2018年11月30日

『ボーダーライン ソルジャーズ・デイ』

『ボーダーライン ソルジャーズ・デイ』パノス・コスマトス監督2018

以前、このブログのどこかに書いたと思うのだが、私の姪が小学生の頃、学校全体で日生劇場に演劇を観に行ったという話をしてくれたときのこと。その時、姪は、その時、通った有楽町って、こんな感じだったと付け加えたので、私は唖然として、腰から力が抜けそうになった。え~、***ちゃん、有楽町って、こんな感じだったって? 何を言っているのですが、ここが有楽町だから、そんなのあたりまえでしょう、と。


実際、そのとき銀座から有楽町へと歩いてきたから、まだ銀座にいると思ったのかもしれないが、歩きながら、私の姪は、これは、どこどこのブランドの店だというので、ふとそのブティックをみてみたら、その店の、どこにも日本語の表示はなくて、店のロゴは言うに及ばず、その他、すべてがローマ字表記なので、小学生の姪が、いったいどこで、判断したのだろうか。ひょっとして、すごく頭がいい子ではないかと思った矢先、ただのバカだとわかってがっかりしたことは鮮明な記憶として残っている。


しかし、小学時代の姪のことはバカにしている場合ではない。映画『ボーダーライン ソルジャーズ・デイ』をみていたら、最後の場面からエンドクレジットにかけて、音楽が、同じ、重々しいフレーズを延々と、このまま永遠に続くのかと思われるくらいに、繰り返してゆくので、これは、まるで、最近みた、ニコラス・ケイジ主演の映画『マンディ』と同じじゃないか。あれは映画音楽が、ヨハン・ヨハンソンの遺作のひとつなのだが、あの映画と、『ボーダーライン』が、私の頭のなかで同列に置かれた。


と、つぎの瞬間、『ボーダーランド ソルジャーズ・デイ』のエンデョクレジット中に字幕が出た。ヨハン・ヨハンソンを追悼する字幕が。ということは、ふたつの映画の映画音楽は、同じ、ヨハン・ヨハンソンだったのか。気づくのが遅すぎる。これは有楽町に来て、前に来たことのある有楽町はこんな感じだったと言った私のアホな姪と同じじゃないか。ボッート映画観てんじゃないぞ、と、本当に誰かに言われる気がした。


しかし『ボーダーランド ソルジャーズデイ』の映画音楽は、ヒドゥル・グドナドッティル (Hildur Guðnadóttir)が担当していて、ヨハン・ヨハンソンではないことに気づいたが、彼女は、ヨハン・ヨハンソンの弟子筋らしい。前作の『ボーダーライン』の映画音楽は、ふたりがで担当している。だから今回は、ヨハンソンの死によって彼女ひとりで担当することになったのか、よくわからないが、師匠の音楽をしっかり継承して、反復のパレードの状態となっている。


で、そうなると『マンデー』との関係はどうなるのか。ひとつのフレーズを永遠につづかと思われるくらいに繰り返させられると、その機械的な単調さを打破しようと、あるいは船酔い状態となって、幻覚をみはじめるような気がする。そのため基本的にC級映画の『マンディー』が、不思議な神秘的オーラに包まれるような気がするし、いつのまにか芸術映画の域に到達しているような錯覚すらおぼえるのだが、『ボーダーライン』も、『マンディー』の域に引き上げられるのだろうか。


あとはネタバレになるので多くは語れないが、あそこでああなるとは夢にも思えなかったし、またあそかでさらにそうなることも予測もつかなかったとだけ述べておこう。


それから、もうひとつ。前作『ボーダラーイン』(原題Sicario「殺し屋、刺客』というような意味らしい」)はドゥニ・ヴィルヌーヴ監督で、エミリー・ブラント演ずるところのFBI捜査官が、『オール・ユー・ニード・イズ・キル』の彼女を彷彿とさせる強い女性でよかったのだが、それも最初のうちだけで、最後には、こうした映画の紋切り型の展開となって、弱い女性となって終わるのは、残念だった。今回は監督も変わったので、前作をしのぐような作品になるとは思えなかったのだが、内容も、前作もタイトル(原題)とのずれがめだったが、今回はもっとずれているというか、枝葉末節のところでタイトルとつながるという変則的な、まあ焦点が定まらない映画となった。


CIAが誘拐する麻薬王の娘を演ずるイザベラ・モナーも、最初の方は、学園のクラスメイトをぶちのめす強い少女だったが、最後には泣きじゃくるだけの弱い女になるという、あいかわらずのパターンだが、彼女、今人気のある清原果耶になんとなく似ていて、実年齢は清原のほうが歳下だが、イザベラ・モナーのほうが一回り若くというか幼くみえる。それが救いか――なんの救いじゃ。


posted by ohashi at 17:57| 映画 | 更新情報をチェックする

2018年11月29日

『ヤング・マルクス』

ニコラス・ハイトナーの脚本・演出によるナショナル・シアター・ライブの2018年版の作品のひとつ、『ヤング・マルクス』をTOHOシネマズ日本橋に観に行く。ナショナル・シアター・ライブと銘打っているが、ハイトナーが作ったブリッジ・シアターのこけら落とし作品(新作)。


今のイギリスの若い世代にとって、マルクスといえば、『共産主義宣言』とロンドンにあるマルクスの墓くらいのイメージしかないとこのライブの冒頭でナレーターが語っていたが、それだけ知っていれば十分だろう。いまの日本の若者は、全部ではないとしても、マルクスといえば……。まあ若い世代に憎まれ口をいうのは大人げないのでやめておこう。


もっとも私としてもマルクスの詳しい伝記的事実は知らないので、そんなに威張れたものではない。また墓参りというか有名人の墓をみてまわる趣味はない私だが、それでも行ったことのある墓はあって、まずはシェイクスピアの墓。私自身が、ストラットフォード・アポン・エイヴォンに住んでいたので、トリニティー・チャーチのチャペルにあるシェイクスピアの墓は見に行った。そしてロンドンのハイゲイト墓地のマルクスの墓(オリジナルの墓ではなくて、巨大な頭部がつけられた記念碑になっている墓)。あと、その近くにあったジョージ・エリオットの墓(これは偶然だが)。私にとってイギリスに来たからには、シェイクスピアとマルクスの墓だけは、詣でておきたかった。


ブリッジシアターの舞台のほうは、イギリスに亡命しても、プロイセンのスパイに監視されつつ貧困にあえぎながら、下火になった革命運度の火を絶やさずにおくための努力、妻との離反、長男の死、そして家政婦との不倫を乗り越えて、家族の絆を強め、資本論執筆に傾倒していくさまを、二幕の喜劇仕立てのドラマとして、予想よりもはるかにうまくまとめていて感動はあった。


たまたま大学の授業でシェイクスピアの『アテネのタイモン』についての簡単な講義をしたばかりなのだが、マルクスは『アテネのタイモン』という、シェイクスピア作品のなかでもそれほど知られていない作品の読者でもあって、著作で引用しているのだが、『タイモン』のなかで語られる貨幣の意味や価値、そして貨幣への呪いは、マルクスの資本論のなかの考え方と、確かにシンクロすることを、この『ヤング・マルクス』のなかでマルクスが語る資本主義における世界観・経済観に耳を傾けながら、あらためて確信することになった。


マルクスによれば貨幣とは、あらゆるものを結び合わせると同時に、あらゆるもの切り離す。対象を、それ本来のコンテクストから切り離し、抽象的空間のなかで集わせること。切り離しと結合を同時にする普遍的な等価物、それが貨幣ということなのだが、ハイトナーのこの芝居では、マルクス自身、その利己的なありようと困難な状況のなかで、家族や友人たちとの絆を断ち切らざるをえないのだが、気が付くと、彼自身の努力と周囲の努力によって、切られた絆も復活し、質量ともにこれまで以上の人間関係を築くことになる。マルクス自身が、貨幣のように、すべてを切り離し、すべてを結びつける要となっている。それがこの芝居のあるい意味、意義深い、オチとなっているように思われた。


posted by ohashi at 22:55| 演劇 | 更新情報をチェックする

2018年11月23日

『ギャングース』


『ギャングース』は、青年コミック誌の人気作品(掲載は終了)の実写版ということだが、原作を読んでいない私のような者にも、じゅうぶん面白い映画だった。まあ基本は入江悠監督の作品だから見に行ったということだが、MIYAVIファンの女子大生から情報をもらい、入江監督作品だとわかったからでもあったのだが。


22年目の告白 -私が殺人犯です-(2017)のスタイリッシュな映像ではなく、むしろ『ビジランテ』(2017)の、あの埼玉の地方都市を舞台にその暗部を、三人の兄弟の、それぞれの生き方から運命にからめて描いた映画の延長線上にあるような気がした。『ビジランティ』の三兄弟は仲が悪いのだが、こちらの三人組はけんかはするが運命共同体である。それに篠田麻里子が出ている。『ビジランティ』では、篠田麻里子、こういう役がよく似合うと思ったのだが、今回は、出番が少ないのが残念だが、こういう役どころは、これからもつづけてほしいとは思う。


それはともかく、物語は、職なし・学なし・犯罪歴ありの少年院仲間サイケ(高杉真宙)、カズキ(加藤諒)、タケオ(渡辺大知)の3人が、犯罪組織の収益金を狙って窃盗をする「タタキ」で、その日その日をどうにか生きてきたが、たとえターゲットの事務所に侵入し、金目の物を盗むタタキ行為に成功しても、道具屋兼情報調達係りの高田君(林遣都)に、いつも儲けの大概を巻き上げられている、その彼らが……という展開。


原作が漫画とは知らなかったので、現代社会の暗部に踏み込むリアルな物語としてみた。おそらく、そのせいか、違和感というよりも緊張感のほうが先行することになった。もしコミックスだと知っていれば、彼ら三人組のやっていることは、危険なノリで片付けられてしまいのだが、コミックスだと知らないと、この三人のやっていることは危険すぎて驚く。


犯罪組織の収益金をねらうというのは、被害届を出されないから警察の追求を免れるということのようだが、警察の追求はなくても、ギャングの金を盗んで、ただではすまされない。その報復は、警察の追求の比ではない。ヤバすぎる。では、彼らに、そこまでする度胸はあるか、あるいはギャングを出しぬく知恵はあるかというと、映画でみるかぎり、知恵も慎重さもない、ポンコツ三人組である。さらにいえば、ギャング(映画ではヤクザよりも怖いといわれている「半グレ」集団)に対する、強烈な憎悪というか復讐心もない(この映画に登場する復讐心に燃えるトラックの運転手とは異なるのである)。これでよく、今日までみつからずに済んだと、ただただ不思議に思えてならない。というか結局、簡単にみつかって、追い詰められる。


「ギャング―ス」というタイトルはどういう意味なのか、映画の中では説明されなかったようだが、マングースが、ハブをやっつけて食べるように、ギャングを食い物にするマングースのような連中だからギャングースだという。しかし漫画なら、そのノリが作品の魅力となるかもしれないが、映画あるいは実写化した映画の場合、そこまでの勢いや狡知を彼ら三人から受け取ることはできないのである。むしろ、こんなことをしていたら、必ずひどいめにあう、ひどいどころか殺されるのじゃないかという思いが最後までつきまとう。【結果として、この物語が終わった時点で、彼らがギャングースとわかったということだろか。つまりこの映画の物語内で、彼らはギャングースでも何でもない】


リアルな物語として展開するかと思ったら、半グレの大ボスが登場する頃から、つまりグループの番頭役である金子ノブアキが恐れ、頭が上がらないという、MIYAVI扮する大ボスが登場すると、パジャマでナイトガウン姿のMIYAVIが、リアルな造型なのかわからなくなる(これは漫画かと、映画館で思わず独り言が出そうな気がしたが、実際、原作が漫画だったのだがーーただし、リアルな造型なのかもしれないが)。リアルなのか、そうでないのかわからないまま、コミック的なノリで展開し、それを楽しめばいいのかと途中から受け止め方がかわってくることも事実。そして犯罪物(映画であれ小説であれ)のもつ、楽しさというのものがあって、彼らが計画するタタキが成功すればいいと思わず願ってしまう。


とはいえ最後の最大級のタタキは、面白いけれども、また成功するとよいと思いつつ、こんな計画はいつ失敗してもおかしくないという思いにとらわれる。実際、案の定というべきか、こことでつまずくのかという驚きの展開が待っている。むしろ脆弱さ、危うさ、常についてまわる失敗の可能性、その危機感に貫かれているところが、この映画の特徴で、この危機感は、主人公三人組に対して、もうやめたほうがいい願うことと紙一重になっている。


ただ、それは破綻一歩手前ということもできるが、同時に、それは破綻はないだろうという思いも募る。なぜなら映画全体を見終わった印象では三人組の計画は、well-laid planではないかもしれないが、映画そのものはwell-laid plotだという言えるので。その意味で、この作品は、『22年目の告白』と『ビジランティ』のいいとこどりという感がある。それはまた三人組の計画の結末が示すように、映画の文法からずれないこともからもいえる。破綻しそうで、破綻しない。三人組の人間関係も壊れそうで壊れない。その安定してもいるし、危ういともいえる均衡感が、この映画の魅力ともなっている、


最後、船橋駅の近くのラーメン店菊屋でのやりとりは、三人組が、ふたたびそろってラーメンを食べる場面である。カウンター席の背後のテーブル席では、サラリーマンらしき男二人が、犯罪者を社会のせいにするのはまちがっていると、新聞の報道に苦言を呈している。不幸な境遇に生まれた人間がみんな犯罪者になるわけではないし、俺たちのようにブラック企業にこき使われながら必死で頑張っている者が多いのだ。メディアや評論家は、甘いんだよとうそぶいている。


この倫理観が、映画の倫理観ではなく、映画はこうした自己責任論に異議をとなえていることは、三人組のひとりサイケ(高杉真宙)が、憤って、彼らふたりに文句をいうために立ち上がることからもわかる。このときサイケを抑えるためにカズキ(加藤諒)が変顔をして笑わせる(この奇跡の変顔をみるためだけでも、映画は見る価値があろう)。それだけではない。このサラリーマン二人組、昼間からビールを飲んでラーメンを食っている。ろくに働らいてないどころか、さぼっている。てめーたちのいい加減さを棚に上げて、自己責任論をぶちあげる、ほんとうに唾棄すべき人間なのだ、こういう連中は。そう、こういう連中とカテゴリー化しておこう。私は、生活保護を受けている者の不正を告発した片山さつきを思い起こす。自分のことは棚に上げて、他人を責める。片山さつきのような、こういう人間がいま日本に蔓延しているように思う。


posted by ohashi at 22:52| 映画 | 更新情報をチェックする

GDZILLA 星を喰う者

特に観る予定はなかったのだけれど、ネットのでの評判があまりにひどいので、怖いもの見たさで、大学からの帰りにみることにした。90分のアニメだし、3時間の映画なら、ちょっと考えるが、たとえ見るに堪えないものであっても、90分ならがまんできると考えた。また、たとえ問題や欠陥がある作品でも、できるかぎりよさを見出すのは、文学研究者の得意なところなので、腕のみせどころになると考えた。


結論として、腕のふるいどころはなく、端的にいって、よくできたが映画だった。逆に、この映画をぼろくそに言っている連中に対しては、ぼっーと生きてんじゃないぞ、この****がと言ってやりたい。


以下、ちょっとひどすぎるコメントを引用して、それがいかに浅薄な判断をしていないかを考える。個人攻撃をするつもりはないので、以下の引用の真偽(ほんとうにそういうコメントがネットにあったかどうかの真偽)は明かさない。ある種の典型例のシミュレーションと考えていただきたい。


1 前作までのあらすじは全く説明してくれないので、予備知識は必要不可欠です。

 メカゴジラをも凌駕され、もはやゴジラに対抗する術をなくした人類に対し、「神による救済」を説くエクシフのメトフィエスと、その手引きによって文字通り異次元から姿を現し、圧倒的な力を持ってゴジラに終焉をもたらそうとする絶対神・ギドラ。怪獣同士の戦いに加え、主人公・ハルオとメトフィエスそれぞれの思惑も交錯し、人類の存亡を賭けた戦いの最終章が紡がれていきます。

 ただ今回の内容は非常に宗教的な内容も多く、かつその理論は理屈で理解しようとすること自体がナンセンスなほど、とても難解なものです。人によっては、

「何それ!?そんなの有り!?」

・・・ってなってしまうかも知れません(笑)。

 シリーズのファンですら賛否が分かれそうな終わり方ではありますが、前作まで観てきた方は勿論のこと、気になった方も是非。


で、この**は星5つのうち星1つ。私の評価は星5つでかまわないのだが、まず、「前作までのあらすじは全く説明してくれないので、予備知識は必要不可欠です。」というのは、嘘。三部作の最後なので、フラッシュバックなどで主人公ハルオの人生がどんなものだったのか、もちろん細部はわからないが、だいたい推測はつく。たとえばテレビの推理ドラマでも、解決編のところだけみれば、物語全体は把握できるのと同様、三部作なので、最小限の総括は映画そのものがしてくれる。


あと他のコメントもそうだが、この作品中でたたかわされている議論は、形而上的である。まあ、形而上的という言葉など聞いたこともない連中がコメントを書いているから、しょうがないのだが、問題を整理すると、これはSFアニメである。SFSFたるゆえんは、ラブコメのアニメと違い、宇宙とは、文明とは、人間とは何かという大きな物語、大きな問題を扱うことになる(逆にラブコメで宇宙の進化について論じられたら、たまったものではない。しかし現代の一主婦の精神的崩壊を熱力学の第二法則とむすびつけて宇宙の熱死的崩壊として描いたら、それはSFなのである)。つまりSFは、そのすべてではないが、こうした大きな問題を盛り込める器でもある。


もちろんSFを受容するには科学的知識があるにこしたことはないかもしれない。文系の私は科学については無知である。形而上学というのはみたこともない理系の人間がいるとすれば、特異点が何であるか、聞いたこともない(個人的には聞いたことはある)文系の人間がいる。しかし、そうした無知な文系人間の代表のような私でも、科学的知識についての無知は、SF一般を受容するときには、そんなに気にならない。いやまったく気にならない。このとき理系の人間からSFの科学は、いんちきだから、気にしなくていいといわれるかもしれないと感じている。しかし、理系の人間が、SFのなかで展開される壮大な文明論をいんちきだと思われては困る。


「ただ今回の内容は非常に宗教的な内容も多く、かつその理論は理屈で理解しようとすること自体がナンセンスなほど、とても難解なものです。人によっては、「何それ!?そんなの有り!?」なのだ」とは例1のコメンテイターの言葉だが、よくもまあ、こんな愚劣なコメントが書けるものだと思う。「人によっては」というが、それはお前だろうとしかいえない。つまりこの作中の文明論は、理屈で十分に理解できるし、それが、むつかしいのは、その論理ではなく、それが提起する問題なのである。またこの文明論を理解するには、数式を理解するような特殊な技能は必要がない。日本語がわかる人間なら、じゅうぶんに理解できる。その理屈についていける。コメンテイターの****の低さに驚く。


あと、このSFアニメは、ゴジラ映画なので、とりわけ今回は、キングギドラとモスラがでてくるので、この三怪獣を生かさねばならないという制約がある。それが面白いところだが、障害でもあるだろう。このテーマは、もっと別の設定で、別の物語世界で展開したほうが、より理解しやすいといえなくもないが、むしろ、この世界観でゴジラの存在を扱ったという、困難な道をたどったことを評価すべきだろう。


ちなみにこの映画の最後の最後になって、ようやく気が付いた。この作品にでてくる双子の姉妹は、あれは『モスラ』にでてくるザ・ピーナッツだった、と。ぼーとしてみてんじゃないぞと、私こそ、馬鹿にされてもしかたがないが。


以下のネタバレをふくみ。Waring Spoiler


以下のコメントあるいは疑似コメントは、ネタバレということで、最初は閉じられている。それを開けたかたちで示すので、ネタバレになることをここでお伝えしておく。ただし、ネタバレしても、この映画はじゅうぶんに面白い。実際に、その結末に意味があるのではなく、その途中の議論というか論争的視点が重要ななのだから。【】内は引用者である私のコメント。


例2 返金対応してほしい

まずはタイトル通り返金してほしい内容・・:【何を言っているんだ、こいつは。あなたのほうこそ、こんな自分を生かしてもらってすみません、と、社会に、あなたのために使われた費用をあるいは税金を還元せよ。この映画は十分に料金に見合った映画だった。とはいえ老人なのでシニア料金なのだけれども、一般料金をはらっても全然かまわないと思った

まず一番言いたいことは何が終わったのか、わからない。【完結したと思いますよ

結局ゴジラは生き残り主人公は自殺。そして、ギドラとモスラはシルエットのみで全体像が出るがそれだけ・・・ギドラ戦では教祖が観測者としてゴジラを観測し一方的に攻撃し観測出来なくなった途端に地球の物理法則が働くと言う謎の設定・・・観測出来なくなった時点で相互干渉出来なくなるのでは?ゴジラ側の観測者誰だよ?と観ながら思ってましたよ・・・【これは確かに鋭い指摘だと思うのだが、理系の知識に乏しい私としては、理系的に説明がつくのかもしれないという好意的な感想を持った】挙げ句のはてには首のみの出演で追い払っただけ・・・よくこんな陳腐なシナリオ作れたなーっと感心しました。【全然陳腐ではない。陳腐なのは、あなたの発想でしょう。ギドラの本物が出てきたら、それこそ陳腐でしょう。ありきたりでしょう。異世界というか異宇宙からでてきたのがすばらいしのであり、さらにいえば、その竜の姿が、アレゴリカルな表象となっていて、むしろキングギドラのイデアのようなものに還元されたことに感動すら覚えた。コメントのひどさに、ほんとうに感動した追記:キングギドラがシルエット的で存在感が希薄なのは、文系的にみると、宗教思想の実体のない観念性を強力に暗示している。宗教的観念は、無根拠で実体がなくとも、破壊力は、尋常ではない、それがこのシルエット・ギドラのアレゴリカルな意味だろう。】

そしてラストでは主人公が文明が発達するのを止めるため自殺、正直あの博士みたいな人は生かしてていいの?と思いましたしゴジラいる世界での文明発達は、ほぼ不可能だろうし自分が悪影響を与えると何やら自己満で自殺。【あの博士みたいな人こそ、本人は無自覚あるいは無垢だけれども、破滅へのサイクルを開始する張本人でしょう。この映画の世界観にとって、あの博士を抹殺するか、主人公の自殺しか選択肢はないと、わかりそうなものだが。】そしてED後の意味不明なラスト。近年希に見る駄作でした。【近年まれにみる駄作コメントだった

作った方々は、これを観て自信もって面白いと言えるのか聞いてみたい。【自分が面白くないからと言って、みんなが面白くないと粋さする頭の良さがすばらしい。愚劣なコメントすぎる。】

ただこの出来なら製作陣にも不満を持っている人もいたと思います。【制作人は、これでやったなと誇らしい気持ちだったと思いますよ。】


以上、これは疑似コメントなので、私からの対抗コメントも、特定の人間の人格攻撃ではない。なお私は映画会社とか映画制作側とは、なんの関係もない。


この映画の世界観は、作中で、じゅうぶんに対話的に語られるのだが、人間の文明の根幹にかかわるパラドクスである。文明の構築とか文明の進歩というのは、プラスにいろいろなものを築いていく過程と思うかもしれないが、文明化の過程は破壊の過程でもある。これは文明が自然を破壊するということだけではない。文明はみずからを破壊して先に進むのであって、停滞も休息も許されない。都市では再開発が終わった段階で、また新たな再開発がはじまっている。古いものを壊して再開発しなければ都市は死ぬしかない。文明も、それと同じで、進歩し進化するためには、文明の敵のみならず、文明そのものを、みずからを破壊しなければ先にすすめない。ヘーゲル的にいえば、否定性こそが、人間の、あるいは文明の本質なのである。自己否定しない人間や文明は、向上や進歩とはほど遠い。そんな人間や文明は腐った文明であり、人間なり文明の名の値しない。


となれば文明のなかには建築への意志と、破壊への意志が共存していることになる。スクラッチ・アンド・ビルドが文明の本質である。創造と破壊が文明の本質である。ではその文明が向かう先は何か。ヘーゲル流にいうと歴史の終わりとは何かが問題となる。文明はよりより社会やよりよい世界を目指していると思われている。だか、スクラッチ・アンド・ビルドのプロセスが文明なら、文明に終わりが来るのだろうか。仮に今の世界では考えられないほど、すばらしいユートピア的世界が未来に実現したとしよう。人間は、それすらも不満で、あらたなユートピアをめざすだろう、その到達したユートピアを否定して。となると、もうこのスクラッチ・アンド・ビルドの文明の歴史には、終わりがない。ユートピアを目指す永遠に終わらない運動があるのみである。永遠に終わらない競争が、永遠に終わらない闘争が、永遠に終わらない自己否定の運動があるだけである。はっきりいって、これは無間地獄というに等しいものだ。天国を求めるという地獄の運動。となると文明の運動が頂点に達した時、文明の創造力がマックスになったとき、文明の地獄度も破壊力もマックスになったことであり、文明は、その真の頂点において、自己破壊をはじめ、すべてをゼロに戻すはずである。それが無間地獄からの解放である。文明化という地獄の闘争運動は終わりを告げ、安息の日々を手に入れた人間は、自己否定からも解放され、人間であることからも解放され、動物と区別がつかなくなり、廃人となって終わるが、それが救済なのである。もし救済とういうものがあるとすれば。


繰り返すあ天国を求めユートピアを求める文明の進化は、たとえ本物のユートピアが実現しても、さらによいユートピアを求めるがゆえに、本物のユートピアを破壊するだろう。となると、この文明の運動に終わりはない。それは終わりなき闘争、終わりなき苦しみである。これを終わらせること、この地獄から解放することが文明のもうひとつの、真の目的となるだろ。それは文明の死であり人間の死でもある。フロイト流にいうと、エロスとタナトスは、相反する力ではなく、向かう方向は、エロスもタナトスも同じだということになる。あるいはタナトスを否定するエロスは、最後にはタナトスに向かうといってもいい。宗教・仏教的にいいうなら、自力本願と他力本願は対立する概念ではない。自力本願の果てに、すべてを超越的絶対者に身をゆだねる他力本願があらわれるといってもいい。人間は、廃人になり、動物となることによって、文明の闘争状態から治癒され解放され救済されるのである。


この映画を見る前に、大学で卒論について個別指導をおこなっていた。頭のいい学生なので指導というよりも、私のほうが教えてもらうことのほうが多かったのだが。卒論で取り上げるシェイクスピアの『お気に召すまま』について、あれこれ話し合った。そのなかで、恋に悩むオーランドという若者に対して、ギャニミードという少年(実は、オーランドの恋人ロザリンドが変装しているのだが)が、恋の病を治してあげようともちかける。どうするかというと、女性の悪いところをいっぱい聞かせるから、それで女嫌いになれば、恋の病から解放されるというのだ。そんなことがあるのかという問いただすオーランドに、この治療法はうまくいくとギャニミードは話す。みんな女嫌いになるだけでなく、恋そのものにも無関心になって世捨て人のようになって隠遁生活を送るようになったのだからと。オーランドは、そんな治療はごめんだと断る。


この発想と、先に述べた文明の終わり、歴史の終わりの発想は同じである。恋に悩む人間に対して、そんなに恋に悩んでいるなら、恋愛そのものに関心がなくなればいい。恋なんか無意味だと心底思えば、恋することも恋の病に悩むことはないと、そう、さとすようなものだ。これは、破壊、闘争、自己否定という文明化に苦しみ悩む人間にとって、廃人になれば救われるという発想と同じである。問題は、それに対する反応も同じである。つまり、そんなふうに救われたくない/治療されたくない。


ではどうするか。最後に廃人になるために、破滅するために頑張るという人間の文明化の過程から逃れるすべはあるのか。廃人になり破滅するとき、それは神に呑み込まれること、神への帰依、あるいは死そのものである。死ぬために生きてきた。では、どうするか。バタイユは、廃人になってもいいが、人間であった頃の記憶を失わないためにも、無意味にあくせくすること、戦わなくてもいいのに、戦うふりをすること。そうすれば廃人になることの無意味さも恐怖もなくなるのではないかと考えた。「用途なき否定性」という考え方である。このバタイユにインスピレーションをあたえたコジェーヴのヘーゲル講義における歴史の終わりの議論では、歴史がおわったあとで、無意味なしきたりをまもっている廃人の国というのがあって、それは、知る人ぞ知る、日本だった。ほっといてんか、よけいなお世話だ、日本はまだ歴史が終わっていないぞと反論したいし、日本もなめられたものだと思うが、まあ、理論的解決のひとつのモデルにつけられた名称だと理解しておこう。つまり、文明化のパラドクス、天国に至ろうとする地獄の道から逃れる廃人化の道に対する、これは「日本的解決」としておこう。


この映画の「ゴジラ的解決」は、これとは違う。そもそも人間の文明が創造し、人間の歴史と共に歩んできたゴジラという存在は、文明の破壊的要素の化身あるいは具現化である。ゴジラによって人間の文明は破壊されてきたが、そのゴジラを倒すために、ゴジラに復讐するために人間は戦い、それが即、人間の文明の歩みともなった。ゴジラは人間の文明を破壊すると同時に人間の文明を延命させてきたともいえる。ゴジラと人間の文明は一体化している。ゴジラと人間は、もちつもたれつなのであり、ゴジラへの憎悪が、文明を残存させてきたともいえるのである。


だが、同時に、こんな破壊的要素が君臨してしまう地球での生活は、やはり耐え難い。いくらスクラッチ・アンド・ビルドだといっても、肉親を殺され、愛するものを殺され、復讐心に燃えて、殺戮と闘争のやむことがないこの世界に人間は疲れ果てるのではないか。癒しと安息を求めるのではないか。そしてその先にある涅槃への憧憬。つまり絶対的他者あるいは神への絶対的合一あるいは吸収、あるいは神に食われること、キングギドラに破壊されることである。


だが、そのような強烈なラディカルな最終解決、食われること、死に尽くすことではなく、もっと穏健な最終解決もある。それは原始生活あるいは未開の生活に逆戻りすることである。実際、キングギドラの攻撃をはねのけた地球人は、休眠状態の巨大ゴジラを横目にみながら、自然と一体化する原始生活にもどる。それは、地球人が文明人であったころにくらべらば廃人同然の生活かもしれないが、安息と喜びの、そして容易に身体的に死ぬこともない楽園の生活でもある。そしてこの穏健な最終解決を、ほんとうに最終的なものにするためには、文明化の芽をつまなければならない。それが主人公の最後の行動となる。


つまり文明化以前の段階の地球上に、ゴジラとの戦いのあとの、文明の痕跡が、破壊された道具や破壊されたテクノロジーの残骸としてまだ残っている。それを発見した、宇宙船の元隊員たちは、ふたたび文明世界の構築を夢にみはじめる。とりわけ彼らのなかで科学的工学的知識の持ち主によって飛翔体のようなものが組み立てられる(第一部、第二部をみていない私には、これがどういう飛翔体か、わからないのだが)。それを知った主人公ハルオは、その飛翔体に乗って、ゴジラに攻撃をかける。それはゴジラによって、みずからを飛翔体もろとも焼却させる試みだった(それは主人公の自殺だが、同時に、飛翔体という文明化への芽吹きをゴジラによって抹消させる試みだった)。


そしてこの結末に感動をしないものがいるのだろうか(感動しない者がいっぱいるみたいであきれかえったが)。三部作をつきあってきた主人公(私にとって、この作品だけでしかつきあっていないが)が死ぬからではない。文明化への可能性の芽を、つむためには、なにもむりしてゴジラを選ぶことはないのだが、主人公があえてゴジラを選んだおかげで、ゴジラ像が変貌する。あるいはゴジラの最終形態がこれであきらかになる。つまり文明の破壊的要素の化身ともいえ、破壊の限りをつくし、人類に塗炭の苦しみを味合わせてきた、この憎むべきゴジラが、人間をこの地球の緑の世界にひっそりと生かし安息の日々を送らせる、そう人類の守護神となったことがわかるのである。ゴジラが、人間とともにある真の守護神。人間がようやく安息を手に入れたとき、ゴジラは活動をやめて休眠状態に入る。そして人間が文明化への道を辿ろうとするとき、そのつど目覚めて、その破滅の道を破壊してくれるであろうゴジラ。ゴジラの守護神へのこの変貌に胸が熱くならない者はいないだろう。



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2018年11月19日

『マンディ 地獄のロードウォリアー』

『マンディ 地獄のロード・ウォリアー』(Mandy ステファノ・ソリマ監督2018年ベルギー映画)。こんなC級映画に映画祭でよくも高い評価をあたえるものだと、呆れるばかりだ。B級にはB級なりの、C級にはC級なりのよさはある(Z級といってやりたいのだが、Zというのはゾンビを思い起こさせるので、ゾンビ映画ではないということでC級)。たとえんばシェイクスピアの『ロミオとジュリエット』の映画版で、かつては自分ひとりで面白がっていて、研究室にもアメリカ版のDVDを入れたのだが(それを見て大喜びをしたのは英国人教師だけだったが)、最近は、日本版のDVDも出ている(2009年にすでに日本版化)映画に、『トロメオとジュリエット』Tromeo and Julietがある。よくもこんなひどい映画の日本版を出したのものだと、AMAZONでの評価を読もうと思ったら、誰も評価を書いていない。


とはいえ、この『トロメオとジュリエット』は、いわゆるトロマ映画(トロマ・エンターテインメント映画ともいう)のひとつで、『マンディ』は、トロマ映画ではないが、トロマ映画みたいなものだろう。


トロマ映画については、Wikipediaの以下の記述参照

トロマ・エンターテインメント(Troma Entertainment)は、アメリカ合衆国の映画製作会社。イェール大学出身のロイド・カウフマン(Lloyd Kaufman)は、1971年から映画の製作を行っていたが、1974年にマイケル・ハーツ(Michael Herz)と共にトロマ社を設立した。設立当初から低予算のインディペンデント映画の製作に特化し、いわゆるB級映画を専門的に製作している。

 ホラー映画やコメディ映画が主なジャンルで、内容的には度を越したくだらない設定のものが多いが、日本においても一部熱狂的なファンが存在するため劇場未公開作品であってもビデオ化される事も多い。

 有名人では関根勤がトロマ作品のファンとして知られ、自身も『悪魔の毒々モンスター 東京へ行く』に特別出演している。

 トロマ作品はカルト映画として取り上げられる事もあるが、あまりのくだらなさから「おバカ映画」「Z級映画」とも呼ばれ馬鹿馬鹿しさを楽しむための映画であるため、鑑賞の際には寛容さが必要である。

とある。トロマ・エンターテインメントはいまも活動していて根強いファンがいるようだが、トロマ映画のファンはばかではない。彼らは、これが糞みたいなカス映画だと知っていて愛しているのだが、『マンディ』を評価する映画ファンのコメントみると、どうも独創的な傑作映画、高度な芸術的エンターテインメント映画と勘違いしてるところがあって、頭がおかしいのではないかとほんとうにあきれる。


こういうZ級、いやC級映画では、殺人場面が多いのだが、たとえばそれはマネキンの頭部に赤い液体のはいった袋を仕込んでおいて、マネキンの頭部をなにかで叩くか突き刺して破壊して、なかの赤い液体を噴出させるというような、残酷な効果をねらっても、まったく心に響かず、プラスチックの人形を壊して何が面白いのかという感慨しかわかないのだが、この映画のファンは、みんなそんな風に処刑されさればいいと思っている。


この映画を評価する者は、ニコラス・ケイジのぶっとびぶりがすごいとか言っているのだが、むしろ、この映画は、ニコラス・ケイジとしてはおとなしいほうではないか。まあニコラス・ケイジ、最近はテレビ映画としてもいいような低予算の変な映画ばかり出ていて、2018年には『ダークサイド』(Looking Glass原題のほうが内容に即している)と『マッド・ダディ』(Mom and Dad)をみたのだが、『マッド・ダディ』のほうが、いかれているとは言えないだろうか――この2作、原題のほうが的確なタイトルと思うが、日本版のタイトルは、いかれている。


ならこの映画に何を期待したのかというと、アンドレア・ライズボローAndrea Riseboroughのファンなのです。私は。この映画にでているマンディ役の女優のどこがファンなのか、処刑してやろうかと言われそうだが、この映画の彼女は例外です。正直なところ。


IRAと警察のかけひきのなかで引き裂かれる母親・主婦を扱った『シャドー・ダンサー』(Shadow Dancer2012)は、よい映画だった。またその頃、彼女は、マドンナが監督した『ウォリスとエドワード 英国王冠をかけた恋』で、シンプソン夫人を演じていた(『英国王のスピーチ』のシンプソン夫人はただの悪女でナチスのスパイみたいな存在だったが、こちらのシンプソン夫人は人間だった)。また予備知識成してみた『オブリビオン』では、彼女がトム・クルーズと共演していて驚き、心のなかで快哉を叫んだ。ただ彼女が出演している最新作『バトル・オブ・ザ・セクシーズ』は、最初から見たい映画でもなかったこともあって、結果としてみそびれてしまった。そこで大いに期待してみたのが、この『マンディ』だった。


とはいえ、この映画のアンドレア・ライズボロー、ニコラス・ケイジの残酷な殺され方をする薄幸の麗しき妻というよりも、あるいはどこか影のあるような女というよりも、最初から魔女的容貌というか、魔女そのものである。この映画ではじめて彼女をみる観客は、そういう女優と思うかもしれないが、それはちがう。娼婦を演じたり、裏切り者の女性を演じても、このようなみるからに顔が怖くて不気味な魔女を演じたことはない。殺される前から魔女で、殺されてからも魔女。実際、彼女を殺したカルト軍団の薬中トリオを皆殺しにしたあと、車に乗り込むと、助手席にニコラス・ケイジの殺された妻がいる。それは幻覚なのだが、その彼女の顔が怖すぎる。不気味すぎる。彼女は死んで魔女の本性をあらわにしたとしか思えない――このあたりでヨハン・ヨハンセンの重々しいフレーズの永遠の反復が続いていると音響的に想像していただいてまちがいはない、というか実際そうなのだ。


ニコラス・ケージがコミック・ヒーローを演じた『ゴーストライダー』を思い浮かべるというコメントもネットにはあったが、ゴーストライダーはバイクに乗っているのに対して、この映画では車を運転する。ただ、この映画のニコラス・ケイジが最後には「ゴースト」になっていることは、まちがいない。先ほど触れた、殺された妻の幻覚も、あれは幻覚ではなくて、死後の世界で再開した妻そのものなのであろう。


最後に、ニコラス・ケイジの車が去っていくところで、映画は終わるが(ヨハン・ヨハンセンの音楽が永遠に反復されながら)、車が走り去る世界は、この世のものとも思えない異様は世界、地球上のものではない不気味な異世界である。そう、これは、まさに皆殺しによる復讐を終えたニコラス・ケイジが、魔界に堕ちて、これから生きながら焼き殺されて死んだ妻ととともに合優で行く冥府魔道なのだ(子連れ狼でいう、冥府魔道というのは、そうした漢語あるいは仏教用語があるかどうかは知らないのだが)。


と、ここまでくると私のような老人には、別の映画が思い浮かぶ。ネットにコメントがあったように思うのだが、いまさがすと、見当たらないのだが、私の検索の仕方が悪いのか、私の幻覚だったのかもしれないが、焼き殺された妻に復讐するのって、これは映画『追想』と同じでしょう。壮絶な復讐を終えたあと、車で走り去る主人公フィリップ・ノワレは、死んだ妻ロミー・シュナイダーの幻覚をみるという『追想』のラスト。この映画は、まさに『追想』へのオマージュではないかというコメントがあったが、私も映画館でそう思った。


とはいえ最近NHKBSのドキュメンタリーで、第二次大戦中のナチスの「ダス・ライヒ」第二SS装甲師団のことを扱っていたが、この師団は別名Death Squad(「ダス・ライヒ」の英語訳ではない)。東部戦線でスラブ系民間人を虐殺しまくったドイツ軍は、西部戦線の占領下のイタリアやフランスでも民間人を大量虐殺した。師団の生き残り兵士や司令官は戦後罪を免れた(死刑宣告を受けても執行されずに、のうのうと余生を全うした)。そのことへの憤りと終わることのない悲哀が『追想』の背後にはあるのだが、はたして『マンディ』は、いったい何に復讐しようとしているのか。妻、でも魔女の死への報復劇の体裁をかりたカルト的儀礼という趣味の実現でしかないのか。映画のなかの凶悪なカルト集団と映画そのものは確実にシンクロしているとしてか思えない。


posted by ohashi at 23:04| 映画 | 更新情報をチェックする

2018年11月03日

美術館に来るな


いまNHK総合テレビの番組「たすけてきわめびと」で、美術館の楽しみ方を紹介していたばかりだ。美術館に行かない人が多い、美術館は敷居が高いと思っている人が多い、美術そのものにあまり関心がない、だから美術館を敬遠してしまうという。だったら美術館の楽しみかたを教えましょうという、そのために*****な美術評論家から知恵を借りるということらしいが……ぼーと生きてんじゃないぞと、そうつっこみを入れたくなった。


最近、美術館から足が遠のいているのは、土日などとくにそうだが、平日でも、展覧会は、どこも人がいっぱいで、美術品を見に来たのか、人の山を見に来たのか、わからないからである。ほんとうに人が多い。この現実を知っているのか。*****な美術評論家に騙されて、美術館の楽しみ方なんか伝授されている場合じゃないぞ。


もし美術に興味がなければ、どうか美術館に来ないでほしい。敷居が高いと思ったなら、どうか、そんな高い敷居をまたがないでほしい。野球が好きなら、そっちへ行ってほしい。とにかく関心のない人は来ないでほしい。すこしでも展覧会会場から、人がすくなくなれば、じっくり展示品を鑑賞できるからだ。とにかくいまは、展覧会は人が多い。ハロウィーンで荒れた渋谷の交差点に紛れ込んだのかと思うくらいに、人が多い。みんな美術館に来るな。もう美術館は人でいっぱいいっぱいだ。


ちなみにNHKのその番組で紹介する美術館の楽しみかたにも、むかついた。「自分なりに一人で楽しみ方をみつけましょう」というテロップが入るのだが、それはとりもなおさず、紹介された楽しみかたの多くは、みんなでわいわいがやがやと話しながらしたほうが、絶対に面白い楽しみ方だからだ。これは、展覧会とは異なり、ふだんから人がいない常設展での楽しみ方だが、そのなかのいくつかを、頭のなかだけでなく、声に出して実践したら、はっきりいって周囲に一人でも鑑賞者がいたら、万死に値する暴力行為であることだけは、いっておこう。ぼーとして番組つくってんじゃないぞ。

posted by ohashi at 10:27| エッセイ | 更新情報をチェックする