2018年07月30日
正義の人 3 『ユダヤ人を救った動物園』
地下室のようなところにかくまわれ、時いたって手配がととのい次第、国外へと逃亡していったユダヤ人が長時間過ごしたその地下室の壁に、落書きというか絵が描かれていることを動物園長の妻は終戦直後だったかに発見する。
薄暗い地下室でぼうっと浮かび上がるその壁にかかれた落書きの絵をみて、私は息をのんだ。鮮明ではないので、見間違いかもしれないが、たぶん子供たちが描いた絵だろうが、人間が描かれていてもその頭部が動物の頭になっている(私の見間違いかもしれない。いまブルーレイ・ディスクを人に貸しているので確認できないのだが)。これは、アガンベンの『開かれ』(平凡社ライブラリー)の冒頭で触れられている中世の写本が描くところの正義の人の姿ではないか。つまり頭部が動物なのである。動物園にかくまわれているのだから、動物が自然と擬人化の対象となったともいえるのだが、動物園、かくまう善きサマリア人、ユダヤ教における正義の人、こうしたイメージ群が頭部が動物である人間像を、かくまわれているユダヤ人たちに描かせたのではないか(つまりその壁にかかれた絵は、おそらく、当時の「壁画」の写真から再現したと思われるのだから)。アガンベンがまだ語っていない、「正義の人」の伝統的表象が、まだほかにも、あるのかもしれない。

『ジュラシック・ワールド 炎の王国』
予備知識なしで観たために、監督はスピルバーグだろうと思っていたら、最後のエンドクレジットをみて監督J.A.バヨナとある。そもそも前作の『ジュラシック・ワールド』から監督はスピルヴァーグではない。J.A.バヨナ? 知らない監督だと思ったが、ああ、歳はとりたくないものだ。ぼけ老人の仲間入りじゃい。バヨナ監督の前作も、前々作も、映画観でみていた。
監督の主要作品は『永遠のこどもたち』(2007年)『インポッシブル』(2012年)『怪物はささやく』(2016年)だが、『永遠のこどもたち』はDVDで、あとは映画館でみていた。このブログにも『怪物はささやく』についてレヴューを書いていて、原題のA Monster CallsのかCallsは、怪物が呼ぶとか、いわんやささやく(映画ではささやいてなどいない)という意味ではなく、「やってい来る」「訪問する」という意味であって、映画のタイトルは、原作の日本語訳のタイトルを、そのまま使っただけだから、責めてもしょうがないと同時に、なぜ私が自信をもってそこまで言い切れるかというと、J.P.プリーストリーの有名な戯曲にAn Inspector Callsというタイトルの作品があって、それは捜査官が訪れるという意味であり、岩波文庫の日本語訳では『夜の来訪者』と訳しているのである。というようなことを書いていた。その『怪物はささやく』の監督がバヨナ監督。
宮崎駿監督の『風立ちぬ』を映画館でみたとき、その直前にみた映画の衝撃が大きくて、『風立ちぬ』を見ながら、頭をリセットするのにやや時間がかかったことを覚えている。その直前にみた映画というのがスマトラ沖地震にまきこまれた家族の話で、その津波の描写は東北大地震の津波とも重なった。離れ離れになった家族が最後に奇跡的に再会するという映画は、自然災害の描写と人間ドラマのテンションの高さで感動的な映画だったが日本語のタイトルは『インポッシブル』(日本公開2013年)。監督がJ.A.バヨナだった。すっかり忘れていた。
となると『ジュラシック・ワールド 炎の王国』は、監督の前作、『インポッシブル』と『怪物はささやく』で説明できてしまう。火山の大噴火のなか退避する恐竜と人間たち。また大規模な恐竜救出作戦も展開する。そこには『インポッシブル』の監督ならではの迫力ある映像が。
そしてその後。『ジュラシック』シリーズのなかで、何が面白かったのか、あるいは『ジュラシック・ワールド』がパーク・シリーズのリブートとして始まったとき、どこに重点を置いたのかといえば、二つあるように思われる。一つは、隔離された恐竜たちが、人間の世界に侵入すること。そしてそのミニチュア版ともいうべき、人間サイズの小型恐竜が人間の生活空間に侵入すること。第一作の『ジュラシック・パーク』の最後の調理場における小型恐竜の場面は恐怖映画の可能性の幅を広げた(とはえいどこにでもいる幽霊やゾンビや吸血鬼と違って、恐竜はめったにいないため、頻繁に利用できないうらみはあるが)。今回、『怪物やささやく』の監督は、人間の居住空間に侵入して暴れまわる恐竜の恐怖を今回徹底させた。寝室にまで侵入する恐竜は、夢魔のように、人間の深層心理まで入り込む恐怖の存在であると同時に、夢魔がそうであると考察できるように、それは深層心理を淵源とする人間の恐怖の具現化ともいえる。人間空間に共存する恐竜は、人間の他者であるとともに人間の分身でもあるかもしれないという二重の存在となる。
恐怖は人間の外と内にある。そしてそれはまた人間を脅かすものが人間が作り出したものということになる。つまり、これはフランケンシュタイン型の恐怖となる。人間が作ったものが、人間を襲う。そのことは恐竜が、長い眠りからさめた本物というよりも、遺伝子操作によってつくられた人造物モンスターであるという設定からもあきらかである。このシリーズの心理的恐怖と文明批判とがこうして結びつく。
と同時に、今回、明らかになったのは、傭兵の存在からもみてとれる軍隊の存在である。火山爆発で崩壊する島から恐竜たちを救出するさまは、たとえばヴェトナム戦争終結時の撤収する米軍と避難民の様子を彷彿とさせる。恐竜を運ぶヘリ(CH47)の姿は、戦時の米軍の物資輸送のシーンそのものである(それにしてもCH47を運ぶ艦船はどこにあったのだろう)。そして恐竜たちを武器として利用しようとする勢力。恐竜はこうして兵器と結び付けられる。おそらくこの恐竜は、アメリカの市民社会が作り出した軍人のメタファーでもあろう。海外に派兵されたあと帰国する彼らは、市民社会にまじるモンスターである。だが、このモンスターに罪はない。殺人兵器として作り出された彼らに罪はない。なるほどいつ狂暴化するかもしれない彼らは危険な存在だが、しかし彼らと共存するしかないのである、アメリカの一般市民は。
こうして科学者の暴走という文明批判が、帰還兵の処遇という社会批判とむすびつく。それがアメリカの社会のリアルな今ということなのだろう。
追記:この映画で傭兵の隊長をテッド・レヴィンが演じている。以前は、レヴァインと表記していたが、映画会社ではレヴィンと表記するようになった。もしレヴァインではなく、こちらのほうが本人が望んでいる発音なら、そしてアメリカンな発音なら「レヴィーン」とのばすべきである。と、まあそれは別にして、映画をみながら、この傭兵の隊長は、どこかで見たようだが、どこでもみるような悪役で、名前はわからないと、そんなことをぼんやりと考えていたが、実は、その映画を見る同じ週の月曜日の授業で、映画『羊たちの沈黙』を扱って、これが主人公が追っている連続殺人犯だと画像をみせた。その殺人犯がテッド・レヴァイン/レヴィーン。まったく気づかなかった。歳はとりたくないものだ。
ちなみに『羊たちの沈黙』の映画版で、このテッド・レヴァイン/レヴィーンが演ずる殺人犯は、語られることのない、また映像だけを通してのプロファイリングからするとアメリカの海兵隊員で、日本やアジアに派遣され、その地で、風土病である同性愛に感染し(という差別的文化的イメージが存在するのは確か)、米国に帰国してから、連続殺人犯になったという、フランケンシュタイン的、あるいは『ジュラシック・ワールド』の恐竜的存在である。

2018年07月29日
正義の人2 「諸国民のなかの正義の人」
たとえば『サウルの息子』ではハンガリー系ユダヤ人でゾンダーコマンドのサウル(主人公)の収容所での行動を提示しながら、ハンガリーのホロコースト協力が明らかになる。フランスにおけるユダヤ人一斉検挙と強制収容所移送を扱った『サラの鍵』(2006)『黄色い星の子供たち』(2010)のどっちだったか忘れたが、その最後で、ユダヤ人の犠牲者の数とともに、ユダヤ人をかくまったフランス人も数多くいたこと、それを数字で示していたが、しかし、だからといって、第二次大戦下、ドイツ占領下とはいえ、フランス人がホロコーストに加担したことの罪が許されるはずはないのにと、その時は。違和感あるいは軽い怒りの念がこみあげたことを記憶している。
だが、いまは少し考え方がかわった。助けた人間がいたからといって、加害者側が許されることはないという信念に揺るぎはないが、ただ、自分が属する集団の思想・信条・習慣などに背き、裏切り者となっても、ときには命を落とすことがあっても、苦しむ者、迫害される者、殺される者を助けた人たちがいることもまた、絶対に忘れてはならない。そして、悪辣で狂暴なファシスト(ちなみに、日本では、女性がレイプされたことで責められ、女性の受験生が自動的に減点され、それがやむをえないと容認するような発言をする者がいる--どうやらボコハラムが日本を支配し政権を掌握しているようなのだが)を抑止できなくても、救済の行為は、迫害者の信念や自己正当化を粉々に打ち砕く力をもっている。迫害される人々を救うこと。これが最後の抵抗である。この庇護し救命する勇気と意義については、これからますます考えるべき課題として立ちはだかるだろうと思う。
イスラエルは、「諸国民の中の正義の人」を顕彰している。「諸国民の中の正義の人(英語: Righteous among the Nations)」はWikipediaによれば、
ナチス・ドイツによるユダヤ人絶滅、すなわちホロコーストから自らの生命の危険を冒してまでユダヤ人を守った非ユダヤ人の人々を表す称号。正義の異邦人(Righteous foreigner)とも呼ばれる。はじめてこのことを知った時に、私が接していた文献からすると「善き人」とか「義の人」という呼称のほうが馴染むのだが、それはともかく、また彼らを顕彰することはイスラエルという暴力国家の自己正当化につながるともいえるのだが、それもともかく、歴史のなかに消えてしまう、こうした正義の人たちを可視化したことで、イスラエルの功績は大きいと言えよう。本来なら彼らは、彼らが属する自国で顕彰されてもいいが、それはともかく、こうした人たちが、いたこと、その意義は決して軽んじてはならないと思う。
これは歴史に埋もれた人々を発見するというような問題ではなく、いま私たちがどうするかの問題である。たとえ共同体を裏切っても、民族を、国をうらぎっても迫害される人びと、虐殺される人びとを救う覚悟があるかを私たち自身が自らに問うこと、いや、その覚悟をすること。善き人、義の人、正義の人に、自分がなるしかない。そういう切迫した時代に差し掛かっているように思う。
もちろん私自身、自分が勇気をもって、たとえ裏切り者の汚名を着ようとも、助けることができるかについて、内省するよりも前に、私が、むしろ迫害され、殺されるか、助けられるという立場であって、心配するまでもないともいえるのだが、共同体や国家の命令にそむいても迫害される人びとを助けることは、それによって一挙に文明の仮面をはぎとり、野蛮の本性を露呈させると同時に、それが文明の最後の行為であり、ヘイトグループやファシストやファシズムへの抵抗の一撃となることは、忘れてはなるまい。

2018年07月28日
思い出のない人
ピクサーのアニメ『リメンバー・ミー』(原題CoCo)がブルーレイ・DVD化されたことに関連して、映画そのものではなく、関連する個人的な事情をひとつ。
3月に姪と、その母親(私の妹だが)とこの『リメンバー・ミー』を見たとき、姪は、もう大泣き、号泣していたので、まわりで人に泣かれると、自分でも泣きたいと思っても、しらけて泣けなくなると、文句を言ったことは、以前、このブログでも書いた。
その時書かなかったこととは、映画のあと私は姪に言ったのは、あの映画のなかの出来事を他人事だと思っているのかもしれないが、それは、あなたとも関係していて、あなたのひいじさんも、アニメのなかの、主人公からみての、曾祖父(というより曾々祖父だったか)と、同じで、家族に忘れ去れているのだよ。アニメのなかでは、その曾々祖父の写真の顔のところが破り取られていて、もう顔を覚えている人もほとんどいなくなったように、あなた(姪)の曾祖父も、実は、写真一枚残っていなくて、顔を知られていない。どうしてかって? それはアニメの物語とまったく同じ理由。つまり家族を見捨てて出ていったたからですよ。どう、笑える?あるいは泣ける話?たぶん唖然とする話だと思う。
私は父親の父親(私の祖父)の顔を知らない。写真一枚残っていないのである。ちなみに私の母親の父親(私の母方の祖父)は、江戸時代生まれ(安政元年か、万延元年に生まれている)だが、写真は残っていて顔は知っている(昭和の初期に亡くなったので写真はある)。母方の祖父が江戸時代生まれなのは、私の母親が年を取っていたからではなく(私は母が20歳代の子供である)、私の母親が、父親が70歳頃の子供だからである。その母方の父親よりも若いはずの私の父方の祖父の顔を私は知らない。いまや私の父方の祖父の顔を覚えている人は誰もいないので、もしここがメキシコなら、私の父方の祖父は、死者の祭りの日に、一族のもとに帰ってこられない。まあメキシコでなくてよかった。
何故、私の父方の祖父の写真がないかといえば、経営していた会社が倒産し、借金に追われて家族を捨てて家出したからである。まあ家族に迷惑をかけないためだったのかもしれないが、残された家族(私の父親と、私の祖母)は、親戚や実家からの援助で細々とした暮らしを余儀なくされ、結局、家出した祖父からは、最後まで一銭の資金援助もなかったようだ。とはいえ、詳しい事情を聴いたわけでなく、推測にすぎない。私の父方の祖父のことは、私の家族ではほんとうにタブーで、話題になったという記憶はない。写真も一枚も残っていない。私の母も、その祖父のことについては、詳しいことは何も聞かされていないと言っていた。
私の父方の祖父は、大学を卒業していた。そのため私の父も、ふつうだったら、父(私の父方の祖父)と同じ大学とまではいかなくても、どこか大学に進学したかったという思いは強く抱いていたようだ。ところが、私の父親や、自分の父が家を出ていったきりで経済的に困窮して、周囲からも大学に行く前に就職して金を稼ぎ、母親を楽にしてやれ、親戚に頼らずに生きて行けといわれて、父は泣く泣く大学進学をあきらめ就職したようだ。
ちなみに私の父方の祖父が卒業した大学とは、東京大学(東京帝大というべきか)の工学部。東大卒業生でろくな奴じゃないとは、私の立場からは口が裂けても言えないのだが、まあ、どこの家族にもいろいろな事情があるという話である(どこの家族にも、顔すら記憶されていないひどい奴がひとりぐらいいて、それがよりにもよって東大卒業生とはと書こうとしたが、私の立場上、それはちょっときつい表現なので、やめておいた)。
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2018年07月26日
正義の人1『タクシー運転手』
戒厳令下の物々しい言論統制をくぐり抜け唯一、光州を取材し、全世界に5.18の実情を伝えたユルゲン・ヒンツペーター。その彼をタクシーに乗せ、光州の中心部に入った平凡な市民であり、後日、ヒンツペーターでさえその行方を知ることのできなかったキム・サボク氏の心境を追うように作られた本作は、実在した2人が肌で感じたありのままを描くことで、1980年5月の光州事件を紐解いていく。
まさにその通りであり、またドキュメンタリー性の強いだけの映画ではなく、エンターテインメント性も強く、そのフォーマットは、戦争映画である。戦争映画の基本は、敵中突破。光州市で学生や市民を軍の暴虐を目の当たりにしたドイツ人ジャーナリストが、事件を隠蔽する報告しか行っていなかった韓国政府に抗して、全世界に真実を伝えようとするが、戒厳令下の光州市では軍が情報統制も行い、すでにこのドイツ人ジャーナリストも目をつけられている。そのため彼を乗せてソウルへと脱出するタクシーは、まさに敵中突破そのものである。そして官憲の追跡をふりきるときには、仲間のタクシー運転手たちがタクシーを体当たりさせ、みずから犠牲になって、ジャーナリストを乗せたタクシーの脱出を助けるとなれば、もうこれは『プライベート・ライアン』の世界、あるいは『スター・ウォーズ――ローグ・ワン』の世界である。
仲間のタクシー運転手たちが、次々と、まさに玉砕していくところは、エンターテインメントとしては秀逸だが、作り話っぽいところだが、実際に、光州事件で、バスでバリケードをつくったり、タクシーをつっこませて学生や市民をまもったりと、あながちすべて嘘とは言えないところがある。
それと同じく、嘘か本当か、わからないが、気になる場面(あまり取り上げられることのない場面)があって、それについて語りたい。善き人の話として。
おなじみのソン・ガンホ扮するタクシー運転手がドイツ人ジャーナリストを乗せて裏道を行くのだが、とうとう軍隊による検問にひっかかってしまう。予想される展開としては、検問所で足止めされるが、各検問所にジャーナリストの特徴が通達される直前のことで、緊張するがからくも脱出できる。その直後、外国人ジャーナリストについての特徴が本部から伝えられるが、タクシーは検問所を出発したあとだった……というもの。
実際そうならなかった。外国人ジャーナリストの特徴はすでに伝えられていた。検問所では車のトランクを開けろといわれ、検問所の兵士がトランクの中を調べる。トランクの中にはカメラなどがあり、乗客の外国人が手配中のジャーナリストであることがわかってしまう。緊張の一瞬。検問所の責任者である士官か下士官は、トランクの中の荷物をみて乗客が誰か理解したように思われる。と、次の瞬間、疑う部下を押さえて、問題なしとしてタクシーを通過させるのである。その直後、外国人であれば誰でも足止めせよという通達が本部からの無線連絡が届くが、そのときはタクシーはソウル方面に去ったあとだった。
実話に基づく話かどうかわからない。運転手もジャーナリストも車中にいたので、軍人がトランクのなかに何をみつけ、どう判断したかなど知る由もない。たぶんこれは、この場面の後に続く玉砕タクシー群のエピソードとともに虚構である可能性が高い。だが、荒唐無稽な虚構ではない。いかにもありそうな話である。なにしろ厳しい検問をかいくぐって脱出できたのは、たんに運の良さとか敵の裏をかいたというのではなく、軍人・兵士の側にも助けてくれた人間が絶対にいたはずであるという想定である。この想定がまちがっているかどうかわからないが、そうでなければならないし、それが唯一の希望なのである。
ただ、こう語ったからといって、光州市で自国民に対して危害を加えた韓国の軍隊ならびに軍事政権を擁護するとか許すということではない。苦しむ人、追われる人、命を狙われている人、迫害される人を、助ける人が加害者側にいたからといって、加害者側を許すようなことがあっては絶対にいけない。そうではなくて、たとえ軍隊を、また国家を、裏切るかたちになっても、迫害される人を助けた人がいること、それが全人類にとっての希望だからである。そしてそれは個人ベースのことであってみれば、属する集団がそれによって告発されたり称賛されたり擁護されることはない。他者を隣人のように、いや自分のことのように助ける人がいても、それで加害者側が許されることがあってはならない。

2018年07月08日
『死の谷間』
Z for Zachariah(2015)スイス、アイスランド、ニュージーランド合作のSF映画である。監督はクレイグ・ゾベル、マーゴット・ロビー、チューウィテル・イジオフォー、クリス・パインの三人によるドラマ。原作ロバート・C・オブライエンの同名の小説(1974)、日本語訳『死の影の谷間』越智道雄訳(評論社2001)。
映画のポスターなどではSFサスペンスとして宣伝しているが、それに惹かれて見に行くと、たぶんというか、ほぼ間違いなく失望すると思う。B級というか、1.5流くらいのSF映画が好きな私が観そうな映画と思われるかもしれないが、そうではなくて、この映画というか原作には、オーラが漂っているのである。だから英文科の関係者としては見に行くしかない。
なぜならこの作品、アメリカの高校とか大学などで教材に使われる作品であって、その証拠に、この原作には、専用の参考書が何種類もでている。York NotesとかPassnotesをはじめとして、さまざまな種類のStudy Guideが出ている。教室で教材として使われる名作文学(児童文学に分類されることもあるが、ヤングアダルト物だろう)。だから、あの名作がどんな映画になっているのか、面白かろうがなかろうが、とにかく一度見に行かなくてはいけない、そんな映画なのだ。もしあなたが英米文学のファンや研究者であるのなら、絶対に。
主役はマーゴット・ロビー、『スーサイド・スクワッド』が印象的だったが、最近では『アイ、トーニャ』でも強烈な印象を残したし、『ピーター・ラビット』にも出演(声の)していた(最初からナレーターとして登場していた)。よく出会う彼女で、またかと思ったが、2015年の映画で、『スーサイド・スクワッド』以前の映画。まあ最近の彼女の活躍によって日本でも公開されたのはよかった。
映画は、核戦争後、文明が崩壊した世界に生存している一人の少女と、その地にあらわれた二人の男との関係を扱うもので、暴力シーンやアクションは皆無、逡巡や嫉妬など心理的動揺を丁寧に表象しながら、ニュージーランドの無垢な壮大な自然を背景として、愛と再生のドラマをじっくりと見せるもので、正直言って地味、だた、原作が、じっくり描き込まれ語られた文芸作品であることは充分に感知できる。
ただ、原作を英語でも日本語の翻訳でも読んでいないので、何とも言えないところもあるし、映画が原作とどのくらい隔たっているのか、密着しているのか判断できないのだが、最初、男女二人の物語かと思っていたら第三の人物が登場することで、三角関係になって、それまで曖昧な形でしかなかった男女の関係が明確な愛情関係へと変わる。最終的に第三の人物は消滅する(ただし、なぜ消滅したのか、消滅してどうなったのかは不明)。まさに「消滅する媒介者」としてその存在が愛をはぐくんだ。曖昧な愛が三角関係を経ることで明確な愛が生まれる。
なぜこれがSFでなければいけないのかは、疑問が残るところだが、三角関係に因数分解できる恋愛の発生と展開という「欲望の現象学」の実例ともいえるようなプロットを展開するのに、人類がほぼ死滅し、男女の三人しかいないような舞台設定は、不条理演劇での設定でなければ(このまま舞台になりそうでもあるのだが)、SFの世界でしか可能ではないのかもしれない。
とはいえ原作の世界観と設定を映画は尊重しているようなので、なぜ農家に、牧師の家とはいえ、あれほどたくさんの本があるのかとか、彼女が地元の図書館から本を持ち出すのはなぜかとか、説明してほしかった――まあ、みればわかるでしょうということだろが、つまり本好き、文学好きの少女という設定なのだろうと予想はつくものの。ただ、ほんとうに原作を尊重しているのかどうかは、謎で。そもそも原作の登場人物は二人しかない。三人のドラマではないのだ。もちろん、この映画をみながら、三番目の人物は、ふたりのうち、どちらかの妄想のなかの存在ではないかと疑っていたかことは事実なのだが、三番目の人物は、原作のドラマを、むしろわかりやすくするために、登場させたのか、原作から離れたのか。いまのところ、この点については不明としかいいようがない。いずれ報告したい。
付記
主人公の女性の家の書斎にA for Adamという本があるのだが、Z for ZachariahというタイトルがZ人間、最後の人間ということか。とはいえ聖書にあるザッカリアは、洗礼者ヨハネの父親で、夫婦の間に念願の子供が生まれるという物語が背後にある。たぶんZ人間=最後の人間(ゾンビ―的含意はない)と思っていたら、子供が生まれ、未来がはじまるということの暗示か。
