2017年08月12日

『夜明けの祈り』

『ボヴァリー夫人とパン屋』、『美しい絵の崩壊』のアンヌ・フォンテーヌ監督の新作で、フランス映画祭でも公開された映画が一般公開されることになった。

内容はすでに紹介されているのでネタバレでもなんでもないのだが、第二次世界大戦中のポーランドの寒村、ドイツ軍撤退の後、進駐してきたソ連軍兵士が女子修道院で暴行におよび、修道院長をはじめ多くの修道女たちが妊娠し、時満ちて出産することになる。事件が公になるのは不名誉なことで修道院では秘密裏に事を運ぼうとする。また、この段階でポーランドがソ連傘下に入っていたかどうかよくわからないのだが、ソ連にとってもこれは一大不祥事であって内密にするだろうし、ポーランドも同じようにもみ消すだろう。そうなるとどこに救いを求めたらいいのかわからない。ソ連もポーランド当局も、そしてカトリック教会も、この件を隠蔽しようとするだろう。だが出産間近な修道女もいる。思い余った若い修道女の一人が、駐留中のフランスの赤十字に助けをもとめる。門前払いされるものの、願いを聞き入れてくれたフランス人の女性医師(とはいえ当時のことで男女差別があって仕事は男性医師の助手、看護師とあまりかわらない仕事しかあたえられていない)が出てくる。彼女の手で帝王切開の手術に成功するが、妊娠している修道女はほかにもたくさいんいた。


ここまでが映画の冒頭。それからどうなるか、困難は予想され、犠牲も出るだろうが、最後はすべてうまくいくのではないかと予想される。まあ、誰もが抱く、この予想は的中するのだが、しかし、最後の妥当な解決にいたるまでが長い。というか最後の解決については、もっと早く自然に思いついてもよいのではないかと思う。


敵は全体主義・共産主義のソ連とその傘下にあってポーランド当局だけではないのだ。このふたつが敵ならば、ソ連兵の蛮行を国際機関に訴えればすむことである。プライヴァシーは守られるだろう。ところが事件をもみ消そうするのは、スキャンダルの発覚を恐れる修道院側もそうであって、敵は三方にいる。しかもやっかいなことに、修道院という敵は、外部ではなく、内部にいって、修道女が死んでもかまわない、生まれてきた子供は放置して殺すこともいとわないのだ。この因襲芬々たる女子修道院の組織そのものもが、ある意味、一番やっかいな敵として立ちはだかり、観ていてイライラする。


修道院長は、この件が発覚したら、この女子修道院は解散させられるという。それを聞いて、」解散させられて何が不都合なのかと思う。伝統と格式など、苦しむ修道女たちを前にして何の意味があろうかと考える。この発想は人間中心的であって、信仰に身を捧げる彼女たちにとって、修道院長の命令は絶対で、組織の守護と維持こそがすべてで、世俗を超越した信仰の道がすべてであって、それを妨げる人間的叡智なり判断は、すべて退けられてしまう。くそカトリックとしかいいようがない(とはいえカトリック教会も、この修道院長の判断は断罪するだろうが)。


またキリスト教では、むしろプロテスタントのほうが、その傾向が強いかもしれないのだが、人間ひとりひとりは、原罪を背負い、汚れていると考える。汚れてしまい、絶望の淵に沈んだ人間が、神にすがる、この構図こそが、キリスト教信仰の中枢にあるものだ。貧しき者こそ幸いなるかな。また修道女たちの朝の祈りで、汚れた者の救済をもとめる神への祈りが朗誦される。しかし、彼女たちの責任でもなんでないにもかかわらず、汚れた身体を余儀なくされたとき、彼女たちがとる態度は――人間だから仕方がないといえば、それまでだが――自らの汚れを恥じて信仰心がゆらぐのである。汚れた者こそ幸いなれ。汚れた者の絶望こそ信仰の中心であると、頭では理解していても、いざ自分が当事者になってしまうと、汚れを徹底的に恐れ忌嫌う。ということは汚れた罪人に同一化するという祈りを繰り返しながら、その結果、汚れた者、罪人たちへの蔑視しか生まなかったことになる。自分が汚れた者になったとき、汚れた者たちを遠ざける(みずからソ連兵にレイプされそうになるという恐怖体験から、修道女たちへのシンパシーをつよめていく女性医師とは正反対の姿勢である)。この非人間性を日々修道女が生きていたからこそ、修道院は、街にあふれる戦争孤児たちに救いの手を差し伸べることすら思いつかなかったのである。信仰とは、そのような人間のクズをつくるのではなく、人間を救うためのものではなかったか。


原題は『罪なき者たち』英訳するとThe Innocent. 修道女たちは被害者であって、罪があるわけではない。だから、彼女たちも女性医師の医療行為を通して、また彼女との接触をとおして、人間的慈愛の念をはぐくみ、苦しみを克服していくようになる。それはまたかたくなに修道院のメンツにこだわり、生まれたばかりの赤ん坊を殺していく――最後には「人殺し」とまで若い修道女から言われる――修道院長(ネタバレではない。早い段階で、修道院長が子供を捨てていることは予想がつくのだから)とは正反対の人間主義的な立場である。だが、むしろ困難を克服していく修道女たちは人間的であり、またキリスト教の信仰を守る人たちでもあって、両者は本来両立するはずなのが、因襲と格式を守ることに汲々とする院長の妨害によって、対立構造への変えられてしまったのである。


解決は、そんなにむつかしいものではない。つまり本来ならすぐにそこにたどり着いてもよかったのだが、それだと映画がすぐに終わってしまうので、長い妨害期間が入る。そして見ているほうは、ずっと腹立たしい気持ちをかかえながら、最後までつきあうのである。観客は修道院の苦行につきあわされるのか。ただ、あまりこのことにこだわりすぎるとBlaming the Victimsとなって、加害者ではなく、被害者を非難することと誤解されかねないので、一言。社会主義が、いくら宗教を否定するからといって、修道女をレイプするというのは言語道断の犯罪である。責められるべきはソ連兵とその指揮者たちである。だが、その処理のまずさ、その非人道的隠蔽体質によって修道院の運営側もまた非難されるということである。


なお作品のイデオロギー的側面をみれば、ソ連とポーランドの全体主義的共産主義を断罪し、あと古臭いカトリックの非人間性を断罪することで、一石二鳥あるいは一石三鳥の効果を上げていることは付記すべきだろう。フランスはカトリックの国ではなかったかというなかれ。フランスの公式の国家的あるいは文化的イデオロギーでは、宗教は最終解決ではない。フランス革命を経たフランス国家は、啓蒙主義と脱宗教をイデオロギーとしている。カトリックあるいはキリスト教徒だけを優遇することはない。むしろ宗教性に対して寛容ではなく、いかなる宗教に対しても、厳正な中立的な姿勢を貫くことで、イスラム教徒の反発をかったことは記憶に新しい。ただ、それによってこの映画の場合、カトリックにも厳しい姿勢は、最終的に犠牲者となった女性たちの苦境を浮かび上がらせることになる。


ネット上のあるブログには、つぎのような記事があった。


この映画の上映会の後、監督と主演女優によるティーチインがあった。

そこでも、監督がそのことに言及していた。

「知って欲しいのは、この映画の中で起きているような事件が、現在も戦場や紛争地帯で起きているということです」

と監督は言っていた。

慎ましく、真面目に生きている人たちに、こんな悲しい出来事が襲いかかり、加害者は罪の意識もなく日常を生きているという不条理。

どうしたら、そのような蛮行をなくすことができるのか。

どうしたら、世界中の人々の意識を変えていくことができるのか。

こういう事件は中々表に出にくい性質のものだけれども、こうして映画などのメディアで何度も繰り返し描き、拡散していくことで、少しずつでも意識が改善できるものだと思いたい。


これだけでは、書いた人間の真意は、あるいは人格を測ることができないから、個人的な見解というよりも、一般的見解の典型として考えていただき、書き手に責任はないということを前提として、「慎ましく、真面目に生きている人たちに、こんな悲しい出来事が襲いかかり、加害者は罪の意識もなく日常を生きているという不条理。」とはよく言ったものだと感銘を受けた。同じことは日本兵はアジアで大陸でやってきたのではなかったか。そしてそんなことはなかったかのように、罪の意識もなくのうのうと日常を生きてきたのではなかったか。


慰安婦問題もそうである。戦後、「加害者」の元日本兵たちは「罪の意識もなく日常を生きているという不条理」。もし書き手が、このソ連兵以上の日本兵の暴虐について念頭を置いているのなら、いいのだが、そうでないとすれば、その無自覚の罪は計り知れない。


もし映画のなかの事件をロシアにつきつければ、そんな事実や記録などどこにもないとはねつけるだろう。たぶん、日本の現政権や右翼の言い訳と同じことをするだろう。おそらくポーランド政府も、いまはどうかしれないが、当時だったらソ連政権の姿勢を「忖度して」、事件を否定しただろう。強制連行の記録はない、慰安婦たち、いや修道女たちは、自分からすんでソ連兵に身をささげたのだ、と。この映画で責められるべきは、アジアでの日本兵の暴虐でもあることは自覚すべきであろう。

posted by ohashi at 22:49| 映画 | 更新情報をチェックする