カクシンハン版『ヴェニスの商人』
この前の公演『冬物語』は、いつもながら短期間の公演で、どうしても日程があわず行くことができず、残念な思いをしていたので、今回の公演は、何としても観てみたいと楽しみにしていた。また期待にたがわぬ素晴らしい公演であった。
とはいえこの記事をネットに上げる頃には、公演はすでに終わっていて、宣伝にもなんにもならないのだが、公演期間が短いのを残念に思いつつ、つまりもっと長く公演してもいいのにとつくづく思うのだが、今回も、その見事なパフォーマンスについて報告させてもらいたい。
原宿vacantの二階フロア全体を使う空間で、細長いホールの二つの長辺に観客席を設けての上演は演者と観客との距離を縮め親密な関係をつくりだすことに成功している。親密だが、同時に、変な緊張感のないリラックスできる空間は、ドリンク(アルコール・ドリンクを)を提供することによって目指そうとしているように思われた。もちろん、それはすばらしいことだし、外国の劇場スタイルでもあると思う。ただし、私は糖尿病の頻尿なので、観劇前には絶対に飲料は口にしないため、せっかくのサービスを利用できなくて申しわけないとしかいえないのだが。
なおポケット版『ヴェニスの商人』とうたっていたので、省略して長くて1時間30分くらいのものかと思っていたら、休憩をはさんで2時間45分くらいの上演で、しかもアフタートークを聞いていたので、最終的には3時間以上、その場にいたことになる。
その開演15分前くらいから、演者が黒装束で黒い仮面をつけて登場し、白い大きな紙を手で破ったりちぎったり丸めながら、いろいろなものをつくって、舞台に置くと言うか、捨てている。ただの紙屑にみえるのだが、折り紙のような具象的なオブジェのようにもみえる。そるしたものを、演者が全員、舞台というか床の上に置くというか捨てていく。いったい何をやっているのかと思っていると、芝居が、その紙きれや紙クズや、折り紙のようなオブジェが散乱した床のうえで始まる。すると、いつしか、その紙クズの存在を忘れるというか気にならなくなるのだが、どこかとはっきりいえないのだが、その紙屑の意味がわかってくるから不思議である。
そう、『ヴェニスの商人』の世界は、お金に縛られている世界である。シェイクスピアの頃なら、そのお金とは金貨なのだが、現代でお金といえば、紙幣という紙切れであり、紙切によって私たちは支配され命すらも左右されるのである。いや、紙幣というお金ばかりだけではない。『ヴェニスの商人』では、まさに証文が、紙が、人の命を奪う。また証文に代表されるような書類や証書、すべてこれ紙が人間を支配するのである。
そもそも紙である。岩とかコンクリートといった固体とは異なり、紙は、はかないものだが、泡のように一瞬にして消滅することはなく、不用になっても消えることはなく、ぶざまな姿を、しかもみるからに屑というか紙屑となってさらす。そのぶざまさが、紙の場合、中途半端で存在感が希薄で、なぜこんなものに右往左往させられるのか、虚無感にすら襲われるのだ。まさに、混沌と紙一重のあやうい現実を彷彿とさせる紙の支配と廃墟。おそらくそれはパフォーマンスの形而上学ともつながっているのかもしれないが、無意味なおあそび、わるふざけとみえるものなかに、深淵をかいまみせてくれる、優れた仕掛けだった。カクシンハン公演は、知的刺激いや知的衝撃を必ず用意してくれる――予想にたがわず。
開演前に気づくことはほかにもある。ホールに入ると、天上からいくつか抽象的なオブジェがぶらさげてある。無機的なオブジェだが、同時におしゃれな感じもして、照明装置に連動しているなにかだろうと思ったのだが、劇中で、つりさげられていたオブジェが下がってきた。けっこうたくさんの数のオブジェと思っていたら、三つしかなく、その三つが、箱選びの場面での金銀銅のみっつの箱になったというか、見たてられた。しかもよくみると、それはクッションの部分を取り去ったパイプ椅子ではないか。カクシンハン公演ではおなじみのパイプ椅子。それに気づかなかった私はうかつだったが、紙とパイプ椅子(ただし骨組みだけの)、そしてパフォーマンスのありようは、どこかで、つながっているはずである。
今回(前回『冬物語』は見ていないのだが)、少人数で何役をこなすこともあってか、見ている側が混乱しないように、黒い仮面をつけて顔がわからないようにして登場する人物がいた。主役クラスの俳優が、端役も演ずるとき、顔をみせると、観客が混乱することをふせぐための措置だろうが、黒い仮面の人物は、同時に、演劇表現にもメリハリをつけることになって仕掛けとしてはかなり洗練されたものと、これは率直に感心した。
演出プランとしてはアントニオとバッサーニオの間に同性愛的関係を措定していることは、現代の『ヴェニス商人』の演出としてはマストといっていいことかもしれない。またシャイロックに対しては同情的である。私が、もの心着いた頃に読んだ本には、シェイクスピアはユダヤ人高利貸しシャイロックをただの悪役としてつくったのだけれども、劇作家シェイクスピアの才能は、意図しないままに、シャイロックを人間として造型したと書かれていた。昔は、なるほどと思っていたが、現在の私は、シェイクスピアは最初からシャイロックを同情すべき人物として提示していたと考えている。カクシンハンのシャイロックは、シェイクスピアのオリジナルな意図にもそうものである。
借りた金を返せないときには肉一ポンドを取るという証文がある。これは本来なら利子をとって貸し付けるユダヤ人高利貸しのシャイロックが、アントニオのたっての願いだから、また今後の友情関係を築くためにも利子なしで金を貸すのだが、利子なしだと同業者から批判される恐れがあるために、名目上の利子として肉一ポンドを担保にしたという意味がある。実際、人間の肉一ポンドは、まさに名目上のものにしかすぎないのであって、実際に人肉に商品価値などない――シャイロックがいうとおりである。ところが、アントニオはシャイロックから借りた金が返せなくなるため、裁判になると、その名目上のものが、現実的意味を帯びるようになり、アントニオの命を奪うものとなる。
このシャイロックの証文通りという主張をつきくずのは、いまはやりの「ご飯論法」なのだが(「朝ごはんを食べましたか?」という質問に「(朝、パンは食べたけど、ごはん=米飯は)食べていない」と答えるようなやり方。これは文字通り/証文通りを言い逃れの理由にしている)、実は、シャイロック自身、証文通りを繰り返すことによって、みずからも「ご飯論法」に頼るところがあって、自縄自縛状態になる。そして最後には全財産を失い、キリスト教に改宗させられる。
マイケル・ラドフォード監督の映画『ヴェニスの商人』の最後では、アル・パチーノ扮するシャイロックは、ユダヤ人の教会から締め出され、居場所を失って行き暮れる姿をさらすのだが、カクシンハン公演では、改宗させられたシャイロックは、ヴェニスの軽薄な白人キリスト教徒の仲間に加わって、本来のキリスト教徒以上に、キリスト教徒となるさまが暗示されている。河内大和のシャイロックは、今回の上演において、予想を裏切ることのない熱演なのだが、この結末は、河内大和ならでのはの衝撃性を備えていた。とはいえ、シェイクスピア時代のヨーロッパのユダヤ人は、基本的にキリスト教改宗者であって、キリスト教徒として活動している(隠れユダヤ教徒だったかもしれないが)。それが歴史的観ても現実なので、ユダヤ人をキリスト教徒に改宗させたキリスト教社会は、むしろいつ爆発するかもしれない爆弾をかかえこむことになったともいえる。カクシンハンの公演におけるシャイロックの運命は、斬新であると同時に歴史的に見て納得のいくものであるという、意味深い二面性を帯びていた。
隠れユダヤ教徒だったかもしれないが改宗キリスト教徒となったシャイロックの姿は、自信が隠れカトリックだったかもしれないが、プロテスタントとして生きるシェイクスピアの姿とも重なる。そして実際のところ、カトリックは、その二枚舌戦略も含め、信仰をまもるために欺くことを認めていたのであって、プロテスタントをあざむきつつ、あるいはプロテスタントのふりをしつつ活動していた隠れカトリックのシェイクスピアの姿は、シャイロックの二重性と重なるのである。
実際、シェイクスピアの肖像画のひとつ、チャンドス・ポートレイトで描かれた劇作家の顔は、ユダヤ人の顔である。ユダヤ顔がどういう顔なのかとしりたければ、チャンドス・ポートレイトのシェイクスピアの顔をみればいい。あれが典型的なユダヤ人の顔である。そしてもしチャンドス・ポートレイトがほんとうにシェイクスピアを描いているのなら、シェイクスピアはユダヤ人にそっくりの男か、さもなければユダヤ人である。
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実は、今月11月には、シェイクスピアの『ヴェニスの商人』のもうひとつみていた。明治大学での学生公演――正確には、第15回明治大学シェイクスピアプロジェクトにおける『ヴェニスの商人』公演である。こちらも素晴らしい公演だったが、その台詞を聞く限り、明治大学の学生諸君の翻訳よりも松岡和子氏の翻訳のほうに、正直言って、一日の長を認めざるをえない。カクシンハン公演の『ヴェニスの商人』には心打つ台詞が多かった。
ただしこういうと明治大学の学生諸君の集団(コラプターズと名の集団)の翻訳が下手だと受け止められては困る。すぐれた翻訳であることは誰もが認めることと思う。ただ、たぶん翻訳コンセプトが違う。松岡さんの翻訳は、シェイクスピアの作品の忠実な翻訳である――もちろん上演を考慮してのものだろう。いっぽう明治大学のコラプターズの翻訳は、たんに原作を翻訳するというだけではなく、実際の上演と連動しつつ試行錯誤を繰り返しながらの共同作業であろうから、演者が台詞を自分なりに咀嚼して朗誦するだけでなく、演者にあわせて台詞を構築するところもあると思い、さらに、そこに現代日本における上演にあわせての日本語の造型加工作業が加わるので、個人訳の大胆さや冒険性、そして繊細さやセンスの良さなどが前面に出ないうらみがあるように思う。やむをえないことだと思いつつ。
Last but by no means least
公演後のアフタートークでは誰も触れなかったのだが、デイヴィッド・テイラー氏の出演はどう考えるのか。テイラー氏というよりもテイラー先生と呼ぶほうが私にはらくなのだが(非常勤で英語を教えてもらいに来ている)。ある日、英文研究室でテイラー先生から、今度、カクシンハンの『ヴェニスの商人』公演に出演するのだといわれ、さらに役どころは、ポーシャの侍女ネリッサだと言われ、こちらは完全にダブル・テイク状態。ああ、そうですか、それはよかったですね、と、紋切り型の答えしかでてこなかった。しかし、よく考えると、え、ネリッサ!? 英文研究室の助教もテイラー先生と話して、公演のチラシももらったようだったから、テイラー先生、ネリッサ役で出演すると言っていなかったかと尋ねてみた。助教はシェイクスピアが専門ではいが、『ヴェニスの商人』は知っている。ええ、ネリッサだと言っていました。と、それを聞いて、私は、ここではじめて驚いた。ええ~、ネリッサ? なんで?
カクシンハン公演では男が女を演ずることなど、あたりまえのことだが、テイラー先生がネリッサを演ずることには、個人的に違和感があった。
公演を観た人にテイラー・ネリッサについて聞いてみたら、ああいうおばさんはいる。そんなに違和感はなく、むしろ面白かった、と。
しかしポーシャの侍女ネリッサは、彼女自身、グラシアーノと結婚するので、おばさんではないとずっと思っていたので、ネリッサがポーシャよりも歳が上ということは想像を絶していた。これでは『ヴェニスの商人』というよりも、『ロミオとジュリエット』のジュリエットと乳母みたいなもので、そうなると違和感マックス。乳母がロミオの友人と結婚したらおかしいでしょう。実際、テイラー・ネリッサは、英語で台詞をいうし(字幕は出るが)、どうなっているのかと違和感マックス。
彼女と結婚することになるグラシアーノが海坊主だったので、ああ、これがネリッサ/テイラーの旦那になる男か、これでテイラー先生と抱きあっていたら、海坊主どおしの(テイラー先生は禿げていはいないが、髪の毛は薄く手、頭部は海坊主に近い)、そう海坊主のおっさんずラブではないかと思った。たしかにおっさんずラブであることはまちがいない。そこにアントニオとバッサーニオとのゲイ関係の反復がみられるといえば、そうだが、それでいいのだろうか。
あとカクシンハンに出演する俳優はみんな芸達者であって、演技のレヴェルがきわめて高い。そんななかで、ただつったっていて英語の台詞をいうだけのテイラー先生には、違和感がある。実は、テイラー先生も芸達者であることは知っているが、今回はギター演奏だけに抑えているのだが、おっさんずラブを強調するためにも、もっと演技してもいいのではないかと思った。
実際、テイラー先生には英文研究室主催のイングリッシュ・キャンプでは演劇関係のレクチャーをお願いしていたが、シェイクスピアからベケットの芝居まで、その見どころや魅力、そして意味を自身の演技をまじえて聴衆(学生たち)を巻き込むかたちで語るさまは圧巻だった。教室の端っこで聴講していた私は、シェイクスピアについてならまだしも、ベケットをあそこまでわかりやすく、しかもその魅力を伝えることができる講義はめったに、いや、まずないと感銘をうけたことを記憶している。
テイラー先生は、カクシンハンの催し物に登場するようで、そこで、魅力的なレクチャーをしているのだろうと思うが、今回の公演、もう少しはじけてもよかったのではないかと、思った。ちなみにカクシンハン公演をみた英文研究室の助教二人にとっては公演は素晴らしかったということだった。