土曜日の午後の赤坂Red/Theaterは、前日の彩の国さいたま芸術劇場とは違って満席だった。まあ地下鉄赤坂見附の駅から徒歩3分くらいという場所のよさもこれに関係しているかもしれない。
ちなみに小田島創司君の初(と思うのだが)の翻訳の台本による上演であって、最初、朗読劇ということだったが、最終的に劇場の通常公演となったことがわかった。チケットを取ってもらったのだが、受付で支払いをしようとすると、招待ということだった。すこしでも金銭的に貢献というか寄与したいと思っていたが、今回は招待をありがたくうけることにした。
となると私が割り当てられた席は劇場のなかでも一番全体がよく見渡せる席で、おそらく関係者席だろう。観客は女性が多いが、私のいる列は、くそ爺ばかりで(まあ、私もその一人だが)、年寄りだから脳細胞が少なくなっているから、劇がはじまると、私の両隣の特久蘇時事異どもは、ふたりとも首をたれはじめた。私の左側の人は途中から立ち直ったのだが、右隣の句素自恃伊は、最後まで夢うつつで、最後、拍手すらしようとしない。なにも理解できなかったのだろう。まあ、それはそれでいい。しかしこういう脳細胞の少ない輩は、黙って眠っていればいいのに、邪魔をはじめる。もっている荷物がガサゴソと音をたてる。音をたてないように、周囲に邪魔にならないように足元に置くことは簡単にできそうなのに、あえてそうしない。わけのわからないことをやっているので、邪魔してやりたいのだ。私は、右隣の糞爺が音をたてるたびに、「うるさい糞爺。とっと帰れ」と小声で聞こえないように言っていたが、まあ、注意をすればいいと思うかもしれないが、注意された相手が逆上して、大騒ぎになると、私が上演を邪魔したことにもなるので、あくまでも聞こえないように。しかし上演が無事終わった時に、一言なにか言ってやろうと思ったら、もう逃げるように、いち早く帰っていった。
どうか、関係者を呼ぶときは、演劇をはじめてみるような、あるいは翻訳劇をみたことのないような脳細胞減少者を呼ばないでほしい。本人も嫌だろうし、周囲はもっと迷惑する。またどうしても呼ぶときは、くれぐれも、面白くなくても周囲の邪魔をしないように、つまらなかったら寝ていればいいと(どうせお金は払っていないのだから)、どうか言い含めておいてほしい。脳細胞減少者は、自分の気に入らないこと、不満におもうこと、面白くないことに出会うと、妨害しはじめる。がさごぞと音をたてる。今回は、その音が、それほど大きくなく、上演の邪魔にはならくてよかったが、以前も、招待されたとき、私の後ろの席で、上演中ずっと持ち物をいじって、がさごそと音を立てる脳細胞減少者がいて、上演が終わったとき、どんな馬鹿がと振り返ったら、もういなくて、かすかにそれらしい馬鹿の後ろ姿しかみえなかった。
くだらない話で、貴重な上演の話が中断してしまった。
『受取人不明』は、アメリカ人とドイツ人の手紙のやりとりによって進むドラマで、セリフは、交わされる手紙の文面である。それ以外のセリフはない。セリフは、手紙の文面からはなれることはない。だから最初、朗読劇でやろうとしたことに意味がないわけではない。演ずる者が、自分の書いた手紙の文面を朗読すれば、よく、相手は、手紙を黙って読んでいる演技をすればいい。
それで昭和歌謡だが、太田裕美の大ヒット曲「木綿のハンカチーフ」(作詞 筒美京平)を思い出した。1975年12月21日に発売されたそれは、田舎から都会に旅立つ若い男と、田舎に残って男の帰りを待つ若い女との掛け合いの曲だった。太田裕美が一人二役で男と女の言葉を使い分けるのだが、歌の印象としては、男女が向き合って話しているのでもなく、電話で話しているのでもない、言葉に距離感があって、歌詞は手紙の文面のように聞こえる。そしてこの歌のポイントとなるところは、男が「都会の絵の具に染まる」こと、つまり男の気持ちが都会生活のなかで、田舎に残したかたちの女から離れていくことである。二人の精神的距離は徐々に大きくなり、最後に、男が田舎の女のもとにもどらないことがわかる。すると女のほうは、最後のわがままとして、男から贈り物を求めるのである――涙ふく木綿のハンカチーフを。
私が昭和歌謡の『木綿のハンカチーフ』を思い出したのは、理由のないことではない。この『受取人不明』は、いま述べたように、手紙の文面だけをセリフとする演劇である。登場人物は二人。一人が自分で書いた手紙の文面を音読しているとき、もう一人は、その手紙を読んでいる。二人芝居である。問題は、二人がユダヤ人(ユダヤ系アメリカン人)とドイツ人であることだ。手紙はアメリカとドイツを行き来する。しかも時代は、ヒトラー率いるナチスが政権をとった1933年に設定されている。ドイツの友人は、時代に流され、ナチス党員となり、二人の決裂はもはや避けることができなくなる。
ドイツとアメリカというかたちで、離れ離れになった二人の友情が切り裂かれていく時代の流れと過酷な運命に観るものは戦慄すら覚える。いや、仲の良かった二人の間に精神的距離ができるのは、遠距離恋愛のなかで冷めていく恋人どうしの仲を見るようで、せつないことこのうえもない。ただ、ここまでは初期設定から予想できることである。
どうやって落としどころをもうけていくのか。それが後半の、ある意味、さらに驚愕的な展開のなかで、明らかになっていく。
以下、ネタバレ。もし読みたくない人がいれば、ネタバレ終了まで、飛ばしてほしい。
ふたりが決裂した後も、アメリカのユダヤ人の男から、女優をしている妹が、劇団の一員としてドイツに公演旅行に出かけたが、ユダヤ人であることが分かり、トラブルに見舞われ、官憲というか突撃隊に追われることになったので、安否を確認してほしいという手紙が、届く。ドイツのかつての友人に。またアメリカのユダヤ人の男の妹と、ドイツの男とは、かつて恋人どうしでもあったらしい。だが、いまは家庭を持ち妻が妊娠中のドイツ人の男は、彼女が救いをもとめてドアをたたいても、助けなかった。ここで運命が急転する。
すでにこのブログでも書いたように、近年、ファシズムの嵐が吹き荒れていることもあり、たとえばナチズムを扱う映画、あるいはホロコースト関連映画が、あるいは舞台などもそうだが、多いように思う。そんななか、テーマとして取り上げられることが多いのは、たとえみずから犠牲になっても、迫害される者たち助ける人びとの行動である。諸国民の正義の人々、迫害される人々に、みずからの危険をかえりみず救いの手をさしのべる善き人。この『受取人不明』もまた、そうした「善き人」のテーマをもつ作品であることがわかる。もちろん、今回は、善き人になり損ねた人、善き人たることを拒んで地獄に落ちた人というかたちでの変奏なのだが。
だからこのドラマで起こっていることは、迫害される人を自らを犠牲にしてまで危険をかえりみず助ける善き人の対極にある、体制側の官僚でナチス党員で妻が妊娠中で小市民の安定した生活にしがみつくあまり、かつての恋人だったかもしれないユダヤ人女性を見殺しにする男の話である。もし義の人のテーマが、絨毯の美しい表面だとすれば、ここにあるのは、殺されかけている人を見殺しにする人間の屑ともいえる男の話、義の人のテーマの絨毯の、見苦しい裏面なのだ。
そして妹を殺されたというか、妹を救ってもらえなかったユダヤ系アメリカ人の男の復讐がはじまる。まさに意表を突く展開なのだが、アメリカから、このすでに決裂したドイツの友人のもとに、営業報告をかねた謎の電報なり手紙が送られる。最初、観ている側も何の手紙かといぶかる。そのビジネスライクな注文書であり報告書でもあるその手紙は、なにかの暗号であるかのようにみえる。ドイツ人の元友人は、それが何の暗号かわからない。実は、それがユダヤ系アメリカ人の男の冷酷な復讐であって、アメリカからわけのわからない、暗号めいた手紙が届くドイツの男は、ユダヤ人協力者か反逆者と疑われ処刑されるのである。
妹が逮捕され処刑されたことを「受取人不明」で返送されてきたことをとおして知ったユダヤ系アメリカ人の男は、今度は、ドイツ人の元友人にあてた手紙が「受取人不明」で返送されたとき彼の復讐が終わったことがわかるのである。
助けを求めた女性を見殺しにしたドイツ人は、人間の屑であることはまちがいないが、その男を破滅させるこの復讐の冷酷さに対しても戦慄を覚える。ユダヤ人の、なんと残酷な復讐なのかと恐れおののくとすれば、それは一面で正しい反応だが、また一面で物の真相をみぬいていないともいえる。
実際、その謎めいた暗号が何を示唆しているのか考えてもいい。アメリカのユダヤ人から送られてくる謎めいた手紙は、もちろん、それがどんな暗号なのか、観客は正確に知ることはないし、そもそもいかにも暗号めいた手紙を出して、その男を陥れようとするのだから、正確な暗号あるいは意味を詮索しても意味がない。しかし、その暗号は、やがてドイツの官憲にも疑われる、その手紙の暗号は、ドイツの元友人が、ユダヤ人協力者で、ユダヤ人をかくまい、ユダヤ人の国外逃亡を手助けするグループの一員もしくはグループの中心人物であるかのように暗示している。ユダヤ人の元恋人であった女性を、見殺しにしたこの男を、皮肉なことにユダヤ人を助けたシンドラーとか杉原千畝のような人物に仕立て上げているのだ。
ここにあるのは痛烈なアイロニーだろう。ユダヤ人の女性を見殺しにしたナチス党員をあろうことか、その正反対のユダヤ人を救うヒーローにしたてあげているのだから。だが、この究極のアイロニーは、また、その憎しみの極みにおいて、その冷酷な復讐の極致において、友情、それも失われた友情の証でもあるからだ。なぜなら、ドイツ国内においてナチスの目を盗んでユダヤ人をかくまい国外逃亡させる「諸国民における正義の人」であるかのように、ドイツの友人を扱うことは、その人物がそうであったかしれない可能性を、また、まだそうなることが失われたわけではない可能性を示し、相手に最大限の敬意をはらうことなのだ。もし私が、ある犯罪者に対して、この人は人類を救うヒーローだと私には見えると語ることは、その犯罪者に対する最大の侮辱となるのかもしれないが、同時に、その犯罪者に対する最大の敬意でもある。人間を、その可能態でみることは、侮辱であると同時に尊敬でもある。かつてユダヤ人であることなど関係なく友情関係にあった人物を、ナチス党員にかわり、友情の決裂を宣言してきただけでなく、昔のよしみで助けをもとめた女性(自分の妹)を、ユダヤ人の救済者、善き人として扱うことは、相手に対する敬意と、友情の証し、いや回復されるかもしれない友情への最後の希望でもあった。たとえユダヤ人を見殺しにしても、いいわけをして自己正当化に徹するのではなく、みずからの危険をかえりみず、ユダヤ人を救う人間になっていたら、このユダヤ系アメリカ人の男は、たとえ自分の妹を殺されたとしても、相手を許すはずである。ユダヤ人を救うことは、特定の民族に対して便宜を図ることではない。それはナチスという人類に対する冒とく、人類への裏切りに対して、人類に貢献し、人類を支えることでもあるのだ、ユダヤ人を殺した者が、ユダヤ人の救済者になった場合、それを許すことが、人類への貢献なのだ。
だから、この最後の暗号めいた手紙群は、ドイツの元友人を、ユダヤ人救済者に仕立て上げて官憲に疑わせる、破滅させるという復讐行為でありながら、同時に、失われた友情を悔やみながらも、同時に、救済者になる可能性をもつ人間として相手を最大限の敬意をもって遇する友情の証でもあるのだ(ちなみに、私は、このことをシェイクスピアの『ヴェニスの商人』から学んだ。返せなかったら肉一ポンドをとるという条件で金を貸すことは、恐ろしい復讐の可能性を示唆しつつ、同時に、無利子で金を貸すという友人や同胞に対する友情の証でもあり、さらにそれは友情を超えた血のつながり、血肉の関係をむすぶことへの提案でもあるのだから)。
こうして最後は復讐を果たした男の狂気にも近い笑いが響き渡るとともに、同時に、それは号泣にかわる。友人であったがゆえに復讐し、友人であったがゆえに最後まで希望をもっていた人間(この場合はユダヤ系アメリカ人の男)の絶望と希望、成就感と虚無感、怒りと悲しみ、それが最後に舞台に炸裂する。、
ネタバレ終わり
ここで舞台は暗くなる。劇場全体が暗くなる。そして本来なら、再び明るくなった時、そこに演じた二人の男性俳優が登場し、拍手をもらうという段取りになるはずだった。しかし、今回、舞台が劇場が暗くなって、これで上演終わりとなったとき、カーテンコールが始まる前に、すでに拍手をする観客がいた。
いや、それは段取りを間違っている。これから明るくなってから、拍手をすればいいと思ったのだが、これは段取りを間違えたというよりも、明るくなってカーテンコールを受けるのを待ちきれなくなって観客が拍手をはじめたということだろう。これはある意味、スタンディング・オべイションと同じではないかと思った。それほど感動的な脚本であり感動的な舞台であった。