2019年01月30日

『マスカレードホテル』

鈴木雅之監督作品は、『HERO』(2007年・2015年)から『プリンセス トヨトミ』(2011年)『本能寺ホテル』(2017年)そして今回の『マスカレード・ホテル』(2019年)と、なんだか最近作は全部みているようなところがあって、今回も、その建物のファサードを軸とした、西洋の「人形の家・ドール・ハウス」的世界観を、予想通りに堪能できたということか。映画そのものが、なにかこのホテルに居心地がよくなったみたいで、事件が解決してからも、なかなか終わりそうで終わらなく、ぐずぐずと未練がましくつづくところが面白かった。


ちなみにエンドクレジットをみていたら「明石家さんま(友情出演)」とあって、これには驚いた。どこに出ていたか、まったく記憶にないからである。台詞のないエキストラ役で出演していたらしいのだが。また木村拓哉の娘は、明石家さんまとすぐに気付いたそうだが、私を基準にするのはよくないかもしれないが、一般観客は、最初から探さない限り、気付かないと思う。


ほんとうにもう一度見直さないと、明石家さんまの存在は確認できないのだが、ただ、これはこの映画による推理劇についてのメタコメンタリーともなっている。つまり、ここでの犯罪はカムフラージュである。影に隠れている、あるいは闇のなかに埋もれているのではなく、堂々と表に出ている。だが周囲にまぎれて、みえなくなっている。隠れているのではない。そこにあるが、みえない。まさに、犯罪・推理物の王道をいくトリックのありかただと思う。


もちろん、映画(あるいは原作)は、このカムフラージュに対して、それ独自の命名をしている――マスカレード、と。たとえば、一人の犯人の連続殺人とみえたものが、実は、マスカレードで、連続殺人ではなかったことも、この映画の、まあ、予想されたおもしろさなのだが、同時にマスカレードは、ホテルそのもののが、その舞台であるということも、明石家さんまの友情・カムフラージュ出演によって明確にしている。ホテルに集う客は、みんな仮面をかぶっている。見栄を張って身分を偽るといった軽いマスカレードから、警察の眼をのがれる、あるいは犯罪計画のために、みずからの存在を透明なものとする凶悪なマスカレードまで、ホテルは、あるいはそれに類する場は、犯罪者の巣窟となって、犯罪者が白昼堂々と闊歩する演劇空間なのである。


比較的最近、韓国において、接客業の人権を踏みにじるような悪質な客が増えていることを動画を交えてワイドショーで紹介していて、それは最近にはじまったことではなく、韓国独自の悪習であることを説明していた。店員を殴ったり、受付で相手を罵倒したりすることなどが日常化している現実は怖い。しかし日本では、とりわけ高級ホテルでは、そのようなことはない。むしろそうしたホテルの利用客は、べつにホテル側の対応が適切なものであっても、威圧感をおぼえてしまうような気がする。慇懃無礼という言葉があるように、どこか利用客が見下されてしまうような、威圧感を覚えてしまう。実際、高級ホテルを日常的に利用する富裕層ではない限り、高級ホテルというのは敷居が高いし、利用客は怯えるように思う。それを思うと『マスカレード・ホテル』での利用客は、韓国並みで、ホテルの従業員を見下しすぎていて、とても日本の高級ホテルとは思えない。物語の設定のためかもしれないが、最近は、わけのわからないクレーマーは、ほんとうによくみかけるようになったので、けっこうリアルなことなのかもしれないが。


あとクライマックスで木村拓哉がフェイントをかける。なぜ、あそこでフェイントをかけたのか、説明があると思ったがない。とはいえ、どうしてフェイントかけることができたのかは、それまで、さんざん伏線のようなものを張られていて、というか、各部屋にあるホテルのペーパーウェイトに関することだと、まあなんとなくわかるので、説明不要としたのかもしれないが、ほかにも、空白はけっこうある。それは、最初からそこにないのではなく、その空白はなんとなく予想できたり、説明できたりしそうなので、ほんとうは空白ではないのかもしれないが、同時に、そこにあっても、わからないということなので、カムフラージュの一種とみることもできる。カムフラージュをひとつひとつみつけていくこと、つまり隠されているのではなく、そこにあるのだから、見つかるのだが、それが、この映画の不思議な魅力かもしれない。私には手遅れなのだが、これから映画を観る人は、明石家さんまを、まず探してみることをお勧めする。

posted by ohashi at 12:47| 映画 | 更新情報をチェックする

2019年01月28日

教員の暴力

東京都立町田総合高校で、生徒に挑発された教員が生徒を殴るという暴行を加えた動画がネット上で拡散され話題になっている。教員のほうは挑発され、はめられたという情報も流れ、あいかわらず暴力を肯定する意見が、待っていましたとばかりネット上にあふれている。


なにがあったのかは真相はわからないが、どのような理由であれ、教育者というか教員は絶対に暴力をふるってはいけないし、暴力をふるったら、教育者としての資格を失う。


今回の事件では、不良生徒が教員を挑発して教員が殴るところを撮影して動画としてアップしたといわれているが、もしそうなら、その教員は日常的にキレやすく暴力をふるっていたことになり、その暴力行為の告発なのかもしれない(自分が殴られるわけだから、かなり危険な賭けでもあるのだが)。ただ、今回、殴った教員は、これまで暴力をふるったことはないともいわれているし、もし、そうなら、生活指導で口うるさい教員だったかもしれないが、暴力をふるわない教員に、一線を越えさせるのは、相当狡猾な知恵が必要となる。まあ常識的に考えて、その教員が日常的に暴力をふるっていたと考えざるをえないのだが。


私たちのような社会では、絶対に相手に対して暴力をふるってはいけない職業がある。格闘技の選手。試合とか練習以外のところで、一般人に絶対に手をだしてはいけないし、それをしたら資格はく奪となる。つぎにホテルマン。『マスカレード・ホテル』を観よ。そして教員である。もちろん、いずれの立場でも、殺されそうになっても暴力をふるってはいけないのかと反論されそうだが、まあ正当防衛のための暴力は、格闘技の選手だろうとホテルマンだろうと教員だろと認められるかもしれない。ただ今回の事例は、教員のほうが先に手を出しているので正当防衛ではないだろう。また、相手がどんなにひどい人間だろうが、挑発にのって暴力をふるったら、その時点で、教員の負けである。絶対に挑発にはのってはいけない。


テレビのコメンテイターのなかには教員が暴力をふるってはいけないというのなら、生徒たちは、教員に好き勝手に暴力をふるうだろうから、暴力行使に過敏になってはいけないという意見を述べる**がいた。しかし教員が暴力をもって制裁していいのなら、逆に、そうした暴力肯定教師に立ち向かう生徒はヒーローになる、あるいは生徒を非難できなくなる。絶対に暴力をふるわない、あるいは暴力をふるえない人間に対して、つまり反撃してこないとわかっている相手に暴力をふるう人間こそ、人間のくずであって、そうした人間を徹底して非難できる。また、誤解のないように言っておくが、叱ること、叱責することは、言葉でならOKである。そこに暴力がともなうと、意味がなくなるということである。


生徒が教員のいうことを、そもそも暴力をふるわないからこそ、聞いたなら、それは本物の自発的服従あるいは説得された状態といえる。もし教員に暴力が許されたなら、生徒が改心したり謝罪しても、すべて暴力が怖いがゆえのうわべだけのものとなって意味がない。


暴力をすこしでも肯定したら、暴力をふるう人間を批判できなくなる。暴力の前に服従するのなら、それは、うわべだけのこと。そしてそこに復讐の芽が生まれ、暴力の連鎖がつづくだけである。


まあ、大学の教員は、教育者というよりも研究者で、小中高の教育現場の過酷さを知らないからのんきなことを言っていると思われるかもしれないが、暴力をふるわないというのは絶対の原則である。ましてや挑発に乗って、言葉で激しくぶつかるのはいいのとしても、事情はなんであれ、暴力をふるうことは絶対にあってはいけない。


私の場合は、挑発されても暴力はふるわない。暴力をふるったことがないし、暴力をふるえる身体ももちわせていないので、この点だけは、安心というか確信しているのだが。


posted by ohashi at 18:58| コメント | 更新情報をチェックする

2019年01月14日

『アリー スター誕生』

これで4度目の『スター誕生』映画らしいのだが、最初の作品、戦前のカラー映画は、テレビか何かで見たことがある。内容は、今回の映画をみるまでほとんど忘れていたが、ただ、スターがどこで誕生したのか、よくわからない映画だと思ったことは、今回の映画をみて思い出した。実際、同じことは、今回もいえるのであって、スターが誕生するのはどこか、はっきりしない。強いて言えば、最後の場面で、彼女がスタートして誕生したというのではあるのなら、むしろこれはスター再誕生であり、また、それにとともに、ずいぶん厳しい世界観だと思った。このことは『スター誕生』物に受け継がれている。映画の最後は涙を流しているレディ・ガガの深刻な表情を真正面からとらえたカットであって、そこにスター誕生から連想させるような華やかさはない。バラ色の人生とはかけはなれている。不思議な映画である。最終的にはむしろ悲劇の結末に近い。いや、悲劇そのものである。

日本のネトウヨとか保守的男性には、評判が悪そうな映画である。ひとつは現代に生きる女性としてフェミニズム的主張を明確にしている。レディ・ガガのバイト先のマネージャーの人格を無視した横柄な態度に耐えつつも、働く必要がなくなるとき、女性蔑視、弱い立場の者への侮蔑的態度に怒りを爆破させる怒るレディ・ガガは、保守的くそおやじにはカチンとくるだろう。彼女はまた、自分のことを娼婦呼ばわりした男をぶん殴るのだが、それは娼婦に間違われたというよりも、娼婦であれ誰であれ、女性に対する侮蔑的言動に対して怒りを爆発させたとみることができる。これもネトウヨには面白くないだろう。そう思うとうれしくなる。

またこれは予期しなかったことだが、ジャクソン・メイン/ブラッドリー・クーパーが立ち寄ったバーが、ゲイ・バーというか、ドラッグ・クイーンのパフォーマンスをするところで、そのパフォーマンスのひとつに、アリー/レディ・ガガのパフォーマンスがある。彼女がドラッグ・クイーンのパフォーマンスの合間に、女性歌手として飛び入りで歌うのではない。彼女はドラッグ・クイーンに扮して、バラ色の人生を歌うのだ。実際、レディガガのメイクから顔立ちそのものが、ドラッグ・クイーンに近い。いやそれだけではない。レディ・ガガ自身が、ル・ポール(私には懐かしい名前だが、彼女はいまも活躍していた)のテレビ番組『ドラッグ・レース』に、ドラッグ・クイーンの扮装でサプライズ出演し話題になった過去がある。そうなると、けっこう興奮した。ジャクソン/ブラッドリー・クーパーは最初、アリーのことを男性と思うが、やがて女性だと発見するというひねりがあるのかなと、またほかのドラッグ・クイーンたちは、物語にどうかかわってくるのかと、期待に胸膨らませたが、ジャクソンは、そのパフォーマンスをしているアリーが女だとすぐにわかったようだしドラッグ・クイーンたちも、アリーのバイト先程度の扱いしかうけていない。とはいえドラッグ・クイーンたちは最後までアリーを応援しつづけるわけであり、アリー/レディ・ガガとクイーンたちとの連帯は明確に示される。これもネトウヨ、保守的くそおやじには面白くないだろう。ざまあみろと言ってやりたい。まあ、そういう連中はこの映画は観ないと思うのだが。

ドラッグ・クイーンのパフォーマンスがあるバーで未来のスターと出会うという設定は、前作のバーバラ・ストライサンド、クリス・クリストファーソンの『スター誕生』(フランク・ピアソン監督1976)を踏まえているようだし、スター役に女性アーティストをもってくるなど、前作の影響が色濃いのだが、ただ、ドラッグ・クイーンのパフォーマンスはない。とはいえ今回の映画を見て、あらためて感じたのだが、映画はなるほど男女の愛の物語、あるいは夫婦愛の物語で、ドラッグ・クイーンが代表するようなゲイ・カルチャーあるいはゲイの話ではない。死とその余波の物語は、レズビアン、ゲイに関係する物語の雰囲気というかエモーション(あるいはアフェクトでもいいのだが)を強く喚起する。表向きは、この映画(ひょっとしたら過去の3作も)、ゲイ映画ではないが、男女の愛を通して語られる物語は、レズビアン・ゲイの悲劇をヘテロ関係で隠ぺいするアレゴリーではないかという気がしてきた。

ドラッグ・クイーンのパフォーマンスは、映像化されるときには、化粧からはじまる(実際、今回の映画も彼女たちの楽屋裏での準備風景が映し出される)。そしていよいよドラッグ・クイーン誕生というかたちで、パフォーマンスが始まる。今回のアリー/レディ・ガガの物語も、スター誕生をドラッグ・クイーン誕生の物語の変形版あるいは別ヴァージョンとして提示したということが言えないわけではない。やや無理があるとしても。ただ、化粧からはじまるドラッグ・クイーンのパフォーマンスは、同時に、化粧を落として素に戻るというか巣に変えるパフォーマンスもある。派手な化粧とメイク、そしてまがまがしき、いかがわしき虚飾に満ちた女性性の権化のようなドラッグ・クイーンだが、同時に、装飾から自然に、化粧からすっぴんへというパフォーマンスもあるように思う(たとえば映画にもなって有名になったゲイ・ミュージカル『ヘドヴィグ・アンド・アングリー・インチ』(2001(日本公開2002)の映画版のほうを念頭に置いている。日本版の舞台も人気があったが残念ながら見ていない)の最後は、主人公が、ドラッグ・クイーンであることを辞めて、素にもどっての街中を彷徨する――悲恋物語の結末である。今回の『アリー』にあるのもそれではないか。逆転するドラッグ・クイーンのパフォーマンス、あるいは素顔に戻るドラッグ・クイーンのパフォーマンスが物語を枠どっているのではないだろうか。

【ネタバレ含む Warnig: Spoilers】「スター誕生」物語は、予測可能であるとか、よくある話だというコメントもあるが、恥を知れと言ってやりたい。けっこう複雑というか一筋縄ではいかない物語になっている。今作も、これまでの「スター誕生」物を踏まえているということはあるので、物語の展開は予想できる。しかし、一筋縄ではいかないというのは、最初に書いたように、どこでスターが誕生するのかわからないからである。グラミー賞新人賞を、メジャーデビューしてからすぐに獲得するというところでスター誕生になるのかと思うと、このスター誕生の瞬間は、すぐに夫メイソンの行為で帳消しにされるのである。これは前3作と基本的には同じ。となるとスター誕生は、映画の最後になる。しかしこのときの彼女は、アメリカン・ドリームを実現するドリーム・ガールではない。若くものない。新人でもない。未亡人である。夫を追悼している。スター誕生というよりも、夫の死を乗り越えてまた活動しはじめるというスター再誕生Reborn物語である。この最後をスター誕生というのは、予想外のことであり、またちょっと苦しい。ここに大きな意味があるとすれば、「スター」たるもの、屍を乗り越えるOver the dead body、あるいはもはやイノセントではなく、闇を抱え、闇と向き合い、闇に負けない、そういう存在なのだという世界観なのかもしれない。いいかえるとBornは失敗する。真のBornRebornだという世界観なのであろう。

さらにいえばジュディ・ガーランド主演の『スター誕生』(1954)のときもいわれたことだが、これはジュディ・ガーランドの4年ぶりの映画復帰作であり、まさにスター再誕生である、と。Rebornの影は、また今作でも当然ある。レディ・ガガは引退するはずじゃなかったのか。この映画はレディ・ガガの復帰さく、まさにスター再誕生物語である。

スコット・クーパー監督、ジェフ・ブリッジス主演の映画『クレイジー・ハート』(Crazy Heart2009)は、これもよくある物語だと言われたりしたが、『スター誕生』と比較してみると、予測のつかない展開をし、また『スター誕生』の物語の特徴を間接的に照らし出しているようなところがある。ちなみにこの映画でアルコール依存症の元スター歌手を演じたジェフ・ブリッジスはアカデミー主演男優賞を獲得、「アル中」を演ずると賞がもらえるという長い伝統を守ったのだが、今回、ブラドリー・クーパーは、「アル中」を演じてアカデミー賞を獲得できるのだろうか。それはともかく『クレイジー・ハート』は、おちぶれてドサ回りで細々と暮らしているアルコール依存症のカントリー歌手が、子連れの女性記者と出会い、落ちぶれた自堕落な生活から救われ立ち直っていく話。ブリッジス演ずるカントリー歌手は酒をやめないものの、ギターの手入れを怠らず、作曲をやめず、アーティストとしての誇りと使命感、プロ意識を失うことはないのだが、いかんせんアルコール依存症から抜け出せない。そのため、女性から預かった幼い子供を迷子にしてしまうという大失態のあと愛する女性から絶縁されてしまう。


『クレイジー・ハート』は『スター誕生』の別ヴァージョンあるいはアダプテーションとしてみることができる。落ちぶれて、アルコール依存症になった元スター歌手。ブラッドリー・クーパーとジェフ・ブリジス。この歌手に見出されていまや師匠をしのぐ歌手となったアリーと、コリン・ファレル演ずる若いカントリー歌手。依存症の歌手を救う女性は、アリーであり、『クレイジー・ハート』では、女性記者(ただい歌手ではない)。どちらも女性をひどく気づつける大失態がある。そして依存症の男二人(ブラッドリー・クーパーとジェフ・ブリッジス)は、ともに厚生施設へ入る。そして依存症から脱する。ここまでは両映画の物語は同じ。『クレイジー・ハート』ではたとえ更生し依存症から脱しても、もはや女性との愛は回復しない。彼女はべつの男性と再婚するのである。いっぽう『アリー』では……。結局、女性との関係が回復できないことは両映画で同じだが、『クレイジー・ハート』のほうが現実的であり、『アリー』のほうは悲劇性が強くなる。おそらくこれは大失態の原因が、ちがうからだろう。『クレイジー・ハート』ではアルコールをやめるようにという女性からの助言を真摯に受け止めていない、ある意味、女性を軽んじているための失態で、女性からの信頼を失うことになるのだが、『アリー』では、酒の力を借りた、無意識のしかし明確は妬み羨望と悪意による攻撃であって、その罪悪はいくら更生しても消えるものではない。もはや選択肢は決められている。

物語上の必然性を考慮すると、『クレイジー・ハート』では、女性との縁が切れることになっても、依存症から構成した歌手は、ふたたび、スターとなって人気を回復する。まさに男性版スター再誕生である。いっぽう『アリー』のほうは、女性と別れても、復帰の道はないのであり、また少年のころの自殺願望もあって、男性が再誕生、復帰することはありえなくなっている。そして、その悲劇性の大きさが、『クレイジー・ハート』とは異なって強調されるところに、すでに述べたようなレズビアン・ゲイの悲劇性と通ずるような暗示性がこめられていると考える(考えすぎかもしれないとしても)。また『クレイジー・ハート』は元スターの再誕生版となることで、『スター誕生』の特異性、誇張された悲劇性を照らし出す。『クレイジー・ハート』を単体でみると、物語は予測可能かもしれないが、『スター誕生』を念頭におくと、『クレイジー・ハート』は先が読めない話となる。その展開が『スター誕生』の別ヴァージョンとなっているからである。また逆に、『スター誕生』の物語が本来特異な先の読めない物語であることも逆に判明していく。

あと付言すれば『クレイジー・ハート』の魅力は、ジェフ・ブリッジスの演技、あるいはそのカントリー・ソングだけではない。むしろ主役は風景だろう。そのなんともいえない光の広がりとつつまれ感、要は空気感は、映画をみていただくしかないが、かなり感動した。風景が、このいわゆる大人の恋の物語のエモーショナルな下支えとなっている。このことだけは付言どころか特筆しておきたい。

『アリー』あるいは、これまでの『スター誕生』に共通する世界観は、屍を乗り越えていくことOver the dead body。誕生には、必ず死を没落を排除を破滅が伴うということである。親が死んで、子供が生きるといえば、聞こえがいいのだが、むしろそこにあるのは凄惨な生存競争でもある。スターの誕生の裏には、多くのものが犠牲になる。犠牲なくして誕生はない。共存、共生――甘いこと言ってんじゃないわよと、チコちゃんの親戚に言われそうな、世界観、人生観がある。

同一化の欲望と所有の欲望で愛情関係を説明すると、夫婦の場合、ふつうは所有関係である。所有関係というと聞こえが悪いが、所有し、所有されるという相互関係である。ただし、そこに同一化の欲望はない。同一化の欲望は、仲間同士の間に生まれる。大学などのクラスメイトと結婚する例が、案外少ないこともこの間の事情を物語るものだろう。それはクラスメイトが同一化の欲望に結ばれた仲間であって、結婚という所有・被所有の関係の対象ではないからだ。またクラスメイトであったなら、誰とでも等距離で友好関係を築き上げたいから、親愛関係を特定の二人が築くことには抵抗があり、それは問題視される。そのため結婚相手は、その仲良し関係の仲間とはならないため、別のところに探すことになる。社内結婚が少ないのも、そうした理由による。しかし仲間ではない人間と結婚する場合、同じ考え方とか同じ趣味を共有していないので、共通の話題がないことになる。

では同一化の欲望と所有の欲望の両方に根差した夫婦関係が理想かというと、そこにも問題がある。夫婦で同じ趣味という程度のことなら問題がないかもしれないが、どちらも同じ仕事をしてプロということになると、そこにライバル関係が生まれる。同じ仕事でも圧倒的に経歴その他で差があるのなら問題ないが、両者の力量や評価や人気が拮抗してくると、ライヴァルとして敵対関係になる。ライヴァルとして競い合っているときは、楽しいかもしれないが、勝負がついてしまい、歴然と差がつくと、憎悪や妬みが生まれる。せっかく興味や嗜好や趣味が同じで親密な関係が築けたのに、まさに親密さの契機が敵対の契機と変わる。そしてこの関係は、相手を倒すまで、屈服させるまで、時には比喩的に殺すまでにいたる。

『アリー』の場合、シンガーソングライターでもある夫婦が、競い合って、一方が敗れたということではないといえるかもしれない。しかし、夫婦の関係のなかに、明らかに夫のほうの妻に対する対抗意識や妬みが生まれ、夫婦関係にひびが入ってくることは、誰の目にも明白である。また夫婦は同業者であり、片やフォーリング・スター、片やライジング・スターというのであれば、共存共生はできないことになる。二人がどんなに愛し合っていても、同時に、同じ空間を二人のスターが占めることができない、というかその場合、もう愛はないのではないか。『アリー』では、フランクと兄との関係が示唆的である。兄もまたミュージシャンだったのだが、いまではマネージメントに回っている。兄のほうが身を引いたのである。そして今度はフランクのほうが身を引く番となる。スターが誕生するときには、凡百のライヴァルを蹴落とすことになるが、それはいたしかたないだろう。実力と人気が重要なのだから。しかし、スターとなる弟子のほうは、子供のほうは、師匠を、親を、愛する者を、自分をいまあるスターの地位に押し上げてくれた者たちを、殺すしかないのである。弟子は師匠のことをいつまでも愛し続けているだろう。だが、弟子は師匠を殺さないかぎり、あるいは師匠はみずからを弟子に殺させるか、みずからを殺さないかぎり、弟子がスターになることはない。弟子と師匠の共演はあるだろうが、弟子と師匠がともにスターになることはい、いや、そこには愛する者通しの殺し合いしかない。この暗い運命を避ける道は、いまのところないのである。

だから『スター誕生』の物語は予測がつくかというと、そうでもない。なぜなら、今述べたような冷酷な摂理を、とことんつきつめるような物語はこれまでなかったのではないか。今回の『アリー』においても、意識的な悪意はなくても、無意識のレヴェルにおいて悪意があれば、それは容赦なくあぶりだされるのである。だから、そこまで徹底することが予測できないので、意外性にみちた展開となる。

と同時に今回の『アリー』では、着地どころが見えなくて、けっこうはらはらした。アリーのドラッグ・クイーンのパフォーマンスは、その派手さとエンターテインメント性で際立っていたが、フランクにあってからの彼女の音楽性は、じっくりと歌い上げるバラード歌手的な方向にすすむ。それはそれでこの映画のなかでは彼女の声や音楽センスに合致しているようにみえる。しかし、フランクに見出されたあと、大手音楽会社にスカウトされてからは、彼女は、たんなるバラード歌手というよりも、総合エンターテイナーとしてのスターを目指すことを求められる。そのため踊りの練習までするようになる。もちろんアリーはレディ・ガガなので、その踊りは、映画のなかの設定をはみ出て、プロのダンサー顔負けの切れをみせる。しかし、そのようなエンターテイナーに彼女がなることに対しては、夫のフランクのみならず、観客も好ましく思わない。つまり映画のなかで、彼女はレディ・ガガみたいになるのだが、観ている側は、そうなってほしくないと思うのである。

これはアリーに扮するレディ・ガガに、レディ・ガガみたいになるなと要求するようなもので、理不尽なことこのうえない。彼女はレディ・ガガみないになるのか。レディ・ガガは、映画のなかではレディ・ガガに背を向けるのか。この映画のなかで、スターとして誕生するアリーにレディ・ガガをもってきた功績は大きい。ライブでの盛り上がりを映画で確認してほしい。物語上は、アリーの人気であるが、実際には、映画撮影では、レディ・ガガのパフォーマンスにみんな熱狂しているのである。無料のエキストラ募集があれば、私だって応募して聴衆の一人になっていただろう。なにしろ、無料で、レディ・ガガのパフォーマンスをみることができるのだらか。

そう、彼女を起用することで、ライブ映像は圧倒的な盛り上がりを見せるしかなくなっている。彼女レディ・ガガの存在は大きい。だが、映画の物語の流れは、反レディ・ガガである。レディ・ガガにならないほうがいいアーティストを、レディ・ガガが演じているのだ。もっとも緊張する場面は、バスルームでのフランクとアリーのやりとりというか喧嘩である。夫フランクは、アリーがアーティストとして目指す方向性に懐疑的であって、そういうアリーを「醜い」uglyとまでいう。これに対してアリーは激怒して素っ裸のまま立ち上がり、夫をバスルームから追い出すのである。これはアリーを演じているレディ・ガガに、レディ・ガガのようなパフォーマーは醜いというようなものである。“ugly”とはっきり聞こえたし、またこのuglyというのは強烈な言葉である。しかも、この“ugly”というのは脚本にない言葉で、フランク役のブラッドリー・クーパーのアドリブらしい。だからこの場面でのショックを受けたアリー/レディ・ガガの激怒は本物だともいわれているのだが、しかし、この場面で彼女は怒るしかない展開なので、怒りが演技ではない本物とは言い切れないだろうが、ただ、レディ・ガガ的なパフォーマンスは、この映画のなかで明確に否定されている。となると、どうなるのか。どこに着地するのか。映画の終盤、私は途方に暮れた。

結局、映画の最後は『スター誕生』の終わりと基本的に同じなので、彼女は、自分自身に立ち返って、夫の死を受け入れ、悲壮な決意で先にすすもうとする。その彼女の最後の歌は、レディ・ガガ的なパフォーマンスとは程遠い、夫への愛とみずからの心情に真正面から向き合う魂の叫びともいえる歌唱である。レディ・ガガ的エンターテインメントはお呼びではないように思われる。アリーではなく、レディ・ガガは、これをどう考えているのだろう。活動を休止していたレディ・ガガ自身、この映画の最後にアリーが到達した境地と歌唱に向かおうとしているのか。レディ・ガガにとって、この映画は再誕生の場として意図されているのか。

あるいはドラッグ・クイーンのパフォーマンスとしてはじまった映画におけるアリーのパフォーマンスは、先に、素に戻るというドラッグ・クイーンのパフォーマンスもあるのではと、『ヘドウィグ・アンド・アングリー・インチ』(基本的に映画版のほうだが)の例を出した。実は思い直せば、『ヘドヴィグ……』は、『スター誕生』のドラッグ・クイーン版だったと気づいた。あれは素にもどるパフォーマンスではなくて、『スター誕生』のドロシー・パーカーを、ジュディ・ガーランドを、バーバラ・ストライサンドを演じているのである。となるとすっぴんというか素顔もまたコスプレだともいえるだろう。この映画でアリー/レディ・ガガは、ずっとすっぴんである(a bare face)。実際には化粧をしているシーンもあるのだろうが、すっぴんの印象は強い。実際、レディ・ガガがどういう顔立ちなのか、この映画ではじめてわかった気がする。ただ、だからといってレディ・ガガが化粧をメイクを落として、飾らぬ自分自身に立ち返る、これまでのすべてを捨て去、素の自分に戻るということではないかもしれない。彼女のドラッグ・クイーンのパフォーマンスとも思われるような、派手なパフォーマンスは否定されたわけでも終わったわけでもないだろう。素顔をさらすこと、素顔という化粧で、素顔をコスプレしているのかもしれない。


posted by ohashi at 19:36| 映画 | 更新情報をチェックする

2019年01月03日

『人形の眠る家』

もう終わりかかっている映画だが、まだ上映館はあるので、最初からネタバレの話をするので注意。とはいえネタバレでも、この映画の面白みというか衝撃性が減ることはないと思うのだが。ネット上に次のような記事が:

Kazuログ

徹底ネタバレ『人魚の眠る家』映画結末や原作との違い、衝撃のラストについて全部まとめ

映画冒頭では宗吾くんという小学生の少年が登場。

野球ボールを誤って人魚がかたどられた門の家に投げ入れてしまいます。

中に入った宗吾は家の庭で車いすに座り、眠り続ける少女(これが瑞穂)を見つけ、冒頭は終了。

直接的に物語に関係しては来ませんが、映画ラストで再度宗吾は登場します。

宗吾は実は、人魚の家で瑞穂を見た後心臓の病気になり、臓器移植を必要としていました。

娘「瑞穂」がなくなった後、宗吾は「瑞穂」の心臓を移植してもらい、手術は成功、瑞穂の心臓は宗吾の中で生きる形になります。

もちろん、宗吾はあの日人魚がかたどられた門の家にいた少女(瑞穂)の心臓が、自分の中で動いていることは知りません。

ただ、宗吾が(更地になってしまっているものの)瑞穂が暮らしていた家があったところを通りがかった際、ドクドクと心臓が鳴る描写がされているので、彼自身、その土地に何かを感じるものがあったのではないでしょうか。

とらえ方は人それぞれですが、見た人それぞれ、本当に一人ひとり違う答えが出るような、そんな映画だったと思います。

私が衝撃的と思ったのは、まさにこの映画の最後である。宗吾が、死んだ瑞穂の心臓を移植されたかどうか、はっきりしないものの、しかし、ここまでの流れからして、心臓を移植されたと想定してさしつかえない。すると、宗吾君のなかに移植された瑞穂の心臓が、意志をもったかのように、宗吾君を、心臓がもといた場所、すなわち人魚の眠る家、瑞穂の家のほうに導いていく。

ここで予想されるのは、瑞穂がかつていた家は、瑞穂の死後、彼女の記憶を保存しつつ、平穏な日常生活の場となっているが、いまたまたま、その家を見に来た宗吾の体のなかに、瑞穂の心臓があることをなど、瑞穂の両親や兄は知らぬげに、平穏な日常のなかに埋没しているという、パセティックな展開である。

ところがそんなセンチメンタリズムなど簡単に破壊するような衝撃的映像があらわれる。そこは更地になっている。人形が眠る家は、もうあとかたもなく消滅しているのだ。しかもドローン撮影。その更地の全貌が、真上から見下ろすドローンのカメラによって、露見するのである。けっこう広い場所だったことがわかる。住宅街にそこだけが更地となっている。

偶然だがシェイクスピアの『マクベス』を戦国時代の日本に置き換えた黒澤明監督『蜘蛛巣城』の最後を思い出した。戦国武士たちが、葉のついた木の枝を前に掲げるカムフラージュ態勢で進軍していく(『マクベス』のバーナムの森が動くの戦国版)。そして軍隊が過ぎ去ったあと、霧のなかから忽然と姿をあらわすのが、何もない荒涼とした土地と、蜘蛛巣城跡地と記された板である。あれほど凄惨を極めた人間の愚かな権力闘争の舞台となった城も、はかない夢のごとく消え去って、あとは更地しか残らない。人間の愚劣さに怒った自然の復讐の前に、人間の戦乱は跡形もなく消滅するのである。

そう「人魚の眠る家」が、消滅して広大な更地だけになったとき、もはや人間中心の視点は消え去ったように思われた。

脳死状態の瑞穂を、生かそうとしする両親や技術者たちの必死の努力。脳死で心臓だけ動いている、あるいは心臓だけが動かされている状態が、ほんとうに生きているといえるのか、両親の、また瑞穂の兄や友人たちの、あの苦悩、あの喜び、あの悲しみ、あのせつなさ、あの絶望、あの歓喜、あの諦念、それはいったい何だったのか。そうあれだけの涙が、あれだけのエネルギーが費やされた瑞穂の心臓をめぐる物語の場(人魚の眠る家というか敷地)が、なぜ跡形もなく消え去ったのか。

そう、もう用がなくなったのだ。あの家族は、あの物語は、ただひとつの目的のためだけに存在させられていたのだ。そう、瑞穂の心臓を生かすために。あの家族が、脳死状態の瑞穂の身体を、心臓もろとも保存していた。そして心臓が、次の宿主である宗吾に移植されたとき、心臓にとって、もはや家族も、身体を動かす生命維持装置も、そして身体を負う部屋も家も必要なくなった。心臓は、もはや用済みとなった家族と家屋敷を消し去ったのである。なんとういうポストヒューマン物語なのか。

だが映画はそのような冷酷な事実あるいは解釈を差し出すことではなく、逆に心あったまるような世界観を出そうとしたのかもしれない。瑞穂の命はつきた。だが、その心臓を誰かに移植すれば、その人のなかに瑞穂が生き続けるというのは、センチメンタルすぎる考え方かもしれないからやめるにしても、誰かを生かすことができる。死んでいくものの臓器を移植しすることで生きる者もでてくる。もしそうだとすれば、人の死を悲しむのはやむをえないにしても、人の命は、臓器移植によって、べつの人の命を支えることにもなるので、そのことを思えば、悲しみもすこしは和らごうというものだ。

だが、これは神の視点である。あるいは映画に即していえばドローン撮影が提示する世界観だ。ひとりひとりの命も、生命圏という大きな世界を、その時空間をみれば、たがいに支えあうものでしかない。またそうであるなら人は死ぬことはない。すべての死は、誰かの命をささえることになるのだから。そうこれは臓器移植至上主義である。臓器移植至上主義が、あたかも自然界の摂理、生命圏の摂理、神の摂理であるかのようにふるまっているのだ。私は、こうした臓器移植至上主義には断固反対する者である。だから、私は最後の場面のポストヒューマン的自立する心臓(臓器)物語の可能性に戦慄をおぼえたのである。もとより、そうした臓器移植至上主義のおぞまさに唖然としたのだ。

最後に、脳死でこん睡状態の瑞穂が目を覚ますところがある。目を覚ました彼女は、言葉を発するのだが、映画『鈴木家の嘘』を12月に観た私は、長くこん睡状態にあって目覚めた人は、こん睡状態のとき声帯を使っていないので、すぐに声がでないということを知っている。だから、目覚めた瑞穂が話しはじめたとき、それは嘘だろうと思った。だが、映像がおのずと語っているのだが、これは瑞穂が目覚めたのではなく、母親が、瑞穂が目覚めたという幻覚もしくは夢を見ているのだろうとわかった。この夢のなかで、瑞穂は、母親に感謝の言葉を述べる。どうして感謝するのか。脳死である自分を、そのまま死者として扱うのでなく、周囲の反対を押し切って、こんなにまでして、生者として扱ってくれた、その心の優しさ、愛の深さを、子として感謝したというふうにみえる。もちろん、母親の勝手な夢である。自分の行為を正当化する妄想にすぎない。しかし、夢のなかでの感謝の言葉はまた、瑞穂の命が最終的に尽きることも暗示していて、母親のこの夢のあと、瑞穂は死をむかえる。そして母親も、その死を受け止め、そして娘の心臓を臓器移植にまわすことに決めるのである。

だが、この一見感動的なエピソードも、結局は、臓器移植至上主義の世界観を肯定するだけのものである。瑞穂は、どうして感謝したのか。それは、ありとあらゆる犠牲(金銭的、精神的)を払いながら、瑞穂の心臓を生かし続けたことによって、心臓を新鮮なかたちで臓器移植にまわすことができたということである。ここまで瑞穂ではなく、瑞穂の心臓を生かしておいてくれてありがとういう感謝――結局、これは誰からの感謝かといえば、臓器移植の神様が、瑞穂の口を通して、母親の夢の中で語ってきた言葉ということになろう。瑞穂という娘の人格が話しているのではない。彼女の心臓という、人格とはべつのところにある生命圏メカニズムが、あるいは、くりかえすが、臓器移植の神様が話しているのである。

だから私は、臓器移植のプロパガンダのようなこの映画には、どこまでも反対する。臓器移植は自然の摂理でもなんでもない。医療の利益のために奉仕する悪魔のシステムである。臓器移植が救うのは、人間の命ではなく、医療システムなのである。この点はまた、いずれあらためて語りたい。

posted by ohashi at 14:34| 映画 | 更新情報をチェックする

2019年01月02日

『くるみ割り人形と秘密の王国』

映画.Comは、本作をつぎのように紹介している:

チャイコフスキーのバレエで広く知られる「くるみ割り人形」を、ディズニーが実写映画化。監督は「ギルバート・グレイプ」のラッセ・ハルストレムと、「キャプテン・アメリカ ザ・ファースト・アベンジャー」のジョー・ジョンストンが務め、くるみ割り人形に導かれて不思議な世界に迷い込んだ少女の冒険を壮大なスケールで描き出す。愛する母を亡くし心を閉ざした少女クララは、クリスマスイブの夜にくるみ割り人形に導かれ、誰も知らない秘密の王国に迷い込む。「花の国」「雪の国」「お菓子の国」「第4の国」という4つの王国からなるその世界でプリンセスと呼ばれ戸惑うクララだったが、やがて「第4の国」の反乱によって起きた戦いに巻き込まれていく。「インターステラー」のマッケンジー・フォイが主演。キーラ・ナイトレイ、モーガン・フリーマン、ヘレン・ミレンら豪華キャストが脇を固める。さらにバレエ界からも、ミスティ・コープランドやセルゲイ・ポルーニンといったトップダンサーたちが参加した。 あ

この解説というか紹介に異論はないのだが、世界的にみても、また日本国内でも、いまひとつ観客動員が伸び悩んだのは、残念だ。面白い映画だったので、とくに欠点となるようなものはなかったのだが。

いわゆるホフマンの原作とか、バレーでの物語そのままではなく、翻案であることに違和感を感じたか、オリジナルそのものの物語を期待しすぎた観客が、がっかりしたせいだろうか。どの程度の翻案かといえば、たとえばシェイクスピアの芝居を、日本の戦国時代の物語におきかえたとする(黒澤明監督の『蜘蛛城』とか『乱』などを思い浮かべてもらえればいい)。このとき翻案物語のなかに、当時のイギリス人の劇団が日本にやってきてシェイクスピアの『マクベス』を上演するような場面があったとしたら、それはおかしい。というかやってはいけないことである。日本のおきかえた意味がない。この『くるみ割り人形と秘密の王国』では、バレーの場面がでてくる。物語あるいはオリジナルな物語とは関係のないバレーの場面のようだが、同時に、オリジナルの『くるみわり人形』のバレーにもみえてしまう。『くるみ割り人形』の翻案のなかで『くるみ割り人形』のバレーを上演するとは。それはたぶんやってはいけないことではないかとお思う。あるいは見ている側が戸惑うのでは?

ラッセ・ハルストレムが共同監督の一人に名を連ねているので、まあ安心してみることのできる質の高い映画かと思っていたが、イギリス臭すぎたのか。そこが面白かったところでもあるのだが。たとえばキーラ・ナイトリーとマシュー・マクファディンの共演はこれで何度目だろうか。最初は『プライドと偏見』で、これは恋人どうし。『アンナ・カレーニナ』では兄と妹。そして今回は、赤の他人というかキーラ・ナイトリーのほうは人間ではなく人形なのだけれど。だんだん関係性が薄くなっているが、二人が共演した映画は記憶に残っている。ヘレン・ミレンの出演にも驚いたが、彼女は、『マダム・マロリーと魔法のスパイス』というラッセ・ハルストレム監督作品で、マダム・マロリー役だった。

ただ圧倒的に魅力的だったのは、マッケンジー・フォイで、彼女が男性用の軍装を身にまとうと、その美しさとりりしさに圧倒された。女装よりも男装のほうが、彼女にはよく似あうが、同時に彼女のことは、既視感もあって、どこでみたのか探ってみた。

アメリカ人なら彼女をことをよく知っているはずで、チャイルド・モデルであったり、CMに出演したりしと、メディアでの露出は際立ったいる彼女のことを知らないはずはないのだが、日本では、そこまで知られていないが、強い既視感はあった。そこで調べたら、上記の引用にあるように『インターステラー』に出演していた。あのマシュー・マコノヒー演ずる宇宙船パイロットの娘だったのかと、あわてて映画のブルーレイを取り出して、彼女が出演している最初のほうだけ見直すことにした。

『インターステラー』では、マーフという名前の少女の役で、大人になってからはジェシカ・チャスティンに変わり、さらに最晩年はエレン・バースティンが演ずるのだが、浦島効果で最初からほぼ同じ年齢のマシュー・マコノヒーの娘のイメージは、ジェシカ・チャスティンでも、エレン・バーンステインでもなく、圧倒的に彼女マッケンジー・フォイなのである。

最初のほうだけをみてあとはやめるつもりだったのだが、クリストファー・ノーラン監督のこの『インターステラー』面白すぎて、また泣かせる場面では、思わず涙ぐみながら、およそ2時間50分の映画を結局、一気に最後まで見てしまった。この年末の忙しいときに。

クリストファー・ノーラン監督といえば『インセプション』でみせた、時間を自由に圧縮したり引き延ばしたりする時間の可塑性がきわめて印象的な作品が多いが、時間への関心は、この『インターステラー』で違和感なく頂点に達したように思われる。相対性理論の宇宙では、いわゆる浦島効果によって、宇宙での数時間が、地球では何十年、何百年になってしまう。その時間の長さの可変性は、このSF宇宙物では、違和感なくというか、相対理論ではそれ以外のものになりようもないので、受け入れられやすい、それにおもしろくもあり、またせつなさも感じられりるので、宇宙空間ほど、うってつけの設定はない。

たとえばマシュー。マコノヒーが最後に娘と再会するとき、娘は自分よりもはるかに歳をとった老婆になっている。それはエレン・バーステインが演じていることすらわからなかった老齢のご婦人であって、可愛く利発で変わり者で頑固者でもあったマッケンジー・フォイの面影すらない。孤独と疎外を感ずるなか、マコノヒーは、自分よりも年上の娘の助言にしたがって、同じ時空を生きている唯一の生き残りであるアン・ハザウェイのもとに巨大コロニーから旅立つ。このあたりもふくめ、この映画、けっこう泣かせる。

この『インターステラー』のなかでマッケンジー・フォイは、母親を亡くしていて、父親の手で育てられている。彼女は、兄よりも頭がよく、また変わり者でもあり、父親から可愛がられている。彼女の兄は、母親に見捨てられたことがトラウマになって、おかしくなっていき、その兄に彼女は命すら危うくなるのだが……

これって『くるみ割り人形と秘密の王国』のクララの運命と同じでしょう。クララの場合も母親は死んでいる。クララの科学的才能は母親譲りのようだが、マーフ/マッケンジー・フォイの場合は、その数学的才能は、父親と母親から得ているようだ。クララもマーフも、母親に見捨てられたと思っている人物から危ない目にあう。マーフの場合には、兄に、クララの場合には、これはネタバレになるのでいえない。そしてまたこれは予想されることだが、クララもマーフも荒廃した地を救う救世主となる。となると、『くるみ割り人形と秘密の王国』のマッケンジー・フォイの役どころは、『インターステラー』の彼女の役どころとまったく同じだといわざるをえない。というか、同じ役どころを反復しているということはできる。


posted by ohashi at 11:21| 映画 | 更新情報をチェックする

2019年01月01日

『ボヘミアン・ラプソディ』

評判の映画だが、昨年観た中で、最高の映画だった。ゲイ・アーティストを扱った、ゲイ美学が横溢した、最高のゲイ映画だった。

不満が残るとすれば、これがゲイ映画であることを無視してかかるメディアの愚かさである。ゲイはタブーなのか。タブーをすべてなくすことを私は求めたりしないし、タブーににも一定の重要な文化的社会的機能はあると思うのだが、ゲイは、もうタブーじゃないはずだ。というか日本ではゲイはタブーなのである。そしてゲイ差別と闘い、ゲイであることをあえて宣言したアーティストに対して、ゲイであることを認めない。それは二重の差別であろう。それは二度の殺人である。そのことはわかっているのだろうか。

つい1224日の午後NHKで『世紀を刻んだ歌「ボヘミアン・ラプソディ殺人事件」』というドキュメンタリー(初回放送:衛星ハイビジョン2002年)を再放送していた。若くてきれいな西田尚美をみて、けっこう感動したが(いまはきれいじゃないというわけではない)、結局、その再放送もゲイ問題を可能な限り回避していた。たとえば西田とリサーチをつづける若いイギリス人男性は、最後に妻と娘がいるヘテロな男性であることがわかる(そんなことわからなくても誰も問題にしないはずだが)。結局、クィーンが好きであれこれ調べていてもも、本人はゲイじゃないということを、わざわざ「明確に」しているのだ。その配慮はなんなのか。ボヘミアン・ラプソディはボヘミアン・スキャンダルなのか。

同番組ではデーモン閣下がコメントをしているが、フレディ・マーキュリーの音楽というか芸術には、ゲイ・アーティストとしてのアイデンティティに影響されているというようなコメントを受けて、ゲイである以前に、フレディの複雑な民族的出自が影響をあたえていると語っていた。「ゲイ以前に」と、ゲイを、完成後についた、なくてもよい、あるいはないほうがよい付録、蛇足のような扱いだった。別にデーモン閣下を非難するつもりなど毛頭ない。かりに彼が、ゲイであることこそ、フレディの芸術の根底にある本質そのものであると語ったとしても、NHKがカットするに決まっているからである。なおゲイ性と複雑な民族的出自は、どちらが先か後かというのこと自体、無意味である。複雑な民族的出自そのものが、つまり帰属すべき単一の民族性をもたないこと、あるいは錯綜する民族性は、帰属すべきジェンダーをもたない、あるいは錯綜するジェンダー性を帯びていることと同じなのである。そこに前か後かを(つまりどちらが第一次的で本質的かを)決めることは、悪辣な政治的操作と連動しているのである。

結局のところ、女性差別も民族差別もゲイ差別も、相手が抗議してこないらしい、あるいは弱い立場にあると思うと、差別しほうだいなのである。もちろん、この場合、差別というのはタブー視して無視することも含まれる。ちなみにある新聞の記事では、最近の『ボヘミアン・ラプソディ』の人気について語りながら、そのなかでゲイという言葉は一度も使っておらず、「マイノリティー」という言葉が一か所だけ使われていた――「マイノリティ」にもいろいろな種類があるのだが、それがなんであるかは特定されていなかった。だからこのNHKの再放送番組は、ゲイであることをきちんと語っていて、これでも、よいほうなのである。

『ボヘミアン・ラプソディ』のゲイ的要素はいくつもある。バンドの名前「クイーン」も、Queenという語そのものに、「女王」という意味のほかに差別語として「おかま」とか「男娼」の意味がある。結局、イギリスの作家サキと同様に、その名称からしてカミングアウトしているにもかかわらず、無視されている、見て見ぬふりをされているのである【「サキ」というのは「お稚児さん」のことである。したがって本人がカミングアウトしているのだが、そのことについて、白水社版の翻訳はまったく何も触れていないどころか、サキの勇ましいエピソード(第一次世界大戦での戦死)について触れるだけである。白水社はりっぱな出版社だが、サキの翻訳者はクソである(ちなみに、第一次世界大戦の戦場というのが、第二次世界大戦のそれとは異なり、ゲイ的コノテーションを帯びていることを、その翻訳者は知らないのだろう)。】

また実際のところ、後期クイーンのフレディの扮装というかファッションであるところの、ランニング・シャツに、短髪と口ひげと、サングラスは、ゲイの典型的なファションなのである――そのことは映画のなかでも暗示されていた。これほどまでにカミングアウトしているのだが、それでも当人のゲイ・アイデンティティは、スキャンダルなのであって、見て見ぬふりをされるのである――ああ、ボヘミアのスキャンダル。

ボヘミアン・ラプソディというタイトルのボヘミアンすら、NHKの再放送では歴史的に見にてジプシー(それしても「ジプシー」という語は、いまでは使ってはいけない差別用語となっていて、「ジプシー」と聞くとびっくりするが、当時は、まだよかったのか?)とも関係づけられていたが、それらは容易にゲイ・アーティストと関係する。

「ママ」への呼びかけではじまる『ボヘミアン・ラプソディ』は、ゲイの人間が家族のなかで愛するのは母親であるということとも関係する。もしこれが「パパ」あるいは「ダディ」への呼びかけではじまっていたら、ゲイ・アートではなくなっていた。母親をだいじにしないゲイはゲイではない。

そして「ボヘミアン・ラプソディ」という楽曲そのものが、ゲイの人間の特質と苦境を歌いながら、その嘆きと喜びと、絶望と覚悟とが、ゲイ物語の典型となっているのだが、さらに越境的な放浪的な「ロマ的な」狂騒曲という形式をもつため、内容と形式の一致が明確に認められるのである。キーワードのように私たちの耳に残る「ガリレオ」は異端者であり、「スカラムーシュ」は道化的人間の代名詞である。人を殺して人生の門口で人生を終わらせた語り手は、犯罪者、無法者として断罪され社会から排除されるアウトサイダーとなる。そのアウトサイダーとしての悲しみ、絶望、孤独、罪悪感と、自立への自覚、諦念と希望、未来志向とが「ボヘミアン・ラプソディ」のテーマとなろう。で、そのオペラ性は?

まさにオペラ性こそ、「ボヘミアン・ラプソディ」がゲイ・アートであることの証明となる。オペラ・ファン、オペラ好きの人間がみなゲイであるということはないが、ゲイの人間は、オペラ好きが多い。理由はさまざまであろうが、ディーヴァ好きとか、その舞台の絢爛豪華さ、その世界観の壮大さが好まれるいっぽうで、また、たとえどんなに壮大で豪華であっても、本質的に救いがない永遠の劫苦にさいなまれる悲劇的世界とか、たとえ喜劇でも問題を残す辛辣な要素が多いという、オペラの世界観と、ゲイ的世界観はシンクロするところが多いからといえようか。ゲイ美学の範疇に、オペラはかかせないのである。

「ボヘミアン・ラプソディ」のオペラ的要素は、フレディがザンジバルで生まれたこととか、ゾロアスター教徒であることから説明できないが、フレディが最初からゲイであることを考慮すれば、もうプレディクタブルなものとして説明できる。NHKに忖度して、ゲイである前にほかの要素があるとデーモン閣下は語るべきではなかったと思う。

ゲイ物語には、ゲイ・カップルの出会いと別れが不可欠だが、『ボヘミアン・ラプソディ』(二重括弧は、映画のタイトルを示す)でも、そこには多くの典型例がある。ゲイの人間は、同じ性的嗜好の人間と日常的に出逢うチャンスは少ないで、特定の場所以外には、偶然の出会いを大事にするしかない。映画のなかではフレディが、男子トイレで、トラックの運転手の男性と結ばれるであろうという暗示がある。トラック運転手という恒常的移動者とのつかのまの、ゆきずりの恋。ワン・ナイト・スタンド。たがいにゲイ・アイデンティティは隠さねばならないとき、関係は一過性である。ワン・ナイト・スタンド。関係は長くはつづかないし、一度の出逢いで終わるしかない。ワン・ナイト・スタンド。

ちなみに『ミッション・インポッシブル』ではパリの男子トイレが舞台になる場面があって、そこではゲイ的暗示が横溢していたし、ガイ・リッチー監督の『コードネームU.N.C.L.E』では男性用トイレが重要な役割をはたしていた。ゲイ的暗示をともなう出会いと、ゲイそのものの出会いの場として。ともにスパイ映画である。スパイ自身、越境的といか、所属するところをもたないボヘミアンでもあって、スパイは、実際はどうであれ、ゲイ物語とは構造的・象徴的にシンクロするのである。スパイもまたボヘミアンでありゲイなのである。

話をもどせば、ゲイ物語において、やがて、ゆきずりの愛だけで満足するのではなく、永続的な固定的関係を求めるようになる。ロング・タイム・コンパニオン(実際、そういうタイトルのゲイ・エイズ映画があった)を求める愛の遍歴がはじまる。そしてやがてみつかる、終生のパートナー。だが、その前に、偽りあるいは望ましくないパートナーとの別れがある。

『ボヘミアン・ラプソディ』ではフレディとポールの関係がエクスプリシットなゲイ関係として映画かれているが、ポールは、バンドの仲間のなかに割って入り、フレディを独占し、フレディをバンドのメンバーから切り離し、最終的にフレディの音楽そのものにも介入することになる。クイーンを実質的な解散にまで追い込み、フレディを堕落させる張本人としての偽りのパートナーとしてのポール。彼の悪影響から逃れることで、クイーンが再結成され、ライブ・エイドの伝説の20分間となる。このポールについて悪く描かれ過ぎという評価があるようだが、私としては知識不足でその真偽は判定できないものの、ただ、映画のなかではポールとの別れと、終生のコンパニオンの発見とが継起するのであって、このような悪役のコンパニオンの切り捨ては、ゲイ物語において安定した(あるいはお約束の)展開となる。

これもゲイ・アーティストであるフランシス・ベーコンの伝記映画『愛の悪魔/フランシス・ベイコンの歪んだ肖像』(Love Is the Devil: Study for a Portrait of Francis Bacon,1998)では、ベイコン(デレク・ジャコビ扮する)と彼の愛人ジョージ・ダイアー(のちの007であるデイヴィド・クレイグ扮する)との関係を描くものだが、その出会いと最後の残酷な別れが、ベイコンの芸術家としての成長あるいは変貌に関係していた(ちなみに、この映画でも、別れの場面ではどしゃぶりの雨が降っている)。

さらにいえば、ゲイ物語において重要なのは、偽りのパートナーを最終的に閉め出すことではなく、偽りのパートナーに苦しめられることである。苦しみを楽しむマゾヒスティックな欲望と、苦しむ自分の姿に快感をえるナルシスティックな欲望との戯れ。ゲイ文学ではないが、しかし作者がゲイであったサマセット・モームの『劇場』という小説がある。このなかで主人公であるところの人気もあるベテラン女優が、若い野心的な俳優と恋におちるが、彼は大女優の地位と名声を借りて、のしあがろうとしているにすぎない。そのため彼女は、この男に翻弄され、芸歴も自分の家族も失いそうになる。実際、読んでいると、早く目をさませと、彼女に対して叫びたくなる。この小説は、イシュトヴァン・サボーによって映画化されているが、その映画作品『華麗なる恋の舞台で』(Being Julia,2004)は、2時間に満たない作品で、彼女が若い俳優に苦しめられる部分は、けっこうあっさり終わるのだが、原作は、こちらが発狂しそうなほど、延々と続く。実は、はやく目を覚ませと彼女に言っても無駄だとわかる。なぜなら彼女は、自分が若い男に手玉にとられていることは承知している。卑しいクズ男に苦しめられ破滅の淵に追いやられていることも知っている。だが苦しみ、破滅の道をすすむ自分の愚かな姿に魅惑され、その苦しみを楽しんでいるところがある。マゾヒズム全開の彼女に何をいっても無駄なのである。小説『劇場』は、ゲイ小説ではないが、そこに作者モームのゲイ美学が横溢し、ゲイ美学の中心のひとつであるマゾヒスティックな欲望が噴出する。それが悪しきパートナーに翻弄される自分を楽しむマゾヒスティクな快楽なのである。そしてこれと同じものが『ボヘミアン・ラプソディ』にあることはまちがいないだろう。実際のポールを正確に反映しているのかどうか定かではないが、ゲイ物語においてポールは、あのような役割以外には必要とされなかった。

あとひとつ。この映画をみると「ボヘミアン・ラプソディ」が発表された当時、評論家は当惑して、作品に高い評価を与えていない。人気もでていなかったということである。ライブ・エイドの熱狂のなかで、「ボヘミアン・ラプソディ」が再販され、それ以後、一定の高い評価を得たということなのだが、これは意外だった。というのも、クイーンの曲としては「ロック・ユー」と「キラー・クイーン」と「ボヘミアン・ラプソディ」は、私の記憶では、時期によっては毎日、街に、テレビやラジオで流れていてこともある、馴染みの曲であって、そのなかで「ボヘミアン・ラプソディ」が当初は人気がなかったというのはほんとうに意外だった。おそらくそれは日本の特殊事情なのだろう。というのもクイーンの楽曲使用(CMなどで)は日本には容易に許可されたということらしく、クイーンが日本びいきであったことが、この映画の公開とともに指摘されるようになった。クイーンは日本で人気がでて、それが全世界に波及したというようなことも指摘されている。だから日本は好印象をもって迎えられたということらしい。だが、それだけではないだろう。日本がゲイの国というのも、クイーンの日本びいきの一因として認めることができるのだ。事実映画のなかでもフレディが好きなのは猫と着物をはじめとする日本の家具調度やお札(ふだ)であることが強調されている。日本が特にゲイが多い国ということはないが、日本はゲイの国あるいはゲイに寛容な国という神話的といってもいい思い込みが国際的に蔓延していることはまちがいない。アメリカ人の日本文化研究者は、すべてではないだろうが、ほとんどがゲイである。

最後に『ボヘミアン・ラプソディ』はゲイ物語としてもゲイ映画としても、正統的といってもいい典型例であることを誇っているように思うのだが、では、なぜ、この映画が、ゲイではない人たちにも感動をあたえるのかという問題がある。ゲイあるいは複雑な出自、そして英国の音楽、それもロック音楽の世界での出来事という、きわめてローカルな特殊例のなかに、普遍的なものが感じ取れるというふうに説明される――通常は。たしかにエイズであることがわかり、死の影におびえながら、ライブ・エイドのコンサートに向かうフレディにとって、死の恐怖を克服し未来へと身を投げることが大きな課題となる。そしてそこには、エイズという特殊な病気に関することではあっても、またエイズにも、またそもそも病気にも苦しんではいない人たちにとって、普遍的なものとして共感できるものがあるということになる。

またさらにフレディを取り巻く人たち、実際の家族から、バンドのメンバーたちによる疑似家族、そして最後に見つける終生のパートナー。そのどれをとっても、好感度がきわめて高い人たちばかりで、ここにあるのは、通常の家族には簡単に見いだせない、通常の家族以上の親密性であり、それが、ゲイ・ファミリーというようなローカル性を超えて普遍的に人の心をうつといってもよいだろう。

だが、こういう発想というか常套的論理展開は、残念なものがある。たとえば日本の特殊事情を描いた小説があるとする。それを読んだ外国の読者から、描かれているのは特殊な日本だが、この現象は世界のほとんどの国々にもあてはまる普遍性があるとコメントされたなら、たとえそれが褒め言葉だとしても、なにか日本の作家ならびに日本人が、他国の状況について無知な国民、つまり一般的なものを特殊個別的なものと信じている「世間知らず」的国民とみられているという、残念な気持ちにもなる。あるいは特殊個別的なものが、一般性・普遍性の提示によってかき消されてしまうことへの残念な気持ちも生まれる。これを喜ぶのは、というか、こういう普遍性の論理を展開して喜ぶのは、ゲイ的要素を消去できて喜ぶ側であろう。

そのため逆の理由を考えてもいいと思う。ゲイ物語に、ゲイではない人間も感銘を受けるには、普遍性があるからだが、それは私たち自身、異性愛者、同性愛者を問わず、誰にも同性愛的傾向なり欲望があるからだ、と。ゲイ的要素を捨象するのではなく、顕在化させる思考と論理、あるいは普遍性のありかを反転させることが必要かもしれない。ゲイ的要素を無視したり消去してしまわないためにも。あるいは私たち全員のなかにあるゲイ的要素を自覚するためにも。

ここから、この映画と現実との関係について考えてもいい。この映画で再現されている伝説のライブ・エイドの20分のパフォーマンスは、その本物のパフォーマンスがYouTubeでもブルーレイ/DVDでもみることができる。なかには本物のパフォーマンスを観た後では映画の偽物のパフォーマンスは見る気がしないという人もいる。だが、この発想は残念な思いがする。

なるほどこの映画にでているのは、フレディのそっくりさんである。だがラミ・マレク扮するフレディは、実物のフレディよりも一回り小柄で前歯が強調されすぎている。これはまた聞きだが、この映画をみた日本人観客が、「フレディ」のかわりに「ミック・ジャガー」とまちがいつづけていて、周囲の人間は、まだ生きているミック・ジャガーと間違えるとは、なんとう無知か無神経かとあきれたということだが、しかし、ラミ・マレク扮するフレディは、ミック・ジャガーのほうに似ていることはまちがいなく、この間違いもわからないわけではない。となるとそっくりさんともいえないようなフレディが出ている『ボヘミアン・ラプソディ』は、あくまでも本物のフレディの真実のクイーンを知るための契機というか入口であって、本物を知ったらもう観るまでもないということになる。フレディのそっくりさんから、フレディそのものへの道程は、しごく当然のように思われる。

だが、ほんとうにそうか。いや、この道程は逆方向にも可能なことを考慮しなければ、最終的にゲイの抹消(あるいは差別)にもつながりかねないから、そのまますんなりと受け入れることはできない。

そっくりさんと本物。まがいものと本物。これは単純な二項対立ではない。私たちが本物に対していだいているイメージ、本物の本質というのは、そっくりさんなのである。たとえば本物のフレディのパフォーマンスをみるとする。そのときいろいろな感想をもつだろうし、そのパフォーマンスの本質をつかんだように思うかもしれない。ただし直観的に。もちろんなにがいいのかわからず、いわゆるピンとこないこともあるだろう。そのときは、たとえば何度も見直してたり聞きなおしたりする。わかったと思えるまで。まあ直観的に把握できても、それがなんであるかを言説化するためには、反復して視聴することを余儀なくされる。そしてそのとき多様で多彩で還元化や単純化を拒む本物の豊饒さを、パターン化する、図式化する、時には可能なら数値化するとき、つまり一次元複雑さを減衰させることで、理解や把握がすすむ。つまり、本物のそっくりさんを私たち自身が作り出せば、それが本物に対する理解に私が到達したということになる。

たとえば、もしあなたが歌ったり演奏するパフォーマンスができるのなら、クイーンの楽曲を自分で歌ったり演奏してみることで(もちろんそれは三流以下のひどい歌や演奏以外になりようがないとしても)、楽曲の特徴が身をもって体験できる。たとえば小説なら、自分でも似たような小説を書いてみることで(たとえそれはどうしようもないへぼ小説であったとしても)、モデルあるいはオリジナルとなる小説のよさがよくわかるようになる。理解の仕方には、いろいろとあるが、このように理解しようとする対象のそっくりさん(まがいもの)を創造することによって、対象を理解できることがある。そっくりさんというのは、対象の分身とか、対象のシミュレーションといってもいのだが、ここでいえるのは、そっくりさんのなかに対象の真実があるということだ。もっと正確にいうと、そっくりさんと本物とのギャップのなかに真実があるというべきか。重要なのはオリジナルとみまごうそっくりさんは意味がない。むしろあまり似ていないそっくりさんのほうが、オリジナルについての理解がすすむのである。

だがオリジナルではなく、そっくりさんのなかに、あるいはそっくりさんの創造に真実が見出されるというのは、どういうことか。今回の映画をみた一般的観客で、クイーンについてとくに熱狂的ファンではなかった者たち(私もその一人だが)にとって、映画をとおして初めて分かった真実というのがある。フレディの歯が出ていたことであった。このことはフレディが存命中とくに意識したわけではなかったが、今回の映画をとおして、あるいは歯を強調したそっくりさんの登場によって、フレディの歯についての知を得ることになった。今回のそっくりさんは、歯についていえば、完全に本人のカリカチュアである。実際、フレディは、前歯が出ていることはない。歯の出ているフレディは、フレディ本人とは、その点では似ていないのだが、似ていないことによって、フレディについての真実が得られるのである。カリカチュアが本物以上に本物であるという場合と似ている【なおフレディのこの前歯は、彼の音楽に悪影響を与えるどころか、音域の広さに貢献していると本人は豪語しているようだし、本人は、この前歯を矯正しようともしていない。そしてこの生まれ持った身体的特徴は、この映画のなかでは、ゲイのアレゴリーとなっているのだろう。なお歯が出ている人はみんなゲイだと言うことはない。】

偽物と思われているもの、まがいもの、そっくりさんと思われているものが、本物の、オリジナルの真実を生み出す--このことは、この映画と現実のフレディ本人、再現されたパフォーマンスと、伝説のパフォーマンスの記録映像との関係、映画と実録との関係、ゲイとヘテロとの関係にも適用できるだろう。ヘテロな関係というオリジナルな本物の情愛関係に対して、ゲイは、ヘテロを同性愛関係で再現しているまがいもの、そっくりさんでしかないから、なくてもよいということにはならない。むしろヘテロの真実はゲイのなかに宿る、あるいはゲイとヘテロとの差異のなかにヘテロの真実が宿るといってもいいだろう。ゲイが脚光を浴びることになったのでヘテロについても関心が寄せられた。ヘテロの、そっくりさん、あるいはカリカチャーのようなゲイによって、ヘテロの真実がうまれるのだが、これはヘテロが優位でゲイは消去可能ということではなく、ゲイもまたヘテロの定義に貢献していること、ヘテロとゲイとの差異のなかにヘテロの真実が宿るとすれば、ゲイを消去してしまえば、なにが差異かみえなくなってしまうのである。

またこれはゲイがヘテロの引き立て役だということでもない。これはヘテロのなかにもゲイがあることの覚醒でもあるのだ。

映画と実録との関係も同じで、映画と実録との差異のなかに真実が宿るとすれば、映画は、本物の実録の前に排除してよいということにはならないのである。この映画『ボヘミアン・ラプソディ』がフレディ・マーキュリーとクイーンの真実をささえているともいえる。たとえばライブ・エイドのパフォーマンスの際に、フレディは自分の病気(エイズ)であることを知らなったということが指摘されている。たぶん、それは事実なのだろう。しかし、あのパフォーマンスは、フレディが自らの病気を知っていたとしか思えない含意をともなっている。死と絶望、その克服と未来への挑戦。このパフォーマンスから想定れるフレディは、死の壁に直面し、自らを振り返りつつ、未来へと自分を投げかけるゲイ・アーティストの姿そのものである。映画という虚構が、事実をしのいで、真実を生み出しているのでる。

そうだとすれば、さらにゲイもまた、ヘテロの真実の解明のためにも絶対に無視されてはならない。決してゲイがヘテロの引き立て役になってはいけないし、無視され消去されるおとがあってはならない。

posted by ohashi at 14:20| 映画 | 更新情報をチェックする