2019年01月30日

『マスカレードホテル』

鈴木雅之監督作品は、『HERO』(2007年・2015年)から『プリンセス トヨトミ』(2011年)『本能寺ホテル』(2017年)そして今回の『マスカレード・ホテル』(2019年)と、なんだか最近作は全部みているようなところがあって、今回も、その建物のファサードを軸とした、西洋の「人形の家・ドール・ハウス」的世界観を、予想通りに堪能できたということか。映画そのものが、なにかこのホテルに居心地がよくなったみたいで、事件が解決してからも、なかなか終わりそうで終わらなく、ぐずぐずと未練がましくつづくところが面白かった。


ちなみにエンドクレジットをみていたら「明石家さんま(友情出演)」とあって、これには驚いた。どこに出ていたか、まったく記憶にないからである。台詞のないエキストラ役で出演していたらしいのだが。また木村拓哉の娘は、明石家さんまとすぐに気付いたそうだが、私を基準にするのはよくないかもしれないが、一般観客は、最初から探さない限り、気付かないと思う。


ほんとうにもう一度見直さないと、明石家さんまの存在は確認できないのだが、ただ、これはこの映画による推理劇についてのメタコメンタリーともなっている。つまり、ここでの犯罪はカムフラージュである。影に隠れている、あるいは闇のなかに埋もれているのではなく、堂々と表に出ている。だが周囲にまぎれて、みえなくなっている。隠れているのではない。そこにあるが、みえない。まさに、犯罪・推理物の王道をいくトリックのありかただと思う。


もちろん、映画(あるいは原作)は、このカムフラージュに対して、それ独自の命名をしている――マスカレード、と。たとえば、一人の犯人の連続殺人とみえたものが、実は、マスカレードで、連続殺人ではなかったことも、この映画の、まあ、予想されたおもしろさなのだが、同時にマスカレードは、ホテルそのもののが、その舞台であるということも、明石家さんまの友情・カムフラージュ出演によって明確にしている。ホテルに集う客は、みんな仮面をかぶっている。見栄を張って身分を偽るといった軽いマスカレードから、警察の眼をのがれる、あるいは犯罪計画のために、みずからの存在を透明なものとする凶悪なマスカレードまで、ホテルは、あるいはそれに類する場は、犯罪者の巣窟となって、犯罪者が白昼堂々と闊歩する演劇空間なのである。


比較的最近、韓国において、接客業の人権を踏みにじるような悪質な客が増えていることを動画を交えてワイドショーで紹介していて、それは最近にはじまったことではなく、韓国独自の悪習であることを説明していた。店員を殴ったり、受付で相手を罵倒したりすることなどが日常化している現実は怖い。しかし日本では、とりわけ高級ホテルでは、そのようなことはない。むしろそうしたホテルの利用客は、べつにホテル側の対応が適切なものであっても、威圧感をおぼえてしまうような気がする。慇懃無礼という言葉があるように、どこか利用客が見下されてしまうような、威圧感を覚えてしまう。実際、高級ホテルを日常的に利用する富裕層ではない限り、高級ホテルというのは敷居が高いし、利用客は怯えるように思う。それを思うと『マスカレード・ホテル』での利用客は、韓国並みで、ホテルの従業員を見下しすぎていて、とても日本の高級ホテルとは思えない。物語の設定のためかもしれないが、最近は、わけのわからないクレーマーは、ほんとうによくみかけるようになったので、けっこうリアルなことなのかもしれないが。


あとクライマックスで木村拓哉がフェイントをかける。なぜ、あそこでフェイントをかけたのか、説明があると思ったがない。とはいえ、どうしてフェイントかけることができたのかは、それまで、さんざん伏線のようなものを張られていて、というか、各部屋にあるホテルのペーパーウェイトに関することだと、まあなんとなくわかるので、説明不要としたのかもしれないが、ほかにも、空白はけっこうある。それは、最初からそこにないのではなく、その空白はなんとなく予想できたり、説明できたりしそうなので、ほんとうは空白ではないのかもしれないが、同時に、そこにあっても、わからないということなので、カムフラージュの一種とみることもできる。カムフラージュをひとつひとつみつけていくこと、つまり隠されているのではなく、そこにあるのだから、見つかるのだが、それが、この映画の不思議な魅力かもしれない。私には手遅れなのだが、これから映画を観る人は、明石家さんまを、まず探してみることをお勧めする。

posted by ohashi at 12:47| 映画 | 更新情報をチェックする