気な紹介者は、ただの純愛物語としかみない愚劣さを指摘しておいたが、その行きがかり上、デュ・モーリアの『真実の山』を初めて読んだときの興奮についても触れた。現在、創元推理文庫の『鳥――デュ・モーリア傑作集』に「モンテ・ヴェリタ」のタイトルで翻訳されているそれを、私は吉田健一訳『真実の山』のタイトルで読んだ。それを読んだ文学全集をみつけたので、その報告と、そこに収められている他の作品についてもコメントしたい。


集英社版世界文学全集全38巻のうち、第34巻がそれで、この全集、当時の値段で520円、他の巻を持っていないので、単品で購入したものと思われる。出版は1968年。私が高校生の頃である。この巻だけを購入したというのは、今から見るとなかなかの目利きである。この巻はボルヘス、サンチェス・フェルロッシオ、デュ・モーリアの三人の作家の作品を収めているからである。たぶんボルヘスの名前、またボルヘスの作品を翻訳し、なおかつ、この巻の解説を書いている篠田一士という評論家・翻訳家が好きだったのだろうと思われる。若気のいたりというか、高校生は騙されやすい。当時、何回も読みなおした解説の文章も、いまからみると、鼻持ちならない嫌らしい文章なのだが、当時の私は、この文体に惚れていた。ラテンアメリカ文学のブームについても、この解説から得た知識も大きい。


先の記事でも触れたが、いまなお踏襲されている誤訳の最初が、収録された「バベルの図書館」の冒頭のエピグラムである。いわく


この技(わざ)によって二十三通の手紙の変奏を考えられよう…… ――『憂鬱症の解剖』第二部第二節第四項


「二十三通の手紙」?、ああ、なんたる神秘、なぜ23通、そしてこの手紙は誰が誰にあてたのか、神様からの手紙なのか、皇帝があなたにあてた手紙なのか、それとも盗まれた手紙なのか。ああ、なんたる不条理。いうまでもなく、この手紙letterは、文字letterと訳すべきところで、誤訳である。アルファベットの23文字。え、アルファベットは26文字? いや『憂鬱症の解剖』の著者バートンは、シェイクスピアの同時代人だが、当時、アルファベットは23文字だった。23文字のアルファベットが、さまざまな組み合わせによって無限の宇宙にもひとしい言語創造物を実現できるという、ただ、それだけのことだが、なんと謎の23通の手紙となると、高校生の私の頭脳にとって解析許容量を超えたものとなった。


また篠田の解説が、ボルヘスを20世紀最高の前衛作家という、とんちかんな評価をあたえていて(まあ、その英文解釈力なら、そうなるのだろうが)、深くて刺激的な哲学小話の作者であるボルヘス、リベラルであるがゆえに、V.S.ナイポールによって徹底的にこきおろされるボルヘスの姿(『エバ・ペロンの帰還』)は、そこには微塵もない。ボルヘスは、翻訳をとおしてなら高校生にも伝わるものが多い世界文学作家なのだが、ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』と『伝奇集』が肩を並べるという篠田の解説を前にしたら、高校生は敗退するしかないだろう。


いまの私は、高校生の私にこう言ってやりたい。篠田のしょうもない解説など信用するな。自分の眼で、ボルヘスが、決して難解な前衛作家ではないことを読み解け。**に騙されるな、と。


デュ・モーリアの『真実の山』は、吉田健一訳で、上下二段組みで60ページ。文庫本では『モンテ・ヴェリタ』のタイトルで、100ページくらいだったので、長短二つのヴァージョンがあると思ったこともあったが、まあ、同じものだろう。文庫本の解説では、デュ・モーリアの短編のなかでも、一、二を争う傑作、「あえて言うなら〝神品〟だと思う」とあるが、全く同感である。


全集にもどると、この第34巻は、アルゼンチンのボルヘス、スペインのサンチョス・フェルロシオ、イギリスのデュ・モーリアというのは、また収録された作品の性質からも、いったい誰が選んだのか知らないが、この三人について解説を書けといわれたら、誰もが頭をかかえるだろう。強いて言えば、趣は相当異なるが、幻想的な作品ということだろうか。実際、篠田一士も、ボルヘスについての解説に9割を割いていて、サンチョス・フェルロシオとデュ・モーリアについては半ページしか触れていない。それを責めるつもりはない。この三人の作品で解説を書けといわれたら、私には書けないからだ。どうまとめていいかわからないので。作者についての情報は、月報かなにかに記されているのだろうが、それはもうなくなっているから、本体に作者の情報はない。ボルヘスとサンチョす・フェルロシオの肖像写真はある(デュ・モーリアの肖像写真はどういうわけかない)。


で、この全集に収録されているラファエル・サンチェス・フェルロシオについて気になった。当時もそうだったが、いま、その名前を全然聞かないからだ。またその作品「アルファンウイの才覚と遍歴」(会田由・神吉敬三訳)は、この全集の中で一番長い作品である。一番長くても、デュ・モーリア作品のテンションの高さと、ボルヘスの神秘性を前にしたら影が薄かったと記憶する。


Wikipediaで調べてみると、「作家だった父ラファエル・サンチェス・マサスは、スペインのファシズム政党であるファランヘ党の中心人物のひとり」と、こんなマイナス情報が記されているが、ファシストに支配されている日本では、それについては、当然の誇らしい事実として何の弁解もしていない。英語版のWikipediaは、『アルファンウイ』以後の長い沈黙は、ファシスト政権に対する批判と解されているとコメントしている。


また『アルファンウイ』が日本語に翻訳されたのは、この作家の長い沈黙期であったので、当時としては、完全に一発屋。よくそれを全集収録作品に選んだものかと、ちょっと唖然とする。


読んでそんなに面白くなかった。名前も当時もいまもあまり聞かなかった。それでも私が高校時代に読んだ、なつかしい作品(あいにく、内容はすっかり忘れたが)の作品でもあった。そして今月になって、なくしたと思っていたその世界文学全集の一冊が出てきた。これは何かの啓示かと思った。


そうWikipediaで調べてみた。ラファエル・サンチェス・フェルロシオ、今月、数日前に死去していた。


ラファエル・サンチェス・フェルロシオ(1927124日~201941日、享年91歳)。


『アルファンウイの才覚と遍歴』を読んでみようと思う。私にとっての、終わったひとつの時代の墓碑銘として。

posted by ohashi at 19:06| エッセイ | 更新情報をチェックする

2019年04月05日

『女王陛下のお気に入り』2-2

私の姪に『女王陛下のお気に入り』の話をして、ついでに同監督の『ロブスター』(The Lobster, 2015年)の話をした。すると、いつもはただのオバカギャルにすぎない私の姪が、ロブスターは永遠に生きるんだよと教えてくれた。ロブスターは脱皮を繰り返すから、死ぬことはない。死ぬのは脱皮に失敗したとき。脱皮に失敗しなければ、ロブスターは永遠に生きるのだと指摘してくれた。

日頃、あまり尊敬していない姪を、このときばかりは尊敬した。映画『ロブスター』では、異性のパートナーをみつけることのできない人間は、動物に変身させられる。主人公は、パートナーがみつからぬまま、最後に、希望通りのロブスターに変ったらしいとわかるのだが、しかし「ロブスター」は動物じゃないし、いったいなんちゅう話なのだと話した私の顔色が変わった。そうかロブスターには意味があった。

このロブスターは、カサゴ(唾棄されても生き返り永遠に生きる)のことだろう。カサゴの釣れる漁港、そしてロブスター、ともに同性愛のシンボルたる水あるいは水辺・海辺の物語であって、たとえロブスターに変身しても、永遠に生きる主人公は同性愛的欲望の表象者ともいえるだろう。『ロブスター』の最後は、ロブスターに変身した主人公の生活環境たる水中の音(音だけで)で閉じられる。主人公は死んだが、どっこい生き返って、永遠に生きるということかもしれない。

ここから『女王陛下のお気に入り』にもどる。あの映画で最後に聞こえていた音は、水の音ではない。ただ、大自然の音のようにも思われる。『ロブスター』もそうだが、この映画でも、動物が擬人化されるのではなく、むしろ人間が擬動物化される。女王はウサギかもしれない。性欲の権化たるウサギ。そして彼女はウサギを出産する。彼女が飼っているのは、死産したか幼児のうちに死亡した子どもたちを示すウサギなのだが、それは記号ではなく、子どもたちがウサギに変身させられたからともとれるし、母親たるアン女王がウサギだということもできる。

女王をめぐる二人の女性についてはどうか。この三角関係はつぎつぎにその頂点を競争の対象を変える。女王の寵愛をめぐって二人の女性が戦っているようにみえる。だがまたレイチェル・ワイズをめぐって女王と侍女が争っているようにもみえる。この争いのなかで、愛によって結ばれたかにみえる関係は、実際は、別の目的のための手段であって、相手は利用されているにすぎない。どこまで真実の愛で、どこまで道具として使われる愛かは定かではない。しかし、三角関係は、たがいに他との競合関係にあるときに成立するのであって、どこか一画が崩れたり消滅したりすると、もはや、関係そのものが消滅する。レイチェル・ワイズが失脚して宮廷から去ることによって、アン女王と侍女との関係はゆるぎないものにみえて、実際には抱懐する。侍女は、女王の愛人ではなく、ただの下女扱い、いや家具あるいは動物扱い、いや家具や動物以下の扱いを受けることになる。

『マリー・アントワネットに別れをつげて』(ブノワ・ジャコー監督2012)は、この映画にも影響をあたえていると私は勝手に思っているのだが、あのなかでレア・セドゥ(この映画のなかではエマ・ストーンにあたる)は最後に、宮廷を逃れて田舎に帰ってゆく。陰謀と革命騒ぎに揺さぶられる宮廷を後にして、自然にいだかれながら、故郷への道を馬車でいそぐ。それと同じく、エマ・ストーンも、この映画の最後で、はっきりとは描かれていないが、映画の冒頭で後にしていた故郷に帰るのではないか。愚劣さと残酷さと狂気と茶番が渦巻く宮廷をあとにして。

「令和」という新造語というか元号のインスピレーションの源となった『万葉集』の一節は、当然、中国の古典(文選)に材源をとっている。岩波文庫編集部のTwitterが有名で、

岩波文庫編集部 ‏ @iwabun1927

新元号「令和」の出典、万葉集「初春の令月、気淑しく風和らぐ」ですが、『文選』の句を踏まえていることが、新日本古典文学大系『萬葉集(一)』 https://www.iwanami.co.jp/book/b325128.html の補注に指摘されています。

「「令月」は「仲春令月、時和し気清らかなり」(後漢・張衡「帰田賦・文選巻十五)」とある。

問題は、この『文選』の典拠が、どういう内容のものかである。一説によると、これは中央の腐敗政治に嫌気がさして、故郷に帰る詩人の、晴れ晴れとした気持ちを述べたものだという。とすれば、「令和」なる新造語の典拠は、腐りきった政界に背を向けて、故郷の大自然に抱かれようとする爽快な気分となって、これはまさに私物化と腐敗が進んでいる安倍政権にふさわしい言葉かもしれない。100年以内に、「令和」の意味を誇らしげに説明する安倍首相とその応援団らが、笑いものになることはまちがいないだろう。

そして、これは『マリー・アントワネットに別れをつげて』の結末と、また『女王陛下のお気に入り』で推定される終わりと同じではないか。エマ・ストーンは、故郷かどうかわからないが、結婚した相手の領地へと去るのではないだろうか。腐りきった冷(令)酷な、冷(令)徹な、無礼(令)な、女王とその宮廷を遠く離れて、大自然のふところに抱かれつつ、田舎育ちの無垢をふたたびとりもどすために。

追記

ロブスターが永遠に生きる話。姪の知識の広さに驚いたのだが、ただ調べてみると、この話は、ネットで少し前に話題になっていたことがわかった。ロブスターの脱皮は、消化器官までも刷新するものだが、しかし脳など入れ替わらないので、永遠に生きるわけではない。ただ、それでもロブスターは100年くらい生きるようだ。死ぬのは脱皮した直後の殻が柔らかいときに食べられたときか、あるいは脱皮そのものにエネルギーを費やすため、脱皮に失敗したとき、脱皮に力尽きたときであるとのこと。私の姪は、ネット上の知識は詳しいだけのことだったようだ。

posted by ohashi at 23:01| 映画 | 更新情報をチェックする

2019年04月04日

「たてもの園」の歴史的落書き

BSテレ東で、『江戸東京たてもの園』のことを紹介していて、途中から見たのだが、そのなかで園長の藤森照信氏が、園内の民家を紹介し、民家をそのままもってきて保存するというのはどういうことかを説明しているなかで、その民家の2階の壁にある子どもの落書きを示して、落書きが語る歴史の存在感と、その驚きを語っていた。


この民家は、たぶん「小寺醤油店」のようだが(実は、たてもの園を訪れたことがないので、たぶんとしか言えないのだが)、一階が店舗で、その二階。子供の落書きらしいのだが、描かれているのは飛行機である。輪郭だけ。デフォルメというか、へたくそというか、変なかたちをしているのだが、飛行機らしいということはわかる。


藤森園長は、いまさら紹介するまでもない著名な建築史家・建築家だが、ざんねんながらヒコーキには詳しくないので、この落書きのすぐ下に、きれいなローマ字の筆記体で、Junkersと書いてあることの説明がなかった。


え、ユンカース? しかもローマ字、きれいな筆記体。となると、これはローマ字が書ける子供なので、小学生ではない。いや、大人かもしれない。下手な飛行機の輪郭の落書きと思ったのだが、ユンカースの航空機とすれば、けっこうリアルな絵かもしれない。


操縦席が吹きさらしで、たぶん、その時代特有の複葉機ではなく、単葉機にみえる。となると、これはまぎれもなくユンカースだ(ユンカースは、初期に時代の流れに逆らってか、先んじで、単葉機をつくりつづけた)。もちろん、写真ではないから、機種までは特定できないが、雑誌かなにかで紹介されたユンカース機を落書きし、その下のローマ字でJunkersと書いた。あるいはユンカースの練習機(練習機と決まったわけではないが)が、飛行場にあったのか、展示されていて、実物の記憶として描いたのか。多分、当時も今も、小学生ではない高年齢の人間が落書きの作者だろう。


驚きなのは、日本の軍用機よりも、よりにもよって、ドイツのユンカース機を選んだことだ。まあ、昔からハイカラであって、軍事に関心があっても、日本ではなくドイツの航空機がかっこいいと思っていたのだろうか。日本人は外国のものが好き。私も好きだし。万葉集の作者たちも外国=中国にあこがれていた。万葉集だから国書? あほらしい。国書にこだわる? そんな態度は万葉歌人たちからみれば、無知無能の田舎者の愚か者の意見として笑われただろう。


日本人の外国びいきは、この落書きからもわかる。三国同盟の相手とはいえ、日本機には関心がなかった。ハイカラで、かっこよくて、いさぎよくて、ちょっと裕福な。まあ名誉白人的な心性といえばそれまでが、いまの極右的感性よりは、ずっとましだろう。


posted by ohashi at 21:47| コメント | 更新情報をチェックする

2019年04月03日

『女王陛下のお気に入り』2-1

『女王陛下のお気に入り』(The Favourite)を二度みることになった。二度見ても、最初の印象はかわらなかったのだが(ただ、横移動がほとんどなく、登場するか立ち去るかの縦移動が特徴であることに気づくことにはなったか)、一度目に見たときから、いろいろ考えることがあった。


監督は、『ロブスター』『聖なる鹿殺し』『女王陛下のお気に入り』とつづけてみると、あきらかに動物好きである。今回は、ウサギの増殖によって映像が閉じられる。その後、なにか音が聞こえてくるのだが、最初は、ウサギのざわついている音かと思ったが、そうでもなく、なにかせせらぎの音、風に揺れる木々の葉の音といった自然環境を強く喚起する音となっていることに気づいた。


ウサギではない。ウサギはかわいらし顔をしているが、性欲が強く、つぎつぎと子どもを産み繁殖するのであって、映画の最後も、数えきれないほどのウサギが地面か床の上でうごめいている。それは性欲の強さと、その帰結でもあって、これはアン女王をはじめとする宮廷人たちのあさましい性欲の世界の等価物となっているといえようか。


もちろん映画のなかでウサギと性欲がむすびつけられているわけではない。暗示がないとはいえないのだが、基本的には、ウサギという動物の外的情報を参照しての話である。ただ、それを知っていると、意味が付与できる。


同じことは、この監督の『ロブスター』についてもいえる。『ロブスター』の終わりについて考える前に、ここで、アイスランドの映画『ハートストーン』Hjartasteinn(監督・脚本:グズムンドゥル・アルナル・グズムンドソン、2016年、アイスランド・デンマーク映画)を思い出した。


以前このブログでも書いたのだが、アイスランドの漁村を舞台にする少年たちの愛を描くこの作品では、魚の「カサゴ」が、アイスランドでは、まるで蛇蝎のごとく嫌われていることに驚いた。「カサゴ」というのは日本では高級魚である。焼いたり、空揚げにしたりするとすごく美味。料亭でも出される魚であり、値段も高い。ところがアイスランドの少年たちは、カサゴが釣れると、唾を吐きかけ、踏んだり蹴ったりして、海に捨てる。このヘイトのされ方は、いったい何なのだと呆れたことを思い出す。まあ背中の棘に毒があったあり、みるからにグロテスクな容貌ゆえに、嫌われているのかもしれない。


ただこのカサゴへのヘイトは、ホモフォビアへとつながっている。映画のなかで少年二人の同性愛が発覚すると、二人は、村人たちからの憎悪あるいは嫌悪の標的となって仲を裂かれてしまう。生まれた同性愛は、無残にも押しつぶされるという悲劇を迎える。


この映画だけをみると、アイスランド、とりわけ田舎の漁村では、強いて言えば、アイスランドという田舎国では、性愛に対する考え方が保守的で、同性愛は強く嫌悪されるのかと思ってしまう。しかし、この映画がつくられた時点で、アイスランドは同性愛にフレンドリーな国としてヨーロッパでは名をはせていた。同性愛者であることをカミングアウトしていた女性大統領ヴィグディス・フィンボガドゥティルVigdís Finnbogadóttirもいた。だから映画のなかのイメージと現実のアイスランドとは違う。しかし同性愛ときちんと対峙し同性愛を理解しているがゆえに、同性愛に対する無理解や嫌悪を真正面からとりあげることもできたのだろうと思う(もちろんアイスランド国民全員が同性愛を容認しているわけではなく、アイスランドにも同性愛嫌悪は存在する)。


カサゴのことも、蛇蝎の如く嫌われるがゆえに、同性愛の等価物となっていることが、途中から見えてくる。


そして映画の最後の場面。事件が収束したある日、少年のひとり(彼は事件とは無関係)が波止場の防波堤で釣りをしている。するとカサゴが釣れる。少年は、それが儀式でもあるかのように、カサゴに唾を吐きかけ、踏み潰す。そして動かなくなったカサゴを嫌悪感をにじませて、海に投げ捨てる。ゆっくり沈んでいくカサゴの死体が、海中のカメラで映し出される。と、次の瞬間、カサゴが生き返る。そしてなにごともなかったように泳ぎ去る。そうか、カサゴ、死んでいなかった。そしてもしカサゴが同性愛の象徴なら、たとえ周囲の無理解といわれなき憎悪によって、押しつぶされたかにみえる同性愛も、死んではいない、必ず息を吹き返し、蘇り、愛を成就させるだろう――そんなことを予感させるのだった。


たとえどんなに抑圧されようとも、同性愛は死ぬことはない。


つづく

posted by ohashi at 20:02| 映画 | 更新情報をチェックする

2019年04月02日

『ブラック・クランズマン』

いかにもファシストというかネオナチ――たとえ本人が自覚してないとしても(自覚していないとうことはありえないが――が書きそうなレヴューがあった。その一部を引用する。


クー・クラックス・クラン(KKK)という、黒人皆殺しを叫ぶ白人至上主義者の狂信団体に、電話口での口先三寸の演技によって、まんまと入会を認めさせてしまった黒人警察官が主人公です。しかしさすがに黒人である本人が潜入するのは無理なので、ユダヤ人の同僚を身代わりに潜入させるのですが、実はKKKが黒人の次に敵視するのがユダヤ人なのです。


このあたりの事情は映画では触れていませんが、イエスキリストを処刑し、その死の責任を子々孫々まで負うことをユダヤ人たちが約束した……と、「キリスト教の聖書に書かれている」ことがユダヤ人敵視の原因だと言われます。


もちろんユダヤ人側は、そんな一方的な「異教徒からの言いがかり」を認めるはずもないのですが、「異教徒の聖書」におけるこの記述が原因になって2000年以上も迫害され続けてきたユダヤ人こそいい迷惑という構図ですね。


ああ、なんとソフトな語り口。そしてなんという虚偽が。そもそも、そんなことは聖書に書かれていない。聖書に書かれていることは、以下のとおり、


27:23しかし、ピラトは言った、「あの人は、いったい、どんな悪事をしたのか」。すると彼らはいっそう激しく叫んで、「十字架につけよ」と言った。27: 24ピラトは手のつけようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、水を取り、群衆の前で手を洗って言った、「この人の血について、わたしには責任がない。おまえたちが自分で始末をするがよい」。27:25

すると、民衆全体が答えて言った、「その血の責任は、われわれとわれわれの子孫の上にかかってもよい」27:26そこで、ピラトはバラバをゆるしてやり、イエスをむち打ったのち、十字架につけるために引きわたした。


マタイ伝第27章第25節におけるユダヤ人の発言は、以後、ユダヤ人が、永遠に呪われるということではない。イエスの処刑に加担した、この場のユダヤ人たちの子孫には、やがて罰が下る。そして、それで終わり。そもそもイエスは復活するのであり、ユダの裏切りですら神意によるものかもしれないという教えがあるなかで、イエスを殺したということ自体意味がない。


ともかく、この一節をもってして、ユダヤ人はキリスト教徒から嫌われるとか呪われてるているというのは、キリスト教の教義ではない。反ユダヤ主義者の言い分であって、この一節をもってユダヤ人が呪われているなど、白人優位主義者のトランプですら認めることはないだろう(もっとも彼はイスラエルびいきなのだが)。


こうして、上記の引用文のネオナチは、こっそり反ユダヤ主義の主張をもぐりこませている。反ユダヤ主義者は、こういう偏見をもっているという話しではなく、反ユダヤ主義の偏見を、一般論のごとく開示しているのだから。


しかし問題は、以下の発言である。


…… しかし私には、黒人の権利を主張する団体とKKKとが、相手こそ違え、同じことを主張しているのではないかと思えてなりませんでした。


もちろん、スパイク・リー監督のキャリアを見る限り、黒人側を批判するような作品を撮るはずがありません。おそらく監督が訴えたかったのは、トランプ大統領の手法が、このKKKのスローガンそのものを使い、KKKのヘイト路線を踏まえていることの危険性の指摘だったのだろうと思います。


にもかかわらず、第三者である日本人の目には、憎悪に燃える双子のように、黒人も白人も、ともに相手方に対するヘイトを燃え上がらせていることについて、第三者にしか見えない問題点の存在を、深く考えさせられたのでした。


もちろん、異色の刑事ドラマとしても充分にシナリオは練られているので、問題意識がなくても充分に楽しめること請け合い。しかも観終わった観客には、映画が提示した問題を一人一人咀嚼する努力を突きつけられる、重量級の作品だと言えると思います。


ぼーっと生きてんじゃないよというよりも、こうやってネオナチは白人優位主義者を弁護するのである。もちろん、それが保守派から極右まで共有しているイデオロギーであることはまちがいない。


ただ、そういう感想をもつのは、まったく無根拠な恣意的な感想ではないことはおさえておかねばならない。KKK団と黒人解放運動(大学の黒人学生の自治会が中心となっている運動--その内実は、デモや、講演会などの企画と組織――)とを映画が対比していることは事実である。いっぽうでブラックパワーを主張する黒人団体がいるとともに、もういっぽうで黒人とユダヤ人へのヘイトを主張するKKK団がある。ふたつの団体は、映像的にも交互に映し出されることがある。しかし、ここが重要なのだが、両団体は似て非なるものであること。一見似ているようだが、実は根本的に異なること。さらにいえば、両団体が同じになってはいけないということである。


ここがわからないと困るというよりも、ネオナチは、ここを利用して、両団体が同じだという主張する。そして両論併記にもちこめば、白人優位主義者の弁護は完成したも同じなのである。


たとえば主人公の黒人警官は、最初、潜入捜査に入るのは、ブラックパワーの演説会である。私の知人(大学の教員)が、この演説会の場面で、いたたまれなくて、映画館を出ようと思ったというので、なぜかと聞いたら、ああやって聴衆をアジる演説には、空恐ろしいものを感ずるという。しかし、映画の演出を見る限り、聴衆はアジられて興奮しているというよりも、黒人としての誇りをもてという演説者の訴えに、深く感銘を受けているようにみえる。


またこの演説会の最後で、聴衆の一人一人に黒人革命を起こそうと耳打ちされるのだが、それをもって警察幹部は、団体を取り締まろうとするのだが、それはレトリックだと警察官の側が指摘するくらいで、ほんとうに武力革命を準備しているわけではない。この場面にいたたまれなくなって映画館を出ようとした、自分では心優しいと思っている知人は、結局、これを武力革命集団あるいはテロリスとの集団と判定しているのだが、それは、そうやっていいがかりをつけて弾圧する警察よりも、もっとたちが悪い。つまりいいかがりとも思っていないからである。


もうひとつの例は、KKK団の入団式のあとのパーティで、団員たちは、グリフィスの『國民の創生』をみんなで見ている。黒人差別的場面がとりわけ団員を興奮させる。そもそも『國民の創生』の原作は『クランズマン』といい、[國民の創生]も一時原作のタイトルにあわせて『クランズマン』にしようとしたくらいなので、『ブラック・クランズマン』というタイトルをもつ本作は、『國民の誕生』と、複雑な関係を生きている。


KKK団が黒人が迫害される映像を拍手喝采してみているとき、同じ町の別のところでは、黒人団体が招いた老講師(ハリー・ベラフォンテが演じている)が、白人による黒人の知的障碍者に対するリンチを、自身の目撃談として淡々と語り聞かせている。怒りと悲しみが渦巻いている回顧話だが、感情的にならぬよう意図して淡々と話すように心がけているようだ。黒人がいじめられている映画をみて馬鹿笑いをしているKKK団と、白人の残虐行為の犠牲になった黒人を追悼する過去の目撃談に耳を傾ける黒人女性たちとが交互に映し出されるのだが、ここにあるのは、両団体の相似形ではなく、同じような集会でありながら、根本的な違うという主張なのである。


かたやいじめを喜んでいる白人優位主義者。かたやいじめの犠牲になった仲間の死を悼み、苦しみを共有し、苦難を克服しようとする黒人団体。どちらが倫理的に優位にあるか、一目瞭然である。それを「憎悪に燃える双子のように、黒人も白人も、ともに相手方に対するヘイトを燃え上がらせていることについて、第三者にしか見えない問題点の存在を、深く考えさせられたのでした」と、これがネオナチ、ファシスト、ネトウヨの発言でなくして、いったい誰の発言というのか。


先のブラック・パワーの演説(ストークリー・カーマイケル/クワメ・ツレの演説)会で、いたたまれなくなったという私の知人の話を聞いて、私のほうが、ほんとうにいたたまれなくなった。二度と、彼女とは、口をきくまいと誓ったのだが、いたたまれなくなるほうがおかしいのである。


そもそもカーマイケルは、学生非暴力調整委員会のメンバーであって、暴力革命をめざすテロリストではない。黒人革命をめざすというのは、恥から誇りへといたる、意識革命であって、武力革命ではない。彼らが暴力テロを準備しているという形跡はない。少なくともこの映画の演出では。また暴力テロを企てるのはKKK団の凶悪なメンバーであって、彼らは黒人団体で指導的立場にある女子学生殺害を狙うのである。


またブラックパワー運動も、遠い過去の出来事であって、現在進行形のいま、ここにある危機としての運動でもなんでもない。それを、まるで自分が攻撃の対象となっている白人の上流階級の女みたいに反応するというのは、あなたは、自分が黒人と同様に差別されているアジア人・日本人であるとわかっていますかと言ってやりたい。救いがたい名誉白人。演説会をテロ準備の集会と決めつけようとしたり、ただ黒人であるからという理由で、嫌がらせの検問なり捜査をする警官・対・黒人という、アメリカ黒人の歴史の暗部のおなじみの出来事をみることのほうが、いたたまれなくなって当然ではないか。


ただ、言えることが一つある。いまの日本では、誰が洗脳したのかと思うのだが、ファシズムと戦うこともファシズムなのである。それは学生の間にけっこう浸透している考え方のように思われる(特定のどこの大学の学生というのではなく)。もちろん、そうした考え方は、学生だけでなく、教員にも、一般人にも浸透している。そういう考え方なり姿勢は、何を目指しているのかといえば、ファシズムの温存である。日本でも腐敗した政権に対して反対の声を上げば、それがまるで、現政権以上に腐敗した不道徳なテロ行為であるかのようにみなされる。安堵するのは、現政権であり、現政権の応援団たちである。


ただ、こうした傾向は、日本だけではなく、アメリカにも全世界にも広がっているのだろう。映画のストラテジーは、KKK団と黒人団体とを対置する。ファシストは、どちらの団体もヘイトの団体であるとして、切り捨てることによって、差別構造を温存させる。


日本では、「第三者として」自分が客観的で冷静な立場にいるかのようにして発言する。どちらもだめだと。しかし、むしろ「私はファシストだ、レイシストだが」と断ったうえで発言してほしい。真実を知らせるためにも。


自分は心優しい人間だが、対立と憎しみをあおる発言には、いたたまれなくなったと誰かがいう。たしかにKKK団の愚劣な姿勢は、目に余りますよねと反応する。いや、そうではない。え、黒人の側の? というのが現状なのである。


しかし差別する側の差別と闘う側とは、似ていているようにみえて根本的に違うというのが映画のストラテジーである。いくら差別に対する憤りがあっても、KKK団のならず者メンバーのように、不法なテロに走ることはあってはならない。むしろ合法的な政治活動をとおして差別撤廃をめざすべきである。ブラック・パワーよ、KKK団になるなということである。


と同時に、差別する側と差別される側の対立を、同じ穴のムジナにみたてる極右に同調しないように、現在のアメリカにおける白人優位主義者の暴力の現実をニュース映像を使って、観客に突きつける。差別する側の違法性は摘発され根絶されるどころか、いまや政権にも守られ犠牲者を生んでいる。それはなにも黒人だけではなく、白人にも犠牲者を出しているのである。二つの勢力は、似て非なるものである。それをなし崩しにしようとするのは、差別者と同じ愚を犯すことなのだ。


映画はKKK団の一支部をコケにする過去の歴史の一挿話というかたちをとる。警察も、差別警官もいるが、おおむね、主人公の黒人警官に好意的で、KKK団の暗躍を暴露し、その危険分子を摘発することにも成功する。だが、それは勝者(ここでは差別者である白人)の歴史に穿たれた一瞬の出来事(被差別者の勝利)であって、KKK団を甘くみてはいけない。彼らは今なお生き延び、いまや、過去にないほどのむき出しの暴力的迫害を遂行し、政権にも支持されているように思われる。


白人優位主義者の、こうした浸透と拡散のカギを握るのは、この映画で、コケにされていたがデイヴィッド・デュークのソフト路線戦略である。正確にいえば、映画の最後は、このデュークの現時点での最終的勝利を暗示している。彼はKKK団を「組織・団体」という、あたりさわりのない名称のもとに隠し、合法的手続き、コンプライアンスを重視をして、その黒人差別・ユダヤ人差別主義を浸透させようとした。大統領候補にまでなった。いまや、その試みは成功しているかのように思われる。凶暴な狂人であるファシストは、狂気の殺人鬼の顔をしていない。心優しい平和的人間の顔をしている。そのため「第三者」だと、のたまって、対立は同じ穴のむじなと批判する。KKK団の集会のほうではなく、黒人集会のヘイト(実際にはプライドを主張しているのだが)にいたたまれなくなるとうそぶく。そして国民に統一を強制する全体主義的国家をめざすスローガンである「令和」――これはEnforced HarmonyあるいはEnforcing Harmonyと英訳すべきだ――を、麗しい平和だと言い換える。

posted by ohashi at 23:07| 映画 | 更新情報をチェックする

2019年04月01日

令和

あまりにも恐ろしい元号に絶句した。くだらない元号なら見過ごせるが、この元号は強烈すぎる。またその意味付け、決定も茶番以外のなにものでもなく、日本も、これでいよいよほんとうにファシストの屑が牛耳る国になるだろうと思うと、空恐ろしくなる。こんなバカな元号(それに類するもの)を掲げる国は日本だけだろう。祝福してくれるのは、世界的にみればニュージーランドの白人至上主義のテロリストくらいだろう。


令の字は、命令、指令、法令のように強制をすることを思い浮かばせる。テレビのニュース番組で専門家が、「令」には強制・使役の意味があって、今の時代にどうかとコメントしていたし、別の番組では、専門家が、「令」の字は、元号で使われたことがないが、かつて江戸時代に「令徳」という元号を朝廷側が候補にあげたことがあったが、徳川幕府が、これは徳川に命令するという意味合いがあるため反対して没になったという史実を紹介していた。まあ、そうだろう。「令」の字は強制や統制の意味が強すぎる。国民に命令し指令し、一致団結するよう統制するというのが、この元号の意味だろう。いいかえれば、反対したり批判したりして「和」をみだすものは、徹底的に弾圧するということだろう。すばらしい。地獄が始まる。


『万葉集』が笑わせる。引用例は、「令月」である。いまでは使われない熟語だと思うが、「令」のもつ良い意味は、たとえば「令名」という表現で、現代語にも残っている。それはいい。


しかし令和は、完全に意味のないこじつけ新造語である。「初春の令月にして気淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭(らん)は珮(はい)後の香を薫らす」から引用したというが、だったら、令に着けるのは「和」でなくとも、「披」でも、「香」でも「薫」でも、なんでもいいことになる。和である必然性はないのだから。そこに「和」をもってきて、「令」の肯定的な意味(ただし現代ではほとんどオブソリート)をもってきて、むりやりめでたい意味にするものの、その一方で、統制主義者、全体主義者、ファシストが好む、異物排除の統制国家観を堂々と表明するという、まさにワーストでディスガスティングな姑息な操作をやっている。


これから、この元号は絶対に使わないつもりだが、そのためにも元号を使わないキリスト教徒に改宗しようかとおも思う。


また、私は日本の国旗は焼くか唾を吐きかける対象としか思わなかったが、これからは心を入れ替えて日本国旗に敬意を表したいと思う。スパイク・リー監督の『ブラック・クランマン』では、最後にアメリカの国旗が上下逆に、さかさまになって示される。これは「緊急事態」とか「絶望」のほかに政治的「抗議」というシグナルとして使われるようだ。「緊急事態」「危機的状況」「絶望」「意義申し立て」「抗議」、これはアメリカのみならず、いまの日本にもあてはまりそうだ。だから私はことあるごとに日本の国旗を掲げようと思う。あいにく左右対称の国旗はさかさまにしてもわからないが、私の掲げる日本国旗は、これからはいつも上下さかさまである。

posted by ohashi at 21:47| コメント | 更新情報をチェックする