東大病院に断られた東大教授とは、私のことです。
今年も猛暑の夏だが、たとえ今年ほどではなかったかもしれないが昨年も猛暑の夏で、7月の下旬、大学の近くの湯島のほうで学生(院生)たちと飲み会の席上、私が急に気分が悪くなり意識不明に。救急車が呼ばれ、病院へ行くことになった。
酒を飲み過ぎて気分が悪くなって気を失ったということだが、現時点で、一年前を振り返れば、熱中症になったのかもしれない。あるいは脱水症状か。脱水症状で、体内のアルコール濃度が高くなって急性アルコール中毒になったのだろう。猛暑のなか、そのワイン居酒屋に到着、汗をかき、すきっ腹のところにワインを飲んだので、体の水分をもっていかれたということだろう。店にも迷惑をかけ、院生にも迷惑をかけたので、その店には行っていない。酒を飲むことにも慎重になった。
で、気が付くと救急車が呼ばれ、店で、その場で心電図までとられてから、椅子ごとかかえられて救急車に。また意識は戻ったので、救急隊員から、いろいろ聞かれた。職業なども尋ねられたので、東大の教員だというと、それでは、近いので東大病院に行きましょうと言われた。救急車のなかで救急隊員が東大病院に電話で連絡している声が聞こえてきた。そして次の瞬間、東大病院から断れたら。ベッドがいっぱいで受け入れる余裕はないということだった。
この話をすると、誰もが、学生から教員から、近所の知人から、はては私の妹まで、みんな笑う。東大教授でも東大病院から断られるのかとか、東大病院から馬鹿にされているのではないのかとか、私が実は、東大教授ではないのではないかと、さんざんに言われている。
ただベッドがいっぱいなら、しかたがないし、救急隊員は次に東京医科歯科大学に電話をし、そこの救急病棟へ。2時間か3時間くらい、点滴その他の治療をうけあと、血圧も上がってきたので帰された。東京医科歯科大学は地下鉄丸の内線御茶ノ水駅に直結しているので、丸ノ内線利用者の私にとってありがたい。また東京医科歯科大学の救急病棟では、手厚く介護され的確な治療を受けることができて感謝している。私も若い頃、私立大学の教員だった頃、非常勤講師として、東京医科歯科大学で英語を教えたことがある。医科歯科大で治療を受けたのは今回が初めてだが、なんとなく親近感をいだいていて、治療もよく、帰宅も楽だったので、東大病院に断られ、東京医科歯科大学に運ばれたことはラッキーだった。
なぜ断られたのかについて、病床がいっぱいであれば、これはしかたない。東大教授(ただし文学部)の威光(があればの話だが)など関係ないだろう。あるいは、実は受け入れる余地はあっても、酔っ払いが体調を悪くして店で倒れたとき、その酔っ払いが自分は東大教授であると適当なことをいって、東大病院に搬送されることを希望したのではないか、そんな嘘つきは受け入れる余地はないと思われたのかもしれない。たぶん、そんなことはないと思うだが、もしそうだとしたら、許しがたいが、しかたないところかもしれない。本郷界隈、その近辺で救急車で運ばれる人間は、みんな東大病院を希望するかもしれないので、ひょっとしたら、よくあることかもしれない……。
いや、そんなことはないだろう。東大教授を名乗る嘘をつくというのは、大胆すぎる。名うての詐欺師でもないかぎり、そんなことはしないだろう(私だって、東大教授を名乗りたくない――ただ経歴や職業を詐称するのはよくないので、名乗るときは、やむなく東大教授を名乗っているにすぎない)。昨年、この断られた話をして笑いをとっていた頃、たまたま夫が東大病院に入院したが、そのとき予定していた病室が諸事情で使えなくなり、特別室(差額ベッド)しかなくなったため、通常料金で特別室を使うことになったという話をしてくれた人がいた。入院した人物、またその家族も、東大関係者ではない。なのに特別室を通常料金で利用できるとい優遇措置を受けた。ふつうなら、いま特別室しか開いていないのだが入院費が高くなりますが、それでも入院しますかと聞かれるだけだと思うのだが、東大病院は親切である。いっぽう救急車で運ばれなければいけない東大教授が、緊急事態にもかかわらず、断られたというのは、なぜか(東大教授の威光をかさに着ているようで嫌なのだが)。
おそらくそれは診察券のあるなしの違いだろう。私は、これまで東大病院にかかったことはない。私がいつも持ち歩いている診察券は、自宅近くのかかりつけの病院の診察券である。結局、そこで治療を受けているか、いないかが分かれ道で、いうなれば「いちげんさんお断り」の世界である。たぶん私が東大病院の診察券でも所持していれば、すぐに受け入れてくれるかもしれないが、そうでなかったので、よそに回されたのではないだろうか。となると私を受け入れてくれた東京医科歯科大学はどうなるのかということになる。東大病院のほうが、一見(いちげん)さんお断りのルールが厳しく適用されているのだろうか。だとしたら、はっきりいって、それは許し難いことであり、告発に値する。
実は、昨年だけでなく、一昨年にも酒の飲み過ぎで駅で倒れて救急車で運ばれたことがある。二年連続で救急車に運ばれるというのは、まずいので、昨年の夏以降、宴会とか飲み会は控えることにしている。人づきあいが悪いに人間になってしまったが、毎年のように救急車で搬送されていては、体がもたない。ましてや今年は熱中症で搬送される人が多いので、救急車を呼んでも来てくれないかもしれない。救急車に断られた東大教授というのは笑い話にもならないので。
2018年08月02日
東大病院にことわられた東大教授
posted by ohashi at 23:12| エッセイ
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『未来のミライ』
これって『ボスベイビー』と同じじゃん。同じテーマを扱っている。『ボスベイビー』のほうは、弟ができる。『未来のミライ』では妹ができる。ただいずれにせよ、それまで両親の愛を独り占めしていた男の子が、弟や妹ができると、両親の愛を独占できなくなって、弟や妹に嫉妬し、両親の気をひこうと我儘を言ったり暴れたりする。『ボスベイビー』のほうは、SF的というかコミックス的設定を細かくして、架空の荒唐無稽なカンパニーをつくりあげるが、『未来のミライ』のほうは、なぜ高校生になった妹が4歳の兄のもとにあらわれるのか不明だが、夢とも現実ともつかない展開のなかで、家族の歴史と4歳児の時間線のなかの現在の立ち位置と家族の重要さの発見という大人向けのテーマを盛り込んでいる。
『ボスベイビー』と同じ時期に上映されていた『リメンバー・ミー』が家族の絆や歴史を扱って泣かせるテーマを盛り込んでいて、『ボスベイビー』よりも好評だったように思えるのだが、この『未来のミライ』、家族の今を支え、そこに流れ込んでいる時間の糸を解きほぐしながら(そのイメージはデジタルなのだが)家族の意味を考えるというのだが、ネット上では、パッとしない映画という声があがっている。
実はテレビで『ばけものの子』を放映していたが、それを、ぼんやり部分的に見ていたが、けっこうテーマは複雑だということがわかったし、めんどうくさい設定を使っている。それにくらべて『未来のミライ』は、なぜ高校生になった妹が突然あらわれたのか説明はないのだが、それ以外はわかりやすいはずなのだが。
ちなにみ『ばけものの子』を、映画館でみたときは、実際に過去にあった幾種類かの文学全集と、その中の一巻であるメルヴィルの『白鯨』がけっこうリアルに描かれていたり、渋谷(このアニメに描かれた渋谷駅界隈は、すでになくなりつつあるのだが)の一駅前で止まる地下鉄電車が、私が毎日利用している地下鉄電車でもあって、個人的に勝手に受けて面白がっていたのだが、そう個人的に受ける要素がないと、距離感が生まれるのかもしれないと思い知った。
『ボスベイビー』を、姪と、その母親(妹)と見たあとで、姪に対して、私自身は、鮮明な記憶として残っていないだけれど、母親から聞いた話では、私に妹ができたとき、世話をしてもらえなくなったので、手におえない駄々っ子になって親を困らせたらしいと話していた。この件は、このブログでも、『ボスベイビー』の記事で触れている。弟や妹がいる兄や姉にとって、親の愛を奪う弟や妹は、みんなボスベイビーだと話したことがある。それをそばで聞いていた、私の妹は、そんなことがあったのと驚いていたが、まあ親からその頃の話は何も聞いていないのだろう。実際、話す必要もないし。
となると、やはり弟や妹である人にとって、兄や妹が嫉妬するといのは、どうみても他人ごとにすぎない。逆に、私にとっては――たとえ、実際にところ、3歳から4歳の頃の嫉妬感情はふつうに忘れるのだが、後年、親がしっかりその頃のことを記憶として刷り込んでくれる。そのため刷り込まれた記憶にもかかわらず、当人にはリアルな感興をともなって喚起される記憶になるのだが――、まさに自分の子供時代のことのようだと、自分が主人公になった気分で、おもしろおかしく見ていた。
だが、現在は少子化が進んだ日本のことである。一人っ子として育った人間が増えているし、また子供がひとりしかいない家庭も増えている。妹であったり弟であったりする人が減っているし、兄弟姉妹のいる親も減っている。となると、少子化が進んでいないアメリカなら『ボス・ベイビー』のテーマは、大いに受けるかもしれないが、日本では、むしろ他人事であったり、兄や姉が、妹や弟に嫉妬するなんてことを初めて知った人も多いかもしれない。
その点、人を選ぶ映画とか、人によって好みが分かれるとか、テーマがピントこないという評価がネット上にあって、やや残念な気がする。これには、いま述べた兄や姉の妹や弟への嫉妬というテーマが、少子化の日本では普遍的ではなくなったということが重要な低評価要因に挙げられるのかもしれない。もちろん上白石萌歌の、慣れれば違和感はなくなるでは済まされない、最後まで違和感が残る吹き替えのほうが戦犯第一号だとは思うが(他の俳優陣の吹き替えは、みんな上手い)。家族のテーマは、私の父方の祖父は、家族を捨てて家を出て行き、帰ってくることはなかったので、写真すら残っておらず、私は父方の祖父のことは、東大を卒業していたということ以外、何も知らないし、どこの家族にも、そういう黒歴史はあると思うし、このアニメ映画のように、ありふれていても幸せな先祖たちというのは夢物語だろうと知りつつも、『未来のミライ』はじゅうぶんに面白かったのだが。
ああ、そうかもしれない。このアニメ映画のさらなるテーマは、戦争を経験し、それを逃れて生き延びた人々の家族というテーマだった。このある意味反戦テーマは、いま日本にもブラックバスのようにふえてきている戦争好きの馬鹿ファシストにとって気にいらないものかもしれない。だとすれば、彼らファシストどもの否定的評価には絶対い惑わされずに、この映画を支持すべきだと思う。
『ボスベイビー』と同じ時期に上映されていた『リメンバー・ミー』が家族の絆や歴史を扱って泣かせるテーマを盛り込んでいて、『ボスベイビー』よりも好評だったように思えるのだが、この『未来のミライ』、家族の今を支え、そこに流れ込んでいる時間の糸を解きほぐしながら(そのイメージはデジタルなのだが)家族の意味を考えるというのだが、ネット上では、パッとしない映画という声があがっている。
実はテレビで『ばけものの子』を放映していたが、それを、ぼんやり部分的に見ていたが、けっこうテーマは複雑だということがわかったし、めんどうくさい設定を使っている。それにくらべて『未来のミライ』は、なぜ高校生になった妹が突然あらわれたのか説明はないのだが、それ以外はわかりやすいはずなのだが。
ちなにみ『ばけものの子』を、映画館でみたときは、実際に過去にあった幾種類かの文学全集と、その中の一巻であるメルヴィルの『白鯨』がけっこうリアルに描かれていたり、渋谷(このアニメに描かれた渋谷駅界隈は、すでになくなりつつあるのだが)の一駅前で止まる地下鉄電車が、私が毎日利用している地下鉄電車でもあって、個人的に勝手に受けて面白がっていたのだが、そう個人的に受ける要素がないと、距離感が生まれるのかもしれないと思い知った。
『ボスベイビー』を、姪と、その母親(妹)と見たあとで、姪に対して、私自身は、鮮明な記憶として残っていないだけれど、母親から聞いた話では、私に妹ができたとき、世話をしてもらえなくなったので、手におえない駄々っ子になって親を困らせたらしいと話していた。この件は、このブログでも、『ボスベイビー』の記事で触れている。弟や妹がいる兄や姉にとって、親の愛を奪う弟や妹は、みんなボスベイビーだと話したことがある。それをそばで聞いていた、私の妹は、そんなことがあったのと驚いていたが、まあ親からその頃の話は何も聞いていないのだろう。実際、話す必要もないし。
となると、やはり弟や妹である人にとって、兄や妹が嫉妬するといのは、どうみても他人ごとにすぎない。逆に、私にとっては――たとえ、実際にところ、3歳から4歳の頃の嫉妬感情はふつうに忘れるのだが、後年、親がしっかりその頃のことを記憶として刷り込んでくれる。そのため刷り込まれた記憶にもかかわらず、当人にはリアルな感興をともなって喚起される記憶になるのだが――、まさに自分の子供時代のことのようだと、自分が主人公になった気分で、おもしろおかしく見ていた。
だが、現在は少子化が進んだ日本のことである。一人っ子として育った人間が増えているし、また子供がひとりしかいない家庭も増えている。妹であったり弟であったりする人が減っているし、兄弟姉妹のいる親も減っている。となると、少子化が進んでいないアメリカなら『ボス・ベイビー』のテーマは、大いに受けるかもしれないが、日本では、むしろ他人事であったり、兄や姉が、妹や弟に嫉妬するなんてことを初めて知った人も多いかもしれない。
その点、人を選ぶ映画とか、人によって好みが分かれるとか、テーマがピントこないという評価がネット上にあって、やや残念な気がする。これには、いま述べた兄や姉の妹や弟への嫉妬というテーマが、少子化の日本では普遍的ではなくなったということが重要な低評価要因に挙げられるのかもしれない。もちろん上白石萌歌の、慣れれば違和感はなくなるでは済まされない、最後まで違和感が残る吹き替えのほうが戦犯第一号だとは思うが(他の俳優陣の吹き替えは、みんな上手い)。家族のテーマは、私の父方の祖父は、家族を捨てて家を出て行き、帰ってくることはなかったので、写真すら残っておらず、私は父方の祖父のことは、東大を卒業していたということ以外、何も知らないし、どこの家族にも、そういう黒歴史はあると思うし、このアニメ映画のように、ありふれていても幸せな先祖たちというのは夢物語だろうと知りつつも、『未来のミライ』はじゅうぶんに面白かったのだが。
ああ、そうかもしれない。このアニメ映画のさらなるテーマは、戦争を経験し、それを逃れて生き延びた人々の家族というテーマだった。このある意味反戦テーマは、いま日本にもブラックバスのようにふえてきている戦争好きの馬鹿ファシストにとって気にいらないものかもしれない。だとすれば、彼らファシストどもの否定的評価には絶対い惑わされずに、この映画を支持すべきだと思う。
posted by ohashi at 01:35| 映画
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