2018年08月31日

『検察側の罪人』

この映画のネットでの評価というか評判をみてみたら、絶賛しているものよりも微妙だというような評価が多くて、たんなるアイドル映画を期待した観客を落胆させていることも多いみたいなので、またどうも原田真眞人監督の骨太の映画のようなので、見に行くことに。829日に見たのは全くの偶然。この日のもつ意味については映画を見る前には何も知らなかったので。

結果として、最後まで、見入ってしまった。エンターテインメントとしてもドラマとしてもテーマとしても重くて厚い。見応えはじゅうぶんにある。

原作の長編小説は読んでいないのだが、原作を忠実に反映しようとしているわけではないと思う。また原作の要素を可能な限り使おうとしても2時間の映画に収めるのは至難のわざなので、点と点とをつないで面にするような、瞬間と瞬間をつないで持続させるような、断続性あるいは断片性による構成法とっているので(とはいえ、それはどの映画もしていることなのが)、背後に語られざる、あるいは省略された、物語や細部があるだろう予想され、それが、観客にフラストレーションを与えるかもしれないが、それを演技陣の超絶演技がおぎなう、あるいは解消するといえるし、さらには断片性は、いろいろな面を推測させる面があって、それが、背後に、語られざるもの、あるいは背後にある大きな現実、すなわち現在の日本の状況をも暗示して、ただリアリズムで終わらない、象徴性、寓意性を映画にもたらしている。実際、骨太の映画と物語であるが、そこに暗黒舞踏を出してくるのは、おそらく原作にはないシーンだろうが(類似するものが原作にあったとしたら、原作、あっぱれである)、寓意性を導入し、さらに日本の今を暗示させようとするたくらみにほかならないだろう。

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ジャンルとしての映画のなかで、正義の対立概念は不正とか悪とか犯罪ではなく、幸福である。この両者の対立のうち、映画では、必ず、正義が勝利をおさめる。これは鉄則である。正義をふみにじることは映画では許されない。だが、正義を実現することで、犠牲になる幸福に対して正義だけでよいのかと疑問を呈することもまた、映画の鉄則である。

たとえばベン・アフレックが初監督した『ゴーン・ベイビー・ゴーン』という映画がある(以下、ネタバレ注意)。これは貧しい家庭に生まれ、親の養育も満足に受けられない子どもたちを、引き取るというよりは拉致して、裕福だが子供のいない夫婦のもとに養子に出す活動をめぐる映画となっている。もちろん、これは違法行為であるが、それを市長や警察幹部らが街ぐるみでひそかに実行している。犯罪組織が子供を拉致しているのではない。子供の幸福を願って、親の資格のないような実の親から、赤ん坊のうちに引き離し、愛情をもって育ててくれる夫婦をさがすという善意に基づいている。だが、報酬など求めない、無償の行為とはいえ、違法行為は違法行為。それを司法や行政をあずかる人びとがおこなっているのは、さらに問題となる。ケイシー・アフレック扮する、ちょっと頼りない私立探偵が、赤ん坊がいなくなった母親から捜索を依頼され、真相にたどりつく。この件を秘匿してくれと頼む市長以下の関係者の懇請にもかかわらず、探偵は真実を公表し、行方知らずの赤ん坊は実の親のところにもどる。ここで貧しい家に生まれ虐待されるしかない子供を、「万引き」して幸せになれる家族を探すことが、子供にとって幸せであることは、歴然としている(『万引き家族』と同じテーマである)。血のつながりほど、たちの悪いものはない。児童虐待は血のつながった実の両親がおこなっているのである。

しかし両親にも子供を育てることをとおして自らを立ち直らせる可能性があたえられてもいい。また実の親が、子供を育てるのは義務であり、養育は社会的秩序の根幹をなす実践である。もちろん子供を奪うことは重罪である(だから「万引き家族」も法的には罰せられる)。しかし『ゴーン・ベイビー・ゴーン』は、正義を貫いたことである程度、満足している探偵と、母親のもとにもどった赤ん坊の幸せな姿で終わるといえいば終わるのだが、この母親がどんなに子供をかわいがろうとしても、貧困層の住む地区で、この夫と、この親戚と、この隣人たちのなかで、おそらく赤ん坊は見捨てられるか虐待されるだろう、育っても、たぶんろくな大人にならないだろうという暗示もある。正義を貫き、違法行為を正すことが、幸福と両立しないかにみえる。問いは重い。同じことは『検察側の罪人』にもいえる。

『検察側の罪人』において、非合法に殺される犯罪者たちは、生きる価値のない人間のクズばかりで、殺されて当然である。むしろ彼等を生かしておくほうが、社会にとって危険なことになるというのが想定されている観客の反応であろう(ただし私個人は、死刑に反対であり、ましてや私刑は許されるものではないと思う)。だが映画にとって第一義的尊重すべきは正義である。しかし正義をつらぬいたからといって、幸福になるわけではない。映画のなかでは、正義をつらぬくことによって、国民を限りなく不幸にする巨悪(右傾化しファッショ化する現政権と日本の社会)と戦う手段を失うことにもなりかねない。この映画の終わりは、ジレンマである。二宮君の最後の絶叫は、解決不能さと無力さに直面したときの、言葉にならない苛立ち怒り悲しみである。

報道の自由度において日本は北朝鮮よりもちょっと上くらいだと映画のなかで木村拓哉扮する検事は友人の国会議員に語っている。北朝鮮は報道の自由度において常に最下位だから、ちょっと大げさといえば大げさなのだが、安倍政権(第1次も今回も)なると日本は報道の自由度が下落するので、このくらいは言って当然である。しかも、検事の友人の国会議員(平岳大、扮する)は、政権にとって致命的となる重要な情報をにぎっており(それを最終的に友人の検事/木村拓哉に託するのだが)、その妻がチェーンホテル(私は個人的にはアパホテルには絶対に泊まらない)の経営者で、妻の父親は極右勢力の元締め的存在となれば、まさにこの映画が描く日本は、右傾化しつくしている現代の日本の政治と社会そのままである。いうなれば現代日本の生き写しである。

いま「生き写し」という言葉を使ったのだが、自分で使いながら、なるほどと思った。というのも映画の冒頭は、現代日本の東京の光景が、画面を上下二つに折りたたんでまた開いたかのように、上下に反転した映像となって映し出される。静かな水面にうつる景色みたいに、上下が反転しているのである。これはなんだろうと最初、いや最後まで不思議な思いにとらわれるのだが、海上に浮かぶ「蜃気楼」(海市)だというコメントもあるのだが、蜃気楼は上下逆転するのだろうか。いずれにせお、どちらがオリジナルで、どちらかコピーか、わからいかたちで(反転像であることを除けば、両者は、まったく同じ映像なのだから)、ふたつの世界が上下で対峙していることになる。二つの世界は、また、この映画の宣伝コピーからすれば、二つの正義(木村拓哉と二宮和也の二人の検事のそれぞれの正義)の対立を意味しているのかもしれない。いっぽうは転倒・倒錯した正義となる。

と同時に、これは現実の世界と、蜃気楼のような生き写しの世界である。この映画の世界が現実の生き写しあるいはクローンのような存在であるともいえる。生き写しである以上、現実のリアルは、そのまま保たれている。監督の危機意識が反映しているのだと思うし、またその危機意識には強く共感するのだが、これほど現政権と右傾化する社会と極右勢力に対する批判が盛り込まれているとは最初予想もしなかった(私は個人的にはアパホテルには絶対に泊まらない)。現実社会への批判的あるいは諷刺的視点は、最初の高齢者の逆走・暴走運転事故にもよくあらわれている。

と同時に、この現代日本の社会の生き写しでもあるこの映画の世界は、リアルであると同時に、生き写しであるような、どこか不安定な非現実感も漂う。検事(木村拓哉)を助ける松重豊扮する男は、徐々にその不思議さ、あるいは不気味さを増していき、この世のものとは思えない、悪魔=メフィストフェレス的存在になっている。この世界は、報道の自由度が北朝鮮と変わらないところまで落ち込み(実際にもそうなのだが)、時折、無意味に暗黒舞踏団があらわれる非現実的な世界でもあるのだ。これはだが、映画のもっているリアルさを阻害するものではない。むしろ映画を別次元にもっていく。

インパール作戦については知っていたが、こまかなことはわからず、これは原作を読まないとわからないと思っていたら、なんと原作にはインパール作戦については出てこないとのこと。映画のオリジナルな設定であるとのこと。これには驚いたが、映画をみながら、これは原作を読んでいないとわからないという説明不足感を抱いたものの、同時に、無謀な作戦で甚大な被害を出し多くの将兵が戦死したインパール作戦のことは、日本を、戦争ができる国にかえたがっている、そして忖度しか念頭のない現政権とその応援団と官僚組織への、痛烈な批判ではないかと思った。と同時に、このインパール作戦は、この映画が示す、もう一枚のタロット・カードだとも思えてきた。

この映画の生き写しの世界の、現実感のある非現実感は、主人公(木村)が、その脅威的記憶力によって誕生日占いの名手だったり、映画全体が章立て形式となっていて、それぞれの章にタロット・カードが使われていることも大いに貢献している。タロット・カードが原作に使われていたのか否かは、もうどうでもよいと思われているのだが、この映画は、現代日本の生き写しの姿を、観客に提示しながら、同時に、タロット・カードとしても、現代日本の行く末を提示しているのである。タロット・カードは、その図像によって未来を予言するといっても、カードそのものの解釈に依存している。この映画は、二人の検事の息づまる攻防と、二つの正義の葛藤、そして正義と幸福との葛藤をみせながら、同時に、現代日本の生き写し像を、タロット・カードによって、それも複数のカードによって、示している。

このようなカードが出そろいました。これによって、あなたは日本の未来をどう占いますか。それが映画の観客にむけてのメッセージであろう。

付記 この映画によって木村拓哉が、ある意味、ストレートなヒーローではなくて、ダークサイドによりのヒーローになったというようか意見も聞かれるが、確かに、テレビドラマ『ヒーロー』における、破天荒な若き検事には、もう戻れないだろう。しかし同時に、木村拓哉の映画・ドラマの標識的な特徴は、今回も守られている。つまり彼は、映画やドラマで子供とりわけ少年と絡むことが定番ともなっている。彼自身が、少年的イメージを持ち続け、少年の心を失わないということの暗示かもしれないが、どのような役柄でも、この定番的設定は変わらないように思われる。連続テレビドラマ『BG〜身辺警護人〜』は、木村拓哉が息子のいる父親になって、ある意味、話題になったのだが、あの生意気な息子は、彼がいつもからんでいる少年の分身であろう。『検察側の罪人』のどこに少年がいるのかといわれるかもしれないが、二宮和也は、童顔ということもあって、いつも木村にからんでくる少年の分身であろう。その意味で、木村拓哉の映画・ドラマにおける少年存在は失われていない、


posted by ohashi at 12:50| 映画 | 更新情報をチェックする

2018年08月28日

『二重螺旋の恋人』2

『二重螺旋の恋人』については、現実か幻想かわからなくなる、その境目がはっきりしないというような感想があるのだけれど、たまたま二回見ることになったので、いろいろな発見があった。


冒頭は主人公クロエ/マリーネ・ヴァクトが産婦人科で検査を受けるところからはじまる。産婦人科の女性担当医の誤診で、お腹のなかの異物は精神的なものといわれ、精神分析医のポールを紹介してもらう。そこから妄想あるいは悪夢がはじまるように思われる。


ただ、どこからが現実で、どこからが幻想なのかは、ある程度わかるようになっている。担当の産婦人科医が、精神分析家のポールを紹介する。ネタバレ注意。

これは幻想、嘘である。なぜならポールは最初から彼女のボーイフレンドなので、わざわざ産婦人科医に紹介してもらうまでもなく、また精神分析医でもない。
実はこの産婦人科医の女性がクロエと現実とをつないだり切断したりする重要な要となる。クロエがこの産婦人科医の診断を受けることで、妄想がはじまるように思われる。


典型的なのは、クロエの胎内のエコー映像をみながら、担当医が何か異常をみつけたようにみえるところからはじまるシークエンス。担当医は彼女に何にも言わない。次の場面、彼女はベビー用品の店にいって品物をみている。つまり彼女は妊娠したと思った。いや思ったどころか、妊娠を当然のこととして、行動する。恋人(双子の)にもうちあける。どちらの子どもかわからないぞとワイルドな兄のほうが言う。だが妊娠は、彼女の思い込みである。以下ネタバレ注意


 最後の場面で、この担当医が、彼女のお腹には腫瘍ができていたことを彼女の母親(ジャックリーヌ・ビセット)と、ポールに説明する。


この女性の産婦人科医、配役表にはこうある。

ドミニク・レイモンDominique Reymond 産婦人科医ならびにアニエス・ウェクズラーLa gynécologue et Agnès Wexler。

アニエス・エクスラー? そうこのアニエスは、クロエ/マリーヌ・ヴァクトが、ポールの双子の兄から診療を受けるために、口実として、カタログから適当に選んだ女性精神分析医の名前である。ポールの同僚でもあるらしいのだが、クロエは、彼女に会ったこともなく、夫の同業者たちのパーティの席上で、診療を受けているはずのアニエス・ウェクスラーのことを誰だといってまい、夫から不思議がられる場面がある。彼女にとって最も身近な(現実の)担当医が、カタログ上の名前・文字だけの存在となり、実際に出会っても顔をみたこともないから当人ともわからないというクロエにとって最も遠い(非現実)の人物になる。最も身近なものが最も遠いものになるという妄想。クロエにとってリアルが非現実となり、非現実の妄想が、リアルな体験となるという逆転が起こる。というか、その逆転によって妄想だとわかるような仕掛けが講じられている。


ドミニク・レイモンが一人二役になっていることが、クロエの経験のリアルさをうたがわせるものになっているといえようか。


ただ、ああ、最初にみたときは、西洋人の顔はみんな同じに見えるという昭和のおっさん・おばさん的見解によって、このことに気付かなかった。二番目にみたときも、すぐにはわからなかった。私にとって、三回見ないと映画のディテールに向き合えないようだ。(ちなみにクロエがサンドラに会いに行く場面があって、寝たきりになり憔悴しているサンドラに会うとき、サンドラの顔が一瞬クロエの顔になりクロエが怯えるような場面があったが、二回目にみて、サンドラの顔が一瞬ではあるが、はっきりとクロエの顔になることが確認できた)。


二回みても人からいわれるまで気づかなかったこと。それは美術館の展示スペースのシーン。以下ネタバレ


この展示が彼女の妄想、とりわけ、その気色悪いオブジェが彼女の胎内の腫瘍と同じかたちをしていることからも、彼女が監視員のアルバイトをしているこの展覧会そのものが、妄想の存在であったことがわかる。


しかしそれだけでなく、彼女が、まだ何も展示されてなくて白い壁のままの展示室を歩くシーンがあるのだが、そのとき展示物はなくても黒い服を着用した監視員の男女が着席している。私は全然気づかなかったのだが、この監視員、椅子に座っているようで、椅子がない。監視員は座っている姿勢をしているだけで、座っていない。エアー椅子というか、エアー着席というか、あるいは宙に浮いているようにみえる。この空間はリアルではない。妄想空間であることがここからもわかるようになっているのだが、私のように気づかなければ、何の意味もないのだが、ただ、それ以外にも、妄想であることを伝える信号はいろいろ発せられているので、ひとつでも見過ごすと、すべてがわからなくなるということはないだろう。


ジョイス・キャロル・オーツが別名義で書いた原作は読んでいないのだが(また原作は翻訳されていない)、この映画から察するとミステリーの要素はふんだんにあって、原作はミステリーとして完結しているのではないかと思う。映画のほうは謎を妄想として説明しようとするところなの、謎は完全には解消されず、謎として残る者が多い。どうやなら、つまりこの映画そのものが、原作を飲み込んでいて、私たちがみるミステリーの要素は、呑み込まれた胎児の残骸であるということもできる。それを思うと、これは怖い。


追記

ネット上の評価で

「現実と妄想の2重螺旋の罠に嵌められた。/ある意味パラフィリアなミステリー、サスペンス/もう一回見たい、あと手塚治虫は天才やなと改めて思った」

というコメントがあって、なぜ手塚治虫なのかは、これだけでは謎。


ただ、これは、ある編集者から指摘されたことだが、ブラックジャックのピノコのことではないかと思われる。


ピノコについてWikipediaではこう説明している


誕生の経緯

 第12話『畸形嚢腫』(単行本第2巻)で初登場。資産家の娘である双子の姉の体のこぶ(奇形腫)の中に脳や手足、内臓等がばらばらに収まった状態で登場する。それまでもあちこちの病院で摘出手術を受けようとしたのだが、念力で手術道具を破壊したり、テレパシーで医師等を狂わせるといった超能力で手術を妨害するために手がつけられず、無免許医師であるブラック・ジャックの病院に運び込まれた。ブラック・ジャックに対しても妨害を仕掛けていたものの、「摘出しても培養液に入れて殺さない」と説得の上で麻酔をかけられた末、摘出される。その後、一人の女児として組み立てられた。この超能力は畸形嚢腫の時だけ発揮されており、その後は使う描写は全くない。


この『畸形嚢腫』の回では、結末としてピノコが組み立てられた翌日に、ピノコが転院する患者である姉と初対面し、寝たままの姉を踏みつけて激昂する場面があり、ピノコが術後すぐに動けるようになったかのように描かれている。しかし、かなり後に描かれた第93話『水とあくたれ』では、組み立てられたまま全く動けないピノコの体を案じ、食事を離れた場所に置いて突き放すという数か月間のスパルタ教育でピノコにリハビリをさせていたことを語る場面があるため、設定に不整合が発生している。そのため、文庫版ではこのシーンは「姉が一年後の定期健診に来た時」と修正されている……


映画を見た人はわかるとおもうけれども、手塚治虫の[ブラックジャック』に登場するピノコには、この映画の世界を完全に先取りしている。ピノコはピノキオとつながっているのかというくらいしか認識がなかったのだが、この映画をみて、ピノコの設定と、その行動がはじめてわかった。あらためて手塚治虫は天才だと思う。


posted by ohashi at 23:32| 映画 | 更新情報をチェックする

2018年08月25日

戦争責任

公開された昭和天皇の元侍従の日記(23日午前、東京都港区、読売新聞) という以下の記事があった。

1987年(昭和62年)4月、85歳だった昭和天皇が先の大戦の戦争責任に言及されることに苦悩していたとの記述が元侍従の小林忍氏の日記に残されていたことがわかった。昭和天皇の発言として「仕事を楽にして細く長く生きても仕方がない。辛(つら)いことをみたりきいたりすることが多くなるばかり。兄弟など近親者の不幸にあい、戦争責任のことをいわれる」と記されている。



昭和天皇の気弱な発言に対し、小林氏は「戦争責任はごく一部の者がいうだけで国民の大多数はそうではない。戦後の復興から今日の発展をみれば、もう過去の歴史の一こまにすぎない。お気になさることはない」と励ましたと書かれている。

これだけではよくわからないのだが、昭和天皇は、自分に責任はないのだけれども、戦争責任(かつての昭和天皇の名言を引用すれば「文学方面のこと」)について立場上、いまでも言われるのはつらいということか。侍従の励ましの言葉からすると、ほうっておけば、戦争責任を問う声をおさまるということ、昭和天皇に戦争責任はないということだろう。

テレビでのニュースでは昭和天皇が戦争責任について気にしていたというようなニュアンスで、この日記の記事について紹介していたが、日記の内容を読めば、昭和天皇は自分に戦争責任はないと感じていたことははっきりしている。戦争は軍部が始めたことで、自分には関係がないのに、いまも自分に責任があるかのように言われるのは心苦しい。また戦争の責任がどうの、戦争が終わっても、蒸し返す迷惑な連中がいることは遺憾だともとれる。そしてその迷惑な連中とは、文学畑(かつての昭和天皇の発言)の連中である。まあ、倫理観のなさも、ここにきわまれるということだ。

つい最近まで上映していた韓国の歴史映画『天命の城』を思い出す。以下、まずあらすじを引用するとーー

1636年、清が朝鮮に侵入し「丙子の役」が勃発。敵軍に完全包囲され、冬の厳しい寒さと飢えが押し寄せる絶体絶命の状況の中、朝鮮の未来を見据えた大臣たちの意見は激しく対立する。平和を重んじ清と和睦交渉を図るべきだと考える吏曹大臣チェ・ミョンギル(イ・ビョンホン)と、大義を守るべく清と真っ向から戦うことを主張する礼曹大臣のキム・サンソン(キム・サンソク)。対立する二人の大臣の意見に王・仁祖の葛藤が深まる。抗戦か、降伏か。朝鮮王朝の運命は――!?

とある。中国の王朝が明から清へと移行するなか、大国の顔色をうかがいながら生き延びるしかない国家(李王朝)は、明に忠義立てし、清の軍隊を賊軍と見下すだけで、清王朝が中国全土を征服するという時代の流れを読み切れず、最後には、清に屈辱的な臣従を余儀なくされるという朝鮮半島史における屈辱的な一時期を扱っている。

以下は、wikipediaの記事だが、この簡潔なまとめをみると驚く。映画のほうは、指導力のない王と、家臣団の内部対立、錯綜する大義名分などで、大きな流れがよくわからない。あるいは誰もがよく知る歴史的事件の語られざる暗部あるいは細部を映画は提示しているのかもしれない。

1636年、後金のハーン・ホンタイジが国号を清として新たにその皇帝に即位し、李氏朝鮮に朝貢と明への出兵を求めた。朝鮮の仁祖王が拒絶したため、ホンタイジはただちに兵を挙げ、朝鮮軍はなすすべもなく45日で降伏した。和議の条件の1つに大清皇帝功徳碑を建立させた。仁祖はこの碑を建てた三田渡の受降壇で、ホンタイジに向かって三跪九叩頭の礼を行い、許しを乞うた。

いずれにせよ映画のクライマックスは、降伏した朝鮮の王が清の皇帝に対し、三跪九叩頭の礼を行ない許しを乞ところである。

三跪九叩頭は、合計9回、「手を地面につけ、額を地面に打ち付ける」ことで、映画のなかでは和平派のイビョンホンが、王に対して清の皇帝に恭順の意を表することをすすめながら、これほどまでに屈辱的な儀礼を強いられるとは思わず、王の姿に涙するのだが、たしかに三跪九叩頭は、ただの儀礼とはいえ、屈辱的すぎる。イギリスの大使は、清の皇帝に対して、これをすることを最後まで拒否したようだし、日本の使節もこれをしてない。

しかしこの映画を見ると、李王朝に清と互角に戦う力はないし、それが過去と未来においても同じだろう。また王は、決断力がなく、家臣の判断に依存するだけで、優柔不断といえばそれまでだが、家臣の合議と同意形成を重視する、ある意味、民主的な王である。もちろん、それは王らしからぬことで、王としての使命を十全に果たしていないといえる。その指導力のなさが、最後の三跪九叩頭に結びつくともいえるのだが、しかし、映画をみると、清の皇帝の前で、三跪九叩頭するとき、ようやく王らしくなる。王の王たるゆえんは、勝って征服王として君臨するときだけでなく、敗北の将として臣下の生命を守るために屈辱的な拝跪を引き受け、とことん侮辱に耐えるときにもあらわれる。真の王とは戦争の責任を引き受ける王だ。臣下の誰もが涙なくしてみることはできない屈辱に身をさらすことで王の聖性は輝きわたるのである。

このことは、別役実の戯曲(名前は忘れた)を見ていたときにも思ったことだが(その演劇の隠れたテーマは昭和天皇の戦争責任だと思った)、そもそも昭和天皇ひとりだけに戦争責任があるとは思えない。それは誰でもわかることだと思う。むしろ、もし気づかれぬかたちで、歴史の暗部で、昭和天皇が戦争責任を問われるような言動をしていたら、それこそ驚きである。昭和天皇に戦争責任はないことを、とにかく大前提としよう。だとすれば、つぎにすべきことはなんであったのか。それは、戦争終結から何年もたってから戦争責任などという文学畑のことをつきつけてくる愚かなジャーナリストに不快感を示すことではない。そうではなくて、戦争責任がないことが明白であれば、なすべきは、戦争責任を引き受けることである。これは一般人のことではない。無実の一般人は、ありもしない罪を認めたりしてはいけない。神なればこそ、王なればこそ、あるいは天皇なればこそ、犯してもいない罪を認めるべきなのだ。

イエスは何も悪いことをしていないのに、人類全体の罪を背負って、十字架にかけられて処刑された。それでどうなったのか。神の子イエスが罪人だとは誰も思わない。無実にもかかわらず、罪を背負い、屈辱的な死を遂げたがゆえに、膨大な数の人間がキリスト教に帰依した。キリスト教徒が世界を支配した(政治的暴力的な支配は批判されるべきだが、キリスト教徒は文化的にも世界を征服した)。

だが、これと同じことは、昭和天皇の場合、選択してあったのだろか。まあ、かすかな可能性としてもなかったと思う。またなかったほうが、ある意味、真の神格化をはばむことになったので、よかったのではないかとも思う。

なぜなら、日本の国民は昭和天皇に望んだのは、戦争責任を引き受けることだったと思う。昭和天皇に戦争責任があるからではない。戦争責任がないからこそ、戦争責任を引き受けたことによって、まさに神の国の天皇は、未来永劫にわたって、国民の魂を摑んだかもしれないのだから、そうしたことがないことは、よかったのだから。。

今回の侍従の日記から、昭和天皇は、戦争責任がなくても、あえて戦争責任を引き受ける気持ちなどまったくなかっことがわかる。それがいいかわるいかは判断できない。ただ、結局、今回の発見は、これまでのイメージ(戦争は軍部が起こした、昭和天皇は平和主義者)に対して何ら変更と修正を加えるものではなかったとは言えるだろう。

posted by ohashi at 06:55| コメント | 更新情報をチェックする

2018年08月24日

密輸トンネル

アメリカとメキシコの国境に 麻薬密輸トンネル という以下の記事があった、

メキシコとの国境に近いアメリカ・アリゾナ州で、麻薬密輸用のトンネルが見つかりました。トンネルは国境を越えてメキシコまでつながっていました。  アリゾナ州サンルイスの空き店舗で今月中旬、麻薬を密輸するための地下トンネルが発見されました。現地メディアによりますと、トンネルは店の調理場から掘られていて、深さ約7メートル、長さは180メートルにも及び、メキシコ側にある住宅のベッドの下につながっていました。店を所有する男の車からは、この地下トンネルを使ってメキシコ側から運び込んだとみられる違法薬物が見つかっていて、末端価格で1億円以上にも上るということです。警察は、大規模な麻薬組織が関わっているとみて捜査を進めています。 (C) CABLE NEWS NETWORK 2018

テレビのニュースでは、コメンテイターが、まるで映画に出てきそうな話ですがとコメントしていたが、実際、映画に出てくる。

『ボーダーライン』(原題 Sicario)監督ドゥニ・ヴィルヌーヴ 脚本テイラー・シェリダン、出演 エミリー・ブラント、ベニチオ・デル・トロ、ジョシュ・ブローリンほか。2015年製作、日本公開2016年。この中に密輸トンネルが出てくる。ウィキペディアから内容を紹介している記事の一部を引用すると、

アリゾナ州に戻ったマット、アレハンドロは、FBI捜査官であるケイトの権限を利用し国境警備隊が拘束したメキシコからの不法入国者たちをリクルートする。彼らから得た情報をもとに衛星写真から麻薬密輸のための地下トンネルの位置が特定される。

以後、この密輸のための地下トンネルが重要な役割を果たす。

ヴィルヌーウ監督のこの映画は、SFっぽいところはなく、また不条理な神秘性もない、ハードな犯罪映画で、それは今上映中の『ウィンド・リヴァー』の脚本を書いているテイラー・シェリダンの脚本であることからもわかる。またこの映画の密輸トンネルは、この映画のなかだけの架空の存在ではなく、実際に、そのようなトンネルがあるからこそ、リアルな犯罪映画のなかで使われたと思わせるのに十分なものがある。

実際、密輸トンネルの存在は、すでに知られていたとみていいだろう。映画にも出てきそうな話なんかじゃなくて、実際に存在するから映画のなかに出てきただけのことではないか。

またいまこのトンネルがニュースになるというも、日本の政権と同様に腐りきったトランプ政権、いやトランプ大統領にとって、やばい告発の動きがあるようだから、注意をそらすために、ニュースとして出してきたのではないだろうか。

posted by ohashi at 21:36| コメント | 更新情報をチェックする

2018年08月17日

裏システム

8月16日の記事

全日本剣道連盟(張富士夫会長、全剣連)の「居合道(いあいどう)」部門で、最上位の八段への昇段審査などの際、審査員に現金を渡して合格させてもらう不正が横行していたことが16日、関係者への取材で分かった。受審者が払う現金は合計で数百万円に上ったケースもあるとみられる。現金を要求された男性が告発状を内閣府公益認定等委員会に提出、同委員会も事実関係の調査に乗り出した。スポーツ界で不祥事が相次ぐ中、伝統の武道でも不公正な慣行がまかり通っていた実態が明らかになった産経新聞

 こうした「慣習」は、やめるべきであり、また一回の「不正行為」というよりは継承されている「慣習」だと思うので、根絶はむつかしいと思うが、根絶して欲しい。

結果的には金で段位とか資格を買うということになるのだが、今回の場合、あるいはこうした慣習においては、実際には、いくら金を積んでも実力のない者は段位や資格はとれないと思う。むしろ文句なく実力で段位や資格がとれる人間から金をとる。くりかえすが実力がなければいくら金を積んでも資格はとれない。いくら実力があっても、金を出さないと資格はとれない。実力もあり金も払う人間だけが資格をとれるということである。

居合道など、実力を数値化、客観化するのがむつかしく、審査委員の主観に左右されることも多いがら、このような不正がまかりとおるとも言われているのだが、たぶんそれは違う。審査する方はたいへんだから、謝礼くらい欲しい。金を払ったから資格を出すと言うのでなく、審査してやるから、そのぶん金を払え。つまり資格ではなく、審査行為に金を出すということである。さらにいえば金をもらって審査したら、だめだったというときには、金を返さなければならないし、金を返すのがめんどくさいため実力のない者に資格を出すほかなくなり、審査の権威が落ちる。そのために、審査に通るであろう実力者からしか金をもらわないようにすればいい。結果的に金で資格を買うのと同じことになるのだが、正確にいうと、審査行為の謝礼である。本来なら、審査を行う主体・集団・組織から金をもらえばいいのだが、審査を受ける側から金をもうらう。まあ受験料とか検定料みたいなものである。

受験料の場合、合格したからといって合格を金で買ったとはいわれないし、不合格の場合、受験料を返せとも言われない。今回の場合も検定料としてもらっておいてもいいようなものだけれども100万円を超え高額なうえに、その金もどこにいくのかわからない。組織への寄付なのかもしれないが、高額の寄付をしないと資格を出さないというのも問題があるし、また今回のように領収書を出さない裏金というのもおかしい。高額の受験料、検定料を合法的にとる手段はない。高額の受験料や検定料は不正とみなされる。

こうしたことにこだわるのは裏金、裏システムのようなものは、必要悪として擁護する者もいるが、私の場合、極力なくすべきだと考えるからだ。内部告発だろうが外部告発だろうが、どんどん告発して、一つ一つ、悪しき慣習をつぶしていかなければ、次に不利益をこうむる、さらには命を奪われるのは、私かもしれないし、あなたかもしれないからだ。先に東大病院に断られた話をしたが、もしそこに、いちげんさんおことわりシステムが強力にはたらいていたら、どこからも断られ、たらいまわしされて、軽い急性アルコール中毒だった私も、最後には命を落としていたかもしれないからだ――東京医科歯科大学は、そんないちげんさんおことわりシステムを採用していなくて、というか救急病棟なら、いちげんさんであろうがなかろうが、助けるのは当然のことだが――とにかく私は助かった。いまでも感謝している。

そしてまたこの裏システムあるいは裏金システムは、アカデミックの場に存在している可能性が高いからだ。

博士論文の審査に際して、審査委員にお金を払うことに関して、以前、東大でも告発されたことがあった。もちろん無根拠な噂だったのかもしれないし、システム化されていない、一部の不届き者の所業だったのかもしれないし、また現在では、改善されて、そのような裏システムは根絶されたのかもしれないのだが、私には真偽を判定できない。また事実無根だとしても、まちがいなくこうした噂があることは確かで、もしこの噂を信ずるなら、理系は業績に関して公明正大な評価システムを確立していながら、なんて金に汚いのだとあきれるほかはない――噂を信ずればの話で、これ以上あれこれいうと、理系関係者をディスることになるので、やめよう。まあ倫理観のなさは、科学者の特徴であって、倫理や道徳などというものは科学研究の妨害になるというのは一理あるが、だからといって、平気でお金を巻き上げる倫理観のなさの言い訳にはならないのだ。ちなみに大学でセクハラ被害が多いのは、文学部と理学部だが、これは文学部の場合は意識が高すぎるためセクハラを許さないため、理学部の場合は女性蔑視と倫理観の欠如におってセクハラが日常化しているからである。

ちなみに私は博士論文の審査に関しては、所属の研究室のみならず、他研究室の審査にも、また他大学の審査にも携わったことがあるが、お金は一銭ももらっていない。他の審査員も同様で、謝礼金とは全く無縁である。正直言って博士論文の審査は、時間もかかるしめんどくさい。間違いなく博士号に値する論文だとわかっているなら、細かく審査しなくていいのではないかと思うかもしれないが、提出された時点で、よほどのことがない限り、その博士論文は、審査に合格したも同然である。しかし、精査して遺漏がないかどうか調べるのは、完成度の高い論文であればあるほど、神経をすり減らすような細かな審査というか査読を必要とする。いや、ほんとうに謝礼が欲しいくらいだが、将来の有能な研究者にして私たちの同僚となるべき人材を確保するためにも、多少の犠牲あるいは無料奉仕は当然のことであり、また文系は理系に比べて博士号取得者が少ないから、審査のための拘束時間は、理系の先生方に比べれば楽で、文句も言えない。

実際、大学教員の場合、倫理規定があって、たとえば博士論文を提出者から、個人的にいかなる謝礼ももらっていはいけないことになっている。審査の厳正さ、ひいては組織や制度の公平性を確保するためである。だから盆暮れの付け届けなどもってのほかである。これは人間的接触が公平性をそこなうという考え方である。しかしもういっぽうで、盆暮れの付け届けこそが公正性の基盤になるという考え方もある。全日本剣道連盟の「居合道」部門の審査員たちの考え方である。

つまり個人的な接触をとおして、日ごろから人となりや能力を判定することによって公平な審査ができるというわけだ。逆に、見ず知らずの他人の能力を、ごくわずかな材料をもとにして判定することこそ、客観性とは程遠い、不公平な審査である、と。もしこの考え方を正しいとすれば、審査する側は、自分の友人の能力を審査することになる。またそうであればこそ、審査される側も友人として、お礼をしたくなる、審査の労をねぎらうための謝礼金を出したくなるということになる。この場合、友人から、礼などもらってはおかしいだろう、あるいは友人だからこそ、無料奉仕で審査してやるべきだということにはならない。まあやはり金に汚い邪悪な品性なんだろう。

とはいえ、以前、中国文化文学関係の博士論文審査に駆り出されたことがあったが、口頭試問を終えたあと、審査員の一人が、こういうとき、つまり審査が終わったら、中国では、審査された学生が、審査員の先生たちにお礼に、宴席をもうけて大盤振る舞いをするのだと話してくれた。それがほんとうかどうか私には知るよしもないし、昔のことだが、私の記憶違いもあって、私が話の内容を誤認した可能性もあるが、ただ、そういう慣習はあっておかしくないと思った。たとえば謝恩会というのは卒業する学生が、これまで教育してくれたお礼を先生にするために、宴をもよおすというのはおかしなことではない。学生が博士号を取得する時、それまで指導してくれた教員に対し、また審査をしてくれた先生方にお礼をするというのもわからないわけではない、というか当然のことかもしれない。

しかし現在は、そういう時代ではなくなっている。個人的なつながりは、客観的公平性の温床というよりは、偏った判定、不公平な判断、個人的恩恵の、つまりは悪の温床とみなされるからである。おそらく現代は、ふたつの時代が混在している。表システムに対して裏システムも併存している。正規料金のほかに裏金も存在している。病院などの診療費のほかに、手術に際しての謝礼金という裏金が存在してる。私は母親の癌の手術の際に、正規の治療費(保険の補助がでる)と同時に、担当医師に裏金を支払った。病院には一見さんおことわりシステムがあってもいいが――大学病院は基本的に紹介状がないとみてくれない――、それが救急病棟にまで適用されたらたまったものではない。理系における博士論文取得に際して、裏金が動くことがないことを祈るばかりである。

こうした慣習は、最終的にはシステムそのものをむしばむことになる。丹念にひとつひとつぶしていくほかない。今回の全日本剣道連盟の「居合道」部門での審査は、これで健全化への道を辿り、新しい時代を受け入れることになるのではないか。ある意味、ラッキーだったのかもしれない。
posted by ohashi at 00:37| エッセイ | 更新情報をチェックする

2018年08月09日

『ワンダー 君は太陽』

『ワンダー 君は太陽』スティーブン・チョボスキー監督2017年映画。

まずこの映画、文学関係者には気になるというか興味をひかれる細部がいろいろとあって、面白かった。たとえば顔に障害をかかえたオギーのお姉さんは、高校生で、ものすごく分厚い本を読んでいて、タイトルをみたらトルストイの『戦争と平和』。有名な作品だが、いま『戦争と平和』が世界でどのくらい読まれているのだろうか。ましてやアメリカで、ましてや高校生が。日本でも昔はロシア文学はよく読まれたし、その勢いで私は中学生の時に『戦争と平和』は翻訳で読んだ(理解したかどうかは話はべつだが)。ハリウッド映画の大作『戦争と平和』があったが、その頃、ソ連映画で『戦争と平和』の大作がつくられ日本でも公開され、それが私の読書の後押しとなった。しかし、昔の話である。いま、日本人の高校生で『戦争と平和』を読んでいる者が何人いるだろうか。たぶんゼロだろう。またアメリカの優秀な高校生あるいは文学好きの高校生はけっこうたくさんいて読んでいるかもしれない。

ジュリア・ロバーツ演ずる彼女の母親はPhD論文を書いていて、題材はブレイクの詩とブレイクのイラストであった。彼女も子供の世話からようやく解放されつつあるとき、未完だったPhD論文の完成をめざす。ブレイクの詩についての研究。王道の文学研究。

また物語にも重要な役割をはたす、高校での演劇部の出し物。『わが町』Our Town。いまでも人気がある作品であって、学校演劇の定番作品である。日本の劇団でもこの作品を研修生の課題作品としていると聞いたことがある。今でも高校や大学で、この作品が上演されていることと思う。かくいう私も学部学生時代に、学園祭の企画だったと思うが(ちがうかもしれない。どこかの公会堂を借りて公演をおこなったので、学園祭とは関係なかったかもしれないが、よく覚えていない)、英語のクラスでこの劇を上演した。きっかけは英語の授業でこの作品を読んだこと。大学の英語の教科書にもなっている。作者ソートン・ワイルダーの英語そのものは、そんなにむつかしくなく、平易で美しい英語なので、教科書向き。同じころ、別のクラスでは、『セールスマンの死』を英語で読んだが、こちらのほうは、高校を卒業したばかりの人間には、たちうちできない英語で、見たこともないような表記に完璧に叩きのめされた。それはともかく、たとえ純然たるフィクションかもしれないが、『わが町』を現代アメリカの高校生の演劇部が上演するのは、嬉しくなる。

(とはいえ、今のアメリカの高校の演劇事情については全く知らないのだが、実際には、『わが町』など上演する高校など皆無なのかもしれない。古き良き高校演劇のイメージから抜け切れない作者や映画関係者が、時代遅れの高校演劇演目を脚本にいれただけなら、あまり喜ばしい事態とはいえないのだが。

ちなみに以前、英語英米文学専修課程で、卒論にジョージ・エリオットの『サイラス・マーナー』を選んで書いた女子学生がいた。いまどき『サイラス・マーナー』というのは珍しいと思い、どうしてこの作品を選んだかを卒論の口頭試問のときに聞いてみた。純然たる好奇心で、またどのように答えても卒論の評価に悪影響はでない質問なのだが、答えは要領を得なかった。大学の授業で先生がこの作品をあつかって興味をおぼえたのかというと、そうでもない。では、いまでは岩波文庫ですら絶版になっている『サイラス・マーナー』とどう出逢ったのか、そしてなぜ卒論の題材に選んだのかについても、はっきりした答えは返ってこなかった。

たまたま、古本屋で、翻訳をみつけ、読んでみたら、面白かったので、卒論に選んだというような答えでいいのに、そうした答えはなかった。私の指導学生ではなかったので、結局、詳しいことはわからずじまいなのだが、この学生、卒論を書くというとき、同じ専修課程の教員とか、すこし上の先輩とか友人からアドヴァイスをもらっていれば、もっと別な作品を選んだのではないかと思うのだが、とにかく自分の意志で選んだとのではないと思う。

おそらく卒論を書かなくてはいけない。授業にまともの出ていない。どんな作家、どんな作品があるかなど、知識もなにもない。そこで、昔英文科を卒業した祖父祖母、親戚の人間に、どんな作家の卒論がいいかと聞いてみた。せめてシェイクスピアとでもいえば、誰も、不思議には思わないと思うのだが、その昔、英文科を卒業したかもしれない祖父祖母叔父叔母伯父伯母が『サイラス・マーナー』というタイトルを口にしたにちがいない。それにとびついた。『サイラス・マーナー』など、今では誰も読まないし、作者ジョージ・エリオットの作品のなかでも、もっとも読まれない作品といってもいいかもしれない作品を、無知なるが故に、また助言者が古すぎるがゆえに選んだのではないだろうか。

というのも、日本だけの現象だったかもしれないが、一時期、『サイラス・マーナー』がよく読まれたことは事実。日本の英文科でも、詳しく調べたことはないが『サイラス・マーナー』がよくとりあげられたはずである。たとえば私の中学のときの英語の先生は、卒論に『サイラス・マーナー』を選んだと言っていた。しかし大学生になってから、現在にいたるまで、『サイラス・マーナー』が講義とか演習とか、研究発表でとりあげられたところをみたことがない。ジョージ・エリオットの専門家なら研究しているとしても、専門外の人間にとって、『サイラス・マーナー』は、昔よく読まれてもいまでは誰も読まれない作品の第一位かもしれない。

もし同じことが『わが町』についてもいえるのなら、嫌な感じがするが、どうなのだろうか。)

なお、映画のなかで、その『わが町』を上演する高校の名前が、最後にわかる。字幕はでなかったが、建物の表示してある名前を見て、唖然とした。確か、William Faulkener’s High Schoolとあった。ひょっとしたらFaulkner High Schoolだったかもしれない。いずれにしても、その後調べてみてもわからなかったので、架空の高校名かもしれないが、とにかく驚いたことは確か。

なお主人公オーガストを演じているジェイコブ・トレンブレイ、『ルーム』のあの男の子であるとはまったく気づかず――当然だが。『ルーム』のときにも、興味深かった監禁後の物語において成長していく男の子を、きわめて自然に、また説得力あるかたちで提示できたジェイコブ・トレンブレイだとは気づかず――当然だというのに。

彼のお姉さんヴィア役のイザヴェラ・ヴィドイック、ジェイソン・ステイサム主演の『バトルフロント』でステイサムの娘役だったとはまったく気づかず――とはいっても、それはしかたがないが。ちなみに『バトルフロント』、最初から最後までほんとうに怖い映画だった。内容ではなく、たまたま入って映画館(シネコン)で観客は、ほんとうに私一人で、貸切状態だったのだが、もしこのとき誰かに襲われたら一巻の終わりとびくびくしていたのだから。

最後に、『ワンダー』を見る前に『ハン・ソロ』を見た。ふたつの映画に同じ人物(?)が出ていて驚いた。というか『ハン・ソロ』に出ているのはべつにおかしくないのだが、『ワンダー』にも出ているとは。
posted by ohashi at 16:06| 映画 | 更新情報をチェックする

2018年08月06日

『ウィンド・リバー』

Wind riverはネイティヴ・アメリカンの保留地のひとつ。全米で何番目かの広さを誇る保留地とのことだが、予告編でみるかぎ、エリザベス・オルセン扮するFBIの女性捜査官が、雪深い辺境の山岳地帯で、地元の、日本風にいえば「マタギ」のジェレミー・レナーの協力のもと、反目し、喧嘩しながらも、捜査をすすめ犯人を逮捕するが、最初は互いに敵対していた二人も、最後には愛し合うようになっている、という物語を予想したが、全然、予想とちがっていて、もっとシリアスで、重い話だった。2015年第69回カンヌ国際映画祭での上映の際には8分間のスタンディング・オベイションがあったというが、当然のこととしてうなづける。

ジェレミー・レナーは、しぶくてかっこいいのだが、エリザベス・オルセンが、昔は、この映画で被害者になるような女性の役がけっこうあったように思うが、年令を重ねて、力強い女性捜査官の役をするようになったのはよかった。というかアメリカン・コミックのヒーロー、ヒロイン役を演ずるよりも(それをいうならジェレミー・レナーも同じだが)、こういう役のほうが、魅力を出せるような気がする(思い出したが、彼女はアメリカ版『ゴジラ』にも出ていた)。

映画が描こうとしているのは何か。いきなり大きな話で恐縮だが、それは最初の事件と、最後の解決との間に横たわる長い時間をいかに埋めるのかというか、その長いインターヴァルを埋めるメランコリーの時間。映画が描こうとしているのは。それだと考える。

メランコリーの時間と言っても、ほんとうに気の滅入るような物語や映像ではまずい。かといって変に美化するのもメランコリーの要素を希薄にする。激しい怒りや悲しみではない。もちろんそれが映画に向かないというような狭量な世界観を押し付けるつもりはない。激しい怒り、号泣するしかない悲しみ、大いにけっこう。問題は、そうした瞬間は長続きしない。後に残るのは、うっ積する怒り、泣くになけない悲哀、徐々に心をむしばむ悲しみ、あきらめが生まれるまで耐えること――そう、メランコリーの時間が到来する。不快すぎることなく、かとって退屈することなく、いかに観客に、このインターヴァルのメランコリーの時間を提供するか。そのメランコリーの時間に、いかに没入するか。没入できるようなメランコリーの時間をいかに構築するか。それがうまくできれば優れた映画となる。

『ウィンド・リヴァー』は、謎の事件の犯人を追う、サスペンスものであるのだが、同時に、それはネイティヴ・アメリカンの保留地においてけ行方不明になっても、ろくな捜査もされず、記録に残されないという、先住民差別プラス女性差別という二重の差別の告発ともなっている。

しかもこの告発は、声高な告発ではなく、どこの家族でも若い娘を失い、残された家族の悔恨と苦悩を、耐え続けるしかない先住民の悲哀を前面に出す。数年前にアカデミー賞をとった『マンチェスター・バイ・ザ・シー』(これも地名がタイトルになっている)と似ている。『マンチェスター…』では、事故で家族を失った男の深い苦しみとメランコリーが雪景色を背景に描かれる。『ウィンド・リヴァー』でも、どの家族も、娘一人を失っているという、悲しみの、春なお雪深い、山岳地域を舞台としている。ただ、この悲しみには社会的差別が絡んでくる。ネイティヴ・アメリカンの保留地、棄民の地、忘れ去られた白い牢獄に固有の悲しみが。

この映画のなかでジェレミー・レナー不運するアメリカのまたぎ(猟師というよりは狙撃兵に近いのだが)が、運命を呪ったり、社会が悪いと感情を爆発させる前に、感情をコントロールせよと、若者に忠告する。これも悪くとれば、社会批判を封じ込め、自己責任論を展開して体制維持をする汚いレトリックといえば、それまでだが、同時に、犯罪が体制攪乱になると単純に信ずることもできない時代に私たちはいるのも確かで、犯罪は、体制側に統制と監視の口実を与えることになる。節度と忍耐をもって、悲惨と迫害を引き受けることが、そのまま強い差別批判、社会批判になることを信ずるほかはない。ほかの選択肢は、望ましい帰結につながらないようだから。

いいかえれば、メランコリーの時間を耐え続けること。そしてメランコリーの時間が、正当な社会批判によって終わりを告げること、それを希望とすること。そうでなければメランコリーは死に至る病でしかないということだ。

追記
1肺のなかまで凍って血を吐いて窒息死するという、ある意味、極寒の環境にいながら、人物たちの息が白くないのはおかしい。ただし、もしほんとうに寒くて呼気が白くけむるなら、タバコを吸ってもいないのにみんなタバコを吸っているような情景になって、うっとうしくなるから、それをやめたのだろうか。

2死因は窒息死だという医師。それでは殺人事件として応援を呼べないというFBIの捜査官。レイプされて極寒の荒野をさまよった女性に、死因が窒息で、自殺かもしれないので、事件性はあるかどうかわからないという地元の医師(正式な検視官ではない)と、いや事件にしてくれという女性捜査官、どちらもまちがっているのではないかと思ったが。

3雪の上の蜘蛛が動いている。これは大写しになるので、誰も見落とすはずはないのだ、雪の積もっている戸外に蜘蛛が生きているのだろうか。

4ジェレミー・レナーは何を手掛かりにして、トレーラーハウスのなかに危険人物がいると判断したのだろうか。私が単に見落としただけだとは思うのだが。

posted by ohashi at 18:18| 映画 | 更新情報をチェックする

2018年08月05日

『二重螺旋の恋人』

フランソワ・オゾン監督の作品、ジョイス・キャロル・オーツの作品が原作なのだけれども、オーツには双子の話がけっこうあって、Lives of the Twinsという原作はもってもいないし読んでもないのでなんともいえないが、映画化作品というよりは自由な翻案のようだ。

フランス語のタイトルは二重の愛、ダブルの愛程度の意味で、二重螺旋というめんどくさい話ではない。二重螺旋というと、ワトソン、クリック、そして消された女性科学者という例の科学史上の有名な話があるのだけれども【彼女もまた、東京医大の女性受験生と同様、優秀な成果をあげながら、減点されて科学史から消されていた――以前、このブログにも書いた『Potograph51』のテーマだが】、DNAとか遺伝とか双子というテーマにつらならないわけではないのだけれども、見ているときには、そういう方向に思考はすすまないので、考え過ぎなタイトルかもしれない。この考え過ぎなタイトルが観客の足を遠ざけないことを祈るばかりである。くれぐれも二重螺旋でDNAを連想して、それで恋人がどうのこうのとわけのわからない連想して勝手に嫌いにならないでほしい。

というのもこの映画、すごくエロくて怖い。そういえばR18。エロいのも当然だが、マリーネ・ヴァクト(『17歳』の)エロい。と同時に、精神的な怖さのほかにもグロいところもあって――ちなみに、それはクローネンバーグ風――、ホラー映画として、心理面だけでなく物理面・肉体面でのホラーもあって、充分に楽しめる――震え上がるということだが。

映画のポイントは、どこまでが現実でどこまでが幻想・妄想なのか区別がつきにくくなることだ。だが最後にわかる。どこまでが現実か幻想かという問題は意味がなかったことを。すべてが妄想だったことを。

ただ、それによって現実感がなくなるというとそうではなく、どこまでが現実でとこまでが妄想かわからないということは、この妄想があまりにもリアルであって、妄想の源泉であった不安や恐怖を、これほどリアルに――つまり現実的ではないがゆえに現実的なイメージによって――伝えているものはないとわかり、そのリアリティの強度に圧倒されるのである。

ちなみにカエルは異物を飲み込むと、胃袋ごと外に出して吐きだすという。たまたまテレビのクイズ番組かなにかで、このことを知っていた私は、ベネチオ・デルトロ監督のダークファンタジ―『パンズ・ラビリンス』で人間よりも大きな巨大カエルが、呑み込んだ人間を胃袋ごと吐きだすという、どろどろ、ねばねばの場面があって、カエルの習性を良く知っているものと、感心したことを思い出す。

『二重螺旋の恋人』の主人公もカエルと同じで、耐えがたい真実を飲み込んだ彼女は、その異物感に耐えられず、胃袋ごと、異物を全部外に出したといえばわかってもらえるだろうか――実はまだ消化しきれずに出しきれなかったものが、そう、噛んでも噛んでもなくならないガムみたいに残っているというのが物語の肝となっているというとますますわかりにくくなるだろうか。まあ、わかりにくい比喩だが。とにかく、私たちが、先が読めないまま、時折、びくりとしながら見てきたのは、すべて彼女の内面そのもの、吐きだされた彼女の内面そのものだったのだ。

実際、彼女の内部にあるものがすべて吐き出されて彼女の現実が形成される。自分が双子ではないかという彼女の不安と恐怖は、彼女自身が男性の双子に悩まされるという現実=幻想になる。彼女が務めている美術館に展示されている気色の悪いオブジェは、彼女の肉体の内部にあった腫瘍である(それがわかる頃には、彼女がほんとうに美術館つとめていたのかどうかもわからなくなるというか、あの美術館は彼女の精神世界の外在化として不気味さを増す)。

彼女が診断をうけるのが精神分析医であることからも、映画の観客がみるのは、悪夢の世界であり、この悪夢のもとにある現実はなんであるのかと考える。まさに精神分析的世界であって、精神分析でいう防衛反応のオンパレードである。

つまり映画は、彼女の内面の苦悩が外面化される。内なる世界が吐き出されて外化される。そこまではいいとして、その起ち上げ時に、防衛反応によってさまざまな歪曲が加えられる。そのため観客は、彼女の悪夢の世界にとりこまれるのだが、防衛反応によって一次加工、あるいは二次加工された夢世界なので、観客にとっては、不気味さこそ増してもも、背後にある現実あるいは真実がみえてこない。そこが面白いのだが、繰り返す、真実が見えてこないのは、防衛反応に由来する加工と歪曲ゆえである。

と同時に、もしこれが彼女の悪夢の世界であるなら、それは彼女が真実をみないように、また自分を守るために作り上げた迷宮世界としても、ただ完璧に抑圧するとそこにあるのはお花畑でしかなくなってしまう。実はそうならないのは、夢が真実を隠蔽すると同時に真実を開示しているからである。つまりこの映画を観終わったあと、真実がみえてくるのだが、同時に、真実は隠されていたのではなく、最初からずっとそこにあったということにも私たちは気づく。真実であっても、それを真実として認めないがゆえに、その真実を、よごし、ねじまげ、原型をとどめぬまま切り裂くが、それでも真実が消化できないガムのように残存する。それが不気味さの淵源である。まさに精神分析的。映画の中で彼女が相談するのは精神分析医という設定は無意味ではなかった。

防衛反応について、例をあげれば、たとえば私が母親を憎んでいるとする。母親は決して悪い人ではない。その母親を憎むのがよくないとわかっている私は私を罰すると同時に、母親を隣に住んでいる母親と同年齢の女性と同一化する、あるいは母親は隣人の女性、赤の他人であると妄想する。ただし私の妄想にもいくばくかの真実があって、私が母を憎むのは、母からも実は疎まれているからである。したがって私を憎む母は、私にとって他人も同然である→他人そのものである。もし私の妄想世界あるいは夢のなかを他人がのぞいたら、どうなるのだろう。たとえば、一般論として語れば、ある人物が初対面の隣人の女性の家を訪問する。礼儀正しくその女性と会話するのだが、その女性は、どういうわけかその彼もしくは彼女のことを良く知っていて、さらには図々しくも、彼もしくは彼女の生活態度を批判し、生き方を指南する。わかるはずもない彼もしくは彼女のプライヴェートな部分を知っている。不気味である。この見知らぬ隣人の女性は、まるで彼もしく彼女の母のようである……。こういう不気味な世界を目撃することになるだろう。

双子については、私は、最初、あまり重視しなかった。双子はいなくて、最初から一人しかないと思っていたのだ。ハロルド・ピンターの劇『恋人たち』は、主婦が夫の留守中に自分の家で別の男と浮気をする芝居である。夫以外の男性との不倫に彼女は燃え上がるのだが、実は、夫と不倫相手の男性は同一人物である。解釈はわかれるところだが、この夫婦は、夫婦ゲームと、夫が仕事ででかけたあとは浮気ゲームをしているのであって、夫の留守中、いよいよ浮気相手があらわれると、それが仕事に出かけた夫と同一人物であって、見ている側の戸惑いは極致に達する。この関係を倦怠期を迎えた夫婦が、浮気ゲームをして関係を深めているというリアルに解釈することもできるが、それよりも寓意的に解釈するほうがずっと面白い。もちろんピンターについて語る場ではないのでやめるが、映画のなかで彼女が出会う双子の兄弟は、ひとりだと私は思っていた。実際、オゾンの前作『婚約者の友人』は、ルビッチの『私の殺した男』のリメイクで、いうなれば、なりすまし物語(完全ななりすましというよりも、同一化するのだが)である。二人はいない。いるのは、ひとりだけ。あるいは二人いても、一人は殺され一人になった(ルビッチの映画の場合、塹壕での戦闘中に殺したドイツ兵から伝言を頼まれた男の話である)。そう前作と同じモチーフだと思えば(もっといえば、オゾン映画の中心的モチーフだと気づけば)、この映画で迷宮から出られなくなることはなかった。いや、双子の精神分析医などいない。一人しかないのだとずっと思っていた。そして映画の結末で、私が正しかったことがわかったが、その背後にある真実は、予想外のものだった。

双子というのは、いかに似ていても独立した人格であって、ふたりをしっかりと識別し、また個性を重視をする方向にいくと双子問題は、独立した二つの人格からなる「我と汝」の関係になる。「我と汝」は自己中心的な閉塞的あるいは暴力的一元化世界を、他者への認知によって開く、あらたな段階の到来、あるいは新たな段階への到達へと導くものだった。私は、私と同じように尊重すべきもう一つの人格を認め尊重しなければならない。ところが双子の場合、尊重すべきもう一人が、私の別人格であるはずなのに、同時に私と同じであるという矛盾に直面する。双子の場合、「我と汝」というシンメトリカルな問題のほかに、兄弟姉妹であるときに必然的に生ずるSibling Rivalryつまり兄弟姉妹の争いによって、闘争関係に入り、最終的に片方がもう片方に呑み込まれる。双子の場合、もうひとりの私は、そこにいるのではなく、私の中にいる。もう我と汝の関係ではない。汝は私の他者として私の内部にあり、私の一部であり、私は、この他者なくして、私は私でなくなる。私はこの他者によって養われ同時に私はこの他者を飲み込み食べている……【萩尾望都の「半神」の世界であるが】

双子の場合、ブーバーの「我と汝」の関係が、ある意味、理想的だが、むしろレヴィナスの「自己と他者」との関係に陥りやすい。あるいは陥ったらどうなるか。そこに生まれるのが、この映画のテーマ、私はもう一人の私であるというオゾンのテーマである。

ブーバーとレヴィナスにおける他者の位置について、痛ましいが分かりやすい例としてパレスチナ問題があげられる。

ユダヤ人とパレスチナ人との「我と汝」の対話、同等の人格を認め合い、対話と強調のもとに新国家を建設するという、ブーバーもその運動の一員であった運動は、イスラエル建国とともに消え去った。自分の居場所と思ったところに、じつは先住者がいて、この先住者を排除するか吸収消滅させる以外に自己の存続は望めなくなったとき、自己と他者との相互に尊重する融和関係は消滅して、最終的は私は他者を私のなかに取り込んで私となった。イスラエル人は、パレスチナ人を二流市民として自国に迎え入れたか、あるいは抹殺し亡霊として意識しながら、あるいはゲットー化して特定の地域に閉じ込めて民族絶滅をはかり、そうであるがゆえにつねに自爆テロに怯えながら生きることになった。他者はもはや「汝」ではない。私の一部、私そのものであり、同時に私を脅かし、抹消せねばならない存在となるが、抹消した瞬間、ドリアン・グレイの肖像のように、私も死ぬのである……。

これ以上は映画の筋をあかすしか語れないが、映画をみて、パレスチナ問題を参照する人はいないかもしれないが、抑えつけたはずの兄弟姉妹の復讐に怯える兄弟姉妹という心理的恐怖は、抑えつけたはずの先住民族(たとえばパレスチナ人)の自爆テロに怯える選ばれた民族(イスラエル人)の文化的政治的恐怖とつながっているのである。

この妄想部分では、悪夢をみる彼女が、ふと目覚める時があって、いままでの恐怖のイメージ、あまりにもありえないグロテスクな幻想シーンは、夢だったのかと安堵するところが何度もある。しかし、実は、この映画全体が彼女の妄想世界であったことが最後にわかれば、悪夢から覚めても、実は、それも悪夢の一部であったことになる。映画は一定のハッピーエンディングを迎える。だが、それは悪夢から目覚めた彼女が、それとは知らぬうちに、さらなる悪夢にとりこまれているといえなくもない。エンドレスに続く悪夢。映画も、ハッピーエンディングで終結するはずはない……

映画の最後のイメージは、いろいろと解釈できると思うが、そのなかのひとつは自爆テロのイメージである。
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2018年08月02日

東大病院にことわられた東大教授

東大病院に断られた東大教授とは、私のことです。

今年も猛暑の夏だが、たとえ今年ほどではなかったかもしれないが昨年も猛暑の夏で、7月の下旬、大学の近くの湯島のほうで学生(院生)たちと飲み会の席上、私が急に気分が悪くなり意識不明に。救急車が呼ばれ、病院へ行くことになった。

酒を飲み過ぎて気分が悪くなって気を失ったということだが、現時点で、一年前を振り返れば、熱中症になったのかもしれない。あるいは脱水症状か。脱水症状で、体内のアルコール濃度が高くなって急性アルコール中毒になったのだろう。猛暑のなか、そのワイン居酒屋に到着、汗をかき、すきっ腹のところにワインを飲んだので、体の水分をもっていかれたということだろう。店にも迷惑をかけ、院生にも迷惑をかけたので、その店には行っていない。酒を飲むことにも慎重になった。

で、気が付くと救急車が呼ばれ、店で、その場で心電図までとられてから、椅子ごとかかえられて救急車に。また意識は戻ったので、救急隊員から、いろいろ聞かれた。職業なども尋ねられたので、東大の教員だというと、それでは、近いので東大病院に行きましょうと言われた。救急車のなかで救急隊員が東大病院に電話で連絡している声が聞こえてきた。そして次の瞬間、東大病院から断れたら。ベッドがいっぱいで受け入れる余裕はないということだった。

この話をすると、誰もが、学生から教員から、近所の知人から、はては私の妹まで、みんな笑う。東大教授でも東大病院から断られるのかとか、東大病院から馬鹿にされているのではないのかとか、私が実は、東大教授ではないのではないかと、さんざんに言われている。

ただベッドがいっぱいなら、しかたがないし、救急隊員は次に東京医科歯科大学に電話をし、そこの救急病棟へ。2時間か3時間くらい、点滴その他の治療をうけあと、血圧も上がってきたので帰された。東京医科歯科大学は地下鉄丸の内線御茶ノ水駅に直結しているので、丸ノ内線利用者の私にとってありがたい。また東京医科歯科大学の救急病棟では、手厚く介護され的確な治療を受けることができて感謝している。私も若い頃、私立大学の教員だった頃、非常勤講師として、東京医科歯科大学で英語を教えたことがある。医科歯科大で治療を受けたのは今回が初めてだが、なんとなく親近感をいだいていて、治療もよく、帰宅も楽だったので、東大病院に断られ、東京医科歯科大学に運ばれたことはラッキーだった。

なぜ断られたのかについて、病床がいっぱいであれば、これはしかたない。東大教授(ただし文学部)の威光(があればの話だが)など関係ないだろう。あるいは、実は受け入れる余地はあっても、酔っ払いが体調を悪くして店で倒れたとき、その酔っ払いが自分は東大教授であると適当なことをいって、東大病院に搬送されることを希望したのではないか、そんな嘘つきは受け入れる余地はないと思われたのかもしれない。たぶん、そんなことはないと思うだが、もしそうだとしたら、許しがたいが、しかたないところかもしれない。本郷界隈、その近辺で救急車で運ばれる人間は、みんな東大病院を希望するかもしれないので、ひょっとしたら、よくあることかもしれない……。

いや、そんなことはないだろう。東大教授を名乗る嘘をつくというのは、大胆すぎる。名うての詐欺師でもないかぎり、そんなことはしないだろう(私だって、東大教授を名乗りたくない――ただ経歴や職業を詐称するのはよくないので、名乗るときは、やむなく東大教授を名乗っているにすぎない)。昨年、この断られた話をして笑いをとっていた頃、たまたま夫が東大病院に入院したが、そのとき予定していた病室が諸事情で使えなくなり、特別室(差額ベッド)しかなくなったため、通常料金で特別室を使うことになったという話をしてくれた人がいた。入院した人物、またその家族も、東大関係者ではない。なのに特別室を通常料金で利用できるとい優遇措置を受けた。ふつうなら、いま特別室しか開いていないのだが入院費が高くなりますが、それでも入院しますかと聞かれるだけだと思うのだが、東大病院は親切である。いっぽう救急車で運ばれなければいけない東大教授が、緊急事態にもかかわらず、断られたというのは、なぜか(東大教授の威光をかさに着ているようで嫌なのだが)。

おそらくそれは診察券のあるなしの違いだろう。私は、これまで東大病院にかかったことはない。私がいつも持ち歩いている診察券は、自宅近くのかかりつけの病院の診察券である。結局、そこで治療を受けているか、いないかが分かれ道で、いうなれば「いちげんさんお断り」の世界である。たぶん私が東大病院の診察券でも所持していれば、すぐに受け入れてくれるかもしれないが、そうでなかったので、よそに回されたのではないだろうか。となると私を受け入れてくれた東京医科歯科大学はどうなるのかということになる。東大病院のほうが、一見(いちげん)さんお断りのルールが厳しく適用されているのだろうか。だとしたら、はっきりいって、それは許し難いことであり、告発に値する。

実は、昨年だけでなく、一昨年にも酒の飲み過ぎで駅で倒れて救急車で運ばれたことがある。二年連続で救急車に運ばれるというのは、まずいので、昨年の夏以降、宴会とか飲み会は控えることにしている。人づきあいが悪いに人間になってしまったが、毎年のように救急車で搬送されていては、体がもたない。ましてや今年は熱中症で搬送される人が多いので、救急車を呼んでも来てくれないかもしれない。救急車に断られた東大教授というのは笑い話にもならないので。


posted by ohashi at 23:12| エッセイ | 更新情報をチェックする

『未来のミライ』

これって『ボスベイビー』と同じじゃん。同じテーマを扱っている。『ボスベイビー』のほうは、弟ができる。『未来のミライ』では妹ができる。ただいずれにせよ、それまで両親の愛を独り占めしていた男の子が、弟や妹ができると、両親の愛を独占できなくなって、弟や妹に嫉妬し、両親の気をひこうと我儘を言ったり暴れたりする。『ボスベイビー』のほうは、SF的というかコミックス的設定を細かくして、架空の荒唐無稽なカンパニーをつくりあげるが、『未来のミライ』のほうは、なぜ高校生になった妹が4歳の兄のもとにあらわれるのか不明だが、夢とも現実ともつかない展開のなかで、家族の歴史と4歳児の時間線のなかの現在の立ち位置と家族の重要さの発見という大人向けのテーマを盛り込んでいる。

『ボスベイビー』と同じ時期に上映されていた『リメンバー・ミー』が家族の絆や歴史を扱って泣かせるテーマを盛り込んでいて、『ボスベイビー』よりも好評だったように思えるのだが、この『未来のミライ』、家族の今を支え、そこに流れ込んでいる時間の糸を解きほぐしながら(そのイメージはデジタルなのだが)家族の意味を考えるというのだが、ネット上では、パッとしない映画という声があがっている。

実はテレビで『ばけものの子』を放映していたが、それを、ぼんやり部分的に見ていたが、けっこうテーマは複雑だということがわかったし、めんどうくさい設定を使っている。それにくらべて『未来のミライ』は、なぜ高校生になった妹が突然あらわれたのか説明はないのだが、それ以外はわかりやすいはずなのだが。

ちなにみ『ばけものの子』を、映画館でみたときは、実際に過去にあった幾種類かの文学全集と、その中の一巻であるメルヴィルの『白鯨』がけっこうリアルに描かれていたり、渋谷(このアニメに描かれた渋谷駅界隈は、すでになくなりつつあるのだが)の一駅前で止まる地下鉄電車が、私が毎日利用している地下鉄電車でもあって、個人的に勝手に受けて面白がっていたのだが、そう個人的に受ける要素がないと、距離感が生まれるのかもしれないと思い知った。

『ボスベイビー』を、姪と、その母親(妹)と見たあとで、姪に対して、私自身は、鮮明な記憶として残っていないだけれど、母親から聞いた話では、私に妹ができたとき、世話をしてもらえなくなったので、手におえない駄々っ子になって親を困らせたらしいと話していた。この件は、このブログでも、『ボスベイビー』の記事で触れている。弟や妹がいる兄や姉にとって、親の愛を奪う弟や妹は、みんなボスベイビーだと話したことがある。それをそばで聞いていた、私の妹は、そんなことがあったのと驚いていたが、まあ親からその頃の話は何も聞いていないのだろう。実際、話す必要もないし。

となると、やはり弟や妹である人にとって、兄や妹が嫉妬するといのは、どうみても他人ごとにすぎない。逆に、私にとっては――たとえ、実際にところ、3歳から4歳の頃の嫉妬感情はふつうに忘れるのだが、後年、親がしっかりその頃のことを記憶として刷り込んでくれる。そのため刷り込まれた記憶にもかかわらず、当人にはリアルな感興をともなって喚起される記憶になるのだが――、まさに自分の子供時代のことのようだと、自分が主人公になった気分で、おもしろおかしく見ていた。

だが、現在は少子化が進んだ日本のことである。一人っ子として育った人間が増えているし、また子供がひとりしかいない家庭も増えている。妹であったり弟であったりする人が減っているし、兄弟姉妹のいる親も減っている。となると、少子化が進んでいないアメリカなら『ボス・ベイビー』のテーマは、大いに受けるかもしれないが、日本では、むしろ他人事であったり、兄や姉が、妹や弟に嫉妬するなんてことを初めて知った人も多いかもしれない。

その点、人を選ぶ映画とか、人によって好みが分かれるとか、テーマがピントこないという評価がネット上にあって、やや残念な気がする。これには、いま述べた兄や姉の妹や弟への嫉妬というテーマが、少子化の日本では普遍的ではなくなったということが重要な低評価要因に挙げられるのかもしれない。もちろん上白石萌歌の、慣れれば違和感はなくなるでは済まされない、最後まで違和感が残る吹き替えのほうが戦犯第一号だとは思うが(他の俳優陣の吹き替えは、みんな上手い)。家族のテーマは、私の父方の祖父は、家族を捨てて家を出て行き、帰ってくることはなかったので、写真すら残っておらず、私は父方の祖父のことは、東大を卒業していたということ以外、何も知らないし、どこの家族にも、そういう黒歴史はあると思うし、このアニメ映画のように、ありふれていても幸せな先祖たちというのは夢物語だろうと知りつつも、『未来のミライ』はじゅうぶんに面白かったのだが。

ああ、そうかもしれない。このアニメ映画のさらなるテーマは、戦争を経験し、それを逃れて生き延びた人々の家族というテーマだった。このある意味反戦テーマは、いま日本にもブラックバスのようにふえてきている戦争好きの馬鹿ファシストにとって気にいらないものかもしれない。だとすれば、彼らファシストどもの否定的評価には絶対い惑わされずに、この映画を支持すべきだと思う。
posted by ohashi at 01:35| 映画 | 更新情報をチェックする

2018年08月01日

正義の人 4『これはあなたのもの』

『これはあなたのもの 1943-ウクライナ』
2017年に日本でも翻訳上演されてロアルド・ホフマンの『これはあなたのもの 1943-ウクライナ(Something That Belongs to You)』は、かくまわれたユダヤ人側からの視点というか回顧によって、正義の人問題に光を当てている。ロアルド・ホフマンは、母親との米国移住後、化学者となりノーベル化学を受賞したが、詩集を刊行し、さらに戯曲も3編創作していて、そのうち一編がみずからの経験に基づいて書かれたこの作品。(原作『これはあなたのもの―1943‐ウクライナ』川島慶子訳(アートデイズ、2017) )

鵜山仁演出、吉田栄作と八千草薫の親子(作者自身とその母親とを、この親子に重ねることができる)を軸に、過去と現在とが交錯するドラマだが、作者「ホフマンはソ連の支配下、ナチス・ドイツの支配下と激動するウクライナに生まれ、ホロコーストを生き延びた人間であり、その壮絶な経験がこの舞台には込められている」というようなコメントがネットではほとんどで、ここには歴史特殊的な、ユダヤ人をかくまった「諸国民の中の正義の人」をめぐるテーマがあることは、人形好きの演出家(鵜山仁のことです)から劇評家にいたるまで、多くの人たちに着目されることはなかったように思う。この「正義の人」の話は劇中に出てくる。ただし、戦後、かくまってもらったのに、どうしてイスラエル政府に推薦しなかったのかというような話の流れのなかで。

ウクライナでは、ユダヤ人をナチス・ドイツからかくまったのではない。ウクライナ人からもかくまった――ウクライナ人が。そしてユダヤ人とウクライナ人との根深い対立から、ウクライナ人にかくまってもらったユダヤ人一家も、単純に、ウクライナ人に感謝することはできない――う~ん、ウクライナ人、それまでユダヤ人迫害しすぎ。つまりウクライナ人すべてがネトウヨのヘイト集団というわけではなく、ユダヤ人(おそらくは昔から知り合いの)をかくまう家族もいたわけだが、アメリカ亡命後、主人公(吉田栄作)の母親は、ウクライナ人を一貫して人殺しと呼び続けている(八千草薫の役とは思えないほど、ウクライナ人に対してはかたくなでありつづける老いた母親がいるのだ)。実際、ユダヤ人をかくまったウクライナ人は、ユダヤ人のもっている財産めあてだったというふうにも語られる。

劇そのものは、過去の悲惨と不幸を、現在にどう伝え、それをどう乗り越え、そして和解点を見出すかというのがテーマだと思うし、ユダヤ人迫害の嵐が吹き荒れるなか、ナチス・ドイツからもウクライナイ人からも、ロシアの共産主義者からも、ユダヤ人をかくまった少数のウクライナ人がいたことは、和解と未来への希望とをうむ重要な契機と思わるのだが、かくまわれたユダヤ人家族は、複雑な事情もあるのだが、ウクライナ人を嫌悪し、ウクライナ人に恩を感じもいないようなのだ。ああ、「和解なし」。

「諸国民の中の正義の人」問題において、かくまったり助けた人間がいたからといって、加害者側の罪が消せたり、加害者側を擁護したりはできないことは、何度繰り返しても繰り返したりないのだが、それはまた、「正義の人」も、加害者側の集団に、出自、国籍、民族性などでつながっているとすれば、どんなに助けても、加害者側とみられてしまう、つまりは加害者側として断罪されてしまう可能性が高い。

このことはつらい。迫害されている人たちを助けた、かくまった、だから、政権や安部応援団やネトウヨらの正義の仮面をはいでやった、彼らから裏切り者の汚名を着させられようとも、彼らファシストの、いかようにも弁護できない残虐性を、歴史において証明するのだと、うぬぼれている場合ではない。気が付くと、助けた人たちからも、結局、くそ日本人、人殺しの日本人、安部応援団と同じとみられているかもしれないのだ。必要なのは、素朴な善意ではない。それだけでは十分ではない。関東大震災のときに虐殺された朝鮮人を追悼すらしなかった小池真理子と私は人間の出来が根本的に異なるのだから(第一、私は学歴詐称はしていないぞ)。彼らとは異なるのでなければいけないという強い意志も必要なのである。金目当てでかくまったと思われないためにも。
posted by ohashi at 11:18| エッセイ | 更新情報をチェックする