2017年09月23日

『プラネタリウム』

2016年フランス映画


映画のホームページには、以下のような紹介が――


野心家の姉ローラと純粋な妹ケイトは、人々の心を虜にするスピリチュアリスト。

彼女たちは、本当に“見えている”のか? それとも・・・。


1930年代。アメリカ人スピリチュアリストのローラとケイトのバーロウ姉妹は、憧れのパリへと向かう。聡明な姉のローラはショーを仕切る野心家で、純粋な妹のケイトは自分の世界に閉じこもりがちな少女。死者を呼び寄せる降霊術ショーを披露し、話題の美人姉妹として活躍し金を稼いでいた。そんな二人の才能に魅せられたやり手の映画プロデューサーのコルベンは、世界初の映画を撮影しようと姉妹と契約する。果たして姉妹の力は本物なのか?


見えない世界を見せられるのか?姉妹の運命が狂いだす―。


という宣伝文句だったが、そういう映画かと期待したところ、そうではなかった。


期待はずれというのは、良い意味と悪い意味がある。宣伝文句のような映画ではなかったが、現代の日本にも通ずる世界の映画だったといえばよい意味で期待を裏切られたことになる。映画は1943年の時点で始まる。劇場のクロークルーム係りのナタリー・ポートマンが、働いているところを、かつての知人にみつかり、現時点にいたる昔話をはじめる。それは「いまでは「戦前」と呼ばれるようになった時代の出来事で……」と。いまの日本の、いまこの時代に名前はついていないが、「戦前」という名前がつかないことを祈るばかりである。


戦前の時代のパリからナチス占領下のパリへの物語であり、戦争の暗黒を色濃く投影する映画である。それは期待はずれでよかったのだが、戦争の影におびえながら、それでも平和だった時代へのノスタルジーに胸が締め付けられるわけではなく、ナチス占領下の抑圧的暮らしぶりの恐怖、憤怒、絶望が噴出するわけではない。面白い題材なのに、また演者の力演にもかかわらず、どうして、こんな中途半端な映画なのか。どうしたら、もっと面白く(べつにセンチメンタルに、あるいはお涙頂戴でもなければ、怒りと響きの映画になれというわけではないのだが、それにしても)、なんとかならないのかという思いが最後まで消えなかった。


一般の映画評である。ステマかもしれないが――


ローラとケイト☆人の心を狂わす美しい姉妹 (投稿日:9/22)

知的な美しさ。/スタイル抜群。/パドメ姫からのファンですが…彼女の魅力は進化中。

今作でもステキなナタリー・ポートマンが観られます。/しかも、リリー=ローズ・デップが妹役。/消えてしまいそうな儚い可愛らしさ。妖精?


美人姉妹。/ポスターになっている2人のバスタイム・シーンもお見逃しなく。


英語と仏語を自在に操るこの美しい姉妹がかっこいい。/スピリチュアリストの妹。/その妹の能力を使って生計を立てる姉。/1人の映画プロデューサーとの出会いで運命の歯車が狂い出すーー。


不思議な霊の世界。/相手の見たいものを見せるという妹の才能。/姉の深い愛。/パリに降る雪や南仏の海の美しさ。/見どころ満載。/そして、ええーっ!/そう来たかーー!!の展開&結末。/


美しい姉妹とレベッカ・ズロトヴスキー監督が創り上げる独創的な世界に、身も心もを沈めちゃってくださーい。/


神秘的でダーク&知的で美しい/独特なパワーを感じる映画でした。


余談/ジャパン・プレミア。人生で一度あるか?/目の前にナタリー・ポートマンがいる!

テンション上がりました。驚いたのはナタリーの日本語力!/自己紹介がおもしろかった。酉年生まれなのね。

投稿:あらりん

評価:3 星評価


こんな映画ではないのでステマでしょう。とはいえここまでほめていたら星5つ(満点)でもおかしくないのだが、星3つというのは、ある意味、正しく映画を評価しているともいえる(私としては残念ながら星2つ以上は、拷問されても、出せない)。


この映画評では、ナタリー・ポートマンをパドメ姫(『スター・ウォーズ』シリーズ)以来のファンだというが、私は『レオン』の頃からファンではないが知っているわい。そのナタリー・ポートマン、実年齢34歳くらいだそうだが、44歳くらいにみえる。そしてリリー=ローズ・デップが現在18(撮影時は16)。これを姉妹というのは無理がある。映画のなかでは、どうみても母と娘にしかみえない(顔のアップが多いのもポートマンには不利に働いている)。


リリー=ローズ・ディップは映画『ダンサー』ではイサドラ・ダンカン役で、この時は完全に大人だったが、今回の役は実年齢にも近くて、その独特の雰囲気とあいまって、好演しているといえるのだが、いや、それをいうならナタリー・ポートマンも今回は久しぶりに裸体を見せていて(後ろからだが――なお男性も全裸位になってペニスもはっきり見えるので、これがR12の理由だろう)、好演あるいは力演している。だったら、演出でなんとかならなかったのか。


1人の映画プロデューサーとの出会いで運命の歯車が狂い出すーー。//不思議な霊の世界。/相手の見たいものを見せるという妹の才能。/姉の深い愛。/パリに降る雪や南仏の海の美しさ。/見どころ満載。/そして、ええーっ!/そう来たかーー!!の展開&結末。」とうけれど、この一人の映画プロデューサーというのが重要で、このコルベンAndre Korbenというのは、実在した映画監督・プロデューサであるベルナール・ナタンBernard Natan (born Natan Tannenzaft; 1886 –1942) のこと。


問題は、実在の人物を扱う場合、いくら名前を変えても実際の行動や業績に縛られてしまうため、映画あるいは物語の必然性から外れてしまうということだ。コルベン/ナタンがポルノ映画に出演していたというのは事実なのだが、映画のなかでは意味不明の蓋然性のない設定にみえる。いっぽうで、ナタンはパテー兄弟社という大きな映画会社やスタジオを買収し映画の技術革新にはげむのだが、そうした辣腕経営者、プロデューサーとしての側面は場面はあっても、強調されない。またコルベン/ナタンが心霊現象に興味を持ち、科学的に立証された心霊映画を撮ろうとするのは、虚構なのだが、しかし、なぜ、そうした愚行に走ろうとしたのか心理的あるいは人間的説明が希薄なために、コルベンはただの愚かな経営者にしかみえない。虚構部分を史実に組み入れたため、史実の部分が説得力がなくなり、虚構の部分がコルベン/ナタンの失脚の有力な根拠になってしまった。彼の愚行のために、ナタリーポートマンの妹リリー=ローズ・デップが、放射性物質を扱う危険な実験に供され、のちに白血病となって死ぬ原因ともなるのだから。


もちろんコルベン失脚は、当時のユダヤ人ヘイトがあったことは確かだろう。これは一見神秘的にみえる姉妹の心霊現象物語のなかに、リアルな史実を盛り込み、ユダヤ人の悲劇的エピソードとして映画を成立させようとしたから当然なのだが。


また、その意図はもちろんわかるし、イスラエル出身のナタリー・ポートマンが、全力でそれにかかわるというのも理解できる。問題は、この映画が1939年から42年をフランスの文化風景を描く際に、映画人(監督、俳優、女優、プロデューサー)の活動を物語の中枢に据え、映画の画面自体も、昔の古い映画のような作りにしているところがある点だ。正方形の画面になったり、周囲からしぼっていく暗転の技法がふつうに使われたりする。そこは面白いといえば面白い。まさにメタ映画なのだが、同時に、それによってすべてが作りごとの絵空事の空虚感が消えないのだ。コルベン/ナタンが最後に裁判所で判決を受けるとき(ただし史実では釈放されるのだが、その後、フランス政府が彼をナチスに引き渡し、最後はアウシュヴィッツに送られる)、詰め寄ったメディア関係者に、私の写真をとるな、これは喜劇ではない、これは悲劇なのだといって両手で顔を隠すというシーンがある。これなどは、まさにいかにも当時の映画の演出であり当時の俳優の演技そのままである。それは面白いのだが、面白いと思う瞬間、悲劇性は遠のいてしまう。ブレヒトなら、これを悲劇性を脱色する異化の手法とするだろうが、あいにく、この映画は、この部分を、異化的な場面とするつもりはないだろう。


さらにいえば、映画は顔のアップを多用する。まさに顔の映画なのだが、それによって、周囲の状況が、時代の変化が、社会の圧力がまったく伝わらない。あるいは暗示的に終わってしまう。暗示的手法は、この映画のなかでは、効果的に使われているとも思えない。むしろ舌足らずな、未完成な語りを思わせてしまう。そう、すべてにわたってこの演出は、退屈で眠らせるのか、いらいらして腹がたつかのいずれかなのだ。


もちろん、今という時代への警鐘であることはたしかだろう。ネットの映画評を見ても、現在の、冗談抜きの「戦前」かもしれない日本の状況とシンクロさせている感想は、私が見た限りでは、なかった。だが、あからさまな、おしつけがましい警鐘を避けるために、暗示的に控えめに表現することは、舌足らずと説明不足とは違うし、そこにセンスのなさ(はっきりいってフランス映画と思えないほど、センスが悪いのだ、最後の音楽にしてもエンドクレジットの途中で終わってしまい、あとが続かないのはどうしたわけか)、そしてすべてが映画の場面、あるいは映画の書き割りのような現実に収束させてしまうので(パリに降る雪の場面、最初のそれは本物らしい雪だが、ノスタルジックな回想の場面の雪は、羽根布団の羽のようなものにかわってしまい、ノスタルジックな回想場面の作り物性を強調している)、これではいつまでたっても、リアルに到達しないのだ。リアルに到達しない、あるいはリアルへの到達回路を示すことのできない映画が、史実をもてあそぶなと言ってやりたい。

posted by ohashi at 18:33| 映画 | 更新情報をチェックする

2017年09月17日

『三人目の殺人』2

ポスト・トゥルースの時代


結局、鈴木砂羽、土下座強要事件は、うやむやになったまま終わったようだが、最初から、うやむやな事件だった。こういう芸能記事は、芸能プロとか事務所の思惑が入り、宣伝売名行為と脚の引っ張り合いとかからまりあってまともに扱うとバカをみるのだが、同時にまた、今回の事件は、私の立場でもあるのだが、小さすぎる事件(小劇場における小劇団の小規模公演)のわりに大事件なみに扱われたので、ニュースにするほうも、実のところ、失敗したと後悔しているのではないかと思う。帝国劇場での1か月半の公演で、出演予定の女優2名が二日前に降板といっても、病気か怪我ならニュースにもならないのだが、土下座供与ならかろうじてニュースになるかどうかというところだろう。


その後の展開もひどいものだった。そもそも降板した女優は、公演に損害を与えることになったので、訴えられてもしかたがない(訴えが通るかどうかはべつにして)。ところがこれを察知したのか事務所の側の社長のほうが、意味不明の強気に出て、劇団や演出家を批判、公演をやめさせるようにとメディアに顔を出して言いはじめる。土下座させられることはひどいとしても、それで降板するのは女優側、事務所側の無責任姿勢が問われてもしかたがない。損害賠償の義務は事務所側にある。土下座強要は暴力的だが暴力をふるっているわけではない。土下座の姿をネットに流したわけでもない。


いっぽう舞台稽古とか演劇界では、演出が土下座のようなことを強いるのは当たり前で問題にならないという問題発言もあって唖然とした。なかには演出家と役者の関係は社長と社員の関係と同じだから社員は絶対服従だというバカなことをいう演出家もいて、なるほど、演劇界は、そんな閉鎖的な社会だから、バカが多いのかとも納得した次第だが、現実問題として社長が社員に土下座させたらパワハラ問題となり訴えられたら社長が不利であり、そんな会社はブラック企業以下との評判も免れない。また演劇界でも演出家が厳しく指導するのはいいとしても、いまは、パワハラになるような指導が容認される時代ではないし、時代のせいだけでなく、人間的にも、相手の人格をおとしめるような非人道的な処置は絶対にあってはならない。大学で学生が不正行為をはたらいたからといって、学生たちの前でその学生を土下座させて謝らせたら、最終的には教員のほうが訴えられるだろう。


あと社長と社員というバカ比喩を持ち出した演出家に問いたい。若くて気鋭の演出家であっても、有名俳優とか大御所俳優がいたら、その俳優に土下座させることができるのか。演出家と俳優との関係を、社長と社員という関係になぞらえるのは、現実の企業文化を考慮すればまちがっているし、演劇界の現実でもないのだ。


もちろん最大の問題は、土下座させたか、させなかったかということである。女優二人が二回目の通し稽古に出なかったということだが、欠席することは劇団に通告済みであったにもかかわらず、演出家の耳に達してなかったので、激怒した演出家が、欠席した二人の女優に、土下座させたということだとしたら、そもそも、欠席を通告していた二人は、土下座すること時代おかしい。連絡が通ってなかったとしても、誤解を正すべきであって、いくら演出家が激高していたとしても、そこは誤ってい行けない。警察の拷問的取り調べによって自白を強要されるのと同じように、演出家から、土下座を強要されたというのだろうか。そうでもしないと演出家の気が収まらなくて、土下座に至ったのか。


いっぽうで演出家の側は、土下座を強要していないと明言している。これは二人の女優が完全に虚偽の発言をしているのか、あるいは、その場の雰囲気で、自分もしくは自分たちが悪いわけではないだが、とにかくその場をおさめるためい、言われもしないのだが、自発的に土下座をして謝ったということだろうか。この場合、土下座を、強要されたわけではないが、間接的に強要されたのも同じで、また演出家は土下座を止めなかったとしたら、強要とみなされてもしかたながないということになろう。となれば演出家が、土下座を強要していないというのは真実かもしれないし、土下座を強要されたという二人の女優の証言も真実かもしれない。


ただしどちらも真実を語っているというもの真実なら、どちらも虚偽を語っているというのも真実だろう。この場合、真実がどうであるかは、両者ともに知っている。どちらかが真実を語り、どちらかが虚偽を語っているということに、本来なら、なってしかるべきなのに、そうはならない。どちらも真実であると自分をあざむいているわけでないだろう。


真相に近いのは、どちらも虚偽だと、つまり自分に有利なように印象操作するために、虚偽と承知しながら、あるいは虚偽と確定的に批判されないような虚偽を語っているとはいえないだろうか。ここで思い出されるのは、結局、法廷戦術ということを優先して、虚偽でも、あるいは虚偽に限りなく近い発言しかしないという、『三度目の殺人』における証言なのである。


『三度目の殺人』について、そういう頭のおかしな、あるいは悪魔的な犯罪者がいるということではないと思う。あるいは、どんなに真実を語っても、最初から結論ありきの裁判過程で真実は重んじられることはなく、すべてがあらかじめ決定されているという裁判批判でもないだろう(いや、裁判批判的要素はまちがいなくあるが)。重要なのは、『三度目の殺人』の世界は、発言がすべて法廷戦術と印象操作という観点から決定されているということである。この世界にはすでに名前がついているポスト・トゥルースの世界と。


『三度目の殺人』は、繰り返すが、また前回の記事ではなにも触れていないが、このポストトゥルースPosttruthの世界の現実を世界に先駆けてとはいいすぎかもしれないが、先駆けてといっていいほど、物語化・映像化しているのである。このポスト・トゥルースの世界では、人間の発言は、真実に対する責任をもたなくいいというより、なんらかの戦術によって操作されることになるのだが、一貫性だの自己同一性は存在しなくなる。いかようにでも発言を盛り込まれるまさに「器」なのである。ポスト・トゥルースの世界における人間は、戦術的に合致したものが真実として認定され、ほんとうの真実は虚偽でしかなくなる。真実として通用する虚偽と、虚偽としかみなされない真実。ポスト・トゥルース時代における人間は、こうして真実とは無縁のロボット化した人間あるいは、いかようにでも操作される心変わりする悪魔でしかなくなる。そう思うと、この映画は、確実に、私たちのリアルに近づきつつあることがわかる。

posted by ohashi at 22:38| 映画 | 更新情報をチェックする

『散歩する侵略者』

前川知大と黒沢清とのコラボとなると、ふたつのことが予想される。相乗効果か、相殺されるか。結果としては、どちらも、よいところがでていたのではないかと思う。強いて言えば、前川ファンからすれば物足りないところもあるかもしれないが、黒沢ファンからすれば、よい題材を得て黒沢ワールド全開という面もある。


結論から先にいえば愛が地球を救ったということか。圧倒的な強さの宇宙人/侵略者のまえに消滅するしかなかいと思われた地球だが、侵略と破壊が途中で突然止んで人類は救われる。これはHGウェルズの『宇宙戦争』(原題は『(両)世界戦争』)と同じパタンでしょう。つまり圧倒的な強さの火星人侵略者たちも、地球にある病原菌に対して免疫がなく、地球征服直前に死んでしまい、地球はからくも救われたということ。このアナロジーから考えれば、宇宙人の侵略が途中で止まったのは地球に蔓延している、また地球人には免疫があるが、宇宙人には毒かもしれない、愛という名の病のせいである。


この愛というのは、困ったもので、宇宙人のガイド役をやらされている長谷川博己も、最後には侵略する宇宙人のほうを応援して自らを捧げるのである。密着取材、あるいはガイドとはいっているが、人質、捕囚でもあり、この長谷川の行動は、自分を束縛・監禁する者を愛してしまうというストックホルム症候群と同じである。実際、ネット上でも宇宙人のほうを応援してしまうという声もあり、地球にいかに愛という病が蔓延しているかがわかろうというものだ。


宇宙人は、地球人から概念を奪う。地球人のことを知るためにというのはわからないわけではないが、ただ、フィクションをまじめにとりすぎるのはおかしいとはいえ、概念は基本は言語であり、言語は二項対立から成る。実際、宇宙人が奪う概念の多くは二項対立からなっている。他人の家と自分の家とか。家族と家族ではないものとか。もし宇宙人がこうした二項対立を理解できないというのなら、まず言語をもっていないことであり、言語を持たない人間が、よその星まで行ける高度な文明を持てるはずがないし、また二項対立を知らない宇宙人が、侵略などするはずがない。侵略は二項対立の概念なくしてはありえないからだ。


この点は問わないことにして、不思議なのは概念を奪われた人間が廃人になることである。まあ、これもわからないわけではない。概念ひとつとはいえ、それはシステム化して他の概念と繋がっている。だから、たとえば体から肝臓ひとつ抜いただけでも、その人物は死んでしまうのと同じということもできる。しかし映画の場合、そうではないようだ。概念を抜かれる人間は、廃人になるのではなく、その時思わず涙を流す。痛いとか苦しいとかではなく、不意の涙である。となるとこの涙とは何か。


児島一哉扮する刑事が「自分」という概念を抜かれてしまうところがある。彼の場合、その自分とは、自己嫌悪と絶望の対象である。自分のこと、自分のふがいなさが嫌でたまらない。そのため「自分」という概念が抜き取られてしまうと、ある意味、このトラウマのような自分から解放され自由になれるのである。概念を抜かれた人間たちは、立っていられなくなって廃人化するかにみえて、同時に、自由にふるまうようになる。むしろ解放され自由にふるまうようになり、これが逆にウィルスにおかされた病人扱いされる原因ともなる。概念が抜かれたあとの涙は束縛から解放されたときの喜びとまではいかなくとも、解放感の涙だった可能性がある。


もしそうなら、概念を抜かれたときに立っていられなくなるというのも、脳から重要な部分が奪われたときのショック症状ともいえるのだが、同時にそれは、人間を直立歩行させるのが概念であること。トラウマでもコンプレックスでも、理念や理想でも、義務や責任感でも、良心や正義感、とにかくなんでもいいのだが、そうしたものが人間を直立歩行させる。


それがなくなってしまうと直立歩行ができなくなる。身体のコントロールがきかなくなった状態から、体を動かせなくなる状態か、もしくは体が動きすぎる状態(子どものような遊戯的行為に、あるいは無軌道な行為に)が出現するのだが、ただ、いえるのは、それが解放された人間の姿なのである。概念は人間を直立方向させ、ひとかどの社会人にするのだが、同時にそれは人間を束縛する装置でもあった。


これに対して、概念ではなく、愛を奪われた人間はどうなるのか。概念を奪われると立っていられなくなる。しかし愛を奪われても概念という鎧が残っている以上、直立歩行はできる。しかし、そのとき、概念を束縛と感ずる愛が奪われてしまうので、無軌道な身体と精神が消えてしまい、ロボットのような、もっと正確にいえば、鎧で身動きできず、動きをとめたロボットのようになる。概念を奪われると人間は、動物化して、暴れたり自由に動き回ることができるようになる。愛を奪われると、人間は、機械化して、廃人化する。


ということなのだろうか。何を言っているのかと不思議に思った方は映画を観てほしい。ただし、ここでは手段ではなく目的を語っている。目的の部分、あるいは理屈の部分は、前川知大の原案だから、実は、しっかりしているのだが、ただ、舞台でも、映画でも、重要なのは主題を提示するという目的の部分ではなく、主題がいかに提示されるかという手段ものほうがそれ以上に重要だろう。それについては、何も語っていない。


ただ、こうは言えるだろう。全体でよくわからないが、途中の物語のプロセスと提示法は、とても面白いというのが、誰もが抱く偽らざる感想にちがいない。だから、そちらのほうに力点を置くべきだが、とりあえずの一報として、作品の「概念」について考えてみた。


posted by ohashi at 21:41| 映画 | 更新情報をチェックする

2017年09月14日

日野皓正の世田谷パブリックシアター





まずネット上の記事から:


ジャズトランペット奏者の日野皓正さん(74)が、東京都世田谷区で20日にあったコンサートの最中、ドラムを演奏していた男子中学生の髪をつかんで顔を往復ビンタしていたことが31日、区教育委員会への取材で分かった。生徒にけがはなかった。


 区教委は「生徒がソロパートでなかなか演奏を止めなかったため、進行に支障が出ると日野さんが判断し、中断させた」と説明。「日野氏の行為は行き過ぎた指導だったと捉えている」としている。




 区教委によると、コンサートは区教委主催の体験学習で、日野氏らプロ演奏家の指導を受けた中学生約40人が約4カ月練習した成果を披露する場だった。




 生徒は保護者に、自分の行動を反省しており今後も演奏活動に参加したいと話しているという。区教委は「今後も事業を実施するため、日野氏側と話し合っていきたい」としている。(共同)



日野皓正の世田谷パブリックシアターでの、「せたがやこどもプロジェクト2015≪ステージ編≫ 日野皓正 presents Jazz for Kidsでの中学生への、いわゆる「平手打ち」事件について。


すでにいろいろなことが言われているが、基本は、体罰あるいは暴力的制裁は駄目でしょうということにつきる。一番、滑稽なのは、愛があれば許されるというたわごとで、実は、今回の鈴木砂羽、土下座強要事件でも、女優二人に厳しく当たった砂羽の場合、そこに愛があったかどうかが重要になると、まるで「愛があれば」という、ばかばかしいたわごとが、普遍的な基準であるかのように語られている。愚行も、ここに極まれりということだろう。


愛があれば許される? おそらく児童虐待で親を取り調べている警察官は、毎日のように、その虐待をした親から聞かされているだろう――「虐待ではない、愛の鞭だ、愛があったのだ、他人に、警察に何がわかる」と。愛があれば何でもゆるされると、反省の色もなく、くってかかる親に取調官も辟易としているにちがいないだろうが、愛があれば許されるなどということは絶対にない。ただ、ちょっと嫌なのは「愛の鞭」などという、くだらないパラドクスを考案したのが、文学関係者であることだ。文学の弊害が、ここにある。だから気分が悪い。しかし「愛の鞭」などという美談によって、みずからの犯罪性を正当化し、善人ぶろうとする人間の欺瞞性を暴くこともまた文学がめざしていたことでもあれば、そこに希望があることも事実だが。


ただし世田谷パブリックシアターでの事件を具体的・個別的な事情を考慮するのは重要だろう。実際、一部の映像だけでは誤解が生じかねないという意見も多くて、それは確かである。しかし全体の流れをみて、何を確認するのかといえば、愛があったかどうかという、あほらしいことではない。そうではなくて、その中学生と日野との間に、日野の爆発にいたるまでの何かわだかまりがあったかどうかということである。もし二人の関係が良好であるか、悪いということがない場合、日野の暴発は精神異常の類に入る。もし二人の関係が悪化していたことがわかれば、怒りを鬱積させてきた日野の暴発が理解できないこともないが、だからといって、日野のしたことが許されるわけではない。


後者の場合、相手は中学生でしょう。日野は74歳。中学生相手にぶちきれても、大人げないこと限りない。74歳の世界的アーティストが、中学生が暴発しても(とはいえ中学生が日野を言葉で罵倒し侮辱したわけではないが)、それにぶちきれることは、大人げないし、器の小ささを露呈するだけで、端的にいって恥ずかしいことなのだ。


また中学生が、なにか犯罪的なルール違反をしたので、やむなく正義感あふれる(拍手)、74歳の(拍手)、世界的アーティスト(拍手)が、鉄拳制裁(拍手)を、体罰はよくないと承知のうえで、おこなった(拍手)というのは事実をねじまげている。まずマスタークラスの最後に、各パートが、ソロで演奏をする。そのときドラムの中学生が自分の持ち時間を超過して演奏しつづけたのを、日野が駈けよって、声をかけたということはなく、いきなりスティック2本を奪って投げ捨てた。スティックを奪われた中学生は、それでも素手でドラムをたたいて演奏を続けたので、さらに激高した日野がさ平手打ちに及んだということになる。


相手は中学生といっても、中学生の事情は知らないが、こうしたマスタークラスに出席できて、ドラムを演奏できるというのは、ふつうの中学生ではない。中学生棋士の藤井四段の活躍がめざましいわけだが、それにドラムをこんなに演奏できるというのは、同じく才能のある中学生というべきだろう。中学生ということすら違和感がある。ふうつの中学生あるいは中学生というくくりすらまちがっている。多くの中学生男子は野球とかサッカーをプレイすることができるだろう。もちろん将来プロの選手になるまでに優れたプレーができるのは、ほんの一握りだろうが。ところがドラムの場合、あるいはジャズの楽器は、ほとんどの中学生が演奏できない。最少から演奏できるのはほんの一握りの中学生であり、そのなかで将来プロになるのはごくわずかだろう。そのごくわずかの中学生が、今回のマスタークラスに参加している。


彼らはみんな英才教育を受けている。英才教育を受けたことのない私は、英才教育とはどんなものなのか実感がわかないのだが、ただ、親から勧められ全面的に援助を受ける場合と、周囲の反対を押し切って独学でなければ早期の教育を受ける場合とに二分されるかもしれない。いずれにしても、彼らは独自の道を歩んでいる。既存・既成の道からははずれている。ある意味、はぐれ者である。王道からはぐれるということではなく、彼らの場合、はぐれることが王道なのである。


そんな彼らには、存在自体がルール破りなので、秩序を重んずるとか規則を守るという意識は希薄かもしれないし、また、そうでなければ優れたアーティストになれないかもしれない。だから破天荒なところ無軌道なところは、アーティストになるための、アーティストであるために社会が容認し耐えねばならない悪弊である。あるいはアーティストが社会から容認される特権である。


そんなことは世界の日野はわかっているはずである。わかっているなら寛容になればいいのに、まさにブチ切れるという一線を越えてしまう。そういう一線超えこそアーティストに不可欠だとすれば、日野自身が、一線を越えていながら、一線を越えた中学生を制裁しているとなれば、なぜおまえは自分を罰しないのだ、反省も謝罪もしていないではないか。74歳にもなって(あっ、十歳も年上の人間に対してこんな口をきいてしまった私は、日野から平手打ちされるかもしれないが)。


あるいはソロで演奏するときには、本人も相当ハイになっている。夢中になって没頭して陶酔すらしている。おそらくドラムという楽器の演奏は、ソロ演奏のときはとりわけ陶酔的になるものかもしれない。そうなると時のたつのも忘れる、自分の割り当て時間を意識しなくなる。こんなとき、アーティストなら、そういう陶酔状態についてよくわかっていると思うから、暴走しはじめたらどうするのか、一般人よりも、よく理解しているはずである。


もちろん、ネットなどでよくいう「神対応」というのが、この場合、どういうものなのかわからない。拍手でもして健闘を認めて後で楽屋で、ぼこぼこにするとか、みずから楽器を演奏してドラムにあわせるか、妨害して、我に返させるか。マイクで大声でほめるかけなすか。とことんやらせて我に返るまで待つか。後ろから抱きかかえて、当人の興奮を沈めるとか……。


いずれにせよ、今回の日野の対応は、神対応ではないことは否定しようもなく、最悪の対応であろう。晩節を汚すとはこのことである。あるいは74歳だから経験豊かだとうことは偏見だということがわかる。この74歳は、こういう場合(つまりこんなことは四六時中起こっているのかもしれない)にどう対処するか経験をまったく積んでいない。中学生並みである(中学生諸君には失礼ながら)。


もちろんどんなに没頭しても、薬でも飲んで自己を完全に忘却しているわけではないから、意識の一部は残っている。アーティストだからといって、そういうルールを破っていいわけではない。アーティストに寛容な人間ばかりとはかぎらない。アーティストも社会の一員である以上、最低限のルールを守らなければならない。犯罪者ではないのだから。日野はそのように考えたのかもしれない。したがって今回のような暴走になった。


しかしである、だったら、日野本人が、中学生を殴るようなルール違反を犯してはいけないはずではなかった。どんなに興奮しても、一線を越えてはいけない。だったら、中学生が一線を越えたのは確かである。だが日野も興奮しすぎて一線を越えている。一線を越えるような場合には暴力を仕方がないとする意見が今回観られたが、その場合、日野も殴り倒して中学生への暴力を辞めさせるべきであった。


まあ、世界の日野といっても、この程度なものである。実際に、その頭のなかで何が起こったのかわかるはずもないが、ただ、世界の日野は、世界の日野の指示を無視するような中学生に自分の権威がないがしろにされたような気がしたのだろう。中学生ごときに舐められてたまるかという気持ちが暴行、あるいは暴行めいたものの引き金を引いたというのは、ひとつの有力な解釈だろう。それが真実ではないかもしれないが、そのようにみえる。なんとまあ小さな男なのか。世界的なアーティストという名声が、だいなしになるのではないか。はっきりいって落胆の侮蔑の気持ちしかわかない。


もしそうでないとするならば、しっかり謝罪して、そのような行動に走った経緯を、たとえ恥をさらすことになっても、またさすがにプライヴェットな部分を全部さらけだせとはいえないが、説明すべきだろう。それが私は神対応だと思っている。今回の件は、弁護の余地のない糞対応だと思う。


また今回の日野の対応を、褒めるバカも世間に多いが、その中学生を挑発行為を繰り返す北朝鮮に見立てているのではないかと心配している。北朝鮮を制裁できないから、かわりに日野の行為を代償とみなした。ただ、はっきりしないぼんやりとした映像でみるかぎり、その中学生は、スティックをいきなりとりあげたら、殴り返してくるような、北朝鮮のような危険な存在ではないようにみえる。だからあえて平手打ちまで及んだのでは。大柄で屈強で人相も悪い怖そうな中学生だったら、果たして、言葉ではなく力づくで辞めさせたかどうか。そこで日野が数発殴り返されて出血して脳震盪でも起こして倒れても奪ったスティックを離さなかったら、もちろん暴力や体罰は絶対に容認しないが、世界の日野の勇気と筋をとおす姿勢に拍手を送ったのかもしれない。まあ夢物語だが。

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2017年09月13日

出演女優降板トラブル

日刊スポーツの記事より


今日13日初日の女優鈴木砂羽(44)が主演・初演出する舞台「結婚の条件」(東京・新宿シアター・モリエール)で出演予定だった2人の女優が12日、降板を発表した。理由として土下座など「鈴木氏から人道にもとる数々の行為を受けた」と主張。一方、制作側はそれらの行為はなかったと否定し、鈴木は当惑しているとしている。開幕前日の舞台降板発表は異例で、関係者は混乱した。降板したのは元準ミス・インターナショナル日本代表の鳳恵弥(36)と築地のおかみも務める牧野美千子(52)。


なぜ、これが全国的なニュースになるのかよくわからない。新宿のシアター・モリエールへ行ったことがありますか。私は地下鉄の新宿三丁目の駅から行くのだけれど、恥ずかしながら、いつも場所がわからなくなって迷う。入口からすぐに二階というか上階にいく階段があって、上が受付になる。入口から入ると右手が舞台になる。


ただ、小劇場ですよ。もちろんシアター・モリエールよりも小さな小劇場もあるし、またスタジオのような劇場に比べたら大きな劇場ではある、でも小劇場ですよ。私が道に迷うのも、縦型の掲示板が一つあるだけで、遠くからはわからないし、気づかないと前をとおりすぎてしまう。その小劇場で、13日から18日までの1週間もない公演ですよ。そういう小劇団の小劇場での小規模での公演におけるトラブルが、全国版のニュースになるとは。


日本全国で、あるいは東京ではとくに、小劇団による小劇場における小規模の公演というのは、毎日のように行われている。そこでのトラブルは日常茶飯事かもしれないが、それが地方であれ全国であれ、刑事事件でもならない限り、事件として扱われることはない。


ニュースを伝える側も、伝え方がおかしい。「脚本家・江頭美智留氏(56)」と伝えるのだが、この人は劇団の主催者でしょう。そう明確に伝えないと、ふつうこういうとき脚本家がとやかくいうことはないのだから。


繰り返すが、公演に関するトラブルが全国ニュースになるというのは、鈴木砂羽を第二の豊田真由子と思ったのだろうか。国会議員の暴言と、小劇団の小劇場における小規模公演の演出家の暴言・暴挙とは比べ物にならない。たとえ鈴木砂羽が豊田真由子よりも有名だとしても。もしかしたら売名行為ではないだろうか。もし売名行為ではないとしたら、こうした小劇場公演は、固定ファンがいて、たいてい満席であり、そんなスキャンダルによる宣伝をしなくてもいいのだから。


とはいえ、今回のニュースで、私には、かなりのサプライズになったことがあった。


牧野美千子、いま、演劇活動していることを初めて知った。無知を恥じるしかないが、「科学戦隊ダイナマン」に出演した牧野美千子は、紅二点というべきもうひとりの萩原佐代子とともに、伝説の戦隊ヒロイン、あるいはマドンナであった。「牧野美千子」の名前だけで、彼女の姿を見るためだけに毎回「科学戦隊ダイナマン」をみていた昔がよみがえった。とはいえ戦隊物のファンからは今も人気があって、そうした活動も続けていることを今回初めて知った。シアター・モリエールに見に行けばよかった……。降板したので、観ることはないが。



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2017年09月12日

『三度目の殺人』

「死亡フラッグ」という言い方があって(フラグはflag、もともとコンピュータのプログラム用語らしい。ちがっていたらごめんなさい)、小説、ドラマ、映画などで、この人物は死にますということを暗示させる、ある意味紋切り型の台詞とか演出のことをいう。逆に、死にかけて実は助かりますということを暗示する場合は「生存フラグ」とかいうらしいのだが、映画では、こういう言い方はないのだが、勝手に作ってしまうと「善人フラグ」というのが確認されていて、そのひとつが、このブログでも紹介している「猫を助ける/救う」ことである。猫でなくても動物ならなんでも、ときには植物でもいのだが、とにかく動物を救っている姿は、その人が心優しい善人であることを衣装づける、善人フラグである。


『三度目の殺人』は、この善人フラグを、少なくとも二つあるいは三つ使っている。にもかかわらず、その人物が善人であるかどうか最後まで謎である。殺人を犯し逮捕され裁判にかけられる役所広司扮する人物のことである。


善人フラグのひとつは、動物を助けること。それは役所が鳥を飼っていることである。逮捕され収監されることを予感したのか、それまで飼っていた鳥を逃がしてやり、また、死んだ鳥は、窓の下の庭に丁寧に埋葬している。また獄中で、鳥の鳴き声が聞こえると、パンくずるのようなもの載せた手を独房の窓から差し出して、鳥に食べさせようとするのだ。明確な善人フラグである。


だが鳥の鳴き声はしても、鳥は姿をみせない。鳥が役所の手のひらの餌を食べるところは映像としてでてこないのだ。妄想かもしれない。映画には現実と、想像とが等価に扱われ、妄想が実体化する映像が挿入される。これも、そのひとつかもしれない。とはいえ、たとえ妄想のなかでも小鳥あるいは野鳥に餌をやろうとするのは、本人が善人であることの証拠となる。


しかし、そうした善人フラグ(繰り返すが、こうした言い方があるわけではなくて、ここで勝手に作っている)にも拘わらず、役所は、飼っていた小鳥を4羽か5羽殺している。そのうち1羽を逃がしたというが、それもなにか小鳥への善意というよりも悪意のあるもてあそび行為のようにみえる。逮捕され収監されるからといって、飼っていた小鳥を4羽か5羽一度に殺害するのは、現実でもフィクションでも殺人鬼フラグである。善人フラグが、この殺人鬼フラグで相殺される。


もうひとつの善人フラグは、娘を愛することかもしれない。役所は映画のなかでは実の娘(登場しない)から嫌われている。その代償から、雇われた工場長の娘(広瀬すず)を娘のようにかわいがっている。また娘への愛によって福山雅治は役所広司に感情移入し共感し連帯感すら抱くようになる。善人フラグは、傍観者が読者が観客が、登場人物に共感するための仕掛けである。この善人フラグに対しては、これを否定するようなフラグはないように思われる。


しかし、もうひとつの共感フラグが存在する。それは誤解される主人公という設定である。これもドラマや映画の登場人物への観客の反応操作について言えることだが、ある自分がどんな人物であれ、誤解されていることがわかると、もちろん、それは観客にしかわからないことであり、観客だけがその人物の誤解されることのない真の姿を知っているということになる。こうした裁判物、あるいは冤罪物において、誤解される主人公というのは、まさに得意中の得意の設定である。


だが、この映画で示されるのは、役所はほんとうは善人なのに、誰も、その発言を信じていない、あるいは信じてくれなくて、冤罪の憂き目をみているということが一方にあるとすれば、それは、同時に、弁護士の、あるいは観客の勝手な思い込みかもしれない。誤解される人物(役所広司)が、善人あるいは無実の人間なのに、犯罪者として誤解されるというのではなく、その逆、つまり無実の人間か善人というのは誤解で、ほんとうは冷血な殺人鬼というのは真実であるという可能性が濃厚に漂っているのだ。


最後のほうで福山雅治は、役所広司のことを、「器」かといってのける。つまり、誰もが、役所のとらえどころなさ、発言の一貫性のなさ、その心理の謎に対して、自分勝手に、自分の考えを投影する、あるいは盛りつける器であるというのだ。検事や裁判官、裁判所は、死刑に値する殺人犯という判断を盛る。いっぽう弁護士の方では、死刑になることで、自分の娘のような広瀬すずを救うのではないかと善人説を盛り込む。だが、いずれも真実ではないという可能性が最後まで残るのである。


ならば真実のゆくえは? 簡単に言えば、役所は、善人であると同時に殺人鬼であるということだ。だが、このことは簡単ではない。善人か悪人かではない。善人であり悪人なのである。となるとアイデンティティの考え方は崩壊する。有罪であり無罪であるというのは裁判所ではお手上げなのである。同時に、相反する要素が同居しているということは、あらゆる可能性を組み込むことによって充実しているのではなく、逆に、空虚であるということだ。有罪でもあり無罪でもあるということは、有罪でもないが無罪でもないということであり、端的にいって、それはゼロあるいは白紙というのと同じなのである。


これは人間の中に天使と悪魔がいるということなのだが、同時に、天使でもあり悪魔でもある人間というのは、ある意味、からっぽな人間なのであり、カカシなのである。


このことは十字のイメージによって映画のなかで示される。十字架とか宗教的イメージがあるのかと思ったが(それもあるのかもしれないが)、映画では端的にいって人間が善と悪との交点であること、天使と悪魔が出会う十字路、それが人間なのだということを示そうとしているように思う。


そしてこの真実をつきつけられたとき、人間にできるのは、逃亡して、そこに善なり悪なり、どちらか一方の解釈なり判断を押しつけることである。あとひとつは、映画の最後の福山雅治のように、戸惑うことである。十字路の交差点で。


付記

シェイクスピアの『ヴェニスの商人』では、ユダヤ人高利貸シャイロックは、過激な主張をしてキリスト教徒を困らせ、それに対するキリスト教徒からの理不尽な反応を引き出すことで、ヴェニスの支配層のキリスト教徒の欺瞞性を暴くことになったが、この映画でも、このとらえどころのない役所の言動をとおして、裁判制度の欺瞞性が徹底的にあばかれることになった。実際、裁判性を批判する物語なり映画はあまたあるが、この映画ほど、裁判制度のむなしさ、いい加減さ、虚偽と欺瞞性を怖いくらいに暴く映画はほかにないと思う。その点でも一見の価値はある。


posted by ohashi at 17:28| 映画 | 更新情報をチェックする

2017年09月10日

『ダンケルク』

ジョージ。オーウェルがどこかで書いていたと思うのだが、イギリス人がいかに変わり者かは、ダンケルクの戦いのような負け戦でも、まるで戦勝記念日のように祝っていることからもわかると。実際、この映画でも故郷に帰還した兵士たちが、住民から唾を吐きかけられるのではないかとおびえていると、まるで凱旋したかのような大歓迎を受けて驚くところがある。過酷な状況から命からがら逃げかえった兵士たちをねぎらうというのなら、わかる。まあ最近の右傾化した日本でなら絶対にありえないことだろうが。しかし、そうではなく、あくまでも大歓迎なのだ。


実際、このダンケルクから撤退には、なにか解せないところがある。敗北を勝利へと変えるチャーチルの糞レトリック。民間から救助のための漁船などが多数海峡を渡ったというのは美談かもしれない(実際、この民間人の努力は顕彰ものである)が、しかし、裏を返せば軍が本格的な援助をしないという異常事態にもなっている。本土決戦という名目のために軍事力を出し渋っている。日本の場合も戦争末期では本土決戦という名目のため最新兵器を精鋭部隊を温存し、クズ連中を特攻に追いやっていた(『海辺の生と死』をみてもわかるように、たとえば大学生でも理系学生は温存され、文系学生はクズ扱いになり学徒動員によて特攻まで課せられたのだ)。軍のこうした謀略と欺瞞性は告発されていないようだ。また実際のところダンケルクを占領したドイツ軍は、ヨーロッパでの終戦記念日たる4558日以降も抵抗し、終戦後に、降伏したのである(つまり戦時中は陥落していなかっただ)。


ダンケルクの戦いには、なにかが腐っている。真実が侵食され、何かに乗っ取られている。多くの犠牲者を出し、また多くの救出者も出した歴史的大事件のリアルが、どこか奪われているのである。


監督が影響を受けていなかったと思うのだが、かつて大スペクタクル映画『史上最大の作戦』(日本語タイトル)のあと造られた戦争映画のひとつに『バルジの戦い』という映画がある。負けいくさを映画化したものとしては『遠すぎた橋』(バルジ戦の前のマーケット・ガーデン作戦を描く)があるが、この3作のなかで、『バルジ大作戦』(ケン・アナキン監督、同監督は『史上最大の…』でも共同監督の一人だった)だけが負けそうになって最後に勝つという点で『ダンケルク』に近いところもあるのだが、とにかくこの映画、興業成績とは関係なく大作映画というよりもB級映画感が否めなかった。原因は、その演出にあった。それは映画そのものが最後に字幕でことわっているのだが、この大規模な広範囲にわたる戦闘を描く際に、特定の人物に多くの人物の実際の行動を集約して描いたのである。そのため、本来なら大規模な群像劇となるところ、こじんまりとした映画に終わってしまった。


特定の個人や小集団に焦点を合わせる場合、周辺的地位に追いやられた彼らを通して大規模で全体像が見えない戦いの臨場感を出すというのならわかるが、特定の個人なり集団が常に戦闘の中心にいることになったため大戦闘というよりも小戦闘になって、規模としてはノルマンディー上陸作戦よりはるかに大きな規模の戦いが、ノルマンディー作戦よりも小規模なものとなった。


バルジ作戦というのは、第二次世界大戦末期194412月から451月にかけて、ドイツ軍が多数の戦車を擁する軍団でもって、フランス、ベルギーに進駐してきた連合軍を蹴散らし、「第二のダンケルク」(!)にしようと試みた作戦。「バルジ」というのは膨らみとか突出という英語で、バルジ作戦は、戦線から大きく突出するドイツ軍という意味で連合軍側がつけた名前。


当時、テレビで観た予告編では、多数の戦車がこれでもかというくらいに登場し戦場を動きまわる迫力のある映画と思われたが、映画そのものは、その予告編を超えるものではなかった。たとえばドイツ軍の欺瞞作戦によって蹴散らされた一台の戦車が、戦車兵の努力で戦車を修復し、一台で敵に立ち向かい、最後にはドイツ軍の補給所を急襲して占拠、補給にくるドイツ軍を次々と撃破するというのは、画面は派手だけれども、ただ一台の戦車で、ドイツ全軍を撃破・降伏させるような安物感が否めないのである。


個人や小集団を大規模な戦闘とからませるとき二つの方法が考えられる。メトニミー的方法とメタファー的方法。この個人や小集団が、大きな、全体像が見えない戦場を右往左往するとき、そこにドキュメンタリー的な臨場感が生まれる。司令官とか指揮官に焦点を当てる方法は、全体像はつかみやすいが、指導者からの上から目線だけでは、事件のリアルはつかみきれない。


それにくらべ一部、それも全体を象徴しない一部の目線が、リアル感を醸成する。また逆に『バルジ大作戦』のように、少数の個人に全体行動を集約・象徴化させても、観る側は、それを全体のメタファーとみるのではなく、メトニミーとしてみるから、皮肉なことに、メタファー的集約が機能せず、小規模な戦いになってしまう。


ノーラン監督の『ダンケルク』は、少数に全体を代表させるという方法をとりながら、そこに全体的な視点を付与することのない、メト二ミカルな右往左往性を付与したために、小規模性は、完全には払拭できないとしても、みんなが右往左往しているという、もはや終わりなき苦難と化した茫漠性が生まれることになった。


砂浜も、海も、空も、そこに人間を包み込む安らぎを与えることのなない、広すぎる、大きすぎるというイメージ。そこに実物主義にこだわる監督の、大掛かりな撮影方法が、さらにスケールの大きさを維持するように働くということができる。


だが、少人数に、あるいは一部に全体を集約させるというメタファー的操作は、今回、正直言って驚愕するほどの大胆な構成をとって出現することになった。その衝撃の大きさは、最初は、へんな違和感として生まれ、最後には、驚きをともった感得されることになったのだが、つまり、時間的にもこのメタファー操作が行われたのである。


おそらくこのことを強調しすぎると、敷居の高い映画と思われ、下手をすると客足が減るかもしれないと映画会社が考えたかどうかわからないが、とにかくこの点は驚いた。つまり最初に海岸というか埠頭に集まってイギリス本土への移送を待つ兵士たちの群れがいる。このとき埠頭だったか海岸だったかわすれたが、その字幕と、すぐ下に一週間(one week)とでる。これがなんだかよくわからない。つまり一週間前の出来事かと思うと、そうではなく、海岸の物語は一週間ということだとわかる。


つぎにイギリス本土から民間人が漁船を出して助けていくとき、父親と息子二人の家族の物語が語られる。これがたしか一日とでる。


またさらにスピットファイアー(スピットファイアーはすごくスマートな戦闘機なのだけれども、この映画に出てくる機体は、場面によって太っているようにみえるところがある。まあ、どうでもいいことかもしれないが)三機がドイツ機と渡り合うとき1時間とでる。その燃料で飛べる時間の限界なのだろう。問題は、この映画、陸と海と空の三つの視点から戦いが語られるという謳い文句だったが、1週間と1日と1時間が、106分の時間のなかで、均等に積層化されるのである。


戦闘機は映画の最初から最後まで飛んでいる。海の場面で民間の船が助ける英国軍士官は、ダンケルクから英国本土に一度は到着したはずではなかったか。キリアン・マーフィー扮する士官は、『ハイドリヒを撃て』の落下傘兵とは比べものにならない臆病者(悪く言いすぎればだが、彼の役どころは戦争後遺症から抜け出せない病人)になっているのだが、その存在も不思議で、陸の物語から、どこで海の物語に入り込んだのか、よくわからない。


それはともかく、はっきり言えることは1時間の物語が1日の物語と共存し、さらにはそれは1週間の物語とも共存する。もし陸地の物語を基準にすれば、燃料に限りのあるはずのスピットファイアーは1週間飛び続けていることになる。少人数で全体を表象する場合は空間的・物理的集約だった。しかしここでは時間的集約が、1時間は1日に、1日は1週間にという集約のされ方になっている……。


ああ、と思う。これは『インセプション』の世界だ、と。


1秒が1時間になるような、そして1時間が10年にもなるような世界。ノーランは、『バットマン』シリーズの監督ではなく、『メメント』の監督であり、時間軸を混乱させたり、時間そのものを変形させたり圧縮あるいは拡張させたりする、時間の魔術師、時間の塑像師だった。


このことに気づいたのが106分の映画の終わりの方だった。そんなふうに見なかった。そして『インセプション』を思い浮かべるべきだったと後悔したのは、映画館を出てからだった。これから観る人は、どうか、この時間の魔術をしっかり見据えてほしい。私のようにぼんやりではなく。


もちろん問題は、なぜそういうことをするのか。『インセプション』も『インターステラー』も、それを説明するSF的枠組があった。だが、そのSF的枠組を取り払った時、つまり本来もつべき違和感とか疑問をなしくずしにしてしまうSF的設定がなくなり、史実に基づく歴史再現映画でもあるこの映画で、なぜ、そのようなことをするのか、その効果はなにかが、むき出しの疑問、逃げ場のない直面するしかない疑問として立ちはだかるのである。


それはなぜか。リアルに、実物主義にこだわる映画監督(映画会社側の売り言葉)が、このような構成の映画をとることによって、映画は「実験的映画」になるといえば、これも逃げ口上だろう。


たとえば最初から最後まで飛んでいるスピットファイアーの姿は、現実の戦闘機のリアルな映像というよりも、なにかこの世のものではない、怪物的、あるいは幽霊的な存在感と浮遊感を漂わせている。実際、この飛行機とその飛翔空間の空気感の見事さに匹敵するのは宮崎アニメしかないだろう。宮崎アニメのヒコーキ物の代表作でもある『紅の豚』を思い出した。空にある戦闘機の墓場という幻想空間。この『ダンケルク』にも、そんな空間があるような気もした。


この戦闘機に限らない、実物主義、現物のリアル感にこだわる監督の作り出す映像が、どこかこの世のものではない幽霊空間にみえてくる。夢の世界、悪夢の世界なのか。それが現在から過去をみるときの視覚効果なのか。リアルなドキュメンタリーがこの世のものではない、不気味な、そして魅惑的な、悪夢的な、天上的な、映像と共存している。そしてその先には、すでに述べたような史実のダンケルクの撤収作戦にみられる、欺瞞性、虚構性、あるいは神の摂理、そうした超越性があるのか……。いまは、ここまでにしたい。(いつか必ず続く)

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posted by ohashi at 13:52| 映画 | 更新情報をチェックする

2017年09月09日

『海辺の生と死』


映画そのものと関係がないのだが、こんな記事があった。


本末転倒? 日本の女優が映画で「脱げない」理由  T-SITE NEWS エンタメ

●『ヘルタースケルター』のような映画はまれ?

『作品のためなら脱ぐのは平気です』

これはある女優がテレビのインタビューで答えた言葉だ。だが、日本の人気女優が映画の中で脱ぐことは…ほぼない。

なぜなのか? 実はコレ、日本の女優たちの稼ぎどころに関係している。

●とびぬけて高い出演料は…

彼女たちは「ドラマ」「映画」「舞台」「CM」「バラエティー番組」などに出演することでギャランティを得ている。

出演料と拘束時間は以下のようだと言われている。(主演クラスで出た場合)【略】


出演料や拘束時間を考慮すると、「CM」が一番お得な仕事だと分かる。しかし、なぜCMはこれほどまでに高い出演料が受け取れるのだろうか?

 CMに出る場合、契約期間中(ほとんどが3ヵ月以上の長期)、クライアントから様々な条件が設けられるのは周知の事実だ。

例えば、化粧品会社と契約した女優は、美のイメージを保つため専属トレーナーを雇ったりエステに通ったりするなど外見のメンテナンスを保つための多額の費用が必要となる。そういったケアの費用を含めた契約金となるため、多額の出演料が出るのだ。

つまり出演者が商品や企業のイメージを背負うことを義務付けられるため、高い出演料を受けられるのだ。特に化粧品や生活用品のCM契約を結んだ場合、クリーンなイメージが求められることが多く、そのイメージを保つため、本業である役者業に制限が設けられることも。

CMのクライアントからヌードシーンの削除要請

ある映画関係者は「演技派で知られるある女優は映画で脱いだのだが、契約中の医薬品CMクライアントが『商品イメージにそぐわない』というクレームが入り、撮影したシーンがお蔵入りしてしまいました」と明かしてくれた。またある有名監督は「出演しているCMのことを気にして、このシーンはNGと言われることもある」と証言。

CMにより本業である女優業に制限が設けられることは奇妙なことだ。

一方、アメリカやヨーロッパ、オーストラリアの女優たちは脱ぐことを厭わない人が多い。これらの国ではCMの出演料は日本ほど高くなく、特にアメリカではCMに出る役者は地位が低いと捉えられるため、有名女優ほど出たがらない(出演料の高いCMや話題性の高いCMにあえて出る場合もある)。また作品出演料が高いため、わざわざCMに出演する必要もない。

別に「脱ぐ=女優魂の証」ではないが、どんなシーンにも対応できることはプロの女優として大切なことだ。

なによりもCMのために脚本にあるシーンを削除することは、作品にとってはマイナス。前述の監督は「(映画やドラマの)ギャラよりCMの方が高いので仕方ないと思う部分もある」と語っており、女優たちが演技に集中するためにも映画やドラマの出演料アップは業界全体の課題だ。(文:さしすせそ)

女優たちがちゃんと脱いでいる邦画5

『ヘルタースケルター』(2012年)  沢尻エリカ

『ベロニカは死ぬことにした』(2005年) 真木よう子

『海を感じる時』(2014年)  市川由衣 

『蛇にピアス』(2008年) 吉高由里子

『幻の光』(1995年)  江角マキコ


とはいえ、ここに掲げてある映画作品は、沢尻と市川を除けば、知名度がまだない頃の女優活動での映画出演でしょう。ただ、この記事がなんとなく不愉快なのは、今現在、有名女優で映画のなかで脱いでいる女性がいるからである。満島ひかりである。


セックスシーンではないが、全裸になっている。ヘアこそみえないが、あのままだったらヘアをみせても違和感はなかった。この記事を書いた**は、当然、その映画を観ていないだろう。ちなみに『海辺の生と死』は、東京でも単館上演みたいなものなのでみんなが知っている映画ではない。ただ、こういう芸能記事を書く者は、映画評論家とか演劇評論家とは異なり、映画や芝居だけは観ていない。映画や芝居を観てないのに、芸能ゴシップみたいなものだけは喜んで書く。ダイアナ妃没後お20周年ということでパパラッチのことがあらためて批判されてもいたが、私は、こういう記事を書いて金をもらっている連中はパパラッチ以下だと思う――少なくともパパラッチは体を張っているからだ。


次は、先のクズ記事とは全く異なる、格調高い文章で、ネット上からとったもの。

「海辺の愛と死~ミホとトシオの物語~」と題された記。author: みたけ きみこ(更新日:2015910日)。その冒頭である。


1945(昭和20)年8月13日、26歳のミホは、奄美・加計呂麻島の闇夜の浜辺をトシオに会うために特攻基地へと向かっていました。この島に基地をもつ海上特攻・震洋隊の隊長であるトシオ(28歳)が、その夜、出撃予定であると教えてくれる人があり、「とにかくひとめあわせてください」「隊長様、死なないでください」と祈りながら、ミホは走りました。井戸で身を清め、真新しい白の肌衣と襦袢(じゅばん)、白足袋、白羽二重の下着、母の形見の喪服をまとい、トシオから贈られた短剣を手に握り締めながら。ガジュマルの地根に足をとられ、闇夜の磯浜は一寸先も見えず、牡蠣(かき)貝、やわらかい砂浜、野いばらの茂みを感覚で探りつつ、ときには海に落ち、泳ぎ、妖怪ケンムンを恐れながらも、ティファ崎の岬、ウシロティファ崎を通り越し、タンハマの鼻を廻ったところで、ようやく基地に辿り着きます。ミホ来訪の知らせを受けたトシオは、「演習をしているんだからね、心配することはないんだよ」と優しくミホを諭し、口づけして、慌しく任務に戻ります。


この8月13日のことを、戦後30年たってから、ミホは「その夜」という作品に詳しく書きました。この作品のなかで、ミホは震洋艇の出撃を見届けてから、「海へ突き出ている岩の一番端に立って足首をしっかり結び、短剣で喉を突いて海中に身を投げる覚悟を決めていたのです」と告げています。しかし、トシオは特攻出撃することなく、ミホも自決することなく、その二日後に終戦を迎えます。

【この文章に文句をつければ、トシオとミホと名前をカタカナにして、メルヘンのような世界を出現させているが、また島尾ミホは、夫のことをトシオと書いているようだが、「島尾ミホ」は、昔なつかしい、そして現代では稀になったカタカナの名前なので、そこを大事にしてほしいと思う。実は私の死んだ母もカタカナの名前だった。本人は、カタカナの名前を嫌がって、若い頃は、ひらがな漢字まじりの表記をしていたのだが、最終的にはカタカナの名前をつらぬいた。またそのため書類とか宛名で誤記されることが多かった。カタカナ名には地域差はあるのかもしれないが、階級差はない。いまでもカタカナの名前を女性がいると、なにかとてもなつかしい感じがする。そのため敏夫とミホにして欲しい。勝手にかえるな。】


映画は、まさにこの813日の出来事をクライマックスにもってくる。このとき海辺での、これを最後という逢瀬での満島ひかりの渾身の演技に圧倒されるといいたいのだが、やや遠くに置かれた固定カメラで、夜の海と波をバックに二人のやりとりをじっくりみせるのだが、舞台を観ているような、というか実際に、波の打ち寄せる砂浜という舞台での演技を観ているわけで、そこにはやや距離感がある。つまり劇場で観客として舞台をみる場合、映画のような顔のアップはないわけで、どうしても、熱狂のなかに冷静さが、共感のなかにも醒めた眼差しが、憐憫のなかに恐怖がまざりこむ。満島の発狂寸前という追い詰められた心理の女性の演技を、カメラそのものがやや突き放している。


また実際そうなのだ。やがて夫婦となる島尾敏夫とミホのふたりは、とりわけミホのほうは、死を覚悟したかもしれないのだが、終戦間際で、玉音放送があることを住民も知っていて、またトシオのほうも、ほんとうに演習であって、まちがっても、沖合に出て特攻することなど、この段階では夢にも考えていなかっただろう。たぶん機材の関係からしても、そもそも特攻は不可能になっていた。ふりかえればミホのひとりよがりでもあったが、ここで死を覚悟した時に、この楽園のような離島に忍びよる死の影の大きさに思いを新たにするとともに、そこに戦争を始めた側への痛切な批判性が認めることが重要なのだろう。また強いて言えば、たとえ戦争行為に従事していなくとも、戦争が国民全体に強いるストレスを感じ取るべきだろうか。


映画は、この島に落ち着いた平和な日常が回帰したことを、静かに言祝ぐようなかたちで終わる。おそらくそこにこの映画のもつ批判性があるのだろう。その後の敏夫とミホの関係を念頭に置くと、狂気とか死のイメージがついてまわり、そのバイアスによって二人の関係をみてしまい、戦時下においても、二人が戦争を忌避し、死に抵抗することを重視せず、むしろ死へ吸引されてしまうような、タナトスの欲望をみてしまうのだが、それこそが大日本帝国の、ここでは海軍だが、思うつぼでもあって、多くの犠牲者を出した悲惨な戦争を無批判に受け入れてしまうような愚行に染まることでもある。


戦争とは関係ないかもしれないがソクーロフのドキュメンタリ『ドルチェ-優しく』(2000)が示すところの、結局は戦争と通底してしまうような、陰鬱な水墨画のような島の情景に対しても、この映画は抵抗する。あるいは死への傾斜から身を引き離す身振りを最初からしめすのである(ソクーロフのドキュメンタリは島での島尾夫妻を扱う異色のドキュメンタリー。夫妻と子どもたちが登場する)。


それは冒頭、小学校の教員である満島ひかりと、彼女を慕う小学児童たちが、山道も歩いてくる様子を正面からとらえるときの、ディープフォーカス(とはいわないかもしれないが)の、つまり画面のすみずみまで焦点があっていて、木々の葉一枚一枚まで数えられるような映像からもうかがうことができる。舞台となる、奄美群島の加計呂麻島(かけろまじま)の自然は、ソクーロフの映画とはちがって(とはいえ実際には曇り空も多いらしいのだが)、まさにこのように南国の自然であるにちがいないだろうし、そこで暮らす人びとは、まさに自然を背景とするのではなく自然に溶け込んでいる、あるいは自然と一体化している。そしてこのような楽園に、戦争がやってくるのである。戦争が島民にとっては異物であり、例外状態であって、通り過ぎるのを耐え忍ぶしかないのだが、同時に、戦争によってもたらされた死の影は、島民の牧歌的生活を侵食するようになる。


また映画の物語そのものも、満島ひかり、永山絢斗、津嘉山正種などを除けば、明らかに素人というか島民の人に演技をさせている。ただ、聞いていて下手な台詞としか思えない場合でも、方言なので(実際、字幕が多い)、むしろそれが自然に聞こえてしまう。また自然との一体化は、土俗的信仰のなかでの死者の世界との連続性というか一体化とも通底している。墓場から彷徨いでた死霊を追い返すような呪文をとなえるようなシャーマン的存在の老人もいる。ジャンル的にいえば、この映画、それこそ昨年暮れに東京で特集上映されていたタイのアピチャッポン監督の映画のなかでも、土俗性の強い映画作品に通ずるものがある。そして繰り返すが、このような映画であってみれば、そこでの生への穏やかな執着が、また死霊の跳梁を呪術的に抑制してきた共同体の平和が、それを妨害する偶発事故のような戦争との関係で、よけいに際立つのである。


戦後のふたりの運命から遡及的に考えれば、たしかにそこに狂気と死への傾斜はある。最後の逢瀬と思われた者から帰宅する満島のなかに、洞窟で島民とともに自決する父親の映像がよぎる。それは、下世話な言葉でいえば、取り越し苦労に過ぎなったのだが、同時に、それは沖縄での悲劇が、この島にも訪れていたかもしれない恐怖でもあった。そして特攻艇の脇にたたずむ隊長(永山絢斗)のところにかすかに聞こえてくる玉音放送にって暗示される終戦、それによってもたらさせるもとどおりの、いや、未来がまた萌し始めた生活。それもまだみぬ未来、そこに悲劇が横たわっていることなど知る由もない、あるいは知らん顔をするこの映画の観客は、ここであらためて知るのである。ふたりの愛が、ある意味、狂気と死への抵抗であったことを。この抵抗は島の共同体の抵抗でもあったこを。そしてこの映画の抵抗でもあったことを。


posted by ohashi at 09:14| 映画 | 更新情報をチェックする

2017年09月06日

『ザ・ウォール』

後味の悪い映画というジャンル(?)についてネット上で調べてみらたら『ミスト』というのが、たいていベスト10に入っていて、ちょっと驚いている。あれは、そんなに後味が悪いのか。もしそうなら、バッドエンディングの映画は全部、後味の悪い映画ということになるのだが、どうなのだろう。まあ、これで助かったと思ったら、実は助かっていなかったという結末は、よくあるし、それはジャンルとして確立している。そういう映画を嫌うというのはかまわないが、嫌いな映画=後味悪い鬱映画というのとは違うと思うのだが。また、もしこういうことを認めてしまうと、『ロミオとジュリエット』など、後味悪い演劇に分類されかねない。実際のところ、喜劇的なハッピーエンディングを予想させる結末にもかかわらず悲劇で終わるだから。


で、この『ザ・ウォール』、後味悪い映画かもしれない。助かったと思ったら、助からなかったというパタンなのだから。しかし、途中から、どうもそうなりそうだという予感させるのは、あまり好ましくない。


イラクの砂漠の廃墟。崩れかかった小学校の校舎の壁が舞台装置。この地で敵を待ち伏せていた米国の狙撃兵のペアが、待ちくたびれて姿をあらわすと、姿なき狙撃兵から銃撃を受ける。一人は重傷で倒れて動かない。もう一人は負傷しながらも壁の後ろ隠れる。しかもイラクの狙撃兵は無線で話しかけてくる。となると、ここから二人芝居、正確にいえば、敵は姿見せないので独り芝居となる。私の好きな演劇的設定の映画となる。しかも砂漠で、見えない敵と対峙するというのは、不条理感マックス。まるで不条理演劇を眺めてみるような興奮を味わうことになる。


しかも、ひりひりするような緊張感のなかで見えない敵との対話がすすむかと思うと、一刻も目を離せない、一瞬たりとも聞き漏らしてはいけないとわかっていても、眠気に誘われてしまうのは、いったいどうしてか。


それはアーロン・テイラー=ジョンソン扮する三等軍曹は、ジョン・セナ扮する二等軍曹が負傷したあと、一人で敵と対峙するのだが、狙撃兵としての腕前や、頭の良さ、狡猾さという点に関して、どうみても敵のほうが上であって、勝ち目はないように思われるからだ。


基本的に不条理演劇的であると同時に、戦争物としては王道の敵中突破物でもある。圧倒的に優位にある敵の手からいかにして逃れるか。アーロン・テイラー=ジョンソンは、この映画のなかでは、どうみてもあんまり頭がよさそうではなく、すでに負傷していて、動きも鈍いし、頭の血のめぐりも悪くなっている。彼が無い知恵を絞って、最後に敵の裏をかいて窮地を脱することを期待したいが、その望みは薄いのだ。だから敵との無線でのやりとりも、緊張感というよりも動きを欠いた展開が停滞した物語、要は、退屈になってくるのだ。


決定的瞬間と思われるときが2回くる。敵との距離は1500メートル。重傷を負って倒れている味方の狙撃兵(ジョン・セナ)との距離は数メートル。遠くの敵とは無線で交信しているが、1500m離れているので数メートル先に倒れている味方に大声で話しかけても、敵には聞こえない。この設定は、面白い。だが、これもお約束かもしれないのだが、無線のスイッチを切り忘れため、ジョン・セナに大声で指示を与えていることを敵に聞かれてしまう。あとひとつは、救出のヘリが近づいてくるので、アーロン・テイラー=ジョンソンは、最後に、見えない敵に対して全身をさらす。撃てるものなら撃ってみろと。そうして敵の位置を救出にくる味方に知らせようとする。だが敵は撃ってこなかった。


映画が終わった後、あんな敵がいるだろうか。だいたい昼も夜も補給もなしに、一人で身を潜めている狙撃兵というのはいるわけがない。おかしいだろうと、つっこみをいれようと思うと、そのとき、いくら映画の三等軍曹よりも頭の回転の悪い私にも、ふと、ひらめくものがある。ああ、そうだったのか、と。なにがそうだったのかは、映画で確かめてほしい。


後味の悪い終わり方なので、アメリカでの一般的評価では、反米的だというようなものが多い。だが、それはある意味あたっていると思う。つまり、結局、敵の手の中で踊らされていたという絶望的状況は、戦場での敵ではなく、アメリカ人によって、絶望的な戦いへと追いやられていくアメリカ人庶民の苦悩とシンクロしているように思われる。敵は、敵ではなく、兵士を死へと追いやる味方なのである。その意味で反米映画である。そしてまたこの戦争装置は、ひとつのメカニズムあるいはシステム化して、アリジゴクのようにつぎつぎと犠牲者を呑み込んでいく。もはやこうなると、敵は無敵である。この場合、敵というのは戦争システムである。この意味がこれは戦争の恐怖とむなしさを描く反戦映画である。

posted by ohashi at 22:20| 映画 | 更新情報をチェックする

2017年09月05日

『エルElle』

昨年11月に放送され、最近も再放送されたNHKスペシャル『終わらない人 宮崎駿』のハイライトは、なんといっても、宮崎駿監督が、ドワンゴの川上量生会長が持ち込んだCGを「生命に対する侮辱」と一喝する場面である。


「スタジオ・ジブリ」のチームがCGで短編映画を制作するのだが、宮崎監督が思うような映像を作ることができず苦悩しているとき、ドワンゴ会長の川上量生が、自社のCG技術のプレゼンに訪れる。それはAIが作り出す、人体が頭を足のように使って移動するといったグロテスクな画像などからなっていた。これをみせられた宮崎監督が、「生命に対する侮辱」であると言ってのける。


これをみていて、よくぞ言ってのけたと宮崎監督を尊敬すらした。この場合、自分だったら、たとえ不快に思っても、「面白い画像だけれども、私の趣味じゃない」くらいにぼかして言うしかなくて、ここまではっきり言ってのける勇気はない。だが、そうした勇気を持つべきだとあらためて思い知った。


もちろん、いくつか考慮すべき側面はある。ドワンゴの川上会長は、もともとジブリ・スタジオにいた人間で監督とは旧知の仲だろう。だからこそ厳しく叱責できたとも言える。最近のはやりでいうと、そこには宮崎監督の「愛」があったのかもしれない。また川上会長としては、宮崎監督のこれまでのアニメには、それこそ道徳的一線を越えても、なんらかの対象の、面白い、異様な、ときにはグロテスクな動きを探求する姿勢があった。そのことを知っているからこそ、あえてAIによる不快な印象をあたえかねない映像も、監督なら理解してくれるかもしれないという思いがあったかもしれない。ただ宮崎監督は歳をとっている。昔のような、道徳的一線を越えてまでなにかを追及する情熱は失せているし、そうすることの無意味さも痛感しているはずだ。一線超えることを美徳とするような姿勢が、無意味なもの不愉快なものにみえてくる。


そしてもうひとつの要因としてカメラが回っていることだろう。カメラにとられていると、どうしても誰もが演技が入る。そしてそのときかっこいい自分というのが意識下にはぐくまれる。そのため、こういう密着取材の場合、指導したり教えたりする立場にいる人間は、たとえば映画監督とか演出家、教員とか、経営者などは、たぶん、ふだんとはちがって、必要以上にスタッフとか同僚に、そして学生などに厳しくあたる。


以前、テレビなどで評論家として活躍していて大学教授でもある元官僚でもある人物の大学院で授業風景が映し出されたことがあるが、有名大学の大学院の授業である。いくらできの悪い院生とはいえ、その大学の大学院生が、そんなにひどい発表をするわけはない。ところがびっくりするくらい厳しく叱責しているのである。あんなことをしたらパワハラ、アカハラで訴えられてもしかたないと思われるほどに。ふだんからそうではないと思う。カメラの前でついつい厳しい、自分を演出したということだろう。私はそう信じているが。


宮崎監督の場合、スタッフに厳しくあたるということはないし、むしろ厳しく当たっているのは自分自身に対してなのだが、このドワンゴ会長に対しても自己演出かもしれないが、それがうまくいっている。つまり、過度な嘘っぽい厳しさではなく、よくぞ言ったと共感を呼ぶ厳しさでもあるからだ。


このことをあらためて思い出したのは、最近の再放送ということもあるが、なんであれゲーム会社の社長やスタッフは、結局、変態だということを、あらめて思い知ったからである。ポール・ヴァーホーヴェン監督の新作『エルElle』をみて。


イザベル・ユベール主演のヴァーホーヴェン監督の新作だが、『ブラックブック』でイスラエル擁護の映画を撮って、それまでのアクの強い女性の生き方を描く流れからやや後退した、もしくは回帰の途上にあった(もちろんその前の『インヴィジブル』では、女性映画ですらなかった)、これでまた本流に復帰した観がある。あらゆる映画に顔を出しているイザベラ・ユベールも、この映画でははまり役というか、こういう役がとても似合っている。


昔、ドゥルーズのマゾヒズム論を熱心に読んだことがある。ザッヘル・マゾッホの『毛皮のヴィーナス』の読解なのだが、ドゥルーズによれば、マゾヒストは、自分が犠牲になる状況なり物語を、自己演出する。自分で自分を卑しめる儀礼を仕切るのである。そのためサディズムとマゾヒズムの境界があいまいになるというより、マゾヒズムは、そのままサディズムでもあるということになる。


ここでもレイプされる主人公が警察に訴えたりしないのも、レイプ願望を抱いているからではなく、レイプをみずから演出しているからである。しかもこのレイプ犯の正体がわかっても、実は謎であって、犯人は、たしかに戸締りをしたはずで、彼女のほうが先に帰宅しているにもかかわらず、すでに待ち伏せしている。敵は戸口の外ではなく中にいる。そしてそれは彼女自身のなかに潜んでいるかもしれない。つまりレイプ犯は、彼女の無意識の願望かもしれないし、すべて妄想かもしれないという暗示は最後まで残る。


あるいは彼女がゲーム会社の社長であるということも関係する。どうみても気色が悪いというかグロテスクなゲーム作成作業に若い社員やプログラマーがあたっていて、彼女は、彼らをある時は叱咤激励し、あるときは徹底的に非難し憎悪の標的となりながらも、ゲームのプログラムの完成をめざすのだが、そのグロテスクなゲームの世界は、彼女が生きる現実の世界とシンクロする。そしてロール・プレイのゲーム・プレーヤーさながら、彼女は、プレイヤーとして、集団幻想が要求する人物になりきることを楽しんでいるようにみえる。人生というグロテスクなゲームのなかで、彼女は、マゾヒストたる自分を演出するサディストなのである。


と、まあこういう映画だと考えた。逆にいうと、謎とサスペンスによって(たとえばレイプ犯は誰かというような)、映画を緊迫感にみちたものにする、そうした努力とか工夫がみられると思ったのだが、それはなかった。むしろ女性の一代記。あるいは女性の自立の物語であり、イザベル・ユベールの実年齢は、というか私と同い歳なのだが、映画の設定はそこまで高齢であるという設定ではないようだが、しかし、彼女は、彼女の人生を支配してきた父親と母親が死んで、とはいえ自身もすでに母親なのだが、はじめて自立できたようなところがある。


遅咲きの自立? だが、そうなのだが。女性がひそかにいだくレイプ願望というところに着目して、フェミニストよ、ざまみろというような反フェミニズム言説に嬉々としてふけるような愚か者は、つごうのよいところ、自分のみたいところしかみていない。この映画での彼女の自立とは、女性どおしの実生活と性生活を獲得することにある。おそらくそれはレズビアンの讃歌といよりも、男を必要としない、まさに女性どおしの共同体あるいは連帯をとおしての女性の自立ということであろう。そう思ってみると、とても面白い映画なのだが、スタイリッシュなサスペンス映画と思ってみると落胆するかもしれない。とはいえヴァーホーヴェンの悪趣味映画と思ってみると、期待は裏切らないだろう。

posted by ohashi at 09:14| 映画 | 更新情報をチェックする