映画は予告編で得た情報を超えることなく、予想通りの終わらない肖像制作の話が、大きな起伏も緊張感もなく淡々と続くだけで、基本的な場所がジャコメッティのアトリエなのだが、演劇的な物語となることもない。
アーティストのジャコメッティ(ジェフリー・ラッシュ)と、肖像画のモデルとなった作家・美術評論家のジェイムズ・ロード(アーミー・ハマー)とのやりとりが中心で、それに晩年のジャコメッティの愛人だった娼婦とジャコメッティの妻と弟がからむ。この人間関係は興味深いのだが、発展性がない。大げさにいえば永遠の現在――発展性のない、希望もない、凍結した現在時間の物語であって、時として眠気に襲われそうになっても、誰も責められないと思う。
では、地味で面白くない映画かというと、そうでもない。そもそもアーティストのアトリエというのは、それだけで、アート作品である。以前、東京の国立近代美術館でのフランシス・ベーコン展を見に行ったときに購入したクリアファイルのひとつが、ベーコンのアトリエを写真に撮ったもので、雑然としているごみ屋敷といってもいいのだが、さすがにアーティストの部屋、雑然感、カオス感のなかに、芸術性を感じられて、そのクリアファイル、いまでも私のお気に入りのファイルである。
それと同じで、ジャコメッティのアトリエも、べつにきれいでも美しくもないし、制作中あるいは未完の彫刻が所狭しと並べられ、開いている空間に芸術家がモデルを座らせて肖像画を制作するのだが、その雑然感、その未整理状態が、なんとも味わい深く、ジャコメッティの彫刻や肖像画とシンクロしてくる。
ちなみにジャコメッティが描く肖像画が油彩だとしたら、その溶剤をジャコメッティは灰皿(!)に入れていて、それに絵筆を浸している。この無頓着感(溶剤を灰皿に入れようが、空缶に入れようが、絵画の質には関係ないのだが)もまたジャコメティのアートと違和感なくシンクロしているのが面白い。ジャコメティの彫像は、人物の外部を削ぎ落したというよりも、ごみ置き場、廃材置き場から、周囲のガラクタを集めて生まれ出てきたような、そんな印象を受ける。アトリエ=廃材置き場からの機械的道具的生命あるいは廃材となった生命こそがジャコメティ彫刻ではないかという気もしてくるのだ。まあ、いずれにせよアーティストのアトリエもまたアートであることが納得できる。
もうひとつこの映画で感動的なのは、映像の色である。派手な色というよりも、むしろモノクロに近い地味な色なのだが、どうしてこんな色が出るのだろうと、見ている間、ずっと不思議に思い、また圧倒された。グレイといっても、茶色が入っているような、入っていないような、あるいは青色が強いような、強くないような、冷たくはない透明さというべきか、なんともすばらしい色合いのグレイで、見ていてうっとりする。
撮影監督のダニー・コーエンの映画は、『パイレーツ・ロック』(09/リチャード・カーティス監督)、『疑惑のチャンピオン』(15/スティーヴン・フリアーズ監督)、『英国王のスピーチ』(10/トム・フーパー監督)、『レ・ミゼラブル』(12/同監督)、『リリーのすべて』(15/同監督)も見ているが、こんな色合いの映像ではなかった。そしてお洒落な音楽とともに、この映画の、三歩進んで二歩あるいは三歩下がるような進行がもたらす眠気を払ってくれる。
三歩進んで二歩あるいは三歩下がるような進行というのは映画の悪口を述べているのではなく、ジャコメッティの肖像画制作過程がそうなのだ。ジェイムズ・ロードは、肖像画の制作過程を写真に残したから、わかるようなのものだが、ジャコメッティは肖像画の完成形がみえはじめると、絵の具で塗りつぶして、またゼロから始めるのである。だから、いつまでたっても肖像画制作は終わらない。ある意味、制作過程を楽しんでいる、あるいは苦しんでいることを楽しんでいるのであって、終わりや喜びではなく悲しみであり、終わらないこと、途中経過にこそ、生が意味があるという芸術観なのだろう。もちろんモデルになる人間にとってはたまったものでない。
だが、モデルになったジェイムズ・ロード(アーミー・ハマー)も、ものすごく嫌ではない、まんざらではないみたいなのだ。そこがこの映画のポイントで、はっきりいってこの映画はゲイ映画であることを隠している。ジェイムズは、モデル期間中、アメリカに電話をしていて、電話の相手は誰かわからないし、声も話し方も伝わってこないのだが、とくにはっきりことわっていないかぎり、相手は妻か女性の恋人だろうと想定できる。またジャコメッティには妻がいて、娼婦の愛人がいて、ヘテロ男性である。そこにゲイ的要素は入り込む余地はないように思えるのだが、ジェイムズ・ロードは実際にはゲイであったことが、プログラムやネット上のサイトで明示してある。そうジャコメッティとの交流は、ゲイ的なものがふくまれているように思われる。そしてまた終わりを拒み、過程を愛するアート、未完でしかないアート、それは終わりを目指すヘテロな欲望に抵抗するゲイ的な欲望の顕在化でもあろう。ジェイムズ・ロードは、ジャコメティその人というよりも、ジャコメティの芸術(とその制作)のなかにゲイ的は感性を見抜いていたのかもしれない。もちろんジェイムズ/アーミー・ハマーのギリシア彫刻のような、美術教室にある石膏デッサン用の彫像のような、堀の深い端正な顔立ちと、それを凝視するジャコメティの眼差しのなかに、ゲイ的要素は顕在化しているといえば、それまでなのだが。
もちろんスタンリー・トッチは、この点を明示していないのだが、同時に明示もしている。ジェフリー・ラッシュ(ジャコメティ)、アーミー・ハマー(ジェイムズ・ロード)そして俳優・監督のスタンリー・トッチ、みんな、これまでゲイの役柄で映画に出演している。だから、いわなくとも、わかれということなのかもしれない。
追記
ジャコメティの弟ディエゴ・ジャコメティ、どこかで見た記憶があったのだが、どこでみたのかがわかって納得したというよりも驚いた。テレビで見ていた名探偵モンクその人だった。変貌ぶりに驚いた。