2017年10月30日

『リチャード三世』


佐々木蔵之介主演、シルヴィウ・プルカレーテ(Silviu Purcarete 195045日ブカレスト生まれ)【情報はルーマニア語のWikipedia。そのため生年月日しかわからず。名前の綴りは簡略化している】演出の『リチャード三世』を東京芸術劇場でみる(観たのは前日229日)。プルカレーテは1990年代、日本ですでにルーマニア人俳優によってシェイクスピアの『タイタス・アンドロニカス』(1992)と『テンペス』(1996年)を上演していたのだが、気づかず。その後、2013年にヴェデキンド『ルル』、2015年に『オイディプス王』と『ガリヴァー旅行記』を東京芸術劇場でルーマニア人俳優によって上演していたこと、これは知っていたが、シェイクスピア劇ではなかったので、あえて接点を求めなかった。今回、佐々木蔵之介をはじめとして実力派の日本人俳優たちによる上演をみて、はたして、これまでプルカレーテの舞台を見てこなかったことを後悔すべきか、見てこなくてよかったと安堵することになるのか。


結論からいえば、後悔した。今後、プルカレーテの舞台を見る機会があれば、絶対に逃さないようにしようと心に決めた。佐々木蔵之介の演技も素晴らしかったらが、その舞台コンセプトが多層的・重層的で見る者を圧倒したからである。


唯一難点をいえば、今回、木下順二訳のシェイクスピア『リチャード三世』を使ったのだが、なにを語っているのだが、日本語がよくわからなかった。俳優のせりふ回しが下手だとか、劇場の音響効果に問題があるとか、そういうことではなくて、端的に、日本語を耳で聞いてもわからなかったということである。木下順二はシェイクスピア劇そのもののみならず、その翻訳についても活発に論じていて、現在も日本語で読まれているシェイクスピア作品の翻訳者のなかで、もっとも多く発言し、また翻訳の問題をつきつめた論者だと思う。その意味で、木下順二訳は、決しておろそかにも、あなどることもできないものなのだが、この問題は次回に触れる。


まあ外国人演出家だったので、難解あるいは意味不明な日本語の問題は考慮の範囲外だったのだろうが。


演出そのものは、最初から、攻めてくる。最初は、パーティの場面である。リチャード三世の「不満の冬」の独白も、舞台で独りで語るのではなく、にぎやかなパーティ席上でのことで、他のメンバーに聞かれていない傍白ともとれるが、他のメンバーがみんな聞いていて、他のメンバーにむけて語っているともとれる。そしてもうそのパーティの席上でクラレンスが陥れられる。


もし傍白ではなければ、リチャードの台詞はパーティ参加者に聞かれている。しかも、パーティ参加者は、自分は悪人(悪役)になるというリチャードを応援しているようにもみえる。他人を操る悪人であるリチャード自身が、時代や社会に操られている存在であるという、主体と客体の同時共存こそ、最後までひきつがれる。それはまた悲劇の基本でもあろう。主体としてのリチャードは怖い存在だが、同時に客体としてリチャードは哀れな犠牲者である。恐怖と憐憫の共存である。アリストテレスのいう悲劇の基本条件である。


もちろん別の解釈や可能性にもこの演出は開かれている。最初のシーンから判断するとパリビな人たち、そのなかでも中心的な人物が、面白半分に、犯罪(人をだまし、陥れ、最後には殺す)をくりひろげていたら、いつのまにか後戻りできない深みにはまっていき、呪われ、絶望して死んでゆく物語でもある。


だがこのパリピな、悪辣な浮かれ騒ぎが、同時に、時代の恐怖とシンクロしていく。舞台装置は、プログラムの画像などをみるとそうでもないのだが、東京芸術劇場の大きな舞台でみると、やや抽象化され単純化され無装飾な空間が、圧迫感や閉塞感をともなって迫ってきて、グラフィック・ノヴェル、それもヨーロッパのメビウスとかエンキ・ビラル(とはいえふたりともフランスのコミック作家だが)の描く、荒廃した近未来の閉塞空間を思い起こさせる。そうエンキ・ビラル(中欧・東欧出身だが)の世界が、そこ、東京芸術劇場の舞台に出現したと興奮していたのは私だけだとしてもである(とはいえエンキ・ビラル以後を知らない無知をここで告白せねばならないのだが)。


この閉塞空間で、人を殺す手段が窒息である。クレランスはビニール袋をかぶせられ窒息させられる。最終的にはチェーン・ソーで殺されるという設定だが、それは舞台で示されることはない(あたりまえだが)ので、圧倒的に窒息というイメージが強い。しかも後半でリチャードが玉座に身を落ち着かせるとき、その玉座は透明なビニールで覆われていて、そのビニールになかにもぐりこむリチャードは窒息寸前になる。


窒息死のモチーフの一貫性は、またその含意にもよっても特筆すべきだろう。


ここでは舞台が屋外というよりは室内に見えてくる。そしてその室内のイメージは、閉塞感がMAXで、まさに見ている側もまた窒息死を味わうようなところがある。エドワード四世の幼い息子たちは、鉄の檻というか小部屋に入れ荒れて毒ガスで殺される。窒息死のヴァリエーションだが、それはまたナチスによるホロコーストで使われたガス室を連想させる。さらにまた窒息死そのものは、21世紀になってから、よく映画で登場することになったタオルを濡らして顔を覆って窒息死させたり、窒息寸前にする拷問として一般にも浸透したイメージである。


と、そこからさらに連想をひろげると、この舞台の閉塞空間は、拷問室にみえてくる。そしてこの拷問室は、病室であったり遺体安置室であったりと、不気味なイメージがじわじわとひろがっていく。いつも床をモップで掃除している、台詞のない白衣の人物が登場する。なにを掃除しているのか見えないし、わからないのだが、床に広がった血をふき取っているようにみえる。ここは病室というか、手術室であり、遺体安置室(このイメージも強烈に喚起される)であり、拷問室であり、拷問死の場所でもある。ちなみに死刑はいつもチェーン・ソーで行なわれるという設定である。


21世紀に入って二度手術を受けた私としては、病院の手術室は恐怖の場所である。もちろん、そこで自分自身の死の可能性をいやがうえにも意識しないではいられないから怖いということはもちろんだが、手術室に入り、麻酔で意識がなくなるまでにみる手術機械や器具の並んだ光景の不気味さは、医療ドラマでみる映像の比ではない。私自身を救ってくれる器具たちでもあるのだが、私自身を切り刻み死体と化すための装置にもみえてくる。もちろん私が入った病院の手術室は、清潔で、素人が見ても最新の機器とわかるようなものが並んでいて、どこに出しても恥ずかしくないものなのだが、もし、そこが汚れ、古びていて、機械はさびついていて、床には血が流れ清掃員がそれをモップで吸い取っていて、窓がない密室だとするのなら……。そこはエンキ・ビラルの描く世界。そこは拷問室である。


してこれは20世紀から21世紀にかけての地獄のイメージそのものであろう。ここにあるのは現代における恐怖のイメージである。このイメージのなかで、リチャードは、その原動力(主体・悪魔)でもあると同時に犠牲者(客体・罪人)ともなる。見ているとトラウマになりそうだという中高年の女性の声があったが、そこまでではない。現代日本では、もっと残虐な事件がメディアで報道されているのではないか(二か月で9人の女性を殺した連続殺人犯が、死体とりわけ解体した頭部を自宅のアイスボックスに入れていた!――ちなみにこの記事は111日書いている)。


ちなみにこの舞台空間の三方に映像が映し出され、そのなかで原作における後半から結末にいたるごちゃごちゃとした事件の連続が矢継ぎ早に示され映像的に処理される。この映像のプロジェクションによって、最後にはこの手術室、遺体安置室、拷問室のような閉塞空間が、リチャードの脳内空間になってくる。あるいは彼が閉じこめられる精神的な閉域といってもいいのだが。ここは彼が殺したり陥れられたりした人々がよみがえるか、幽霊となって登場し、リチャードを苦しめる狂気の祝祭空間となるとともに、彼を閉じ込める牢獄と化す。もはや彼は、この地獄から逃れるすべはないのだ。最後に「馬をくれ」という有名な台詞も、車いすが舞台中央に押し出されるだけである。この車いすは、「馬」のかわりということだが、病院内を動くだけで外には出られない。そういえばボズワースの戦いの場面は今回の演出では存在しない。すべてがリチャードの脳内で完結するようにみえる。


ちなみにこの閉鎖空間にリチャードの顔がプロジェクト・マッピングだと思うが、大きく映し出される。私は、あれは佐々木蔵之介の顔だと認識したのだが、リッチモンド(リチャードを破り、チューダー朝の開祖となる、のちのヘンリー七世)の顔(つまりリチャード三世/佐々木蔵之介とは別)だと語る知り合いがいたのだが、配役表にリッチモンドは登場しない。あれは佐々木蔵之介/リチャード三世の顔である。ただし、その映像の顔が何を語っていたのか、日本語が聞き取れなかった。それはリッチモンドの台詞だったのかもしれないのだが、私としては何とも言えない。


ただ、リッチモンドの台詞であったとすれば、佐々木蔵之介がリチャードとリッチモンドの二役をしている。あるいはそれはリチャードの中にある悪魔か、もしくは良心であり、いずれにしても、リチャードその人を責めさいなみ追い詰める。まさに敵は自分自身となり、外部はなくなる。自分自身が、自分自身を殺してゆくのである。


ここにいたるまでのリチャードの行為は、まさに演技者そのものである。佐々木/リチャードは道化の赤鼻つけて愛嬌をふりまき相手を油断させながら、悪魔的所業にいたる。また最初、五体満足な姿で登場しながら、状況に応じて、身体障害者になる、あるいは演ずる。身体障害者のふりをして、同情をかったり、嫌われたり、あるいは愛されたりしながら、思いととげていく変幻自在の存在、脱アイデンティティの実践者、リチャードは、まさに、役者の鑑というか、役者そのものである。リチャード三世ほど、役者じみた役者はいない。この作品は、リチャードという演技者が活躍する世界劇場なのである。


演技者とは、まさに、留まるところなき流動性をもって活躍し、あちらと思えばこちら、あれかと思えばこれ、アイデンティティを笑い飛ばし、複数のアイデンティティ、あるいはアイデンティティを消滅させ、アイデンティティと戯れる、プロテウス的な変幻自在な驚異的人間である。


この役者であることの客観的相関物とは何か? ひとつには、これは詐欺師である。結婚詐欺から寸借詐欺など、詐欺師そのものは演技者である。そしてこれは演技者=詐欺師であるリチャード三世にもあてはまる。もうひとつ、それは同性愛者である。もちろんこれは同性愛者に対する差別的イメージなのだが、伝統的な悪いイメージなのだが、イメージの歴史と文化と力学を考えるうえで無視できない材料となっている。演技者、詐欺師とつづく系列にはまぎれもなくクィアな同性愛者もある。パリピな人びとの軽薄さとチャラさは、むしろそれと積極的に戯れるクィア文化ともつながっていく。LGBTという分類に私が絶対に反対なのは、演劇、演技、遊戯的で、軽くて、不真面目で、ちゃらくて、とらえどころのない、行動というクィア性のもつ美学と政治学が抜け落ちているからだ。またこのクィア性を見失わなければ、詐欺師であり、演技者であるリチャードが、同時に、同性愛者でもあるというこの演出の意味がみえてこなくなるだろう。後半のリデャードは、後半、上半身裸のままであり、彼の手下ふたりも上半身裸。また、リチャードは、彼の片腕でもあったバッキンガムとは何度も接吻している。


もちろんそこには男性ホモソーシャルな世界の悪も存在する。原作でも代書人は、リチャードの陰謀を見抜いている。またこれはこの原作の不思議なところかもしれないのだが、作者は変幻自在な道化的・詐欺的リチャードの活躍を面白がり祝福しているだけでなく、民衆はみんな詐欺を見抜いているが、リチャードのもつ権力が怖くて、なにも言えなくなるばかりか、愚かな民衆を演ずることを余儀なくされる、という、そういう冷静、冷徹な視線もこめているように思う。これは凡百の演出が無視している点である。今回の演出は、その代書人に渡辺美佐子をもってきた。彼女の女性の視点で、この男性どうしの悪ふざけとも、悪辣な政治的詐欺ともいえるものを、冷静に分析させ、批判させていた。彼女だけが女性の目で、冷静に見透かすことができる。と同時に、その代書人の姿は、シェイクスピアにも似ている。つまり彼女の視点は、この狂騒を冷静にみつめる作者シェイクスピアの視点でもあるといえる。だが彼女は、この世界に、女性として登場するのではない。男性として、男装して登場する。この世界で、男装せざるを得ない彼女は、ある意味、無力である。男性ホモソーシャル関係の暴走を食い止めることはできない。作者もまた無力であるようにみえる。


だが演技者、詐欺師、変幻自在な悪魔、そしてクィアなパリピな人リチャードもまた、巨大な現代の恐怖の前に、追い詰められ破滅するしかなかった。佐々木蔵之介をはじめとする演技派の男優陣のすぐれた演技を前に、まあ、そんなふうに私は読んだ。ここには勝者は誰もいないというように。


posted by ohashi at 21:11| 演劇 | 更新情報をチェックする

2017年10月25日

『アトミック・ブロンド』

映画公開前だが、ウェブ上のサイトでは、次のような映画紹介があった。


1989年にベルリンの壁が崩壊され、今まで西と東に分かれていた超大国同士が同盟を組みはじめようとしていました。物語は大きな力が動こうとしていたその前夜から始まります。


イギリス秘密情報部MI6のトップレベルのスパイであるロレーヌ・ブロートンはベルリンに派遣されます。理由なく秘密情報部のエージェントを秘密裏に殺害した残虐なスパイ集団を倒すためです。ロレーヌ・ブロートンはベルリン支局の局長デヴィッド・パーシヴァルと連携するよう命じられますが、二人は反発しあいます。


紆余曲折ありながらも二人はタッグを組むと素晴らしい連携が生まれ、西側諸国を脅かすスパイや組織を次々と倒してゆきます。


という話ではない。上記の紹介は50%くらいしか当たっていない。公開前とはいえ、ミスリーディングな予告編以上にひどいものである。


グラフィック・ノヴェルが原作とのことで、そう思えば、ひとつひとつの「絵」がきまっているし、グラフィック・ノヴェルらしい暗さ、荒唐無稽さ、そして大胆なひねりの連続という点で、いかにもという感じがする。実際、ひねりは多くて、最後の最後まで気が抜けないというか、最後の段階で、もう一度、頭をリセットしてストーリーを再構成することを迫られる。


もちろん、そういう小難しい映画と思われては困る。それを上回る魅力として、その驚異的なアクションがある。これまでのアクション映画でのいろいろな動きやカットを吸収していることはいうまでもないが、それ以上に、格闘する二人にカメラがものすごく接近していて、観ている側は、殴り合い、殺し合う二人に、あたかも巻き込まれてしまったかのような気になってしまう。


つまり目の前で格闘が行なわれているのではなく、もう見ている私自身が、とばっちりを受けて、戦う二人の間に入りこんでしまい、まさに目の前を拳が行き交い、いっしょに蹴られ、転倒し、組み伏せられ、なにがなんだかわからないうちに、自分がぼこぼこにされててしまうような、そんな感覚が生ずる映像なのだ。このカメラワークは、これまで観たことも、体験したこともない。とにかく格闘シーンが驚異的である。


そもそもシャーリーズ・セロンがMI6のエージェントとしてみせる戦いの流儀は、たとえば女性ならではの流儀で、華麗に舞うような格闘技で相手を寄せ付けないというのではない。接近して何度も蹴ったりぶん殴ったりして相手を倒すという、華麗な技とは程遠い、ものすごい力技なのだ。東ベルリンの警官相手なら彼女は無敵だが、屈強なKGBのエージェント相手の熾烈な戦いでは、力でねじ伏せ倒す行為の強度が増し、巻き込まれたかのようなカメラワークによって、すでに述べたのように、これまでにないアクションシーンが展開する。


スタントとかCGの助けを借りているのだろうが(すべて彼女がスタントなしでやっているというような情報があったが、それは嘘で、スタントを使っている、まああたりまえのことだが)、セロン自身が、投げたり、投げとばされたように見えてしまう場面も多い。そういう意味でたいへんだっただろうと思うのだが、同時に、シャーリーズ・セロンのアクションをみていて、これでようやく『イーオン・フラックス』の実写版に到達したという思いも強くなった。


イギリスにいた頃、テレビで、あるアニメーションをみて驚いた。カマキリのような女殺し屋らしき人物が、敵のアジトに潜入して、とにかく殺しまくる。台詞はほぼ皆無。彼女が去ったあとは、もうあたり一面、血の海で、そこを歩くと、ちゃぽんちゃぽんと血の海が音をたてる。それはいうまでもなく『イーオン・フラックス』の一挿話、その一場面であって、なんだこのアニメはと言葉を失った記憶がある。


『イーオン・フラックス』は、のちに、日系の女性監督カリン・クサマによって実写版が創られた。昨年か今年だったか忘れたのだが、ヒューマン・トラスト渋谷で『インヴィテーション』を観たのだが、カリン・クサマは健在で、じわじわと恐怖をもりあげていく展開には手慣れたものを感じないではいられなかったが、そのカリン・クサマの実写版『イーオン・フラックス』で主役を演じたのがシャーリーズ・セロンだった。この実写版はヒットしたのかどうか知らないのだが、主人公のキャラならびに状況の設定が有能な正義の戦士であって、アニメ版でみたようなあくどさ、強靭さ、凶悪さは消えていた。


私が好きな『イーオン・フラックス』の、納得できる実写版は、今回の『アトミック・ブロンド』によって、ようやく完成したといっていいだろう。体中、あざだらけ、傷だらけになっても、男を殺しまくる今回のシャーリーズ・セロンは、まさにイーオン・フラックスの再来であろう。かくしてこの映画は、爽快感もあるし、その爽快感を最後にはきちんとひっくりかえすどんでん返しも用意され、あくどさもMAXになっている。


ただアメリカでの評価は賛否両論というのが意外で、つまり賛否両論になるような映画ではないと思ったからだ。どうもそれはこの映画のなかでレズビアン・シーンが出てくることに関係していて、アメリカではくそトランプ以降、女性蔑視と同性愛に対するバッシングがまたぞろ復活していて、この映画に対して、そのレズシーンによって、バカ家族愛ファースト・ファシストがバッシングに走っているようだなのだ。しかしこの映画をみれば、標準以上に面白い映画なので、バッシングを跳ね返す高評価を表明する映画ファンもあらわれ、バッシングがやや下火になっている。アメリカの頭の悪い、排除の論理でしか思考できない、ファシストどもが、映画を見ずにただレズビアンだからといってゾンビのように寄ってくる、この状況はなんとかしてほしいものだ。


ただレズビアン・シーンといっても短い。それを売りにしたり、大々的にレズビアン讃歌を展開しているのでは全然ない。たとえば米国と日本が同じかどうか知らないが、AVでレズビアン物というのは、日本では、ヘテロでエッチなダブルHの男性によって消費されているのであって、美しい女性のレズビアン性交はヘテロ男性向けのAVとしてじゅうぶんに成立している。たとえば数は少ないだろうが同性愛男性AVにおける男同士のからみを、同性愛ではない女性が興奮して観るのと同じであろう。日本で、AVのレズビアン物を女性の同性愛者だけが見て興奮しているということはありえない。異性愛者や同性愛者の男女によってレズビアンAVは消費されているのである。また実際、この映画のレズビアン・シーンは短くておとなしめで、アメリカの似非道徳主義者が騒ぐほどのことでもないし、また男とのからみはなくて、女とのからみしかない映画で、このシーンは男女の性行為の代償でもある。


あと映画のなかで使われている音楽というか歌が魅力的だと評価がたかい。最初のほうで一瞬、デヴィッド・リンチの映画か(べつに監督の名前がデヴィッド・リンチに似ているからではない)と思ったところがあったのだが、それはデヴィッド・ボウイの曲がながれてきたせいだった。同時に、聞き覚えのあるその曲が何の曲だか思い出せなくて、もどかしい思いがしたが、あとで、キャットピープルの歌だとわかった。懐かしすぎて、涙こそでなかったがちょっと胸が熱くなった。

posted by ohashi at 19:40| 映画 | 更新情報をチェックする

2017年10月19日

『トロイ戦争は起こらないだろう』

もちろんトロイ戦争は起こる。



そして戦争を回避しようとする人間(ただし一握りの)の超人的な努力をふじにじるかたちで。


ジロドーのこの作品は、昔、翻訳で読んだときには、皮肉な話だという程度の感想しかなかったが、あらすじなどもほぼ忘れた今、新訳での舞台をみると、ほとんど新作をみるのと同じなのだが、とにかく、いま現在の私たちとの状況とのシンクロぐあいが並大抵ではない(まあ、ハンパでない)、そのため観ていて胸が苦しくなる。もちろん、演出と俳優陣の緊張感の高い上演が、濃密な劇的時空間の形成に貢献していることはいうまでもないが(実際、すでに言われていることだが、予想外に素晴らしい舞台になっている)、そこで展開する(とりわけラストにおけるエクトールとオデュセウスの対話において頂点に達する)戦争をめぐる深い省察は、私たちが直面している危機、そしてその危機に対する私たちの無力感・絶望とあいまって、胸が苦しいどころではない、胸が張り裂けそうな痛みをともに、私たちを奈落の底に突き落とすといってもいいだろう。


戦争が起こっても自分は死ぬことはないと思っている愚か者たちは、トロイの民衆たちと今の日本人、自民党を圧勝に導くような日本国民であろう【この記事はアップするのは1025日だが、書いていたのは選挙前である】。なぜ、このような合意というよりも、なにか運命的な破滅への道が開かれたのか、そこにはあらがうことのできない宇宙的意志のようなものさえ感じられて、空恐ろしくなる。さらには、勝者のいない戦争――戦争とはそういうものだが――に対して鈍感になりすぎている日本人、まさに狂気の病巣が脳内に巣くっているとしか思えず、差別・ヘイト・ファシズム・極右思想の病原菌に脳内を汚染されたゾンビのような日本人に対して空恐ろしくなる。今は恐怖の時代。この狂気から生き延びる術を、誰か教えてほしい。


この戯曲のなかで、戦争へと民衆をあおるのは、詩人や知識人たちである。彼らの言動がなければ、民衆は戦争の開始に向けて離陸しない。実際、今回の上演を含め、いま演劇や映画、あるいは世界文学の分野では、反ファシズム、反戦争の作品、あるいは戦争の愚かさと悲惨さを強調する作品が増えている。そしてまた一方で、ファシズムと戦争へと傾斜する方向に加担するクソ文芸人や知識人も存在している。安部応援団である。彼らの狂気は確実に国民をむしばんでいるだろう。


舞台に出現した国は、古代のトロイではない。それは現代のアラブ地域でもない(舞台における砂漠のイメージがそれを暗示しているが)。いうまでもなく、それはいまの私たちの日本である。戦争とファシズムを回避しようとする必死の努力にもかかわらず、すでにファッショ化した日本では、戦争は起こるだろう。


個人的な感想をいえば、鈴木亮平(来年の西郷さん)は映画『忍びの国』でも同じような役を演じていた。それを今回の舞台をみて思い出した。今回のような役、『忍びの国』でみせたような役は、そもそも魅力的なキャラクターなのだが、よく似合っている。三田和代のエカベと神々の一人二役・三役は、ぶっ飛びぐあいに唖然としたが、神々の愚劣さと頼りなさへの批判的眼差しの結集点になっていてよかったのでは。この戯曲の神々は、偉そうでいえ、まったく役立たずで、それは偉そうにしているが、北朝鮮の暴走をとめられない中国やロシアみたいなものである。


総じて女性陣が弱すぎる。役立たずである(本来、役立たずの極致であるカッサンドラが、舞台では一番有能にみえるのは皮肉だが)。これは演出とか演技のせいではなく、原作において、女性に対する、どこか距離を置いた見下した姿勢に由来するものだろう。エレナを戦争の象徴としたことから、女性は魔女か泣くだけの愚か者としか、この戯曲はみていない。


ギリシア側をファシストにしたのは正解であったといおう。ファシストの黒服は、ギリシアの覇権主義の冷酷さを的確に示している。ただ、オデュッセウスをファシストにしたのは、たしかに、この狡猾で非情で残忍な策士にふさわしい設定だが、しかしエクトールと同様に愛する妻ペネロープがいるオデュッセウス、最後に運命に逆らって戦争を止めようとするオデュセウスは、ただのファシストではない、もう少し人間味と叡智のある存在ではないだろうか。そもそもファシストは、たとえいま地下の暗闇から地表に躍り出て活動を広げているとしても、20世紀の歴史において、唾棄すべき敗者にすぎないのだから。


あと劇場の私の後ろに座っていた若者たち男女が、トロイ戦争のことを、なにも知らなくて驚いた。まあ、エクトールとアンドロマックのことは知らなくても、エレナとパリスのことぐらいは知っておいてほしかった。予習をしてきた女性がひとりいたのだが、みんなからバカにされていた。愚かさに年齢の境はない。


ちなみにトロイ戦争は、実際にあったようだが、神話とか文学や演劇にあらわれたトロイ戦争は何十年もつづき、トロイという国が滅んだあとも、勝者ギリシアの国々にはつぎつぎと悲劇が襲い掛かる、悲惨の極み、愚劣さの頂点に位置する戦争として記述され記憶されている。しかもそれはまた集団的自衛権が凄惨な結末をもたらす最初の戦争でもあった。


つまりスパルタの王妃ヘレナがトロイの王子パリスに奪われる。このときトロイとスパルタだけが戦争をすればいいのだし、まあ、メネラオスの兄アガメムノンが国王であるアテネ一国くらいが同盟国として参戦してもいいくらいだろう。ところがギリシア全土の国々が参戦してトロイの海岸に押し寄せる。それはかつて、ギリシア一の美女ヘレナにギリシア全土から求婚者が集まり、そのなかでメネラオスがヘレネの夫となるのだが、結婚後、それまでの求婚者たちと同盟を結び、かつての求婚者たちも和解し、ヘレネと夫を助けることに同意する。そのためヘレネを奪われスパルタとトロイとの間に生じた戦争において、ギリシア全土の国々がスパルタを援助することになった。戦争の惨禍は、かくしてギリシア全土に広がる。これはまさに集団的自衛権の悲劇であり、ギリシア神話は、これを後世に伝えたかったのだ。その教訓は、絶滅危惧種のリベラルを別にすれば、カッサンドラの予言同様、いまも聞き届けられず、学ばれてもいないのだが。

posted by ohashi at 22:23| 演劇 | 更新情報をチェックする