『ヴィクトリアとアブドゥラ』(原題。もちろんこれはヴィクトリア&アルバートのもじり)
スティーヴン・フリアーズ監督の映画だから、はずれはないだろうと思い見に行ったが、これが予想どおりの展開だったが、予想外にスペクタキュラーで、しかも人間ドラマとしても訴えるものが多く、最初から、小ネタで笑わせくれるのだが、最後には感動が訪れるよい映画だった。
ここでヴァルター・ベンヤミンの「物語作者」について書かせてもらうとしても、専門家を気取るわけでは全くない。ただ、ベンヤミンは英米圏においても、いまや基本的教養で、大学生から大学の先生にいたるまでみんな読んでいる。「物語作者」もよく読まれているエッセイのひとつ。
ニコライ・レスコフの作品についての多角的な考察のなかで、レスコフの物語の魅力は、一定の読み方で決着がつくのではなく、つねに、さまざまな読み方が可能であることを述べ、レスコフの物語術が、ギリシアの最初の物語作者とベンヤミンがいうヘロドトスによる逸話について触れられる。その逸話はヘロドトスの『歴史』第三巻第十四章におけるエジプト王プサンメニトスの話である。内容はこうである。
エジプト王プサンメニトスが戦争に負けて捕虜になったとき、敵であったペルシア王は、エジプト王に屈辱を与えるため、ペルシア軍の凱旋行進が通ることになっている道にエジプト王を立たせておいた。やがて、その息子が処刑のために引き立てられていくのを行列のなかに見たときも、じっと動かないで観ていたが、その後、エジプト王の「召使のひとり、年老いたみすぼらしい男が捕虜たちの列のなかにいるを認めたとき、彼は両の拳で自分の頭を打ち、最も深い悲しみのあらゆる仕草を示したのだった」(ちくま学芸文庫)
このエジプト王プラメニトスの反応をどう解釈したいいのだろう。そこにさまざまな解釈がうまれるがゆえに、この逸話が後世に残り、語りつがれるのであり、レスコフの物語もそれと同じだベンヤミンは考える。では、このプラメニトスの話にどのような解釈が可能なのか。
- 「王の悲しみはすでに満ち溢れんばかりだったので、ほんのわずかな悲しみが増しただけで、堰を切って溢れ出るのにじゅうぶんだった」モンテーニュの解釈。
- 「王の心を揺さぶるのは王家の人びとの運命ではない。なぜなら、それは彼自身の運命だから」つまり彼の一族ではなく、無関係な召使までが巻き込まれて処刑されることを嘆いて。
- 「字際の人生では心を揺さぶられなようなことでも、舞台の上では心を揺さぶられることがよくある。この召使は王にとって、ひとりの俳優にすぎないのだ」
- 「大きな心の痛みはせきとめられ、緊張がゆるんだときはじめて噴出する。この召使を見ることが、緊張をゆるめるものだっのだ」
引用はすべて、ちくま学芸文庫版〈ベンヤミン・コレクション2〉より。
いまこうして引用して整理してみると、「物語作者」のこの部分の議論は、明らかに現代の批評理論でいうところの「アフェクト研究」と同じ方向性を共有している。しかし、それはさておき、この解釈を見るにつけても、モンテーニュからベンヤミンまで、みんなどうしてこんなに頭がよい、バカばっかりなのかとあきれる。いずれも、この理屈には感心するが、肝心なこと、もっとも単純なことが見過ごされているのはどうしたのか。天才的バカとはこのことではないか。
もっとも簡単な答え。それはエジプト王プラメニトスは、この老いた召使を愛していたのである。ゲイ的関係かもしれないないし、男性ホモソーシャルの友人関係かもしれないし、年齢も近いことから疑似兄弟関係かもしれないが、とにかく、エジプト王は老召使を愛していた。ひょっとしたら子供の頃から世話をしてもらっていて親子のような関係だったかもしれない。その召使が処刑されるのである。エジプト王が、両の拳で自分の頭を打ち、最も深い悲しみのあらゆる仕草を示しさないでいられるとは考えられないではないか。エジプト王は老召使と人間的絆でむすばれていた。家族、妻や娘や息子、あるいは親戚縁者たちを、エジプト王は愛していなかった。彼の愛情は、老召使だけに向けられていた。こんな簡単なことがどうしてわからないのだろうか。
映画『ヴィクトリア女王 最期の秘密』(2017)を見てほしい。晩年のヴィクトリア女王を描くこの映画では、ヴィクトリア女王にとって、唯一心を許せる相手がインド人の召使だった。インド人でムスリムの庶民が、ヴィクトリア女王の召使になるまでは、多くの偶然が重なったようだが、ヴィクトリア女王の師でありまた息子のような存在となったあとは、二人のあいだの深い人間的つながりに感動をおぼえずにはいられない。
もしヴィクトリア女王がエジプト王プラメニトスと同じ立場になったなら、処刑されるために連れ行かれる自分の息子や娘たちを見ても、さらには42人いる孫たち全員が処刑されるとわかっても、なんら心を動かされることはないだろう。だが、インド人召使が処刑されるとわかったら、両の拳で自分の頭を打ち、最も深い悲しみのあらゆる仕草を示しさないではいられないだろう。これはこの映画を観た者なら、納得できることである。
そもそもエジプト王プラメニトスの老召使に対する嘆きを謎とみるモンテーニュ以下の天才たちは、この映画のなかで女王とインド人召使の心の交流をなんとしても認めまいとする、あるいは隠蔽しようとする皇太子以下の取り巻き連中と何ら変わらないのではないか。
と同時に君主と召使の情愛関係は決して異様なことでもなければ異例なことではないはずだ。庶民とはちがって、王侯貴族の家族関係は、王権なり統治権が関わると、どうしも政治と骨がらみにならざるをえなくても、親密な親族関係・血縁関係は破壊される。君主が心をゆるせるのは、もはや親族ではなく、妻や夫、実の子どもたちではなく、子供の頃から世話してもらった乳母とか、身の回りの世話をしている召使とかが、唯一心許せぬ者たちとなる。彼らの身分が低いことが、逆に、権力闘争とか陰謀と無縁であることの証明ともなる。君主が、召使だけを愛したとしてもおかしくないのである。
あるいは君主は、召使のかわりにペットの動物と話すこともあろう。ただ、どうせ話すのなら動物よりも人間のほうが言語コミュニケーションができる。あるいは中世から初期近代にいたる王侯貴族が身近においていた道化の存在も同じだろう。道化は、君主とため口で話せるのであって、それはまた君主も唯一心を許せる相手だということだ。この映画のように外国人の召使もそうであろう。外国人であるがゆえに、国内政治のしがらみとは無縁のかたちで交流できる。もちろん、そうやって君主に取り入り、君主をコントロールすることがあるかもしれない。今回の映画の事例でも、インド人召使が女王を政治的にコントロールする危険性がないわけではないが、インド人にその気持ちはないことと、女王が、たとえもうろくしているようにみえても、根幹は賢明な女性であるがゆえに、問題とならないようになっている。
映画は、雄大な風景と広壮な屋内のスペクタクルで観る者を圧倒しつつ、広がりのある空間に閉じ込められた女王が、そのただ死をまつだけの晩年の境遇から救出され、束の間の、自由な飛翔を手に入れるいきさつ、それに貢献したインド人の言動を提示することで、最初は面白おかしく、そして最後にはしんみりとさせる。オリエンタリズム的映画といえば、それまでだが、ここでは壁を乗り越えて相互に交流するさまが描かれる点で、こちらのほうが早いのだが英国版『グリーンブック』と化している。植民地帝国の君主たる女王と被植民者たるインド人庶民との交流を、その境界の相互越境を、もし愚かな皇太子らが女王の死後もみ消さなければ、もっと穏便なかたちで植民地問題の解決とインド独立をみたかもしれない。つまり英国人であれ、インド人であれ、多くの血を流すことがない別の世界史を垣間見せることができる。この時代、大英帝国の絶頂期、英国人は、インド人を野蛮人とバカにしているが、英国こそ、はるかに野蛮で、英国人こそ野蛮人であるという相対化あるいは異化的批判的視点がこの映画にはある。それはまた差別や蔑視、ヘイトではなく、相互的敬意こそが真に文明的であることを瞥見させてくるといえようか。
いずれにせよ、ジュディ・デンチの最近ではベストの演技だと思う。
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アクション映画では、人の死は軽んじられていて、さしたる感慨もわかないのだが、この映画のように、老いた女王の死をしっかりと描いてくれると、胸がうたれるというか、胸に迫るものがある。
私の場合、悲しみはすでに満ち溢れんばかりだったので、ほんのわずかな悲しみが増しただけで、堰を切って溢れ出るのにじゅうぶんだった。
とくに映画を観る前に予習はしていなかったので、ティム・ピゴット・スミスが出演していることは、顔をみてすぐにわかったのだが、以前に比べれば老いてはいるが、映画で活躍していることには感慨深いものがあった。だが、エンドクレジットをみて驚いた。ティム・ピゴット・スミスが亡くなっていた。この映画のエンドクレジットが作られた2017円には存命中だったのだが、この映画が日本で公開されたときにはすでに亡くなっていたようだ。事実、その死は、日本語の字幕のみによって(つまり英語字幕なしで)伝えられたのだから。
ティム・ピゴット・スミスとは、何の面識もないし、友人でもなく知人ですらない。しかし彼は、私にとって、昔から、その存在を映画のなかで知っている英国俳優だった。その彼が亡くなったのは、身内が亡くなるのと同じように悲しかった。