2016年フランス映画
映画のホームページには、以下のような紹介が――
野心家の姉ローラと純粋な妹ケイトは、人々の心を虜にするスピリチュアリスト。
彼女たちは、本当に“見えている”のか? それとも・・・。
1930年代。アメリカ人スピリチュアリストのローラとケイトのバーロウ姉妹は、憧れのパリへと向かう。聡明な姉のローラはショーを仕切る野心家で、純粋な妹のケイトは自分の世界に閉じこもりがちな少女。死者を呼び寄せる降霊術ショーを披露し、話題の美人姉妹として活躍し金を稼いでいた。そんな二人の才能に魅せられたやり手の映画プロデューサーのコルベンは、世界初の映画を撮影しようと姉妹と契約する。果たして姉妹の力は本物なのか?
見えない世界を見せられるのか?姉妹の運命が狂いだす―。
という宣伝文句だったが、そういう映画かと期待したところ、そうではなかった。
期待はずれというのは、良い意味と悪い意味がある。宣伝文句のような映画ではなかったが、現代の日本にも通ずる世界の映画だったといえばよい意味で期待を裏切られたことになる。映画は1943年の時点で始まる。劇場のクロークルーム係りのナタリー・ポートマンが、働いているところを、かつての知人にみつかり、現時点にいたる昔話をはじめる。それは「いまでは「戦前」と呼ばれるようになった時代の出来事で……」と。いまの日本の、いまこの時代に名前はついていないが、「戦前」という名前がつかないことを祈るばかりである。
戦前の時代のパリからナチス占領下のパリへの物語であり、戦争の暗黒を色濃く投影する映画である。それは期待はずれでよかったのだが、戦争の影におびえながら、それでも平和だった時代へのノスタルジーに胸が締め付けられるわけではなく、ナチス占領下の抑圧的暮らしぶりの恐怖、憤怒、絶望が噴出するわけではない。面白い題材なのに、また演者の力演にもかかわらず、どうして、こんな中途半端な映画なのか。どうしたら、もっと面白く(べつにセンチメンタルに、あるいはお涙頂戴でもなければ、怒りと響きの映画になれというわけではないのだが、それにしても)、なんとかならないのかという思いが最後まで消えなかった。
一般の映画評である。ステマかもしれないが――
ローラとケイト☆人の心を狂わす美しい姉妹 (投稿日:9/22)
知的な美しさ。/スタイル抜群。/パドメ姫からのファンですが…彼女の魅力は進化中。
今作でもステキなナタリー・ポートマンが観られます。/しかも、リリー=ローズ・デップが妹役。/消えてしまいそうな儚い可愛らしさ。妖精?
美人姉妹。/ポスターになっている2人のバスタイム・シーンもお見逃しなく。
英語と仏語を自在に操るこの美しい姉妹がかっこいい。/スピリチュアリストの妹。/その妹の能力を使って生計を立てる姉。/1人の映画プロデューサーとの出会いで運命の歯車が狂い出すーー。
不思議な霊の世界。/相手の見たいものを見せるという妹の才能。/姉の深い愛。/パリに降る雪や南仏の海の美しさ。/見どころ満載。/そして、ええーっ!/そう来たかーー!!の展開&結末。/
美しい姉妹とレベッカ・ズロトヴスキー監督が創り上げる独創的な世界に、身も心もを沈めちゃってくださーい。/
神秘的でダーク&知的で美しい…/独特なパワーを感じる映画でした。
余談/ジャパン・プレミア。人生で一度あるか?/目の前にナタリー・ポートマンがいる!
テンション上がりました。驚いたのはナタリーの日本語力!/自己紹介がおもしろかった。酉年生まれなのね。
投稿:あらりん
評価:3 星評価
こんな映画ではないのでステマでしょう。とはいえここまでほめていたら星5つ(満点)でもおかしくないのだが、星3つというのは、ある意味、正しく映画を評価しているともいえる(私としては残念ながら星2つ以上は、拷問されても、出せない)。
この映画評では、ナタリー・ポートマンをパドメ姫(『スター・ウォーズ』シリーズ)以来のファンだというが、私は『レオン』の頃からファンではないが知っているわい。そのナタリー・ポートマン、実年齢34歳くらいだそうだが、44歳くらいにみえる。そしてリリー=ローズ・デップが現在18歳(撮影時は16歳)。これを姉妹というのは無理がある。映画のなかでは、どうみても母と娘にしかみえない(顔のアップが多いのもポートマンには不利に働いている)。
リリー=ローズ・ディップは映画『ダンサー』ではイサドラ・ダンカン役で、この時は完全に大人だったが、今回の役は実年齢にも近くて、その独特の雰囲気とあいまって、好演しているといえるのだが、いや、それをいうならナタリー・ポートマンも今回は久しぶりに裸体を見せていて(後ろからだが――なお男性も全裸位になってペニスもはっきり見えるので、これがR12の理由だろう)、好演あるいは力演している。だったら、演出でなんとかならなかったのか。
「1人の映画プロデューサーとの出会いで運命の歯車が狂い出すーー。//不思議な霊の世界。/相手の見たいものを見せるという妹の才能。/姉の深い愛。/パリに降る雪や南仏の海の美しさ。/見どころ満載。/そして、ええーっ!/そう来たかーー!!の展開&結末。」とうけれど、この一人の映画プロデューサーというのが重要で、このコルベンAndre Korbenというのは、実在した映画監督・プロデューサであるベルナール・ナタンBernard Natan (born Natan Tannenzaft; 1886 –1942) のこと。
問題は、実在の人物を扱う場合、いくら名前を変えても実際の行動や業績に縛られてしまうため、映画あるいは物語の必然性から外れてしまうということだ。コルベン/ナタンがポルノ映画に出演していたというのは事実なのだが、映画のなかでは意味不明の蓋然性のない設定にみえる。いっぽうで、ナタンはパテー兄弟社という大きな映画会社やスタジオを買収し映画の技術革新にはげむのだが、そうした辣腕経営者、プロデューサーとしての側面は場面はあっても、強調されない。またコルベン/ナタンが心霊現象に興味を持ち、科学的に立証された心霊映画を撮ろうとするのは、虚構なのだが、しかし、なぜ、そうした愚行に走ろうとしたのか心理的あるいは人間的説明が希薄なために、コルベンはただの愚かな経営者にしかみえない。虚構部分を史実に組み入れたため、史実の部分が説得力がなくなり、虚構の部分がコルベン/ナタンの失脚の有力な根拠になってしまった。彼の愚行のために、ナタリーポートマンの妹リリー=ローズ・デップが、放射性物質を扱う危険な実験に供され、のちに白血病となって死ぬ原因ともなるのだから。
もちろんコルベン失脚は、当時のユダヤ人ヘイトがあったことは確かだろう。これは一見神秘的にみえる姉妹の心霊現象物語のなかに、リアルな史実を盛り込み、ユダヤ人の悲劇的エピソードとして映画を成立させようとしたから当然なのだが。
また、その意図はもちろんわかるし、イスラエル出身のナタリー・ポートマンが、全力でそれにかかわるというのも理解できる。問題は、この映画が1939年から42年をフランスの文化風景を描く際に、映画人(監督、俳優、女優、プロデューサー)の活動を物語の中枢に据え、映画の画面自体も、昔の古い映画のような作りにしているところがある点だ。正方形の画面になったり、周囲からしぼっていく暗転の技法がふつうに使われたりする。そこは面白いといえば面白い。まさにメタ映画なのだが、同時に、それによってすべてが作りごとの絵空事の空虚感が消えないのだ。コルベン/ナタンが最後に裁判所で判決を受けるとき(ただし史実では釈放されるのだが、その後、フランス政府が彼をナチスに引き渡し、最後はアウシュヴィッツに送られる)、詰め寄ったメディア関係者に、私の写真をとるな、これは喜劇ではない、これは悲劇なのだといって両手で顔を隠すというシーンがある。これなどは、まさにいかにも当時の映画の演出であり当時の俳優の演技そのままである。それは面白いのだが、面白いと思う瞬間、悲劇性は遠のいてしまう。ブレヒトなら、これを悲劇性を脱色する異化の手法とするだろうが、あいにく、この映画は、この部分を、異化的な場面とするつもりはないだろう。
さらにいえば、映画は顔のアップを多用する。まさに顔の映画なのだが、それによって、周囲の状況が、時代の変化が、社会の圧力がまったく伝わらない。あるいは暗示的に終わってしまう。暗示的手法は、この映画のなかでは、効果的に使われているとも思えない。むしろ舌足らずな、未完成な語りを思わせてしまう。そう、すべてにわたってこの演出は、退屈で眠らせるのか、いらいらして腹がたつかのいずれかなのだ。
もちろん、今という時代への警鐘であることはたしかだろう。ネットの映画評を見ても、現在の、冗談抜きの「戦前」かもしれない日本の状況とシンクロさせている感想は、私が見た限りでは、なかった。だが、あからさまな、おしつけがましい警鐘を避けるために、暗示的に控えめに表現することは、舌足らずと説明不足とは違うし、そこにセンスのなさ(はっきりいってフランス映画と思えないほど、センスが悪いのだ、最後の音楽にしてもエンドクレジットの途中で終わってしまい、あとが続かないのはどうしたわけか)、そしてすべてが映画の場面、あるいは映画の書き割りのような現実に収束させてしまうので(パリに降る雪の場面、最初のそれは本物らしい雪だが、ノスタルジックな回想の場面の雪は、羽根布団の羽のようなものにかわってしまい、ノスタルジックな回想場面の作り物性を強調している)、これではいつまでたっても、リアルに到達しないのだ。リアルに到達しない、あるいはリアルへの到達回路を示すことのできない映画が、史実をもてあそぶなと言ってやりたい。