2018年01月31日

『ジャコメティ 最後の肖像』

映画は予告編で得た情報を超えることなく、予想通りの終わらない肖像制作の話が、大きな起伏も緊張感もなく淡々と続くだけで、基本的な場所がジャコメッティのアトリエなのだが、演劇的な物語となることもない。


アーティストのジャコメッティ(ジェフリー・ラッシュ)と、肖像画のモデルとなった作家・美術評論家のジェイムズ・ロード(アーミー・ハマー)とのやりとりが中心で、それに晩年のジャコメッティの愛人だった娼婦とジャコメッティの妻と弟がからむ。この人間関係は興味深いのだが、発展性がない。大げさにいえば永遠の現在――発展性のない、希望もない、凍結した現在時間の物語であって、時として眠気に襲われそうになっても、誰も責められないと思う。


では、地味で面白くない映画かというと、そうでもない。そもそもアーティストのアトリエというのは、それだけで、アート作品である。以前、東京の国立近代美術館でのフランシス・ベーコン展を見に行ったときに購入したクリアファイルのひとつが、ベーコンのアトリエを写真に撮ったもので、雑然としているごみ屋敷といってもいいのだが、さすがにアーティストの部屋、雑然感、カオス感のなかに、芸術性を感じられて、そのクリアファイル、いまでも私のお気に入りのファイルである。


それと同じで、ジャコメッティのアトリエも、べつにきれいでも美しくもないし、制作中あるいは未完の彫刻が所狭しと並べられ、開いている空間に芸術家がモデルを座らせて肖像画を制作するのだが、その雑然感、その未整理状態が、なんとも味わい深く、ジャコメッティの彫刻や肖像画とシンクロしてくる。


ちなみにジャコメッティが描く肖像画が油彩だとしたら、その溶剤をジャコメッティは灰皿(!)に入れていて、それに絵筆を浸している。この無頓着感(溶剤を灰皿に入れようが、空缶に入れようが、絵画の質には関係ないのだが)もまたジャコメティのアートと違和感なくシンクロしているのが面白い。ジャコメティの彫像は、人物の外部を削ぎ落したというよりも、ごみ置き場、廃材置き場から、周囲のガラクタを集めて生まれ出てきたような、そんな印象を受ける。アトリエ=廃材置き場からの機械的道具的生命あるいは廃材となった生命こそがジャコメティ彫刻ではないかという気もしてくるのだ。まあ、いずれにせよアーティストのアトリエもまたアートであることが納得できる。


もうひとつこの映画で感動的なのは、映像の色である。派手な色というよりも、むしろモノクロに近い地味な色なのだが、どうしてこんな色が出るのだろうと、見ている間、ずっと不思議に思い、また圧倒された。グレイといっても、茶色が入っているような、入っていないような、あるいは青色が強いような、強くないような、冷たくはない透明さというべきか、なんともすばらしい色合いのグレイで、見ていてうっとりする。


撮影監督のダニー・コーエンの映画は、『パイレーツ・ロック』(09/リチャード・カーティス監督)、『疑惑のチャンピオン』(15/スティーヴン・フリアーズ監督)、『英国王のスピーチ』(10/トム・フーパー監督)、『レ・ミゼラブル』(12/同監督)、『リリーのすべて』(15/同監督)も見ているが、こんな色合いの映像ではなかった。そしてお洒落な音楽とともに、この映画の、三歩進んで二歩あるいは三歩下がるような進行がもたらす眠気を払ってくれる。


三歩進んで二歩あるいは三歩下がるような進行というのは映画の悪口を述べているのではなく、ジャコメッティの肖像画制作過程がそうなのだ。ジェイムズ・ロードは、肖像画の制作過程を写真に残したから、わかるようなのものだが、ジャコメッティは肖像画の完成形がみえはじめると、絵の具で塗りつぶして、またゼロから始めるのである。だから、いつまでたっても肖像画制作は終わらない。ある意味、制作過程を楽しんでいる、あるいは苦しんでいることを楽しんでいるのであって、終わりや喜びではなく悲しみであり、終わらないこと、途中経過にこそ、生が意味があるという芸術観なのだろう。もちろんモデルになる人間にとってはたまったものでない。


だが、モデルになったジェイムズ・ロード(アーミー・ハマー)も、ものすごく嫌ではない、まんざらではないみたいなのだ。そこがこの映画のポイントで、はっきりいってこの映画はゲイ映画であることを隠している。ジェイムズは、モデル期間中、アメリカに電話をしていて、電話の相手は誰かわからないし、声も話し方も伝わってこないのだが、とくにはっきりことわっていないかぎり、相手は妻か女性の恋人だろうと想定できる。またジャコメッティには妻がいて、娼婦の愛人がいて、ヘテロ男性である。そこにゲイ的要素は入り込む余地はないように思えるのだが、ジェイムズ・ロードは実際にはゲイであったことが、プログラムやネット上のサイトで明示してある。そうジャコメッティとの交流は、ゲイ的なものがふくまれているように思われる。そしてまた終わりを拒み、過程を愛するアート、未完でしかないアート、それは終わりを目指すヘテロな欲望に抵抗するゲイ的な欲望の顕在化でもあろう。ジェイムズ・ロードは、ジャコメティその人というよりも、ジャコメティの芸術(とその制作)のなかにゲイ的は感性を見抜いていたのかもしれない。もちろんジェイムズ/アーミー・ハマーのギリシア彫刻のような、美術教室にある石膏デッサン用の彫像のような、堀の深い端正な顔立ちと、それを凝視するジャコメティの眼差しのなかに、ゲイ的要素は顕在化しているといえば、それまでなのだが。


もちろんスタンリー・トッチは、この点を明示していないのだが、同時に明示もしている。ジェフリー・ラッシュ(ジャコメティ)、アーミー・ハマー(ジェイムズ・ロード)そして俳優・監督のスタンリー・トッチ、みんな、これまでゲイの役柄で映画に出演している。だから、いわなくとも、わかれということなのかもしれない。


追記

ジャコメティの弟ディエゴ・ジャコメティ、どこかで見た記憶があったのだが、どこでみたのかがわかって納得したというよりも驚いた。テレビで見ていた名探偵モンクその人だった。変貌ぶりに驚いた。


posted by ohashi at 13:02| 映画 | 更新情報をチェックする

『不滅の棘』2

『マクロプロス』事件の原作では、マクロプロスは女性歌手だった。ところがミュージカル版では女性歌手から男性アーティストに変貌をとげる。戯曲版での女性とミュージカル版での男性(オペラ版では女性なのだが)への転換は、男性化することで、宝塚ミュージカルにふさわしい設定となったのだが(実際、この男性版マクロブロスは、宝塚ミュージカルの自己参照ともなっている)、この経緯を忘れれば、一人の主人公が女性から男性になるといいう受容史は、はからずも、ヴァージニア・ウルフの『オーランドー』の世界をなぞっているようなところがある。この興味深い符合は考える価値があるだろう。


もっとも、準備がまだできてないのだが。ファム・ファタール的女性、多くの男を虜にしつつも自分では誰も愛さない、愛せない女性はタイムトラヴェラーである。特定の時空間に所属しないのだから。いっぱうドン・フアン的プレイボーイ、多くの女性をとりこにしながらも、誰も愛せない、あるいは愛しているのは自分の死んだ母親だけという男性もまた、ヴァンパイア―という名のタイムトラヴェラーである。さらにいえば、どこにも所属しないファム・ファタールとドン・フアンは、どちらかいっぽうのジェンダーにも所属しないクィアな存在である。両性具有者となることによってタイムトラヴェラーによって始動する境界横断者の系譜が完結する。そしてそこからうまれる性的な官能的な魅力とな何か。まだ準備不足で語ることはできないのだが。


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ミュージカル版では全員白い衣装を身に着けていて、いろいろな解釈ができるのだが、それは置いておいて(また準備不足ということではない)、最初のほうの舞台装置が、宝塚劇場を離れたせいかもしれないが、ちょっとしょぼい、なにか玩具っぽい舞台装置だと内心、不満に思ったのだが、隣にいた編集者によるとあの舞台装置は、単純で簡略化されたフォルムと配置のなかに、チェコのプラハの様子を的確に示していて、よくできているという。兄のヨゼフの残した戯曲の舞台スケッチなども参照しているらしい。でも、え、そうなの?


そうらしいのだ。プラハの街並みやカレル橋の雰囲気は、あの単純な、やや抽象化されたフォルムの舞台装置で、見事にあらわされていると、プラハに行ったこともあるという編集者がコメントするので、そう思うしかない。不思議なことに、そうなると、玩具っぽい舞台装置と思ったいたのが、カレル橋を中心としてチェコの街並みが、なにかぼんやりと、しかし臨場感をもって立ち上がって来た。


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ちなみにその編集者から、第二幕の冒頭が面白いと言われた。原作ではステージか劇場を掃除しているところですよねと、答えると、そうだという。宝塚版では、その部分、アドリブで、おもしろおかしいことをして、劇場を盛り上げるのだという。たしかに幕間後の、後半の最初における3人のアドリブ・コントをみて、これかと思ったのだが、残念ながら、熱狂的な宝塚ファンではない私には、劇場が笑いの渦につつまれていても、なにがおかしいのか全然わからず、また楽屋落ち的なギャグも、当然、わからず。


あとで編集者の人に、どこが面白かったのか説明してもらったのだが、それはコアな宝塚ファンではないとわからないと納得した。ちなみにそのとき劇場にいたの9割はコアな宝塚とりわけ宙組ファンだったようだ。


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ルドルフ二世あるいはルドルフ二世の時代は、人気があって、西洋美術館ではルドルフ二世につかえたアルチンボルドの展覧会が最近まであり、渋谷の文化村ではルドルフ二世の時代展も開催されていて、ちょっとブームじゃないかと思う。チャペックの原作では、ルドルフ二世につかえた魔術師が、不老不死の薬を、娘に投与して、死なない娘ができあがることになっていた。この魔術師/科学者はシェイクスピアの『テンペスト』に出てくるプロスペロかという連想が働く。そして『テンペスト』ではプロスペロはもともとミラノ大公であるのだが、魔術に没頭するあまり、弟のアントニオに地位を奪われてしまう。これと同じようなことがプラハの宮廷でもおこっていた。つまりルドルフ二世が、魔術的世界の構築に没頭するあまり、弟のマティアスに実験を奪われることになる。ルドルフ二世の死後、マティアスは、神聖ローマ帝国の皇帝の地位を継ぐが、生前から彼が実質的に皇帝でもあった。


この歴史的に有名な兄弟争いを、『兄弟喧嘩のイギリス・アイルランド演劇』の著者は触れていない。バカかと言ってやりたい。いや、そんなボヘミアやオーストリアの話は英国演劇とも、シェイクスピアとも関係ないのではないかと反論されるかもしれないが、実は関係がある。だからこそバカと言っているのである。この点は後日の記事に。

posted by ohashi at 06:29| 演劇 | 更新情報をチェックする

2018年01月30日

『不滅の棘』

『不滅の棘』1

今月は、あわただしく、またトラブルもあって、映画も演劇もなかなかチャンスがなくて、ようやく昨日、宝塚宙組公演、愛月ひかる主演の『不滅の棘(とげ)』を日本青年館ホールで見ることができた。宙組といえば、今度トップになった真風涼帆主演の『WEST SIDE STORY』(国際フォーラム)のほうも見たかったのだけれども、時間もチケットもとれず。


とはいえ、この『不滅の棘』は、なんといってもチャペックの『マクロプロス事件』Věc Makropulos1922年)のミュージカル版なので、これは観ないと損だと、かなりの期待観をもって、青年館ホールへ。ただし宝塚公演を一人で見に行くことはできない私は、今回、チェコと宝塚の両方に詳しい編集者(『WEST SIDE STORY』は観劇済みとのことだった)との観劇となった。


『マクロプロス事件』は、日本語訳もあるのだが、私は英語訳で読んだ。英語訳は正確かどうかはわからないのだが、わかりやすい英語になっていることは確かで(あとチェコ語以外の言語は、英語に訳していなくて、後半、台詞のなかの多くのスペイン語が、そのまま)、興味深く読んだ。チャペックというとロボットの語源ともなった『RUR』があって、なんとなくSFというイメージがあるせいか、この作品もSF的設定をついつい連想してしまった。


『不滅の棘』もそうなのだが、たいてい永遠の命がどうのこうとのネタばれを平気で書いている記事が多い。これは、たぶん永遠の命がネタとは思われていない。当然の前提と思われているということかもしれない。チャペックの原作では、この点、謎が謎を呼び、最後まで緊張感が持続する。とはいえ途中から、この女性はタイムトラヴェラーではないかと予想がつき、タイムマシンを過去に発明したとも思えないので、未来から過去への干渉があり、そこでタイムマシンがもたらされたのかという、グダグダの想像が私のなかで最初に読んだとき生まれていた。


ちなみに私たちは、未来へ行くのにタイムマシンを必要としない。なぜなら放っておいても、私たちの身体は未来にむかってすすんでいく生体(あるいは有機)タイムマシンだからだ。ただ、私たちが乗っかっているこの生体タイムマシンは、現実の時間と同時進行で、それを超えることができないのと、また80年くらい先の未来にしか移動できないといううらみがある。そうなると100年、200年先の未来には、この生体タイムマシンではいけないので、マシンタイプのタイムマシンが必要となる(なんのこっちゃ)。そうでなければ、生体タイムマシンの到達限度のリミットを先延ばしする。つまり100年以上長生きできる不老長寿の薬という設定が必要になるのだが、この不老長寿薬の設定は、あまりに古くて時代がかっていて(錬金術の副産物であるエクセルシオールが不死薬なのだが)、最初、読んだときには、さすがに思いつかなった。


『マクロプロス事件』においては不老長寿の薬とその処方箋というのがSF的設定なのだが、ミュージカル『不滅の棘』はSF的設定からの離脱が認められる。つまり不老不死の薬あるいは魔法は、不死身の体へとシフトする。拳銃で撃たれても体内の弾丸を外に出して、死ぬことはない。不死身の体は、ミュージカル版では「アンデッド」とつながる。そして「アンデッド」といえば、それがゾンビではなければ、ヴァンパイア―、吸血鬼である。ミュージカル版では吸血鬼のイメージが含意される。それも魅惑的な吸血鬼に。


チャペックの原作とミュージカル版のあいだにはヤナーチェックのオペラ版『マクロプロス事件』が存在する。このオペラ版を観ていないので、なんともいえないのだが、チャペック自身は自作を喜劇として構想したのだが、ヤナーチェク版は悲劇として造られた。そしてミュージカル版では悲劇を踏襲しながらも、男女を変えた。とりわけマクロプロスを女性から男性に変えた。ヤナーチェク版ではマクロプロスは女性のようだが、宝塚版では男性に変えた。宝塚のミュージカルとしては、そのほうが、すわりがいい。


もちろんすわりだけの問題ではない。女性版のマクロプロスは、男を食い殺すファム・ファタールである。ファム・ファタールは、結局、どこにも属することもない女性タイムトラヴェラーということができる(彼女は国に所属しないコスモポリタンだが、さらには場所や親族だけでなく時代にも所属しないのだ)。一方、男性版のマクロプロスは、多くの女性に愛されても、たった一人の女性を除いて誰も愛さない、冷酷なプレイボーイである。長命であることを加味すれば彼はヴァンパイアーである。


チャペックの原作では、この長命とか不老不死をめぐって、ガチのというか真正面から考察が炸裂する。人間にとって、現在の寿命は短すぎないか。200年、300年生きることができたら、人間はどんなにすばらしいことがなしとげられるか、人間は進歩するか。だがそんなに長生きしたら、さすがに魂は長命の肉体の中で死んでしまうのではないか。むしろ人間には短命のほうがふさわしいのではないか。30歳のくらいの寿命こそ人間にとって幸福ではないか、とりわけ奴隷仕事にあけくれる庶民にとっては、とか。


また不老不死の薬の処方箋は公開すべきかどうか。優秀な人間に長生きをさせるべきではないか。だが誰が優秀で誰がとそうでない人間かの線引きを誰がするのか。そもそもそうした線引きの考え方を正しいとみていいのか……。ここには、当時の(あるいは今もなお残存する)優生学思想への批判もみられるのである。


チャペックの原作は、最後の方は、長命とか寿命をめぐって、人間とは何かというガチの思考が怒涛の炸裂をする。それは喜劇であり、思想劇である。


いっぽう宝塚/ミュージカル版は、二幕の様式のなかで、原作にあるセンチメンタリズムとセクシュアリティを取り出して見せる。第二幕では、最後の大団円をのぞけば、途中で、マクロプロスを愛しても彼に裏切られ、カレル橋から身を投げて死ぬ女性(原作ではピストル自殺する男性となる)の悲痛な姿が、情感たっぷりに提示されるところがクライマックスだろう。チャペックの原作では娼婦的なマクロプロスに捨てられてピストル自殺する男性については冷淡な扱いしかされていないのに対し、ミュージカル版では、涙を誘うように強勢が置かれるのである。


そしてミュージカル版の前半のクライマックスは、なんといってもマクロプロスのパフォーマンスだ。原作では人気女性歌手であったマクロプロスは、ミュージカル版では男性パフォーマーとなって、そのステージにおいて愛月ひかるの魅力が全開ということになる


最初、愛月ひかるは、女性のドレスで、女性歌手として歌い、また彼女がけっこう女性的であることもわかり驚くのだが、途中で、男になる。男の扮装になり、歌も男役の歌い方になる。この、かなり興奮する、女性から男性へのトランスフォーメイションのなかで、愛月ひかるは、手の甲で、唇を拭う。そのとき唇の口紅がとれて片方の頬をよごす。それは唇を大きくみせて口裂け女のようにもみえるのだが、女性性を消し去り男性になっても、消せない女性性が痕跡として残り、また女性性を消し去って上書きされる男性性という、両性具有性が強く暗示される。また、それは頬のキスマークにもみえて、マクロプロスのプレイボーイ性を強く暗示する。そしてもうひとつ。片方の頬を汚す口紅は、血のようにみえる。彼女/彼の血で赤くそまる唇と頬。そう、それは犠牲者の血を吸ったあとのヴァンパイアーの唇あるいは口そのものである。つづく

posted by ohashi at 17:33| 演劇 | 更新情報をチェックする

2018年01月05日

評議員会について

元横綱春日相撲協会の暴行問題に端を発する、ごたごたについて、五日にも評議員会による処分が確定して、池坊評議員会議長が悪役になっていて、しかも本人、自分が悪役だとは気付かず、ひたすら相撲協会よりの発言しかしてないのに、正義の立場を貫いていると思い込んでいるとんでもない愚か者で、まあ悪役として叩かれるのにふさわしいのだが、それとはべつに相撲協会が理事会と評議員会に分かれていることについて世間で違和感をもたれているようなので、以前、公益法人の業務に携わったことがあるので一言。


昨年12月、テレビ番組「ビートたけしのTVタックル」でゲストの池坊評議員会議長と司会のビートたけしとの間にバトルがあったようで、以下「ビートたけしが怒るって珍しい: 池坊議長と暴行事件で大バトル」と題された記事(J-CASTニュース / 20171218 1742分)を参考までに引用すると――


ビートたけしさんが日本相撲協会の池坊保子・評議員会議長と火花を散らせる場面があった。


2人は20171217日放送の「ビートたけしのTVタックル」(テレビ朝日系)に出演。元横綱・日馬富士の暴行事件で、被害者の平幕・貴ノ岩の師匠である貴乃花親方が「反協会」的な立場を貫いていることについて、真っ向から対立した。


池坊氏「もっと率直に仰らないといけない」


公益財団法人の日本相撲協会において、池坊氏は理事会を監督する立場にある「評議員会」の議長。「評議員会があって理事会があります」などと説明すると、たけしさんが「いろんな組織を自分たちの責任逃れで作ってんじゃねえの?」とかみついた。


すかさず池坊氏は「いえ、公益財団法人というのは国が決めたものですから、相撲界が決めたわけではありませんから」と返したが、たけしさんも「あんなもん国で決める必要ねえだろ」と応じた。以下略


バトルはほかにもあっただろうが、またこの記事が、実際のやりとりを100%正確に伝えているかどうかもわからないのだが、この通りだとすれば、評議員会を協会が責任のがれで作っているというのは、ある意味、とんでもない言いがかりで、協会は理事会と評議員会のシステムを、池坊議長のいうように、国に言われてつくっているのであって、好きで、あるいは責任逃れでつくっているのではない。と同時に、理事会と評議員会という二重体制は、どうにも解せないというのは一般の大方の意見のようだ。


私が関わった公益法人というのは日本英文学会のことで、公益法人についての規制が厳しくなり文科省の監督が強化されて、従来の理事会と評議員会との関係を見直し整備しなおす作業を余儀なくされ、たいへんだった記憶がある。そのとき理事会と評議員会というのはどういう関係にあるのか、その理念と制度上の特徴を自分なりに考えたことがある。


評議員会と理事会は、日本の国会と内閣のようなものだ私は考えた。テレビなどでは、会社組織になぞらえて理事会を役員会、評議員会を株主総会というふうに例えていたが、これも同じことを言っている。株主総会であれ、国会であれ、理事会が執行部なら、最終的議決機関が評議員会/株主総会となる。


この体制の特徴は、評議員会が、理事会よりもメンバー数が多いこと。評議委員会は国会であるので、そのメンバーは、ちょうど国会議員が、日本国籍を有する者から選挙によって選ばれるのと同じように、本来なら、相撲協会の協会員から選ばれるべきである。つまり協会メンバーの代表からなるのが評議員会だとすると、外部の人間がそこにいるということは、ありえないことである。しかも理事会よりもメンバー数が少ない。このへんは、かなりいい加減な組織づくりなので、本来なら文科省がきちんと指導すべきであるのだが、伝統ある巨大組織である相撲協会を前にして、文科省も腰がひけたのだろうか。


実際、相撲協会よりもはるかに小さくまた弱い公益法人である日本英文学協会は、文科省から厳しい指導受けて、国の規定にあうように組織形態を変えた。実際のところ、いまの相撲協会の理事会と評議員会のありようをみると、昔の日本英文学会の形態を思い起こさせる。しかも理事会が評議員を選らんだりしているのだが、たとえ規定どおりのことだとしても、これは内閣が国会議員を選ぶようなものであり、執行役員会が株主を、あるいは株主総会の出席者を選ぶようなもので、これややめたほうがいいだろう。


なお私が日本英文学会に携わっていた頃には、公益財団法人なので、やたらと調査やアンケートがあった。つまり理事とか役員とか評議員は常勤か報酬はどうなっているのか、など。日本英文学会は商売をしていないし、役員は皆、非常勤で無報酬だし、内部留保のようなため込んでいるお金もないし、まあ、規模は小さいので大きな顔はできないのだが、弱小とはいえ、絵に描いたような公益財団法人なので、なんの問題はなかったが、問題のある公益財団法人は多いのだろう。日本相撲協会のような、協会員ではなく、その運営のほうに問題がありそうな公益法人は徹底して調査をして膿を出しきってもらいたい。礼を失した言い方かもしれないが、物言いを表明したい。


posted by ohashi at 17:25| コメント | 更新情報をチェックする

2018年01月04日

嫌われ作戦

嫌われ作戦展開中。2018年度Academic Yearは私にとって最後の年度となるので、できれば、人知れず、そっと辞めることを目指している。辞める時が一番似合っていた(12日の記事参照)かどうかわからないが……。まあその器ではなかった職を定年で辞めることになるのだが、辞める時が一番似合っているのかもしれないものの、とにかくそっと辞めたいので、最終講義かそれに類するものは、しないことで迷惑がかかるので、それはするが、あと、お別れパーティのようなものも、教授会関係の惜別の回その他は、病気にでもならない限り、出席しないのは、まずいので、とにかく最低限の義務は果たすが、それ以上のことは絶対しない方針なので、逆に送り出す側に負担をかけないために、嫌われることにした。


もともと善人なので(こういう言い方をすれば嫌われることになるので、どんどんしていきたいが)、何をやってもよいほうにとられてしまい、嫌われ方がわからない(こういう言い方をすれば嫌われることになるので、どんどんしていきたい)。そのためささやかなかたちで不義理を働くことで、嫌われ度を上げていきたいと思っている。


もちろん不正なことはしない。ただ、年賀状は出さないし、また、年賀状に返事を出さないことをここ数年心がけている。ここ数年、一通の年賀状も出していないし、いただいた年賀状は、ありがたく受け取るが、それに対して一通も返事をしていないので、そろそろ、失礼な奴だと嫌われ度がいよいよ上がるのではないかと期待しているのだが、今年も、年賀状は、返事をふくめ一通も出さない。


最終的には、自分を偽って好かれるよりも、本当の自分をさらけ出して嫌われたほうがいいというのが目的なのだが。まあ、そこまでかっこいいことにはならないという確かな予感はあるのだが。

posted by ohashi at 10:15| コメント | 更新情報をチェックする

2018年01月03日

教育関係者

元横綱日馬富士の暴行障害事件について、日本相撲協会の対処法が正しいかどうか、私には判断を下せる見識なり資格なりはないが、どうしても解せないことがある。私の誤解であればいいと祈っているのだが。


今回の騒動というか事件、何が起こったのかについて、なにも解明されていないように思われる。最初の伝えられたことは、どうやら元横綱日馬富士や横綱白鵬らが口裏合わせをして周囲に伝えたものであって、その後の貴ノ岩の証言からつきあわせると、どうも事件の真相ではないように思えてきた。もちろん貴ノ岩の側の言い分も、自己弁護として事実をねじまげているのかもしれず、真相は藪の中という様相を呈してきた。結局、このまま真相はわからないまま終わってしまうのだろうか。


唯一の救いは、現場に教育関係者がいたことである。残念なのは、彼らの声が全く聞こえてこないことだ。私も教育者のはしくれだから、二つの教育者像を確認したい。つまり教育者のよいイメージと悪いイメージ。どちらの立場にいるかによって、よいと悪いはいれかわる。


ひとつは、不偏不党の立場から、真実をねじまげることなく語れる人間というものだろう。もし元横綱日馬富士の暴行現場にいあわせたら、何が起こったかについては、口裏合わせをするモンゴル勢(実際にそうしていなくても、そうしているような印象を与えている)や事なかれ主義の日本相撲協会関係者とは一線を画して、真実を臆せず語る人間、またそれゆえに真相を明らかにする際、信頼するに足る人間、それが教育者であろう。なにしろ教育者である彼らは学校で生徒に対して嘘や不正はいけないと口をすっぱくして語っているのだから。嘘をつくなと教えているはずだから、みずから範を示して当然である。現場に教育者がいたら、彼らは、信頼するに足る証言者となりうる。


しかし、もうひとつの教育者のイメージがある。空気をよみ忖度し時流にさからわぬ事なかれ主義の人間。実際、暴行事件のあと、貴ノ岩に白鳳や元横綱日馬富士と和解するように促し、貴ノ岩が頭を下げ握手したというの、すべて挙育関係者の助言だという。となると暴行を目の当たりしても、また暴力による制裁を加えて、そのあとラーメン店に行った白鴎や元横綱日馬富士を告発もせず、相撲協会の顔色を窺い、相撲協会以上に、事件をもみ消そうとしたのも教育関係者である。空気を読み、忖度すること、その重要性を生徒に教え、生徒からバカにされる教育者――これもまた教育者像であろう。


おそらく教育関係者は暴行現場にいなかったということだろう。彼らが帰ったあとに事件は起こったのだと思う。そうであることを祈りたい。そうでなければ、その場に居合わせた教育者は警察による聴取を受けたとしても、彼らの目撃証言は、相撲協会とか相撲関係者に都合のよいだけの中身のないものと捨てられたとしか思えない。その場に教育関係者はいなかったのだろうと思う。いたというのは私の誤解でありますように。



posted by ohashi at 23:04| コメント | 更新情報をチェックする

2018年01月02日

辞める時が

Nothing in his lifeBecame him like the leaving it.


シェイクスピアの『マクベス』のなかにある台詞で(1.4)で、国王に反旗を翻して破れ処刑されるコーダー(耳で英語の台詞を聞くと「コード―」と聞こえるのだが)の領主について、「彼の人生のなかで、人生を捨て去るときほど、彼に似つかわしいものはなかった」と言われるのだが、不思議な台詞だと思っている。


人生を去る、つまり死ぬときほど、彼に相応しいものはなかったというのは、どういう意味だろうか。この台詞は、報告として語られるので、その時のコーダーの領主がどのような言動に及んだのかは、舞台上で示されることはない。ただポランスキー監督の映画『マクベス』(1971)では、コーダーの領主の処刑場面が映像化され、そのとき首に縄をかけられた領主は、高いところからみずから勢いをつけて飛び降りて死ぬ。命乞いをしたり、暴れて無理や突き落とされるということはない。つまり潔く死ぬ、あるいはあっぱれな死にざまなのである。


まあ、たぶんそういうことだろうと思う。だから、この台詞で言わんとしたのは、見事な死にっぷりでしたということだろう。


ただ、それでも気になるのは、だったら、そういえばいいのであって、似合っている、似つかわしいという表現は、やはりなにかひっかかる。つまり行為ではなく性格について語っているように思われる。つまり彼は、王様になるときには、なにかぎこちなく、その地位にふさわしい威厳とか権威を欠いていて、王様には、似合っていないように思えるのだが、王様をやめるとき、戦いに敗れたとか、暗殺されるとか、没落とか、退位させられるとか、処刑されるとか、そういう時には、実によく似合っていた、いかにも没落する王者、退位する王者に似合っていたという意味になる。


これはこじつけめいた説明ではない。『マクベス』には体に合わない衣服のイメージがある。新しい地位の服が似合っていないということから、体に似合わない衣服を身に着けて芸をしたり笑いをとったりする道化にそっくりという暗示がある。また人生は歩く影法師というように人間は役者、人生は演劇、世界は舞台という世界劇場のイメージもある。だから、王様もふくめ、なんらかの地位なり役割と、それをうまく演じられるか演じられないかという役割演技のテーマは通奏低音のように作品の底流にある。


そのため、こうなるのだろう。コーダーの領主は、領主の演技はあまりうまくなかったけれども、領主をやめるとき、没落するとき、処刑されるときは、実にうまく演じた、てらいも気負いも迷いもなく、敗北し処刑される人間を堂々と演じきった。あるいは領主という立場とは相性がよくなかったけれども、だめ領主、領主失格というときの演技は、たぶん本人の性格と相性がよく、違和感がなかったということになる。


もちろんこれは悲劇一般についてもいえて、主人公は、その役割をやめるとき、人生から降りる時が一番似合っているのである。また相手を非難するときにも使える。その役割、あなたには荷が重かった、いまこうして辞任するとか退職するときこそ、あなたに一番似合っている、つまりあなたはその器じゃなかったというような。まあ、学生には、私は責任をもたないけれども、誰か嫌な人がいたら、こう言ってやるといいよ、と(なお、これはいさぎよく辞めたという意味にもなるので、必ずしも一元的に非難の言葉にならないかもしれないが)。


とはいえ、こういう冗談も冗談でなくなってきた。私自身が2018年をもって、この職を辞めることになったからだ。あいつは、この職の器じゃなかった。だから、こうして辞めるときが、あいつに一番似つかわしい。辞める時が一番似合っていた……。まあ、そう思っていても、また自分でもそう思っているのだが、どうか情けをかけて、言わないでね。なさけなくなり、悲しくもなるので。

posted by ohashi at 09:08| コメント | 更新情報をチェックする

2018年01月01日

年頭の所感

手帳は4月はじまりにしているので、年末に手帳を買い替え、元旦に一年の目標を書くというような習慣はなくなった。とはいえ持ちあるくのではない、机上用の少し大きめの手帳、それも1月はじまりの手帳を、ちょっとした記録用として購入していて、その最初のページに一年の目標を書くこともある。


サミュエル・ベケットの『クラップ最後のテープ』は、主人公の老人クラップが、若い頃から毎年誕生日にテープレコーダーに録音していた所感を、誕生日に聞き直すというだけの芝居だが、これがけっこう人気があって、よく上演される。この芝居のポイントは、老人となったクラップにとって若い頃に録音した内容が、まったく意味不明のものとなってしまうということである。若き日、失恋によって絶望の淵に立たされながらも、芸術家として畢生の大作を完成させるという決意を述べる録音も、老人のクラップには、何一つ訴えかけないのである。最後に呆然として虚空をみつめるクラップ。なんという悲劇。おそらくこれは誰の人生にも起こりうることだろう。まさに不条理としての人生。


だが、ベケットの芝居を見て、これが不条理としての人生だと言っていられるうちは、まだ不条理を生きていないともいえる。というのも、机上の手帳の最初のページに昨年の正月、私は一年の目標を箇条書きにして書いていることを発見したからである。たんに気まぐれで書いているわけではない。けっこう考え抜かれていて、計画のひとつ、ひとつに完了する月まで設定している。ある計画など、3月末を最初の計画完了日として、もし、その日までに完了できなければ、5月末日までには完了することと、計画の変更や延長までも視野に入れたメモを残している。


驚くのは、昨年の正月に書いた計画について、どれひとつとして実現あるいは完了しなかったことだ。それどころか、昨年の正月に計画を練って、大判の手帳に書き込んだことすら、忘れていたのだ。ああ、クラップの最後の手帳。これこそ不条理……


posted by ohashi at 01:02| コメント | 更新情報をチェックする