2018年05月06日

『カンパニー/Baddy』

TokyoMXテレビ『カフェブレイク』(午前830分から9時)で、ゲストの暁千星が月組の『カンパニー』(ミューカル)と『Baddy』(レヴュー)について紹介しているのだけれども(本日で公演は終わり)、暁千星、あまり着目していなかったが、テレビでみると、可愛い少年キャラだとわかり、チケットが手に入れば次回の月組公演、日本青年館まで足を運ぼうかとも思った。


それはともかく今回たまたま見ることができたの月組東京公演、『カンパニー』は、現代に日本のバレエ団に出向した製薬会社のサラリーマンの話で、宝塚の舞台に期待されるエキゾチズムもロマンティシズムもなにもない異色の舞台であった。


昨年出版された伊吹有喜の小説『カンパニー』は、サラリーマン小説とバレエやバレエ団の話を組み合わせている異色小説のようだが、そこに新鮮な驚きもあって、読んだ人によれば、評判はよい(読んでみようかと思ったが、単行本と電子書籍の値段がそんなにかわらない。新潮社、もうすこし電子書籍安くしね)。まあ伊吹有喜の小説は『四十九日のレシピ』で映画化されてもいる。


小説としてはプラス方向というかポジティヴに異色だとしたら、宝塚として異色さがネガティブにはたらくのではないか。コンビニでバイトする話やコンビニが舞台となったりするミュージカルは異色すぎる。生活感がありすぎる。バレエ団ではなくバレエのパフォーマンスがなければ、宝塚ミュージカルとして異色すぎて、つまり華がなくなってしまう。時折さしはさまれるバレーのシーンが、救いと言えば救いか。衣装にしても背広など現代日本における日常性が濃厚で、むしろあえて日常性の突出を狙ったのかもしれないが、違和感は残る。もちろん好き嫌いの問題なのかもしれないが。


ただ日常性を狙いすぎて本来の面白さを消してしまっているのが、「フラッシュモブ」シーンである。フラッシュモブ(flash mob)とは「インターネット上や口コミで呼びかけた不特定多数の人々が申し合わせ、雑踏の中の歩行者を装って通りすがり、公共の場に集まり前触れなく突如としてパフォーマンス(ダンスや演奏など)を行って、周囲の関心を引いたのち解散する行為」(Wikipediaの定義)なのだが、フラッシュ・モブを使って、バレエ公演の宣伝をするというアイデアは面白い。また宝塚の舞台にはたくさんの人物が登場するので、フラッシュ・モブのシーンは、圧巻の郡舞となって終わるかと思いきや、ただの盆踊りで、新公演の宣伝をすることで終わってしまう。


原作ではフラッシュ・モブの準備過程など事細かに描かれていて、興味深いのだが、ヴィジュアルで舞台でフラッシュモブを実現できるはずなのに、ほんとうに盆踊りでしかない、あの場面は、フラッシュモブの非日常性よりも、盆踊りの日常性を選択したからなのか。


ブルーレイ/DVDも発売されているので、興味のある方は確かめてみては。


ブルーレイ/DVDを購入した理由は、レヴューの『Baddy』もまた異色でというか、良い意味で異色すぎるものであると思ったので。ただ今回、たまたま見たの公演では、たとえば途中で舞台で全員アフロヘアになって、客席も異様に盛り上がりを見せていたのだが、何も知らない私は、そういう演出なのかとみていたが、これは、その日の公演が月組祭り公演で、普段のヴァージョンではない特別ヴァージョンで、二度見、三度見の観客むけのサービスなのだ教えてもらった。舞台で全員がアフロヘアになるという、意味のない展開は、そういうことだったのかと納得したが、同時に、レヴュー自体が、ナンセンスにはじけすぎていて、突然アフロヘアで踊り始めても、とくに違和感を感じなかったのも事実。


とはいえ通常ヴァージョンを知らない者にとっては、ブルーレイ/DVDでみるほかはない(まあ本日千秋楽で映画館で生中継されるのだが、もともとその時間はないし、時間があってもチケットは完売だろう)。ただそれ以外にもレヴューの方はいしょくすぎてぶっとんでいるので、見てみる価値はあり。


ここでレヴューについて詳しく説明しないのは、ネタバレをしないということではなく、レヴューの内容を説明すると、私の頭がぶっとんでいるのかと誤解されかねないので。え、嘘だろうと思ったら、ぜひ、ブルーレイ/DVDで確認していただきたい。

posted by ohashi at 10:38| 演劇 | 更新情報をチェックする

2018年05月04日

『娼年』

石田衣良原作の『娼年』は2016年に三浦大輔演出で舞台化されたのだが(はずかしながら、その舞台は見ていないのだが)今回、三浦大輔脚本・監督で映画化された。映画を見ていると、もとが舞台とは思えないのだが、セックスシーンは室内なので、つまりは舞台を室内に見立てれば、セックスの相手は変わっても同じ空間できる。なるほど、もとが舞台であるということは納得できる。


内容にしても娼夫となった男性が、客としての女性と接触するなかで、欲望の多様さにめざめていくという展開は、映画では、女性との接触場所が、東京の主要な繁華街にわたるというか空間的広がりがあるので、変態的欲望のアナトミー(百科全書的形式)へと進んでいくかと思うものの、主人公にとって死んだ母親の存在が、変態的欲望空間のスクロールを統御する中心的存在(もしくは不在)となることで、物語を時間軸で締めてゆく構成も見事で、面白い映画だった。


エロいことは言うまでもなく、映画館でみんなでセックスシーンをみるのは、ちょっとはずかしい。家で家族とみるのもはずかしい。いずれdvd、ブルーレイで独りで視聴するのがベストかと思うのだが、エロい映画は好きなので、私としては評価が高い。AVではごくふうつうなのだが、精液がしっかり見える(AVにおける、いわゆるぶっかけ)のは、一般映画では、けっこう珍しいことではないかと思う。


最近、授業では『ロミオとジュリエット』を読んでいるのだが、私は授業では教員も学生も、ともに参加者からアイデアをもらうことを目的とすべきだと常々語っている。教員にとって学生が常に示す独創的アイデアは、学生自身のポテンシャルを発展させる起点となるとともに、研究者でもある教員にとって、自分の研究の新たな展開の契機となってくれるもので貴重なことこのうえない。教員は学生からも学ぶことが多いのであって、教員とは威張ったり学生を威嚇することだと勘違いしているバカがときどきいるのだが、幸い、私の同僚には、そういうバカはほんとうにいないのでうれしく思っている(むしろ教員ではなくて、学生のなかに、それも……)。


閑話休題。で、学生の優れた指摘のなかに、『ロミオとジュリエット』のなかでgreenという形容詞の使い方に関するものがった。シェイクスピアの用法では、greenは新鮮とかフレッシュとか若さ、未熟さ、無垢などという予想できる用法のほかに、green sicknessという萎黄病とか腐乱した死体の色を暗示する用例がある。そして、このふたつの用法の接点として、埋葬されてまもないというとき、シェイクスピアはgreenを使っている。新鮮さ、まもないこと、古くなっていないこと、そして黄色く、あるいは蒼白く変色した死肉の色。おそらくこのふたつは生と死の合体として、『ロミオとジュリエット』をつらぬいている。Greenはこの劇の色でもあるのだ。若さ、未熟さ、無垢、新鮮、蒼白、萎黄病、死肉……。


『娼年』の舞台とは違うところは、すぐにわかる。画面の青が強い。北野武映画の北野ブルーよりも、もっとどす黒い、青というよりも藍色いや紺色、それも黒がまざってどす黒い紺色が画面を支配する。冒頭の性行為シーン。裸で抱き合う人間の肉体。そこでは肌色を起点に暖色が展開するようにみえて暖色は皆無。人間の身体の影の部分が、青黒くみえる。そのため絡みあう男女の身体が青黒い影をもった青ざめた肌の色となる。それは黒い黄色でもあり、黒い緑色でもあり、よごれた青あるいは紺色であって、死体の色である。性行為、エロスが、生を志向するどころか、タナトスの青黒さに染め上げられているのだ。


おそらくこの青黒さは、主人公の売春行為が引き寄せる闇の世界を意味しているのだろう。こちら側、昼の世界、堅気の世界と、主人公がその住人となったともいえる夜の闇の世界、違法と欲望の世界、主人公の行動は、その性行為をとおして、昼から夜へと至る。それはまた青黒さ、どす黒い影が、身体にからみつき、東京の繁華街がどす黒く染め上げられる過程として生起するといえるかもしれないが、同時に、身体が死体かしていることの暗示もあるのだ。


追記

私がはじめて宝塚市の宝塚劇場に行ったのは、真飛聖の引退公演だった。ベルばらのスピンオフ作品だったが、あるときテレビで真飛聖が出演しているドラマをみて、引退公演のことを思い出した。以後、彼女の出演している映画とかドラマをよく見るようになった。実は三浦大輔演出の『娼年』が東京芸術劇場のプレイハウスにかったとき、その前か後のプレイハウスでミュージカルの『マイフェア・レディ』を上演していた。イライザは、ダブル主演だったが、私は迷わず真飛聖版のイライザを選んだ。今回、舞台版で高岡早紀が演じた役を、映画では真飛聖が演じている。別に追っかけでもファンでもないが、彼女のパーフォーマンスを見る機会を得たのはよかった。


posted by ohashi at 09:51| 映画 | 更新情報をチェックする