フランソワ・オゾン監督の作品、ジョイス・キャロル・オーツの作品が原作なのだけれども、オーツには双子の話がけっこうあって、Lives of the Twinsという原作はもってもいないし読んでもないのでなんともいえないが、映画化作品というよりは自由な翻案のようだ。
フランス語のタイトルは二重の愛、ダブルの愛程度の意味で、二重螺旋というめんどくさい話ではない。二重螺旋というと、ワトソン、クリック、そして消された女性科学者という例の科学史上の有名な話があるのだけれども【彼女もまた、東京医大の女性受験生と同様、優秀な成果をあげながら、減点されて科学史から消されていた――以前、このブログにも書いた『Potograph51』のテーマだが】、DNAとか遺伝とか双子というテーマにつらならないわけではないのだけれども、見ているときには、そういう方向に思考はすすまないので、考え過ぎなタイトルかもしれない。この考え過ぎなタイトルが観客の足を遠ざけないことを祈るばかりである。くれぐれも二重螺旋でDNAを連想して、それで恋人がどうのこうのとわけのわからない連想して勝手に嫌いにならないでほしい。
というのもこの映画、すごくエロくて怖い。そういえばR18。エロいのも当然だが、マリーネ・ヴァクト(『17歳』の)エロい。と同時に、精神的な怖さのほかにもグロいところもあって――ちなみに、それはクローネンバーグ風――、ホラー映画として、心理面だけでなく物理面・肉体面でのホラーもあって、充分に楽しめる――震え上がるということだが。
映画のポイントは、どこまでが現実でどこまでが幻想・妄想なのか区別がつきにくくなることだ。だが最後にわかる。どこまでが現実か幻想かという問題は意味がなかったことを。すべてが妄想だったことを。
ただ、それによって現実感がなくなるというとそうではなく、どこまでが現実でとこまでが妄想かわからないということは、この妄想があまりにもリアルであって、妄想の源泉であった不安や恐怖を、これほどリアルに――つまり現実的ではないがゆえに現実的なイメージによって――伝えているものはないとわかり、そのリアリティの強度に圧倒されるのである。
ちなみにカエルは異物を飲み込むと、胃袋ごと外に出して吐きだすという。たまたまテレビのクイズ番組かなにかで、このことを知っていた私は、ベネチオ・デルトロ監督のダークファンタジ―『パンズ・ラビリンス』で人間よりも大きな巨大カエルが、呑み込んだ人間を胃袋ごと吐きだすという、どろどろ、ねばねばの場面があって、カエルの習性を良く知っているものと、感心したことを思い出す。
『二重螺旋の恋人』の主人公もカエルと同じで、耐えがたい真実を飲み込んだ彼女は、その異物感に耐えられず、胃袋ごと、異物を全部外に出したといえばわかってもらえるだろうか――実はまだ消化しきれずに出しきれなかったものが、そう、噛んでも噛んでもなくならないガムみたいに残っているというのが物語の肝となっているというとますますわかりにくくなるだろうか。まあ、わかりにくい比喩だが。とにかく、私たちが、先が読めないまま、時折、びくりとしながら見てきたのは、すべて彼女の内面そのもの、吐きだされた彼女の内面そのものだったのだ。
実際、彼女の内部にあるものがすべて吐き出されて彼女の現実が形成される。自分が双子ではないかという彼女の不安と恐怖は、彼女自身が男性の双子に悩まされるという現実=幻想になる。彼女が務めている美術館に展示されている気色の悪いオブジェは、彼女の肉体の内部にあった腫瘍である(それがわかる頃には、彼女がほんとうに美術館つとめていたのかどうかもわからなくなるというか、あの美術館は彼女の精神世界の外在化として不気味さを増す)。
彼女が診断をうけるのが精神分析医であることからも、映画の観客がみるのは、悪夢の世界であり、この悪夢のもとにある現実はなんであるのかと考える。まさに精神分析的世界であって、精神分析でいう防衛反応のオンパレードである。
つまり映画は、彼女の内面の苦悩が外面化される。内なる世界が吐き出されて外化される。そこまではいいとして、その起ち上げ時に、防衛反応によってさまざまな歪曲が加えられる。そのため観客は、彼女の悪夢の世界にとりこまれるのだが、防衛反応によって一次加工、あるいは二次加工された夢世界なので、観客にとっては、不気味さこそ増してもも、背後にある現実あるいは真実がみえてこない。そこが面白いのだが、繰り返す、真実が見えてこないのは、防衛反応に由来する加工と歪曲ゆえである。
と同時に、もしこれが彼女の悪夢の世界であるなら、それは彼女が真実をみないように、また自分を守るために作り上げた迷宮世界としても、ただ完璧に抑圧するとそこにあるのはお花畑でしかなくなってしまう。実はそうならないのは、夢が真実を隠蔽すると同時に真実を開示しているからである。つまりこの映画を観終わったあと、真実がみえてくるのだが、同時に、真実は隠されていたのではなく、最初からずっとそこにあったということにも私たちは気づく。真実であっても、それを真実として認めないがゆえに、その真実を、よごし、ねじまげ、原型をとどめぬまま切り裂くが、それでも真実が消化できないガムのように残存する。それが不気味さの淵源である。まさに精神分析的。映画の中で彼女が相談するのは精神分析医という設定は無意味ではなかった。
防衛反応について、例をあげれば、たとえば私が母親を憎んでいるとする。母親は決して悪い人ではない。その母親を憎むのがよくないとわかっている私は私を罰すると同時に、母親を隣に住んでいる母親と同年齢の女性と同一化する、あるいは母親は隣人の女性、赤の他人であると妄想する。ただし私の妄想にもいくばくかの真実があって、私が母を憎むのは、母からも実は疎まれているからである。したがって私を憎む母は、私にとって他人も同然である→他人そのものである。もし私の妄想世界あるいは夢のなかを他人がのぞいたら、どうなるのだろう。たとえば、一般論として語れば、ある人物が初対面の隣人の女性の家を訪問する。礼儀正しくその女性と会話するのだが、その女性は、どういうわけかその彼もしくは彼女のことを良く知っていて、さらには図々しくも、彼もしくは彼女の生活態度を批判し、生き方を指南する。わかるはずもない彼もしくは彼女のプライヴェートな部分を知っている。不気味である。この見知らぬ隣人の女性は、まるで彼もしく彼女の母のようである……。こういう不気味な世界を目撃することになるだろう。
双子については、私は、最初、あまり重視しなかった。双子はいなくて、最初から一人しかないと思っていたのだ。ハロルド・ピンターの劇『恋人たち』は、主婦が夫の留守中に自分の家で別の男と浮気をする芝居である。夫以外の男性との不倫に彼女は燃え上がるのだが、実は、夫と不倫相手の男性は同一人物である。解釈はわかれるところだが、この夫婦は、夫婦ゲームと、夫が仕事ででかけたあとは浮気ゲームをしているのであって、夫の留守中、いよいよ浮気相手があらわれると、それが仕事に出かけた夫と同一人物であって、見ている側の戸惑いは極致に達する。この関係を倦怠期を迎えた夫婦が、浮気ゲームをして関係を深めているというリアルに解釈することもできるが、それよりも寓意的に解釈するほうがずっと面白い。もちろんピンターについて語る場ではないのでやめるが、映画のなかで彼女が出会う双子の兄弟は、ひとりだと私は思っていた。実際、オゾンの前作『婚約者の友人』は、ルビッチの『私の殺した男』のリメイクで、いうなれば、なりすまし物語(完全ななりすましというよりも、同一化するのだが)である。二人はいない。いるのは、ひとりだけ。あるいは二人いても、一人は殺され一人になった(ルビッチの映画の場合、塹壕での戦闘中に殺したドイツ兵から伝言を頼まれた男の話である)。そう前作と同じモチーフだと思えば(もっといえば、オゾン映画の中心的モチーフだと気づけば)、この映画で迷宮から出られなくなることはなかった。いや、双子の精神分析医などいない。一人しかないのだとずっと思っていた。そして映画の結末で、私が正しかったことがわかったが、その背後にある真実は、予想外のものだった。
双子というのは、いかに似ていても独立した人格であって、ふたりをしっかりと識別し、また個性を重視をする方向にいくと双子問題は、独立した二つの人格からなる「我と汝」の関係になる。「我と汝」は自己中心的な閉塞的あるいは暴力的一元化世界を、他者への認知によって開く、あらたな段階の到来、あるいは新たな段階への到達へと導くものだった。私は、私と同じように尊重すべきもう一つの人格を認め尊重しなければならない。ところが双子の場合、尊重すべきもう一人が、私の別人格であるはずなのに、同時に私と同じであるという矛盾に直面する。双子の場合、「我と汝」というシンメトリカルな問題のほかに、兄弟姉妹であるときに必然的に生ずるSibling Rivalryつまり兄弟姉妹の争いによって、闘争関係に入り、最終的に片方がもう片方に呑み込まれる。双子の場合、もうひとりの私は、そこにいるのではなく、私の中にいる。もう我と汝の関係ではない。汝は私の他者として私の内部にあり、私の一部であり、私は、この他者なくして、私は私でなくなる。私はこの他者によって養われ同時に私はこの他者を飲み込み食べている……【萩尾望都の「半神」の世界であるが】
双子の場合、ブーバーの「我と汝」の関係が、ある意味、理想的だが、むしろレヴィナスの「自己と他者」との関係に陥りやすい。あるいは陥ったらどうなるか。そこに生まれるのが、この映画のテーマ、私はもう一人の私であるというオゾンのテーマである。
ブーバーとレヴィナスにおける他者の位置について、痛ましいが分かりやすい例としてパレスチナ問題があげられる。
ユダヤ人とパレスチナ人との「我と汝」の対話、同等の人格を認め合い、対話と強調のもとに新国家を建設するという、ブーバーもその運動の一員であった運動は、イスラエル建国とともに消え去った。自分の居場所と思ったところに、じつは先住者がいて、この先住者を排除するか吸収消滅させる以外に自己の存続は望めなくなったとき、自己と他者との相互に尊重する融和関係は消滅して、最終的は私は他者を私のなかに取り込んで私となった。イスラエル人は、パレスチナ人を二流市民として自国に迎え入れたか、あるいは抹殺し亡霊として意識しながら、あるいはゲットー化して特定の地域に閉じ込めて民族絶滅をはかり、そうであるがゆえにつねに自爆テロに怯えながら生きることになった。他者はもはや「汝」ではない。私の一部、私そのものであり、同時に私を脅かし、抹消せねばならない存在となるが、抹消した瞬間、ドリアン・グレイの肖像のように、私も死ぬのである……。
これ以上は映画の筋をあかすしか語れないが、映画をみて、パレスチナ問題を参照する人はいないかもしれないが、抑えつけたはずの兄弟姉妹の復讐に怯える兄弟姉妹という心理的恐怖は、抑えつけたはずの先住民族(たとえばパレスチナ人)の自爆テロに怯える選ばれた民族(イスラエル人)の文化的政治的恐怖とつながっているのである。
この妄想部分では、悪夢をみる彼女が、ふと目覚める時があって、いままでの恐怖のイメージ、あまりにもありえないグロテスクな幻想シーンは、夢だったのかと安堵するところが何度もある。しかし、実は、この映画全体が彼女の妄想世界であったことが最後にわかれば、悪夢から覚めても、実は、それも悪夢の一部であったことになる。映画は一定のハッピーエンディングを迎える。だが、それは悪夢から目覚めた彼女が、それとは知らぬうちに、さらなる悪夢にとりこまれているといえなくもない。エンドレスに続く悪夢。映画も、ハッピーエンディングで終結するはずはない……
映画の最後のイメージは、いろいろと解釈できると思うが、そのなかのひとつは自爆テロのイメージである。