2017年12月31日

『アテネのタイモン』2

この作品の現代性というのは、弁証法を拒んでいるところである。またそれゆえに、すごく面白い芝居だが釈然としないものが残るし、そしてその違和感が、現代性へと私たちを導くカギとなるのである。


彩の国さいたま芸術劇場の見事な公演をご覧なった方なら、シェイクスピア作品の特異性をつぶさに見て取られたと思うのだが、その一番の要因は、前半と後半に分かれるプロットにおいて、本来なら、またそうなってしかるべきなのだが、前半の世界とは、まったく対照的な後半の世界が、それほど対照的でもなければ、また本来大きな差異があって当然のところ、差異がないことによる。


たとえば前半でタイモンは、たかるだけたかって、困った時には援助してくれないハイエナのような友人たちに、復讐すべく、石を食わせる宴会をもよおしたのち、森で隠者のような生活をはじめる。本来なら、都市(アテネ)から森の世界に移行し、そこで贅沢三昧とも無縁な、またハイエナのような友人たちもいないなかで、時には呪いつつも、穏やかな日々を送ることになろうという展開を期待するのだが、そうはいかない。


正・反・合という弁証法の三段階のうち、都市での富豪としての大盤振る舞いの生活から、無一文だが心穏やかな牧歌的生活への移行は、「正」から「反」への移行であり、その先、富豪生活でもなければ、乞食生活でもない、贅沢すぎることもなければ貧窮生活でもない、ちょうどいい質素で豊かな生き様というのが立ちあがれば、「合」が実現して、弁証法的進化が完了する。シェイクスピアは『タイモン』でこれを拒む。というのも無一文になって森で隠遁生活を始めるタイモンは、森のなかの埋蔵金貨を発見する。そしてこの金貨をもらうべく、タイモンのもとへ人が集まってくる。何も変わっていない。前半の問題のある世界から縁を切ったはずの、後半の世界もまた前半と同じ、前半の反復にすぎなくなり、「反」へと移行はできないのである。


写真のネガとポジという比喩は、若い人にはわからなくなっているのではと思い、良い比喩なのだが最近は使うのをあきらめ、そのかわりに、もっと古いところの、絨毯の裏表という比喩を最近は多用している。その比喩でいえば、『タイモン』の前半と後半は、絨毯の裏と表みたいなもので、物語の輪郭は同じなのである。ただ見え方が違うのだが、しかし、同じ物語の反復であって、発展性はない。同じ物語を趣向を変えてもう一度見せられているだけで、その先がない。絨毯の模様をひっくり返して裏から見ているだけというのが、この芝居なの


たとえばタイモンは、前半では、財力にまかせて贅沢三昧の大盤振る舞いをする。それはタイモンのゲストにありがたがられるというよりも、ゲストからは利己的な欲望しか引き出さない。見境のない大盤振る舞いは、最終的に贈与者も授与者も、ともに堕落させてしまう。タイモンの友人と目されていた人は、タイモンが金に困るようになると助けるどこから見向きもしなくなるが、タイモンの財力が回復したと知ると(実はフェイク・ニュースなのだが)、またおこぼれにあずかろうと集まってくる。ハイエナである。だが、同時に、タイモン自身にも問題があり、そうした大盤振る舞いは善意によって恩恵を施そうとするよりも、自己満足であり自己尊大化が垣間見え、ひそかにゲストのなかに悪意をはぐくんでいるのではないかと思われる。ゲストたちは、生まれながらのハイエナなのか(そうだととれるのだが)、同時に、ハイエナにさせられているようにもみえる。


そして財産が尽きる。破産したタイモンは、森での隠遁生活をはじめる。だが、このときもタイモンは見境のない大盤振る舞いをするのだ。忘恩の徒にむかって悪罵を投げつけるだけではない。人間そのもののあさましさを、呪い続けるのだが。それは見境のない善意の大盤振る舞いのネガ、いや絨毯の裏にすぎない。どちらも限界のある極端から極端へと移行するだけで中間がない行為、あるいは前半の反復に過ぎない後半でしかない。


このことは作中で、みんなから犬と呼ばれているアペマンティスが指摘しているところである。「犬呼ばわり」については最初読んだときには気づかなかったが、いまようやくにして、蔑称だが、同時にギリシアの「犬儒派」哲学者たちのことでもあると気づいた――気づくの遅くなりすぎたのだが。極端から極端へ、そして中間がないというのは「正・反・合」の弁証法の過程において「正・正」とつづくだけで、「反・合」への転換が立たれていることを意味する。


こうしたタイモンの絨毯の裏でしかない反復行為は、先がなく、救いもないのだが、それと対照的にアテネを追放された武将アルシバイアディーズは、アテネの支配層の悪辣さにうんざりして追放処分を受け入れるのだが、タイモンのようにアテネを呪い、アテネを攻撃するのだが、タイモンとは異なり、最終的にアテネの人びとと和解する。そこにはタイモンと同じくアテネの人びとを呪う立場にあるのだが、タイモンと異なり、アテネと交渉し、最後には寛容な態度を示して赦しを与え、アテネ市民に英雄として迎い入れられることから、タイモンを問題のある、救いのない存在とすれば、同じ境遇にあってもアルシバイアディーズは、一歩先に行き、和解を求め、止揚(アウフヘーベン)を達成する。


と、そう考えていたのだが、今回、舞台でアルシバイアディーズをみると、あながちそうではないのではと思えてきた――これは決して演出のせいではなく、私の偽らざる感想なである。つまりアルシバイアディーズも、タイモンという絨毯の表模様に対する絨毯の裏だとしかみえなくなった。彼が英雄としてアテネに凱旋することをタイモンとは一線を画す賢明な行為とみるのは、間違いで、その賢明かつ寛容な姿勢も、全世界を呪うタイモンの呪いの対立物というよりも裏面、同様の反復にすぎないのではと思えてきた。むしろいっさいの和解を拒み排除しつづけるタイモンのほうが潔く、和解し赦すアルシバイアディーズのほうこそ狡猾な二枚舌的政治家のようにもみえてしまう。


そう、もしそう考えれば、弁証法の拒否は、弁証法の安易さ、そこにひそむ問題の隠蔽などを見抜いた作者が、あえて和解をせず、消えていくタイモンのほうに、救いはない、その人生に、ある種の可能性をみたといえなくもないのだ。


そしてまさにそれが『アテネのタイモン』を現代に開かせる原動力となったのではないかと思う。今回の上演をみて、あらためて、この劇の特異性と現代性に思いをはせないではいられなかった。


今回の吉田鋼太郎演出・主演の『アテネのタイモン』は彩の国さいたま芸術劇場では29日に上演が終わったが、他の場所でも成功を収めることを確信している。

posted by ohashi at 06:42| 演劇 | 更新情報をチェックする

ルージュの手紙

原題はフランス語でSage Femme-「女性の賢人」「賢い女性」かと英語からの発想で理解したが、おそらくそういう含意もありつつ「助産婦」(今では「助産師」というべきだが)を意味する。そして「助産婦」ということであれば、この映画をみて納得する。カトリーヌ・フロー演ずる助産婦の人生の転機に起こった、と同時に、転機を導くことになった、カトリーヌ・ドヌーヴ扮する義母との再会が映画のメインとなる。主役はカトリーヌ・フローで、ドヌーヴはゲストである。


助産婦の物語と最初から情報をあたえられていれば、出産シーンがあって、生まれたばかりの赤ん坊の姿を何度も目撃(たぶん5回)するのも納得がいくが、母と娘との葛藤の話かと思うと、肩透かしをくらう。


しかも母娘物といっても、義理の母と娘であって、血がつながった親子ではない。もちろん、血がつながっていないからこそ、そこに生まれる絆のようなものの貴重さが際立つといえば際立つのだが、それとは裏腹に、映画のなかで主人公の女性の実の親のことはよくわからない。映画のなかで助産婦のカトリーヌ・フローの実の母親は生きているのか死んでいるのかよくわからない。彼女の夫もどうなっているのかわからない。


ちなみに映画のなかで彼女の長男が、彼女の父親とそっくりになったことがわかる場面もあるのだが、このとき、一瞬、長男が、彼の父親とそっくりになったと勘違いしてしまう。実際には長男は、彼の祖父とそっくりになったのだった。何がいいたいかというと、この映画のなかで親子というような上下関係は実は希薄で、そのぶん血のつながらない横のつながりが強くなるように思われるということだ。そして上下(血がつながる)と水平(血がつながらない)という二つの人間関係の交点が、ドヌーヴとフローとの疑似親娘関係であることを指摘したいのだ。


この母と娘は、親子というよりも姉妹にちかい(カトリーヌ・フロは49歳という設定だが実年齢61歳で、ドヌーヴとは10歳くらいしか年齢差がなく、見た感じも姉妹である)。事実血のつながらない二人の女性でもあって、上下関係と水平関係の交点となっている。そして互いが互いのメタファーとなっている。水平的な友人とか恋人関係が、親子関係にもみえてくるし、親子関係が友人関係にもみえているというような。


カトリーヌ・ドヌーヴ扮する義理の母親は、まあ奔放な女性というか、破天荒な女性で、フランス人の庶民の出でありながら、ハンガリーの貴族とか王族と名乗っている。これだけで経歴詐称の立派な詐欺師なのだが、基本的に住む場所をもたない風来坊というかホームレスに近く、それでいてギャンブルには強くで、大金持ちではないが、金には困っていないようだ。彼女が義理の娘に、けっこうな大金を貸してくれるように迫るところがある。見ている側は、ああいういい加減な女性に絶対に金を貸すなと思うのだが、結局、娘のほうは母親に金を貸す。幸い、母親のほうはあとでギャンブルで稼いだ金で借金を返して、事なきを得るのだが、それにしても、金銭に関する、よく理解できない処理方法など、ドヌーヴ演ずる母は、あやしすぎる。


とりわけ、あの小切手の場面。私なりに理解すると、たとえば利息込みで90万円金を借りるとする。金を返す時には90万円の小切手を渡せばいいのだが、100万円の小切手を渡す。そして相手から差額10万円を現金でもらう。この場合、相手は、小切手を換金すれば100万円手にはいり、余分に10万円手に入ることになるが、その余分の10万円を、私に与えてほしいということのようだ。こうやって小切手と現金の関係、ならびに小切手を換金できるまでの時間差を利用して、現金を入手できるようにするというのは、違法ではなく、また信頼関係とリスクとが共存しつつ、なんだかあやしい、詐欺の一歩手前という感じもしないわけではない。一般的なことなのか全然わからない。だが、それにしてもドヌーヴが金を借りた相手の年配の女性、映画を見ているときにはわからなかったが、ミレーヌ・ドモンジョだった――なつかしすぎる。


結局、このドヌーヴ演ずる母親、すでに述べたように風来坊の詐欺師でばくち打ち、自己中心的でそれでいて憎めない人間的魅力をそなえた女性である。そう、彼女は、女性版・フランス版寅さんじゃないか。そしてどこからともなく現われ、そして去って行った寅さんとの交流によって人生の転機あるいは新しい人生の一歩を踏み出す助産師の女性というのが、この映画のテーマだろう。


山田洋次監督の世界といえば、まさにそのとおりではないかという気がする。映画には、たとえばダルデンヌ兄弟の映画にもよく出ているオリヴィエ・グルメも重要な役で登場するが(彼は黒沢清の『ダゲレオタイプの女』にも出演してるのだが)、淡々と日常を描くという点で、ダルデンヌ兄弟監督の映画と共通点があるものの、タルデンヌ兄弟監督にある社会悪や不正に対する冷徹な眼差しというものない点で、まあ寅さん映画的ではある――それだから悪いということではない。ただ、主題面でも寅さん映画であることを見る側も認めるべきであって、そうではないような映画会社の売り方や観客の反応はどうかと思う。


また、このような主題面における特徴は、前作『ヴィオレット』とも違っているのだが、これは基本的に無関係ながらエヴァ・イヨネスコ監督の『ヴィオレッタ』を思い出した。ちなみに今回の映画のタイトルを『ルージュの手紙』ではなくて『ルージュの伝言』と覚えていた人を知っていて、ユーミンの歌じゃないのだからと思いつつ、同時に、映画会社の戦略は、そうしたまちがいを誘発するものだったかもしれない。またマルタン・プロヴォ監督の前作『ヴィオレット』も『ヴィオレッタ』との混同をするのは、私だけかもしれないが、奇しくも『ヴィオレッタ』は『ルージュの手紙』に通ずる面がある。どちらも変な困った母親にふりまわされる娘が主題ともなっている。


『ルージュ』のほうは、最終的に寅さん的母親に惹かれ、また寅さんのごとく去っていく母親(実際には余命いくばくもない母親が自ら身を引いて、入水自殺したことが暗示されるのだが)との和解が生まれるのに対して後者は母親から逃げていく娘の姿で映画が終わる。最終段階での母と娘の関係は正反対かもしれないが、困った母親、強権的な母親に翻弄される子供、とりわけ娘という点で共通しているし、これはフランス文化における定番の主題という気もしないではない(『ヴィオレット』にはボーヴォワールが登場するが、彼女の娘が書いた、親のせいで『狂わされた娘時代』というような本も翻訳されていて、問題のある母親と子供とりわけ娘との関係は文化によって時代によって脚光を浴びることもある)。と同時にクリュタイメストラとエレクトラは永遠のテーマかもしれない。そんなことを血の繋がっていない母と娘との映画をみて考えた。





posted by ohashi at 03:37| 映画 | 更新情報をチェックする

2017年12月27日

『アテネのタイモン』1

松岡和子氏による訳『クラウド・ナイン』は、チケットを自分でも購入していたところ、招待状が来たので、購入済みのチケットは知人に譲ったのだが、今回の『タイモン』は最初から購入をあきらめていたものの、気にはなっていて、招待状が届いたときは、確かに、ありがたかった。たぶん松岡さんからの招待状だと思うのだが(ちがっていたらごめんなさない)、さっそく、夜は行きにくい彩の国さいたま芸術劇場に昼間、足を運んだ。


『アテネのタイモン』はシェイクスピア劇のなかで私がたまたま劇場でみたことがない作品のひとつで(シェイクスピア劇では、頻繁に上演される人気作品と、めったに上演されないマイナー作品との落差が大きいのだが、それでも、私はシェイクスピアのほとんどの作品を劇場でみることができた――『終わりよければすべてよし』と、この『アテネのタイモン』以外は)、また最近、たまたまかもしれないが院生が書く修論が、あろうことか『タイモン』を題材にすることがけっこうあって、べつにそんなに好きでもない『タイモン』についての論文を読んできたこともあり、舞台でその特徴を確認できるのは、ある意味、幸運であった。


吉田鋼太郎演出・主演の『アテネのタイモン』は、蜷川幸雄演出・松岡和子翻訳の彩の国シェイクスピア・シリーズを受け継ぐものだが、吉田演出の第一作として、蜷川幸雄演出だったら、どうだろうかとも考えたのだが、答えは出なかった。蜷川だったら別のかたちの演出をしたのか(この場合蜷川演出とは一線を画す吉田演出ということになるが)、蜷川でも同じような演出なのか(この場合は、吉田演出が蜷川演出を継承するということになるが)、それはわからなかった。またいくら優れた俳優でも、演出とか芸術監督になるというのは、別の才能であり、ふつうなら、かなりむつかしい仕事となるのだが、吉田鋼太郎は優れた俳優であるだけでなく、みずからも劇団AUNを主宰し(そこではシェイクスピア作品を上演することも多い)、演出家としての顔もある。その意味で、今回の『アテネのタイモン』は、戸惑いやぎこちなさなどない堂々した演出であり見る者を飽きさせない、いやそれどころか刺激的な舞台を構成していた。


また今回、舞台でみてあらためて感じたのだが、この作品、タイモンの独り舞台であって、もちろん前半と後半に同じ人物が二度登場してタイモンにからむのだが、みなタイモンの棲む空間へのゲストであって、タイモンのホスト役は固定しているといってもいい。その意味で、吉田鋼太郎のほかに、藤原竜也、柿澤勇人、横田栄司(執事役だが)といった主要人物も、重要だが、タイモンが迎えるゲストあるいは脇役というかたちになって、タイモンの独り芝居としての側面が際立つ。またほんとうの脇役を、すべてではないが、劇団AUNの俳優が固めているし、カクシンハンの二人(河内大和と真以美)もいるし、またカクシンハンの舞台にも出演しているAUNの劇団もいるということで、カクシンハンの舞台を観ている者にはなじみ深いともいえる雰囲気もあったのだが、それはともかく、内容と上演両方において、吉田鋼太郎は、ホストであった。その意味では芸術監督就任の第一作にふさわしい作品を選んだともいえる(もっとも就任以前から作品は決まっていたかもしれないが)。


この作品は、翻訳者である松岡和子氏がプログラムでも書かれているように、シェイクスピアとトマス・ミドルトンの共作とされている。そのためどこかシェイクスピアとは異なるような、またどこかミドルトン劇を思わせるような図式化めいた明確さがあるような、またその結果、どちらの作風にも通じながら、同時に、どちらの作風とも異なるような、不思議な芝居が出来上がった。そしてめったに舞台にかけられない、この作品が、みてみれば、たとえばどこまでがシェイクスピアで、どこまでがミドルトンかわからいことなど忘れてしまうほど、力強い芝居となっている。


この作品、『リア王』や『マクベス』以前に書かれたか、それ以後に書かれたか、よくわからないのだが、いわゆる四大悲劇以後に書かれた作品としてみることができるくらい、後期シェイクスピアにふさわしい、創造的破綻に満ちた作品ともなっている。いいかえれば現代性が横溢する作品となっている。現代性? それは弁証法を拒否しているからである。つづく

posted by ohashi at 11:15| 演劇 | 更新情報をチェックする

2017年12月24日

『ユダヤ人を救った動物園』1

以下、「映画に明け暮れる毎日。年間500本を越える鑑賞本数。我ながら半端ではないね。」をうたい文句にしているブログのなかにあった記事。ひどい記事なので、修正しておきたい。また年間500本映画を見る機会があるのなら、少しは勉強でもしろ、と、この*******に言ってやろう。


映画『ユダヤ人を救った動物園 〜アントニーナが愛した命〜』(Zookeeper's Wife(2017)に関する記事の途中に:


ヤンがゲリラに加わり街頭戦で首を討たれて重傷を負う。ドイツ軍に捕らえられたことは事実で、夫の行方を探るためにヘッツのアパートへ押しかける。情報を教える代わりに交換のものをとアントニーナはベッドに押し倒される。


映画はセックスがあったかどうか顛末を伝えず、次のシーンに移動するが、おそらく身体を許したに違いないと僕は疑う。


とある。まずヤンがゲリラ活動に加わり街頭戦での部分。これはただのゲリラ活動ではなくワルシャワ蜂起の一場面。アンジェイ・ワイダの『地下水道』の世界でしょう。そんなことも知らなくて、偉そうにブログの記事なんか書くな。偉くなければブログを書くなということではない。ただ無知な人間が、偉そうに映画紹介なんかするなということだ。


ナチス占領下のポーランド国内軍がラジオで市民に蜂起を呼びかけ、ヨーロッパ全土にむけて放送をしている。こういうのはゲリラ戦とはいわない。


ワルシャワ蜂起やワルシャワのゲットーを扱った映画は、『地下水道』のほかにも、有名なところでは、ポランスキー『戦場のピアニスト』があるが、映画『二つの名前を持つ少年』にも印象的な場面があった。数年にわたる物語は、節目節目に年月日が字幕として入り、やがて少年が向かうワルシャワ市とワルシャワ蜂起の年が重なってくることがわかり、彼が大きなトラブルに巻き込まれるのではと、けっこうはらはらする。ただし蜂起の時期、少年と、途中でいっしょになった少女はロシア軍に助けられ、移動することになるが、ロシア軍は、遠くに戦闘状態のワルシャワ市を臨む丘で進軍をやめる。少年が、ロシア兵に「おじさんたちは闘わないの」と聞くと、ロシア兵たちは、ただ黙って、微笑んでいるだけ……。


なお「映画はセックスがあったかどうか顛末を伝えず」とあるが、あの場面で、将校は、彼女にYou disgusted meと言われて、ひょっとしたら自分を愛しているのではないかという甘い幻想を打ち砕かれ、レイプするのを思いとどまる。ことは映画をみればわかるはず。


まあこの*********は、試写会かなにかで寝ていたか、あるいは映画を見ずに記事を書いているとしか思えない。ちなみに、主人公をレイプしそうになる将校というのは、最近のナチス物映画では、お約束のように出演しているダニエル・ブリュール。


で、つづきを読むと:


ナチの恐怖やユダヤ人の悲劇、アントニーナの貞操モラルなどを飛ばして動物園を描くので、気が付くと戦争は終わって1945年の秋になっている。ドイツ敗戦から5カ月が経っているのだ。


そんなことで、この「救出活動」がドイツ兵に見つかったら自分たちだけでなく息子、リスザルド(ヴァル・マロク)の命すら狙われてしまう。危険を冒しながら、アントニーナはいかにして300人のユダヤ人の命を救ったのか?と言う肝心な描写は曖昧のままだ。


ウソだろう。この********。どうやってかくまい、どうやって逃がしたか。地下室の構造はどうなっているか、地下室から外に行くトンネルは、どうなっているか、ダニエル・ブリュールが家宅捜索に来た時に、きちんと示されるのではないか。地下道から外に出て、そこでトラックに乗せられたユダヤ人がどのように逃亡を助けられたかはわからない。動物園は中継基地であり、そこから先は救援組織がめんどうをみるということだろう。そこまで描かなくてはいけないとしたら、映画や小説は成立しない。また、とにかく、この*****は映画を見ずに記事を書いているか、あるいはナチスの非道さを訴えたり、ヒトラーくたばれということを叫ぶと、かちんとくるネオナチなのだろう(彼らのナチスの暴虐を描く反戦映画に対する攻撃を絶対に許してはないらない)。


映画のテーマとして曖昧に描かれているのは、自らの命の危険を冒してでも、ナチス・ドイツに対して勇敢に立ち向かった夫婦の強い信念なのだがポイントを外れた描写ばかり。終戦の平和になった動物園の事務所の柱に「ダビデの星」を描くアントニーナとトムの姿はテーマを強調するための「蛇足」の感がある。


これを蛇足だというこの*******は、ユダヤ人を助けた「善き人」「義の人」「正しき人」を蛇足とでも言いたいネオナチなのだろう。


主人公・アントニーナを演じるのは、シールズのウサマ・ビン・ラディン暗殺を描く「ゼロ・ダーク・サーティ」に主演してアカデミー賞他多くの賞レースにノミネートされたジェシカ・チャステイン。強さと優しさを兼ね備えた美しい女性を熱演している。


まあこれは上記の記事は今年の9月に書かれているらしいので情報が古いが、東京では、いまも『女神の見えざる手』を上映中。ジェシカ・チャスティンはブスというつもりはないが、彼女は性格俳優でしょう。演技はうまい。また独身で自立して頑張る女性の役と、同時に、妻役も多く(『ツリー・オブ・ライフ』とか『アメリカン・ドリーマー』とか『ヘルプ』や『テイク・シェルター』)、ワイフ女優でもある(こういう言い方はないと思うが、しいて言えば)。今回も妻として母としての演技が光る。そしてジェシカという名前から、彼女はユダヤ系である。その彼女が、ユダヤ人を助ける動物園の妻役を演じ、戦後、犠牲になったユダヤ人の追悼の意味をこめてダビデの星を動物園のそこかしこに描くときの、彼女自身の心境はいかばかりのものかと想像してしまう。



監督はニュージーランド出身の41歳、ニキ・カーロ。長編2作目の「クジラ島の少女」(03)は世界の注目を集め数々の賞を授与されている。ハリウッドに招かれた女流監督は戸惑いながら演出をしている。


なにをもって戸惑っているのかわからない。むしろ『クジラ島の少女』の監督は思えない、歴史巨編ともいえる映画に仕上がっていて、その堂々たる演出に、ぶれなどないように思われえる。おそらく試写会で寝過ごしたか、あるいはヒトラーくたばれと叫ぶ子供がいて居心地の悪さ、戸惑いを感じたネオナチが、自分の戸惑いを、監督の戸惑いに投影したのだろう。この映画に戸惑いなど断じてない。つづく

posted by ohashi at 02:47| 映画 | 更新情報をチェックする

『プラハのモーツァルト』

『プラハのモーツァルト 誘惑のマスカレード』Interlude in Prague(2016)


Trio in Pragueのタイトルでもあったかもしれないが、私が観たスクリーンではInterlude in Pragueだった。


すごく感動的だとか深い感銘をあたえるとか芸術的に満足感を与えるとか刺激的というような映画ではないが、また、堂々たる劇場映画というよりも、テレビの2時間ドラマという感じの映画だが、エンターテインメント作品として、十分に楽しめた。


ボヘミアというかベーメというか、そこのプラハで初演を迎えたモーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』創造において、こんなドラマそれも悲恋と悲劇があったのではないかという映画。最後は、ぎりぎりで完成した『ドン・ジョヴァンニ』の初演において、みずから指揮をするモーツァルトの脳裏には、これまで起こった出来事が、舞台でのオペラの進行とともによみがえってくる――そうした事件がオペラの物語に織り込まれているという設定だが。そして舞台でアリアを歌うソプラノ歌手の顔が、モーツァルトを慕い愛して殺された事件の被害者の女性歌手の顔と重なってくる。涙ながらに指揮をしながら彼女を見上げるモーツァルト。映画はそこで終わる。


モーツァルトを演じているアナイリン・バーナードは『ダンケルク』にも出演していたようだが憶えていない。女性歌手を演じたモーフィッド・クラーク、どこかで観たような気がしていたが『高慢と偏見とゾンビ』に出演していたとのことだが、憶えているような憶えていないような。彼女は『VRミッション:25』に出演していたとのことだが、『VRミッション:25』は、驚くなかれ、私は映画館で観ている。設定の面白さにひかれたが、それを充分に活かしきれていないというか、そうなるほかはないチープなBSF映画だったように記憶している。つい先日観たような気がしたが、一年前に公開されていた映画だったが、よく覚えていない。ひょっとして最後まで生き残る女性の役が彼女だったのか。そうだとすれば、『プラハのモーツァルト』とは異なる彼女の体育会系的演技をみることができるのだが、よく覚えていない。


ただ『プラハのモーツァルト』を支えているのは、この男女のペアでもなければ、素人オーディション番組で人気のでたサマンサ・バークス(彼女は舞台と映画の『レミゼ』に出演しているのだが、憶えていない)でもなく、ひとつは音楽(モーツァルトの楽曲に現代的アレンジを加えた)と、あとなんといっても悪役のサロカ男爵だろう。


サロカ男爵役の俳優、どこかでみているのだが、名前がどうしても出てこないまま、映画も終わり、エンドクレジットの最初に登場した俳優名で、わかった――ジェームズ・ピュアフォイ。いやあ、彼は、悪役として、もう大成したといってもいいでしょう。最近作では『ハイ・ライズ』にも出ていたことを知ったが、映画をみたときは、あまり認識できなかったし、『ハイ・ライズ』自体、ちょっと残念な映画だったので、それにあわせて印象が薄かったのかもしれないが、ジェイムズ・ピュアフォイ、『バイオハザード』の初期にも出ていたが、なんといっても、BBCのドラマ『ローマ』におけるマーク・アントニー役が強烈な印象を残した。『ローマ』はアクの強い人物、癖の強い人物しかいない強烈な連続テレビドラマだったが、そんななか、ジェイムズ・ピュアフォイのアントニーは、アクの強さで際立っていた。その彼が今回の映画では、善良さのひとかけらもない、みるからにクズの貴族を演じていて、映画を引き締めている。彼の珠玉の悪役ぶりをみるだけでも、この映画は観る価値がある。


なお素人オーディション番組出身のサマンサ・バークスは、舞台でのメイクアップは、まさに舞台用の化粧でグロテスクなのだが、舞台用の化粧を落とした彼女は美人である。これに対しモーフィッド・クラークは、『フィガロの結婚』のケルビーノ(小姓役)に扮したり、仮面舞踏会で仮面をつけたときのほうが、ずっと魅力的であるのは不思議なところ。



posted by ohashi at 01:36| 映画 | 更新情報をチェックする

2017年12月14日

『婚約者の友人』

オゾン監督のモノクロ映画だが、一部、カラーになる。このモノクロとカラーの使い分けの原理のようなものが、微妙すぎて、よくわからないのだが、まあ、いいか。


ルビッチの『私が殺した男』原題The Broken Lullabyのリメイク。ルビッチの映画はフランスの劇作家モーリス・ロスタンの『私が殺した男』に基づいている。モーリス・ロスタン? 『シラノ・ド・ベルジュラック』の作者かと思ったが、あれはエドマン・ロスタン。モーリスは、その息子で『私が殺した男』で有名になったようだ。ルビッチによる映画化ではThe Broken Lullabyだが、タイトルの意味がよくわからない。ルビッチの映画を見る限りでは。現在DVDのタイトルでもルビッチ作品の紹介としても『私が殺した男』というタイトルで知られているのだが

 (なおルビッチ映画の字幕がときどきとんでもなくひどいということを聞くが、この『私が……』のDVDでもひどい字幕があった。それは「ヴィクトリア朝のフランスが、そんなことを命じたのか……」という台詞で、え、フランスにヴィクトリア朝などないし(19世紀英国のヴィクトリア女王時代をヴィクトリア朝ということはあっても)、映画のなかの時代設定1919年は英国でもヴィクトリア朝ではなくなっているし、どういう意味の台詞なのかと一瞬戸惑ったが、べつに英語の台詞を耳で聞いていなくても、なにを誤訳したのかくらい、すぐにわかった。これは「勝利者側のフランスが、おごってそんなことをするのか」という意味でのVictoriousをヴィクトリア朝と間違えたのだろう、ひどいものである)


ルビッチの『私が殺した男』は、トーキー作品で、シリアスドラマなのだが、難しい設定をうまくこなし、またそこに軍国主義批判をからめて感動的な映画でもあるのだが、それをオゾン監督はどのようにリメイクするかという興味が先行した。なるほど始まりも違っていて、オゾン版のほうは途中からはじまっている。フランスからやってきた青年が、いったい何者で、目的は何か、すべて謎めいていて、ある意味、ミステリー仕立てである。ルビッチ版では、青年の動機も目的も明確である。ただし、それは実行しないほうがいいのではと観客は思わざるをえない。青年の気持ちはわかるし、善意ゆえの行為であることはわかるものの、難しい。目的達成はむつかしいのではないかと、そのことではらはらする。オゾン版ではこのハラハラ感をなくしてミステリーに変えた。どちらがいいのかは、わからない。ただルビッチ版の作り方は、ある意味、演劇的なのだが(原作は演劇であることとも関係しよう)現在では古めかしいのかもしれない。


オゾン版をみた人から、ヘンリー・ジェイムズの小説のようだという感想をもらった(ヘンリー・ジェイムズの研究家でもあるのだが)、ヘンリー・ジェイムズ風というのはどういうことなのか正確なところはわからないけれども、微妙な心理状態を丁寧に描くということだろうか。あるいは本物の写実ではなく、虚構をつくることのなかに真実が宿るというようなテーマ性なのだろうか。


これは映画のせいではなく、私のせいなのだが、疲れていたこともあり、途中で眠ってしまって、気づくと、もう映画が終わりかかっている。すくなくともルビッチ版との照応からみると映画はもう終わりにさしかかっている、しまった寝すぎたと思い、これでは映画をみたことにならないと深く反省したが、映画は実はすぐに終わらず、延々とつづいていた。つまりルビッチ版とは結末が違うのである。それはいっぽうで微妙な終わり方になっている。またもういっぽうで嘘から出た真あるいは幸福の拡大版になっている。


たしかにルビッチ版は70分くらいの短い映画である。そこにめんどうなシチュエーションをつめこんだのだから、どうしても省略とか飛躍によって一気に結末へとむかうしかない、つまり後半はトントン拍子に話がすすみ、ハッピーエンディングを迎えるのである。これに対しオゾン版は約2時間の映画であって、そこでは微妙な心理の揺れ動きが丁寧に示されることになるし、図式的な、あるいは単純化された展開とは背反するリアルな物語の展開を示される。実際のところオゾン版では過去にとらわれて生きるのではなく未来の幸福を求めることにこそ人生の意味があるようにみえるのだが、しかし、では、この結末でいいかどうかは、誰にも確信をもって言えないというのが、この映画の特徴だろう。


そもそもルビッチ版の設定にもどると、婚約者を殺された女性が、その婚約者を殺した男性と結ばれる、しかも両者は敵国同士であり、ふたりの最終的な結婚が、両国の平和共存への橋渡しになるかもしれないという展開は、『ロミオとジュリエット』を思い出させるが、婚約者を殺した男と結ばれるというのは、トリスタンとイゾルデの物語と同じである。あるいは婚約者/夫になりすます別の男と結ばれるというのは、それこそマルタンゲールの帰還物語のようなものであり、いずれも豊かな物語性を秘めている。またそこに人間関係の深い闇と希望とがみえてくる。最終的に喜劇的結末へと収斂するルビッチ版とは異なり、オゾン版は、この可能性をさらに多方向に発展あるいは深化させているようにみえる。ただし、そのどれもが最終的に宙吊り状態になっていて、それをどう発展させるかは観客の手にゆだねられているように思われる。


――よく言えば。またよく言えば、垣間見せてくれるともいえる要素が多いものの、どれもが中途半端だと言えなくもない。そんななか、今回のオゾン版であらためて気づかされたことは、またルビッチ版では気づかなかったというのは、同性愛の可能性である。


ルビッチ版では人間の贖罪と救済というテーマが最初から前面にでて、この可能性は周到に退けられているようにみえる。実際には婚約者と、その婚約者を殺した男が同一化していることが明確になっているにもかかわらず。


いっぽうオゾン版では婚約者と婚約者を殺した男とが、美しい友情さらには愛情で結ばれているようにみえる、あるいはそういう幻影のなかに男が生きていて、ドイツ人たちも、その幻影を現実として支持している。夢の場面などでもオゾン版は二人の男の同一性あるいは交換可能性が強調されている。となると同一化のテーマは同性愛と連絡し、さらに発展する可能性がある。


だが、残念ながら垣間見せてくれるだけで、映画の最後は、虚構と現実という問題系へと回収される。ヘンリー・ジェイムズ的テーマなのだが、この虚構性問題と同性愛テーマが、どのようにつながるのか、あるいはつながらないのか、この映画は教えてくれない。もちろん、この二つは同性愛者でもあったヘンリー・ジェイムズのなかでは繋がっているのかもしれないが、そのからくりや論理や情動的関連がジェイムズにはみえていたかもしれないが、残念ながらみえてこない、そう思うのは、私だけだろうか。


ただオゾン版では、第一次世界大戦(あるいは戦争)と同性愛テーマとの関連性をあらためて思い起こさせてくれることは、たとえそれが垣間見えるということだけでも、特筆すべきことだと思う。私の編集した、といいたいのだが、出版社の側の要請で、監訳者として登録したいということになったので、ドイル、メルヴィルほか『クィア短編小説集』大橋洋一監訳(平凡社ライブラリー2016)ということになるが、そこの収録されたアンブローズ・ビアスの短編が、こうした戦争で殺した相手と結ばれていくテーマの嚆矢かどうかわからないが、初期のものであるように思われる。いわゆる南北戦争時代、夜、敵襲に備えて待ち伏せしている兵士が敵を銃撃して倒したと思ったのだが、翌朝になると死体が存在しない。幻覚か寝ぼけて敵を銃撃したとは思えなかった兵士は、死体を探し始める。そして死体があったが、死体の顔をみると……という話なのだが、戦争で出会い殺した相手が、ビアスの短編では関係があった(同じアメリカ人が南軍と北軍に分かれたことによる悲劇)。しかし第一次世界大戦でも、同じヨーロッパ人がドイツとフランスとに分かれていて殺した相手は、自分の身内とか友人とか親戚だったということではないか。さらにいえば、それは決して偶然の例外的出来事ではなくて、殺した相手は、たとえ客観的に血縁関係や人間関係はなくても、友人であり家族であり親戚であるような、連帯と親近感によって、殺した者と結ばれるのではないか。私が殺した男と、私とは、殺すという破壊と排除行為にもかかわらず、誰よりも強い絆で結ばれてしまうのである。これは戦地ではなく、内地で故国で、安全地帯で、敵対する民族に対してヘイトスピーチを繰り返しているようなネトウヨから絶対に出てこない深い認識であり人間関係の創成なのである。


第一次世界大戦は、同性愛に対して新たな認識を提供したといわれている。残念ながら第二次世界大戦では、そのようなことが起こらなかった。第一次世界大戦では長い塹壕戦によって男どうしあいだに強い連帯意識が、あるいは愛がはぐくまれたと、そういうように男性同性愛文学の深化を考えてきた。だが第一次大戦で戦死した詩人ウィルフレッド・オーウェンの代表作ともいえる‘Strange Meeting’という詩では、塹壕のなかで敵兵と出会う詩である。そのあと何が起こっているかは、その詩からはよくわからないのだが、出会った兵士は味方ではなく敵であるようだし、そもそもそこは塹壕であり地獄でもあるような曖昧でよくわからない場所なのだが、そこで起こったことは、それこそ、ルビッチの『私が殺した男』あるいはオゾンの『婚約者の友人』で怒ったことと同じではないか。私が殺した男は、私の友人なのである。その新たな友人と私とは、友人に成りすましてもいいような、あるいは成りすましたい強い同性愛的感情で結ばれているのかもしれない(まあ、正確にいえば同性愛ではなくホモソーシャル的感情かもしれないが)。


オゾン版の『婚約者の友人』の原題はFrantzである。これは婚約者の名前であるが、ルビッチ版では婚約者はWalterという名前だった。オゾン版でFrantzに変えたのか、あるいは原作がそうなのか私にはわからないが、フランツというのはドイツ語ではFranzである。フランス人は往々にして Frantzと綴ることが多いらしく、映画でも、こちらのほうの綴りが採用されている。そこから暗示されることはいろいろあろうが、ひとつには、このドイツ語の人名が、発音すると「フランス」と聞こえるということがあげられる。ドイツ人の名前がフランスと重なるのである。

posted by ohashi at 21:28| 映画 | 更新情報をチェックする

2017年12月13日

『オリエント急行殺人事件』

アガサ・クリスティーの同名の小説だが、国民の教養、あるいは全人類の文化遺産、あるいは、ちょっと規模が小さくなるのだけれど英文科学生の基本的教養ともいうべきもので、そのトリックは誰でも知っている。もちろん、まだ読んでいない若い読者もいるから、ここではネタバレをしないけれど、でも、誰でも知っている作品といっても過言ではない。


とはいえ個人的なことをいえば、中学生の時に翻訳で読んだきりで、その後は読んでいないから細部は忘れている。今回のブラナー監督主演版は、基本的なトリックについては原作どおりで、そこは変えていない。ただ、細部については、変えている部分があっても、大きな変化はともかく、細部となるとまったくわからない。しかし原作からの大きな逸脱はなかったようだ。


全体の構成を変えない変化というと、今回の映画化では、オリエント急行が途中で雪崩にあい、脱線する。そして復旧するまで、乗客は足止めをくらうのだが、ただ、動いていようが足止めを食らおうが、乗客は基本的に下車できないのだから、物語の展開は同じである。足止めをくらう映画版では、車外でのアクションも用意されているが、しかし、車外へと逃亡するわけではない。


なお全体の感想となると、ネット上では、面白くて及第点を与えられるエンターテインメント映画だが、なんとなく物足らないとか、また雪崩とか車外でのアクションは、結局、中途半端で、最初からそんなものはなくてもよかったとか、とにかく面白い楽しめる映画だが、いまひとつピンとくるものがないという感想が多いようだ。


しかし、そうだろうか。むしろ、今回の設定は、けっこうぞっとするような不気味さを秘めていないだろうか。


これはネタばれとならないと思うが、事件が解決してポワロは途中駅で下車する。そこにナイル川での殺人事件があり、捜査してほしいという依頼がくる。ケネス・ブラナーのポワロで、『ナイル殺人事件』もリメイク続編をつくるのか(あるいは続編が決まっているのか)と思わせ、その貪欲さというか、ブラナー=ポワロのシリーズ化に、いまからややうんざりな感じもするのだが、それはともかく、これからポワロは下車して冬季のオリエント急行からエジプトへの赴き、残りの乗客は、終点のフランスあるいはイングランドへの旅を続ける。


ラストシーン、駅舎と線路の左側は遠くに去ってゆく列車の後ろ姿、右側はポワロを乗せてエジプトへ出発する車。車は走り去るが、列車は、走り去ってその姿を小さくすることなく、なかなか消えがたく残っている。この平坦な雪景色のなかに閉じ込められているように思えてくる。これはほんとうで、後ろ姿が小さくならないし、動いているようにも見えないのだ、オリエント急行の車両が。


そしてまたこの駅。現在の駅にするとクロアチア国内の駅なのだそうがだが、平坦な雪景色で、いくらヨーロッパの駅が日本のように町の中心ではなく町外れにあるといっても、周囲に何もなさすぎる。人間が暮らしている気配がない。そんなところにオリエント急行が停車する意味があるのか。そもそもこの世のものとは思えない駅なのだ。不条理演劇の舞台にぽつんと置かれた駅舎のようにみえてしまう。


実のところ、この映画には死をイメージさせるものは多い。もしかしたら雪崩で列車は転覆どころか崖下に転落、全員、死亡したのではないか。私たちがみている列車の乗客は、雪崩で死んだことを知らない亡霊たちではないのだろうか。


あるいはトンネルの入り口でのポワロの謎解きの場面は、ダヴィンチの最後の晩餐の図柄になっている。キリストが磔刑にかけられる前の晩の出来事。また脱線した列車を、ろくな機材もない鉄道係員がもとにもどせるとも思えない。彼らは到着しない列車を心配して調査しにきた。そこで破壊された列車を発見し、乗客たちの死亡を確認したのではないか。また立ち往生した列車は高い橋の上で、ほうっておいても、いつ何時落下してもおかしくない不安定な状態にある。そこから乗客たちは、まだかろうじて生きているといえるのだが、生死の境にいるというのは、生ではなく、死の側にいることではないかとも思えてしまう。


いや、勝手な妄想をと叱られそうだし、そもそもポワロも死んでいるのかと批判されそうだが、そう、ポワロが途中下車すること自体が、重要なのだ。ナイル殺人事件は、ナイル殺人事件への予告編ではなく、ポワロに途中下車させる口実なのである。


フロイトの夢解釈におけるイメージ解読は、今では精神分析のなかでもっとも顧みられない部分で、ただの迷信扱いのところもあるが、ただ思い出すのは、フロイトが、列車の夢は、死に向かう夢、あるいは死の夢であると語っていたことだ。列車は、目的地にむかって、レール上をただひたすら走り続けということでも、死への旅路を連想させるということのようだ。乗り物のなかでもとくに列車は、ただ目的地に向かうしかないという運命感覚を強く喚起する。そして列車を途中下車することは、まだ死ぬのは早いと思う気持ち、死を回避する願望のあらわれであるらしい。


この映画のなかで乗客たちは、雪崩で死んでしまったか、あるいは死の直前を生きているか、確実な死へと着実に進んでいるのかの、いずれかであろう。オリエント急行は幽霊列車なのである。


そして最後に、ただネタバレにならないことを祈っているが、乗客たちは誰もが、比喩的にいって亡霊であることを付け加えておきたい。

posted by ohashi at 19:24| 映画 | 更新情報をチェックする

2017年12月06日

『ザ・サークル』

最後に「ビルへ」For Billと献辞がでるので、ビルとは誰かといぶかったが、ビル・パクストンのことだった。映画のなかでビル・パクストンは、エミリー・ワトソンの父親役だと、あとで知った。映画を観ているときは全然気づかなかった。ビル・パクストンだとすれば、かなり痩せていて容貌も変わっていた。だから気づかなかったのだが、そうなると病気ではないかと気になって調べたら、今年の2月に亡くなっていた。病気どころか逝去していた。冥福を祈るしかない。映画がビルに捧げられているのも理解できた。


『美女と野獣』の大ヒットの余勢で同じエマ・ワトソン主演映画もヒットをと願ったようだが、その願いはかなわなかったようだ。宣伝が悪いのかもしれないが、そんなにみてみたい映画ではない。コンピュータあるいはAIで支配された未来社会と、その体制に抵抗する、あるいはそこから逃亡する物語というのは、深刻な問題提起かもしえないが、同時に、ありふれていて、エマワトソンの魅力をもってしても、あるいはトム・ハンクスの貫禄をもってしも、映画を魅力的にはできなかったようだ。


しかし実際に観てみると、映画的にどうのという前に、その問題提起には慄然とするものがある。コンピュータによる監視体制について反対する意見には、悪いことをしないのなら受け入れていいのではという考え方がある。まあすべてを公開し闇の部分をつくらないことが正しい民主主義の実現に寄与するというか、それこそが民主主義であるという意見もある。これは正しい意見だと思う。問題は、まさに悪人がそれを利用するという点で問題がある。本来なら、悪人を駆逐するための制度が悪人にまんまと利用されてしまう。悪人と言ったが、ネット上にいるというよりも、ネット社会があぶりだした人間のクズあるいはクズの人間である。


要は、古くから言われていることだが、監視社会において、誰が監視人を監視するかである。監視人が不正に他人の情報を利用することを誰が監視するのかということでもあるが、同時に、それだけではない。監視社会は監視人を不可視にしてしまう。監視社会は、コンピュータが無作為に、あるがままの監視を行うだけであり、あとで情報を人間が利用すると考えがちだ。つまり情報は客観的であり無色透明だと思いがちである。しかし加工したり捏造したりしなくとも、生の情報自体が、実は加工されている、つまり志向性をもっていて、つまるところ無色透明で無垢の情報などというものは存在しない。いいかえると生の情報と思われていても監視映像であれば、監視者が必ずいて、そこには監視者の意志が貫かれているということだ。偏向しない情報は存在しない。情報となる時点で、それは偏向しているのである。


だから監視社会で一番怖いのは、無垢なありのままの情報があるという幻想をはぐくむことである。さらにいえば無垢の顔をした情報が、フェイク情報であるという危険性だ。


これは監視者の存在そのものを無色透明にすることでもある。監視社会は、この映画にあるように魔女狩り体制に容易に移行する。魔女を狩る側は、みずからの正義を信じている。まあみずからの正当性を疑うこともない。魔女狩りをする側が圧倒的に優位にたてる。監視社会で勝ち組になるには、監視する側に移行するに限る。そうすればみずからを正義で透明な存在として消し去れることができる。監視社会は、こうして不可視の監視者を輩出する。監視される側を徹底的に暴き、白日のもとにさらしながら、みずからは不可視の存在と化して安全圏にいる。そう、情報公開社会は、見えない監視者を生み出す。闇を駆逐するはずが、透明な闇を量産するのである。


結局、監視者を誰が監視するかということにつきる。不可視の監視者を暴くこと、あるいは無色透明に思われている情報の志向性と偏向性を暴くことが、監視されえる側の対抗措置となるだろう。こうした映画も、この方向を示唆しているように思われる。


ただし、映画の物語は、なんとも歯切れが悪い。エマ・ワトソンは、友人のコネもあり世界的なAI企業に就職するが、そこでCEOのトム・ハンクスの考え方に染まり、企業の若い代弁者となる。そしてみずから24時間、生活をネット上で中継させるのだが、事件があり、それをきっかけに企業の監視戦略に疑問を抱き始める。これは、よくある展開である。最初は、みずから所属する社会とか集団について全く疑いをもたないどころか、むしろ擁護あるいは正当化してたのが、なんらかの事件をきっかけに疑念が首をもたげはじめ抵抗と逃亡がはじまる。これは『ブレードランナー2』においても踏襲されている古典的設定であるが、エマ・ワトソン、理知的な感じがしすぎて、彼女は最初から企業のありかたに疑問をいだいているようにみえる。それがいつしか企業の代弁者にかわるのは、なにか違和感をおぼえる。事件をきっかけに彼女が懐疑的になり抵抗者になるのはいいとしても、彼女は最初にもどったのか、大いなる覚醒なのか、やや曖昧である。


そして結末、抵抗が成功したように思えるのだが、彼女は、こうした監視社会をどう思っているのか曖昧である。彼女の抵抗と、その成功にもかかわらず、監視体制は強化されていくようにも思えるのだが、またか院試体制がいくら強化されても、彼女は平然としていて、いつでも、監視体制の裏をかき、抵抗すると自信に満ちているようにも思われる。観客の判断の判断に任せるということかもしれないが、それは映画の作り手が積極的なヴィジョンを提起できないことをにおわせる。そこが、弱い結末とうつるようにも思われる。もやもやとしたものを残しつつ映画が終わる。すっきりしないところが、ヒットにつながらなかったということか。


ただ、しかし、ヒットしようがしまいが、この映画は考えさせられることが多い。情報社会について、さまざまに刺激を与えてくれ、けっこう緊張しながら観たことは、ここに報告しておきたい。

posted by ohashi at 20:19| 映画 | 更新情報をチェックする

2017年12月03日

『クラウド・ナイン』

池袋の東京芸術劇場シアター・イーストで『クラウド9』をみる。小さな劇場を、ある意味ぜいたくに使い、張り出し舞台までもうけている。だがとくに張り出し舞台にしなくてもいいようにも思ったし、それがなければ観客席の数を増やせたのにと思ったのだが。べつに欠点を述べているのではなく、むしろ一人でも多くの人に見てもらいたい、よい舞台だからである。


これだけのメンバーをそろえた上演なので、よほどのことがないかぎり、へんな舞台になろうはずもないのだが、めんどうな原作を、優れた俳優たちが、緩急をつけて最後まで飽きさせない舞台をつくっていたし、なにより、ひとりひとりの演劇の技量に圧倒された。やりがいのある芝居だと思うし、またそのぶん見がいもあろうというものだ。内容はLGBT演劇である。強いて言うと、前半がクィアというにふさわしく、後半がLGBTというにふさわしいのではと、今回はじめて理解した。


奇しくも日本初演時、もう40年くらい前だが、私は見ている。今回、チケットを購入していたのだが、招待されたので、購入していたチケットは、人にゆずり、招待日に観劇することになった。誰が招待してくれたのか、翻訳者の松岡和子氏かと推測していたが、当時、劇場のロビーでお会いすることになり、招待していただたいことがわかった。ほんとうに感謝したい。招待されたことでだけではなく、この作品で招待されたことに対して。


おそらく、ほぼまちがいなく初演時にも松岡さんから『クラウド・ナイン』に招待されていたような気がする。今回観てみると、ここに書けないような卑猥なギャグをいまでも覚えていたことに驚いた。しかし、それよりも驚くべきは、松岡さんが、いまから40年前に、その若さでチャーチルのこの作品を翻訳され、上演に立ち会われたことだろう。この芝居は、はじめて見て、その斬新な構成に驚いたし、そこに気を取られて、これがれっきとしたレズビアン・ゲイ演劇であることに注意がいかなかったこともある。ただ、もしそうなら私は40年間、あまりにうっかり者、上の空人間だったことになるが、今回、あらためてみなおしてみて、最後のベティの覚醒の部分の印象が強くて、ゲ・レズビアン性を後景化したことがなんとなくわかった。


劇は最初は19世紀ヴィクトリア朝、アフリカの植民地を管理支配する英国人一家の物語であり、後半が20世紀の現在、時間にして100年くらい後の世界なのに、英国人一家にとっては、25年後でしかない。つまり100年前に子供であった人物が、現代の英国では20代の若者にしかすぎないという設定になっている。おまけに100年前の人物と現代の人物は演者が変わることになっている。今回、前半では独裁的な家長であった英国人管理官を演じた高嶋政宏は、後半では現代のロンドンのゲイの若者になっているというように。今回では前半でアフリカの黒人召使を演じた正名僕蔵が後半では4歳くらいの女の子を演じている(最初、召使を誰が演じているか肌の色もあって、よくわからないまま演ずる俳優がうますぎると思ったのだが、後半になって正名僕蔵とわかって、自分なりに納得した)。そう、ジェンダーも、年齢も、役柄も、前半と後半でかわるのである。前半でも三浦貴大が女性の役を演じていて、すでにジェンダーの転換も一部ある。


こうした設定というか仕掛けは、聞いただけでも、どんな舞台になるのだろうかとわくわくする。観ている側だけでない、演ずる側、演出する側も、期待を膨らませることだろう。しかも、前半と後半での人物の変換は、複数の組み合わせを指定してあって、舞台によって組合わせが違う。演出家冥利につきるというか、あるいは演出家泣かせなのかもしれないが。


とにかくこの変化がなにより観ていて楽しい。独裁的家長を演じた高嶋政宏がゲイの青年に、黒人召使を演じた正名僕蔵が4歳の女の子を演じるのだが、それ以外に、ゲイの性向をもつ男の子を演ずる平岩紙が、現代のロンドンでは育児につかれたレズビアンのシングルマザーを演ずる。ベティを演じた三浦貴大は、ハードゲイの青年を演ずるし、100年前ベティの母親だった宍戸美和公は幼い男の子を演ずる。と、まあ、変化が極端すぎて、ついていけないところもあるが、そこがまた魅力でもあろう。幸い、今回の俳優たちは、みんな芸達者であることもあって、魅力を引き出すことに成功していた。。


4私が観た初演では、英国の独裁的管理官を演じた上杉祥三は、後半では4歳の女の子を演じていた。さすがにこれには違和感がMAXで、ちょっとやりすぎではないかと思い、原作を読んだら、この組み合わせ方もありであったので、つっこめなくなった。まあヴィクトリア朝の独裁的家長は、いうなればコントロールできない自己中心的なわがまま4歳女児と同じであるというようなメッセージかと自分なりに勝手に解釈した。と同時に、後半で印象的だったのは、最後のほうに公園のベンチで、ベティがみずからの自立と欲望の目覚めを語る長い独白であり、初演時に私は、このベティを演じている女優の演技に驚嘆した。名前を知らない女優だったが、こんなすごい女優もいるものだと感嘆したが、その女優は、当時、まだそれほど名前を知られていなかった高畑淳子であった。


まあ、ベティ/高畑淳子の感動的な演技もあって、記憶から、この作品がLGBT演劇というかクィア演劇であることがすっかり抜け落ちてしまったのだろう。


ただ、今回観てみると、ベティは、後半の終わり近くになって、にわかに、予想外に、前景化され、ベティ中心の舞台になることに気付いた。予想外というのは、100年前のベティを考えると、彼女が年齢的にも心情的にも最も奥手である。彼女の娘や息子たちは、すでに現代人でありヴィクトリア朝の人間ではなくなっている。ところが彼女だけはヴィクトリア朝の人間にみえるのだが、後半の後半、彼女も夫と死別し、家を出て仕事をするようになって、女性の自立と欲望へ目覚めていくのだが、その奥手ゆえに、すれっからしになった子供たちの世代と異なり、彼女は新鮮な感動に身を任せることができ、それによって観ている側、20世紀の観客も、あらためて初心に帰り、自立と欲望の解放の喜びを思い起こすということになるのだろう。また、そういえば、後半は幼い子供二人がうるさすぎるというか、その存在をずっと主張する。子供の感性の奥手の熟年女性の感性とが舞台の情動的効果を決定するようなところがある。


日本初演時には、この作品のなかで大人三人が降霊会めいた儀式をするところがあるが、あれがキャリル・チャーチルの新作(当時)の不思議な世界に通ずるところがあると誰かと話あった気がするが。残念ながら、その後、キャリル・チャーチルの新作を追うことがなくなったので、いまどうなっているかわからない。今回の上演を機に、キャリル・チャーチルの戯曲を読みなおし、未読のものも読んでみようかと思う(ただし私にはむつかしてくよくわからない戯曲もあるので、それは昔と同様にスルーすることにして)。


いや、この終わり方ではなく別の終わり方もある--日本初演時には、松岡さんから招待券をもれるほどの、私も新進気鋭のシェイクスピア研究者・英国演劇研究者だったが、その後、道を誤ったわけではないが、演劇研究から離れて、劇場にも足を運ばなくなった時期が長かった(時間がなかったからである)。ある時、自分自身の映画と演劇の知識が、完全に過去のものとなって現在に追いついていないことを発見した私は映画館と劇場に戻ることになった。そのため、こうして何十年ぶりかで松岡さんから招待券をもらうことになった。サイクルが終わったのだろか。演劇でも小説でも、ふたたび同じことを繰り返して、物語は終わらせることがよくある。『クラウド・ナイン』の招待券をもらった私が、ふたたび同じ芝居の招待券をもらう。これによって人生は終わりに差し掛かったということだろうか。それはともかく年月のうつりかわりをしみじみと感ずる年寄りになったことは事実だろう。。

posted by ohashi at 23:44| 演劇 | 更新情報をチェックする

2017年12月02日

「忖度」まんじゅう食べた

以下日刊スポーツの記事から、その一部を引用


関西限定「忖度まんじゅう」10月まで8万箱爆売れ

                 20171202 0927分 日刊スポーツ

 「現代用語の基礎知識選 2017ユーキャン新語・流行語大賞」の発表が1日、都内で行われ、今年の政界を混乱させる象徴となった「忖度(そんたく)」が、年間大賞に選ばれた。……受賞者に選ばれたのは、話題に乗って「忖度まんじゅう」を企画・販売した、会社社長。複雑な思いを吐露した。「忖度」は、読者による投票でも1位だった。

 関西限定販売のお土産「忖度まんじゅう」(9個入り、734円=税込み)は6月中旬に発売後、爆発的にヒットしている。ヘソプロダクションによると、発売約1カ月で約1万箱、10月までに約8万箱を出荷した。新規取り扱いの申し込みも殺到しているが、同社は「人気商品により、現在取り扱い店舗を限定させていただいております。お客様にはご迷惑をお掛けしておりますが、なにとぞ、忖度の程よろしくお願い申し上げます」とホームページなどで告知している。


流行語に「忖度」が選ばれたのは、素晴らしい。確かにこの一年を代表する流行語だったし、へんな固有名詞や人名なんかよりもはるかに「流行語」の風格がある。りっぱな日本語ながら、急にこの一年使われはじめ、さらにパロディにされるまでになったのだから。


また受賞者に、それこそ安倍首相夫妻から、文科省、財務省、税務賞のトップを招待するとか直接の関係者に受賞者への招待状を出したらどうかと思うのだが。ただ、この語が流行語に選ばれた場合、誰が最初に使い始めたか特定できないし、流行語にした人間の特定もできないし、関係者だったら安倍首相以下たくさんいるのだが、誰も招待しても来ないだろうから、流行語大賞にならないのではと言われていた。


そのため「忖度」まんじゅうを企画販売した会社の社長を受賞者に呼ぶというのはアイデアの勝利。安倍政権下でのこの汚物の歴史を後世の記録する重要な言葉がここで着目されたのは、よかった。


ちなみに関西限定のようなのだが、私は食べた。関西に行ったからではない。関西のおみやげとして英語英米文学科研究室にもってきてくれた人がいたのだ。まんじゅうとしてはふつうだが、「忖度」の文字が上品な字体でまんじゅうの表皮に印字されているたたずまいは、安倍政権下における「忖度」をめぐる薄汚い歴史を感じさせない上品さをただよわせている。「忖度」というのは、なにか肯定的な価値をもっているような言葉に思えてくるから不思議である。


なお英語英米文学研究室は、一時期、「忖度」饅頭がおいてありましたが、忖度とはまったく無縁です。どうか安心してください。

posted by ohashi at 12:49| コメント | 更新情報をチェックする

2017年12月01日

『永遠のジャンゴ』

ある映画関連のサイトから引用


   このあたりの話は、ジャンゴの熱心なファンなら知っていると思われる。だが、この映画には驚かされるだろう。なんとジャンゴが、ナチスドイツに迫害され、怒りを燃やし、抵抗していたというのだ。日本版ウィキペディアのジャンゴのくだりを見ても、そんな記載はない。まさに「知られざる物語」なのだ。


   1943年、ジャンゴはナチスドイツ支配下のパリにとどまり、演奏活動を続けていた。自分はフランス人ではなくロマだし、人気ミュージシャンだから戦争には無関係と思いこんでいた。ところが、ナチスには優生思想があった。ロマを劣性民族とみなし、すでにドイツ本国などで着々と「粛清」を進めていたのだ。


   ある日、パリのジャンゴもナチスに呼び出される。下着姿にされ身体測定。写真も撮られた。耳のサイズ、頭の大きさ、歯並びなどが綿密に測定される。そのデータから間違いなくロマだと認定され、ナチのファイルにしっかり登録されてしまった。


   ジャンゴは身の危険が迫ったことを知り、レジスタンスの手引きでパリから逃げ出す。スイス国境に近いフランス南部のロマ居住地に潜むが、そこでナチスに見つかり、反ナチの活動もばれて・・・。


べつに変なことが書いてあるわけではないと思うかもしれないが、上記の「ある日」以下の記述。頭の大きさや耳のサイズを測られてロマ(いわゆるジプシー)と認定されたわけではないだろう。ロマだとわかっているから容貌の特徴を記録したのである。頭のサイズや歯並びでロマだと認定できるわけがない(たぶんそれを調べられたら、顔の造作が不釣り合いな私など一発でロマと認定されてしまうだろう)。つまりロマだから、その特徴を記述し、架空の劣等民族性を証明しようとしたのだ。最初にロマありき。そしてロマ=劣等民族理論にすべてを収斂させる。実際、映画のなかでジャンゴの2本の指が動かないのをみて、近親婚の繰り返しによる劣等化などと医師が記録するのだが、ジャンゴは、これが火事のやけどの結果だと説明しても(実際そうなのだが)とりあわない。結局上記の引用文の執筆者は、あたかもこのナチスに協力した医者と同じことをしているのだ。どうかクズ医者と同じようにならないように。


また上記の引用にあるいようにウィキペディアではナチスのロマ迫害については何も触れられていない。以前読んだロマ関連の本ではナチスによるロマ迫害について触れられていたが、不明な部分も多いのは、収容所に入れられたロマだけでなく、キャラバンで移動中のロマも迫害の対象となったため、犠牲者の数もよくわからないままになったということだった。


どこまで事実・史実に忠実か、史実を伝えるために史実以上に真実を伝える虚構化がどこまでおこなわれたかわからないが、スイスに亡命するときに延々と待たされたあげく、いよいよ状況が切迫してくると案内人がきるという、やや劇的展開がある(当時スイス亡命のために山越えには案内人が不可欠だったことは、『少女ファニーと運命の旅』をみてもそうだったと思い出すが)。また過酷な山越えで、母親と妻を置き去りにしなければならず、一人で山越えをすることになるが(結局、案内人もいなくなり、だったら案内人は必要なかったのか)、母親は生き残っていたり、すくなくとも身内や仲間には犠牲者が多くなかったことなど、事実に忠実な部分は、やや拍子抜けなのだが、レジスタンスに協力するなかで、レジスタンスにとってもロマは使い捨ての協力者か、一段下に見られていたかもしれもしないという黒歴史が浮かび上がる。そこは虚構が入っているだろうが、現実を直視している感じがする。


ジプシージャズの創始者だったジャンゴ・ラインハルトがパイプオルガンを使ったレクイエム曲を作るというのは、パイプオルガンは登場するが、そこは説明不足か、あるいは先入観が強すぎたのかわからないが、違和感をもった。ただし、その曲が、戦時中に迫害をうけたロマの犠牲者たちへのレクイエムであったということ最後にわかり、この曲こそが、この映画の重要なテーマといえるだろう。


迫害する側は、ナチスだけではない。ナチス占領下あるいはヴィシー政権下のフランス人の多くもまた迫害者であった。レジスタンスにおいてもロマは格下だったようだ。そしてまたレクイエムが一度だけパリの盲学校で演奏され、楽譜も一部しか残っていないというのも、ロマ差別の証しだろう。


破天荒で華やかな演奏生活をおこなったジャンゴ・ライハルトの抑圧されてきた被差別の歴史発掘そのものが、犠牲となったロマへのレクイエムとなっている。そしてこれはロマ差別がいまではなくなったから可能になったということではなく、今現在、これまで以上に差別の波が襲い掛かろうとしているがゆえにナチスとナチス協力者への告発が必要とされ、犠牲者へのレクイエムが必要とされたということだろう。


追記:

この映画で、セシール・ドゥ・フランスの役割は、曖昧さを残している。結局、彼女が生き延びたのか死んだのかもわからない。『少女ファニーと運命の旅』にも出演していた彼女は、この映画ではジャンゴにからむ重要な役でよかったのだが、ただ彼女の主演・出演映画の紹介に『ある秘密』と『ヒアアフター』などはいいとしても、『シスタースマイル ドミニクの歌』 Soeur Sourire (2009)が強調されていないのは惜しい。あの若い女性二人が、最後に笑いながら死んでいくレズビアン映画は悲しくも幸せな感動的な映画だと私は信じているのだが。

posted by ohashi at 19:32| 映画 | 更新情報をチェックする