まだ見ていない芝居について
本日から下北沢の本多劇場で上演される『ドレッサー』は、初演が、いまから30年前の1988年のサンシャイン劇場とのこと。この初演を私も30年前に観た。また人気の作品なので、それ以後も何度も再演されていたように思うし、そのうち1回は劇場で、またテレビ中継でも観た記憶がある。
シェイクスピアの『リア王』を上演する老俳優とその付き人との楽屋でのやりとりがメインの芝居で、その漫才のような駆け引きが面白いのと、シェイクスピア劇の舞台裏での話でもあって、そのあたりもメタドラマ的に興味のつきないものだった。
私がよくいう、「*******大学の関係者には絶対協力するなとは、死んだ父親の遺言です」というのは、この芝居の台詞から(なお、そういう遺言を私の父親は残していないが、内容のほうは父親の口癖であったことは確か)。また『リア王』上演中に、老俳優は楽屋で仮眠するのだが、シェイクスピアの悲劇では、主人公が途中でいなくなる(ロミオは追放処分になり、ハムレットもイングランドに追放など)が、これは悲劇の主役はたいへんなので、最後のクライマックスの場面を前にして休ませるための処理であり、たとえば『ドレッサー』という芝居では、リア王役の俳優は、嵐の場面のあと、楽屋で仮眠するというような話を、授業でいつも話している。
そういう意味では、私の人生のなかでも、かなり印象的な作品であったことは事実であり、それが30年後に再演されるというのは、感慨あらたなものがある。
ただ加藤健一の「付き人」役には、問題もあった。『ドレッサー』は映画にもなったのだが、その映画をみて、はっと思ったのだが、「付き人」役の男性は、映画ではオネエ系の男性なのである。付き人=ドレッサーが、そういう人であることは、よくあることで違和感がないのだが、ただ舞台版のほうは、オネエ系のキャラではなかった。またそのことは加藤健一氏自身が、述べていることで、つまり日本での上演の場合には、オネエ系キャラであることを消した、と。
べつにホモフォビアとして非難するつもりはない。加藤健一演ずる付き人役は、舞台に活気をもたらし、劇的緊張をたかめ、舞台を全部もっていくほどの魅力的な人物であった。加藤演出は、成功していたし、誰もが満足いや感銘を受ける優れた劇場体験を実現していた。その後、再演されたのも当然である。さらにいえば、この芝居は、第二次大戦下の『リア王』上演という設定であり、上演中に、空襲があり、ドイツ軍が爆弾を投下してくるのである。その危険な状態で、上演し続けるという点で、凄絶な芝居でもあって、そこに戦争と平和、文化とその危機など、社会問題への広がりも感じられた。それもまた演出の力であった。
だからオネエ系キャラを封印したことに批判はないが、同時に、原作や映画版にあるようなオネエ系キャラの付き人は観てみたいという気持がなかったかというと、そんなことはない。今回は、加藤健一は、付き人役ではなく、老シェイクスピア俳優を演ずることになった。となると、私たちを魅了した加藤健一の付き人は観られなくなるのだが、今回、付き人役は花組芝居の加納幸和だという。ならばこれは、オネエ系キャラにするのだろうか。何も情報は持っていないのだが、そうだとすれば、違った演出の(そして原作の設定に従った)舞台になるのかもしれない。期待が高まる。いずれ観てきたら報告したい。
付記:ちなみに花組芝居の舞台は、このところ、ご無沙汰しているのだが、昔は、よく見ていた。いまでも平凡社の編集者のひとりからは、ひどすぎるエピソードとして非難されているのだが、ジェイムソンの『政治的無意識』だったか、その翻訳の校正を、こちらの作業が遅れたので、社屋の会議室で行っていた。その時、私は、夜になるので、今日はそろそろ帰らせてくれと頼んだ。理由は? 東京パナソニック・グローブ座(ジャニーズ事務所が使う前のグローブ座)で芝居の公演があるから。編集者からは、憤怒の怒号を浴びせかけられそうになったが、許してくれた。その時の演劇作品が、花組芝居の作品(シェイクスピア劇)だった。