佐々木蔵之介主演、シルヴィウ・プルカレーテ(Silviu Purcarete 1950年4月5日ブカレスト生まれ)【情報はルーマニア語のWikipedia。そのため生年月日しかわからず。名前の綴りは簡略化している】演出の『リチャード三世』を東京芸術劇場でみる(観たのは前日229日)。プルカレーテは1990年代、日本ですでにルーマニア人俳優によってシェイクスピアの『タイタス・アンドロニカス』(1992年)と『テンペス』(1996年)を上演していたのだが、気づかず。その後、2013年にヴェデキンド『ルル』、2015年に『オイディプス王』と『ガリヴァー旅行記』を東京芸術劇場でルーマニア人俳優によって上演していたこと、これは知っていたが、シェイクスピア劇ではなかったので、あえて接点を求めなかった。今回、佐々木蔵之介をはじめとして実力派の日本人俳優たちによる上演をみて、はたして、これまでプルカレーテの舞台を見てこなかったことを後悔すべきか、見てこなくてよかったと安堵することになるのか。
結論からいえば、後悔した。今後、プルカレーテの舞台を見る機会があれば、絶対に逃さないようにしようと心に決めた。佐々木蔵之介の演技も素晴らしかったらが、その舞台コンセプトが多層的・重層的で見る者を圧倒したからである。
唯一難点をいえば、今回、木下順二訳のシェイクスピア『リチャード三世』を使ったのだが、なにを語っているのだが、日本語がよくわからなかった。俳優のせりふ回しが下手だとか、劇場の音響効果に問題があるとか、そういうことではなくて、端的に、日本語を耳で聞いてもわからなかったということである。木下順二はシェイクスピア劇そのもののみならず、その翻訳についても活発に論じていて、現在も日本語で読まれているシェイクスピア作品の翻訳者のなかで、もっとも多く発言し、また翻訳の問題をつきつめた論者だと思う。その意味で、木下順二訳は、決しておろそかにも、あなどることもできないものなのだが、この問題は次回に触れる。
まあ外国人演出家だったので、難解あるいは意味不明な日本語の問題は考慮の範囲外だったのだろうが。
演出そのものは、最初から、攻めてくる。最初は、パーティの場面である。リチャード三世の「不満の冬」の独白も、舞台で独りで語るのではなく、にぎやかなパーティ席上でのことで、他のメンバーに聞かれていない傍白ともとれるが、他のメンバーがみんな聞いていて、他のメンバーにむけて語っているともとれる。そしてもうそのパーティの席上でクラレンスが陥れられる。
もし傍白ではなければ、リチャードの台詞はパーティ参加者に聞かれている。しかも、パーティ参加者は、自分は悪人(悪役)になるというリチャードを応援しているようにもみえる。他人を操る悪人であるリチャード自身が、時代や社会に操られている存在であるという、主体と客体の同時共存こそ、最後までひきつがれる。それはまた悲劇の基本でもあろう。主体としてのリチャードは怖い存在だが、同時に客体としてリチャードは哀れな犠牲者である。恐怖と憐憫の共存である。アリストテレスのいう悲劇の基本条件である。
もちろん別の解釈や可能性にもこの演出は開かれている。最初のシーンから判断するとパリビな人たち、そのなかでも中心的な人物が、面白半分に、犯罪(人をだまし、陥れ、最後には殺す)をくりひろげていたら、いつのまにか後戻りできない深みにはまっていき、呪われ、絶望して死んでゆく物語でもある。
だがこのパリピな、悪辣な浮かれ騒ぎが、同時に、時代の恐怖とシンクロしていく。舞台装置は、プログラムの画像などをみるとそうでもないのだが、東京芸術劇場の大きな舞台でみると、やや抽象化され単純化され無装飾な空間が、圧迫感や閉塞感をともなって迫ってきて、グラフィック・ノヴェル、それもヨーロッパのメビウスとかエンキ・ビラル(とはいえふたりともフランスのコミック作家だが)の描く、荒廃した近未来の閉塞空間を思い起こさせる。そうエンキ・ビラル(中欧・東欧出身だが)の世界が、そこ、東京芸術劇場の舞台に出現したと興奮していたのは私だけだとしてもである(とはいえエンキ・ビラル以後を知らない無知をここで告白せねばならないのだが)。
この閉塞空間で、人を殺す手段が窒息である。クレランスはビニール袋をかぶせられ窒息させられる。最終的にはチェーン・ソーで殺されるという設定だが、それは舞台で示されることはない(あたりまえだが)ので、圧倒的に窒息というイメージが強い。しかも後半でリチャードが玉座に身を落ち着かせるとき、その玉座は透明なビニールで覆われていて、そのビニールになかにもぐりこむリチャードは窒息寸前になる。
窒息死のモチーフの一貫性は、またその含意にもよっても特筆すべきだろう。
ここでは舞台が屋外というよりは室内に見えてくる。そしてその室内のイメージは、閉塞感がMAXで、まさに見ている側もまた窒息死を味わうようなところがある。エドワード四世の幼い息子たちは、鉄の檻というか小部屋に入れ荒れて毒ガスで殺される。窒息死のヴァリエーションだが、それはまたナチスによるホロコーストで使われたガス室を連想させる。さらにまた窒息死そのものは、21世紀になってから、よく映画で登場することになったタオルを濡らして顔を覆って窒息死させたり、窒息寸前にする拷問として一般にも浸透したイメージである。
と、そこからさらに連想をひろげると、この舞台の閉塞空間は、拷問室にみえてくる。そしてこの拷問室は、病室であったり遺体安置室であったりと、不気味なイメージがじわじわとひろがっていく。いつも床をモップで掃除している、台詞のない白衣の人物が登場する。なにを掃除しているのか見えないし、わからないのだが、床に広がった血をふき取っているようにみえる。ここは病室というか、手術室であり、遺体安置室(このイメージも強烈に喚起される)であり、拷問室であり、拷問死の場所でもある。ちなみに死刑はいつもチェーン・ソーで行なわれるという設定である。
21世紀に入って二度手術を受けた私としては、病院の手術室は恐怖の場所である。もちろん、そこで自分自身の死の可能性をいやがうえにも意識しないではいられないから怖いということはもちろんだが、手術室に入り、麻酔で意識がなくなるまでにみる手術機械や器具の並んだ光景の不気味さは、医療ドラマでみる映像の比ではない。私自身を救ってくれる器具たちでもあるのだが、私自身を切り刻み死体と化すための装置にもみえてくる。もちろん私が入った病院の手術室は、清潔で、素人が見ても最新の機器とわかるようなものが並んでいて、どこに出しても恥ずかしくないものなのだが、もし、そこが汚れ、古びていて、機械はさびついていて、床には血が流れ清掃員がそれをモップで吸い取っていて、窓がない密室だとするのなら……。そこはエンキ・ビラルの描く世界。そこは拷問室である。
してこれは20世紀から21世紀にかけての地獄のイメージそのものであろう。ここにあるのは現代における恐怖のイメージである。このイメージのなかで、リチャードは、その原動力(主体・悪魔)でもあると同時に犠牲者(客体・罪人)ともなる。見ているとトラウマになりそうだという中高年の女性の声があったが、そこまでではない。現代日本では、もっと残虐な事件がメディアで報道されているのではないか(二か月で9人の女性を殺した連続殺人犯が、死体とりわけ解体した頭部を自宅のアイスボックスに入れていた!――ちなみにこの記事は11月1日書いている)。
ちなみにこの舞台空間の三方に映像が映し出され、そのなかで原作における後半から結末にいたるごちゃごちゃとした事件の連続が矢継ぎ早に示され映像的に処理される。この映像のプロジェクションによって、最後にはこの手術室、遺体安置室、拷問室のような閉塞空間が、リチャードの脳内空間になってくる。あるいは彼が閉じこめられる精神的な閉域といってもいいのだが。ここは彼が殺したり陥れられたりした人々がよみがえるか、幽霊となって登場し、リチャードを苦しめる狂気の祝祭空間となるとともに、彼を閉じ込める牢獄と化す。もはや彼は、この地獄から逃れるすべはないのだ。最後に「馬をくれ」という有名な台詞も、車いすが舞台中央に押し出されるだけである。この車いすは、「馬」のかわりということだが、病院内を動くだけで外には出られない。そういえばボズワースの戦いの場面は今回の演出では存在しない。すべてがリチャードの脳内で完結するようにみえる。
ちなみにこの閉鎖空間にリチャードの顔がプロジェクト・マッピングだと思うが、大きく映し出される。私は、あれは佐々木蔵之介の顔だと認識したのだが、リッチモンド(リチャードを破り、チューダー朝の開祖となる、のちのヘンリー七世)の顔(つまりリチャード三世/佐々木蔵之介とは別)だと語る知り合いがいたのだが、配役表にリッチモンドは登場しない。あれは佐々木蔵之介/リチャード三世の顔である。ただし、その映像の顔が何を語っていたのか、日本語が聞き取れなかった。それはリッチモンドの台詞だったのかもしれないのだが、私としては何とも言えない。
ただ、リッチモンドの台詞であったとすれば、佐々木蔵之介がリチャードとリッチモンドの二役をしている。あるいはそれはリチャードの中にある悪魔か、もしくは良心であり、いずれにしても、リチャードその人を責めさいなみ追い詰める。まさに敵は自分自身となり、外部はなくなる。自分自身が、自分自身を殺してゆくのである。
ここにいたるまでのリチャードの行為は、まさに演技者そのものである。佐々木/リチャードは道化の赤鼻つけて愛嬌をふりまき相手を油断させながら、悪魔的所業にいたる。また最初、五体満足な姿で登場しながら、状況に応じて、身体障害者になる、あるいは演ずる。身体障害者のふりをして、同情をかったり、嫌われたり、あるいは愛されたりしながら、思いととげていく変幻自在の存在、脱アイデンティティの実践者、リチャードは、まさに、役者の鑑というか、役者そのものである。リチャード三世ほど、役者じみた役者はいない。この作品は、リチャードという演技者が活躍する世界劇場なのである。
演技者とは、まさに、留まるところなき流動性をもって活躍し、あちらと思えばこちら、あれかと思えばこれ、アイデンティティを笑い飛ばし、複数のアイデンティティ、あるいはアイデンティティを消滅させ、アイデンティティと戯れる、プロテウス的な変幻自在な驚異的人間である。
この役者であることの客観的相関物とは何か? ひとつには、これは詐欺師である。結婚詐欺から寸借詐欺など、詐欺師そのものは演技者である。そしてこれは演技者=詐欺師であるリチャード三世にもあてはまる。もうひとつ、それは同性愛者である。もちろんこれは同性愛者に対する差別的イメージなのだが、伝統的な悪いイメージなのだが、イメージの歴史と文化と力学を考えるうえで無視できない材料となっている。演技者、詐欺師とつづく系列にはまぎれもなくクィアな同性愛者もある。パリピな人びとの軽薄さとチャラさは、むしろそれと積極的に戯れるクィア文化ともつながっていく。LGBTという分類に私が絶対に反対なのは、演劇、演技、遊戯的で、軽くて、不真面目で、ちゃらくて、とらえどころのない、行動というクィア性のもつ美学と政治学が抜け落ちているからだ。またこのクィア性を見失わなければ、詐欺師であり、演技者であるリチャードが、同時に、同性愛者でもあるというこの演出の意味がみえてこなくなるだろう。後半のリデャードは、後半、上半身裸のままであり、彼の手下ふたりも上半身裸。また、リチャードは、彼の片腕でもあったバッキンガムとは何度も接吻している。
もちろんそこには男性ホモソーシャルな世界の悪も存在する。原作でも代書人は、リチャードの陰謀を見抜いている。またこれはこの原作の不思議なところかもしれないのだが、作者は変幻自在な道化的・詐欺的リチャードの活躍を面白がり祝福しているだけでなく、民衆はみんな詐欺を見抜いているが、リチャードのもつ権力が怖くて、なにも言えなくなるばかりか、愚かな民衆を演ずることを余儀なくされる、という、そういう冷静、冷徹な視線もこめているように思う。これは凡百の演出が無視している点である。今回の演出は、その代書人に渡辺美佐子をもってきた。彼女の女性の視点で、この男性どうしの悪ふざけとも、悪辣な政治的詐欺ともいえるものを、冷静に分析させ、批判させていた。彼女だけが女性の目で、冷静に見透かすことができる。と同時に、その代書人の姿は、シェイクスピアにも似ている。つまり彼女の視点は、この狂騒を冷静にみつめる作者シェイクスピアの視点でもあるといえる。だが彼女は、この世界に、女性として登場するのではない。男性として、男装して登場する。この世界で、男装せざるを得ない彼女は、ある意味、無力である。男性ホモソーシャル関係の暴走を食い止めることはできない。作者もまた無力であるようにみえる。
だが演技者、詐欺師、変幻自在な悪魔、そしてクィアなパリピな人リチャードもまた、巨大な現代の恐怖の前に、追い詰められ破滅するしかなかった。佐々木蔵之介をはじめとする演技派の男優陣のすぐれた演技を前に、まあ、そんなふうに私は読んだ。ここには勝者は誰もいないというように。