人種差別にからむ心理的なサスペンス映画かと思いきや、え、こんな映画だったのかという裏切られ感、がっかり感がある。最後まで見ると、これは人種差別がテーマどころか、人種差別がなさすぎるという映画ではないかという疑問すらわいてくる。
つまり途中までは、じわじわと恐怖をつみあげていく心理サスペンスかと思っていたら、いつのまにか安っぽいホラー映画になっていた。もちろん、映画はそれを最初から狙っていたと思うのだが、同時に、観客の側は、それを望んでいないというところに違和感がある。
あとウェブ上のアホ記事があって、そこにはこんなことが書いてあった
本作に登場する白人リベラルたちは、表面的には黒人差別に否定的な姿勢を見せています。しかし、その深層には根強い黒人差別を抱えています。
現在のアメリカ社会でも同じような問題を抱えています。白人リベラルや白人エリート層は、差別に否定的です。しかし、その心理には実は強い差別主義を抱えていたりします。
トランプ氏の大統領選挙で明らかになったのは、まさにそんな白人リベラル層の潜在的差別意識だったのかもしれません。表面的には、人種差別に否定的で、ヒラリーを支持する姿勢を見せながら、実際には、トランプに投票していたみたいな層が大きかったわけです。
こんなアメリカ社会への痛烈な風刺が本作には込められていたのではないかと感じました。
このコメントをみると、日本はアフリカの独裁者以上の独裁者を支持するファシストどもにほんとうに牛耳られてしまって、日本人はバカになったのか、いやもともとバカだったから**ヒトラーの独裁を許したのかとあらためて思うのだが、黒人を奴隷化する人間を。このコメントではなんとリベラルと呼んでいるのである。
またさらにいうとトランプの支持者をリベラルと呼んでいるのである。
こうなるとKKK団やネオナチや白人優位主義者の出番がなくなってしまう。なにしろこうした連中こそ、トランプ陣営を支えているのであって、リベラルがトランプ支持? くそばかは、死ねといいたくなる。まあ、この***は、たぶんリベラルと、ネオリベラルとをごっちゃにしている。そしてこの***はリベラルと聞くと、これを排除するという小池都知事と全く同じ感性と思想を共有しているクソ・ファシストなのだろう。悪いことは全部リベラルに押し付けていればいいと思っている、こんなくだらない***こそ、黒人をひとしく差別する人種差別主義者と同じではないか。
この映画をみて、白人の娘が黒人の恋人を実家の両親に紹介するというのは、古い映画だがスタンリー・クレイマー監督の『招かれざる客』と同じ状況であること思い出す。白人の両親が娘の恋人である黒人の青年を、うわべは暖かく迎え入れるが、100%歓迎しているわけではないことは、この映画の端々から伝わってきて、状況は『招かれざる客』と結局同じである。
そもそも映画の冒頭で黒人が襲われるという場面からして、主人公の黒人青年が危険な状況であることは分かり切った話なのである。また『招かれざる客』では娘の父親(スペンサー・トレイシー)は、リベラルな新聞社社長ということになっているようだが、口ではリベラルであることを表明していても実際に娘のこととなると躊躇があるというのは、よくある話である。なかなか偏見から脱することができず、リベラルを標榜しても、娘が黒人と結婚する可能性に嫌悪感を示さずにはいられないという現実に直面することは、ある意味、リベラルな現実把握であり、また、そうした偏見を最後には乗り越える未来をみせるということもまたリベラルであって、こうしたことは白人優位主義者には絶対に見出せない姿勢だし、ファシストは夢見ることもないだろう。
あともう少し、この***な***のコメントを引き合いにだすと、映画の途中で主人公の友人が「性奴隷」のことを口にする。主人公をとりまく状況、彼が白人の恋人の実家の近隣で出会った数少ない黒人の状況を考えると、いかにも性奴隷を暗示させるものがあるのだが、同時に、それは真相ではないだろう観客は考えるにちがいない。ところがこの評者は、性奴隷が重要なヒントだというのである。アホか。通常の推理ドラマで、たとえば主人公の友人が犯人であるかのように展開しながら、最後には、意外な人物が犯人であったことが判明する。まあ通常のパタンだが。その時、この友人が犯人が疑われるということのなかに、犯人のヒントが隠されているといえば、もう何でもヒントじゃん。いい加減にしてくれ、この***********。
閑話休題。映画は、人種差別を潜在させる共同体にまぎれこんだアフリカ系アメリカ人青年を襲う心理的な恐怖かと思いきや、もっとむきだしのというか安っぽいホラーであることが残念である。つまりトリックというか犯罪の方法が非現実的あるいはファンタジー的だと、そこにリアリティが感じられなくなるからだ。
松本清張の『砂の器』という小説を知っているだろうか。最初の映画化版を先にみた私はずいぶん感動したものだが、原作の小説を読んで唖然とした。原作では電磁波を使って人を殺するのである。映画版とかその後のテレビドラマ版でこの作品を知っている人は驚くにちがいない。古今東西、電磁波で死んだり殺されたりした人はいない。小説の語り手(ほぼ松本清張と同じ)は、前例がなくても電磁波殺人は可能であることを力説するのだが、そもそも殺人者に前歴がないのだから、証拠を残しても警察は犯人を特定できないのであって、わざわざ電磁波という非現実的な殺人手段を考えなくてもいいのである。そして殺人手段が非現実的であることは、なにか作品そのものを安っぽくしてしまうため、その後の映画やテレビドラマ化では、この設定は完全に無視されている。無視してよかったと思うのだが、映画『ゲットアウト』の場合、3流ホラー映画にしか存在しない、荒唐無稽な設定が作品の安っぽくしてしまう。まさのこのSFもどきホラー設定よ、ゲットアウトと言いたいののだが、そうなると作品全体が成立しなくなる。こまったものである。
そのためこの映画を評価しようと思ったら、この荒唐無稽な設定を寓意化するしかない。
またも『砂の器』の例にもどるが、殺人手段として電磁波を使うという原作は、無意味に荒唐無稽なわけではない。反近代主義者、モダニズム・アヴァンギャルド嫌いの松本清張にしてみれば、殺人者の作曲家が、電子音楽の作曲家であるというそのことだけで、すでに犯罪者なのである。なぜなら、そんな前衛芸術派は、土地の血のつながりから遊離した軽薄で浮ついた存在でしかなく、伝統なり継承なりとは無縁で、過去とも断絶し、根無し草的存在として薄っぺらい現在を浮遊するしかない、まさに人間性を欠いた人間、犯罪者と同様に秩序と調和の破壊者にすぎないからだ。そんな軽佻浮薄な人間に、消し去った過去の出来事、そして血のつながりがつきつけられるとき、犯罪が生まれる。消し去ったはずのみずからの過去をつきつけられたとき、その相手を殺す手段として、電磁波が選ばれたのもむべなるかな。血と肉体とは全く無縁な不可視の殺人手段として、これほど似つかわしいものはない。反近代主義者、反モダニズム、反アヴァンギャルドの松本清張にとって、電磁波殺人は、殺人を犯す人間の電波のような電子音のような、反自然、反人間性にもっともふさわしい殺人行為だったのである。
このように考えれば『ゲットアウト』の荒唐無稽な設定も、自己の肉体でありながら、白人に肉体を収奪されてきた苦難の、いまなお続く歴史の寓意というふうにみることができる。寓意といっても、肉体の収奪という比喩表現が現実化することによって生ずる寓意性なのだが。過去から現在においてもなおアフリカ系アメリカ人の肉体は、白人の所有物だったのである――なおこれはこの映画においては、性奴隷という意味ではない。
と同時に、ここには、黒人を肉体に還元することによる差別意識ということもみえてくる。しかも、これはアメリカ合衆国における特異な現象なのかもしれない。それはrace changeが下から上へ向かうのではなく、逆に上から下へと向かうことなのだが、
たとえば日本人が白人になろう、白人の青い目が欲しいと考えるのは、わからないわけではない。だが逆に韓国人とか中国人をディスることしかしないヘイト集団が、もし韓国人や中国人になろうと(理由は、あこがれをはじめとして、いろいろある)としたらちょっと驚くのではないか。Race changeあるいは民族チェンジは、、他者との合意あるいは同一化をめざすものだから、一見、差別とはもっとも隔たっているように思われる。ところが、それもまた、あるいはそれこそ差別であるというような状況はアメリカでは今もなお続いているということだろう。