特に観る予定はなかったのだけれど、ネットのでの評判があまりにひどいので、怖いもの見たさで、大学からの帰りにみることにした。90分のアニメだし、3時間の映画なら、ちょっと考えるが、たとえ見るに堪えないものであっても、90分ならがまんできると考えた。また、たとえ問題や欠陥がある作品でも、できるかぎりよさを見出すのは、文学研究者の得意なところなので、腕のみせどころになると考えた。
結論として、腕のふるいどころはなく、端的にいって、よくできたが映画だった。逆に、この映画をぼろくそに言っている連中に対しては、ぼっーと生きてんじゃないぞ、この****がと言ってやりたい。
以下、ちょっとひどすぎるコメントを引用して、それがいかに浅薄な判断をしていないかを考える。個人攻撃をするつもりはないので、以下の引用の真偽(ほんとうにそういうコメントがネットにあったかどうかの真偽)は明かさない。ある種の典型例のシミュレーションと考えていただきたい。
例1 前作までのあらすじは全く説明してくれないので、予備知識は必要不可欠です。
メカゴジラをも凌駕され、もはやゴジラに対抗する術をなくした人類に対し、「神による救済」を説くエクシフのメトフィエスと、その手引きによって文字通り異次元から姿を現し、圧倒的な力を持ってゴジラに終焉をもたらそうとする絶対神・ギドラ。怪獣同士の戦いに加え、主人公・ハルオとメトフィエスそれぞれの思惑も交錯し、人類の存亡を賭けた戦いの最終章が紡がれていきます。
ただ今回の内容は非常に宗教的な内容も多く、かつその理論は理屈で理解しようとすること自体がナンセンスなほど、とても難解なものです。人によっては、
「何それ!?そんなの有り!?」
・・・ってなってしまうかも知れません(笑)。
シリーズのファンですら賛否が分かれそうな終わり方ではありますが、前作まで観てきた方は勿論のこと、気になった方も是非。
で、この**は星5つのうち星1つ。私の評価は星5つでかまわないのだが、まず、「前作までのあらすじは全く説明してくれないので、予備知識は必要不可欠です。」というのは、嘘。三部作の最後なので、フラッシュバックなどで主人公ハルオの人生がどんなものだったのか、もちろん細部はわからないが、だいたい推測はつく。たとえばテレビの推理ドラマでも、解決編のところだけみれば、物語全体は把握できるのと同様、三部作なので、最小限の総括は映画そのものがしてくれる。
あと他のコメントもそうだが、この作品中でたたかわされている議論は、形而上的である。まあ、形而上的という言葉など聞いたこともない連中がコメントを書いているから、しょうがないのだが、問題を整理すると、これはSFアニメである。SFのSFたるゆえんは、ラブコメのアニメと違い、宇宙とは、文明とは、人間とは何かという大きな物語、大きな問題を扱うことになる(逆にラブコメで宇宙の進化について論じられたら、たまったものではない。しかし現代の一主婦の精神的崩壊を熱力学の第二法則とむすびつけて宇宙の熱死的崩壊として描いたら、それはSFなのである)。つまりSFは、そのすべてではないが、こうした大きな問題を盛り込める器でもある。
もちろんSFを受容するには科学的知識があるにこしたことはないかもしれない。文系の私は科学については無知である。形而上学というのはみたこともない理系の人間がいるとすれば、特異点が何であるか、聞いたこともない(個人的には聞いたことはある)文系の人間がいる。しかし、そうした無知な文系人間の代表のような私でも、科学的知識についての無知は、SF一般を受容するときには、そんなに気にならない。いやまったく気にならない。このとき理系の人間からSFの科学は、いんちきだから、気にしなくていいといわれるかもしれないと感じている。しかし、理系の人間が、SFのなかで展開される壮大な文明論をいんちきだと思われては困る。
「ただ今回の内容は非常に宗教的な内容も多く、かつその理論は理屈で理解しようとすること自体がナンセンスなほど、とても難解なものです。人によっては、「何それ!?そんなの有り!?」なのだ」とは例1のコメンテイターの言葉だが、よくもまあ、こんな愚劣なコメントが書けるものだと思う。「人によっては」というが、それはお前だろうとしかいえない。つまりこの作中の文明論は、理屈で十分に理解できるし、それが、むつかしいのは、その論理ではなく、それが提起する問題なのである。またこの文明論を理解するには、数式を理解するような特殊な技能は必要がない。日本語がわかる人間なら、じゅうぶんに理解できる。その理屈についていける。コメンテイターの****の低さに驚く。
あと、このSFアニメは、ゴジラ映画なので、とりわけ今回は、キングギドラとモスラがでてくるので、この三怪獣を生かさねばならないという制約がある。それが面白いところだが、障害でもあるだろう。このテーマは、もっと別の設定で、別の物語世界で展開したほうが、より理解しやすいといえなくもないが、むしろ、この世界観でゴジラの存在を扱ったという、困難な道をたどったことを評価すべきだろう。
ちなみにこの映画の最後の最後になって、ようやく気が付いた。この作品にでてくる双子の姉妹は、あれは『モスラ』にでてくるザ・ピーナッツだった、と。ぼーとしてみてんじゃないぞと、私こそ、馬鹿にされてもしかたがないが。
以下のネタバレをふくみ。Waring Spoiler
以下のコメントあるいは疑似コメントは、ネタバレということで、最初は閉じられている。それを開けたかたちで示すので、ネタバレになることをここでお伝えしておく。ただし、ネタバレしても、この映画はじゅうぶんに面白い。実際に、その結末に意味があるのではなく、その途中の議論というか論争的視点が重要ななのだから。【】内は引用者である私のコメント。
例2 返金対応してほしい
まずはタイトル通り返金してほしい内容・・:【何を言っているんだ、こいつは。あなたのほうこそ、こんな自分を生かしてもらってすみません、と、社会に、あなたのために使われた費用をあるいは税金を還元せよ。この映画は十分に料金に見合った映画だった。とはいえ老人なのでシニア料金なのだけれども、一般料金をはらっても全然かまわないと思った】
まず一番言いたいことは何が終わったのか、わからない。【完結したと思いますよ】
結局ゴジラは生き残り主人公は自殺。そして、ギドラとモスラはシルエットのみで全体像が出るがそれだけ・・・ギドラ戦では教祖が観測者としてゴジラを観測し一方的に攻撃し観測出来なくなった途端に地球の物理法則が働くと言う謎の設定・・・観測出来なくなった時点で相互干渉出来なくなるのでは?ゴジラ側の観測者誰だよ?と観ながら思ってましたよ・・・【これは確かに鋭い指摘だと思うのだが、理系の知識に乏しい私としては、理系的に説明がつくのかもしれないという好意的な感想を持った】挙げ句のはてには首のみの出演で追い払っただけ・・・よくこんな陳腐なシナリオ作れたなーっと感心しました。【全然陳腐ではない。陳腐なのは、あなたの発想でしょう。ギドラの本物が出てきたら、それこそ陳腐でしょう。ありきたりでしょう。異世界というか異宇宙からでてきたのがすばらいしのであり、さらにいえば、その竜の姿が、アレゴリカルな表象となっていて、むしろキングギドラのイデアのようなものに還元されたことに感動すら覚えた。コメントのひどさに、ほんとうに感動した。追記:キングギドラがシルエット的で存在感が希薄なのは、文系的にみると、宗教思想の実体のない観念性を強力に暗示している。宗教的観念は、無根拠で実体がなくとも、破壊力は、尋常ではない、それがこのシルエット・ギドラのアレゴリカルな意味だろう。】
そしてラストでは主人公が文明が発達するのを止めるため自殺、正直あの博士みたいな人は生かしてていいの?と思いましたしゴジラいる世界での文明発達は、ほぼ不可能だろうし自分が悪影響を与えると何やら自己満で自殺。【あの博士みたいな人こそ、本人は無自覚あるいは無垢だけれども、破滅へのサイクルを開始する張本人でしょう。この映画の世界観にとって、あの博士を抹殺するか、主人公の自殺しか選択肢はないと、わかりそうなものだが。】そしてED後の意味不明なラスト。近年希に見る駄作でした。【近年まれにみる駄作コメントだった】
作った方々は、これを観て自信もって面白いと言えるのか聞いてみたい。【自分が面白くないからと言って、みんなが面白くないと粋さする頭の良さがすばらしい。愚劣なコメントすぎる。】
ただこの出来なら製作陣にも不満を持っている人もいたと思います。【制作人は、これでやったなと誇らしい気持ちだったと思いますよ。】
以上、これは疑似コメントなので、私からの対抗コメントも、特定の人間の人格攻撃ではない。なお私は映画会社とか映画制作側とは、なんの関係もない。
この映画の世界観は、作中で、じゅうぶんに対話的に語られるのだが、人間の文明の根幹にかかわるパラドクスである。文明の構築とか文明の進歩というのは、プラスにいろいろなものを築いていく過程と思うかもしれないが、文明化の過程は破壊の過程でもある。これは文明が自然を破壊するということだけではない。文明はみずからを破壊して先に進むのであって、停滞も休息も許されない。都市では再開発が終わった段階で、また新たな再開発がはじまっている。古いものを壊して再開発しなければ都市は死ぬしかない。文明も、それと同じで、進歩し進化するためには、文明の敵のみならず、文明そのものを、みずからを破壊しなければ先にすすめない。ヘーゲル的にいえば、否定性こそが、人間の、あるいは文明の本質なのである。自己否定しない人間や文明は、向上や進歩とはほど遠い。そんな人間や文明は腐った文明であり、人間なり文明の名の値しない。
となれば文明のなかには建築への意志と、破壊への意志が共存していることになる。スクラッチ・アンド・ビルドが文明の本質である。創造と破壊が文明の本質である。ではその文明が向かう先は何か。ヘーゲル流にいうと歴史の終わりとは何かが問題となる。文明はよりより社会やよりよい世界を目指していると思われている。だか、スクラッチ・アンド・ビルドのプロセスが文明なら、文明に終わりが来るのだろうか。仮に今の世界では考えられないほど、すばらしいユートピア的世界が未来に実現したとしよう。人間は、それすらも不満で、あらたなユートピアをめざすだろう、その到達したユートピアを否定して。となると、もうこのスクラッチ・アンド・ビルドの文明の歴史には、終わりがない。ユートピアを目指す永遠に終わらない運動があるのみである。永遠に終わらない競争が、永遠に終わらない闘争が、永遠に終わらない自己否定の運動があるだけである。はっきりいって、これは無間地獄というに等しいものだ。天国を求めるという地獄の運動。となると文明の運動が頂点に達した時、文明の創造力がマックスになったとき、文明の地獄度も破壊力もマックスになったことであり、文明は、その真の頂点において、自己破壊をはじめ、すべてをゼロに戻すはずである。それが無間地獄からの解放である。文明化という地獄の闘争運動は終わりを告げ、安息の日々を手に入れた人間は、自己否定からも解放され、人間であることからも解放され、動物と区別がつかなくなり、廃人となって終わるが、それが救済なのである。もし救済とういうものがあるとすれば。
繰り返すあ天国を求めユートピアを求める文明の進化は、たとえ本物のユートピアが実現しても、さらによいユートピアを求めるがゆえに、本物のユートピアを破壊するだろう。となると、この文明の運動に終わりはない。それは終わりなき闘争、終わりなき苦しみである。これを終わらせること、この地獄から解放することが文明のもうひとつの、真の目的となるだろ。それは文明の死であり人間の死でもある。フロイト流にいうと、エロスとタナトスは、相反する力ではなく、向かう方向は、エロスもタナトスも同じだということになる。あるいはタナトスを否定するエロスは、最後にはタナトスに向かうといってもいい。宗教・仏教的にいいうなら、自力本願と他力本願は対立する概念ではない。自力本願の果てに、すべてを超越的絶対者に身をゆだねる他力本願があらわれるといってもいい。人間は、廃人になり、動物となることによって、文明の闘争状態から治癒され解放され救済されるのである。
この映画を見る前に、大学で卒論について個別指導をおこなっていた。頭のいい学生なので指導というよりも、私のほうが教えてもらうことのほうが多かったのだが。卒論で取り上げるシェイクスピアの『お気に召すまま』について、あれこれ話し合った。そのなかで、恋に悩むオーランドという若者に対して、ギャニミードという少年(実は、オーランドの恋人ロザリンドが変装しているのだが)が、恋の病を治してあげようともちかける。どうするかというと、女性の悪いところをいっぱい聞かせるから、それで女嫌いになれば、恋の病から解放されるというのだ。そんなことがあるのかという問いただすオーランドに、この治療法はうまくいくとギャニミードは話す。みんな女嫌いになるだけでなく、恋そのものにも無関心になって世捨て人のようになって隠遁生活を送るようになったのだからと。オーランドは、そんな治療はごめんだと断る。
この発想と、先に述べた文明の終わり、歴史の終わりの発想は同じである。恋に悩む人間に対して、そんなに恋に悩んでいるなら、恋愛そのものに関心がなくなればいい。恋なんか無意味だと心底思えば、恋することも恋の病に悩むことはないと、そう、さとすようなものだ。これは、破壊、闘争、自己否定という文明化に苦しみ悩む人間にとって、廃人になれば救われるという発想と同じである。問題は、それに対する反応も同じである。つまり、そんなふうに救われたくない/治療されたくない。
ではどうするか。最後に廃人になるために、破滅するために頑張るという人間の文明化の過程から逃れるすべはあるのか。廃人になり破滅するとき、それは神に呑み込まれること、神への帰依、あるいは死そのものである。死ぬために生きてきた。では、どうするか。バタイユは、廃人になってもいいが、人間であった頃の記憶を失わないためにも、無意味にあくせくすること、戦わなくてもいいのに、戦うふりをすること。そうすれば廃人になることの無意味さも恐怖もなくなるのではないかと考えた。「用途なき否定性」という考え方である。このバタイユにインスピレーションをあたえたコジェーヴのヘーゲル講義における歴史の終わりの議論では、歴史がおわったあとで、無意味なしきたりをまもっている廃人の国というのがあって、それは、知る人ぞ知る、日本だった。ほっといてんか、よけいなお世話だ、日本はまだ歴史が終わっていないぞと反論したいし、日本もなめられたものだと思うが、まあ、理論的解決のひとつのモデルにつけられた名称だと理解しておこう。つまり、文明化のパラドクス、天国に至ろうとする地獄の道から逃れる廃人化の道に対する、これは「日本的解決」としておこう。
この映画の「ゴジラ的解決」は、これとは違う。そもそも人間の文明が創造し、人間の歴史と共に歩んできたゴジラという存在は、文明の破壊的要素の化身あるいは具現化である。ゴジラによって人間の文明は破壊されてきたが、そのゴジラを倒すために、ゴジラに復讐するために人間は戦い、それが即、人間の文明の歩みともなった。ゴジラは人間の文明を破壊すると同時に人間の文明を延命させてきたともいえる。ゴジラと人間の文明は一体化している。ゴジラと人間は、もちつもたれつなのであり、ゴジラへの憎悪が、文明を残存させてきたともいえるのである。
だが、同時に、こんな破壊的要素が君臨してしまう地球での生活は、やはり耐え難い。いくらスクラッチ・アンド・ビルドだといっても、肉親を殺され、愛するものを殺され、復讐心に燃えて、殺戮と闘争のやむことがないこの世界に人間は疲れ果てるのではないか。癒しと安息を求めるのではないか。そしてその先にある涅槃への憧憬。つまり絶対的他者あるいは神への絶対的合一あるいは吸収、あるいは神に食われること、キングギドラに破壊されることである。
だが、そのような強烈なラディカルな最終解決、食われること、死に尽くすことではなく、もっと穏健な最終解決もある。それは原始生活あるいは未開の生活に逆戻りすることである。実際、キングギドラの攻撃をはねのけた地球人は、休眠状態の巨大ゴジラを横目にみながら、自然と一体化する原始生活にもどる。それは、地球人が文明人であったころにくらべらば廃人同然の生活かもしれないが、安息と喜びの、そして容易に身体的に死ぬこともない楽園の生活でもある。そしてこの穏健な最終解決を、ほんとうに最終的なものにするためには、文明化の芽をつまなければならない。それが主人公の最後の行動となる。
つまり文明化以前の段階の地球上に、ゴジラとの戦いのあとの、文明の痕跡が、破壊された道具や破壊されたテクノロジーの残骸としてまだ残っている。それを発見した、宇宙船の元隊員たちは、ふたたび文明世界の構築を夢にみはじめる。とりわけ彼らのなかで科学的工学的知識の持ち主によって飛翔体のようなものが組み立てられる(第一部、第二部をみていない私には、これがどういう飛翔体か、わからないのだが)。それを知った主人公ハルオは、その飛翔体に乗って、ゴジラに攻撃をかける。それはゴジラによって、みずからを飛翔体もろとも焼却させる試みだった(それは主人公の自殺だが、同時に、飛翔体という文明化への芽吹きをゴジラによって抹消させる試みだった)。
そしてこの結末に感動をしないものがいるのだろうか(感動しない者がいっぱいるみたいであきれかえったが)。三部作をつきあってきた主人公(私にとって、この作品だけでしかつきあっていないが)が死ぬからではない。文明化への可能性の芽を、つむためには、なにもむりしてゴジラを選ぶことはないのだが、主人公があえてゴジラを選んだおかげで、ゴジラ像が変貌する。あるいはゴジラの最終形態がこれであきらかになる。つまり文明の破壊的要素の化身ともいえ、破壊の限りをつくし、人類に塗炭の苦しみを味合わせてきた、この憎むべきゴジラが、人間をこの地球の緑の世界にひっそりと生かし安息の日々を送らせる、そう人類の守護神となったことがわかるのである。ゴジラが、人間とともにある真の守護神。人間がようやく安息を手に入れたとき、ゴジラは活動をやめて休眠状態に入る。そして人間が文明化への道を辿ろうとするとき、そのつど目覚めて、その破滅の道を破壊してくれるであろうゴジラ。ゴジラの守護神へのこの変貌に胸が熱くならない者はいないだろう。