2018年09月28日

『プーと大人になった僕』

このディズニー映画はみるつもりはなかったのだが、監督がマーク・フォスターだと知って、これはみるべきだと映画館に。マーク・フォスター映画だから、そんなにへんな映画にはならないだろうという予感はあった。

私がマーク・フォスター作品と出逢ったのは『チョコレート』Monster's Ball (2001) からである。この映画に関して、ひとつだけ(何度も語ってきた)思い出話をいえば、某アメリカ文学の翻訳者(頭文字はA)が、この映画を新聞で紹介・映画評をしていて、白人男性と黒人女性が、人種差別が激しい街で恋人どうしになってつきあっていても、街の人たちが、なにもいわないし、無関心なのは、なぜかと自分で問題提起して、それは二人が、それぞれ、それほどまでに孤独な生活をしているからだと書いていた。あほかと思った。

なぜ街の人たちが何も言わないかについて、映画のなかで明確に説明している。白人男性の父親が、黒人女性(ハル・ベリーなのだが)にむかって、おまえが、うちの息子の相手なのか、まあ白人の男たる者、黒人の女を愛人というかセフレにすることが、昔から男の甲斐性みたいなものだと語るのである。ショックを受け、憤慨した黒人女性のほうは、白人男性との関係を絶とうとまでするのだが、これは映画の衝撃的なエピソードのひとつでもある。そのAは、試写会で寝ていたのか、あるいは外国でこの映画をみて英語が聞き取れなかったかのいずれかであって、問題提起はいいが、答えがまちがっている。また白人男性が黒人女性を性的対象として扱うことは、アメリカ文学研究者にとっては、けっこう常識化している認識であることをあとで知ったので、ますますAは馬鹿だと思った。

『ネバーランド』Finding Neverland (2004) 監督はピーター・パンの作者ジェイムズ・バリーを主人公(ジョニー・デップが演ずる)にして、ピーター・パン誕生までを描く文芸映画。『スウェー★ニョ』 Sueño (2005)は見ていないが、同じ年に製作された『ステイ』Stay (2005)には、これは衝撃を受けた。

『ステイ』Stayについて、以下の解説を参照

「チョコレート」「ネバーランド」のマーク・フォースター監督が、生と死、夢と現実の狭間のような奇妙な時空をさまよう主人公の姿を描く異色スリラー。時空が歪んだ不思議な世界観が斬新なヴィジュアル表現で鮮烈に描かれてゆく。出演は「スター・ウォーズ」シリーズのユアン・マクレガー、「キング・コング」のナオミ・ワッツ、「きみに読む物語」のライアン・ゴズリング。

 ニューヨークの有名な精神科医サムが新たに受け持つことになった患者は、ミステリアスな青年ヘンリー。予知めいた能力を持つヘンリーは、3日後の21歳の誕生日に自殺すると予告する。一方、自殺未遂経験を持つサムの元患者で恋人のライラは、自分と同じ自殺願望を持つヘンリーに興味を抱く。やがて、誕生日を前についに行方をくらましてしまったヘンリー。彼を救おうと必死で行方を捜すサムだったが、次第に彼の周りで、現実の世界が奇妙に歪み始める…。

とこれだけでは、わからないと思うが、この『ステイ』、『ハムレット』の驚異的なアダプテーションなのである。筋立てだけはわからないが、登場人物名がアナグラムになっていて、『ハムレット』作品を強烈に連想させるものとなっている。『ハムレット』のアダプテーションのなかでは異色中の異色作。

『 主人公は僕だった』Stranger Than Fiction (2006) は、強烈なメタフィクション作品で、『ステイ』とともにこの路線をつづけるのかと期待をもったのだが、つぎの『君のためなら千回でも』The Kite Runner (2007) は、その反共・反アラブプロパガンダの、フェイク・ドキュメンタリ―的原作に怒り心頭に発した私にとって、映画化の監督に罪はないとしても、かなり落胆した。

そもそも、この作品(『君のためなら……』のなかのあるエピソードは、パレスチナの作家ガッサーン・カナファーニーの『太陽の男たち』のパクリだ。パレスチナ人の小説など読まないアメリカ人の世界では通用しても、他の世界では通用しないことを、日本の読者は声をあげて糾弾してもよかったのだが、カナファーニーのこの小説を読んでいる読者があまりにも少なすぎたようだ(『太陽の男たち』は、カナファーニーの代表作であることはまちがいないが)。

007 慰めの報酬』Quantum of Solace (2008) と『マシンガン・プリーチャー』Machine Gun Preacher (2011)はアクション映画、それなりに面白い。『ワールド・ウォーZ World War Z (2013) Zとはゾンビのこと。異色のゾンビ・映画で、けっこう感銘を受けたのだが、なかでもイスラエル人の生き残りたちが、ゾンビが這い上がれない高い壁を築き上げて、そのなかに避難して生存しているのだが、それが、あることから壁が乗り越えられ、ゾンビたちに蹂躙されてあっというまに全滅するエピソードがあった。そのエピソードにおけるイスラエルと壁の連想系の皮肉な結末に、心のなかで拍手した。

『かごの中の瞳』All I See Is You (2016) は、いま現在、上映中。そして最新作『プーと大人になった僕』Christopher Robin (2018)。つづく

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2018年09月27日

『スカイハンター』

『スカイハンター 空天猟』(2017)は、映画館で予告編をみて、ひそかに公開を期待していた映画で、脱税疑惑で消息不明となっているファン・ビンビンが出ているから、わざわざ見に行ったということではない。ヒコーキ好きなので、中国空軍の最新鋭機機が、どんなふうに飛んでいるのか、実写とCGとりまぜてみてみたいと思ったからである。まあ、こっそり見に行く予定だった。テレビのニュースでは新宿シネマートの7階の小さなスクリーンでの公開であることがわかったが、私が見た回は、6階の大きなスクリーンだった。とはいえ夜の回だったので、満席ということはなかったが、けっこう観客がいたほうだとは思う。

ネット上では「冒頭の場面で 殲-16 J-16)戦闘機が旋回するときの尾翼がどう見ても逆向きになっている」だからCGもいい加減なのだという意見もあったのだが、私は、尾翼については全然気づかなかったし、そもそもJ-16だったのかどうかも覚えていない。J-16は複座でしょう。複座の戦闘機が出ていたかどうかもわからない。

中国といえば、ディスだけの能しかない能無し右翼のたわごとだろうが、もちろん無理なCGもあったけれども、つまり冒頭のほうで、かなり損傷を受けたJ-10が基地に帰投するところを描いているが、壊れすぎていて、あの状態で飛ぶのはどうみても無理だとわかるが、実写部分では、中国人民解放軍の最新鋭機をみることができて、満足した。

J-15というのは、いわゆるロシアのスホーイ(Su27とかSu30)をライセンス生産したものだと思う(ちがっているかもしれない)。ただどのような経緯で開発・生産されとはいえ、外見は、まぎれもなくスホーイ。冒頭あたりで、領空侵犯してきたアメリカ機(P3C)にスクランブル発進したスホーイが、アメリカ戦闘機F15と空戦する場面があるが、中国軍機が米軍機を圧倒する。スホーイの航空性能は、アメリカのF15(自衛隊でも使っている)の比じゃない。空中戦になったらスホーイがF15よりも優位にたつのは当然だが、一般観客には、中国映画だから、中国よりの身びいきになっていると思われるにちがいなく、そこがちょっと残念な。

このJ15とか複座型のJ16が、中国版F15だとしたら、J-10は中国版F16だろう。ただし外見はF16の影響もあるが、ユーロファイター・タイフーンにも近い。まあスホーイよりも小型の多用途機で、中国の独自開発という点では中国軍にとっては愛着のあるものかもしれない。【不明をお詫びしつつ、J11が中国でスホーイをライセンス生産したものらしい。となるとJ15J16は、そのJ11の発展型で、中国独自に改良を加えたものとなる。そうなると外見はスホーイそのものだが、スホーイとは別物というべきか。ちょうど日本のF2が、アメリカのF16にそっくりなので、F16を日本でライセンス生産したといういえば、事実誤認になるのと同じことかもしれない。】

最新鋭機はやはり第5世代戦闘機といわれているJ-20で、コックピットを機首側からとらえたアップは、ある意味全体像がわかりにくいのだが、飛行中の映像もあって(たぶん実写)、ただただ感動するばかりで、ジェットエンジンのノズルの形状など、注意して観察しておけばよかったと後悔。正面形はF22ラプターだが、全体像は、ラプターとは異なる独自のものとなっている。(なお第一世代ジェット戦闘機というのは第2次大戦末期から朝鮮戦争時におけるジェット機で、代表的にといえばロシアのMig15と米国のF86。第二世代は超音速ジェット戦闘機群で代表的なのがアメリカのセンチュリー・シリーズF100, 101.102. 104, 105, 106など。第3世代は、アメリカではセンチュリー・シリーズ以後のF4、ロシアのMig21, 23など。第4世代が、アメリカのF14, 15. 16. 18.ロシアではMig 29, Mig 31, Su27. 中国ではJ10, J11(スホーイのライセンス生産)。そして第4.5世代は第4世代の改良・性能向上型。中国ではJ11の改良型でJ15, J16となる。ユーロファイター・タイフーンも4.5世代。第5世代がステルス性能のある戦闘機で米国のF22, F35、中国ではJ20となる。

その他、ほかにもヘリコプターや輸送機など、中国空軍が使っている航空機を多数みることができて、それなりにお腹いっぱいになった。

映画そのものは、軍が協力してお金のかかったB級映画ということで、一応、こうしたエンターテインメント(ある意味、軍隊が協力した国威発揚映画)のフォーマットはきちんと押さえているという気がした。ちょっと古い日本風にいうと、劇画タッチ、アメリカ風にいうとグラフィック・ノヴェル・タッチで、悪役の白人は、みな、よく見つけてきたと思われるほど、絵に描いたような、あくの強い、癖の強い悪人(『ジョジョの不思議な冒険』に出てくるような人物が、そっくりそのまま実写になったと思えばまちがない)で、劇画としてのリアルはあるが、現実感はない。ファン・ビンビンだって、劇画タッチである。

もちろん設定も、ちょっとご都合主義的で、隣国マブ国に軍事顧問(?)として派遣されている中国人軍関係者と家族が、テロリストの人質になったからといって、スカイハンターと呼ばれる空軍と地上部隊の混成軍というか秘密任務部隊が、隣国に侵入して救出に向かうというのは、ありえないことでしょう。まあ、中国かそのマブ国内で好き勝手なことができるという地位協定を結んでいるのではないかぎり、それは内政干渉、いや端的にいって侵略行為である。そのところは、映画も配慮していて、作戦前に民間人は傷つけるな必要以上の攻撃を行うなと注意し、作戦が見事成功し、平和がもどると、中国は隣国マブ国に技術提供して、新幹線というか高速鉄道をつくって、両国の友好関係が強固になったというニュースをわざわざ最後にみせることまでしているのだが、人質になった自国民救出という設定の無理をなんとかして緩和させようとしているのは、面白かった。

追記:たまたまテレビのワイドショーをみていたら映画の監督・主役リー・チェンは、ファン・ビン・ビンの婚約者でもあった。このあたりも映画の売りだったのかもしれない。


posted by ohashi at 12:51| 映画 | 更新情報をチェックする

2018年09月23日

『リグレッション』

短編映画を除くと、長編劇映画としては『アレキサンドリア』〔原題Agora〕以来の新作と思っていたら、2015年の映画、なぜ、今頃と思いつつも、アレハンドロ・アメナーバルAlejandro Amenábarの長編映画は全部見ている私としては、単館上映でも、上映してくれただけでもありがたい。

映画そのものは、よい映画だと思うし、お薦めの映画なのだが……。

映画. Comの紹介によれば、

「アザーズ」「海を飛ぶ夢」で知られる名匠アレハンドロ・アメナーバルが、「アレクサンドリア」以来6年ぶりに手がけた長編監督作で、「6才のボクが大人になるまで。」のイーサン・ホークと、「美女と野獣」のエマ・ワトソンが共演。198090年代初頭のアメリカで、悪魔崇拝者による儀式が次々と告発され、人々が不安にかられて社会問題となった騒動に着想を得て生み出されたサスペンス。90年、アメリカ・ミネソタ。刑事のブルース・ケナーは、父親の虐待を告発した少女アンジェラの事件を取り調べることになるが、当のアンジェラも訴えられた父親も、どこか記憶が曖昧だった。著名な心理学者に協力を仰いで真相究明を進めるケナーは、アンジェラたちの記憶をたどっていくうちに、事件が単なる家庭内暴力ではないことに気づき、町の各所で起こっているほかの事件との関連を調べ始める。やがてケナーは、町に秘められた恐ろしい闇に迫っていく。

この紹介につづければ、次第に町全体を覆う悪魔崇拝の闇が立ち上がっていく。あたかもそれはナサニエル・ホーソーンの短編「若きグッドマン・ブラウン」の世界のように。

ちなみにこの「若きグッドマン・ブラウン」、ネット上にあった山田五郎三郎氏によるあらすじでは、「若きグッドマン・ブラウン  結婚したての、若者、ブラウンは、ある日悪魔に、そそのかされて、夜、悪魔のサバトに出かける。するとどうだろう、そこには日ごろ善人と信じていた隣人がみんないるではないか、しかもよーく見ればななんと、、新婚の自分の妻さえそこにいたのだ、これを見たブラウンは、深く絶望して以後、全くの厭世家としてくらーい一生を終えるのだった」。

映画は、この方向にすすむようにみえる。しかし、そうなると怖いというよりも、どこか予想可能な展開に、すこし引いてしまう。映画では、いっぽうに、オカルト的悪魔崇拝の闇が、もう一方に、催眠術をかけて失われた記憶を呼び覚まし、事件の真相に迫ろうとする精神病理学者の科学的実践があり、両者の対立を軸として物語が展開する。しかし、この催眠術による失われた記憶の回復の試みは、非科学的な悪魔崇拝を現実のものとするような、あるいは科学では解明できないオカルトの闇が立ち上がるような、そんな気配が濃厚で、科学的解明は望めそうもない。となると先が読めそうで、やや引いてしまう。

またイーサン・ホーク扮する刑事は、真相にたどりつける明晰な頭脳の持ち主という設置かどうかはわからないが、強がっているくせに、精神的な弱さがあって、どんどん悪魔崇拝の闇に引き込まれてしまうところがある。なんども悪魔崇拝の悪夢に悩まされる。となると、ここでも悪魔崇拝の闇が勝利するように思われる。それは怖い話なのか。オカルト的結末にむけて映画が着実に歩むようにみえるとき、そこあるのは、ありきたりの一語でいえてしまいそうな展開である。

また全体に画面が暗い。そもそも夜の場面だから暗いし、昼間もどんよりと曇っているか雨が降っているかで、太陽を、明るい陽光を目にすることはない。となるとどうなるのか。待ち受けているのはホーソーンの「若きグッドマン・ブラウン」の世界。恐怖の世界かもしれないが、陳腐でありきたりで、予想可能な展開。全体の空気もどんよりしとして、悪魔的闇の到来を予想させるというよりも、元気のない憂鬱なテンションの低さのほうが印象付けられる。

だから中盤に至る頃には退屈する。このあたりで睡魔に襲われてもしかたがないところがある。実は、想定外の展開をするのであり、最後には、微かに日の光がさす夜明けを迎えることかもわかるように、暗鬱だが希望がないわけではない結末に至る。それは悪魔崇拝の闇が全体を覆うというよりは、その闇が徐々に晴れはじめることの暗示である。実際。後半は、予想外の展開をする。

ただ、予想外とはいえ、怒涛の展開のなかにカオスが到来するような結末ではない。たとえば最近も新シリーズが作られた、かつてのカルト的テレビドラマシリーズ『ツイン・ピークス』のようではなくて、不気味感が横溢する展開ではそもそもない。悪魔崇拝が、たとえ夢か現実か定かでなくとも、超現実的な現実感あるいは名状しがたい邪悪さをともなって迫ってくるというような迫力はない。邪悪な悪魔崇拝の蔓延という結末に対して、なにか諦念感をともなって低いテンションで進んでいくという展開を、ひっくりかえすような展開でもない。

ある種合理的な結末へ、乾いた、理知的な雰囲気に満たされつつ到達するために、ものすごく感動することはない。むしろ感動といった安易な情緒的反応を押さえて知的で冷静な方向性を志向する。ウェットではない、乾いた、冷たい感動をもたらすことになる。これはこの監督の映画の特徴でもあろう。

『海を飛ぶ夢』を見たとき、映画館で私の隣に座っていた女性は、最後の方で号泣していたが、しかし、それは映画の宣伝に洗脳されて泣くしかないと思いこんでいるだけで(他にも泣いている観客はいたが)、映画を冷静にみれば、悲惨な人生であった主人公の死(自死)は、哀れをさそうかもしれないが、描き方は、冷静で乾いている。あえて涙を誘わないような方向性をつらぬいているのだ。

『アレキサンドリア』では、主人公の数学者・哲学者の女性ヒパシア(フェミニズムのシンボルでもあった)の残酷な殺された方を知っている私としては、結末は見たくないと思いつつ顔をしかめていたが、彼女の弟子の男性が彼女を待ち受ける恐怖の運命を察知して、キリスト教民兵が襲ってくる直前に、彼女を刺殺して、苦しまなくてもよいようにしたのをみて、ある意味、ほっとしたことを覚えている。エンターテインメント映画として残酷すぎる結末を避けたといえば、それまでだが、この映画のなかでは、ファシストでもありヘイト集団でもあるキリスト教民兵の憤怒と暴力という悪魔的狂気が、強い恐怖と嫌悪の対象となっているのを考慮すれば、センセーショナルな展開や結末が避けられて当然だったともいえる。映画そのものは、冷静で乾いている。そして悪魔崇拝から魔女狩り・ヘイト犯罪という、熱狂や狂気を嫌う姿勢も貫かれている。たとえそれが中盤の、時には初晩で、早くも睡魔を誘うものとはいえ、全体の印象は、決して悪くない。だから、自信をもって推薦できる映画である。

なおタイトルになっているリグレッションは、催眠術による真相解明と関係する。詳しいことはわからないが催眠術は、たとえば、暗示をかけられて言動をコントロールされてしまう洗脳に使われるイメージがある(実際にどこまで催眠術によってコントロール可能かは不明)。これは催眠術が犯罪にも使われる可能性だが、逆に、ショックによって失われた記憶を催眠術によって回復させると、これは犯罪の真実を暴くことになる。催眠術が、そのように犯罪捜査に使われているかどうか全く知らないが、この場合の催眠術か過去への遡行である。暗示が未来へ赴くものなら、記憶回復は過去への遡行、まさにリグレッションである。未来志向と過去遡及、この二項対立が脱構築的に一体化する。それが事件を解くカギとなる。

もうひとつのリグレッションは、主役の捜査官であるイーサン・ホークのほかに、父親からの性的虐待の被害者にエマ・ワトソン、そして催眠術をほどこす精神病理学者にデイヴィッド・シューリス。この三人がメインなのだが、なにか既視感があった。そうかふたりは『ハリー・ポッター』で共演していた。もうひとつのリグレッションである。

posted by ohashi at 17:57| 映画 | 更新情報をチェックする

2018年09月21日

『1987』

日本語のタイトルには『1987, ある戦いの真実』となっているが、サブタイトルのような部分は、1987年というだけでは日本人にはピント

まあ韓国史については恥ずかしながら不明の私は、かつて衛星放送で『太白山脈』の映画化作品を放送したことがあったが、途中から、またタイトルもわからないまま、見始めた私は韓国の映画らしいということだけはわかったが、いつの時代のことか皆目見当もつかず、ようやく映画も後半になってから、朝鮮戦争の前後の話だとわかった次第。韓国史に全くうとい私は、朝鮮戦争の前に、共産ゲリラと韓国政府とが闘争を展開していたことは知らなかったのだが。

『太白山脈』の前半は、私が生まれる前のことである。これに対して1987年に韓国でこんなことが行なわれていたとは、知らなかった。私があまりにもうっかり人生を生きてきたのかと思ったが、たまたま購入したパンフレットをみたら1987年に日本で起こった出来事、日本で流行したことなどが列挙してあった。全部、憶えている。となると、なぜ1987年の韓国での、ある意味政変というか政権交代につながる民主化運動について記憶にないのか。

当時の韓国のイメージは、現在のそれとは異なっていたことは、記録しておきたい。当時、北朝鮮がいつ攻めてくるかわからない状態の韓国は、徴兵制があり、軍事政権の独裁国家であり、またそれゆえに民主化運動も盛んだというのは、私が漠然といだいていたイメージである――もちろん、それは私だけが抱いたイメージではなく、社会全体で共有していたイメージでもあった。いまでは北朝鮮が独裁国家として悪名をはせているが、当時は韓国のほうが、北朝鮮と対峙しているがゆえに、しかがたない部分はあったとはいえ、非民主的な独裁国家として注目されていて、北朝鮮のほうが同じ独裁国家でも影が薄かった。まだ民主化運動の成果が出ていないときの韓国のイメージである。だから、この映画で描かれていることは、驚愕的であっても、当時に、まったく想像を絶しているものでもない。また1987年について、私がよく覚えていないのは、日本におけるメディアの報道にも問題があるのではないかと疑うのだが、確実なことは、まだ言えない。

映画そのものは、前半、緊迫した展開で一気に突き進むとともに、後半では事件の展開が停滞しつつ静止したかと思う次の瞬間、結末にけるクライマックスにむかって怒涛の展開。用意周到な計算しつくされた見事なカメラワークと、1987年当時の韓国社会を細部に至るまでゆるがせにしない(と、実際に韓国で生きていたわけではない者にも思わせるような)再現性へのこだわり。しかも、物語の通奏低音のように展開する足あるいは靴をめぐるテーマ、そしてその一貫性。どれをとっても観る者を飽きさせない、驚異の連続する映画となっている。

しかも独裁制度と、その解体と解放を望む姿勢、政治参加と不参加、迫害と逃亡とのひりひりするような緊張感、そして一貫して維持される反体制的なリベラルな姿勢――それは文政権の今なればこそ可能になった映画かと思っていたが、実のところ現在の文政権誕生以前に製作に着手されていて驚く。これは政権批判としてつくられたのである。ならば映画製作の現場とそれを囲繞する社会全体の空気は、現在よりもはるかに緊迫の度を増していたにちがいない。あるいは、前政権の末期と、全斗煥大統領時代末期の、あるいは大統領国民選挙への移行期の、混乱と改革と反動がせめぎあう空気とが、映画を媒介として通底しあったといえるかもしれない。

映画で描かれる事件については、どこまでが史実で、どこまで潤色されているのか、残念ながら韓国史に無知な私には判定できないのだが、反共政策の結果、共産分子を取り締まる過程で、国内が恐怖政治体制化していくことは、ある意味、想定外のことだった。ソウル大学学生パク・ジョンチョル(朴 鍾哲)が拷問中に死亡した事件(19871)に端を発する事件が描かれるのだが、その拷問死をもたらしたのは南営洞対共分室での取り調べであって、このとき公安の現場責任者の所長が、脱北者であったということは驚きであった。北朝鮮の富裕層の出身で、親族を共産政権に殺されたがゆえに北朝鮮に憎悪を燃やし反共政策の鬼と化している。だが脱北者は、北朝鮮の情報を伝えるということを除けば、ある意味、存在意義をもたないよそ者のようなものであろう(実際、脱北者は差別されることも多いと聞く)。そのため存在意義を維持するために、北朝鮮の危機をあおるような情報を誇張や捏造を恐れず伝えるとすれば、脱北者ほど、厄介な存在はない。おそらくそのことは韓国の人たちもわかっているのだろう。また反共勢力にとって脱北者は役に立とう。そのへんまでは予想できたが、脱北者が、反共取締りの総元締めとなって、ある意味、韓国民を圧迫・迫害するということまでは想像が及ばなかった。

なるほど脱北者であれば北朝鮮情報に詳しい。またスパイ活動などについても詳しいのかもしれない。なによりもまず北朝鮮への激しい憎悪とぶれない敵対姿勢が公安当局に評価されたのかもしれない。

しかし、なんと皮肉なことだろう。北朝鮮では反共分子の取り締まりが厳しく、国民は政府の監視下におかれ、政府要人といえども粛清の対象となり、多くの一般市民がスパイ容疑をかけられ処刑されているのに対し、同様なことが韓国でも行われていたのである。韓国が戒厳令的統制状態にあるというのは、北朝鮮との臨戦態勢がつづくこともあって不幸だがやむを得ぬところもあった。しかし、臨戦態勢あるいは戦時下の取り締まりは、北朝鮮での反乱分子・反共分子取締りとなんら変わることがない。しかも、その陣頭指揮をとっているのが脱北者だとうのだから。韓国市民は、北朝鮮と、脱北者を本部長にいただく公安から、二重の迫害を受ける。いや、それはある意味、北朝鮮以上の悲惨な状態ともいえる。公安の本部長は、北朝鮮政府に親族を皆殺しにされた犠牲者かもしれないが、韓国でやっていることは、反対派を一掃すべく、北朝鮮政府以上に残虐な迫害そのものである。北の将軍様の独裁政権と、南の全斗煥大統領の軍事独裁政権と、なにが違うというのか。

映画は、ソウル大学生の拷問死にはじまる民主化へといたる苦しい道のりを示しているが、とにかくこの暗黒時代を韓国民は脱することができた。学生運動をはじめとする大衆運動の力が強かった(もちろん軍による社会活動や反政府運動の弾圧も、ハンパないものがあったのだが)。そしてもうひとつ当時の韓国メディアに根性があった。いっぽう今の日本は、まちがいなく、1987年以前の韓国の独裁体制へとまっしぐらに進んでいる。メディアも骨に抜きにあっている。3S政策(Screen(スクリーン=映画)、Sport(スポーツ=プロスポーツ)、Sex(セックス=性産業))は、大韓民国においても過去に猛威をふるった――「3S政策は、1979年の粛軍クーデター(12·12軍事反乱)と1980年の光州事件(5∙18光州民主化運動)の武力鎭圧を経て権力を執った全斗煥の第五共和国政府が、国民の関心をスポーツとエンターテインメントの方に向けて、反政府的な動きや政治、社会的な問題の提起を無力化させる目的で施行した多くの愚民化政策をまとめて言う表現である」(Wikipedia)とある。だが、これは韓国にあっては過去の話あるいは、韓国の前政権の話だったかもしれないが、日本では、現在、そして未来の話でもある。

ただ、唯一の希望は、韓国では、1987年にはこの3S政策にもかかわらず、国民が立ち上がって軍事独裁政権を倒せたのだから、日本でも、現在の3S政策にもかかわらず、国民が立ち上がる可能性はゼロではないだろう。限りなくゼロに近いとしても。

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2018年09月16日

『受取人不明』

土曜日の午後の赤坂RedTheaterは、前日の彩の国さいたま芸術劇場とは違って満席だった。まあ地下鉄赤坂見附の駅から徒歩3分くらいという場所のよさもこれに関係しているかもしれない。

ちなみに小田島創司君の初(と思うのだが)の翻訳の台本による上演であって、最初、朗読劇ということだったが、最終的に劇場の通常公演となったことがわかった。チケットを取ってもらったのだが、受付で支払いをしようとすると、招待ということだった。すこしでも金銭的に貢献というか寄与したいと思っていたが、今回は招待をありがたくうけることにした。


となると私が割り当てられた席は劇場のなかでも一番全体がよく見渡せる席で、おそらく関係者席だろう。観客は女性が多いが、私のいる列は、くそ爺ばかりで(まあ、私もその一人だが)、年寄りだから脳細胞が少なくなっているから、劇がはじまると、私の両隣の特久蘇時事異どもは、ふたりとも首をたれはじめた。私の左側の人は途中から立ち直ったのだが、右隣の句素自恃伊は、最後まで夢うつつで、最後、拍手すらしようとしない。なにも理解できなかったのだろう。まあ、それはそれでいい。しかしこういう脳細胞の少ない輩は、黙って眠っていればいいのに、邪魔をはじめる。もっている荷物がガサゴソと音をたてる。音をたてないように、周囲に邪魔にならないように足元に置くことは簡単にできそうなのに、あえてそうしない。わけのわからないことをやっているので、邪魔してやりたいのだ。私は、右隣の糞爺が音をたてるたびに、「うるさい糞爺。とっと帰れ」と小声で聞こえないように言っていたが、まあ、注意をすればいいと思うかもしれないが、注意された相手が逆上して、大騒ぎになると、私が上演を邪魔したことにもなるので、あくまでも聞こえないように。しかし上演が無事終わった時に、一言なにか言ってやろうと思ったら、もう逃げるように、いち早く帰っていった。

どうか、関係者を呼ぶときは、演劇をはじめてみるような、あるいは翻訳劇をみたことのないような脳細胞減少者を呼ばないでほしい。本人も嫌だろうし、周囲はもっと迷惑する。またどうしても呼ぶときは、くれぐれも、面白くなくても周囲の邪魔をしないように、つまらなかったら寝ていればいいと(どうせお金は払っていないのだから)、どうか言い含めておいてほしい。脳細胞減少者は、自分の気に入らないこと、不満におもうこと、面白くないことに出会うと、妨害しはじめる。がさごぞと音をたてる。今回は、その音が、それほど大きくなく、上演の邪魔にはならくてよかったが、以前も、招待されたとき、私の後ろの席で、上演中ずっと持ち物をいじって、がさごそと音を立てる脳細胞減少者がいて、上演が終わったとき、どんな馬鹿がと振り返ったら、もういなくて、かすかにそれらしい馬鹿の後ろ姿しかみえなかった。


くだらない話で、貴重な上演の話が中断してしまった。

『受取人不明』は、アメリカ人とドイツ人の手紙のやりとりによって進むドラマで、セリフは、交わされる手紙の文面である。それ以外のセリフはない。セリフは、手紙の文面からはなれることはない。だから最初、朗読劇でやろうとしたことに意味がないわけではない。演ずる者が、自分の書いた手紙の文面を朗読すれば、よく、相手は、手紙を黙って読んでいる演技をすればいい。

それで昭和歌謡だが、太田裕美の大ヒット曲「木綿のハンカチーフ」(作詞 筒美京平)を思い出した。19751221日に発売されたそれは、田舎から都会に旅立つ若い男と、田舎に残って男の帰りを待つ若い女との掛け合いの曲だった。太田裕美が一人二役で男と女の言葉を使い分けるのだが、歌の印象としては、男女が向き合って話しているのでもなく、電話で話しているのでもない、言葉に距離感があって、歌詞は手紙の文面のように聞こえる。そしてこの歌のポイントとなるところは、男が「都会の絵の具に染まる」こと、つまり男の気持ちが都会生活のなかで、田舎に残したかたちの女から離れていくことである。二人の精神的距離は徐々に大きくなり、最後に、男が田舎の女のもとにもどらないことがわかる。すると女のほうは、最後のわがままとして、男から贈り物を求めるのである――涙ふく木綿のハンカチーフを。

私が昭和歌謡の『木綿のハンカチーフ』を思い出したのは、理由のないことではない。この『受取人不明』は、いま述べたように、手紙の文面だけをセリフとする演劇である。登場人物は二人。一人が自分で書いた手紙の文面を音読しているとき、もう一人は、その手紙を読んでいる。二人芝居である。問題は、二人がユダヤ人(ユダヤ系アメリカン人)とドイツ人であることだ。手紙はアメリカとドイツを行き来する。しかも時代は、ヒトラー率いるナチスが政権をとった1933年に設定されている。ドイツの友人は、時代に流され、ナチス党員となり、二人の決裂はもはや避けることができなくなる。

ドイツとアメリカというかたちで、離れ離れになった二人の友情が切り裂かれていく時代の流れと過酷な運命に観るものは戦慄すら覚える。いや、仲の良かった二人の間に精神的距離ができるのは、遠距離恋愛のなかで冷めていく恋人どうしの仲を見るようで、せつないことこのうえもない。ただ、ここまでは初期設定から予想できることである。

どうやって落としどころをもうけていくのか。それが後半の、ある意味、さらに驚愕的な展開のなかで、明らかになっていく。

以下、ネタバレ。もし読みたくない人がいれば、ネタバレ終了まで、飛ばしてほしい。


ふたりが決裂した後も、アメリカのユダヤ人の男から、女優をしている妹が、劇団の一員としてドイツに公演旅行に出かけたが、ユダヤ人であることが分かり、トラブルに見舞われ、官憲というか突撃隊に追われることになったので、安否を確認してほしいという手紙が、届く。ドイツのかつての友人に。またアメリカのユダヤ人の男の妹と、ドイツの男とは、かつて恋人どうしでもあったらしい。だが、いまは家庭を持ち妻が妊娠中のドイツ人の男は、彼女が救いをもとめてドアをたたいても、助けなかった。ここで運命が急転する。


すでにこのブログでも書いたように、近年、ファシズムの嵐が吹き荒れていることもあり、たとえばナチズムを扱う映画、あるいはホロコースト関連映画が、あるいは舞台などもそうだが、多いように思う。そんななか、テーマとして取り上げられることが多いのは、たとえみずから犠牲になっても、迫害される者たち助ける人びとの行動である。諸国民の正義の人々、迫害される人々に、みずからの危険をかえりみず救いの手をさしのべる善き人。この『受取人不明』もまた、そうした「善き人」のテーマをもつ作品であることがわかる。もちろん、今回は、善き人になり損ねた人、善き人たることを拒んで地獄に落ちた人というかたちでの変奏なのだが。


だからこのドラマで起こっていることは、迫害される人を自らを犠牲にしてまで危険をかえりみず助ける善き人の対極にある、体制側の官僚でナチス党員で妻が妊娠中で小市民の安定した生活にしがみつくあまり、かつての恋人だったかもしれないユダヤ人女性を見殺しにする男の話である。もし義の人のテーマが、絨毯の美しい表面だとすれば、ここにあるのは、殺されかけている人を見殺しにする人間の屑ともいえる男の話、義の人のテーマの絨毯の、見苦しい裏面なのだ。


そして妹を殺されたというか、妹を救ってもらえなかったユダヤ系アメリカ人の男の復讐がはじまる。まさに意表を突く展開なのだが、アメリカから、このすでに決裂したドイツの友人のもとに、営業報告をかねた謎の電報なり手紙が送られる。最初、観ている側も何の手紙かといぶかる。そのビジネスライクな注文書であり報告書でもあるその手紙は、なにかの暗号であるかのようにみえる。ドイツ人の元友人は、それが何の暗号かわからない。実は、それがユダヤ系アメリカ人の男の冷酷な復讐であって、アメリカからわけのわからない、暗号めいた手紙が届くドイツの男は、ユダヤ人協力者か反逆者と疑われ処刑されるのである。


妹が逮捕され処刑されたことを「受取人不明」で返送されてきたことをとおして知ったユダヤ系アメリカ人の男は、今度は、ドイツ人の元友人にあてた手紙が「受取人不明」で返送されたとき彼の復讐が終わったことがわかるのである。


助けを求めた女性を見殺しにしたドイツ人は、人間の屑であることはまちがいないが、その男を破滅させるこの復讐の冷酷さに対しても戦慄を覚える。ユダヤ人の、なんと残酷な復讐なのかと恐れおののくとすれば、それは一面で正しい反応だが、また一面で物の真相をみぬいていないともいえる。


実際、その謎めいた暗号が何を示唆しているのか考えてもいい。アメリカのユダヤ人から送られてくる謎めいた手紙は、もちろん、それがどんな暗号なのか、観客は正確に知ることはないし、そもそもいかにも暗号めいた手紙を出して、その男を陥れようとするのだから、正確な暗号あるいは意味を詮索しても意味がない。しかし、その暗号は、やがてドイツの官憲にも疑われる、その手紙の暗号は、ドイツの元友人が、ユダヤ人協力者で、ユダヤ人をかくまい、ユダヤ人の国外逃亡を手助けするグループの一員もしくはグループの中心人物であるかのように暗示している。ユダヤ人の元恋人であった女性を、見殺しにしたこの男を、皮肉なことにユダヤ人を助けたシンドラーとか杉原千畝のような人物に仕立て上げているのだ。


ここにあるのは痛烈なアイロニーだろう。ユダヤ人の女性を見殺しにしたナチス党員をあろうことか、その正反対のユダヤ人を救うヒーローにしたてあげているのだから。だが、この究極のアイロニーは、また、その憎しみの極みにおいて、その冷酷な復讐の極致において、友情、それも失われた友情の証でもあるからだ。なぜなら、ドイツ国内においてナチスの目を盗んでユダヤ人をかくまい国外逃亡させる「諸国民における正義の人」であるかのように、ドイツの友人を扱うことは、その人物がそうであったかしれない可能性を、また、まだそうなることが失われたわけではない可能性を示し、相手に最大限の敬意をはらうことなのだ。もし私が、ある犯罪者に対して、この人は人類を救うヒーローだと私には見えると語ることは、その犯罪者に対する最大の侮辱となるのかもしれないが、同時に、その犯罪者に対する最大の敬意でもある。人間を、その可能態でみることは、侮辱であると同時に尊敬でもある。かつてユダヤ人であることなど関係なく友情関係にあった人物を、ナチス党員にかわり、友情の決裂を宣言してきただけでなく、昔のよしみで助けをもとめた女性(自分の妹)を、ユダヤ人の救済者、善き人として扱うことは、相手に対する敬意と、友情の証し、いや回復されるかもしれない友情への最後の希望でもあった。たとえユダヤ人を見殺しにしても、いいわけをして自己正当化に徹するのではなく、みずからの危険をかえりみず、ユダヤ人を救う人間になっていたら、このユダヤ系アメリカ人の男は、たとえ自分の妹を殺されたとしても、相手を許すはずである。ユダヤ人を救うことは、特定の民族に対して便宜を図ることではない。それはナチスという人類に対する冒とく、人類への裏切りに対して、人類に貢献し、人類を支えることでもあるのだ、ユダヤ人を殺した者が、ユダヤ人の救済者になった場合、それを許すことが、人類への貢献なのだ。


だから、この最後の暗号めいた手紙群は、ドイツの元友人を、ユダヤ人救済者に仕立て上げて官憲に疑わせる、破滅させるという復讐行為でありながら、同時に、失われた友情を悔やみながらも、同時に、救済者になる可能性をもつ人間として相手を最大限の敬意をもって遇する友情の証でもあるのだ(ちなみに、私は、このことをシェイクスピアの『ヴェニスの商人』から学んだ。返せなかったら肉一ポンドをとるという条件で金を貸すことは、恐ろしい復讐の可能性を示唆しつつ、同時に、無利子で金を貸すという友人や同胞に対する友情の証でもあり、さらにそれは友情を超えた血のつながり、血肉の関係をむすぶことへの提案でもあるのだから)。


こうして最後は復讐を果たした男の狂気にも近い笑いが響き渡るとともに、同時に、それは号泣にかわる。友人であったがゆえに復讐し、友人であったがゆえに最後まで希望をもっていた人間(この場合はユダヤ系アメリカ人の男)の絶望と希望、成就感と虚無感、怒りと悲しみ、それが最後に舞台に炸裂する。、


ネタバレ終わり

ここで舞台は暗くなる。劇場全体が暗くなる。そして本来なら、再び明るくなった時、そこに演じた二人の男性俳優が登場し、拍手をもらうという段取りになるはずだった。しかし、今回、舞台が劇場が暗くなって、これで上演終わりとなったとき、カーテンコールが始まる前に、すでに拍手をする観客がいた。

いや、それは段取りを間違っている。これから明るくなってから、拍手をすればいいと思ったのだが、これは段取りを間違えたというよりも、明るくなってカーテンコールを受けるのを待ちきれなくなって観客が拍手をはじめたということだろう。これはある意味、スタンディング・オべイションと同じではないかと思った。それほど感動的な脚本であり感動的な舞台であった。


posted by ohashi at 22:45| 演劇 | 更新情報をチェックする

2018年09月15日

『お気に召すまま』1

河合プロジェクトのシェイクスピア作『お気に召すまま』を世田谷パブリック・シアターのトラム・シアターではなく、彩の国さいたま芸術劇場の小ホールのほうで観た。河合先生の新訳と演出によるもので、水準以上の優れた公演になることは予想できるので、安心してみることができ、また人にもすすめられる。シェイクスピア劇の世界は、これだと誰にでも奨めることができる上演であり、できるだけ多くの人にみてもらいたいと思う。もしシェイクスピア劇を舞台で観たことがない中学生や高校生(いや小学生でもいい)の子どもとか、親戚の者がいたら、私は躊躇もなく、この上演をすすめていただろう。多くの人にみてもらいたい舞台。彩の国さいたま芸術劇場の小ホールは、どこに座ってもよくみえる。席のよい悪いはない。また当日券もまだあると思う。

私が見たのは金曜日の午後の回だったので、空席もめだった。週日の午後の上映は、埼京線の与野本町駅から徒歩で5分から10分の間の距離(行きにくい場所ではないのだが)というのは、やや奥まった感があるし、小ホールは、芸術劇場のなかでも、さらにちょっと奥まったところにあるので、奥の奥というイメージがないわけではない。神奈川芸術劇場にも東京芸術劇場にも私は乗り換えなしで地下鉄で行けるところに住んでいる。神奈川芸術劇場での公演の場合、夜9時くらいに終わると、予想以上に早く終わった、あとは地下鉄の始発で帰るだけだと劇の余韻をあじわいながら元町・中華街駅へと向かうのだが、彩の国さいたま芸術劇場の場合、与野本町駅のホームに夜の9時に立っていると、今日中に帰れるのかと不安になる。理由もなく不安になる。地の果てにきている(失礼)とついつい思ってしまうのだが、しかし実際には930分には自宅の最寄り駅に到着している。電車に乗っている時間よりも、ホームで待っている時間のほうが長いくらいである。私の不安な無根拠なのだが、私と同じように感じている人がいたら、それは克服できる不安である――与野本町は、そんなに遠いところにはない。

河合祥一郎先生の新訳による『お気に召すまま』は、翻訳者と演出家が同じなので(しかも、シェイクスピア研究者として三役を一人でこなすことになるので(シェイクスピア研究者なら、三役をひとりでするのは当たり前と思うかもしれないが、これはめったにないことであって、河合氏ならではの、ある意味、偉業といっていい)、シェイクピアの上演に関しても、シェイクスピアの台詞に関しても、きわめて配慮のゆきとどいた処理をしていて、重要なところを加工したり捨ててはいない。つまり自分で翻訳をしていない演出家の場合、台詞を大胆にカットしたり、ときには変更することもいとわないかもしれないが、演出家が翻訳家である場合、またさらにシェイクスピア研究者である場合、どの細部もなおざりにしない、丁寧な演出を期待できる。それがよいところでもあって、『お気に召すまま』という作品は、その設定によって、笑いをとるだけではなく、言葉のやりとりにも大きな比重を置いている。残念ながら、オリジナルの作品における漫才めいたやりとりは、現代人には理解しがたい、ある意味、退屈なところであって、忠実に再現すれば、ひたすら退屈、逆に大幅にカットすれば、退屈はしなくても、原作の味わいからは離れることになる。それが今回の河合氏の演出ではバランスがとれていて、言葉のやりとりも省略をせず(省略はあったとは思うが、私は気づかなかった)、漫才的掛け合いも、爆笑はしないものの、それが漫才的であることはよくわかって、はじめて言葉のやりとりも退屈しない『お気に召すまま』を見たような気がする。この点は、どんなに強調しても強調しすぎることはなく、自信をもって誰にでも今回の上演をすすめることができるゆえんでもある。

ただ意表を突く試みもなされていて、配役表もみていて、道化のタッチストーンと、シニカルな厭世家のジェイクィーズが一人二役であって驚いた。そうか二人は、劇中で、直接出逢うことはなかったのかと、私自身の不明を恥じたのだが、そんなことはない。二人は劇中で出会う。また言葉もかわす。では、どうしたのか。それは舞台をみて、笑っていただくほかはないのだが、これは河合演出の遊びの部分だろう。もちろん、そこに人間は演技者であるという、この劇のテーマを絡めている(意表をつくかたちで)のだが、しかし、基本なお遊びだろう。しかし、だからとってお遊びが悪いということはない。

実は原作でも遊んでいるところがある。『お気に召すまま』では、主人公のひとりオーランドに仕える老召使アダムは、シェイクスピア自身が演じたと言われている。もちろんこのことはお遊びでもなんでもない。シェイクスピアは、劇団員であっても、まず俳優であり、その俳優が劇作家にもなったのだから。そこはいいのだが、この作品には、田舎者のウィリアムというが登場する。これはなんで登場するのかよく分からないし、カットされることもあるのだが、このウィリアム、自分は頭がいいとうぬぼれているのだが、田舎者で、学はない。しかもオードリーという、さほど魅力もない田舎女に惚れているのだが、オードリーからも馬鹿にされ疎まれている。この田舎者の馬鹿ウィリアムは、当時、ウィリアム・シェイクスピアが演じたのではないかと言われている。田舎出の学問のない、己惚れ屋ウィリアムこそ、ウィリアム・シェイクスピアの自虐的自画像であるということになる。とはいえシェイクスピア自身が、このウィリアムを演じていたかどうかわからない。もしシェイクスピアがアダムを演じていたのなら(アダムとウィリアムのダブリングは可能)、そのアダム=シェイクスピアにむけて、シェイクピアをからかう台詞をいれたというのは、自虐的アイロニーの極致あるいは、お遊びの極致かもしれない。当時、わかる人にはわかるということだろう。

そんな話は聞いたこともないというなかれ。2016年だったが青木豪演出で本多劇場でのオール・メールの『お気に召すまま』(松岡和子訳であったかと思う)では、ウィリアムズを、シェイクスピアにそっくりの顔立ちにした俳優が演じていて(そのことはDVDあるいは上演パンフレットの画像からもわかる)、ウィリアム=ウィリアム・シェイクスピア説を知っているのだと感心したことがある。

ともあれ河合プロジェクトも、シェイクスピア自身も、遊びの部分を、この作品に加えていることは興味深い符号化と思った。

『お気に召すまま』の初演当時、劇団では背の高い少年俳優と背の低い少年俳優をペアで使うことも多く(当時は少年俳優が女性を演じていた)、実際、この作品でも背の高いロザリンドと背の低いシーリアという、いとこ同士だが、姉妹のように仲の良い女性が登場する。『夏の夜の夢』でも、背の高いヘレナと、背の低いハーミアが登場する。今回の舞台でも、シェイクスピアは、このような舞台を望んでいたのではないかということを、研究者の鋭い感性によってくみとった河合演出では、背の高いロザリンドと背の低いシーリアを登場させた。


ただ小柄なシーリアではあるが、徐々に存在感をましてゆき、ロザリンドとオーランドの恋が佳境に入るころは、シーリアの存在が、ある意味、障害になるほど大きくなる。そのためシーリアは、存在が邪魔にならない処理を原作でほどこされる。オーランド兄オリヴァーと一目ぼれの関係になるのだ。そしてオリヴァーと仲良くなり結婚の約束をするシーリアは、あれほど雄弁だったシーリアは、一言もしゃべらなくなる。実は、このシーリアの沈黙は、原作における最大の問題点で、ロザリンドとシーリアという女性どおしの友情は、最後には消滅して、それぞれの男の夫として離れ離れになる。いっぽうオリヴァーとオーランドという仲の悪い兄弟は、最後には和解する。男は、最後には仲良くなり、仲の良い女性は、引き裂かれる。そこに、この劇、いや、父権制のもっている過酷さがある。だが、そんな小難しい話はやめてほしいというのなら、ただ、あれほど魅力的だったシーリアが、原作において沈黙させられるのは、残念な気がする。

河合演出は、シーリアの魅力をたっぷりみせてくれるという点で、ある意味出色の演出だったといえよう。アフターパーファーマンス・トークでも、シーリアに魅力を感じていた女性観客もいたようで、演じた女優と河合氏の演出の相乗効果によって、みごとなシーリアをみることになった。

そのためかどうかわからないが、劇の最後でシーリアが声を奪われるのを残念に思ったのかもしれない河合氏は、最後の大団円の直前に、シーリアを演じた女優に歌を歌わせることにした。シーリアとしてではなく、追放された公爵に付き従う元廷臣のひとりとして歌をうたう。つまり、一人二役なのだが、観客にはシーリアを演じた女性が、いま、公爵の従者のひとりとして歌を歌っているのだとわかる。おまけにその歌がうまい。声を奪われたシーリアに、最後に声を与えた河合氏の心優しさに感動すら覚えた。

たとえば少し前、山田洋次監督が小津安二郎の『東京物語』をリメイクした作品があった。あの、上京した老夫婦が、リア王みたいに、東京の子どもたちに嫌われ、家をたらいまわしにされる『東京物語』で小津安二郎が描く世界は、人間関係が震えがくるほど冷酷である(まあ絵の構図も冷たいのだが)。同じ題材を扱いながら山田洋次監督のリメイク版は、オリジナルの冷酷さを緩和している。あるいは冷たさを感じられない工夫が随所にみられるのであって、山田監督のやさしさのようなものに感銘すらうけた。

もちろん冷たいのは、小津安二郎監督自身でもなければ、シェイクスピア自身でもなく、それが描いている世界である。『お気に召すまま』では最終的にシーリアに沈黙をしいるのは、ジャックはジルと結婚せねばらなない約束事を守らざるを得ない喜劇の掟であり、ひいてはそれは結婚という制度のもつ暴力的ともいえる強制力である。まあ、私のように、生産性を重視される結婚制度に対してなんら幻想をいだいていない者にとっては(おそらく劇作家としてではなく、実生活におけるひとりの人間としては、シェイクスピアも結婚に幻想などいだいていないのと思うのだが)、結婚について、喜劇の約束事としても、現実としての強制力としても、その不条理な顔、ふだんは隠れているか着目されることのない陰惨な側面を、『お気に召すまま』は、それとなく示している――それがシーリアの沈黙なのである。

『お気に召すまま』の最後でシーリアに間接的に声を与える河合演出は、声を奪われたシーリアの過酷な運命をやわらげることになった。誤解のないように言えば、だから河合演出は微温的であるとか、制度の暴力性を糊塗するイデオロギー的処置などというつもりはない。『お気に召すまま』では、生産性を重視する結婚制度の暗い面が随所に暗示される。にもかかわらず最後に結婚が祝福される。道化のジェイクィーズは、その慧眼と鋭い批判性によって、結婚や男女の恋愛についてシニカルな観点しかもっていないように思えるのだが、そのジェイクィーズですら、みずからすすんで、結婚制度に身をゆだねる。この劇は批判や諷刺の劇ではなく、和解の喜劇である。だから、いたずらに暗黒面に対する示唆を強調することは、劇の方向性を無視することにもなる。河合演出が、シーリアに対しては心優しすぎるということで批判されることがあってはならない。むしろ、その演出によって、シーリアの沈黙に声があたえられたとともに、シーリアに課される沈黙にも注意がむくかもしれないからだ。心優しければ優しいほど、闇をくみ上げる。実際のところ、初めてシェイクスピアの『お気に召すまま』を見た観客は、シーリアの沈黙に気付くとはまずない。河合演出は間接的なかたちでその沈黙を喚起しているのである。


つづく

posted by ohashi at 21:53| 演劇 | 更新情報をチェックする

2018年09月07日

集中講義と越谷

この93日から6日まで、文教大学越谷キャンパスで、集中講義をおこなった。内容な文学部で現代文芸論の概説と同じ内容。半期でおこなっている授業を4日に集約して、毎日おこなうため、多少アレンジはしているが、内容は同じ。途中、台風で、授業が休講になったりして混乱したこともあったが、講義の出来不出来はともかく、無事に終わったのでほっとしている。後期(Aセメスター)に集中講義の予定はないので、おそらくこれが人生最後の集中講義となった。

以前、私の指導院生であった人物が、文教大学の専任教員なので、私としても、頼まれたら、よほどのことがないかぎり、断ることはできない。私のような老人の講師は、若い学生たちにとって、良い影響をあたえるかどうかわからなかったのだが、あれこれ考えていてもしかがたない。きめ細かな配慮と準備をしてもらい、教える側としてはなんらストレスなく終えることができた。まあ、長い間、してきた授業を本にできればという気もするのだが、辞めていく老人の古臭い話は、誰も読みたいとは思わないだろう。

あと、今回は、私が自宅から大学に通った、生まれてはじめて集中講義となった。これまでは、自宅からは通えない遠いところで(本州と九州で、それ以外のところではしたことがないのだが)の集中講義なので、大学の近くか、大学内の宿泊場所から、教室に通ったのだが、今回は、自宅から毎日通うことになった。初日は、移動時間、乗り換え時間がよくわからず、早めに到着しすぎ、時間ピッタリに到着することができたのは木曜日、つまり最終日だった。

この間、越谷、北越谷、南越谷、新越谷といった駅を毎日利用したり通り過ぎたりして、これまであまりというか全然知らなかった越谷近辺に親近感をもつようになった。大学のある駅以外で下車したわけではないが、今後、時間があれば、途中下車して散策してみたいと思うようになった。

そんな時、NHK総合テレビで、 「孫、祖母、先祖の三つの世代が織りなす、クスッと 笑えてキュンとなる越谷発ホームコメディー」という「埼玉発地域ドラマ『越谷サイコー』」が、9月24日(月・休)午後5時から総合テレビで放送予定だったことを知った。BSプレミアムでは今年2月に放送済みだったドラマだが、その時は、越谷は、名前のみ知っている地域で、さしたる関心もなかったので、見ていない。

9月24日から放送予定だったというのは、吉澤ひとみが事件を起こして警察に逮捕されたからである。

9月24日(月・休)午後5時から総合テレビで放送予定だった埼玉発地域ドラマ「越谷サイコー」の放送を中止することにしました。番組の出演者が逮捕されたことを受け、NHKとして総合的に判断しました。

NHKのホームページにある。

吉澤ひとみは6日午前7時頃、飲酒運転で、東京・中野区の路上で自転車に乗った20代女性をはねて逃走した疑いがある。幸いはねられた女性は大きな怪我ではなかったようで、まあよかったのだが……。犯罪には重い軽いがあって、今回は、重犯罪か軽犯罪か、どちらに分類される微妙なところかもしれないが、私にとって、吉澤は、重罪である。せっかく楽しみにしていたテレビの放送だが、おそらく永久に見ることができなくなった。私はこのドラマを見ることなく死んでゆくのだ。吉澤ひとみ、モー娘。時代は、けっこうファンだったのが、もう絶対に許せない。

追記:ドラマはブルーレイ/DVD化されるのだろうか。もしされなかったら、吉澤ひとみ、絶対に許さない。

posted by ohashi at 08:45| コメント | 更新情報をチェックする

2018年09月05日

親密さへの恐怖

まあ、これは私が天邪鬼なのだということはわかっているが、たとえば気にいった喫茶店があったとする。ほんとうに気に入っているので、たまたま普段とは異なる場所にでかけたときに、みつけた喫茶店だったりすると、そちらの方向に用がなくても、わざわざ出かけたりして、好きでたまらなくなる。当然のことなのだが、むこうのほうも、足繁く通ってくる私のことを認識し始める。そうなるとレジで精算するとき、突然、いつも来ていただいてありがとうございますと声をかけられることがある。そんなとき、それ以後、その喫茶店には二度と行かないことにしている。

別に喫茶店の側に問題があるのではない。よく通ってくる客に対して声をかけ、得意客として認知していることを知らせ、ときにはサービスすることは、むしろふつうである。しかし、私としては、たとえ得意客としても、黙って放っておかれるのがよいのであって、得意客として特別扱いしてほしくない。あくまでも匿名の客として扱ってほしい。行きずりの見知らぬ旅人として扱って欲しいし、そのほうが気が楽であって、逆に得意客となり、仲良しとなり、最終的に職業や仕事の種類から、家族のことや、友人関係、経歴や個人的経験など、話さなければならなくなる関係になるのは、願い下げだと考えている。自分のなかに足を踏み入れられるのは嫌であるからだ。

もちろん、くりかえすが、この場合、喫茶店の対応を批判しているのではない。得意客だとわかったら、特別サービスをしていいし、そうすればその客が、さらに別の客を連れきて、店の評判があがるかもしれない。そもそも自分から足繁く通ってくる客は、あきらかに店側に認知してもらいたいと願っている。店側もその意を汲んで、親密な関係を築こうとする。なんらおかしなことはない。私だって、たとえば、私の担当する授業によく出席してくる熱心な学生がいたら、チャンスを見て、声をかけ、仲良しになろうと思う。それは互いの利益になるかもしれない。しかし、もし私が親しげに声をかけた学生が、次の回から一切授業に出てこなくなったら、私としては心配になるし、またときには私は憤慨するかもしれない。だから繰り返すと、親密になろうと接近してくる側に、批判されるべきところは、なにもない。私が親密性に対する抵抗、あるいは恐怖があるだけである。

演劇、それも大劇場の演劇よりも、小劇場の演劇のほうがそうかもしれないが、上演後に俳優あるいは劇団関係者との交流の場を設けていることが多い。この場合、上演は、ただ上演・パフォーマンスで終わるだけでなく、そうした交流もふくめてのイヴェントとなっていると思う。生身の人間が舞台に立ち、それを手を伸ばせば触れることができるくらいの距離でみていれば、上演後に、俳優や演出家や劇団関係者と交流しないことのほうがおかしいといもいえる。せっかくのチャンスを、つまり映画とか大劇場の上演では得られないチャンスを棒にふるのは、もったいなさすぎる(もっとも大劇場の場合でも楽屋訪問というかたちでのアフター・パフォーマンスのイヴェントはあるし、楽屋の出待ちそのものがイヴェントと化していることもあるが、参加者は限られる)。

もし私が劇団とか上演する側の関係者だったら、上演後も、見に来てくれた人たちと話をして、いろいろ反応をじかに聞いてみたいし、実際、それは有益かつ楽しいことなので、望ましく求められていることだと思うだろう。問題は、私自身がそれを嫌いだからで、上演が終わればすぐに帰る。その場からできるだけ早く離れたい。これは上演に不満だからではないし、自分の見た感想を伝えたくないからではない。親密さへの抵抗と恐怖があるからで、だからこそ、映画は、見たら、あとはさっさと帰るだけでいいので、気が楽である。

くりかえすが、自分の感想は伝えたいと思うのだが、アンケートに書いたり、その場で伝えることは嫌いで、あとから、たとえばこうしたブログで伝えたいとは思うだけである。

まあやっかいな人間なので、私と親密になろうとした人たちに対して、拒絶したことをお詫びしたい。私が、そちらの立場だったら親密になろうとしたのは、まちがいない。ただし、今後も、私の姿勢は変わることはないのだが。

posted by ohashi at 22:43| エッセイ | 更新情報をチェックする