2017年11月29日

『ゲットアウト』

人種差別にからむ心理的なサスペンス映画かと思いきや、え、こんな映画だったのかという裏切られ感、がっかり感がある。最後まで見ると、これは人種差別がテーマどころか、人種差別がなさすぎるという映画ではないかという疑問すらわいてくる。


つまり途中までは、じわじわと恐怖をつみあげていく心理サスペンスかと思っていたら、いつのまにか安っぽいホラー映画になっていた。もちろん、映画はそれを最初から狙っていたと思うのだが、同時に、観客の側は、それを望んでいないというところに違和感がある。


あとウェブ上のアホ記事があって、そこにはこんなことが書いてあった


本作に登場する白人リベラルたちは、表面的には黒人差別に否定的な姿勢を見せています。しかし、その深層には根強い黒人差別を抱えています。

現在のアメリカ社会でも同じような問題を抱えています。白人リベラルや白人エリート層は、差別に否定的です。しかし、その心理には実は強い差別主義を抱えていたりします。

 トランプ氏の大統領選挙で明らかになったのは、まさにそんな白人リベラル層の潜在的差別意識だったのかもしれません。表面的には、人種差別に否定的で、ヒラリーを支持する姿勢を見せながら、実際には、トランプに投票していたみたいな層が大きかったわけです。

 こんなアメリカ社会への痛烈な風刺が本作には込められていたのではないかと感じました。


このコメントをみると、日本はアフリカの独裁者以上の独裁者を支持するファシストどもにほんとうに牛耳られてしまって、日本人はバカになったのか、いやもともとバカだったから**ヒトラーの独裁を許したのかとあらためて思うのだが、黒人を奴隷化する人間を。このコメントではなんとリベラルと呼んでいるのである。


またさらにいうとトランプの支持者をリベラルと呼んでいるのである。


こうなるとKKK団やネオナチや白人優位主義者の出番がなくなってしまう。なにしろこうした連中こそ、トランプ陣営を支えているのであって、リベラルがトランプ支持? くそばかは、死ねといいたくなる。まあ、この***は、たぶんリベラルと、ネオリベラルとをごっちゃにしている。そしてこの***はリベラルと聞くと、これを排除するという小池都知事と全く同じ感性と思想を共有しているクソ・ファシストなのだろう。悪いことは全部リベラルに押し付けていればいいと思っている、こんなくだらない***こそ、黒人をひとしく差別する人種差別主義者と同じではないか。


この映画をみて、白人の娘が黒人の恋人を実家の両親に紹介するというのは、古い映画だがスタンリー・クレイマー監督の『招かれざる客』と同じ状況であること思い出す。白人の両親が娘の恋人である黒人の青年を、うわべは暖かく迎え入れるが、100%歓迎しているわけではないことは、この映画の端々から伝わってきて、状況は『招かれざる客』と結局同じである。


そもそも映画の冒頭で黒人が襲われるという場面からして、主人公の黒人青年が危険な状況であることは分かり切った話なのである。また『招かれざる客』では娘の父親(スペンサー・トレイシー)は、リベラルな新聞社社長ということになっているようだが、口ではリベラルであることを表明していても実際に娘のこととなると躊躇があるというのは、よくある話である。なかなか偏見から脱することができず、リベラルを標榜しても、娘が黒人と結婚する可能性に嫌悪感を示さずにはいられないという現実に直面することは、ある意味、リベラルな現実把握であり、また、そうした偏見を最後には乗り越える未来をみせるということもまたリベラルであって、こうしたことは白人優位主義者には絶対に見出せない姿勢だし、ファシストは夢見ることもないだろう。


あともう少し、この***な***のコメントを引き合いにだすと、映画の途中で主人公の友人が「性奴隷」のことを口にする。主人公をとりまく状況、彼が白人の恋人の実家の近隣で出会った数少ない黒人の状況を考えると、いかにも性奴隷を暗示させるものがあるのだが、同時に、それは真相ではないだろう観客は考えるにちがいない。ところがこの評者は、性奴隷が重要なヒントだというのである。アホか。通常の推理ドラマで、たとえば主人公の友人が犯人であるかのように展開しながら、最後には、意外な人物が犯人であったことが判明する。まあ通常のパタンだが。その時、この友人が犯人が疑われるということのなかに、犯人のヒントが隠されているといえば、もう何でもヒントじゃん。いい加減にしてくれ、この***********。


閑話休題。映画は、人種差別を潜在させる共同体にまぎれこんだアフリカ系アメリカ人青年を襲う心理的な恐怖かと思いきや、もっとむきだしのというか安っぽいホラーであることが残念である。つまりトリックというか犯罪の方法が非現実的あるいはファンタジー的だと、そこにリアリティが感じられなくなるからだ。


松本清張の『砂の器』という小説を知っているだろうか。最初の映画化版を先にみた私はずいぶん感動したものだが、原作の小説を読んで唖然とした。原作では電磁波を使って人を殺するのである。映画版とかその後のテレビドラマ版でこの作品を知っている人は驚くにちがいない。古今東西、電磁波で死んだり殺されたりした人はいない。小説の語り手(ほぼ松本清張と同じ)は、前例がなくても電磁波殺人は可能であることを力説するのだが、そもそも殺人者に前歴がないのだから、証拠を残しても警察は犯人を特定できないのであって、わざわざ電磁波という非現実的な殺人手段を考えなくてもいいのである。そして殺人手段が非現実的であることは、なにか作品そのものを安っぽくしてしまうため、その後の映画やテレビドラマ化では、この設定は完全に無視されている。無視してよかったと思うのだが、映画『ゲットアウト』の場合、3流ホラー映画にしか存在しない、荒唐無稽な設定が作品の安っぽくしてしまう。まさのこのSFもどきホラー設定よ、ゲットアウトと言いたいののだが、そうなると作品全体が成立しなくなる。こまったものである。


そのためこの映画を評価しようと思ったら、この荒唐無稽な設定を寓意化するしかない。


またも『砂の器』の例にもどるが、殺人手段として電磁波を使うという原作は、無意味に荒唐無稽なわけではない。反近代主義者、モダニズム・アヴァンギャルド嫌いの松本清張にしてみれば、殺人者の作曲家が、電子音楽の作曲家であるというそのことだけで、すでに犯罪者なのである。なぜなら、そんな前衛芸術派は、土地の血のつながりから遊離した軽薄で浮ついた存在でしかなく、伝統なり継承なりとは無縁で、過去とも断絶し、根無し草的存在として薄っぺらい現在を浮遊するしかない、まさに人間性を欠いた人間、犯罪者と同様に秩序と調和の破壊者にすぎないからだ。そんな軽佻浮薄な人間に、消し去った過去の出来事、そして血のつながりがつきつけられるとき、犯罪が生まれる。消し去ったはずのみずからの過去をつきつけられたとき、その相手を殺す手段として、電磁波が選ばれたのもむべなるかな。血と肉体とは全く無縁な不可視の殺人手段として、これほど似つかわしいものはない。反近代主義者、反モダニズム、反アヴァンギャルドの松本清張にとって、電磁波殺人は、殺人を犯す人間の電波のような電子音のような、反自然、反人間性にもっともふさわしい殺人行為だったのである。


このように考えれば『ゲットアウト』の荒唐無稽な設定も、自己の肉体でありながら、白人に肉体を収奪されてきた苦難の、いまなお続く歴史の寓意というふうにみることができる。寓意といっても、肉体の収奪という比喩表現が現実化することによって生ずる寓意性なのだが。過去から現在においてもなおアフリカ系アメリカ人の肉体は、白人の所有物だったのである――なおこれはこの映画においては、性奴隷という意味ではない。


と同時に、ここには、黒人を肉体に還元することによる差別意識ということもみえてくる。しかも、これはアメリカ合衆国における特異な現象なのかもしれない。それはrace changeが下から上へ向かうのではなく、逆に上から下へと向かうことなのだが、


たとえば日本人が白人になろう、白人の青い目が欲しいと考えるのは、わからないわけではない。だが逆に韓国人とか中国人をディスることしかしないヘイト集団が、もし韓国人や中国人になろうと(理由は、あこがれをはじめとして、いろいろある)としたらちょっと驚くのではないか。Race changeあるいは民族チェンジは、、他者との合意あるいは同一化をめざすものだから、一見、差別とはもっとも隔たっているように思われる。ところが、それもまた、あるいはそれこそ差別であるというような状況はアメリカでは今もなお続いているということだろう。

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posted by ohashi at 17:14| 映画 | 更新情報をチェックする

2017年11月28日

『女神のみえざる手』

『女神のみえざる手』というタイトルはどういうつもりでつけたのか推し量るのが不可能だが、原題のMiss Sloanもまた、あまりにそっけなさすぎて、映画のタイトルとして座りが悪いということなのかもしれない。


ただ原題のそっけなさは、しかし、物語の緊迫した展開、テンションの高いドラマ性と好対照で、その落差を狙ったのかもしれない。とにかく一瞬たりとも目が離せない。そして窮地に立たされた主人公に最後の逆転が期待通りにおこる。すべては周到に用意された作戦だったとわかるのだ。


ロビー活動の実際について、なにも知らないのだが、投票率30%(日本の話ではない、合衆国もそうだと知って驚くのだが)の時代に、国会議員は、熱狂的な支持者・支援者を除けば、世論の動向によって議席の確保を考慮する時代において、民主的な議論なり手続きはすでに失効し、メディア操作やロビー活動が政策決定に関与するということだろう。映画では銃規制を強化する法律を阻止しようとする勢力と、規制強化を実現しようとする団体のためにはロビー活動することを選んだ主人公の、一線を越えた、なりふりかまわぬ行動が中盤いや後半にかけての中心で、そこから生まれる激しい反発と抵抗によって、それまで有利に進んでいた銃規制強化運動が頓挫し関心をもたれなくなるまでを描いている。そして最後に起死回生の逆転が起こる。


実は、この映画を見ている時点で、日本では、横綱・日馬富士による貴ノ岩への暴行事件が連日テレビで報道されている。しかし、いつのまにか暴行した側の日馬富士でなく、被害者の貴ノ岩とその師匠である貴乃花親方へを非難する報道がめにつくようになった。貴乃花親方は沈黙を守っていて、声高に聞こえてくるのは相撲協会の意向を代弁するメディアの報道だけで、あとは相撲協会擁護・被害者バッシングの醜い構図だけが残っている。ただ貴ノ岩側からの証言もぼつぼつ出始めていて、それによればほんとうにリンチ事件そのもので身体的なダメージもひどく、とても貴ノ岩の仮病とか重症の疑いなどですまされるような問題でもなくなってきて、ここにきてにわかに相撲協会とそれに結託したメディアの論調がトーンダウンした。


ここまで沈黙を守っている貴乃花親方側からの起死回生の、相撲協会の幹部が総辞職するような大胆証言と証拠という大逆転劇がないものかと、期待してしまうのだが、映画のようにはいかないのかもしれない。そして映画のように、大激震(映画のなかではearthquakeと呼んでいたが)が走るような出来事が起こるとすっきりするのだが、そこまでのことはないまま、うやむやに終わりそうだという予感はする(予感がはずれることを祈りつつ)。


こんなふうに考えると、この映画も、『ノクターナル・アニマル』と同様、妙にリアリティがある。


あとジェシカ・チャスティン、最高。彼女の主演作のなかでは、その魅力がもっとも出ているような気がする。彼女が主演した『ゼロ・ダーク・サーティ』はその力演も特筆すべきなのだが(キャスリン・ビグローのいつもながら力強い演出も忘れてはならないが)、彼女の魅力が十分に出ているとはいいがたいし、それにもしオサマ・ビン・ラディン殺害が映画の通りだとすれば、世界中のテロリストたちに命令できる最高指導者の殺害というよりも、潜伏しているローカルなギャングのアジトあるいは地元民に交じって生きている元ギャングをむりやり殺害したような話で、もしそれが意図的なものだったら痛烈なアメリカ批判にもなるのだが、おそらくそうではないのだから、失敗作ではないとしても、それに近いもののような気がする。


ジェシカ・チャスティンの魅力は、ジェフ・ニコルズ監督の異色作『テイク・シェルター』(2011)で頭のおかしくなる主役の、そして『ノクターナル・アニマルズ』(2016)にも出ていた、マイケル・シャノンの妻役の時に発見した(ちなみに『テイク・シェルター』から5年後のマイケル・シャノンだが、『ノクターナル・アニマルズ』では老けすぎ)。あの映画の彼女には、なにかオーラのようなものが漂っていた。妻役というとオスカー・アイザック(いまや『スターウォーズ』のヒーローだが)と共演した『アメリカの災難』(2014)があるが、彼女の魅力をそれほど出しているとも思えなかった(メイキング・フィルムでは、ジュリアード学院でいっしょに学んだオスカー・アイザックと対談していて、この世代を代表する演技派の二人の話はけっこうおもしろかったが)。


今回の『女神のみえざる手』は、彼女の魅力と演技力に圧倒されるものの、しかし、それは彼女が演ずる人物の個性とかパーソナリティに感銘を受けるのではない。むしろ彼女が演ずるミス・スローンは、やり手のロビイストなのだが、裏や深みがない。彼女がこれほど銃規制強化のうちこむのは、ないか過去の経験とかトラウマがあるように思われるのだが、それは最後まで明らかにされない。つまりいくら不眠症に悩んでいても(つまり彼女にとって眠るのは怖い、たぶん悪夢をみるだろうから)、その真相はあかされることはなく、むしろ彼女は裏も深みもわからない、あるいは、そもそも裏も表もないフラットな人物であり、その仕事ぶりもチャレンジ精神によって引き受けているだけである。くりかえせば、彼女が演ずるところの辣腕ロビイストには、裏がない。書き割りのような人物である。そのため書き割りを立体的に見せる彼女の演技力(実際の演技力と、映画のなかでの演技性のふたつをふくむ)に限りない魅力を感じてしまうのである。


ロビイストの戦略とは、先を読み、先手をうつことである。それが最後に起死回生の逆転劇を生むのだが、どこまで先手をうっているのか、わからないところに、キャラクターや物語の面白さがある。彼女の弱点と思われるもの、彼女の敗北と思われるものも、戦略の一部しかもしれないとしたら、彼女の行動と性格は、底なしである。得体が知れない。その不気味さが魅力になっているのかもしれない。


あるいは彼女は万能の女神ではなく、弱点もあれば失敗もある。すべて用意周到に準備をしているわけでも、あるいは先を読んでいるわけではないだろう(もっとも映画を見終わったあとでは、先を読みすぎているともいえるのだが)。その場、その場で、即興的に作戦を立案し実行する、逆境や敗北を味方につけてさらなる攻撃へと転ずる、その機転、叡智、いさぎよさ、まさに卓越せる演技者としての魅力が、彼女本来の演技者としての能力と相乗効果をあげるとでもいえようか。だが、そこがどこまでかわからない。一線を越えるというのがこの映画のキーワードでもあって、どこまでか計画で、どこまでが臨機応変の策略か、区別がつかなくなっている。


ただ、それにしても、彼女に対して、最終的には好ましい印象を観客がもってしまうというのはどうしてだろう。それは映画術というかシナリオ術における大きな原則を、この映画作品もふまえているからだろう。つまり誤解される人物。この作品の中で彼女には裏がみえない。しかし、フラットな、薄っぺらな人物にも思えないのは、彼女の造型において、誤解される人物という点が観客の共感を呼ぶ。もちろん彼女の正体は最後までわからないのだが、しかし、わかったこともある。周囲は、私たちは、彼女を誤解していたということである。それも私たちの洞察力のなさではなく、彼女が周囲をまきこまないために、あえて真意を示さなかったのだということである。新たなヒロインの誕生である。続篇は作られないだろうが、シリーズ化してもいいような作品である。

posted by ohashi at 19:18| 映画 | 更新情報をチェックする

2017年11月27日

『ノクターナル・アニマル』

トム・フォード監督の二作目は、予想外にすごい話しで圧倒された。第一作『シングルマン』も面白い作品だった。第一作の原作となったイシャーウッドの原作も読んでみたが、原作では最後に主人公は急死するのだが、自殺ではない。たしかに自殺を決意した主人公の一日にしては映画における言動はあまりに不自然すぎる。映画が、自殺決意という点を除いて、あとは原作に忠実になればなるほど、違和感が増していた。とはいえまたいっぽうで、自殺が映画全体に緊張感を付与していたのも事実で、ゲイ映画としても、そのメランコリックな喪の儀式(主人公の長年の愛人に対する)という主題に独特の哀調を付与することになった。


才能が二つもある人間は、ほんとうにうらやましいと、才能がひとつもない私としてはひたすら羨望の念のしか感じないのだが、今回は、前作からは予想もつかぬ展開に驚きまた感動した。


もちろん前作にあったおしゃれな生活空間やアートフルな雰囲気は横溢しているが、同時に、むき出しの暴力と救いのない死のテーマなど、メランコリックな雰囲気あるいは克服できない死のトラウマなどのテーマも重みを増している。いや、その重いテーマの部分は、物語の部分、つまり主人公の女性が読んでいる物語の部分での話なのだが、ああ、物語だったと思うよりも、むしろ、その物語の部分が、突出して全体を覆いつくすようなところがある。出てこようとしている物語なのだ(すみません。ヨーロッパ企画の『出てこようとしているトロンプロイユ』の影響をまだ受けている)。


美術館の学芸員か館長であるエイミー・アダムズのもとに元夫(ジェイク・ギレンホール)が書いて、今度出版されるという小説のゲラが送られてくる。読んで感想を聞かせてほしいということだったと思うが、その内容は、元夫の小説家の彼女への思いが描き込まれているという。そうなのかと、ゲラを読み始める彼女。彼女とともに観客も小説の世界に入り込むと……


夜のハイウェイ、妻と娘を乗せて走るジェイク・ギレンホール。進路を妨害する二台の車をどかせて追い越すと、今度は後ろからあおられ、車をぶつけられ、路肩に追い込まれて、あきらかにならず者というか、やさぐれた男たちに、車外に引きずり出される……


予想もつかない展開となる。これはエイミー・アダムズと彼女の元夫、ジェイク・ギレンホールとの間に実際に起こった出来事のことを描いたのだろうか。そうなると彼女の元夫と、彼が書いた小説の主人公のふたりをジェイク・ギレンホールが演じていることはわかるが、彼の妻をアイラ・フィシャーが演じているのは、なぜか、なぜ彼女をエイミー・アダムズが演じていないのか。どうやら小説に描かれている出来事は、元夫とエイミー・アダムズの実際にあった出来事とは異なり、元夫の頭の中の、いうなれば心象風景ということなのだろう。小説に描かれているのは実際の事件ではない。小説のなかの出来事、その暴力性と悲劇性、怒りと悲しみが、元夫がエイミー・アダムズに対して抱いている現在の感情とシンクロするということだろう。


このへんはわかる。ただ、問題は、ハイウェイであおられて、車をぶつけられ、いんねんをつけられて、車外に引きずり出される。そして命の危険にさらされる。これは、怖すぎる。現実に日本で同じような事件が起こったばかりだ。しかも、たまたま悪辣な人間が一般人に対して起こした例外的な事件というのではなく、似たような事件が続いて起こったし、いまも起こっている。高速道路にすくう悪魔。ああいう連中は一掃すべきだし、厳罰に処するべきだと怒りと恐怖を感じている日本人は多いと思うが、まさにその感性をいま、この映画から刺激されるとは!


ネタバレになるのだが、あるいは以下はネタバレになるかもしれないので、ネタバレ注意:Warning Spoiler


エイミー・アダムズは不眠症である。そのため注意散漫になるだけでなく、幻視までするようになる。いうなれば現実と夢/悪夢との区別がつかなくなる。この関係は、元夫が書く小説と実体験との関係と同じである。つまり実体験では、周囲の反対を乗り越えて愛のある結婚をしたのだが、生き方の違いというか、夢にみた結婚生活と結婚生活の現実との乖離、さらには女性の側にも自己実現の夢があり、それが結婚生活の障害となるなど、ある意味で、ありがちな過程をへて離婚へといたる。これが小説のなかではハイウェイで地元の不良に襲われえ、最終的に妻と娘を殺されるという事件に変貌する。娘? 実は実生活においても彼は娘を失っている。離婚後か離婚を控えてか、彼女は元夫とのあいだにできた子供を中絶しているからだ。小説のなかにおいて、なぜ、じぶんは死に物狂いで妻と娘を助けなかったのかという悲痛な叫びは、妻か元妻の妊娠中絶手術を止めようとして手遅れだったことの悲嘆とシンクロしているのである。


小説と実体験が、直接的ではなく間接的にあるいは象徴的にシンクロしていることがわかる。ただ、これは現実と夢との区別がなくなるということではない。そうなのだが、しかし、最近、絨毯の表と裏という比喩を使って小文を書いたこともあり、その比喩をここでも使えば、実体験と小説は、絨毯の裏と表ということになるとしても(もちろん地と図という比喩でも同じことがいえるのだが)、どちらが夢か確証はないのである。


つまり小説で描かれる暴力的な出来事が虚構化された裏、表は夫婦の出会いと終わりと悲劇的終わりという実体験となるが、これは逆ではないか。妻と娘をならず者に殺され、やがて復讐を終えてもみずから死ぬことになる男が、死ぬ間際に、あるいは事件が起こってから白昼夢のようなかたちで、夢見た、もう一つの現実ではなかったのでないか。


都会のソフィスティケートされた現代アートを収める美術館。いっぽうで田舎の殺伐とした荒廃した土地と社会。田舎のほうを悪夢とみることはできるが――悪夢にふさわしい不条理な暴力が噴出するが――、しかし、都会の美術館とその館長(学芸員主任)の生活のほうこそ、現実と遊離した、夢のような、また夢のようにはかない、あるいは薄っぺらい夢の世界ではないか。


つまりどちらが絨毯の裏か表かわからなくなる、あるいは両方の可能性があるところが、この映画の悪夢的特徴なのだと思ってしまう。この作品をジェンダー化すればバイセクシュアルなのだ。裏と表が反転する。そしていえることは、現実と悪夢との対立が交代するのではなく、どちらも悪夢にしかみえなくなる。不眠症に苦しむ人間が、いつしか現実も悪夢と化し、そしてもとからも悪夢と共存する。これも怖すぎる。


posted by ohashi at 17:37| 映画 | 更新情報をチェックする

2017年11月18日

『ロミオとジュリエット』

カクシンハンの『ロミオとジュリエット』、一日限りの東京公演(絵空箱)をみる。これは113日から5日まで、カクシンハン主宰・木村龍之介氏の生まれ故郷である大分・玖珠町立わらべの館にて上演され、東京では1日限りの上演、一日3回公演となる。幸い、その日は一日あいていたので、また夜の回は満席だったので、午後1時の回でみることになった。


この公演の唯一の欠点は、公演場所の絵空箱が、英語英米文学関係で名高い出版社の近くというか、すぐ隣じゃん、であること。この出版社には不義理をしていて、その前をあせって素通りした。


「絵空箱」は、有楽町線江戸川橋にあるカフェバーで、演劇やダンス、パフォーマンス、

音楽ライブ、映像の試写会、絵画や彫刻等の個展などに貸し出されているとのこと。カクシンハンあるいは木村氏の好みかもしれないが、ピアノのあるサロンでの、ピアノ伴奏による朗読劇という体裁をとりながらの『ロミオとジュリエット』の上演で、くつろぎの空間でゆったりとした気分でみるパフォーマンスにこだわってか、当日は、ワンドリンク無料券が配られた。


このコンセプトは悪くない。たとえばブレヒトにとって理想の観劇とは、スポーツ観戦であって、選手のプレーに一喜一憂するというより、選手のプレーをわいわいがやがや講評しながら見ることこそ、劇の異化効果を最大限引き出す方法だった。サロンでの、ゆったりとした気分での観劇も、ある意味、どんなに舞台が熱く盛りあがっても、クールに知的に受容することを意図しているのではないだろうか。


ポケット版なので、ピアニストを除くとカクシンハンの4人で『ロミオとジュリエット』を演ずることになる。4人はカクシンハンのベストメンバーであり、河内大和、岩崎Mark雄大、のぐち和美、真以美。河内大和は、佐々木蔵之介主演の『リチャード三世』にも出ていたが、存在感のある俳優だが、ハムレットは似合っていても、河内ロミオが実現したら、ちょっと違和感があるので、今回は岩崎氏がロミオで、河内大和は脇にまわるという、ある意味ととても贅沢なパフォーマンスであった。


少人数で大きな作品を演ずるというのは、私はあまり好きではない。どうしても要約になり、また省略が多くなるからだ。だからKAATで観た『オーランドー』も、評判の舞台だったが、個人的には好まなかった。もちろん例外もあって昨年、世田谷パブリックシアターでみた野村萬斎版の『マクベス』は、5人で上演するもので、マクベス夫妻はそのまま、残りの役柄を3人の男性が演ずることになるが、この3人が3人の魔女の変容体でもあるということで意味付けはじゅうぶんにあり、また全体にお金をかけた大スペクタクルを展開したので、満足度はたかかったし、海外での公演も、この和風スペクタクルは、うけるだろうと納得できた。ところが毎年日本にやってきて56人の俳優でシェイクスピア劇を上演する、それも地域の公会堂以外に、いろいろな大学のキャンパスでも上演する劇団があるのだが、それは正直言って面白くない。演劇としてそんなにすぐれているとも思えない。やはりセンスの問題だろうか。カクシンハンの上演は、ポケット版という少人数による上演で、省略も多いのだが、そのセンスのよさで圧倒するし、省略があっても、シェイクスピア作品をまとまったかたちで受け止めたという達成感をもたせてくれる。それは、サロンでのピアノ伴奏付きの朗読からはじまって、いつしかそこがロミオとジュリエットの物語を幻視する空間へと変貌をとげるという構成となる。朗読にうながされて、観客は、そこに恋人たちの悲運の物語をたちあげることになる。


演出のすばらしさを例にあげればきりがないが、たとえば、最後に二人が死ぬ場面。最初にロミオが毒を飲んで死ぬ。このとき岩崎/ロミオは立って死ぬ。現実には立ったまま死ぬということは、ありえないのだが、ここでは立ち姿の死というのは妙に説得力がある。そしてつぎにジュリエットが短剣で自害して、ロミオに、まさに寄り添うようにして、これもまた立って死ぬ。二人の死が、二人の寄り添う立ち姿となって結実する。これは原作において最後に予言されている死んだ二人を記憶に残すための黄金の立像への暗黙の言及であろうが、同時に、立ち姿の二人の死は、二人が死ぬことによって、伝説あるいは神話的存在となり、まさにサロンの装飾的な彫像化することも暗示している。またこの暗示性は、さらにいろいろな解釈や意味を引き寄せることになろう。こうした演出あるいは構成は、イギリスからやってくる中途半端な劇団の上演など足元にも及ばぬ芸術性あるいは演劇性を獲得している。


なお金曜日の午後なので、観客には私のような年寄りも多くいたのだが、若い人から中高年までに愛される上演となっているのは、カクシンハンの将来の大いなる可能性を暗示しているように思う。


追記

公演のあと、時間があったので大学に立ち寄ることにした。研究室にむかう途中、知り合いの学生にばったり出会った。彼女をうらやましがらせようと、いまカクシンハン公演をみてきたばかりだと話したら、その公演のことは、知っていたが、金曜日は授業があって見に行けなくて残念だということだった。ただ、ただ?、ワークショップには出席したとのこと。え、ワークショップ? そう、カクシンハンの木村龍之介氏は、公演に先立ってか、公演とは別個に演劇ワークショップを開催していて、そこに参加したとのこと。複数回。しかも彼女から聞いた限りでは、あと私の知っている二人の学生も参加していた。はっきりそうだと言っていなかったが、どうも、私の授業よりも、木村氏のシェイクスピアのワークショップのほうが面白いみたいで、軽い嫉妬すら感じている今日この頃である。

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posted by ohashi at 20:39| 演劇 | 更新情報をチェックする

2017年11月17日

『出てこようとしているトロンプロイユ』

ヨーロッパ企画第36回公演『出てこようとしているトロンプロイユ』を見る。本多劇場での東京公演は終わっているので、1119日までの神奈川芸術劇場の公演を見る。大ホールの公演で、そんな大掛かりの公演かといぶかったが、エスカレーターで上がっていくと、いつもは左手にある受付が、右側にある。今年のKAATの公演『春のめざめ』のときと同じで、大ホールを区切って使うときの受付である。会場は、こじんまりとしていて、どこに座っても舞台がよくみえるようになっている。


ヨーロッパ企画の公演は前からのぞいてみようと思っていたのだが、チャンスがなく、今回、たまたま機会にめぐまれた。評判どおり、めちゃくちゃ面白い。笑いを喚起する工夫にみちていて、客席から笑い声が絶えない。私も自然と笑うことができた。


公演前の舞台については、ホール内に入ると、おどろく。舞台装置がリアルで、第四の壁を想定して、きっちりディテールまでがつくりこまれている。絵画とのアナロジーで言うと、現在の小劇場あるいは中劇場は、抽象絵画が主流である。もちろん俳優が演ずるので抽象絵画というと語弊があるかもしれないが、ただ、時代設定もぼんやりしていて(たとえば漠然と現在の日本とか)、さらに時代も国籍もわからない無国籍で、イメージ喚起力はあっても、ローカルな具体性を示さない演劇世界ということを抽象絵画的といえば、今回の舞台は、舞台のつくりこみという点において具象絵画的であった。老画家が死んだあと、その画家の部屋を訪れた大家と、その店子たち(彼らも画家)が、遺品を整理しているうちに……という物語なのだが、遺品の絵画ひとつひとつが、この作品のために描かれつくられていることに驚く。もちろん、その遺品の絵画がひとつひとつに意味が出てくるのだが。それにしても、台本のつくりこみはふつうのことだとしても、こうしたプロップへのつくりこみまでなされていることは特筆すべきことだろう。


ただ内容はSF的というよりも形而上的コントである。コントの部分は、おもしろすぎる。喜劇の部分は、もう完成の域にきていえ、笑いのツボなどをすべて心得ていて、こんなにもスムーズに笑いを引き出す演劇術に驚きあきれるほかはない。そしてメタフィジカルな部分も、説得力がある。もちろんこれはオブジェクト・レベルとメタレベルの話を、だまし絵とからめていて、二次元のものが三次元であるかのようにみせるのが「だまし絵」であり、また一瞬、本物かと思うと、実は二次元の絵であったとわかるところにだまし絵の真骨頂があるとすれば、そもそも「でてこようとしている」というのが、あるいは「でた」と思ったら「でていなかった」というのは「だまし絵」の基本条件だといってよく、そこから生ずるドタバタが劇の中心となっていく。


つまりこのSF的、形而上的設定が、笑いをアフォードする。つまり、この設定にひそむ笑いの可能性を徹底して顕在化することで喜劇が成立しているといえようか。形而上的設定は、あるいはタイムマシンのようなSF的設定と喜劇性は、相補的である。もしその設定をつきつめれば喜劇あるいはスラップスティックしかなくなることで、逆に状況の意味を顕在することにもなる。


とはいえ、これについて説明すればするほど、めんどくさくなってわからなくなると思うでの、原作は刊行され、舞台のDVDもいずれ発売されると思うので、それを読んだり見ていただくか、まだ続いている全国公演(KAATでの公演も19日まである)をみていただくほかはないが、面倒くさい、メタシアター的状況を、見ている者が、きちんと説明できるまでになるのは、作品の構築がすぐれているからであろう。


見る者は、誰かに見られている。その見ている者も、また上位の誰かに見られている……。となるとこの無限後退あるいは無限上昇、まさに「無間地獄」ともいえるような状況は、どこで終わるのか、結局、終わりがないのかという問題を、時間を逆行させて同じ登場人物をつかって世界を作り変えるという展開は、個人的なことで恐縮だが、メタ的なもの(メタシアター、メタドラマ)から出発して、アダプテーションに興味をもつようになる私の知的関心の軌跡と一致していて、個人的には感銘を受けた。

posted by ohashi at 10:04| 演劇 | 更新情報をチェックする

2017年11月12日

『トロイア戦争』

『トロイア戦争 トロイラスとクレシダ』

明治大学シェイクスピア・プロジェクトによるシェイクスピア『トロイラスとクレシダ』を見る。公演では『トロイア戦争―トロイラスとクレシダー』とあって、いきなり『トロイラスとクレシダ』では、一般知名度が低いために『トロイ戦争/トロイア戦争』としたのかもしれない。ただ『トロイア戦争』としてもしなくても、シェイクスピアの『トロイラスとクレシダ』は面白い作品だが有名な作品ではないので、例年満席の公演に対して、やや空席がめだったのは、しかたないことかもしれない。


空席があったのは、ほんとうに惜しい。というのも今回のみごとな公演を見逃すとは、なんという損失かといういいたいからだ。明治大学シェイクスピア・プロジェクトは、毎年レヴェルの高い演技に感銘をうけるのだが、今年の『トロイラスとクレシダ』は、登場する学生俳優たちが、びっくりするほど演技がうまい。この作品は、癖の強い人物が多いというか、そういう人物ばかりなのだが、それを演ずる学生たちが、各人物の特徴をほんとうによく出していて、台詞まわしもほんとうにうまい。こんなにうまかったのかと、認識をあらたにした。


過去の公演の演技がへだったとということはまったくない。高い質の演技で、安心してみることができたし、そこに演出とか構成上のいろいろな工夫が加わって独創性という面でも他の大学の学生シェイクスピア劇のなかでは群を抜いていたのだが、今回は、アレンジがあるとはいえ『トロイラスとクレシダ』一作なのだが、とにかくうまい、うますぎる。今回の明治大学シェイクスピア・プロジェクトの公演は、日本語によるシェイクスピア劇上演としては、プロアマを問わず、最良の部類に入るといっても大げさではないと思う。


個々の学生の演技力がすごいのはいうまでもないが、演出・構成も優れている。鵜山仁演出、浦井健治、ソニン主演の世田谷パブリック・センターの『トロイラスとクレシダ』公演を2015年の夏に観たが、浦井とソニンのトロイラスとクレシダのペアも頑張っていたし、渡辺徹のパンダラスも印象深かったし、その他、芸達者な俳優が脇をかためる見事な公演ではあったが、明治大学シェイクスピア・プロジェクトとは印象が違う。むしろ鵜山演出でクレシダは哀れな少女であり、また悪女へと変貌するという両極しかなかったが、今回のクレシダは、そうしたステレオタイプ的女性像ではなくて、人間味のある女性であり、生きた女性であった。


また、今回に限らないが、女性が男性の役をすることが多く、今回もオデュセウスをはじめとしてけっこう重要な男性人物が女性であった。おそらく男子学生の数がすくないか、女子学生の数が多いか、男女公平に役をわりふる必要かわからないが、理由は何にせよ、上演前の危惧は、芝居がはじまってからは消えた。すでに誰もが存在感のある、しかもうまい演技で、違和感などまったくなかったことも付け加えておきたい。


もうひとつ付け加えると


当日会場でも売られていたようだが、明治大学シェイクスピア・プロジェクトを記念した本が今年出され、私の名前も表紙というかカバーに小さく記載されているのだが、私は一観客として、毎年楽しみにしながら、公演を見させてもらっているだけで、出演者とかプロジェクト関係者に知り合いがいるわけでもないし、また利害関係もない。その私の率直な感想なので、このブログにおいても、その感想に利害がからむようなバイアスはない。


ただ、それにしても明治大学シェイクスピア・プロジェクトを毎年見ていることが、どうしてわかったのだろうか。このブログに書いていたからか。毎年、授業中にほめながら言及したことはあるが、それ以外のところで言及したことはない。案外簡単な理由があるのかもしれないが、いまのところは不思議なままである。

posted by ohashi at 21:34| 演劇 | 更新情報をチェックする

2017年11月01日

『ブレードランナー2047』

大学院の授業では、授業の内容によるところ多いのだが、参加している院生が、幅広い分野の文学作品に言及してくれる――それはそれで毎回貴重な情報が得られて私にとってもは刺激的な経験なのだが、問題は、あの作品は、そんな話だったのかとか、そんなエピソードがあったのか、そんな描写がなされていたのか、と、我ながら自分の記憶喪失に驚かざるをえないことだ。読んだことのある作品でも、いまやまったく覚えていない。読んだことのある作品と、読んだことのない作品との区別がなくなっている。忘れてしまっては、すべてが新作同然である。だから新鮮な気持ちで院生の発言を聞くと同時に、心の中で記憶喪失を嘆いている。


たぶん、これはイギリスやアメリカのどこでも売られているお土産か絵葉書みたいなものだと思うのだが、オックスフォードのボドリー図書館の売店で昔見かけた絵葉書に、若い頃からいっしょうけんめい勉強して、たくさんの本を読んで、そして歳をとると、すべて忘れてしまって、結局、なんのために勉強したのかわからなくなるという皮肉なメッセージが書かれたものがあった。まあ、面白いなと思いつつも、とりわけ切実に感じなかったのだが、いまや、それが本当に切実なものとなった。このまますべて忘れて無に回帰するのだろか。


ライアン・ゴズリング扮する新型のブレードランナーが、元ブレード・ランナーのデッカード(ハリソン・フォード)に、いっしょにいたの彼女の名前はと質問するところがある。デッカードはなかなか答えようとしないのだが、ライアン・ゴズリングは執拗に問いただす。そのやりとりをみていた私には、なんの苦も無く「レイチェル」という名前が浮かんできた。この映画をみるために、予習あるいは復習をしてきたわけではない。ただ自然と名前が浮かんできた。昔、みた映画の記憶がきちんと残っている。もちろんこれは昔の覚えたことは記憶に残っていて新しく覚えたことが記憶から抜け落ちるといよくあるパタンかもしれないが、映画をはじめてみた頃に読んだ本の内容はほとんど忘れているので、とにかく記憶していたのはうれしい。


『ブレードランナー』を初めて見た時の衝撃についpあれこれ語れば、ただの昔話になってしまうので、あまり興奮せずに語れば、このSF映画はフィリップ・K・ディックの原作の、まあ忠実な映画化というよりも翻案に近いもので、むしろそれがよくて、映画作品として成功しているのではないかと思う。たとえば近未来SFものかもしれない映画『ザ・ロード』を、コーマック・マッカーシーの原作を読まずに、見たのだが、ピューリッツァ賞をとるほどの原作なのかと、いぶかった。原作の言語表現に匹敵するものが映画にはなく、ナレーションだけでは原作のもつ陰鬱な迫力に及ぶべくもなく、ただ地味な映画というにとどまったように思う。それにくらべると『ブレードランナー』はディックの原作に対する忠実度は低く、そのぶん、思う存分、独自の美的世界を構築できていたように思う。


では『ブレードランナー』と、その続編『ブレードランナー2047』のちがいはといえば、前作にあった近未来の世界の密度感のようなものが今回はなくなって、荒廃と荒涼感にみちあふれていることか。もちろん続編で監督がちがうとはいえ、続編であることの基本は、長い物語の後半であるということではなく、前篇と同じフォーマットを使っているということだ。冒頭でレプリカントを殺害するとか。前篇でもブレードランナーがレプリカントを恋人にしているのに対して、後篇でもブレードランナーがダッチワイフ型ホログラフを恋人にしていることか。また前篇ではレイチェルだけではなく、デッカードもレプリカントではないかという可能性が取りざたされたのだが、後篇では最初からブレードランナーは新型レプリカントという設定になっている。


と同時に後篇では前編にあった人工性は極限まで拡大して、どこまでが自然で、どこまでが人工なのかわからなくなっている。さらにいえばすべてが人工物であり、またその人工物は生ける存在ではなく廃墟でしかなくなっている。自然ではなく、人工性の廃墟は、もはや再生を望めない。そのため孤独感、荒涼感がつのるような、そうした世界が出現する。最後の場面など、外に残るライアン・ゴズリングの周囲には誰もいない。もはや癒しがたい死の世界が広がっている。それが猥雑で耽美的な密度感のある前作のシティ・スケープとは異なり、静謐な死の世界を展開させる後半の特徴でもあるのだろう。


2時間40分以上という、最近では珍しい長編映画だったが、間延びした感じはなく、長さを感じなかったのは、不思議な気がする。よくできているのか、映像の脅威に最後まで魅惑されていたのか。とはいえ内容的には2時間でも十分に収まったと思う。いくら3時間あっというまとはいえ、映画館に3時間拘束されるという事実に対する抵抗が、映画館への足を鈍らせるのだとしたら残念ではあるが。


あと言及される文学作品がナボコフの『青い炎』とスティーヴンソンの『宝島』というのは、あまりに極端な取り合せで引いてしまうが、またそこのところコンセプトはどうなのかということも心配になるが、ナボコフ作品は、映画と関係していくところがあるかもしれない。それについてはまた考えたい。

posted by ohashi at 10:15| 映画 | 更新情報をチェックする