実は、とくに見るつもりはなかった映画なのだが、別の映画をみる予定が変更になって、ただやむなく映画館に足を運んだ。週日の夜で、シネコンのスクリーンにも、そんなに人が入っていない。
しかし、たぶん観た人が誰でも驚くだろう。こういう映画を毎日観たかった。宣伝が悪すぎることはまちがない。見る前から誰もが勝手にイメージしてしまって、勝手に見る気をなくしているような気がする。『ダークサイド』は、予告編がすばらしくて、第二の『ツインピークス』かと思わせて、実際にはしょぼい映画だったが、こちらは、ありがちの映画かと思わせて深い感動へと導く良質な映画だった。泣けるし。またいろいろ考えさせられたし。
つまり映画を見る前は、こんなふうに予想した。竜巻と並んでアメリカのお家芸みたいな巨大山火事と戦う消防部隊の話。山火事と戦うのは、戦争そのものメタファーでもある。あるいは戦争映画のヴァリエーションであって、戦争映画もどきであれば、お約束のように敵中突破がテーマとなる。当然のことながら、危険と直面し、犠牲者もでるだろうが、最後には山火事を鎮火して家族のもとに帰る。9.11以降、消防士の株があがって、彼らは危険に立ち向かい市民を守る職業ゆえに、愛国的右翼的パトスを喚起する(ホットかクールかわかないが)セックスシンボルにもなったことは否めない。『バックドラフト』とか『シカゴファイアー』などスクリーンやテレビでの消防士物は人気があるようだ。それに便乗しているのだろうか。山火事シーンのCGがウリだろうか。まあ、そんなに見たい映画ではない……
という予想に対して、映画はもっと熱いし、またもっと冷静である。予想は裏切られる。
恥ずかしながら映画をみてから、はじめて監督がジョセフ・コシンスキー(Joseph Kosinski)であることを知った。え、あの『トロン: レガシー Tron: Legacy』 (2010 監督)と『オブリビオンOblivion』(2013 監督・脚本・原作・製作)の、あのコシンスキー? なぜそれを宣伝しない。どちらも、すぐれたSF映画であった。『トロン』は前作からの設定をかりるという制約があったが、シェイクスピアの『テンペスト』を下敷きにした見事なSF映画になっていたし、トム・クルーズ主演の後者は、私のみたSF映画のなかで、ベスト10には入る。だからコシンスキー監督の映画とわかっていたら、公開と同時に見に行くところだった。それを宣伝していない。まあ、わからないわけではない。『オンリー・ザ・ブレイブ』はSF映画ではなく実話物なのだから。
以下、ネタバレ注意 Warning: Spoilers これからこの映画を見る人は、読まないで下さい。
『デトロイト』のキャスリン・ビグロー監督に『K19』という冷戦時代に事故を起こしたソ連原潜を扱った映画がある。実話物なのだが、あのなかで放射能漏れを起こしている原子炉の修理に若い水兵たちを送り込む場面がある。作業は30分で交代。とはいえ30分の被爆は致死的であって、作業員は出てくると火傷をし嘔吐する。それでも艦長は水兵を原子炉修理にむかわせる。このとき放射能除けといって水兵に防護服を着せるのだが、実は、それは防護服でもなでもなく(そもそもそんなものは存在しない)、ただのビニールのレインコート(みたいなもの)にすぎないのだが、艦長らはこれが身を守ると水兵たちに着せて原子炉へと送り込む。痛ましい場面である。水兵たちは、それが放射から身を守ってくれると信じているが、ただのビニールのレインコートである。
『オンリー・ザ・ブレブ』をみて、あの火炎から身を守る寝袋のようなもの(名前があったのだが忘れた)、あれはビニールのレインコートの放射能防護服と同様、現実の猛火のまえでは役にたたないだろうとわかった。役にたたない、ただの気休めのようなものだが、それが最後の防御手段となる。訓練のなかで、これにもぐって火事をしのぐときは地獄の熱さだが、息ができるかぎり、生きていられると隊長はいう。隊長は、これまでに、それにもぐったことがあるような口ぶりなのだが、おそらく、それはないだろう。ビニールのレインコートでは放射能は防げないのと同様、あんなもので火炎はふせげない。ではなんのために。それは望みを絶たれた時に、すがれる最後の希望であり、溺れる直前につかんで助かると信じて溺れるときの藁一本なのである。唯一の効能は、死体が身元判読できないほど黒焦げになるのを防ぐことぐらいだろうか。彼らは死の直前、希望にすがって死ぬ。それは救いだろうか。このことを思うとその冷厳な現実に身がすくむ。
ヒコーキファンとしては、山林火災に多くの払い下げ軍用機あるいは民間型が使われているのを知っていたので、C130と、いろいろなヘリコプターの活躍を、映画が始まると期待していた。そのなかでも冒頭で民間人のプールから水を吸い上げる巨大ヘリコプターが登場して目を見張った。あれはシコルスキーのCH-54 タルヘ(CH-54 Tarhe)の民間モデル、シコルスキー S-64だ(今米軍では使用していない)。現在は沖縄の小学校の校庭をドアで攻撃したバカヘリコプターのスタリオンが世界最大の軍用ヘリコプターかもしれないが、以前は、この「スカイクレーン」のあだ名をもつタルヘが世界最大のヘリコプターだった。まさに空飛ぶクレーンの異名そのものだったが、民間の消火用任務に就いているそれが軽快に飛ぶところを見たのははじめてで、かなり興奮した。だが、もちろん、後半、航空機の誤爆(誤消火)が悲劇の発端だったのだが。
ヒコーキファンでなくても、もちろん、この映画は楽しめる。山林消防隊の彼らは、日ごろの地道な訓練と努力が認められて精鋭部隊へと格上げされ、市当局の援助や家族の援助によって、順調に消火活動をこなしていく。もちろん危険な職業だから、家族の者にとって、生活には死と隣り合わせの不安があるが、また周囲を山林に囲まれている地方都市の生活は大規模山林火災の脅威にさらされてはいるが、それでもアメリカの庶民の地方都市の生活の、その変哲のなさが、そのありふれたさまが、かえって貴重な、かけがえのない日常として迫ってくるのである。また隊員ひとりひとりの家庭の事情や個人的問題なども丁寧に跡付けられていて、気づくと、見ている者は、自分が、この消防隊を見守り支援する家族や同郷人のような立場にいることを発見する(ただ20人全員の名前と顔を覚えることはできないので、映画そのものも隊長と、新入りのマクドナーの家族生活を関心の中心としているのだが)。
もちろんただ平和なだけの生活ではない。問題はある。だが、それも人々の生活の知恵と経験に根差す叡智とそしてなによりも善意によって克服できることは容易に予測できる。となると、この生活、とくにアメリカの庶民でなくても、永遠に続いてほしいような気がする。サバービアのようなわざとらしいアメリカン・ライフがあるわけではない。ただ、つつましやかな、そして、静かに流れていく日常の時間がある。これこそが、本来のユートピアではないかと思えてくる。
だからこそ、悲劇が耐え難いものとしてのしかかる。そこから悲しみのあまり怒りをぶつけたくなるようなところがある。だが、この映画は、とくに何かを告発するという姿勢はみせていない。責任を問うようなこともしてない。むしろ殉職した19人の消防士に対する追悼がメインであって、責任者の告発、あるは魔女狩りのようなことはしていない。これはまちがいなのだが、同時に、示された事実というかエピソードから、いろいろな可能性をひろいあげることができるようにしている。この映画は、観客に考えさせる。観客が、責任追及するのではなく、可能性を拾い上げて、独自の物語をつくるように仕向けているところがある。いいかたをかえると、この隊長(ジョシュ・ブローリン)の責任は重大であるのだが、映画は、この善良で有能な隊長を、惨事の責任者には絶対にしたくないというようにもみえる。
たとえば最初の方にエリート精鋭部隊の指揮官は、訓練中の部隊の指揮官の適切な助言を聞こうともしない。彼らはエリート意識によるプライドだけは一人前で、中身は、からっぽ、無能ではないかという疑いもある。無能な人間が指揮をとる組織というのは結構多い。その場合、失敗しても、責任をとらなくていいような言い訳が存在する。たとえば自然の猛威は予測できないし、これと戦うことはできなというような理由をあげて、作戦や予測の失敗をとらなくていい組織の場合、無能な人間がはびこることもある。森林消防隊も、プライドのみ高くて無能な指揮官が多いのではないか。今回の悲劇も、全体の作戦指揮をする人間が無能であった可能性がある。たとえ映画は、予測できなかった突風の猛威にすべての原因があるように描かれているが、今回の消防作戦全体の指揮官が無能でなかったら、彼ら19人は助かったかもしれないという可能性もある。
市レベルで消防精鋭部隊をもつのは全国初ということもあって、グラニット・マウンテン・ホットショット部隊は、精鋭部隊に認定された直後の1年目に実績と能力の高さをアピールするために、隊長以下、全員が、無理をして、最後まで踏みとどまったために、猛烈な火炎から逃れる術を失ったということもできる。精鋭部隊間のへんなプライドと競争がなければ、また彼らが異例の昇格を経た精鋭部隊で、必要以上に、がんばったりしなかったら、悲劇は防げたかもしれないという暗示がある。
まあ、このような悲劇の場合、天災か人災かについては、実のところ半々であることは一般的にいえるだろう。ただ、くりかえすが、この映画は、人災であることを追及はしていない。むしろ天災として、悲劇性を盛り上げようとしている。そして、それが監督の意に沿うものか反しているかはわからないが、人災という面もまったく払拭しきれないことを暗示している――ただしジョシュ・ブローリンは悲劇の被害者として確定しながら。
134分の映画である。私は時計を見ながら映画を見ることはないが、2時間を少しでも超える映画は、長めだと勘でわかることが多い。しかし、今回の映画は、長さを感じなかった。それどころかもっと長くてもよいと思った。