2018年03月31日

倒叙ミステリー

昨今の森友学園問題(加計学園問題も同じだが)の関連ニュースあるいは証人喚問をみていると、終わらない倒叙ミステリーを連想してしまう。


倒叙ミステリーというのは、最初から犯人がわかっているもの。テレビドラマでは刑事コロンボ、あるいは古畑任三郎といえばわかるだろうか。どちらもよく再放送されるので、わかるとは思うのだが、これでもわからないかもしれないとしたら、もうたとえる探偵がいない。


大倉崇裕の福屋警部補シリーズといったら、もっとわからないか。まあ熱心なミステリーファンでもない私が、たまたま知っているシリーズに言及することは、批判されることはあっても、決して褒められたものではないだろうが。


あ、ちなみに福屋警部補は、先に登場した私の姪に似ている。テレビドラマの壇れいとは全然ちがって、原作のほうの福屋警部補。ただし姪のほうは、福屋警部補と外見が似ているだけで、警部補に比べると頭が悪すぎる(こんなことを書いていると、最後に罠にはめられ、処刑されるぞい)。


つまり最初から犯人がわかっていて、後は、その犯人をどう追い詰め、自白させるか、逮捕までもっていくか、そこが面白さの肝となる。ただ、その設定で推理小説が書けるということは、犯人が抵抗したり、絶対に自白しないとき、どう追い詰めるか、どうゆるがぬ証拠をつきつけるか、追及する側が苦慮し、どのような工夫をするか、奥の手を出すか、どんでん返しをするか、そこが読者の関心の中心となる。


現実の倒叙物(つまり現在の森友問題)では、犯人が誰かはわかっている。問題は、どうやって逮捕し起訴にもちこむか。あるいはどうやって政権を交替させるかについて、まったく先がみえないことだ。犯人が誰かはわからないのではない。犯人は、誰かわかっている。犯人がつかまるめどだたないのであって、これが倒叙物なら、最初はわくわくしても、だんだんいらいらがつのってくる。


フィクションなら、最後のどんでん返しですっきりとするのだが、現実の倒叙物(まあ茶番といってもいいが)では、犯人が、どうどうと、何食わぬ顔をして、仕事を続けている、。ドラマだったら最高度の悪人であって、いずれ裁きが下り、すっきりいすることがわかる。フィクションなら。


現実ならどうか。結局、これまでだったら、政治家は、ゆるがぬ証拠がなくても、ばれたら辞任していた。政権交代に発展しかねないため、辞めるから許せということかもしれないし、悪いことはするが、ばれたら、いさぎよく辞めるというのが政治家の美学でもあったと思う。切腹は敗北ではなく、武士道における最高の勝利である。不正がばれて辞任することもまた政治家としての輝かしい業績だったはずだ。


ところが現在の政権は腐敗しきっているし、独裁的で、しかも低能であって、美学もくそもない(唯一あるダンディズムはギャングのボスの格好をする国際的にも馬鹿にされているダンディズムでしかない)。この倒叙物には終わりがみえない。終われない倒叙物ほど悲惨なものはない。


まあ、現段階では、追及の奥の手があって、どんでん返しが起こるなんてことは、まずありえない。どんでん返しを期待させても、どんでん返しは起こらない。相手が非を認めて辞めることを待つしかないが、現政権は腐りきっていて、罪の意識も良心のひとかけらもないし、官僚は自殺して自分たちを守るのが当然だと考えているために、解決はないだろう。


問題なのは、こんな腐敗しきった政権に、憲法を変えてほしくないことだ。私は改憲には反対のほうだが、よりにもよって、こんな腐りきった政権が憲法を変えたら、10億年禍根が残るぞ。


posted by ohashi at 17:49| コメント | 更新情報をチェックする

Family Secret

ディズニー/ピクサー・アニメ『リメンバー・ミー』(原題Coco2017)を姪その他と見に行った。姪を馬鹿にしていると、ひどい目にあうという別の映画もみてきたばかりだが、べつにとくに馬鹿にするつもりもないのだが……。ミュージカルだから吹き替えよりも字幕版だというので、つきあったが、なるほど評判の映画だということもわかったし、なにより私の姪が上級者だということもわかった。


字幕版を選んだから上級者ということではなく、号泣の上級者じゃい。姪によれば、自分の母親からは、そうやって泣かれると周りの人間が引いてしまうと感じの悪いことを言われるというので、あんたの母親のいうとおりで、勝手に大泣きする人間がいると、周りの人間はしらける。これは一般論だというと、不服ながら納得したようす。


まあ、でも、先に泣いた方が勝ちで、そうすれば周りはしらけるだろうが、本人は泣いてすっきりするだろう。とにかく先に泣くこと。もう嗚咽するくらい泣くこと。姪は、そういう意味で泣きの上級者だ。とはいえ、こういう上級者とは、映画には、二度といっしょに行かないと、心の中で誓った。たぶん彼女の友だちもわかっていて、いっしょに映画に行ってくれる者はいないのだろう。私が狙われたのだ。


それはともかく、この『リメンバー・ミー』という映画、他人事じゃないよと、姪に説明。なぜなら、あなたのひいおじいちゃん(私の祖父だが)の写真は1枚も残っていないのだから。写真も残っていないので、私自身、父方の祖父の顔を知らない(母方の祖父、安政元か万延元年に生まれた祖父の写真は残っている(昭和10年くらいまで生きた)、したがってよく知っているし、母親も村の村長までした父親の思い出をよく私に語ってくれた)。


父方の祖父については、存在しないも同じで、どうしてかというと、映画と同じ。家族を捨てて出て行ったから、本人が写っている写真は捨てられた。そういう意味で、この祖父は、誰も覚えていないというか、写真もないので、メキシコでは供養してもらえないし、死者の日の祭りに、生者の世界を訪れることもできない。この映画の****と同じだよというと、姪は唖然。ここで泣かんのかい――別に泣く理由もないが。


私の父方の、この祖父は、東大(いまの工学部)を卒業しているのだけれど、事業に失敗して会社が倒産、借金取りから逃げまわる生活をすることになり、しかも家族のもとを去ったというか、家族を見捨てて、愛人のところを転々とし(破産したのに複数の愛人がいたとはうらやましいが)、最後には先妻の子供のところで死んだ(感じ悪い死に方じゃ)。私の祖母は、この祖父からの援助を一切受けず、自分の親戚などの援助によって、かろうじて私の父親を育てたが、子供を大学に行かせることまでは経済的にできなかった。私の父にしてみれば、父親は東大を卒業しているので、たとえ東大でなくても、とにかく大学まで行きたかったようだが、それもかなわず。ということで、写真は、最初からなかったかもしれないものの、もしあったなら、破棄されていた。


いや、映画の話をするつもり、なんでこんなFamily Secretを話すさなければいけないのか。とりあえず、ここでやめる。

posted by ohashi at 17:44| コメント | 更新情報をチェックする

2018年03月08日

『ドレッサー』観てきました

見事な舞台で、客席も満席で、夜の回だったが、中高年の年よりが目立つものの、若い人も多くて、これだけ面白い芝居なので、口コミでも観客の数が増えたつづけたのは推測できる。

私が初めて『ドレッサー』をみたのはサンシャイン劇場での上演で加藤健一はそのとき付き人のノーマン役で、座長が三國連太郎で、演出がロナルド・エアーで、この時の印象が強烈で、『ドレッサー』といえば加藤健一としか思えなかったのだが、実際には初演は1981年で三津田健/平幹二郎のペア、1988年が三國/加藤のペア、さらに2013年にも橋爪功と大泉洋、演出三谷幸喜で上演されている。したがった私がみた加藤健一のノーマンは本来ならその他大勢のノーマンの一人にすぎなかったはずだが、私の中でだけでなく、多くの人にとっても、ノーマンは加藤健一だったし、他の俳優たちのノーマンは、加藤=ノーマンのカヴァーのようにみえるから不思議だ。また加藤健一だからこそ、今回のように座長を演ずることが、なにか当然のことのように思えてくる。またこれも私だけではないかのだが、加藤健一によるふたつの『ドレッサー』を見ることができて長生きしてよかったということになるのかもしれない。


ただ、長生きしてもよくないこともあって、今回観た『ドレッサー』は私の記憶の中にある『ドレッサー』と違うのは、私が耄碌したせいなのか。役者というものは他人の記憶のなかにでしか生きられないというのは、この作品のなかにある有名な台詞のひとつだが、私の記憶のなかで、『ドレッサー』という作品は、新鮮なまま生きていたと思っていたのだが、私の記憶の中で実は腐っていたのではないかと、やや残念。


加藤健一のノーマンは、ほんとうに圧倒的な迫力でせまってきて、強烈な印象を残したために、加納幸和のノーマンは、やや損をしていて、加藤=ノーマンに比べてやや線が細いと思わざるをえなかった。しかし、それは二つの『ドレッサー』を知っている私だけの感想で、冷静になってみると加納=ノーマンも、実にいい味を出していて、今回の上演を成功に導いた立役者であることはまちがいない。だから変に比較などしないほうがいいのだが、ただ、比較すると、どうしもて気づくことがある。


前回の記事でも書いたが、ノーマンの口癖のひとつに「死んだ父親の遺言で……」とか「死んだ父親がよく言っていたことには……」というのがあるのだが、そして確かに加藤=ノーマンのときには、そうだったと確信しているのだが、今回は、死んだ父親に関する台詞も一度くらいあったように思うが、たいてい「私の友だちによれば……」が口癖になっている。実際、最後のほうでに「私の友だちよれて……」とノーマンが口を開くと、座長が、そんな話は聞きたくもない、どうせお前には、ろくな友だちしかいないんだからと遮るところがあって、そこは笑いどころなのだが、私がはじめて観た時は、おまえのろくでもない父親の言ったことなど聞きたくないと座長が話してた。


だから書き換えたのだろうか。おそらく今回のほうがオリジナルに近いのではないだろうか。もちろん、今述べたことは端的にいって私の記憶ちがいなのかもしれないが、それにしても、加藤健一がノーマンだった『ドレッサー』と加藤健一が座長を演ずる今回の『ドレッサー』とのあいだには、記憶違いでは説明できない違いしというものはあった。


これは私の解釈力がすこしは強化されたためか、演出力のせいかもしれないのだが、強いていうと30年前の加藤=ノーマンの『ドレッサー』は、シェイクスピアの『リア王』を上演するときの楽屋裏の芝居だったのだが、30年後の鵜山仁演出、座長=加藤の舞台は、シェイクスピアの『リア王』と一体化していた。所有having関係と同一化being関係との違いでもある。30年前の『ドレッサー』は、『リア王』を所有していた(上演していた)。30年後の『ドレッサ-』は『リア王』と一体化していた。例えば老座長はリア王をほうふつとさせる。また付き人のノーマンは、厳しいことも言うが、ご機嫌取りの付き人なのだが、老いた座長によりそうその姿がリア王に寄り添う道化にみえてくる。劇の最後は、取り残された道化の悲哀が漂うのである。


このことは演出が違うからなのか、私の解釈力が違って見せるのかわからないものの、30年前の『ドレッサー』は、座長と付き人とのやりとりが、笑わせつつも緊張感をはらんだ、濃厚な演劇空間を醸成する二人芝居という印象があったのだが、今回は、『リア王』の開場前から閉幕後に至る時間と同時進行する作品となっていて、楽屋裏でも人間模様と、『リア王』における人間模様とがシンクロする、メタドラマ性が際立った演劇となっていた(ちなみに30年前に私が感銘をうけたのは第二次世界大戦下、ドイツ軍の空襲のもとでシェイクスピア演劇を上演する行為そのものが、衰退し窮地に立っている(座長もそうだが)文化そのもののからの抵抗と存続の意志という文化的・政治的次元であった。もちろん、今回の作品にもそれがある。作者がユダヤ人であることもあって、この作品は、いまではナチスとネオナチに抵抗する作品ともなった)。


とはいえ30年前もそうだったのかどうか、わからないのだが、すでに『メタシアター』という本を翻訳(共訳)していた私が、メタドラマ性に気づかないことはなかったはずだが、『リア王』は、すでにhavingbeingの関係で語ったことを、換喩と隠喩の関係でいえば、30年前は『リア王』は換喩的な存在で、作品の一部であったのだ、今回の『リア王』は隠喩的な存在で、作品の分身、あるいは作品の等価物であったということだろう。


もうひとつの特徴は、30年前も松岡和子氏の翻訳だったのかどうか記憶にないのだが、今回のシェイクスピア作品からの引用は当然、松岡氏の訳文である。もし30年前の『ドレッサー』も松岡訳であったとしても、シェイクスピアからの引用は、また訳出されていなかった作品も多かったはずで、同じ松岡氏の訳でも、たたずまいがちがったはずである。


どういうことかというと、今回、松岡氏は、ご自身のシェイクスピアの翻訳を使われているのだが(当然のこととして)、しかし、その翻訳は、すでに公刊されていて、完成されたシェイクスピア作品の翻訳としての強度のようなものを保っているはずである。そのため同じご自身の訳でも、別個に独立して存在している作品(翻訳)を取り入れることになって、そこにシェイクスピア作品の古典性あるいは他者性のようなのものが見事に再現されることになった。座長が、語り掛けている誰のことかわからない他者にはシェイクスピアも含まれているようだが、そうした他者性は、すでに厳然と高い評価とともに存在しているシェイクスピア作品からの引用でないと出てこない。これはたとえばもし私が、この作品を訳すとしても、シェイクスピアからの引用は、自分でその場で訳すのではなく、既訳(たとえば松岡訳)を使うのと同じことである。


またすでに述べたがメタドラマとしての『ドレッサー』は、劇場で『リア王』を上演する者が足りであって、最終的に『リア王』もいっしょに観たという感じがする。楽屋では、愚痴をこぼし、自信を喪失しながらも、役に立ちそうもないプライドだけは堅持している老俳優が、名句をし、衣装を着て、鬘をつけると、そこにまぎれもない、威厳のあるリア王が存在するという、ドラマあるいはメタドラマの空恐ろしい醍醐味を味わうことになる。ここに加藤健一という稀代の俳優の演技がともなうのだから、加藤健一→座長→リア王という三段階の変化を目の当たりする私たちは、この幸福を絶対に他に伝えなければならないと思う。


なお加納幸和のノーマンについても、 30年前の加藤健一のノーマンとは異なるのだが、軽さと深みとが混在する独特の演技で、リアに従う道化的なノーマンを見事に演じていた。花組芝居の公演からは遠ざかっていたのだが(べつに嫌いになったということはない)、今度見てみたいという気持ちになった。『女系図』も今度下北沢で上演することになったので。


最後に解釈の問題として座長の最後の遺言めいた感謝の言葉のなかに、妻から劇場関係者、観客、果てはシェイクスピアに対してまで、感謝の言葉が書き連ねてあるのに、どうして付き人のノーマンの名前がないのかという問題である。ノーマンはそれにショックを受ける。劇場監督の女性の名前もなかったのだが、彼女に対しては由緒ある指輪を与えようとしたし、実際、一度は断った指輪を彼女は最終的に自分のものにするのだから報いはあったのだが、ノーマンにはそれもない。


これはノーマンの愛と奉仕が無償のものであったことの、痛ましいが、また感動的な開示なのかもしれない。また母親的なノーマンに対して、あるいは召使的なノーマンに対して、芸術家気取りの座長は、最終的にうっとうしく思っていた、自己の演劇芸術的側面とは関係がないと思っていたのかもしれない。シャドウワーカーとしての母親とか下請けとか召使に対して感謝する者はいない。


(もうひとつ不吉な可能性として、今回、加納幸和のノーマンは、ゲイ的な存在であることを自然ににおわせていた。理容師とかメイクとか呼ばれる人たちは、そのすべてではないとしてもオネエ系の人たちは多い。その意味でオネエ系キャラのノーマンが座長に対して抱く思いはゲイ的要素があるのかもしれない。座長は妻(事実婚)がいると同時に、座員のなかにいるゲイの人物と親密な関係にあったと伝えられる。バイセクシュアルの座長にとって、ゲイの部分は隠すか抑圧しておくべきであった。したがってノーマンへの思い尾も影の部分に追いやられ、ノーマンの存在自体、言及されることはなかったともいえる。)


あるいは主人と召使との関係は、最終的にどちら支配者か被支配者かわからなくなるところがある。ピンターが脚本を書いたロビン・モーム原作の映画『召使』がその典型である。ヘーゲルのいう奴隷と主人の弁証法だが、この弁証法のなかで、最終的に主人めいた召使は、主人から嫌われることになる。ノーマンは結局、下にみられていたか、憎まれていたのだ。


だが、他にも解釈できる。座長とノーマンとは一心同体化していたので、感謝する必要もなかったということかもしれない。座長が感謝しているのは、他者に対してである。自分に対して感謝するのは(日本では一時「自分をほめてあげたい」というような表現が流行ったが)、基本的に傲慢な身振りであって嫌われるか、してはならない、いや、する必要のない身振りである。座長とノーマンは一体化していたのであるがゆえに、ノーマンに感謝の言葉はなかったともいえる。ノーマンにとって、それは残念なことであるかもしれないが、そこまで信頼されいたことの勲章のようなものかもしれない。感謝されなかったことが、最大の感謝あるいは誇りなのである。


と同時に、ここからさらにノーマンは、ほんとうは存在していないのではないか。あれは座長がつくりあげた幻のオルターエゴではなかったか。だから座長にしか見えない、座長の自我が存続のために創り上げた、スーパーエゴ的なオルターエゴではなかったのか。ただ、ノーマン自身はそれに気づいていない。自分が現実には存在していない妄想の存在でしかないことに、ノーマンは最後に気づくのではないか――最後まで気づかないといもいえるのだが。『リア王』のなかの有名な台詞を使えば、ノーマンはまさに「リアの影」であったのだ。


posted by ohashi at 20:05| 演劇 | 更新情報をチェックする