2019年03月19日

『ROMA/ローマ』

ROMA/ローマ』(Roma)は、アルフォンソ・キュアロン監督・脚本・共同製作・共同編集による米墨合作のドラマ映画である。1970年と1971年を舞台としたこの映画はメキシコシティで育ったキュアロンの半自伝的な物語であり、とある中流家庭とその家政婦の日常が描かれている。タイトルはメキシコシティ近郊のコロニア・ローマに基づいている。Wikipediaより


すでにNETFLIXで配信されている映画だが、NETFLIXを見ることのできない私は、さいわい都内の近くの映画館でみることができた。イオンシネマ系列だが、都内ではここだけというのも、珍しいのだが。


モノクロの映画ということで、地味な芸術系映画を予想し、娯楽映画ではなさそうだと覚悟を決めたのだが、いや、これはすごい映画で、各国で、いろいろな賞を獲得したのは十分に納得できる。これほど美しいモノクロ映像をみたことはないし、これほど淡々と事件が起こり続ける、緊迫感にみちた日常を経験したこがない。つまり、ここにある日常は、単調さと緊張とが踵を接していて、見るものは、決して気を抜くことがない。


鮮明な色彩を感じ取れる、深いモノクロ映像は、そのひとつひとつがモノクロの芸術写真となっている(もともと芸術写真というのは、モノクロなのだが)。


また最後のほうの海のシーンの迫力には圧倒されるが、寄せては返す波のように記憶の波のなかを往復する映画と、うがったことを書いていたレヴューがネットにあったのだが、波にのまれそうになった子供たちを救出する家政婦のクレオ自身が、記憶のかなたに飲み込まれそうになったところ、この映画に救われたということもいえよう。最後の献辞は、このクレオのモデルとなった女性で、監督の家の家政婦であった女性である。


実際、この海の場面は、冒頭のタイトルシーンともつながることになる。冒頭、中庭の床のタイルか敷石が固定カメラによって映し出される。掃除中で、ときおり、そこに水が流される。床に水が流されると、水面に中庭から見上げられる空の一角がうつしだされる。水が流れ、また水が流される。この動きは、波がうちよせつづける、この海の場面とつながっている。海はまた、一方で、喜びも悲しみも洗い流す自然のダイナミックな運動そのものを暗示する。


海のシーンで代表されるような横移動の撮影は、この映画では多用される。山火事の場面から、翌日の場面、みな横方向に歩いている。映画館に行くシーンでも。また海の場面でも。そして、そこに垂直方向の動きが加わる。この地域では5分に一度、空を横切る、旅客機が情報への視線をいざなうだろう。またクレオ自身の動きが垂直方向の動きと関係してくる。最後、彼女が屋上の物干し場へと階段を上ってくところで終わる。固定カメラがしたから見上げつづけるなか、旅客気が空を横切り、エンドクレジットがながれる。屋上へ行って見えなくなった彼女、上空の航空機、それは彼女が昇天したイメージともとれるし、彼女の居場所が天上であり、彼女は地上に降り立っていた天使だというようなイメージともとれる。日常の光景が、リアルさを、具体的特殊性を維持しつつ、寓意性をつねに寄り添わせているのである。


カメラを固定するのは、映画を撮るときの鉄則かもしれない。素人が映像というか動画を撮ると、ついついカメラをあちこちに動かして、画面を魅力のないものに変えてしまうのだが、映画ではカメラは、固定されることが多い。そして固定されたカメラのなかに、様々な日常音が入り込んでくる。まさに視覚映像と聴覚映像を実現するパッシヴなカメラワークは、同時に、クレオ自身の控えめな、パッシヴな生き方と通ずるものがあるのだろう。彼女は、強い自己主張をすることなく、パッシヴな生き方のなかに、周囲の現実を、だれよりも、誠実に受け止めているのである。


もちろん映画は、女性たちの自立物語でもあって、女性たちへのオマージュにもなっている。


動物たちとの共存を含め、何度でも見直し、考え直し、感銘をうけたい映画である。



posted by ohashi at 09:39| 映画 | 更新情報をチェックする

2019年03月18日

退職にあたって 1

コメント集1

随時追加予定


退職記念パーティでいただいたコメントというかスピーチは、どれもありがたいものだったが、どれも正直いって、私とは別人に対するコメントのようで、あらためて私とはこういう人間だったのかと思い知らされたのだが、それはともかく、いただいたスピーチのなかで興味深いもののについて、随時考察する。


といえ、こう述べると、私がヒーローのような中心人物のようだが、実際には、卒業生が、自分の青春の日々をふりかえり、なつかしむ貴重な機会を、私の退職が提供するということなので、私はほんとうはわき役にすぎない。


  1. メトニミー

私が、過去、批評理論とか文学理論の講義のなかでメタファーとメトニミーの説明として、学生から聞いた話として、「私と、私が白豚をひっぱっている」これがメトニミーだと説明したということを例にひいていた。明らかに悪意あるコメントで、こんなシュールな例で、メトニミーについて何もわかるはずもない。学生から聞いた話ということだが、学生の話がいい加減だったというよりも、学生の話を意図的に歪曲して捉えたものだろうか。あるいはわざわざ無意味なものに変えたのだろう。そうでなければはっきりいって、このスピーチをした人は、こうは思いたくないのだが、頭おかしい。


今回いろいろな人のスピーチを聞きながら、私がそんなことを言ったのだろうかという思い、もしくは私がいろいろなことを忘れていることを痛感したのだが、この白豚の話は覚えている。最近は近年は例にあげなくなった。白豚は、私のことでもあるのだが、一時、糖尿病で急激に減量して、白豚ではなくなった時期があったのだが、まあ、最近、また白豚にもどりつつあった、いやもどったので、授業で使う機会もできたのだが、授業そのものをすることはないので、どうでもよくなった。


メタファーとメトニミーの説明で、たとえば「白豚先生」というあだ名の人がいたとする。この場合、ふつう、その先生を、愛情をこめて「白豚」と表現しり、悪意をこめて小ばかにして「白豚」といっているのではないか、そして本人は、色白で太っていると推理するかもしれない。もしこの推理があたっていれば、「白豚」というのは、その人を示すメタファーである(この場合、愛称か蔑称かは、関係ない)


しかし、そうでない場合もある。もし、本人が、色白で太っていて豚を思わせる体型とか容貌ではなかった場合、なぜ、この人が「白豚」と呼ばれているのかと調べてみると、たとえば、その先生が、白い豚をペットにしていて(豚は頭のいい動物らしく、ペットにするのは可能らしいが)、いつも、自分のペットの白い豚の話をする。そのため、いつしか「白豚先生」というあだ名がついたとする。この場合、「白豚先生」というはメトニミーである。メトニミーというのは、部分で全体をあらわす用法で、その先生が勝っているペット(白豚)で、その先生そのものを表現するから、典型的なメトニミーである。


実際、「ベクトル先生」と呼ばれている教員が実際にいたという話を学生から聞いたことがある。数学とか物理で使う「ベクトル」(英語ではVector)から想像すると、まるでベクトルの表示記号のように痩せているか、細面で、とんがっているような体系とか容貌を想像したのだが、「ベクトル先生」の名前の由来は、そうではなく、授業中に、ベクトル関連の、面白い話をして、それが印象的だったのか、いつもベクトルについて話をしていたか、そんな理由で、ベクトル先生のあだ名がついたらしい。


あだ名はメタファー型とメトニミー型がある。ただ一般にはメタファー型を想像するかもしれないが、メトニミー型の場合もあること。つまり、ひとつ語なりフレーズが、メタファーにもメトニミーにもなりうるということである。


さらにいうと、ベクトル先生とはちがって、白豚先生という場合、そのあだ名の由来がメトニミーであったとしても、そこにメタファー的なニュアンスをこめていることもある。「ホワイトハウス」という表現がそうで、「ホワイトハウス」はアメリカ合衆国大統領官邸という意味だけでなく、大統領そのもの、大統領府とか合衆国政府を意味するメトニミーであるが、同時に、メタファーの機能も帯びていて、「ホワイトハウス」という表現が、肯定的なプラス価値を匂わせているともいえる。これは9割メトニミーだが、1割くらいメタファー的な含意もあるということになる。


以上、講義終わり。これを「私が、豚にひもをつけて歩いている」という表現によって、メトニミーを説明しようとしたという逸話は、よほどのバカか、よほどのワルが考えそうなでっち上げである。


2 修道士ロレンス


記念パーティには、劇団カクシンハンを主催する木村龍之介氏と、同じくカクシンハンの岩崎雄大氏が来てくれた。記念パーティは、基本的に、東大英文学会の会員(つまり英文の卒業生や修了生、つまり英文研究室に所属した者)しか参加できないので、お二人が、わざわざ私の退職を記念してかけつけたというとうことではなく、英文学会の会員として参加されただけなのだが、演出家の木村龍之介氏にスピーチをお願いした。ただし、私は送られる立場なので、誰にスピーチをお願いするかは、私が決めたことではない。したがって木村氏のお願いしたのは英文研究室の教員なのだが、演劇界ではいまや著名な木村氏だが、演劇関係者以外のところにも、その名声が届いているということだろう。そうでなければ、英文研究室の教員(演劇専門ではない)がスピーチをお願いすることはない。


木村龍之介氏のスピーチは、りっぱなもので、ここで再録できないのがきわめて残念なのだが、そのなかで、私のことを、木村氏にとって、『ロミオとジュリエット』に登場するロレンス修道士になぞらえたのだが、それはそれで、私にとっては、最大の褒め言葉みたいなものだったが。


そのことが二次会で、たまたま私の周囲の人たちの間で話題となって、ロレンス修道士になぞらえるのは、おかしい。ロレンス修道士は、ロミオとジュリエットを結婚させて、二人が死ぬ原因をつくった張本人である。そんな悪人を、大橋先生になぞらえるというのは、おかしいということになった。


しかし木村龍之介氏は2月にカクシンハン・スタディオで、『ロミオとジュリエット』を演出したばかりである。このブログでも紹介したように、みごとな舞台で、しかも台詞の省略も少なく、本格的なシェイクスピア劇上演だった。その彼が、無知で、不適切な人物に、私をなぞらえたということはありえない。


『ロミオとジュリエット』のロレンス修道士は、二人を結婚させ、その2日、3日後に、二人が死ぬ原因をつくった人だが、善意の人である。憎みあう両家の息子と娘を結婚させることで、両家の不和を解消しようとした。ただ偶然が重なり、計画どおりにいかなくて、二人の死を招くことになる。ロレンス修道士の介入がなければ悲劇は成立しなかった。彼の科学的知識によって、仮死状態になるいかがわしい薬を使わなければ、悲劇はうまれなかった。このことをもってして、21世紀になってからはロレンス修道士を否定的にとらえる解釈が生まれてきたのも事実である。しかし、彼が、犯罪者や悪人だというわけではないのだ。


たとえばロミオとジュリエットが、天国で、ロレンス修道士に再会したとしよう。そのときふたりは、ロレンス修道士に対して、あなたが私たちを結婚させなかったから悲劇は生まれなかった、二人は、地上で結ばれることはなく、若死にすることもなく、長寿をまっとうしたかもしれない。あなたが、あれこれ画策しなかったら、ふたりはもっと幸せだったと、ロレンス修道士を非難するだろうか。


ファンタジーであっても、論理と現実性はある。もしふたりがロレンス修道士を非難したら、『ロミオとジュリエット』とは、ずいぶん貧相な、上演するにあたらない凡庸で陳腐な劇にすぎないだろう。おそらく、ロレンス修道士の介入がなければ、結婚することもなく、ふたりとも長寿を全うしたかもしれないが、その人生は、おそらく愛のない、無味乾燥な凡庸極まりない、くそみたいな人生であったに違いない。それよりもロレンス修道士のおかげで、たった二日であっても、その短い一瞬の時間に永遠の愛を経験できたし、またあっというまに死に突き進むことになるが、それによって人生の汚れとは無縁だった。汚れなき閃光のような人生――それを可能にしてくれたのはロレンス修道士の介入である。不手際と先見の明のなさによって悲劇を招いたことを詫びるロレンス修道士に対して、二人は非難するどころか感謝さえするだろう。また、そのような想像を可能にしないのなら、『ロミオとジュリエット』は、つまらない悲劇にすぎない。


さらにいえばロレンス修道士の悪いイメージには、そのカトリック性が寄与している。いやヴェローナを舞台にしているのだから、ロレンス修道士は最初からカトリックだと、つっこまれるかもしれない。修道士という身分も、プロテスタント・イングランドからはなくなっていた。しかし本来のカトリック性を、その修道士性が、また、その薬草栽培をはじめとする、その魔術的実践が、二乗化している。だからロレンス修道士は、当時のプロテスタントの観客にとって、いかがわしい、詐欺師的策士の影を帯びている。


事実、そうなのだ。私の最終講義のなかで発展はさせられなかったのだが、プロスペロのような魔術師、あるいは隠遁した賢者で魔術を使える人間は、プロテスタント・イングランドでは批判されるべきカトリック性を強く帯びていた。だからロレンス修道士も、プロテスタントの観客にとっては、否定的存在なのである。


だが、シェイクスピアは、隠れカトリックであったことをふまえると、シェイクスピアはロレンス修道士に対して、むしろ親近感を覚え、みずからの分身として扱ったのではないか。ロレンス修道士も、演出家・劇作家であり、そしてカトリックである。ロレンス修道士は、シェイクスピアの分身であるといえるだろう。


木村龍之介氏が、私のことをロレンス修道士になぞらえたことは、最高の褒め言葉だったのである。私のことを、感謝されるべきロレンス修道士として扱ってくれたのである。


過分の褒め言葉を感謝するとともに、英文学会には、ロレンス修道士=悪人説ということを、なにも考えずに主張するバカがいるので、木村氏をはじめ、多くの人たちが心しておくところだろう。


posted by ohashi at 16:55| コメント | 更新情報をチェックする

2019年03月15日

血の日曜日

1972年の「血の日曜日事件」に関して、次のようなニュースがあった。その一部を引用する。

1972年の「血の日曜日事件」、元英兵1人を起訴 北アイルランド

AFPBB News  2019/03/15 13:09

AFP=時事】英領北アイルランドで1972年に発生した英軍によるカトリック系住民の弾圧事件「血の日曜日事件(Bloody Sunday)」をめぐり、同地の検察当局は14日、元英軍兵士1人を殺人罪などで起訴すると発表した。北アイルランド紛争の中でも最悪の流血事件の一つは、47年を経て犯罪として裁かれることとなった。

「血の日曜日事件」は1972130日、北アイルランド第2の都市ロンドンデリー(Londonderry)のカトリック系住民が多いボグサイド(Bogside)地区で、公民権を求めるデモ行進に英軍の空挺隊員が発砲し、13人を殺害した事件。その際の負傷がもとで後に1人が死亡し、死者は14人となった。

 起訴されたのは元英兵で、罪状は殺人2件、殺人未遂4件。しかし、この兵士だけでは、ただのスケープゴート化で終わる可能性もあり、住民は怒っている。しかも、事件後47年というのは長すぎるのだが、地道な捜査と起訴を今後も期待するしかない。


 この事件を広く世界に知らしめたのが、ポール・グリーングラス監督・脚本の『ブラディ・サンデー』(Bloody Sunday)。これは、「血の日曜日事件」(1972年)を扱った、2002年の映画作品である。 グラナダ・テレビジョン(英国のテレビ局)によってテレビ映画として製作。2002116日にサンダンス映画祭でプレミア上映。125日よりロンドンの一部の劇場でも上映された。サンダンス映画祭では観客賞、ベルリン国際映画祭では金熊賞、日本でもDVD化されている。

映画は、セミ・ドキュメンタリーというか再現ドラマ形式の映画で、迫真的再現と演出で圧倒される。ポール・グリーングラスの名前を一躍世界に広めた映画でもあって、この後、グラスはハリウッドに進出するが、実際に起こった事件に取材した映画は監督ならではの得意分野であり、観客もそれを求めている。近年にはウトヤ島事件を扱った、『722日』がある。

ちなみに『ブラディ・サンデー』のなかで発砲した空挺部隊の隊長の役で、ティム・ピゴット=スミスが出演していたことは今も鮮明に覚えている(悪役での登場)。ティム・ピゴット=スミスについては『ヴィクトリア女王 最後の秘密』参照のこと。冥福を祈りたい。

posted by ohashi at 18:49| コメント | 更新情報をチェックする

2019年03月13日

バイトテロ

実は、バイトテロという言葉はあまりよくなくて、テロを比喩につかうことで、ほんとうのテロ(とはいえその定義は流動的だとしても)とそれ以外のものとの区別がつかなくなる。テロには政治性と事件性がある。バイトテロということ、この両者があいまいになってしまう。


ただ、今回の厨房での不適切行為は、悪ふざけの一種でしょう。このような悪ふざけは誰も、どこでもやっている。もちろん、私はこういう悪ふざけは絶対にしない。しかし、悪ふざけは集団や仲間の結束を強めたり連帯性を確認したりするために、日常的に行われている。したがって、そういう悪ふざけをしない私には友人がいない。私には、親密な仲間といえるものがない。逆にいうと、友人が多く、仲間意識の強い人間は、そういう悪ふざけの当事者か協力者である。


だからであろう、軽い気持ちでしたことが一生棒にふることになるかもしれないという、ありがたい忠告がネットにのったりすることになる。くだらない道徳をふりかざす偽善者しかないない、モラル・ファシストしかいないかのようなネットの世界で、企業側にあたえた損害、客の被害などを無視して、悪ふざけの加害者に忠告するのは、このような悪ふざけが常態化していることの証左ではないか。こんな悪ふざけは、どこにでもある。悪ふざけをしないほうが、変人扱い、時には悪人扱いされる。


しかし悪ふざけにも限度がある。たしかにたちの悪い悪ふざけ、人をからかうのではなく傷つけるような悪ふざけはある。それらは仲間の結束を高めるためとは、限度を超えてはならないともいえる。だから今回の外食産業での悪ふざけは度を越している。みんながみんあ度を越しているわけではないともいえる。


しかし、そうだろか。問題はこれが外食産業での事件であることだ。私が学生の頃、ずいぶん昔だが、外食産業でアルバイトをしたら、二度と、外食したくなくなると、よく言われていた。厨房が不潔だったり、材料、調理品の管理が不衛生で、料理も衛生上問題がありすぎるということだろうと思っていた。まあ、それもあるだろう。


ただ、昔の話である。いや、昔もそうであったかどうか、証拠などないのだが、そうであったとしても、今や、改善されて、そんな不潔なことはなくなった。またラーメン店とか寿司店もそうだが、客の目の前で調理する店も多く、そこで不潔なことなどできないし、不潔だったら客が来ない。


しかし今回の事件をみて、おそらく厨房では不潔な悪ふざけが行われていた。おそらく常習的に。今回のような悪ふざけを目の当たりにしたバイトは、その仕事を辞めて、二度と外食はしないと宣言したりする。また厨房内での結束をたかめるために、そうした悪ふざけを常習的にしていたのではないだろうか。客に出す料理を不潔に扱うことほど、快感をともなうものではないか。


今回の不適切行為の動画は、ほんとうに何も考えずにおこなったのか、一部でいわれているように、安い賃金で働かされるバイトによる告発といわなくとも抵抗なのか。どちらのも、その可能性を残しつつ、第三の提案として、自分たちのやっていることを自慢気に公開したのではないかという見方があることを確認したい。それは珍光景の公開ではなかったか。たとえば毎朝、家のバルコニーの手すりにつかまっているミミズクがいるとして、その動画を撮影してアップした。常習化した、習慣化した、あるいは風景かした出来事(衝撃的だったり新奇の出来事ではなく)を、動画にした。それと同じで、日常的な面白いことをアップしたのではないだろうか――知らない人たちむかって自慢げに。


もちろん、そうでないことを祈るばかりだが。

posted by ohashi at 22:07| コメント | 更新情報をチェックする

2019年03月12日

『ロミオとジュリエット』

カクシンハン・スタジオによる風姿花伝での上演。2月24日日曜日。記事は、書いていたが、アップするのを忘れていたようだ。とはいえ、2日のみの公演の最終日の追加公演だったので、宣伝にはならないので、遅れてもとくにダメージはないのだが。


また宣伝するまでもなく、カクシンハンのステージは、全席指定の列車あるいは航空機、あるいは観光バスみたいなもので、席が全部埋まらないと発車しないシステムであるかのように、開演時には満席になっていた。


カクシンハン・スタジオは、劇団カクシンハンが主宰している演劇研修所で、そこで学んだメンバーの修了公演が、今回の『ロミオとジュリエット』である。メンバーについては、誰も知らないのだが、これから俳優として巣立っていくのか、すでに舞台には出ていて、自分にさらに磨きをかけるために研修をづつけてきたのか、そのあたりは、よくわからないのだが、舞台をみるかぎり、通常のカクシンハンの舞台と同じく力強く、また修了公演ということもあって、大胆な解釈や冒険を控えつつ、同時にカクシンハンのもつ斬新さも失わない舞台で、誰が見ても、満足できる舞台ではないだろうか。


シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』は冒頭で、口上役が、2時間の芝居であると宣言するのだが、英語でも、翻訳劇でも、そのセリフを全部を発したら、2時間ではおさまらず、3時間以上はかかる作品である。このギャップについては、諸説あって、ほんとうは3時間かかる芝居を、最初に3時間というと、観客が引くので、短めに2時間といったという説もあるのだが、それは冗談としても、2時間で上演したのはまちがいないらしい。


今回も休憩なしの2時間。大劇場のシェイクスピアの翻訳劇でも、休憩をのぞけば正味2時間30分くらいがふつうなので、大きく省略したという印象はない。つまり『ロミオとジュリエット』のコンパクト版ではない――セリフの省略はあるとしても。


舞台の三辺に空間を設け、椅子を置いて、演技をしない役者がそこで待機している。いうなれば楽屋も観客にみえるので、ただ、そこでぐったり休んでいるわけではない。舞台に乗っていいなくても、そこでの演技が要求される。というか楽屋を見せるといのではなく、舞台の周囲で待機している演技者もまた、舞台上での演技者と同様の存在であるということだろう。舞台のわきで、舞台上の人物とともにセリフをいう場面なども多い。


そういう意味で、『ロミオとジュリエット』をみせつつ、同時に、『ロミオとジュリエット』という演劇も見せているのである。カクシンハンの舞台は、すべてがそうだというわけではないが、今回は、物語のみならず、演劇も、観客にみせているのである。


演技そのものは、通常のカクシンハン公演とくらべても、なんら遜色はないもので、素人臭くはないというか、素人、玄人で測ること自体意味がないようにも思える。ジュリエット役の女優は、声も大きく、またよくとおり、発声もしっかりしていて、ジュリエットのセリフがとても聞きやすいし、こんなセリフがあったのかと、あらためて感動したところもあるが、ただ、エネルギッシュに早く話すので、棒読みである。ただ、これは致し方ないことかもしれないし、ひょっとしたら意図的なことなのかもしれないが、そのことが欠点だとは思わない。むしろ、そこに魅力があって、活力と感情の強度を確かな手ごたえとともに感じられるセリフで、棒読みであっても、感動すらおぼえてしまった。


他の演技者たちが、みな棒読みということではないが、なにか欠点かと思えてしまう部分も、魅力的であるように思えてしまうところが、若さゆえのすばらしさなのかもしれない。


カクシンハン・スタジオの案内のチラシをみた。第二期を募集していた。その案内をみると、実にりっぱな実践教育と、座学のようなものが用意されていて、これは演技者にとって、ある意味、将来の幹部候補生を育成するエリートコースのような存在かもしれない。劇団カクシンハン以外の講師陣の顔ぶれをみても、有能かつ著名な講師をそろえていて、俳優たちにとっては、実に刺激的なコースだと思う。


カクシンハン・スタジオを修了すれば、どんな劇団や舞台にも通用するということはないかもしれない。しかし、その目標、研修の終わりに、シェイクスピア劇を上演するという目標は、きわめてハードで高度なもので、これを達成することによって、あとは、どのような演劇上演にも対応し適応できる能力が身につくことはまちがいない。


それに教養を身に着けることも同時におこなわれているので、これは幹部養成のためのエリートコースともいえる。この研修を終えた研究生たちは、まちがいなく、将来、日本の演劇界を背負う幹部になるというのは、けっして大げさな褒め言葉ではないと思う。健闘を祈りたい。

posted by ohashi at 10:46| 演劇 | 更新情報をチェックする

2019年03月11日

『ウトヤ島 7月22日』

この時期というか本日、2011年の東北大震災の回顧が行なわれるのが通例だが、この映画は、同じ2011年7月22日ノルウェーで起こったテロ事件を扱う。恥ずかしながら、当時、管首相もノルウェーに対し死者を悼みテロとの戦いの決意表明をしていたのに、全く気付くことがなかった。あるいは完全に忘れていた。たぶん東北大震災ならびに原発事故の余波と、当時、大学でもさまざまな変更と例外的措置への対応に追われ海外での事件に関心を寄せるどころではなかったのかもしれない。

またむしろ当時、ヨーロッパでのテロ事件は、イスラム原理主義者らアラブ系もしくは移民系のテロリストによる事件であって、頭のおかしい一ノルウェー人が、ノルウェー人を70名以上殺害した事件は、悲惨な暴力事件(世界のいたるところで起こっている)のひとつとして日本のメディアでは取り上げられなかったのかもしれない。

【これは精神異常者の殺人鬼が無差別殺人を犯したという事件ではなくて、労働党政権の移民政策(受け入れに寛容な)を批判した極右の人間が、政府庁舎を爆破したあと、労働党メンバーの子女を殺害しようと、警察官に変装してウトヤ島に上陸し、そこで70名を殺害したという、完全に政治的テロであって、リベララル政権へのファシストの攻撃という、2010年代の政治的動向を先取りしていた。移民がテロを起こす可能性があるから、厳しく取り締まれと主張して、みずからテロを起こす、この犯人は、その主張の正当性と倫理性を実証するのなら、一刻も早く、みずから命を絶っべきだろう】

この映画はウトヤ島での集団殺害事件を、何が起こっているのかわからず、ただ逃げ惑うしかない被害者の視点から、リアルタイムでノーカットで描くもので、最初は、その臨場感に圧倒されて、ただひたすら緊張していた。犯人に見つからないように、逃げ隠れする緊張感が、まるで悪夢を見ているような重苦しさで伝わると同時に、鬼ごっこで逃げる側になることの快感も生まれる。まさにテレビ番組『逃亡中』の世界である。

不謹慎なというなかれ。確かに多くの犠牲者を出した事件をゲーム感覚で楽しむことは、不謹慎である。しかし、この事件をゲームにすることで学ぶことも多い。逃げる側をプレイする場合、700人くらいの集団のなかで知人は数人、地理的感覚はゼロで、携帯での連絡や情報収集にも限界があり、そして狙撃者の正体や人数もわからないまま、狙撃者に見つからないように細心の注意を払いながら逃げ回るときに生まれる、自分だけ助かればいいというエゴイズム。傷ついた仲間を助けようとする連帯意識。武器をもたない人間、あるいは幼い子供をも平気で殺害する犯人に対して沸き起こる恐怖と激しい怒り。また先回りにして犯人を罠にかけるとか、囮になって犯人を関係のないほうに誘導するとか……。とにかく逃げ回ることから学ぶことは多い。

またこのゲームは、銃撃犯をプレイすることもできる。ハンターになって、逃げまわる無防備な若者たちを殺しまくるときの感情を体験することができる。このようなハンター役に対して、多くの人たちが吐き気をもよおすはずである。銃撃犯の心の闇とか狂気が耐え難くなる。また追われる人間の表示モードを変えて、動物とか巨大な昆虫とかグロテスクな宇宙人などに変えると、ハンターモードでも違和感あるいは嫌悪感がなくなるかもしれない。いずれにせよ銃撃犯の心象風景を体験することになる。

このようなゲーム、あるいはゲーム・モードの映画は、不謹慎なエンターテインメントの枠を超えて、真実を垣間見せてくれる瞬間を可能にしてくれるかもしれない。

ところがこの映画が向かおうとした真実は、被害者のパニック、精神的ストレス、心の崩壊である。で、どうなるか。姿の見えない銃撃犯からは、とにかく走って逃げるしかないのだが、主人公といえる女性と、その仲間たちは、道端に身をひそめたまま動こうとしてない。途中で銃で撃たれて重傷を負った同世代の女性を救出しようとして、死なせるしかなく、また絶壁の下の海辺まで逃げてきた主人公は、そこに身を潜めている人たちと人生を振り返る。後半、映画はだれまくる。せっかくのノーカットのシークエンスが、緊張化を増大させるどころか弛緩させてしまう。実際、私は疲れていたせいもあるが、この緊張感マックスの映画の後半で寝てしまった。しかし、なぜこうなったのか。

たとえて、いえば『逃亡中』の出演者たちが、ハンターの眼を盗んで、逃げ隠れる(最後まで見つからなければ賞金ゲット)のなかで、何人かが身をひそめて、世間話とか思い出話をはじめたようなものと考えてもらえればいい。そこでの話がいかに興味深いとも、そんな話をしている暇があったら、なにか行動しろといいたくなる。

ネット上のサイトでは、この映画がワンカット映画であることにこだわったため、もし主人公が必死に逃げ続けたら、カメラマンが追いつけなくなる。そのためカメラマンの体力を温存するために、主人公の女性が、動かなくて、身をひそめる、隠れて仲間と話し合う、携帯で妹や親に連絡する、思い出話や未来の夢について語るという場面を造らざるをえなくなったという指摘があった。

なるほどと思ったが、しかし同じくワンカット映画であるヒッチコックの『ロープ』は全体をノーカットであると歌っているが、実際には、巧妙にフィルムをつないでいる。だから、たぶんこの映画でも、ワンカットにみせて、何度もつなぐことは可能だと思う。あるいはカメラマンを交替してもいい。『カメラを止めるな』では、カメラマンが途中で交替していたはずだが(ちがっていたかもしれないが)。

ただカメラマンを休ませるという必要性を、映画表現の可能性の増大とむすびつけることはできる。しかしこの映画が狙った、もしくはできたのは最悪の選択でしかなかったように思われる。

まず言えるのは、この映画は全体像を提示するのを拒んでいる。あたかも、それがたとえ絶対的な確実性をもって提示するのではなければ、意味はないとでもいわんばかりに。あるいは超越的な視点にたって俯瞰像を示すのは虚偽であるというポストモダン的世界観があるのかもしれない。さらにいえば、おそらく、事件の全体像を示すドキュメンタリーはこれまでさんざん作られていて、むしろ、事態の全体像をつかめぬまま殺されていった被害者と同じ立場にたって、恐怖を追体験する、あるいは、たとえ生き延びても、心の傷を負うことを、恐怖とパニックの疑似体験を通してPTSD問題を理解する。そのための人物たちの不合理な行動(逃げ回らずに身をひそめて携帯で母親と話す)あるいは何もできないパニック状態を、カメラマンの体力問題への解決として提示しても、そこになんら違和感がわかないと考えたのかもしれない。

なお不明を恥じるしかないが、この事件のあと、生存者に対する無理解とかバッシングのようなものがあったらしく、そのために、生存者の苦境に焦点を絞るような映画が求められた、もしくはそうした映画をつくろうとしたのかもしれない。力点は犯人と犯罪ではなく、生存者の心のケアにつながるような何かを提示することであったかのように思われる。だ、としても、違和感は残るが。

実際、その結果、生まれたのは、残念なステレオタイプ化した映像でしかない。これは、たとえ生存者の証言をもとにしているとはいえ、虚構である。事実の再現なら、受け入れられるが、作り話なら、事実の捉え方が紋切り型すぎる。すなわち女性は感情的になりやすく、パニックになりやすく、そのため冷静になれず、理性的な行動をとれないという、いかにもありそうなステレオタイプの反応を展開している。

なるほど、このような状況に置かれたら誰がもパニックになることはまちがいない。またその結果、不合理な行動あるいは愚かな行動に走ることも当然といえるだろう。しかし、それは女性に限らない。男性でもそうだろう。この映画のなかでは男性はおびえてはいるが、またそれが正しかったかどうかは別にして、男性はとにかく理知的な行動をとろうとしている。しかし男性でもパニックになり愚かになるだろう。理知的な行動なり判断ができなくなるのは、男女ともに同じだろう。しかし、この映画では圧倒的に女性がヒステリックになる。

また恐怖の感情が理性のはたらあきを妨げるという、感情vs理性のステレオタイプな対立があらわれる。しかし時には、あるいは実はというべきかもしれないが、感情の高ぶりが、恐怖が、人間に適切な行動をとらせることだってある。パニックになることで、理性が支配しているときよりも、はるかに理性的な判断や行動に移れることもある。進化の過程で人間は、冷静で理知的な判断ではなく、とっさの判断が生存を可能にすることを学んでいるはずで、感情が理性のうえをいくことがある、あるいは理性と感情が瞬発的に共同作業をすることもある。その可能性を、この映画は抑圧している。

これはパニックになった人間の愚かさを提示するなということではない。合理的な判断や行動を選択しても助からなかったという悲劇性なら、選択肢のなかったことに、観客も恐怖しつつ犠牲者を追悼する気持ちなるが、そうでなければパニックになって愚かな判断や行動に走った者だけが銃撃され命を落としたというのであれば、結果的に愚か者だけが死んだということになり(実際、姿をみせない犯人は、なにやら超越的な神めいていて、神の下す審判というイメージが生まれてしまう)、死者に対する、これ以上にない冒涜となろう。

つまり700人いた若者のなかで死んだのは1割である。その一割の彼らは、パニックになって信じがたい愚行に走ったせいで殺害されたのかもしれないが、また自ら犠牲となって仲間を助けた者もいたかもしれない、またさらにパニックにもかかわらず/パニックゆえに、適切な判断ができたにもかかわらず、残忍かつ異常な犯人の前に命を落とすしかなかったとか、さまざまな事情があったにちがいない。そのなかでパニックによる愚行による死だけがとりあげられるのは、女性に対する、人間の認知と判断に対する冒涜以外のなにものではない。生存者と死者とを分かつのは、この映画のなかでは、いやこの映画が設定した物語のなかでは、偶然ではなく必然なのだから。

追記

ポール・グリーングラス監督による『7月22日』という、この事件に取材したドキュメンタリーがあったこと知った。2018年。劇場公開されたのか記憶にないし、グリーングラス監督作品なら見に行ったはずだが、それはNetflixだった。気がつかなかった。『ウトヤ』に比べたら、グリーングラス作品のほうが、はるかに面白く、意義深いのではないかと思うのだが。

posted by ohashi at 13:20| 映画 | 更新情報をチェックする

2019年03月06日

ロザリンド・フランクリン

こんな記事があった。

朝日新聞DIGITAL


火星に刻む「不遇の女性科学者」の名 欧の探査車へ命名

2019/03/06 12:37

(松尾一郎)


 「#MeToo(ミートゥー)」など女性の権利擁護に世界的な関心が高まる中、「不遇の女性科学者」として知られる英国の故ロザリンド・フランクリン氏(1920~58)の名前が欧州宇宙機関(ESA)の火星探査車に冠されることになった。探査車は2021年に着陸し、生命の痕跡などを探る予定だ。


 フランクリン氏は、62年のノーベル医学生理学賞の対象となった「DNAの二重らせん構造の発見」で重要な役割を担ったが、37歳で早世し受賞を逃した。生前も死後も、男性の同僚たちに比べて正当に評価されなかったとされ、今回の命名は業績の顕彰になるともいえる

以下略


探査車の名前? 死者の冒涜も、これに極まれり。せめて火星のクレーターの名前くらいにしてほしかった。もう名前のないクレーターは残っていないかもしれないが、どこかのクレーターの名前を改名するような配慮があってもよかったのでは。


ロザリンド・フランクリンについては、昨年4月、『PHOTOGRAPH(フォトグラフ)51』

を舞台でみたこともあり、名前はよく覚えていた。舞台は、


作:アナ・ジーグラ 演出:サラナ・ラパイン

出演:板谷由夏、神尾佑、矢崎広、宮崎秋人、橋本淳、中村亀鶴

<東京公演>201846() 22()

■会場:東京芸術劇場シアターウエスト

<大阪公演>

2018425() 26()

■会場:梅田芸術劇場 シアター・ドラマシティ

■オフィシャルサイト http://www.umegei.com/photograph51/


東京芸術劇場でみたのだが、2015年ロンドンのウエストエンドでの上演ではニコール・キッドマンがフランクリンを演じたそうだが、その舞台はみていないものの、板谷由夏のフランクリンのほうが、この舞台の主人公にふさわしいと思う。


板谷由夏は、初舞台とは思えないほど、存在感を発揮していて、洗練された舞台を出現させていた。


二重螺旋構造の発見をめぐって、そのとき女性科学者の功績が無視されたことは、いまや有名な話で、ワトソン、クリックはいいとしても、ウィルキンソンすらノーベル賞を受賞しながら、フランクリンはユダヤ人女性ということで、その功績が無視されたり、低く見積もられたことは、男性科学者や科学関係者が何と言おうとも、周知のスキャンダルである。べつにこの舞台を見て、そういう印象をもったということではない。すでによく知られた話で、今になっても、ワトソン、クリック、ウィルキンソンの三悪人を擁護するような科学者がいるのはあきれる。もちろん、男女ともに、すべての科学者が、フランクリンの功績を無視しているわけではないとしても、まだいるのだ、そうした女性蔑視の科学者が。


この舞台は、たとえ現実あるいは史実そのままではないとしても、こうした恥知らずな男たちがいたことを、人類の歴史に確実に刻んでくれるだろう。


付記

二重螺旋の発見には、ドロドロとした人間関係、あるいは複雑な葛藤とか緊張が存在してたとら語られることがあるが、しかし、そう語ることで、三悪人の罪を和らげることがあってはならない。科学的発見に、毎回、ドロドロの人間ドラマが付随していたら、科学研究はやってられないのではないか。あと、セクハラが多い学部が理学部であるという事実は終わったのだろうか。




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2019年03月03日

『グリーンブック』

『アリータ』にも出演していたマハーシャラ・アリが、ここではアフリカ系アメリカ人の天才ピアニストドン。シャーリーとして登場し、彼が雇ったイタリア系の用心棒との生涯にわたる友情を決定的にしたクリスマス前の南部(それもディープサウス)の演奏旅行を描く映画。予想通りの映画だとはいえ、その展開や演出、また掘り下げの深さに圧倒されて、あっという間に2時間が終わる。

『ドライヴィング・ミス・デイジー』では白人の女性を乗せて黒人の運転手が車を動かす。それにくらべれば、黒人の男性を乗せて白人の運転手が車を動かすのは、もちろん設定や状況や人の流れも違いながら、黒人と白人の親密な関係を提示しながら、ジェンダーや立場が逆になっている点で、扱われている時代は過去とはいえ、良い方向への変化がみられるのではないだろうか。

というのも『ドライヴィング・ミズ・デイジー』は評判の映画だったが、黒人運転手という、人種差別的ステレオタイプの枠から出ることのない物語、あるいは人種的観点からの批判も多かった。まあ先にふれた『ヴィクトリア女王 最期の秘密』にむけられた批判も同様なものだと思うし、それは充分に納得できるのだが、『グリーンブック』は、黒人が優位に立っているようにみえて、結局、白人が説教する映画、あるいは白人が救世主となる映画だとして反発もあるようだ。たしかに説教は多い。たしかに白人が黒人を救うともいえる。しかしその説教や救済は双方向的なものだし、説教がコミュニケーションの重要な手段となっていて、決して説教くさいわけではない。人種差別の現実に対して妥協を余儀なくされるが、また決して心が折れることなく抵抗の意志、改革への意志は持ち続けるという点で、積極的に評価できる面も多いと思う。もし人種差別のないユートピアが実現すれば、たとえ部分的抵抗、消極的抵抗でも、それをユートピアへの重要な里程標として意義が認められるだろう。ただしユートピアを決して到来しない、永遠の未来と考えるのではない。そうではなくて、いまユートピアへのほんの一歩手前なのだと、さらにはユートピアはすでに一部実現していると、そう理解することで、あるいはそう念頭において過去をふりかえらないかぎり、過去は永遠に失敗の記念碑でしかなくなるだろう。もちろん、この映画も、実話に基づいているわけだから、過去の失敗の記念碑ととるか、成功への希望の記念碑ととるかは、観客にまかされているとしても、

実際のところ、この天才ピアニストが、人種差別の激しい南部に演奏旅行に出かけるのは、音楽会社の契約のせいではない。人種差別の不合理、愚劣さ、犯罪性に対する暗黙の、あるは威厳をもった告発のために、あえて危険な旅を選んだということになる。そのためにも腕っぷしの強い男を運転手・兼・用心棒に選んでいる。ヴィゴ・モーテンセンも、『ロード・オブ・ザ・リング』の頃の面影はなく、歳をとった、いや、それもよりも役作りのためだろうが、あのぶよぶよぶくぶくの身体には驚いた。また彼がイタリア系移民の子であることで、白人社会のなかでも低く見られていることから(とはいえ白人であるがゆえに黒人を蔑視し差別しているのだが)、差別されるものどうしの連帯がうまれることにも感動を受けた。ピアニストがトリオを組む、他の二人の白人のミュージシャンも、外国人で、決して白人のエスタブリッシュメントに属してはいない。抵抗と解放のための連帯。

『ヴィクトリア女王 最期の秘密』のような、ダグラス・サークのメロドラマのヴァリエーションを、この『グリーンブック』にも見出せないことはないが、というかそのパターンは、明確に見て取れるが、同時に、そのヴァリエーションと断言できないのは、天才ピアニストが、エスタブリッシュメントに抵抗するというよりも、みずからエスタブリッシュメントに属していながら同時にそのなかで差別されるという二重性が、その行動から生まれるのではなくて、最初から刷り込まれていることだろう。エスタブリッシュメントに属する人間と庶民との間の恋というパターンが、複雑化している。ただし、だからといって妥協と忍耐へと舵を切るのではなく、抵抗への意志を失わないことが、この映画への批判に対して、この映画を擁護するポイントとなるだろう。

あとこの映画に特化していえば、オッフェンバッハのオペレッタ『地獄のオルフェウス』のドン・シャーリーによるピアノ演奏版(だと思うが、ちがっていたら無知をお詫びする)のレコードをトニーの妻が購入する。そのジャケットを見て、トニーは、オルフェウスをオーファン(孤児)と読み間違う。ここに映画のすべてが集約されている。ドン・シャーリーという音楽家のディープサウス巡りは、まさにオルフェウスの地獄めぐりそのものでもあった。と同時に、ドン・シャーリー自身、ある意味、特権的な黒人という根無し草的存在であってオーファン(孤児)でもある。白人の読み間違えが主題を暗示する、白人中心主義だというなかれ。この白人も、白人社会のなかで優位にあるのではなく、本人がいうように、差別的な白人にとって、黒人以下の存在であり、白人社会の黒い羊、オーファンでもあるのだから。

追記

 バーミンガムはバーミングハムと発音されていた。私はイングランドのバーミンガムの近くに住んだことがあるが、バーミンガムと言っていたような気がするが、私の発音がまちがっていたのだろうか。あるいはアメリカのバーミンガムはバーミングハムなのだろうか。あるいはそれは一部のまちがった発音ということなのだろうか。


あと、ピザをホールで、ああして半分にして食べてみたいぞ。ケンタッキーで、フライドチキンを食べてみたい。そうけっこう食に関する場面が多かった(この点からも何か言えるかもしれないと、いま気が付いた)。とはいえ食に関することは、糖尿病の私には死ぬまで縁のないこと、あるいは死ぬつもりなら話は別という世界なのだが。

posted by ohashi at 12:12| 映画 | 更新情報をチェックする

2019年03月02日

『ヴィクトリア女王 最期の秘密』

ようやく思い出した。むしろ、これをもっと早く思い出すべきだった。

『ヴィクトリア女王 最期の秘密』には、どこか既視感があった。そしてそれがわかった。1950年代のダグラス・サークのメロドラマ『天はすべて許したもう』(Wikipediaによると「『天はすべて許し給う』All That Heaven Allows)は1955年制作のアメリカ映画。日本では劇場未公開。ビデオ発売されたときのタイトルは『天の許し給うものすべて』『天が許し給うすべて』であった」とあるので、どれを日本語のタイトルにしていいのかわからない)。このメロドラマ映画は、その後、リメイクされつづけた。ファスベンダーのリメイクのあとは、トッド・ヘインズのリメイク『楽園をはるか離れて』があった。そして、いま、この『ヴィクトリア女王』の映画が、またリメイクの歴史に刻まれたといえよう。


ダグラス・サークの映画の構造は、高い地位にある女性が、低い地位にある男性、それも年下の若い男性に惹かれていくことになる。この時、彼女の身内、とりわけ子供たちは、この新たな恋に猛反対する。そして一時は、この恋をあきらめかけるが、彼女は子どもたちのエゴのために自分の幸福を犠牲にする愚かさを悟り、男のもとに走る。ダグラス・サークの演出は力強く、また世間知あるいは常識に譲歩しない。その潔さは感動的ですらある。やがて、身分違いの恋は、いくつかのヴァリエーションを生み出していく。


富豪の未亡人の女性と、庭師の若い男との恋がダグラス・サークの映画における男女関係だったが、この強烈なアダプテーションが、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーの『不安と魂』(Angst essen Seele auf(「不安は魂を食べる」ドイツ語が変だが、これは作品中のモロッコ人労働者のたどたどしいドイツ語をそのまま使ったもの。ドイツ映画1974)。掃除婦として働く孤独なドイツ人老女と、外国人労働者である若いモロッコ人男性との恋と苦悩を描く。歳の差を残りこえ、また人種を乗り越える、この二重の乗り越えは、彼女の子どもたちや親戚縁者の反発をまねき、黒人男性にもストレスを強いることになる。彼女との恋がストレスになるのではない。周囲からの風当たりの強さ、人種差別が、黒人男性の心をむしばんでいく。実際、胃に穴が開くような病気になる。その恋のゆくえは、不透明なまま終わる。

トッド・ヘインズのアダプテーション『エデンより彼方に』(Far from Heaven)2002)は金持ちのアメリカ人女性(ジュリアン・ムーア)と黒人男性(デニス・ヘイスバート)との恋である。彼女は未亡人ではないが、夫が同性愛者であることがわかり、夫婦関係は破綻。アダプテーションといってもダグラス・サークの映画と同じ1950年代を設定としていて、そのぶん人種差別が激しいものとなっている。黒人男性との恋は、大スキャンダルになる。周囲の激しい圧力の前に、黒人男性は街を去る。二人の人種を超えた愛は許されなかったのである。

そして今回の大英帝国の高齢の女王と、植民地インドの庶民の若い男性との恋。子供や側近や使用人たちの大反対。まさにダグラス・サークの映画のアダプテーションあるいはオマージュという様相を呈している。

このメロドラマ映画の構造を、なぞることによって、あらためて境界を乗り越えることの困難さと喜びそしてその希有な奇跡とを実感させてもらうことになった。

実際には、この映画に対して、大英帝国の植民地政策の過酷さを隠蔽しているという批判もある。女王と庶民の青年とが仲良くなったからと言って、何にも変わらない。いや変わらないどころか大英帝国の暴力を隠蔽し美化すらしかねない、悪辣な犯罪だと告発されていることも事実のようだ。

しかし同時にまたこの交流は、フィクションであるなら、あまりに荒唐無稽な話として却下されるかもしれない。事実は小説よりも奇なり。事実であるがゆえに、女王と庶民との交流が描かれた。その希有な瞬間。この顕現を、隠蔽の瞬間として読み換えてしまうことで、失われることは多い。それは女王とインド人青年との交流を隠蔽しようとした皇太子アルバート・エドワード(バーティ)とやっていることはなんらかわりはない。女王とインド人との交流を帝国の暴力の隠蔽と告発することによって、交流の隠蔽がおこなわれる。それはまた、もしこの交流が公になっていたら、異なる道をとっていたかもしれない英印交流史、その可能性を、そのオルターナティヴを隠蔽することになる。境界の横断の瞬間、それが偶発的なものであれ、意志的なものであれ、決して抑圧してはならないだろう。



posted by ohashi at 12:06| 映画 | 更新情報をチェックする

2019年03月01日

『アリータ』

『アリータ』は、世界各国では、公開第一週で、トップの集客を記録しているようだが、日本、それも日本の漫画を原作としていながら、日本では、公開第一週の座を『翔んで埼玉』に奪われたのは、名誉だか不名誉だかよくわからないが、だが面白い映画ではあった。

ジェイムズ・キャメロン監督作品と思い込んでいたが、ロバート・ロドリゲス監督だった。ロバート・ロドリゲスといえば、昔、私の姪が小学生の頃に『スパイ・キッズ』三部作をプレゼントしたことがある。なにかポイントがたまって、DVDと引き換えることができたときに、ロバート・ロドリゲス監督の『スパイ・キッズ』三部作セットをプレゼントしたら、面白くて三作全部を一気に見てしまい、その後も、何度も見返したようでファンになっていた。小学校で、なにかの授業で、先生が、好きな映画はありますかと質問した時、いつも元気な私の姪はまっさきに手を挙げて、――『スパイ・キッズ』と答えた。え、それはなんですか? 先生もほかの生徒たちも、誰も、その映画を知らなかった。

なおこの『スパイ・キッズ』には、アメリカの映画のなかの家族ではよくあることだが、親戚に独身の伯父さん(マチェーテのダニー・トレホ)がいる。私の姪も、独身の伯父(私のことだが)がいることでアメリカン・ファミリーだと勝手に納得していた。ちなみに『リトル・ミス・サンシャイン』(2006)でも子どもたちには独身の伯父さんがいて、この伯父さんは、大学の教員で、プルーストの専門家で、ゲイだったのだが、この映画について姪はいまだに気づいていない。

だから、『アリータ』は、ロバート・ロドリゲス監督作品だから、絶対に面白いはずだと、見る前から確信していたが、実際にみたらどういう感想をいだくのだろうか。

『アリータ』は2Dでみた。朝日新聞の夕刊の映画評に、人間はパンフォーカス(英語ではディープ・フォーカスという。画面のすべてにピントがあっていて、すべてが鮮明な画面が生まれる。これに対してボケ表現というのは、鮮明な部分とぼやけた部分というようなメリハリがある画面となる)で、ものをみているのであって、映画が勝手にピントを移動させるのは、おかしいといういようなことが書いてあって、みるなら3Dではなくて、2Dでみるべきだとあった。それに触発されて2Dでみたわけでは断じていない。

「人間はパンフォーカスで物を見ている?」――気でも狂ったのかといってやりたい。人間がディープフォーカスでものをみることができたら、どんなに賢くなることか。動物は、たとえば動くもの、あるいは獲物にしかピントをあわさない、人間だって興味があるものにまずピントをあわせるのであって、私たちの視界は、ピントがあっている中心部分以外の周囲はぼやけている。それを視界全体が鮮明であるかのように思うのは、人間の認識の編集作業であり、ピントはいろいろなもののうえを移動する。

頭のおかしい人間はほうっておいて、『アリータ』で、一番、違和感があり、また魅力なのは、主人公アリータをCGにしたことだろう。日本の漫画の主人公のように、目が異様に大きい。

目が大きいといえば、ティム・バートン監督の映画『ビッグ・アイズ』(Big Eyes, 2014)がある。大きな目を描くイラストで人気の出たウォルター・キーンだったが、実はその絵は妻のマーガレット・キーンが描いていたもので、二人は離婚後、元妻が元夫を訴える。ともに作者は自分だということで。裁判では、二人に法廷で1時間で絵を描いてみるように命ずるという大岡裁きがおこなわれ印象的だった(元妻のほうが見事勝利する)。その妻をエイミー・アダムズが、そして妻の絵を自分の絵として公表して人気を博していた悪辣な夫をクリストフ・ヴァルツが演じていた。つまり『アリータ』のなかで、彼女を拾ってサイボーグ化する医師ダイソン・イドを演じているクリストフ・ヴァルツに。今回の『アリータ』に関連して、この映画と関連付けるコメントがあったが、けだし当然というべきか。

今回のCGのアリータは、最初は違和感があるのだが、だんだんと慣れてきて、なにかいとおしくなる。アリータは、もともと戦闘用サイボーグ、頭脳は人間、体は機械というように、人間と機械の合体マシンだが、そのために顔をかわいくする必要はない。戦闘兵器だから、むしろごつい顔のほうが威嚇効果もでようというものだ。しかし、そこは映画。映画には伝統的に美少女が必要となる。戦闘美少女でなくてもいいのだが、美少女と映画は映画史において深い関係にある。『不思議の国のアリス』は、そのオリジナルは映画とは無関係だが、物語は、映画史における重要な原型(アーキタイプ)となる。ひょっとしたら映画史における女性主人公は、年齢に関係なく、みんな少女である。

アリータをCGにしたのは、人造人間のボディを実写化するのがむつかしい、あるいは面倒なのかもしれない。しかしマシンのボディのバウンティ・ハンターたちの顔は人間でCGではないように思われる。とはいえアリータの宿敵グリュシカは ジャッキー・アール・ヘイリーが演じていて、その巨体といい顔つきといい、ヘイリーの原型をまったくとどめていないのだから、彼もCGかもしれないのだが、とまれ、アリータは日本の漫画顔のCGとなっている。なぜかと、そこにどうしても帰ってくる。

つまり私たちの周りにいる人間のうち、ひとりだけ仮面をかぶっている者がいるようなものである。仮面ならまだいいかもしれない。ひとりだけ顔が人造物だったら、どうなのか。つまりこのCG顔を文字通りにとるのではなく、何かのメタファーととる。つまりそれそのものではなく、それが表象しているものをみる。このとき人間の少女の顔を考える。実際、彼女を演じている女優がいるわけで、その女優の姿をもとにCG化しているわけである。ちなみにアリータは前半と後半で顔がすこしかわる。強靭な装甲ボディを装着してからは、少女から大人の女性へと変身するイメージがある。その大人の彼女は、演じている女優 ローサ・サラザールの顔に近くなっている。

あるいは彼女は、この世界におけるサイボーグ化した人間のメタファーかもしれない。この世界で、生身の人間は少数派と化し、人間のサイボーグ化が進んでいる。あるいはすべての人間がサイボーグ化しているのかもしれない。CGの彼女は、それを端的に示すメタファーとなる。彼女は、その真の姿を、もはや隠しようもなくあらわしている。彼女以外のどの人物の顔も人造物として見る可能性こそが真実へと至る道となる。つまり人間の顔はみせかけでCGの顔が真実となる。

あるいはさらにアリータを、映画史の美少女のメタファーととることもできる。彼女は、最初からメタファー的存在なのだ、と。

いずれの場合にも、彼女のCG顔の背後にあるものを見るのだが、同時に、そのCG顔は、この世界のありようについて語るメタファー、いやメタコメンタリーでもある。この面倒な関係は、貨幣と商品の関係に似ている。商品を、別の等価の商品で表象すると、物々交換の秩序=経済となるが、貨幣の場合は、すべての商品を価格秩序づけるための超越的存在である。超越的メタコメンタリーであるのなら、具体的な身体や物体をもたない抽象的な数字だけですむのだが、貨幣は身体をもっている。つまり商品の世界に身を追ている。あるいはそれ自体が商品でもある。

これはまた、自らを要素として含む集合と同じことになる。たとえば「人間」という集合には、老若男女、さまざまな人種や民族の人間が含まれる。しかし、そこに「人間」という実体はふくまれない。貨幣の場合、この人間という集合のなかの、あってはならない「人間」が要素として含まれるようなものである。それはメタレヴェルからオブジェクト・レヴェルへ降臨した神なのである。神というのは言い過ぎなら、超越的存在なのである。貨幣が、すべての商品を秩序付ける存在でありながら、同時に、みずからも商品のひとつであると考えればいい(マルクスを悩ませた問題であるが)。

ひとまずアリータをそのような貨幣的存在、降臨した超越者としてみることはできるかもしれない。彼女のずば抜けた戦闘能力、彼女を動かす未知のテクノロジー。また少女でることから、彼女は映画の可能性の中心そのものでもある。また彼女はテクノロジーの塊で、性器はない。人間的欲望と再生産のサイクルを超越している。そもそも彼女は歳をとらない、永遠の少女なのだから。

物語は、上から(天から)降ってきて放置されたアリータが、廃棄された機械部品を組み合わせてサイボーグとして蘇るところから始まり、最後には、なぜ彼女が上から(天から)降ってきたかがわかるところで、もっと正確にいえば、上から降ってきた彼女が、上を目指すと意志表示するところで、映画は終わる(続編化の欲望をありありとみせつけながら――三部作がもくろまれているのか)。彼女は300年前に上から降ってきた。その理由というか事情は、映画が解き明かしてくれる。

つづく

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