2018年06月28日

『オンリー・ザ・ブレイブ』

実は、とくに見るつもりはなかった映画なのだが、別の映画をみる予定が変更になって、ただやむなく映画館に足を運んだ。週日の夜で、シネコンのスクリーンにも、そんなに人が入っていない。


しかし、たぶん観た人が誰でも驚くだろう。こういう映画を毎日観たかった。宣伝が悪すぎることはまちがない。見る前から誰もが勝手にイメージしてしまって、勝手に見る気をなくしているような気がする。『ダークサイド』は、予告編がすばらしくて、第二の『ツインピークス』かと思わせて、実際にはしょぼい映画だったが、こちらは、ありがちの映画かと思わせて深い感動へと導く良質な映画だった。泣けるし。またいろいろ考えさせられたし。


つまり映画を見る前は、こんなふうに予想した。竜巻と並んでアメリカのお家芸みたいな巨大山火事と戦う消防部隊の話。山火事と戦うのは、戦争そのものメタファーでもある。あるいは戦争映画のヴァリエーションであって、戦争映画もどきであれば、お約束のように敵中突破がテーマとなる。当然のことながら、危険と直面し、犠牲者もでるだろうが、最後には山火事を鎮火して家族のもとに帰る。9.11以降、消防士の株があがって、彼らは危険に立ち向かい市民を守る職業ゆえに、愛国的右翼的パトスを喚起する(ホットかクールかわかないが)セックスシンボルにもなったことは否めない。『バックドラフト』とか『シカゴファイアー』などスクリーンやテレビでの消防士物は人気があるようだ。それに便乗しているのだろうか。山火事シーンのCGがウリだろうか。まあ、そんなに見たい映画ではない……


という予想に対して、映画はもっと熱いし、またもっと冷静である。予想は裏切られる。


恥ずかしながら映画をみてから、はじめて監督がジョセフ・コシンスキー(Joseph Kosinski)であることを知った。え、あの『トロン: レガシー Tron: Legacy (2010 監督)と『オブリビオンOblivion(2013 監督・脚本・原作・製作)の、あのコシンスキー? なぜそれを宣伝しない。どちらも、すぐれたSF映画であった。『トロン』は前作からの設定をかりるという制約があったが、シェイクスピアの『テンペスト』を下敷きにした見事なSF映画になっていたし、トム・クルーズ主演の後者は、私のみたSF映画のなかで、ベスト10には入る。だからコシンスキー監督の映画とわかっていたら、公開と同時に見に行くところだった。それを宣伝していない。まあ、わからないわけではない。『オンリー・ザ・ブレイブ』はSF映画ではなく実話物なのだから。


以下、ネタバレ注意 Warning: Spoilers これからこの映画を見る人は、読まないで下さい。


『デトロイト』のキャスリン・ビグロー監督に『K19』という冷戦時代に事故を起こしたソ連原潜を扱った映画がある。実話物なのだが、あのなかで放射能漏れを起こしている原子炉の修理に若い水兵たちを送り込む場面がある。作業は30分で交代。とはいえ30分の被爆は致死的であって、作業員は出てくると火傷をし嘔吐する。それでも艦長は水兵を原子炉修理にむかわせる。このとき放射能除けといって水兵に防護服を着せるのだが、実は、それは防護服でもなでもなく(そもそもそんなものは存在しない)、ただのビニールのレインコート(みたいなもの)にすぎないのだが、艦長らはこれが身を守ると水兵たちに着せて原子炉へと送り込む。痛ましい場面である。水兵たちは、それが放射から身を守ってくれると信じているが、ただのビニールのレインコートである。


『オンリー・ザ・ブレブ』をみて、あの火炎から身を守る寝袋のようなもの(名前があったのだが忘れた)、あれはビニールのレインコートの放射能防護服と同様、現実の猛火のまえでは役にたたないだろうとわかった。役にたたない、ただの気休めのようなものだが、それが最後の防御手段となる。訓練のなかで、これにもぐって火事をしのぐときは地獄の熱さだが、息ができるかぎり、生きていられると隊長はいう。隊長は、これまでに、それにもぐったことがあるような口ぶりなのだが、おそらく、それはないだろう。ビニールのレインコートでは放射能は防げないのと同様、あんなもので火炎はふせげない。ではなんのために。それは望みを絶たれた時に、すがれる最後の希望であり、溺れる直前につかんで助かると信じて溺れるときの藁一本なのである。唯一の効能は、死体が身元判読できないほど黒焦げになるのを防ぐことぐらいだろうか。彼らは死の直前、希望にすがって死ぬ。それは救いだろうか。このことを思うとその冷厳な現実に身がすくむ。


ヒコーキファンとしては、山林火災に多くの払い下げ軍用機あるいは民間型が使われているのを知っていたので、C130と、いろいろなヘリコプターの活躍を、映画が始まると期待していた。そのなかでも冒頭で民間人のプールから水を吸い上げる巨大ヘリコプターが登場して目を見張った。あれはシコルスキーのCH-54 タルヘ(CH-54 Tarhe)の民間モデル、シコルスキー S-64だ(今米軍では使用していない)。現在は沖縄の小学校の校庭をドアで攻撃したバカヘリコプターのスタリオンが世界最大の軍用ヘリコプターかもしれないが、以前は、この「スカイクレーン」のあだ名をもつタルヘが世界最大のヘリコプターだった。まさに空飛ぶクレーンの異名そのものだったが、民間の消火用任務に就いているそれが軽快に飛ぶところを見たのははじめてで、かなり興奮した。だが、もちろん、後半、航空機の誤爆(誤消火)が悲劇の発端だったのだが。


ヒコーキファンでなくても、もちろん、この映画は楽しめる。山林消防隊の彼らは、日ごろの地道な訓練と努力が認められて精鋭部隊へと格上げされ、市当局の援助や家族の援助によって、順調に消火活動をこなしていく。もちろん危険な職業だから、家族の者にとって、生活には死と隣り合わせの不安があるが、また周囲を山林に囲まれている地方都市の生活は大規模山林火災の脅威にさらされてはいるが、それでもアメリカの庶民の地方都市の生活の、その変哲のなさが、そのありふれたさまが、かえって貴重な、かけがえのない日常として迫ってくるのである。また隊員ひとりひとりの家庭の事情や個人的問題なども丁寧に跡付けられていて、気づくと、見ている者は、自分が、この消防隊を見守り支援する家族や同郷人のような立場にいることを発見する(ただ20人全員の名前と顔を覚えることはできないので、映画そのものも隊長と、新入りのマクドナーの家族生活を関心の中心としているのだが)。


もちろんただ平和なだけの生活ではない。問題はある。だが、それも人々の生活の知恵と経験に根差す叡智とそしてなによりも善意によって克服できることは容易に予測できる。となると、この生活、とくにアメリカの庶民でなくても、永遠に続いてほしいような気がする。サバービアのようなわざとらしいアメリカン・ライフがあるわけではない。ただ、つつましやかな、そして、静かに流れていく日常の時間がある。これこそが、本来のユートピアではないかと思えてくる。


だからこそ、悲劇が耐え難いものとしてのしかかる。そこから悲しみのあまり怒りをぶつけたくなるようなところがある。だが、この映画は、とくに何かを告発するという姿勢はみせていない。責任を問うようなこともしてない。むしろ殉職した19人の消防士に対する追悼がメインであって、責任者の告発、あるは魔女狩りのようなことはしていない。これはまちがいなのだが、同時に、示された事実というかエピソードから、いろいろな可能性をひろいあげることができるようにしている。この映画は、観客に考えさせる。観客が、責任追及するのではなく、可能性を拾い上げて、独自の物語をつくるように仕向けているところがある。いいかたをかえると、この隊長(ジョシュ・ブローリン)の責任は重大であるのだが、映画は、この善良で有能な隊長を、惨事の責任者には絶対にしたくないというようにもみえる。


たとえば最初の方にエリート精鋭部隊の指揮官は、訓練中の部隊の指揮官の適切な助言を聞こうともしない。彼らはエリート意識によるプライドだけは一人前で、中身は、からっぽ、無能ではないかという疑いもある。無能な人間が指揮をとる組織というのは結構多い。その場合、失敗しても、責任をとらなくていいような言い訳が存在する。たとえば自然の猛威は予測できないし、これと戦うことはできなというような理由をあげて、作戦や予測の失敗をとらなくていい組織の場合、無能な人間がはびこることもある。森林消防隊も、プライドのみ高くて無能な指揮官が多いのではないか。今回の悲劇も、全体の作戦指揮をする人間が無能であった可能性がある。たとえ映画は、予測できなかった突風の猛威にすべての原因があるように描かれているが、今回の消防作戦全体の指揮官が無能でなかったら、彼ら19人は助かったかもしれないという可能性もある。


市レベルで消防精鋭部隊をもつのは全国初ということもあって、グラニット・マウンテン・ホットショット部隊は、精鋭部隊に認定された直後の1年目に実績と能力の高さをアピールするために、隊長以下、全員が、無理をして、最後まで踏みとどまったために、猛烈な火炎から逃れる術を失ったということもできる。精鋭部隊間のへんなプライドと競争がなければ、また彼らが異例の昇格を経た精鋭部隊で、必要以上に、がんばったりしなかったら、悲劇は防げたかもしれないという暗示がある。


まあ、このような悲劇の場合、天災か人災かについては、実のところ半々であることは一般的にいえるだろう。ただ、くりかえすが、この映画は、人災であることを追及はしていない。むしろ天災として、悲劇性を盛り上げようとしている。そして、それが監督の意に沿うものか反しているかはわからないが、人災という面もまったく払拭しきれないことを暗示している――ただしジョシュ・ブローリンは悲劇の被害者として確定しながら。


134分の映画である。私は時計を見ながら映画を見ることはないが、2時間を少しでも超える映画は、長めだと勘でわかることが多い。しかし、今回の映画は、長さを感じなかった。それどころかもっと長くてもよいと思った。



posted by ohashi at 12:57| 映画 | 更新情報をチェックする

2018年06月23日

『ピーターラビット』

最初は見に行く予定はなかったのだが、たまたま私の姪から、ネットの評価では、この映画、児童文学の実写映画というよりも、どちらかというと『マッドマックス』だということを聞いた。たしかに予告編から推測するかぎり、ただ、可愛い映画ではない、癖の強い映画だという印象を受けた。で、実際見てみたら、相当癖が強い。それもブリティッシュなテイスト満載の喜劇として。ブリティッシュの喜劇は、とにかく癖が強い。しかもリアル。決してきれいごととか教訓には逃げない。上品さよりも下品さにシフトしがち。


そして英語もブリティッシュ・アクセントで、コックニ―だから、独特の癖がある。もちろん英国人にいわせれば、アメリカ英語のほうが訛っているのかもしれないが、日本はアメリカ英語圏なので、ブリティッシュ・アクセントは癖の強い英語となる。


この映画でも、レイジー・スーザンのことを、ライジー・スーザンと発音している。すばらしい。もちろん英国映画(正確にはオーストラリア・アメリカ・イギリスの合作映画なのだが)の場合、英国らしさを強調することが多いので、ウィンドミアに代表される英国の自然が強調される(撮影はオーストラリアでおこなわれたのだが)。


あと、容赦ないリアル。ピーターのお父さんは、つかまってウサギのパイになったのだが、ここには動物と人間との残酷な関係がある。たとえばディズニー・アニメの『ズートピア』には、人間が出てこない動物だけの世界だが、その世界は人間の世界のメタファーにすぎず、人間と動物との関係性は完全に消えている。『ペット』とか『ファインディング・ドリー』のほうが人間と動物の関係性を描いている(人間も登場するからあたりまえといえば、あたりまえなのだが)。そしてこの映画ではウサギはペットに飼われるのでなければ、食べられるのである。この映画のなかで動物たちは擬人化されていて人間社会の縮図ともなっているのだが、同時に、食べられることで動物性も維持している。つまりこの映画で動物は、メタファーでもあり、メトニミーでもある。人間の同類であると同時に人間の他者である。擬人化されてもいるし、動物そのものである。ピーターの青い上着は、ビアには見えていない可能性がある(彼女が空想のなかで着せているとしても)。現実(メトニミー)であると同意に空想(擬人化、メタファー)でもあるという二重性は、最後まで維持されているように思われる。


このことは、さらにもうひとつのリアルとも関係する。ウサギはペットにもなるが、同時に害獣でもある。実際、日々、動物と戦っている私にとって、この映画のピーターとトーマス・マクレガーとの闘争は、他人ごとではない。人間は害獣と戦っている。ウサギは害獣のひとつである。そのため繰り返すが、この映画のウサギと人間との戦いは他人ごとではない。


もちろん、私の場合、ウサギではなく鳩と戦っているのだが。日々、鳩と戦っていて、鳩は空飛ぶネズミだと、薄汚い動物だと本当に思っていて、日々、ヴェランダで戦っているのだが、いくら戦っているとはいえ、鳩を殺してはいない。実際、鳩を殺すことは法律で禁じられているので、殺してはいないが、戦う時は、殺してもいいくらいのいきおいでいる。この映画のトーマスとピーターの戦いほど激しくはないが、双方の憎しみの強度は全く同じである。


また私はトーマスのように鳩から報復されてはいはないが、しかし、鳩の狡猾さは私を苦しめている。毎日報復されているのも同じである。本当なら爆薬をしかけたいが、そうなると私の住居も吹き飛ばされかねないし、近所迷惑なので、それはしないとしても。


動物を食べ、動物を駆除する、その残酷さ、その冷厳な関係性があるがゆえに、それを隠そうともしていないがゆえに、笑いも、動物と人間の関係性をいっぽうで効果的に抑圧するような種類のものが選ばれると同時に、冷酷な関係性を反映するようなものともなっている。暗い関係性があるがゆえに、人間と動物の戦いは、関係性を反映するように冷酷であるとともに、関係性を抑圧するような、派手なマッドマックス的戦いとなるのであろう。


なお気づいたのは、俳優は、サム・ニールがマクレガー爺さんとは全然気づかなかったが、それとはべつに声を担当している俳優が、無駄に豪華すぎるのも、驚いた。デイジー・リドリー(『スター・ウォーズ』)に、マーゴット・ロビー(『アイ、トーニャ』)。ピーターの声のジェイムズ・コーデンは、私は知らなかったのだが、彼が声優をしていると驚いている観客もいたので、知っている人は、知っているのだろう。


そして最後にして、決して最少ではないこととして  つづく

posted by ohashi at 03:49| 映画 | 更新情報をチェックする

2018年06月17日

『ダークサイド』

『ダークサイド』Looking Glass

この映画も『リディヴァイダー』と同じくらい評判が悪い。とはいえ映画館では最後まで緊張しながら見ていたし、退屈で寝てしまうような映画ではなかった(実は派手に寝ている観客がいたのだが、それは映画のせいではなく、私のせいです)。


ニコラス・ケイジ主演によるサイコスリラー。幼い娘を事故で亡くした夫婦、レイとマギー。2人は新生活を求め、田舎のモーテルを買い取り経営を始める。そんなある日、レイは倉庫の奥で10号室へと続く隠し通路を発見。女2人の禁断プレイを覗き見してしまう……。共演は「バーティカル・リミット」のロビン・タネイ、「ナイト&デイ」」のマーク・ブルカス、「旅するジーンズと19歳の旅立ち」のアーニー・ライブリー。監督は「コントロール(2004)」のティム・ハンター。


ロビン・タネイは、ふつう「ロビン・タニー」と表記されている。映画会社の人間も、たまにはアメリカのテレビドラマをみたほうがいい。ロビン・タニーついて、いまでは誰も覚えていない映画『ヴァーティカル・リミット』を引き合いにだしてもわかるはずがない。むしろテレビ・ドラマ・シリーズ『メンタリスト』のリスボン捜査官といえば、すぐにわかる人が多いのではないだろうか。それでもわからない人は、まあ、この映画をみることもないでしょう。


とはいえべつにロビン・タニー目当てで映画をみにいったわけではない。むしろ彼女目当てで見に行くと、失望していたかもしれない。強気の女というイメージは踏襲しているのだが、もう少し、彼女のオーラがにじみ出るような演出なり映画展開を用意してはどうかとも思った。


ニコラス・ケイジの役は、ロビン・タニーの夫で、田舎町のモーテルの経営者。モーテルの経営者といっても雑用は全部ひきうけ、ときには部屋の掃除までもする、働きづめの職業であって、その働きぶりは、『カリフォルニア・プロジェクト』のウィレム・デフォーに匹敵するといったらいいすぎか。もちろん問題もかかえているのだが、そうか、いまわかったのは、この映画の予告編(衛星放送のスターチャンネル無料版の上映中映画の宣伝番組における)をみたからである。


この予告編、この映画が大作でもなければ傑作映画でもないが、良質のサスペンスホラー映画であることを告げていた――ように誰もが思うはずだ。この予告編、見れば、多くの人の足を映画館に運ばせるはずだ。実際、この予告編は、期待を大きく膨らませてくれる。映画の半分以上を、いや終盤にいたるまで、期待のたかまりが持続して、飽きることがない。いまに、とんでもないことが起こる、いまに、巨悪が暴かれるのではと、期待が決してしぼむことがないまま、気づくと終わっている。え、これで終わりか。結局、1時間30分か2時間くらいのテレビドラマ程度の映画だったとわかるのである。単発のテレビドラマだったとしら、まあ許されるでしょう。ニコラス・ケイジがでていても、こぶりな映画だったということか。


では、期待値のマックスはどれくらいのものかというと、ロビン・タニーは、調べると、ララ・フリン・ボイルと幼馴染だったらしい。そう、ララ・フリン・ボイル。ことによるとこの映画は『ツイン・ピークス』みたいな不気味な映画になるのではという期待はどこかにあった。実際、この映画の出来事から『ツイン・ピークス』みたいな映画あるいは連続ドラマはできそうな気がしたのだが。



posted by ohashi at 18:56| 映画 | 更新情報をチェックする

2018年06月15日

じゃじゃ馬と『ズートピア』

いまテレビで『ズートピア』を放送しているが、あのアニメを、貴重な資料として教室で使うことがある。シェイクスピアの『じゃじゃ馬ならし』の原題はThe Taming of the Shrewつまり「shrewならし」という意味だが、そのshrewが『ズートピア』に登場するからだ。


これがshrewですよと、『ズートピア』の、その場面だけを見せるだのが、日本語で「じゃじゃ馬」と訳しているからといって、「馬」とか「野生馬」ではない。Shrewは馬をも殺傷する毒をもっている小動物である。そう、『ズートピア』には、小動物だけが住んでいる区画があるが、そこでのエピソードに登場する。どんなものかお楽しみに。観終わったあとで思い出せなければ、見直すか、ネットかなにかで調べてみてはどうでしょうか。


ちなみに『ズートピア』について、そこでの動物は、すべて擬人化されていて、主題というか問題となるのも人種差別である。人種差別問題は重大だが、動物を扱うCGアニメとしては、動物の他者の他者たる他者性を出してほしかったとも思う。その意味で同じアニメでも『ペット』とか『ファインディング・ニモ』のほうが、人間と動物との関係性を強く意識させてくれる。つまりそこには擬人化された動物ではなく、動物そのものが存在しているからである。



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posted by ohashi at 22:56| コメント | 更新情報をチェックする

2018年06月07日

『リディヴァイダー』

新宿のシネマカリテでは定期的というか、断続的にというか、面白いSF映画を見せてくれる。昨年はフョードル・ボンダルチューク監督の『アトラクション 制圧』 (2017)で、度肝を抜かれたのだが……。とはいえ興奮したのは最初のほうだけで、中盤から後半にかけては、アメリカの青春不良映画のフォーマットどおりに話が進んで落胆したことも事実だし、あと、ロシアにもヘイトグループが存在しているらしいことがわかり面白かった(ああ、愚かさに国境なし!)。


今回の『リディヴァイダー』Kill Switch(2017)は、超大映画とか、あるいは賞をとるような映画でもないが、まあ面白かった。知っている俳優は主人公のダン・スティーヴンスだけで、低予算映画ながら、ここまでのCGをつくりあげる点、驚くべきものがある。悪夢的なシュールな映像(空から突然、列車が降ってきて、目と鼻の先の地面に激突する)と、POVが一人称になっている映像の面白さ(ああ、この映画でもまた主役のダン・スティーヴンズ、『美女と野獣』のときと同じで、素顔が映画に露出する時間が少ない)で、けっこう楽しめる映画である。


ある映画紹介を、そのまま引用すると


「美女と野獣」やテレビシリーズ「レギオン」で注目されるダン・スティーブンスが主演し、主人公の一人称視点を取り入れて描いたSFアクション。現実の地球と、地球をコピーして作り上げた複製世界が舞台となり、現実の地球では通常の客観映像、複製世界では主人公の一人称映像が用いられている。エネルギーの枯渇が大きな問題となっている近未来。人類はコピーしたもうひとつの地球「エコーワールド」からエネルギーを得ることで、問題を解決しようとしていた。しかし、2つの世界をつなぐタワーの暴走により各地で異常事態が発生。地球は崩壊の危機に陥ってしまう。人類は元NASAのパイロット、ウィルをエコーワールドへと送り込むが、そこには荒廃した世界が広がっていた。


もうひとつの地球というか宇宙をつくる。そこからエネルギーをもらってくる。もうひとつの宇宙は有機体は生存しておらず、エネルギー資源は取り放題である(そう資源としてではなく、エネルギーとして地球に転送するということは、どういうことなのかと今気づいた)。たとえていえば私がなんらかの内臓器官を病むとする(損傷するといってもいい)。そのとき私は自分のクローンを急遽つくり、そのクローンから臓器をもらうというようなことだ。自分から輸血したり臓器をもらうわけだから、拒否反応はない。これぞほんとうの「私を離さないで」ということになるが。


ところが、もしもうひとりのクローン人間の私が病気になってしまうと、臓器を移植するにしても、病んだ臓器を移植することになる。この解決策は、クローン人間から臓器をとることをやめること。それで終わりなのだが、もし私とクローン人間とがシャム双生児のようにつながっていたら、そのとき片方が病気になれば、もう片方も病気になって、シャム双生児は共倒れになる危機が生ずる。となると半身を切り離すしかない(萩尾先生の『半神』の世界じゃい)。


シャム双生児というのはこの映画のなかでも使われるキーワードで、どういうわけか、二つの世界がシャム双生児みたいにつながることになり、片方に異変が起こると、もう片方も影響を受ける。そのため二つの世界の切り離し、あるいは片方の破壊ということが必要になる。


そう破壊。しかしエネルギー危機を救うためにエコーワールド(クローン宇宙といってもいい)をつくり、そこからエネルギーを転送するとき、一対の巨大な塔が転送装置となるり、この一対の巨大な塔が、人類の希望として稼働しはじめると異変が起こりはじめるので、そうなれば一対の塔の稼働を停止するか破壊すれば、人類は助かるのである。それで終わり。


ところがこの映画では、主人公が、もう一つのエコーワールドに行き、そこで、一対の塔のスイッチを切る(原題Kill Switchは、そういう意味である)。だが、なぜエコーワールドのスイッチを切るのか。こちらのスイッチを切れば済む話ではないか。


いやメキシコからの移民対策としていくら高い壁をつくっても防げないのと同じで、こちらのスイッチをきっても、むこうのスイッチを切らないかぎり、エネルギー流入はとまらないということらしい。どうもシャム双生児のイメージでふたつの世界を考えずにはいられないようなのだ、この映画は。


そのため主人公はこちら側からエコーワールドへと転送され、エコーワールドでの一対の塔のエネルギー転送をとめる装置を携え、任務を遂行することになるのだが、エコーワールドは有機体は存在しないはずだったのが、こちらの世界とうり二つの世界となっていて、人間も文明も存在している。ちがうのは文字の左右が逆になっていること――つまり世界とエコー世界は、鏡像のような関係にあることがわかる。しかも、エネルギー会社の最高責任者も、また主人公の同僚たちも、主人公を支援する者もいるが、多くは主人公のミッションを阻止しようとするのである。これはいったいどういうことか、私の頭のほうが、エネルギー転送装置よりも先に機能を停止してしまう。


だから早めに映画の物語から離れ、映像に肉薄したほうがいいだろう。


もうひとつの地球が、太陽を中心とする対角線上の端と端に位置していて、たがいに相手の存在を感知できないのだが、たまたま一方の地球から、もう一方の地球に宇宙飛行士がやってくるという映画が、20世紀にあったし、21世紀になってもリメイクで作られたような気がする。その映画で宇宙飛行士が体験する疎外感・孤独感――ありふれた地球の日常のようでいて、実は、ちがっていることからおこる違和感と絶望――を前面に押し出す映画となるかというと、そうでもない。


物語の流れは、エコーワールド転送された主人公の体験に寄り添いつつ、なぜこのエコーワールドに送り込まれることになったのか、フラッシュバック的に事情を説明する映像が断続的に入るかたちをとり、物語の後半というか終わり近くになると、全体像がみえてくるということになる。その際、なぜ、このエネルギー危機を乗り越える方策が破綻したのか、エネルギー企業が嘘をついていたのでは、この世界のはどうなってしまうのかという、世界あるいは宇宙のありようについての考察は語られることなく、主人公の過去の思い出が語られるだけで、観客もこの流れに乗るしかない。


この映画の特徴は、エコーワールドへ転送される主人公の体験は一人称映像POVで語られることだ。主人公の視界と観客の視界が同じとなる。そしてその視界に、コンピューターによる音声情報と文字情報が入る。これは主人公がなんらかの装置を頭に装着していて、その装置を通してみた現実の姿、ならびにその装置が視界に展開する文字情報ということになる。それは面白い。しかも主人公が、ヘッドギアをなくしたり、こわされたりしても、視界は、一人称のままなのである。とにかくエコーワールドでの体験を一人称版映像にしたかったということだろ。そうなると主人公の顔がわからない。そこで、回想シーンをもってきて、そこでは三人称映像とすることで、主役の顔が最後まで分からない異常事態を避けたことになる。


ただ、この一人称映像は面白い。主人公が戦ったり攻撃したりするときは、まさにゲーム感覚で映像をみていられる。しかし、同時に、主人公は、元宇宙飛行士の物理学者という設定なので、戦う戦士ではない。むしろ最初は事情がわからず逃げ回る。また戦うシーンよりも逃げるシーンのほうが多い。敵に背をむけて走る。後ろから銃撃される。私の傍を銃弾がかすめ去る。私の逃げていく前方に着弾して煙があがる。これがなんともいえぬほど、怖い。戦場での臨場感がある。つまり戦場では戦うにせよ、逃げるにせよ、運まかせである。自分の運の良し悪しへ賭けるしかないという無力感と絶望と祈り。まさにこれが戦場のリアルではないかと思えてくるのである。


あと主人公が負傷すると、映像が、あなたはダメージをうけています、医療機関で治療する必要がありますというような表示が出る。アクション映画では、主人公は、けがをしても死なないどころか、無敵である。不死の存在として生きる。アクション映画には、皮肉なことに、肉体は存在しないのである。この原則を一人称映像POVは守る。あなたは負傷しましたと情報が出ても、その情報の受け手である主人公の視界を共有する観客は、いたくもかゆくもないのである。そして一人称映像から判断して、どうやら主人公は死んだらしいと判断する。死すらも、実感できないのである。この痛みなき、死ぬことのない肉体こそ、アクション映画の肉体そのものなのである。


最後に、いまのこととも関連するのだが、この映画を見終わって、都市の雑踏のなかを歩くと面白い。自分が観ている都市の風景が、一人称映像POVを見ているように思えてくる。そして歩行者の間を、いつもよりも速足で、すいすいと抜けていく、自分、そのスピーディーな一人称映像を実現している自分を発見するのである。


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posted by ohashi at 07:34| 映画 | 更新情報をチェックする

2018年06月04日

『孤狼の血』

アントニー・フクワ監督の『トレーニング・デイ』も、同じく、ベテラン刑事と新米刑事とが組んで所轄内をパトロールする話で、デンゼル・ワシントンがベテラン先輩刑事、新米刑事がイーサン・ホークという顔ぶれだったが、デンゼル・ワシントンがとんでもない悪徳刑事であって、正義感の強い新米刑事は、ずっとデンゼル・ワシントンにふりまわっされぱなしという映画だった。フクワ監督とデンゼル・ワシントンはよく組んで映画を作っている。そのためでもないが、デンゼル・ワシントンは、悪徳刑事だが、ただの悪徳刑事ではなく、なにか裏があるのではなと、見る側は常に期待しているのである。

たとえばデンゼル・ワシントンは潜入捜査官のような存在で、ギャングからわいろをもらっても、最終的に闇社会の黒幕を暴くチャンスを虎視眈々と狙っているのではないか。あるいはそういう裏はなく、以前、有能な正義感あふれる刑事だったデンゼル・ワシントンが、なぜいまのような悪徳刑事になりさがったのか、そこには涙なしには語られない、あるいは聞くことができない深い事情があるのかもしれない。と、まあこんなことを考えながら映画をみていた。おそらく誰もが。しかし、映画は最後の最後にいたっても、深い事情は語らず、またデンゼル・ワシントンも、実は潜入捜査官だったと本性をあらわすことはなかった。つまり彼はたんなる悪徳警官であって、死んでおかしくないような存在だったのだ。

実はこれには驚いた。そうなると映画はカタルシスゼロではないのだろうか。実際、ゼロで、デンゼル・ワシントンの悪ぶりを見るだけで終わった。

いっぽう『孤狼の血』は、役所宏司演ずる悪徳警官が、たとえ汚職警官の汚名を着ようとも、すべて計算づくで暴力団の世界が動かしていたことが、最後にわかる。かつて『ある天文学者の恋文』という映画では、天文学者が死後、自分の若い恋人に、自分がまだ生きているかのように、彼女の行動を監視し先回りし助言をあたえるようなメモを残す。ほんとうは死んでいないのではと思わせるような配慮と計画のなか、それがすべて天文学者の緻密な計算のもとに、恋人の行動を予測し、彼女が、天文学者の死を乗り越えていくように導く計算をしていたことがわかる。それは彼女の行動を、一秒も違わぬかのように予測する驚異的な計算であったのだが、それと同じことが、この映画でも起こる。

役所広司扮する刑事は、暴力団の抗争を抑えきれない事態が発生した場合、みずからを犠牲にしつつも、抗争の広がりを未然に収束させるような計画を綿密にねっていたことが最後にわかり、彼を軽蔑していた、正義感あふれる若い刑事(松坂桃李)を驚かせる。

その意味で、残酷な暴力描写が多い映画なのだが、社会のどうしようもない闇を観たというよりも、むしろ闇を照らす光の明るさに爽快感すら覚えるような、カタルシスのある映画だった。

むしろそこにやや不満が残るということはいえるかもしれない。


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posted by ohashi at 07:09| 映画 | 更新情報をチェックする

日大アメフト問題

私はスポーツとは無縁の人間で、もちろん知識もなければ関心もない。だからいつものように黙っておくべきなのだが、日本大学のアメフトの危険タックル問題が、長く尾を引いているので、何か言いたくなってきた。


そもそもニュースで関西学院の正門からみたキャンパスの様子とか、日本大学のアメフトクラブが会議などを開くときに映し出される正門を見るたびに、私は、どちらの正門も知っていて、そのキャンパスで教えたこともある(常勤ではなく非常勤として)と思いいたるので。


ちなみにアメフト部の練習場は文理学部の近くにあるので、学内で会合がある場合には、文理学部(桜上水の)の建物を使うのだろう。アメフト部の顧問というか部長も、文理学部長だと聞いている。


まあたまたま文理学部で教えてこともあるという、ただこれだけのことなので、本来なら黙っているべきかもしれないが、べつに学生の悪口を言うつもりなどないので、感想めいたことをすこし。


そもそも非難は、ブーメラン効果で自分の大学にもはねかってくる。危機管理学部をもっていながら、今回の件が問題化したとき、なぜ危機管理学部の専門家に相談しなかったのか、言われているが、基本的に大学を運営しているのが、体育会系の人間で、在学中、勉強だけはしなかった連中ばかりのようなので、大学には専門家がいること、大学の先生に相談することなど、夢にも考えなかったのだろう。しかし、学内の専門家に相談しなかったことは、アホとしかいいようがないが、同じことは東大でも起こっている。


いうまでもなく宇佐美圭司壁画廃棄処分事件である。専門家あるいは関係研究室に問い合わせれば、その価値はわかりそうなものだ。そもそも宇佐美圭司の絵画は、アカデミックの場では、本の装丁とか、いろいろな展覧会とか、とにかくよく目にしていたという記憶がある。その作風は、けっこう変化しているようだが、東大生協食堂の大壁画は、いかにも宇佐美圭司の絵だというオーラが出ている、というか出ていたのだが。


まあ、専門家に聞かなくても、これほど大きな絵画が、名のあるアーティスト、由緒あるものだと思わないほうが、はっきりいってクズだ。しかも、個人の独裁的な判断ではなく、会議がなにかで決めたのでしょう。クズ・アホ集団だ。まあ生協なので、大学本部あるいは大学当局そのもの判断ではないとしても。これにくらべたら日大の記者会見の手際の悪さなどは、怒る気にもならない、ささいなことである。


日大に話をもどせば、危険なタックルを命じられてした宮川泰介選手の早い段階で、明確に事実を語り、謝罪をきちんとしたことで、日大の学生の株は上がったのではないかと思う。実際のところ、あそこまで、正々堂々と事実を認定し、謝罪できる学生は、日本のどの大学を探しても、そうざらにいるものではない。たとえ日大の学生が、みんな彼と同じようにりっぱなのかはわからないとしても、ひとでもりっぱな学生がいれば、全体の評価は高まることはまちがない。


学生の評価があがっても、日大の運営側は、学生に指示はしていない、コミュニケーション不足で学生が勝手に勘違いしたと、ひたすら自己保身に走り、大学そのものの評価を下げている。大学は、監督は、悪質なタックルの指示は出していなかった、悪いのは学生だと自己弁護に専念するだけである。かりに監督は指示を出していないとしてよう。その場合でも、つまり学生が勝手に勘違いして悪質タックルをしたとしても、指示をしていなくても、指示を出したと大学側が謝罪して、学生を守るべきである。そうすれば学生側も、大学が学生をまもってくれると信頼関係が築ける。


実際、日大の内田監督は、危険なタックルが問題になったら、監督に命令されたといいえばいい、あとは大学が守ってやるなどということを豪語していたようだが、いざ、刑事事件にも発展しそうになると、保身に走る。最低である。せっかく株を挙げた日大生に対して、評価を下げることしかしない大学当局は、ほんとうにクズである。受験生が敬遠するのもわかるような気がする。


まあ大学の評価をするとき、教員、建物・キャンパス、学生の三要素をいうことが多い。「学生一流、教員二流、建物三流」というように。

日大の場合、学生は一流であることがわかった。あとは……  つづく


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2018年06月03日

『サバービコン』

ジョージ・クルーニー監督の映画は、あまり好きではなかったのだが、この映画にかぎっては、コーエン兄弟の脚本ということもあり、またアメリカではあまり評判がよくなかったようなのだが、じゅうぶんに面白い映画で、私のなかでの評価はきわめて高い。

マット・デイモン主演作としても、身長13センチになるという『ダウンサイズ』と較べてみると、なるほどマット・デイモンらしさは、こちらの映画にはないかもしれないが、いくら13センチになっても、周りの人間もみんな13センチではセンス・オブ・ワンダーも半減するし、しかも小さくなってから就く職業がランズ・エンドの通販の電話オペレーターというのは、何を考えているのかわからないし、最後にはノルウェーのフィヨルド(イブセンの芝居では狂気の淵源ともなる風景)がでてくるような映画『ダウンサイズ』よりは、『サバービコン』のほうがはるかに面白い。

日本のネット上には、アメリカでの不評をまにうけて、むりやり低い評価にしている馬鹿どもが多いのだが、『アイ、トーニャ』に出てくるような馬鹿な白人が主流になっているような現代のアメリカでの評価など、くそみたいなものだ。ただ1950年代へのノスタルジアがない人間が多いことも不評に一役かっているのかもしれない。

私は1950年代には日本で生まれ、アメリカにいたわけではないのだが、アメリカの50年代文化を多少遅れながらも追認していたことをこの映画で思い知った。この映画のなかでテレビのチャンネルを変えるリモコンを見たか? 

なつかしくて涙が出そうになった。大きな懐中電灯みたいなものでテレビ側の受光器に光をあててチャンネルをかえるもの。私の父は、家電メーカーに勤めていたわけではなくが、家電メーカー関連の仕事をしていて、いつも目新しい、あるいは珍しい新製品を買ってきた。そのなかにチャンネルを変えるリモコン(もちろんテレビについていたのだが)があった。大きな懐中電灯、それもピストル型で引き金がついている。引き金が点灯スイッチになっている。受光器は左右に分かれ、右側に光をあてるとチャンネルが右まわりに変わる。左側に光をあてると、チャンネルが左側に回る。私より上の世代の人たちがいたらぜひ聞いてみてほしい。それは我が家では一時期まちがいなく使われた。その後けっこう早くすたれてしまい、現在のリモコンが登場するまで、テレビにはリモコンがついていない時期がかなりあった。

ああ、憶えている人はいるだろうか。私も忘れかけていたが、映画のなかでマット・デイモンがそれをつかってテレビのチャンネルを変えていたので、急に記憶のなかから蘇った。

もうひとつ。テレビのコマーシャルで宣伝していた子供向けのおもちゃ。柔軟なプラスチックの糸でもなければ棒でも紐でもないのだが、楊枝大で、両端が丸くなっていて、そこで縦横上下、自由に連結できて、なにか適当な立体物みたいなものをつくるもの。とにかくそれが我が家にもあった。そんなに面白い組立オモチャではなかったが、また女の子用かもしれないのだが、さらに積極的に親にねだったり、親から買い与えられたりした記憶はないのだが、とにかくそれがあった。50年代のアメリカの人気の組み立ておもちゃだったとは。これもまた記憶の奥深くから蘇ってきた。

ここから本題。べつに玩具にかぎらないが、50年代のアメリカの玩具製品には、製品自体を手に取る、得意げな、もしくは満面の笑顔をたたえた男の子の写真やイラストが添えられていたものだ。ときには男の子ではなく女の子、さらには両親や兄弟姉妹などの家族の写真やイラストなどもあった。ああ、それがアメリカン。アメリカの恵まれた快適な生活を強烈に印象付けたものだ。

だが、今から思うと、まぎれもなくアメリカ人のファミリーだと思っていた宣伝用のイラストや写真、まさに良きアメリカンライフのアイコンともいうべきそれには、黒人や異人種はひとりも存在しなかった。存在しなかったばかりか、そうした明るいアメリカンライフにはあからさまな違法行為そのものであった黒人差別と迫害があった。古き良き50年代のアメリカンライフの繁栄のなかにある闇。それをこの映画は容赦なくえぐり出す。

繰り返すと50年代のアメリカンライフのアイコンとして広告などでつかわれていたアメリカンボーイズ&ガールズ。50年代幼年期を過ごした私が、文字通り、口から涎を流しながらあこがれてみていたアメリカンライフの一点の曇りもなき光輝く暮らし、はたして日本にいてあんな暮らしは出来るのだろうか、一生かかってもむりだろうと羨望の眼でみていたアメリカンライフ。それが黒人を卑劣かつ愚劣な扱いをして暴力的に迫害するクソ生活だったとは、いや白人だけの生活をとってみても、根底が腐りきっているファミリーライフだったとは。明るい50年代のクソ・アメリカン。こんな面白い映画はまたとない。

実際、映画は、最初、予告編では触れられていない展開をする。サバービコンに黒人家族が引っ越してきて、住宅街がざわつきはじめるところから映画ははじまるのだ。都市部での黒人との共存を逃れて郊外に白人だけの住宅地を造成して、そこで暮らすようになった中産階層の人々の世界に、黒人家族がやってくる。そしてそれを機に、街の人々が黒人家族を追い出そうと、露骨な嫌がらせをはじめる。やがて嫌がらせは度を越して、暴動にまで発展する(実際にあった事件にもとづいているとのことだが、類似の事件はやまのようにあっただろう)。お騒がせな黒人一家は、最後のほうでわかるのか、あるいは最初のほうでわかるのか記憶にないのだが、全米黒人地位向上協会/全国有色人種向上協会(National Association for the Advancement of Colored People, NAACP)が派遣した家族だとはっきり語られる。協会の目的は、騒動を引き起こして白人の暴力性を白日の下に曝そうということもあったかもしれないが、基本は、人種間の融和であろう。だが融和どころか、白人たちは、リスぺクタブルな黒人家族を前にして、敵意をむき出しにして、最後には野蛮人どころか動物のようになって、この家族に襲いにかかるのだ。

予想しなかった展開がここにある。となる予告編でみたマット・デイモン、ジュリアン・ムーア夫妻の話はどうなったのか。実は、この黒人一家のすぐ隣というか、裏庭をとおして接しているのがマット・デイモンの家族の家なのだ。この二つの家、この両家族をめぐる物語が、並行して進むといえばいいのだが、どこかでまじわるかと思うと、両家族の男の子は友情を結ぶものの、それ以外のまじわりはない。まじりあい方が弱い、ダブルプロット構造が不評の原因のひとつのようだが、シェイクスピア演劇の研究者からすれば、まじりあわない、あるいはまじりあいかたが弱いダブルプロットやトリプルプロットには、慣れ親しんでいるので、まったく違和感がない。むしろ片や剥ぐ解される黒人家族の物語。片や妻殺し保険金殺人などの卑劣で残忍な暴力の淵源となる白人中産階層家族の物語。その両者が空間的に並立していること、しかも強い結びつきがないまま、あるいはどちらの家族の大人たちも、隣家にまったく関心がないままに存在していることのなかに、限りないアイロニーと、限りない諷刺を埋め込んでいる。そこがなんともいえず面白いのだ。

これまでのジョージ・クルーニーの監督映画作品は、あまり好きではないと語ったのだが、それは丁寧にきちんと隙なく折り目正しく作られた映画であって、それゆにえ面白みがないかったのだ。

ただ今回は、その折り目正しさが、裏目にでるどころか、映画そのものを面白くしている。くそまじめぶり、あるいは融通の利かない折り目正しさは健在なのだが、物語内容がブラックなので、その落差が、ブラックコメディにぴったりなのだ。へらへら笑いながら、おもしろおかしいことを言うのと対照的に、まじめくさった顔をして、おもしろおかしいこと、ばかばかしいことをやったほうがインパクトは大きい。その意味で、折り目正しく、そつのないクルーニー映画が、こうしたブラックな内容の物語を展開することで、突如として面白くなる。今回は、べつにこれまでの語り口をかえていないのだが、内容が内容だけに、映画そのものがはじけている。とはいえ、これはまったくコーエン兄弟の世界といえば、そうなのだが。

最後に、これはいいことか悪いことか判断がつかないのだが、他の映画と連携しているところがある。ジュリアン・ムーアの一人二役は、大いに期待はずれだったトッド・ヘインズ監督の『ワンダーストラック』と同じだし、また夢の国=夢の住宅街とつながる点で、『キングスマン2』の彼女と同じである。あとひと昔の映画だが、『めぐりあう時間たち』でジュリアン・ムーアは、追いつめらえる50年代の主婦の役だった。またマット・デイモンにしても、夢の国=住宅街で暮らすところは『ダウンサイジング』と同じといえなくもない。

あと社会風刺は人種差別のところ以外でも強烈である。リュック・ベッソンの『ヴァレリアン』では、買い物目当てにやってくるツアー客がヴァーチャル・リアリティのショッピングモールで、気づくと、いや最後まで気づかないまま、ほんとうにガラクタを買わされているという現代の消費資本主義社会への強烈な諷刺があって、たぶんアメリカでは受けないだろうと思うのだが、それと同じような諷刺が『サバービコン』にもある。疑いをもった保険調査員を殺そうとして、コーヒーにほんのちょっとだけ洗剤を入れたら、その調査員が塗炭の苦しみにあえぎはじめるというのは、いかに日常的に使っている食器洗いようの洗剤が毒物なのかを批判する強烈な諷刺だろう。そのあたりで、きわめてやばい諷刺をしている。もちろんこの映画は、トランプ政権の政策を強烈に諷刺いや真正面から批判しているため、アメリカのネトウヨから嫌われるだろう。そのあたりに不評の原因があるのかもしれない。私にとってはお薦めの映画である。


posted by ohashi at 23:41| 映画 | 更新情報をチェックする

2018年06月02日

『万引き家族』

先行上演をみてきた。


むかし『父になる』公開時に、福山雅治がテレビのインタヴューに答えているなかで、子役とリリー・フランキーと共演してはいけないと言われている、子役やリリー・フランキーがみんなもっていってしまうからと、冗談として語っていたことを思い出した(「リリー・フランキー」がジャンル名になっているのがおかしいのだが)。


今回の映画も、ある意味で同じで、子役とリリー・フランキーと安藤サクラが全部持っていった映画だった。いや、樹木希林や松岡茉優が生彩がなかったということはまったくなくて、強い存在感を発揮していたが、今回はリリー・フランキーや安藤サクラが得たような強い見せ場がなかっただけにすぎないのだが。


今上演中の『ゲティ家の身代金』(リドリー・スコット監督)と比べると、貧富の差は唖然とするものがあるが、同時に、孫の身代金を節税対策に使うようなクズ富豪にくらべると、貧乏家族のほうがはるかに暖かい愛に満ちている。まあ、どちらの映画も、トランプ政権批判や貧困層を生む格差制作批判の映画であることはまちがいないだろう。


万引き家族というのは、万引きで生業をたてているという意味のほかに(実際には、万引きは生活のごく一部にすぎない)、もうひとつの意味があることがわかった。ネタバレになるので、今日はここまでしか言えないのだが。

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posted by ohashi at 20:49| 映画 | 更新情報をチェックする