2019年02月27日

『ヴィクトリア女王 最期の秘密』

『ヴィクトリアとアブドゥラ』(原題。もちろんこれはヴィクトリア&アルバートのもじり)

スティーヴン・フリアーズ監督の映画だから、はずれはないだろうと思い見に行ったが、これが予想どおりの展開だったが、予想外にスペクタキュラーで、しかも人間ドラマとしても訴えるものが多く、最初から、小ネタで笑わせくれるのだが、最後には感動が訪れるよい映画だった。

ここでヴァルター・ベンヤミンの「物語作者」について書かせてもらうとしても、専門家を気取るわけでは全くない。ただ、ベンヤミンは英米圏においても、いまや基本的教養で、大学生から大学の先生にいたるまでみんな読んでいる。「物語作者」もよく読まれているエッセイのひとつ。

ニコライ・レスコフの作品についての多角的な考察のなかで、レスコフの物語の魅力は、一定の読み方で決着がつくのではなく、つねに、さまざまな読み方が可能であることを述べ、レスコフの物語術が、ギリシアの最初の物語作者とベンヤミンがいうヘロドトスによる逸話について触れられる。その逸話はヘロドトスの『歴史』第三巻第十四章におけるエジプト王プサンメニトスの話である。内容はこうである。

エジプト王プサンメニトスが戦争に負けて捕虜になったとき、敵であったペルシア王は、エジプト王に屈辱を与えるため、ペルシア軍の凱旋行進が通ることになっている道にエジプト王を立たせておいた。やがて、その息子が処刑のために引き立てられていくのを行列のなかに見たときも、じっと動かないで観ていたが、その後、エジプト王の「召使のひとり、年老いたみすぼらしい男が捕虜たちの列のなかにいるを認めたとき、彼は両の拳で自分の頭を打ち、最も深い悲しみのあらゆる仕草を示したのだった」(ちくま学芸文庫)

このエジプト王プラメニトスの反応をどう解釈したいいのだろう。そこにさまざまな解釈がうまれるがゆえに、この逸話が後世に残り、語りつがれるのであり、レスコフの物語もそれと同じだベンヤミンは考える。では、このプラメニトスの話にどのような解釈が可能なのか。


  1. 「王の悲しみはすでに満ち溢れんばかりだったので、ほんのわずかな悲しみが増しただけで、堰を切って溢れ出るのにじゅうぶんだった」モンテーニュの解釈。
  2. 「王の心を揺さぶるのは王家の人びとの運命ではない。なぜなら、それは彼自身の運命だから」つまり彼の一族ではなく、無関係な召使までが巻き込まれて処刑されることを嘆いて。
  3. 「字際の人生では心を揺さぶられなようなことでも、舞台の上では心を揺さぶられることがよくある。この召使は王にとって、ひとりの俳優にすぎないのだ」
  4. 「大きな心の痛みはせきとめられ、緊張がゆるんだときはじめて噴出する。この召使を見ることが、緊張をゆるめるものだっのだ」

引用はすべて、ちくま学芸文庫版〈ベンヤミン・コレクション2〉より。


いまこうして引用して整理してみると、「物語作者」のこの部分の議論は、明らかに現代の批評理論でいうところの「アフェクト研究」と同じ方向性を共有している。しかし、それはさておき、この解釈を見るにつけても、モンテーニュからベンヤミンまで、みんなどうしてこんなに頭がよい、バカばっかりなのかとあきれる。いずれも、この理屈には感心するが、肝心なこと、もっとも単純なことが見過ごされているのはどうしたのか。天才的バカとはこのことではないか。

もっとも簡単な答え。それはエジプト王プラメニトスは、この老いた召使を愛していたのである。ゲイ的関係かもしれないないし、男性ホモソーシャルの友人関係かもしれないし、年齢も近いことから疑似兄弟関係かもしれないが、とにかく、エジプト王は老召使を愛していた。ひょっとしたら子供の頃から世話をしてもらっていて親子のような関係だったかもしれない。その召使が処刑されるのである。エジプト王が、両の拳で自分の頭を打ち、最も深い悲しみのあらゆる仕草を示しさないでいられるとは考えられないではないか。エジプト王は老召使と人間的絆でむすばれていた。家族、妻や娘や息子、あるいは親戚縁者たちを、エジプト王は愛していなかった。彼の愛情は、老召使だけに向けられていた。こんな簡単なことがどうしてわからないのだろうか。

映画『ヴィクトリア女王 最期の秘密』(2017)を見てほしい。晩年のヴィクトリア女王を描くこの映画では、ヴィクトリア女王にとって、唯一心を許せる相手がインド人の召使だった。インド人でムスリムの庶民が、ヴィクトリア女王の召使になるまでは、多くの偶然が重なったようだが、ヴィクトリア女王の師でありまた息子のような存在となったあとは、二人のあいだの深い人間的つながりに感動をおぼえずにはいられない。

もしヴィクトリア女王がエジプト王プラメニトスと同じ立場になったなら、処刑されるために連れ行かれる自分の息子や娘たちを見ても、さらには42人いる孫たち全員が処刑されるとわかっても、なんら心を動かされることはないだろう。だが、インド人召使が処刑されるとわかったら、両の拳で自分の頭を打ち、最も深い悲しみのあらゆる仕草を示しさないではいられないだろう。これはこの映画を観た者なら、納得できることである。

そもそもエジプト王プラメニトスの老召使に対する嘆きを謎とみるモンテーニュ以下の天才たちは、この映画のなかで女王とインド人召使の心の交流をなんとしても認めまいとする、あるいは隠蔽しようとする皇太子以下の取り巻き連中と何ら変わらないのではないか。

と同時に君主と召使の情愛関係は決して異様なことでもなければ異例なことではないはずだ。庶民とはちがって、王侯貴族の家族関係は、王権なり統治権が関わると、どうしも政治と骨がらみにならざるをえなくても、親密な親族関係・血縁関係は破壊される。君主が心をゆるせるのは、もはや親族ではなく、妻や夫、実の子どもたちではなく、子供の頃から世話してもらった乳母とか、身の回りの世話をしている召使とかが、唯一心許せぬ者たちとなる。彼らの身分が低いことが、逆に、権力闘争とか陰謀と無縁であることの証明ともなる。君主が、召使だけを愛したとしてもおかしくないのである。

あるいは君主は、召使のかわりにペットの動物と話すこともあろう。ただ、どうせ話すのなら動物よりも人間のほうが言語コミュニケーションができる。あるいは中世から初期近代にいたる王侯貴族が身近においていた道化の存在も同じだろう。道化は、君主とため口で話せるのであって、それはまた君主も唯一心を許せる相手だということだ。この映画のように外国人の召使もそうであろう。外国人であるがゆえに、国内政治のしがらみとは無縁のかたちで交流できる。もちろん、そうやって君主に取り入り、君主をコントロールすることがあるかもしれない。今回の映画の事例でも、インド人召使が女王を政治的にコントロールする危険性がないわけではないが、インド人にその気持ちはないことと、女王が、たとえもうろくしているようにみえても、根幹は賢明な女性であるがゆえに、問題とならないようになっている。

映画は、雄大な風景と広壮な屋内のスペクタクルで観る者を圧倒しつつ、広がりのある空間に閉じ込められた女王が、そのただ死をまつだけの晩年の境遇から救出され、束の間の、自由な飛翔を手に入れるいきさつ、それに貢献したインド人の言動を提示することで、最初は面白おかしく、そして最後にはしんみりとさせる。オリエンタリズム的映画といえば、それまでだが、ここでは壁を乗り越えて相互に交流するさまが描かれる点で、こちらのほうが早いのだが英国版『グリーンブック』と化している。植民地帝国の君主たる女王と被植民者たるインド人庶民との交流を、その境界の相互越境を、もし愚かな皇太子らが女王の死後もみ消さなければ、もっと穏便なかたちで植民地問題の解決とインド独立をみたかもしれない。つまり英国人であれ、インド人であれ、多くの血を流すことがない別の世界史を垣間見せることができる。この時代、大英帝国の絶頂期、英国人は、インド人を野蛮人とバカにしているが、英国こそ、はるかに野蛮で、英国人こそ野蛮人であるという相対化あるいは異化的批判的視点がこの映画にはある。それはまた差別や蔑視、ヘイトではなく、相互的敬意こそが真に文明的であることを瞥見させてくるといえようか。

 いずれにせよ、ジュディ・デンチの最近ではベストの演技だと思う。

 アクション映画では、人の死は軽んじられていて、さしたる感慨もわかないのだが、この映画のように、老いた女王の死をしっかりと描いてくれると、胸がうたれるというか、胸に迫るものがある。

 私の場合、悲しみはすでに満ち溢れんばかりだったので、ほんのわずかな悲しみが増しただけで、堰を切って溢れ出るのにじゅうぶんだった。

 とくに映画を観る前に予習はしていなかったので、ティム・ピゴット・スミスが出演していることは、顔をみてすぐにわかったのだが、以前に比べれば老いてはいるが、映画で活躍していることには感慨深いものがあった。だが、エンドクレジットをみて驚いた。ティム・ピゴット・スミスが亡くなっていた。この映画のエンドクレジットが作られた2017円には存命中だったのだが、この映画が日本で公開されたときにはすでに亡くなっていたようだ。事実、その死は、日本語の字幕のみによって(つまり英語字幕なしで)伝えられたのだから。

ティム・ピゴット・スミスとは、何の面識もないし、友人でもなく知人ですらない。しかし彼は、私にとって、昔から、その存在を映画のなかで知っている英国俳優だった。その彼が亡くなったのは、身内が亡くなるのと同じように悲しかった。



posted by ohashi at 04:17| 映画 | 更新情報をチェックする

2019年02月24日

『翔んで埼玉』

『レルマエロマエ』の武内英樹監督の映画だから、面白いことはたしか。魔夜峰央原作は連載3回で未完のまま終わっているので、原作の設定だけを借りて、自由に翻案、追加して、壮大かつ超おバカなギャグ・スペクタクル映画となった。土曜日の夜の回で、若い人を中心に、私のような老人を含め、幅広い年齢層の観客がいて、上映中、笑い声が絶えなかった。

エンドクレジットのときに、はなわの埼玉の歌が字幕付きで歌われていて、その最後の歌詞は、はなわ自身、佐賀出身なのだけれども、生まれは春日部、さいたま愛してま~すというものだった。そして歌の終わりとともに、翔んで埼玉のタイトルがスクリーン全体に大きく映し出されたときには拍手する観客がたくさんいた。観客は、埼玉県人が多いのではないかと思った。最後の、はなわの歌が、すべてもっていったと帰りがけに話している観客もいた。観客の満足度100パーセントだったようだ(100パーセントと書くと、からんでくる観客がいるかもしれないが)。

私は埼玉県に住んでいて、埼玉県人の夢の国であり、埼玉県の植民地といわれている池袋を経由して職場に通っているのだが、生まれは愛知県名古屋市なので、埼玉に対しては、正直なところ、とくに思い入れはない、好きでも嫌いでもないのである。これまで長く住んできたのは、名古屋市、東京都、埼玉県だが、いまでは埼玉県で暮らしてる年月がもっとも長いのだが、それでも埼玉には、名古屋からの、あるいは東京からの、新参者という気持ちが強い。とはいえ東京都のこともよくわかっていなくて、西葛西は、葛西臨海公園ともども千葉県と思っていたことを、この映画を通してわかった。

とはいえ埼玉県のこともまったくわかっていなくて、彩の国さいたま芸術劇場に行くときは、時間感覚がおかしくなって、いつも1時間も前に与野本町駅に到着してしまう。都民の感覚で動いてしまうのである。とはいえ、この都民感覚を完全に内面化しているのではない。そもそも埼玉県人がダサいたまとディスられるのも、埼玉県人でありながら東京都民の顔をしていた過去の悪行(いまの若い埼玉県人には記憶がないことかもしれないが)があるからである。

名古屋市にいたころ、私は、母から東京に住んでいる親戚がいると知らされたことがある。当然、東京のどこかと聞くと、母曰く、自分の姉は、東京都浦和市に住んでいる。

実際、母の姉、私の伯母は、そういって自分は東京都民だと母に言っていたようだ。地理的にはまったく無知なバカ息子である私と、私に以上に地理的知識のない、山口県出身の母にとっては、東京都浦和市があるものと信ずるほかなかった。

実際、他県民、あるいは愛知県民にとって、日本でいちばん、よくわからない地域は、北関東であった。さらに埼玉は、よくわからない北関東三県(栃木、群馬、茨城)と東京とのあいだのどこかにあるらしいという認識しかなかった。千葉には海があってわかりやすい。神奈川は横浜、横須賀がある。というわけで埼玉だけは、謎というよりも、空白の県だった。

また私の伯母にかぎらず、埼玉に住んでいる人は、昔は、東京都民だと言っていたふしがある。この映画のなかでいう「さいたま都民」である。私は、他府県に旅行するとき、どこから来たとわれて、埼玉と平気で答えるのだが、昔の埼玉県人は、この映画にあるように、東京から来たと答えていたようだ。だからであろう、埼玉県人は、この昔の悪行ゆえに、いまなお馬鹿にされるのである。

これはほんとうの話である。いまはどうかわからないが、埼玉県人は、常習的に東京都民を偽装した。平気でうそをつけたのである。また日本人全体の愚かさゆえに、そんなウソを見抜けなかった。私は、10代のころ、生まれてはじめて一人で伯母の家に行ったとき、東京駅から京浜東北線に乗って浦和にむかった。しかし浦和は1時間くらいたっても到着せず、しかも、まわりはあきらかに東京ではなかった。このとき私は、はじめて悟ったのである。浦和は東京都ではない、と。

私をすべての基準にするのは愚かだが、地方の人間の地理的知識はきわめて貧弱であるのは確か。だますのはたやすい。東京都浦和市というのは、ほんとうの話である。

ただ、それにしても関東では、埼玉化計画は確実にすすんでいるようで、私の住んでいるところから、横浜(そして海)へは直行できるようになったし、最近、放送大学に行く用件があったのだが、新木場まで直行し、そこからJRに乗れば、目の前には海が広がっている(新木場までを東京と思い、その先、葛西臨海公園を千葉と思い込むという誤解も、埼玉化計画によってもたらされたのかもしれない)。「さ」(マル・さ)は、確実に海を目指して千葉、神奈川に進出している。

となると日本埼玉化計画は着実にすすむのかもしれない。しかしそれはよくいえば中庸化、わるくいえば凡庸化である。埼玉化計画だけは消滅してもらいたい。


posted by ohashi at 14:55| 映画 | 更新情報をチェックする

2019年02月23日

『ギルティ』

予告編では、どこかのサイトあるいはサンダンス映画祭では観客の満足度100パーセントの評価を得たということだったので、期待を大きくして映画館(ヒューマントラスト渋谷)で観たのだが、面白い映画だったが満足度100パーセントではないでしょう。むしろ満足度100パーセントを出した観客に不満足度100パーセント。


まず、こうしたシチュエーション、つまり緊急コールを受けた警察のオペレーターが、電話をとおして、相手を救出し、事件を解決しようとする映画としては、有名なところでは、『ザ・コール 緊急通報指令室』(原題The Call ブラッド・アンダーソン監督2013年米映画)がある。テレビでも放送したことがあったように記憶するし、ひょっとして私はヒューマントラスト渋谷でこれを見ていたかもしれない。


ハル・ベリー主演の映画は、緊急電話を受けた彼女が、電話のやりとりをとおして被害者を救出し最後には犯人をとらえる。この『ギルティ』と同じ設定なのだが、ハリウッド映画なので、オペレーション・センターのなかだけで話は完結しなくて、現場での警察の対応やか犯人追跡も映像化されるので、電話の声だけで状況を推理するということではない。実際、ハル・ベリーと相手との電話のやりとりとリアルタイムの進行だけで映画が構成されていたら、もっと面白いのではないかと、不満を覚えた気がする。実際、映画の終わりではハル・ベリーは現場に出向いて、そこで犯人逮捕となるのだから、オペレーション・センターだけで完結していないのである。


同じ用に出演者が電話でのやりとりをするだけで、リアルタイム進行、他の出演者は声だけの出演という映画がある。警察物ではないのだが、『オン・ザ・ハイウェイ その夜、86分』(原題Locke, 2013年スティーヴン・ナイト監督・脚本、英米映画、原題は主人公の名前)では、トム・ハーディ(彼だけが唯一姿をみせる)が仕事を終えて車で帰宅するのだが、ハイウェイを走行中の車内で、携帯電話だけで、さまざまな問題(業務上の問題から、夫婦の離婚問題)を解決する映画で、リアル・タイム進行。他の出演者は完全に声だけであり、警察物ではないが、今回の『ギルティ』と似ている。


今回の『ギルティ』は、こうした先行作品に対して、さらにひねりを加えるために、オペレーターの対応を問題のあるものとした。『ザ・コール』ではハル・ベリーは、前に電話を受けた被害者の女性を死なせてしまったというトラウマを抱えているのだが、また『オン・ザ・ハイウェイ』のトム・ハーディも仕事上と私生活、双方に問題をやまのように抱えているのだが、電話を通しての対応は、現場にいないもどかしさはあっても、その対応と指示はりっぱで有能すぎる(私は、トム・ハーディと同じような立場におかれたら、携帯電話だけで、あんなに有効な指示はだせない。もっとも走行中の携帯電話はご法度ではあるが)。


ところがこの『ギルティ』では、事情があって第一線から外され、緊急コールセンターのオペレーターをヴォランティアでやっている警察官は、最初、ベテランのオペレーターかと思うと、どうも対応が横柄であったり、変に同情したりと、素人くさい。第一線をはずされた刑事だということがわかると(しかも翌日は彼が関係したか裁判のようだ)、対応の未熟さ、不手際など、まあ許せるのだが、しかし、事件の真相に少しでも迫りたい観客の前に、このオペレーターが援助者としてであると同時に妨害者としても立ち現れることに、観客はややがっかりするのではないだろうか。


実際、そうなのだ。このオペレーター、情報を隠したり、元の上司に連絡したり、さらには、オペレーターでありながら、事件の捜査をはじめ、事件を解決しようとするのである。酔っぱらってる元相棒を現場に向かわせたりする。完全に越権行為。このコールセンターのオペレーター、なにかこそこそと勝手に指示をだしている。そしてこの時点で、観客は悟るのだ。予告編にあったように、被害者女性からの通報で、誘拐事件発生と認識した警察がコールセンターのオペレーターの協力のもと、事件解決に総力をあげて取り組むというようなことは、もうないだろう、と。


電話でのやりとりだけで、声は聞こえても顔の見えない相手、そして謎をはらむ事件に対して、コールセンターのオペレーターが、いらいらし、もどかしい思いをするのはわかる。観客も、その彼もしくは彼女に同情する。そこに連帯関係すら生まれる。もしオペレーターの処置が適切か、規範的で常識の範囲を超えないのならば。しかし、オペレーターのしていることに対して違和感がある場合、観客は映画のなかの誰と共感できるのか。そもそのそのオペレーターの顔しかみえないのだから。


観客の負の感情の受け皿となる人物は映画のなかに必要であろう。さもないと映画のなかに同じ気持ちの人物がいなとなれば、観客どうしで気持ちを共有するしかない。しかしそれは、映画そのものに、負の感情をぶつけることになって、映画の評価が下がりかねない。しかも、今回のように、ほぼコールセンターのオペレーターの顔しかみえない場合、不満の感情以外のものをむける相手もいないので、ひたすらこの男の顔に不満をぶつけるだけとなる。


この時点で、私たちも気づくのだが、誘拐されたり拉致されたり閉じ込められているのは、映画のなかの、電話のむこうの被害者だけではなく、私たちでもあるのだと。誘拐事件は、このオペレーターが観客を誘拐したともとれる。このオペレーターの顔と反応しか、外部へとつながるものはないのであり、さらには事件が解決し、私たちがこのオペレーターから解放され救出されることを、私たちは望むのだから。たしかに観客は、映画のなかで展開す誘拐拉致事件の進展を息をつめて認めているが、同時に、この独りよがりの、傲慢で横柄な勘違い野郎からいつ解放されるのだろうと、その負の期待も同時にいだいている。つまりこのオペレーターは、私を監禁する誘拐犯なのであり、ひょっとしたら、ほんとうの誘拐被害者は、私たちかもしれないのだ。


満足度100パーセントとみなした観客は、どういう馬鹿なのかと思うのだが、ただ、監禁者、誘拐犯に、被害者が共感する、同情する、愛してしまうということなのか。この映画の賭けは、最後に、誘拐被害者である観客が、この誘拐犯たるオペレーターを愛するかどうかにかかっている。ストックホルム症候群と同じものが、観客とこの映画の唯一の出演者・主演であるオペレーターとのあいだに生ずるのか。生ずるようにも思う。だとすればストックホルム症候群とはいいえて妙である。ストックホルム症候群が生じた場所と国が、ストックホルムと一致……、あっ、ちがった、デンマーク映画だった。

posted by ohashi at 20:50| 映画 | 更新情報をチェックする

2019年02月22日

『女王陛下のお気に入り』

かつて『マリー・アントワネットに別れを告げて』というフランス映画があった(ブノワ・ジャコー監督)。フランス革命直前のフランスの宮中で、朗読係としてマリー・アントワネット(ダイアン・クルーガー)の朗読係の少女をレア・セドゥーが演じていて、それまであまりよく知らなかったレア・セドゥーをこの映画をとおして認知するようになった。この映画はマリー・アントワネットとポリニャック夫人(アントワネットの愛人)、そして朗読係の女の三者の力学によって動いていて、最後は、陰謀と革命騒ぎで揺れる宮廷から去るレア・セドゥーの田園に戻る自然児としての彼女の姿が印象的だったが、『女王陛下のお気に入り』は、女王と公爵夫人、その世話係の田舎の貴族での若い女性と、同じような設定ながら、テンションも、また癖も、あくどさもはるかに強く、きわめて印象的な映画である。女性の心理への洞察、人物の認識力の流動性、欲望の強度、自由でありながら実は強く拘束されている状態、上品で高貴で残酷で下品の混淆状態。どれをとっても感動的である。

『ロブスター』の監督ヨルゴス・ランティモスの作品である。『ロブスター』は、一定期間に伴侶をみつけられない独身者が動物に変えられるという、SFだがなんだかよくわからない設定の作品で、独身者をディするだけのような映画だった(これにもレア・セドゥーが出演していた)。主人公の兄は、伴侶がみつからず犬に変えられるのだが、この犬というのは兄が同性愛者であったことを強く暗示し、同性愛者差別みたいなものである。しかも主人公は、結局、最後にロブスターに変えられる。ロブスターは甲殻類で動物ではないぞと、ツッコミを入れずにはいられなかったが、以前、現代文芸論の大学院入試に、動物論関連の出題したところ、カフカの『変身』を扱った答案が多く、主人公が変身した、わけのわからない虫は、動物ではなく、昆虫だぞと、二次面接でつっこもうかと思ったが、カフカの『変身』は、動物論でよく扱われる作品であることを知り、自分の不明をひそかに恥たが、ロブスターにせよ、毒虫にせよ、動物の範疇に入らない、あるいは動物の範疇が西洋と日本では異なるのかと思わざるを得ない。

閑話休題、この何をパロディとしているのか、何のアレゴリーなのかよくわからない変なSFファンタジーのあと同監督の問題作が『聖なる鹿殺し』だった。これも変な内容の映画だが、異様なテンションと恐怖は、『ロブスター』を凌いだ。不気味な少年役が『ベルファスト71』や『ダンケルク』に出いていたバリー・コーガンであることも面白かったが、内容についていまひとつ手がかりがないまま、後半で、長女が高校で書いた作文のタイトルがヒントとなって、作品をみる視座が確定した。また、これは私だけが指摘することだが(同じ指摘をみたことがないのだが)、主題として扱われているのが、ベンヤミンの初期の論考『暴力論』で論じた「神話的暴力」と「神的暴力」の対比における「神話的暴力」である。興味がある人は調べてみたらどうか(「暴力論」は岩波文庫では「ベンヤミンの仕事1」に。またちくま学芸文庫版では『ドイツ悲劇の根源』(下)に収録されている)。

『ロブスター』よりも『聖なる鹿殺し』のような題材を扱ったほうが、はるかに面白いと思ったのだが、今回の『女王陛下のお気に入り』をみて、こういう題材を扱ったほうが、はるかに面白いと、毎回に、これがベストではと思わせる作品を創造する監督に感謝。

また、いまはおこなっていないが、英文学史の授業を担当して、17世紀から18世紀にいたる王朝史を簡単に解説したことのある私としては、ジョージ一世を迎える前の最後のアン女王時代というのは、国外で戦争をずっとしていて、また保守党の前身であるトーリー党が和平派で、リベラルの前身であるホウィッグ党が主戦派というのも面白いところだが、なにかぼんやりとした印象しかなかったのだが、この映画をみて、目が覚めたような、激しい覚醒に見舞われた。老後の楽しみとして、この時代を掘り下げてみるのも面白いと思った次第。

衣裳などはあらたにデザインしたようがだが、いかにも時代考証に留意して当時を再現した観があるのはりっぱ。たぶん時代考証はそんなにしていないと思うのだが。また人物たちの、また周囲の底意地の悪さは『聖なる鹿殺し』からも受けついでいて、たとえば宮廷の侍女たちのにこやかな笑顔をふりまきながら、恐ろしいいじめを淡々とするところは圧巻であるし、手コキ好きも『鹿殺し』から継承されている。

細かくはネタバレなので書けないが、最後の最後で、『ロブスター』の世界にもどったのは驚いた。映画のエンドクレジットのときに流れる音がある。『ロブスター』では、これは水の音というか水中での音で、主人公がロブスターに変身させられたことを暗示していたが、今回は変身物ではないので、人間が変身するわけではないが、比喩的に変身させられていた。ウサギに。最後の場面は、ウサギたちがざわめいている姿である。これは『ロブスター』の結末と同じである。

直接的にはエマ・ストーンが比喩的にうさぎになるのだが、彼女だけではなく、みんなウサギとしてみられている。監督にとって、動物は、飾り物にすぎないと思っていた。たとえ『ロブスター』は例外としても。『鹿殺し』に鹿は登場しない。ところがこのウサギにいたって監督の動物論は本気であることがわかった。なぜうさぎか。映画のなかでも暗示されているが、かわいいウサギ、実は性欲がほかの動物よりも強いのである。



posted by ohashi at 14:12| 映画 | 更新情報をチェックする

2019年02月21日

『タンク・ソルジャー』(2017)

『鬼戦車T34』というロシア映画がある。ながらく第二次世界大戦中につくられた映画かと思っていたが、1964年という、もう戦後ともいえない時代につくられたモノクロ映画。

ソ連映画として、映像的には、さすがに20世紀はじめから映画大国であった国の映画で、すばらしいものがある。映像面ではおすすめ。また、当時まだ残っていた大戦中のT34戦車の本物を動かしているので、T34としてはかなり古い型なのだが、大きさや動き方など、かなり実感できるつくりになっている。おそらく、戦争映画ファン、あるいは戦車ファンとしては、それでじゅうぶんなのかもしれないが、ドラマの部分、映像ではなく人間のドラマの部分は薄い。それなりに人間的要素を深めたドラマを、エンターテインメント的に提示しようとする意図はくみ取れるが、ドラマ部分がスマートではない。工夫の余地は大いにあった。また実話に基づくという理由がなければ、プロットは、かなり荒唐無稽である。

戦時中のドイツでは捕獲したソ連の戦車T34を実験台にして対戦車砲の改良と戦術を研究するのだが、捕獲したロシア戦車の操縦を捕虜になった戦車兵にまかせる。ところが実験台の戦車の操縦をまかされたロシア兵が、ドイツ軍のすきをついて、T34もとも脱走する。

ネット上でのこの映画のあらすじ紹介とかあらすじに言及するサイトをみてみたら、奪ったT-34でウクライナ/ロシアへの帰還をめざすとあったが、それは誤解。そもそも破壊実験用車両なので、搭載されているわずかな燃料で故国には帰れない。最終的に戦車を乗りすて、自力で故国に帰るつもりだったが、ドイツ国内で捕虜となり過酷な労働に従事させられているロシア人女性たちの悲惨な姿をみるにつけ、残った燃料で、ドイツ国内を暴れまわり破壊しまくることを決意する。ドイツ軍の後方を攪乱し混乱に陥れるという玉砕戦法(とは述べられていないが)に方針を転換する。考え方は自爆テロと同じ。あとは、どこまで戦車であばれまわれるかにつきる。

破壊実験用の車両なので、武装していない。機関銃ははずしてあるし、砲身はついているが、砲弾は一発も搭載されていない。そう、このT-34、ドイツ国内(捕虜収容所があった周辺地域)であばれるのだが、鋼鉄の車体で建物などをこわすのであって、一発も砲弾を発射しない(砲弾がそもそもないから)。だから敵の戦車と銃撃・砲撃戦でわたりあうということはない。これはかなり異色の戦争映画なのである。

まあ戦争映画のお約束たる敵中突破形式にみえるが、敵中にはいってあばれるだけで、最後に包囲されて終わりとなる。車外にでて幼い子供を助ける操縦士が銃撃され死ぬと、あとは、無人のT-34が敵陣めがけて進行し、砲煙につつまれるという、印象的な終わり方となる。T-34がいつしか魂をもち、操縦者の人間がいなくとも、自力で動き回れるまでになる。いわば鋼鉄の塊T-34が魂をもつようになる。映像はそれを緻密かつ大胆に実現する。

映画の原題は「鬼戦車」ではなくZhavoronok、ヒバリという意味らしく、英語のタイトルもThe Larkである。なぜLarkなのか説明はないが、戦車の魂との関連があるのかもしれない。

それから約半世紀後、再びロシア映画に戦車が登場した。2018年のことである。映画の英語のタイトルではTankers、日本語のタイトルでは、どういうわけか『タンク・ソルジャー』と変な英語になっている。東京と大阪で開催されている「未体験ゾーンの映画たち 2019」で上映されていた。映画館はヒューマントラスト渋谷で。

『鬼戦車T-34』からどう変化したのかと、そのあたりも興味があったが、むしろ変化はなかった。『タンク・ソルジャー』では、ドイツ軍兵士がドイツ語で話すと、それを同時通訳のようにロシア語に直すナレーションが聞こえる。字幕とか、完全に吹き替えるのではなう、もとのドイツ語も聞こえつつ、ロシア語の訳文がかぶされるのである。これはどういう趣向かと思ったのだが、ネット上には、テレビの再現ドラマみたいだという感想が載っていた。どうにかならないのかと思って、ふと思い出した。『鬼戦車T-34』でも同じだったと。半世紀前からまったく変っていないのだ。

今回の映画ではT-34も登場するが、主役となるのはKV-1重戦車である。T-34は中戦車に分類される。またこれは戦争映画なので、ロシア軍、ドイツ軍、双方の戦車は砲弾を発射する(一度も砲弾が発射されない『鬼戦車』とは違う)。ただ重戦車というからには攻撃力も重量級かというと、攻撃力ではT-34と大差ない。ただ車体が重い。なぜ重いかというと、戦車の外皮を厚くしたからであり、映画にも登場する初期型のKV-1は、分厚い鉄板を大きなボルトで砲塔とか車体の周囲にとめるため、相当ごつい。映画のなかでは、まだ十分に整備のおわっていないKV-1が、命令で2台のT-34と近隣の村を強行偵察する場面がある。重すぎるKV-1T-34に追いつけないため、後方に下がり、動けなくなる。すると村に隠れていたドイツ軍の4号戦車隊がKV-1を集中攻撃する。だがKV-14号戦車の砲弾をくらってもびくともしない。分厚い装甲に守られているため、砲弾をあびても平気でいられるのである。攻撃ではなく自重の負担によって動けなくなったKV-1は、それでも4号戦車を撃破するのである。

こう書いていくと、けっこうおもしろそうな映画かと思うかもしれながい、主役ともいえるKV-1がつねにどこか故障していて、映画のなかで、戦場を高速で走り回るということはない。実話に基づくとうたっていて、その分、脚本の荒唐無稽さが緩和される。そもそも鈍重なKV-14号戦車16台を撃破したと言うのは、事実でなければ脚本にできない成果である。とはいえ戦場の端っこで、つぎつぎと湧き出る4号戦車をたった1台で迎え撃つというのは、やはり、なにかしら違和感を抱くことになる。本隊というか主力部隊は、何をやっとんじゃい、とツッコミをいれたくなる。またドイツ軍の4号戦車も簡単に炎上しすぎる。登場するのは後期型の4号戦車であり。その前期型(『ガールズ・パンサー』で、大洗校の「あんこうチーム」が搭乗していた戦車――何を書いてるのかわからない時は、とばしてください)なら、KV-1で撃破できたかもしれないが、後期型は簡単には破壊できないはずだ。【追記、今回、タミヤから昔から出ているKV-1のプラモデルをつくってみた。プラの成型色がグリーンなので、色を塗らず、つや消しスプレーを塗布して、あとはウェザリングして仕上げたら、思いのほか時短になって、他の仕事をじゃますることなく終えられたのだが、それでわかった。KV-1は四号戦車よりも車体が大きい。たしかにこの巨体なら四号戦車は蹴散らせたはずだと納得】

ただ、こうした違和感はあるのだが、致命的なのは『鬼戦車』と同じ、人間のドラマの部分である。今回はソ連軍にふさわしく女性兵士が凄腕の整備士として登場するし、しかもそれが主人公の妻だとわかると、急に面白くなる気がするのだが、しかし精神年齢は中高生とでもいうべき、みていて気恥ずかしくなるような、そしてどうでもいいドラマが展開する。ドラマの部分の作りが弱いのは、昔も今も変わらない。

とはいえKV-1について映画のなかで、またネット上で調べた結果、いろいろなことがわかり興味をもつことができた。映画をみたあとはプラモデルで作ってみたくなる。実はT-34のほうは、中国のメーカーであるトランぺッターの1/16の大型モデルでもっている。たぶん死ぬまで作らないだろうと思う。私が死んで、未開封のプラモデルがどのくらいで売れるのか想像もつかない(たぶんプラモデル趣味も下火になり高額では売れなくなると思う)。KV-1は古いモデルながらタミヤ模型から販売されていて、これを購入した。あとはトランぺッターが1/35KV-1を製作しているので、これも予約しておいた。【追記、今回、タミヤ模型から昔から出ているこのKV-1のプラモデルをつくってみた。プラの成型色がグリーンなので、色を塗らず、つや消しスプレーを塗布して、あとはウェザリングして仕上げたら、思いのほか時短になって、他の仕事をじゃますることなく終えられたのだが、それでわかった。KV-1は四号戦車よりも車体が大きい。たしかにこの巨体なら四号戦車は蹴散らせたはずだと納得】

posted by ohashi at 11:41| 映画 | 更新情報をチェックする

2019年02月20日

文学と政治 ジェンダー戦争

正月にヒッチコックの『鳥』をテレビで放送していた。とはいえその放送をみたわけではないが、そこで思い出した。映画『鳥』の原作を収めてデュー・モーリアの作品集の翻訳のことを。

それはダフネ・デュ・モーリア『鳥――デュ・モーリア傑作集』務台夏子訳(創元推理文庫2000)である。この中には翻訳版の表題作『鳥』が有名なのかもしれないが、私にとっては、思い出の作である『モンテ・ヴェリタ』が入っているのはうれいしい。とはいえ、私が中学生の頃に集英社の文学全集で読んだ『真実の山』と同じか定かではない。私が文学全集で読んだのは、もっと長かったらように思う。ちなみにその文学全集の一巻には篠田一士訳のボルヘスの作品集(『伝奇集』)も入っていて、当時、この日本初訳で、生まれてはじめてボルヘスを読んだ。しかし当時、ボルヘスは面白くなかった。前衛度が高すぎて中学生の私には手におえなかった。

いまではボルヘスの読み方が変わってきていて、ボルヘスの短編には、驚異深い哲学的小話というイメージがあり、説話文学のパワーを現代に蘇らせたとみることもできる。問題は、日本で初めて翻訳されたとき、ボルヘスは、前衛的作家とみなされ、その作品はカフカ以上に不条理な神秘性をたたえているというような、孤高の芸術的・前衛性を誇示していた。とんでもない勘違いだと思うが、篠田訳は、そうしたおしつけがましい芸術性をボルヘス作品に付与してた。

ボルヘスの『伝奇集』のなかにある有名な短篇「バベルの図書館」の冒頭のエピグラムの誤訳は、篠田訳から、翻訳者がかわっても律義に踏襲されている。それは『メランコリーのアナトミー』の作者ロバート・バートンの著作からの引用で、23文字でできあがる宇宙というもの。篠田一士は、東大英文科卒業だが、英文学のみならずヨーロッパ文学全般に造詣が深く、さらに日本文学の評論でも活躍し、天才的批評家、文学研究者といえる人物だったが、残念ながらシェイクスピアをはじめとする初期近代から中世の英語文学には全く無知だったと言わざるを得ない。まあ天才でもこんなことを知らなかったのかと、凡才の私はちょっと嬉しくなるのだが。

アルファベットは現在では26文字だが、シェイクスピアの時代は23文字だった。昔はuがなく、vで代用されたし、jがなくiで代用していたし、wも、vvで代用していた。つまり現在よりもアルファベットが3文字少なかったのである。ロバート・バートンはシェイクスピアの同時代人だが、そのバートンが23 lettersといえば、アルファベットの23文字という意味であり、アルファベットの23文字が、宇宙そのものを形成するという言語の力と神秘を述べているのだが、それを篠田一士をはじめとしてボルヘス翻訳者は、あろうことか23の手紙と訳したのである。馬鹿もきわまれりとはこのことだ。なんだ23通の手紙とは、どんな手紙なのだ。またなぜ23通なのか。アルファベットを構成する23文字を23通の手紙と訳したら、もうなにがなんだかわからない。その不条理なまでの謎(実はばかばかしいほどの誤解)が、作品を前衛の地位にまで高めたのである。愚劣さの極みだ。ボルヘスなら、それこそこの愚行を短篇で批判するかもしれない。

おそらくこの23通の手紙というは氷山の一角であろう。ボルヘスを、わけのわからない前衛的な作家に祭り上げたのが、日本での初期受容のありようだったが、そんなことはわからない中学生の私は、ボルヘスには歯が立たないとあきらめた(「23通の手紙」を前にして、これが23文字の誤訳ではないかと推測できる人は、そんなにいないだろうし、まして中学生である)。あきらめて、文学全集の同じ巻に入っていた、デュ・モーリアの作品『真実の山』(吉田健一訳)に赴いた(『鳥』のなかでは「モンテ・ヴェリタ」のタイトルで収録されているが、やはり短いので、べつに長編版があるのだと思う)。この作品は驚異的に面白い作品で、一気に最後まで読んだ。徹夜して。当時中学生の私は規則正しい生活習慣を親から強要されていたので、徹夜などしたことはなかった。それが初めての徹夜で体調がおかしくなったことを記憶している。

閑話休題。『鳥』という作品集には、「恋人」というタイトルの作品が冒頭に収められている。巻末の解説にこうある。

「恋人」

軍隊帰りの青年と映画館の案内嬢との短い恋の、意外に恐ろしい結末を描く哀切な物語。デュ・モーリアは時に驚くほど辛辣で人間描写をすることがあるが、一方でこういう純愛の物語を書かせても圧倒的に巧い。その変幻自在ぶりも彼女の小説の大きな魅力である。(p.542


巻末の解説は、翻訳者によるものではない。一応この短篇のコメントとしては、これがすべて。「短い恋の、意外に恐ろしい結末を描く哀切な物語」、しかも「こういう純愛の物語」とはいったいどんな物語なのだろうと読んでみた。読んだ後、まあ解説でのネタバレ禁止という制約があるため、こんなコメントしか書けないのかと唖然とした。制約があるかもしれないが、それにしてもひどい。

軍隊帰りの青年(といっても、第一次世界大戦なのか第二次世界大戦なのかわからないのだが、たぶん第二次世界大戦後)、映画館の案内嬢に恋をした青年は、その案内嬢がバスに乗ったことをみて、自分も乗り込み、彼女の隣に座る。青年と彼女は終点でバスを降り、コーヒー店で軽食をとったあと、墓地に行く。彼女は空襲で家族を失ったとのことだった。しかし二人の仲はそれ以上進展せず、青年は深夜、自分の下宿先までひとり歩いて帰ることになる。翌日以降、彼女は職場にもあらわれず姿を消す。彼女とパスで行った墓地の近くで殺人事件が起こり、青年も警察から取り調べうける。殺人事件は、空軍の軍人ばかりを狙った連続殺人であった。主人公の青年も戦時中は空軍にいたのだが、パイロットではなく整備兵だったので、連続殺人犯の魔の手から免れたようだ。新聞に掲載された連続殺人犯の写真は、青年が恋心を抱いた映画館の案内嬢であった……。

こういう作品を、「哀切な物語」とか「純愛の物語」とは言わないと思うのだが、実に興味深い話ではある。この殺人鬼の女(とはいえ墓地か、その周辺に住んでいる彼女は、昼間は眠っている吸血鬼の面影もあるのだが)が殺すのは空軍のパイロットなのだが、それは空襲で自分の家族を殺されたからだった。

やや曖昧な所を残すのだが、彼女は敵国の空軍のパイロットを殺しているのではなさそうだ。つまりドイツの女性がイギリスに渡り住み、自分の家族を空襲で殺した英国空軍のパイロットを殺しているという可能性がないわけではないが、というかその可能性を逃げ道として残しつつ、イギリス人の女性が英空軍のパイロットを殺しているという物語である。復讐は、愛国心あるいはナショナリズムに根差したものではなく、そもそも戦争を起こした男たちにむけられている。国や民族は関係ない。愚かな戦争の遂行者であった男性たちに対して彼女は復讐している。これはジェンダーの戦争なのである。

民族間の対立は、戦争に発展する。しかし男女間の対立は、差別・非差別の関係、抑圧者と被抑圧者との関係であっても、殺し合いに、あるいは戦争には発展しないといわれてきた。好戦的フェミニストは、男性を告発するフェミニストであって、男性を殺し男性と戦争するフェミニストのことではない。だが、この作品では、女性が復讐のために男性を殺すのである。男性と戦争をする女性が登場しているのだ。もちろん彼女は空襲で死んでいて、亡霊が復讐しているともいえるのだが。この亡霊は好戦的フェミニストである。

そういえばデュ・モーリアの作品には男性を破滅させたり殺したりする女性がよく登場する。ファム・ファタール的、運命の女的、悪女なのだが、従来のファム・ファタール像に、デュ・モーリアはフェミニスト政治を盛り込むことになる。その結果、男をとり殺す悪女像にフェミニスト的政治とう体幹をもちこむことになった。ある意味、この作品「恋人」は、ジェンダー戦争のファンタジーを登記する記念碑的作品といえるかもしれない。そしてそのことをかたくなに認めようとしない、政治嫌い(ジェンダー闘争嫌いも含む)の文学愛好家の、まぎれもない政治性を、私たちはどうしたらいいのだろうか

作家は政治する。読者も政治する。ただ批評家だけが、作品の政治性を語ることを阻止する公安警察である。


posted by ohashi at 16:07| エッセイ | 更新情報をチェックする

2019年02月19日

年度会でのスピーチ

毎年、大学院の英語英米文学専門分野では2月のこの時期に年度末会という名で宴会をする。昨年も、そのときに話したことをここに掲載したが、今年は、退職するので、花束をもらい、退職の挨拶をすることになった。スピーチをしなければいけないことはわかっていたので、考えてきたことはあった。ところが宴会のなかで、あれこれ考え始め。最初の構想にもないことを言おうとして、話しはじめたら、それがすぺってしまい、あとはまとまりのない話を、滑舌の悪さを克服できなまま、続けてるころにない、結局何を言いたいのかわからない、悲惨なスピーチになってしまった。

そのためここでは最初予定していたスピーチ、話すことがなかったスピーチを記載することにしたい。たぶんこのような内容の話は、他の機会では話すことはないだろうと思うので。

え~、私は、この3月で23年間務めてきた大学を退職することになったのですが、私の退職のあとは、英文研究室で退職する教員を出すのはすこし先のことです。つまりこれまで平石先生、高橋先生、今西先生と、毎年ではないとしても、一年おきぐらい退職者がでるという、退職連続のシーズンは、私が最後となります。つまり、ある意味、私は古い世代の最後ということになります。


この古い世代の特徴は何かというと、全員そうだということではないのですが、学歴が低いということです。私の指導教官は、よく大学院生にむかって、自分は学部しか出でいないとか、大学院で学んでいないと話していたのですが、昔の戦前・戦中の大学は、いまでいえば大学院みたいなものだったので、大学院生の私は別になんとも思わなかったし、しょうもないことを言うものだと、大学院生の私は、ややあきれていたのですが、しかし、私も退職間際になって、自分の学歴の低さを大学院生の皆さんに言いたくなりました。


ここには博士課程の院生諸君、また修士論文を書いて博士課程へと進学予定の院生諸君がいるのですが、私は学歴が低く、修士課程しか出ていません。それなのに博士課程の院生諸君を教えていたのですが、まあ、これは今では考えられないことですが、要は、修士課程修了後、すぐに助手に採用されたので、最終学歴が修士課程修了となったのです。ただ修士課程修了後、すぐに助手になるというも、いまでは考えられないことです。


数年前に、人事関係の委員会に出席していたときのことですが、そのときの雑談で、学部長が、いや昔は修士課程を出ただけで大学で教えていた人がいたものですよと話したので、はい、それは私です、いまでもこうして大学で教えていますよと話したら、学部長は、かなり驚いていたのですが、まあ、そういう世代に私は属しています。


もちろん修士課程しか出ていなくても、大学院に入りなおしてPhDを取得するとか、外国の大学の大学院でPhDを取得するということはできますが、そんな意欲も、また能力もない私は、大学に就職できたことをよいことに、今日までずるずるときてしまいました。


ただ、古い世代においては、それも珍しいことではなかったのですが、今の時代には、まったく通用しないというか、ありえないことです。そして旧制代の最後の人間がこうして去ることになったことは、良いことだと思っています。


このあと大学や大学院における研究活動にとって明るい未来が待っているとは、残念ながら、言えないように思うのですが、しかし、旧世代の残りかすが一掃されることは、新しい時代の、ほんとうの始まりを意味しているわけですから、それは祝福されてしかるべきものです。


私としても、私が去ることで、皆さんが、ようやく旧制代から縁を切ることができると思えば、辞めがいもあるというものです。やめてくれてありがとうと、これで古い時代ともお別れできると、お礼を言われてもおかしくありません。


その意味で、みなさんにとって私が新しい時代の幕開けのきっかけとなったことに対しては感慨深いものがあります。みなさんの今後の活躍と研究の成功を願ってやみません。本日は、ありがとうございました。

posted by ohashi at 09:47| エッセイ | 更新情報をチェックする

2019年02月18日

『ヘンリー五世』2

彩の国さいたま芸術劇場における『ヘンリー五世』をみて、こんなセリフがあったのかと、自分自身の不明を恥じることになったのだが、アジンコート/アジャンクールの戦い前夜のフランスの皇太子(ドーファン)の台詞である。皇太子は自分の名馬を褒める。松岡和子氏から訳文をお借りすると

皇太子 ……私のあの馬にふさわしい褒め言葉を思いつかぬやつは、脳足りんだ。……世界中の、我々がよく知る人も知らない人も、……あいつを賛嘆すべきなのだ。私はかつてあいつを讃えるソネットを書いた。出だしはこうだ、「大自然の生み出す奇跡!」

オルレアン そんなふうに始まるソネットを聞いたことがある。恋人に捧げたものだが。

皇太子 ならば私が愛馬に捧げた詩をまねたのだろう。私の馬は私の恋人なのだから。

                   第三幕第七場(『ヘンリー五世』シェイクスピア全集30、ちくま文庫、2019

皇太子は、自分の愛馬を褒めるソネットを書いたらしいのだが、それはソネットという恋愛詩の形式あるいは文言をまねたものだった。そのことをオルレアンに指摘されると、恋愛詩ソネットのほうが、自分の書いた詩を真似たのだと、苦しい、あるいは大胆な言い逃れをする。皇太子は、恋愛詩ソネットをまねて、自分の愛馬を讃えたソネットを書いたのに、まねといわれるのが嫌だったのか、恋愛詩ソネットのほうが、自分の詩をまねたのだと馬鹿馬鹿しい主張をしたのである。

別に名台詞というわけではないが、皇太子役の溝端淳平の力演もあって、興味深く聞いた。そしてこれは上演とは全く関係ないが、この上演のパンフレットに収録されている北村紗衣のエッセイを読んで唖然とした。北村氏は、鋭く興味深いコメントをちりばめたエッセイをパンフレットに書いてくれていて、私たちを大いに楽しませ、また裨益してくれるのだが、今回の北村のエッセイは、ひどい。「どこかで聞いたような、あの演説――知らないようで慣れ親しんでいる『ヘンリー五世』」というエッセイのなかで、ケネス・ブラナー監督主演の映画『ヘンリー五世』について触れて、

これはリアルな戦争描写と人間味のあるヘンリー五世の描写が特徴で、後世の戦争映画に影響を及ぼしている。

と書いている。おいおい、ここにも皇太子(ドーファン)がいるぞ、思わず私はつぶやいた。先の皇太子の台詞は、苦し紛れの冗談めいた言い逃れだが、北村は本気でこんなことを考えているとした反省したほうがいい。

ブラナーの映画『ヘンリー五世』は、ヨーロッパ中世の合戦を、現代のリアルな戦争映画のように描いたことによって驚きをもたらしたのであって、『ヘンリー五世』が現代の戦争映画の影響をうけているのである。それをドーファン北村は、現代の戦争映画のほうが、『ヘンリー五世』の影響を受けたというのだ。馬鹿か、こいつは。

ブラナー版『ヘンリー五世』の戦闘場面における、血まみれ泥まみれの白兵戦、肉弾戦というのは、たとえば黒澤明の『七人の侍』の影響を受けているといってもいい。いや『七人の侍』に限らず、リアルな戦闘場面を誇る戦争映画は、ブラナー版『ヘンリー五世』以前にいくつもつくられ、影響源となりうる。ブラナーの映画はそれらに影響を受けたか、それらを取り入れたのではないかと誰かがドーファン北村に尋ねると、ドーファン北村は、いやブラナーの『ヘンリー五世』のほうが『七人の侍』に影響を与えたのだと本気でいうのだ。歴史修正主義者は北村氏を仲間に加えるといい。なんでも自分の主張に都合のよいように捻じ曲げてしまうのだから。

ドーファン北村は、さらにこんなことを述べている:

スピルバーグが1998年に監督した『プライベート・ライアン』は第二次世界大戦をテーマとした映画としては最も有名なものの一つだが、これはトム・ハンクス演じるヒーロー、ミラー大尉がわずかな人数を率いて不可能なミッションに挑むという構成といい。リアルな戦争描写といい、ブラナーの『ヘンリー五世』の影響を受けていると言われている。

数はしっかり数えないといけない。『プライベート・ライアン』は、ノルマンディー上陸作戦中に、ライアン二等兵を故国の母親のもとに送り返すために、ライアンを発見し救出する任務に就くところの一小隊の行動を追うものだが、いっぽうヘンリー五世は一小隊を率いてフランスに殴り込むわけではない。彼は英軍の長であって、少人数の別動隊の隊長ではない。

またこうした戦争映画のお約束である敵中突破形式も『プライベート・ライアン』の最後のほうで実現するし、敵中突破形式はシェイクスピアの『ヘンリー五世』では萌芽的であり、ブラナー版『ヘンリー五世』では、そうとれないこともないし、『プライベート・ライアン』では、ハリウッド版戦争映画のお約束となっている。しかしブラナー版『ヘンリー五世』と『プライベート・ライアン』は物語形式としても、その描写方法としても、差異がありすぎる。

『プライベート・ライアン』に影響をあたえているのは、またしても『七人の侍』かもしれないのだ。また『プライベート・ライアン』に物語内容の面でも、エートスの面でも最も似ているのはスター・ウォーズ・シリーズのスピンオフ『ローグ・ワン』である。『プライベート・ライアン』では一兵卒を無事に故国に送り届けるという任務を完遂するが、任務についた小隊はほぼ全滅。『ローグ・ワン』では帝国側のデス・スターの設計図を反乱軍に送り届けることに成功するが、その任務についた部隊は全滅する。そういえば『七人の侍』でも最後まで生き残った侍は数名である。この主題系列のなかに、ブラナー版であれ、シェイクスピアであれ、『ヘンリー五世』が、どうやってはいりこめるというのだろう。

ドーファン北村はさらに、こう述べている。『ヘンリー五世』におけるアジンコートの戦いの前の有名な演説は、のちの映画においてリーダーがする演説に影響を与えたというのだ。ここまでくるとドーファンを超える。戦いの前に、リーダーが部下を鼓舞するために演説をするのは、古来から、古今東西、お約束ではないか。たとえば「敵は本能寺にあり」と演説した武将がどこかの国にいたはずと思うのだが。まあドーファンの好き勝手な論理と歴史捏造は、ドーファン自身、冗談めいたかたちでいっているのだが、ドーファン北村の、すべて『ヘンリー五世』の影響を受けているというクソみたいな歴史観は、冗談でいっているのではないぶん、たちがわるい。

歴史修正は、実は『ヘンリー五世』のなかで、シェイクスピアは恥も外聞もなくおこなっていることでもある。このなかでヘンリーの三人の友人たちが裏切り者として処刑される。理由は、ケンブリッジ伯をふくむ三人組が、フランスからお金をもたってヘンリー五世暗殺をたくらんだということだった。しかし、ケンブリッジ伯の反乱だけは、そんな簡単なものではなく、ヘンリー五世の王位継承に対する重要な無視できぬ異議を申し立であった。それは、たんなる金欲しさの暗殺という卑劣なものではなく、高邁な理念に裏付けられた王位継承の是非にかかわるものであった。そのことは『ヘンリー六世・第二部』(『ヘンリー五世』以前い書かれた)のなかで、ことこまかに論じられている。あの説明は、どこにいったのか。このいい加減さがドーファン北村にも乗り移ったのか。

いや、ドーファン北村のこじつけエッセイは、『ヘンリー五世』という演劇作品に負の影響を受けたといえないこともない。実際、この作品には、こじつけ王とでもいうべき人物が存在する。それはドーファンではない。ドーファンをしのぐ、北村をしのぐ、こじつけ王、それがウエールズ人のフルエリンである。

フルエリン主義という揶揄的な名称を思いついたシェイクスピア研究者もいたのだが、とにかくフルエリンには、こじつけの解釈が多い。もっとも有名なのが、ヘンリー五世をアレクサンドロス大王とを比較し、前者を後者になぞらえる台詞である。

フルエリン ……お生まれがウェールズのモンマシュじゃからな。ガワー大尉。アレキシャンダーだいおうが生まれたのは何という町じゃったかな?

……

ガワー アレキサンダー大王が生まれたのはマケドニアだと思う。父親はマケドニアのフィリップと呼ばれていたはずだ。

フルエリン 我輩もアレキサンダーが生まれたのはマケドニアじゃと思う。よいかな、大尉、世界地図を一瞥しゅれば、まっことお分かりじゃろうが、マケドニアとモンマシュを比較してみると、状況はじゃな、よろしいか、しょっくりなのじゃ。マケドニアには川がある、モンマシュにも川がある。モンマシュのはワイ川と呼ばれ取るが、もう一方の川が何という名前かは失念した。しかししょんなことはどうでもよい、二つの川は右手の指と左手のようにしょっくりで、どちらの川にも鮭がおる。……(第四幕第七場)

もこのこじつけ話のフルエリンこそ、まさに北村の師匠といえる。北村のプログラムのエッセイは、この種のこじつけめいた話で、最初は憤慨したが、だんだん気持ちがなごんできた。これは北村氏の芸ではないと思うのだが、『ヘンリー五世』上演パンフレットに、こんな馬鹿馬鹿しいこじつけエッセイを書いたといことは、フルエリンが北村氏にのりうつったしかいえないではないか。こう思うと、ほんとうに面白くなり、楽しくなってしまい、悪い感情が消えた。むしろ、よくぞここまで、恥を知らずなこじつをけしたものだと、フルエリンを、いやフルエリン主義者北村に拍手を送りたくなった。


続きを読む
posted by ohashi at 12:03| 演劇 | 更新情報をチェックする

2019年02月14日

『ヘンリー五世』

彩の国芸術劇場の大きな舞台を最大限活用するためにと思うのだが、シェイクスピアの『ヘンリー五世』という歴史劇、シェイクスピアの歴史劇の最後の作品(正確には『ヘンリー八世』が最後の作品だが、これは共作であり、また乱世を扱った歴史劇とは一線を画す平和な時代の陰謀と権力闘争を扱う点でも、これまでの歴史劇とは一線を画している)という記念碑的作品の、歴史絵巻的側面を強調して、舞台のアクションも正面からとらえている。つまり横一面に並ぶ構図が多い。舞台の前面だけを使うレビュー形式あるいはタブロー形式を多用する。そのため文字通り「絵になる場面」が連続する。この絵(タブロー)と絵(タブロー)をつないでいくことで、まさに文字通り「歴史絵巻」が出現する。新国立劇場で昨年上演した『ヘンリー五世』は、客席に円形に突出する舞台だったので、タブロー化とは無縁のものだった。そのへんも両『ヘンリー五世』の相違点として興味深いものがある。なおこのタブロー化は、古い話で恐縮だが、昔エイドリアン・ノーブルがRSCの芸術監督をしていた頃演出した『ヘンリー4世』『ヘンリー5世』において採用した様式でもあって、私は、それをストラットフォード・アポン・エイヴォンの劇場で観たことがある。

今回の吉田鋼太郎演出の『ヘンリー五世』は、蜷川幸雄演出の『ヘンリー四世』を受けての、その続編あるいは完結編である。残念ながら『ヘンリー四世』の舞台を見ていないのだが、DVDでは、嫌というほど観た。今回の舞台でも、この『ヘンリー四世』の舞台映像を、ハイライトシーンというかたちで舞台に投影した。そしてハル王子(松坂桃李)が戴冠してヘンリー五世になったことで、王権のおこぼれにあずかろうとフォルスタッフ(吉田鋼太郎)一味が、ヘンリー五世の行列を出迎えるところは、映像ではなく、舞台でのアクションとして示される。『ヘンリー四世』第二部の最後、フォルスタッフが追放される場面を、すこし簡略化して舞台で上演したあとで、いよいよ『ヘンリー五世』が幕をあける。

吉田鋼太郎は、過去の『ヘンリー四世』の舞台でも、この『ヘンリー五世』の前ふりの舞台でもフォルスタッフを演じているが、次に登場するときには、フォルスタッフの衣装を脱ぎ捨て、コーラス役(解説役)として舞台に登場する。『ヘンリー五世』のコーラス役は、その台詞の内容が興味深いこともあって、けっこう有名だが、この『ヘンリー五世』は、コーラス役の魅力を発見したといってもいいだろう。吉田鋼太郎ふんするコーラス役は、劇の要所要所に登場し、内容に注釈を加えたり、客席をあたためたりしながら、劇場の華そのものとなる。実際、コーラス役の吉田鋼太郎はかっこいい。

実は数日前に、卒業論文の口述試問があったのだが、そのとき外国人客員教授が、シェイクスピアもそうだが、その後の王政復古演劇になっていくと、プロローグとかエピローグの口上役、あるいはコーラス役というのは、重要性を高め、クライマックスともいえるような劇場の華となったというようなことを話していて、私も同感だったのだが、その舞台での見事な実例を、この彩の国さいたま芸術劇場の『ヘンリー五世』の舞台で目の当たりするとは。

新国立劇場での『ヘンリー五世』では、コーラス役は、舞台の人物たちが分担していた。毎回ではなかったかもしれないが、コーラス役は交替した。しかも一人ではなく複数で口上を分担した。もちろんこのような演出が悪いということはないが、ひとりのコーラス役が舞台を導入する面白みは消える。また今回、吉田演出であり、演出家がコーラス役となって演劇を導入することには、虚構と現実が重なる希有な瞬間が出現する。この瞬間の連続が、今回の『ヘンリー五世』であり、今回の演出でコーラス役ははじめて認知されたといってもいいだろう。

もちろんほかにも今回の上演のよさはある。蜷川演出から吉田演出にかわってから、シェイクスピアの台詞が格段に聞きやすくなった。外国での公演も多い蜷川演出では、日本語を理解しない観客に対する上演のせいもあってか、台詞の日本語がなおざりにされている。実際、さきほど彩の国さいたま芸術劇場でのシェイクスピア上演のDVDについて触れたが、どの作品をとっても、日本語の台詞がよくわからない。音響効果の不備あるいは録音技術がよくないということはないだろう。基本的に台詞が聞き取れない。実際、吉田鋼太郎が演じている役の台詞も蜷川演出では聞き取りにくい。今回は、どの役の台詞もよく聞き取れる。演者が優れているということもいえるのだが、同時に、まちがいなく演出の功績も大きいだろう。

昨年の夏も三越劇場で上演した横内正演出・主演の『リア王』は、シェイクスピアの原作を馴染のない観客にもわかりやすく提示して、シェイクスピア劇を見慣れている観客には物足りないかもしれないが、私としてはシェイクスピア劇入門としても、シェイクスピア劇そのものとしても評価できるものだと思うのだが、ひとつだけ違和感があったのは、合戦シーンが長すぎることだった。フランス軍とイングランド軍との戦いが派手で長くて、力がこもっている。しかし『リア王』を観に来る観客は、合戦シーンを楽しみにしているわけではないだろう。もちろん横内正演出・三越劇場版『リア王』が、原作においても重視されていない合戦シーンに力をいれるのは、それなりに理由があるのだろうが、では『ヘンリー五世』ではどうか。アジンコート/アジャンクールの戦いをクライマックスとする芝居だから、戦闘シーンに力が入るのは当然かもしれない。しかし、ケネス・ブラナー監督主演の映画『ヘンリー五世』に影響を受けたかのような、白兵戦・肉弾戦といった激戦となる戦闘シーンは、それまでのある意味、端正なタブローの連続を破壊するような混乱・カオスを導入し、舞台装置も、中心的にある高い砦のような建造物を解体し、残骸めいたものにして、それらを舞台の各所にちらばせることで、秩序からカオスへ、中心から分断へ、構築から破壊へという、戦火の悲惨を強調する。(実際、舞台では爆撃音も加わり、100年戦争時代の戦闘というよりも、現在の紛争地域での戦闘や爆撃を彷彿とさせるものがあった)

しかし戦闘を強調しすぎると、その後の、喜劇的展開と齟齬をきたすことになる。そのため『ヘンリー五世』の戦闘シーンは、やりすぎないようにすることもまたお約束ではあるのだが。実際、ブラナーの映画版でも激しい戦闘場面のあと、フランス王女への求愛シーンという喜劇的な場面への変換はつねに困難を伴うものだと思う。しかし戦闘場面が、リアルさを欠けばよいというものではないだろう。

激戦だろうとセレモニー的戦争儀礼であろうとも、いかななる演出であろうとも、戦争のリアルは伝わるように作られている。たとえば今回の舞台では、ヘンリー五世とフランスの皇太子が一騎打ちするような場面があるが、王と皇太子では身分が違うので、絶対に剣を交えることはない。また戦闘前夜のシーンで、義勇兵として身分をいつわったヘンリー五世が、一兵卒から、国王は戦争では死なないし、捕虜になっても身代金が支払われて命を奪われることはない。実際、王を殺すよりは高額な身代金をとったほうが利益になる。リチャード獅子心王は捕虜になるが、イングランドでは次期国王の地位を狙う悪辣なジョン(王)が身代金を払うのをしぶりつづける、というのが、スコットの『アイヴァンホー』において背景となっている歴史世界だった。またヘンリー五世の死後に起こるばら戦争において、リチャード三世はボズワースの戦いで戦死するのだが、彼は、戦闘で命を落としたほんとうに数少ないイングランド王の一人なのである。だから国王が戦うというのは、ブラナー版であろうが今回の彩の国版であろうが、ありえない虚偽である。

ただし激しい戦闘場面のなかにだけ戦争のリアルがある、もしくはないということはない。ブラナー版映画でも、その前のオリヴィエ版の映画でも省略していた場面は、ヘンリー五世が捕虜を殺すように命令したところである。ことの発端は、フランス軍がイングランド軍の従卒の少年たちを攻撃して殺害したことにある。少年の従卒は、行軍に参加はするが、戦闘要員ではないため、戦いがはじまると、安全地帯で見物する側にまわる。しかしフランス軍は、その約束事というか作法を破って武装していない従卒たちに襲いかかり皆殺しにする。怒ったヘンリー五世は、報復として、捕虜としたフランス軍兵士をその場で殺害するように命ずる。従卒を攻撃するのも戦争の作法に反するものなら、捕虜を殺害するのも作法に反する。目には目を式の報復の連載のなかでは捕虜も安全ではないわけだし、こうした作法破りは実際の戦闘ではよく起こりうる。まさにこれが『ヘンリー五世』で提示される戦争のリアルなのである。(ただし従卒殺害とか報復としての捕虜殺害は、歴史的に事実や事件として存在していないということもあり、史実かどうか疑わしいのであるが。)

あと今回の『ヘンリー五世』では河内大和の、やりすぎではないかと思えないこともない怪演によって、あらためてウエールズのキャプテン、フルエリンの重要性を教えてもらった観がある。私は劇場で、そんなに前の席ではなかったのだが、それでもネギの匂いがただよってきた。あんなネギ臭い芝居は、これまでみたこともないが、なんのことかといぶかる方は、ぜひ、劇場に足を運んで、何をいっているのか確認してほしい

ただ、いずれにせよ、今回の力強い『ヘンリー五世』の舞台、松坂桃李をはじめとする演者の力のこもった熱演、そして吉田鋼太郎の演出とコーラス役に支えられて、これまで見失ってきた『ヘンリー五世』のいろいろな面に気づかせてもらった。このことについては、どんなに感謝しても感謝しきれない。大げさなことを言えば、今回、はじめて『ヘンリー五世』を観たという思いにとらわれたのである。


つづく


posted by ohashi at 22:11| 演劇 | 更新情報をチェックする

2019年02月11日

『ファーストマン』

いや、これはすごい映画だと思う。米ソ冷戦時代の宇宙開発競争のなかで、月面発着陸を果たしたアームストロングの伝記映画といえば、わかりやすいかもしれないが、ここにあるのは、これまで誰も観たことがない、知ろうとしたこともない、アメリカの宇宙開発史の裏面史、いや裏面史というほど大げさなものではないかもしれないが、その公にされなかった日常の真実を描いたといえば、わかってもらえるだろうか。

いま裏面史ではないと書いて、思い出した。映画は顔のアップを多用する。この顔アップ映像は、今公開中の『七つの会議』と双璧をなすという指摘もある。ただ、この顔アップ映像は、手持ちカメラで映像がいつも微妙にゆれている。映像は三人称的な客観性を維持するというよりも、主観的・私的内面性を前面に押し出している。裏面史ではないとしても、「ファーストマン」の、ひいてはアポロ計画の、まさに内面史というべきものとなっている。

そもそもライアン・ゴズリングは表情豊かに感情を表現するというよりも、無表情を特徴とするから、顔がアップになっても、感情はわからないし、また共感できる感情を表に出すわけではない。その無表情の裏あるいは内面に秘められた、あるいは抑圧された感情を思いめぐらすことをとおして、観客は、映像の内面化の強度を上げるといってもいいかもしれない。『ブレードランナー2049』のライアン・ゴズリングが、まさにそれだった。そもそもブレードランナーである彼は人間ではなく人間的感情も乏しのだから。

内省的である。だから、現時点で、あらためてあの時代の宇宙開発は何であったのかをふりかえってみるとき、そこにあるのは輝かしい人類の進歩でもなければ、技術革新の未来への期待でもなければ、一国全体が総力をかけて取り組んだ国家プロジェクトの栄光でもないとわかる。そもそも犠牲が多すぎたのではないか。緊張の持続により破綻する日常生活から、家族生活や夫婦生活の犠牲。そしてさらにプロジェクト参加者たちの人的犠牲。いまからふりかえれば、これは多くの犠牲者を出した死のプロジェクトである。よくこんなものを推進してきたのかと戦慄すらおぼえる。それは科学とか技術だけにかかわる計画ではなく、国家の威信や政治的思惑など、ひたすら不純な動機によって推進された汚れきった政治ショーと化していたからだろう。そして、あらためていう、犠牲が多すぎる。実際それは次々と犠牲を出しながら敵中突破してゆく戦争映画に似ている。なるほどニール・アームストロングは最初に月面に到着した。だが、月面には彼を月面に到着させるために命を落とした仲間たちの死体が埋葬されているのではないか。月は無慈悲な夜の墓場である。

ケープ・ケネディの発射台から、月面にむけて発射するシークエンスは、記録映像などで、これまで幾度となくみてきたものだが、映画でも、記録映像をそのまま使っているか、あるいは再現しているのだが、映画の後半のクライマックスへむけてのこの発射シークエンスは、これまでとは全く違った見え方をしてくるのだ、この映画をみていると。ここにあるのは、月面着陸という大いなる挑戦にむけて勇躍宇宙へと飛び出る宇宙ロケットの姿ではない。危険の代償に栄光を手にする冒険の輝きなどでもない。これまで何度もみてきた発射シークエンスが、悲壮感に満ち溢れている。宇宙船は生きた人間というよりも死体を運ぶ棺桶にみえてくる。成功裏に終わった月面着陸であることは、わかっているにもかかわらず、ここにあるのは確実な死にむかって飛び出してゆく宇宙飛行士たちの栄光ではなく悲惨あるいは悲壮である。

月面は、これも記録映像を忠実に再現していると思うのだが、死の世界である。月面にアームストロングは死んだ娘の遺品をもってきている。死んだ娘の期待あるいは希望と約束をはたすために、月面にやってきたのである。死者との約束。そして遺品を月に残してきたアームストロングは、娘の死を乗り越えたかのようにみえる。だが、同時に、娘のいる死の世界に到達した、あるいは娘を死の世界につれてきた観がある。しかし、それはともかく再び地球に降り立ったアームストロングにとって1か月におよぶ検疫を経ないと家族に再会できない。検疫中に妻が会いに来る。ガラス越しに夫婦の再会となるのだが、その再会のなんと冷たいことか。

『ラ・ラ・ランド』の監督だけあって、最後は、愛し合っていた男女の擦れ違いである。この映画でもアームストロング夫妻に再会の大きな喜びはない。ガラス越しのぎこちない再会は、すでに離婚を決意している夫人の当惑ともとれる。実際、今回の映画化ではじめって知ったのだが、ニール・アームストロングは、この偉業のあと、妻と離婚している(その可能性は映画の随所で描かれているが)。

ニール・アームストロングの生きざまに焦点を絞った映画として、彼の何を描き、彼の何が偉大であったのかについては、そのエンジニア性につきると思う。彼は、軍のパイロットから宇宙船パイロットに転じた(このパタンが一番多い)のではない。彼は技術者であって、技術者の倫理のようなものを体現している。技術者の倫理、それは思想なり理念なりイデオロギーによって左右されることなく、あるいはそうしたものに熱くなることなく、冷静沈着に事態を処理し改善することをめざす。保守点検、可能性の追及と確保、そして改善をひたすらめざす、まさに点検改善機械と化すことである。軍人は、命令に絶対服従のロボット的存在に思えるかもしれないが、理念やイデオロギーに左右される熱い存在である。いっぽう技術者は理念とかイデオロギーに左右されず、与えられたミッションを達成することに全力をつくすクールな存在である。このクールさが、米ソの冷戦中の宇宙開発というヒステリーに感染することなく、ミッション達成に全力をつくし、冷静な判断と着実な進歩を可能にしたのである。この技術者の倫理が、境界を超えて(そもそも境界ほどイデオロギー的なものはな)、排除ではなく共存の未来を実現するのである。

この意味で、冷戦時代の宇宙開発競争のヒステリー状態のなかで、ニール・アームストロングだけは自己を失わず、技術者的禁欲を貫き通したといえよう。その意味で、彼こそ月面に一歩を記すことのできた、ヒーローだったのである。

**

なお冷戦時代のこの時代は、私にとってノスタルジーを掻き立てる時代でもあるので、断片的に思い出を少し。

X-15 映画の冒頭、ニール・アームストロングが乗り込んでいる実験機はX-15。空軍の爆撃機B-52から発進する友人実験機で、大気圏が宇宙空間と接触する境界領域を滑空する。ロケット・エンジンで滑空するので、最大速度は驚異的なマッハ5か6である。Xは実験機をしめす記号だが、なぜ、こんなことを知っているのかといえば、子供の頃、このX15は男の子には人気があった。子供向け雑誌の付録には、このX15の紙製の組み立て模型があったし、プラモデルも作られた。

横山正輝(鉄人28号その他)の漫画に、航空母艦を拠点とするX15の戦闘部隊が、世界征服をたくらむ悪の勢力と戦うという内容のものがあった。そもそも自力で離陸できず、ロケットエンジンなので数分しか飛べず、しかもまっすぐ飛ぶことしかできないため、格闘戦など夢のまた夢であり、空母に着艦することなど不可能なこのX15が、戦闘機として活躍すること自体、荒唐無稽の極みなのだが、少年画報(だったと記憶するがz)に連載された漫画をけっこう楽しんだ。そんないきさつもあって、このX15はなつかしい機体なのである。

月面着陸中継

リアルタイムで月面着陸を中継をテレビでみていた世代に属する私としては、当時の感想を思い出せば、中継はまったく面白くなかった。そもそも映像が鮮明ではなかったし、音声もノイズが大きくて聞き取れなく、同時通訳も、映画の字幕とは異なり、明快ではなかった。ということで、夜空の月を見上げて、いま人類があそこに行っているのだと思うと、感慨深いものがあったのだが、その感慨も、テレビ中継の不鮮明な映像に接するたびに、減少するほかなかった。のちに月面で撮影された鮮明な写真が公開されたときには、その解像度の優れた写真に感動したのだが、その感動までの幻滅の時間は長かった。高校生だった私は、その頃、太陽の下に新しきものはないという聖書(旧約聖書、コヘレトの書、伝道の書といったほうがなじみ深いか)の言葉を覚えたのだが、そこには実感がともなっていた。

この映画を紹介するテレビ番組では、当時の宇宙船には、1980年代のファミンコン程度のコンピュータすら搭載されていなかったということ指摘されたのだが、実際、当時としては最新の技術による月面着陸だったのだが、いまからみると、よくもまああのような貧弱な技術で、月面着陸を果たせたのかとあきれるしかない。またそのために月面着陸は実はフェイクだという、まことしやかにささやかれていることも事実である。

しかし当時月旅行は、簡単に実現できると考えられていた。ヴェルヌの月旅行は、巨大な大砲のなかに弾丸型の宇宙船を挿入して、それを月めがけて発射するというものであった。それでも月に行けると空想というか妄想されていたわけである。かつては近未来SFのテーマのひとつに月旅行があって、今でも記憶にあるのは、アメリカのSF作家、ロバート・A・ハインラインのジュヴナイルSF『宇宙船ガリレオ号』である。子供の頃翻訳で読んだ。そのときの面白さが私をSF好きにさせたのだが、いまから考えるとこの『宇宙船ガリレオ号』は驚くほどひどい話である。

高校の科学というか理科の先生が、仲良し3人組高校生とともに月周回旅行のための宇宙船を、自分の家の庭に建造する。別に高校の先生にかぎらない。小学校の先生でも、大学の先生でも、自分の家の庭に月までいける宇宙船を建造などどうしたらできるのか。しかも高校生といっしょに作るといっても、彼等は力仕事以外に役にたつのか。しかし小説では宇宙船が完成し、マスコミからの取材をうけ、いよいよ、全米がテレビ中継を通して見守るなか、高校の先生の庭から、宇宙船が月目指して飛び立つのである。

これにくらべたら、たとえファミンコン程度のコンピュータであってもコンピュータを搭載し、NASAや軍のバックアップのもと月面を目指すというプロジェクトは、リアリティがあった。まあ『宇宙船ガリレオ号』では比べる相手がまちがっているかもしれないが、いまからみれば貧弱極まりないテクノロジーでも、当時ではほんとうに最先端であった。計算は紙とか計算尺があればできて、その計算がまちがうこともなかったのである。

とはいえアポロ計画についての、当時のメディアの言説なり映像は、『宇宙船ガリレオ号』の雰囲気と大差なかったともいえる。つまり能天気なのであって、アポロ計画の犠牲とか負の側面とか、反対の声などまったくなく、子供向けのうそっぽい明るいドラマをひたすら構築していたのだから。

MRI

私は、病気でMRIの検査をこれまで2回受けたことがある。2回目は頭から入った。頭から入って、30分くらいじっとしているように言われる。別に身体的な苦痛はないのだが、なかに入るとMRIは検査のためにさまざまな音波をだす。その音波がなんと、いまにもこのMRIが壊れるのではないか、ぶっ飛んで跡形もなくなるのではないか、あるいはぺしゃんこになって私は出られるなくなるのではと思うような、不安にさいなまれる。そんなばかなというなかれ。私の知人は、MRIのなかに入って検査をしてところ、強烈な音波の音に耐えきれず、出してくれと懇願して、検査を途中でやめたそうだ。なんというヘタレかと思うのだが、しかし、その恐怖はわからないわけではない。

とはいえMRIの検査を受けたことのない人にとっては、なんのこっちゃと思われるかもしれないのだが、要は、この映画のなかで、ロケット・エンジンの噴射で宇宙にとびでるとき、内部の暗い操縦席で大音量の噴射音とがたがたゆれる機体のなかで、ただじっと耐えるしかない宇宙飛行士の不安や恐怖を想像してだければ、それがMRI体験と思っていただければいい。

映画をみてこのMRI体験を思い出した。宇宙飛行士が地球の周回軌道を飛ぶときや、月に飛ぶとき、そのようすを外から、つまり宇宙船の外から提示するのではなく、船内にいる乗組員の目線で提示する。乗組員の主観映像みたいといえばわかるだろうか。くりかえすと、打ち上げとともに船内は真っ暗になり、アナログ式計器盤の光と、小さな窓からのわずかにみえる外界しか、眼に入らず、あとはエンジンの大きな爆発音と、機体と空気がふれるときの強烈な摩擦音あるいはきしみ音が襲いかかり、生きた心地がしない。私がMRIを思い出したのも、わからないわけではない。ただMRIの場合、いくら機械からでる大きな音が不安感をあたえるとはいえ、MRIが故障して爆発したとか、患者を圧死させたなどという話は聞いたことがないので、あくまでも不安レヴェルにとどまる。ところが実際の宇宙船の内部にいたら、爆死あるいは圧死は、ありえない可能性どころが、いつなんどき起こってもおかしくない、リアルなものである。しかも映画では、宇宙船内部で乗組員が体験する暗闇の爆裂音・きしみ音のシークエンスはけっこう長い。MRIのなかにいる時間が長いのだ。観客に宇宙飛行士のいだく不安や恐怖を追体験させる意図があるのだろう。こんな怖い思いをして宇宙に行きたいとは、私なら思わない。


なおMRIについて、Wikiの定義:

核磁気共鳴画像法(かくじききょうめいがぞうほう、英語: magnetic resonance imaging, MRI)とは、核磁気共鳴(nuclear magnetic resonance, NMR)現象を利用して生体内の内部の情報を画像にする方法である。磁気共鳴映像法とも。



posted by ohashi at 11:16| 映画 | 更新情報をチェックする

2019年02月07日

『ジュリアン』

先月の私的な映画会で幹事が選んだのが、この作品だったが、いや、怖い映画だった。映画会のメンバーの一人によれば、怖すぎて疲れた、と。ただ、ホラー映画ではない。フランスの社会の今を切り取っている映画。切り取られたのは、いまや伝説化している統計的事実、すなわちフランスでは三日に一人の妻が夫から殺されているという現実である。

映画そのものは、別居している夫婦の親権をどうするかを決める裁判所による聞き取り調査と、双方の側の弁護士による弁論。裁判官による判定(後日通知する)という緊張感に満ちた幕開けとなる。

その後、別居している夫婦と、母親が引き取っている娘と息子をめぐる日常が淡々と提示されていく。もちろん、そこに並々ならぬ緊張感が漂っている。ただ、ダルデンヌ兄弟監督の映画とは、少し違うところもある。つまり、ある種の社会派映画は、主役となる人物をとりまく広いコンテクストを導入することによって、人物の主観的認知を超えた世界なり世界観を暗示することがある。図式的にならず、無意味を装いつつ、主人公の行動を制約する網の目を可視化するのである。

束の間だが、間歇的にあらわれる俯瞰的視点は、『ジュリアン』にはない。目先の恐怖というか、いつどうなるかわからない緊張感あるいは不安のようなものが続く。それが最初から最後まで絶えることなく続く。ただ、その近視眼的な展開が、逆に、先のみえない不安感を醸成する。

ただ最近のいたましい千葉県野田市の小学女子虐待死事件についてもいえるのだが、事件に関して、行政・司法の判断あるいは判断ミスが惨事を引き起こしている観は否めない。映画の最初の場面、母親と父親の養育権を決定する裁判所の聞き取りにおいて、この別居夫婦に何が起こっているのか、わからなくなるような瞬間がある。子供はふたりとも母親に引き取られている。父親は過程で暴力をふるっているようだ。しかし父親ならびにその弁護士は、父親の暴力の証言なり記録に信憑性がないと言い募る。そうなると母親のほうが被害妄想で、夫を告発し、子供も、母親に影響されたか命じられて、父親を告発する手紙を提出したのではと思えてくる。父親は、熊のような大柄な男で、暴力的なところがありそうにみえものの、案外、優しい父親なのではと思えてくる。逆に母親のほうがヒステリックではないか。とはいえ娘が父親から殴られたことがあるという証言に対して、学校で転んで怪我でもしたのだろうと言ってのける父親に対しても、一抹の不安が残るものの。

この冒頭の場面で、観る者は裁判官と同じ認識を共有することになる。父親は善良である。母親はあやしい。子供は両親とともに暮らすのがいい。共同親権を認めるほかないだろう。子供(ジュリアン)が父親の告発するような手紙(ただし、父親本人が読んでもよいという手紙)を書いたのか、どうせ母親にそそのかされて書かされたのだろう。ただ真相はなんであれ、子供は両親とともに暮らすのがよく、子供に対して父親の親権も認めるのが正しいと判断したのだろう。

ああ、愚かさに国境はない。フランスの司法当局と、千葉県の児童相談所の、家族優先の判断は、ともに判断ミスではなく、彼らにしてみれば、正しい判断をした結果なのである。ああ、愚かさに国境はない。千葉の児童相談所も、この映画のフランスの司法当局も、最初から結論ありきの判断しかしていない。親子仲良く暮らすこと。家庭内暴力は存在しない。生意気な妻が夫の暴走の引き金となる。悪いのは女だ。いうことをきかなバカ息子とバカ娘だ。母親などに子供の養育はまかせておけない。父親を馬鹿にするだけの子どもが育ちかねない。仲の悪い夫婦はしかたないとして、共同親権を認めて、父母が対等の立場で子供の養育に携われるようにする。

ああ、愚かさに国境はない。結果的に映画の司法当局は最悪の判断を下す。共同親権を認め、夫・父親と息子を定期的に会わせるようにする。日本の児童相談所は、父親の暴力を訴える娘のアンケートにおけるコメントを、父親にみせる。誰にも見せないという約束のアンケートだったはずなのに、告発されている父親にそれをみせる。小学生の女子など人権も人格もない。約束を反故にすることなど何にも考えていない。社会的地位のある父親にこそ全幅の信頼が寄せられるべきだ……。その結果が、父親の暴力の犠牲者に子供がなる……。(ちなみに、娘を虐待している母親のもとに、娘を返すという児童相談所の判断の愚かさを、『万引き家族』も告発していたではないか)。

日本の児童相談所も、またこの映画におけるフランスの司法当局も、ともに、事なかれ主義と業務の煩雑化にともなう適当な反応のせいで悲劇を招いたのではない。彼らは、ともに自分たちが正しい判断をしていると思っている。あるいは最初から結論ありきの判断しかしていない。

その意味で、この『ジュリアン』(原題は「養育権・親権」という意味で、日本語のタイトルは最低である)は、フランスのみならず日本の今を確実に再現している。冒頭で、司法当局の判断の共犯者になった観客は、映画の最後に(その迫真性は『ボヘミアン・ラプソディ』の最後の20分間に匹敵する)、その判断の結果生ずる凶行の犠牲者と恐怖を共有することになる。必見の映画だろう。

posted by ohashi at 09:22| 映画 | 更新情報をチェックする

2019年02月03日

『Anon』

2017年の映画で、Anonとはアノニマス(匿名)の略。アマンダ・ゼイフライドが出ているが、彼女が『マンマミーア』の続編に出演する前の映画である。

映画.comの紹介記事を引用する:

「ガタカ」「TIME タイム」のアンドリュー・ニコル監督が描いた近未来SFサスペンス。出演は「トゥモロー・ワールド」のクライブ・オーウェンと、「TIME タイム」でもニコル監督とタッグを組んだアマンダ・セイフライド。地球上の全ての人間の記憶が記録・検閲されるようになった近未来。犯罪が不可能になった代わりに個人のプライバシーも匿名性も失われたこの世界で、起こるはずのない殺人事件が発生する。やがて捜査線上に、個人を特定されずにいる「記録のない女」の存在が浮上。しかし事件は何かの始まりを示唆するかのように繰り返されていく。ヒューマントラストシネマ渋谷&シネ・リーブル梅田で開催の「未体験ゾーンの映画たち2019」上映作品。

ちなみに、三井住友カードCMThinking Man 編」について、ある記事は、こう内容を記している。

タイトルは Have a good cashless day

青年:小栗旬さん、友人:青木崇高さん(とあるが、青木は第一弾で2019年年始版の友人は松尾諭さん)

青年「お金もってる?」

友人「持ってるけど?」

青年「一枚いいかな?」

青年「これ、君のお金だよね?」

友人「当たり前だろ」

青年「証明できる?これ間違いなく自分のお金ですって。」

友人「証明って、さっきまで僕の財布に入ってたじゃない。」

青年「でも今持っているのは僕だし、君の名前も書いていない。ね?」

青年「現金は安心だってみんな言うよね。現金は確実だって。本当にそうかなぁ。お金って何なんだろう。」

ネット上では、このCMに対する疑義が多い。私も同感である。こんな子供だましの屁理屈を納得する馬鹿はいるのだろうか。財布のなかのお金を騙したり強奪することはできるだろうが、大きな抵抗もともなうだろう。抵抗を排除するには、騙す、詐欺行為しかない。ところがキャシュレス社会では、コンピュータによって相手の預金を全額奪うことなど一瞬にしてできる。しかも暴行も詐欺行為もまったくないままで。コンピュータを使う犯罪の怖さを侮ってはいけない。数字をちょっと操作するだけで、あなたの全財産を失うことになる恐怖。いいかたをかえればデジタル記録なり資料は、簡単に強奪・書き換え・消去できる。アナログ資料は、そうはいかない。こんな初歩的なこともわからないでキャッシュレス社会を宣伝するとは。

そもそもこのCMはキャシュレス社会の危険性を、キャッシュから生まれる危険性に偽装する、きわめて悪辣なものである。

映画『Anon』 でもアナログ資料は消去が面倒だがデジタル資料は簡単に消去できると語られる。

また映画のなかで、主人公がもっている死んだ息子のかけがえのない映像が、悪意によって、一瞬にしてあとかたもなく消えるという、恐ろしいエピソードがある。あるいは、これは20世紀という前近代に属する話だが、ある映画では、死んだ母親の声を録音していたテープに、あやまって、別の音を録音してしまい、もう二度と母親の声を聴くことができなくなり、幼い子供たちが悲しむという痛ましい場面があった。録音テープに関して、同様のことは誰もが昔経験していた。録音テープは簡単に消える。印画紙の写真は、色褪せるかもしれないが、意図しなければ、よほどのことがないかぎり消えたりしない。電子化された写真は、劣化しないかもしれないが、一瞬にして大量に消えてしまうのである。

ある観客の反応:

殺される直前に被害者の視覚がハッキングされ犯人がわからない状態で銃撃される事件を刑事の主人公が追うストーリー。

ご都合主義満載な上に面倒臭い設定で淡々とマッタリと話が展開していくし、そんな簡単にハッキング出来るって…

終わってみればつまらない話ではないのだけれど、これと言ったみどころもなければ印象的なものもなく盛り上がりに欠けた。

ぼ~として生きてんじゃないぞと、言ってやりたい。簡単にハッキングされることがわからないのか。私はアカウントを奪われたことがあるし、また、いまも、たぶん知らないうちにハッキングされていると思う。ハッカーの能力をなめていけいない。と同時に、このコンピュータ社会が、ハッキングを容易にしているし、コンピュータを使えば使うほど、私たちの情報は駄々漏れになるし、要はハッキング社会なのだ。視覚だって、この映画のようには奪われていないかもしれないが、比喩的にみれば私たちの視覚が奪われていることは、歴然としているし、そのことに恐れをいだき、そのことに憤らないのは、おのれの頭がハッキングされて洗脳されているとしかいいようがない。

少し整理したい。この映画における未来社会において、人間はおそらく全員、コンピュータに接続されている。現在でもコンピュータは音声で動かせるが、この映画の未来では、コンピューターは音声ではなく、思念によって操作できる。人間ひとりひとりが知覚したものはファイル化されて保存される。たとえば私が電子化した写真を、他人にみせるには、コンピュータの端末かタブレットをみせるか、画像を相手のコンピュータ(スマホとかタブレット)に遅ればいい。この映画の未来社会では、私が思念すれば、画像のファイルは、相手の脳に送信できて、相手は自分の思念によって、送られた画像ファイルをみることができる。もう人間はコンピュータをスマホであれ携帯する必要はなくなっている。

しかし、こうなると人間がコンピュータを使いこなすというよりも、人間がコンピュータに使われている、あるいは人間がコンピュータ化された状態となる。この場合、「私」は自分の眼で現実をみているのだが、同時に、コンピュータも私の眼をとおして現実をみている。通常、人間とコンピュータの認識は一体化しているのだが、たとえばコンピュータが乗っ取られるとしよう。その瞬間、私の知覚は、乗っ取られたコンピューターの知覚となって、どちらが優越しているかが明確となる。つまり私の知覚をコンピュータが利用しているのではなく、コンピュータの知覚を私が利用しているのであるから、コンピューターが乗っ取られれば、私は自分で観たいもをみることができず、コンピュータの見るものしかみえないことになる。またそのようなことが可能なら、私の知覚を、監視することができる。たとえば警察によって。警察は、まさに私が見ているものを、直接、同時に、見ることができるのである。

この未来世界では、たとば私がXさんのコンピューターを遠隔操作できるようにしたとしよう。このとき私はそのコンピュータの知覚機能を奪い、たとえばそれを、Yさんの知覚とすることができる。そうするとXさんは、なにをみても、Yさんの知覚となっているコンピュータを通してしか外界を知覚できない。XさんはYさんの知覚を経由してしか知覚できないから、極端な場合、YさんがXさんを観ているのなら、Xさんは、通常をありえない、自分の姿をみることになる。

めんどくさい話をしていると怒らないでいただきたい。この映画のなかでは、たとえばビルの屋上から飛び降り自殺した人間の最後の知覚が、ファイル化されて警察に保存されていて、自殺者の身内に、その映像ファイルを見せることができる(思念をとおして、直接、脳にみせる。屋上から地面に激突するまでの主観映像は、見ていて苦しいのだが)。また殺人事件の被害者の最後の知覚映像は、その人物を犯人の姿ではなく、コンピュータが乗っ取られた結果、犯人の主観映像となり、被害者が殺される映像となる。被害者が死んだ瞬間、コンピュータの記録映像もそこで終わる。もともとXの知覚だったのだから。

まあ、こんなことをは未来社会の荒唐無稽な設定だと笑うことはできない。なるほど私の脳や知覚はコンピュータに接続されているわけではないし、全世界の人間とつながっているわけではない。そこまでコンピュータ化がすすむのは、まだ遠い先のことだろう。だが、現在、私たちが使っているコンピュータは、ネットでつながり、そしていつでもハッキングされている。私たちに届く、迷惑メールは、ハッキングされたコンピュータからのものだ。そして私のコンピュータもハッキングされて、私の知らないうちに大量の迷惑メールを発信しているかもしれない。さらにいえば私の通信履歴や購入履歴そのたネット上での行動すべてがモニターされていておかしくない。気が付くと、私のコンピュータはネットに接続する道具であるどころか、ネットが私を監視する道具となっている。私がコンピュータを使いこなしているのではなく、コンピュータが私を使いこなしているのである。映画のなかの接続されたつながった全人類は、現在のコンピュータ社会そのもののメタファーである。

その意味で『ガタカ』『TIME タイム』のアンドリュー・ニコル監督の近未来ものSFのなかで、この作品が現代社会の危機をもっとも直接的に伝えているように思う。キャッシュレス社会、あるいはスマホで私の家の家電が外から操作できる……。そうなれば私はあっというまに全財産を失い(通常なら通帳の生体認証とか印鑑が定期を引き出すときには必要なのだが)、家電は暴走して私の家を破壊しつくすことだろう。接続され、まとまることほど怖いものはない。

いやこの映画は、つまりモノクロに近い、彩度も明度も落ちた沈んだ画面をとおして、未来社会への憂鬱あるいは絶望を表明しているといってもいい。

この映画では市民の知覚をモニターできる刑事と、その刑事のまえにあらわれた記録のない謎の女とのからみをめぐって展開する。謎の女をアマンダ・ザインフェルドが演じているのが、この映画では彼女がアニメ顔に寄せていて、それこそ格闘美少女アリエータみたいな顔をしている。彼女は、このネット社会で記録のない女として自由に生きる、殺し屋、テロリストといった違法の存在なのだが、しかし、それだけでない、さらに謎の女であることがわかる。そもそも彼女は実在しているのか。あるいはコンピュータ上のなかに無数にいる謎の存在なのか?

もう上映は終わっているが、近々ブルーレイ/DVDがでて、レンタルもはじまり、ネット上でもみることができるかもしれないので、是非、ご覧あれ。

AMAZONにあった、この映画への感想(DVDは3月20日発売)

不可解な殺人事件が続発し、犯人に振り回される刑事たちの難航する捜査状況を中心に据える近未来を舞台とした犯罪映画。

しかし、ほんとうに犯行が「特異すぎる」ので、登場人物数と役柄から犯人像が特定されやすくなる側面も併せ持っています。

なので「犯人は誰だ?」とかのミステリー部分に重きを置いて鑑賞し続けるよりは、本作が構築した世界観を堪能する方が本作をより味わい深く楽しめ、全体を面白く見れると思います。

きっと「可視化への危うさ」や「プライバシー侵害」、「過度な利便性の追求」に「単一社会の脆弱性」などへの警鐘、問題提起しているのでしょうけど、そんな小難しい部分を隅に追いやっても娯楽映画としてジューブン成立していますし、表現は落ち着いていながらもサイバー空間に立脚した語りの切り口に新鮮さも感じれるので、すぐに作品世界に浸れましたし、どこか「ストレンジ・デイズ 19991231日」の内容を押し広げた感じもありますね。【以下略】

こいつもぼーっとして生きている。おまえのコンピュータなど、とっくの昔にハッキングされているぞ。







posted by ohashi at 22:09| 映画 | 更新情報をチェックする