2018年12月31日

レコード大賞

昔、イギリスから帰ってきて、たとえば昨年のレコード大賞は誰がもらったのかと聞いたとき、たまたま聞いた知人(といっても年配の人が多かったが)は、誰も知らなかった、というかレコード大賞について関心がなかった。最近のことではない、ずいぶん昔のことだが、そのころから、レコード大賞というかレコード大賞授賞式そのものが国民的関心事ではなくなったということを実感した。

かつてはレコード大賞授賞式は紅白歌合戦の前に放送され、そのあと午後9時から紅白歌合戦がはじまり、両番組は大晦日の国民的行事というような地位を誇っていた。レコード大賞を受賞した歌手とかグループが、そのあと紅白に出演するということがふつうにおこなわれていた。それが紅白歌合戦が午後7時はじまりとなって、午後9時まではレコード大賞授賞式と紅白歌合戦が視聴率を奪い合っていた。やがて放送日をずらしたにもかかわらず、紅白歌合戦の恒常的人気とはうらはらにレコード大賞については、関心が薄れていっただけでなく(テレビで歌番組が減ったということもあるのだろうが)、審査とか評価をめぐって黒いうわさなどが出てきて、賞の公正性にも疑念がもたれるようになってきた。それが昨今であったように思う。

今年はDAPUMPの『U.S.A.』が本命とみられていたのだが、乃木坂462年連続で受賞した。受賞曲は『シンクロニシティ』。DAPUMPの『U.S.A.』は大ヒットしたが、カバー曲だから大賞はなかったといわれている。

しかし『U.S.A.』は、優秀作品賞に選ばれている。ということはレコード大賞の審査対象は「優秀作品賞」に選ばれた作品とするというルールがあるようなので、カバー曲だからだめというのは理由にならないだろう。カバー曲はだめという場合、最初から枠外の作品を最優秀作品賞に選ぶのもおかしい。カバー曲はだめというのは、暗黙のルールなり、表に出ない内規のようなものか。しかし審査に内規がある場合、それは公正な審査とはいえない(女子受験生を不合格にした東京医科大の内規みたいなもので、内規がある審査は公正ではない)。カバー曲ではだめなら、特別賞のようなものをもうけて、その功績を顕彰するというような配慮があれば、誰もが納得するだろうが、不透明な審査でレコード大賞からはずすというのは、レコード大賞の悪質さ愚劣さを如実に物語るものだろう。

いい迷惑なのは乃木坂46であろう。受賞曲『シンクロニシティ』なんて、誰も聞いたことがない曲だ。乃木坂46が悪いわけではないが、乃木坂46の関係者が裏で暗躍したのではないかと思われてしまう。決して乃木坂46の責任ではないのに、大賞受賞そのものが、汚れたものに思えてしまうのは、乃木坂46ファンにとっては残念なことにちがいない。

ちなみに乃木坂46の熱心なファンではない私は、バナナマン司会の『乃木坂工事中』で、川後陽菜の卒業をはじめて知って衝撃を受けた。今年も西野七瀬をはじめとする有力メンバーの何人か卒業することは知っていた、川後陽菜の卒業は知らなかった。う~ん、ファンだったのに。有力メンバーがやめていくなかで、これからは彼女の時代だと期待していたのだが。残念。

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2018年12月12日

エンパス

125日のテレビ朝日の『相棒』をみていて驚いた。エムパス(エンパス)が登場していた。私の理解では、エムパスというのはテレパスと同様、SF・ファンタジーの世界だけにしか存在しないと思っていたからだ。


ただ、エンパスは実際に存在していると思われている――そんなものは存在しないと私は思うのだが。いっぽうテレパス(テレパシー能力がある者)は、たぶん、存在しているかどうかわからない。これに対してサイコパス(精神病質社)は、どこにもいるらしい。同じ「パスpath」でも、テレパスは超能力者で、ほんとうにいるかどうかわからない。サイコパスは性格であるようなので、どこにでもいる――たとえ数はすくなくとも。エンパスは、その中間みたいで、相手の気持ちを理解したり同調あるいは感情移入できる超能力なのだが、奇跡的に存在するというよりも、一定数いるらしい――繰り返しになるが、私はそんなものは信じないが。


『相棒』では、ある人物が、なぜ、その場にそぐわない笑みを浮かべたのか、その答えを推測するなかで、終盤、その人物は、エンパス(という言葉を使ってはいなかったが)だったという驚くべき展開になった。つまり自分ではなく他人の気持ちがわかり、その気持ちが思わず表情に出たということだった。


しかし、推理ドラマでエンパスというのは、やっかいな存在となろう。なぜなら、自分の気持ちではなく他人の気持ちと同調するために、本人に動機はない。それがその人物が隠していた裏の顔ということはなく、本人と無関係な他人の顔というか他人の気持ちに反応というか感応しただけというのなら、推理や捜査が攪乱されるしかないだろう。


今回は犯人ではなかったが、犯人がエンパスだったらたいへんなことになろう。犯人は動機がなくなる。他人の怒りや殺人衝動に同調しているのであって、本人に動機も意思もない。となれば自分自身と直接関係ないから模倣犯になる。あるいはなにもわからない子供が殺人計画書をみて、そのとおりに殺人をおかすようなもので、推理の糸口がつかめずに、たいへんなことになろう。


では、犯人あるいは犯人側の人間ではなく、刑事とか探偵といった側についたらどうなるのだろう。もし本物のエンパスなら、たとえば人間の死をみんなで悼んでいたところ、特定の人物だけが、その場にそぐわない笑いの感情にとらわれていたら、エンパスは、それを見抜くというか肌で感ずるだろう。推理もなにもない。エンパス探偵は、直観的に本能的に犯人を見抜いてしまうのである。


しかしそれだけではない。エンパスは加害者のみならず被害者にも同調する場合もあろうし、加害者と被害者が対峙したときに、どちらに感情移入するのだろか。頭がくらくらすしてくるので、エンパスのような超能力者は、刑事ドラマ・推理ドラマには使わないほうがいいのでは。せいぜい模倣犯どまりでは?


付記:いま大学では『十二夜』を読んでいるが、この作品を読むたびに、蜷川演出の『十二夜』を参考にする。彩の国さいたま芸術劇場での公演は、DVD化されているのだが、『十二夜』は2000年頃の古い上演で、主役の男装するヴァイオラを演じているのは女優は富樫真。その男装は、なかなかの男前なのだが、富樫真自身、あまり映画とかテレビに出ないので、一般的な知名度はすくないかもしれない。園子音監督の映画に出演していたのは印象に残っているが、それ以後、私自身は姿をみかけなかったのだが、今回の『相棒』に出演していた。まったく偶然見ただけだったが、勝手になつかしい思いがした。もっとテレビドラマに出演してもよいと思う(というか、すでに出演されているのかもしれないが)。ちなみに彼女は、エンパスの役ではなく、犯人役だった。

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2018年12月08日

『ジュリアス・シーザー』

NTLナショナル・シアター・ライブで、ナショナル・シアターではなく、ニコラス・ハイトナーのブリッジ・シアターでの、ハイトナー演出のシェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』をTOHOシネマズ日本橋でみた。


『ジュリアス・シーザー』はシェイクスピアの作品のなかでものすごく面白い作品かというとそうでもないかもしれないが、現時点でみると、これほど面白く、考えさせられる作品はない。たとえば、ハイトナー演出のジュリアス・シーザーは、まるでトランプである。実際、ポピュリズムによって人気を獲得して支配者として君臨するようになるという点で、トランプはシーザーを照らす光あるいは鏡のようだし、シーザーもまた、その独裁者的性格と利己的な小物ぶりとの共存によってトランプを照らす光あるいは鏡にもなる。


ただトランプとの違いもある。シーザーを暗殺した人々は、ある意味、シーザー派の人びとでもある。それがシーザーの暴走を阻止しようと立ち上った。いっぽうトランプ派にはトランプの暴走を阻止するどころか、トランプ以上に暴走する支持者がでてくるしまつで、歯止めとなる正義の士は姿かたちもない。


となるとシーザー=トランプという関係は、私たち日本人にとってなじみのあるもうひとりのシーザーに道を譲ることになるだろう。シーザー=カルロス・ゴーンという関係に。


現在の日本における状況を考慮すると、ジュリアス・シーザーは、カルロス・ゴーンである。カルロス・ゴーンも、私腹を肥やし、強大な権力を手にしたことで、彼の手下たちの裏切り、とりわけブルータス西川の裏切りによって告発されることになった。いまでこそ、検察特捜の証拠捏造の国策捜査として国内からの批判も頭をもたげ、また国外からは被疑者推定無罪の原則に反する中世的非人道的尋問に対して非難が寄せられ、風向きが一方的ではないのだが、それ以前にはメディアは、こぞってゴーンを悪者に仕立て上げることに余念がなかった。


当初から、自分の会社のことではないかのような論評をくりかえす評論家的西川社長には誰もが違和感を抱いたのだが、いまやこの西川、フランス側からはブルータスといわれているのだ。うかうかしているとゴーン一派の巻き返しがあって、ゴーンが、莫大な役員報酬で私腹を肥やしていたのではなく、その財産を日産の従業員ひとりひとりに譲渡するような遺言を残していたなどと言い出す奴が出てきてもおかしくない。日産幹部は、ただ私怨によってゴーンを陥れようとしたにすぎないと、そんなふうに風向きが一挙に変わることもありえるのではないか。


まさにトランプ、ゴーンと比較されうるシーザー。『ジュリアス・シーザー』こそ、私たちの時代の同時代演劇そのものなのである。

ハイトナーの演出は、劇場の平土間から座席をいっさいなくして、その中央に即席の舞台を設置して、周囲を観客がとりかこむ。観客はローマの市民として参加することになる。観客は、平土間にいるなら、いやおうなくローマ市民となって政治劇に巻き込まれる。まあ、収録もあるだろうから、ある程度、演技のできる観客を最初からそこに仕込んでいたいのか、まったくの行き当たりばったりの収録だったのかわからないが、よくある試みとはいえ、面白い。


で、そのとき最初の狂騒的場面が終わったあと、ブルータスが、女性と話し込む場面がつづく(なお、ブルータス役のベン・ウィッショーは、映画でみるよりも、舞台でみるほうが存在感がある)。このとき、ブルータスは、あんなふうに奥さんとじっくり話し合っていただろうかと、いぶかったが、ブルータスが話している相手は妻のポーシャではなくて、キャシアスだった。つまり、今回の上演ではキャシアスは女性が演じていることがわかった。


シェイクスピアの作品で登場する女性は基本は3人である。女性役に使う少年俳優が3名と限られていたからだが(なお4人のとのときもあるが、その場合、4人目は大人の俳優が演じてもよいようなところがある)、その数少ない女性役のなかでも、『ジュリアス・シーザー』における女性は、ブルータスの妻ポーシャとシーザーの妻カルパーニヤのふたりだけで、三人目の少年俳優は、少年として後半に登場する。この少年も、ポーシャかカルパーニヤを演じた少年俳優が演ずることもできる。後半、女性は登場しない。女性/少年俳優の出番は、他の演劇にくらべると極端に少ない。まあ、男性の政治闘争の演劇に女性が登場する余地はすくないということになるが、これを現代に置き換えた場合、女優の出番が少なくなるのは惜しいし、さらにいえば現代は女性の政治参加は少ないとはいえ、それでも古代から比べれば女性の参加の機会は多い(現在、英国の首相は女性だし、アイルランドの大統領は現職は男性だが、前の代は女性だった)。現代なら暗殺に加わったメンバーに女性がいてもおかしくないというか、いないほうがおかしいだろう。そういう意味で現代に置き換えた『ジュリアス・シーザー』はまた、古代ローマとシェイクスピア時代と現代におけるジェンダー関係の変遷を意識させてくれる。


こういうとき、つまり本来なら古代ローマの出来事をアダプテーションする場合、どうしても引き算で考える、つまりネガティヴにみなしがちである。たとえば原作の複雑さを単純化しているとか、原作のよさを失っているとか。しかし、そのようなアダプテーションは、シェイクスピアの原作そのものが行なっていることであった。古代ローマの政治劇としてのシェイクスピアの原作があり、それを現代に置き換えたアダプテーションとしての上演があるという関係は単純すぎる。つまりシェイクスピア劇そのものが、古代ローマの政治劇をシェイクスピアの時代の演劇として上演していたのだ。


たとえば『ジュリアス・シーザー』はアナクロニズム(時代錯誤)で有名で、古代ローマなのに時計が時を告げ、ローマ人たちは、袖をひっぱられるような、つまり袖のある服を着ていた(これは時代錯誤)。しかし、それはシェイクスピアや同時代の人々が古代ローマの習俗について無知だったということもあろうが、同時に、まぎれもなく古代ローマの政治劇でありながら、同時に、現代における政治劇でもあるという二重性を強く観客に意識させるために時代錯誤的設定を意図的かつ積極的に活用したとみるべきだろう。つまりシェイクスピアの原作そのものがアダプテーションでもあったのだ。


そしてそれはアダプテーションを積極的に活用し、アダプテーションが付加的な価値を生み出すと考えた結果でもあるのだろう。


アダプテーションの場合、引き算で考えると、どうしても現代化したためにしわ寄せがくるところに注目しがちである。今回の上演では、暗殺手段として、短剣ではなく、拳銃を使った。短剣とちがって、拳銃なら女性も使うことができる。暗殺者のなかに女性メンバーがいてもおかしくない。だが、それによるしわ寄せも来る。劇の後半、敗北が決定的になった時点で、ブルータスは、ローマ人にふさわしく自害しようとする(ローマ人は戦いに負けると自殺した――モンテーニュは『エセー』のなかでこれついて触れ、ローマ人のこの自害は自分を尊敬するためだと語っている)。ブルータスも自害するために、召使や奴隷たちに自分を殺すよう命ずる。


古代ローマで自害といえば短剣で自分を刺すことである。ただ短剣での自害は、なかなかむつかしい。どんなに死ぬ覚悟ができていようと、短剣が体に刺さりはじめると、ためらったり、身体がショック症状を起こして致命傷とならないこともある。シェイクスピアの『アントニーとクレオパトラ』で、敗北したアントニーは、自分の奴隷に命じて、アントニー自身を剣で刺すように命ずる場面がある。奴隷はそんなことはできないといって、その剣で自分自身を刺してはてる。やむなくアントニーは自分の手で自分自身に剣をつきたえるが、中途半端に終わり、負傷したまま、クレオパトラが身を寄せる霊廟に引き上げられ、そこで果てるというぶざまな死に方をする(このぶざまさは、シェイクスピアが意図的に強調したとみることもできる)。


したがって原作でブルータスが、召使や奴隷に対して自分を殺してくれと頼むのは、決して理不尽なことはない。自害するのは、むつかしいからだ。ところが今回の上演では、剣や短剣ではく、拳銃が使われる。つまり短剣で自害はむつかしいが、拳銃なら自害は簡単である。だからブルータスは、わざわざ、召使に頼むまでもない。拳銃なら、簡単に、一気にけりをつけられる。誰かに頼む必要もない。そのため原作どおり、剣でなく拳銃を渡して、それで撃ってくれと頼むブルータスの行為は、すこしでも死の瞬間を引き延ばそうとする臆病者のそれにみえてくる。だが、そうなってしまっては、ブルータスの潔さという原作の設定が、だいなしであろう。短剣ならよかったのだが、ピストルなら、ブルータスの行為が矮小化されてしまう。


だが、これは原作と比較して引き算で考えた場合である。ポジティヴに解釈することができる。ブルータスは周囲の者に拳銃を渡そうとし、これで自分を撃ってくれ頼む。それは彼が自害ではなく周囲の者による処罰を望んでいるようにみえる。実際、それは彼が最終的に中心となった暗殺計画と、その後のローマ帝国軍との戦闘における作戦の失敗の責任を、自己判断ではなく他者による審判に付したということであろう。


これはブルータスの行動に一貫してみられる特徴である。彼は自己判断ではなく他者判断に自己の行動と評価をゆだねている。彼は自己中心的(エゴセントリック)ではなく他者中心的(アロセントリック)である。それは利己的な独裁者を憎み、民衆の判断と審判を尊重した共和主義者の、正義と大義に身を捧げる高貴な精神のありようそのものであるといえる。だからこそ、アントニーが劇の最後で、他の者は私利私欲によってシーザー暗殺に走ったのだが、ブルータスだけは公的な正義のために立ち上がったのだと述べるのは、たんに敗死した敵に対するリップサーヴィスとだけで片付けられることではないだろう。それは真実を言い当てている。


そしてこの真実は、たんにローマ人は敗北すると自害する習慣だったとか、短剣での自害には相当な覚悟というか自制力が必要だから、他人の力を借りるしかないと考えているときには、つまり古代ローマの戦争として原作の舞台に接しているときには、みえてこない特質だろう。このことは、私自身、シェイクスピア作品の、ブルータスのこの側面に、今回の演出をみて、はじめて、気づいたのであって、前から考えていることで、今回の舞台を判断し、ブルータスについての洞察に至ったのではない。アダプテーションを見くびってはいけない。

posted by ohashi at 18:54| 演劇 | 更新情報をチェックする

2018年12月06日

『ヴェニスの商人』カクシンハン公演

カクシンハン版『ヴェニスの商人』


この前の公演『冬物語』は、いつもながら短期間の公演で、どうしても日程があわず行くことができず、残念な思いをしていたので、今回の公演は、何としても観てみたいと楽しみにしていた。また期待にたがわぬ素晴らしい公演であった。


とはいえこの記事をネットに上げる頃には、公演はすでに終わっていて、宣伝にもなんにもならないのだが、公演期間が短いのを残念に思いつつ、つまりもっと長く公演してもいいのにとつくづく思うのだが、今回も、その見事なパフォーマンスについて報告させてもらいたい。


原宿vacantの二階フロア全体を使う空間で、細長いホールの二つの長辺に観客席を設けての上演は演者と観客との距離を縮め親密な関係をつくりだすことに成功している。親密だが、同時に、変な緊張感のないリラックスできる空間は、ドリンク(アルコール・ドリンクを)を提供することによって目指そうとしているように思われた。もちろん、それはすばらしいことだし、外国の劇場スタイルでもあると思う。ただし、私は糖尿病の頻尿なので、観劇前には絶対に飲料は口にしないため、せっかくのサービスを利用できなくて申しわけないとしかいえないのだが。


なおポケット版『ヴェニスの商人』とうたっていたので、省略して長くて1時間30分くらいのものかと思っていたら、休憩をはさんで2時間45分くらいの上演で、しかもアフタートークを聞いていたので、最終的には3時間以上、その場にいたことになる。


その開演15分前くらいから、演者が黒装束で黒い仮面をつけて登場し、白い大きな紙を手で破ったりちぎったり丸めながら、いろいろなものをつくって、舞台に置くと言うか、捨てている。ただの紙屑にみえるのだが、折り紙のような具象的なオブジェのようにもみえる。そるしたものを、演者が全員、舞台というか床の上に置くというか捨てていく。いったい何をやっているのかと思っていると、芝居が、その紙きれや紙クズや、折り紙のようなオブジェが散乱した床のうえで始まる。すると、いつしか、その紙クズの存在を忘れるというか気にならなくなるのだが、どこかとはっきりいえないのだが、その紙屑の意味がわかってくるから不思議である。


そう、『ヴェニスの商人』の世界は、お金に縛られている世界である。シェイクスピアの頃なら、そのお金とは金貨なのだが、現代でお金といえば、紙幣という紙切れであり、紙切によって私たちは支配され命すらも左右されるのである。いや、紙幣というお金ばかりだけではない。『ヴェニスの商人』では、まさに証文が、紙が、人の命を奪う。また証文に代表されるような書類や証書、すべてこれ紙が人間を支配するのである。


そもそも紙である。岩とかコンクリートといった固体とは異なり、紙は、はかないものだが、泡のように一瞬にして消滅することはなく、不用になっても消えることはなく、ぶざまな姿を、しかもみるからに屑というか紙屑となってさらす。そのぶざまさが、紙の場合、中途半端で存在感が希薄で、なぜこんなものに右往左往させられるのか、虚無感にすら襲われるのだ。まさに、混沌と紙一重のあやうい現実を彷彿とさせる紙の支配と廃墟。おそらくそれはパフォーマンスの形而上学ともつながっているのかもしれないが、無意味なおあそび、わるふざけとみえるものなかに、深淵をかいまみせてくれる、優れた仕掛けだった。カクシンハン公演は、知的刺激いや知的衝撃を必ず用意してくれる――予想にたがわず。


開演前に気づくことはほかにもある。ホールに入ると、天上からいくつか抽象的なオブジェがぶらさげてある。無機的なオブジェだが、同時におしゃれな感じもして、照明装置に連動しているなにかだろうと思ったのだが、劇中で、つりさげられていたオブジェが下がってきた。けっこうたくさんの数のオブジェと思っていたら、三つしかなく、その三つが、箱選びの場面での金銀銅のみっつの箱になったというか、見たてられた。しかもよくみると、それはクッションの部分を取り去ったパイプ椅子ではないか。カクシンハン公演ではおなじみのパイプ椅子。それに気づかなかった私はうかつだったが、紙とパイプ椅子(ただし骨組みだけの)、そしてパフォーマンスのありようは、どこかで、つながっているはずである。


今回(前回『冬物語』は見ていないのだが)、少人数で何役をこなすこともあってか、見ている側が混乱しないように、黒い仮面をつけて顔がわからないようにして登場する人物がいた。主役クラスの俳優が、端役も演ずるとき、顔をみせると、観客が混乱することをふせぐための措置だろうが、黒い仮面の人物は、同時に、演劇表現にもメリハリをつけることになって仕掛けとしてはかなり洗練されたものと、これは率直に感心した。


演出プランとしてはアントニオとバッサーニオの間に同性愛的関係を措定していることは、現代の『ヴェニス商人』の演出としてはマストといっていいことかもしれない。またシャイロックに対しては同情的である。私が、もの心着いた頃に読んだ本には、シェイクスピアはユダヤ人高利貸しシャイロックをただの悪役としてつくったのだけれども、劇作家シェイクスピアの才能は、意図しないままに、シャイロックを人間として造型したと書かれていた。昔は、なるほどと思っていたが、現在の私は、シェイクスピアは最初からシャイロックを同情すべき人物として提示していたと考えている。カクシンハンのシャイロックは、シェイクスピアのオリジナルな意図にもそうものである。


借りた金を返せないときには肉一ポンドを取るという証文がある。これは本来なら利子をとって貸し付けるユダヤ人高利貸しのシャイロックが、アントニオのたっての願いだから、また今後の友情関係を築くためにも利子なしで金を貸すのだが、利子なしだと同業者から批判される恐れがあるために、名目上の利子として肉一ポンドを担保にしたという意味がある。実際、人間の肉一ポンドは、まさに名目上のものにしかすぎないのであって、実際に人肉に商品価値などない――シャイロックがいうとおりである。ところが、アントニオはシャイロックから借りた金が返せなくなるため、裁判になると、その名目上のものが、現実的意味を帯びるようになり、アントニオの命を奪うものとなる。


このシャイロックの証文通りという主張をつきくずのは、いまはやりの「ご飯論法」なのだが(「朝ごはんを食べましたか?」という質問に「(朝、パンは食べたけど、ごはん=米飯は)食べていない」と答えるようなやり方。これは文字通り/証文通りを言い逃れの理由にしている)、実は、シャイロック自身、証文通りを繰り返すことによって、みずからも「ご飯論法」に頼るところがあって、自縄自縛状態になる。そして最後には全財産を失い、キリスト教に改宗させられる。


マイケル・ラドフォード監督の映画『ヴェニスの商人』の最後では、アル・パチーノ扮するシャイロックは、ユダヤ人の教会から締め出され、居場所を失って行き暮れる姿をさらすのだが、カクシンハン公演では、改宗させられたシャイロックは、ヴェニスの軽薄な白人キリスト教徒の仲間に加わって、本来のキリスト教徒以上に、キリスト教徒となるさまが暗示されている。河内大和のシャイロックは、今回の上演において、予想を裏切ることのない熱演なのだが、この結末は、河内大和ならでのはの衝撃性を備えていた。とはいえ、シェイクスピア時代のヨーロッパのユダヤ人は、基本的にキリスト教改宗者であって、キリスト教徒として活動している(隠れユダヤ教徒だったかもしれないが)。それが歴史的観ても現実なので、ユダヤ人をキリスト教徒に改宗させたキリスト教社会は、むしろいつ爆発するかもしれない爆弾をかかえこむことになったともいえる。カクシンハンの公演におけるシャイロックの運命は、斬新であると同時に歴史的に見て納得のいくものであるという、意味深い二面性を帯びていた。


隠れユダヤ教徒だったかもしれないが改宗キリスト教徒となったシャイロックの姿は、自信が隠れカトリックだったかもしれないが、プロテスタントとして生きるシェイクスピアの姿とも重なる。そして実際のところ、カトリックは、その二枚舌戦略も含め、信仰をまもるために欺くことを認めていたのであって、プロテスタントをあざむきつつ、あるいはプロテスタントのふりをしつつ活動していた隠れカトリックのシェイクスピアの姿は、シャイロックの二重性と重なるのである。


実際、シェイクスピアの肖像画のひとつ、チャンドス・ポートレイトで描かれた劇作家の顔は、ユダヤ人の顔である。ユダヤ顔がどういう顔なのかとしりたければ、チャンドス・ポートレイトのシェイクスピアの顔をみればいい。あれが典型的なユダヤ人の顔である。そしてもしチャンドス・ポートレイトがほんとうにシェイクスピアを描いているのなら、シェイクスピアはユダヤ人にそっくりの男か、さもなければユダヤ人である。



実は、今月11月には、シェイクスピアの『ヴェニスの商人』のもうひとつみていた。明治大学での学生公演――正確には、第15回明治大学シェイクスピアプロジェクトにおける『ヴェニスの商人』公演である。こちらも素晴らしい公演だったが、その台詞を聞く限り、明治大学の学生諸君の翻訳よりも松岡和子氏の翻訳のほうに、正直言って、一日の長を認めざるをえない。カクシンハン公演の『ヴェニスの商人』には心打つ台詞が多かった。


ただしこういうと明治大学の学生諸君の集団(コラプターズと名の集団)の翻訳が下手だと受け止められては困る。すぐれた翻訳であることは誰もが認めることと思う。ただ、たぶん翻訳コンセプトが違う。松岡さんの翻訳は、シェイクスピアの作品の忠実な翻訳である――もちろん上演を考慮してのものだろう。いっぽう明治大学のコラプターズの翻訳は、たんに原作を翻訳するというだけではなく、実際の上演と連動しつつ試行錯誤を繰り返しながらの共同作業であろうから、演者が台詞を自分なりに咀嚼して朗誦するだけでなく、演者にあわせて台詞を構築するところもあると思い、さらに、そこに現代日本における上演にあわせての日本語の造型加工作業が加わるので、個人訳の大胆さや冒険性、そして繊細さやセンスの良さなどが前面に出ないうらみがあるように思う。やむをえないことだと思いつつ。


Last but by no means least

公演後のアフタートークでは誰も触れなかったのだが、デイヴィッド・テイラー氏の出演はどう考えるのか。テイラー氏というよりもテイラー先生と呼ぶほうが私にはらくなのだが(非常勤で英語を教えてもらいに来ている)。ある日、英文研究室でテイラー先生から、今度、カクシンハンの『ヴェニスの商人』公演に出演するのだといわれ、さらに役どころは、ポーシャの侍女ネリッサだと言われ、こちらは完全にダブル・テイク状態。ああ、そうですか、それはよかったですね、と、紋切り型の答えしかでてこなかった。しかし、よく考えると、え、ネリッサ!? 英文研究室の助教もテイラー先生と話して、公演のチラシももらったようだったから、テイラー先生、ネリッサ役で出演すると言っていなかったかと尋ねてみた。助教はシェイクスピアが専門ではいが、『ヴェニスの商人』は知っている。ええ、ネリッサだと言っていました。と、それを聞いて、私は、ここではじめて驚いた。ええ~、ネリッサ? なんで?


カクシンハン公演では男が女を演ずることなど、あたりまえのことだが、テイラー先生がネリッサを演ずることには、個人的に違和感があった。


公演を観た人にテイラー・ネリッサについて聞いてみたら、ああいうおばさんはいる。そんなに違和感はなく、むしろ面白かった、と。


しかしポーシャの侍女ネリッサは、彼女自身、グラシアーノと結婚するので、おばさんではないとずっと思っていたので、ネリッサがポーシャよりも歳が上ということは想像を絶していた。これでは『ヴェニスの商人』というよりも、『ロミオとジュリエット』のジュリエットと乳母みたいなもので、そうなると違和感マックス。乳母がロミオの友人と結婚したらおかしいでしょう。実際、テイラー・ネリッサは、英語で台詞をいうし(字幕は出るが)、どうなっているのかと違和感マックス。


彼女と結婚することになるグラシアーノが海坊主だったので、ああ、これがネリッサ/テイラーの旦那になる男か、これでテイラー先生と抱きあっていたら、海坊主どおしの(テイラー先生は禿げていはいないが、髪の毛は薄く手、頭部は海坊主に近い)、そう海坊主のおっさんずラブではないかと思った。たしかにおっさんずラブであることはまちがいない。そこにアントニオとバッサーニオとのゲイ関係の反復がみられるといえば、そうだが、それでいいのだろうか。


あとカクシンハンに出演する俳優はみんな芸達者であって、演技のレヴェルがきわめて高い。そんななかで、ただつったっていて英語の台詞をいうだけのテイラー先生には、違和感がある。実は、テイラー先生も芸達者であることは知っているが、今回はギター演奏だけに抑えているのだが、おっさんずラブを強調するためにも、もっと演技してもいいのではないかと思った。


実際、テイラー先生には英文研究室主催のイングリッシュ・キャンプでは演劇関係のレクチャーをお願いしていたが、シェイクスピアからベケットの芝居まで、その見どころや魅力、そして意味を自身の演技をまじえて聴衆(学生たち)を巻き込むかたちで語るさまは圧巻だった。教室の端っこで聴講していた私は、シェイクスピアについてならまだしも、ベケットをあそこまでわかりやすく、しかもその魅力を伝えることができる講義はめったに、いや、まずないと感銘をうけたことを記憶している。


テイラー先生は、カクシンハンの催し物に登場するようで、そこで、魅力的なレクチャーをしているのだろうと思うが、今回の公演、もう少しはじけてもよかったのではないかと、思った。ちなみにカクシンハン公演をみた英文研究室の助教二人にとっては公演は素晴らしかったということだった。

posted by ohashi at 11:32| 演劇 | 更新情報をチェックする