このシェイクスピア作品において、私がもっとも印象的に思えた台詞は、ふたつあって、ひとつは「永遠と一日」。もうひとつは「ナウ・オン・セール」である。
テオ・アンゲロプロス監督の映画に『永遠と一日』というタイトルの作品があるが、これはシェイクスピアの『お気召すまま』からタイトルをとったのではないと監督自身が明言しているので、映画とは関係ないし、この件は、今回はパス。
もうひとつは「ナウ・オン・セイル」という言葉。Now on saleというんは、現代日本でも、ふつうに英語のまま、カタカナ、あるいはローマ字で使われるフレーズで、まあ外国語というよりも外来語(つまり日本語の一部)といってもいい言葉だが、私が驚いたのはシェイクスピアの『お気に召すまま』でも、このナウ・オン・セイルが使われていたことである。
羊飼いが、このフレーズを口にする。アーデンの森は、羊飼いたちがのんびり暮らす楽園のような場所でもなければ、奇跡が起こるような神秘の場所でもなく、土地や建物が売りに出され、羊飼いにも雇い主がいるという、資本主義や市場経済の浸透を許している現実的な空間なのである。実際、シェイクスピアの『お気に召すまま』は喜劇の約束事とか、ロマンティクな人間関係のリアルを暴くような、偶像破壊的なリアル志向は強い。
アーデンの森は、牧歌的な世界ではなく、寒さで震えるような場所、また生きるために動物を殺して食べるしかない場所である。ちなみに人間と動物が、あるいは動物と動物が殺したり食べたりしない関係で共存する世界は、楽園の基本的イメージである。アーデンの森は鹿狩りがおこなわれるため楽園の一歩手前でしかない。また羊飼いたちも、その手が、脂ぎった羊毛で汚れている、ただの田舎の労働者にすぎない。結局、シェイクスピアのこの作品は、牧歌的楽園潰しの作品でもある。ただし、強いて言えば、そうした反牧歌的作品も、牧歌的作品の成長と人気と並行して作られていたので、『お気に召すまま』は、牧歌と反牧歌が共存する複眼的作品ということになる。
シェイクスピアの『テンペスト』のなかで元ミラノ公の家臣、そしてナポリ王の家臣ともなったゴンザーロは、魔術師プロスペロが住む島にナポリ王一行と漂着したとき、暇つぶしに、「もし私が、この島で王様になるとすれば」というファンタジーを語りはじめるのだが、それと同じように私も「もし私が『お気に召すまま』の演出家になるとすれば」とファンタジーを語らせてもらえば、『お気に召すまま』の「ナウ・オン・セール」に代表されるような、えげつないまでにリアルな、現実社会の、反牧歌的要素を強調する演出をするだろう。アーデンの森は、奇跡の起こる神秘と癒しの場所ではなく、それこそブルドーザーが入って宅地造成がおこなわれ、羊たちが囲いこまれ小作農が土地を追われる反牧歌、反ユートピアの世界を出現させることだろう。私ならそうする。だかそれがいいことかどうは別であり、私がそんなことを考えるのは、演出家として無能であり、観客のことを信用していないからである。
河合氏の演出は、そういうことはしない。それはオーソドックスなものを保守的なまでに狙っているということではなく、基本型のなかにこそ、可能性が潜在することを、演劇の現場を経験されることで、あるいはみずから演出されることで、認識されてのことだろう。
河合氏が『お気に召すまま』について論文を書かれれば、それこそ「ナウ・オン・セール」のフレーズに代表されるような現実的要素や反牧歌的要素を、たとえ強調されることはなくとも、必ず触れたり、またそこからさらに議論を掘り下げたりすることだろう。しかし演出・上演の場では、それをすることはないだろう。むしろ牧歌的要素を強調することになると思う。なぜならいきなり反牧歌的要素に注目しても、その対極にある牧歌的要素がどんなものかわからなくては意味がない。演ずるほうでも、牧歌的な演技がなんであるかについて確定的なものはない以上、反牧歌的な演技が何であるのか見当もつかないだろう。
むしろ牧歌的要素を前面にだしつつ、台詞のそこかしこに見え隠れする反牧歌的要素に観客自身が目をむけることを期待する演出にもじゅうぶんな存在理由はある。さらにいえば、反牧歌的要素を見逃すのは研究者・専門家としては致命的なことだが、観客としては、見逃しても、べつにかまわないし、そもそもシェイクスピアが『お気に召すまま』を完全に牧歌のパロディなり反牧歌として構想したわけではないだろう。基本は牧歌喜劇なのである。
このことは絨毯と表地と裏地の関係にもたとえられる。それは最初からみられるべくつくられている表地こそ、どんな場合にも示すべきということになる。演出も、同じ。いくら演出家に自由が許されているとしても、みられるべく作られている表地を示さずに、裏地というか、裏側を示すのは、作品のよさをそこねることになる。表側を示して、裏側がどんなものかを想像させることはよい。裏側がどんなだかを示すヒントめいたものを表にちりばめてもよい。しかし裏側を示すような演出は、当惑だけを観客にもたらす。絨毯の裏側から、絢爛豪華な表側を想像するのは、至難のわざなのだから。
表にちりばめてもよい。しかし裏側を示すような演出は、当惑だけを観客にもたらす。絨毯の裏側から、絢爛豪華な表側を想像するのは、至難のわざなのだから。