2018年02月23日

『ドレッサー』

まだ見ていない芝居について


本日から下北沢の本多劇場で上演される『ドレッサー』は、初演が、いまから30年前の1988年のサンシャイン劇場とのこと。この初演を私も30年前に観た。また人気の作品なので、それ以後も何度も再演されていたように思うし、そのうち1回は劇場で、またテレビ中継でも観た記憶がある。


シェイクスピアの『リア王』を上演する老俳優とその付き人との楽屋でのやりとりがメインの芝居で、その漫才のような駆け引きが面白いのと、シェイクスピア劇の舞台裏での話でもあって、そのあたりもメタドラマ的に興味のつきないものだった。


私がよくいう、「*******大学の関係者には絶対協力するなとは、死んだ父親の遺言です」というのは、この芝居の台詞から(なお、そういう遺言を私の父親は残していないが、内容のほうは父親の口癖であったことは確か)。また『リア王』上演中に、老俳優は楽屋で仮眠するのだが、シェイクスピアの悲劇では、主人公が途中でいなくなる(ロミオは追放処分になり、ハムレットもイングランドに追放など)が、これは悲劇の主役はたいへんなので、最後のクライマックスの場面を前にして休ませるための処理であり、たとえば『ドレッサー』という芝居では、リア王役の俳優は、嵐の場面のあと、楽屋で仮眠するというような話を、授業でいつも話している。


そういう意味では、私の人生のなかでも、かなり印象的な作品であったことは事実であり、それが30年後に再演されるというのは、感慨あらたなものがある。


ただ加藤健一の「付き人」役には、問題もあった。『ドレッサー』は映画にもなったのだが、その映画をみて、はっと思ったのだが、「付き人」役の男性は、映画ではオネエ系の男性なのである。付き人=ドレッサーが、そういう人であることは、よくあることで違和感がないのだが、ただ舞台版のほうは、オネエ系のキャラではなかった。またそのことは加藤健一氏自身が、述べていることで、つまり日本での上演の場合には、オネエ系キャラであることを消した、と。


べつにホモフォビアとして非難するつもりはない。加藤健一演ずる付き人役は、舞台に活気をもたらし、劇的緊張をたかめ、舞台を全部もっていくほどの魅力的な人物であった。加藤演出は、成功していたし、誰もが満足いや感銘を受ける優れた劇場体験を実現していた。その後、再演されたのも当然である。さらにいえば、この芝居は、第二次大戦下の『リア王』上演という設定であり、上演中に、空襲があり、ドイツ軍が爆弾を投下してくるのである。その危険な状態で、上演し続けるという点で、凄絶な芝居でもあって、そこに戦争と平和、文化とその危機など、社会問題への広がりも感じられた。それもまた演出の力であった。


だからオネエ系キャラを封印したことに批判はないが、同時に、原作や映画版にあるようなオネエ系キャラの付き人は観てみたいという気持がなかったかというと、そんなことはない。今回は、加藤健一は、付き人役ではなく、老シェイクスピア俳優を演ずることになった。となると、私たちを魅了した加藤健一の付き人は観られなくなるのだが、今回、付き人役は花組芝居の加納幸和だという。ならばこれは、オネエ系キャラにするのだろうか。何も情報は持っていないのだが、そうだとすれば、違った演出の(そして原作の設定に従った)舞台になるのかもしれない。期待が高まる。いずれ観てきたら報告したい。



付記:ちなみに花組芝居の舞台は、このところ、ご無沙汰しているのだが、昔は、よく見ていた。いまでも平凡社の編集者のひとりからは、ひどすぎるエピソードとして非難されているのだが、ジェイムソンの『政治的無意識』だったか、その翻訳の校正を、こちらの作業が遅れたので、社屋の会議室で行っていた。その時、私は、夜になるので、今日はそろそろ帰らせてくれと頼んだ。理由は? 東京パナソニック・グローブ座(ジャニーズ事務所が使う前のグローブ座)で芝居の公演があるから。編集者からは、憤怒の怒号を浴びせかけられそうになったが、許してくれた。その時の演劇作品が、花組芝居の作品(シェイクスピア劇)だった。


posted by ohashi at 13:10| 演劇 | 更新情報をチェックする

2018年02月18日

年度末会

217日には恒例の大学院年度末会。私は大学院主任ではないので、一次会で、開会のあいさつとか乾杯とか閉会の辞といったものは(べつに堅苦しいスピーチではないが)、関係なかったのだが、幹事には、二次会の挨拶(二次会だとは当日知ったのだが)を頼まれていた。べつに堅苦しいスピーチをすることはない、カジュアルな場ではあるが。


ただ当日は体調の関係もあって二次会には欠席した(お金は払ったが)。まあ昨年、一昨年と、救急車で病院に運ばれている私としては、酒の飲みすぎで倒れて迷惑をかけるのは、お家芸となっているので、今年は、それを絶対に避けるために用心して二次会は欠席とすることにした。


で幹事には申し訳ないのだが、スピーチができなくなった。ただ、こんなスピーチは考えていた。欠席したお詫びに、ここに披露する。


A案


えーこの場所(あるいは一次会の場所)は、以前にも使わせてもらったところでもあり、そんなに難しいところにある場所ではないのですが、初めてだと変に遠回りしたり、道に迷ったりしてたどり着くのに困難を覚えた人もいたかもしれません。記憶ではX先生が道に迷って、なかなか来なかったことは鮮明に覚えています。

 とはいえ以前というのはずいぶん前のことで、先生方は別にして、以前、この場所(あの場所)で年度末会をしたことを覚えている人はいますか。もしいたら、その人は古い人です。いつまで大学院にいるのだ。そろそろもうとっとと「卒業」してもいいのでは。実際、先生方のなかにも、この場所(あの場所)での年度末会は初めての先生もいるのですから。もしまだこの場所(あの場所)を記憶している人がいたら、もう去り時ですよね。

 この会には、就職が決まって大学院を去る人、あるいは修士課程から博士課程に進学する人、あるいは現状維持の人と、いろいろな人がいるわけですが、あらたな一歩を踏み出す人にとって、この日は旅立ちの日です。ただ、まだ来年度も学内に残る人たちも、進学したり新学年を迎えるかたちで残っている人も、そして前にこの場所(あの場所)で年度末会をして、ずるずるとこの日まで居残っている人たちもまた、この日を「旅立ち」の日として受けとめて、新たな気持ちで、新年度を迎えるようにしてもらうといいのではと思います。

それでは新たな旅立ちの日のために、乾杯をしたいと思います。/新たな旅立ちの日として閉会したいと思います。


B案


ここに出席された院生のみなさんに、偉そうにアドヴァイスするつもりはないのですが、ひとつだけ言えば、全員の先生あるいは関係のない先生までに伝えることはないのですが、指導教員だけには、こまめに報告を欠かさないようにしたほうがいいということです。


最近も、ある先生(別の研究室の先生ですが)から、今回Yさんが、国際学会での研究発表に応募してきたのですが、なかなか優秀な方のようですねと言われ、ええ、Yさんはとても優秀で、私からも自信をもって、Yさんのことは推薦しますよと答えたところ、推薦されるには及びません、Yさんは応募されてすでに審査にパスしていますからと、言われ、その瞬間に私はYを破門しましたね。

学会発表に応募したことなどいちいち報告する必要はないのですが、審査をパスして発表が決まったら、プライヴァシーに関係することではなく、学術活動のことなので伝えてほしかった。実際、現在にいたるまでYさんからは学会発表のことは聞いていません。

またとくに問題なのは、そうした情報が、たとえばどこどこに就職が決まったとか、結婚するとか、離婚したとか、引っ越したということを、本人ではなく、第三者から先に聞かされたり伝えられたりすることです(ちなみにYさんは結婚も離婚も引っ越しもしていません)。

これが一番腹が立つ。絶対に破門です。――いや、たまたま報告が遅れることもあるから、そんなに腹を立てるのは大人げないと言われそうですが、そうした場合、実際に、第三者から情報を伝えられ、そのあと本人から報告があったというケースは、ほとんどありません。そもそも伝える気がないのです。


ただ誤解のないようにいえば私はYさんに本当に腹を立てているわけではありません。たぶん私を指導教員と思っていないのでしょうし、また報告がなければ、こちらから世話をしたり面倒をみたりする必要もないわけで、たぶんYさんは、私から面倒を見られるのを嫌なんだろうと思います(逆にいえば報告などすれば迷惑をかけると思っているのかもしれません)。実は、私もYさんと同じような性格なので、むしろ共感すらしていることは、どうでもいいことかもしれませんが、ここに断っておきます。


ただ、どうでもよくないのは、とくに縁を断とうと思っていない指導教員に対しては、プラヴィートなことは別としても、仕事や研究のことについては連絡を密にとったほうがいいでしょうし、あなたが報告するよりも先に、第三者から報告を受けると、私のように激怒して破門するような先生もいるかもしれません、いえ、私は寛容な人間ですが、私のように寛容な先生ばかりではないので、とにかく第三者による報告よりも遅れることだけは避けたほうがいいかもしれません。

また逆に縁を切ろうと思ったら、第三者から報告させることです。また私に対しては、なにも報告してもらわないほうが、気が楽で、世話とか面倒をみるということがなくのびのびできるので、私に対して、どうかなにも報告しないでください。実際のところ、私もあと一年で辞めることになるので。


ということで変な挨拶ですみません。でも、いまの話は憶えておいたほうがいいですよ。


C案


去年ではないので、一昨年か、それ以前だと思うのですが、東京の、ある私立大学大学の大学院に講演会を頼まれ、その後、その大学の大学院の年末忘年会に招待され、先生方だけでなく院生たちとも話をする機会があったのですが、その時、東京でのいろいろな研究会で、イギリス人の先生方と交流する機会があるという話になり、その時、ローレンス・ウィリアムズ先生は、頭もよくて、また人柄もよく、すばらしい方だというほめ言葉を聞きました。

実際、ウィリアムズ先生は、素晴らしい先生なので、私もまったく同感だと話し、そこからウィリアムズ先生のような先生がいる東大英文科はほんとうにうらやましいということにもなり、私はウィリアムズ先生がどんなによい先生かを力説しました。

ただ、そのときZ先生のことも話題になり、Z先生もとてもよいイギリス人だ研究者としても人間としても素晴らしいということをその場で院生が話してくれたので、私は、思わず、そんなにいいZ先生は、いったいどこの大学の先生ですかと、本気で聞いてしまいました。

すると、その院生たちは怪訝な顔をして東大ですがと答えるので、私も、つぎに、では東大のどこの学部ですかと、ほんとうに聞いてしまいました。

私にとってZ先生が誰であるのか、ちょっと時間がかかってしまったのですが、ただ、そのとき、いや、Z先生は毎年******************とか、自分の**********ですよ、どこがいい先生なものかということを話すのはぐっとこらえました。


この時、わかったのは東大英文研究室の二人のイギリス人教員は、対外的にとても評判がいいことです。こんないい先生を二人もいる東大英文は、ほんとうに素晴らしいと称賛されていることです。ほめられれば悪い気持ちはしません。実際、お二人は素晴らしい研究者なのだと思います。日頃の言動を間近に見ている私たちにとって、素晴らしい先生は一人だけなのですが、まあ、どんなに天才でも、故郷では、あるいは家族にとって、ただの凡人か変人にすぎないのかもしれません。対外的には東大英文には素晴らしいイギリス人の先生が二人います。私的には一人しかいません。

ただ、ざんねんなのは、ひょっとしたら、ウィリアムズ先生が、お辞めになるかもしれないことです。まだ決まったわけではないのですが、またできればウィリアムズ先生には末永く教えてもらいたいのですが。こればかりはどうしようもありません。もしお辞めになると東大英文には素晴らしいイギリス人の教員はいなくなります。もっとも対外的には、まだ一人いるわけですが、私的には……ということを言うのはやめましょう。身近な人間よりも、第三者のほうが、その人の公的・社会的そして学術的価値を正しく認識していることはよくあることです。私自身、Z先生をみる眼を変える時期かもしれないと思っています。

 それでは、この会をはじめたいと/終わりたいと思います。

posted by ohashi at 23:08| コメント | 更新情報をチェックする

2018年02月17日

『ブラディ・ポエトリー』

見てない芝居についてのコメント 1

今週火曜日(13日)にチケット代金を払い損ねて観劇できなかった芝居とは赤坂のレッド・シアターで公開中の『ブラディ・ポエトリー』である。原作者、作品、翻訳者、題材、どれも興味をひくものばかりで、いくら金銭的損失はゼロだとしても、観劇できなかったことに対してずいぶん残念な思いをしていたのだが、最近、そんなに後悔しなくてもいいとも伝えられた。


というのも原作者、作品、翻訳者、題材という点では、どれも素晴らしいのだが、演出家と演技者がひどいと言われて、見なくても後悔しないと言われた。


もし、そうだとすれば、かえすがえすも残念である。


最近は、小劇場での上演は、どれもパフォーマンスとしてレヴェルの高いものばかりで、好き嫌いという評価をしなければ、どの上演も高い評価をつけられるものばかりだ。つまり下手なパフォーマンスというのはない。ところが今回、みるからに下手だったようだ。とすれば、そんな下手なパフォーマンスを見ることはめったにないので、それを私の不注意で見そびれたのは、残念でしかたがない。


自腹で観ることになっていたので、誰に気兼ねもなく、とことん批判できたのだが、その機会を失ったことも残念である。

posted by ohashi at 17:28| 演劇 | 更新情報をチェックする

2018年02月16日

関西弁

失敗は続く。


本日、ある会議のあとの雑談の場で、


方言がどうのこうのとか、アクセントがどうのというような話になって、黙って聞いていたのだが、急に、私は、東京の出身かと聞かれて、いえ、名古屋ですと答えた。そして名古屋では、たとえば学校(小中高)では、名古屋出身の教師は、授業では絶対に名古屋弁を使わない。いわゆる標準語をしゃべる。ただ、名古屋には関西出身の教員も多く、その先生方は、関西弁まるだしてしゃべると言ってしまった。「関西弁まるだし」というのは、ちょっと表現が失礼だったかもしれない。関西出身の人の前で。


実はこのあとに、つまり名古屋の人間は、名古屋弁にコンプレックスがあって、あらたまった場とか公の場、あるいは教室での授業などでは名古屋弁を使わない。つまりバイリンガル。新幹線で東京に行く時にも、同じ名古屋人どうしで話していても静岡県に入ると、標準語に切り替えるといわれている。ところが関西出身の人は、関西弁に誇りをもっているようで、時と場所に応じて、関西弁と標準語を切り替えたりしない(実際には切り替える人も多いようだが)。だから子供心に関西出身の先生は関西弁に誇りをもっているようで、ある意味、うらやましいと思っていた、と、そうフォローするつもりが、次の話題に行ってしまって、なにか小ばかにしたような失礼な言い方をしただけで、終わってしまった。


こんなところで弁解してもはじまらないが、失言の多い人生だと、つくづく嫌になるぞ。



posted by ohashi at 21:24| 日記 | 更新情報をチェックする

2018年02月15日

ポリカルポフ

失敗続き。本日、通販で購入した、1/32のポリカルポフI-16(ウクライナのプラモデル・メーカーであるICM製)が届いた。昔は、同じプラモデルを2つ購入して、ひとつは作製用、もうひとつは永久保存用にしていたのだが、作る暇もなくて永久保存用がペアで、いくつもそろっている。ただ、手を動かすことで脳の老化防止にもなるということで、エアブラシも新しいのを購入し(とはいえ依然購入したものの半分以下の廉価版)、しかも、あらたにヒコーキのプラモデルを購入することにした。


ポリカルポフI-16というのは、両大戦間から第二次大戦中にかけての有名な戦闘機で、世界で初めての引き込み脚を採用した戦闘機として名高い(とはいえパイロットが手動で、機体の脚を出し入れするのだが――そういえば映画『ダンケルク』でもスピットファイア―は手動で脚を出していた)。しかし戦闘機とはいっても、複葉の機体の上の翼を取り去って単葉にしただけで、ずんぐりむっくりした機体は、およそかっこいいとはいえない、ぶさかわいい飛行機である。1/32のモデルは、ふつう大きなものだが、この機にかぎっては1/48の戦闘機くらいの大きさしかない。小さいぶん作りやすい。


このモデルに求めていたことは、スローガンのでる。この時期のソ連の戦闘機、あるいは戦車などがそうだが、胴体にスローガンを大きな文字で描いていた。そのスローガン付きの機体をなんとしてもつくってみたかった。有名なスローガンは、「スターリンのために」と「ファシストに死を」というロシア語のスローガン。ちょっと大きめのI-16の両側に、このスローガンがでかでかと入る。置物としても面白い。


そこで届いたモデルの箱をあけて、水転写のデカールを、見てみたらな、な、なんと、ない。スローガンのデカールがない。あるのは赤い星と数字のデカールだけで、スローガンがない、ない、どうしたのだ。


模型雑誌の作例には、このスローガンがあった。なぜこのスローガンをとってしまうのだ。ネット上の二三の通販サイトをのぞいてみたが、商品見本の写真をみると、スローガンのデカールがない。やはりもうなくなったのか。別売デカールが販売されるのを待つしかないのか。残念。


posted by ohashi at 21:25| 日記 | 更新情報をチェックする

2018年02月14日

卒論口頭試問

本日、口頭試問が無事に終わり、ほっとした。もちろん卒業式までには、いろいろな重要が行事がつまっているのだが、卒論の成績もこれで出してひとまず一年のしめくくりとなる。


口頭試問に関しては、私は英語英米文学研究室と現代文芸論研究室の口頭試問のふたつを担当している。英文と現文では口頭試問の形式が異なり、現文は口頭試問を公開している。公開といっても一般に公開するとかネットで中継するというようなことではまったくなく、同じ専修課程の在校生(3年生)に公開して、彼らが卒業論文を書くときの参考にしてもらうということのようだ。


英文研究室でも同じこうとをしないのは、公開にして、みんなのまえでつるし上げるというような、公開処刑などするはずもないが、そうされるのではないかという不安と恐れをかきたてると、卒業論文を書く気が失せるのではないかと心配するからである。英文は卒業論文が必修ではない。卒論を書かなくても卒業できる。現文は卒業論文が必須で、書かないと卒業できない。英文にとって、卒論を書くの気が起きないようになることは極力避けることになる。


とはいえ非公開の英文の卒論試問は、非公開のぶん、けっこうシビアなつっこみが入ることもある。ただし密室でのつっこみなので、公開処刑ということにはならないが、それで私自身失敗したことがある。現文の卒論試問の場で、ついつい英文の卒論試問の癖がでて、あろうとか卒論のなかで、英語の引用の誤訳を指摘してしまったのだ。ずいぶん前のことなので、誰も覚えていないと思うが、その学生はたぶん恥をかかされたと恨んでいると思う。英文の場合、卒論は英語だからまちがった日本語訳というのことはありえないが、細かなミスまで、指摘することはある。実際、それは教員が丁寧に卒論を読んだという証拠にもなるのだから。しかしその癖のまま現文で、在校生がいるところで、誤訳を指摘したのは、まずかった。そもそもその学生に恥をかかせようというつもりはなかったし、また、誤訳だらけの出来の悪い卒論ということではなくて、むしろ優秀な卒論だったので、そのぶん、引用に一か所、誤訳があったことが目立ってしまったのだ。あとで、そっとメモでも渡して、ここが誤訳だったと知らせればすむことで、ほんとうに申し訳ないことをした。


ずいぶん前の話で誰も覚えていないだろうが、当人と私自身は、憶えている。トラウマになっていなければいいが。


実際、公開口頭試問では、諮問を受ける側は緊張するかもしれないが、公開なので、ひどいことは言わないし、むしろ、いかに相手を傷つけずに、いうべきことはいうか。また、欠点の指摘ではなく、ほめたり励ましたりすることが中心となる。では、公開しない口頭試問だと、ぼろくそに言うのかというと、そんなことはない。英文の口頭試問でも、無神経な発言で相手を傷つけることはしたくないし、励ましたり、なぐさめたりする。だから、いまでは現文と英文の、つまり公開と非公開の口頭試問の差は、なくなっていると思う。


また、そのぶん、英文の口頭試問では言いたいことも言わないでおくことが多い。私の場合には。そのためここで、実際の口頭試問では言えなかったことを数回に分けて書いておこうと思う。べつに罵倒できなかったから、この場で罵倒するというようなことでは絶対にないが。

posted by ohashi at 01:39| コメント | 更新情報をチェックする

2018年02月13日

アイオーン

本日は、観劇予定だったが、うっかりしてチケット代金を振り込むのを忘れていたことに気づく。1週間以内に振り込むところ、1週間をとうに過ぎてしまった。まあ、ネット予約できないという劇団も不便なのだが、興味深い演劇だったし、チラシもけっこうりっぱだったので、残念。


本日は観劇と決めていたので、かえすがえす残念。結局、チケット代金の振込先から連想したことを卒論口頭試問でコメントしてしまい、学生に迷惑をかけたかもしれない。やつあたりでは絶対にない。まあ、時間論における三つの時間、クロノスと、カイロスと、アイオーンの時間について、講釈を垂れただけなのだが。


posted by ohashi at 20:34| 日記 | 更新情報をチェックする

2018年02月11日

『ルイの九番目の人生』

2015年に完成して2016年に公開された映画で、わざわざ2018年に公開されなくてもいいのではないだろうか。先日、アメリカのアカデミー賞のノミネート作品が発表されたが、そのうち現時点で、日本で公開されているのは『ゲットアウト』と『スリー・ビルボード』くらいで、あとは日本では未公開の作品ばかりで、アカデミー賞にノミネートされなかったら公開すらされなかったであろう映画である。その意味で、アカデミー賞はありがたい。それがなかったら多くの素晴らしい映画が日本で公開されないまま終わってしまうのだから。


『ルイの九番目の人生』は、予告編で判断したら期待値マックスの興味深い映画だった。実際に見てみると、期待を裏切らないというよりも、しっかり期待を裏切ってくれた映画で、なにもわざわざ、今になって公開しなくてもいいのではないか。


アンソニー・ミンゲラ監督(劇作家でもあったが、私と同年齢。ただし、むこうは私と違い善人なので早死にしている)が企画してはたせなかった映画原案を息子がプロデュースして映画化にこぎつけたという作品なので、けっこう期待はしていた。ただ監督はアレクサンドル・アジャ(ミンゲラ監督のほうに注意をとられて、まったく調べなかったが、聞いたことがある。たしかフランスのホラー映画監督)のわりには、ホラー映画臭がない。ファンタジーの癖の強さにシフトしている。


ルイ役のエイダン・ロングワースがかわゆいということは認めてもいい。小児昏睡の専門家医をジェイミー・ドーナンが演じていて、『フィフティ・シェイズ』の若き変態富豪の役で有名だが、彼の役や演技ではなく(変態は好きだ)、映画そのものが嫌いなので、あまり好印象をもっていない。『ハイドリッヒを撃て』ではキリアン・マーフィーと共演していて、映画そのものもよかったのだが、今回は、これまでの映画とはちょっと雰囲気がちがっているが、それでもイケメンの医師という、まあはまり役である。そして彼が愛し合うようになる、ルイの母親がサラ・ガドン。最近の映画では即位直前のエリザベス女王役がなんといっても印象ぶかいのだが、天使のようにかわいい男の子と、美男美女の二人が出てきて、それで見せる映画なのだと思う。


謎の部分は、開始からしばらくしても、進展がまったくなく、解決へ向けての努力もなされず、むしろ解決がどうのこうのという映画ではないことがわかってくる。ホラー的要素も、ない。家族向けを狙った映画なのだろうか。繰り返すが、美少年と美男美女との人間的からみを、あわてず、ファンタジー的雰囲気のなかでゆっくり鑑賞するということなのだろうか。


けっして眠たくはなかったのだが、完全に予想と期待を裏切られた映画であったために、いつしか意識が遠のきはじめ……。まあすこし見逃したところはあるが、内容は把握できた。最後の事件の全容の解明にしても、やはりファンタジーとしてもホラーとしても中途半端であり、かといって推理小説的な解決という点からみても、肝心な設定のファンタジー臭が強いということもあり、どうしても不満が残る。


まあ、無理して公開しなくても、よかったのでは。ジェイミー・ドーナンのファンが多いのだろうか。サラ・ガドンのファンが多いとも思えないないのだが。ただひとつだけ言えることがある。


海、溺死、海の怪物のイメージが強い。死と水のイメージの結びつき。これは、ゲイ物語、ゲイ映画のモチーフである。実際、少年と父親(義理の)との関係は、親子関係とみるか、男同士の関係とみるか、あるいは両方としてみるか、そこが微妙なところである。ただゲイの男性は、母親だけは愛している。そこにちょっと違和感があって、この映画を、隠れゲイ映画とみるべきは、躊躇するところである。


それにこれは母親の気持ちを忖度する映画であって、忖度映画のひとつになることは間違いなのだが。



サラ・ガドンの最近作のひとつが即位前のエリザベス女王(王女)のお忍びの一夜を描いた『ロイヤル・ナイト』(2016 原題は「ナイト・アウト」)で、そこでは奔放な妹に対して思慮深い未来の女王たる姉の役を演じていて印象的だったが、私が彼女をはじめて映画のなかでみたのは、ルーク・エヴァンズが実在のヴラド・ドラキュラを演じた『ドラキュラZero(2014)でもなければドニ・ビルヌーブ監督の『複製された男』(2014)でもなく(どちらも彼女がどこに出ていたかよく覚えていないのだが)、クローネンバーグ監督の息子ブランン・クローネンバーグ監督の『アンチヴァイラル』(2013)だった。


その映画における彼女の美しさに目を奪われた記憶があったのだが、その映画で主役を演じたのが、まだ知名度の低かった男性俳優で、彼の不気味な個性と存在感にも圧倒された記憶がある。その男性俳優とは、ケイレブ・ランドリー・ジョーンズ。え、誰っ? と聞くなかれ。彼は今年のアカデミー賞候補作のうち2作品に出演している。ひとつは『ゲット・アウト』。そしてもうひとつは『スリー・ビルボード』――この直前の記事で私が冒頭で着目したシーンにおけるレッド役が彼だった。

posted by ohashi at 20:29| 映画 | 更新情報をチェックする

2018年02月09日

『スリー・ビルボード』

この映画のなかで最も衝撃的かつ映画全体を集約していると思われるシーンがある。病院の病室。ディクソン巡査(サム・ロックウェル)に殴る蹴るの暴行を受けたうえに二階の窓から道路の放り投げられ重傷を負い、体中、包帯でぐるぐる巻きにされた広告店主レッド(ケイレブ・ジョーンズ)のいる病室か集中治療室のようなところに、火事で大火傷を負って、レッド以上に包帯で頭部と体をぐるぐる巻きにされベッドから動くこともできない状態のディクソンが運ばれてくる。レッドは病室で動くことができる。彼は、すかさず、運ばれてきた重症患者に近づき、声をかけ、きっとよくなるから元気をだせというような温かい励ましと慰めの言葉をかける。オレンジジュースを飲むかと自分用のジュースをカップにいれてストローをつけて相手に差し出そうとするのである。


この時点でレッドは運ばれてきた重症患者が、自分に暴行を働いた暴力警官であることを知らない(顔がわからないから当然である)。いっぽうディクソンのほうは包帯で覆われた頭部の隙間から、自分に声をかけてきた同室の患者が、レッドであることを知る。ディクソンであることに気づかないレッドに対して、ディクソンは、涙だながらに、すまないと謝るのである。とそのときはじめてレッドも、この包帯の男が自分に理不尽な暴行をはたらいたディクソン巡査であることを知って驚く。


私がこの場面に衝撃を受けたのは、その唐突さとではなく、むしろ自然ななりゆきに対してである。レッドが運ばれてきた患者にやさしく声をかける。それは、不自然さのまったくない、自発的な、いや反射的な反応であるようにみえる。私だって、まあ、この歳になっても人見知りなのだが、自分と同じように、あるいは自分以上に、大けがをした患者、あるいは同室者に、自分では気づかないうちに声をかけているのではないかと思う。


大けがを負った者どうしに生まれる、共感の絆。だからレッドが、その火傷の患者が、自分に危害を加えたディクソンであったことを知ったあとで、突然、態度を変えて、相手を罵ったり、仕返しの暴力をふるったりはしないだろうと見ている側も予想する。実際、その予想は的中して、レッドは、運命の皮肉に驚くというよりも、あきれつつ、また怒りや憎しみを感じつつも、オレンジジュースをそっと差し出すのである。


赦しというようなものではない。大けがを負ったものの間に生まれる絆というか連帯感みたいなもの。それは互いの憎悪や怒りを超えて突発事故のように生まれる反射的行動である。自分ではどうすることもできない、あるいは自分では意識的にこしらえることができななかった連帯感。これこそ、この映画を支える中心的なテーマであろう。


傷つく者たちの、不遇の者たちの、虐げられた者たちの相互扶助と連帯感。たとえ私たちが恵まれている側にいても、事故は起こる。怪我はする。病気にはなる。そのとき、私は苦しむ者になる。傷つく者になる。そのような苦しむ者たちになったとき、自然に、いや反射的に生まれる絆、自分ではコントロールできない、まるでおぞましい欲望のような、思わず、おさえつけてしまいたくなるような衝動的な「善」の噴出を、私も感ずるはずある。


この時、私は傷つく者たちのコミュニティの一員となる。それも衝動的な善に驚き、また衝動的な善に支えられながら。。


Surprised by SinならぬSurprised by Goodness.虐げられた者は、傷つく者たちは、同じ境遇の者を決して見捨てない。その支援と連帯の本能は、なにをもってしても、社会制度も、教育をもってしても、抑えることはできない。この善の次元。隠れたる次元。自分では気づくことなく、また社会においても必ずしも認知されない次元。それに接することから生まれる、名状しがたい安堵感と至福。それがこの映画が提示してくれるものであろう。


結末にそれがよくあらわれている。傷ついた者どうしの間にき生まれる、友愛と連帯。それが生まれたこと。それに包まれること。もはや復讐が問題なのではない。事件解決が問題なのではない。たとえそのふたつが限りなく遠い目標であり、不可能な要求であっても、むしろ不可能な要求であればあるほど、傷ついた者たちの間の連帯が保証される。この場合、未来でも、過去でもない、いまとここにこそ、私たちを不意打ちにする善なるものの発露と、そこから生まれる癒しと安堵感の時空が創造されるのだ。


マーティン・マクドナーの戯曲は『イニシュマン島のビリー』を翻訳劇として舞台でみたことがある(再演のほうだが)。「イニシュマン島」というのはアラン諸島の島のひとつ。あと映画では『セブン・サイコパス』は評判の作品もみた。出演者も『スリー・ビルボード』と重なっている。実は、ナショナル・シアター・ライブの『ハングマン』を昨年、映画館で見そびれた。この映画の公開を機に、『ハングマン』も、どこかの映画館で上映してくれないだろうか。


フランシス・マクドーマンドについて、はじめって知ったというような声をもきくが、むしろ知らないほうがおかしい。『ファーゴ』が有名だが、それ以外にも多くの映画に出演していて、私も、彼女の出演作で、見ている映画よりも見ていない映画のほうがはるかに少ない。とはいえ、彼女の映画出演作のリストをみても、何の役だったのか思い出せない作品も、実は多く、まあバイプレーヤーとしての活動がメインなのかもしれない。


ウディ・ハレルソン(ウィロビー署長)とサム・ロックウェル(ディクソン巡査)は、マクドナー組という枠には収まらない知名度の高さを誇るが、彼らが、いい役をもっていってしまっている観がある。しかし、マクドーマンドのダメ夫役のジョン・ホークスも、彼女の息子のルーカス・ヘッジズも、そして身長132センチのピーター・ディンクレイジも、最終的には悪人ではなく、また冷酷な人間でも無神経な人間もなく、みんな「いい人」たちばかりの「いい役」ではある。


アビー・コーニシュは『ジオストーム』にも出ていたが、余計なお世話ながら、ちょっと太りすぎではないだろうか。

posted by ohashi at 22:14| 映画 | 更新情報をチェックする

『シェイクスピアのR&J』

もう24日でシアター・トラムのでの上演は終わったのだけれども、実は、この劇の再演について気づいていなくて、あやうく見過ごすところだったので、見ることができてほんとうによかった。


結論からいえば、これはシェイクスピアの『ロミオとジュリエット』を使った魅力的なアダプテーション劇であるのと同様に、これこそ、シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』だと思える作品だった。通常の『ロミオとジュリエット』よりも、はるかに『ロミオとジュリエット』であった。すくなくとも、シェイクスピアが念頭に置いていた『ロミオとジュリエット』、それがこの作品だと思いを禁じ得なかった。もちろん松岡和子氏の翻訳を使っているということも、この舞台のシェイクスピア感に大いに貢献しているのだが。


もちろんシェイクスピアの時代に想定されていたこの作品の意義あるいはシェイクスピアが意図していたかもしれないこの作品のありようは、現代においては、意味をもたないものもあるだろう。だからオリジナルな意図が、現在の上演において反映されなくてもいいのだが、同時に、現在の上演においては、現代においても意味があるオリジナルな意図あるいは意匠が、余りにも抑圧され、純愛悲劇などというたわ言の材料となっている。


そもそも純愛とか純粋というのは、ネオナチかトランプ大統領かネトウヨがしゃぶっていればいい、クソ価値観であって、それからもっとも程遠いのがシェイクスピアの『ロミオとジュリエット』である。純愛とか純潔を重んずるヘイト精神が、彼ら二人を死に追いやっている。そんなばかなというのなら、作品をストレートに読んでみればいい。あるいは今回の上演を見てみるべきだった。


ふつうによめば『ロミオとジュリエット』という芝居は、男性がじゃれあっているというイメージがある。これは、ほんとうに、この作品を読んだ人なら感ずることだろう。そしてこの舞台、宣伝文句を引用すれば――


厳格なカソリックの全寮制男子校の寄宿舎で暮らしている4人の学生。

禁断の書『ロミオとジュリエット』、4人は秘かに、この物語を題材に遊び始める!

「さあ、夜の世界の幕開けだ!」。2003年、ロンドンで世界初演され話題となった、ジョー・カラルコの脚色のShakespeare’s R&J。今、最も旬な若手実力派俳優4人で上演します。


厳格な宗教的規律と軍隊的規律にがんじがらめになり、さらにはジェンダーのステレオタイプをも強制され身動きできなくなっている男子高校生たちが、夜の時間にひそかに禁断の書『ロミオとジュリエット』を読む。純愛の書が禁断の書?


冒頭からファリックな下ネタが炸裂するし、台詞には当時の基準で印刷不可な卑猥な表現がある。そしてもちろん禁じられた愛の物語は、愛そのものが禁じられている高校生にとっては刺激だろうし、またシェイクスピアの時代、女性役は少年俳優が演じていたことを考えると、この芝居は男女の恋愛のみならず男性あるいは同性の恋愛の物語でもある。まさにこの芝居の設定が、この作品の、失われたのではなく抑圧されたクィアな要素を発掘し、全開させているのである。


あと付け加えておかなければいけないのは、毎年イギリスからやってくる、少人数の劇団がシェイクスピア劇を、公会堂や大学で上演するのだが、私の大嫌いな、そういう劇ではないということである。


大掛かりな芝居を、少人数で、あるいは二人で、ときには一人で上演するというのは、ある意味、野心的な試みだが、同時に、安っぽくて貧相で、しかも、その人数では実現できない場面などは省略するか簡略化して、元のシェイクスピア作品を引き立てるどころか矮小化するような、私の大嫌いな上演形態とは異なる。つまりここでは4人の男性が、『ロミオとジュリエット』に登場する人物を演ずるのだが、まず朗読するという形態をとる。朗読による上演というのは、人数は関係ない。ひとりでも可能である。しかも朗読しながら、あるいは朗読から演技へと移行する。これも通常のリーディング公演と同じだが、そこに簡略化とか矮小化のイメージはない。またここでは4人の男子校生徒が、抑圧的な昼の時間からの解放として禁断の書を読み、それを演技をとおして実現することのなかに、無理やりなという違和感はない。無意味な少人数感もない。


そしてそのなかで彼らの友情のなかに潜む同性愛的感情が生まれてくるし、時にはサディスティックな欲望も登場し、演技なのか本気なのか区別がつかないような情念の発露がみられる。同性的感情は、4人の男子校生のなかにあるものが、シェイクスピアの作品のなかにある同性愛的感情によって触発されたか、あるいは相乗効果によって露呈したものだろう。これこそが、クィア・シェイクスピアの真骨頂ともいえよう。


こうなってくると『ロミオとジュリエット』は、シェイクスピアの古典演劇であると同時に、彼ら4人のいまことここに、見事にシンクロする、あるいは彼らのいまとここが、シェイクスピア作品に命を与えたともいえ、実に緊迫感にみちた充実した時間を、舞台の4人と共有できた。


唯一の心残りは、先週から今週にかけて、移動と多忙をきわめ、ぜにこの舞台を見てほしいと訴える時間がないまま、すでに上演が終わったことである。


繰り返すが、これがオーセンティックなシェイクスピア『ロミオとジュリエット』である。そもそも、ほとんどの他の上演は、この劇を支えるシェいうクスピアの精神――現代に直結するような、まさに同時代人としてのシェイクスピアの精神――に背いているとしかいいようがないのだから。

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2018年02月01日

『否定と肯定』

タイトルにあるような両論併記は、まさに修正主義者の思うつぼであって、それは映画のなかでも説明されていたが、アウシュヴィッツについて肯定派と否定派があるとき、アウシュヴィッツの存在そのものがかなり揺らぎ、なぜアウシュヴィッツが生まれたのか、その関係性は、あるいは責任はなどという、本来問われるべき問題が、脇においやられてしまう。

映画の原題はDenial. ただし原告と被告に分かれての裁判闘争だから、否定と肯定としたのかもしれないが、あるいは、そうでもしないと日本でもネトウヨの攻撃に映画会社がさらされるかもしれないということか。

原題のDenialは二つの意味が込められている。一つはアウシュヴィッツ否定派の「否定行為」、そしていまひとつはレイチェル・ワイズ演ずるところの歴史研究者・大学教授が、アウシュヴィッツ否定派に訴えられたとき、法廷戦術として、彼女自身は証言しないで、すべてを法廷弁護士の弁論に委ねることにした、自らは望まなかった「自己否定行為」をいう。結果的に彼女が受け入れたこの戦略が功を奏したのだが、アウシュヴィッツの生き残り、アウシュヴィッツ証言者すらも証言させない。理由は、そうした人々が否定派の悪辣な反対尋問で屈辱を味あわされ傷つけられないようにするためというものであった。生存者に証言をさせないことに意味があるのか、観客は釈然としないのだが、結果的にそれがよかったということにある。ここにあるのは法廷戦術のリアルである。その意味で、理念の前に現実を、論理よりも戦術を重んずるような、リアルを追求する映画となっている。

と同時にデイヴィッド・ヘアの脚本が、なんといっても知的かつ洞察にあふれていて、歴史修正主義者の手口というものを実に手際よくわかりやすく教えてくれる。その意味でも、この映画は見る価値がある。実際、過去の、遠い地のアウシュヴィツの話ではない。同じことは日本においても確実にあてはまるからであり、安部首相も加担しているらしい、歴史修正主義者のなりふりかまわぬ暴挙こそ、この映画で裁かれているものだ。

実際、日本にも、アウシュヴィッツがどのこうのと話題にすれば、まだそんな迷信に囚われているのか、アウシュヴィッツなどなかったなどとしたり顔にいう人間は(つまり歴史修正主義者に影響をうけた人間)は、ほんとうにいるのである。

歴史酒精主義者の怖いところは、彼らの言説が、直接、ネオナチやネトウヨの歪んだ発想を形成したということではなく、反ユダヤ主義的姿勢を掘り出してしまうことなのである。漱石の『夢十夜』のなかの運慶の話を思い出してもいい。というか正確に思い出していないのだが、運慶は、木とか石を刻んで仏像をつくっているのではなく、木のなかに、あるいは石のなかに埋まっている仏の姿を取り出しているのだという。これと同じで、歴史修正主義者は、その議論によって歴史の解釈の刷新とか歴史的事実の深層に迫るのではなく、ネオナチを引きずり出し造型しているのである。そこが怖いし、彼らの言動は、ヘイト・クライムを遂行するのではなく、また反ユダヤ主義を標榜するのではないにもかかわらず、隠れていたヘイトと反ユダヤ主義に発掘してしまうのだ。日本でも「反日」のレッテルが、戦前・戦中の「非国民」と同じようにまかりとおっている現在の悲惨と、歴史修正主義者たちとは無関係ではないだろう。

Wikipediaには「アーヴィング対ペンギンブックス・リップシュタット事件」という記事があって、この事件の経緯について探るのに参考になるが、日本語の表記が、たぶん英語版を翻訳したものだろうが、ところどころわかりにくくなっていて、何度も読みなおさなければいけないところがあり、ときには何度読みなおしてもわからないところがある。

まあ法律用語は素人には理解不可能なものが多いので、しかたがないともいえるのだが、映画ではPenguin Booksを「ペンギン出版社」と訳しているが、字幕なので字数制限があるとはいえペンギン社でしょうね。あとThe Athenaeum Hotelは英語読みで「アシーニアム」ホテルと覚えていたが、「アセニ(ー)アム」という米国式発音もあるらしいが、映画の字幕では確か「アテナエウム」とあって、ロンドンにそんな名前のホテルがあるのだと思った瞬間、「アシーニアム」の間違いだろうと気づいた。

とはいえこれは些細なことで、こういう間違いは、私自身、やまのようにしているのだが、問題は、ここで書けないほど、わかりにく、あるいはおぼえにくい、法律関係の用語とか表現があったこと。なんとかしてくれと思ったのは事実。東京での上映は終わって、あとはDVD(あるいはブルーレイ)を待つばかりだが、日本語字幕には法律の専門家のアドヴァイスを入れて再考してほしいし、英語字幕も必ず入れてほしいと思う。

法廷物は、たいてい劇的で緊迫感があり、見ていてあきないのだが、まあ、この裁判では否定派が論破されたからよかったようなものの、しかし、これでネオナチも否定派も(ネトウヨ)も消滅することはないし、彼らは、まるで勝訴したかのようにメディアに露出している(それは映画のなかでも示されていた)。解決はほどとおいし、否定派との闘争は、これは終わりではなく、むしろはじまったばかりなのだ、Broadcasting Bitchとしかいいようがない。否定と肯定という両論併記のタイトルからして。

付記
Wikipediaでは「ブーディカ」の見出しだが、「BoudicaまたはBoudicca、過去にはBoadiceaなどとの表記も。日本語でもボウディッカ、ボアディケア、ボーディカ、ブーディッカ、ボアディシア、ヴーディカなどと訳される。生年不詳 – 60年/61年?)」とあって、まあ表記は一定していない。全く個人的なことだが、私は「ボーデシア」と表記している。ちなみに第二次大戦中には、彼女の名前を冠した巡洋艦があって、日本では「ボーデシア」と表記している。それにあわせたわけではないが。

ちなみに、以下はWikipedia英語版の記述。Boudica or Boudicca (Latinised as Boadicea or Boudicea /boʊdɪˈsiːə/, and known in Welsh as Buddug [ˈbɨ̞ðɨ̞ɡ]) was a queen of the British Celtic Iceni tribe who led an uprising against the occupying forces of the Roman Empire in AD 60 or 61.

なお
恥ずかしながらロンドンに彼女の像があることを知らなかった。もしロンドンに行くことがあれば、見てみたい。ちなみに彼女の反乱を扱った芝居はシェイクスピアの時代にもある。また英国文化のなかに彼女はかなりふかく根ざしている。

あとこの映画から学んだことだが、実際に実行できることかどうかわからないが、相手を非難するとき、相手の眼を見ずに、こちらの主張をすること。法廷弁護士じゃないとなかなか実行できそうもないが。
posted by ohashi at 16:23| 映画 | 更新情報をチェックする