2018年04月21日

『Photograoh51』

先週、神奈川芸術劇場KAATで、『5Days』のアフタートークでの話。宮崎秋人がゲストに来ていて、池袋の東京芸術劇場での公演を終えてから、KAATでのアフタートークにかけつけたということだった。そのとき宮崎氏自身が参加している東京芸術劇場での公演について話題になり、そういえば、そんな芝居があったと思いだし、突然興味をそそられた。幸いチケットを購入できたので、見に行くことにした。

はじめての舞台というのが信じられないほどの板谷由夏の安定感・存在感・貫録のようなものに圧倒されるし、彼女が紅一点となる状況は、昨今の日本の状況とも関連性をもっていて、とても私が生まれた頃の話とは思えないほどの切実感が、現代性がにじみ出ている。そしてシェイクスピアの『冬物語』が、ここまで重要な役割をはたすとは、予想すらできなかった。

ロザリンド・フランクリンの物語である。ワトソン、クリックの二重螺旋の発見に貢献しながら歴史から抹消された女性がいることについては、私が大学院生の頃、初めて知った。フェミニズムの文化批評の波が到来するなか、彼女の存在に光が当てられ、ワトソン、クリックは、その悪辣なセクシズムによって、歴史い汚名を残すことになった。だから、二重螺旋の話は、誰でも知っているが、その話が。ワトソンとクリックに、簡単に結び付けられることはもはやないだろう。この芝居によってロザリンド・フランクリンについてはじめて知ったであろう大多数の観客は、同時に、ワトソンとクリックについてもはじめて知ったちがいないからだ。

それにしても日本版ウィキペディアのフランクリンについての記述はひどすぎる。

フランクリンは、ワトソンが1968年に記した『二重らせん』で「気難しく、ヒステリックなダークレディ」と書かれるなど否定的な評価をされたため、フランクリンの友人で作家であるアン·セイヤーが抗議し、1975年にフランクリンの伝記『ロザリンド・フランクリンとDNA―ぬすまれた栄光』を記した。この本ではフランクリンこそノーベル賞をもらうはずであり、ワトソンやウィルキンスらを窃盗者であると非難している。そのため、友人かつ女性としての視点からフランクリンを過剰に擁護しワトソンらを不当に貶めた「単なるフェミニズムの本」とされ、ベストセラーとなった『二重らせん』で広まった彼女のイメージを変えるには至らなかった。1970年代以降はフランクリンの名前は単なるフェミニズムのイコンとして扱われる結果となった。

英語版のWikipediaは、もっと詳しく丁寧に事情を説明して、この記述のようないいかげんなまとめ方はしていないので、この日本版を書いた馬鹿は、麻生財務相に匹敵するメールショーヴィニスト・ピッグで、早く死ねばいいのにと言ってやりたいのだが、「単なるフェミニズムの本」という評価はどこからでてくるのか。当時、第二波フェミニズムの盛り上がりのなかで、男性中心文化は確実に批判され変えられた。フェミニズムの影響は大きかった。もし「単なるノーベル賞」と書く馬鹿がいたら認識の幼稚さに唖然とするほかはないが、それと同じく「単なるフェミニズム」という表現も問題がありすぎる、これを書いた単なる大ばか者よ。

『二重らせん』で広まった彼女のイメージを変えるには至らなかったというのも信じがたい。まあ大学一般で、もっともセクハラが多いのは文学部と理学部のようだが、文学部の場合は意識が高すぎてセクハラ批判が強く告発の回数が多いのに対し、単なる財務省なみの理学部では意識が低すぎて、男性による女性に対するセクハラ天国になっているからである。だから理系とはべつに、文系ではワトソン・クリックは男のクズだと評価は地に落ちている。事実、『二重らせん』で、当人は死んでいるのに、悪口を書くということは、彼らの側にやましいことがあったことの証左であるのだから。

この作品に登場する科学用語は、理系とは無縁の私には外国語のようなものだが、たとえ正確に定義したり説明できなくとも、そもそも中学校の理科あるいは高校の理系科目の基礎的知識でイメージできるものばかりなので聞いたこともない外国語のような違和感はない。つまり専門家でなくとも、DNAとか核酸とか二重らせんという言葉は聞いたことがあるからだ。それ以外のことは、この作品から教えてもらうことが多いとしても。

ところが違和感はもうひとつあって、最初の方で軽く触れられていたシェイクスピアの『冬物語』。このシェイクスピア作品が最後まで尾を引いて、まさにこの劇のアイコンにまでなりおおせるとは、予測できなかった。

舞台に飛び交う科学用語について、専門家ではないので、詳しく正確に説明できなくとも、なんとなく聞いたことがあり、なんとなくイメージできる観客(まあ私のような)は、多いはずだが、『冬物語』について、え、アンティゴナスがみる夢と夢のなかでのハーマイオニーの台詞が、そんなに重要なのかと不思議に思いながらも、『冬物語』話についていけるような、私のような観客は、そんなにいないだろう。

つまりシェイクスピア劇のファンとかシェイクスピア劇の上演に関係したりシェイクスピア研究者でないかぎり、『冬物語』といっても、ちんぷんかんぷんではないか。舞台を飛び交う専門的な科学用語とは異次元の未知の世界、それがシェイクスピアの『冬物語』なのだ。

英語圏でもシェイクスピアの『冬物語』は、『Potograph51』で言及されている名優ジョン・ギルグッド以上に知名度は低いと思われるので、舞台に飛び交う科学用語と同様、聞いたことがなくても、芝居はじゅうぶん楽しめるとは思う。しかし、もし、聞いたこともない科学用語の話で盛り上がって、それが最後の締めくくりで、作品の主題とも関係するとなるとわたしのように科学について無知な観客にはつらいのではないか。

シェイクスピアの『冬物語』は、『ハムレット』に比べれば知名度は低いと思われるが、けっこう人気作品ではある。一昨年だったか、映画館で劇場録画をみるシリーズとして上演されたケネス・ブラナー・シアターの三作品のうち、『ロミオとジュリエット』、アーノルド・ウェスカーの『エンターテイナー』以外の残り一作品が『冬物語』だったし、『ロミオとジュリエット』で名優デレク・ジャコビを使ったブラナーは、『冬物語』ではジュディ・デンチをポーリーナ(と字幕で表記、だが映像でははっきりと「ポーライナ」と発音しているにもかかかわらず)役と「時」のコーラス役に起用していた。ちなみに、このポーリーナ/ポーライナというのは、さきほど出てきたアンティゴナスの妻です――といってもなんのこっちゃと思うでしょう。ちなみにジュディ・デンチは若い頃には『冬物語』ではハーマイオニーを演じたこともあり、その舞台は、RSCの日本公演でも見ることができた(私が物心つく前の昔の話なので、私はみていないが)。

だから、この作品のネックはシェイクスピアの『冬物語』であって、これを機に、『冬物語』を読んでみようというポジティヴな観客ばかりだといいのだが、そうではないと、なじみのない科学用語と同様に、もやもやとしたものを観客がかかえるだけになってしまう。

そこで以下、ネタバレ注意と警告したうえで、語らせてもらうと『Photograph51』はネタバレはない。なにしろ実話に基づく作品で、ロザリンド・フランクリンが38歳の若さで、X線照射実験への対策不足のせいでガンで亡くなり、ノーベル賞を受けることもなかったこと、人間のクズ・クリックが、彼女ついて、書かなくてもいい悪口を書いていること、すべて歴史的な事実であって、この作品がそこからはずれることはない。ではどこにネタバレが生ずるかというと、シェイクスピアの『冬物語』である。シェイクスピア作品は、基本的に結末がわかっているものばかりで、サプライズはないのがふつうである――この『冬物語』だけが唯一の例外なのだ。

Photograph51』において二というのが鍵となる数である。二重螺旋、ワトソン=クリック、フランクリン=ウィルキンスという二人からなる二組の研究グループ。A型とB型のふたつのDNAモデル。フランクリンをとりまく二人の男性助手。さらには二人から成るグループでも、そのふたりは反目しあっていて仲がよいわけでない、二のなかの二。理由づけもつねにふたつある。実際、フランクリンが、まさに男性中心の研究者集団の紅一点として、あれほどかたくなに周囲と対立しなかったら、あれほど自己防衛に徹することなく、もっと心を開いていたら、その研究の功績も正しく認知されていただろうという認識ののほかに、彼女が、あれほど無防備にふるまわなかったら、あれほど研究者間の競争や足の引っ張り合いに無関心でなく、警戒を怠らなかったら、研究成果を盗用されて、悪口だけいわれるという悲惨な結果にはならなかったのではないか。防備と無防備、かたくなさとあけっぴろげ、警戒と信頼。また彼女の死も、ある意味、研究に没頭するあまりX線に無防備であったためでもある(自己責任)、と同時に、女性研究者を低く見ている男性中心的なアカデミーの犠牲になったともいえるという二重性。そしてふたつの腫瘍。「2」のモチーフは、これでもかといわんばかりに反復される。

また舞台そのものにも二重性がある。現在進行形のアクションはまた、回顧の眼差しにつらぬかれている。いまおこりつつある20世紀半ばの物語は、21世紀における回顧と審判の対象でもある。過去と現在、必然と偶然、一つの歴史的に出来事の線と、それに寄り添う、いまひとつの、ありえたかもしれない、可能性の並行宇宙。劇は回顧しつつ、ふたつの平行線の接点あるいは分岐点をさぐろうとする非ユークリッド幾何学的運動を展開する。

では『冬物語』のなにが二重性と関係するのか。それは『冬物語』二部構造だからである。劇が二部構造か三部構造かは解釈や主観によるのではないかと思われるかもしれないが、『冬物語』、明確に二部構造となっている。つまり前半と後半の間に16年間が経過するという設定なのだから。前半は悲劇である。妻の不倫をうたがったレオンティーズ(劇中でジョン・ギルグッドが演じたとされている――実際そうなのだが)は、妻を投獄し、心配する幼い息子を心痛のあまり死なせ、生まれたばかりの赤ん坊を、重臣のアンティゴナス(また出てきた)に捨てに行かせる。すべてはレオンティーズの妄想だとわかったとき、妻もまた心痛のあまり獄死していた。16年後は喜劇となる。捨てた赤ん坊は16歳の乙女となって帰ってくる。死んだはずの妻は生きていたことがわかる。再会の奇跡と歓喜のなか劇は、幕を閉じる。

Photograph51』のなかでロザリンド・フランクリンは、『冬物語』におけるハーマイオニーの回帰は、16年前に彼女を殺すことになったレオンティーズの妄想であって、彼女が生きていることでレオンティーズは許されることになるからだと冷淡に述べている。まさにそのとおりであろう。過去を振り返って、たとえば競争にあけくれている男性研究者(彼らは独身か、結婚していても問題のある家庭生活に甘んじていた)たちのうるおいのない人生に対して、彼女の人生は、短かったけれども、そこに愛と喜びがあったと回顧するのは、彼女を歴史的に抹殺した男性研究者たちの自己擁護あるいは自己正当化に貢献するだけである。

むしろ劇は、最終的には、ロザリンド・フランクリンが、他の男性研究者たちを超越したところにある、困難な状況のなかで科学者として責務を全うした女性、また不利な状況のなかで充実した人生を謳歌した女性としての真実を提示しようとしている。そうしてそうすることで、彼女が生きた時代の(そしていまなお根幹は変わっていないかもしれない)男性研究者とその制度の面目を失わせることになるだろう。事実、ワトソン=クリック組と、ウィルキンス=フランクリン組は、DNA構造の解明のためのライヴァルだったのだが、最終的にみんなノーベル賞をもらっている。ただフランクリンは、そのとき死んでいた。そして研究にも貢献したフランクリン、それも死んでいるフランクリンに対して、死者への敬意すら示さないまま、ただ悪口だけを残すとは。もはや競争でもなんでもない。私が二重らせんにかかわった女性研究者について知った頃のフェミニズム論文が正しく指摘していたように、競争は、研究グループ間ではなく、男女のジェンダー間での競争であり、この出来レースの勝利者は男性でしかなく、女性は、どれほど貢献しても、抹消されるしかなかった。ワトソン、クリック(そしてウィルキンス)の発見あるいは科学的功績は素晴らしいの一語に尽きるが、彼らは人間として単なるゲスであった。

ちなみに『冬物語』のハーマイオニーの娘パーディタは、この劇中でウィルキンスが述べているように、「失われた」という意味であり、命名者はアンティゴナスの夢のなかに登場する母ハーマイオニーであり、ハーマイオニーは帰ってきたかどうかわからないとしても、パーディタは、ハーマイオニーの分身として回帰する(なおウィルキンスは『冬物語』の原作というか元ネタがシェイクスピアの時代の作家ロバート・グリーンの『パンドスト』 であることを知っていて(知りすぎている)、『パンドスト』と『冬物語』の違いは、娘のパーディタがどうのと言っていたのだが、うっかりして聞き逃した。私なら両作品の違いは、娘にあるのではなく、母パーディタにあるというだろう。つまり『パンドスト』ではパーディダ(役の妻)は復活しないのである)。復活したか生存していたハーマイオニーは、男性の自己正当化と自己擁護に貢献するだけかもしれないが、娘のハーマイオニーは、母の世代の置かれた苦境と、母の世代を迫害し死に追いやったものを正しく特定し母の名の下に正しく断罪し歴史を変えようとするだろう。その意味でユダヤ人の女性科学者であったロザリンド・フランクリンは、フェミニズムの単なるアイコンではなく、女性が正しく評価される時代の幕開けを告げる決定的なアイコンになったのである――敗北することによって。



posted by ohashi at 19:02| 演劇 | 更新情報をチェックする

2018年04月19日

カクシンハン『ハムレット』2

拾遺

1顔写真NG

カクシンハン・マガジンでの木村龍之介氏との対談は、私の顔写真がないということで、申し訳なく思っているのだが、私は顔出しNGなので、対談の話をいただいた時は、せっかくの機会なので、カクシンハンや木村氏を応援したいと思いつつも、最初はお断りした。顔出しNGだからと、こちらが条件をつけてもOKという場合もあるのだが、そういうとき、結局、隠し撮りされた顔写真を使われて、事後承諾ということもないことはない。当然、こちらは憤慨して、関係者とは完全に絶交状態となる。今回も、顔出しNGの条件を出して、引き受けてもいいのだが、万が一、木村氏あるいは関係者が、小さな顔写真くらいいいのではと軽い気持ちで裏切ったりすると(基本的にそのようなことはないと承知しているが、しかし魔がさすというようなことがないわけではないから)、それで、これまで応援し、また公演を楽しみにしてきたカクシンハンと縁が切れてしまうのはつらいので、最初からお断りすることにこしたことはないと考えた。

しかし、その後、木村氏のほうから再度、顔写真なしでよいのでと打診があったので、観客は私の話には興味はないと思うのだが、対談をとおして木村氏からいろいろな話を引き出せれば、カクシンハンのファンや観客にとっては、とても有意義なことではないかと考えた、お引き受けすることにした。対談は、本郷の私の研究室で、木村氏が当日のリハーサルを終えたあとの夕方から夜にかけて、2時間以上、話していた。内容は多岐にわたり、適当なものを拾ってまとめるのにじゅうぶんな材料が用意できたと思ったが、話が長すぎて、まとめるのに大変だったにちがいなく、もっと短く、簡潔に対談していれば、あとの作業も楽だったのだろうと思い、やや無神経なところがあった点、木村氏や関係者のかたがたにお詫びしたい。

ちなみになぜ顔出しNGかという理由については、自分でも実は定かではない。まあ人に見せるような顔じゃないし、恥ずかしいからというのは確かだが(とんでもなくひどい顔なのだろうと想像してもらってもよいが)、理由は、それだけではない。ではなにかと言われると、最初に述べたように自分でもよくわからない。顔を出さないことで、かえって注目を浴びようという戦略ではないかと思われるかもしれない。モーリス・ブランショとか、一時期までのデリダがそうだったが、あいにく私はそこまで著名でもなければ偉大で優れた人間でもない。ただ、現代のような情報時代、顔を出すのを拒むことで、失う仕事、失うチャンスは多かったはずで、顔出しNGは、決して有利なことではない。

また顔を出さないという条件を提示して仕事をすることもあるので、たとえば2018年から某社の、高校の現代文Bの教科書に私の文章が掲載されているのだが、著者略歴はあっても、私の顔写真は掲載されていない。他の著者の顔写真はすべて掲載されているのに、私のだけはない。教科書会社にも、どうしても顔写真が必要というのなら、私は掲載を希望しないからと伝えたら、顔写真なしでかまわないということになった。迷惑をかけたとは思うが、そのように顔写真を私は公開していないので、もし、なにかの仕事で、あるいは著作で、顔写真を使ったら、これまで顔写真なしで同意してもらった出版社から、私は殺されるわい。だから死ぬまで、顔写真なしで通すしかないと思う。そのぶん仕事を失うことも多いと思うが、それほど仕事をしたいわけでもない。


2 リメンバー・ミー

カクシンハン公演で台本として使われているのは、松岡和子氏の翻訳だが、その翻訳のなかでRemember Meを松岡氏は「私の言ったことを忘れるな」と訳されている。それはそれでいいのだが、その台詞の原文は「リメンバー・ミー」なのである。

また実際、舞台のうえから花弁が、はらはらと落ちてくるような演出もある。そのとき、亡霊の言葉、「私が語ったことを忘れるな」が聞こえてくる。だが、その台詞、原文ではリメンバー・ミーなのである。

まあ要は、ディズニー/ピクサーのアニメ『リメンバー・ミー』と同じことをしてもよかったのに、惜しいという、カクシンハンにとっては、迷惑なコメントを書いているのだが。

ちなみにアニメの方は、メキシコの死者の日における一夜がテーマで、死者の日を象徴するのは黄色というかオレンジ色のマリゴールド。アニメのなかでは、マリゴールドの花が、まさに絨毯のように敷き詰められ、おびただしい花弁として宙を舞う。

べつにカクシンハンの舞台がディズニー/ピクサーのアニメをまねて欲しかったというような話ではない。上から落ちてくる花弁は、桃色ではなく黄色だったらよかったのにというような話でもない。ただ、勝手にアニメを連想したにすぎないのだが、その連想には理由と論理がある。

アニメの原題はCoco。これは主人公にとって、また物語全体にとっても、重要な曾祖母の名前でもあるのだが、普通名詞としてのそれは、死者の日に還ってくる亡霊のことを意味するスペイン語。日本語のタイトルのように『リメンバー・ミー』としてもよかったと思うのだが、『リメンバー・ミー』というタイトルの映画はけっこうな数、つくられていて、混同を避けるためだったのかもしれない。


また『リメンバー・ミー』というのは、すでに述べたように『ハムレット』のなかで父親の亡霊(Coco)がハムレットに語る言葉でもある。ディズニー/ピクサーの『リメンバー・ミー』は、内容面でも『ハムレット』に類似しているところもある。両者を比べる、あるいは相互に連想することは、カクシンハンの舞台を見た者のなかにおのずと生まれる衝動かもしれない――

と、マリゴールドの乱舞するアニメの関連商品のクリアファイルを見ながら考えた。

3.3.11

木村龍之介氏にとってカクシンハンの原点は3.11にあるということを対談をとおして初めて知った。

それを知ることで、思うこと、思い出すことがあった。2011年3月11日以降、大震災のあと、文学部では(まあ大学全体でそうだったのだろうが)在校生の安否確認をすることになった。というかするようにという要請があった。英語英米文学研究室では、ほとんどの学生についてはすぐに安否確認ができた。当時、私は研究室の主任だったらか、そのことはよく覚えているのだが、ただひとりだけ安否確認ができない学生がいた。木村龍之介である。この学生の指導教員は私だったから、かなりあせった。文学部からは全員の安否確認を急ぐように言われるのだが、木村君がどこにいるのかわからない。在学中から演劇活動をしていることは知っていたので、東京ではなく、どこか地方に巡業というかドサ回りでもしていて、それで連絡がとれないのかと考えた。もしそうなら、さらに心配になってきた。というのも、もしかしたら東北で震災に巻き込まれていて帰れなくなったのか、行方不明なのか、と。だとすると、一刻も早く状況を把握する必要が生ずる。

当時の3月は非常事態であった。たとえば卒業生全員を集めての卒業式がおこなえなかった。卒業式はなくなり、研究室で学生に卒業証書を手渡して終わりという、そういう状態だった。そんなか、安否確認で一番たいへんだったのは、実施的に作業をしてもらった当時の助手/助教であって、本来なら、問い合わせたりはしない実家にまで連絡をした。そしてようやく連絡がとれた。ただし、連絡は助教/助手にまかせていたので、どこにどうしていたかについては知らなかった。地方巡業ではなくて、また地震や津波に巻き込まれていなくて、安心した。

木村君のことは、当時、英文研究室でも心配したが、文学部の事務のほうでも、心配と苛立ちを募らせていた。木村君には必要な手続きをしてもらわないといけないことがあったのだが、それが3月という年度末に手続きが完了していないこともあり、文学部事務室の方でも気をもんでいた。そしてようやく連絡がとれた。大学に来てもらって、主任の私が木村君を事務室に連れて行くことになった。事務室のドアをあけ、英文の木村龍之介君が手続きに来ましたといったら、事務の人たちの間から、拍手が沸き起こった。これにはちょっと驚いたが、よくぞ木村君を見つけてくれたという私への称賛ではまったくなく、無事でいたことの安堵の拍手だったし、それほどまでに文学部事務室でも、安否確認のとれない学生について、心から心配していたということだろう。見つかってよかったという安堵と歓喜の拍手だった。

その時、木村君は、どこにいたのか。今回の対談ではじめてわかった。地方巡業にも行ったいなし、震災の犠牲者となったわけではなく、東京にいたのだ。

これを聞いて、ちょっとむっとした。あのとき研究室が、文学部事務室が、あれほど右往左往して困惑の極致にあったのは、なんのためだったのか。当時の非常事態に、連絡が取れない状態のままでいたというのは、なんという非常識な逸脱行為か、と。

ただし、木村氏によれば、当時思うところがあって、悩んでいたとのことだった。それがカクシンハンの旗揚げへとつながったのだから、そのため外部との隔離は、必要なプロセスだったのだろう。それがなければ今日のカクシンハンの舞台も存在しなかったと思うと、感慨深いのだが。

posted by ohashi at 23:10| コメント | 更新情報をチェックする

2018年04月18日

カクシンハン『ハムレット』

カクシンハン公演『Hamlet』 (414日~22日、池袋シアターグリーン)を観る。カクシンハンの新しい舞台はつねにこれまでのベストだと思っているが、今回の舞台も、文句なくベストだと思う。いや、カクシンハンの公演のなかだけではなく、現代の演劇パフォーマンスのなかで、誰が見てもベストのリストに加えるだろうと思う。いや、それほどに圧倒され言葉を失うような素晴らし公演だった。


もちろん、これはカクシンハン・マガジン『SHAKESPEARE東京』に主催・演出の木村龍之介氏との対談が掲載されているから、褒めているのではない。このマガジンを、私はプログラムと間違えていたのだが、プログラムの代わりにもかねているというかプログラムでもあるのだが、対談は公演前、リハーサルの忙しいさなか木村氏とおこなったもので、そのときは当然、公演はみていない。いろいろアイデアは聞いたが、それが今回の公演に結実していることに驚き感動したが、私の関わりはその程度で、あくまでも一観客としての感想である。とにかく一見すべき公演だと思う。


激しさと繊細さの超絶的バランス。そのカクシンハン・マガジンで私が述懐しているように、私は演出家にならなくてよかったと思う。というのも、もし私が演出家をめざすか、演出家になっていたら、木村氏の演出をみたら、絶対に私にはまねができない、私が逆立ちしても出てこないようなアイデアが噴出していて、私は自分の力不足ゆえに絶望の淵に沈むと思う。ほんとうに演出家でなくてよかったと、つくづく思う。まさにそのくらいに今回もすばらしいセンス(と軽々しく言ってはいけないとは思いつつ)あふれる舞台は、一見に値する。


また、これで何度目かという河内大和のハムレット。その神の技の域に達したともいってよい演技もまた、この舞台を異次元のすばらしさにひきあげているとはいうまでもない。


前半は、交差点の白い帯が斜めに走る路上が、ハムレットの世界に見立てられてというか、現代日本の路上(渋谷?)がハムレットの舞台と二重写しになる。それ以外に装置はなく、演者たちの言葉がさく裂し、身体が舞い、また衝突する。その簡素さは、舞台がポップに活性化しても失われることはなく、言葉と身体を、どんなに舞台がはじけても、つねに生々しくじっくり感知させる装置として機能している。


そして後半、そこでは前半のシンプルな舞台とはうってかわってパイプ椅子が増殖する。劇中劇の場面で、積み重ねられたパイプ椅子は、宮廷での観客にも、また劇中劇の舞台の一部にもみて、劇中劇が終わると、今度は、そのおびただしいパイプ椅子の群れが舞台中央の空間を半円形に囲む。それは客席のようにもみえる。この密集したパイプ椅子に囲まれた空き地のようなところで、祈るクローディアスとハムレットの場面が、またガートルードの寝室の場面が、さらには宮廷の場面が演じられる。劇場のなかに劇場が、舞台のうえにもうひとつ舞台ができたようなものだが、やがてデンマークの海岸の場面になると、規則正しく半円形に並べられていた、そのおびただしいパイプ椅子が強引に舞台の客席からみると左半分へと寄せられる。そう、このとき、この『ハムレット』がみせてようとしてきた物語が、おそらく誰の眼にもみえるようになる。木村演出の効果が、まぎれようもなく感知される。


後半においておびただし数のパイプ椅子は半円形になって舞台中央をとりかこむ観客性にようにみえる。だが、誰が見みているのか。また前半からそうだが、亡霊は二種類いる。ハムレットがみる父親の亡霊と、前半では多くの通行人もまた亡霊として登場する。後半でも亡霊たちは、パイプ椅子に座る不可視の観客として存在する。そしてガートルードの寝室の場面では、ハムレットは出てくる亡霊に話しかけるのだが、どうじにそれを複数の物言わぬ亡霊たちがみている。亡霊は、原作では、ハムレットにしかみえない。ハムレットの妄想だと彼の母親はいう。しかし、ここでわかるのは、ハムレットは亡霊を見ることができる人、死者の世界をみることができる、死者とつながっている霊媒のような存在だとわかる。


そしてデンマークの海岸、フォーティンブラスの軍隊が進軍しているところで、多くのパイプ椅子の列を数人の登場人物が(前の場面では亡霊だった複数の役者たち)が乱雑にわきによせる。そのパイプ椅子の移動のさまは、そう押し寄せる津波のようにみえる。またそれは津波の流れであり、同時に、津波によって押し流される瓦礫のようにもみえる。ここにいたって舞台は、まぎれもないかたちで、3.11の記憶を強烈に蘇らせる。木村氏は対談のなかで、カクシンハンの原点は3.11にあると語っていた。舞台は、その原点にあらためて回帰したかのようだ。


もし3.11の津波の形象があらわれたのなら複数の亡霊たちは、ある意味、3.11の犠牲者たちであると、ここで、まさに亡霊がみえるように、みえてくる。死者の蘇り、あるいは抑圧されたものの回帰。登場人物のなかで唯一亡霊をみたり亡霊と話ができるハムレットは、回帰する死者たちが、現実の人間に影響をあたえる回路でもる。つまり霊媒でもあり復讐者でもある。


木村氏が『ハムレット』について語っていたことで、忘れられないのは、『ハムレット』という作品は、すすむにつれて、その底流に死の世界が横たわっていることを感じ取れるようになるということだった。まあ、そんなものかと思っていたのだが、いつもながら、今回も木村氏に先を越されたというか、木村氏の洞察力に今回も脱帽するほかはなかったのだが、たしかに『ハムレット』という作品は、この世界のほかに、別の世界へも通じていたというか、別の世界の存在、あるいは共存を強くにじませるものがあって、その別の世界こそ、死者たちの世界でもあった。ハムレットはそれをみることができた。それは死者たちがハムレットをとおして復讐するということでもあった。


復讐劇である『ハムレット』において復讐は、父親を殺されたデンマークの王子の復讐だけではなく、死者たち、犠牲者たちの、回帰の物語も含まれる。忘れられた死者たちの回帰。それを今回の演劇では3.11の悲劇というかたちで再組織した。もしシェイクスピアがいまとここに生きていたら、どのような『ハムレット』を書いただろうか。木村氏の演出は、それに答えを出したのである。


後半、パイプ椅子が舞台の片側に押しやられ、津波のあとの瓦礫の山を彷彿とさせる舞台となったところに、放射能防護服を着たようなフォーティンブラスが登場する。もはや舞台の含意は説明をするまでもない。やがて墓堀の場面となると、パイプ椅子の山が迅速に片づけられ(まあ植木等のスーダラ節とともに)、パイプ椅子が降りたまれ積まれて、きれに整頓されるのだが、それはまた震災後に整理された瓦礫の山あるいは遺体をおさめた棺桶の列のようにもみえる。そして最後、ハムレットがクローディアスを倒して復讐を遂げたとき、死者は、ハムレット、クローディアス、ガートルード、レアティーズの4名のはずだが、舞台には、それ以上の数の遺体がずらりと並ぶ――震災後の遺体安置所のように。


『ハムレット』の世界あるいはハムレット自身が、死者の世界、別の世界に通じていることを、かつて丸谷才一は、ハムレットが小唄を口ずさむことを手掛かりに考察したことがあった(悲劇の主人公は、リア王のように完全に発狂でもしないかぎり、絶対に歌を歌くことはないのだが、ハムレットは例外的に歌をうたうのである)。その驚くべき論文以来、『ハムレット』と死の世界とのつながりについて私はずっと考えていたが、ずっと前に忘れてしまった。それを今回、木村氏の演出の舞台をとおして、ふたたび思い出すことになった。


忘れられた死者をみよ。リメンバー・ミー。回帰し蘇る死者の姿は、シェイクスピアの時代には、あるいは現代日本では、何を意味しているのだろうが。ひとつの正解ではなく、無数の可能性を、無数の正解を想起すること。カクシンハン『ハムレット』の主題の画期性もそこにある。




続きを読む
posted by ohashi at 23:08| 演劇 | 更新情報をチェックする

2018年04月08日

『しあわせの絵の具』

サリー・ホーキンズの演技は、『シェイプ・オブ・ウォーター』よりもすごいという評価がネット上にみられるのだが、それには同感だが、ただ、この映画、2015年に撮影され、2016年完成し、2017年にアメリカでも公開された映画であって、こちらほうが古い。そして、この演技から『シェイプ・オブ・ウォーター』の主役へと展開したのではないかと思う。また『しあわせの絵の具』も、『シェイプ・オブ・ウォーター』がアカデミー賞にノミネートされ受賞しなかったら、日本で公開されなかったかもしれないので、アカデミー賞にただただ感謝。


監督のアシュリング・ウォルシュは、サリー・ホーキンスとTVドラマ『荊の城』(2005)以来だが、『荊の城』は、テレビドラマ版のDVDももっているし、韓国版のリメイク(『お嬢さん』)もブルーレイをもっている(うかつにも劇場公開時に観に行くチャンスを逸した)。だからサラ・ウォーターズ原作もテレビドラマ版も映画版も好きな作品なのだが、そのテレビ・ミニシリーズ版の監督がアシュリング・ウォルシュだとは知らなかった。まあ個人的な好みで、今回の映画とは関係がないが。


映画の最後のエンドクレジットで、実際のモード・ルイスに取材したときのテレビ番組のモノクロ映像が少し流れる。実際の彼女は、サリー・ホーキンズとは似ていないのだが(似ているような表情をみせるときがあるにしても)、顔がアップになったとき、幸せそうな表情をしていて圧倒される。障害をかかえての彼女の人生は、恵まれたものではなくて、苦労の連続で、悲痛な出来事にも事欠かなかったのだが、また無骨で感情表現が下手で暴力的でもあった夫とのつましい生活も陽気な笑い声のたえない雰囲気とは無縁の陰気なものだったように思うのだが、しかし彼女は幸福だったとわかる。そこで思わず涙が出てきた。このエンドクレジットでほんとうにスイッチが入る。号泣の上級者の姪(44日の記事参照)といっしょに見なくてよかった。

posted by ohashi at 09:21| 映画 | 更新情報をチェックする

2018年04月04日

『ボス・ベイビー』

観客はたくさん入っているようだが、『リメンバー・ミー』といったアニメに比べると、評価がやや低い。ふたつを見た数人に聞いたところ、両方とも面白いという意見から、『ボス。ベイビー』は面白かったが、それほど感動はしなかったという意見にわかれた。とはいえ統計的信憑性はない。聞いたのは3人だから。

『ボス・ベイビー』は、最後に2017年3月に至る(つまり米国での公開時になる)。ということはこの物語は、現時点から30年くらい前の出来事である。空港ではDC10 が飛んでいたという指摘があった(DC10 は知っているし、いまでは飛んでいないが、それは完全に見落としていた――ヒコーキ・ファンとしては残念)。たぶん出てくるおもちゃにも1960年代あるいは70年代に流行したものがあるのだろうが、米国で生まれ育ったわけではないのでわからない。『シェイプ・オブ・ウォーター』も冷戦時代を舞台にしていて、時代の文化を濃厚に漂わせる仕掛けなのだが(『ミスター・エド』のテレビ番組を垣垣間見ることができて、個人的にかなり興奮したが、この件については別記事で)、『ボス・ベイビー』は、力点を風俗習慣ではなくアニメ表現そのものに置いている。そこが逆にわかりにくいところだったのかもしれない。まあ少年の寝室にはガンダルフの目覚まし時計もあるし(これは知人から指摘されるまでわからなかった。映画版のイアン・マッカランのガンダルフではなくて、本の挿絵で描かれている、あるいは古い『指輪物語』のアニメのガンダルフの格好をしていたので――だから映画版の『指輪物語』はまだ存在していない世界だったと気づくべきだった)、現在の物語と思ってもしかたがない。古さは、アニメ表現そのもので伝えている。つまり主人公の少年ティム(芳根京子)の空想・妄想世界のアニメ表現が、昔懐かしい60年代や70年代の米国アニメ(大雑把な表現で恥ずかしいが)の様式なのだが、ただ、この様式は現在でも米国のテレビアニメではふつうに使われているので完璧にノスタルジックなわけではない。そこが、アニメ表現がノスタルジックではなく古臭いと思われてしまったのではないか?

兄弟争いのアニメ

ボス・ベイビーといのは、Baby Corporationが調査あるいは諜報活動のために送り込んだエージェントなのだが、この荒唐無稽なお伽噺のなかに、弟や妹が生まれる長男長女の悲哀を盛り込んだということになって、最初のうちは興味をそそられる。

実際、私自身、それまで一身に受けていた両親の愛をすべて、新しく生まれた妹の奪われて、相当むずがったようだが、まあ同じような経験は、弟や妹が生まれた兄や姉は、経験していると思う。新しく生まれ、親の愛をすべてもっていく弟や妹はボス・ベイビーなのである。

とはいえ弟や妹にとって、親の愛を奪おうと思ったり、家族の自分中心に運営するよう計らったりすることなど夢にも思わず、また大きくなっても、このことで兄や姉に対して悪い感情などもつこともない(別の理由で憎んだりすることはあっても)。だから弟や妹がボス・ベイビーだというのは兄や姉からの完全な投影である。つまり姉や兄が妹や弟を憎んでいるのに、逆に弟や妹が自分を憎んでいるという物語に変えてしまうのである。

もちろん兄弟姉妹も大人になってからは、骨肉の争いに身を投ずることになるかもしれないし、たとえば兄弟喧嘩の芝居も生まれてくることになろう。私の大嫌いな岩田美喜の『兄弟喧嘩のイギリス・アイルランド演劇』の世界がリアルに迫ってくる。

なお岩田美喜氏とは一面識もないから、ご本人に関して好きも嫌いもないのだが、そのエクリチュールの主体としての岩田については、本人ではなく、あくまでもエクリチュールの主体としての岩田氏には、つねにいらっとさせられるので(政治的信条とか信念が異なるからということではない。嫌われる文体で書いているからだ)。

それはともかく、ボス・ベイビーは最後にはお約束どおり仲良しになるのだが、途中は、まさに兄弟喧嘩のドラマ。このドラマは、姉や兄たちが、親の愛を奪う弟や妹に対して、つまりボス・ベイビーに対していだく、ある意味、理不尽な怨念みたいなものを原動力にしている。その点を嫌だと思う人はいるかもしれない。

プロティウス的ダーク・ヒーロー ネタバレ注意 Warning:Spoiler

アニメ『ボス・ベイビー』については、なんといってもボス・ベイビーの顔だろう。赤ん坊らしさが感じられないこと、赤ちゃんの愛らしさかわいさがないことに対して、残念に思う観客もいよう。だが、最終的にボス・ベイビーがふつうの赤ん坊になってしまうと、なんだかがっかりするのも事実で、ボス・ベイビー時代の大人と子供の顔の使い分け、子供なのに言動は大人のアンバランス、どれをとってもボス・ベイビーであったときのほうが、ずっと魅力的なのである。

これは芸達者なコメディアンの超絶芸を見ているような楽しさがある。またボス・ベイビーにとって、かわいい赤ん坊の姿は、人をあざむくための仮装、あるいは演技であって、そのため最後にかわいい赤ん坊にもどっても、本物になったというよりも、偽物になった観がいなめない。そこが面白いし、そこに残念なものを感ずる観客もいるのかもしれない。

しかし大人と赤ん坊の表情やしぐさの使い分けと、その融合、どこをとっても、ボス・ベイビーの魅力は圧倒的であり、この映画の面白さの中心はここにあるといってもいい。アニメとしては超絶的なのである。そそして逆にいうと、それ以外の要素が、この点を支援するところがうすい。べつに邪魔しているわけではないが、超絶的な表情やしぐさの情景と、物語の上の要請とはいえ、古臭いアニメの技法、その両者の統一感に欠けるし、両者が分裂したり矛盾としてぶつかりあうわけではない、そこがやや中途半端なのかもしれない。

クィア・ベイビー

赤ん坊はどこから来るのかという問題は、性や性行為の問題とからんでくるので、本来、ただかわいいだけではすまないところがある。しかし、このアニメは、この問題を回避している。なにしろ、赤ん坊はBaby Corpからやってくるという設定(あるいはこれは後日、ティモシー(兄のこと)が自分の娘に語って聞かせる物語)となっているからだ。ここには性やセックスについて、ひとかけらもない。子供とみることができる家族向き映画だから当然と言えば当然だが、オスカー・ワイルドの童話にゲイ的要素が入り込んできたように、こうしたノン・セクシュアルな映画にクィア的要素が入ってくる。

このアニメ、お尻ネタが多い。そもそもオープニングは赤ちゃん(たぶん未来のボス・ベイビー)のお尻のアップから入る(オープニングだけならネットの動画でみることができるから確認していただきたい)。またBaby Corpのベイビー・マシン(というのかどうわからないが)で、未来のボス・ベイビーはおしゃぶりを肛門に刺されそうになる。オナラネタもあるし、圧巻は、ボス・ベイビーとティモシーがPuppy Corpに見学に行く場面。二人はアトラクション用の大きな犬の置物の肛門から出てくるし、犬に化けているボス・ベイビーは、本物の子犬に、尻のにおいを嗅がれる。犬の習性だからそうなるのだが、肛門、犬などからゲイ的な要素が浮上する。

いや、それはまたすべてクィアに還元する悪い癖というなかれ。この兄と弟、ミドル・ネームが女性である。セオドア・リンゼイ・テンプルトン(ボス・ベイビー) とティモシー・レスリー・テンプルトン(ティム)。ふたりは両性具有的、あるいかクィアである。またこの映画には女性がからんでこない。母親や赤ん坊を生むのではなく、連れてくる。

またボス・ベイビー誕生の冒頭のシークエンスをみてもいい。彼は他の赤ん坊とはどこか異なるために、家族の一員として生まれるのではなく、Baby Corpの経営担当の仕事を割り振られ、のちにエージェントとなって、ティムの家の赤ん坊となるのであって、変わり者のモンスターあるいは才人で、Baby Corporationの中にいる限り、歳をとらない。つまり外見的には赤ん坊のままで成長しない。フロイト流にいうのなら肛門期でストップしている。そして言うまでもなく、のちに批判されるフロイトの議論では、この肛門期でストップしてしまう人間(とりわけ男性)が同性愛者になるのである。

つけ加えれば、Puppy Corpが売り出す新しい子犬も、永久に歳をとらない子犬である。ここにも肛門期/子犬/停滞から、同性愛的イメージがわいてくる。また子犬をロケットで全世界にむけて拡散させるという荒唐無稽な展開も、ロケットと言うファリック・シンボル(異性愛へつながる可能性)を無効にして子犬を解放するというシークエンスを用意したからったのではないか。ロケットというファリック・シンボルは機能不全に陥るのである。

結局、兄とボス・ベイビーとの争いから協力関係へといたるプロセスもまた、兄弟愛の名の下に同性愛的要素を濃厚に漂わせるのであり、兄のティムが、弟と自分を、二人組の海賊として空想することもまた、海、海賊、海賊の同性愛ユートピアへという連想を引き寄せることになろう。女性がからんでこない、このアニメは、子供向けのノン・セックス、兄弟愛という口実、女性を介在させない無性生殖あるいは無性増殖を通して、クィア的要素を全開させる。そういう意味では面白かったし、まただからこそ、観客のなかに、無意識のうちに反発を招いたかもしれないのだが。とにかくクィア映画であることは強調しておきたい。

posted by ohashi at 08:17| 映画 | 更新情報をチェックする

2018年04月03日

『レッド・スパロー』

映画というのは、最初から見たい映画ではなかったり、当然、そうだから観る予定もない映画をみたほうがよく、そんなとき掘り出し物もあるし、自分の好みだけの選択では遭遇しない世界にも触れることができるということで、ある女性を誘って公開初日に観に行った。神奈川県のシネコンだったが、平日ということもあるにしても、あまり人がはいっていない。女性客も、いないわけではないが、ほぼほぼ男性客しかない。映画を観終わったあと、ジェニファー・ローレンスはあまり好きじゃないというその女性に、すみません、ずいぶん残酷で痛い映画につきあってもらってと、謝罪をするはめに(もっとも彼女は、面白い映画だったと言ってくれたのだが)。


たとえば『トレイン・ミッション』でも格闘シーンは痛々しいところがたくさんあるが、この『レッドスパロー』の残虐さは、ちょっと異次元である。主人公は、格闘能力にすぐれているわけではない。ハニートラップ専門なのだからアクションでみせるのではないものの、ただ拷問シーンが多い。この拷問が痛いそうにみえることハンパではない。もっとも異次元の残酷さに行きすぎて耳を疑うようなものがある。人間の皮膚をはぐ、それも出血させることなく皮を少しずつ剥ぐ器具(もともとは医療器具)での拷問は、そんなに痛いものなのか疑問である。むしろ痛くもなんともないうちに、皮膚がはがされるものではないか。


以下、ネット上にあった印象的なコメント(行替えは変更)

等身大の人間が描く迫真のドラマ (投稿日:3/31)

これはスパイ映画ではあるものの、アクション映画ではありません。それこそが、この映画の最大の魅力なのでしょう。


人を信じることができない国で、スパイになることを迫られ、強要され、その道を選ばざるを得なかった者たちが、人間としての苦悩を背負いながら追い込まれていく様子には、一種異様な胸騒ぎと感動を覚えさせられます。もちろん、人間の心理を操って自由自在に動かすためのプロセスなども豊富に実例が盛り込まれています。


人間の本質とは何か。人をうならせ、エモーションをかきたてるドラマとはどんなものか。

そういう映画を観たいと思う人にこそ、お勧めできる、凄い映画だと思います。


と同時に、こういう映画も作られるハリウッドという存在を、心底うらやましく、また恐ろしくも感じたのでした。あと、旧・共産圏をはじめとする、「言葉に担保力がない地域」へ赴任する人は、漏れなく観ておいたほうが良いかもしれない映画だとも感じました。


実は、これは『トレイン・ミッション』で引用したのと同じコメンテイター(匿名)。語り口は印象的だが中身はからっぽでしょう。


「人間の本質とは何か?」―― たとえばバレリーナが、その実力を疎まれ、事故にみせかけて傷つけられバレリーナとしての経歴をあきらめなければならなくなった。最初は不幸な事故かと思っていたら、諜報機関に勤める叔父から、実は自分のパートナーだった男性とその恋人による意図的な傷害事故だとわかった元バレリーナ(ジェニファー・ローレンス)が、自分を陥れた二人がセックスしているところに乗り込んで、松葉杖でめった叩きにする。殺すつもりで。また、その暴行を知っている叔父によって諜報組織に引き入れられる。しかもその諜報組織はハニートラップを教える組織。娼婦養成学校のようなところだった……。いや、人間の本質をつく、実に深い物語? あほらしすぎるわ。


作者が元CIA職員だというが、それは諸刃の刀のようなもので、仮に職員といっても会計係とか清掃係にいたるまでエージェントではない場合もあるのだが、エージェントだとしよう。もし元CIAエージェントならば、国際的な政治や経済や文化の、常人で知りえない裏の裏まで熟知していて、驚愕すべき国際政治のからくりなど、闇の真実を白日のもとに曝してくれるという期待もふくらむ。諜報活動の記述についても、信頼のおけるリアルな説明となっているはずで、読者は隠された真相を目の当たりにして言葉を失うということにもなりかねない。元CIAのエージェントだったら、嘘くさいスパイ・スリラーなど用廃処理にするような真実を語ってくれる、と。


しかし、この元CIA職員が、CIAの活動を批判するとか内部告発をするというのであれば話は別だが、そうでなければ、CIAのエージェントとしての心性をそのまま引き継いでいるとすれば、アメリカは聖なる国で、周囲を鬼畜のようなテロリストに狙われていて、ロシアなどはいまだに悪の帝国だと、プロパガンダではなく本気で信じているかもしれないではないか。もちろん、嘘としりつつもプロパガンダで悪の帝国を捏造することで、国際政治をコントロールするという冷めた視点をもっていることもあろう。その場合は、そうした人物から、内部告発者と同様の真実を聞けそうだが、この映画の原作者にそれは期待できないだろう。


つまり元CIAのエージェントだったら、外国人とか移民とみれば、みんなテロリストにしか見えないだろう。同盟国といっても信用できず、諸外国はテロリストの隠れ処で、アラブ諸国ときたら国民一人一人がテロリストにすぎないと、そんなことを本気で思っているだろう。とすれば、彼らの世界観ほど、あてにならないものはない。そのパラノイアによって常人の足元も及ばないほどの歪んだ世界観、はっきりいって狂人の世界観だろう。だから元CIAのエージェントが創作する小説は、虚構ではなく、彼らが抱く真実そのものなのである。その、誰もが感ずる、安っぽいスパイ・サスペンスこそ、彼らが抱く真実だとしたら、彼らの真実は嘘として用廃処理しても失うものはないだろう。


実際、元CIAエージェントが語る国際政治の舞台裏ほど、信用できないものはない。CIAの内部告発者なら真実をもらえそうだが、彼らからは常人が足元にも及ばぬ、虚構の上級者である。


たしかに、この映画の物語は、はっきりいって、それは嘘だろうとしか思えないことが多いし、諜報活動にしても、とくにリアルだとも思えない(原作ではなく映画の話だが)。リアルなのはジェニファー・ローレンスのむちむちの肉体で、彼女はこの映画ではじめて全裸を曝している。


もちろん映画としては、両陣営に対して、等距離でわたりあう主人公の目標となるのは、監視のめを潜り抜けての「敵中突破」であって、まさに映画の王道をいくプロット展開となるし、敵中突破が意外なかたち決着するのも、この映画の面白さであろう。


いっしょに見た女性は、男女のやりとりも公開されるところが『ハンガーゲーム』と同じだと言っていた。たしかに『ハンガーゲーム』の監督とジェニファー・ローレンスのコンピ復活なのだが、監視されても一般公開されていないと疑問に思ったが、ハニートラップ学校での出来事の指摘だった。


しかし私が一番感銘をうけたのは公開初日における朝日新聞夕刊の映画評である。そのごく一部を引用すると、


(映画評)「レッド・スパロー」 性被害の怒りこもる復讐劇 2018330

前略

近年、業界にはびこるセクシュアルハラスメントに耐えかねた女優たちの告発が相次ぎ、ジェシカ・チャステインは女優の同意なしにレイプシーンを撮影した監督を公然と批判するなど、演出の在り方までもが問題視された。


 そんな状況下、今作の題材は演じ手にとってはリスキーでしかないが、フランシス・ローレンス監督は主役のジェニファー・ローレンスにデリケートな場面の編集権を与えている。


 中略 映画の重点は、最初の諜報活動でレイプされたヒロインの怒りである。ある種、性犯罪を受けた女性の復讐劇となっているのは、実力・人気共にナンバー1のジェニファーの力だ。(金原由佳・映画ジャーナリスト)


なるほど、もしこの視点が有効なら、この映画は、ロシアの話のとなっているが、実は、それはアメリカの話の偽装である。ハニートラップを教える学校は、女性に枕営業をさせるハリウッドの映画体制そのものへの批判的視点の具現化だろう。映画のなかでロシアで起こっていることは、アメリカで起こっていることである。さらには政権の中枢に隠れる二重スパイの話は、そもそも大統領自身が、ロシアの諜報機関に弱みを握られて操られているかもしれないというアメリカのトランプ政権の寓意あるいは戯画化であろう。


そして女性を性的対象としてみる差別的世界観は、アメリカであろうがロシアであろうが同じという点でも、女性はそれに憤っているし、男性はいつ女性に復讐されてもおかしくないという点でも、現代の寓話になりえている。


なおちなみにこれは叔父が姪に復讐される話である。このブログに姪を登場させて、からかっていると、やがて姪に復讐されるかもしれないという点では、私的には教訓的な映画でもあった(いっしょに行った相手は、姪ではないが)
posted by ohashi at 11:07| 映画 | 更新情報をチェックする

2018年04月02日

『トレイン・ミッション』

ネットにあった意見。ここまで書かれると、見に行かざるをえない(行替えを変更)。




これは、パニック映画の最高傑作。金字塔だ! (投稿日:3/31)




「トレイン・ミッション」という邦題を見た瞬間、だいたいの筋が想像できるでしょ。


……実はまったく違うのですが。見た瞬間、「暇人以外は観る必要がない三流の模倣作だ」と感じるはずです。……その予想を、良い意味で見事に裏切る作品なのですが。




邦題が凡庸なら、あらすじも投げやりに書き飛ばされているこの作品。しかし、いやいやいや。ほんとうに驚嘆しました。




突然失業した初老の主人公が家路に向かう寂しさ辛さ。この抑えられた名演技から映画が始まり、一瞬の隙もなく、観客はグイグイとストーリーに引き込まれます。列車の中で巻き起こる、ジワジワと異常さが鮮明になりゆくサスペンスの恐怖は、ヒッチコックも軽く凌駕する怖さです。そしてついに事件はパニックへ。これも往年のパニック映画「カサンドラクロス」を軽々と超えるレベルです。




だれか一人が死なねばならない時に人々が見せた、人間としての誇りと勇気と尊厳も。最後まで予想もつかない見事なミステリー作品としての驚きも。そしてエンドロールのオシャレなところまで。手抜きひとつ、ありません。




もしも映画の評価点として★6個を選択できたなら、6個でも7個でも付けたいほどの作品でしたが、この凄さを、凡庸な邦題はまったく伝えられていません。日本の映画宣伝屋の仕事がいかに手抜きで愚劣かを証明するひとつの例だと思います。この凄い作品に対して、いったい誰がこんな馬鹿げた邦題を付けたのか。もしも良い案を思いつかなかったのなら、原題をそのまま使うべきなのです。なぜなら映画の制作者たちが、日本の宣伝屋の何十倍もの時間と愛情とを込めて考え抜いたタイトルなのですから。宣伝屋は、この映画の原題を見た瞬間、だっせー、と思ったのでしょう。しかし、その、一見、平凡すぎるタイトルをひねり出すまでに、どれだけ頭を絞ったか。そして実際に原題がどれほど優れているか。


わかんないのかねぇ。ほんと情けないです。




原題はThe Commuterで、トレイン・ミッションというのは英語としてどうなのかと思うのだが、ただ原題が地味すぎるので、日本で内容に即したもの考えたのだろう。英語表現として正しいかどうか問わないのだが。韓国映画の『新感染』という例もある(原題は地味だったと思う)。だから頭をひねったうえのタイトルだっと思うし、なにも、そこまでぼろくそにいわなくてもと思う。地味な原題だが、見てみると派手な内容でギャップで驚かせるということかもしれない(『新感染』の原題がそうだった)。「宣伝屋」と馬鹿にしているのだが、上記のコメントそのものは、ここまで書かれると、映画館に足を運ばずにはいられなくなる、優れた宣伝だと思う。文章も上手いし、迫力もある。




見てみたら、じゅうぶん面白い映画だったが、ここまで面白いかどうかは疑問。とはいえ予想外に面白かったのは確かで、観客はあまりいなかったがお薦めの映画ではある。




65歳のリーアム・ニーソンは、ずいぶんふけた感じで、メイクなのかよくわからないが、65歳で、犯罪者を制圧するのだから、力負け体力負けすることも多く、格闘シーンではつねにぎりぎりの勝利となるところが面白い。元警官、保険会社を解雇されたばかりの職員が通勤電車のなかえひとりで陰謀に立ち向かうという緊迫感は、無敵のマッチョなスーパーヒーローでは出せないことかもしれないので、この設定、この格闘シーンは成功しているのだろう。『フライトゲーム』(Non-stop)の列車版である。乗客を人質にとるテロリストと間違われるのも同じだ。




これ以上、書くとネタバレになるので、やめるが、私が一番驚き、またパニックになったのはオープニング・シーン。え、このシーンはなんだと驚き。よくわからないので、ほんとうにどうしたらいいのかパニックになった。




主人公が目覚めて職場まで行くというシーンなのだが、たとえば目覚めの瞬間が何度も繰り返される。そのつど、周囲から主人公の外見まで、変わっている。主人公は歳をとったり、若返ったり、時系列がばらばらになって提示される。年齢、環境、人間関係なども、目まぐるしく変化する。いったいこのシーンはなんだと、どう考えたらいいのかと驚いた。




なお映画のなかでは、サム・ニールが最初、誰だが全然わからなかった。エンドクレジットではじめてわかった。ジョン・バンクス(『ブレイキング・バッド』の)も既視感はあったら誰かはっきりわからなかった。パトリック・ウィルソンは、私としては久しぶりだったが、よい味を出してた。目撃者プリンというのな、まさか、あのプリンだったとは。




で、オープニングのシークエンスを振り返ると、時系列の解体によって、主人公のこれまでの人生、若い頃からうらぶれた中高年にいたるまでの変化や変遷を簡潔にわからせるというふうに思っていたのは、まちがいではないとしても、それだけではないことがわかった。つまり……(ネタバレになるので、やめるが、オープニングに全体の秘密が隠されていたともいえる)。



続きを読む
posted by ohashi at 15:50| 映画 | 更新情報をチェックする